あらすじ
ある秋の夜、炭焼小屋に、旅人が迷い込みます。小屋の主人は、炭焼男の重兵衛。重兵衛の息子、太吉は、旅人を怖がり、小屋の奥に隠れてしまいます。そこへ、熱海から逃げ出した芸妓のおつやがやってきます。おつやは、重兵衛に泊めてほしいと頼みますが、重兵衛は、おつやの性格を知っているので渋ります。酒を酌み交わすうちに、おつやは、旅人に異常な恐怖を感じ始めます。おつやの不安は、重兵衛や太吉にも伝染し、小屋に張り詰めた緊張が走ります。旅人は、重兵衛と太吉を気遣い、小屋を出て行くことを決めます。しかし、その直後、旅人が人殺しの犯人であることが発覚します。旅人は、警察に追いつめられ、小屋の近くで命を落とします。旅人が去った後、重兵衛とおつやは、旅人への恐怖心と、彼を追い出したことに対する罪悪感にさいなまれます。一体、旅人に何があったのでしょうか?そして、おつやが感じた恐怖の正体とは?
登場人物――重兵衛(じゅうべえ)。太吉(たきち)。おつや。旅人。巡査。青年甲、乙。
現代。秋の夜。
相模国(さがみのくに)、石橋山(いしばしやま)の古戦場に近き杉山の一部。うしろに小高き山を負いて、その裾の低地に藁葺(わらぶ)きの炭焼小屋。家内は土間にて、まん中に炉(ろ)を切り、切株(きりかぶ)又は石などの腰かけ三脚ほどあり。正面は粗末なる板戸の出入口。下(しも)のかたには土竈(どがま)、バケツ、焚物(たきもの)用の枯枝などあり。その上の棚には膳、碗(わん)、皿、小鉢、茶を入れたる罐、土瓶(どびん)、茶碗などが載せてあり。ほかに簑笠(みのがさ)なども掛けてあり。上(かみ)のかたには寝室用の狭き一間(ひとま)、それに破れ障子を閉めてあり。下(しも)のかたには型ばかりの竹窓あり。炭焼の竈(かま)は家の外、上(かみ)のかたの奥にある心にて、家の左右には杉の大樹、薄(すすき)なども生い茂っている。
月明るく、梟(ふくろう)の声。
(棚には小さきランプを置き、炭焼男の重兵衛、四十五六歳、炉の前で焚火をしている。やがて大きい湯沸(ゆわか)しにバケツの水を汲み入れて、炉の上の自在(じざい)にかける。障子の内にて子供の声。)
太吉  おとっさん、お父さん……。
重兵衛 (みかえる。)なんだ、なんだ。
太吉  怖いよう。
重兵衛 なにが怖い。(立上(たちあが)る。)夢でも見たのか。
    (重兵衛は笑いながら、上(かみ)のかたの障子をあけると、七歳(ななつ)の太吉が寝床から這い出して来る。)
重兵衛 はは、どうした、どうした。
太吉  (父に縋(すが)り付く。)怖いよう。
重兵衛 なにが怖いのだと云うのに……。おとっさんはここにいるから大丈夫だ。(笑いながら叱(しか)る。)弱虫め。しっかりしろ。
太吉  でも、なんだか怖いよ。おとっさん。
重兵衛 なにを云やあがるんだ、馬鹿野郎……。(声がやや暴(あら)くなる。)そんな弱虫で、おとっさんと一緒にここにいられるか。あしたはもう家(うち)へ追いかえして仕舞(しま)うから、そう思え。いいか。
    (太吉はだまっている。)
重兵衛 それだから家(うち)にいろと云うのに、お父さんと一緒ならさびしくねえと云って、無理にここへ附いて来たんじゃあねえか。お父さんは年中この山の中の一軒家に住んでいるが、唯(ただ)の一度だって怖いと思った事なんぞありゃあしねえ。(云いかけて肩をすくめる。)ああ、夜になったら薄ら寒くなって来た。さあ、おまえも火のそばへ来て、よく暖(あった)まって寝ろ。怖いのじゃあねえ、寒いのだ。よく暖(あった)まって、好(い)い心持(こころもち)にぐっすり寝ろ。
    (太吉はやはり無言で炉の前に来る。重兵衛は更に枯枝をくべる。梟の声。)
太吉  (怖ろしそうに耳を傾ける。)お父さん。あれ、あんな声が……。
重兵衛 あれは梟だ。梟が啼(な)くのだ。めずらしくもねえ。(笑う。)おまえは今夜、どうかしているな。
    (二人は向い合って焚火にあたっている。薄く山風(やまかぜ)の音。小唄の声遠く聞(きこ)ゆ。)
    ※(歌記号、1-3-28)惚(ほ)れて通(かよ)うに何(なに)怖かろう。
    (太吉は俄(にわか)に立上(たちあが)りて、再び父に取縋(とりすが)る。)
太吉  怖いよう。おとっさん。
重兵衛 また始めやあがった。意気地無しめ。いよいよあしたは家(うち)へ帰してしまうぞ。
太吉  (恐怖の眼を表へ向けて。)あれ、来たよ、来たよ。
    ※(歌記号、1-3-28)今宵も逢おうと、闇の夜道を唯(ただ)ひとり。
重兵衛 成(なる)ほど、だれか歌いながら来るようだ。聞き慣れねえ声だから、ここらの若(わけ)え者じゃあるめえ。旅の人でも迷って来たかな。
    ※(歌記号、1-3-28)先や左程(さほど)にも思やせぬのに、こちゃ登りつめ、山を越えて逢いにゆく。
    (重兵衛は唄を聴いている。太吉は顫(ふる)えながら父に獅噛(しが)み付いている。やがて重兵衛は立って、下(しも)のかたの窓から覗く。)
重兵衛 ああ。こっちへ来た、来た。
太吉  怖いよう。
    (太吉はもう堪(たま)らなくなって奥へ逃げ込み、一生懸命に障子をがたがたと閉める。重兵衛は表をながめている。下(しも)のかたより二十五六歳の旅人、旅やつれは見えながらも人柄は賤(いや)しからず、洋服を着て登山帽をかぶり、足にはゲートルを着け、リュックサックを背負い、木の枝を杖にして出(い)づ。)
旅人  (重兵衛に声をかける。)済みませんが、少し休ませて貰えませんか。
重兵衛 はい、はい。どうぞお這入(はい)り下さい。
旅人  這入(はい)っても構いませんか。
重兵衛 かまいませんよ。(正面の戸をあける。)さあ、さあ……。
旅人  (内に入る。)とんだお邪魔をします。
重兵衛 焚火も丁度(ちょうど)燃え付いた所だ。さあ、おあたりなさい。
旅人  ありがとうございます。(リュックサックをおろして、炉の前に腰をかける。)まだ十月のなかばだと云うのに、山の中は随分寒うござんすね。
重兵衛 (笑う。)山の中という程でもないが、それでも夜になると、里よりは滅切(めっき)り冷えて来るようですよ。あなたは夜道をかけて、今頃どうしてこんな所へお出(い)でなすったのだね。
旅人  箱根を越して甲州へ出る積(つも)りです。
重兵衛 はあ、甲州へ……。
旅人  行かれるでしょうね。
重兵衛 わたしも行ったことは無いが、行かれる筈ですよ。それじゃあ今夜は箱根泊りですね。
旅人  さあ、箱根に泊るか、夜通し歩くか、まだはっきりとは決めていないんですが……。ここらの山に獣(けもの)が出ますか。
重兵衛 むかしは狼が出たとか、猪や熊も出たとか云うことですが、今じゃあ何が出るもんですか。唯(ただ)ときどきに猿が出て来て、油断をしていると食い物を盗んで行く位のことですよ。
旅人  (安心したように。)そうですか。それじゃあ夜道も安心だ。(窓のかたを見かえる。)今夜は好(い)い月ですね。
重兵衛 旧暦の十三夜ですよ。(思い出したように笑う。)眼の前に薄(すすき)は沢山生(は)えていながら、今夜は供えるのを忘れてしまった。
旅人  十三夜ですか。(考える。)先月の十五夜は……ここらも好(い)い月でしたか。
重兵衛 いい月でしたよ。
旅人  (何かの感慨に耽(ふけ)るように。)東京もいい月でした。
重兵衛 あなたは東京でしょうね。
旅人  ええ、まあ、そうです。
重兵衛 今歌って来たのはあなたでしょう。
旅人  聞えましたか。いや、どうも……。(きまりが悪そうに頭を撫でる。)実はあんまり寂しいので、聞きかじりの小唄を出たらめに、はははははは。
重兵衛 わたしは田舎者でなんにも判りませんが、あなたは中々いい喉(のど)のようですね。
旅人  冗談でしょう。人通りのない山の中だから遠慮なしに大きな声を出したので……。東京のまん中じゃあ気恥かしくって歌えませんよ。
重兵衛 (同じく笑いながら。)その東京の人がここらへ来て、それから甲州へ行く……。どこかのお帰りですか。
旅人  (少し躊躇(ちゅうちょ)しながら。)ええ。わたしは旅行好きで、それからそれへと飛び歩いているんです。
重兵衛 それはお楽(たのし)みですね。
旅人  一月(ひとつき)ほど前、丁度(ちょうど)十五夜の晩から家(うち)を飛び出して、方々(ほうぼう)をあるいて来ました。
重兵衛 どっちの方をあるいてお出(い)でなすった。
旅人  初めは東北地方へ出かけて、那須(なす)の方へ行きました。それから福島の飯坂(いいざか)へ行って、会津(あいづ)へ行って……。それから越後へ出て、北国(ほっこく)の方をまわって……。東海道を汽車で帰って来て、今夜は熱海(あたみ)で降りました。
重兵衛 (おどろいたように。)ほう、随分あるきましたね。
旅人  熱海から山道伝いにここまで来たんですが、夜ではあり、道の案内を知らないので、今もいう通り、出たらめの小唄を呶鳴(どな)りながら、無茶苦茶に歩いて……。(苦笑いする。)ここは一体なんと云う所ですね。
重兵衛 あなたは湯河原(ゆがわら)の温泉を御存じでしょう。
旅人  湯河原……。知っています。
重兵衛 その温泉場から遠くない、土肥(とい)の杉山という所です。頼朝(よりとも)が隠れたという大杉が先頃まで残っていましたが、今はもう枯れてしまいました。
旅人  それじゃあ里から遠くないんですね。
重兵衛 山の中と云っても、里は近いのです。わたしの家(うち)も直(す)ぐ下の村で、女房や娘は百姓をしていますよ。
旅人  ひとりでここに住んでいるんですか。
重兵衛 ここは炭焼小屋ですから、わたしだけが住んでいるのです。
旅人  (あたりを見まわして。)ああ、炭焼小屋ですか。
重兵衛 (上(かみ)のかたを指さす。)竈(かま)はこの小屋のうしろにあります。
旅人  成程(なるほど)。(うなずいて。)それにしても、ひとりて寂しくはありませんか。
重兵衛 馴れているから別に寂しいとも思いません。それに村が近いので、家(うち)の者も時々にたずねて来ますからね。今夜も子供がひとり泊りに来ています。
旅人  子供さんは幾つです。
重兵衛 年弱(としよわ)の七つですから、まだ本当の子供ですよ。
旅人  子供さんがいるなら、ここに好(い)い物があります。(リュックサックの中から鮓(すし)の折詰(おりづめ)を取出す。)これは汽車の中で買ったんですが、ここで蓋(ふた)を明けることにしましょう。(折の蓋をあける。)
重兵衛 やあ、それは御馳走ですね。子供はさぞ喜ぶでしょう。(奥に向って呼ぶ。)おい、太吉。ここへ来い、ここへ来い。お客様が好(い)い物を下さるぞ。早く出て来い。
    (障子の内では答えず。重兵衛は立って、障子をあけて覗く。)
重兵衛 これ、何をしているのだ。お客さまが旨(うま)いものを下さると云うのだ。(笑いながら。)まあ、だまされたと思って来てみろ。
旅人  もう寝てしまったんですか。
重兵衛 なに、起きているのですが……。これ、太吉。なぜ隅の方に小さくなっているのだ。さあ、出て来い。ええ、出て来ねえか。
太吉  (泣声で。)忌(いや)だよ、忌(いや)だよ。怖いよ。
重兵衛 又そんなことを……。この弱虫め。まあ来てみろと云うのに……。この野郎、ぐずぐずしていると、襟(えり)ッ首(くび)をつかんで引摺(ひきず)り出すぞ。
    (重兵衛は太吉の腕をつかんで、無理に引摺(ひきず)り出して来る。太吉は旅人を一目見るや、更に恐怖の念を増したる如く、身をすくめて土間の隅に小さくなっている。)
重兵衛 さあ、お客様に御挨拶をしねえか。
旅人  (笑いながら。)今晩は……。
    (太吉は答えず、いよいよ身を竦(すく)めている。)
重兵衛 (舌打ちして。)仕様のねえ奴だな。まあ、折角の御馳走ですから、番茶でも淹(い)れましょう。湯ももう沸いたようです。
    (重兵衛は太吉を横目に睨みながら、自在(じざい)の湯沸(ゆわか)しを取って下(しも)のかたへ行き、棚から土瓶(どびん)をおろして茶の支度をする。梟(ふくろう)の声。)
旅人  (これもやや恐怖を感じたように。)あ。あの声はなんですか。
重兵衛 梟ですよ。
旅人  忌(いや)な声ですね。
重兵衛 あなた、聞いた事はありませんか。
旅人  下町に住んでいたので、聞いたことがありません。いや、どこかで聞いた事があるかも知れないが、あんな忌(いや)な声だとは思いませんでした。(梟の声つづけて聞(きこ)ゆ。)ああ、又啼(な)いている……。なんだか人を呼んでいるようですね。
重兵衛 わたし達は年中聞き慣れているので、なんとも思いませんが、たまに聞く人には忌(いや)な声かも知れませんね。
    (重兵衛は盆の上に土瓶(どびん)と茶碗を乗せて、再び炉の前に来る。)
重兵衛 こんな所ですから穢(きたな)い茶碗で、まあ御勘弁ください。
旅人  色々御厄介になります。(茶をのみながら。)さあ、遠慮なしに喰べて下さい。(鮓(すし)の折を差出(さしだ)す。)子供さんは嫌いですか。
重兵衛 嫌いどころか大好きで、飛び付いて喰べるのですよ。(太吉に。)これ見ろ。おまえが大好きな玉子もあるぞ。海苔巻(のりま)きもあるぞ。早くここへ来て御馳走になれ。おまえは鮓は嫌いか。
    (太吉は首をのばしてそっと覗いたが、旅人を見ると又俄(にわか)に小さくなる。重兵衛は客の手前もあり、わが子の意気地のないのが腹立たしくもあり、声を暴(あら)くして叱(しか)り付ける。)
重兵衛 やい、何をぐずぐずしているのだ。ここへ来い、ここへ来い。
太吉  (低い声で。)あい。
重兵衛 あいじゃあねえ。お客様がいるのに行儀の悪い奴だ。早く来い、この野郎……。(炉のそばにある枯枝を把(と)って、太吉に叩き付ける。)
旅人  (あわてて遮(さえぎ)る。)あ、あぶない。怪我(けが)でもさせると、いけない。
重兵衛 なに、云うことを肯(き)かない時には、いつでも斯(こ)うして引っぱたくのです。野郎、まだ来ねえか。(又もや枯枝をふり上げる。)
    (太吉も今は引込(ひっこ)んでもいられず、恐る恐る這い出して来て、父のうしろに寄添(よりそ)うと、重兵衛は鮓の折を把(と)って、その眼さきに突き付ける。)
重兵衛 どうだ。旨(うま)そうだろう。お客さまにお辞儀をして、どれでも好(い)いのを喰べてみろ。
    (太吉は父のうしろに隠れたままで答えず。)
旅人  (笑いながら。)早くおあがんなさい。
    (その声を聞くや、太吉は又ふるえ上(あが)って、父の背中に獅噛(しが)み付く。)
重兵衛 今夜に限って変な奴だな。おまえが喰べなければ、お父さんが皆(み)んな喰べてしまうぞ。いいか。
    (太吉は無言で首肯(うなず)く。重兵衛は鮓(すし)を一つ取って旨(うま)そうに食い、茶をのむ。旅人は巻烟草(まきたばこ)を出して吸いはじめる。梟(ふくろう)の声。)
重兵衛 わたしばかりが遠慮なしに喰べていちゃあ失礼だ。あなたもどうぞ上(あが)って下さい。
旅人  いえ、わたしは烟草(たばこ)の方が好(い)い。あなたもどうです、烟草は……。(巻烟草を出す。)
重兵衛 やあ、これは色々御馳走さまで……。じゃあ、一本頂戴します。(烟草を貰って吸いながら、太吉をみかえる。)こいつはわたしの末ッ子で、始終ここへ遊びに来たり、泊りに来たりして、さびしいのには慣れているのに、今夜に限ってさびしいの、怖いのと云うのです。ここはこの通りの一軒家ですから、山道に迷った人なんぞが時々にたずねて来ることもありますが、こいつは馬鹿に人なつッこい奴で、識(し)らない人でも直(す)ぐにお友達のようになって、おじさんおじさんと云っているのですが、どう云うわけだか今夜のあなたに限って、お辞儀もしないし、口も利(き)かないで、私のうしろに小さくなっているばかりで……。まったく変な奴ですよ。
旅人  (笑う。)わたしがよっぽど嫌われたと見える……。いや、わたしはこの子ばかりじゃあない、誰にでも嫌われるような人間に出来ているんです。
重兵衛 それこそ御冗談でしょう。御馳走になったからお世辞をいうのじゃあねえが、あなたのような人を嫌う者はありますまい。はははははは。
旅人  (力強く。)いえ、嫌われますよ。取分(とりわ)けて女には嫌われたり、だまされたり……。まったく哀れな人間です。
重兵衛 (笑いながら。)あなたは裏を云っているのじゃありませんか。
旅人  裏も表もない。ほんとうのことですよ。現に今度の旅行でも、ゆく先々で忌(いや)がられたり、嫌われたり、どこでも好(い)い顔をされませんでした。
重兵衛 なぜでしょう。
旅人  わたしがそういう人間に出来ているんでしょう。
重兵衛 そうですかねえ。
    (話に継穂(つぎほ)がなく、二人は黙って烟草を吸っている。下(しも)のかたよりおつや、二十四五歳、熱海あたりの芸妓(げいこ)とおぼしき風俗にて出(い)づ。おつやは頗(すこぶ)る威勢のいい女、少し酔っている。)
おつや (窓の外より呼ぶ。)おじさん。黒い小父(おじ)さん。
重兵衛 誰だ。(覗いて。)おお、おつやか。今頃どうして来た。
おつや (少し躊躇(ちゅうちょ)しながら。)お客様じゃあない……。
重兵衛 むむ、お客様だが……。まあ、遠慮なしに這入(はい)れよ。
旅人  どうぞお構いなく……。
おつや じゃあ、御免なさい。
    (おつやは正面の戸をあけて内に入り、炉のまえに来て旅人に会釈する。旅人も無言で会釈する。)
おつや (馴々(なれなれ)しく。)今晩はなかなか冷えますね。
旅人  急に寒くなったようです。
重兵衛 (おつやをじろじろ見て。)今頃ここへどうして来たんだよ。
おつや (旅人を見返りながら。)お客さまの前で云っても好(い)いの。
重兵衛 悪い事をしたのでなけりゃあ、誰の前でも遠慮はねえ筈だ。まさかに警察から追っ掛けられている訳でもあるめえ。
    (旅人は少しく顔の色を動かしたが、やはり冷静に聴いている。)
おつや 仕舞(しまい)にゃあ追っ掛けられるような事になるかも知れないが……。(笑う。)実は……あたし、主人と衝突してね。
重兵衛 (顔をしかめながら笑う。)また飛び出したのか。困った阿婆摺(あばず)れ女だな。今度でもう三度目じゃあねえか。おめえの主人は熱海でも評判の好(い)い家(うち)だと云うのに、どうしてそう喧嘩をするのかな。
おつや どうしてと云って……。つまりは性(しょう)が合わないんでしょうね。十月に這入(はい)って、土地も一(ひ)としきり繁昌(はんじょう)する時節だから、その稼ぎ時に五六日も家(うち)をあけて、些(ち)っと主人を困らせて遣(や)りたいのさ。黒いおじさん、だしぬけで済みませんが、五六日の間ここへ隠(かく)まって呉(く)れない……。
重兵衛 隠れるなら小田原へ行くがいいじゃあねえか。自分の家がある筈だ。
おつや 自分の家じゃあ直(す)ぐに追手(おって)がかかるのは知れている。と云って、懐(ふとこ)ろは秋風(あきかぜ)だから、東京や横浜までのして行って、ぶらぶら遊んでいるほどの元気も無し、ここなら誰も気が注(つ)く気づかいも無いから、まあ五六日隠(かく)まって貰って、好(い)い時分に天から降ったようにのっそりと帰る積(つも)り……。ねえ、後生(ごしょう)だから置いて頂戴よ。
重兵衛 飛んでもねえ主人泣かせだな。稼ぎ時に稼がなけりゃあ、主人が困るばかりでなく、第一自分の損にもなるじゃあねえか。そのくらいの理屈が判らねえのか。
おつや あら、忌(いや)だ。損得なんぞを考えて、主人と喧嘩が出来るかって云うんだ。はははははは。(笑いながら旅人に。)ねえ、あなた。そうでしょう。
旅人  (同じく笑いながら。)そうかも知れませんね。
おつや (重兵衛に。)そら御覧なさいな。こちらだって、あたしに同情して下さるわ。黒いおじさんだって、女ひとりが斯(こ)うして駆け込んで来た以上、いざ縄(なわ)打(う)って代官所へなんて、野暮なことを云やあしないでしょう。
重兵衛 どうでおれは野暮な人間だが……。(苦笑いして。)まったくお前は女ひとり……。いくら月夜でも、これから夜道を追い返すわけにも行くめえ。今夜だけはまあ泊めて遣(や)るから、あしたになったら何処(どこ)へでも勝手に出て行ってくれ。長く泊めて置くことは出来ねえぞ。いいか。
おつや はい、はい。あしたになれば又あしたの風が吹きます。行き暮らしたる旅の修行者、一夜の宿をお貸し下されば結構でございます。まあ、まあ、これで安心した。あはははははは。(云いながら太吉に眼をつける。)あら、太(た)ァちゃん、そこにいたの。あんまりおとなしいので、些(ち)っとも気が注(つ)かなかった。さあ、おばさんのとこへお出(い)でよ。
    (おつやに招かれて、太吉はその傍(そば)へ寄って行くが、やはり気味悪そうに旅人の顔色をうかがっている。)
おつや 太(た)ァちゃん、お前どうしたの。木から落っこちた猿(えて)さんのように、今夜は忌(いや)にぼんやりだね。もう眠くなったのかい。
重兵衛 さっき寝かし付けたのだが、何か魘(うな)されたように怖い怖いと云って、又ここへ這(は)い出(だ)して来たのだ。
おつや あら、なにが怖いのさ。太(た)ァちゃんは不断から強い強いと自慢して、将来は拳闘家になると威張(いば)っているんじゃないか。ここにはこの通り、おとっさんもいるし、あたしも居るし、このお客様もおいでなさるし……。狐が来たって、狸が来たって、なにが来たって、びくとする事があるもんかね。
    (おつやが「このお客様」と云った時、太吉はまた悸(おび)えておつやに獅噛(しが)み付く。おつやも気がついて、旅人をみかえる。)
おつや おかしいね、この子は……。(笑う。)こちらが知らない方だもんだから、お前は人みしりをするんだね。こちらは立派な紳士さんで、なんにも怖いことは無いんだよ。
旅人  わたしはさっきから其(そ)の子に嫌われているんですよ。
重兵衛 こうして鮓(すし)を下すったりなんかするのに、そいつは手も出さなければ、お辞儀もしねえ。仕様のねえ馬鹿野郎だ。
おつや ほんとうに仕様のないお馬鹿さんだね。(鮓を見て。)じゃあ、これはこちらが下すったの。太(た)ァちゃんの代りに、あたしが一つ御馳走になっても好(い)いかしら。
旅人  どうで旨(うま)くはありますまいが、さあ、さあ、遠慮なしに食べて下さい。
おつや 行儀の悪い千松(せんまつ)でございます。どうぞ御勘弁を……。
    (おつやは笑いながら鮓を一つ摘(つま)んで食う。重兵衛もまた食う。旅人は烟草(たばこ)を吸いながら眺めている。)
おつや おじさん。後生(ごしょう)だからお湯(ぶう)を一杯……。
重兵衛 そうか、そうか。はは、忘れていた。(膳棚へ茶碗を取りにゆく。)
旅人  (思い出したように。)いや、わたしも忘れていた。お茶よりもここに好(い)い飲み物がありますよ。(リュックサックより大罎(おおびん)の酒を取出(とりだ)す。)これはどうです。
おつや あら、お酒……。まあ、素敵だわ。あなたは色々の物を仕込んでお出(い)でなすったのね。
旅人  どこで野宿をするかも知れないと思って、途中で買って来たんですよ。さあ、飲んで下さい。
おつや あたしがお酌(しゃく)をしますから、あなたもお飲みなさいよ。ちょいと、黒いおじさん。
重兵衛 一々黒いおじさんと云うなよ。
おつや だって、おじさんは炭を焼く人じゃあないの。
重兵衛 なるほど炭焼にゃあ相違ねえが、御叮嚀(ごていねい)に黒と断(ことわ)るにゃあ及ばねえ。口の悪い奴だ。
おつや 黒がそんなに悪いかしら。天下を望む大伴(おおとも)の黒主(くろぬし)と来りゃあ、黒だって役がいいわ。まあ、そんなことより、これ、これ……。(罎(びん)をみせる。)又こんなものを頂いたのよ。
重兵衛 ほう、酒か。(顔をくずして。)いよいよ御馳走だな。
おつや さあ、さあ、これから宴会を開きます。幹事諸君もお席へお着きください。はははははは。
    (おつやは膳棚の下へ行って罎の口を抜き、小さい盆に乗せて来る。太吉はうろうろして、そのあとへ附いてゆく。)
おつや うるさいねえ、この子は……。糸の切れた奴凧(やっこだこ)のように、なぜそうからみ付くんだよ。(旅人に。)まあ、あなたから……。こんながらッ八(ぱち)のサアビスじゃあお気に入りますまいけれど……。
旅人  いや、どうも……。(自分の茶碗に受けて少し飲む。)
おつや さあ、おじさん。
重兵衛 (旅人に会釈する。)じゃあ頂きます。(おつやに注(つ)がせて飲む。)ああ、結構な酒だ。おまえも御馳走になれよ。
旅人  わたしがお酌をしましょう。
おつや あら、あなたが……。どうも済みません。(旅人の酌で飲む。)ねえ、黒……。おっと、白いおじさん。こうなると、あたし今夜は馬鹿に愉快になっちまったよ。主人と衝突して、さっきから無暗(むやみ)にむしゃくしゃして……。そら、何(な)んとか云うでしょう。ああ、憂欝、憂欝……。その憂欝になっていたのが、ここで斯(こ)うして一杯飲んだら、胸がすうとして、急に朗(ほがら)かになって……。ああ、好(い)い心持(こころもち)だ。トテモ愉快だわ。
    (おつやは再び重兵衛に酌をする。重兵衛も好(い)い心持(こころもち)そうに飲む。旅人は無言でおつやに酌をする。)
おつや まだ飲ませて下さるの。はい、はい、恐れ入りました。(又飲む。)ねえ、あなた。まだ御挨拶も致しませんでしたが、あたくしはこのおじさんの遠縁にあたる者で、生れは相州小田原在、餓鬼(がき)の折から手癖(てくせ)が悪く……じゃあ大変だが、まあ些(ち)っとばかりペンペンを仕込まれたのが因果で、先(ま)ず小田原を振出(ふりだ)しに、東海道を股にかけという程でもございませんが、大磯(おおいそ)箱根(はこね)や湯河原を流れ渡って、唯今(ただいま)では熱海の松(まつ)の家(や)に巣を食って居ります。俗名はおつや、芸名は金八(きんぱち)、あだ名はがらッ八(ぱち)又はがら金(きん)……。若(も)しインチキだと思召(おぼしめ)すなら、念のために役場へ行って、戸籍の謄本(とうほん)をお取りください。あはははははは。
旅人  (羨(うらや)むように。)あなたは全く朗(ほがら)かですね。
おつや (いよいよ調子が崩れて来る。)ええ、ええ、大いに朗(ほがら)かよ。この頃の流行(はや)り言葉で、明朗(めいろう)とか云うんですよ。それでも月に村雲(むらくも)、朗かな人間にも時々に虫の居所の悪いことがあって、主人とも衝突いたします。電車だって自動車だって屡々(しばしば)衝突する世の中に、芸妓(げいこ)が主人と衝突するのも不思議はないでしょう。ねえ、あんた……。あたしはあんたの名を知らないから、まあアンちゃんにして置くわ。ねえ、アンちゃん、そうでしょう。君以(もっ)て如何(いかん)となす。あはははははは。
重兵衛 (苦々(にがにが)しそうに。)どうも騒々しいな。好(い)い加減に喋(しゃべ)って置け。一杯や二杯の酒で調子の狂うお前じゃあねえが、今夜はよっぽど下地(したじ)があるな。
おつや おじさんの千里眼(せんりがん)は偉い。実は熱海の駅で汽車を待っているあいだに、休み茶屋へ飛び込んで、ビール一本と何だかの罎詰(びんづめ)一本、まさかに喇叭(らっぱ)は遣(や)らないけれども、息もつかずにぐっと聞こし召して、その勢いで猛烈に、かかる山路(やまじ)へ突貫(とっかん)して来たのよ。そのくらいのアルコールは途中で醒めてしまった筈だが、この狭いところへ這入(はい)って、焚火にかッかとあぶられたら、又その酔(よい)が一度に発して来て、いよいよ朗(ほがら)かになって来たのよ。なんだか知らないが、今夜はトテモ愉快で嬉しくってならない。さあ、アンちゃん。もう一つお酌をして下さいよ。
    (旅人は無言で酌をすれば、おつやは続けて飲む。)
重兵衛 まあ、お客さん。失礼は勘弁して遣(や)ってください。こいつは自分でもいう通り、がら金のがらッ八で……。それだから行く先々で主人と喧嘩の絶え間がないのですよ。商売が商売だから、丸ッきり飲まねえわけにも行くめえが、女のくせに大酒(おおざけ)をのむ、掴み合いの喧嘩をする……。
おつや およしなさいよ、他人様(ひとさま)の前でそんな色消しなお噂は……。そういうのを流言蜚語(りゅうげんひご)とか云って、この頃は警察の取締(とりしま)りが非常にやかましいんですよ。さあ、口塞(くちふさ)げに、白いおじさんにももう一杯……。(重兵衛に酌をする。)あたし達ばかり勝手なことを云って飲んでいちゃあ、それこそ失礼だわ。(旅人に。)さあ、あんたも召上(めしあが)れ。何を陰気らしく考えているのよ。
旅人  いや、わたしは飲まないんです。
おつや 飲まないのに、どうしてこんな大罎(おおびん)を買い込んだの。
旅人  水の代りに買ったんです。
おつや 水の代りなら、サイダーでも買えばいいじゃありませんか。嘘、嘘……。あんた屹(きっ)と飲むのよ。さあ、がら金に恥を掻(か)かせないで、愉快にサアビスをさせて頂戴よ。
旅人  いや、せいぜいが一杯ぐらいで、その上はまったく飲めないんです。わたしは野暮な人間で……。
おつや 嘘つき……。(睨む。)あんたが野暮天か道楽者か、その見分けが付かないようで、憚(はばか)りながら芸妓(げいこ)の鑑札(かんさつ)を持っていられるかって云うんだ。モダンの富士詣(もう)でのような風をしていても、あんたがどんな人間か、眼力(がんりき)ひからす松王丸(まつおうまる)がちゃんと睨んでいるわ。ねえ、アンちゃん。あんたは随分芸妓なんぞに可愛がられたことがあるでしょう。
旅人  (冷(ひやや)かに。)ありませんね。
おつや それじゃあカフェー……。
旅人  (やはり冷(ひやや)かに。)いいえ。
おつや 芸妓にも女給さんにも御縁がないの。
旅人  ありません。(重兵衛をさして。)今もこちらに話したんですが、わたしは我ながら哀れな男ですよ。
おつや あんたの御商売は……。
旅人  東京でつまらない商(あきな)いをしていましたが、それももう止(や)めてしまって……。(我を嘲(あざけ)るように。)まあ、与太者(よたもの)かルンペンだと思ってください。
おつや ルンペンはよかったね。まあ、なんとでも猫をかぶっていらっしゃい。(笑う。)あんたは野暮な人間で、哀れな男で、与太者で、ルンペンで、まことにお羨(うらや)ましゅうございます。そうして、あんたはどっちへいらっしゃるの。そんな拵(こしら)えをして山登りでもなさるの。
    (旅人は無言で焚火をみつめている。)
重兵衛 これから箱根へ出て、山越しに甲州の方へ行きなさるのだとよ。
おつや あら……。(仰山(ぎょうさん)らしく。)まあ、冒険だわねえ。それにしても、これから夜通しで山越しは、どうかと思うわ。木賃(ぼくちん)ホテル御一泊のつもりで、今夜はここへお泊りなさいよ。
重兵衛 むむ。おれもそう思っていたのだ。何も怖い物は出やあしめえと思うけれど、なにしろ山の中の夜道は不用心で、足を一つ踏みはずしても大変だ。(旅人に。)この通りの狭い小屋で、寝る所も無し、貸してあげる夜具もありませんが、焚火のそばで居眠りでもして、夜が明けてからお立ちなすったら何(ど)うですね。
旅人  さあ。(かんがえている。)
おつや あんた。素直にオーケーとお云いなさいよ。邪魔なおじさん達を先へ寝かして仕舞(しま)って、あんたとあたしと差向(さしむか)いで、ゆっくり夜明しをしましょうよ。なにしろ舞台がこんな所で、ふくろの鳴き声や狸囃子(たぬきばやし)の鳴物(なりもの)じゃあ、しんみりしたお芝居にゃあなりませんけれど、漫才の掛合(かけあい)だと思えばいいでしょう。
    (旅人は無言で考えている。)
おつや (摺(す)り寄る。)あたしがだんだん陽気になるのに、あんたはだんだん陰気になっちゃあ、お附合(つきあ)いが出来ないじゃありませんか。ねえ、あんた。袖(そで)ふり合うも他生(たしょう)の縁(えん)とかいうから、そんなにあたしを嫌わなくっても好(い)いでしょう。今夜はここで仲好くお話をしましょうよ。(笑いながら。)あんたはこんな唄を御存じ……。あの時が無かったら、あなたはあたしの物じゃない――。(旅人の背中を軽く打つ。)はははははは。
重兵衛 よく笑う女だな。お前ひとりで喋(しゃべ)っているので、騒々しくてならねえ。いくら山の中の一軒家でも、ちっとは遠慮するものだ。おれはお客様と静(しずか)に話をしているから、おまえのようながらッ八は、太吉と一緒に奥へ行って、早く寝てしまえよ。
おつや あら、あたしを先へ寝かそうと云うの。この夜の長いのに、独り者が今から寝られますかよ。(旅人に。)あんた、何時……。
旅人  (腕時計をみる。)九時二十分過ぎです。
おつや 九時二十分……。あたし達にはまだ宵の口だわ。それにしても太(た)ァちゃんは眠いだろうね。(うしろを見かえる。)あら、おかしな子だねえ。さっきから何だか邪魔だと思ったら、あたしの帯にしっかりと獅噛(しが)み付いて、これが本当の腰巾着(こしぎんちゃく)というんだね。(鮓(すし)を指さして。)お前、これを食べないのかい。さあ、おたべよ。
    (おつやは海苔巻(のりまき)を一つ取って遣(や)る。太吉は旅人の顔をぬすみ視(み)ながら頭(かしら)を振る。)
おつや 忌(いや)かい。たべないのかい。(これも旅人をみかえる。)この子はやっぱり人みしりをしているんだねえ。じゃあ、もうお寝な。
重兵衛 そんな奴はあっちへ連れて行って、寝かしてくれ。
おつや (太吉に。)さあ、お客さまにお休みなさいをしておいでよ。
    (おつやは太吉の手を取って、旅人の前へ引出(ひきだ)そうとすれば、太吉は顫(ふる)えておつやに縋(すが)りつく。)
太吉  怖いよう。
おつや なにが怖いんだよ。意気地無しだねえ。
重兵衛 (客の手前、気の毒になって。)ええ、もう好(い)いから早く連れて行け、連れて行け。
おつや さあ、お出(い)で、お出(い)で……。
    (おつやは太吉を引立(ひった)てて、上(かみ)のかたの障子の中(うち)に入る。山風(やまかぜ)の音。)
旅人  (ひとり言(ごと)のように。)風が出て来た。
重兵衛 おお、窓から風が這入(はい)る……。道理で、さっきから薄ら寒いと思った。
    (重兵衛は立って、下(しも)のかたの窓を閉めようとする時、一(ひ)としきり強い山風の音。ランプの火が消える。)
重兵衛 (窓をしめながら。)ああ、いけねえ。灯(ひ)を消されてしまった。
おつや (障子の中(うち)にて。)あら、ランプが消えたの。
    (土間は暗く、焚火の光もやや薄くなる。山風の音。その薄暗い中で、おつやは障子をあけて出かかりしが、俄(にわか)にぞっとしたように、框(かまち)に腰をおろしたまま暫(しばら)く無言。重兵衛は再びランプを点(とも)せば、土間は明るくなる。)
重兵衛 (炉の前に戻る。)ここらの癖で、ときどきに強い山風が吹き出して来るのですが、又すぐに止(や)みますよ。(炉に枝をくべる。)併(しか)し風が出ると寒くなります。馴れない方はかぜを引かないように気をつけて下さい。
旅人  (肩をすくめる。)まったく寒くなりましたね。
重兵衛 (酒を把(と)る。)どうです、寒さ凌(しの)ぎに……。
旅人  いや、わたしは……。(頭(かしら)をふる。)あなた、みんな飲んでください。
重兵衛 そうですか。お客様をそっち退(の)けにして、こっちばかりが勝手に飲んだり食ったり……。はは、どうも済みません。(手酌(てじゃく)で飲む。)
    (このあいだに、おつやは何か思案し、そっと正面の出入口のかたへ行く。)
おつや (小声で。)おじさん。
重兵衛 なんだ。
おつや (入口の戸をあけながら。)ちょいと……。
    (重兵衛をよび出して、おつやは逃げるように小屋の外へ出る。重兵衛も出て、下(しも)のかたへ行く。舞台は半廻(はんまわ)しになりて、小屋の外。月のひかりに照(てら)されたおつやの顔、今までとは別人のように蒼ざめている。)
重兵衛 わざわざ表へ呼び出して、なんの用だ。
    (おつやは内を指さして囁(ささや)けば、重兵衛は笑い出す。)
重兵衛 はは、ばかを云え。
おつや (小声に力を籠(こ)めて。)でも、あの人はどうも可怪(おかし)いわ。太(た)ァちゃんが無暗(むやみ)にあの人を怖がるのは、なぜだろうと思っていたんだが、あたしも今、急に怖くなったわ。
重兵衛 なぜだ。
おつや (異常の恐怖に襲われたように。)あのランプが風で消えて……。家(うち)のなかが急に薄暗くなったでしょう。
重兵衛 むむ。
おつや その時にあたしは障子をあけて出ようとすると、焚火の前にいるあの人の影が……。トテモ凄いんで、ぞっとしたのよ。
重兵衛 影が……。(首をかしげる。)影が薄いというのか。
おつや 影が薄いんじゃない、凄いのよ。太(た)ァちゃんの怖がるのも無理はない。あの人、確(たしか)に唯(ただ)の人じゃあないわ。
重兵衛 でも、まさかに化物じゃあるめえ。ここらで狐や狸が化けたという話は聞かねえからな。はははははは。
おつや 叱(し)っ、叱(し)っ。(制して。)なにしろ気味が悪いから、早く追い出して頂戴よ。
重兵衛 おまえも泊れと云ったじゃあねえか。
おつや (あわてて。)取消し、取消し……。そんな事はもう断然取消しょ。あんな人と一緒に泊るのは真平(まっぴら)だわ。あたしも商売で、今まで色々の人にも出逢ったけれど、あんな凄い人を唯(ただ)の一度も見たことがない。まさかに化物でもないだろうけれど、どうしても唯(ただ)の人間じゃあないわ。
重兵衛 (まだ疑うように。)そんな人には見えねえが……。凄い凄いと云って、一体どんなに凄いんだよ。
おつや それがさ。どうと云って、口じゃあ話が出来ないけれど……。なにしろトテモ凄いのよ。さすがのがら金も総身に水を浴びせられたように、ぞっとしたわ。太(た)ァちゃんだって、怖い怖いと云って、蒲団(ふとん)をかぶって顫(ふる)えているのよ。
重兵衛 子供は兎(と)も角(かく)も、お前までが顫(ふる)え声になって……。(又かんがえる。)あんなおとなしやかな人がどうして凄いのか、おれにゃあさっぱり呑み込めねぇ。
おつや おじさんは無神経だから、なんにも感じないのよ。じれったいねぇ。
重兵衛 そう騒ぐな。まあ、内へ這入(はい)って様子を見届けよう。
おつや じゃあ、おじさんだけお這入(はい)んなさいよ。あたしはここにいるから……。
重兵衛 ここに立っていられるものか。まあ、這入(はい)れよ。(手を把(と)る。)
おつや (身ぶるいして。)忌(いや)よ、忌(いや)よ。どうしてあんな人のそばへ行かれるもんか。夜が明けけるまでここに立っているわ。
重兵衛 こんな所にいると、かぜを引くよ。
おつや (泣声(なきごえ)になって。)かぜを引いても、死んでも、かまわないと云うのに……。(重兵衛を突き飛ばす。)
重兵衛 (呆れたように。)まるで気違(きち)げえのようだな。じゃあ、まあ、勝手にしろ。
    (重兵衛はそのまま内へ引込(ひっこ)むと、舞台は元に戻る。おつやは抜き足をして窓の下にゆき、閉めたる戸の外から、内の会話をぬすみ聴くように耳をすましている。山風(やまかぜ)の音。旅人は炉のまえを動かず、何かじっと考えていたるが、重兵衛の入り来(きた)りしを知りて顔をあげる。)
旅人  風はまだ吹いているようですね。
重兵衛 まだ吹いていますよ。(炉のまえに腰をかける。)
旅人  おつやさんとか云う人はどうしました。
重兵衛 おつやは……。(すこし云い淀(よど)んで。)そこらをうろうろしているようです。
旅人  月を見ているんですか。
重兵衛 そうかも知れません。あいつも気まぐれ者ですからね。
旅人  (重兵衛の顔をみつめる。)里へ下(くだ)ったんじゃありませんか。
重兵衛 いいえ、そんな事はありません。直(す)ぐに帰って来ますよ。(云いながら旅人に眼をつける。)
旅人  そうですか。(考える。)あなたもおつやさんもここへ泊れと云って下すったが、ほんとうに泊めてくれますか。
重兵衛 (曖昧(あいまい)に。)ええ。
旅人  だんだんに夜は更(ふ)ける、風は寒くなる。これから山越しをするのも難儀ですから、いっそ今夜は御厄介になりましょうか。
重兵衛 (やはり曖昧に。)そうですか。
    (おつやはそれを洩(も)れ聞いて俄(にわか)に決心し、正面の入口へまわって、戸を少し明けながら内を窺っている。)
旅人  (遠慮勝(がち)に。)泊めて貰えませんか。御迷惑ですか。
重兵衛 迷惑というわけでも無いのですが……。
おつや (思い切って、戸をあけて入る。)おじさん。あたしもさっきお泊んなさいと云ったけれど、いけないわ。
旅人  いけませんか。
おつや (努めて勇気を振(ふる)い起(おこ)して。)いけませんわ。よく考えてみると、警察がやかましいんですよ。
旅人  (眼をかがやかして。)警察が……。
おつや ええ。宿屋でもない家(うち)で、知らない人をうっかり泊めると、警察が非常にやかましいんです。ねえ、おじさん。(眼で知らせる。)そうだわねえ。
重兵衛 (曖昧(あいまい)に。)むむ。
おつや それですから、折角(せっかく)ですがお断(ことわ)り申しますよ。
    (おつやの態度が一変したのに、旅人もやや意外らしく、だまって何か考えている。障子の内にて太吉の声。)
太吉  怖いよ。怖いよう。
おつや (ぞっとしたように。)あれ、太(た)ァちゃんが又うなされている……。どうしたんだろうねえ。
    (おつやは重兵衛に向って、早く旅人を追い出せと眼で催促する。重兵衛はまだ気の毒そうに躊躇(ちゅうちょ)している。それを覚(さと)ったように、旅人は炉の前を離れる。)
旅人  いや、判りました。警察がやかましいと云うのでは仕方がありません。これから直(す)ぐに出かけましょう。
重兵衛 (いよいよ気の毒そうに。)お出かけですか。
おつや (追い出すように。)箱根には宿屋が幾軒もありますから、夜の更(ふ)けないうちに早くおいでなさるが好(よ)うござんすよ。
旅人  (さびしく笑う。)宿屋へも泊らずに、夜通し歩くことにしましょう。(リュックサックを背負いて身支度(みじたく)する。)いや、どうもお邪魔をしました。
重兵衛 わたし達こそ御馳走になりました。じゃあ、よく気をつけてお出(い)でなさい。
おつや 左様(さよう)なら。
旅人  どなたもお休みなさい。
    (旅人は小屋を出て、上(かみ)のかたの奥へ去る。重兵衛も送り出して見送る。梟(ふくろう)の声。)
おつや (小声で。)おじさん……。もう行ってしまったの。
重兵衛 むむ。(炉の前へ引返(ひっかえ)して来る。)おまえは無暗(むやみ)に追い出したが、おれは何だか気の毒でならねえ。
おつや 冗談じゃあない。あんな人に、いつまでも居据(いす)わっていられて堪(たま)るもんか。(土瓶(どびん)の茶をついで飲む。)ああ、忌(いや)だ、忌(いや)だ。ほんとうに寿命を縮めてしまった。
太吉  (そっと障子をあける。)怖い人、行っちまったかい。
おつや あら、また起きて来たの。、もう大丈夫だから、こっちへおいでよ。
    (太吉は土間へ出て来る。重兵衛は無言で考えている。)
おつや 真逆(まさか)これに毒が這入(はい)っているわけでもあるまい。もう誰もいないから、安心しておたべよ。
    (おつやは海苔巻(のりまき)の鮓(すし)を取ってやれば、太吉は平気で食う。)
おつや 太(た)ァちゃん。お前どうして、あんなに怖がったの。あの人がなぜ怖いの。
太吉  怖いよ。
おつや どうして怖かったんだよ。
太吉  怖かったよ。
重兵衛 (おつやに。)そういうお前はどうして怖かったのだ。
おつや さあ、なんと云っていいか。あたしにもはっきりとは云えないけれど……。ねえ。太(た)ァちゃん。怖かったねえ。
太吉  むむ。怖かったよ。
重兵衛 (腹立たしそうに。)どっちも夢を見ているようで、何がなんだか云うことが判らねえ。泊めて遣(や)ってもいいものを、怖い怖いと無理に追い出してしまって、あの人も今頃は山道で困っていなさるだろう。気の毒を通り越して、悪いことをしたような気がしてならねえ。
おつや 好(い)いことか悪いことか知らないけれど、あんな気味の悪い人はジャンジャン追っ払ってしまった方が無事だわ。
重兵衛 不人情なことを云うなよ。
    (重兵衛は気が済まないような顔をして、炉に枝をくべている。おつやは太吉に茶を飲ませている。梟(ふくろう)の声。下(しも)のかたより村の青年団員二人、詰襟(つめえり)の洋服に巻(まき)ゲートルの姿にて、灯(ひ)を入れない提灯(ちょうちん)を持ちて出(い)づ。)
青年甲 今晩は……。
おつや あら、又だれか来たよ。
重兵衛 (立って戸をあける。)おお、青年団の人達か。まあ、こっちへ這入(はい)りなさい。
    (青年団二人は内に入る。)
おつや いらっしゃい。皆さんはどうして今頃……。
青年甲 実は駐在所から頼まれてね。
青年乙 こっちの方へ捜索に来たんだ。
重兵衛 だれか家出でもしたのかね。
青年甲 人殺しの犯人が今夜この山へ入り込んだと云うのだ。
重兵衛 (おどろいて。)人殺しか。そりゃあ大変だ。
おつや あ、ちょいと……。(進み出る。)名前は知らないけれども、その人は洋服を着た二十五六の、色の蒼白いような、ちょいと様子の好(い)い人じゃあないの。
青年甲 そう、そう。なんでもそんな男だそうだ。
重兵衛 一体どこで人殺しをしたのだ。
青年甲 その男は東京の日本橋で稲川という酒屋の息子だが、先月の十七日、旧暦の十五夜の晩に、なじみのカフェーの女給を向嶋(むこうじま)へ連れ出して、ピストルで撃ち殺したんだ。
重兵衛 カフェーの女給を……。ピストルで殺した……。
おつや まあ呆れたわねえ。なんで女給を殺したんだろう。いずれ色恋のいきさつでしょうね。
青年乙 まあ、そうだろうな。男は自分の店から千円ほどの金を持ち出して、女を殺すと直(す)ぐに姿を変えて、どこへか逃亡してしまったので、東京の警察から逮捕の依頼が来ていたんだ。
青年甲 それが一月(ひとつき)ほども立ってから、その犯人がここらへ立廻(たちまわ)ったらしい形跡があるので、警察の方でも注意していると、それによく似た若い男が今夜この山へ這入(はい)ったのを見た者があると云うんで、駐在所の吉村さんが直(す)ぐに出かけたから、わたし達も手分けをして捜索に来たんだが、そんな男はここへ来なかったね。
重兵衛 え。(返事に躊躇(ちゅうちょ)する。)
青年乙 今の話の様子じゃあ、つうちゃんはそれらしい男を見たんだろう。
おつや ええ、見ましたよ。山づたいに箱根へまわると云って、たった今ここを出て行ったんだから、まだ遠くは行かないでしょうよ。
青年甲 重(じゅう)さん、ほんとうかい。
重兵衛 (仕方なしに。)むむ、そうだ。
おつや (亢奮(こうふん)して。)パチンコなんぞを振りまわして、むやみに女を撃ち殺すなんて、そんな乱暴な奴は早く取ッつかまえて遣(や)る方がいいわ。逃がして仕舞(しま)うといけないから、直(す)ぐに追っかけてお出(い)でなさいよ。さあ、早くおいでなさいよ。
青年甲 じゃあ、行こう。
青年乙 むむ。行こう。
    (甲乙は行こうとする時、奥のかたにてピストルの音きこゆ。人々は顔をみあわせる。)
青年甲 あ、ピストルだ。
青年乙 いよいよあいつに違いないぞ。
    (甲乙は外へ出て、上(かみ)のかたの奥へ走り去る。おつやは入口から見送る。つづいてピストルの音。おつやは慌てて戸をしめる。)
おつや あら、また撃った……。どこに隠していたか知らないが、あの人がパチンコなんぞを持っていようとは思わなかったが……。
重兵衛 むむ。おれも気が注(つ)かなかった。いや、それよりも……。(考える。)あんなおとなしい人が人殺しのお尋ね者とは、今まで些(ち)っとも気が注(つ)かなかった。
おつや それだから、あたしがトテモ凄いと云ったのよ。(思い出したようにぞっとして。)ねえ、おじさん。あたし達の眼にはなんにも見えなかったけれど……。あの人のうしろには殺された女の魂が、影のように附き纏(まと)っていたのかも知れないわ。
重兵衛 (又かんがえる。)そんな事もあるまいよ。
おつや それでなけりゃあ死神だわ。あの人、いくら逃げまわっても、どうせ助からない人ですもの。行く先々へ死神が附いて廻っているのよ。
重兵衛 女の魂だの、死神だのと……。ここらでも今時そんな事をいう者はねえが……。
おつや いいえ、そうよ。屹(きっ)とそうよ。あの人は何かに執(と)り着かれているに相違ないわ。(太吉の手を把(と)る。)太(た)ァちゃん。お前、なにか見なかったかい。あの人のうしろに……何かぼんやりと……影のような物でも見えやあしなかったかい。
太吉  (頭(かしら)をふる。)知らないよ。
おつや それでも怖かったろう。
太吉  (うなずく。)ああ、怖かったよ。あの人、屹(きっ)とお化けだよ。
おつや そうだ、そうだ。おじさんは今でも平気でいるようだけれど、どう考えてもあの人は唯(ただ)の人じゃあない。太(た)ァちゃんとあたしは本当に怖い思いをしたねえ。
重兵衛 (だんだんに釣込(つりこ)まれて。)今夜にかぎって、太吉が無暗(むやみ)にあの人を怖がるのは、なんだか不思議だと思っていたが……。やっぱりあの人には……。何かの影が附いていたのかなあ。
おつや ああ、忌(いや)だ、忌(いや)だ。(そこらを見まわして。)あたしはまだ気味が悪いわ。
    (暫(しば)しの沈黙。梟(ふくろう)の声。やがて入口の戸をたたく音。おつやはぎょっとしたように、太吉の手をぐいと曳(ひ)いて、上(かみ)のかたに身を寄せる。)
重兵衛 (これも少し警戒して。)だれだ……。どなた……。
巡査  僕だ、吉村だ。
重兵衛 ああ、吉村さん……。(直(す)ぐに戸をあける。)
巡査  (内に入る。)今ここへ負傷者を運んで来るから、兎(と)もかくも土間へ入れて置いてくれないか。
重兵衛 怪我人(けがにん)ですか。
巡査  むむ。怪我人と云っても、実はもう死んでいるのだ。
おつや だれが死んだんですの。
巡査  人殺しの犯人だ。東京でカフェーの女給を殺して、方々(ほうぼう)を逃げまわっていた奴を、そこで見つけて取押(とりおさ)えようとすると、僕にむかってピストルを一発……。
おつや まあ。
巡査  幸いに弾(たま)は外(はず)れたが……。当人ももう覚悟したらしい。今度は自分の額を撃って倒れた。
重兵衛 (顔をしかめて。)もう助かりませんか。
巡査  駄目だ。(頭(かしら)をふる。)急所だからね。なにしろ青年団の人達がここへ運び込んで来るから、些(ち)っとのあいだ頼むよ。
    (云いすてて巡査は出てゆく。重兵衛とおつやは云い知れぬ恐怖に囚われたように、暫(しばら)く無言。梟の声。)
おつや (小声で。)おじさん。あの人はやっぱり何かに執(と)り着かれていたのよ。
重兵衛 そうかなあ。(嘆息して。)ああ、なんにしても忌(いや)な晩だ。
    (二人は顔をみあわせる。薄く山風(やまかぜ)の音。梟の声。焚火はだんだんに薄暗くなる。)
――幕――
了

底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー
   2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
   2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
初出:「舞台」
   1936(昭和11)年7月号
入力:川山隆
校正:江村秀之
2013年7月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。