あらすじ
ある晩、沢村宗十郎氏の門弟である男は、他所からの帰りが遅くなり、聖天下の今戸橋までやって来ます。しかし、辺りは一面の出水で、橋の上も水没していました。男は、衣服をまくり上げ、犬の様に四つん這いになり、折詰を口に銜えながら、必死に橋を渡ろうとします。何とか橋の反対側までたどり着くと、そこには白い着物姿の男が一人立っていて、男を笑っていました。男は、その男が巡査だと気づき、出水の話をしますが、振り返ってみると、出水は跡形もなく消えており、道も橋も乾いていました。男は、折詰を見てみると、底が抜けており、中が空っぽになっていることに気づき、大笑いしてしまいます。その後、師匠の家へ帰っても、男は盛んに笑われたそうです。
 これは狐か狸だろう、矢張(やっぱり)、俳優(やくしゃ)だが、数年(すねん)以前のこと、今の沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)氏の門弟で某(なにがし)という男が、或(ある)夏の晩他所(よそ)からの帰りが大分遅くなったので、折詰を片手にしながら、てくてく馬道(うまみち)の通りを急いでやって来て、さて聖天(しょうてん)下の今戸橋(いまどばし)のところまで来ると、四辺(あたり)は一面の出水(でみず)で、最早(もはや)如何(どう)することも出来ない、車屋と思ったが、あたりには、人の影もない、橋の上も一尺ばかり水が出て、濁水(だくすい)がゴーゴーという音を立てて、隅田川(すみだがわ)の方へ流込(ながれこ)んでいる、致方(しかた)がないので、衣服(きもの)の裾(すそ)を、思うさま絡上(まくりあ)げて、何しろこの急流故(ゆえ)、流されては一大事と、犬の様に四這(よつんばい)になって、折詰は口に銜(くわ)えながら無我夢中、一生懸命になって、「危険(あぶない)危険(あぶない)」と自分で叫びながら、漸(ようや)く、向うの橋詰(はしつめ)までくると、其処(そこ)に白い着物を着た男が、一人立っていて盛(さかん)に笑っているのだ、おかしな奴だと思って不図(ふと)見ると、交番所(こうばんしょ)の前に立っていた巡査だ、巡査は笑いながら「一体(いったい)今何をしていたのか」と訊くから、何しろこんな、出水(しゅっすい)で到底(とうてい)渡れないから、こうして来たのだといいながら、ふと後(うしろ)を振返(ふりかえ)って見ると、出水(しゅっすい)どころか、道もからからに乾いて、橋の上も、平時(いつも)と少しも変りがない、おやッ、こいつは一番やられたわいと、手にした折詰を見ると、こは如何(いか)に、底は何時(いつ)しかとれて、内はからんからん、遂(つい)に大笑いをして、それからまた師匠の家(うち)へ帰っても、盛(さかん)に皆(みんな)から笑われたとの事だ。
了

底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「怪談会」柏舎書楼
   1909(明治42)年発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月24日作成
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