サツと流れてゐる谷川が一番先きに眼に入つた。それはさう大して好いといふほどではないが、ところどころに岩石があつて、その上で新しい鍔広の麦稈帽を日にかゞやかしつゝ避暑客が鮎を釣つてゐるのがそれと指された。此方から向うの町に行く仮橋の上には、をりをり自転車や車が通つて行つた。
Kはじつと一ところサヽラのやうに砕けて白く流れてゐる谷川の瀬に見入つてゐたが、その内部には常に絶えずかの女をはつきりと強く感じた。かの女を、たうとうその身のものにして了つたかの女を、嵐のやうな中を竟に此処まで引張つて来たかの女を、かの女の心を、かの女の肌を、かの女の眉を、かの女の唇を。
「あゝあゝ」
思はずかう言つてKは重苦しい溜息をついた。もう何うにもならなかつた。かれ等は行くところまで行かなければならなかつた。かれは昨夜も二人の涙が床を浸したことを思ひ起した。その涙を禁めるためにすら二人は互ひに相抱かなければならなかつたことを思ひ起した。
それはひとり手にさうなつて行つたやうなものだつた。かういふ風にしたといふよりも、かういふ風になつて行つたといふやうなものだつた。次第に両方からせばめられて行つた結果は、何うしてもかうなつて行くより他にしやうがなかつた。それはたとへて見れば、せまいせまい道を二人して通つて来て、やつと此処までやつて来たやうなものだツた。そしてその先には何がある? 何が待つてゐる?
「死!」
Kはじつとそれを見詰めた。その言葉を見詰めた。
かれは冷たい氷か、鋭利な刃にでも触れたやうな気がした。
さうした内部の光景に引かへて、あたりは平和でのんきで且つ静かであつた。水はサツと快よい音楽を立てゝ流れた。山はどころどころに[#「どころどころに」はママ]白い雲を靡かせて此方から向うへと連りわたつてゐた。ふとかれはその後に軽い足音を感じた。サラサラと半ば解けたやうな帯の気勢を感じた。白いといふよりも蒼いといふ方が好いくらゐなその女の顔を感じた。つゞいて女のそつと近寄つて来る微かな呼吸を感じた。
でも、張詰めてばかりもゐなかつた。昨日の午後は、二人はそこで椅子を並べて外を見てゐた。
丁度自動車組合の一年の祝日か何かで、その前を何台も何台も美しく粧飾された自動車が通つて行つた。時々何処かで花火の揚る音がした。
「何処でせう? あの花火を揚げてゐるのは?」
「さア……何でも裏の方だね?」
「賑やかね?」
かの女はさう言つたが、そのまゝ立つて長い廊下を向うの方へと行つた。その突当りは窓になつてゐて、そこから裏の方がずつと一目に見わたされるらしかつたが、痩せてすらりとした身を女は半ばそこに凭せるやうにして、じつと立つて見てゐたが、暫くすると、その長い廊下を静かに此方へと引返して来て、
「来て御覧んなさい――」
と言つてKを誘つた。
「別に変つたことはないんだらう?」
「でも、いろんなものが出来てゝよ。舞台なんかも出来てゐてよ」
「そんなものが出来たのかえ?」
「何でも、あそこで、この町の芸者達が常盤津か清元をやるらしいのよ。いろんなものを運んでゐますよ」
「ほう」
で、そのまゝ二人並んで、長い廊下をずつとその突きあたりのところまで行つた。
「ほ! 成ほど、すつかり舞台が出来てるんだね?」
「ね、さうでせう。中々大がゝりでせう。ホラ、あの自動車がいろいろなものを運んで来た」
凹凸した道を辛うじてのぼつて来た一台の自動車は、椅子だの卓だの腰掛だのをいくつとなくそこに下した。
「見物席をつくるんだね?」
「さうね」
「今夜やるんだらうね?」
「さうらしいわね」
大きなテントの傍には、三四人の芸者が盛装してかたまつて立つてゐた。
そこに女中が通つて行つたので、Kはそれを捉えて、
「大変なお祭だね?」
「え――」
女中もそこに立留つた。
「今夜やるのかね?」
「さやうで御座いませう」
「行つて見るかな?」
「何でも、今夜は賑やかなさうで御座いますよ。K町からも芸者衆がまゐるさうですから――」
「あそこに立つてゐるのは、此処の芸者かね?」
女中はじつと見てゐたが、
「さやうで御座います。あの此方に立つてゐるのが、こゝで一番評判の君奴といふのです――」
「…………」
はつぴを着た男が頻りに杭を打つたりなどしてゐた。だしぬけにけたゝましい音が空気を劈いたと思ふと、見上げた空には黄い柳のやうな花火がぱつと開いた。
「あんなところで揚げてゐるんですね?」
女はかうだしぬけに行つた。
「何処?」
「そら、あそこ? 山の裾のところから此方へ来たところに、そら、芝にそつてゐるところがあるでせう? あの此方?」
「あゝわかつた――」
成ほどそこに小さな筒が一本立てられてあつて、人が五六人黒くかたまつてゐるのがそれと見えた。
またすさまじい音がした。空には今度は豆を煎るやうな音がパチパチとして、そこから小さな赤い風船が一つ二つ三つまでふわふわと飛び出して来た。
K達は何の余念もないやうに、じつとそのふわふわと空中に漂ひながら落ちて来る小さな赤い風船を眺めた。しかしそれもほんのわづかであつた。二人が並んでその長い廊下を此方へと引返して来た時には、その暗い心の影が既に全くかれ等の胸を塞いでゐた。女は元のやうにKに対して椅子に腰をかけたが、互ひに眼を見合はしただけで一言も口をきかなかつた。
それにしてもよくもかうした山合の温泉場に入つて来たものだ! とKは思つた。こんなところまで気がついて探しに来るものはないにきまつてゐるし、また、それからそれへと警察の力を仮りて探すにしても、あの幹線の汽車の沿道まではその手が行届くにしても、此処まで入つて来るやうなおそれのないのはわかりきつてゐる。Kはその幹線の大きな山の下のT駅まで来て、そこで急に予定をかへて此方へと入つて来たことを繰返した。あの時、あそこで汽車が十分停車した。突然かれは女に言つた。「M温泉に行かう!」と、女は不安さうに、「でも、あなたその温泉御存じなの? あんまり変なところに入つて行つて、却つて困るやうなことはないの?」かう言つてかれの顔を見た。
死ぬのには、何処だつて好い。唯、一日二日の静かな休息が欲しい。静かに落附いて死にたい……
しかもKはそれを口に出しては言はずに、そのまゝその向う側に停つてゐる小さな軌道車へと乗換へて行つた。その小さな軌道車は、半ば山に添つたやうなところを、また半ば野の中のやうなところをゴトゴトと烈しく動揺しながら進んで行つた。かれ等は別れて来た幹線――一直線に傍眼も触らずに一日一夜やつて来た幹線の方を名残惜しさうに振返つた。かれ等は何とも言はれないさびしさに襲はれた。かれ等はあたりを見廻すやうにした。
車中の乗客達の全く変つて了つたのも、かれ等を此上なくさびしくした。まさかに駈落者とは看破されないまでも、違つた種類の人間でもあるやうに、わるくじろじろと見詰められるのも、何となしに一種の不安をかれ等に誘つた。Kにしてもかの女にしても、成るたけ窓外の野山ばかりを見るやうにして――人の顔は見ないやうにして、その小さな軌道車の終端駅である駅までやつて来たことをKは繰返した。でも幸ひなことには、その停車場前には、M温泉までの乗合自動車が汽車の時刻と連絡して、きちんとそこに客を待受けてゐた。
で、K達は何の苦もなしに、時には田舎の村落の中を、時にはその背景に大きな山を持つた野の中を、また時には潺湲とした渓谷に架つた橋の上を通つて、次第にその山の中へと入つて来た。かれ等は絶えず屈曲する渓流を右に眺めながら、たうとうそこへ、その最後の土地へ――。
大きな浴舎は三階建で、若い上さんを始め、番頭達が皆なそろつて丁寧にかれ等を迎へた。まさかにさうした駈落者とは知らずに――。あらゆる鞭を加へられなければならない不義者であるとは知らずに――。何のやうな迷惑をその人達にかけるやも料られない二人であるとは知らずに――。最初、女中はかれ等を三階の右の大きな十五畳へと案内した。しかしその一室はあまりに広かつた。またあまりに明るかつた。大きな廊下がその左右にあるのもあまり晴れ晴れしかつた。
「もつと狭くつて好いんだがな? 六畳か八畳ぐらゐで好いんだがな?」かうKが言ふと、女中は別に何も言はずに、かれ等を三階の向うの角の今ゐる室へと案内した。
女中が下りて行つたあとで、かの女は深い溜息をついた。
「何うしたの?」
「…………」
女は何も言はずに再び重ねて溜息をついた。
実際、口に出しては言へないやうな切迫した心持をかれ等は感じたのである。何うして好いかわからないやうな心持を。折角やつて来た場所が苦しい辛い場所であつたやうな心持を。出来るならば二人抱き合つて声をあげて思ふさま泣きたいやうな心持を。
かうした場合を、かれ等は既に何遍も何遍も想像してゐたのである。
さういふ身の上になつたら何うだらう?
と何遍も何遍も思つたのである。しかし、さう思つた時には、一方に花やかな美しい詩のやうな空想が伴つて来てゐて、たとへ悲しいにしても、辛いにしても、何等かの美しさの慰めと言つたやうなものがそこにあつて、十分それを慰めて呉れるであらうと思つたが、さて実際此処に来て見ると、それは空想で、その美しさの慰藉の代りに、却つて冷めたい刃のやうな心持がひしと胸を塞ぐやうに集つて来るのをかれ等は感じた。Kはあたりを見廻した。一方だけの出入になつてゐるのが非常に都合が好かつた。
此処ならば、さうあやしまれることもあるまい。静かに落附いてその運命に面することが出来る……
とかれは思つた。――奥さんとお子さんにすまない――この言葉は、それまでに何遍女の口に上つたか知れないものであつたが、その夜ほどそれが強くかの女を泣かせたことはなかつた。涙と声とが共に下つた。二つの魂が全く涙に泣き濡れたと言つても好かつた。「好いぢやないか。それはもうお互ひぢやないか? 僕だツて、あなたの御主人にはすまない……。本当にすまない。だからその罪は自分達の運命で償はうとしてゐる。もうさういふことを考へるのはよさう。これからは、せめて本当の二人にならう。他に誰もゐない二人きりにならう。二人きりに――。お前は私のお徳、僕はお前のK……。ね、好いかえ?」かう言つてかれは女を抱きしめた。女は嗚咽した。
その涙と嗚咽の中をその同じ谷川の瀬の音が縫つた。
あけ方にKはそつと起きてそして浴場へと下りて行つた。
谷の鳴る音がサツときこえて、微白い暁の空気が二階へと下りて行く窓からそつと覗かれた。廊下にはぼんやりと電気がついてゐた。
かれはかれ等の運命に従つて行くといふことが、さう大して難かしいことではないやうな気がした。このほの白い暁の空気、他界をそれと聯想させるやうな静かな空気、それに誘はれて行けば、さう大して悲しいことでもないやうに思はれた。あの昨夜の涙の床、互ひに取ひしぐばかりにかき抱いた二つの体、しかもつひにつひにひとつになることの出来ない悲しみ、あの悲しみだけでも、かれ等はわけなくその運命に従つて行くことが出来るやうな気がした。
かれは静かに階段を下りて、そつと影のやうに、深く底に沈んでゐるやうになつてゐる浴槽へと入つて行つた。そこには誰もゐなかつた。他界にでも来たやうに誰もゐなかつた。玲瓏として珠のやうな湯が大理石の浴槽から一杯に溢れ落ちてゐた。
かれはじつと深くその中に身を沈めた。
町で経営してゐる共同浴室は、その橋をわたつて向う側に行つて、それから町を少し山の方へと歩いて行つたところにあつたが、それは普通温泉場に見るものとは違つて、非常にハイカラな新式なものであつた。ドイツのバアデンバアデンの浴室などをも参酌したものらしかつた。
Kはかの女と自分とをそこに見出した。それはそこに着いたあくる日の午前の十一時頃であつた。かれ等は宿の女中に聞いてやつて来た。かれは規定の金を払つて入口の女中に湿式浴室の専用を頼んで置いて、その整理の出来る間を二階の乾式浴室の中に過した。そこには大きな陶器製の丸い筒があつて、そこから乾いたラジユム・エマナチオンが、ひとり手に呼吸されるやうに出来てゐた。二人はさし向ひに椅子に腰をかけたまゝ暫くじつとして黙つてゐた。卓の上にはカンナの花が鉢植になつて置かれてあつたが、その毒々しい赤い色がわるくかれ等の眼を刺戟した。
女がじつとしてゐるのに引かへて、Kは心が落附かないといふやうに立つたりゐたりした。窓のところに行つた時には、そこから落ちて死ぬことでも考へてゐるかのやうに身を凭らせて深く下を覗くやうにした。そこに、入口の女中が上つて来て、湿式浴室の専用の準備の出来たことを報じた。
Kはその朝の微白い空気の中にも、死ぬことの難くないことを感じたが、そこでは一層かれはさうした心持に浸ることが出来た。
かれは不思議な気がした。それはこの世の歓楽だらうか。普通この世に生きてゐる人達の常に浸つてゐる歓楽だらうか。かれにはさうは思へなかつた。その運命に面して居ればこそ、その悲しみを持つて居ればこそ、その涙に浸つて居ればこそ、さうした不思議な歓楽が味はされて来るのであつて、普通ではとてもさうした心理は起つて来やう筈はないのであつた。それにしても何といふ所有だつたらう? また何といふ抱擁だつたらう? かの女も流石にきまりがわるかつたといふやうに、また思ひも寄らない事実に心を打たれたといふやうに、町を歩いて見ようとKのいふのにも応ぜずに、「では私は一足先きに帰りますから……」と言つて、水色のパラソルをひろげてそゝくさと細い路を川の岸の方へと出て行つた。
Kもひとりでは町を歩く気がなかつたので、行きかけて止して、そのまゝかの女のあとを追つて、川の方へと出て行つた。
正午に近い七月の暑い日影は、キラキラとあたりを照して、川の流も、岩も、人家も、通つて行く人の影も、向うに見える山々も、すべて皆な点描派の画のやうに強烈に光つて輝いて見えてゐたが、その橋の上を十間ほど離れて向うに歩いて行くかの女の後姿を見た時には、Kは今までついぞ覚えたことのない愛着を強く感ぜずにはゐられなかつた。かの女がかれのためにあゝした愛着を示したといふことは、Kに取つて何とも言はれないことだつた。たしかにかれは二つの魂がひとつなつて空に翔けるのを見たやうな気がした。
かれはさうしてそのあとから歩いて行つてゐることをかの女に知られないやうに注意深くある間隔を取つて行つた。Kはキラキラと輝く光線の中にその白い素足の小さく、しかも割合に早く、浴衣の裾に絡るやうにして動いて行くのをじつと見詰めながら徐かに歩いた。
Kは橋の中ほどまで来て不意に立留つた。かれは疲労に伴つてやつて来る眩惑を軽く感じた。
その日の午後には、K達は全く疲れ切つたといふやうにして昼寝をしてゐた。かれ等は並んでは寝てゐなかつたけれども、汚れた茶器を取りに其処へ入つて来た女中は、此方の隅に女が、向うの窓の明け放したところに男が、何も彼も知らずに、西日の近くなつて来るのも知らずにぐつすり寝込んでゐるのを眼にした。女は蒼白い顔を右向きにして、スヤスヤ呼吸を立てゝ眠つてゐたし、男は口をしまりなく明けて、額に油汗を滲ませて、さも疲れたといふやうにして鼾をかいてゐた。
(よく寝てること――)
かう思つてそのまゝ女中はそこから出て行つた。
それから尠くとも一二時間は経つた。西日がもはやかなりに深くさし込んで来てゐた。水の音が静かに絶えず淙々としてきこえてゐた。もう一人の方の肥つた女中は、いつものやうに、軽い足音を立てゝそこに上つて来て、西日を遮るための日蔽ひをぱたりと下した。と、室の内はいくらか薄暗くなつて、二人の寝てゐる姿もくつきりとその中に影をつくるやうになつて見えた。
肥つた女中が下りて来ると、もう一人の方の女中は、それを捉えて、
「三番のお客はまだ寝てゐた?」
「えゝ」
「お前さん入つて行つても知らずにゐた?」
「え」
「よく寝るお客ねえ? 二人とも丸で死んだやうになつて寝てゐるぢやないの? もうお前さん、四時だよ。余程疲れたのね?」
「まア、いやな――」肥つた女中は変に笑つた。
「だつて、さうぢやない? あんなによくねてゐるのはめづらしいもの……。私が入つて行つたつて目なんか覚ましやしないんだもの……あゝ暑い」
「そんなことを考へるからだよ」
「ひる間、あゝして寝てゐて、夜になると、よつぴて起きてゐるんだからね。昨夜だつて、あそこからよつぴて話声がきこえてゐたといふぢやないか?」
女中はさう言つて小声で、「夫婦ぢやないのね?」
「さうかしら?」
「たしかにさうよ……。さうかと言つて芸者にしちや地道すぎるし、きつと、何かわけがあるのよ」
「さうかしら」
「あゝいふのは、気をつけないといけないのよ」
「さうかしら――」
三階の二人が前後してその深い眠りから眼を覚したのは、それからまた一時間も経つてからであつた。一番先に夢にでも魔はれたといふやうにしてKが身を起した。つゞいて女がほつかり驚いたやうに大きく眼を見開いた。静かな夕暮の空気の中に二人の溜息が際立つてきかれた。
「もう、そんなことは言はない方が好い。考へない方が好い」
「…………」
大抵の場合女の方は黙つてゐた。その代りにその眼からは涙が流れた。Kはその涙を恐れた。あらゆる要求を示してゐるやうな、死をすら刻々に迫らせて来てゐるやうなその涙を恐れた。かれ等は最早何うすることも出来なかつた。かれ等は黙つて廊下の椅子に凭れた。黙つて室の中の一隅に行つて坐つた。また黙つて一二間距離を置いてその川の縁を散歩した。
もはや離れたいにも何うしても離れることが出来なくなつてゐた。さうかと言つて、その心の底をお互ひに口に出して言ふことが出来なくなつてゐた。二人は次第にさうして黙つてゐることに、唯顔を見合はしてゐることに、男が女の涙顔を見女が男の悲しげな顔を覗いてゐることに堪へられなくなつた。互ひに心の底に暗く触れて行つてゐることに堪へられなくなつた。Kは空虚な眼をしてじつと向うの山を眺めた。
かれ等はその沈黙の苦痛を、ひとつであらねばならぬ心の二つであることの苦痛をまぎらせるために、何ぞと言つてはそのぐらぐらする橋をわたつて、川向うのその共同浴場へと行つた。そしてそこで湿式浴室の準備を頼むための金をその肥つた女に払つた。次第にその女の眼も此方を注意深く見詰めるやうになつて行つた。
ある時は、かれ等の他に、猶ほその浴室の準備を頼むものが二組、三組まであるのをかれ等はそこに見出した。さういふ人達は、皆な二階に上つて、そこで椅子に凭つたりクツシヨンに凭つたりして、その準備の出来るのを待つてゐた。たしかに芸者と思はれる二十五六の美しい女などもその中にゐた。
「こんな設備は、他の温泉にはちよつとないな」
「本当ですな――」
「何でも、この湯はこれがあるんで、急に人気が出て来たといふことですな」
「さうでせう。これで、この設備をするには、中々金がかゝつたと言ひますからな――」
「それで、このラジユムはきゝますやろか?」
傍から上方弁で若い紳士風の男が言つた。
「よう効目がありまつせ――」向うにゐた三十先きの女が莞爾しながら戯談半分に言つた。
何といふのんきな心だらう。何といふのんきな会話だらう。さうして生きてゐる人もある。面白半分に生きてゐる人もある。それに比べたら、かれ等は? 何うしたつて死ななければならないかれ等は? さうした運命に従ふより他に他に何うすることも出来ずにかうして彷徨してゐるかれ等は?
今日こそ、今日こそ――
と思つていつも此処にやつて来るかれ等は?Kはさつきこゝに来る前に、女が剃刀を信玄袋の中から出してゐるのを目にして、
何うするのそんなものを持つて行つて?
といふやうな顔をすると、女はそれを言ひ解くやうに、「だつて、顔が汚くなつたんですもの」と言つて、そしてそれを化粧箱の中へ入れて来たことを思ひ起した。
さうだ! あれがある。今日こそ、今日こそ――
かうKは強く緊張したやうな心の調子になつた。「中々手間が取るね?」
「何しろ、今日は大入だからね。三組もあるんだもの――」
肥つた男はかう言つて、皆なに親しさをあらはすやうにして大きく笑つた。
「さうですな……ちよつと手間が取れませうな」
向うにゐる背の高い男が言つた。さつきの女も笑つた。
そこに共同浴場の女中が支度の出来たことを知らせに来た。
廊下――裁判所の廊下でも思はせるやうな長い廊下が、一号室、二号室といふ風に片側に一つ一つドアを持つて長く続いてゐるのがそれと見え出した。浴場の女中は大きな鍵でその室毎の錠を明けて、一組づゝをその中へと入れるやうにした。
「これは上等だ――」
何処かでさういふ声がした。女中の笑ふ声もした。
K達の入つて行つたのは、矢張いつもの室だつた。何の変つたこともなかつた。着物をぬぐところに小さな衣桁が置いてあつて、そこに新しい手拭がかゝつてゐた。此方の小さな低い台には、鏡台があつて、その下に櫛や鋏刀を入れた小箱が置いてあつた。午後の日影が高い窓から微かに線を成してさし込んで来てゐた。
ザ、ザ、ザ、ザ―― さうした音がやがてすさまじくきこえ出した。それは湯がしつくひの壁を伝つて一面に落ち始めたのであつた。時の間に湯気がそこに漲りわたるであらう。あたりは白い靄で埋められるであらう。
その壁を伝つて落ちて来る湯の音は、他界からの音楽のやうにかれ等の胸にある不思議を誘ふであらう。K達はやがてその微白いラヂユムの湯気の中にその身を浸した。かれ等はかれ等の運命がいよいよその身に迫つて来たことをはつきりと感じた。