あらすじ
冬の街は活気に満ち溢れ、人々の表情は忙しそうです。しかし、彼はその中に溶け込むことができず、いつもどこか落ち着きません。古ぼけたトンビとすり減った下駄を履き、街をぶらぶらと歩く彼は、三十歳の閑人です。かつては友達と無邪気に過ごした日々もありましたが、今は皆それぞれに仕事を持ち、家庭を築いています。彼自身も病気から回復したものの、自信がなく、青春時代を虚無感の中で過ごしてしまいました。そんな日々を振り返る中で、彼は焦燥感に駆られます。人生を賭けてでも何かを始めようかと考えますが、叔父からの返事もなく、家族に心配をかける自分が情けなく、死んでしまいたいとも思います。それでも彼は、鳥屋の前で九官鳥のさえずりを聞き、街の賑わいを眺め、いつもの喫茶店に入ります。そこには新聞を読んでいる屈木がいました。屈木は昔、彼以上に病に苦しんでいたにも関わらず、今では新聞記者として活躍しています。屈木の姿を見て、彼は奮い立ち、何かを始めようとする力を得ます。コーヒーを飲み終えた彼は、小学校の運動場で子供たちのダンスを眺めます。子供の頃の思い出が蘇り、彼は複雑な気持ちになります。そして、彼は父の墓参へ向かうのでした。
 十二月になると小さな街も活気づいて、人の表情もせわしさうになった。家にゐても、街に出ても、彼は落着かなかったが、昼過ぎになると、やはり拾銭の珈琲代を握り締めて、ぶらりと外に出た。兄貴から譲られた古トンビと、扁平になってしまった下駄で、三十歳の閑人の悲しさうな表情を怺へて、のこのことアスファルトの上を歩いた。しかし、もう以前のやうな無邪気な友達も見あたらなかった。何処へ行っても友達はもう職に就いてゐたり。妻帯者であった。彼を批難するやうな眼つきで、君も早く何とかするのだね、と励ましてくれるのではあったが、彼も今では自分の病気や境遇を説明するのがめんどくさくなった。どうかすると、まだ熱が出たりしたが、ほんとに自分が病気なのかどうか、それさへわからなくなるのでもあった。退院してからもう四年にもなるのだが、それ以来は養生らしい養生も出来ず、身体に自信が持てなかったため、つい、うかうかと青春を見送ってしまったのである。さう云ふことを振返って考へ込むと、彼は心の底から一つの細力(ママ)が湧いて来て、蹣跚よろめきさうな身体を支へて呉れさうな気がした。実際、此頃では一か八か生命を犠牲にして、何か商売を始めようと考へてもゐた。叔父が古本屋の資本を貸して呉れたら、少しは愁眉が開けさうだった。しかし返事のない叔父は当にもならなかった。母や兄に心配ばかり懸けて来た身が呪はしく、一そのこと自殺した方が皆のためにもなりさうだった。
 しかし彼は今も鳥屋の前に立止って、オタケサン、オタケサンと騒ぎ廻る九官鳥を眺めて、単純にをかしさうに笑ってみた。鳥屋のむかひの昆布屋には荷馬車が留められてゐて、馬が退屈さうに横目を使ってゐる。何処へ行っても見慣れた狭い街の風景で、盛り場の方では今でもチンドン屋が騒ぎ廻ってゐた。彼は何時もの癖でT――百貨店へ入ると、三階まで登って、屋上で猿を眺めた。猿は絶えず枝から枝へ忙しさうに飛び廻ってゐる。猿でも肺病があるのかしら――と想像してみると、何だか嘘のやうな気がした。
 そのうちにいい加減草臥れたので彼は何時も行く喫茶店に入った。するとストーブを独占しながら新聞を読んでゐる屈木の姿がすぐ眼についた。
「ヤア。」と屈木は敏捷さうな顔を彼の方に対けながら、飲みかけの茶碗を持ち上げた。
「忙中閑ありでね。」と屈木は得意さうに笑って、「君は相変らずだね。いや君と逢ったのはまだ一昨日ぢゃないか。」と云った拍子に少し嗄れた咳をして心持顔を顰めた。屈木はチョッキから懐中時計を取出すと、
「おっと、もう二時か、ぢゃまた遇はう。」と急に忙しさうに立去ってしまった。彼は屈木の姿を見送ると、何故か不思議な気もした。あの男も以前は彼以上に病態が昂進してゐて、今にも死にさうな姿を巷に晒してゐたが、屈木は血を喀きながらも酒を飲んだり女に戯れた。そして今ではともかく新聞記者をしてゐるのであった。気持一つで無理に無理を支へてゐる屈木の姿が、彼に何か物凄い発奮を強ひてゐるやうであった。
 コーヒーを飲み終ると、今度は人通りの少ない路を選んだ。恰度そこには小学校があって、低い垣根越しに運動場が見えた。中央にオルガンが持出されて、円陣を作って女の生徒がダンスをしてゐる。彼は小学生の昔がこの頃頻りに懐しく、悔恨に似た気持をそそった。オルガンの響に遠ざかりながら、彼は何時の間にか寺の前に来てゐた。来たついでに父の墓へまゐらうと思って、寒々とした墓地のなかに、彼はふらふらとあゆいで行った。

底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店
   1966(昭和41)年2月15日初版発行
入力:蒋龍
校正:伊藤時也
2013年1月24日作成
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