あらすじ
ある夏の日の午後、金坊《きんぼう》という名の幼い男の子は、姉が留守の間に部屋で眠りに落ちます。静かな部屋で、金坊の耳に聞こえるのは、けたたましい蠅の羽音だけ。次第にその音は大きくなり、金坊は恐怖と不快感にさいなまれます。小さな体で、無数の蠅から逃れる金坊。やがて、部屋に現れたのは、金坊の姉でした。優しい姉は、金坊を優しく守ってくれるのでしょうか。
        上

 いたづら為(し)たるものは金坊(きんぼう)である。初めは稗蒔(ひえまき)の稗(ひえ)の、月代(さかやき)のやうに素直に細(こまか)く伸びた葉尖(はさき)を、フツ/\と吹いたり、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(ろう)たけた顔を斜めにして、金魚鉢(きんぎょばち)の金魚の目を、左から、又右の方から視(なが)めたり。
 やがて出窓の管簾(くだすだれ)を半(なか)ば捲(ま)いた下で、腹(はら)ンばひに成つたが、午飯(おひる)の済んだ後(あと)で眠気(ねむけ)がさして、くるりと一(ひと)ツ廻つて、姉の針箱(はりばこ)の方を頭(つむり)にすると、足を投げて仰向(あおむき)になつた。
 目は、ぱつちりと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いて居ながら、敢(あえ)て見るともなく針箱の中に可愛(かわい)らしい悪戯(いたずら)な手を入れたが、何を捜すでもなく、指に当つたのは、ふつくりした糸巻(いとまき)であつた。
 之(これ)を指の尖(さき)で撮(つま)んで、引(ひっ)くり返して、引出(ひきだし)の中で立てて見た。
 然(そ)うすると、弟が柔かな足で、くる/\遊び廻る座敷であるから、万一の過失(あやまち)あらせまい為、注意深い、優しい姉の、今しがた店の商売(あきない)に一寸(ちょいと)部屋を離れるにも、心して深く引出(ひきだし)に入れて置いた、剪刀(はさみ)が一所(いっしょ)になつて入つて居たので、糸巻の動くに連れて、夫(それ)に結(いわ)へた小さな鈴が、ちりんと幽(かすか)に云ふから、幼(いとけな)い耳に何か囁(ささや)かれたかと、弟は丸々(まるまる)ツこい頬(ほお)に微笑(ほほえ)んで、頷(うなず)いて鳴(なら)した。
 鳴るのが聞えるのを嬉(うれ)しがつて、果(はて)は烈(はげ)しく独楽(こま)のやう、糸巻はコトコトとはずんで、指をはなれて引出の一方へ倒れると、鈴は又一つチリンと鳴つた。小(ちいさ)な胸には、大切なものを落したやうに、大袈裟(おおげさ)にハツとしたが、ふと心着(こころづ)くと、絹糸の端が有るか無きかに、指に挟(はさま)つて残つて居たので、うかゞひ、うかゞひ、密(そっ)と引くと、糸巻は、ひらりと面(おもて)を返して、糸はする/\と手繰(たぐ)られる。手繰りながら、斜(ななめ)に、寝転んだ上へ引き/\、頭(こうべ)をめぐらして、此方(こなた)へ寝返(ねがえり)を打つと、糸は左の手首から胸へかゝつて、宙に中(なか)だるみ為(し)て、目前(めさき)へ来たが、最(も)う眠いから何(なん)の色とも知らず。
 自(みずか)ら其(それ)を結んだとも覚えぬに、宛然(さながら)糸を環(わ)にしたやうな、萌黄(もえぎ)の円(まる)いのが、ちら/\一(ひと)ツ見え出したが、見る/\紅(くれない)が交(まじ)つて、廻ると紫(むらさき)になつて、颯(さっ)と砕け、三(みっ)ツに成つたと見る内、八(や)ツになり、六(む)ツになり、散々(ちりぢり)にちらめいて、忽(たちま)ち算(さん)無(な)く、其(そ)の紅(くれない)となく、紫となく、緑となく、あらゆる色が入乱(いりみだ)れて、上になり、下になり、右へ飛ぶかと思ふと左へ躍(おど)つて、前後に飜(ひるがえ)り、また飜つて、瞬(またたき)をする間(ま)も止(や)まぬ。
 此(こ)の軽いものを戦(そよ)がすほどの風もない、夏の日盛(ひざかり)の物静けさ、其の癖、こんな時は譬(たと)ひ耳を押(おっ)つけて聞いても、金魚の鰭(ひれ)の、水を掻(か)く音さへせぬのである。
 さればこそ烈しく聞えたれ、此の児(こ)が何時(いつ)も身震(みぶるい)をする蠅(はえ)の羽音(はおと)。
 唯(と)同時に、劣等な虫は、ぽつりと点になつて目を衝(つ)と遮(さえぎ)つたので、思はず足を縮めると、直(ただち)に掻(か)き消すが如く、部屋の片隅(かたすみ)に失(う)せたが、息つく隙(ひま)もなう、流れて来て、美しい眉(まゆ)の上。
 留(と)まると、折屈(おりかが)みのある毛だらけの、彼(か)の恐るべき脚(あし)は、一(ひと)ツ一(ひと)ツ蠢(うごめ)き始めて、睫毛(まつげ)を数へるが如くにするので、予(かね)て優しい姉の手に育てられて、然(そ)う為(し)た事のない眉根(まゆね)を寄せた。
 堪へ難(がた)い不快にも、余り眠かつたから手で払ふことも為(せ)ず、顔を横にすると、蠅は辷(すべ)つて、頬の辺(あたり)を下から上へ攀(よ)ぢむと為(す)る。
 這(は)ふ時の脚(あし)には、一種の粘糊(ねばり)が有るから、気(け)だるいのを推(お)して払(はた)くは可(い)いが、悪く掌(てのひら)にでも潰(つぶ)れたら何(ど)うせう。

        下

 其時(そのとき)まで未(ま)だ些(ち)とは張(はり)の有つた目を、半(なか)ば閉ぢて、がつくりと仰向(あおむ)くと、之(これ)がため蠅は頬(ほっ)ぺたを嘗(な)めて居た嘴(くちばし)から糸を引いて、ぶう/\と鳴いて飛上(とびあが)つたが、声も遠くには退(の)かず。
 瞬(またた)く間(ま)に翼を組んで、黒点先刻(さっき)よりも稍(やや)大きく、二つが一つになつて、衝(つ)と、細眉(ほそまゆ)に留(と)まると、忽(たちま)ちほぐれて、びく/\と、ずり退(の)いたが、入交(いりまじ)つたやうに覚えて、頬(ほお)の上で再び一(ひと)ツ一(ひと)ツに分れた。
 其の都度(つど)ヒヤリとして、針の尖(さき)で突くと思ふばかりの液体を、其処此処(そこここ)滴(したた)らすから、幽(かすか)に覚えて居る種痘(しゅとう)の時を、胸を衝(つ)くが如くに思ひ起して、毒を射されるかと舌が硬(こわ)ばつたのである。
 まあ、何処(どこ)から襲つて来たのであらうと考へると、……其では無いか。
 店へ来る客の中に、過般(いつか)、真桑瓜(まくわうり)を丸ごと齧(かじ)りながら入つた田舎者(いなかもの)と、それから帰りがけに酒反吐(さけへど)をついた紳士があつた。其の事を謂(い)ふ毎(ごと)に、姉は面(おもて)を蔽(おお)ふ習慣(ならい)、大方其(そ)の者(もの)等(ら)の身体(からだ)から姉の顔を掠(かす)めて、暖簾(のれん)を潜(くぐ)つて、部屋(ここ)まで飛込(とびこ)んで来たのであらう、……其よ、謂(い)ひやうのない厭(いや)な臭気(におい)がするから。
 と思ふ、愈々(いよいよ)胸さきが苦しくなつた。其に今がつくりと仰向(あおむ)いてから、天窓(あたま)も重く、耳もぼつとして、気が遠くなつて行(ゆ)く。――
 焦(じ)れるけれども手はだるし、足はなへたり、身動きも出来ぬ切(せつ)なさ。
 何を!これしきの虫と、苛(いら)つて、恰(あたか)も転(ころが)つて来て、下(した)まぶちの、まつげを侵(おか)さうとするのを、現(うつつ)にも睨(ね)めつける気で、屹(きっ)と瞳(ひとみ)を据(す)ゑると、いかに、普通見馴(みな)れた者とは大いに異り、一(ひと)ツは鉄(くろがね)よりも固さうな、而(そ)して先の尖(とが)つた奇なる烏帽子(えぼし)を頭(かしら)に頂き、一(ひと)ツは灰色の大紋(だいもん)ついた素袍(すおう)を着て、いづれも虫の顔(つら)でない。紳士と、件(くだん)の田舎漢(いなかもの)で、外道面(げどうづら)と、鬼の面(めん)。――醜悪(しゅうあく)絶類(ぜつるい)である。
「あ、」と云つたが其の声咽喉(のんど)に沈み、しやにむに起き上らうとする途端に、トンと音が、身体中(からだじゅう)に響き渡つて、胸に留(とま)つた別に他(た)の一疋(ぴき)の大蠅(おおばえ)が有つた。小児(こども)は粉米(こごめ)の団子(だんご)の固くなつたのが、鎧甲(よろいかぶと)を纏(まと)うて、上に跨(またが)つたやうに考へたのである。
 畳(たたみ)の左右に、はら/\と音するは、我を襲ふ三疋(びき)の外(ほか)なるが、なほ、十(とお)ばかり。
 其の或者(あるもの)は、高波(たかなみ)のやうに飛び、或者は網(あみ)を投げるやうに駆け、衝(つ)と行き、颯(さっ)と走つて、恣(ほしいまま)に姉の留守の部屋を暴(あら)すので、悩み煩(わずら)ふものは単(ただ)小児(こども)ばかりではない。
 小箪笥(こだんす)の上に飾つた箱の中の京人形は、蠅が一斉にばら/\と打撞(ぶつか)るごとに、硝子越(がらすごし)ながら、其の鈴のやうな美しい目を塞(ふさ)いだ。……柱かけの花活(はないけ)にしをらしく咲いた姫百合(ひめゆり)は、羽の生えた蛆(うじ)が来て、こびりつく毎(ごと)に、懈(た)ゆげにも、あはれ、花片(はなびら)ををのゝかして、毛(け)一筋(ひとすじ)動かす風(かぜ)もないのに、弱々(よわよわ)と頭(かぶり)を掉(ふ)つた。弟は早(は)や絶入(たえい)るばかり。
 時に、壁の蔭(かげ)の、昼も薄暗い、香(こう)の薫(かおり)のする尊い御厨子(みずし)の中に、晃然(きらり)と輝いたのは、妙見宮(みょうけんぐう)の御手(おんて)の剣(つるぎ)であつた。
 一疋(ぴき)、ハツと飛退(とびしさ)つたが、ぶつ/\といふ調子で、
「お刀の汚(けが)れ、お刀の汚れ。」と鳴いた。
 また気勢(けはい)がして、仏壇の扉細目(ほそめ)に仄見(ほのみ)え給(たま)ふ端厳(たんごん)微妙(みみょう)の御顔(おんかんばせ)。
 蠅は内々(ないない)に、
「観音様、お手が汚(よご)れます。」
「けがれ不浄(ふじょう)のものでござい。」
「不浄のものでござい。」
 と呟(つぶや)きながら、さすがに恐れて静まつた。が、暫時(しばらく)して一個(ひとつ)厭(いや)な声で、
「はゝゝゝはゝ、いや、恁(こう)又(また)ものも汚(きたの)うなると、手がつけられぬから恐るゝことなし。はゝはゝこら、何(ど)うぢやい。」と、ひよいと躍(おど)つた。
 トコトン/\、はらり/\、くるりと廻り、ぶんと飛んで、座は唯(ただ)蠅で蔽(おお)はれて、果(はて)は夥(おびただ)しい哉(かな)渦(うずま)く中に、幼児(おさなご)は息が留(とま)つた。
 恰(あたか)も可(よ)し、中形(ちゅうがた)の浴衣(ゆかた)、繻子(しゅす)の帯、雪の如き手に団扇(うちわ)を提げて、店口(みせぐち)の暖簾(のれん)を分け、月の眉(まゆ)、先(ま)づ差覗(さしのぞ)いて、
「おゝ、大変な蠅だ。」
 と姉が、しなやかに手を振つて、顔に触(さわ)られまいと、俯向(うつむ)きながら、煽(あお)ぎ消すやうに、ヒラヒラと払ふと、そよ/\と起る風の筋(すじ)は、仏の御加護(おんかご)、おのづから、魔を退(しりぞ)くる法(ほう)に合(かな)つて、蠅の同勢(どうぜい)は漂ひ流れ、泳ぐが如くに、むら/\と散つた。
 座に着いて、針箱の引出(ひきだし)から、一糸(いっし)其の色紅(くれない)なるが、幼児(おさなご)の胸にかゝつて居るのを見て、
「いたづらツ児(こ)ねえ。」と莞爾(にっこり)、寝顔を優しく睨(にら)むと、苺(いちご)が露(つゆ)に艶(つやや)かなるまで、朱の唇に蠅が二つ。
「酷(ひど)いこと!」と柳眉(りゅうび)逆立(さかだ)ち、心(こころ)激(げき)して団扇(うちわ)に及ばず、袂(たもと)の尖(さき)で、向うへ払ふと、怪しい虫の消えた後(あと)を、姉は袖口(そでくち)で噛(か)んで拭(ふ)いて遣(や)りながら、同じ針箱の引出から、二つ折、笹色(ささいろ)の紅(べに)の板(いた)。
 其れを紅差指(べにさしゆび)で弟の唇に。
 一寸(ちょいと)四辺(あたり)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)して又唇に。
 花の薫(かおり)が馥郁(ふくいく)として、金坊(きんぼう)は清々(せいせい)して、はツと我に返つた。あゝ、姉が居なければ、少くとも煩(わずら)つたらう。
了

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「文芸界」
   1901(明治34)年6月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※初出時の表題は「部屋の弟」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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