あらすじ
舞台は、かつて汽車が通っていたものの今は廃墟と化した停車場のある広大な荒野。そこへ、猟銃を携えた若き男・桂木が、不思議な話や光景を求めてやってきます。彼は、広野の奥深く、朽ち果てた一軒家に住む老婆に出会い、その老婆からこの地に関する奇妙な伝説を聞かされます。老婆の語る物語は、美しい女と男の運命、そしてこの地の恐ろしい秘密を語り、桂木の心は不思議な不安と恐怖で満たされていきます。やがて、桂木は老婆の語る物語の真実を目の当たりにし、想像を絶する出来事に巻き込まれていくのです。
        一

 真中に一棟(ひとむね)、小さき屋根の、恰(あたか)も朝凪(あさなぎ)の海に難破船の俤(おもかげ)のやう、且(か)つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此(こ)の広野(ひろの)を、久しい以前汽車が横切(よこぎ)つた、其(そ)の時分(じぶん)の停車場(ステエション)の名残(なごり)である。
 路(みち)も纔(わずか)に通ずるばかり、枯れても未(ま)だ葎(むぐら)の結(むす)ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨(こさめ)を透かして、遠く其の寂(さび)しい状(さま)を視(なが)めながら、
「もし、お媼(ばあ)さん、彼処(あすこ)までは何(ど)のくらゐあります。」
 と尋ねたのは効々(かいがい)しい猟装束(かりしょうぞく)。顔容(かおかたち)勝(すぐ)れて清らかな少年で、土間(どま)へ草鞋穿(わらじばき)の脚(あし)を投げて、英国政府が王冠章の刻印(ごくいん)打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔(じゅうこう)は星の如きを、斜(ななめ)に古畳(ふるだたみ)の上に差置(さしお)いたが、恁(こ)う聞く中(うち)に、其の鳥打帽(とりうちぼう)を掻取(かきと)ると、雫(しずく)するほど額髪(ひたいがみ)の黒く軟(やわら)かに濡(ぬ)れたのを、幾度(いくたび)も払ひつゝ、太(いた)く野路(のじ)の雨に悩んだ風情(ふぜい)。
 縁側もない破屋(あばらや)の、横に長いのを二室(ふたま)にした、古び曲(ゆが)んだ柱の根に、齢(よわい)七十路(ななそじ)に余る一人の媼(おうな)、糸を繰(く)つて車をぶう/\、静(しずか)にぶう/\。
「然(そ)うぢやの、もの十七八町(ちょう)もござらうぞ、さし渡(わた)しにしては沢山(たんと)もござるまいが、人の歩行(ある)く路(みち)は廻り廻り蜒(うね)つて居るで、半里(はんり)の余(よ)もござりましよ。」と首を引込め、又揺出(ゆりだ)すやうにして、旧停車場(ステエション)の方(かた)を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、恁(こ)うやつて遠方のものに摺(こす)りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
 それから顔を上げ下(おろ)しをする度(たび)に、恒(つね)は何処(どこ)にか蔵(かく)して置くらしい、がツくり窪(くぼ)んだ胸を、伸(のば)し且(か)つ竦(すく)めるのであつた。
 素直に伸びたのを其のまゝ撫(な)でつけた白髪(しらが)の其(それ)よりも、尚(なお)多いのは膚(はだ)の皺(しわ)で、就中(なかんずく)最も深く刻まれたのが、脊(せ)を低く、丁(ちょう)ど糸車を前に、枯野(かれの)の末に、埴生(はにゅう)の小屋など引(ひっ)くるめた置物同然に媼を畳(たた)み込んで置くのらしい。一度胸を伸(のば)して後(うしろ)へ反(そ)るやうにした今の様子で見れば、瘠(や)せさらぼうた脊丈(せたけ)、此の齢(よわい)にしては些(ち)と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細(ほそ)いのがある背戸(せど)の榛(はん)の樹立(こだち)の他(ほか)に、珍しい枯木(かれき)に見えよう。肉は干(ひから)び、皮萎(しな)びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗(がんじょう)さ、渋色(しぶいろ)に亀裂(ひび)が入つて下塗(したぬり)の漆(うるし)で固めたやう、未(ま)だ/\目立つのは鼻筋の判然(きっぱり)と通つて居る顔備(かおぞなえ)と。
 黒ずんだが鬱金(うこん)の裏の附いた、はぎ/\の、之(これ)はまた美しい、褪(あ)せては居るが色々、浅葱(あさぎ)の麻(あさ)の葉、鹿子(かのこ)の緋(ひ)、国の習(ならい)で百軒から切(きれ)一(ひと)ツづゝ集めて継(つ)ぎ合す処(ところ)がある、其のちやん/\を着て、前帯(まえおび)で坐つた形で。
 彼(か)の古戦場を過(よぎ)つて、矢叫(やさけび)の音を風に聞き、浅茅(あさじ)が原(はら)の月影に、古(いにしえ)の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼(おうな)が六十年の昔を推(すい)して、世にも希(まれ)なる、容色(みめ)よき上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)としても差支(さしつかえ)はないと思ふ、何となく犯(おか)し難(がた)き品位があつた。其の尖(とんが)つた顋(あぎと)のあたりを、すら/\と靡(なび)いて通る、綿(わた)の筋の幽(かすか)に白きさへ、やがて霜(しも)になりさうな冷(つめた)い雨。
 少年は炉(ろ)の上へ両手を真直(まっすぐ)に翳(かざ)し、斜(ななめ)に媼の胸のあたりを窺(うかご)うて、
「はあ其では、何か、他(ほか)に通るものがあるんですか。」
 媼は見返りもしないで、真向(まっこう)正面に渺々(びょうびょう)たる荒野(あれの)を控へ、
「他(ほか)に通るかとは、何がでござるの。」
「否(いいえ)、今謂(い)つたぢやないか、人の通る路(みち)は廻り/\蜒(うね)つて居るつて。だから聞くんですが、他(ほか)に何か歩行(ある)きますか。」
「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐(きつね)も犬も通りませいで。霧(きり)がかゝりや、歩(ある)かうず、雲が下(おり)りや、走(はし)らうず、蜈蚣(むかで)も潜(もぐ)れば蝗(いなご)も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧(かえり)みて打微笑(うちほほえ)む。

        二

 此の口からなら、譬(たと)ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処(ところ)もなし、又然(そ)う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏(かつらぎし)、東京なる某(なにがし)学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱(ゆううつ)な病(やまい)にかゝり、日を経(ふ)るに従うて、色も、心も死灰(しかい)の如く、やがて石碑(いしぶみ)の下に形なき祭(まつり)を享(う)けるばかりになつたが、其の病の原因(もと)はと、渠(かれ)を能(よ)く知る友だちが密(ひそか)に言ふ、仔細あつて世を早(はよ)うした恋なりし人の、其の姉君(あねぎみ)なる貴夫人より、一挺(いっちょう)最新式の猟銃を賜(たま)はつた。が、爰(ここ)に差置(さしお)いた即是(すなわちこれ)。
 武器を参らす、郊外に猟などして、自(みずか)ら励まし給(たま)へ、聞くが如き其の容体(ようだい)は、薬も看護(みとり)も効(かい)あらずと医師のいへば。但(ただし)御身(おんみ)に恙(つつが)なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠(こ)めた手紙を添へて、両三日(にち)以前に御使者(ごししゃ)到来。
 凭(よ)りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍(そば)にこれを受取ると、額(ひたい)に手を加ふること頃刻(けいこく)にして、桂木は猛然として立つたのである。
 扨(さて)今朝(こんちょう)、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場(ステエション)で唯(ただ)一人(にん)下(お)り立つて、朝霧(あさぎり)の濃(こま)やかな野中(のなか)を歩(ほ)して、雨になつた午(ご)の時(とき)過ぎ、媼(おうな)の住居(すまい)に駈(か)け込んだまで、未(ま)だ嘗(かつ)て一度も煙を銃身に絡(から)めなかつた。
 桂木は其の病(や)まざる前(ぜん)の性質に復(ふく)したれば、貴夫人が情(なさけ)ある贈物に酬(むく)いるため――函嶺(はこね)を越ゆる時汽車の中で逢(あ)つた同窓の学友に、何処(どちら)へ、と問はれて、修善寺(しゅぜんじ)の方へ蜜月(みつづき)の旅と答へた――最愛なる新婚の婦(ふ)、ポネヒル姫の第一発は、仇(あだ)に田鴫(たしぎ)山鳩(やまばと)如きを打たず、願はくは目覚(めざま)しき獲物を提(ひっさ)げて、土産(みやげ)にしようと思つたので。
 時ならぬ洪水、不思議の風雨(ふうう)に、隙(ひま)なく線路を損(そこな)はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場(ステエション)を更(か)へた位、殊(こと)に桂木の一(いっ)家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々(しばしば)易(やす)からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野(あれの)を跋渉(ばっしょう)して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手(あいて)が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃(ねらいうち)で射(い)て取らうと言ふのであるから。
 霧も雲も歩行(ある)くと語つた、仔細ありげな媼(おうな)の言(ことば)を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋(わらじ)の紐(ひも)を解(と)きかける。
 油断はしないが俯向(うつむ)いたまゝ、
「私は又(また)不思議な物でも通るかと思つて悚然(ぞっ)とした、お媼(ばあ)さん、此様(こん)な処(ところ)に一人で居て、昼間だつて怖(おそろ)しくはないのですか。」
 桂木は疾(と)く媼の口の、炎でも吐(は)けよかしと、然(さ)り気(げ)なく誘ひかける。
 媼は額(ひたい)の上に綿(わた)を引いて、
「何が恐(おそろ)しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼(おおかみ)より雨漏(あまもり)が恐しいと言ふわいの。」
 と又(また)背を屈(かが)め、胸を張り、手でこするが如くにし、外(と)の方(かた)を覗(のぞ)いたが、
「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方(こちら)の方から雲が出て、そろ/\両方から歩行(あよ)びよつて、一所(ひとつ)になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄(としより)には何より恐しうござるわいの。」
「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中(そこらじゅう)へ染込(しみこ)んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼(ばあ)さん。」
「はい、御難儀(ごなんぎ)でござつたろ。」
「お邪魔(じゃま)ですが此処(ここ)を借ります。」
 桂木は足袋(たび)を脱ぎ、足の爪尖(つまさき)を取つて見たが、泥にも塗(まみ)れず、綺麗(きれい)だから、其のまゝ筵(むしろ)の上へ、ずいと腰を。
 たとひ洗足(せんそく)を求めた処(ところ)で、媼(おうな)は水を汲(く)んで呉(く)れたか何(ど)うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹(おざさ)を風が渡るかと……音につれて積る白糸(しらいと)。

        三

 桂木は濡(ぬ)れた上衣(うわぎ)を脱ぎ棄(す)てた、カラアも外(はず)したが、炉のふちに尚(なお)油断なく、
「あゝ、腹が空(す)いた。最(も)う/\降るのと溜(たま)つたので濡れ徹(とお)つて、帽子から雫(しずく)が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵(むしろ)が一枚ありや極楽、其処(そこ)で寝たいと思つたけれど、恁(こ)うしてお世話になつて雨露(あめつゆ)が凌(しの)げると、今度は虫が合点(がってん)しない、何(なん)ぞ食べるものはありませんか。」
「然(さ)ればなう、恐(おそろ)し気(げ)な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分(ころ)には、客も少々はござつたで、瓜(うり)なと剥(む)いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私(わし)が食(たべ)る分ばかり、其も黍(きび)を焚(た)いたのぢやほどに、迚(とて)もお口には合ふまいぞ。」
「否(いいえ)、飯(めし)は持つてます、何(ど)うせ、人里(ひとざと)のないを承知だつたから、竹包(たけづつみ)にして兵糧(ひょうろう)は持参ですが、お菜(さい)にするものがないんです、何か些(ちっ)と分けて貰(もら)ひたいと思ふんだがね。」
 媼(おうな)は胸を折つてゆるやかに打頷(うちうなず)き、
「それならば待たしやませ、塩(しょ)ツぱいが味噌漬(みそづけ)の香(こう)の物がござるわいなう。」
「待ちたまへ、味噌漬なら敢(あえ)てお手数(てすう)に及ぶまいと思ひます。」
 と手早(てばや)く笹(ささ)の葉を解(ほど)くと、硬(こわ)いのがしやつちこばる、包(つつみ)の端を圧(おさ)へて、草臥(くたび)れた両手をつき、畏(かしこま)つて熟(じっ)と見て、
「それ、言はないこツちやない、果して此の菜(さい)も味噌漬だ。お媼(ばあ)さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干(うめぼし)を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然(そ)うなのかね、」と顔を上げて又瞻(みまも)つたが、恁(かか)る相好(そうごう)の媼(おうな)を見たのは、場末の寄席(よせ)の寂(せき)として客が唯(ただ)二三の時、片隅(かたすみ)に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪(たきぎ)を背負(しょ)つて歩行(ある)いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。
 媼は皺(しわ)だらけの面(つら)の皺も動かさず、
「何(ど)うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層(いっそ)のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」
「然(そ)う、」とばかり見詰(みつ)めて居た。
 此時(このとき)気(け)だるさうにはじめて振向(ふりむ)き、
「あのまた霧の毒といふものは恐(おそろ)しいものでなう、お前様、今日は彼(あれ)が雨になつたればこそ可(よ)うござつた、ものの半日も冥土(よみじ)のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命(いのち)を取られいでから三月(みつき)四月(よつき)煩(わずら)うげな、此処(ここ)の霧は又格別(かくべつ)ぢやと言ふわいなう。」
「あの、霧が、」
「お客様、お前さま、はじめて此処(ここ)を歩行(ある)かつしやるや?」
 桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込(のみこ)み、
「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」
「然(そ)うぢやろ、然うぢやろ。」と媼(おうな)はまた頷(うなず)いたが、単(ただ)然(そ)うであらうではなく、正(まさ)に然(そ)うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。
「而(そ)して何かの、お前様其(そ)の鉄砲を打つて歩行(ある)かしやるでござるかの。」と糸を繰(く)る手を両方に開(ひら)いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は箸(はし)を置き、心で身構(みがまえ)をして、
「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨(こさめ)の色、孤家(ひとつや)の裡(うち)も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、凡(すべ)て枯野(かれの)に描かれた、幻の如き間(あいだ)に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く閃(きらめ)くまで磨ける鏡かと壁を射(い)て、弾込(たまごめ)したのがづツしり手応(てごたえ)。
 我ながら頼母(たのも)しく、
「何、まあね、何(ど)うぞこれを打つことのないやうにと、内々(ないない)祈つて居るんだよ。」
「其はまた何といふわけでござらうの。」と澄(すま)して、例の糸を繰(く)る、五体は悉皆(しっかい)、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃(しばらく)も手を休めず。
 驚破(すわ)といふ時、綿(わた)の条(すじ)を射切(いき)つたら、胸に不及(およばず)、咽喉(のんど)に不及(およばず)、玉(たま)の緒(お)は絶(た)えて媼は唯(ただ)一個(いっこ)、朽木(くちき)の像にならうも知れぬ。
 と桂木は心の裡(うち)。

        四

 構はず兵糧(ひょうろう)を使ひつゝ、
「だつてお媼(ばあ)さん、此の野原は滅多(めった)に人の通らない処(ところ)だつて聞いたからさ。」
「そりや最(も)う眺望(ながめ)というても池一つあるぢやござらぬ、纔(わずか)ばかりの違(ちがい)でなう、三島はお富士山(ふじさま)の名所ぢやに、此処(ここ)は恁(こ)う一目千里(ひとめせんり)の原なれど、何が邪魔(じゃま)をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」
「否(いいえ)さ、景色がよくないから遊山(ゆさん)に来(こ)ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中(のなか)へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」
「それはお客様、此処(ここ)といふ限(かぎり)はござるまいがなう、躓(つまず)けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我(けが)もせうず、打処(うちどころ)が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然(そ)う又(また)人のいふ処(ところ)へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」
 じろりと流盻(しりめ)に見ていつた。
 桂木はぎよつとしたが、
「理窟(りくつ)を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に逢(あ)つて、何か変つた話をして貰(もら)はう、見られるものなら見ようと思つて、遙々(はるばる)出向いて来たんだもの。人間の他(ほか)に歩行(ある)くものがあるといふから、扨(さて)こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて了(しま)ふし、活(い)かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我(けが)過失(あやまち)は所を定めないといふし、それぢや些(ちっ)とも張合(はりあい)がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」
 膝(ひざ)を進めて、瞳(ひとみ)を据(す)ゑ、
「私はね、お媼(ばあ)さん、風説(うわさ)を知りつゝ恁(こ)うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた処(ところ)、君は何だ、様子が宛然(まるで)野の主(ぬし)とでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々(ばかばか)しいと思ふだらうが、好事(ものずき)です、何(ど)うぞ一番(ひとつ)構はず云つて聞かしてくれ給(たま)へな。
 恁(こ)ういふと何かお妖(ばけ)の催促をするやうでをかしいけれど、焦(じ)れツたくツて堪(たま)らない。
 素(もと)より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺(はこね)を追はれた狼(おおかみ)だらう、今時(いまどき)詰(つま)らない妖者(ばけもの)が居てなりますか、それとも野伏(のぶせ)り山賊(やまだち)の類(たぐい)ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我(けが)過失(あやまち)だつたり、心の迷(まよい)ぐらゐなことは実は此方(こっち)から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方(こっち)はお媼(ばあ)さん、お前さんの姿を見てから、却(かえ)つて些(ち)と自分の意見が違つて来て、成程(なるほど)これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。
 お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商人(あきうど)で此の節(せつ)は立派に暮して居るけれど、若いうち一時(ひとしきり)困つたことがあつて、瀬戸(せと)のしけものを背負(しょ)つて、方々国々を売つて歩行(ある)いて、此の野に行暮(ゆきく)れて、其の時草(くさ)茫々(ぼうぼう)とした中に、五六本樹立(こだち)のあるのを目当に、一軒家へ辿(たど)り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋(なんじゅう)の次第を話して、一晩泊めて貰(もら)ふとね、快く宿をしてくれて、何(ど)うして何(ど)うして行暮れた旅商人(たびあきうど)如きを、待遇(もてな)すやうなものではない、銚子(ちょうし)杯(さかずき)が出る始末、少(わか)い女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏(べにうら)の絹布(けんぷ)の夜具(やぐ)、枕頭(まくらもと)で佳(い)い薫(かおり)の香(こう)を焚(た)く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、恁(こ)ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の通(とお)つたもんだから、夢なら覚めるなと一夜(ひとや)明かした迄は可(よ)かつたさうだが。
 翌日(あくるひ)になると帰さない、其晩(そのばん)女中が云ふには、お奥で館(やかた)が召しますつさ。
 其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は何(ど)うも何とも気高い美しい婦人(おんな)ださうだ。しかし何分(なにぶん)生胆(いきぎも)を取られるか、薬の中へ錬込(ねりこ)まれさうで、恐(こわ)さが先に立つて、片時も目を瞑(ねむ)るわけには行(ゆ)かなかつた。
 私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」

        五

 桂木は伸びて手首を蔽(おお)はんとする、襯衣(しゃつ)の袖(そで)を捲(ま)き上げたが、手も白く、戦(たたかい)を挑(いど)むやうではない優(おとな)しやかなものであつた、けれども、世に力あるは、却(かえ)つて恁(かか)る少年の意を決した時であらう。
「さあ、館(やかた)の心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も葎(むぐら)を分けて、ぎいと開(あ)け、障子も雨戸も開放(かいほう)して、真昼間(まっぴるま)、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、然(さ)も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の縁(えん)へふたつに別れて、二人の其の侍女(こしもと)が、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳数(たたみかず)十五畳(じょう)も敷けようといふ、広い座敷に唯(たった)一人(ひとり)。」
 折から炉の底にしよんぼりとする、掬(すく)ふやうにして手づから燻(いぶ)した落葉の中に二枚(ふたひら)ばかり荊(いばら)の葉の太(いた)く湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつも勢(いきおい)よくは焚(た)かぬさうで冷(つめた)い灰を、舐(な)めるやうにして、一(ひと)ツ蜒(うね)つて這(は)ひ上(あが)るのを、肩で乱して払ひながら、
「煙(けむ)い。其までは宛然(まるで)恁(こ)う、身体(からだ)へ絡(まつわ)つて、肩を包むやうにして、侍女(こしもと)の手だの、袖だの、裾(すそ)だの、屏風(びょうぶ)だの、襖(ふすま)だの、蒲団(ふとん)だの、膳(ぜん)だの、枕だのが、あの、所狭(ところせま)きまでといふ風であつたのが、不残(のこらず)ずツと引込んで、座敷の隅々(すみずみ)へ片着(かたづ)いて、右も左も見通しに、開放(あけはな)しの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。
 然(そ)うすると、急に秋風が身に染(し)みて、其の男はぶる/\と震へ出したさうだがね、寂閑(しんかん)として人(ひと)ツ児(こ)一人(ひとり)居さうにもない。
 夢か現(うつつ)かと思う位。」
 桂木は語りながら、自(みずか)ら其の境遇に在(あ)る如く、
「目を瞑(ねむ)つて耳を澄(すま)して居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、壁越(かべごし)に、琴(こと)の糸に風が渡つて揺れるやうな音で、細(ほそ)く、ひゆう/\と、お媼(ばあ)さん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。
 此の炉を一(ひと)ツ、恁(こ)うして爰(ここ)で聞いて居てさへ遠い処(ところ)に聞えるが、其(その)音が、幽(かすか)にしたとね。
 其時(そのとき)茫乎(ぼんやり)と思ひ出したのは、昨夜(ゆうべ)の其の、奥方だか、姫様(ひいさま)だか、それとも御新姐(ごしんぞ)だか、魔だか、鬼だか、お閨(ねや)へ召しました一件のお館(やかた)だが、当座は唯(ただ)赫(かっ)と取逆上(とりのぼせ)て、四辺(あたり)のものは唯(ただ)曇つた硝子(ビイドロ)を透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。
 緋の袴(はかま)を穿(は)いても居なけりや、掻取(かいどり)を着ても届ない、たゞ、輝々(きらきら)した蒔絵(まきえ)ものが揃(そろ)つて、あたりは神々(こうごう)しかつた。狭い一室(ひとま)に、束髪(たばねがみ)の引(ひっ)かけ帯(おび)で、ふつくりした美(い)い女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた蝋燭(ろうそく)の灯影(ほかげ)に、横顔で、旅商人(たびあきうど)、私の其の縁続きの美男を見向(みむ)いて、
(主(ぬし)のあるものですが、一所(いっしょ)に死んで下さいませんか。)――と唯(ただ)一言(ひとこと)いつたのださうだ。
 いや、最(も)う六十になるが忘れないとさ、此の人は又然(そ)ういふよ、其れから此方(こっち)、都にも鄙(ひな)にも、其れだけの美女を見ないツて。
 さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ心持(こころもち)に違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、何(ど)うも未(ま)だ浮世(うきよ)に未練があつたから、這(は)ふやうにして、跫音(あしおと)を盗んで出て、脚絆(きゃはん)を附けて草鞋(わらじ)を穿(は)くまで、誰も遮(さえぎ)る者はなかつたさうだけれど、それが又、敵の囲(かこい)を蹴散(けち)らして遁(に)げるより、工合(ぐあい)が悪い。
 帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた呪詛(まじない)のやうな言(ことば)も凄(すご)し、一足(ひとあし)棟(むね)を離れるが最後、岸破(がば)と野が落ちて地(じ)の底へ沈まうも知れずと、爪立足(つまだてあし)で、びく/\しながら、それから一生懸命に、野路(のみち)にかゝつて遁(に)げ出した、伊豆の伊東へ出る間道(かんどう)で、此処(ここ)を放れたまで何の障(さわ)りもなかつたさうで。
 たゞ、些(ち)と時節が早かつたと見えて、三島の山々から一(ひと)なだれの茅萱(ちがや)が丈(たけ)より高い中から、ごそごそと彼処此処(あっちこっち)、野馬(のうま)が顔を出して人珍しげに瞶(みつ)めては、何処(どこ)へか隠れて了(しま)ふのと、蒼空(あおぞら)だつたが、ちぎれ/\に雲の脚(あし)の疾(はや)いのが、何(ど)んな変事でも起らうかと思はれて、活(い)きた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。
 それだもの、お媼(ばあ)さん。」

        六

「もし、そんなことが、真個(ほんとう)にある処(ところ)なら、生命(いのち)がけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。
 何しに来たつて、お前さんが咎(とが)めるやうに聞くから言ふんだが、何も其の何(ど)うしよう、恁(こ)うしようといふ悪気(わるぎ)はない。
 好事(ものずき)さ、好事(ものずき)で、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を見聞(みき)くにつけては、どんな又対手(あいて)に不心得があつて、危険(けんのん)でないとも限らぬから、其処(そこ)で恁(こ)う、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。
 台場(だいば)の停車場(ステエション)から半道(はんみち)ばかり、今朝(けさ)此(この)原へかゝつた時は、脚絆(きゃはん)の紐(ひも)も緊乎(しっかり)と、草鞋(わらじ)もさツ/\と新しい踏心地(ふみごこち)、一面に霧のかゝつたのも、味方の狼煙(のろし)のやうに勇(いさま)しく踏込(ふみこ)むと、さあ、一(ひと)ツ一(ひと)ツ、萱(かや)にも尾花にも心を置いて、葉末(はずえ)に目をつけ、根を窺(うかが)ひ、まるで、美しい蕈(きのこ)でも捜す形。
 葉ずれの音がざわ/\と、風が吹く度(たび)に、遠くの方で、
(主(ぬし)あるものですが、)とでも囁(ささや)いて居るやうで、頼母(たのも)しいにつけても、髑髏(しゃれこうべ)の形をした石塊(いしころ)でもないか、今にも馬の顔(つら)が出はしないかと、宝の蔓(つる)でも手繰(たぐ)る気で、茅萱(ちがや)の中の細路(ほそみち)を、胸騒(むなさわぎ)がしながら歩行(ある)いたけれども、不思議なものは樹(き)の根にも出会(でっくわ)さない、唯(ただ)、彼(あ)のこはれ/″\の停車場(ステエション)のあとへ来た時、雨露(あめつゆ)に曝(さら)された十字の里程標(りていひょう)が、枯草(かれくさ)の中に、横になつて居るのを見て、何となく荒野(あれの)の中の磔柱(はりつけばしら)ででもあるやうに思つた。
 おゝ、然(そ)ういへば沢山(たんと)古い昔ではない、此の国の歴々(れきれき)が、此処(ここ)に鷹狩(たかがり)をして帰りがけ、秋草(あきぐさ)の中に立つて居た媚(なまめ)かしい婦人(おんな)の、あまりの美しさに、予(かね)ての色好(いろごの)み、うつかり見惚(みと)れるはずみに鞍(くら)を外(はず)して落馬した、打処(うちどころ)が病(やまい)のもとで、あの婦人(おんな)ともを為(さ)せろ、と言(い)ひ死(じに)に亡くなられた。
 あとでは魔法づかひだ、主殺(しゅころ)しと、可哀相に、此の原で磔(はりつけ)にしたとかいふ。
 日本一(にっぽんいち)の無法な奴等(やつら)、かた/″\殿様のお伽(とぎ)なればと言つて、綾錦(あやにしき)の粧(よそおい)をさせ、白足袋(しろたび)まで穿(は)かせた上、犠牲(いけにえ)に上げたとやら。
 南無三宝(なむさんぼう)、此の柱へ血が垂れるのが序開(じょびら)きかと、其(その)十字の里程標の白骨(はっこつ)のやうなのを見て居る中(うち)に、凭(よっ)かゝつて居た停車場(ステエション)の朽(く)ちた柱が、風もないに、身体(からだ)の圧(おし)で動くから、鉄砲を取直(とりなお)しながら後退(あとじさ)りに其処(そこ)を出た。
 雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。小糠雨(こぬかあめ)の細(こまか)いのが、衣服(きもの)の上から毛穴を徹(とお)して、骨に染(し)むやうで、天窓(あたま)は重くなる、草鞋(わらじ)は切れる、疲労(つかれ)は出る、雫(しずく)は垂(た)る、あゝ、新しい筵(むしろ)があつたら、棺(かん)の中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしに駈(か)け込んだが、一呼吸(ひといき)して見ると、何(ど)うだらう。」
 炉の火はパツと炎尖(ほさき)を立てて、赤く媼(おうな)の額(ひたい)を射(い)た、瞻(みまも)らるゝは白髪(しらが)である、其皺(そのしわ)である、目鼻立(めはなだち)である、手の動くのである、糸車の廻るのである。
 恁(か)くても依然として胸を折つて、唯(ただ)糸に操(あやつ)らるゝ如き、媼の状(さま)を見るにつけても、桂木は膝(ひざ)を立てて屹(きっ)となつた。
「失礼だが、お媼(ばあ)さん、場所は場所だし、末枯(うらがれ)だし、雨は降る、普通(ただ)ものとは思へないぢやないか。霧が雲がと押問答(おしもんどう)、謎(なぞ)のかけツこ見たやうなことをして居るのは、最(も)う焦(じ)れつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の滅入(めい)る、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。
 それとも人が来たのが煩(うるさ)くツて、癪(しゃく)に障(さわ)つたら、さあ、手取り早く何(ど)うにかするんだ、牙(きば)にかけるなり、炎を吐(は)くなり、然(そ)うすりや叶(かな)はないまでも抵抗(てむかい)しよう、善にも悪にも恁(こ)うして居ちや、じり/\して胸が苦しい、じみ/\雨で弱らせるのは、第一何(なに)にしろ卑怯の到(いた)りだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、」と微笑を泛(うか)べて串戯(じょうだん)らしく、身悶(みもだえ)をして迫りながら、桂木の瞳(ひとみ)は据(すわ)つた。
 血気(けっき)に逸(はや)る少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼は嘗(な)めるやうにして、しよぼ/\と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)き、
「お客様もう降つて居(い)はせぬがなう。」
 桂木一驚(いっきょう)を喫(きっ)して、
「や何時(いつ)の間(ま)に、」

        七

「炉の中の荊(いばら)の葉が、かち/\と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」
 いかにも拭(ぬぐ)つたやうに野面(のづら)一面。媼(おうな)の頭(つむり)は白さを増したが、桂木の膝(ひざ)のあたりに薄日(うすび)が射(さ)した、但(ただ)件(くだん)の停車場(ステエション)に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山(ひがねやま)、鶴巻山(つるまきやま)、十国峠(じっこくとうげ)を頂いた、三島の連山の裾(すそ)が直(ただち)に枯草(かれくさ)に交(まじわ)るあたり、一帯の霧が細流(せせらぎ)のやうに靉靆(たなび)いて、空も野も幻の中に、一際(ひときわ)濃(こま)やかに残るのである。
 あはれ座右(ざう)のポネヒル一度(ひとたび)声を発するを、彼処(かしこ)に人ありて遙(はるか)に見よ、此処(ここ)に恰(あたか)も其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、
 と、桂木は心も勇(いさ)んで、
「むゝ、雨は歇(や)んだ、けれどもお媼(ばあ)さんの姿は未(ま)だ矢張(やっぱり)人間だよ。」と物狂(ものくる)はしく固唾(かたず)を飲んだ。
 此の時媼、呵々(からから)と達者(たっしゃ)に笑ひ、
「はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたと謂(い)はつしやるにつけ、何(ど)うかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるが可(よ)いわいなう、それぢやが、私(わし)を早(は)や矢張(やっぱり)怪しいものぢやと思うてござつては、何とも安堵(あんど)出来悪(にく)かろ、可(よ)いわいの。
 もつともぢや、お主(ぬし)さへ命がけで入つてござつたといふ処(ところ)、私(わし)がやうな起居(たちい)も不自由な老寄(としより)が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山(おばすてやま)というて、年寄(としより)を棄(す)てた名所さへある世の中ぢや、私(わたし)が世を棄(すて)て一人住んで居(お)つたというて、何で怪しう思はしやる。少(わか)い世捨人(よすてびと)な、これ、坊さまも沢山(たんと)あるではないかいの、まだ/\、死んだ者に信女(しんにょ)や、大姉(だいし)居士(こじ)なぞいうて、名をつける習(ならい)でござらうが、何で又、其の旅商人(たびあきうど)に婦人(おんな)が懸想(けそう)したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を伸(のば)して、皺(しわ)だらけの大(おおき)な手を、薄いよれ/\の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手(ゆんで)は尚(なお)細長い綿(わた)から糸を吐(は)かせたまゝ、乳(ちち)のあたりに捧げて居た。
「第一まあ、先刻(さっき)から恁(こ)うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰(く)る手を下にも置かない、茶を一つ汲(く)んで呉(く)れず、焚火(たきび)だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼(ばあ)さん。」
「これは/\、お前様は、何と、働きもの、愛想(あいそ)のないものを、変化(へんげ)ぢやと思はつしやるか。」
「むゝ。」
「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛(かわい)らしいお方ぢやでの、私(わし)も内端(うちわ)のもてなしぢや、茶も汲(く)んで飲(あが)らうぞ、火も焚(た)いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」
「…………」桂木は返す言(ことば)は出なかつたが、恁(こ)う謂(い)はるれば謂はれるほど、却(かえ)つて怪しさが増すのであつたが。
 爰(ここ)にいたりて自然の勢(いきおい)、最早与(く)みし易(やす)からぬやうに覚(おぼ)ゆると同時に、肩も竦(すく)み、膝(ひざ)もしまるばかり、烈(はげ)しく恐怖の念が起つて、単(ひとえ)に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯(おく)れが生じて、迚(とて)も敵(てき)し難(がた)しと、断念をするとともに、張詰(はりつ)めた気も弛(ゆる)み、心も挫(くじ)けて、一斉(いっとき)にがつくりと疲労(つかれ)が出た。初陣(ういじん)の此の若武者(わかむしゃ)、霧に打たれ、雨に悩み、妖婆(ようば)のために取つて伏せられ、忍(しのび)の緒(お)をプツツリ切つて、
「最(も)う何(ど)うでも可(よ)うございます、私はふら/\して堪(たま)らない、殺されても可(い)いから少時(しばらく)爰(ここ)で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」
「おう/\可(い)いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮(きづかい)をさつしやることはないに、私(わし)が山猫の化けたのでも。」
「え。」
「はて魔の者にした処(ところ)が、鬼神(きじん)に横道(おうどう)はないといふ、さあ/\かたげて寝(やす)まつしやれいの/\。」
 桂木はいふがまゝに、兎(と)も角(かく)も横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある処(ところ)へ転げざまに、倒れて寝ようとすると、
「や、しばらく待たつしやれ。」

        八

「お前様一枚脱いでなり、濡(ぬ)れたあとで寒うござろ。」
「震へるやうです、全く。」
「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張(やっぱり)内端(うちわ)ぢや、お前様立つて取らつしやれ、何(なに)なう、私(わし)がなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸(ちょっと)でも此の糸を切るが最後、お前様の身が危(あぶな)いで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又(ま)た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習(ならい)ぢや。よりもかゝらず、蜘蛛(くも)の糸より弱うても、私(わし)が居るから可(よ)いわいの、さあ/\立つて取らつしやれ、被(か)けるものはの、他(ほか)にない、あつても気味が悪からうず、少(わか)い人には丁度(ちょうど)持つて来い、枯野(かれの)に似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。
 あゝ、いや、其の蓑(みの)ではないぞの、屏風(びょうぶ)を退(の)けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向(ふりむ)く方(かた)。
 桂木は、古びた雨漏(あまもり)だらけの壁に向つて、衝(つ)と立つた、唯(と)見れば一領(いちりょう)、古蓑(ふるみの)が描ける墨絵(すみえ)の滝の如く、梁(うつばり)に掛(かか)つて居たが、見てはじめ、人の身体(からだ)に着るのではなく、雨露(あめつゆ)を凌(しの)ぐため、破家(あばらや)に絡(まと)うて置くのかと思つた。
 蜂(はち)の巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条(いくすじ)にもなつて此処(ここ)からも潜(もぐ)つて壁の外へ染(にじ)み出す、破屏風(やれびょうぶ)を取(とり)のけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりと梁(はり)を放(はな)れる。
 下に、絶壁の磽※(「石+角」、第3水準1-89-6)(こうかく)たる如く、壁に雨漏の線が入つた処(ところ)に、すらりとかゝつた、目覚(めざめ)るばかり色好(いろよ)き衣(きぬ)、恁(かか)る住居(すまい)に似合ない余りの思ひがけなさに、媼(おうな)の通力(つうりき)、枯野(かれの)忽(たちま)ち深山(みやま)に変じて、こゝに蓑の滝、壁の巌(いわお)、もみぢの錦(にしき)かと思つたので。
 桂木は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つて、
「お媼(ばあ)さん。」
「おゝ、其ぢや、何と丁(ちょう)どよからうがの、取つて掻巻(かいまき)にさつしやれいなう。」
 裳(もすそ)は畳(たたみ)につくばかり、細く褄(つま)を引合(ひきあわ)せた、両袖(りょうそで)をだらりと、固(もと)より空蝉(うつせみ)の殻なれば、咽喉(のど)もなく肩もない、襟(えり)を掛けて裏返しに下げてある、衣紋(えもん)は梁(うつばり)の上に日の通さぬ、薄暗い中(うち)に振仰(ふりあお)いで見るばかりの、丈(たけ)長(なが)き女の衣(きぬ)、低い天井から桂木の背(せな)を覗(のぞ)いて、薄煙(うすけむり)の立迷(たちまよ)ふ中に、一本(ひともと)の女郎花(おみなえし)、枯野(かれの)に彳(たたず)んで淋(さみ)しさう、然(しか)も何(なん)となく活々(いきいき)して、扱帯(しごき)一筋(ひとすじ)纏(まと)うたら、裾(すそ)も捌(さば)かず、手足もなく、俤(おもかげ)のみがすら/\と、炉の縁(ふち)を伝ふであらう、と桂木は思はず退(すさ)つた。
「大事ない/\、袷(あわせ)ぢやけれどの、濡(ぬ)れた上衣(うわぎ)よりは増(まし)でござろわいの、主(ぬし)も分つてある、麗(あでやか)な娘のぢやで、お前様に殆(ちょう)ど可(よ)いわ、其主(そのぬし)もまたの、お前様のやうな、少(わか)い綺麗(きれい)な人と寝たら本望(ほんもう)ぢやろ、はゝはゝはゝ。」
 腹蔵(ふくぞう)なく大笑(おおわらい)をするので、桂木は気を取直(とりなお)して、密(そっ)と先(ま)づ其の袂(たもと)の端に手を触れた。
 途端に指の尖(さき)を氷のやうな針で鋭く刺さうと、天窓(あたま)から冷(ひや)りとしたが、小袖(こそで)はしつとりと手にこたへた、取り外(はず)し、小脇に抱く、裏が上になり、膝(ひざ)のあたり和(やわら)かに、褄(つま)しとやかに袷の裾なよ/\と畳に敷いて、襟は仰向(あおむ)けに、譬(たとえ)ば胸を反(そ)らすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。
 さて見れば、鼠縮緬(ねずみちりめん)の裾廻(すそまわし)、二枚袷(にまいあわせ)の下着と覚(おぼ)しく、薄兼房(うすけんぼう)よろけ縞(じま)のお召縮緬(めしちりめん)、胴抜(どうぬき)は絞つたやうな緋の竜巻、霜(しも)に夕日の色染(そ)めたる、胴裏(どううら)の紅(くれない)冷(つめた)く飜(かえ)つて、引けば切れさうに振(ふり)が開(あ)いて、媼(おうな)が若き時の名残(なごり)とは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと媚(なまめ)かしい。
 熟(じっ)と見るうちに我にもあらず、懐しく、床(ゆか)しく、いとしらしく、殊(こと)にあはれさが身に染(し)みて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に引(ひっ)かぶる気になつた、ものの情(なさけ)を知るものの、恁(か)くて妖魔の術中に陥(おちい)らうとは、いつとはなしに思ひ思はず。

        九

「はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、何(ど)うぢや、少しは落着(おちつ)かしやつたか、安堵(あんど)して休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、疲労(くたびれ)が治つたら、早く帰らつしやれ。
 お前さま先刻(さき)のほど、血相(けっそう)をかへて謂(い)はしつた、何か珍しいことでもあらうかと、生命(いのち)がけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、此処等(ここら)人の来(こ)ぬ土地(ところ)へ、珍しいお客様ぢや。
 私(わし)がの、然(そ)うやつてござるあひだ、お伽(とぎ)に土産話(みやげばなし)を聞かせましよ。」
 と下にも置かず両の手で、静(しずか)に糸を繰(く)りながら、
「他(ほか)の事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。」
 桂木は何時(いつ)かうつら/\して居たが、ぱつちりと涼(すずし)い目を開(あ)けた。
「其は恁(こ)うぢやよ、一月(ひとつき)の余(よ)も前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、都(みやこ)風俗(ふうぞく)の、少(わか)い美しい嬢様が、唯(たっ)た一人(ひとり)景色を見い/\、此の野へござつて私(わし)が処(とこ)へ休ましやつたが、此の奥にの、何(なに)とも名の知れぬ古い社(やしろ)がござるわいの、其処(そこ)へお参詣(まいり)に行くといはつしやる。
 はて此の野は其のお宮の主(ぬし)の持物で、何をさつしやるも其の御心(みこころ)ぢや、聞かつしやれ。
 どんな願事(ねがいごと)でもかなふけれど、其かはり生命(いのち)を犠(にえ)にせねばならぬ掟(おきて)ぢやわいなう、何と又(また)世の中に、生命(いのち)が要(い)らぬといふ願(ねがい)があろか、措(お)かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。
 いえ/\大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。
 いや最(も)う、何(なに)も彼(か)も御存じで、婆(ばば)なぞが兎(と)や角(こ)ういふも恐多(おそれおお)いやうな御人品(ごじんぴん)ぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩行(ある)いたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其処(そこ)で帯を解(と)かつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長襦袢(ながじゅばん)の上へ袷(あわせ)一(ひと)ツ、身軽になつて、すら/\草の中を行かつしやる、艶々(つやつや)としたおつむりが、薄(すすき)の中へ隠れたまで送つてなう。
 それからは茅萱(ちがや)の音にも、最(も)うお帰(かえり)かと、待てど暮らせど、大方例(いつも)のにへにならつしやつたのでござらうわいなう。私(わし)がやうな年寄(としより)にかけかまひはなけれどもの、何(なん)につけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る処(ところ)ではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。可(い)いかの、可(い)いかの。」と間(あい)を措(お)いて、緩(ゆる)く引張つてくゝめるが如くにいふ、媼(おうな)の言(ことば)が断々(たえだえ)に幽(かすか)に聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木(とめぎ)の薫(かおり)に又恍惚(うっとり)。
 優しい暖かさが、身に染(し)みて、心から、草臥(くたび)れた肌を包むやうな、掻巻(かいまき)の情(なさけ)に半(なか)ば眼(まなこ)を閉ぢた。
 驚破(すわ)といへば、射(い)て落(おと)さんず心も失(う)せ、はじめの一念(いちねん)も疾(と)く忘れて、野(の)にありといふ古社(ふるやしろ)、其の怪(あやしみ)を聞かうともせず、目(ま)のあたりに車を廻すあからさまな媼(おうな)の形も、其のまゝ舁(か)き移すやうに席(むしろ)を彼方(あなた)へ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も犠(にえ)の仔細も、媼の素性(すじょう)も、野の状(さま)も、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の裡(うち)。
 却(かえ)つて爰(ここ)に人あるが如く、横に寝た肩に袖(そで)がかゝつて、胸にひつたりとついた胴抜(どうぬき)の、媚(なまめ)かしい下着の襟(えり)を、口を結んで熟(じっ)と見て、噫(ああ)、我が恋人は他(た)に嫁(か)して、今は世に亡(な)き人となりぬ。
 我も生命(いのち)も惜(おし)まねばこそ、恁(かか)る野にも来(きた)りしなれ、何(ど)うなりとも成るやうになつて止(や)め! 之(これ)も犠(にえ)になつたといふ、あはれな記念(かたみ)の衣(ころも)哉(かな)、としきりに果敢(はかな)さに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟許(えりもと)へ、颯(さっ)と冷(つめた)い風。
 枯野(かれの)の冷(ひえ)が一幅(ひとはば)に細く肩の隙(すき)へ入つたので、しつかと引寄せた下着の背(せな)、綿(わた)もないのに暖(あたたか)く二(に)の腕(うで)へ触れたと思ふと、足を包んだ裳(もすそ)が揺れて、絵の婦人(おんな)の、片膝(かたひざ)立てたやうな皺(しわ)が、袷(あわせ)の縞(しま)なりに出来て、しなやかに美しくなつた。
 ※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)と見ると、女の俤(おもかげ)。

        十

 眉(まゆ)長く、瞳(ひとみ)黒く、色雪の如きに、黒髪の鬢(びん)乱れ、前髪の根も分(わか)るゝばかり鼻筋(はなすじ)の通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白歯(しらは)も見えた涙の顔に、得(え)も謂(い)はれぬ笑(えみ)を含んで、ハツとする胸に、媼(おうな)が糸を繰(く)る音とともに幽(かすか)に響いて、
「主(ぬし)のあるものですが、一所(いっしょ)に死んで下さいませんか。」と声あるにあらず、無きにあらず、嘗(かつ)て我が心に覚えある言(こと)を引出すやうに確(たしか)に聞えた。
 耳がぐわツと。
 小屋が土台から一揺(ひとゆれ)揺れたかと覚えて、物凄(ものすさまじ)い音がした。
「姦婦(かんぷ)」と一喝(いっかつ)、雷(らい)の如く鬱(うつ)し怒(いか)れる声して、外(と)の方(かた)に呼ばはるものあり。此の声柱(はしら)を動かして、黒燻(くろくすぶり)の壁、其の蓑(みの)の下、袷(あわせ)をかけてあつた処(ところ)、件(くだん)の巌形(いわおがた)の破目(やれめ)より、岸破(がば)と※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)倒(どうだお)しに裡(うち)へ倒れて、炉の上へ屏風(びょうぶ)ぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が交(まじ)つて※(ぱっ)[#「火+發」、93-9]と砂煙(すなけむり)が上(あが)つた。
 ために、媼の姿が一時(いちじ)消えるやうに見えなくなつた時である。
 桂木は弾(はじ)き飛ばされたやうに一間(けん)ばかり、筵(むしろ)を彼方(あなた)へ飛び起きたが、片手に緊乎(しっかり)と美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに遑(いとま)あらず。
 兎角(とかく)の分別(ふんべつ)も未(ま)だ出ぬ前、恐(おそろし)い地震だと思つて、真蒼(まっさお)になつて、棟(むね)を離れて遁(のが)れようとする。
 門口(かどぐち)を塞(ふさ)いだやうに、眼を遮(さえぎ)つたのは毒霧(どくぎり)で。
 彼(か)の野末(のずえ)に一流(ひとながれ)白旗(しらはた)のやうに靡(なび)いて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠野(こうや)、真白な綿(わた)で包まれたのは、いま遁(に)げようとすると殆(ほとん)ど咄嗟(とっさ)の間(かん)の事(こと)。
 然(しか)も此の霧の中に、野面(のづら)を蹴(け)かへす蹄(ひづめ)の音、九(ここの)ツならず十(とお)ならず、沈んで、どうと、恰(あたか)も激流地(ち)の下より寄せ来(く)る気勢(けはい)。
「遁(にが)すな。」
「女!」
「男!」
 と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又引返(ひっかえ)して唯(と)壁の崩(くずれ)を見ると、一団(ひとかたまり)の大(おおい)なる炎の形に破れた中は、おなじ枯野(かれの)の目も遙(はるか)に彼方(かなた)に幾百里(いくひゃくり)といふことを知らず、犇々(ひしひし)と羽目(はめ)を圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。
 朽葉色(くちばいろ)、灰、鼠(ねずみ)、焦茶(こげちゃ)、たゞこれ黄昏(たそがれ)の野の如き、霧の衣(ころも)を纏(まと)うたる、いづれも抜群の巨人である。中に一人(いちにん)真先(まっさき)かけて、壁の穴を塞(ふさ)いで居たのが、此の時、掻潜(かいくぐ)るやうにして、恐(おそろし)い顔を出した、面(めん)の大(おおき)さ、梁(はり)の半(なかば)を蔽(おお)うて、血の筋(すじ)走る金(きん)の眼(まなこ)にハタと桂木を睨(ね)めつけた。
 思はず後居(しりい)に腰を突く、膝(ひざ)の上に真俯伏(まうつぶ)せ、真白な両手を重ねて、わなゝく髷(まげ)の根、頸(うなじ)さへ、あざやかに見ゆる美人の襟(えり)を、誰(た)が手ともなく無手(むんず)と取つて一拉(ひとひし)ぎ。
「あれ。」
 と叫んだ声ばかり、引断(ひっちぎ)れたやうに残つて、袷(あわせ)はのけざまにずる/\と畳(たたみ)の上を引摺(ひきず)らるゝ、腋(わき)あけのあたり、ちら/\と、残(のこ)ンの雪も消え、目も消えて、裾(すそ)の端が飜(ひるが)へつたと思ふと、倒(さかしま)に裏庭へ引落(ひきおと)された。
「男は、」
「男は、」
 と七(なな)ツ八(やつ)ツ入乱(いりみだ)れてけたゝましい跫音(あしおと)が駈(か)けめぐる。
「叱(しっ)!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の傍(かたわら)に引添(ひきそ)うたのは、再び目に見えた破家(あばらや)の媼(おうな)であつた、果(はた)せるかな、糸は其の手に無かつたのである。恁(かか)る時桂木の身は危(あや)ふしとこそ予言したれ、幸(さいわい)に怪しき敵の見出(みいだ)し得(え)ぬは、由(よし)ありげな媼が、身を以て桂木を庇(かば)ふ所為(せい)であらう。桂木はほツと一息(ひといき)。
「何処(どこ)へ遁(に)げた。」
「今此処(ここ)に、」
「其処(そこ)で見た。」
 と魂消(たまぎ)ゆる哉(かな)、詈(ののし)り交(かわ)すわ。

        十一

 恁(か)くてしばらくの間(あいだ)といふものは、轡(くつわ)を鳴らす音、蹄(ひづめ)の音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑々(ざつざつ)として物騒(ものさわ)がしく、此の破家(あばらや)の庭の如き、唯(ただ)其処(そこ)ばかりを劃(くぎ)つて四五本の樹立(こだち)あり、恁(かか)る広野(ひろの)に停車場(ステエション)の屋根と此の梢(こずえ)の他(ほか)には、草より高く空を遮(さえぎ)るもののない、其の辺(あたり)の混雑さ、多人数(たにんず)の踏(ふみ)しだくと見えて、敷満(しきみ)ちたる枯草(かれくさ)、伏(ふ)し、且(か)つ立ち、窪(くぼ)み、又倒れ、しばらくも休(や)まぬ間々(あいだあいだ)、目まぐるしきばかり、靴、草鞋(わらんじ)の、樺(かば)の踵(かかと)、灰汁(あく)の裏、爪尖(つまさき)を上に動かすさへ見えて、異類異形(いぎょう)の蝗(いなご)ども、葉末(はずえ)を飛ぶかとあやまたるゝが、一個(ひとつ)も姿は見えなかつたが、やがて、叱(しっ)!叱(しっ)!と相伝(あいつた)ふる。
 しばらくして、
「静まれ。」といふのが聞えると、ひツそりした。
 枯草(かれくさ)も真直(まっすぐ)になつて、風死(し)し、そよとも靡(なび)かぬ上に、あはれにかゝつたのは彼(か)の胴抜(どうぬき)の下着である。
「其奴(そいつ)縛(くく)せ。」
「縛(しば)れ、縛れ。」と二三度ばかり言(ことば)をかはしたと思ふと、早(は)や引上げられ、袖(そで)を背(そびら)へ、肩が尖(とが)つて、振(ふり)の半(なか)ばを前へ折つて伏せたと思ふと、膝(ひざ)のあたりから下へ曲げて掻(か)い込んだ、後(うしろ)に立つた一本(ひともと)の榛(はん)の樹(き)に、荊(いばら)の実の赤き上に、犇々(ひしひし)と縛(いまし)められたのである。
「さあ、言へ、言へ。」
「殿様の御意(ぎょい)だ、男を何処(どこ)へ秘(かく)した。」
「さあ、言つちまへ。」
 縛(くく)されながら戦(わなな)くばかり。
「そこ退(の)け、踏んでくれう。」と苛(いら)てる音調、草が飛々(とびとび)大跨(おおまた)に寝(ね)つ起(お)きつしたと見ると、縞(しま)の下着は横ざまに寝た。
 艶(えん)なる褄(つま)がばらりと乱れて、たふれて肩を動かしたが、
「あゝれ。」
「業畜(ごうちく)、心に従はぬは許して置く、鉄(くろがね)の室(むろ)に入れられながら、毛筋(けすじ)ほどの隙間(すきま)から、言語道断の不埒(ふらち)を働く、憎い女、さあ、男をいつて一所(いっしょ)に死ね……えゝ、言はぬか何(ど)うだ。」踏躙(ふみにじ)る気勢(けはい)がすると、袖の縺(もつれ)、衣紋(えもん)の乱れ、波に揺(ゆら)るゝかと震ふにつれて、霰(あられ)の如く火花に肖(に)て、から/\と飛ぶは、可傷(いたむべし)、引敷(ひっし)かれ居(い)る棘(とげ)を落ちて、血汐(ちしお)のしぶく荊の実。
 桂木は拳(こぶし)を握つて石になつた、媼(おうな)の袖は柔かに渠(かれ)を蔽(おお)うて引添(ひきそ)ひ居る。
「殿、殿。」
 と呼んで、
「其では謂(い)はうとても謂はれませぬ、些(ち)と寛(くつろ)げて遣(つか)はさりまし。」
「可(よ)し、さあ、何(ど)うだ、言へ。何、知らぬ、知らぬ※(疑問符感嘆符、1-8-77) 黙れ。
 男を慕(した)ふ女の心はいつも男の居所(いどころ)ぢや哩(わ)、疾(はや)く、口をあけて、さあ、吐(は)かぬか、えゝ、業畜(ごうちく)。」
「あツ、」とまた烈(はげ)しい婦人(おんな)の悲鳴、此の際(とき)には、其の掻(もが)くにつれて、榛(はん)の木の梢(こずえ)の絶えず動いたのさへ留(や)んだので。
 桂木は塞(ふさ)がうと思ふ目も、鈴で撃つたやうになつて瞬(またたき)も出来ぬのであつた。
 稍(やや)あつて、大跨(おおまた)の足あとは、衝(つ)と逆(ぎゃく)に退(しさ)つたが、すツくと立向(たちむか)つた様子があつて、切つて放したやうに、
「打て!」
「殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。」
「いづれ殺す、活(い)けては置かぬが、男の居所(いどころ)を謂ふまでは、活(いか)さぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。笞(しもと)の音が長く続いて在所(ありか)を語る声になるまで。」
「はツ。」
 四五人で答へたらしい、荊(いばら)の実は又頻(しきり)に飛ぶ、記念(かたみ)の衣(きぬ)は左右より、衣紋(えもん)がはら/\と寄つては解(と)け、解(ほぐ)れては結(むす)ぼれ、恰(あたか)も糸の乱るゝやう、翼裂けて天女(てんにょ)の衣(ころも)、紛々(ふんふん)として大空より降(ふ)り来(く)るばかり、其の胸の反(そ)る時や、紅裏(こううら)颯(さっ)と飜(ひるがえ)り、地に襟(えり)のうつむき伏(ふ)す時、縞(しま)はよれ/\に背(せな)を絞つて、上に下に七転八倒(しってんばっとう)。
 俤(おもかげ)は近く桂木の目の前に、瞳(ひとみ)を据(す)ゑた目も塞(ふさ)がず、薄紫(うすむらさき)に変じながら、言はじと誓ふ口を結んで、然(しか)も惚々(ほれぼれ)と、男の顔を見詰(みつむ)るのがちらついたが、今は恁(こ)うと、一度踏みこたへてずり外(はず)した、裳(もすそ)は長く草に煽(あお)つて、あはれ、口許(くちもと)の笑(えみ)も消えんとするに、桂木は最(も)うあるにもあられず、片膝(かたひざ)屹(きっ)と立てて、銃を掻取(かいと)る、袖(そで)を圧(おさ)へて、
「密(そっ)と、密と、密と。」
 低声(こごえ)に畳(たた)みかけて媼(おうな)が制した。
 譬(たと)ひ此の弾丸山を砕いて粉(こ)にするまでも、四辺(しへん)の光景単身(みひとつ)で敵(てき)し難(がた)きを知らぬでないから、桂木は呼吸(いき)を引いて、力なく媼の胸に潜(ひそ)んだが。
 其時(そのとき)最後の痛苦の絶叫、と見ると、苛(さいな)まるゝ婦人(おんな)の下着、樹の枝に届くまで、すツくりと立つたので、我を忘れて突立(つった)ち上(あが)ると、彼方(かなた)はハタと又僵(たお)れた、今は皮(かわ)や破れけん、枯草(かれくさ)の白き上へ、垂々(たらたら)と血が流れた。
「此処(ここ)に居る。」と半狂乱、桂木はつゝと出た。
「や、」「や、」と声をかけ合せると、早(は)や、我が身体(からだ)は宙に釣(つ)られて、庭の土に沈むまで、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)とばかり。
 桂木は投落(なげおと)されて横になつたが、死を極(きわ)めて起返(おきかえ)るより先に、これを見たか婦人の念力、袖(そで)の折(おり)目の正しきまで、下着は起きて、何となく、我を見詰(みつ)むる風情(ふぜい)である。
「静まれ、無体(むたい)なことを為(し)申(もう)す勿(な)。」
 姿は見えぬが巨人の声にて、
「客人(きゃくじん)何も謂(い)はぬ。
 唯(ただ)御身達(おみたち)のやうなものは、活(い)けて置かぬが夥間(なかま)の掟(おきて)だ。」
 桂木は舌しゞまりて、
「…………」ものも言はれず。
「斬(き)つ了(ちま)へ! 眷属等(けんぞくども)。」
 きらり/\と四振(よふり)の太刀(たち)、二刀(ふたふり)づゝを斜(ななめ)に組んで、彼方(かなた)の顋(あぎと)と、此方(こなた)の胸、カチリと鳴つて、ぴたりと合せた。
 桂木は切尖(きっさき)を咽喉(のど)に、剣(つるぎ)の峰からあはれなる顔を出して、うろ/\媼(おうな)を求めたが、其の言(ことば)に従はず、故(ことさ)らに死地(しち)に就(つ)いたを憎んだか、最(も)う影も形も見えず、推量と多く違(たが)はず、家も床(ゆか)も疾(とく)に消えて、唯(ただ)枯野(かれの)の霧の黄昏(たそがれ)に、露(つゆ)の命の男女(ふたり)也(なり)。目を瞑(ねむ)ると、声を掛け、
「しかし客人、死を惜(おし)む者は殺さぬが又掟(おきて)だ、予(あらかじ)め聞かう、主(ぬし)ある者と恋を為遂(しと)げるため、死を覚悟か。」
 稍(やや)激しく。
「婦人(おんな)は?」
「はい。」と呼吸(いき)の下で答へたが、頷(うなず)くやうにして頭(つむり)を垂れた。
「可(よ)し。」
 改めて、
「御身(おんみ)は。」
 諾(だく)と答へようとした、謂(い)ふまでもない、此(この)美人は譬(たと)ひ今は世に亡(な)き人にもせよ、正(まさ)に自分の恋人に似て居るから。
 けれども、譬(たと)ひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、可怪(おかし)、枯野(かれの)の妖魔が振舞(ふるまい)、我とともに死なんといふもの、恐らく案山子(かかし)を剥(は)いだ古蓑(ふるみの)の、徒(いたずら)に風に煽(あお)るに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげに頭(かしら)を掉(ふ)つた。
「殿、不実な男であります、婦人(おんな)は覚悟をしましたに、生命(いのち)を助かりたいとは、あきれ果てた未練者(みれんもの)、目の前でずた/\に婦人(おんな)を殺して見せつけてくれませう。」
「待て。」
「は。」
「客人が、世を果敢(はかな)んで居るうちは、我々の自由であるが、一度(ひとたび)心を入交(いれか)へて、恁(かか)る処(ところ)へ来るなどといふ、無分別(むふんべつ)さへ出さぬに於ては、神仏(しんぶつ)おはします、父君(ちちぎみ)、母君(ははぎみ)おはします洛陽(らくよう)の貴公子、むざとしては却(かえ)つて冥罰(みょうばつ)が恐(おそろ)しい。婦人(おんな)は斬(き)れ! 然(しか)し客人は丁寧にお帰し申せ。」
「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しく扶(たす)け起したものがある、其が身に接した時、湿つた木(こ)の葉(は)の薫(かおり)がした。
 腰のあたり、膝(ひざ)のあたり、跪(ひざまず)いて塵(ちり)を払ひくれる者もあつた。
 銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、弱々(よわよわ)と取つて提(ひっさ)げて、胸を抱いて見返ると、縞(しま)の膝を此方(こなた)にずらして、紅(くれない)の衣(きぬ)の裏、ほのかに男を見送つて、分(わかれ)を惜(おし)むやうであつた。
 桂木は倒れようとしたが、踵(くびす)をめぐらし、衝(つ)と背後向(うしろむき)になつた、霧の中から大きな顔を出したのは、逞(たくま)しい馬で。
 これを片手で、かい退(の)けて、それから足を早めたが、霧が包んで、蹄(ひづめ)の音、とゞろ/\と、送るか、追ふか、彼(か)の停車場(ステエション)のあたりまで、四間(けん)ばかり間(あわい)を置いてついて来た。
 来た時のやうに立停(たちどま)つて又、噫(ああ)、妖魔にもせよ、と身を棄(す)てて一所(いっしょ)に殺されようかと思つた。途端に騎馬が引返(ひきかえ)した。其の間(あわい)遠ざかるほど、人数(にんず)を増(ま)して、次第に百騎、三百騎、果(はて)は空吹く風にも聞え、沖を大浪(おおなみ)の渡るにも紛(まご)うて、ど、ど、ど、ど、どツと野末(のずえ)へ引いて、やがて山々へ、木精(こだま)に響いたと思ふと止(や)んだ。
 最早、天地、処(ところ)を隔(へだ)つたやうだから、其のまゝ、銃孔(じゅうこう)を高くキラリと揺(ゆ)り上げた、星一(ひと)ツ寒く輝く下に、路(みち)も迷はず、夜(よる)になり行く狭霧(さぎり)の中を、台場(だいば)に抜けると点燈頃(ひともしごろ)。
 山家(やまが)の茶屋の店さきへ倒れたが、火の赫(かっ)と起つた、囲炉裡(いろり)に鉄網(てつあみ)をかけて、亭主、女房、小児(こども)まじりに、餅(もち)を焼いて居る、此の匂(におい)をかぐと、何(ど)ういふものか桂木は人間界へ蘇生(よみがえ)つたやうな心持(こころもち)がしたのである。
 汽車がついたと見えて、此処(ここ)まで聞ゆるは、のんきな声、お弁当は宜(よろ)し、お鮨(すし)はいかゞ。……
了

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
   1903(明治36)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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