あらすじ
八歳の少年が、隣家の美しい娘・お辻の家に泊まることになります。お辻の母親は、通夜のため家を空け、少年は一人でお辻と夜を過ごすことに。しかし、その夜、少年は奇妙な出来事に遭遇します。薬屋の女主人と思しき謎めいた女性が、お辻の部屋に現れ、怪しげな香りを漂わせながら、お辻に近づいていきます。その女性は、お辻の美しい黒髪を掴み、何かを囁きながら、瓶から赤い液体を注ぎかけます。少年は恐怖に震え、目を閉じますが、再び目を覚ますと、お辻の姿は変わり果て、部屋には薄暗い光が灯っていました。一体、その夜、何が起こったのでしょうか。
        一

 此(こ)の不思議なことのあつたのは五月中旬(なかば)、私が八歳(やっつ)の時、紙谷町(かみやまち)に住んだ向うの平家(ひらや)の、お辻(つじ)といふ、十八の娘、やもめの母親と二人ぐらし。少しある公債を便りに、人仕事(ひとしごと)などをしたのであるが、つゞまやかにして、物綺麗(ものぎれい)に住んで、お辻も身だしなみ好(よ)く、髪形(かみかたち)を崩さず、容色(きりょう)は町々の評判、以前五百石取(こくどり)の武家(ぶけ)、然(しか)るべき品(ひん)もあつた、其家(そのいえ)へ泊りに行つた晩の出来事で。家(うち)も向ひ合せのことなり、鬼ごツこにも、※(「石+車」、第3水準1-89-5)(きしゃご)はじきにも、其家(そこ)の門口(かどぐち)、出窓の前は、何時(いつ)でも小児(こども)の寄合(よりあ)ふ処(ところ)。次郎だの、源(げん)だの、六(ろく)だの、腕白(わんぱく)どもの多い中に、坊(ぼう)ちやん/\と別ものにして可愛(かわい)がるから、姉はなし、此方(こなた)からも懐(なつ)いて、ちよこ/\と入つては、縫物(ぬいもの)を交返(まぜかえ)す、物差(ものさし)で刀の真似、馴(なれ)ツこになつて親(したし)んで居たけれども、泊るのは其夜(そのよ)が最初(はじめて)。
 西の方(かた)に山の見ゆる町の、上(かみ)の方(かた)へ遊びに行つて居たが、約束を忘れなかつたから晩方(ばんがた)に引返(ひっかえ)した。之(これ)から夕餉(ゆうげ)を済(すま)してといふつもり。
 小走(こばし)りに駆けて来ると、道のほど一町(ちょう)足(た)らず、屋(や)ならび三十ばかり、其(そ)の山手(やまて)の方に一軒の古家(ふるいえ)がある、丁(ちょう)ど其処(そこ)で、兎(うさぎ)のやうに刎(は)ねたはずみに、礫(こいし)に躓(つまず)いて礑(はた)と倒れたのである。
 俗にいふ越後は八百八後家(はっぴゃくやごけ)、お辻が許(とこ)も女ぐらし、又海手(うみて)の二階屋も男気(おとこげ)なし、棗(なつめ)の樹(き)のある内も、男が出入(ではいり)をするばかりで、年増(としま)は蚊帳(かや)が好(すき)だといふ、紙谷町一町の間(あいだ)に、四軒、いづれも夫なしで、就中(なかんずく)今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。
 何処(いずこ)も同一(おなじ)、雪国の薄暗い屋造(やづくり)であるのに、廂(ひさし)を長く出した奥深く、煤(すす)けた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝(さら)された上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘(めい)だか誰(たれ)も知つたものはない。藍(あい)を入れた字のあとは、断々(きれぎれ)になつて、恰(あたか)も青い蛇(へび)が、渦(うずま)き立つ雲がくれに、昇天をする如く也(なり)。
 別に、風邪薬(かざぐすり)を一貼(ちょう)、凍傷(しもやけ)の膏薬(こうやく)一貝(ひとかい)買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙(あけぼの)、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉(ろ)の榾(ほだ)の消(き)ゆる時、夜中にフト目の覚(さ)むる折など、町中(まちなか)を籠(こ)めて芬々(ぷんぷん)と香(にお)ふ、湿(しめ)ぽい風は薬屋の気勢(けはい)なので。恐らく我国の薬種(やくしゅ)で無からう、天竺(てんじく)伝来か、蘭方(らんぽう)か、近くは朝鮮、琉球(りゅうきゅう)あたりの妙薬に相違ない。然(そ)う謂(い)へば彼(あ)の房々(ふさふさ)とある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目前(まのあたり)、解(と)いたら裾(すそ)に靡(なび)くであらう。常に其(それ)を、束(たば)ね髪(がみ)にしてカツシと銀(しろがね)の簪(かんざし)一本、濃く且(か)つ艶(つやや)かに堆(うずたか)い鬢(びん)の中から、差覗(さしのぞ)く鼻の高さ、頬(ほお)の肉しまつて色は雪のやうなのが、眉(まゆ)を払つて、年紀(とし)の頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。
 内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小児(こども)の気にも、暮方(くれがた)には前を通るさへ駆け出すばかりにする。真昼間(まっぴるま)、向う側から密(そっ)と透(すか)して見ると、窓も襖(ふすま)も閉切(しめき)つて、空屋に等しい暗い中に、破風(はふ)の隙(ひま)から、板目(いため)の節(ふし)から、差入(さしい)る日の光一筋(ひとすじ)二筋(ふたすじ)、裾広(すそひろ)がりにぱつと明(あかる)く、得(え)も知れぬ塵埃(ちりほこり)のむら/\と立つ間(あいだ)を、兎(と)もすればひら/\と姿の見える、婦人(おんな)の影。
 転んで手をつくと、はや薬の匂(におい)がして膚(はだえ)を襲つた。此の一町(いっちょう)がかりは、軒(のき)も柱も土も石も、残らず一種の香(か)に染(し)んで居る。
 身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処(ここ)はと思ふと、怪しいものに捕(とら)へられた気がして、わつと泣き出した。

        二

「あれ危(あぶな)い。」と、忽(たちま)ち手を伸(の)べて肩をつかまへたのは彼(か)の婦人(おんな)で。
 其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(ふりもぎ)らうとして身をあせつて、仔雀(こすずめ)の羽(は)うつ風情(ふぜい)。
 怪しいものでも声は優しく、
「おゝ、膝(ひざ)が擦剥(すりむ)けました、薬をつけて上げませう。」と左手(ゆんで)には何(ど)うして用意をしたらう、既に薫(かおり)の高いのを持つて居た。
 守宮(やもり)の血で二(に)の腕(うで)に極印(ごくいん)をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何(ど)うしよう。
「厭(いや)だ、厭だ。」と、しやにむに身悶(みもだえ)して、声高(こわだか)になると、
「強情だねえ、」といつたが、漸(やっ)と手を放し、其のまゝ駆出(かけだ)さうとする耳の底へ、
「今夜、お辻さんの処(ところ)へ泊りに行(ゆ)くね。」
 といふ一聯(いちれん)の言(ことば)を刻(きざ)んだのを、……今に到つて忘れない。
 内へ帰ると早速、夕餉(ゆうげ)を済(すま)し、一寸(ちょいと)着換(きか)へ、糸、犬、錨(いかり)、などを書いた、読本(どくほん)を一冊、草紙(そうし)のやうに引提(ひっさ)げて、母様(おっかさん)に、帯の結目(むすびめ)を丁(トン)と叩(たた)かれると、直(すぐ)に戸外(おもて)へ。
 海から颯(さっ)と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ/\、をばさん、辻(つう)ちやんと呼びざまに、からりと開(あ)けて飛込(とびこ)んだ。
 人仕事(ひとしごと)に忙(いそがわ)しい家の、晩飯の支度は遅く、丁(ちょう)ど御膳(ごぜん)。取附(とっつき)の障子を開(あ)けると、洋燈(ランプ)の灯(あかし)も朦朧(もうろう)とするばかり、食物(たべもの)の湯気が立つ。
 冬でも夏でも、暑い汁(つゆ)の好(すき)だつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀(わん)を持つたまゝ、ほてつた顔をして、
「おや、おいで。」
「大層おもたせぶりね、」とお辻は箸箱(はしばこ)をがちやりと云はせる。
 母親もやがて茶碗の中で、さら/\と洗つて塗箸(ぬりばし)を差置(さしお)いた。
 手で片頬(かたほ)をおさへて、打傾(うちかたむ)いて小楊枝(こようじ)をつかひながら、皿小鉢(さらこばち)を寄せるお辻を見て、
「あしたにすると可(い)いやね、勝手へ行つてたら坊(ぼう)ちやんが淋(さび)しからう、私は直(すぐ)に出懸(でか)けるから。」
「然(そ)うねえ。」
「可(い)いよ、可(い)いよ、構(かま)やしないや、独(ひとり)で遊んでら。」と無雑作(むぞうさ)に、小さな足で大胡坐(おおあぐら)になる。
「ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。」
「大人(おとな)しいね。感心、」と頭を撫(な)でる手つきをして、
「どれ、其(それ)では、」楊枝を棄(す)てると、やつとこさ、と立ち上つた。
 お辻が膳(ぜん)を下げる内に、母親は次の仏間(ぶつま)で着換(きか)へる様子、其処(そこ)に箪笥(たんす)やら、鏡台やら。
 最一(もひと)ツ六畳が別に戸外(おもて)に向いて居て、明取(あかりとり)が皆(みんな)で三間(げん)なり。
 母親はやがて、繻子(しゅす)の帯を、前結びにして、風呂敷包(ふろしきづつみ)を持つて顕(あらわ)れた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈(たけ)も至つて低く、顔容(かおかたち)も小造(こづくり)な人で、髪も小さく結(ゆ)つて居た。
「それでは、お辻や。」
「あい、」と、がちや/\いはせて居た、彼方(かなた)の勝手で返事をし、襷(たすき)がけのまゝ、駆けて来て、
「気をつけて行らつしやいましよ。」
「坊(ぼっ)ちやん、緩(ゆっく)り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可(いけ)ませんよ、何(ど)うも御苦労様なことツたら、」
 とあとは独言(ひとりごと)、框(かまち)に腰をかけて、足を突出(つきだ)すやうにして下駄(げた)を穿(は)き、上へ蔽(おっ)かぶさつて、沓脱越(くつぬぎごし)に此方(こちら)から戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ/\と出て行つた。渠(かれ)は些(ち)と遠方をかけて、遠縁のものの通夜(つや)に詣(まい)つたのである。其がために女(むすめ)が一人だからと、私を泊(と)めたのであつた。

        三

 枕に就(つ)いたのは、良(やや)ほど過ぎて、私の家(うち)の職人衆が平時(いつも)の湯から帰る時分。三人づれで、声高(こわだか)にものを言つて、笑ひながら入つた、何(ど)うした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又笑声(わらいごえ)がして、其から寂然(ひっそり)。
 戸外(おもて)の方は騒がしい、仏間(ぶつま)の方(かた)を、とお辻はいつたけれども其方(そっち)を枕にすると、枕頭(まくらもと)の障子一重(ひとえ)を隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩(たたき)の泉水(せんすい)があつて、空は同一(おなじ)ほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降込(ふりこ)むし、水が溜(たま)つて濡(ぬ)れて居るのに、以前女髪結(おんなかみゆい)が住んで居て、取散(とりちら)かした元結(もっとい)が化(な)つたといふ、足巻(あしまき)と名づける針金に似た黒い蚯蚓(みみず)が多いから、心持(こころもち)が悪くつて、故(わざ)と外を枕にして、並んで寝たが、最(も)う夏の初めなり、私には清らかに小掻巻(こがいまき)。
 寝る時、着換(きか)へて、と謂(い)つて、女(むすめ)の浴衣(ゆかた)と、紅(あか)い扱帯(しごき)をくれたけれども、角兵衛獅子(かくべえじし)の母衣(ほろ)ではなし、母様(おっかさん)のいひつけ通り、帯を〆(し)めたまゝで横になつた。
 お辻は寒さをする女(むすめ)で、夜具(やぐ)を深く被(か)けたのである。
 唯(と)顔を見合せたが、お辻は思出(おもいだ)したやうに、莞爾(にっこり)して、
「さつき、駆出(かけだ)して来て、薬屋の前でころんだのね、大(おおき)な形(なり)をして、をかしかつたよ。」
「呀(や)、復(また)見て居たの、」と私は思はず。……
 之(これ)は此の春頃から、其まで人の出入(ではいり)さへ余りなかつた上(かみ)の薬屋が方(かた)へ、一人(にん)の美少年が来て一所(いっしょ)に居る、女主人(おんなあるじ)の甥(おい)ださうで、信濃(しなの)のもの、継母(ままはは)に苛(いじ)められて家出をして、越後なる叔母(おば)を便(たよ)つたのだと謂(い)ふ。
 此のほどから黄昏(たそがれ)に、お辻が屋根へ出て、廂(ひさし)から山手(やまて)の方(ほう)を覗(のぞ)くことが、大抵日毎(ひごと)、其は二階の窓から私も見た。
 一体裏に空地はなし、干物(ほしもの)は屋根でする、板葺(いたぶき)の平屋造(ひらやづくり)で、お辻の家は、其真中(そのまんなか)、泉水のある処(ところ)から、二間梯子(にけんばしご)を懸けてあるので、悪戯(いたずら)をするなら小児(こども)でも上下(あがりおり)は自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手拭(てぬぐい)一筋(ひとすじ)棹(さお)に懸(かか)つて居る時には限らない、恰(あたか)も山の裾(すそ)へかけて紙谷町は、だら/\のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透見(すきみ)をするのだと、内の職人どもが言(ことば)を、小耳(こみみ)にして居るさへあるに、先刻(さっき)転んだことを、目(ま)のあたり知つて居るも道理こそ。
 呀(や)、復(また)見て居たの……といつたは其の所為(せい)で、私は何の気もなかつたのであるが、之(これ)を聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧(あか)らめ、
「厭(いや)な!」といつて、口許(くちもと)まで天鵞絨(びろうど)の襟(えり)を引(ひっ)かぶつた。
「そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻(つう)ちやんは転んだのを知つてるし、彼(あ)のをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆(みんな)知つて居ら、をかしいな。」

        四

「え!」と慌(あわただ)しく顔を出して、まともに向直(むきなお)つて、じつと見て、
「今夜泊ることを知つて居ました?」
「あゝ、整(ちゃん)と然(そ)う言つたんだもの。」
 お辻は美しい眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。燈火(ともしび)の影暗く、其の顔寂(さみ)しう、
「恐(おそろ)しい人だこと、」といひかけて、再び面(おもて)を背(そむ)けると、又深々(ふかぶか)と夜具(やぐ)をかけた。
「辻(つう)ちやん。」
「…………」
「辻(つう)ちやんてば、」
「…………」
「よう。」
 こんな約束ではなかつたのである、俊徳丸(しゅんとくまる)の物語のつゞき、それから手拭(てぬぐい)を藪(やぶ)へ引いて行つた、踊(おどり)をする三(さん)といふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰(つま)らない、寂(さび)しい、心細い、私は帰らうと思つた。丁(ちょう)ど其時(そのとき)、どんと戸を引いて、かたりと鎖(じょう)をさした我家(わがや)の響(ひびき)。
 胸が轟(とどろ)いて掻巻(かいまき)の中で足をばた/\したが、堪(たま)らなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開(あ)いて耳を澄(すま)すと、物音は聞えないで、却(かえっ)て戸外(おもて)なる町が歴然(ありあり)と胸に描かれた、暗(やみ)である。駆けて出て我家(わがや)の門(かど)へ飛着(とびつ)いて、と思ふに、夜(よ)も恁(こ)う更(ふ)けて、他人(ひと)の家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜寐(ね)つきに聞く職人が湯から帰る跫音(あしおと)も、向うと此方(こちら)、音にも裏表(うらおもて)があるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情(なさけ)なくなつて、枕頭(まくらもと)に下(おろ)した戸外(おもて)から隔ての蔀(しとみ)が、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。
 ものの懸念さに、母様(おっかさん)をはじめ、重吉(じゅうきち)も、嘉蔵(かぞう)も呼立(よびた)てる声も揚げられず、呼吸(いき)さへ高くしてはならない気がした。
 密(そっ)と見れば、お辻はすや/\と糸が揺れるやうに幽(かすか)な寐息(ねいき)。
 これも何者かに命ぜられて然(し)かく寐(ね)入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復(また)横になつて、足を屈(かが)めて、目を塞(ふさ)いだ。
 けれども今しがた、お辻が(恐(おそろ)しい人だこと、)といつた時、其の顔色とともに灯(あかし)が恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電(いなびかり)でもするかの如く、恐る/\目をあけて見ると、最(も)う真暗(まっくら)、灯(あかり)はいつの間(ま)にか消えて居る。
 はツと驚いて我ながら、自分の膚(はだ)に手を触れて、心臓(むね)をしつかと圧(おさ)へた折から、芬々(ぷんぷん)として薫(にお)つたのは、橘(たちばな)の音信(おとずれ)か、あらず、仏壇の香(こう)の名残(なごり)か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂(におい)であつた。
 しかも梅の影がさして、窓がぽつと明(あかる)くなる時、縁(えん)に蚊遣(かやり)の靡(なび)く時、折に触れた今までに、つい其夜(そのよ)の如く香(か)の高かつた事はないのである。
 瓶(びん)か、壺(つぼ)か、其の薬が宛然(さながら)枕許(まくらもと)にでもあるやうなので、余(あまり)の事に再び目をあけると、暗(くらやみ)の中に二枚の障子。件(くだん)の泉水(せんすい)を隔てて寝床の裾(すそ)に立つて居るのが、一間(いっけん)真蒼(まっさお)になつて、桟(さん)も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
 見る/\裡(うち)に、べら/\と紙が剥(は)げ、桟が吹(ふ)ツ消(け)されたやうに、ありのまゝで、障子が失(う)せると、羽目(はめ)の破目(やぶれめ)にまで其の光が染(し)み込んだ、一坪の泉水を後(うしろ)に、立顕(たちあらわ)れた婦人(おんな)の姿。
 解(と)き余る鬢(びん)の堆(うずたか)い中に、端然として真向(まむき)の、瞬(またた)きもしない鋭い顔は、正(まさ)しく薬屋の主婦(あるじ)である。
 唯(と)見る時、頬(ほお)を蔽(おお)へる髪のさきに、ゆら/\と波立(なみだ)つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭(はだかろうそく)の蒼(あお)い光を放つのを、左手(ゆんで)に取つてする/\と。

        五

 其の裳(もすそ)の触(ふ)るゝばかり、すツくと枕許に突立(つった)つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸(いき)を殺した、顔も冷(つめと)うなるまでに、室(ま)の内を隈(くま)なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚(なまめ)いた声して、
「腕白(わんぱく)、先刻(さっき)はよく人の深切(しんせつ)を無にしたね。」
 私は石になるだらうと思つて、一思(ひとおもい)に窘(すく)んだのである。
「したが私の深切を受ければ、此の女(むすめ)に不深切になる処(ところ)。感心にお前、母様(おっかさん)に結んで頂いた帯を〆(し)めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚(おうよう)に笑つた。姐御(あねご)真実(まったく)だ、最(も)う堪(たま)らぬ。
 途端に人膚(ひとはだ)の気勢(けはい)がしたので、咽喉(のど)を噛(かま)れたらうと思つたが、然(そ)うではなく、蝋燭が、敷蒲団(しきぶとん)の端と端、お辻と並んで合せ目の、畳(たたみ)の上に置いてあつた。而(そう)して婦人(おんな)は膝(ひざ)をついて、のしかゝるやうにして、鬢(びん)の間(あい)から真白な鼻で、お辻の寐(ね)顔の半(なかば)夜具(やぐ)を引(ひっ)かついで膨らんだ前髪の、眉(まゆ)のかゝり目のふちの稍(やや)曇つて見えるのを、じつと覗込(のぞきこ)んで居るのである。おゝ、あはれ、小(ささ)やかに慎(つつ)ましい寐姿は、藻脱(もぬけ)の殻か、山に夢がさまよふなら、衝戻(つきもど)す鐘も聞えよ、と念じ危(あや)ぶむ程こそありけれ。
 婦人(おんな)は右手(めて)を差伸(さしのば)して、結立(ゆいたて)の一筋(ひとすじ)も乱れない、お辻の高島田を無手(むず)と掴(つか)んで、づツと立つた。手荒さ、烈(はげ)しさ。元結(もとゆい)は切れたから、髪のずるりと解(と)けたのが、手の甲(こう)に絡(まつ)はると、宙に釣(つる)されるやうになつて、お辻は半身(はんしん)、胸もあらはに、引起(ひきおこ)されたが、両手を畳に裏返して、呼吸(いき)のあるものとは見えない。
 爾時(そのとき)、右手(めて)に黒髪を搦(から)んだなり、
「人もあらうに私の男に懸想(けそう)した。さあ、何(ど)うするか、よく御覧。」
 左手(ゆんで)の肱(ひじ)を鍵形(かぎなり)に曲げて、衝(つ)と目よりも高く差上(さしあ)げた、掌(たなそこ)に、細長い、青い、小さな瓶(びん)あり、捧げて、俯向(うつむ)いて、額(ひたい)に押当(おしあ)て、
「呪詛(のろい)の杉より流れし雫(しずく)よ、いざ汝(なんじ)の誓(ちかい)を忘れず、目(ま)のあたり、験(しるし)を見せよ、然(さ)らば、」と言つて、取直(とりなお)して、お辻の髪の根に口を望ませ、
「あの美少年と、容色(きりょう)も一対(いっつい)と心上(こころあが)つた淫奔女(いたずらもの)、いで/\女の玉(たま)の緒(お)は、黒髪とともに切れよかし。」
 と恰(あたか)も宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯(さっ)とかゝつて、千筋(ちすじ)の紅(くれない)溢(あふ)れて、糸を引いて、ねば/\と染(にじ)むと思ふと、丈(たけ)なる髪はほつりと切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土気色(つちけいろ)の頬(ほお)を蒲団(ふとん)に埋(うず)めた。
 玉の緒か、然(さ)らば玉の緒は、長く婦人(おんな)の手に奪はれて、活(い)きたる如く提(ひっさ)げられたのである。
 莞爾(かんじ)として朱(しゅ)の唇の、裂けるかと片頬笑(かたほえ)み、
「腕白(わんぱく)、膝(ひざ)へ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女(むすめ)は殺せたものを、夜(よ)が明けるまで黙つて寐(ね)なよ。」といひすてにして、細腰(さいよう)楚々(そそ)たる後姿(うしろすがた)、肩を揺(ゆす)つて、束(つか)ね髱(たぼ)がざわ/\と動いたと見ると、障子の外。
 蒼(あお)い光は浅葱幕(あさぎまく)を払つたやうに颯(さっ)と消えて、襖(ふすま)も壁も旧(もと)の通り、燈(ともしび)が薄暗く点(つ)いて居た。
 同時に、戸外(おもて)を山手(やまて)の方(かた)へ、からこん/\と引摺(ひきず)つて行く婦人(おんな)の跫音(あしおと)、私はお辻の亡骸(なきがら)を見まいとして掻巻(かいまき)を被(かぶ)つたが、案外かな。
 抱起(だきおこ)されると眩(まばゆ)いばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨夜(ゆうべ)のお辻で、高島田も其まゝ、早(は)や朝の化粧(けわい)もしたか、水の垂(た)る美しさ。呆気(あっけ)に取られて目も放さないで目詰(みつ)めて居ると、雪にも紛(まが)ふ頸(うなじ)を差(さし)つけ、くツきりした髷(まげ)の根を見せると、白粉(おしろい)の薫(かおり)、櫛(くし)の歯も透通(すきとお)つて、
「島田がお好(すき)かい、」と唯(ただ)あでやかなものであつた。私は家に帰つて後(のち)も、疑(うたがい)は今に解(と)けぬ。
 お辻は十九で、敢(あえ)て不思議はなく、煩(わずら)つて若死(わかじに)をした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚然(ぞっ)としたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。
了

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「天地人」
   1901(明治34)年1月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。