あらすじ
時、現代の初冬。画工が、府下郊外の原野を、酔いどれ歩きでやってきます。彼は、美術展で落選した絵を背負い、落胆と疲れの色を漂わせ、子供たちの無邪気な遊びを見て、かつての自分のように、と心を痛めます。そして、子供たちと不思議な遊びを始めますが、やがて、暗闇の中で、黒衣の烏の姿が……。子供たちの唄が響き、不思議な光景が繰り広げられ、画工は深い眠りに落ちていきます。
時―――現代、初冬。
場所――府下郊外の原野。
人物――画工。侍女(烏の仮装したる)。貴夫人。老紳士。少紳士。小児五人。――別に、三羽の烏(侍女と同じ扮装)。
小児一 やあ、停車場(ステエション)の方の、遠くの方から、あんなものが遣(や)つて来たぜ。
小児二 何だい/\。
小児三 あゝ、大(おおき)なものを背負(しょ)つて、蹌踉々々(よろよろ)来るねえ。
小児四 影法師まで、ぶら/\して居るよ。
小児五 重いんだらうか。
小児一 何だ、引越(ひっこし)かなあ。
小児二 構ふもんか、何だつて。
小児三 御覧よ、脊(せな)よりか高い、障子見たやうなものを背負(しょ)つてるから、凧(たこ)が歩行(ある)いて来るやうだ。
小児四 糸をつけて揚げる真似エして遣(や)らう。
小児五 遣れ/\、おもしろい。
凧を持つたのは凧を上げ、独楽(こま)を持ちたるは独楽を廻す。手にものなき一人(いちにん)、一方に向ひ、凧の糸を手繰(たぐ)る真似して笑ふ。
画工 (枠張(わくばり)のまゝ、絹地(きぬじ)の画(え)を、やけに紐(ひも)からげにして、薄汚(うすよご)れたる背広の背に負ひ、初冬(はつふゆ)、枯野の夕日影にて、あか/\と且(か)つ寂(さみ)しき顔。酔(よ)へる足どりにて登場)……落第々々、大落第(おおらくだい)。(ぶらつく体を杖(ステッキ)に突掛(つっか)くる状(さま)、疲切(つかれき)つたる樵夫(きこり)の如し。しばらくして、叫ぶ)畜生(ちくしょう)、状(ざま)を見やがれ。
声に驚き、且(か)つ活(い)ける玩具(おもちゃ)の、手許(てもと)に近づきたるを見て、糸を手繰りたる小児(こども)、衝(つ)と開(ひら)いて素知(そし)らぬ顔す。
画工、其(そ)の事には心付(こころづ)かず、立停(たちど)まりて嬉戯(きぎ)する小児等(しょうにら)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)す。
よく遊んでるな、あゝ、羨(うらやま)しい。何(ど)うだ。皆(みんな)、面白いか。
小児等(こどもら)、彼の様子を見て忍笑(しのびわらい)す。中に、糸を手繰りたる一人(いちにん)。
小児三 あゝ、面白かつたの。
画工 (管(くだ)をまく口吻(くちぶり))何、面白かつた。面白かつたは不可(いか)んな。今の若さに。……小児(こども)をつかまへて、今の若さも変だ。(笑ふ)はゝゝは、面白かつたは心細い。過去(すぎさ)つた事のやうで情(なさけ)ない。面白いと云へ。面白がれ、面白がれ。尚(な)ほ其の上に面白く成れ。むゝ、何(ど)うだ。
小児三 だつて、兄(にい)さん怒(おこ)るだらう。
画工 (解し得ず)俺が怒(おこ)る、何を……何を俺が怒るんだ。生命(いのち)がけで、描(か)いて文部省の展覧会で、平(へえ)つくばつて、可(い)いか、洋服の膝(ひざ)を膨らまして膝行(いざ)つてな、いゝ図ぢやないぜ、審査所のお玄関で頓首(とんしゅ)再拝(さいはい)と仕(つかまつ)つた奴を、紙鉄砲(かみでっぽう)で、ポンと撥(は)ねられて、ぎやふんとまゐつた。それでさへ怒り得ないで、悄々(すごすご)と杖(つえ)に縋(すが)つて背負(しょ)つて帰る男ぢやないか。景気よく馬肉(けとばし)で呷(あお)つた酒なら、跳ねも、いきりもしようけれど、胃のわるい処(ところ)へ、げつそりと空腹(すきばら)と来て、蕎麦(そば)ともいかない。停車場(ステエション)前で饂飩(うどん)で飲んだ、臓腑(ぞうふ)が宛然(さながら)蚯蚓(みみず)のやうな、しツこしのない江戸児擬(えどっこまがい)が、何(ど)うして腹なんぞ立て得(え)るものかい。ふん、だらしやない。
他(た)の小児(こども)はきよろ/\見て居る。
小児三 何だか知らないけれどね、今、向うから来る兄さんに、糸目をつけて手繰(たぐ)つて居たんだぜ。
画工 何だ、糸を着けて……手繰つたか。いや、怒りやしない。何の真似だい。
小児一 兄さんがね、然(そ)うやつてね、ぶら/\来た処(ところ)がね。
小児二 遠くから、まるで以て、凧(たこ)の形に見えたんだもの。
画工 はゝあ、凧か。(背負(しょ)つてる絵を見る)むゝ、其処(そこ)で、(仕形(しかた)しつゝ)と遣(や)つて面白がつて居たんだな。処(ところ)で、俺が恁(こ)う近く来たから、怒られやしないかと思つて、其の悪戯(いたずら)を止(や)めたんだ。だから、面白かつたと云ふのか。……かつたは寂(さみ)しい、つまらない。壮(さかん)に面白がれ、もつと面白がれ。さあ、糸を手繰(たぐ)れ、上げろ、引張れ。俺が、凧に成つて、上(あが)つて遣らう。上つて、高い空から、上野の展覧会を見て遣る。京、大阪を見よう。日本中(にっぽんじゅう)を、いや世界を見よう。……さあ、あの児(こ)来て煽(あお)れ、それ、お前は向うで上げるんだ。さあ、遣れ、遣れ。(笑ふ)はゝゝ、面白い。
小児等(こどもら)しばらく逡巡(しゅんじゅん)す。画工の機嫌よげなるを見るより、一人は、画工の背(せなか)を抱(いだ)いて、凧を煽る真似す。一人は駈出(かけだ)して距離を取る。其の一人(いちにん)。
小児三 やあ、大凧(おおだこ)だい、一人ぢや重い。
小児四 うん、手伝つて遣ら。(と独楽(こま)を懐(ふところ)にして、立並(たちなら)ぶ)――風吹け、や、吹け。山の風吹いて来い。――(同音に囃(はや)す。)
画工 (あふりたる児(こ)の手を離るゝと同時に、大手(おおで)を開(ひら)いて)恁(こ)う成りや凧絵だ、提灯屋(ちょうちんや)だ。そりや、しやくるぞ、水汲(く)むぞ、べつかつこだ。
小児等(こどもら)の糸を引いて駈(かけ)るがまゝに、ふら/\と舞台を飛廻(とびまわ)り、やがて、樹根(きのね)に※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と成りて、切なき呼吸(いき)つく。
暮色(ぼしょく)到る。
小児三 凧は切れ了(ちゃ)つた。
小児一 暗く成つた。――丁(ちょう)ど可(い)い。
小児二 又、……あの事をしよう。
其の他 遣(や)らうよ、遣らうよ。――(一同、手はつながず、少しづゝ間(あいだ)をおき、くるりと輪に成りて唄(うた)ふ。)
青山(あおやま)、葉山(はやま)、羽黒(はぐろ)の権現(ごんげん)さん
あとさき言はずに、中はくぼんだ、おかまの神(かみ)さん
唄ひつゝ、廻りつゝ、繰返す。
画工 (茫然(ぼうぜん)として黙想したるが、吐息(といき)して立つて此(これ)を視(なが)む。)おい、おい、其(それ)は何の唄だ。
小児一 あゝ、何の唄だか知らないけれどね、恁(こ)うやつて唄つて居ると、誰か一人踊出(おどりだ)すんだよ。
画工 踊る? 誰が踊る。
小児二 誰が踊るつて、此(こ)のね、環(わ)の中へ入つて踞(しゃが)んでるものが踊るんだつて。
画工 誰も、入つては居(お)らんぢやないか。
小児三 でもね、気味が悪いんだもの。
画工 気味が悪いと?
小児四 あゝ、あの、其がね、踊らうと思つて踊るんぢやないんだよ。ひとりでにね、踊るの。踊るまいと思つても。だもの、気味が悪いんだ。
画工 遣(や)つて見よう、俺を入れろ。
一同 やあ、兄さん、入るかい。
画工 俺が入る、待て、(画(え)を取つて大樹(たいじゅ)の幹によせかく)さあ、可(い)いか。
小児三 目を塞(ふさ)いで居るんだぜ。
画工 可(よし)、此の世間(よのなか)を、酔(よ)つて踊りや本望(ほんもう)だ。
青山、葉山、羽黒の権現さん
小児等(こどもら)唄ひながら画工の身の周囲(まわり)を廻(めぐ)る。環(わ)の脈を打つて伸び且(か)つ縮むに連れて、画工、殆(ほと)んど、無意識なるが如く、片手又片足を異様に動かす。唄ふ声、愈々(いよいよ)冴(さ)えて、次第に暗く成る。
時に、樹(き)の蔭より、顔黒く、嘴(くちばし)黒く、烏(からす)の頭(かしら)して真黒なるマント様(よう)の衣(きぬ)を裾(すそ)まで被(かぶ)りたる異体のもの一個顕(あらわ)れ出(い)で、小児(こども)と小児(こども)の間(あいだ)に交(まじ)りて斉(ひと)しく廻(まわ)る。
地に踞(うずくま)りたる画工、此の時、中腰に身を起して、半身を左右に振つて踊る真似す。
続いて、初(はじめ)の黒きものと同じ姿したる三個、人の形の烏(からす)。樹蔭(こかげ)より顕(あらわ)れ、同じく小児等(こどもら)の間(あいだ)に交(まじ)つて、画工の周囲を繞(めぐ)る。
小児等(こどもら)は絶えず唄ふ。いづれも其の怪(あやし)き物の姿を見ざる趣(おもむき)なり。あとの三羽(ば)の烏出(い)でて輪に加はる頃より、画工全く立上(たちあが)り、我を忘れたる状(さま)して踊り出(いだ)す。初手(しょて)の烏もともに、就中(なかんずく)、後(あと)なる三羽の烏は、足も地に着かざるまで跳梁(ちょうりょう)す。
彼等の踊狂(おどりくる)ふ時、小児等(こどもら)は唄を留(とど)む。
一同 (手に手に石を二(ふた)ツ取り、カチ/\と打鳴(うちな)らして)魔が来た、でん/\。影がさいた、もんもん。(四五度(たび)口々に寂(さみ)しく囃(はや)す)真個(ほんと)に来た。そりや来た。
小児(こども)のうちに一人(いちにん)、誰(たれ)とも知らず恁(か)く叫ぶとともに、ばら/\と、左右に分れて逃げ入る。
木(こ)の葉(は)落つ。
木の葉落つる中に、一人(いちにん)の画工と四個の黒き姿と頻(しきり)に踊る。画工は靴を穿(は)いたり。後(あと)の三羽の烏皆爪尖(つまさき)まで黒し。初(はじめ)の烏ひとり、裾(すそ)をこぼるゝ褄(つま)紅(くれない)に、足白し。
画工 (疲果(つかれは)てたる状(さま)、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と仰様(のけざま)に倒る)水だ、水をくれい。
いづれも踊り留(や)む。後の烏三羽、身を開(ひら)いて一方に翼を交(か)はしたる如く、腕を組合(くみあわ)せつゝ立ちて視(なが)む。
初の烏 (うら若き女の声にて)寝たよ。まあ……だらしのない事。人間、恁(こ)うは成りたくないものだわね。――其のうちに目が覚めたら行(ゆ)くだらう――別にお座敷の邪魔(じゃま)にも成るまいから。……どれ、(樹の蔭に一(ひと)むら生茂(おいしげ)りたる薄(すすき)の中より、組立(くみた)てに交叉(こうさ)したる三脚の竹を取出(とりいだ)して据(す)ゑ、次に、其上(そのうえ)に円(まる)き板を置き、卓子(テエブル)の如くす。)
後の烏、此の時、三羽(みっつ)とも無言にて近づき、手伝ふ状(さま)にて、二脚のズツク製、おなじ組立ての床几(しょうぎ)を卓子(テエブル)の差向(さしむか)ひに置く。
初(はじめ)の烏、又、旅行用手提げの中より、葡萄酒(ぶどうしゅ)の瓶(びん)を取出(とりい)だし卓子(テエブル)の上に置く。後の烏等(ら)、青き酒、赤き酒の瓶、続いてコツプを取出(とりい)だして並べ揃(そろ)ふ。
やがて、初の烏、一挺(ちょう)の蝋燭(ろうそく)を取つて、此に火を点ず。
舞台明(あかる)くなる。
初の烏 (思ひ着きたる体(てい)にて、一(ひと)ツの瓶の酒を玉盞(ぎょくさん)に酌(つ)ぎ、燭(しょく)に翳(かざ)す。)おゝ、綺麗(きれい)だ。燭(あかり)が映つて、透徹(すきとお)つて、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、丁(ちょう)ど東の空に立つた虹(にじ)の、其の虹の目のやうだと云つて、薄雲(うすぐも)に翳(かざ)して御覧なすつた、奥様の白い手の細い指には重さうな、指環の球(たま)に似てること。
三羽(ば)の烏、打傾(うちかたむ)いて聞きつゝあり。
あゝ、玉(たま)が溶けたと思ふ酒を飲んだら、どんな味がするだらうねえ。(烏の頭(かしら)を頂きたる、咽喉(のど)の黒き布(ぬの)をあけて、少(わか)き女の面(おもて)を顕(あらわ)し、酒を飲まんとして猶予(ためら)ふ)あれ、こゝは私には口だけれど、烏にすると丁(ちょう)ど咽喉だ。可厭(いや)だよ。咽喉だと血が流れるやうでねえ。こんな事をして居るんだから、気に成る。よさう。まあ、独言(ひとりごと)を云つて、誰かと話をして居るやうだよ……
(四辺(あたり)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)す)然(そ)う/\、思つた同士、人前で内証(ないしょう)で心を通(かよ)はす時は、一(ひと)ツに向つた卓子(テエブル)が、人知れず、脚(あし)を上げたり下げたりする、幽(かすか)な、しかし脈を打つて、血の通ふ、其の符牒(ふちょう)で、黙つて居て、暗号(あいず)が出来ると、何時(いつ)も奥様がおつしやるもんだから。――卓子(テエブル)さん(卓をたゝく)殊(こと)にお前さんは三(み)ツ脚(あし)で、狐狗狸(こっくり)さん、其のまゝだもの。活(い)きてるも同じだと思ふから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うつかりして、少々大事なことを饒舌(しゃべ)つたんだから、お前さん聞いたばかりにして置いておくれ。誰にも言つては不可(いけな)いよ。一寸(ちょいと)、注(つ)いだ酒を何(ど)うしよう。ああ、いゝ事がある。(酔倒(よいたお)れたる画工に近づく。後の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項(うなじ)を抱(いだ)いて仰向(あおむ)けにす。)
酔(よっ)ぱらひさん、さあ、冷水(おひや)。
画工 (飲みながら、現(うつつ)にて)あゝ、日が出た、が、俺は暗夜(やみ)だ。(其まゝ寝返る。)
初の烏 日が出たつて――赤い酒から、私の此の烏を透かして、まあ。――画(え)に描(か)いた太陽(おひさま)の夢を見たんだらう。何だか謎(なぞ)のやうな事を言つてるわね。――さあ/\、お寝室(ねま)こしらへをして置きませう。(もとに立戻(たちもど)りて、又薄(すすき)の中より、此のたびは一領の天幕(テント)を引出し、卓子(テエブル)を蔽(おお)うて建廻(たてま)はす。三羽の烏、左右より此を手伝ふ。天幕(テント)の裡(うち)は、見(けん)ぶつ席より見えざるあつらへ。)お楽(たのし)みだわね。(天幕(テント)を背後(うしろ)にして正面に立つ。三羽の烏、其の両方に彳(たたず)む。)
もう、すつかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他(ほか)に、烏の姿ありて立てるに心付(こころづ)く。されどおのが目を怪(あやし)む風情(ふぜい)。少しづゝ、あちこち歩行(ある)く。歩行(ある)くに連れて、烏の形動き絡(まと)ふを見て、次第に疑惑(うたがい)を増し、手を挙ぐれば、烏等(ら)も同じく挙げ、袖(そで)を振動(ふりうご)かせば、斉(ひと)しく振動かし、足を爪立(つまだ)つれば爪立ち、踞(しゃが)めば踞むを透(すか)し視(なが)めて、今はしも激しく恐怖し、慌(あわただ)しく駈出(かけいだ)す。)
帽子を目深(まぶか)に、オーバーコートの鼠色(ねずみいろ)なるを被(き)、太き洋杖(ステッキ)を持てる老紳士、憂鬱(ゆううつ)なる重き態度にて登場。
初(はじめ)の烏ハタと行当(ゆきあた)る。驚いて身を開(ひら)く。紳士其(そ)の袖を捉(とら)ふ。初の烏、遁(のが)れんとして威(おど)す真似して、かあ/\、と烏の声をなす。泣くが如き女の声なり。
紳士 こりや、地獄の門を背負(しょ)つて、空を飛ぶ真似をするか。(掴(つかみ)ひしぐが如くにして突離(つきはな)す。初の烏、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と地に坐す。三羽の烏は故(わざ)とらしく吃驚(きっきょう)の身振(みぶり)をなす。)地を這(は)ふ烏は、鳴く声が違ふぢやらう。うむ、何(ど)うぢや。地を這ふ烏は何と鳴くか。
初の烏 御免なさいまし、何(ど)うぞ、御免なさいまし。
紳士 はゝあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くぢやな。
初の烏 はい。
紳士 うむ、(重く頷(うなず)く)聞えた。とに角(かく)、汝(きさま)の声は聞えた。――こりや、俺の声が分るか。
初の烏 えゝ。
紳士 俺の声が分るかと云ふんぢや。こりや、面(つら)を上げろ。――何(ど)うだ。
初の烏 御前様(ごぜんさま)、あれ……
紳士 (杖(ステッキ)を以つて、其の裾(すそ)を圧(おさ)ふ)ばさ/\騒ぐな。槍(やり)で脇腹を突(つ)かれる外(ほか)に、樹の上へ得上(えあが)る身体(からだ)でもないに、羽ばたきをするな、女郎(めろう)、手を支(つ)いて、静(じっ)として口をきけ。
初の烏 真(まこと)に申訳(もうしわけ)のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達(せんだ)つて、奥様がお好みのお催しで、お邸(やしき)に園遊会の仮装がございました時、私(わたくし)がいたしました、あの、此のこしらへが、余りよく似合つたと、皆様が然(そ)うおつしやいましたものでございますから、つい、心得違(こころえちが)ひな事をはじめました。あの――後(あと)で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少(すくの)うございますものですから、自分の買(かい)もの、用達しだの、何のと申して、奥様にお暇(ひま)を頂いては、こんな処(ところ)へ出て参りまして、偶(たま)に通りますものを驚(おど)かしますのが面白くて成りませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様(だんなさま)に申訳のございません失礼をいたしました。何(ど)うぞ、御免遊ばして下さいまし。
紳士 言ふ事は其だけか。
初の烏 はい?(聞返(ききかえ)す。)
紳士 俺に云ふ事は、それだけか、女郎(めろう)。
初の烏 あの、(口籠(くちごも)る)今夜は何(ど)ういたしました事でございますか、私(わたくし)の形(なり)……あの、影法師が、此の、野中(のなか)の宵闇(よいやみ)に判然(はっきり)と見えますのでございます。其さへ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私(わたくし)と一所(いっしょ)に動きますのでございますもの。
三方に分れて彳(たたず)む、三羽の烏、また打頷(うちうなず)く。
もう可恐(おそろし)く成りまして、夢中で駈出(かけだ)しましたものですから、御前様(ごぜんさま)に、つい――あの、そして……御前様は、何時(いつ)御旅行さきから。
紳士 俺の旅行か。ふゝん。(自(みずか)ら嘲(あざ)ける口吻(くちぶり))汝(きさま)たちは、俺が旅行をしたと思ふか。
初の烏 はい、一昨日(いっさくじつ)から、北海道の方へ。
紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸(やしき)の周囲ぢや。
初の烏 はあ、(驚く。)
紳士 俺の旅行は、冥土(めいど)の旅の如きものぢや。昔から、事が、恁(こ)う云ふ事が起つて、其が破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段ぢや。通例過ぎる遣方(やりかた)ぢやが、為(せ)んと云ふ事には行かなかつた。今云うた冥土の旅を、可厭(いや)ぢやと思うても、誰もしないわけには行かぬやうなものぢや。又、汝等(きさまら)とても、恁(こ)う云ふ事件の最後の際には、其の家の主人か、良人(おっと)か、可(え)えか、俺がぢや、或(ある)手段として旅行するに極(きま)つとる事を知つて居(お)る。汝(きさま)は知らいでも、怜悧(りこう)な彼(あれ)は知つて居(お)る。汝(きさま)とても、少しは分つて居(お)らう。分つて居て、其の主人が旅行と云ふ隙間(すきま)を狙(ねら)ふ。故(わざ)と安心して大胆な不埒(ふらち)を働く。うむ、耳を蔽(おお)うて鐸(すず)を盗むと云ふのぢや。いづれ音の立ち、声の響くのは覚悟ぢやらう。何も彼(か)も隠さずに言つて了(しま)へ。何時(いつ)の事か。一体、何時頃(いつごろ)の事か。これ。
侍女 何時頃(いつごろ)とおつしやつて、あの、影法師の事でございませうか。其は唯今(ただいま)……
紳士 黙れ。影法師か何(なに)か知らんが、汝等(きさまら)三人の黒い心が、形にあらはれて、俺の邸(やしき)の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様(ごぜんさま)、私(わたくし)は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎(めろう)、俺の衣兜(かくし)には短銃(ピストル)があるぞ。
侍女 えゝ。
紳士 さあ、言へ。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方(くれがた)の事でございます。美しい虹(にじ)が立ちまして、盛りの藤(ふじ)の花と、つゝじと一所(いっしょ)に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫(うすむらさき)の頭(かしら)で、胸に炎の搦(から)みました、真紅(しんく)なつゝじの羽(はね)の交(まじ)つた、其の虹の尾を曳(ひ)きました大きな鳥が、お二階を覗(のぞ)いて居(お)りますやうに見えたのでございます。其の日は、御前様のお留守、奥様が欄干越(らんかんごし)に、其の景色をお視(なが)めなさいまして、――あゝ、綺麗(きれい)な、此の白い雲と、蒼空(あおぞら)の中に漲(みなぎ)つた大鳥(おおとり)を御覧――お傍に居(お)りました私(わたくし)に然(そ)うおつしやいまして――此の鳥は、頭(かしら)は私(わたし)の簪(かんざし)に、尾を私(わたし)の帯に成るために来たんだよ。角(つの)の九(ここの)つある、竜が、頭(かしら)を兜(かぶと)に、尾を草摺(くさずり)に敷いて、敵に向ふ大将軍を飾つたやうに。……けれども、虹には目がないから、私(わたし)の姿が見つからないので、頭(かしら)を水に浸して、うなだれ悄(しお)れて居る。どれ、目を遣(や)らう――と仰有(おっしゃ)いますと、右の中指に嵌(は)めておいで遊ばした、指環の紅(あか)い玉(たま)でございます。開(ひら)いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、其の指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 そして、雪のやうなお手の指を環(わ)に遊ばして、高い処(ところ)で、青葉の上で、虹の膚(はだ)へ嵌めるやうになさいますと、其の指に空の色が透通(すきとお)りまして、紅い玉は、颯(さっ)と夕日に映つて、まつたく虹の瞳(ひとみ)に成つて、そして晃々(きらきら)と輝きました。其の時でございます。お庭も池も、真暗(まっくら)に成つたと思ひます。虹も消えました。黒いものが、ばつと来て、目潰(めつぶ)しを打ちますやうに、翼を拡げたと思ひますと、其の指環を、奥様の手から攫(さら)ひまして、烏が飛びましたのでございます。露(つゆ)に光る木(こ)の実(み)だ、と紅(あか)い玉を、間違へたのでございませう。築山(つきやま)の松の梢(こずえ)を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、此の、野の末(すえ)の処(ところ)へ入ります、真赤な、まん円(まる)な、大きな太陽様(おひさま)の前に黒く留(と)まつたのが見えたのでございます。私(わたし)は跣足(はだし)で庭へ駈下(かけお)りました。駈(か)けつけて声を出しますと、烏は其のまゝ塀の外へ又飛びましたのでございます。丁(ちょう)ど其処(そこ)が、裏木戸(うらきど)の処(ところ)でございます。あの木戸は、私(わたし)が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開(あ)け遊ばした事と云つては一度もなかつたのでございます。
紳士 うむ、あれは開(あ)けるべき木戸ではないのぢや。俺が覚えてからも、止(や)むを得ん凶事で二度だけは開(あ)けんければ成らんぢやつた。が、其とても凶事を追出(おいだ)いたばかりぢや。外から入つて来た不祥(ふしょう)はなかつた。――其が其の時、汝(きさま)の手で開(あ)いたのか。
侍女 えゝ、錠の鍵は、がつちりさゝつて居(お)りましたけれど、赤錆(あかさび)に錆切(さびき)りまして、圧(お)しますと開(あ)きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立つて居たのでございます。其の男が、烏の嘴(くちばし)から落しました奥様の其の指環を、掌(てのひら)に載せまして、凝(じっ)と見て居ましたのでございます。
紳士 餓鬼(がっき)め、其奴(そいつ)か。
侍女 えゝ。
紳士 相手(あいて)は其奴(そいつ)ぢやな。
侍女 あの、私(わたくし)がわけを言つて、其の指環を返しますやうに申しますと、串戯(じょうだん)らしく、否(いな)、此は、人間の手を放れたもの、烏の嘴(くちばし)から受取つたのだから返されない。尤(もっと)も、烏にならば、何時(なんどき)なりとも返して上げよう――と然(そ)う申して笑ふんでございます。それでも、何(ど)うしても返しません。そして――確(たしか)に預(あずか)る、決して迂散(うさん)なものでない――と云つて、丁(ちゃん)と、衣兜(かくし)から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおつしやいました。それから日を極(き)めまして、同じ暮方(くれがた)の頃、其の男を木戸の外まで呼びましたのでございます。其の間(あいだ)に、此の、あの、烏の装束(しょうぞく)をお誂(あつら)へ遊ばしました。そして私(わたくし)がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶつて遣(や)らう、とおつしやつて、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひよつと、野原に遊んで居る小児(こども)などが怪しい姿を見て、騒いで悪いと云ふお心付(こころづ)きから、四阿(あずまや)へお呼び入れに成りました。
紳士 奴は、あの木戸から入つたな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚(びっくり)するのを御覧、と私(わたくし)にお囁(ささや)きなさいました。奥様が、烏は脚(あし)では受取らない、とおつしやつて、男が掌(てのひら)にのせました指環を、此処(ここ)をお開(ひら)きなさいまして、(咽喉(のど)のあく処(ところ)を示す)口でおくはへ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、最(も)う其の時から。毒蛇(どくじゃ)め。上頤(うわあご)下頤(したあご)へ拳(こぶし)を引掛(ひっか)け、透通(すきとお)る歯と紅(べに)さいた唇を、めりめりと引裂(ひきさ)く、売婦(ばいた)。(足を挙げて、枯草(かれくさ)を踏蹂(ふみにじ)る。)
画工 うゝむ、(二声(ふたこえ)ばかり、夢に魘(うな)されたるものの如し。)
紳士 (はじめて心付(こころづ)く)女郎(めろう)、此方(こっち)へ来い。(杖(ステッキ)を以て一方を指(ゆびさ)す。)
侍女 (震へながら)はい。
紳士 頭(かしら)を着けろ、被(かぶ)れ。俺の前を烏のやうに躍(おど)つて行け、――飛べ。邸(やしき)を横行する黒いものの形(かた)を確(しか)と見覚えて置かねばならん。躍れ。衣兜(かくし)には短銃(ピストル)があるぞ。
侍女、烏の如く其の黒き袖(そで)を動かす。をのゝき震ふと同じ状(さま)なり。紳士、あとに続いて入(い)る。
三羽の烏 (声を揃(そろ)へて叫ぶ)おいらのせゐぢやないぞ。
一の烏 (笑ふ)はゝゝゝゝ、其処(そこ)で何と言はう。
二の烏 せう事(こと)はあるまい。矢張(やっぱ)り、あとは、烏の所為(せい)だと言はねば成るまい。
三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被(ひっかぶ)るのだな。
二の烏 かぶらうとも、背負(しょ)はうとも。かぶつた処(ところ)で、背負(しょ)つた処(ところ)で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間(なかま)うちで帳面づらを合せて行く、勘定の遣(や)り取りする。俺たちが構ふ事は少しもない。
三の烏 成程(なるほど)な、罪も報(むくい)も人間同士が背負(しょ)ひつこ、被(かぶ)りつこをするわけだ。一体、此のたびの事の発源(おこり)は、其処(そこ)な、お一(いち)どのが悪戯(いたずら)からはじまつた次第だが、さて、恁(こ)うなれば高い処(ところ)で見物で事が済む。嘴(くちばし)を引傾(ひっかた)げて、ことん/\と案じて見れば、われらは、これ、余り性(たち)の善(い)い夥間(なかま)でないな。
一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言はせれば、善(よ)いとも悪いとも言はうがまゝだ。俺は唯(ただ)屋(や)の棟(むね)で、例の夕飯(ゆうめし)を稼(かせ)いで居たのだ。処(ところ)で艶麗(あでやか)な、奥方とか、それ、人間界で言ふものが、虹(にじ)の目だ、虹の目だ、と云ふものを(嘴(くちばし)を指(さ)す)此の黒い、鼻の先へひけらかした。此の節、肉どころか、血どころか、贅沢(ぜいたく)な目玉(めだま)などはつひに賞翫(しょうがん)した験(ためし)がない。鳳凰(ほうおう)の髄(ずい)、麒麟(きりん)の腮(えら)さへ、世にも稀(まれ)な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延(いきの)びろ、と逆落(さかおと)しの廂(ひさし)はづれ、鵯越(ひよどりごえ)を遣(や)つたがよ、生命(いのち)がけの仕事と思へ。鳶(とび)なら油揚(あぶらげ)も攫(さら)はうが、人間の手に持つたまゝを引手繰(ひったぐ)る段は、お互に得手(えて)でない。首尾よく、かちりと銜(くわ)へてな、スポンと中庭を抜けたは可(よ)かつたが、虹の目玉と云ふ件(くだん)の代(しろ)ものは何(ど)うだ、歯も立たぬ。や、堅いの候(そうろう)の。先祖以来、田螺(たにし)を突(つっ)つくに錬(きた)へた口も、さて、がつくりと参つたわ。お庇(かげ)で舌(した)の根が弛(ゆる)んだ。癪(しゃく)だがよ、振放(ふりはな)して素飛(すっと)ばいたまでの事だ。な、其が源(もと)で、人間が何をせうと、彼(か)をせうと、薩張(さっぱり)俺が知つた事ではあるまい。
二の烏 道理かな、説法(せっぽう)かな。お釈迦様(しゃかさま)より間違ひのない事を云ふわ。いや、又お一(いち)どのの指環を銜(くわ)へたのが悪ければ、晴上(はれあが)つた雨も悪し、ほか/\とした陽気も悪し、虹(にじ)も悪い、と云はねば成らぬ。雨や陽気がよくないからとて、何(ど)うするものだ。得(え)ての、空に美しい虹の立つ時は、地にも綺麗(きれい)な花が咲くよ。芍薬(しゃくやく)か、牡丹(ぼたん)か、菊か、猿(えて)が折つて蓑(みの)にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。雑(ざっ)と虹のやうな花よ。人間の家(や)の中(うち)に、然(そ)うした花の咲くのは壁にうどんげの開(ひら)くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩(まぶし)い虹のやうな、其の花のパツと咲いた処(ところ)は鮮麗(あざやか)だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命(いのち)を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望(ながめ)はない。分けて今度の花は、お一(いち)どのが蒔(ま)いた紅(あか)い玉から咲いたもの、吉野紙(よしのがみ)の霞(かすみ)で包んで、露(つゆ)をかためた硝子(ビイドロ)の器(うつわ)の中へ密(そっ)と蔵(しま)つても置かうものを。人間の黒い手は、此を見るが最後掴(つか)み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾(うでかざり)と思ふさうだ。お互に見れば真黒よ。人間が見て、俺たちを黒いと云ふと同一(おなじ)かい、別して今来た親仁(おやじ)などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦(から)めて吹いて、右の不思議な花を微塵(みじん)にせうと苛(あせ)つて居(お)るわ。野暮(やぼ)めがな。はて、見て居れば綺麗なものを、仇花(あだばな)なりとも美しく咲かして置けば可(い)い事よ。
三の烏 なぞとな、お二(ふた)めが、体(てい)の可(い)い事を吐(ぬか)す癖に、朝烏(あさがらす)の、朝桜、朝露(あさつゆ)の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎(わろ)だ。何だ、仇花(あだばな)なりとも、美しく咲かして置けば可(い)い事だ。から/\からと笑はせるな。お互に此処(ここ)に何して居る。其の虹(にじ)の散るのを待つて、やがて食(く)はう、突かう、嘗(な)めう、しやぶらうと、毎夜、毎夜、此の間(あいだ)、……咽喉(のど)、嘴(くちばし)を、カチ/\と噛鳴(かみな)らいて居(お)るのでないかい。
二の烏 然(さ)ればこそ待つて居る。桜の枝を踏めばと云つて、虫の数ほど花片(はなびら)も露(つゆ)もこぼさぬ俺たちだ。此のたびの不思議な其の大輪(たいりん)の虹の台(うてな)、紅玉(こうぎょく)の蕊(しべ)に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子(ひなげし)が散つて実(み)に成るまで、風が誘ふを視(なが)めて居るのだ。色には、恋には、情(なさけ)には、其の咲く花の二人を除(の)けて、他(ほか)の人間は大概風だ。中にも、ぬしと云ふものはな、主人(あるじ)と云ふものはな、淵(ふち)に棲(す)むぬし、峰にすむ主人(あるじ)と同じで、此が暴風雨(あらし)よ、旋風(つむじかぜ)だ。一溜(ひとたま)りもなく吹散(ふきち)らす。あゝ、無慙(むざん)な。
一の烏 と云ふ嘴(くちばし)を、こつ/\鳴らいて、内々(ないない)其の吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏 はゝゝはゝ、俺達だ、はゝゝはゝ。先(ま)づ口だけは体(てい)の可(い)い事を言うて、其の実はお互に餌食(えじき)を待つのだ。又、此の花は、紅玉の蕊(しべ)から虹に咲いたものだが、散る時は、肉に成り、血に成り、五色(ごしき)の膓(はらわた)と成る。やがて見ろ、脂(あぶら)の乗つた鮟鱇(あんこう)のひも、と云ふ珍味を、つるりだ。
三の烏 何時(いつ)の事だ、あゝ、聞いただけでも堪(たま)らぬわ。(ばた/\と羽(はね)を煽(あお)つ。)
二の烏 急ぐな、どつち道俺たちのものだ。餌食が其の柔かな白々(しろじろ)とした手足を解(と)いて、木の根の塗膳(ぬりぜん)、錦手(にしきで)の木(こ)の葉(は)の小皿盛(こざらもり)と成るまでは、精々(せいぜい)、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳(おどりは)ねるまで、楽(たのし)ませて置かねば成らん。網(あみ)で捕(と)つたと、釣(つ)つたとでは、鯛(たい)の味が違ふと言はぬか。あれ等(ら)を苦(くるし)ませては成らぬ、悲(かなし)ませては成らぬ、海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏 むゝ、其処(そこ)で、椅子(いす)やら、卓子(テエブル)やら、天幕(テント)の上げさげまで手伝ふかい。
三の烏 彼(あ)れほどのものを、(天幕(テント)を指す)持運(もちはこ)びから、始末まで、俺たちが、此の黒い翼で人間の目から蔽(おお)うて手伝ふとは悟(さと)り得ず、薄(すすき)の中に隠したつもりの、彼奴等(あいつら)の甘さが堪(たま)らん。が、俺たちの為す処(ところ)は、退(しりぞ)いて見ると、如法(にょほう)これ下女下男の所為(しょい)だ。天(あめ)が下(した)に何と烏ともあらうものが、大分権式(けんしき)を落すわけだな。
二の烏 獅子(しし)、虎(とら)、豹(ひょう)、地を走る獣(けもの)。空を飛ぶ仲間では、鷲(わし)、鷹(たか)、みさごぐらゐなものか、餌食を掴(つか)んで容色(きりょう)の可(い)いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎(しい)の実(み)を拝んだ形な。鶴(つる)とは申せど、尻を振つて泥鰌(どじょう)を追懸(おっか)ける容体(ようだい)などは、余り喝采(やんや)とは参らぬ図だ。誰も誰も、食(くら)ふためには、品(ひん)も威も下げると思へ。然(さ)までにして、手に入れる餌食だ。突(つつ)くと成れば会釈はない。骨までしやぶるわ。餌食の無慙(むざん)さ、いや、又其(そ)の骨の肉汁(ソップ)の旨(うま)さはよ。(身震ひする。)
一の烏 (聞く半(なか)ばより、じろ/\と酔臥(よいふ)したる画工を見て居(お)り)おふた、お二(ふた)どの。
二の烏 あい。
三の烏 あい、と吐(ぬか)す、魔ものめが、ふて/″\しい。
二の烏 望みとあらば、可愛(かわい)い、とも鳴くわ。
一の烏 いや、串戯(じょうだん)は措(お)け。俺は先刻(さっき)から思ふ事だ、待設(まちもう)けの珍味も可(い)いが、こゝに目の前に転がつた餌食は何(ど)うだ。
三の烏 其の事よ、血の酒に酔ふ前に、腹へ底を入れて置く相談には成るまいかな。何分(なにぶん)にも空腹だ。
二の烏 御同然(ごどうぜん)に夜食前よ。俺も一先(いっさき)に心付(こころづ)いては居るが、其の人間は未(ま)だ食頃(くいごろ)には成らぬと思ふ。念のために、面(つら)を見ろ。
三羽の烏、ばさ/\と寄り、頭(こうべ)を、手を、足を、ふん/\と嚊(か)ぐ。
一の烏 堪(たま)らぬ香(におい)だ。
三の烏 あゝ、旨(うま)さうな。
二の烏 いや、まだ然(そ)うは成るまいか。此の歯をくひしばつた処(ところ)を見い。総じて寝て居ても口を結んだ奴は、蓋(ふた)をした貝だと思へ。うかつに嘴(はし)を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚(いじきたな)の野良犬(のらいぬ)が来て舐(な)めよう。這奴(しゃつ)四足(よつあし)めに瀬踏(せぶみ)をさせて、可(よ)いと成つて、其の後(あと)で取蒐(とりかか)らう。食(くい)ものが、悪いかして。脂(あぶら)のない人間だ。
一の烏 此の際、乾(ひ)ものでも構はぬよ。
二の烏 生命(いのち)がけで乾(ひ)ものを食つて、一分(いちぶん)が立つと思ふか、高蒔絵(たかまきえ)のお肴(とと)を待て。
三の烏 や、待つと云へば、例の通り、ほんのりと薫(かお)つて来た。
一の烏 おゝ、人臭(ひとくさ)いぞ。そりや、女のにほひだ。
二の烏 はて、下司(げす)な奴、同じ事を不思議な花が薫ると言へ。
三の烏 おゝ、蘭奢待(らんじゃたい)、蘭奢待。
一の烏 鈴ヶ森でも、此の薫(かおり)は、百年目に二三度だつたな。
二の烏 化鳥(ばけどり)が、古い事を云ふ。
三の烏 なぞと少(わか)い気で居(お)ると見える、はゝはゝ。
一の烏 いや、恁(こ)うして暗(くら)やみで笑つた処(ところ)は、我ながら不気味だな。
三の烏 人が聞いたら何と言はう。
二の烏 烏鳴(からすなき)だ、と吐(ぬか)す奴よ。
一の烏 何にも知らずか。
三の烏 不便(ふびん)な奴等(やつら)。
二の烏 (手を取合(とりお)うて)おゝ、見える、見える。それ侍女(こしもと)の気で迎へて遣(や)れ。(みづから天幕(テント)の中より、燭(とも)したる蝋燭(ろうそく)を取出(とりい)だし、野中(のなか)に黒く立ちて、高く手に翳(かざ)す。一の烏、三の烏は、二の烏の裾(すそ)に踞(しゃが)む。)
薄(すすき)の彼方(あなた)、舞台深く、天幕(テント)の奥斜めに、男女(なんにょ)の姿立顕(たちあらわ)る。一(いつ)は少(わかき)紳士(しんし)、一(いつ)は貴夫人、容姿(ようし)美しく輝くばかり。
二の烏 恋も風、無情も風、情(なさけ)も露(つゆ)、生命(いのち)も露、別るゝも薄(すすき)、招くも薄、泣くも虫、歌ふも虫、跡は野原だ、勝手に成れ。(怪しき声にて呪(じゅ)す。一と三の烏、同時に跪(ひざまず)いて天を拝す。風一陣、灯(ともしび)消ゆ。舞台一時暗黒。)
はじめ、月なし、此の時薄月(うすづき)出(い)づ。舞台明(あかる)く成りて、貴夫人も少(わかき)紳士(しんし)も、三羽の烏も皆見えず。天幕(テント)あるのみ。
画工、猛然として覚(さ)む。
魘(おそ)はれたる如く四辺(あたり)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みま)はし、慌(あわただ)しく画(え)の包(つつみ)をひらく、衣兜(かくし)のマツチを探り、枯草(かれくさ)に火を点ず。
野火(やか)、炎々(えんえん)。絹地(きぬじ)に三羽の烏あらはる。
凝視。
彼処(かしこ)に敵あるが如く、腕を挙げて睥睨(へいげい)す。
画工 俺の画(え)を見ろ。――待て、しかし、絵か、其とも実際の奴等(やつら)か。
――幕――
了

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「新小説」
   1913(大正2)年7月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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