あらすじ
山奥の峠にある「鍵屋」という寂しい宿に泊まった「沢」は、美しい女主人に出会います。彼女は、都会から来たというものの、その正体は…? 孤独な沢は、女主人との不思議な夜を通して、奇妙で忘れられない体験をします。深い霧と静かな山に包まれた鍵屋には、隠された秘密があるのでしょうか。
        一

 番茶を焙(ほう)じるらしい、いゝ香気(におい)が、真夜中とも思ふ頃芬(ぷん)としたので、うと/\としたやうだつた沢(さわ)は、はつきりと目が覚めた。
 随分(ずいぶん)遙々(はるばる)の旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、其(それ)は分らぬ。尤(もっと)も村里(むらざと)を遠く離れた峠(とうげ)の宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ/\と石を載せた、板葺屋根(いたぶきやね)も、松高き裏の峰も、今は、渓河(たにがわ)の流れの音も寂(しん)として、何も聞えず、時々颯(さっ)と音を立てて、枕に響くのは山颪(やまおろし)である。
 蕭殺(しょうさつ)たる此(こ)の秋の風は、宵(よい)は一際(ひときわ)鋭かつた。藍縞(あいじま)の袷(あわせ)を着て、黒の兵子帯(へこおび)を締めて、羽織も無い、沢の少(わか)いが痩(や)せた身体(からだ)を、背後(うしろ)から絞つて、長くもない額髪(ひたいがみ)を冷(つめた)く払つた。……其(そ)の余波(なごり)が、カラカラと乾(から)びた木(こ)の葉(は)を捲(ま)きながら、旅籠屋(はたごや)の框(かまち)へ吹込(ふきこ)んで、大(おおき)な炉(ろ)に、一簇(ひとむら)の黒雲(くろくも)の濃く舞下(まいさが)つたやうに漾(ただよ)ふ、松を焼く煙を弗(ふっ)と吹くと、煙は筵(むしろ)の上を階子段(はしごだん)の下へ潜(ひそ)んで、向うに真暗(まっくら)な納戸(なんど)へ逃げて、而(そ)して炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所(いっしょ)に、自在に掛(かか)つた大鍋(おおなべ)の底へ、ひら/\と炎が搦(から)んで、真白な湯気のむく/\と立つのが見えた。
 其の湯気の頼母(たのも)しいほど、山気(さんき)は寒く薄い膚(はだ)を透(とお)したのであつた。午下(ひるさが)りに麓(ふもと)から攀上(よじのぼ)つた時は、其の癖汗(あせ)ばんだくらゐだに……
 表二階(おもてにかい)の、狭い三畳(じょう)ばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、漸(や)つと仄(ほのめ)くばかり、目口(めくち)も見えず、最(も)う暗い。
 色の黒い小女(こおんな)が、やがて漆(うるし)の禿(は)げたやうな装(なり)で、金盥(かなだらい)に柄(え)を附けたらうと思ふ、大(おおき)な十能(じゅうのう)に、焚落(たきおと)しを、ぐわん、と装(も)つたのと、片手に煤(すす)けた行燈(あんどう)に点灯(とも)したのを提げて、みし/\と段階子(だんばしご)を上(あが)つて来るのが、底の知れない天井の下を、穴倉(あなぐら)から迫上(せりあが)つて来るやうで、ぱつぱつと呼吸(いき)を吹く状(さま)に、十能の火が真赤な脈を打つた……冷(ひややか)な風が舞込(まいこ)むので。
 座敷へ入つて、惜気(おしげ)なく真鍮(しんちゅう)の火鉢へ打撒(ぶちま)けると、横に肱掛窓(ひじかけまど)めいた低い障子が二枚、……其の紙の破(やぶれ)から一文字(いちもんじ)に吹いた風に、又※(ぱっ)[#「火+發」、105-14]としたのが鮮麗(あざやか)な朱鷺色(ときいろ)を染(そ)めた、あゝ、秋が深いと、火の気勢(けはい)も霜(しも)に染(そ)む。
 行燈(あんどう)の灯(ひ)は薄もみぢ。
 小女(こおんな)は尚(な)ほ黒い。
 沢は其のまゝにじり寄つて、手を翳(かざ)して俯向(うつむ)いた。一人旅の姿は悄然(しょんぼり)とする。
 がさ/\、がさ/\と、近いが行燈(あんどう)の灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、芭蕉(ばしょう)の葉を引摺(ひきず)るやうな音がすると、蝙蝠(こうもり)が覗(のぞ)く風情(ふぜい)に、人の肩がのそりと出て、
「如何様(いかがさま)で、」
 とぼやりとした声。
「え?」と沢は振向(ふりむ)いて、些(ち)と怯(おび)えたらしく聞返(ききかえ)す、……
「按摩(あんま)でな。」
 と大分横柄(おうへい)……中に居るものの髯(ひげ)のありなしは、よく其の勘(かん)で分ると見える。ものを云ふ顔が、反返(そりかえ)るほど仰向(あおむ)いて、沢の目には咽喉(のど)ばかり。
「お療治は如何様で。」
「まあ、可(よ)ござんした。」
 と旅なれぬ少(わか)ものは慇懃(いんぎん)に云つた。
「はい、お休み。」
 と其でも頭(こうべ)を下げたのを見ると、抜群なる大坊主(おおぼうず)。
 で、行燈(あんどう)に伸掛(のしかか)るかと、ぬつくりと起(た)つたが、障子を閉める、と沙汰(さた)が無い。
 前途(ゆくて)に金色(こんじき)の日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、恁(かか)る山家(やまが)は初旅(はつたび)で、旅籠屋(はたごや)へあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく/″\とものの哀(あわれ)を感じた。

        二

 沢は薄汚(うすよご)れた、唯(ただ)それ一個(ひとつ)の荷物の、小さな提革鞄(さげかばん)を熟(じっ)と視(み)ながら、蒼(あお)い形(なり)で、さし俯向(うつむ)いたのである。
 爾時(そのとき)、さつと云ひ、さつと鳴り、さら/\と響いて、小窓の外を宙を通る……冷(つめた)い裳(もすそ)の、すら/\と木(こ)の葉(は)に触つて……高嶺(たかね)をかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。
 吹頻(ふきしき)つた秋の風が、夜(よる)は姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。
 宵(よい)には其の声さへ、寂(さび)しい中にも可懐(なつか)しかつた。
 さて、今聞くも同じ声。
 けれども、深更(しんこう)に聞く秋の声は、夜中にひそ/\と門(かど)を行(ゆ)く跫音(あしおと)と殆(ほとん)ど斉(ひと)しい。宵の人通りは、内に居るものに取つて誰(たれ)かは知らず知己(ちかづき)である。が、更(ふ)けての跫音は、敵(かたき)かと思ふ隔(へだ)てがある。分けて恋のない――人を待つ思(おもい)の絶えた――一人旅の奥山家(おくやまが)、枕に音(おと)づるゝ風は我を襲(おそ)はむとする殺気を含む。
 処(ところ)で……沢が此処(ここ)に寝て居る座敷は――其の家も――宵に宿つた旅籠屋(はたごや)ではない。
 あの、小女(こおんな)が来て、それから按摩の顕(あらわ)れたのは、蔵屋(くらや)と言ふので……今宿つて居る……此方(こなた)は、鍵屋(かぎや)と云ふ……此の峠(とうげ)に向合(むかいあ)つた二軒旅籠の、峰を背後(うしろ)にして、崖(がけ)の樹立(こだち)の蔭(かげ)に埋(う)まつた寂(さみ)しい家で。前(ぜん)のは背戸(せど)がずつと展(ひら)けて、向うの谷で劃(くぎ)られるが、其の間(あいだ)、僅少(わずか)ばかりでも畠(はたけ)があつた。
 峠には此の二軒の他(ほか)に、別な納戸(なんど)も廏(うまや)も無い、これは昔から然(そ)うだと云ふ。
「峠、お泊りでごいせうな。」
 麓(ふもと)へ十四五町(ちょう)隔(へだた)つた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店(ちゃみせ)に憩(いこ)つた時、裏に鬱金木綿(うこんもめん)を着けた縞(しま)の胴服(ちゃんちゃんこ)を、肩衣(かたぎぬ)のやうに着た、白髪(しらが)の爺(じい)の、霜(しも)げた耳に輪数珠(わじゅず)を掛けたのが、店前(みせさき)に畏(かしこま)つて居て聞いたので。其処(そこ)の敷(しき)ものには熊の皮を拡げて、目の処(ところ)を二つゑぐり取つたまゝの、而(そ)して木の根のくり抜(ぬき)の大火鉢(おおひばち)が置いてあつた。
 背戸口(せどぐち)は、早(は)や充満(みちみち)た山霧(やまぎり)で、岫(しゅう)の雲を吐(は)く如く、幹(みき)の半(なか)ばを其の霧で蔽(おお)はれた、三抱(みかかえ)四抱(よかかえ)の栃(とち)の樹(き)が、すく/\と並んで居た。
 名にし負(お)ふ栃木峠(とちのきとうげ)よ! 麓(ふもと)から一日がかり、上(のぼ)るに従ひ、はじめは谷に其の梢(こずえ)、やがては崖に枝組違(くみちが)へ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時(ひとしきり)路(みち)は真暗(まっくら)な夜(よる)と成つた。……梢の風は、雨の如く下闇(したやみ)の草の径(こみち)を、清水が音を立てて蜘蛛手(くもで)に走る。
 前途(ゆくて)を遙(はるか)に、ちら/\と燃え行く炎が、煙(けぶり)ならず白い沫(しぶき)を飛ばしたのは、駕籠屋(かごや)が打振(うちふ)る昼中(ひるなか)の松明(たいまつ)であつた。
 漸(やっ)と茶店(ちゃや)に辿着(たどりつ)くと、其の駕籠は軒下(のきした)に建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布(けっと)に包まつた病人らしい漢(おとこ)を乗せたが、ゆらりと上(あが)つて、すた/\行く……
 峠越(とうげごえ)の此の山路(やまみち)や、以前も旧道(ふるみち)で、余り道中の無かつた処(ところ)を、汽車が通じてからは、殆(ほとん)ど廃駅(はいえき)に成つて、猪(いのしし)も狼(おおかみ)も又戻つたと言はれる。其の年、烈(はげ)しい暴風雨(あらし)があつて、鉄道が不通に成り、新道(しんどう)とても薬研(やげん)に刻んで崩れたため、旅客(りょかく)は皆こゝを辿(たど)つたのであるが、其も当時だけで、又中絶(なかだ)えして、今は最(も)う、後(おく)れた雁(かり)ばかりが雲を越す思ひで急ぐ。……
 上端(あがりばな)に客を迎顔(むかえがお)の爺様(じいさま)の、トやつた風采(ふうさい)は、建場(たてば)らしくなく、墓所(はかしょ)の茶店(ちゃみせ)の趣(おもむき)があつた。
「旅籠(はたご)はの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。」
「何方(どちら)へ泊らうね。」
「やあ、」
 と皺手(しわで)を膝(ひざ)へ組んで、俯向(うつむ)いて口をむぐ/\さして、
「鍵屋へは一人も泊るものがごいせぬ。何(なん)や知らん怪しい事がある言うての。」

        三

 沢は蔵屋へ泊つた。
 が、焼麩(やきぶ)と小菜(こな)の汁で膳(ぜん)が済むと、最(も)う行燈(あんどう)を片寄(かたよ)せて、小女(こおんな)が、堅い、冷(つめた)い寝床を取つて了(しま)つたので、此(これ)からの長夜(ながよ)を、いとゞ侘(わび)しい。
 座敷は其方此方(そちこち)、人声(ひとごえ)して、台所には賑(にぎや)かなものの音、炉辺(ろべり)には寂(さ)びた笑(わらい)も時々聞える。
 寂(さび)しい一室(ひとま)に、ひとり革鞄(かばん)と睨(にら)めくらをした沢は、頻(しきり)に音訪(おとな)ふ、颯(さっ)……颯と云ふ秋風(あきかぜ)の漫(そぞ)ろ可懐(なつかし)さに、窓を開(あ)ける、と冷(ひややか)な峰が額(ひたい)を圧した。向う側の其の深い樹立(こだち)の中に、小さく穴の蓋(ふた)を外(は)づしたやうに、あか/\と灯影(ひかげ)の映(さ)すのは、聞及(ききおよ)んだ鍵屋であらう、二軒の他(ほか)は無い峠(とうげ)。
 一郭、中が窪(くぼ)んで、石碓(いしうす)を拡げた……右左(みぎひだり)は一面の霧(きり)。さしむかひに、其でも戸の開(あ)いた前あたり、何処(どこ)ともなしに其の色が薄かつた。
 で、つと小窓を開(ひら)くと、其処(そこ)に袖(そで)摺(す)れた秋風は、ふと向うへ遁(に)げて、鍵屋の屋根をさら/\と渡る。……颯(さっ)、颯と鳴る。而(そ)して、白い霧はそよとも動かないで、墨色(すみいろ)をした峰が揺(ゆす)ぶれた。
 夜(よる)の樹立の森々(しんしん)としたのは、山颪(やまおろし)に、皆……散果(ちりは)てた柳の枝の撓(しな)ふやうに見えて、鍵屋の軒(のき)を吹くのである。
 透かすと……鍵屋の其の寂(さび)しい軒下(のきした)に、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が雫(しずく)に成るのか、赤いものは艶(つや)を帯びて、濡色(ぬれいろ)に立つたのは、紅玉(こうぎょく)の如き柿の実を売るさうな。
「一つ食べよう。」
 迚(とて)も寝られぬ……次手(ついで)に、宿の前だけも歩行(ある)いて見よう、――
「遠くへ行(ゆ)かつせるな、天狗様(てんぐさま)が居ますぜえ。」
 あり合はせた草履(ぞうり)を穿(は)いて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺(ろべり)には、先刻(さっき)の按摩(あんま)の大入道(おおにゅうどう)が、やがて自在の中途(ちゅうと)を頭で、神妙らしく正整(しゃん)と坐つて。……胡坐(あぐら)掻(か)いて駕籠舁(かごかき)も二人居た。
 沢は此方(こなた)の側伝(かわづた)ひ、鍵屋の店を謎(なぞ)を見る心持(ここち)で差覗(さしのぞ)きながら、一度素通(すどお)りに、霧の中を、翌日(あす)行く方へ歩行(ある)いて見た。
 少し行くと橋があつた。
 驚いたのは、其の土橋(どばし)が、危(あぶな)つかしく壊(こわ)れ壊(ごわ)れに成つて居た事では無い。
 渡掛(わたりか)けた橋の下は、深さ千仭(せんじん)の渓河(たにがわ)で、畳(たた)まり畳まり、犇々(ひしひし)と蔽累(おおいかさ)なつた濃い霧を、深く貫(つらぬ)いて、……峰裏(みねうら)の樹立を射(い)る月の光が、真蒼(まっさお)に、一条(ひとすじ)霧に映つて、底から逆(さかさ)に銀鱗(ぎんりん)の竜の、一畝(ひとうね)り畝(うね)つて閃(ひら)めき上(のぼ)るが如く見えた其の凄(すご)さであつた。
 流(ながれ)の音は、ぐわうと云ふ。
 沢は目(ま)のあたり、深山(しんざん)の秘密を感じて、其処(そこ)から後(あと)へ引返(ひっかえ)した。
 帰りは、幹(みき)を並べた栃(とち)の木の、星を指す偉大なる円柱(まるばしら)に似たのを廻り廻つて、山際(やまぎわ)に添つて、反対の側(かわ)を鍵屋の前に戻つたのである。
「此の柿を一つ……」
「まあ、お掛けなさいましな。」
 框(かまち)を納涼台(すずみだい)のやうにして、端近(はしぢか)に、小造(こづく)りで二十二三の婦(おんな)が、しつとりと夜露(よつゆ)に重さうな縞縮緬(しまちりめん)の褄(つま)を投げつゝ、軒下(のきした)を這(は)ふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外(おもて)を視(なが)めて居たのを、沢は一目見て悚然(ぞっ)とした。月の明(あかる)い美人であつた。
 が、櫛巻(くしまき)の髪に柔かな艶(つや)を見せて、背(せな)に、ごつ/\した矢張(やっぱ)り鬱金(うこん)の裏のついた、古い胴服(ちゃんちゃんこ)を着て、身に染(し)む夜寒(よさむ)を凌(しの)いで居たが、其の美人の身に着(つ)いたれば、宝蔵千年(ほうぞうせんねん)の鎧(よろい)を取つて投懸(なげか)けた風情(ふぜい)がある。
 声も乱れて、
「お代(だい)は?」
「私は内のものではないの。でも可(よ)うござんす、めしあがれ。」
 と爽(さわやか)な、清(すず)しいものいひ。

        四

 沢は、駕籠(かご)に乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人(みやこびと)を見て、つい聞知(ききし)らずに居た、此の山には温泉(いでゆ)などあつて、それで逗留をして居るのであらう。
 と先(ま)づ思つた。
 処(ところ)が、聞いて見ると、然(そ)うで無い。唯(ただ)此処(ここ)の浮世離(うきよばな)れがして寂(さみ)しいのが気に入つたので、何処(どこ)にも行かないで居るのだと云ふ。
 寂(さみ)しいにも、第一此(こ)の家には、旅人の来て宿るものは一人(にん)も無い、と茶店(ちゃみせ)で聞いた――泊(とまり)がさて無いばかりか、※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)して見ても、がらんとした古家(ふるいえ)の中に、其の婦(おんな)ばかり。一寸(ちょっと)鼠(ねずみ)も騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。
 男たちは、疾(とう)から人里(ひとざと)へ稼(かせ)ぎに下(お)りて少時(しばらく)帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの賑(にぎや)かな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵(しょうばいがたき)も何も無い。只管(ひたすら)人懐(ひとなつ)かしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃(ひところ)皆無(かいむ)だつた旅客(りょかく)が急に立籠(たてこ)んだ時分は固(もと)より、今夜なども木(こ)の葉(は)の落溜(おちたま)つたやうに方々から吹寄(ふきよ)せる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数(にんず)ばかりでは手が廻りかねる。時とすると、膳(ぜん)、家具、蒲団(ふとん)などまで、此方(こっち)から持運(もちはこ)ぶのだ、と云ふのが、頃刻(しばらく)して美人(たおやめ)の話で分つた。
「家も此方(こっち)が立派ですね。」
「えゝ、暴風雨(あらし)の時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方(こちら)は裏に峰があつたお庇(かげ)で、旧(もと)のまゝだつて言ひますから……」
「其だに何故(なぜ)客が来ないんでせう。」
「貴下(あなた)、何もお聞きなさいませんか。」
「はあ。」
 沢は実は其段(そのだん)心得(こころえ)て居た、為に口籠(くちごも)つた。
「お化(ばけ)が出ますとさ。」
 痩(やせ)ぎすな顔に、清(きよ)い目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つて、沢を見て微笑(ほほえ)んで云つた。
「嘘でせう。」
「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」
 はじめは串戯(じょうだん)らしかつたが、後(のち)は真個(まったく)誘(いざな)つた。
「是非(ぜひ)、然(そ)うなさいまし、お化が出ると云つて……而(そ)して婦(おんな)が一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯(ひきょう)だわ。人身御供(ひとみごくう)に出会(でっくわ)せば、屹(きっ)と男が助けると極(きま)つたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、然(そ)うなさい。」
 で、退引(のっぴ)きあらせず。
「蔵屋の方は構ひません。一寸(ちょいと)、私が行つて断つて来て上げます。」
 と気軽に、すつと出る、留南奇(とめき)の薫(かおり)が颯(さっ)と散つた、霧に月(つき)射(さ)す裳(もすそ)の影(かげ)は、絵で見るやうな友染(ゆうぜん)である。
 沢は笊(ざる)に並んだ其の柿を鵜呑(うのみ)にしたやうに、ポンと成つた――実は……旅店(りょてん)の注意で、暴風雨(あらし)で変果(かわりは)てた此の前(さき)の山路(やまみち)を、朝がけの旅は、不案内のものに危険(けんのん)であるから、一同のするやうに、路案内(みちあんない)を雇(やと)へ、と云つた。……成程(なるほど)、途中の覚束(おぼつか)なさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる……寝るまでに必ず雇(やと)はう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙(ひま)も無かつたのである。
「お荷物は此(これ)だけですつてね、然(そ)う?……」
 と革鞄(かばん)を袖(そで)で抱いて帰つて来たのが、打傾(うちかたむ)いて優しく聞く。
「恐縮です、恐縮です。」
 沢は恐入(おそれい)らずには居られなかつた。鳶(とび)の羽(はね)には託(ことづ)けても、此の人の両袖に、――恁(か)く、なよなよと、抱取(だきと)らるべき革鞄ではなかつたから。
「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可(い)いの、貴下(あなた)、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処(ところ)は僅少(わずか)の間(あいだ)ですから、私がお見立て申すわ。逗留(とうりゅう)してよく知つて居ます。」
 と入替(いれかわ)りに、軒(のき)に立つて、中に居る沢に恁(こ)う言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾(にっこり)した。
「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」
 と肩を細(ほっそ)り……廂(ひさし)はづれに空を仰いで、山の端(は)の月と顔(かんばせ)を合せた。
「最(も)う霜(しも)が下りるのよ、炉の処(ところ)で焚火(たきび)をしませうね。」

        五

 美女(たおやめ)は炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而(そ)して、沢が其の故郷(ふるさと)の話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。
 沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年(じゅうゆうよねん)崇拝する、都の文学者某君(なにがしぎみ)の許(もと)へ、宿望(しゅくぼう)の入門が叶(かな)つて、其のために急いで上京する次第は、何故(なぜ)か、天機(てんき)を洩(も)らすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠(えんどお)い、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。
 蔵屋の門(かど)の戸が閉(しま)つて、山が月ばかり、真蒼(まっさお)に成つた時、此の鍵屋の母娘(おやこ)が帰つた。例の小女(こおんな)は其の娘で。
 二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処(そこ)へ寝た――丁(ちょう)ど真夜中過ぎである。……
 枕を削る山颪(やまおろし)は、激しく板戸(いたど)を挫(ひし)ぐばかり、髪を蓬(おどろ)に、藍色(あいいろ)の面(めん)が、斧(おの)を取つて襲ふかともの凄(すご)い。……心細さは鼠(ねずみ)も鳴かぬ。
 其処(そこ)へ、茶を焙(ほう)じる、夜(よ)が明けたやうな薫(かおり)で、沢は蘇生(よみがえ)つた気がしたのである。
 けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐(おそろ)しさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕(みづくろ)ひして、行燈(あんどう)を提げて、便(たより)のないほど堂々広(だだっぴろ)い廊下を伝つた。
 持つて下りた行燈(あんどう)は階子段(はしごだん)の下に差置(さしお)いた。下の縁(えん)の、ずつと奥の一室(ひとま)から、ほのかに灯(ひ)の影がさしたのである。
 邪(よこしま)な心があつて、ために憚(はばか)られたのではないが、一足(ひとあし)づゝ、みし/\ぎち/\と響く……嵐(あらし)吹(ふき)添ふ縁(えん)の音は、恁(かか)る山家(やまが)に、おのれ魅(み)と成つて、歯を剥(む)いて、人を威(おど)すが如く思はれたので、忍んで密(そっ)と抜足(ぬきあし)で渡つた。
 傍(そば)へ寄るまでもなく、大(おおき)な其の障子の破目(やれめ)から、立ちながら裡(うち)の光景(ようす)は、衣桁(いこう)に掛けた羽衣(はごろも)の手に取るばかりによく見える。
 ト荒果(あれは)てたが、書院づくりの、床(とこ)の傍(わき)に、あり/\と彩色(さいしき)の残つた絵の袋戸(ふくろど)の入つた棚の上に、呀(やあ)! 壁を突通(つきとお)して紺青(こんじょう)の浪(なみ)あつて月の輝く如き、表紙の揃(そろ)つた、背皮に黄金(おうごん)の文字を刷(お)した洋綴(ようとじ)の書籍(ほん)が、ぎしりと並んで、燦(さん)として蒼(あお)き光を放つ。
 美人(たおやめ)は其の横に、机を控へて、行燈(あんどう)を傍(かたわら)に、背(せな)を細く、裳(もすそ)をすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻(かいまき)を肩から羽織(はお)つて、両袖(りょうそで)を下へ忘れた、双(そう)の手を包んだ友染(ゆうぜん)で、清らかな頸(うなじ)から頬杖(ほおづえ)支(つ)いて、繰拡(くりひろ)げたペイジを凝(じっ)と読入(よみい)つたのが、態度(ようす)で経文(きょうもん)を誦(じゅ)するとは思へぬけれども、神々(こうごう)しく、媚(なま)めかしく、然(しか)も婀娜(あだ)めいて見えたのである。
「お客様ですか。」
 沢が、声を掛けようとして、思はず行詰(ゆきづま)つた時、向うから先んじて振向(ふりむ)いた。
「私です。」
「お入んなさいましな、待つて居たの。屹(きっ)と寝られなくつて在(い)らつしやるだらうと思つて、」
 障子の破れに、顔が艶麗(あでやか)に口の綻(ほころ)びた時に、さすがに凄(すご)かつた。が、寂(さみ)しいとも、夜半(よなか)にとも、何とも言訳(いいわけ)などするには及ばぬ。
「御勉強でございますか。」
 我ながら相応(そぐ)はない事を云つて、火桶(ひおけ)の此方(こなた)へ坐つた時、違棚(ちがいだな)の背皮の文字が、稲妻(いなずま)の如く沢の瞳(ひとみ)を射(い)た、他(ほか)には何もない、机の上なるも其の中の一冊である。
 沢は思はず、跪(ひざまず)いて両手を支(つ)いた。やがて門生(もんせい)たらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。
 時に、見返つた美女(たおやめ)の風采(とりなり)は、蓮葉(はすは)に見えて且(か)つ気高く、
「何(ど)うなすつたの。」
 沢は仔細を語つたのである……
 聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、
「頼母(たのも)しいのねえ、貴下(あなた)は……えゝ、知つて居ますとも、多日(ひさしく)御一所(ごいっしょ)に居たんですもの。」
「では、あの、奥様。」
 と、片手を支(つ)きつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。
「まあ、嬉しい!」
 と派手な声の、あとが消えて、じり/\と身を緊(し)めた、と思ふと、ほろりとした。
「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走(ごちそう)しませう……めしあがれ。」
 と云ふ。最(も)う晴(はれ)やかに成つて、差寄(さしよ)せる盆に折敷(おりし)いた白紙(しらかみ)の上に乗つたのは、たとへば親指の尖(さき)ばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの……
「栃(とち)の実の餅(もち)よ。」
 同じものを、来る途(みち)の爺(じじい)が茶店(ちゃみせ)でも売つて居た。が、其の形は宛然(まるで)違ふ。
「貴下(あなた)、気味が悪いんでせう……」
 と顔を見て又微笑(ほほえ)みつゝ、
「真個(ほんとう)の事を言ひませうか、私は人間ではないの。」
「えゝ!」
「鸚鵡(おうむ)なの、」
「…………」
「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本(ごほん)の先生を、最(も)う其は……贔屓(ひいき)な夫人があつて、其の方(かた)が私を飼つて、口移(くちうつ)しに餌(え)を飼つたんです。私は接吻(キッス)をする鳥でせう。而(そ)してね、先生の許(とこ)へ贈りものになつて、私は行つたんです。
 先生は私に口移しが出来ないの……然(そ)うすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。
 私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻(キッス)をさせるために生れました。而(そ)して、遙々(はるばる)東印度(ひがしインド)から渡つて来たのに……口惜(くやし)いわね。
 其で居て、傍(そば)に置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。
 雀(すずめ)や燕(つばめ)でないのだもの、鸚鵡が町家(まちや)の屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠(ひきこも)つて、先生の小説ばかり読んで居ます。
 貴下(あなた)、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」
 と不思議な美しい其の餅(もち)を、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。
 で、ぐいと引寄せられた。
「恁(こ)うして、さ。」
 と、櫛巻(くしまき)の其の水々(みずみず)とあるのを、がつくりと額(ひたい)の消(き)ゆるばかり、仰いで黒目勝(くろめがち)な涼(すずし)い瞳(ひとみ)で凝(じっ)と、凝視(みつ)めた。白い頬(ほお)が、滑々(すべすべ)と寄つた時、嘴(くちばし)が触れたのであらう、……沢は見る/\鼻のあたりから、あの女の乳房を開(ひら)く、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女(たおやめ)の顔を見ながら、甘さ、得(え)も言はれぬ其の餅を含んだ、心(こころ)消々(きえぎえ)と成る。山颪(やまおろし)に弗(ふっ)と灯(ひ)が消えた。
 と婦(おんな)の全身、廂(ひさし)を漏(も)る月影に、たら/\と人の姿の溶ける風情(ふぜい)に、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅(しんく)に透通(すきとお)るのを覚えたのである。

「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」
 東雲(しののめ)の気(き)爽(さわやか)に、送つて来て別れる時、つと高く通(みち)しるべの松明(たいまつ)を挙げて、前途(ゆくて)を示して云つた。其の火は朝露(あさつゆ)に晃々(きらきら)と、霧を払つて、満山(まんざん)の木(こ)の葉(は)に映つた、松明は竜田姫(たつたひめ)が、恁(か)くて錦(にしき)を染(そ)むる、燃ゆるが如き絵の具であらう。
 ……白い鸚鵡(おうむ)を、今も信ずる。
了

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
   1940(昭和15)年発行
初出:「三越」
   1911(明治44)年10月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2009年5月10日作成
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