あらすじ
修善寺温泉の裏路。洋画家・島津正と、小糸川子爵夫人・縫子は、同じ宿に泊まっていた。縫子は、島津の奥さんと偽って、彼に近づこうとする。しかし島津は、縫子の行動を不審に思いつつも、その真意をなかなか理解できない。一方、人形使いの辺栗藤次は、酒に酔って道端で人形を操っている。縫子は、彼に近づき、自分の望みを叶えてくれるよう頼み込む。そして、奇妙な関係が生まれ、三人は運命の渦へと巻き込まれていく。
山吹の花の、わけて白く咲きたる、小雨の葉の色も、ゆあみしたる美しき女の、眉あおき風情に似ずやとて、――

時  現代。
所  修善寺温泉の裏路。
同、下田街道へ捷径の山中。
人  島津正(四十五六)洋画家。
縫子(二十五)小糸川子爵夫人、もと料理屋「ゆかり」の娘。
辺栗藤次(六十九)門附の人形使。
ねりものの稚児。童男、童女二人。よろず屋の亭主。馬士一人。
ほかに村の人々、十四五人。
候  四月下旬のはじめ、午後。――
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場面。一方八重の遅桜(おそざくら)、三本(みもと)ばかり咲満ちたる中に、よろず屋の店見ゆ。鎖(とざ)したる硝子戸(がらすど)に、綿、紙、反もの類。生椎茸(なましいたけ)あり。起癈散(きはいさん)、清暑水など、いろいろに認(したた)む。一枚戸を開きたる土間に、卓子(テエブル)椅子(いす)を置く。ビール、サイダアの罎(びん)を並べ、菰(こも)かぶり一樽(ひとたる)、焼酎(しょうちゅう)の瓶(かめ)見ゆ。この店の傍(わき)すぐに田圃(たんぼ)。
一方、杉の生垣を長く、下、石垣にして、その根を小流(こながれ)走る。石垣にサフランの花咲き、雑草生ゆ。垣の内、新緑にして柳一本(ひともと)、道を覗(のぞ)きて枝垂(しだ)る。背景勝手に、紫の木蓮(もくれん)あるもよし。よろず屋の店と、生垣との間、逕(みち)をあまして、あとすべて未(いま)だ耕さざる水田(みずた)一面、水草を敷く。紫雲英(げんげ)の花あちこち、菜の花こぼれ咲く。逕をめぐり垣に添いて、次第に奥深き処、孟宗(もうそう)の竹藪(たけやぶ)と、槻(けやき)の大樹あり。この蔭より山道をのぼる。
狭き土間、貧しき卓子(テエブル)に向って腰掛けたる人形使(つかい)――辺栗藤次(へぐりとうじ)、鼻の下を横撫(よこなで)をしながら言う。うしろ向のままなり。
人形使 お旦那(だんな)――お旦那――もう一杯注(つ)いで下せえ。
万屋 (店の硝子戸の内より土間に出づ)何もね、旦那に(お)の字には及ばないが、(苦笑して)親仁(おやじ)、先刻(さっき)から大分明けたではないか。……そう飲んじゃあ稼げまいがなあ。
人形使 へ、へ、もう今日は稼いだ後だよ。お旦那の前だが、これから先は山道を塒(ねぐら)へ帰るばかりだでね――ふらりふらりとよ。
万屋 親仁の、そのふらりふらりは、聞くまでもないのだがね、塒にはまだ刻限が早かろうが。――私(わし)も今日は、こうして一人で留守番だが、湯治場(とうじば)の橋一つ越したこっちは、この通り、ひっそり閑(かん)で、人通りのないくらい、修善寺は大した人出だ。親仁はこれからが稼ぎ時ではないのかい。
人形使 されば、この土地の人たちはじめ、諸国から入込(いりこ)んだ講中(こうじゅう)がな、媼(ばば)、媽々(かかあ)、爺(じい)、孫、真黒(まっくろ)で、とんとはや護摩(ごま)の煙が渦を巻いているような騒ぎだ。――この、時々ばらばらと来る梅雨模様の雨にもめげねえ群集(ぐんじゅ)だでね。相当の稼ぎはあっただが、もうやがて、大師様が奥の院から修禅寺へお下(くだ)りだ。――遠くの方で、ドーンドーンと、御輿(みこし)の太鼓の音が聞えては、誰もこちとらに構い手はねえよ。庵(いおり)を上げた見世物の、じゃ、じゃん、じゃんも、音を潜(ひそ)めただからね――橋をこっちへ、はい、あばよと、……ははは、――晩景から、また一稼ぎ、みっちりと稼げるだが、今日の飲代(のみしろ)にさえありつけば、この上の欲はねえ。――罷(まか)り違ったにした処で、往生寂滅をするばかり。(ぐったりと叩頭(おじぎ)して、頭の上へ硝子杯(コップ)を突出す)――お旦那、もう一杯、注いで下せえ。
万屋 船幽霊(ふなゆうれい)が、柄杓(ひしゃく)を貸せといった手つきだな。――底ぬけと云うは、これからはじまった事かも知れない。……商売だからいくらでも売りはするが。(呑口(のみくち)を捻(ひね)る)――親仁、またそこらへ打倒(ぶったお)れては不可(いけな)いよ。
人形使 往生寂滅をするばかり。(がぶりと呑んで掌(てのひら)をチュウと吸う)別して今日は御命日だ――弘法(こうぼう)様が速(すみやか)に金ぴかものの自動車へ、相乗(あいのり)にお引取り下されますてね。
万屋 弘法様がお引取り下さるなら世話はないがね、村役場のお手数になっては大変だ。ほどにしておきなさいよ。(店の内に入(い)らんとす。)
人形使 (大(おおき)な声して)お旦那、もう一杯下せえ。
万屋 弘法様の御祭だ。芋が石になっては困る。……もの惜(おし)みをするようで可厭(いや)だから、ままよ、いくらでも飲みなさい。だが、いまの一合たっぷりを、もう一息にやったのかい。
人形使 これまでは雪見酒だで、五合(ごんべい)一寸たちまちに消えるだよ。……これからがお花見酒だ。……お旦那、軒の八重桜は、三本揃って、……樹は若(わけ)えがよく咲きました。満開だ。――一軒の門(かど)にこのくらい咲いた家は修善寺中に見当らねえだよ。――これを視(なが)めるのは無銭(ただ)だ。酒は高価(たけ)え、いや、しかし、見事だ。ああ、うめえ。
万屋 くだらない事を言いなさるな、酔ったな、親仁。……
人形使 これというも、酒の一杯や二杯ぐれえ、時たま肥料(こやし)にお施しなされるで、弘法様の御利益だ。
万屋 詰(つま)らない世辞を言いなさんな。――全くこの辺、人通りのないのはひどい。……先刻(さっき)、山越(やまごし)に立野(たつの)から出るお稚児を二人、大勢で守立(もりた)てて通ったきり、馬士(うまかた)も見掛けない。――留守は退屈だ――ああ太鼓が聞える。……
この太鼓は、棒にて荷(にな)いつりかけたるを、左右より、二人して両面をかわるがわる打つ音なり、ドーン、ドーンドーン、ドーンと幽(かすか)に響く。
人形使 笙(しょう)篳篥(ひちりき)が、紋着袴(もんつきばかま)だ。――消防夫(しごとし)が揃って警護で、お稚児がついての。あとさきの坊様は、香(こう)を焚(た)かっしゃる、御経を読まっしゃる。御輿舁(みこしかつ)ぎは奥の院十八軒の若い衆(しゅ)が水干烏帽子(すいかんえぼし)だ。――南無(なむ)大師、遍照金剛(へんじょうこんごう)ッ! 道の左右は人間の黒山だ。お捻(ひねり)の雨が降る。……村の嫁女は振袖で拝みに出る。独鈷(とっこ)の湯からは婆様(ばあさま)が裸体(はだか)で飛出す――あははは、やれさてこれが反対(あべこべ)なら、弘法様は嬉しかんべい。
万屋 勝手にしろ、罰の当った。(店へ入る。)
人形使 南無大師遍照金剛。――(ちびりとのみつつ、ぐたりとなる。)
夫人、雨傘をすぼめ、柄を片手に提げ、手提(てさげ)を持添う。櫛巻(くしまき)、引(ひっ)かけ帯、駒下駄(こまげた)にて出づ。その遅桜を視(なが)め、
夫人 まあ、綺麗(きれい)だこと――苦労をして、よく、こんなに――(間)……お礼を言いたいようだよ――ああ、ほんとうに綺麗だよ。よく、お咲きだこと。(かくて、小流(こながれ)に添いつつ行(ゆ)く。石がきにサフランの花を見つつ心付く)あら鯉(こい)が、大(おおき)な鯉が、――(小流を覗(のぞ)く)まあ、死んでるんだよ。
やや長き間(ま)。――衝(つ)と避けて、立離るる時、その石垣に立掛けたる人形つかいの傀儡(にんぎょう)目に留(とま)る。あやつりの竹の先に、白拍子(しらびょうし)の舞の姿、美しく※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(ろう)たけたり。夫人熟(じっ)と視(み)て立停(たちどま)る。無言。雨の音。
ああ、降って来た。(井菊と大きくしるしたる番傘を開く)まあ、人形が泣くように、目にも睫毛(まつげ)にも雫(しずく)がかかってさ。……(傘を人形にかざして庇(かば)う。)
人形使 (短(みじか)き暖簾(のれん)を頭(ず)にて分け、口大(おおき)く、皺(しわ)深く、眉迫り、ごま塩髯(しおひげ)硬く、真赤(まっか)に酔(え)いしれたる面(つら)を出し、夫人のその姿をじろりと視(み)る。はじめ投頭巾(なげずきん)を被(かぶ)りたる間、おもて柔和なり。いま頭巾を脱いだる四角な額に、白髪(しらが)長くすくすくとして面(おもて)凄(すさま)じ。)
画家 (薄色の中折帽(なかおれぼう)、うすき外套(がいとう)を着たり。細面(ほそおもて)にして清く痩(や)す。半ば眠れるがごとき目(まな)ざし、通りたる鼻下に白き毛の少し交りたる髭(ひげ)をきれいに揃えて短く摘む。おもての色やや沈み、温和にして、しかも威容あり。旅館の貸下駄にて、雨に懸念せず、ステッキを静(しずか)につき、一度桜を見る。)
人形使 (この時また土間の卓子(テエブル)にむかってうつむく。)
画家 (夫人の身近に、何等の介意なき態度)ははあ、操りですな。
夫人 先生――ですか、あの、これは私のじゃあございませんの。
画家 (はじめて心付きたる状(さま)にて)どうも、これは失礼しました。いや、端(はな)から貴女(あなた)がなさると思った次第でもありません。ちょっと今時珍しかったものですから。――近頃は東京では、場末の縁日にも余り見掛けなくなりました。……これは静(しずか)でしょうな。裏を返すと弁慶が大長刀(おおなぎなた)を持って威張っている。……その弁慶が、もう一つ変ると、赤い顱巻(はちまき)をしめた鮹(たこ)になって、踊(おどり)を踊るのですが、これには別に、そうした仕掛(しかけ)も、からくりもないようです。――(覗き覗き、済(すま)して夫人のさしかざしたる番傘の中へ半身)純、これは舞姫ばかりらしい。ああ、人形は名作だ。――御覧なさい凄(すご)いようです。……誰が持っていますか。……どうして、こんな処へほうり出しておきますかね。
夫人 人形つかいは――あすこで、(軽く指(ゆびさ)し、声を低くす)お酒を飲んでいるようですの。……そうらしいお爺さんが見えました。
画家 うまいでしょうな、きっと……一つ使わせてみとうございますね。
夫人 およしなさいまし、先生。……たいそう酔っているようですから。
画家 いかにも、酔っ払っていては面倒ですね。ああ、しかし、人形は名作です――帰途(かえり)にまた出逢(であ)うかも知れない。(半ば呟(つぶや)く)貴女(あなた)、失礼をいたしました。(冷然として山道の方(かた)へ行(ゆ)く。)
夫人 (二三歩あとに縋(すが)る)先生、あの……先生――どちらへ?
画家 (再びはじめて心付く)いや、(と軽く言う。間)……先生は弱りました。が、町も村も大変な雑鬧(ざっとう)ですから、その山の方へ行ってみます。――貴女は、(おなじく眠れるがごとき目のまま)つい、お見それ申しましたが、おなじ宿にでもおいでなのですか。
夫人 ええ、じき(お傍(そば)にと言う意味籠(こも)る)……ですが、階下(した)の奥に。あの……
画家 それはどうも――失礼します。(また行(ゆ)く。)
夫人 (一歩縋る)先生、あのここへいらっしゃりがけに、もしか、井菊の印半纏(しるしばんてん)を着た男衆(おとこしゅ)にお逢いなさりはしませんでしたか。
画家 ああ、逢いました。
夫人 何とも申しはいたしません?……
画家 (徐(おもむろ)に腕を拱(こまぬ)く)さあ……あの菊屋と野田屋へ向って渡る渡月橋(とげつきょう)とか云うのを渡りますと、欄干に、長い棹(さお)に、蓑(みの)を掛けたのが立ててあります。――この大師の市(いち)には、盛(さかん)に蓑を売るようです。その看板だが、案山子(かかし)の幟(のぼり)に挙げたようでおかしい、と思って、ぼんやり。――もっとも私も案山子に似てはいますが、(微笑(ほほえ)む)一枚、買いたいけれども、荷になると思って見ていますと、成程、宿の男が通りかかりました。
夫人 ええ、そうして……
画家 ああそうです。(拱きたる腕を解く)……「そこに奥さまがおいでです。」と言って行き過ぎました。成程……貴女の事でしたか。お連(つれ)になって一所に出掛けたとでも思ったでしょう――失礼します。
夫人 まあ、先生。……唯今(ただいま)は別々でしたけれど、昨夜おそく着きました時は、御一所でございましたわ。
画家 貴女と……
夫人 ええ。
画家 存じませんな。
夫人 大仁(おおひと)で。……自動車はつい別になりましたんですが、……おなじ時に、――
画家 私は乗合でしたがな――さよう……お一方(ひとかた)、仕立てた方があったように思いますが、それは、至極当世風の髪も七三で……(と半ば言う。)
夫人 その女が……(やや息忙(いきぜわ)しく)その女が、先生、宿へ着きますと、すぐ、あの、眉毛(まみえ)を落しましたの。(顔を上げつつ、颯(さっ)とはなじろむ)髪もこんなにぐるぐる巻にしたんです。
画家 ははあ。(いぶかしそうに、しかし冷静に聞くのみ。)
夫人 先生。(番傘を横に、うなだれて、さしうつむく。頸脚(えりあし)雪を欺(あざむ)く)宿の男衆が申したのは、余所(よそ)の女房という意味ではないのです。(やや興奮しつつ)貴方(あなた)の奥さまという意味でございました。
――間――
画家 (かくても、もの静(しずか)に)……と仰有(おっしゃ)ると?
夫人 昨晩、同じ宿へ着きますと、直ぐ、宿の人に――私は島津先生の――あの私は……(口籠(くちごも)る。小間(すこしきま))お写真や、展覧会で、蔭ながらよく貴方を存じております。――「私は島津の家内ですが」と宿の人に――「実は見付からないようにおなじ汽車で、あとをつけて来たんです。」辻棲(つじつま)はちっと合(あわ)ないかも存じませんが、そう云いましたの。……その次第(わけ)は「島津は近頃浮気をして、余所(よそ)の婦(おんな)と、ここで逢曳(あいびき)をするらしい。」……
画家 私が。
夫人 貴方が、あの、そして、仮に私の旦那様が。
画家 それは少々怪(け)しかりません。(苦笑する。)
夫人 堪忍(かに)して下さいまし。先生、――「座敷を別に、ここに忍んで、その浮気を見張るんだけれど、廊下などで不意に見附かっては不可(いけな)いから、容子(ようす)を変えるんだ。」とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭(つむり)を振向く)あの、蓮葉(はすは)にしめて、「後生(ごしょう)、内証だよ。」と堅く口止(くちどめ)をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと……
画家 (微(かすか)に眉を顰(ひそ)む。しかし寛容に)保養に来る場所(ところ)ですから、そんな悪戯(いたずら)もいいでしょうな――失礼します。
夫人 あれ、先生、お怒りも遊ばさないで……
画家 綺麗な奥さんに悪戯をされて――かえって喜んでいるかも知れません。――しかし失礼します。
夫人 どうしましょう、先生、私……悪戯どころではありません。
画家 悪戯どころでないというは?(この時はじめて確(しか)と言う。)
夫人 (激して、やや震えながら)後生です。見て下さいまし。貴方に見て頂きたいものがあるんです。(外套(がいとう)の袖を引く、籠(こも)れる力に、画家を小流(こながれ)の縁(ふち)に引戻す)ちょっと御覧なさいまし。
鯉(こい)を指(ゆびさ)す、死したる鯉、この時いまだ客者(かくしゃ)の目につかず。
画家 おお、これは酷(ひど)い。――これは悲惨だ。
夫人 先生、私は、ここに死んで流れています、この鯉の、ほんの死際(しにぎわ)、一息前と同じ身の上でございます。
画家 (無言。……)
夫人 (間)私には厳しく追手(おって)が掛(かか)っております。見附かりますと、いまにも捉(つかま)えられなければなりませんものですから。――途中でお姿をお見上げ申し、お宿まで慕って参って、急の思いつきで、失礼な事をいたしました。一生懸命なのです。そしてちょっとの間(ま)に、覚悟をしますつもりでおります。――眉を落して、形をかえて、貴方の奥さまになって隠れていましても、人出入の激しい旅館(やど)では、ちっとも心が落着きませんから、こうして道に迷っております。どうぞ、御堪忍なすって下さいまし。……夢にも悪戯ではないのですから。
画家 いたし方がありますまいな。
夫人 (もの足りなさに、本意(ほい)なげにて)無理にもお許し下さいましたか。……その上なおお言葉に甘えますようですけれど、お散歩の方へ……たとい後(うしろ)へ離れましても、御一所に願えますと、立派に人目が忍べます。――貴方(弱く媚(こ)びて)どうぞ、お連れ下さいましな。
画家 (きっぱりと)それは迷惑です。
夫人 まあ。――いいえ、お連れ下さいましても、その間に、ただ(更に鯉を指す)この姿になります覚悟を極(き)めますだけなんでございますもの。
画家 それは不可(いけ)ませんな。御事情はどんなであろうと、この形になっては仕方がありません。
人形使 (つんのめりたるが猛然と面(おもて)を擡(もた)げ)お旦那、もう一杯下せえ。お旦那。
画家 (この声を聞く。あえて心に留めず)私一人(いちにん)としてはこんな姿におなりなさるのだけは堅くお止め申します――失礼をします。(衝(つ)と離れて山手に赴く。)
夫人 (画家の姿、槻(けやき)の樹立(こだち)にかくれたる時、はらはらとあとを追い、また後戻りす。見送りつつ)はかないねえ!
わが声に、思わず四辺(あたり)を視(み)る。降らぬ雨に傘(からかさ)を開き、身を恥じてかくすがごとくにして、悄然(しょうぜん)と、画家と同じ道、おなじ樹立に姿を消す。
人形使 お旦那、もう一杯下せえ。
万屋 ちょッ、困らせるじゃあないか。(ついで与う。)
人形使 そのかわり、へ、へ、今度はまた月見酒だよ。雲がかかると満月がたちまちかくれる。(一息に煽切(あおっき)る)ああッ、う――い。……御勘定……(首にかけた汚(きたな)き大蝦蟇口(おおがまぐち)より、だらしなく紐(ひも)を引いてぶら下りたる財布を絞り突銭(つきせん)する)弘法様も月もだがよ。銭も遍(あまね)く金剛を照すだね。えい。(と立つ。脊高き痩脛(やせずね)、破股引(やれももひき)にて、よたよた。酒屋は委細構わず、さっさと片づけて店へ引込(ひっこ)む。)えい。(よたよた。やがて人形の前までよたよたよた)はッ、静御前様。(急に恐入ったる体(てい)にて、ほとんど土下座をするばかり。間。酔眼を鯉に見向く)やあ、兄弟、浮かばずにまだ居たな。獺(かわうそ)が銜(くわ)えたか、鼬(いたち)が噛(かじ)ったか知らねえが、わんぐりと歯形が残って、蛆(うじ)がついては堪(たま)らねえ。先刻(さっき)も見ていりゃ、野良犬が嗅(か)いで嗅放(かぎっぱな)しで失(う)せおった。犬も食わねえとはこの事だ。おのれ竜にもなる奴(やつ)が、前世の業(ごう)か、死恥を曝(さら)すは不便(ふびん)だ。――俺(おら)が葬ってやるべえ。だが、蛇塚、猫塚、狐塚よ。塚といえば、これ突流すではあんめえ。土に埋(うず)めるだな、土葬にしべえ。(半ばくされたる鯉の、肥えて大なるを水より引上ぐ。客者(かくしゃ)に見ゆ)引導の文句は知らねえ。怨恨(うらみ)あるものには祟(たた)れ、化けて出て、木戸銭を、うんと取れ、喝!(財布と一所に懐中(ふところ)に捻(ね)じ込みたる頭巾(ずきん)に包み、腰に下げ、改って蹲(うずくま)る)はッ、静御前様。(咽喉(のど)に巻いたる古手拭(ふるてぬぐい)を伸(のば)して、覆面す――さながら猿轡(さるぐつわ)のごとくおのが口をば結(ゆわ)う。この心は、美女に対して、熟柿(じゅくし)臭きを憚(はばか)るなり。人形の竹を高く引(ひっ)かつぐ。山手の方へ)えい。(よたよた。よたよたよた。)
夫人、樹立の蔭より、半ば出でてこの体(てい)を窺(うかが)いつつあり。
人形使 えい。(よたよた)えい。(よたよたよた。)
夫人 (次第に立出で、あとへ引(ひっ)かえしざまにすれ違う。なおその人形使を凝視しつつ)爺(おじ)さん、爺さん。
人形使 (丈高く、赤き面(つら)にて、じろりと不気味に見向く。魔のごとし。)
夫人 (大胆に、身近く寄る)私は何にも世の中に願(ねがい)はなし、何の望みも叶(かな)わなかったから、お前さんの望(のぞみ)を叶えて上げよう。宝石も沢山ある。お金も持っています――失礼だけれど、お前さんの望むこと一つだけなら、きっと叶えて上げようと思うんだよ。望んでおくれな。爺(おじ)さん、叶えさしておくんなさいな。
人形使 (無言のまま睨(にら)むがごとく見詰めつつ、しばらくして、路傍(みちばた)に朽ちし稲塚(いなづか)の下の古縄を拾い、ぶらりと提げ、じりじりと寄る。その縄、ぶるぶると動く。)
夫人 ああれ。(と退(すさ)る。)
人形使 (ニヤリと笑う。)
夫人 ああ蛇かと思った。――もう蛇でも構わない。どうするの――どうするのよ。
人形使 (ものいわず、皺手(しわで)をさしのべて、ただ招く。招きつつ、あとじさりに次第に樹立に入(い)る。)
夫人 どうするのさ。どうするのよ。(おなじく次第に、かくて樹立に隠る。)
舞台しばらく空し。白き家鴨(あひる)、五羽ばかり、一列に出でて田の草の間を漁(あさ)る。行春(ゆくはる)の景(かげ)を象徴するもののごとし。
馬士 (樹立より、馬を曳(ひ)いて、あとを振向きつつ出づ。馬の背に米俵(こめだわら)二俵。奉納。白米。南無大師遍照金剛の札を立つ)ああ気味の悪い。真昼間(まっぴるま)何事だんべい。いや、はあ、こげえな時、米が砂利になるではねえか。(眉毛に唾(つば)しつつ俵を探りて米を噛(か)む)まず無事だ。(太鼓の音近く聞ゆ)――弘法様のお庇(かげ)だんべい。ああ気味の悪い――いずれ魔ものだ、ああ恐怖(おっかね)え。
――廻る――
場面。――一方やや高き丘、花菜の畑と、二三尺なる青麦畠(あおむぎばたけ)と相連(あいつらな)る。丘のへりに山吹の花咲揃えり。下は一面、山懐(やまふところ)に深く崩れ込みたる窪地(くぼち)にて、草原(くさはら)。苗樹ばかりの桑の、薄く芽ぐみたるが篠(しの)に似て参差(しんし)たり。
一方は雑木山、とりわけ、かしの大樹、高きと低き二幹(ふたみき)、葉は黒きまで枝とともに茂りて、黒雲の渦のごとく、かくて花菜の空の明るきに対す。
花道をかけて一条(ひとすじ)、皆、丘と丘との間の細道の趣なり。遠景一帯、伊豆の連山。
画家 (一人、丘の上なる崕(がけ)に咲ける山吹と、畠の菜の花の間高き処に、静(しずか)にポケット・ウイスキーを傾けつつあり。――鶯(うぐいす)遠く音(ね)を入(い)る。二三度鶏の声。遠音(とおね)に河鹿(かじか)鳴く。しばらくして、立ちて、いささかものに驚ける状(さま)す。なお窺(うかが)うよしして、花と葉の茂(しげり)に隠る。)
夫人 (傘を片手に、片手に縄尻を控えて――登場。)
人形使 (猿轡(さるぐつわ)のまま蝙蝠傘(こうもりがさ)を横に、縦に十文字に人形を背負い、うしろ手に人形の竹を持ちたる手を、その縄にて縛(いまし)められつつ出づ。肩を落し、首を垂れ、屠所(としょ)に赴くもののごとし。しかも酔える足どり、よたよたとして先に立ち、山懐の深く窪み入(い)りたる小暗(おぐら)き方(かた)に入(い)り来(きた)り、さて両腕を解けば縄落つ。実(まこと)はいましめたるにあらず、手にてしかく装いたるなり。人形を桑の一木(ひとき)に立掛け、跪(ひざまず)いて拝む。かくてやや離れたる処にて、口の手拭(てぬぐい)を解く)御新造様。そりゃ、約束の通り遣(や)って下せえ。(足手を硬直(かたく)し、突伸べ、ぐにゃぐにゃと真俯向(まうつむ)けに草に俯(ふ)す。)
夫人 ほんとうなの、爺(おじ)さん。
人形使 やあ、嘘にこんな真似が出来るもので。それ、遣附(やッつ)けて下せえまし。
夫人 ほんとうに打(ぶ)つの?
人形使 血の出るまで打って下せえ。息の止(とま)るまでもお願(ねげ)えだよ。
夫人 ほんとうかい、ほんとうに打つのかね。
人形使 何とももう堪(たま)らねえ、待兼ねますだ。
夫人 ……あとで強情(ねだ)られたって、それまでの事だわね。――では、約束をしたものだから、ほんとうに打ってよ。我慢をおし。(雨傘にて三つ四つ。と続けさまに五つ六つ。)
人形使 堪(こた)えねえ、ちっとも堪えねえ。
夫人 (鞭(むち)打ちつつ)これでは――これでは――
人形使 駄目だねえ。(寝ながら捻向(ねじむ)く)これでもか、これでもか、と遣って下せえ。
夫人 これでも、あの、これでも。
人形使 そんな事では、から駄目だ。待たっせえまし。(布子(ぬのこ)の袖なし、よごれくさりし印半纏(しるしばんてん)とともに脱ぎ、痩(や)せたる皺膚(しわはだ)を露出す。よろりと立って樹にその身をうしろむきに張りつく。振向きて眼(まなこ)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)りながら)傘を引破いて、骨と柄になせえまし。それでは、婆娑々々(ばさばさ)するばかりで、ちっとも肉へ応(こた)えねえだ。
夫人 (ため息とともに)ああ。
人形使 それでだの、打(ぶ)つものを、この酔払いの乞食爺(こじきじじい)だと思っては、ちっとも力が入らねえだ。――御新造様が、おのれと思う、憎いものが世にあるべい。姑(しゅうとめ)か、舅(しゅうと)か、小姑(こじゅうと)か、他人か、縁者、友だちか。何でも構う事はねえだの。
夫人 ああ。
人形使 その憎い奴(やつ)を打つと思って、思うさま引払(ひっぱた)くだ。可(い)いか、可いかの。
夫人 ああ。
人形使 それ、確(しっか)りさっせえ。
夫人 ああ。あいよ。(興奮しつつ、びりびりと傘を破く。ために、疵(きず)つき、指さき腕など血汐(ちしお)浸(にじ)む――取直す)――畜生――畜生――畜生――畜生――
人形使 ううむ、(幽(かすか)に呻(うめ)く)ううむ、そうだ、そこだ。ちっと、へい、応えるぞ。ううむ、そうだ。まだだまだだ。
夫人 これでもかい。これでもかい、畜生。
人形使 そ、そんな、尻べたや、土性骨(どしょうぼね)ばかりでは埒(らち)明(あ)かねえ、頭も耳も構わずと打叩(ぶったた)くんだ。
夫人 畜生、畜生、畜生。(自分(われ)を制せず、魔に魅入られたるもののごとく、踊りかかり、飛び上り、髪乱れ、色あおざむ。打(う)って打って打ちのめしつつ、息を切る)ああ、切ない、苦しい。苦しい、切ない。
人形使 ううむ堪らねえ、苦しいが、可(い)い塩梅(あんばい)だ。堪らねえ、いい気味だ。
画家 (土手を伝わって窪地に下りる。騒がず、しかし急ぎ寄り、遮り止(とど)む)貴女(あなた)、――奥さん。
夫人 あら、先生。(瞳を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)くとともに、小腕(こがいな)しびれ、足なえて、崩るるごとく腰を落し、半ば失心す。)
画家 (肩を抱く)ウイスキーです――清涼剤(きつけ)に――一体、これはどうした事です。
人形使 (びくりびくりと蠢(うごめ)く。)
画家 (且つこれを見つつ)どうした事情だか知りません。けれども、余り極端な事をしては不可(いけな)い。
夫人 (吻(ほっ)と息して)私、どうしたんでございましょう、人間界にあるまじき、浅ましい事をお目に掛けて、私どうしたら可(い)いでしょうねえ。(ヒステリックに泣く。)
画家 (止(や)むことを得ず、手をさすり脊筋を撫(な)づ)気をお鎮めなさい。
人形使 (血だらけの膚(はだ)を、半纏にて巻き、喘(あえ)ぎつつ草に手をつく)はい、……これは、えええ旦那様でござりますか、はい。
画家 この奥さんの……別に、何と言うではないが、ちょっと知合だ。
人形使 はい、そのお知合の旦那様に、爺(じい)から申上げます。はい、ええ、くどい事は、お聞きづろうござりますで。……早い処が、はい、この八ツ目鰻(うなぎ)の生干(なまぼし)を見たような、ぬらりと黒い、乾(ひ)からびた老耄(おいぼれ)も、若い時が一度ござりまして、その頃に、はい、大(えか)い罪障を造ったでござります。女子(おなご)の事でござりましての。はい、ものに譬(たと)えようもござりませぬ。欄間にござる天女(てんにん)を、蛇が捲(ま)いたような、いや、奥庭の池の鯉を、蠑※(「虫+原」、第3水準1-91-60)(いもり)が食い破りましたそうな儀で。……生命(いのち)も血も吸いました。――一旦夢がさめますると、その罪の可恐(おそろし)さ。身の置所もござりませぬで。……消えるまで、失(う)せるまでと、雨露に命を打たせておりますうちに――四国遍路で逢いました廻国の御出家――弘法様かと存ぜられます――御坊様(ごぼうさま)から、不思議に譲られたでござります。竹操りのこの人形も、美しい御婦人でござりますで、爺が、この酒を喰(くら)います節も、さぞはや可厭(いや)であろうと思いますで、遠くへお離し申しておきます。担いで帰ります節も、酒臭い息が掛(かか)ろうかと、口に手拭(てぬぐい)を噛(か)みます仕誼(しぎ)で。……美しいお女中様は、爺の目に、神も同然におがまれます。それにつけても、はい、昔の罪が思われます。せめて、朝に晩に、この身体(からだ)を折檻(せっかん)されて、拷問(ごうもん)苛責(かしゃく)の苦(くるしみ)を受けましたら、何ほどかの罪滅しになりましょうと、それも、はい、後の世の地獄は恐れませぬ。現世の心の苦しみが堪えられませぬで、不断常住、その事ばかり望んではおりますだが、木賃宿の同宿や、堂宮(どうみや)の縁下(えんのした)に共臥(ともぶせ)りをします、婆々(ばば)媽々(かか)ならいつでも打ちも蹴りもしてくれましょうが、それでは、念が届きませぬ。はて乞食が不心得したために、お生命までも、おうしないにならっせえましたのは、美しいお方でござりましたもの。やっぱり、美しいお方の苛責(かしゃく)でのうては、血にも肉にも、ちっとも響かぬでござります。――またこの希望(のぞみ)が、幽霊や怨念(おんねん)の、念願と同じ事でござりましての、この面(つら)一つを出したばかりで大概の方は遁(に)げますで。……よくよくの名僧智識か、豪傑な御仁(ごじん)でないと、聞いてさえ下さりませぬ。――この老耄(おいぼれ)が生れまして、六十九年、この願望(がんもう)を起しましてから、四十一年目の今月今日。――たった今、その美しい奥方様が、通りがかりの乞食を呼んで、願掛(がんかけ)は一つ、一ヶ条何なりとも叶えてやろうとおっしゃります。――未熟なれども、家業がら、仏も出せば鬼も出す、魔ものを使う顔色(がんしょく)で、威(おど)してはみましたが、この幽霊にも怨念にも、恐れなされませぬお覚悟を見抜きまして、さらば、お叶え下されまし、とかねての念願を申出でまして、磔柱(はりつけばしら)の罪人が引廻しの状(さま)をさせて頂き、路傍(みちばた)ながら隠場所(かくればしょ)の、この山崩れの窪溜(くぼたまり)へ参りまして、お難有(ありがた)い責折檻(せめせっかん)、苛責(かしゃく)を頂いた儀でござります。……旦那様。
――もし、お美しい奥方様、おありがとうござります。おありがとうござります。
夫人 (はじめて平静に)お前さん、痛みはしないかい。
人形使 何の貴女様、この疼痛(いたみ)は、酔った顔をそよりそよりと春風に吹かれますも、観音様に柳の枝から甘露を含めて頂きますも、同じ嬉しさでござります。……はたで見ます唯今の、美女でもって夜叉(やしゃ)羅刹(らせつ)のような奥方様のお姿は、老耄(おいぼれ)の目には天人、女神をそのままに、尊く美しく拝まれました。はい、この疼痛のござりますうちだけは、骨も筋も柔かに、血も二十(はたち)代に若返って、楽しく、嬉しく、日を送るでござりましょう。
画家 (且つ傾き、且つ聞きつつ、冷静に金口煙草(きんぐちたばこ)を燻(くゆ)らす)お爺さん、煙草を飲むかね。
人形使 いやもう、酒が、あか桶(おけ)の水なれば、煙草は、亡者の線香でござります。
画家 喫(の)みたまえ。(真珠の飾(かざり)のついたる小箱のまま、衝(つ)と出(いだ)す。)
人形使 はッこれは――弘法様の独鈷(とっこ)のように輝きます。勿体(もったい)ない。(這出(はいだ)して、画家の金口から吸いつける)罰の当った――勿体ない。この紫の雲に乗りまして、ふわふわと……極楽の空へ舞いましょう。
夫人 爺(おじ)さん、もう行(ゆ)くの。……打(ぶ)たれたばかりで、ほんとに可(い)いのかい。
人形使 たとい桂川(かつらがわ)が逆(さかさ)に流れましても、これに嘘はござりませぬ。
夫人 何か私に望んでおくれ。どうも私は気が済まない。
人形使 この上の望(のぞみ)と申せば、まだ一度も、もう三度も、御折檻、御打擲(ごちょうちゃく)を願いたいばかりでござります。
夫人 そして、それから。
人形使 はあ、その上の願(ねがい)と申せば、この身体(からだ)が粉々になりますまで、朝に晩に、毎日毎夜、お美しい奥方様の折檻を受けたいばかりでござります。――はや酔も覚めました。もう世迷言(よまいごと)も申しますまい。――昼は遠慮がござりますが、真夜中は、狸、獺(かわうそ)、化ものも同然に、とがめ人(て)のござりませぬ、独鈷の湯へ浸ります嬉しさに、たつ野の木賃に巣をくって、しばらくこの山道を修善寺へ通いましたが――今日かぎり下田街道をどこへなと流れます。雲と水と申したけれど、天の川と溝(どぶ)の流れと分れましては、もはやお姿は影も映りますまい。お二方様とも、万代お栄えなされまし。――静御前様、へいへいお供をいたします。
夫人 お待ちなさい、爺(おじ)さん。(決意を示し、衣紋(えもん)を正す)私がお前と、その溝川(みぞがわ)へ流れ込んで、十年も百年も、お前のその朝晩の望みを叶えて上げましょう。
人形使 ややや。(声に出さず、顔色のみ。)
夫人 先生、――私は家出をいたしました。余所(よそ)の家内でございます。連戻されるほどでしたら、どこの隅にも入れましょうが、このままでは身の置処(おきどころ)がありません。――溝川に死(お)ちた鯉の、あの浅ましさを見ますにつけ、死んだ身体(からだ)の醜(みにく)さは、こうなるものと存じましても、やっぱり毒を飲むか、身を投げるか、自殺を覚悟していました。ただお煩(うるさ)さの余りでも、「こんな姿になるだけは、堅く止める。」と、おっしゃいました。……あの先刻(さっき)のお一言(ひとこと)で、私は死ぬのだけは止(や)めましてございます。
先生、――私は、唯今では、名ばかりの貧乏華族、小糸川の家内でございますが。
画家 ああ子爵でおいでなさる。
夫人 何ですか、もう……――あの、貴方、……前(ぜん)は、貴方が、西洋からお帰り時分、よく、お夥間(なかま)と御贔屓(ごひいき)を遊ばして、いらしって下さいました、日本橋の……(うっとりと更に画家の顔を見る)――お忘れでございますか、お料理の、ゆかりの娘の、縫(ぬい)ですわ。
画家 ああ、そうですか。お縫さん……お妹さんの方ですね。綺麗なお嬢さんがおいでなさるという事を、時々風説(うわさ)に聞きました。
夫人 (はかなそうに)ええ、先生は、寒い時寒い、と言うほど以上には、お耳には留まらなかったでございましょう。私は貴方に見られますのが恥かしくッて、貴方のお座敷ばっかりは、お敷居越にも伺った事はありませんが、蔭ではお座敷においで遊ばす時の、先生のお言葉は、一つとして聞き洩(も)らした事はないくらいでございます。奥座敷にお見えの時は、天井の上に俯向(うつむ)けになって聞きます。裏座敷においでの時は、小庭を中に、湯どのに入って、衣服(きもの)を着てばかりはいられませんから、裸体(はだか)で壁に附着(くッつ)きました。そのほか、小座敷でも広室(ひろま)でも、我家の暗(やみ)をかくれしのぶ身体(からだ)はまるで鼠のようで、心は貴方の光のまわりに蛾(ひとりむし)のようでした。ですが、苦労人の女中にも、わけ知(しり)の姉たちにも、気(け)ぶりにも悟られた事はありません。身ぶり素ぶりに出さないのが、ほんとの我が身体で、口へ出して言えないのが、真実の心ですわ。ただ恥かしいのが恋ですよ。――ですがもうその時分から、ヒステリーではないのかしら、少し気が変だと言われました。……貴方、お察し下さいまし。……私は全く気が変になりました。貴方が御結婚を遊ばして、あとまる一年、ただ湧(わ)くものは涙ばかり、うるさく伸びるものは髪ばかり。座敷牢(ろう)ではありませんが、附添たちの看護の中に、藻抜(もぬけ)のように寝ていました。死にもしないで、じれったい。……消えもしないで、浅ましい、死なずに生きていたんですよ。
――我が身に返りました時、年紀(とし)も二十(はたち)を三つ越す。広い家を一杯に我儘(わがまま)をさして可愛がってくれました母親(おふくろ)が亡くなりました。盲目(めくら)の愛がなくなりますと、明(あかる)い世間が暗くなります。いままで我ままが過ぎましたので、その上の我がままは出来ない義理になりました。それでも、まだ我がままで――兄姉たちや、親類が、確(たしか)な商人(あきんど)、もの堅い勤人(つとめにん)と、見立ててくれました縁談を断って、唯今の家へ参りました。
 姑(しゅうとめ)が一人、小姑(こじゅうと)が、出戻(でもどり)と二人、女です――夫に事(つか)うる道も、第一、家風だ、と言って、水も私が、郊外の住居(すまい)ですから、釣瓶(つるべ)から汲(く)まされます。野菜も切ります。……夜はお姑のおともをして、風呂敷でお惣菜(そうざい)の買ものにも出ますんです。――それを厭(いと)うものですか。――日本橋の実家からは毎日のおやつと晩だけの御馳走(ごちそう)は、重箱と盤台(はんだい)で、その日その日に、男衆が遠くを自転車で運ぶんです。が、さし身の角が寝たと言っては、料理番をけなしつけ、玉子焼の形が崩れたと言っては、客の食べ余(あまり)を無礼だと、お姑に、重箱を足蹴(あしげ)にされた事もあります。はじめは、我身の不束(ふつつか)ばかりと、怨(うら)めしいも、口惜(くちおし)いも、ただ謹(つつしん)でいましたが、一年二年と経ちますうちに、よくその心が解りました。――夫をはじめ、――私の身につきました、……実家(さと)で預ります財産に、目をつけているのです。いまは月々のその利分で、……そう申してはいかがですが、内中の台所だけは持っておるのでございますけれど、その位では不足なのです。――それ姪(めい)が見合をする、従妹(いとこ)が嫁に行(ゆ)くと言って、私の曠着(すれぎ)、櫛(くし)笄(こうがい)は、そのたびに無くなります。盆くれのつかいもの、お交際(つきあい)の義理ごとに、友禅も白地も、羽二重、縮緬(ちりめん)、反ものは残らず払われます。実家(さと)へは黙っておりますけれど、箪笥(たんす)も大抵空(から)なんです。――…………………それで主人は、詩をつくり、歌を読み、脚本などを書いて投書をするのが仕事です。
画家 それは弱りましたな。けれど、末のお見込はありましょう。
夫人 いいえ、その末の見込が、私が財産を持込みませんと、いびり出されるばかりなんです。咳(せき)をしたと言(いっ)てはひそひそ、頭を痛がると言っては、ひそひそ。姑たちが額を集め、芝居や、活動によくある筋の、あの肺病だから家のためにはかえられない、という相談をするのです。――夫はただ「辛抱を、辛抱を。」と言うんですが、その辛抱をしきれないうち、私は死(しん)でしまいましょう。ついこの間もかぜを引いて三日寝ました。水をのみに行(ゆ)きます廊下で、「今度などが汐時(しおどき)じゃ。……養生と言って実家(うち)へ帰したら。」姑たちが話すのを、ふいに痛い胸に聞いたのです。
画家 それは薄情だ。
夫人 薄情ぐらいで済むものですか。――私は口惜(くやし)さにかぜが抜けて、あらためて夫に言ったんです。「喧嘩をしても実家(さと)から財産を持って来ます。そのかわりただ一度で可(よ)うござんす。お姑さんを貴方の手で、せめて部屋の外へ突出して、一人の小姑の髻(たぶさ)を掴(つか)んで、一人の小姑の横ぞっぽうを、ぴしゃりと一つお打ちなさい。」と……
人形使 (じりじり乗出す)そこだそこだ、その事だ。
画家 ははは、痛快ですな。しかし穏(おだやか)でない。
夫人 (激怒したるが、忘れたように微笑(ほほえ)む)穏でありませんか。
画家 まず。……そこで。
夫人 きさまは鬼だ、と夫が申すと、いきなり私が、座敷の外へ突飛ばされ、倒れる処を髻をつかまれ、横ぞっぽうを打たれました。――その晩――昨晩――その晩の、夜はかえって目につきますから、昨日家出をしたんです。先生……金魚か、植木鉢の草になって、おとなしくしていれば、実家(さと)でも、親類でも、身一つは引取ってくれましょう。私は意地です、それは厭(いや)です。……この上は死ぬほかには、行き処のない身体(からだ)を、その行きどころを見着けました。(決然として向直る)このおじさんと一所に行きます。――この人は、婦人(おんな)を虐(しいた)げた罪を知って、朝に晩に笞(しもと)の折檻(せっかん)を受けたいのです。一つは世界の女にかわって、私がその怨(うらみ)を晴らしましょう。――この人は、静御前の人形を、うつくしい人を礼拝します。私は女に生れました、ほこりと果報を、この人によって享(う)けましょう。――この人は、死んだ鯉の醜い死骸(しがい)を拾いました。……私は弱い身体(からだ)の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。
画家 (あるいは頷(うなず)き、また打傾き、やや沈思す)奥さん、更(あらた)めて、お縫さん。
夫人 (うれしそうに、あどけなく笑う)はアい。
画家 貴女のそのお覚悟は、他にかえようはないのですか。
夫人 はい、このまま、貴方、先生が手をひいて、旅館へお帰り下さる外には――
人形使 そうだ、そうだ、その事だ。
画家 (再び沈黙す。)
夫人 (すり寄る)先生。
画家 貴女、それは御病気だ。病気です。けれども私は医師(いしゃ)でない、断言は出来ません。――貴女のお覚悟はよくありません。しかし、私は人間の道について、よく解(わか)っておりません。何ともお教えは申されない。それから私が手を取る事です。是非善悪は、さて置いて、それは今、私に決心が着きかねます。卑怯(ひきょう)に回避するのではありません。私は自分の仕事が忙しい。いま分別をしている余裕が、――人間の小さいために、お恥かしいが出来ないのです。しかし一月、半月、しばらくお待ち下さるなら、その間に、また、覚悟をしてみましょう。
夫人 先生、私は一晩かくれますにさえ、顔も形も変えています。運命は迫っています。
画家 ごもっともです。――(顔を凝視さるるに堪えざるもののごとく、目を人形使に返す)爺(じい)さん、きっとお供をするかね。
人形使 犬になって――
凝(じっ)と夫人を抱き起し、その腰の下へ四這(よつば)いに入る背に、夫人おのずから腰を掛けつ、なお倒れんとする手を、画家たすけ支う。
馬になってお供をするだよ。
画家 奥さん、――何事も御随意に。
夫人 貴方、そのお持ち遊ばすお酒を下さい。――そして媒妁人(なこうど)をして下さい。
画家 (無言にて、罎(びん)を授け、且つ酌する。)
夫人 (ウイスキーを一煽(ひとあお)りに、吻(ほっ)と息す)爺(おじ)さん、肴(さかな)をなさいよ。
人形使 口上擬(まがい)に、はい小謡(こうたい)の真似でもやりますか。
夫人 いいえ、その腐った鯉を、ここへお出しな。
人形使 や。
夫人 お出しなね。刃ものはないの。
人形使 野道、山道、野宿だで、犬おどしは持っとりますだ。(腹がけのどんぶりより、錆(さ)びたるナイフを抽出(ぬきだ)す。)
画家 ああ、奥さん。
夫人 この人と一所に行くのです。――このくらいなものを食べられなくては。……
人形使 やあ、面白い。俺も食うべい。
画家 (衝(つ)と立ちて面(おもて)を背く。)
――南無大師遍照金剛。――南無大師遍照金剛――遠くに多人数の人声。童男童女(どうにょ)の稚児二人のみまず練りつつ出づ――
稚児一 (いたいけに)南無大師遍照金剛。……
稚児二 (なおいたいけに)南無大師遍照金剛。……
はじめ二人。紫の切(きれ)のさげ髪と、白丈長(しろたけなが)の稚髷(ちごまげ)とにて、静(しずか)にねりいで、やがて人形使、夫人、画家たちを怪(あやし)むがごとく、ばたばたと駈(か)け抜けて、花道の中ばに急ぐ。画家と夫人と二人、言い合せたるごとく、ひとしくおなじ向きに立つ。人形使もまた真似るがごとく、ひとしくともに手まねき、ひとしくともにさしまねく、この光景怪しく凄(すご)し。妖気(ようき)おのずから場(じょう)に充(み)つ。稚児二人引戻さる。
画家 いい児(こ)だ。ちょっと頼まれておくれ。
夫人 可愛い、お稚児さんね。
画家 (外套を脱ぎ、草に敷く)奥さん、爺さんと並んでお敷きなさい。
夫人 まあ、勿体ない。
画家 いや、その位な事は何でもありません。が貴女の病気で、私も病気になったかも知れません。――さあ、二人でお酌をしてあげておくれ。
夫人、人形使と並び坐す。稚児二人あたかも鬼に役(えき)せらるるもののごとく、かわるがわる酌をす。静寂、雲くらし。鶯(うぐいす)はせわしく鳴く。笙(しょう)篳篥(ひちりき)幽(かすか)に聞ゆ。――南無大師遍照金剛――次第に声近づき、やがて村の老若男女十四五人、くりかえし唱えつつ来(きた)る。
村の人一 ええ、まあ、御身(おみ)たちゃあ何をしとるだ。
村の人二 大師様のおつかい姫だ思うで、わざと遠く離れてるだに。
村の人三 うしろから拝んで歩行(ある)くだに――いたずらをしてはなんねえ。
村の人四五六 (口々に)来(こ)うよ来うよ。(こんどは稚児を真中(まんなか)に)南無大師遍照金剛、……(かくて、幕に入(い)る。)
夫人 (外套をとり、塵(ちり)を払い、画家にきせかく)ただ一度ありましたわね――お覚(おぼえ)はありますまい。酔っていらしって、手をお添えになりました。この手に――もう一度、今生(こんじょう)の思出に、もう一度。本望です。(草に手をつく)貴方、おなごり惜しゅう存じます。
画家 私こそ。(喟然(きぜん)とする。)
夫人 爺(おじ)さん、さあ、行(ゆ)こう。
人形使 ええ、ええ。さようなら旦那様。
夫人 行こうよ。
二人行きかかる。本雨。
画家 (つかつかと出で、雨傘を開き、二人にさしかく)お持ちなさい。
夫人 貴方は。
画家 雨ぐらいは何の障(さわり)もありません。
夫人 お志頂戴します。(傘を取る時)ええ、こんなじゃ。
激しく跣足(はだし)になり、片褄(かたづま)を引上ぐ、緋(ひ)の紋縮緬(もんちりめん)の長襦袢(ながじゅばん)艶絶(えんぜつ)なり。爺(おやじ)の手をぐいと曳(ひ)く。
人形使 (よたよたとなって続きつつ)南無大師遍照金剛。
夫人 (花道の半ばにして振かえる)先生。
画家 (やや、あとに続き見送る。)
夫人 世間へ、よろしく。……さようなら、……
画家 御機嫌よう。
夫人 (人形使の皺手(しわで)を、脇に掻込(かいこ)むばかりにして、先に、番傘をかざして、揚幕へ。――)
画家 (佇(たたず)み立つ。――間。――人形使の声揚幕の内より響く。)
――南無大師遍照金剛――
夫人の声も、またきこゆ。
――南無大師遍照金剛――
画家 うむ、魔界かな、これは、はてな、夢か、いや現実だ。――(夫人の駒下駄を視(み)る)ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか。(夫人の駒下駄を手にす。苦悶(くもん)の色を顕(あらわ)しつつ)いや、仕事がある。(その駒下駄を投棄つ。)
雨の音留(や)む。
福地山修禅寺の暮六ツの鐘、鳴る。
――幕――
大正十二(一九二三)年六月
了

底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六卷」岩波書店
   1942(昭和17)年10月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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