あらすじ
ある男が、京の祇園で出会った芸妓、お絹に恋をしてしまい、彼女を追って東京へやってきます。しかし、お絹は、東京で有名な女形の役者、路之助の元に身を寄せている様子。男は、路之助の座敷に招かれ、お絹と再会を果たすのですが、そこには思わぬ展開が待ち受けていました。男と、お絹、そして路之助の複雑な関係、そしてお絹の身に秘められた謎…。この物語は、美しくも怪しげな、不思議な雰囲気に満ちています。
「あんた、居やはりますか。」
 ……唄にもある――おもしろいのは二十(はたち)を越えて、二十二のころ三のころ――あいにくこの篇の著者に、経験が、いや端的に体験といおう、……体験がないから、そのおもしろいのは、女か、男か。勿論誰(たれ)に聞かしても、この唄は、女性の心意気に相違ないらしいが、どんなのを対手(あいて)にした人情のあらわし方だか、男勝手にはちょっときめにくい。ただしどう割引をした処で、二十二三は女盛り……近ごろではいっそ娘盛りといって可(い)い。しかも著者なかま、私の友だち、境辻三によって話された、この年ごろの女というのは、祇園(ぎおん)の名妓(めいぎ)だそうである。
 名妓? いかなるものぞ、と問われると、浅学不通、その上に、しかるべき御祝儀を並べたことのない私には、新橋、柳橋……いずくにも、これといって容式をお目に掛ける知己(ちかづき)がない。遠いが花の香と諺(ことわざ)にもいう、東京の山の手で、祇園の面影を写すのであるから、名妓は、名妓として、差支えないであろう。
 また、何がゆえに、浅学不通まで打(ぶ)ちまけて、こんな前書をするかといえば、実はその京言葉である。すなわち、読みはじめに記した「あんた、いやはりますか。」――は、どう聞いても、祇園の芸妓(げいこ)、二十二、三の、すらりと婀娜(あだ)な別嬪(べっぴん)のようじゃあない。おのぼりさんが出会(でっくわ)した旅宿万年屋でござる。女中か、せいぜいで――いまはあるか、どうか知らぬ、二軒茶屋で豆府を切る姉さんぐらいにしか聞えない。嫋音(じょうおん)、嬌声(きょうせい)、真ならず。境辻三……巡礼が途に惑(まど)ったような名の男の口から、直接(じか)に聞いた時でさえ、例の鶯(うぐいす)の初音などとは沙汰(さた)の限りであるから、私が真似(まね)ると木菟(みみずく)に化ける。第一「あんた、居やはりますか。」さて、思うに、「あの、居なはるか。」とおとずれたのだか、それさえ的確(さだか)ではないのだそうであるから、構わず、関東の地声でもって遣(やッ)つける。
 谷の戸ではない、格子戸を開けたときの、前記の声が「こんちは、あの……居らっしゃいますか。」と、ざっとかわるのであることを、諸賢に御領承を願っておいて……
 わが、辻三がこの声を聞いたのは、麹町(こうじまち)――番町も土手下り、湿(し)けた崖下(がけした)の窪地(くぼち)の寒々とした処であった。三月のはじめ、永い日も、午(ひる)から雨もよいの、曇り空で、長屋建の平屋には、しかも夕暮が軒に近い。窓下の襖際(ふすまぎわ)で膳(ぜん)の上の銚子(ちょうし)もなしに――もう時節で、塩のふいた鮭(さけ)の切身を、鱧(はも)の肌の白さにはかなみつつ、辻三が……
 というものは、ついその三四日以前(まえ)まで、ふとした事から、天狗(てんぐ)に攫(さら)われた小坊主同然、しかし丈高く、面(つら)赤き山伏という処を、色白にして眉の優(やさし)い、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。初のぼりだのに、宇治も瀬田も聞いたばかり。三十三間堂、金閣寺、両本願寺の屋根も見ず知らず、五条、三条も分らずに、およそ六日ばかりの間というもの、鴨川(かもがわ)の花の廓(くるわ)に、酒の名も、菊、桜。白鶴(はくつる)、富久娘(ふくむすめ)の膏(あぶら)を湛(たた)えた、友染の袖(そで)の池に、錦(にしき)の帯の八橋を、転げた上で泳ぐがごとき、大それた溺(おぼ)れよう。肝魂(きもだま)も泥亀(すっぽん)が、真鯉(まごい)緋鯉(ひごい)と雑魚寝とを知って、京女の肌を視(み)て帰って、ぼんやりとして、まだその夢の覚めない折から。……
 無理もない、冷飯に添えた塩鮭をはかなむのは。……時に、膳の上に、もう一品(ひとしな)、惣菜(そうざい)の豆の煮たやつ。……女難にだけは安心な男にも、不思議に女房は実意があるから、これはそこらの、あやしげな煮豆屋が、あんぺらの煮出しを使った悪甘いのではない。砂糖を奢(おご)って、とろりと煮込んで、せっせと煽(あお)いで、つやみを見せた深切な処を、酔覚(よいざめ)の舌の尖(さき)に甘く染(し)まして、壁にうつる影法師も冷たそうに縮んだ処へ。
 ころころと格子が開いた。取次の女中へ何かいう、浅間な住居(すまい)で、手に取るような、その「あんたはん、居やはりますか。」訳して、「こんちは、あの、居らっしゃいますか。」のそれだったのだそうである。

「京の祇園と、番町の土手下――いや、もうちっと――半道ばかり近いのです。大勢の中で、その芸妓(げいしゃ)――お絹というんです――その女が、京都駅まで、九時何十分かの急行を、見送りに来てくれたんだから。……それにしても少々遠過ぎますね。――声を聞いて、すぐそのお絹だ、と思ったのは。
 しかし事実なんです。
(やあ、これは珍客。)
 とか、大きな声して、いきなり、箸(はし)をおくと、件(くだん)の煮豆を一つ、膳の上へ転がしながら、いきなり立上って中縁のような板敷へ出ましたから。……鵯(ひよどり)が南天燭(なんてん)の実、山雀(やまがら)が胡桃(くるみ)ですか、いっそ鶯が梅の蕾(つぼみ)をこぼしたのなら知らない事――草稿持込で食っている人間が煮豆を転がす様子では、色恋の沙汰ではありません。――それだのに……」
 境辻三は、串戯(じょうだん)ではなさそうに、真顔になっていったのである――
「しかし、またあらためて、お絹のその麗(うつく)しさというものは。――(お危うございます、ここは暗いんでございますから。)おいそれものの女中めが、のっけのその京言葉と、朱鷺色(ときいろ)の手絡(てがら)、艶々(つやつや)した円髷(まるまげ)、藤紫に薄鼠(うすねずみ)のかかった小袖の褄(つま)へ、青柳をしっとりと、色の蝶が緑を透いて、抜けて、ひらひらと胸へ肩へ、舞立ったような飛模様を、すらりと着こなした、長襦袢(ながじゅばん)は緋(ひ)に総染(そうぞめ)の小桜で、ちらちらと土間へ来た容子(ようす)を一目、京都から帰ったばかりの主人(あるじ)が旅さきの知己(ちかづき)、てっきり溶(とろ)けるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから、すぐこうお通りはいいのですが、口上が癪(しゃく)ですよ。(真暗(まっくら)ですから。)が、仕方がない、押付(おッつ)け仕事の安普請で、間取りに無理がありますから、玄関の次が暗いのです。いきなり手を曳(ひ)いて連れ込んだ、そのひき方がそそっかし屋で荒いので、私と顔を会わせた時は、よろけ加減で、お絹の顔が、ほんのりとなって、その長襦袢のしなやかな裳(すそ)をこぼれた姿は、脊は高し、天井の黒い雲から糸桜がすらすらと枝垂(しだ)れたようで、いや、どうも……祇園の空から降って来たかと思われました。
 ――時に、重ねていうようですが、三月のはじめです。三月といえば弥生(やよい)です。桜は季節でありますけれども、まだどこにも咲いてはいません。ところが、どうした事か、これから、宵、夜、夜中に掛けて、話を運びます、春木町の、その頃の本郷座。上野の山内(さんない)、清水(きよみず)の観音堂。鶯谷(うぐいすだに)という順に、その到る処、花が咲いていたように思います。唯今(ただいま)も、目に見えて、桜に包まれるようですが、実は、こんな事は、今まで、誰にも片端も饒舌(しゃべ)ったことはありませんから、いつも一人で、咲満ちた花の中にいた気だったのですけれども、あなたに。」
 著者に、いうのである。
「三月、と口にしますと同時に、ふと気がつくと、彼岸ずっと前で、まだ桜は咲きません。が、それからお絹を連れて行きました、本郷座の芝居が、ちょうど祇園の夜桜、舞台一面の処へぶつかりましたし、続いて上野でも、鶯谷でも、特に観世音の御堂(みどう)では、この妓(おんな)と、花片(はなびら)が颯(さっ)と微酔(ほろよい)の頬に当るように、淡(うす)い薫(かおり)さえして、近々と、膝を突合わせたような事がありましたから、色の刺激で、欄干近い、枝も梢(こずえ)も、ほの紅(あか)かったのだろうと思われます。
 ところで――芝居行(ゆき)です。が、どの道、糸錦の帯で押立よく、羽織はなしに居ずまいも端正(きちん)としたのを、仕事場の机のわきへ据えた処で、……おなじ年ごろの家内が、糠味噌(ぬかみそ)いじりの、襷(たすき)をはずして、渋茶を振舞ってみた処で、近所の鮨(すし)を取った処で、てんぷら蕎麦(そば)にした処で、びん長鮪(ながまぐろ)の魚軒(さしみ)ごときで一銚子といった処で、京から降って来た別嬪(べっぴん)の摂待(せったい)らしくはありません。京では、瓢亭(ひょうてい)だの、西石垣(さいせき)のちもとだのと、この妓(ひと)が案内をしてくれたのに対しても、山谷(さんや)、浜町(はまちょう)、しかるべき料理屋へ、晩のご飯という懐中(ふところ)はその時分なし、今もなし、は、は、は、笑ったって、ごまかせない。
(おつれは?)
 ただ一人で訪ねて来て、目の前に斜(ななめ)に坐(すわ)っている極彩色に、連(つれ)を聞いたも変ですが、先方(さき)の稼業が稼業ですから。……なぞといって、まじくないながら、とつおいつのうち、お絹が、四五人で客に連れられて来たのだけれど、いまは旅館に一人で残った……
(早う、あんたはんの許(とこ)へ来とうて、来とうてな。)
 いよいよ、天麩羅(てんぷら)では納まらない。思いついたのが芝居です。
 で、本郷に出ているのは、箕原路之助(みはらみちのすけ)――この友だちが、つい前日まで、祇園で一所だったので、四条の芝居を打上げた一座が、帰って来て、弥生興行の最中だとお思い下さい。
(……すぐ出掛けましょう、御婦人には芝居と南瓜(とうなす)が何よりの御馳走(ごちそう)だ。)
 馬鹿も通越した、自棄(やけ)な言句(もんく)を切出して、
(ご贔屓(ひいき)の路之助が出ています。)
 役者を贔屓とさえいっておけば間違いはないものの――その実、祇園にいたうちに、五人、八人、時には十人にも余って、その六日ばかりの間、時々出入り交代(かわり)はあっても、ほとんど同じ顔の芸妓(げいしゃ)舞子が、寝る、起きる、飲む、唄う。十一時ごろに芝居のはねるのを宵の口にして、あけ方の三時四時まで続くんでしょう。雑魚寝の女護の島で、宿酔(ふつかよい)の海豹(あざらし)が恍惚(うっとり)と薄目を開けると、友染を着た鴎(かもめ)のような舞子が二三羽ひらひらと舞込んで、眉を撫(な)でる、鼻を掴(つま)む、花簪(はなかんざし)で頭髪(かみのけ)を掻(か)く、と、ふわりと胸へ乗って、掻巻(かいまき)の天鵞絨(びろうど)の襟へ、笹色(ささいろ)の唇を持って行くのがある。……いいえ、その路之助のですよ。女形の。……しかも同じ衾(ふすま)の左右には、まくれたり、はだかったり、白い肌が濡れた羽衣に包まれたようになって、紅(くれない)の閨(ねや)の寝息が、すやすやと、春風の小枕に小波(さざなみ)を寄せている。私はただ屏風(びょうぶ)の巌(いわお)に、一介の栄螺(さざえ)のごとく、孤影煢然(けいぜん)として独り蓋(ふた)を堅くしていた。とにかくです、昼夜とも、その連中に、いまだかつて、顔を見せなかったのが、お絹なんです。
 ――晩には、東京へ帰ろうとする朝でした。旅馴(な)れないので、何となく心が急(せ)きます。早めに起きた右の栄螺が、そっと蓋をあけて、恐る恐る朝日に映る寝乱れた浮世絵を覗(のぞ)きながら、二階を下りて、廊下を用たしに行く途中、一段高く、下へ水は流れませんが、植込の冷い中(うち)に、さらさらと筧(かけひ)の音がして、橋づくりに渡りを架(か)けた処があった。
 そこに、女中……いや、中でも容色(きりょう)よしの仲居にも、ついぞ見掛けたことのないのが、むぞうさな束髪(たばねがみ)で、襟脚がくっきり白い。大島絣(おおしまがすり)に縞縮緬(しまちりめん)の羽織を着たのが、両袖を胸に合せ、橋際の柱に凭(もた)れて、後姿で寂しそうに立っている。横顔をちらりと視(み)て通る時、東山の方から松風が吹込んだように思いました。――これが、お絹だったのです。
 あとで聞くと、病気で休んでいて、それまでの座敷へは出なかった。髪を洗ったのもやっと昨日(きのう)で、珍らしい東の客が、今日帰る、と聞いたので、急いで来たが、まだ皆夜中らしいから、遠慮をしていたのだというのが分りました。けれども、顔を洗って、戻るのに、まだおなじところに、おなじ姿を見ると、ちょっと二間ばかりの橋が、急にすらすらと長く伸びて、宇治か、瀬田か、昔話の長橋の真中(まんなか)にただ一人怪しい婦(おんな)が、霞に彳(たたず)んだようですから、気をはっきりと、欄干を伝うところを、
(目々、覚めてどすか。)
 と清(すず)しい目で、ちょっと見迎えて、莞爾(にっこり)したではありませんか。私は冷(ひや)りとしました。第一、目々が覚めたという柄じゃない、洗って来い、という面(つら)です。
 閑静(しずか)だから、こっちへ――といって、さも待設けてでもいたように、……疏水(そすい)ですか、あの川が窓下をすぐに通る、離座敷へ案内をすると、蒲団(ふとん)を敷かせる。乗ったんですが、何だか手玉に取られた形で、腰が浮くと、矢の流れで危いくらい。が、きっぱりと目の覚めた処で、お手ずから、朝茶を下さる。
(姉さんは、娘(いと)はんですか、此楼(こちら)の……)
 いやな野郎で、聞覚えの京言葉を、茶の子でなしに噛(かじ)りましたが、娘か、と思ったほど、人がらが勝(まさ)っている。……
 通力自在、膳も盃洗(はいせん)もすぐ出る処へ、路之助が、きちんと着換えて入って来て、鍋(なべ)のものも、名物の生湯葉(なまゆば)沢山に、例の水菜、はんぺんのあっさりした水煮で、人まぜもせず、お絹が――お酌。
(ずッと見物をおしやしたか。)
 宇治は、嵯峨(さが)は。――いや、いや、南禅寺から将軍塚を山づたいに、児(ちご)ヶ淵(ふち)を抜けて、音羽山清水(きよみず)へ、お参りをしたばかりだ、というと、まるで、御詠歌はんどすな、ほ、ほ、ほ、と笑う。

 路之助が、
(その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん――この人は、まだ休んでいて隙(ひま)ですから、そこいら、御案内をしようというのですが、どうかすると、神社仏閣、同行二人(どうぎょうににん)の形になりかねませんよ。)
(巡礼結構。同行二人なら野宿でもかまいません。)
(ほ、ほ、ほ、よういわんわ。)
 御免下さい。……だから言わないことではない。もうこの辺の、語義の活法が覚束(おぼつか)ない。
 が、串戯(じょうだん)ではありません、容色(きりょう)、風采(とりなり)この人に向って、つい(巡礼結構)といった下に、思わず胸のせまることがあったのです。――
 ですから、嵯峨へ、宇治へというのを断(ことわ)って、朝出ると、すぐ三十三間堂。社(やしろ)もうで、寺まいり。何(な)にしろ食ったものさえ、水菜と湯葉です。あの、鍋からさらさらと立った湯気も、如月(きさらぎ)の水を渡る朝風が誘ったので、霜が靡(なび)いたように見えた、精進腹、清浄なものでしょう。北野のお宮。壬生(みぶ)の地蔵。尊かったり、寂しかったり。途中は新地の赤い格子、青い暖簾(のれん)、どこかの盛場の店飾も、活動写真の看板も、よくは見ません。菜畠(なばたけ)に近い場末の辻の日溜(ひだま)りに、柳の下で、鮒(ふな)を売る桶(おけ)を二人で覗いて、
(みんな、目あいていやはるな。)
 といった、お絹の目が鯉(こい)の目より濡々(ぬれぬれ)としたのが記憶にある……といった見物で。――帰途(かえり)は、薄暮(くれがた)を、もみじより、花より、ただ落葉を鴨川へ渡したような――団栗橋(どんぐりばし)――というのを渡って、もう一度清水へ上ったのです。まだ電燈にはならない時分、廻廊の燈籠(とうろう)の白い蓮華(れんげ)の聯(つら)なったような薄あかりで、舞台に立った、二人の影法師も霞んで高い。……
 暗い磴(いしだん)の幽(かすか)な底に、音羽の滝の音を聞いた時は、
松風に音羽の滝の清水を
  むすぶ心やすずしかるらん
 地唄の三味線は、耳に消えて、御詠歌の声をさながらに聞きますと――はてな、なぜか今朝、起きぬけに、祇園の茶屋の橋がかりで筧(かけひ)の音のした時と、お絹の姿も同じようで、一日を夢に見たように思いましたが――
 ――更に、日もおかず、お絹が土手番町へ訪ねて来た、しかもその夜、上野の清水(きよみず)の御堂(みどう)の舞台に、おなじように、二人で立つ事になったんです――

 音羽のその時は、風情がいいから、もう一度、団栗橋を渡り返した、京洛中(らくちゅう)と東山にはさまって、何だか、私どもは小さな人形同然、笹舟(ささふね)じゃあない、木の実のくりぬきに乗って、流れついた気がします――
 そうですよ、宿は西石垣(さいせき)のなにがし屋に取ってあったのですが、宿では驚いていたでしょう。路之助の馳走になりつづけで、おのぼりの身は藻抜の殻で、座敷に預けたのが、擬更紗(まがいさらさ)の旅袋たった一つ。
 しわす、晦(つごもり)の雪の夜に、情(なさけ)の宿を参らせた、貧家の衾(ふすま)の筵(むしろ)の中に、旅僧が小判になっていたのじゃない。魔法妖術(ようじゅつ)をつかうか知らん、お客が蝦蟆(がま)に変じた形で、ひょこんと床間(とこのま)に乗っている。
 お絹が引添っての、心づけでは、電話で、もう路之助から、ここの勘定は済んでいる。まだ、それよりも、お恥かしいやら、おかしいのは。……
(――お絹さん、その手提袋ですがね、中味が緊張しておりません、張合のないせいか、紐(ひも)が自(おのず)から、だらりとして、下駄のさきとすれすれに袋が伸びていたそうで。京都へ着いた時迎いに来てくれました、路之助の番頭と一所だった年増の芸妓(げいしゃ)が、追って酒宴の時、意見をしてくれましたよ。あれは見っともない、先陣の源太はんやないけど、腹帯が弛(ゆる)んだように見える……といってね。)
(ほんに、私(あて)も、東の方贔屓どす……しっかりとあんじょうに……)
 ――細い指であやつッて、あ、着換を畳もう、という、待遇振(もてなしぶり)。ですが、何にもない。着のみ、着のままで、しゃんと結ばると袋はぺしゃんこ。そいつを袖で抱いて、さ、晩のご飯を近所のちもとへ、と立たれたのには、懐中(ふところ)もぺしゃんこです。
 これも路之助の心づけで、ちゃんと席を取って支度が出来ていて、さしむかいで、酒になった処へ、芝居から使の番頭、姓氏あり。津山彦兵衛とちょっとお覚え下さい。
(――すぐ、あとで、本郷座の前茶屋へ顔を出しますから――)
 花柳界の総見で、楽屋は混雑の最中、おいでを願ってはかえって失礼。お送りをいたすはずですが、ちょうど舞台になりますから。……縞の羽織、前垂掛だが、折目正しい口上で、土産に京人形の綺麗な島田と、木菟(みみずく)の茶羽の練(ねり)もの……大贔屓の鳥で望んだのですが、この時は少々擽(くすぐ)ったかった。やがて、その京人形に、停車場まで送られて、木菟が。……夜汽車で飛ぶ。」……

「いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古(けいこ)にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日(こんにち)はまたどうも難有(ありがと)う存じます。」
「御挨拶(ごあいさつ)で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」
「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」
 と笑いを手で蓋(ふた)して、軽く咳(せき)した。小肥(こぶと)りにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。
「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」
「そんな水臭いことを……ご串戯(じょうだん)で。」
「いや、ご馳走は[#「ご馳走は」は底本では「ご馴走は」]、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」
 お絹が上品な円髷(まるまげ)で、紫仕立の柳褄(やなぎづま)、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。
「たしか、今度の二番目の外題(げだい)も、京人形。」
「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」
「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟(みみずく)にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お大尽(だいじん)づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処(たちどころ)に懐中(ふところ)が大きくなった。」
「は、は、は。」
 と蓋(ふた)して、軽く笑う。津山の懐中(ふところ)の方が余程大きい。
「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、止(や)むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」
「お庇様(かげさま)で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様(ほかさま)と入込(いれご)みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は更(あらた)めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細(しさい)はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……煩(うるさ)いのでして、……京から芸妓(げいこ)はんが路之助を追駈(おいか)けて逢いに来たわ、それ蕎麦(そば)だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」
 両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、式(かた)のごとく、例の口許(くちもと)をおさえて、黙然(だんまり)を暗示しながら、目でおどけた。
「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。――ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、宜(よろ)しい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。――お場所が出来ましたそうでございますから。」
 膝で辷(すべ)って、津山が立つのと入交(いれかわ)って、男衆が階子段(はしごだん)の口でお辞儀をして、
「では、ご見物を。」
「心得た。」
 見ますとね、下の店前(みせッさき)に、八角の大火鉢を、ぐるりと人間の巌(いわ)のごとく取巻いて、大髻(おおたぶさ)の相撲連中九人ばかり、峰を聳(そばだ)て、谷を展(ひら)いて、湯呑(ゆのみ)で煽(あお)り、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、外套(がいとう)を脱いだ身軽です。いきなり下りると、
「へい、行ってらっしゃいまし。」
 帳場で女の声がしたかしないに、
「危い!」
 わッと響くのが一斉(いっとき)で、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、幽(かすか)に、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が階子段(はしごだん)の上から真横になって、くるくるトトトン、褄(つま)がばッと乱れて、白い脛(はぎ)、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくの躾(たしな)みで前褄(まえづま)を踏みぐくめた雪なす爪先(つまさき)が、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の糸錦(いとにしき)が薬玉(くすだま)に飜(ひるがえ)ると、溢(こぼ)れた襦袢(じゅばん)の緋桜(ひざくら)の、細(こまか)な鱗(うろこ)のごとく流れるのが、さながら、凄艶(せいえん)な白蛇(はくじゃ)の化身の、血に剥(は)がれてのた打つ状(さま)して、ほとんど無意識に両手を拡(ひろ)げた、私の袖へ、うつくしい首が仰向(あおの)けになって胸へ入り、櫛笄(くしこうがい)がきらりとして、前髪よりは、眉が芬(ぷん)と匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息を吐(つ)く隙(ひま)がない。息を吐く隙がありません。
 土俵が壊(くず)れたような、相撲の総立ちに、茶屋の表も幟(のぼり)を黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七が櫓(やぐら)から倒(さかさま)に落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。
 あまりの事に、寂然(しん)とする、その人立の中を、どう替草履を引掛(ひっか)けたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ突切(つっき)りました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんと挿(ささ)っていましたが、背負(しょい)上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端垂(さが)って、踏みしめて裙(すそ)を庇(かば)った上前の片褄(かたづま)が、ずるずると地を曳(ひ)いている。
 抱いて通ったのか、絡(もつ)れて飛んだのか、まるで現(うつつ)で、ぐたりと肩に凭(よ)っかかったまま、そうでしょう……引息を吻(ほっ)と深く、木戸口で、
「ああ、お婿はん。」……
 と泣くようにいった。生死の最中、洒落(しゃれ)どころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。
「……わて、もう、死ぬるか思うた。」
 と、目が澄んで、熟(じっ)と視(み)て、颯(さっ)と顔色が蒼(あお)ざめたんです。
「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命(いのち)の親え。」
「…………」
「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、私(あて)、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が断(ちぎ)れる。」
 という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上極(きま)りを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを穿(は)いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。
 そッと屈(かが)んで、
「へい、こちらへ。」――
 土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に瓢箪(ひょうたん)でもつけていそうな、暖簾(のれん)も、景気燈(けいきあかり)も、お花見気分、紅(あか)い靄(もや)が場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、芸妓(げいしゃ)、舞妓(まいこ)、幇間(ほうかん)まじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝――あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。――もう一人、富豪――成金らしい大島揃(ぞろい)が、瓢箪をさげている。
 一つ桟敷――東のずっと末でした――その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて――挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが――お絹をこの時見返って、愕然(がくぜん)とした様子です。……
 ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおの賑(にぎ)やかなすて台辞(ぜりふ)で、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。
花咲かば告げ    むといいし山寺の……
 ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、囃子(はやし)に合わせて謡が聞える。
使は来たり馬    に鞍、鞍馬の山のうず桜……
「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」
 恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬嘲(あざけ)る処の、聾桟敷(つんぼさじき)のとんちきを顕(あら)わすと、
「路之助はんが、出やはるやろ。」
 お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。
 しゃり、り、揚幕。艶麗(えんれい)にあらわれた、大どよみの掛声に路之助扮(ふん)した処の京の芸妓(げいこ)が、襟裏のあかいがやや露呈(あらわ)なばかり、髪容(かみかたち)着つけ万端。無論友染の緋桜縮緬(ひざくらちりめん)。思いなしか、顔のこしらえまで、――傍(かたわら)にならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚を吃(きっ)する処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変待(まち)あぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。
 路之助の姉芸妓(あねげいしゃ)が、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、
「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」
 おや。
「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」
 とこっちを視(み)て莞爾(にっこり)。――
「いやや、驕(おご)んなはれ。」
 と舞妓が入交(いれかわ)って、トンと揚幕の方から路之助の脊筋を敲(たた)いた。
「おお、晴がまし。」
 お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の肩掛(ショオル)を、俯向(うつむ)いた頬へ当てたのです。
 ――舞台、舞台ですか……
 舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。
 いま、戸が開いたと思うと同時に、可厭(いや)な気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッと沁(し)みたも道理こそ、十九貫と渾名(あだな)を取る……かねて借金があって、抜けつ潜(くぐ)りつ、すっぽかしている――でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、餡子入(あんこいり)の大廂髪(おおひさし)で、その頃はやった消炭色(けしずみいろ)紋付の羽織の衣紋(えもん)を抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むら兀(はげ)のした濃い白粉(おしろい)、あぶらぎった面(つら)で、ヌイと覗込(のぞきこ)んで、
「大した勢いでございますのね。」
「ちょっと……出よう。」
 ……ですもの、舞台どころですか。――
「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」
「串戯(じょうだん)だろう。」
「役者があなた、この大入(おおいり)に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」
 と、くくり頤(あご)を揺(ゆす)って、しゃくる。
「あれは洒落(しゃれ)だよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」
 売店があるから、ずんずん廊下を反れました。
「何も私一人というんじゃあなかろう。」
「うんえ、あの台辞(せりふ)で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」
 と、どこかのなまりが時々出る。
「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。」
「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」
 ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促の術(て)をうらがえしに、敵は搦手(からめて)へ迫って危い。
「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」
「見違えましたよ、ほんとうに。」
 と衣紋をたくして、
「大した腕だよ、見上げたあよう。」
「何が。」
「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」
「…………」
「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳(みちとせ)おいらんを素人づくりに……おっと。」
 と両袖を突張(つっぱ)って肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、廂合(ひあわい)から暗夜(やみ)が覗(のぞ)いて、植込の影のさす姿見の前なんですが。
「芸妓(げいしゃ)にしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の名聞(みょうもん)ですのよ。……境さん、貸借(かしかり)も、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお馴染(なじみ)じゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、容子(ようす)がね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫が裳(すそ)をぼかして、すり硝子(がらす)の燈(あかり)に、頸(えり)あしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの估券(こけん)がグッと上りまさね。
 兜町(かぶとちょう)の、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの遊興(あそび)は、うわになるわ。
 もう一息、目を眠って、――直さん……」
(――直さんの意味詳(つまびらか)ならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である――)
「ね、色悪で、あの白々とした甘(うま)い膚(はだ)を貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」
 酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。
「何をいってるんだ――同伴(つれ)はないよ。」
「あら。」
「誰も居やしない。」
「まあ。」
「私一人じゃあないか。」
「おやおやおや。」
「何を見たんだ。」
「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡(りょうけん)なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」
 これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。
「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」
「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも膚(はだ)を……」
「顔にも、膚にも……それは煙(けむ)だ。」
「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」
「あれは霞(かすみ)だ、霧なんだよ。」
「煙草(たばこ)のかねえ。」
「いや芸妓(げいしゃ)の……幽霊だ。」
「ええ。」
「この大入に、けちでもつけるようで可厭(いや)だから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に憑絡(つきまと)ってる幽霊だ。いいえ、憑(つき)ものは、当人の背中に負(おぶ)さっているとは限らない――
 実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、彼地(あっち)へ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も慄然(ぞっ)としてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、旅籠屋(はたごや)では膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の仕来(しきた)りでね、――席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」
「ひええ。」
 しめた。不断の大臆病(だいおくびょう)。
「行って見たまえ、覗(のぞ)いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」
「気味の悪い……いやだねえ。」
「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」
 あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。
「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」
 と、図に乗っていった。が、この巨大なる躯(からだ)は、威(おど)すものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒く蔽(おお)って、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。
「ここへ来た、幽霊が。」
「ひゃあ。」
「あ、力士の中に芸妓(げいしゃ)が居る。」
「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」
「やあ、何じゃい。」
 縋(すが)りつかれた関取がたじろいで、
「どえらい頭(ずこ)じゃい。桟俵法師(さんだらぼッち)い。」

「お絹さん――お絹さん。ちょっと。」
 戸を開けて、立ちながら密(そッ)と呼ぶと、お絹は、金煙管(きんぎせる)に持添えた、女持ちの嵯峨錦(さがにしき)の筒を襟下に挟んで、すっと立った。
 前髪に顔を寄せ、
「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」

 その夜も――やがて十一時――清水(きよみず)の石段は、ほの白く、柳を縫って、中空(なかぞら)に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を聯(つら)ね、丹(に)の扉を合せ、青蓮(せいれん)の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣(かつぎ)に包まれた一座の宝塔のように浄(きよ)く厳(いつく)しく聳(そび)えて見ゆる。
 東口を上ると、薄く手水鉢(ちょうずばち)に明りのさしたのは、斜(ななめ)に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭(ぶっしょく)の霊を表して、竜燈……といっては少し冥(くら)い。しかり、明星の天降(あまくだ)って、梁(うつばり)を輝かしつつ、丹碧青藍(たんぺきせいらん)相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。
 見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、塵(ちり)も置かず、世の創(はじめ)の生物に似た鰐口(わにぐち)も、その明星に影を重ねて、一顆(いっか)の一碧玉(だいへきぎょく)を鏤(ちりば)めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を籠(こ)め、扉に漲(みなぎ)って朧(おぼろ)なる霞を描き、舞台に靉靆(たなび)き、縁を廻(めぐ)って、井欄(せいらん)に数うる擬宝珠(ぎぼしゅ)を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。
 その霞より、なお濃(こまや)かに、靄(もや)に一面の胡粉(ごふん)を刷(は)いて、墨と、朱と、藍(あい)と、紺青(こんじょう)と、はた金色(こんじき)の幻を、露に研(みが)いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟(みみずく)は、道芝の中から生れて出たように上ったが。――
「車夫(わかいしゅ)、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」
 俥(くるま)を二台、東の石段で下りたのです。
「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を曳(ひ)いてあげようか。芝居茶屋の階子段(はしごだん)のお手際では、この石段は覚束(おぼつか)ない。」
 などと、木菟が生意気にいうと、
「大事おへん、前刻(さっき)落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」
 などと京人形が口を利いた。
 手水鉢(ちょうずばち)で、蔽(おおい)の下を、柄杓(ひしゃく)を捜(さぐ)りながら、雫(しずく)を払うと、さきへ手を浄(きよ)めて、紅(べに)の口に啣(くわ)えつつ待った、手巾(ハンケチ)の真中(まんなか)をお絹が貸す……
 勝手になさい。
 が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の階(きざはし)の上には、一本ならべの軽い戸だが、柵(さく)のように閉ざしてあった。
「前(ぜん)は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」
「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」
「怪しからん、――向う側へ。」
 と、あとへ退(さが)って、南面に、不忍(しのばず)の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許(あしもと)が辿々(たどたど)しい。
 さ、さ、とお絹の褄捌(つまさば)きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然(げきぜん)として、袖に褄に散る人膚(ひとはだ)の花の香に、穴のような真暗闇(まっくらやみ)から、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸を緊(し)めたのです。
「まず、可(よし)。」
 西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。
 廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処(ひとところ)、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴(ほうふつ)として、二十六夜の月光のごとく拝される。……
 欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。
 その梢(こずえ)、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品(おもちゃ)の転(ころが)ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、衝(つ)と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――
 この時、幹の黒い松の葉も、薄靄(うすもや)に睫毛(まつげ)を描いた風情して、遠目の森、近い樹立(こだち)、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。
「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」
「おお晴がまし、勿体ないえ。」
 と、吃驚(びっくり)したように、半ばその美しさを思っていて、羞(は)じたように、舞台を小走りに西口の縁へ遁(に)げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、髷(まげ)も鬢(びん)も蔽(おお)いながら、曲る突当りの、欄干の交叉(こうさ)する擬宝珠(ぎぼしゅ)に立つ。
 踊の錬(なれ)で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片(はなびら)の軽い渦が舞って通った。
 袖摺(す)れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに蕾(つぼみ)を含んで薄紅(うすあか)い。
「そこから見えますか、秋色桜(しゅうしきざくら)。」
「暗うて、よう見えへんけど……先度(せんど)昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」
「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」
「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」
 と、振返ると、顔をかくしたままの羅(うすもの)の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨(やさにら)みで凜(りん)とした。
花咲かば告げむと    いいし山寺の
使は来たり、馬に    鞍
くらまの山のうず    桜……
 ふと、前刻(さっき)の花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除(まよ)けの呪(じゅ)のように、わざと素よみの口の裡(うち)で、一歩(ひとあし)、二歩(ふたあし)、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子(おんぞうし)。……それよりも楠(くすのき)氏の姫が、田舎武士(いなかざむらい)をなぶるらしい。――大森彦七――傍(そば)へ寄ると、――便(びん)のういかがや――と莞爾(にっこり)して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な中(うち)にも背がほてった。
「やあ、洒落(しゃ)れてるなあ。」
 ――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る燈(ともしび)のように、細く灯(とも)して、薄く白い煙を靡(なび)かした、おでんの屋台に、車夫(わかいしゅ)が二人、丸太を突込(つッこ)んだように、真黒(まっくろ)に入っていたので。
「羨(うらやま)しいようですね……串戯(じょうだん)じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ俥(くるま)を廻わしたのが、石段下に、変に遥(はるか)な谷底で、熊が寝ているようですから。」
「動物園かてあるいうよって、密(そッ)と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」
 と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐(こわ)くはなさそうで。
「ほんに、谷底のようで靄(もや)が深うおすな、前刻(さっき)の階子段(はしごだん)思出したら、目がくらくらとするようえ。」
 白い片掌(かたて)を田舎武士の背にあてて、
「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」
「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途(かえり)に怪我でもあると不可(いけな)い。」
「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身(はだかみ)で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」
 手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が唸(うな)った。魔を退きょうと太刀(たち)の柄(つか)……洋杖(ステッキ)をカンとついて、
「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」
「ああれ。」
 闇(やみ)を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨(まきたばこ)で、半被股引(はっぴももひき)真黒(まっくろ)な車夫(わかいしゅ)が、鼻息を荒く、おでんの盛込(もりこみ)を一皿、銚子(ちょうし)を二本に硝子盃(コップ)を添えた、赤塗の兀盆(はげぼん)を突上げ加減に欄干越(ごし)。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に沁(し)む顰(しか)め面で、ニヤリと笑って、
「へい、わざッとお初穂……若奥様。」
「馬鹿な。」
「ちょっと、手をお貸しなすって。」
「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」
「へへへ、煮加減(にえかげん)の宜(よろし)い処と、お燗(かん)をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」
「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」
「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁(かごかき)と、車夫(くるまや)は、建場(たてば)で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご緩(ゆっく)り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加(みょうが)でして、へい、どうぞ、お初穂を……」
 お絹が柔順(すなお)に、もの軟(やわらか)に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、
「飛んだお供物、狒々(ひひ)にしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠(はげやしろ)で犠牲(いけにえ)を取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉(くろもんどうすりばちおおやしゃ)とでもいうかなあ。」
 縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。
 椎(しい)の葉にもる風流は解しても、鰯(いわし)のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて遁(に)げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄(かたづま)が、ずるりと前下りに、前刻(さっき)のままで、小袖幕の綻(ほころ)びから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。
 ――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処(ひかえどころ)で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入(ではいり)が続いたゆえ、ざっと夕餉(ゆうげ)を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお俥(くるま)は申しつけました……という、客あつかいに馴(な)れたもの。急所を圧(おさ)えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を圧(おさ)えて笑うと、お絹が根岸の藍川館(あいかわかん)――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑(ほほえ)んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。
 京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣(かみもうで)、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生(みぶ)の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。
 そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、靄(もや)の海の不知火(しらぬい)を掻分(かきわ)けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」
「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし幌(ほろ)の裡(なか)から、白木蓮(はくもくれん)のような横顔なのです。

「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑(みかん)の皮やら、南京豆(なんきんまめ)の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」
「成程、舞台傍(わき)の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻(こんにゃく)に、雁(がん)もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」
 巻莨(まきたばこ)と硝子盃(コップ)を両手に、二口、三口重ねると、圧(おさ)えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。
「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」
 お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀(こはく)のように含んで、吻(ほっ)と呼吸(いき)したが、
「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」
 もう一口。
「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって覗(のぞ)くようにするとな、ああ、灯が点(とも)れかけの暗さが来て、逢魔(おうま)が時や思うたらな、路之助はんの幟(のぼり)が沢山(たんと)、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」
「相撲のだね。」
「違います、女子(おなご)はんの。」
「…………」
「口をばこないにして。」
 と結んだ唇を、おくれ毛が凄(すご)く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。
「可恐(こわ)い顔をして睨(にら)みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」
「路之助?……路之助の……」
 立女形(たておやま)、あの花形に、蝶蜂の群衆(たか)った中には交らないで、ひとり、束髪(たばねがみ)の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――
 請う、自惚(うぬぼれ)にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる思(おもい)がした。
「何もな、何も知らんのえ、私(あて)路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染(なじみ)の――源太はん、帯が弛(ゆる)む――いわはった妓(ひと)どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと怨(うら)みやはる。
 ……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ響(ひびき)がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、緊(し)めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で遁(に)げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若(はんにゃ)の面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木(しゅもく)やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、揉(も)み、悶(もだ)えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結(ひきゆわ)え、引結えしておく伊達巻(だてまき)も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻(さっき)はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」
 それで、あの、階子段(はしごだん)――
 今度は大森彦七が踏みこたえた。
「神経だ、神経ですよ。」
 誰でもこの場は知識になる。
「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」
 誰でもこの場は凡夫になる。
「つらいこと。」
 と、斜(ななめ)にそむいて、
「あんたはんまで、そない言わはる、口惜(くやし)いえ。」
「が、しかし、つらいでしょう。」
 莨(たばこ)を捨てて硝子盃(コップ)を取って、
「そんな時は、これに限る。熱燗(あつかん)をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一挺(ちょう)なんざ、太神楽(だいかぐら)だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」
「やどへ行て。」
「成程。」
「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」
「飲ませますとも。」
「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命(いのち)の親どす。」
 真顔で、こうまでいわれたのには、酒が支(つか)えた。胸の澄まない事がいくらある……
「お言(ことば)で痛み入る。」
 と、もう一息ぐっと呷(あお)って、
「――実は串戯(じょうだん)だけれどもね、うっかり、人を信じて、生命(いのち)の親などと思っては不可(いけま)せん。人間は外面(そとづら)に出さないで、どういう不了簡(ふりょうけん)を持っていないとも限りません。
 こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説(くぜつ)でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」
「私をえ?」
「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」
「あんたはんがな。」
 前髪がふっくり揺れて…差俯向(さしうつむ)く。
「本望どすな。」
 と莞爾(にっこり)して、急に上げた瓜核顔(うりざねがお)が、差向いに軽く仰向(あおむ)いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。……
「あれえ。」
 声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷(まるまげ)が空ざまに振られつつ、
「蛇が、蛇が。」
「何、蛇が。」
「赤い蛇が。」
 赤い蛇は、褄(つま)の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。
「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」
 と欄干に、わなわな。
「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」
 と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套(がいとう)の袖で、背後状(うしろざま)にお絹を囲った。
「額の、額の。」
 ああ、幽(かすみ)に見ゆる観世音の額の金色(こんじき)と、中を劃(しき)って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条(ひとすじ)たらりと下っていた。
「紐だ、紐ですよ。何かの。」
 勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、
「あれ、……白い顔。」
 声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後(うしろ)から腰につかまった。
「上から覗(のぞ)かはる……どうしようねえ。」
 お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と摺(す)れて、この場合――ごみも埃(ほこり)もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと肘(ひじ)に乗ったのは、菅笠(すげがさ)です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋(とりすが)った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向(まうつむ)けになりました。
 おでんの膳なぞ一跨(ひとまた)ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の塵(ちり)を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔――

「朝顔?」

 ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん燗酒(かんざけ)にも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、杜若(かきつばた)でもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に聞反(ききかえ)したのであった。
「朝顔?」
 と。

「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといっても可(い)い――鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房(おおのきもとふさ)という、歌人(うたよみ)で、また絵師(えかき)さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」
 こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。
 ……で、この歌人(うたよみ)さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人(なこうど)も、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家(よそ)のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。
 清瀬洲美(すみ)さんというんです。
 女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに引(ひッ)かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の凜(りん)とした瓜核顔(うりざねがお)の……佳(い)い標致(きりょう)。
 申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の過失(あやまり)、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧(ざんき)のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な徒(てあい)は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者(じもの)、と称(とな)えた。何だ、地ものか。
 薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯(じねんじょ)扱い。蓼酢(たです)で松魚(かつお)だ、身が買えなけりゃ塩で揉(も)んで蓼だけ噛(かじ)れ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女(じおんな)を振りも返らぬ一盛(ひとさかり)。)そいつは金子(かね)を使ったでしょうが、こっちは素寒貧(すかんぴん)で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊(しゃぐま)と取組(とっく)む山童(やまわろ)の勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。
 お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――弥生(やよい)ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の砌(みぎり)、朝顔に人出の盛んな頃、入谷(いりや)が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁(しじみじる)、冷豆府(ひややっこ)どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家(さと)の父が酒飲みですから、ほどのいい燗(かん)がついているのに、暑さに咽喉(のど)の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒(ひやざけ)を茶碗で煽(あお)って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて蒼(あお)くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に沁(し)みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの室(ま)へ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。
 蚊がいますわ、と団扇(うちわ)で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗(きんしゃ)のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……
 今更贔屓分(ひいきぶん)でいうのではありません、――ちょッ、目力(めか)(助)編輯(へんしゅう)め、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣(ふんまん)はしたものの、私たちより、一歩(ひとあし)さきに文名を馳(は)せた才媛(さいえん)です、その文金の高髷(たかまげ)の時代から……
 平打の簪(かんざし)で、筆を取る。……
 銀杏返(いちょうがえ)し、襟つきの縞八丈(しまはちじょう)、黒繻子(くろじゅす)の引(ひっ)かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……
 月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。
 ――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……常袴(つねばかま)の紺足袋で、炎天にも日和(ひより)下駄を穿(うが)つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で捏(こ)ねて、ねッつりと歯をすかす、言(ことば)のあとさきは、咽喉(のど)の奥の方で、おおんと、空咳(からぜき)をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑(おか)しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中(まんなか)が、ちょっと歯茎を覗(のぞ)かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時※[#小書き片仮名ン、426-4]ば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉(あかとんぼ)と斉(ひと)しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。
 郷里――秋田から微禄(びろく)した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。
 頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。
 ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の鎧(よろい)ですから、ものほしそうな瓦斯織(がすおり)の染縞(そめじま)で、安もの買の汗がにおう。
 こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人(たいじん)は、風通小紋(ふうつうこもん)の単衣(ひとえ)に、白の肌襦袢(はだじゅばん)、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、膏(あぶら)が多いとお心得下さいまし。――綾織(あやおり)の帯で、塩瀬紺無地の袴(はかま)。総(ふさ)ついた、塗柄の団扇(うちわ)を手まさぐる、と、これが内にいる扮装(ふんそう)で、容体が分りましょう。
 鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極(したぎま)りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――一(ある)学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、宜(よろ)しくば。」……も何もない。願ったり叶(かな)ったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――

 手細工らしい桔梗(ききょう)の肘(ひじ)つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、密(そっ)と見た時、なぜか、冷酒(ひやざけ)が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと湧(わ)きました。

 時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。
 庭で蟋蟀(こおろぎ)の鳴くのが聞える。
 蔦(つた)の葉の浴衣に、薄藍(うすあい)と鶯茶(うぐいすちゃ)の、たて縞(じま)お召の袷羽織(あわせばおり)が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩(なでがた)を弱く辷(すべ)った藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色(ひいろ)無地の背負上(しょいあげ)が媚(なまめ)かしい。おお、紫手絡(てがら)の円髷だ。透通るような、その薄化粧。
 金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間(なかま)の、しかも兄哥(あにき)が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土(たたき)へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に薄(すすき)が靡(なび)いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの頸(えり)に映った。
 目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と咳(せき)して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――妻(さい)がね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも顕(あら)われるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お庇(かげ)でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として活(い)きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的(しゃくねつてき)であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性(ひんせい)のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着(こうちゃく)でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪(いたたま)らなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶(ろうかとんび)だ。――森の夕鴉(ゆうがらす)などは性に合わない。
「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」
 まだ入れかえない葦戸(よしど)に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。
 その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛(はけ)、毛氈(もうせん)の類(たぐい)でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中(まんなか)に、卓子台(ちゃぶだい)を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。
 三巴(みつどもえ)に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。
「すぐお燗(かん)がつきますが。境さん、さきへ冷酒(ひや)ですか。」
「いや、断(たち)ものです。」
 と真中(まんなか)へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の袴(はかま)は、入口の茶棚傍(わき)を勢い然(しか)るように及んで、着席です。
「牛(ぎゅう)が宜(よろ)しい……書生流に、おおん。」
 亭主のすきな赤烏帽子(あかえぼし)を指揮(さしず)する処へ、つくだ煮を装分(もりわ)けた小皿(てしお)に添えて、女中が銚子を運んで来た。
「よく、いすいだかい。」
「綺麗なお銚子。」
 色絵の萩の薄彩色、今万里(いまり)が露に濡れている。
「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫(くるまや)に振舞うたばかりですよ。」
「お毒見をいたします。」
 お洲美さんが白い手で猪口(ちょく)を取った。
「注(つ)いで下さい。」
 大人驚いた顔をして、
「飲むのかね。」
「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」
 かねて、切れた眦(めじり)が屹(きっ)として、
「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」
「おおん、何か、私の饒舌(しゃべ)った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも可(よ)かろう……注ぐよ。」
「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」
 歯ぎしみするように、きッきッと。
「ああ、飲んだ。」
 と、もう白澄んだ瞼(まぶた)を染めた。
「境さん、いいでしょう、上げますわ。」
「駕籠屋(かごや)は建場(たてば)を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」
「おいらんのようにはいきません。お酌は不束(ふつつか)ですよ、許して下さい。」
「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」
 と、夫人と見合った目を庭へ外(そ)らす。
 大人の頤(あご)が上って、
「大分壮(さかん)になりましたな、おおん。」
「あなた、電燈を捻(ひね)って下さい。」
 牛肉(ぎゅう)もふつふつ煮えて来た。
 といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側(ひとかわ)ならべの肉が、鍋(なべ)へ入ると、じわじわと鳴ると斉(ひと)しく、箸(はし)とともに真中(まんなか)でじゅうと消え失せる。注(さ)すあと、注すあと、割醤油(わりした)はもう空(から)で、葱(ねぎ)がじりじり焦げつくのに、白滝(しらたき)は水気を去らず、生豆府(なまどうふ)が堤防(どて)を築き、渠(きょ)なって湯至るの観がある。
「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」
 ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮(さしず)と働きを亭主が一所で、鉄瓶が零(ゼロ)のあとで、水指(みずさし)が空になり、湯沸(ゆわかし)が俯向(うつむ)けになって、なお足らず。
 大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を敲(たた)いて、
「これよ、水じゃ、水じゃ。」

 が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは身代(しんしょ)の痩(や)せたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。
 その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、気忙(きぜわ)しそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……挿画(さしえ)何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、退引(のっぴき)ならず二階で、膝詰の揮毫(きごう)となる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足後(おく)れたが、おくれただけ、なお怒ったように、階子段(はしごだん)を、洋袴(ずぼん)の割股で押上った。この肥(ふと)ったので、二階へ蓋(ふた)をしたように見えました。
「流行(はや)るんだなあ。」
 編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を横外頬(よこぞッぽ)へ、げっそりと腹を空かして、
「結構ですな。」
 枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、押取(おっと)って、箸を向けると、
「およしなさい。」
 と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、
「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お葱(ねぎ)や、豆府はまだしも、糸菎蒻(しらたき)だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯(ひとつ)もっとさ。」
「いや驚いた、いけますなあ。」
「一生に一度ですもの。」
「え。」
「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」
「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」
「お兄上。」
「…………」
「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう毎(たび)に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張(つっぱ)って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命(いのち)にかかわります。置きどころもない身体(からだ)を、あなたの目に曝(さら)すんですもの、形(なり)も態(ふり)もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。――ああ、信(のぶ)や(女中)二階で手が鳴る。――虫が煩(うるさ)い。この燈(ひ)を消して、隣室(となり)のを点(つ)けておくれな。」
 その間、頸脚(えりあし)が白かった。振仰向(ふりあおむ)くと、吻(ほっ)と息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、
「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。お睦(むつま)じい?……」
 と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣の蔦(つた)は野分(のわき)する。
「何をいってるんです。」
「おいらんは何て方?……十六夜(いざよい)さん、三千歳(みちとせ)さん?」
「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、鮨(すし)を撮(つま)んで、笹巻(ささまき)の笹だけ袂(たもと)へ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。――庭の薄(すすき)に風が当る。……
 ――寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」
「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、媒妁(なこうど)だけは、もう止してね。」
 と、眉が迫って見据えるのです。
「媒妁?」
「――名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に――わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方(どなた)でした。」
「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……可(よし)。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」
「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。――境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」
「お待ちなさい、待ちたまえ。――だから断ったから差支えないでしょう。」
「ええ、断りましたわ、誰があんな――あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」
「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」
「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我(けが)にもあんな、あんな奴に。」
「無理だ、そりゃ乱暴だ。」
「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた――よござんすか――私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家(ここ)へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」
 太白の糸を噛(か)んだように、白く笑って、
「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜(くやし)さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の許(とこ)へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」
「何にもいわない。――もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」
 お洲美さんは、※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)っていた目を閉じました。そして、うなずくように俯向(うつむ)いた耳許(みみもと)が石榴(ざくろ)の花のように見えた。
「私は巡礼……
 もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のような汚(きたな)がり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい――昨日(きのう)も上野の浄明院石占寺(いしうらでら)の万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木藻蝶(もちょう)。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、菅笠(すげがさ)を――ああ、暑い、私何だか目が霞む。――菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。――これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを――あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ――そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。――押入なんかに蔵(しま)っておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩も薄(すすき)も寝てしまう、紫苑(しおん)は弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい工合(ぐあい)に。」
 ああ、そうか、鶏頭か。春日燈籠(かすがどうろう)をつつんで、薄の穂が白く燈(ひ)に映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠を被(かぶ)った黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、破衣(やれごろも)のその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。
「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」
「大賛成です。」
「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」
 どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地に蔦(つた)を染めた、女作家の、庭の朧(おぼろ)の立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。
 軽くはずして、今、手提(てさげ)に引返す。帯が、もう弛(ゆる)んでいる。さみしい好みの水浅葱(みずあさぎ)の縮緬(ちりめん)に、蘆(あし)の葉をあしらって、淡黄(うすき)の肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらと紅(あか)く染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、颯(さっ)と通る処女風(むすめかぜ)に、蘆も蛍も薄(すすき)に映って、露ながら白い素足。
 二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪に翳(かざ)して、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱(くつぬぎ)をひらりと、縁へ。
「ふらふらする。ちょっと歩行(ある)くと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」
 と、元の座にくずれた。
「ああ私、何だか分らない。」
 ふう、と仰向(あおむ)けに胸の息づかい、乳(ち)の蔦がくれの膨(ふくら)みを、ひしと菅笠で圧(おさ)えながら、
「巡礼に御報謝……ね。」
 と、切なそうに微笑んだ。
 電燈を背後(うしろ)にして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、朧(おぼろ)に白い。
「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を透(とお)して胸が白い、乳が映る。」
「見えますか。」
「申すも憚(はばか)りだが、袖で隠して。」
「いいえ、いいえ。」
 おくれ毛が邪慳(じゃけん)に揺れると、頬が痩(や)せるように見えながら、
「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念(かたみ)に、見える胸を、笠を通して捺塗(なぞ)って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉(ごふん)とはいいませんから、墨ででも、渋(しぶ)ででも。」
「雪が一掴(ひとつか)みあればいいと思う。」
「信や……絵の具皿を引攫(ひっさら)っておいで。」
「穏かでない、穏かでない、攫(さら)うは乱暴だ、私が借りる。」
 胡粉に筆洗を注いだのですが。
「画工(えかき)でないのが口惜(くやし)いな。」
「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は徹(とお)りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」
 ――以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい――
 と咄嗟(とっさ)に思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりも掌(て)に響き、雪を円く、暖かく、肌理(きめ)滑らかに装上(もりあが)る。色の白さが夜(よ)の陽炎(かげろう)。
「ああ、ああ、刺青(ほりもの)ッて、こんなでしょうか。」
 居ずまいの乱るる膚(はだ)に、紅(くれない)の点滴(したたり)は、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながら刀(メス)より鋭く、双の乳房を、驚破(すわ)切落したように、立てていた片膝なり、思わず、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と尻もちを支(つ)いた。
 お洲美さんは、うっとり目を開(あ)き、膝を辷(すべ)って、蹴出しを隠した菅笠に、両(ふたつ)の白いものを視(み)て、擽(くすぐ)ったそうに、そッと撫でて、
「……熱いわ――この乳も酔っている……」
 と、いって寂しく微笑(ほほえ)んだ。
「人目があります。これでは巡礼して、肌を曝(さら)しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」
 浅葱(あさぎ)の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は畝(うね)らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。
 蔓(つる)を引いて、葉を添えた。
「うまいなあ、大野木夫人。」
「知らない。――このくらいな絵は学校で習います。同行二人(どうぎょうににん)――あとは、あなた書いて下さいな。」
「御意のままです、畏(かしこ)まった。」
「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」
「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」
「頂くわ、頂きますわ。」
 と、被(かぶ)ろうとする。
「お、お待ち下さい。――二階が余り静(しずか)です。気障(きざ)をいうようだが……その上になお、お髪(ぐし)が乱れる。」
「可厭(いや)な、そんな事は、おいらんに。」
「ああ、坊主になります。」
 首を縮めた。
「ちょうどいい、坊主が被(かぶ)って見せましょう。」
 と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと歩行(ある)き出したのです。
 中の室(ま)から、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。
 ハッと思わず気が着いたが、
「お洲美さん、貰って行(ゆ)きます。」
 我知らず声が出ました。
「あれ、奥様。」
 女中が飛出す。
 お洲美さんは、式台に一段躓(つまず)きながら、褄(つま)を投げて、障子の桟に縋(すが)ったのでした。
 ぶつぶつと、我とも分かず、口の裡(うち)で、何とも知らず、覚えただけの経文を呟(つぶや)き呟き、鶯谷から、上野の山中を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(さまよ)って歩行(ある)いた果(はて)が、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、紅緒(べにお)をわがね、なし得る布施を包んだ手帖(ノオト)の引きほぐしに、
大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋(いちがい)
よしなにおん計(はから) いのほど奉願上候(ねがいあげたてまつりそうろう)
                ……夜(よ)   巡礼者
  当御堂 お執事中               礼拝

 舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のように絡(まつ)わって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。

 お洲美さんは――水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後で儚(はかな)くなりました。

「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。――」

「――お絹さん、宿へ行って話しましょう。――この笠に、深いわけがあるんですから。」
「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐(こわ)いよって。」
「大きに。」
 お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に沁(し)む、袖で笠を抱きました。

「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」
 藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫(くるまや)がニヤニヤと声を掛けた。
「ほんに。」
「いや、一台は、そのまま。幌(ほろ)は掛けたまま頼むよ。」
 笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この俥(くるま)をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。
 見て下さい。――曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖(いちまいぶすま)を開けると、どうです。歓喜天の廚子(ずし)かと思う、綾錦(あやにしき)を積んだ堆(うずたか)い夜具に、ふっくりと埋(うず)まって、暖かさに乗出して、仰向(あおむ)けに寝ていたのが、
「やあ。」
 という、
 枕が二つ。……
「これはおいでなさい。」
 眉の青い路之助が、八反(たん)の広袖(どてら)に、桃色の伊達巻(だてまき)で、むくりと起きて出たんですから。
「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」
 片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を除(と)る、懐紙(ふところがみ)の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。
「――そうですか、いずれ明日。――お供を……」
「いや、待たせてあります。」
 路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。
 お絹が廂(ひさし)を出て、俥(くるま)の輪に摺(す)り寄った処を、
「握手をしますよ。」
 半身を幌(ほろ)から覗(のぞ)くと、
「は、は、は、どうぞしっかり。」
「さようなら。」
「お静かに。」
「ああ、お洲美さん。」
 万一、前刻(さき)に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に活(い)きてはいられまい。――
「お洲美さん、全く、お庇(かげ)だ。お洲美さん。」
「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」
「うむ。」
 踏切の坂を引(ひき)あげて、寛永寺横手の暗夜(やみ)に、石燈籠に囲まれつつ、轍(わだち)が落葉に軋(きし)んだ時、車夫(くるまや)が振向いた。
「婦(おんな)の友だちだよ。」
「旦那。」
 車夫は、藍川館まで附絡(つきまと)った、美しいのに遁(に)げられた、色情狂(いろきちがい)だと思ったろう。……
「うつくしい、儚(はかな)い人だよ。私の傍(そば)に居るようだ。」
「ぎゃあ。」
「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」
「降り出しましたぜ、旦那。」
「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」
「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」
 俥を棄てた。
 術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を綴(つづ)る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形(たておやま)に扮(ふん)するものを、路之助として、技(ぎ)の意見、相背き、相衝(あいつ)いて反する時、「ふん、おれの情婦(いろ)ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!……
「ああ、お洲美さん、ありがとう。」
 と朝顔の笠を両袖で――外套は宿へ忘れて来た――袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。……
昭和七(一九三二)年四月
了

底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
   1942(昭和17)年6月22日発行
初出:「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」
   1932(昭和7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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