あらすじ
正岡子規が著した「俳人蕪村」は、俳句の革新者として名高い与謝蕪村を、芭蕉と比較しながらその俳句の独自性を徹底的に分析した作品です。蕪村の俳句が、芭蕉の消極的な美とは対照的に、積極的な美、客観的な美、人事的な美、そして理想的な美を追求していることを、具体的な句を挙げながら論じています。蕪村の俳句の魅力は、漢語、古語、俗語を巧みに使いこなし、複雑で精細な世界を描き出すところにあります。さらに、蕪村が従来の句法にとらわれず、新しい句法を生み出したことも、本書で詳しく解説されています。蕪村の俳句の奥深さと、子規の熱心な分析に、思わず引き込まれること間違いなしです。
 芭蕉(ばしょう)新たに俳句界を開きしよりここに二百年、その間出(い)づるところの俳人少からず。あるいは芭蕉を祖述し、あるいは檀林(だんりん)を主張し、あるいは別に門戸を開く。しかれどもその芭蕉を尊崇するに至りては衆口一斉に出(い)づるがごとく、檀林等流派を異にする者もなお芭蕉を排斥せず、かえって芭蕉の句を取りて自家俳句集中に加うるを見る。ここにおいてか芭蕉は無比無類の俳人として認められ、また一人のこれに匹敵する者あるを見ざるの有様なりき。芭蕉は実に敵手なきか。曰(いわ)く、否(いな)。
 芭蕉が創造の功は俳諧史上特筆すべきものたること論を竢(ま)たず。この点において何人(なんぴと)かよくこれに凌駕(りょうが)せん。芭蕉の俳句は変化多きところにおいて、雄渾(ゆうこん)なるところにおいて、高雅なるところにおいて、俳句界中第一流の人たるを得。この俳句はその創業の功より得たる名誉を加えて無上の賞讃を博したれども、余より見ればその賞讃は俳句の価値に対して過分の賞讃たるを認めざるを得ず。誦するにも堪(た)えぬ芭蕉の俳句を註釈して勿体(もったい)つける俳人あれば、縁もゆかりもなき句を刻して芭蕉塚と称(とな)えこれを尊ぶ俗人もありて、芭蕉という名は徹頭徹尾尊敬の意味を表したる中に、咳唾(がいだ)珠(たま)を成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫(がれき)とともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村(ぶそん)とす。蕪村の俳句は芭蕉に匹敵すべく、あるいはこれに凌駕するところありて、かえって名誉を得ざりしものは主としてその句の平民的ならざりしと、蕪村以後の俳人のことごとく無学無識なるとに因(よ)れり。著作の価値に対する相当の報酬なきは蕪村のために悲しむべきに似たりといえども、無学無識の徒に知られざりしはむしろ蕪村の喜びしところなるべきか。その放縦不羈(ほうしょうふき)世俗の外に卓立せしところを見るに、蕪村また性行において尊尚すべきものあり。しかして世はこれを容(い)れざるなり。
 蕪村の名は一般に知られざりしにあらず、されど一般に知られたるは俳人としての蕪村にあらず、画家としての蕪村なり。蕪村歿後(ぼつご)に出版せられたる書を見るに、蕪村画名の生前において世に伝わらざりしは俳名の高かりしがために圧せられたるならんと言えり。これによれば彼が生存せし間は俳名の画名を圧したらんかとも思わるれど、その歿後今日に至るまでは画名かえって俳名を圧したること疑うべからざる事実なり。余らの俳句を学ぶや類題集中蕪村の句の散在せるを見てややその非凡なるを認めこれを尊敬すること深し。ある時小集の席上にて鳴雪(めいせつ)氏いう、蕪村集を得来たりし者には賞を与えんと。これもと一場の戯言なりとはいえども、この戯言はこれを欲するの念切(せつ)なるより出でしものにして、その裏面にはあながちに戯言ならざるものありき。はたしてこの戯言は同氏をして蕪村句集を得せしめ、余らまたこれを借り覧(み)て大いに発明するところありたり。死馬の骨を五百金に買いたる喩(たとえ)も思い出されておかしかりき。これ実に数年前(明治二十六年か)のことなり。しかしてこの談一たび世に伝わるや、俳人としての蕪村は多少の名誉をもって迎えられ、余らまた蕪村派と目(もく)せらるるに至れり。今は俳名再び画名を圧せんとす。
 かくして百年以後にはじめて名を得たる蕪村はその俳句において全く誤認せられたり。多くの人は蕪村が漢語を用うるをもってその唯一の特色となし、しかもその唯一の特色が何故(なにゆえ)に尊ぶべきかを知らず、いわんや漢語以外に幾多の特色あることを知る者ほとんどこれなきに至りては、彼らが蕪村を尊ぶゆえんを解するに苦しむなり。余はここにおいて卑見を述べ、蕪村が芭蕉に匹敵するところのはたしていずくにあるかを弁ぜんと欲す。

 美に積極的と消極的とあり。積極的美とはその意匠の壮大、雄渾、勁健(けいけん)、艶麗、活溌(かっぱつ)、奇警なるものをいい、消極的美とはその意匠の古雅、幽玄、悲惨、沈静、平易なるものをいう。概して言えば東洋の美術文学は消極的美に傾き、西洋の美術文学は積極的美に傾く。もし時代をもって言えば国の東西を問わず、上世には消極的美多く後世には積極的美多し。(ただし壮大雄渾なるものに至りてはかえって上世に多きを見る)されば唐時代の文学より悟入したる芭蕉は俳句の上に消極の意匠を用うること多く、従って後世芭蕉派と称する者また多くこれに倣(なら)う。その寂(さび)といい、雅といい、幽玄といい、細みといい、もって美の極となすもの、ことごとく消極的ならざるはなし。(ただし壮大雄渾の句は芭蕉これあれども後世に至りては絶えてなし)ゆえに俳句を学ぶ者消極的美を唯一の美としてこれを尚(とうと)び、艶麗なるもの、活溌なるもの、奇警なるものを見ればすなわちもって邪道となし卑俗となす。あたかも東洋の美術に心酔する者が西洋の美術をもってことごとく野卑なりとして貶(へん)するがごとし。艶麗、活溌、奇警なるものの野卑に陥りやすきはもとよりしかり。しかれども野卑に陥りやすきをもって野卑ならざるものをも棄(す)つるはその弁別の明なきがゆえなり。しかして古雅幽玄なる消極的美の弊害は一種の厭味(いやみ)を生じ、今日の俗宗匠の俳句の俗にして嘔吐(おうと)を催さしむるに至るを見るに、かの艶麗ならんとして卑俗に陥りたるものに比して毫(ごう)も優(まさ)るところあらざるなり。
 積極的美と消極的美とを比較して優劣を判せんことは到底出来得べきにあらず。されども両者ともに美の要素なることは論を竢(ま)たず。その分量よりして言わば消極的美は美の半面にして積極的美は美の他の半面なるべし。消極的美をもって美の全体と思惟(しい)せるはむしろ見聞の狭きより生ずる誤謬(ごびゅう)ならんのみ。日本の文学は源平以後地に墜(お)ちてまた振わず、ほとんど消滅し尽せる際に当って芭蕉が俳句において美を発揮し、消極的の半面を開きたるは彼が非凡の才識あるを証するに足る。しかもその非凡の才識も積極的美の半面はこれを開くに及ばずして逝(ゆ)きぬ。けだし天は俳諧の名誉を芭蕉の専有に帰せしめずしてさらに他の偉人を待ちしにやあらん。去来(きょらい)、丈草(じょうそう)もその人にあらざりき。其角(きかく)、嵐雪(らんせつ)もその人にあらざりき。五色墨(ごしきずみ)の徒もとよりこれを知らず。新虚栗(しんみなしぐり)の時何者をか攫(つか)まんとして得るところあらず。芭蕉死後百年に垂(なんな)んとしてはじめて蕪村は現われたり。彼は天命を負うて俳諧壇上に立てり。されども世は彼が第二の芭蕉たることを知らず。彼また名利に走らず、聞達を求めず、積極的美において自得したりといえども、ただその徒とこれを楽しむに止(とど)まれり。
 一年四季のうち春夏は積極にして秋冬は消極なり。蕪村最も夏を好み、夏の句最も多し。その佳句もまた春夏の二季に多し。これすでに人に異なるを見る。今試みに蕪村の句をもって芭蕉の句と対照してもって蕪村がいかに積極的なるかを見ん。
 四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹(ぼたん)は花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また
  尾張より東武に下る時
牡丹蘂(しべ)深くわけ出(いづ)る蜂(はち)の名残(なごり)かな  芭蕉
  桃隣新宅自画自讃
寒からぬ露や牡丹の花の蜜(みつ)  同
等のごとき、前者はただ季の景物として牡丹を用い、後者は牡丹を詠じてきわめて拙(つたな)きものなり。蕪村の牡丹を詠ずるはあながち力を用いるにあらず、しかも手に随(したが)って佳句を成す。句数も二十首の多きに及ぶ。そのうち数首を挙ぐれば
牡丹散って打重なりぬ二三片(ぺん)
牡丹剪(き)って気の衰へし夕(ゆふべ)かな
地車のとゞろとひゞく牡丹かな
日光の土にも彫(ほ)れる牡丹かな
不動画(ゑが)く琢磨(たくま)が庭の牡丹かな
方(ほう)百里雨雲よせぬ牡丹かな
金屏(きんびゃう)のかくやくとして牡丹かな
  蟻垤
蟻王宮(ぎわうきゅう)朱門を開く牡丹かな
  波翻舌本吐紅蓮
閻王(えんわう)の口や牡丹を吐かんとす
 その句またまさに牡丹と艶麗を争わんとす。
 若葉もまた積極的の題目なり。芭蕉のこれを詠ずるもの一、二句にして
  招提寺
若葉して御目の雫(しづく)ぬぐはゞや  芭蕉
  日光
あらたふと青葉若葉の日の光  同
のごとき、皆季の景物として応用したるに過ぎず。蕪村には直ちに若葉を詠じたるもの十余句あり。皆若葉の趣味を発揮せり。例、
山にそふて小舟漕ぎ行く若葉かな
蚊帳(かや)を出て奈良を立ち行く若葉かな
不尽(ふじ)一つ埋み残して若葉かな
窓の灯(ひ)の梢(こずゑ)に上る若葉かな
絶頂の城たのもしき若葉かな
蛇(だ)を截(き)って渡る谷間の若葉かな
をちこちに滝の音聞く若葉かな
 雲(くも)の峰(みね)の句を比較せんに
ひら/\とあぐる扇や雲の峰  芭蕉
雲の峰いくつ崩(くづ)れて月の山  同
  游力亭
湖や暑さを惜(をし)む雲の峰  同
 月山(がっさん)の句やや力強けれど、なお蕪村のに比すべくもあらず。蕪村の句多からずといえども、
楊州の津も見えそめて雲の峰
雲の峰四沢(したく)の水の涸(か)れてより
  旅意
二十日路(はつかぢ)の背中に立つや雲の峰
のごとき皆十分の力あるを覚ゆ。五月雨(さみだれ)は芭蕉にも
五月雨の雲吹き落せ大井川  芭蕉
五月雨をあつめて早し最上川(もがみがは)  同
のごとき雄壮なるものあり。蕪村の句またこれに劣らず。
五月雨の大井越えたるかしこさよ
五月雨や大河(たいが)を前に家二軒
五月雨の堀たのもしき砦(とりで)かな
 夕立の句は芭蕉になし。蕪村にも二、三句あるのみなれども、雄壮当るべからざるの勢いあり。
夕立や門脇殿(かどわきどの)の人だまり
夕立や草葉をつかむむら雀(すずめ)
  双林寺独吟千句
夕立や筆も乾(かわ)かず一千言
 時鳥(ほととぎす)の句は芭蕉に多かれど、雄壮なるは
時鳥声横(よこた)ふや水の上  芭蕉
の一句あるのみ。蕪村の句のうちには
時鳥柩(ひつぎ)をつかむ雲間より
時鳥平安城をすぢかひに
鞘(さや)ばしる友切丸(ともきりまる)や時鳥
など極端にものしたるものあり。
 桜の句は蕪村よりも芭蕉に多し。しかも桜のうつくしき趣を詠(よ)み出でたるは
四方(しはう)より花吹き入れて鳰(にほ)の海  芭蕉
木(こ)のもとに汁も鱠(なます)も桜かな  同
しばらくは花の上なる月夜かな  同
奈良七重(ななへ)七堂伽藍(しちだうがらん)八重桜  同
のごときに過ぎず。蕪村に至りては
阿古久曽(あこくそ)のさしぬき振ふ落花かな
花に舞はで帰るさ憎し白拍子(しらびゃうし)
花の幕兼好(けんかう)を覗(のぞ)く女あり
のごとき妖艶(ようえん)を極めたるものあり。そのほか春月、春水、暮春などいえる春の題を艶なる方に詠み出でたるは蕪村なり。例(たと)えば
伽羅(きゃら)くさき人の仮寝や朧月(おぼろづき)
女(をんな)倶(ぐ)して内裏拝まん朧月
薬盗む女やはある朧月
河内路(かはちぢ)や東風(こち)吹き送る巫(みこ)が袖(そで)
片町にさらさ染(そむ)るや春の風
春水や四条五条の橋の下
梅散るや螺鈿(らでん)こぼるゝ卓の上
玉人(ぎょくじん)の座右に開く椿(つばき)かな
梨(なし)の花月に書(ふみ)読む女あり
閉帳の錦垂れたり春の夕
折釘(をれくぎ)に烏帽子(ゑぼし)掛けたり春の宿
  ある人に句を乞はれて
返歌なき青女房よ春の暮
  琴心挑美人
妹(いも)が垣根三味線草(さみせんぐさ)の花咲きぬ
 いずれの題目といえども芭蕉または芭蕉派の俳句に比して蕪村の積極的なることは蕪村集を繙(ひもと)く者誰かこれを知らざらん。一々ここに贅(ぜい)せず。

 積極的美と消極的美と相対(あいたい)するがごとく、客観的美と主観的美ともまた相対して美の要素をなす。これを文学史の上に照すに、上世には主観的美を発揮したる文学多く、後世に下るに従い一時代は一時代より客観的美に入ること深きを見る。古人が客観に動かされたる自己の感情を直叙するは、自己を慰むるために、はた当時の文学に幼稚なる世人をして知らしむるために必要なりしならん。これ主観的美の行われたるゆえんなり。かつその客観を写すところきわめて麁鹵(そろ)にして精細ならず。例えば絵画の輪郭ばかりを描きて全部は観(み)る者の想像に任すがごとし。全体を現わさんとして一部を描くは作者の主観に出(い)づ。一部を描いて全体を想像せしむるは観る者の主観に訴うるなり。後世の文学も客観に動かされたる自己の感情を写すところにおいて毫も上世に異ならずといえども、結果たる感情を直叙せずして原因たる客観の事物をのみ描写し、観る者をしてこれによりて感情を動かさしむること、あたかも実際の客観が人を動かすがごとくならしむ。これ後世の文学が面目を新たにしたるゆえんなり。要するに主観的美は客観を描き尽さずして観る者の想像に任すにあり。
 客観的、主観的両者いずれが美なるかは到底判し得べきにあらず。積極的、消極的両美の並立(へいりつ)すべきがごとく、これもまた並立して各自の長所を現わすを要す。主観を叙して可なるものあり、叙して不可なるものあり。客観を写して可なるものあり、写して不可なるものあり。可なるものはこれを現わし不可なるものはこれを現わさず。しかして後に両者おのおの見るべし。
 芭蕉の俳句は古来の和歌に比して客観的美を現わすこと多し。しかもなお蕪村の客観的なるには及ばず。極度の客観的美は絵画と同じ。蕪村の句は直ちにもって絵画となし得べきもの少からず。芭蕉集中全く客観的なるものを挙ぐれば四、五十句に過ぎざるべく、中につきて絵画となし得べきものを択(えら)みなば
鶯(うぐひす)や柳のうしろ藪(やぶ)の前  芭蕉
梅が香にのっと日の出る山路かな  同
古寺の桃に米蹈(ふ)む男かな  同
時鳥大竹藪を漏る月夜  同
さゝれ蟹(がに)足はひ上る清水かな  同
荒海や佐渡(さど)に横(よこた)ふ天の川  同
猪(ゐのしし)も共に吹かるゝ野分(のわき)かな  同
鞍壺(くらつぼ)に小坊主乗るや大根引(だいこひき)  同
塩鯛の歯茎も寒し魚(うを)の店(たな)  同
等二十句を出でざらん。宇陀(うだ)の法師に芭蕉の説なりとて掲げたるを見るに
春風や麦の中行く水の音  木導
師説に云う、景気の句世間容易にするもってのほかのことなり。大事の物なり。連歌に景曲と云いいにしえの宗匠深くつつしみ一代一両句には過ぎず。景気の句初心まねよきゆえ深くいましめり。俳諧は連歌ほどはいわず。総別景気の句は皆ふるし。一句の曲なくては成りがたきゆえつよくいましめおきたるなり。木導が春風景曲第一の句なり。後代手本たるべしとて褒美(ほうび)に「かげろふいさむ花の糸口」という脇(わき)して送られたり。平句同前なり。歌に景曲は見様(けんよう)体に属すと定家卿もの給うなり。寂蓮(じゃくれん)の急雨定頼(さだより)卿の宇治の網代木(あじろぎ)これ見様体の歌なり。
とあり。景気といい景曲といい見様体という、皆わが謂(い)うところの客観的なり。もって芭蕉が客観的叙述を難(かた)しとしたること見るべし。木導の句悪句にはあらねどこの一句を第一とする芭蕉の見識はきわめて低くきわめて幼し。芭蕉の門弟は芭蕉よりも客観的の句を作る者多しといえども、皆客観を写すこと不完全なれば直ちにこれを画とせんにはなお足らざるものあり。
 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば
木瓜(ぼけ)の陰に顔たくひすむ雉(きぎす)かな
釣鐘にとまりて眠る胡蝶(こてふ)かな
やぶ入(いり)や鉄漿(かね)もらひ来る傘(かさ)の下
小原女(をはらめ)の五人揃ふて袷(あはせ)かな
照射(ともし)してさゝやく近江八幡(あふみやはた)かな
葉うら/\火串(ほぐし)に白き花見ゆる
卓上の鮓(すし)に眼寒し観魚亭
夕風や水青鷺(あをさぎ)の脛(はぎ)を打つ
四五人に月落ちかゝる踊(をどり)かな
日は斜(ななめ)関屋の槍(やり)に蜻蛉(とんぼ)かな
柳散り清水涸(か)れ石ところ/″\
かひがねや穂蓼(ほたで)の上を塩車
鍋提(さ)げて淀(よど)の小橋を雪の人
てら/\と石に日の照る枯野(かれの)かな
むさゝびの小鳥喰(は)み居(を)る枯野かな
水鳥や舟に菜を洗ふ女あり
のごとし。一事一物を画き添えざるも絵となるべき点において、蕪村の句は蕪村以前の句よりもさらに客観的なり。

 天然は簡単なり。人事は複雑なり。天然は沈黙し人事は活動す。簡単なるものにつきて美を求むるは易(やす)く、複雑なるものは難(かた)し。沈黙せるものを写すは易く、活動せるものは難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的によく天然を写し得たるは易きより入(い)りたる者なるべし。俳句の初めより天然美を発揮したるも偶然にあらず。しかれども複雑なるものも活動せるものも少しくこれを研究せんか、これを描くことあながち難きにあらず。ただ俳句十七字の小天地に今までは辛うじて一山一水一草一木を写し出(い)だししものを、同じ区劃(くかく)のうちに変化極まりなく活動止まざる人世の一部分なりとも縮写せんとするは難中の難に属す。俳句に人事的美を詠じたるもの少きゆえんなり。芭蕉、去来はむしろ天然に重きを置き、其角、嵐雪は人事を写さんとして端(はし)なく佶屈※(「敖/耳」、第4水準2-85-13)牙(きっくつごうが)に陥り、あるいは人をしてこれを解するに苦しましむるに至る。かくのごとく人は皆これを難しとするところに向って、ひとり蕪村は何の苦もなく進み思うままに濶歩(かっぽ)横行せり。今人(こんじん)はこれを見てかえってその容易なるを認めしならん。しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。
 芭蕉の句は人事を詠(よ)みたるもの多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり
鞍壺(くらつぼ)に小坊主のるや大根引(だいこひき)
のごとく自己以外にありて半ば人事美を加えたるすらきわめて少し。
 蕪村の句は
行く春や選者を恨む歌の主
命婦(みゃうぶ)より牡丹餅(ぼたもち)たばす彼岸かな
短夜(みじかよ)や同心衆の川手水(かはてうづ)
少年の矢数(やかず)問ひよる念者ぶり
水の粉やあるじかしこき後家(ごけ)の君
虫干や甥(をひ)の僧訪(と)ふ東大寺
祇園会(ぎをんゑ)や僧の訪ひよる梶(かぢ)がもと
味噌汁をくはぬ娘の夏書(げがき)かな
鮓(すし)つけてやがて去(い)にたる魚屋(うをや)かな
褌(ふんどし)に団扇(うちは)さしたる亭主かな
青梅に眉(まゆ)あつめたる美人かな
旅芝居穂麦がもとの鏡立て
身に入(し)むや亡妻(なきつま)の櫛(くし)を閨(ねや)に蹈(ふ)む
門前の老婆子(らうばし)薪貪る野分かな
栗そなふ恵心(ゑしん)の作の弥陀仏(みだぼとけ)
書記典主(てんず)故園に遊ぶ冬至(とうじ)かな
沙弥(しゃみ)律師ころり/\と衾(ふすま)かな
さゝめこと頭巾(づきん)にかつく羽折(はをり)かな
孝行な子供等に蒲団一つづゝ
のごとき数え尽さず、これらの什(じゅう)必ずしも力を用いしものにあらずといえども、皆よく蕪村の特色を現わして一句だに他人の作とまごうべくもあらず。天稟(てんぴん)とは言いながら老熟の致すところならん。
 天然美に空間的のもの多きはことに俳句においてしかり。けだし俳句は短くして時間を容(い)るる能(あた)わざるなり。ゆえに人事を詠ぜんとする場合にも、なお人事の特色とすべき時間を写さずして空間を写すは俳句の性質のしからしむるに因(よ)る。たまたま時間を写すものありとも、そは現在と一様なる事情の過去または未来に継続するに過ぎず。ここに例外とすべき蕪村の句二首あり。
御手討(おてうち)の夫婦なりしを更衣(ころもがへ)
打ちはたす梵論(ぼろ)つれだちて夏野かな
 前者は過去のある人事を叙し、後者は未来のある人事を叙す。一句の主眼が一は過去の人事にあり、一は未来の人事にあるは二句同一なり、その主眼なる人事が人事中の複雑なるものなることも二句同一なり。かくのごときものは古往今来(こおうこんらい)他にその例を見ず。

 俳句の美あるいは分って実験的、理想的の二種となすべし。実験的と理想的との区別は俳句の性質においてすでにしかるものあり。この種の理想は人間の到底経験すべからざること、あるいは実際あり得べからざることを詠みたるものこれなり。また実験的と理想的との区別俳句の性質にあらずして作者の境遇にあるものあり。この種の理想は今人にして古代の事物を詠み、いまだ行かざる地の景色風俗を写し、かつて見ざるある社会の情状を描き出すものこれなり。ここに理想的というは実験的に対していうものにして両者を包含す。
 文学の実験に依(よ)らざるべからざるはなお絵画の写生に依らざるべからざるがごとし。しかれども絵画の写生にのみ依るべからざるがごとく、文学もまた実験にのみ依るべからず。写生にのみ依らんか、絵画はついに微妙の趣味を現わす能わざらん、実験にのみ依らんか、尋常一様の経歴ある作者の文学は到底陳套(ちんとう)を脱する能わざるべし。文学は伝記にあらず、記実にあらず、文学者の頭脳は四畳半の古机にもたれながらその理想は天地八荒のうちに逍遙(しょうよう)して無碍自在(むげじざい)に美趣を求む。羽なくして空に翔(かけ)るべし、鰭(ひれ)なくして海に潜むべし。音なくして音を聴(き)くべく、色なくして色を観るべし。かくのごとくして得来たるもの、必ず斬新(ざんしん)奇警人を驚かすに足るものあり。俳句界においてこの人を求むるに蕪村一人あり。翻(ひるがえ)って芭蕉はいかんと見ればその俳句平易高雅、奇を衒(げん)せず、新を求めず、ことごとく自己が境涯の実歴ならざるはなし。二人は実に両極端を行きて毫も相似たるものあらず、これまた蕪村の特色として見ざるべけんや。
 芭蕉も初めは
菖蒲(しゃうぶ)生(な)り軒の鰯(いわし)の髑髏(されかうべ)
のごとき理想的の句なきにあらざりしも、一たび古池の句に自家の立脚地を定めし後は、徹頭徹尾記実の一法に依りて俳句を作れり。しかもその記実たる自己が見聞せるすべての事物より句を探り出(い)だすにあらず、記実の中にてもただ自己を離れたる純客観の事物は全くこれを抛擲(ほうてき)し、ただ自己を本としてこれに関連する事物の実際を詠ずるに止まれり。今日より見ればその見識の卑(ひく)きこと実に笑うに堪えたり。けだし芭蕉は感情的に全く理想美を解せざりしにはあらずして、理窟(りくつ)に考えて理想は美にあらずと断定せしや必(ひっ)せり。一世に知られずして始終逆境に立ちながら、竪固なる意思に制せられて謹厳に身を修(おさ)めたる彼が境遇は、かりそめにも嘘(うそ)をつかじとて文学にも理想を排したるなるべく、はた彼が愛読したりという杜詩(とし)に記実的の作多きを見ては、俳句もかくすべきものなりとおのずから感化せられたるにもあらん。芭蕉の門人多しといえども、芭蕉のごとく記実的なるは一人もなく、また芭蕉は記実的ならずとてそを悪く言いたる例も聞かず。芭蕉は連句において宇宙を網羅し古今を翻弄(ほんろう)せんとしたるにも似ず、俳句にはきわめて卑怯(ひきょう)なりしなり。
 蕪村の理想を尚(とうと)ぶはその句を見て知るべしといえども、彼がかつて召波(しょうは)に教えたりという彼の自記はよく蕪村を写し出(い)だせるを見る。曰く
(略)其角を尋ね嵐雪を訪い素堂を倡い鬼貫に伴う、日々この四老に会してわずかに市城名利の域を離れ林園に遊び山水にうたげし酒を酌(く)みて談笑し句を得ることはもっぱら不用意を貴ぶ、かくのごとくすること日々ある日また四老に会す、幽賞雅懐はじめのごとし、眼を閉じて苦吟し句を得て眼を開く、たちまち四老の所在を失す、しらずいずれのところに仙化して去るや、恍(こう)として一人みずから佇(たたず)む時に花香風に和し月光水に浮ぶ、これ子(し)が俳諧の郷なり(略)
 蕪村はいかにして理想美を探り出だすべきかを召波に示したるなり。筆にも口にも説き尽すべからざる理想の妙趣は、輪扁(りんぺん)の木を断(き)るがごとくついに他に教うべからずといえども、一棒の下に頓悟(とんご)せしむるの工夫なきにしもあらず。蕪村はこの理想的のことをなお理想的に説明せり。かつその説明的なると文学的なるとを問わず、かくのごとき理想を述べたる文字に至りては上下二千載我に見ざるところなり。奇文なるかな。
 蕪村の句の理想と思(おぼ)しきものを挙ぐれば
河童の恋する宿や夏の月
湖へ富士を戻(もど)すや五月雨(さつきあめ)
名月や兎(うさぎ)のわたる諏訪(すは)の湖(うみ)
指南車を胡地(こち)に引き去る霞(かすみ)かな
滝口に燈(ひ)を呼ぶ声や春の雨
白梅や墨芳(かん)ばしき鴻臚館(こうろくゎん)
宗鑑(そうかん)に葛水(くずみづ)たまふ大臣(おとど)かな
実方(さねかた)の長櫃(ながびつ)通る夏野かな
朝比奈が曽我を訪ふ日や初鰹(はつがつを)
雪信(ゆきのぶ)が蝿(はへ)打ち払ふ硯(すずり)かな
孑孑(ぼうふり)の水や長沙(ちゃうさ)の裏長屋
追剥(おひはぎ)を弟子に剃りけり秋の旅
鬼貫(おにつら)や新酒の中の貧に処す
鳥羽殿(とばどの)へ五六騎いそぐ野分かな
新右衛門蛇足をさそふ冬至かな
寒月や衆徒(しゅと)の群議の過ぎて後(のち)
  高野
隠れ住んで花に真田(さなだ)が謡(うたひ)かな
 歴史を借りて古人を十七字中に現わし得たるもの、もって彼が技倆(ぎりょう)を見るに足らん。

 思想簡単なる時代には美術文学に対する嗜好(しこう)も簡単を尚ぶは自然の趨勢(すうせい)なり。わが邦(くに)千余年間の和歌のいかに簡単なるかを見ば、人の思想の長く発達せざりし有様も見え透く心地す。この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかえって和歌よりも複雑なる意匠を現わさんとして漢語を借り来たり佶屈(きっくつ)なる直訳的句法をさえ用いたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句はついに俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引(あしびき)の山鳥の尾のという歌の簡単なるに比すべくもあらざれど、なお俳句中の最も簡単なるものに属す。芭蕉はこれをもってみずから得たりとし、終身複雑なる句を作らず。門人は必ずしも芭蕉の簡単を学ばざりしも、複雑の極点に達するにはなお遠かりき。
 芭蕉は「発句(ほっく)は頭よりすらすらと言い下し来たるを上品とす」と言い、門人洒堂(しゃどう)に教えて「発句は汝がごとく物二、三取り集むる物にあらず、こがねを打ちのべたるごとくあるべし」と言えり。洒堂の句の物二、三取り集むるというは
鳩吹くや渋柿原の蕎麦(そば)畑
刈株や水田の上の秋の雲
の類なるべく、洒堂また常に好んでこの句法を用いたりとおぼし。しかれども洒堂のこれらの句は元禄の俳句中に一種の異彩を放つのみならず、その品格よりいうも鳩吹、刈株の句のごときは決して芭蕉の下にあらず。芭蕉がこの特異のところを賞揚せずして、かえってこれを排斥せんとしたるを見れば、彼はその複雑的美を解せざりし者に似たり。
 芭蕉は一定の真理を言わずして時に随い人により思い思いの教訓をなすを常とす。その洒堂を誨(おし)えたるもこれらの佳作を斥(しりぞ)けたるにはあらで、むしろその濫用を誡(いまし)めたるにやあらん。許六が「発句は取合せものなり」というに対して芭蕉が「これほど仕よきことあるを人は知らずや」といえるを見ても、あながち取合せを排斥するにはあらざるべし。されどここに言える取合せとは二種の取合せをいうものにして、洒堂のごとく三種の取合せをいうにあらざるは、芭蕉の句、許六の句を見て明らかなり。芭蕉また凡兆に対して「俳諧もさすがに和歌の一体なり、一句にしおりあるように作すべし」といえるもこの間の消息を解すべきものあり。凡兆の句複雑というほどにはあらねど、また洒堂らと一般、句々材料充実して、かの虚字をもって斡旋(あっせん)する芭蕉流とはいたく異なり。芭蕉これに対して今少し和歌の臭味を加えよという、けだし芭蕉は俳句は簡単ならざるべからずと断定してみずから美の区域を狭く劃(かぎ)りたる者なり。芭蕉すでにかくのごとし。芭蕉以後言うに足らざるなり。
 蕪村は立てり。和歌のやさしみ言い古し聞き古して紛々(ふんぷん)たる臭気はその腐敗の極に達せり。和歌に代りて起りたる俳句幾分の和歌臭味を加えて元禄時代に勃興(ぼっこう)したるも、支麦(しばく)以後ようやく腐敗してまた拯(すく)うに道なからんとす。ここにおいて蕪村は複雑的美を捉え来たりて俳句に新生命を与えたり。彼は和歌の簡単を斥(しりぞ)けて唐詩の複雑を借り来たれり。国語の柔軟なる、冗長なるに飽きはてて簡勁(かんけい)なる、豪壮なる漢語もてわが不足を補いたり。先に其角一派が苦辛して失敗に終りし事業は蕪村によって容易に成就せられたり。衆人の攻撃も慮(おもんぱか)るところにあらず、美は簡単なりという古来の標準も棄(す)てて顧みず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。
 芭蕉の句はことごとく簡単なり。強(し)いてその複雑なるものを求めんか、
鶯や柳のうしろ藪(やぶ)の前
つゝじ活(い)けて其陰に干鱈(ひだら)さく女
隠れ家(が)や月と菊とに田三反
等の数句に過ぎざるべし。蕪村の句の複雑なるはその全体を通じてしかり。中につきて数句を挙ぐれば
草霞み水に声なき日暮かな
燕(つばめ)啼(な)いて夜蛇を打つ小家かな
梨の花月に書(ふみ)読む女あり
雨後の月誰(た)そや夜ぶりの脛(はぎ)白き
鮓(すし)をおす我れ酒かもす隣あり
五月雨や水に銭蹈(ふ)む渡し舟
草いきれ人死(しに)をると札の立つ
秋風や酒肆(しゅし)に詩うたふ漁者(ぎょしゃ)樵者(せうしゃ)
鹿ながら山影(さんえい)門に入(いる)日(ひ)かな
鴫(しぎ)遠く鍬(くは)すゝぐ水のうねりかな
柳散り清水涸(か)れ石ところ/″\
水かれ/″\蓼(たで)かあらぬか蕎麦(そば)か否か
我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす
 一句五字または七字のうちなお「草霞み」「雨後の月」「夜蛇を打つ」「水に銭蹈む」と曲折せしめたる妙は到底「頭よりすらすらと言い下し来たる」者の解し得ざるところ、しかも洒堂、凡兆らもまた夢寐(むび)にだも見ざりしところなり。客観的の句は複雑なりやすし。主観的の句の複雑なる
うき我に砧(きぬた)打て今は又やみね
のごときに至りては蕪村集中また他にあらざるもの、もし芭蕉をしてこれを見せしめば惘然自失(もうぜんじしつ)言うところを知らざるべし。

 外に広きものこれを複雑と謂(い)い、内に詳(つまび)らかなるものこれを精細と謂う。精細の妙は印象を明瞭(めいりょう)ならしむるにあり。芭蕉の叙事形容に粗にして風韻に勝ちたるは、芭蕉の好んでなしたるところなりといえども、一は精細的美を知らざりしに因(よ)る。芭蕉集中精細なるものを求むるに
粽(ちまき)結(ゆふ)片手にはさむ額髪
五月雨や色紙へぎたる壁の跡
のごとき比較的にしか思わるるあるのみ。蕪村集中にその例を求むれば
鶯の鳴くや小(ちひさ)き口あけて
あぢきなや椿落ち埋(うづ)む庭たつみ
痩臑(やせずね)の毛に微風あり衣がへ
月に対す君に投網(とあみ)の水煙
夏川をこす嬉(うれ)しさよ手に草履(ざうり)
鮎(あゆ)くれてよらで過ぎ行く夜半(よは)の門(かど)
夕風や水青鷺(あをさぎ)の脛(はぎ)を打つ
点滴に打たれてこもる蝸牛(かたつむり)
蚊の声す忍冬(にんどう)の花散るたびに
青梅に眉あつめたる美人かな
牡丹散(ちっ)て打ち重りぬ二三片
唐草に牡丹めでたき蒲団かな
引きかふて耳をあはれむ頭巾(づきん)かな
緑子(みどりご)の頭巾眉深(まぶか)きいとほしみ
真結(まむす)びの足袋はしたなき給仕かな
歯あらはに筆の氷を噛む夜かな
茶の花や石をめぐりて道を取る
等いと多かり。
 庭たつみに椿の落ちたるは誰も考えつくべし。埋むとは言い得ぬなり。もし埋むに力入れたらんには俗句と成り了(おわ)らん。落ち埋むと字余りにして埋むを軽く用いたるは蕪村の力量なり。よき句にはあらねど、埋むとまで形容して俗ならしめざるところ、精細的美を解したるに因る。精細なる句の俗了しやすきは蕪村のつとに感ぜしところにやあらん、後世の俳家いたずらに精細ならんとしてますます俗に堕(お)つる者、けだし精細的美を解せざるがためなり。妙人の妙はその平凡なるところ、拙(つたな)きところにおいて見るべし。唐詩選を見て唐詩を評し、展覧会を見て画家を評するは殆(あやう)し。蕪村の佳句ばかりを見る者は蕪村を見る者にあらざるなり。
「手に草履」ということももし拙く言いのばしなば殺風景となりなん。短くも言い得べきを「嬉しさよ」と長く言いて、長くも言い得べきを「手に草履」と短く言いしもの、良工苦心のところならんか。
「鮎くれて」の句、かくのごとき意匠は古来なきところ、よしありたりとも「よらで過ぎ行く」とは言い得ざりしなり。常人をして言わしめば鮎くれしを主にして言うべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行くところ、景を写し情を写し時を写し多少の雅趣を添う。
 顔しかめたりとも額に皺(しわ)よせたりともかく印象を明瞭ならしめじ、ことは同じけれど「眉あつめたる」の一語、美人髣髴(ほうふつ)として前にあり。
 蒲団引きおうて夜伽(よとぎ)の寒さを凌(しの)ぎたる句などこそ古人も言えれ、蒲団その物を一句に形容したる、蕪村より始まる。
「頭巾眉深(まぶか)き」ただ七字、あやせば笑う声聞ゆ。
 足袋の真結(まむす)び、これをも俳句の材料にせんとは誰か思わん。我この句を見ること熟せり、しかもいかにしてこのことを捉え得たるかは今に怪しまざるを得ず。
「歯あらはに」歯にしみ入るつめたさ想いやるべし。

 蕪村の俳句における意匠の美はすでにこれを言えり。意匠の美は文学の根本にして人を感動せしむるの力また多くここにあり。しかれども用語、句法の美これに伴わざらんには、あたら意匠の美を活動せしめざるのみならず、かえってその意匠に一種厭(いと)うべき俗気を帯びたるがごとく感ぜしむることあり。蕪村の用語と句法とはその意匠を現わすに最も適せるものにして、しかも自己の創体に属するもの多し。その用語の概略を言わんに
(一)漢語 は蕪村の喜んで用いたるものにして、あるいは漢語多きをもって蕪村の唯一の特色と誤認せらるるに至る。この一事がいかに人の注意を惹(ひ)きしかを知るべし。蕪村が漢語を用いたるは種々の便利ありしに因るべけれど、第一に漢語が国語より簡短なりしに因らずんばあらず、複雑なる意匠を十七、八字の中に含めんには簡短なる漢語の必要あり。また簡短なる語を用うれば叙事形容を精細になし得べき利あり。
指南車を胡地に引き去るかすみかな
閣に坐して遠き蛙(かはづ)を聞く夜かな
祇や鑑や髭(ひげ)に落花を捻(ひね)りけり
鮓桶(すしをけ)をこれへと樹下の床几(しゃうぎ)かな
三井寺や日は午に逼る若楓(わかかへで)
柚(ゆ)の花や善き酒蔵す塀(へい)の内
耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵
採蓴をうたふ彦根の※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)夫かな
鬼貫(おにつら)や新酒の中の貧に処す
月天心貧しき町を通りけり
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者
雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上
のごときこの例なり。されども漢語の必要ありとのみにてみだりに漢語を用い、ために一句の調和を欠かば佳句とは言われじ。「胡地」の語のごときあまり耳遠く普通に用いるべきにはあらざるを、「指南車」の語上にあり、「引き去る」という漢文直訳風の語下にあるために一句の調和を得たるなり。「落花」の語は「祇や鑑や」に対して響きよく、「芭蕉庵」という語なくんば「耳目肺腸」とは置く能(あた)わず。「採蓴(さいじゅん)」は漢語にあらざれば言うべからず、さりとてこの語ばかりにては国語と調和せず。ゆえにことさらに「※(「にんべん+倉」、第4水準2-1-77)夫(さうふ)」とは受けたり。
 第二は国語にて言い得ざるにはあらねど、漢語を用いる方よくその意匠を現わすべき場合なり。漢語を用いて勢いを強くしたる句、
五月雨や大河を前に家二軒
夕立や筆も乾かず一千言
時鳥平安城をすぢかひに
絶頂の城たのもしき若葉かな
方百里雨雲よせぬ牡丹かな
「おおかわ」と言えば水勢ぬるく「たいか」と言えば水勢急に感ぜられ、「いただき」と言えば山嶮(けわ)しからず、「ぜっちょう」と言えば山嶮しく感ぜらる。
 漢語を用いていかめしくしたる句
蚊遣(かやり)してまゐらす僧の座右かな
売卜先生木(こ)の下闇(したやみ)の訪はれ顔
「座右」の語は僧に対する多少の尊敬を表わし、「売卜先生(ばいぼくせんせい)」と言えば「卜屋算(うらやさん)」と言いしよりも鹿爪(しかつめ)らしく聞えてよく「訪はれ顔」に響けり。
寂として客の絶間の牡丹かな
蕭条として石に日の入る枯野かな
のごときは「しんとして」「淋しさは」など置きたると大差なけれど、なお漢語の方適切なるべし。
 第三は支那の成語を用うるものにして、こは成語を用いたるがために興あるもの、または成語をそのままならでは用いるべからざるものあり。支那の人名地名を用い、支那の古事風景等を詠ずる場合はもちろん、わが国のことをいう引合いに出されたるも少からず。その句、
行き/\てこゝに行き行く夏野かな
朝霧や杭(くひせ)打つ音丁々たり
帛を裂く琵琶(びは)の流れや秋の声
釣り上げし鱸(すずき)の巨口玉や吐く
三径の十歩に尽きて蓼(たで)の花
冬籠(ふゆごも)り燈下に書すと書かれたり
侘禅師(わびぜんじ)から鮭に白頭の吟を彫(ゑ)る
秋風の呉人は知らじふぐと汁
 右三種類のほかに
春水(しゅんすゐ)や四条五条の橋の下
の句は「春の水」ともあるべきを「橋の下」と同調になりて耳ざわりなれば「春水」とは置いたるならん。ただし四条五条という漢音の語なくば「春水」とは言わざりけん。
蚊帳(かや)釣りて翠微つくらん家の内
 特に翠微(すいび)というは翠の字を蚊帳の色にかけたるしゃれなり。
薫風やともしたてかねつ厳島(いつくしま)
「風薫る」とは俳句の普通に用いるところなれどしか言いては「薫る」の意強くなりて句を成しがたし。ただ夏の風というくらいの意に用いるものなれば「薫風」とつづけて一種の風の名となすにしかず。けだし蕪村の烱眼(けいがん)は早くこれに注意したるものなるべし。
(二)古語 もまた蕪村の好んで用いたるものなり。漢語は延宝(えんぽう)、天和(てんな)の間其角一派が濫用してついにその調和を得ず、其角すらこれより後、また用いざりしもの、蕪村に至りてはじめて成功を得たり。古語は元禄時代にありて芭蕉一派が常語との調和を試み十分に成功したるもの、今は蕪村に因ってさらに一歩を進められぬ。
およぐ時よるべなきさまの蛙かな
命婦より牡丹餅たばす彼岸かな
更衣(ころもがへ)母なん藤原氏なりけり
真しらけのよね一升や鮓のめし
おろしおく笈(おひ)になゐふる夏野かな
夕顔や黄に咲いたるもあるべかり
夜を寒み小冠者臥したり北枕
高燈籠(たかどうろ)消えなんとするあまたゝび
渡り鳥雲のはたての錦かな
大高に君しろしめせ今年米
 蕪村の用いたる古語には藤原時代のもあらん、北条足利時代のもあらん、あるいは漢書の訳読に用いられたるすなわち漢語化せられたる古語も多からん。いずれにもせよ、今まで俳句界に入らざりし古語を手に従って拈出(ねんしゅつ)したるは蕪村の力なり。ただ漢語を用い、いたずらに佶屈の句を作り、もって蕪村の真髄を得たりとなすもの、いまだ他の半面を解せざるべし。
(三)俗語 の最俗なるものを用い初めたるもまた蕪村なり。元禄時代に雅語、俗語相半ばせし俳句も、享保以後無学無識の徒に翫弄(がんろう)せらるるに至って雅語ようやく消滅し俗語ますます用いられ、意匠の野卑と相待って純然たる俗俳句となり了(おわ)れり、されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用いしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたるもの、ゆえに彼らが用いる俗語は俗語中のなるべく古(いにしえ)に近きを択(えら)みたりとおぼしく、俗中の俗なる日常の話語に至りてはもとより用いざりしのみならず、彼らなおこれを俗として排斥したり。檀林派の作者といえどもその意匠句法の滑稽突梯(とってい)なるにかかわらず、またこの俗語中の俗語を用いたるものを見ず。蕉門も檀林も其嵐派(きらんは)も支麦派も用いるに難(かた)んじたる極端の俗語を取って平気に俳句中に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したる蕪村の技倆(ぎりょう)は実に測るべからざるものあり。しかもその俗語の俗ならずしてかえって活動する、腐草螢(ほたる)と化し淤泥(おでい)蓮(はちす)を生ずるの趣あるを見ては誰かその奇術に驚かざらん。
出る杭(くひ)を打たうとしたりや柳かな
酒を煮る家の女房ちょとほれた
絵団扇(ゑうちは)のそれも清十郎(せいじふろ)にお夏かな
蚊帳の内に螢放してアヽ楽や
杜若(かきつばた)べたりと鳶(とび)のたれてける
薬(くすり)喰(くひ)隣の亭主箸持参
化さうな傘かす寺の時雨(しぐれ)かな
 後世一茶(いっさ)の俗語を用いたる、あるいはこれらの句より胚胎(はいたい)し来たれるにはあらざるか。薬喰の句は蕪村集中の最俗なるもの、一読に堪えずといえども、一茶はことにこの辺より悟入したるかの感なきにあらず。けだし一茶の作時(とき)に名句なきにはあらざるも、全体を通じて言えば句法において蕪村の「酒を煮る」「絵団扇」のごときしまりなく、意匠において「杜若」「時雨」のごとき趣味を欠きたり。蕪村は漢語をも古語をも極端に用いたり。佶屈なりやすき漢語も佶屈ならしめざりき。冗漫なりやすき古語も冗漫ならしめざりき。野卑なりやすき俗語も野卑ならしめざりき。俗語を用いたる一茶のほかは漢語にも古語にも彼は匹敵者を有せざりき。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人なり。

 句法は言語の接続をいう。俳句の句法は貞享(じょうきょう)、元禄に定まりて享保、宝暦を経て少しも動かず。むしろ元禄に変化したるだけの変化さえ失い、「何や」「何かな」一天張りのきわめて単調なるものとなり了りて、ただ時に檀林一派及び鬼貫らの奇を弄(ろう)するあるのみ。この際に当りて蕪村は句法の上に種々工夫を試み、あるいは漢詩的に、あるいは古文的に、古人のいまだかつて作らざりしものを数多(あまた)造り出せり。
春雨やいざよふ月の海半(なかば)
春風や堤長うして家遠し
雉(きじ)打て帰る家路の日は高し
玉川に高野(かうや)の花や流れ去る
祇や鑑や髭に落花をひねりけり
桜狩美人の腹や減却す
出(いづ)べくとして出ずなりぬ梅の宿
菜の花や月は東に日は西に
裏門の寺に逢著(ほうちゃく)す蓬(よもぎ)かな
山彦の南はいづち春の暮
月に対す君に投網(とあみ)の水煙
掛香(かけかう)や唖(おし)の娘の人となり
鮓を圧(お)す石上に詩を題すべく
夏山や京尽し飛ぶ鷺(さぎ)一つ
浅川の西し東す若葉かな
麓(ふもと)なる我蕎麦存す野分かな
蘭(らん)夕(ゆふべ)狐のくれし奇楠(きゃら)を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)(たか)ん
漁家寒し酒に頭(かしら)の雪を焼く
頭巾二つ一つは人に参らせん
我も死して碑にほとりせん枯尾花 (蕉翁碑)
のごときは漢文より来たりし句法なり。蕪村最も多くこの種の句法をなす。
しのゝめや鵜(う)をのがれたる魚浅し
鮓桶を洗へば浅き遊魚かな
古井戸や蚊に飛ぶ魚の音暗し
 魚浅し、音暗しなどいえる警語を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。
陽炎(かげろふ)や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
橋なくて日暮れんとする春の水
罌粟(けし)の花まがきすべくもあらぬかな
のごときは古文より来たるもの、
春の水背戸(せど)に田つくらんとぞ思ふ
白蓮(びゃくれん)を剪(き)らんとぞ思ふ僧のさま
 この「とぞ思ふ」というは和歌より取り来たりしものなり。そのほか
衣がへ野路の人はつかに白し
蚊の声す忍冬(にんどう)の花散るたびに
水かれ/″\蓼(たで)かあらぬか蕎麦か否か
のごときあり。
 元禄以来形容語はきわめて必要なるもののほか俳句には用いられざりき。いたずらに場所塞(ふさ)ぎをなすのみにて、ありてもなくても意義に大差なしとの意なりしならん。しかれども形容語は句を活動せしめ印象を明瞭ならしむるにはこれを用いて効多し。蕪村は巧みにこれを用い、ことに中七音のうちに簡単なる形容を用うることに長じたり。
水の粉やあるじかしこき後家の君
尼寺や善き蚊帳垂るゝ宵月夜
柚(ゆ)の花や能酒蔵(ざう)す塀の内
手燭(てしょく)して善き蒲団出す夜寒かな
緑子の頭巾眉深きいとほしみ
真結びの足袋はしたなき給仕かな
宿かへて火燵(こたつ)嬉しき在処(ありどころ)
 後の形容詞を用いる者、多くは句勢にたるみを生じてかえって一句の病となる。蕪村の簡勁(かんけい)と適切とに及ばざる遠し。
 蕪村の句は堅くしまりて揺(うご)かぬがその特色なり。ゆえに無形の語少く有形の語多し。簡勁の語多く冗漫の語少し。しかるに彼に一つの癖(へき)ありてある形容詞に限り長きを厭わず、しばしばこれを句尾に置く。
つゝじ咲(さい)て石うつしたる嬉しさよ
更衣(ころもがへ)八瀬(やせ)の里人ゆかしさよ
顔白き子のうれしさよ枕蚊帳(まくらがや)
五月雨(さつきあめ)大井越えたるかしこさよ
夏川を越す嬉しさよ手に草履
小鳥来る音嬉しさよ板庇(いたびさし)
鋸(のこぎり)の音貧しさよ夜半の冬
のごときこれなり。普通に嬉しと思う時嬉しと言わば俳句は無味になり了らん、まして嬉しさよと長く言わんはなおさらのことなり。嬉しさよといわねば感情を現わす能(あた)わざる時にのみ用いたる蕪村の句は、もとよりこの語を無造作に置きたるにあらず。さらに驚くべきは蕪村が一句の結尾に「に」という手爾葉(てには)を用いたることなり。例えば
帰る雁(かり)田毎(たごと)の月の曇る夜に
菜の花や月は東に日は西に
春の夜や宵(よひ)曙(あけぼの)の其中に
畑打や鳥さへ鳴かぬ山陰に
時鳥(ほととぎす)平安城をすぢかひに
蚊の声す忍冬の花散るたびに
広庭の牡丹や天の一方に
庵(いほ)の月あるじを問へば芋掘りに
狐火や髑髏(どくろ)に雨のたまる夜に
 常人をしてこの句法に倣(なら)わしめば必ずや失敗に終らん、手爾葉の結尾をもって一句を操るもの、蕪村の蕪村たるゆえんなり。
 蕪村は下五文字に何ぶり、何がち、何顔、何心のごとき語を据(す)うることを好めり。
三椀の雑煮(ざふに)かふるや長者ぶり
少年の矢数問ひよる念者ぶり
鶯のあちこちとするや小家(こいへ)がち
小豆(あづき)売る小家の梅の莟(つぼみ)がち
耕すや五石の粟(あは)のあるじ顔
燕(つばくら)や水田の風に吹かれ顔
川狩や楼上の人の見知り顔
売卜先生木の下闇の訪はれ顔
行く春やおもたき琵琶(びは)の抱き心
夕顔の花噛む猫やよそ心
寂寞(せきばく)と昼間を鮓(すし)の馴(な)れ加減
 またこの類の語の中七字に用いられたるもあり。後世の俗俳家何心、何ぶりなどと詠ずる者多くは卑俗厭うべし。
なれすぎた鮓をあるじの遺恨かな
牡丹ある寺行き過ぎし恨(うらみ)かな
葛(くず)を得て清水に遠き恨かな
「恨かな」というも漢詩より来たりしものならん。

 蕪村以前の俳句は五七五の句切(くぎれ)にて意味も切れたるが多し。たまたま変例と見るべきものもなお
行(ゆく)春や鳥啼(な)き魚(うを)の目は涙  芭蕉
松風の落葉か水の音涼し  同
松杉をほめてや風の薫る音  同
のごときものにして多くは「や」「か」等の切字(きれじ)を含み、しからざるも七音の句必ず四三または三四と切れたるを見る。蕪村の句には
夕風や水青鷺の脛を打つ
鮓を圧す我れ酒醸(かも)す隣あり
宮城野(みやぎの)の萩更科(さらしな)の蕎麦にいづれ
のごとく二五と切れたるあり、
若葉して水白く麦黄ばみたり
柳散り清水涸(か)れ石ところ/″\
春雨や人住みて煙壁を漏る
のごとく五二または五三と切れたるもあり。これ恐らくは蕪村の創(はじ)めたるもの、暁台(ぎょうたい)、闌更(らんこう)によりて盛んに用いられたるにやあらん。
 句調は五七五調のほかに時に長句をなし、時に異調をなす、六七五調は五七五調に次ぎて多く用いられたり。
花を蹈みし草履も見えて朝寐(あさね)かな
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
卯月(うづき)八日死んで生るゝ子は仏
閑古鳥(かんこどり)かいさゝか白き鳥飛びぬ
虫のためにそこなはれ落つ柿の花
恋さま/″\願の糸も白きより
月天心貧しき町を通りけり
羽蟻(はあり)飛ぶや富士の裾野の小家より
七七五調、八七五調、九七五調の句
独鈷(どくこ)鎌首水かけ論の蛙かな
売卜先生木の下闇の訪はれ顔
花散り月落ちて文こゝにあら有難や
立ち去る事一里眉毛(びまう)に秋の峰寒し
門前の老婆子薪(たきぎ)貪(むさぼ)る野分かな
夜桃林を出でゝ暁嵯峨(さが)の桜人
五八五調、五九五調、五十五調の句
およぐ時よるべなきさまの蛙かな
おもかげもかはらけ/\年の市
秋雨や水底の草を蹈み渉(わた)る
茯苓(ぶくりゃう)は伏かくれ松露(しょうろ)はあらはれぬ
侘禅師乾鮭(からざけ)に白頭の吟を彫(ゑる)
五七六調、五八六調、六七六調、六八六調等にて終六言を
夕立や筆も乾かず一千言
ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶
心太(ところてん)さかしまに銀河三千尺
炭団(たどん)法師火桶の穴より覗(うかが)ひけり
のごとく置きたるは古来例に乏しからず。終六言を三三調に用いたるは蕪村の創意にやあらん。その例、
嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮れし
一行の雁(かり)や端山に月を印す
朝顔や手拭の端の藍をかこつ
水かれ/″\蓼(たで)かあらぬか蕎麦か否か
柳散り清水涸(か)れ石ところ/″\
我をいとふ隣家寒夜に鍋をならす
霜百里舟中に我月を領す
 そのほか調子のいたく異なりたるものあり。
梅遠近(をちこち)南すべく北すべく
閑古鳥寺見ゆ麦林寺(ばくりんじ)とやいふ
山人は人なり閑古鳥は鳥なりけり
更衣母なん藤原氏なりけり
 最も奇なるは
をちこちをちこちと打つ砧(きぬた)かな
の句の字は十六にして調子は五七五調に吟じ得べきがごとき。

 漢語、俗語、雅語のことは前にも言えり。その他動詞、助動詞、形容詞にも蕪村ならでは用いざる語あり。
鮓(すし)を圧す石上に詩を題すべく
緑子の頭巾眉深(まぶか)きいとほしみ
大矢数(おほやかず)弓師親子も参りたる
時鳥歌よむ遊女聞ゆなる
麻刈れと夕日此頃(このごろ)斜なる
「たり」「なり」と言わずして「たる」「なる」と言うがごとき、「べし」と言わずして「べく」と言うがごとき、「いとほし」と言わずして「いとほしみ」と言うがごとき、蕪村の故意に用いたるものとおぼし。前人の句またこの語を用いたるものなきにあらねど、そは終止言として用いたるが多きように見ゆ。蕪村のはことさらに終止言ならぬ語を用いて余意を永くしたるなるべし。
をさな子の寺なつかしむ銀杏(いてふ)かな
「なつかしむ」という動詞を用いたる例ありや否や知らず。あるいは思う、「なつかし」という形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。はたしてしかりとすれば蕪村は傍若無人の振舞いをなしたる者と謂うべし。しかれども百年後の今日に至りこの語を襲用するもの続々として出でんか、蕪村の造語はついに字彙(じい)中の一隅を占むるの時あらんも測りがたし。英雄の事業時にかくのごときものあり。
 蕪村は古文法など知らざりけん、よし知りたりともそれにかかわらざりけん、文法に違(たが)いたる句
更衣母なん藤原氏なりけり
のごときあり。
我宿にいかに引くべき清水かな
のごとく「いかに」「何」等の係りを「かな」と結びたるは蕪村以外にも多し。
大文字(だいもんじ)近江(あふみ)の空もたゞならね
の「ね」のごとき例も他になきにあらず、蕪村は終止言としてこれを用いたるか、あるいは前に挙げたる「たる」「なる」のごとく特に言い残したる語なるか。たとい後者なりとも文法学者をして言わしめば文法に違いたりとせん、はたして文法に違えりや、はた韻文の文法も散文のごとくならざるべからざるか、そは大いに研究を要すべき問題なり。余は文法論につきてなお幾多の疑いを存する者なれども、これらの俳句をことごとく文法に違えりとて排斥する説には反対する者なり。まして普通の場合に「ならめ」等の結語を用いる例は万葉にもあるをや。
二本(ふたもと)の梅に遅速を愛すかな
麓なる我蕎麦存す野分かな
の「愛すかな」「存す野分」の連続のごとき
夏山や京尽し飛ぶ鷺一つ
の「京尽し飛ぶ」の連続のごとき
蘭(らん)夕(ゆふべ)狐のくれし奇楠(きゃら)を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)(たか)ん
の「蘭夕」の連続のごとき漢文より来たりしものは従来の国語になき句法を用いたり。これらはもとより故意にこの新句法を造りしもの、しかして明治の俳句界に一生面を開きしものまた多くこの辺より出(い)づ。

 蕪村は狐狸(こり)怪をなすことを信じたるか、たとい信ぜざるもこの種の談を聞くことを好みしか、彼の自筆の草稿新花摘(しんはなつみ)は怪談を載すること多く、かつ彼の句にも狐狸を詠じたるもの少からず。
公達(きんだち)に狐(きつね)ばけたり宵の春
飯盗む狐追ふ声や麦の秋
狐火やいづこ河内(かはち)の麦畠
麦秋(むぎあき)や狐ののかぬ小百姓
秋の暮仏に化(ばけ)る狸(たぬき)かな
戸を叩(たた)く狸と秋を惜みけり
石を打狐守(も)る夜の砧かな
蘭夕狐のくれし奇楠(きゃら)を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)(たか)ん
小狐の何にむせけん小萩原
小狐の隠れ顔なる野菊かな
狐火の燃えつくばかり枯尾花
草枯れて狐の飛脚(ひきゃく)通りけり
水仙に狐遊ぶや宵月夜
 怪異を詠みたるもの、
化(ばけ)さうな傘(かさ)かす寺の時雨(しぐれ)かな
西の京にばけもの栖(すみ)て久しくあれ果(はて)たる家ありけり今は其さたなくて
春雨や人住みて煙壁を洩(も)る
 狐狸にはあらで幾何(いくばく)か怪異の聯想を起すべき動物を詠みたるもの、
獺(をそ)の住む水も田に引く早苗かな
獺を打し翁も誘ふ田植かな
河童の恋する宿や夏の月
蝮(くちばみ)の鼾(いびき)も合歓(ねむ)の葉陰かな
麦秋や鼬(いたち)啼(な)くなる長(をさ)がもと
黄昏(たそがれ)や萩に鼬(いたち)の高台寺
むさゝびの小鳥喰(は)み居(を)る枯野かな
 このほか犬鼠などの句多し。そは怪異というにあらねどかくのごとき動物を好んで材料に用いたるもその特色の一なり。
 州名国名など広き地名を多く用いたり。些細(ささい)なることなれど蕪村以前にはこの例少かりしにや。
河内路(かはちぢ)や東風(こち)吹き送る巫女が袖
雉(きぎす)鳴くや草の武蔵(むさし)の八平氏
三河なる八橋も近き田植かな
楊州の津も見えそめて雲の峰
夏山や通ひなれたる若狭人(わかさびと)
狐火やいづこ河内の麦畠
しのゝめや露を近江(あふみ)の麻畠
初汐(はつしほ)や朝日の中に伊豆(いづ)相模(さがみ)
大文字(だいもじ)や近江の空もたゞならね
稲妻の一網打つや伊勢の海
紀路(きのぢ)にも下りず夜を行く雁一つ
虫鳴くや河内通ひの小提灯(こぢゃうちん)
 糞、尿、屁など多く用いたるは其角なり。其角の句はやや奇を求めてことさらにものせしがごとく思わる。蕪村はこれを巧みに用い、これら不浄の物をして殺風景ならしめざるのみならず、幾多の荒寒凄涼なる趣味を含ましむるを得たり。
大(だい)とこの糞ひりおはす枯野かな
いばりせし蒲団干したり須磨の里
糞一つ鼠のこぼす衾(ふすま)かな
杜若(かきつばた)べたりと鳶(とび)のたれてける
 蕪村はこれら糞尿のごとき材料を取ると同時にまた上流社会のやさしく美しき様をも巧みに詠み出でたり。
春の夜に尊き御所を守(もる)身かな
春惜む座主(ざす)の連歌に召されけり
命婦より牡丹餅(ぼたもち)たばす彼岸かな
滝口に灯を呼ぶ声や春の雨
よき人を宿す小家や朧月
小冠者(こくゎじゃ)出て花見る人を咎(とが)めけり
短夜や暇(いとま)賜はる白拍子
葛水や入江の御所に詣づれば
稲葉殿の御茶たぶ夜なり時鳥
時鳥琥珀(こはく)の玉を鳴らし行く
狩衣(かりぎぬ)の袖の裏這(は)ふ螢(ほたる)かな
袖笠に毛虫をしのぶ古御達(ふるごたち)
名月や秋月どのゝ艤(ふなよそひ)
 蕪村の句新奇ならざるものなければ新奇をもって論ずれば蕪村句集全部を見るの完全なるにしかず。かつ初めより諸種の例に引きたる句多く新奇なるをもって特にここに拳ぐるの要なしといえども、前に挙げざりし句の中に新奇なる材料を用いし句を少し記しおくべし。
野袴の法師が旅や春の風
陽炎(かげろふ)や簣(あじか)に土をめつる人
奈良道や当帰畠(たうきばたけ)の花一木(ひとき)
畑打や法三章の札のもと
巫女町によき衣すます卯月かな
更衣印籠(いんろう)買ひに所化(しょけ)二人
床(ゆか)涼み笠(かさ)著(き)連歌の戻りかな
秋立つや白湯(さゆ)香(かんば)しき施薬院
秋立つや何に驚く陰陽師(おんやうじ)
甲賀衆(かふがしゅ)のしのびの賭(かけ)や夜半の秋
いでさらば投壺(とうこ)参らせん菊の花
易水に根深(ねぶか)流るゝ寒さかな
飛騨山(ひだやま)の質屋鎖(とざ)しぬ夜半の冬
乾鮭(からざけ)や帯刀殿(たてわきどの)の台所
 これらの材料は蕪村以前の句に少きのみならず、蕪村以後もまた用いる能わざりき。

 蕪村が縁語その他文字上の遊戯を主としたる俳句をつくりしは怪しむべきようなれど、その句の巧妙にして斧鑿(ふさく)の痕(あと)を留めず、かつ和歌もしくは檀林、支麦のごとき没趣味の作をなさざるところ、またもってその技倆を窺(うかが)うに足る。縁語を用いたる句、
春雨や身にふる頭巾(づきん)著(き)たりけり
つかみ取て心の闇の螢哉(かな)
半日の閑を榎(えのき)や蝉(せみ)の声
出代(でかはり)や春さめ/″\と古葛籠(ふるつづら)
近道へ出てうれし野のつゝじかな
愚痴無智のあま酒つくる松が岡
蝸牛(ででむし)や其(その)角文字(つのもじ)のにじり書
橘のかはたれ時や古館(ふるやかた)
橘のかごとがましき袷(あはせ)かな
一八(いちはつ)やしゃが父に似てしゃがの花
夏山や神の名はいさしらにぎて
藻の花やかたわれからの月もすむ
忘るなよ程は雲助時鳥
角文字(つのもじ)のいざ月もよし牛祭
又嘘(うそ)を月夜に釜(かま)の時雨(しぐれ)哉(かな)
葛(くず)の葉のうらみ顔なる細雨かな
頭巾著て声こもりくの初瀬法師
  晋子三十三回忌辰
擂盆(すりぼん)のみそみめぐりや寺の霜
 または
  題白川
黒谷の隣は白し蕎麦の花
のごとき固有名詞をもじりたるもあり。または
短夜や八声の鳥は八ツに啼く
茯苓(ぶくりゃう)は伏しかくれ松露(しょうろ)は露(あらは)れぬ
  思古人移竹
去来去り移竹移りぬ幾秋ぞ
のごとく文字を重ねかけたるもあり。
 俳句に譬喩(ひゆ)を用いるもの、俗人の好むところにしてその句多く理窟に堕(お)ち趣味を没す。蕪村の句時に譬喩を用いるものありといえども、譬喩奇抜にして多少の雅致を具(そな)う。また支麦輩の夢寐(むび)にも知らざるところなり。
独鈷(どくこ)鎌首水かけ論の蛙かな
苗代の色紙に遊ぶ蛙かな
心太(ところてん)さかしまに銀河三千尺
夕顔のそれは髑髏(どくろ)か鉢叩(はちたたき)
蝸牛の住はてし宿やうつせ貝
  金扇に卯花画
白かねの卯花もさくや井出の里
鴛鴦(をしどり)や国師の沓(くつ)も錦革
あたまから蒲団かぶれば海鼠(なまこ)かな
水仙や鵙(もず)の草茎花咲きぬ
  ある隠士のもとにて
古庭に茶筌花(ちゃせんばな)咲く椿かな
  雁宕久しく音づれせざりければ
有と見えて扇の裏絵覚束(おぼつか)な
  波翻舌本吐紅蓮
閻王(えんわう)の口や牡丹を吐かんとす
  蟻垤
蟻王宮(ぎわうきゅう)朱門を開く牡丹かな
浪花の旧国主して諸国の俳士を集めて円山に会筵しける時
萍(うきくさ)を吹き集めてや花筵(はなむしろ)
  傚素堂
乾鮭や琴に斧(をの)うつ響あり

 蕪村は享保元年に生まれて天明三年に歿す。六十八の長寿を保ちしかばその間種々の経歴もありしなるべけれど、大体の上より観(み)れば文学美術の衰えんとする時代に生まれてその盛んならんとする時代に歿せしなり。俳句は享保に至りて芭蕉門の英俊多くは死し、支考、乙由(おつゆう)らが残喘(ざんぜん)を保ちてますます俗に堕(お)つるあるのみ。明和以後枯楊※(「薛/子」、第3水準1-47-55)(こようげつ)を生じてようやく春風に吹かれたる俳句は天明に至りてその盛を極(きわ)む。俳句界二百年間元禄と天明とを最盛の時期とす。元禄の盛運は芭蕉を中心として成りしもの、蕪村の天明におけるは芭蕉の元禄におけるがごとくならざりしといえども、天明の隆盛を来たせしものその力最も多きにおる。天明の余勢は寛政、文化に及んで漸次に衰え、文政以後また痕迹(こんせき)を留めず。
 和歌は万葉以来、新古今以来、一時代を経(ふ)るごとに一段の堕落をなしたるもの、真淵(まぶち)出でわずかにこれを挽回したり。真淵歿せしは蕪村五十四歳の時、ほぼその時を同じゅうしたれば、和歌にして取るべくは蕪村はこれを取るに躊躇(ちゅうちょ)せざりしならん。されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥(なず)みて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。
 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有様を詠ぜしめたる原因となりしかも知らず。しかして蕪村はこの材料を古物語等より取りしと覚ゆ。
 蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学ことに漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠(そらい)一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、もって腐敗せる俳句に新生命を与えたるを見る。蕪村は徂徠ら修辞派の主張する、文は漢以上、詩は唐以上と言えるがごとき僻説(へきせつ)には同意するものにあらざるべけれど、唐以上の詩をもって粋の粋となしたること疑いあらじ。蕪村が書ける春泥集(しゅんでいしゅう)の序の中に曰く、
(略)彼も知らず、我も知らず、自然に化して俗を離るるの捷径(しょうけい)ありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩を能(よ)くす、他に求むべからず、波(は)疑って敢(あ)えて問う、それ詩と俳諧といささかその致(ち)を異にす、さるを俳諧を捨てて詩を語れと云う迂遠(うえん)なるにあらずや、答えて曰く(略)画の俗を去るだにも筆を投じて書を読ましむ、いわんや詩と俳諧と何の遠しとすることあらんや(略)
(略)詩に李杜(りと)を貴ぶに論なし、なお元白(げんぱく)を捨てざるがごとくせよ(略)
 これを読まば蕪村が漢詩の趣味を俳句に遷(うつ)ししことも、李杜を貴び元白を賤(いや)しみしことも明瞭ならん。漢書は蕪村の愛読せしところ、その詩を解すること深く、芭蕉がきわめておぼろに杜甫の詩想を認めしとは異なりしなるべし。
 絵画の上よりいうも蕪村は衰運の極に生まれて盛んならんとして歿せしなり。蕪村はみずから画を造りしこと多く、南宗の画家として大雅と並称せらる。天明以後絵画にわかに勃興して美術史に一紀元を与えたることにつきて、蕪村もまた多少の原因をなさざりしにはあらざるも、その影響はきわめて微弱にして、彼が俳句界における関係と同日に論ずべきにあらず。
 天明は狂歌盛んに行われ、黄表紙ようやく勢いを得たる時なり。されど俳句とは直接に関係するところなし。ただこの時代が文学美術全般の勃興を成したるは文運の隆盛を促すべき大勢に駆られたるものにして、その大勢なるものはかえって各種の文学美術が相互に影響したる結果も多かりけん。
 蕪村の交わりし俳人は太祇(たいぎ)、蓼太(りょうた)、暁台(ぎょうたい)らにしてそのうち暁台は蕪村に擬したりとおぼしく、蓼太は時々ひそかに蕪村調を学びしこともあるべしといえども、太祇に至りては蕪村を導きしか、蕪村に導かれしか、今これを判するを得ず。とにかくに蕪村が幾分か太祇に導かれし部分もあり得べきを信ずるなり。しかれども彼が師巴人(はじん)に受くるところ多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。

 蕪村は摂津浪花(なにわ)に近き毛馬塘(けまづつみ)の片ほとりに幼時を送りしことその春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)に見ゆ。彼は某に与うる書中にこの曲のことを記して
馬堤は毛馬塘なり、すなわち余が故園なり
といえり。やや長じて東都に遊び、巴人の門に入りて俳諧を学ぶ。夜半亭(やはんてい)は師の名を継げるなり。宝暦のころなりけん、京に帰りて俳諧ようやく神に入る。蕪村もと名利を厭(いと)い聞達を求めず、しかれども俳人として彼が名誉は次第に四方雅客の間に伝称せらるるに至りたり。天明三年十二月二十四日夜歿し、亡骸(なきがら)は洛東(らくとう)金福寺に葬る。享年六十八。
 蕪村は総常両毛奥羽など遊歴せしかども紀行なるものを作らず。またその地に関する俳句も多からず。西帰の後丹後におること三年、因って谷口氏を改めて与謝(よさ)とす。彼は讃州に遊びしこともありけん、句集に見えたり。また厳島(いつくしま)の句あるを見るにこの地の風情(ふぜい)写し得て最も妙なり、空想の及ぶべきにあらず。蕪村あるいはここにも遊べるか。蕪村は読書を好み和漢の書何くれとなくあさりしも字句の間には眼もとめず、ただ大体の趣味を翫味(がんみ)して満足したりしがごとし。俳句に古語古事を用いること、蕪村集のごとく多きは他にその例を見ず。
 彼が字句にかかわらざりしは古文法を守らず、仮名遣いに注意せざりしことにもしるけれど、なおその他にしか思わるるところ多し。一例を挙ぐれば彼が自筆の新花摘に
射干して※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)く近江やわたかな
とあり。射干(しゃかん)は「ひおうぎ」「からすおうぎ」などいえる花草にして、ここは「照射(ともし)して」の誤なるべし。蕪村が照射と射干との区別を知らざるはずはなけれど、かかることに無頓着の性(さが)とて気のつかざりしものならん。近江も大身と書くべきにや。秀吉が奥州を「大しゅ」と書きしことさえ思い出されてなつかし、蕪村の磊落(らいらく)にして法度に拘泥せざりしことこの類なり。彼は俳人が家集を出版することをさえ厭えり。彼の心性高潔にして些(さ)の俗気なきこともって見るべし。しかれども余は磊落高潔なる蕪村を尊敬すると同時に、小心ならざりし、あまり名誉心を抑え過ぎたる蕪村を惜しまずんばあらず。蕪村をして名を文学に揚げ誉を百代に残さんとの些の野心あらしめば、彼の事業はここに止まらざりしや必せり。彼は恐らくは一俳人に満足せざりしならん。春風馬堤曲に溢れたる詩思の富贍(ふせん)にして情緒の纏綿(てんめん)せるを見るに、十七字中に屈すべき文学者にはあらざりしなり。彼はその余勢をもって絵事を試みしかども大成するに至らざりき。もし彼をして力を俳画に伸ばさしめば日本画の上に一生面を開き得たるべく、応挙輩をして名をほしいままにせしめざりしものを、彼はそれをも得なさざりき。余は日本の美術文学のために惜しむ。
 春風馬堤曲とは俳句やら漢詩やら何やら交(ま)ぜこぜにものしたる蕪村の長篇にして、蕪村を見るにはこよなく便となるものなり。俳句以外に蕪村の文学として見るべきものもこれのみ。蕪村の熱情を現わしたるものもこれのみ。春風馬堤曲とは支那の曲名を真似たるものにて、そのかく名づけしゆえんは蕪村の書簡に詳(つまび)らかなり。書簡に曰く
一春風馬堤曲(馬堤は毛馬塘なり[#改行]すなわち余が故園なり)
余幼童之時春色清和の日には必ず友どちとこの堤上にのぼりて遊び候水には上下の船あり堤には往来の客ありその中には田舎娘の浪花に奉公してかしこく浪花の時勢粧に倣(なら)い髪かたちも妓家の風情をまなび○伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ故郷の兄弟を恥じいやしむ者ありされどもさすが故園情(こえんのじょう)に堪えずたまたま親里に帰省するあだ者なるべし浪花を出てより親里までの道行にて引道具の狂言座元夜半亭と御笑い下さるべく候実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候
代女述意(じょにかわってこころをのぶ)と称する春風馬堤曲十八首に曰く
やぶ入や浪花(なには)を出て長柄川(ながらがは)
春風や堤長うして家遠し
堤下摘芳草(ていかはうさうをつむ)  荊与棘塞路(けいときょくとみちをふさぐ)
荊棘何無情(けいきょくなんぞつれなきや)  裂裙且傷股(くんをさきかつこをきずつく)
渓流石点々(けいりういしてんてん)  蹈石撮香芹(いしをふんでかうきんをとる)
多謝水上石(たしゃすすゐじゃうのいし)  教儂不沾裙(われにくんをうるほさざるををしふるを)
一軒の茶店の柳老(おい)にけり
茶店の老婆子儂(われ)を見て慇懃(いんぎん)に無恙(むやう)を賀し且儂(わ)が春衣(しゅんい)を美(ほ)む
店中有二客(てんちうにかくあり)  能解江南語(よくかうなんのごをかいす)
酒銭擲三緡(しゅせんさんびんをなげうち)  迎我譲榻去(われをむかへたふをゆづりてさる)
古駅三両家猫児(べうじ)妻を呼(よぶ)妻来らず
呼雛籬外※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)(ひなをよぶりぐゎいのとり)  籬外草満地(りぐゎいくさちにみつ)
雛飛欲越籬(ひなとびてりをこえんとほっす)  籬高随三四(りたかうしてしたがふさんし)
春草路三叉(さんさ)中に捷径あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に三々は白し記得(きとく)す去年此路よりす
憐しる蒲公(たんぽぽ)茎短して乳を※(「さんずい+邑」、第3水準1-86-72)(うるほす)
むかし/\しきりにおもふ慈母の恩慈母の懐抱(くゎいはう)別に春あり
春あり成長して浪花(なには)にあり 梅は白し浪花橋(らうくゎけう)辺財主の家 春情まなび得たり浪花(なには)風流(ふり)
郷を辞し弟に負(そむい)て身三春(さんしゅん) 本をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅
故郷春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく) 楊柳(やうりう)長堤(ちゃうてい)道漸(やうや)くくれたり
矯首はじめて見る故園の家黄昏(くゎうこん)戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱き我を待(まつ)春又春
君不見(みずや)古人太祇が句
藪入(やぶいり)の寝(ぬ)るやひとりの親の側(そば)
 なおこのほかに澱河歌(よどがわのうた)三首あり。これらは紀行的韻文とも見るべく、諸体混淆(こんこう)せる叙情詩とも見るべし。惜しいかな、蕪村はこれを一篇の長歌となして新体詩の源を開く能わざりき。俳人として第一流に位する蕪村の事業も、これを広く文学界の産物として見れば誠に規模の小なるに驚かずんばあらず。
 蕪村は鬼貫句選の跋(ばつ)にて其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫を五子(ごし)と称し、春泥集の序にて其角、嵐雪、素堂、鬼貫を四老(しろう)と称す。中にも蕪村は其角を推したらんと覚ゆ、「其角は俳中の李青蓮と呼ばれたるものなり」といい「読むたびにあかず覚ゆ、これ角がまされるところなり」ともいえり。しかもその欠点を挙げて「その集を閲(けみ)するに大かた解しがたき句のみにてよきと思う句はまれまれなり」といい「百千の句のうちにてめでたしと聞ゆるは二十句にたらず覚ゆ」と評せり。自己が唯一の俳人と崇(あが)めたる其角の句を評して佳什(かじゅう)二十首に上らずという、見るべし蕪村の眼中に古人なきを。その五子と称し四老と称す、もとより比較的の讃辞にして、芭蕉の俳句といえどもその一笑を博するに過ぎざりしならん。蕪村の眼高きことかくのごとく、手腕またこれに副(そ)う。而して後に俳壇の革命は成れり。
 ある人咸陽宮(かんようきゅう)の釘かくしなりとて持てるを蕪村は誹(そし)りて「なかなかに咸陽宮の釘隠しと云わずばめでたきものなるを無念のことにおぼゆ」といえり。蕪村の俗人ならぬこと知るべし。蕪村かつて大高源吾より伝わる高麗(こうらい)の茶碗というをもらいたるを、それも咸陽宮の釘隠しの類なりとて人にやりしことあり。またある時松島にて重さ十斤ばかりの埋木の板をもらいて、辛うじて白石の駅に持ち出でしが、長途の労(つか)れ堪うべくもあらずと、旅舎に置きて帰りたりとぞ。これらの話を取りあつめて考うれば、蕪村の人物はおのずから描き出されて目の前に見る心地す。
 蕪村とは天王寺蕪(かぶら)の村ということならん、和臭を帯びたる号なれども、字面(じづら)はさすがに雅致ありて漢語として見られぬにはあらず。俳諧には蕪村または夜半亭の雅名を用うれど、画には寅(いん)、春星、長庚(ちょうこう)、三菓、宰鳥、碧雲洞(へきうんどう)、紫狐庵等種々の異名ありきとぞ。かの謝蕪村、謝寅、謝長庚、謝春星など言える、門弟にも高几董(こうきとう)、阮道立(げんどうりつ)などある、この一事にても彼らが徂徠派の影響を受けしこと明らかなり。二字の苗字を一字に縮めたるは言うまでもなく、その字面より見るも修辞派の臭味を帯びたり。
 蕪村の絵画は余かつて見ず、ゆえにこれを品評すること難(かた)しといえども、その意匠につきては多少これを聞くを得たり。(筆力等の技術はその書及び俳画を見て想像するに足る)蕪村は南宗より入りて南宗を脱せんと工夫せしがごとし。南宗を学びしはその雅致多きを愛せしならん。南宗を脱せんとせしは南宗の粗鬆(そしょう)なる筆法、狭隘(きょうあい)なる規模がよく自己の美想を現わすを得ざりしがためならん。彼は俳句に得たると同じ趣味を絵画に現わしたり、もとより古人の粉本(ふんぽん)を摸(も)し意匠を剽竊(ひょうせつ)することをなさざりき。あるいは田舎の風光、山村の景色等自己の実見せしもの(かつ古人の画題に入らざりしもの)を捉え来たりて、支那的空想に耽(ふけ)りたる絵画界に一生面を開かんと企てたり。あるいは時間を写さんとし、あるいは一種の色彩を施さんとして苦心したり。(色彩に関する例を挙ぐれば春の木の芽の色を樹によって染め分けたるがごとき、夜間燈火の映じたる樹を写したるがごとき)絵画における彼の眼光はきわめて高く、到底応挙、呉春らの及ぶところにあらず。しかれども蕪村は成功する能わずして歿し、かえって豎子(じゅし)をして名を成さしめたり。
 蕪村の画を称する者多く俳画をいう。俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を知らざるものこれをもって画となす、取らざるなり。蕪村の字支那の書風より出でてやや和習あり。縦横自在にして法度にかかわらず、しかも俗気なきこと俳画に同じ。
 蕪村の文章流暢(りゅうちょう)にして姿致(しち)あり。水の低きに就(つ)くがごとく停滞するところなし。恨むらくは彼は一篇の文章だも純粋の美文として見るべきものを作らざりき。
 蕪村の俳句は今に残りしもの一千四百余首あり、千首の俳句を残したる俳人は四、五人を出でざるべし。蕪村は比較的多作の方なり。しかれども一生に十七字千句は文学者として珍とするに足らず。放翁は古体今体を混じて千以上の詩篇を作りしにあらずや。ただ驚くべきは蕪村の作が千句ことごとく佳句なることなり。想うに蕪村は誤字違法などは顧みざりしも、俳句を練る上においては小心翼々として一字いやしくもせざりしがごとし、古来文学者のなすところを見るに、多くは玉石混淆(こんこう)せり、なすところ多ければ巧拙両(ふた)つながらいよいよ多きを見る。杜工部(とこうぶ)集のごときこれなり。蕪村の規模は杜甫(とほ)のごとく大ならざりしも、とにかく千首の俳句ことごとく巧みなるに至りては他に例を見ざるところなり。蕪村の天材は咳唾(がいだ)ことごとく珠(たま)を成したるか、蕪村は一種の潔癖ありていやしくも心に満たざる句はこれを口にせざりしか、そもそも悪句は埋没して佳句のみ残りたるか。余は三者皆原因の一部を分有したりと思う。俳句における蕪村の技倆は俳句界を横絶せり、ついに芭蕉、其角の及ぶところにあらず。連句もまた蕪村は蕪村流を応用して面目を新たにせり。しかれども蕪村は芭蕉が連句に力を用いしだけ熱心には力をここに伸ばさざりき。
 蕪村の俳諧を学びし者月居、月渓、召波、几圭(きけい)、維駒(いく)等皆師の調を学びしかども、ひとりその堂に上りし者を几董(きとう)とす、几董は師号を継ぎ三世夜半亭を称(とな)う。惜しむべし、彼れ蕪村歿後数年ならずしてまた歿し、蕪村派の俳諧ここに全く絶ゆ。
明治二十九年草稿
明治三十二年訂正
了

底本:「日本の文学 15」中央公論社
   1967(昭和42)年6月5日初版発行
   1973(昭和48)年7月30日10版発行
入力:蒋龍
校正:米田
2010年12月28日作成
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