あらすじ
秋雨の降る薄暗い夕方、格子戸の音が響き、作家はペンを置いて立ち上がります。そこへ、骨の折れた傘を片手に、小柄な男が訪ねてきました。男は、青白い顔で、大きな目で、オドオドしながら、妻の冬子が死んだと告げます。男は、冬子が投身自殺をしたと信じ、自殺の理由を探ろうとします。冬子の夫は、冬子が誰かと心中したのではないかと考え、冬子と文通していたニヒリストの詩人と、冬子が愛していたというアナキズムの大学者との関係を疑います。作家は、困惑しながらも、男の言葉を聞き、冬子の夫は必死に電話帳を繰ります。その時、玄関の戸が開き、冬子の足音が聞こえます。作家は、激しい争いが起こるのではないかと覚悟しますが、冬子は明るい笑顔で、夫に「あら、来てるの?」と声をかけます。男は、妻の姿を見て、戸惑いながらも、一つ傘で一緒に帰っていくのでした。
 秋雨のうすく降る夕方だつた。格子戸の鈴が、妙な音に、つぶれて響いてゐるので、私はペンをおいて立つた。
 臺所では、お米を磨(と)いでゐる女中が、はやり唄をうたつて夢中だ。湯殿では、ザアザア水音をさせて、箒をつかひながら、これも元氣な聲で、まけずに郷土(くに)の唄をうたつてゐる。私は細目に、玄關の障子をあけてみた。
「冬子は見えてをりませうか?」
 洋服で、骨の折れた傘を、半開きに、かしげてゐた。
「戸澤ですが――」
 と、中年の、小柄な男は、小腰をかがめて上眼づかひにいつた。
「冬子が、あがつてゐないとすると、大變なことになりました」
 私は格子をあけて、その人を迎へ入れなければならなかつた。
「大變なことと、おつしやると――」
「あれは、死んでゐます」
 これは變だと、さう聞いた刹那に思つた。だが、その人は、眞劍で、青白い顏に、オドオドした大きな眼が、うつろで、まぶちの赤いのが目立つてゐた。
「時間からいふと、今ごろは――」
 彼は唇を噛むやうにしてうつむいた。立つたままでも聞いてゐられないので、あがつてもらふと、彼はいひつづけた。
「つまらないことで別れてゐて、けふ歸つて見ると、家の中の樣子が變つてゐるのです」
「變つてゐるといふと?」
「彼女(あれ)は、もう、二度と、あの家へは歸らないつもりなのです。僕は――」
 と、顏を赤くしてどもつたが、
「あの女(ひと)なしには、實際、今、ゐられないのですが――」
 伏せた眼はうるましてゐる。別段、書置きも何もないが、壁にかけてあつた彼女の古い雨外套のカクシを探ると、ある男へやる、打合せの手紙の書きかけが丸めて入れてあつて、それを讀み解くと、冬子は、けふの丁度いまごろの時間に、函館海峽で、投身自殺をしてゐるのだ。
「僕が惡いのです。僕が、彼女(あのひと)を苦しめるものだから――だが、僕は堪らないのです。冬子が選んだ相手が、ニヒリストの、あの詩人であるなら、まだ耐へることが出來るが、僕の――僕の先輩、日本でたつた一人の先覺者、アナキズムの、大學者の×氏を、僕があるために、空しく海峽の藻屑としてしまふのは忍びない、そのくらゐならば、僕が死んであげる――」
 その人は歔欷したが、私は吃驚した。
「心中なのですか?」
 ときくと、冬子の夫はコツクリした。
「誰と?」
「それが、わからないから、堪らんのです。ニヒリスト詩人なんぞなら、彼一人死ぬがいいのです。だが、×氏なら惜しい、實に、實に惜しい、死なせたくないのだ。」
 彼はいふ。冬子とニヒリスト詩人とが、お互に變名して、手紙を託しあつてゐる古本屋へ、ニヒリスト詩人が、きのふの朝か、をととひ、冬子の手紙をとりに來たか、または冬子に手紙を渡したか、それを電話で、こちらから問合せてくれれば、けふ、函館海峽で命を落したのは、冬子と誰とだかがわかるのだと。
 これは困つたことだと、私は思つた。どんな氣持で、冬子がそんな手紙の書きかけを、古外套のカクシなどに入れておいたのであらう。そのニヒリスト詩人と彼がいふ詩人も、私は知つてゐる。なるほど、さうした對手を求めるやうな、熱烈な、死と愛の詩は發表してゐるが、しかし、冬子とどんな關係があるのだらう。しかもきのふは、冬子が帝展をゆつくりみてゐた姿を、見て來たものがあつたのだ。
 そんなことはおくびにもいへない。彼女の夫は、熱心に電話帳を繰つてゐる。
 と、門の潜戸があいて、敷石を蹈んでくるヅツシリした靴の音は、彼女のものだつた。私は、口のうちであつといつて、そこで、物凄い爭鬪が起らなければいいがと、逞しい彼女の腕を、目に見た瞬間、いとも朗らかに、彼女は叫んだ。
「あら、來てゐるの?」
 彼は、上衣のポケツトへ兩手を突つぱらして、そして、毛絲のセーターの濡れてゐる、彼の妻を見詰めた。
「厭だわ、なんだつて、來たの」
「なんだつてつて、僕は、何もかも申上げちやつた」
「あらま、呆れた」
 彼女が睨んで、笑ふと、かねて彼女からよく聞かされてゐる、英雄であるはずの彼は、從順にはにかんで、連れ立つて、一つ傘で歸つていつた。
(「大阪毎日新聞」昭和九年十二月)
了

底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「大阪毎日新聞」
   1934(昭和9)年12月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
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