あらすじ
「星女郎」は、倶利伽羅峠を訪れた男・境三造が、峠に棲むという美しい女郎の噂を耳にすることから始まる怪奇譚です。かつて賑わっていた峠の茶屋街は、今は廃墟と化し、そこに残る一軒家には、奇妙な噂が囁かれています。三造は、その噂の真相を探ろうと、峠へと足を踏み入れるのですが、そこで待ち受けていたのは、想像を絶する恐怖と、謎めいた美しさでした。果たして、三造は、峠の謎を解き明かすことができるのでしょうか。
       一

 倶利伽羅(くりから)峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪波山(となみやま)へ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別好物(ものずき)な旅客か、山伏、行者の類(たぐい)のほか、余り通らなかった。――ところで、今度境三造の過(よぎ)ったのは、新道……天田越(あまだごえ)と言う。絶頂だけ徒歩すれば、俥(くるま)で越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好事(ものずき)。
 さて目的は別になかった。
 暑中休暇に、どこかその辺(あたり)を歩行(ある)いて見よう。以前幾たびか上下したが、その後(のち)は多年麓(ふもと)も見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
 けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、某(なにがし)の職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、謂(い)わば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
 汽車は津幡(つばた)で下りた。市との間に、もう一つ、森下(もりもと)と云う町があって、そこへも停車場(ステエション)が出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
 間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮根(れんこん)が名産の、蓮田(はすだ)が稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋――源平盛衰記に==源氏の一手(ひとて)は樋口兼光(ひぐちかねみつ)大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦手(からめて)にこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚破(すわ)、松風も鯨波(とき)の声、山の緑も草摺(くさずり)を揺り揃えたる数万(すまん)の軍兵(ぐんぴょう)。伏屋(ふせや)が門(かど)の卯(う)の花も、幽霊の鎧(よろい)らしく、背戸の井戸の山吹も、美女(たおやめ)の名の可懐(なつかし)い。
 これは旧(もと)とても異(かわ)りはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草鞋(わらじ)、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓路(ふもとじ)を挟(さしはさ)んで、竹の橋の出外(ではず)れに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶染(ちゃぞめ)、藍染(あいぞめ)、講中手拭(こうじゅうてぬぐい)の軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼吸(いき)は合わぬながら、田舎は田舎だけに声繕(こわづくろ)いして、
「お掛けやす。」
「お休みやーす。」
 それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若い媚(なま)めかしい声が交って、化粧した婦(おんな)も居た。
 境も、往(ゆ)き還(かえ)り奥の見晴しに通って、縁から峠に手を翳(かざ)す、馴染(なじみ)の茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家構(やがまえ)の跡は、草茫々(ぼうぼう)、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓の累(かさな)ったのが望まれる。
 由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一叢(ひとむら)の樹立(こだち)も、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
 それに、藁屋(わらや)や垣根の多くが取払われたせいか、峠の裾(すそ)が、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高低(たかひく)、畝々(うねうね)と畝った処が、心覚えより早や目前(めさき)に近い。
 が、そこまでは並木の下を、例に因って、畷(なわて)の松が高く、蔭が出来て涼(すずし)いから、洋傘(こうもり)を畳んで支(つ)いて、立場(たてば)の方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯向(うつむ)いた菅笠(すげがさ)もちらほらあるが、藁葺(わらぶき)の色とともに、笠も日向(ひなた)に乾(から)びている。
 境は急に心細いようになった。前(さき)にも後にも、往来(ゆきき)の人はなかったのである。
 偶(ふ)と思出したことがあって、三造は並木の梢(こずえ)――松の裏を高く仰いで見た。鵲(かささぎ)の尾の、しだり尾の靡(なび)きはせずや。……

       二

 往年(いんぬるとし)、雨上りの朝、ちょうどこの辺(あたり)を通掛(とおりかか)った時、松の雫(しずく)に濡色見せた、紺青(こんじょう)の尾を豊(ゆたか)に、樹(こ)の間の蒼空(あおぞら)を潜(くぐ)り潜り、鵲(かささぎ)が急ぎもせず、翼で真白(まっしろ)な雲を泳いで、すいと伸(の)し、すいと伸して、並木の梢(こずえ)を道づれになった。可懐(なつかし)いその姿を見るのも、またこの旅の一興に算(かぞ)えたのであったから――それを思出して窺(うかが)ったが……今日は見えぬ。
 なお前途(ゆくて)の空を視(なが)め視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声の喧(かまびす)しい中にも、塒(ねぐら)してその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右瞻左瞻(とみこうみ)ながら、うかうかと並木を辿(たど)る――大(おおき)な蜻蛉(とんぼ)の、跟(あと)をつけて行(ゆ)くのも知らずに。
 やがて樹立が疎(まば)らになって、右左両方へ梢が展(ひら)くと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
 処へ、横雲の漾(ただよ)う状(さま)で、一叢(ひとむら)の森の、低く目前(めさき)に顕(あら)われたのは、三四軒の埴生(はにゅう)の小屋で。路傍(みちばた)に沿うて、枝の間に梟(ふくろう)の巣のごとく並んだが、どこに礎(いしずえ)を据えたとしもなく、元村から溢(あふ)れて出たか、崖から墜(お)ちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断念(あきら)めたらしい百姓家――その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃驚(びっくり)しそうな人々が住んでいよう。
 朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗荷(みょうが)の葉に、野茨(のばら)が白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松薪(まき)をひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家と頷(うなず)かれて、見るからに佗(わび)しい戸の、その蜘蛛(くも)の巣は、山姥(やまうば)の髪のみだれなり。
 一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小家(こや)は引込(ひっこ)んで、前が背戸の、早や爪尖(つまさき)あがりになる山路(やまみち)との劃目(しきりめ)に、桃の樹が一株あり、葉蔭に真黒(まっくろ)なものが、牛の背中。
 この畜生、仔細(しさい)は無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんど切(ぎり)な、たらたらと濡れた鼻頭(はなづら)に、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、熟(じっ)と見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
 その舌の尖(さき)を摺(す)って、野茨(のばら)の花がこぼれたように、真白(まっしろ)な蝶が飜然(ひらり)と飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっと地(じ)の底へ潜(くぐ)った状(さま)に、大牛がフイと失(う)せた。……
 失せた……と思う暇もなしに、忽然(こつぜん)として消えたのである。
「や!」
 声を出して、三造はきょとんとして、何かに取掴(とッつか)まったらしく、堅くなってそこらを捻向(ねじむ)く……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹が累(かさ)なり、中空を蔽(おお)うて四方から押被(おっかぶ)さって聳(そび)え立つ――その向って行(ゆ)くべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天窓(あたま)を出した雲の峯の尖端(とっぱし)が、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭に肖(に)たとは愚か。
 三造は悚然(ぞっ)とした。
 が、遁(に)げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
 一体、樹の間から湧(わ)いて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻(みまも)り瞻り、つい一足歩行(ある)いた、……その機会(はずみ)に、件(くだん)の桃の木に隠れたので、今でも真正面(まっしょうめん)へちょっと戻れば、立処(たちどころ)にまた消え失(う)せよう。
 蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
 独りで笑出した。
「まず昼間で可(よ)かった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」

       三

 これより前(さき)、境はふと、ものの頭(かしら)を葉越(ごし)に見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻(くりから)とは方角の反対な、加賀と越前(えちぜん)の国境(くにざかい)に、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代の俤(おもかげ)あり。麓(ふもと)の里に、錣頭巾(しころずき)を取って被(かず)き、薙刀(なぎなた)小脇に掻込(かいこ)んだ、面(つら)には丹(に)を塗り、眼(まなこ)は黄金(こがね)、髯(ひげ)白銀(しろがね)の、六尺有余の大彫像、熊坂長範(くまさかちょうはん)を安置して、観音扉(かんのんびらき)を八文字に、格子も嵌(は)めぬ祠(ほこら)がある。ために字(あざな)を熊坂とて、俗に長範の産地と称(とな)える、巨盗の出処は面白い。祠は立場(たてば)に遠いから、路端(みちばた)の清水の奥に、蒼(あお)く蔭り、朱に輝く、活(い)けるがごとき大盗賊の風采(ふうさい)を、車の上からがたがたと、横に視(なが)めて通った事こそ。われ御曹子(おんぞうし)ならねども、この夏休みには牛首を徒歩(かちあるき)して、菅笠(すげがさ)を敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、謂(い)われぬ可懐(なつかし)い思出(おもいで)があったので、越中境(えっちゅうざかい)へ足を向けた。――
 処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷った端(はな)を、隠身寂滅(おんしんじゃくめつ)、地獄が消えた牛妖(ぎゅうよう)に、少なからず驚かされた。
 正体が知れてからも、出遊の地に二心(ふたごころ)を持って、山霊を蔑(ないがしろ)にした罪を、慇懃(いんぎん)にこの神聖なる古戦場に対(むか)って、人知れず慚謝(ざんしゃ)したのであるる。
 立向う山の茂(しげり)から、額を出して、ト差覗(さしのぞ)く状(さま)なる雲の峰の、いかにその裾(すそ)の広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜呑(うのみ)にしている谷の深さ、山の高さが推量(おしはか)られる。
 辿(たど)るほどに、洋傘(こうもり)さした蟻(あり)のよう――蝉の声が四辺(あたり)に途絶えて、何の鳥かカラカラと啼(な)くのを聞くと、ちょっとその嘴(くちばし)にも、人間は胴中(どうなか)を横啣(よこぐわ)えにされそうであった。
 谷が分れて、森が涼しい。
 右手(めて)の谷の片隅に、前(さき)に見た牛の小家が、小さくなって、樹立(こだち)ありとも言わず、真白(まっしろ)に日が当る。
 やがて、二分(ぶ)が処上(のぼ)った。
 坂路に……草刈か、鎌は持たず。自然薯穿(じねんじょほり)か、鍬(くわ)も提げず。地柄(じがら)縞柄(しまがら)は分らぬが、いずれも手織らしい単放(ひとえ)を裙(すそ)短(みじか)に、草履穿(ばき)で、日に背いたのは緩(ゆるや)かに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向(さしむか)って二人――年紀(とし)も同じ程な六十左右(むそじそこら)の婆々(ばば)が、暢気(のんき)らしく、我が背戸に出たような顔色(かおつき)して立っていた。
 山逕(さんけい)の磽※(「石+角」、第3水準1-89-6)(ぎょうかく)、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂(ずたずた)、裂目に草生い、割目に薄(すすき)の丈伸びたれば、蛇(へび)の衣(きぬ)を避(よ)けて行(ゆ)く足許(あしもと)は狭まって、その二人の傍(わき)を通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
 ト境の方に立ったのが、心持身体(からだ)を開いて、頬(ほお)の皺(しわ)を引伸(ひんのば)すような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
 と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺(あたり)の白髪(しらが)が動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
 と聞いた時、境は早や二三間、前途(むこう)へ出ていた。
 で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎(とが)めるともなく、声高に饒舌(しゃべ)ったろう、――それにつけても、余り往来(ゆきき)のないのは知れた。
 けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧(もうろう)と立ったり、間近な崖へ影が射(さ)したり、背後(うしろ)からざわざわと芒(すすき)を掻分(かきわ)ける音がしたり、どうやら、件(くだん)の二人の媼(おうな)が、附絡(つきまと)っているような思(おもい)がした。ざっと半日の余、他(ほか)に人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。

       四

 蜩(ひぐらし)が谷になって、境は杉の梢(こずえ)を踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕(あら)わして、灰色に大(おおい)なる薄墨(うすずみ)の斑(まだら)を交え、動かぬ稲妻を畝(うね)らした状(さま)は凄(すさま)じい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓(りんかく)は、霄(おおぞら)との劃(くぎり)を蒼(あお)く、どこともなく嵐気(らんき)が迫って、幽(かすか)な谷川の流(ながれ)の響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
 また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠里(とおざと)の果(はて)なる海の上に、落ち行(ゆ)く日の紅(くれない)のかがみに映って、そこに蟠(わだかま)った雲の峰は、海月(くらげ)が白く浮べる風情。蟻を列(なら)べた並木の筋に……蛙のごとき青田(あおた)の上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓(やぐら)、遠きは狼煙(のろし)の余波(なごり)に似て、ここにある身は紙鳶(たこ)に乗って、雲の桟(かけはし)渡る心地す。
 これから前(さき)は、坂が急に嶮(けわし)くなる。……以前車の通った時も、空(から)でないと曳上(ひきあ)げられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形(やげんがた)に崩込(くずれこ)んで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直(まっすぐ)に杖(つえ)ついた洋傘(こうもり)と、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓(つたかずら)も葉の裏を見上げるように這懸(はいかか)る。
 それは可(い)い。
 かほどの処を攀上(よじのぼ)るのに、あえて躊躇(ちゅうちょ)するのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止(せきと)められた仔細(しさい)がある。
 山の中の、かかる処に、流灌頂(ながれかんちょう)ではよもあるまい。路の左右と真中(まんなか)へ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡(ゆいわた)したのが、目の前を遮った、――麓(ふもと)のものの、何かの禁厭(まじない)かとも思ったが、紅紙(べにがみ)をさした箸(はし)も無ければ、強飯(こわめし)を備えた盆も見えぬ。
「可訝(おかし)いな。」
 考えるまでもない、手取(てっと)り早く有体(ありてい)に見れば、正にこれ、往来止(どめ)。
 して見ると、先刻(さっき)、路を塞(ふさ)いで彳(たたず)んだ、媼(ばば)の素振(そぶり)も、通りがかりに小耳に挟んだ言(ことば)の端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
 が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
 もっとも時経(た)ったか、竹も古びて、縄も中弛(なかだる)みがして、草に引摺(ひきず)る。跨(また)いで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
 前後(あとさき)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)しながら、密(そっ)とその縄を取って曳(ひ)くと、等閑(なおざり)に土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰(たぐ)られた。慌てて放して、後へ退(さが)った。――一対の媼(ばば)が、背後(うしろ)で見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
 いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙動(ふるまい)は、われわれ人間としては尋常事(ただごと)ではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、蝗(いなご)が飛ぶほどでもなかろう。
 境は、今の騒ぎで、取落した洋傘(こうもり)の、寂しく打倒(ぶったお)れた形さえ、まだしも娑婆(しゃば)の朋達(ともだち)のような頼母(たのも)しさに、附着(くッつ)いて腰を掛けた。
 峰から落し、谷から推(お)して、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一刷(ひとはけ)刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
 日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単衣(ひとえ)の縞(しま)の、くっきりと鮮明(あざやか)になるのも心細い――山路に人の小ささよ。
 蜻蛉(とんぼ)でも来て留まれば、城の逆茂木(さかもぎ)の威厳を殺(そ)いで、抜いて取っても棄(す)つべきが、寂寞(じゃくまく)として、三本竹、風も無ければ動きもせず。
 蜩(ひぐらし)の声がする…………

       五

 カラカラと谺(こだま)して、谷の樹立(こだち)を貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰の方(かた)でカラカラとまた声が響く。
 と、蜩の声ばかりでなく、新(あらた)に鐸(すず)の音(ね)が起ったのである。
 ちりりんりんと――しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼母(たのも)しかった。峠には人が居る。
 その実、山霊が奏(かな)でるので、次第々々に雲の底へ、高く消えて行(ゆ)く類(たぐい)の、深秘な音楽ではあるまいか、と覚束(おぼつか)なさに耳を澄ますと、確(たしか)に、しかも、段々に峰から此方(こなた)に近くなる。
 蜩がそれに競わんとするごとく、また頻(しきり)に鳴き出す――足許(あしもと)の深い谷から、その銀(しろがね)の鈴を揺上(ゆりあ)げると、峠から黄金(こがね)の鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行交(ゆきか)うあたりは、目に見えぬ木(こ)の葉が舞い、霧が降る。
 涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、蜩(ひぐらし)の、と聞き紛(まが)うまで恍惚(うっとり)となった。目前(めのさき)に、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
「わっ。」
 と云って、境は驚駭(おどろき)の声を揚げた。
 遮る樹立の楯(たて)もあらず、霜夜に凍(い)てたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
「ほう――」
 と梟(ふくろ)のような声を発した。面(つら)赭黒(あかぐろ)く、牙(きば)白く、両の頬に胡桃(くるみ)を噛(か)み破(わ)り、眼(まなこ)は大蛇(おろち)の穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄螺(さざえ)を並べたよう。耳まで裂けた大口を開(あ)いて、上から境を睨(ね)め着けたが、
「これは、」
 と云う時、かっしと片腕、肱(ひじ)を曲げて、その蟹(かに)の甲羅(こうら)を面形(めんがた)に剥(は)いで取った。
 四十余りの総髪(そうがみ)で、筋骨逞(たく)ましい一漢子(いっかんし)、――またカラカラと鳴った――鐸の柄を片手に持換えながら、
「思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。」
 と一揖(いちゆう)して、
「面です……はははは面でござる。」
 と緒を手首に、可恐(おそろし)い顔は俯向(うつむ)けに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいその厳(おごそか)さ。逞ましい漢(おのこ)の手にもずしりとする。
「お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。」
「はあ、」
 と云うと、一刎(ひとは)ね刎ねたままで、弾機(ぜんまい)が切れたようにそこに突立(つった)っていた身構(みがまえ)が崩れて、境は草の上へ投膝(なげひざ)で腰を落して、雲が日和下駄(ひよりげた)穿(は)いた大山伏を、足の爪尖(つまさき)から見上げて黙る。
「別に、お怪我(けが)は?」
 手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
「怪我なんぞ。」
 境は我ながら可笑(おかし)くなって、
「生命(いのち)にも別条はありません。」
「重畳(ちょうじょう)でござる。」
 と云う、落着いて聞くと、声のやや掠(かす)れた人物。
「しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下(あなた)は、これから、」
「さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺(あなた)はな。」
 境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂の葎(むぐら)に、竹はすっくと立っている。

       六

「ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい――が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、」
 境の前に蹲(しゃが)んだ時、山伏は行衣(ぎょうえ)の胸に堆(うずたか)い、鬼の面が、襟許(えりもと)から片目で睨(にら)むのを推入(おしい)れなどして、
「実は、貴辺(あなた)よりも私(てまえ)がお恥かしい。臆病(おくびょう)から致いてかようなものを持出しましたで。
 それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石動(いするぎ)から取附(とッつき)の上(のぼ)り口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
 仔細(しさい)あって、私(てまえ)は、この坂を貴辺(あなた)、真暗三宝(まっくらさんぼう)駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がお在(いで)なさる姿さえ心着かなんだでござります。
 が、あちらのは、風説(うわさ)にも聞きますれば、私(てまえ)も見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山籠(やまごも)りを致しております。」
 不動堂の先達だと云う。それでその鐸(すず)も、雲のような行衣も解(よ)めた。
「御免下され、」
 とここで、鐸を倒(さかさま)に腰にさして、袂(たもと)から、ぐったりした、油臭い、叺(かます)の煙草入(たばこいれ)を出して、真鍮(しんちゅう)の煙管(きせる)を、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻莨(まきたばこ)で、吸附けながら、
「赫(かっ)と気ばかり上(のぼ)って、ざっと一日、好(すき)な煙草もよう喫(の)みません。世に推事(おしごと)というは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむと堪(こら)えるでござりましょうが、好事(ものずき)半分の生兵法(なまびょうほう)、豪(えら)く汗を掻(か)きました。」
「峠に何事があったんですか。」
「されば。」
 すぱすぱと二三服、さも旨(うま)そうに立続けに行者は、矢継早に乙矢(おとや)を番(つが)えて、
「――ございました。」
「どんな事ですか。」
 少し急込(せきこ)んで聞きながら、境は楯(たて)に取った上坂(のぼりざか)を見返った。峠を蔽(おお)う雲の峰は落日の余光(なごり)に赤し。
 行者の頬も夕焼けて、
「順に申さんと余り唐突でございますで――一体かようでございます。
 峠で力餅(ちからもち)を売りました、三四軒茶屋旅籠(はたご)のございました、あの広場(ひろッぱ)な、……俗に猿ヶ馬場(ばんば)――以前上下(のぼりくだり)の旅人で昌(さか)りました時分には、何が故に、猿ヶ馬場だか、とんと人力車の置場のようでござりましたに、御存じの汽車が、この裾(すそ)を通るようになりましてからは、富山の薬売、城端(じょうはな)のせり呉服も、碌(ろく)に越さなくなりまして、年一年、その寂れ方というものは、……それこそまた、猿(えて)どもが寄合場(よりあいば)になったでございます。
 ところで、峠の茶屋連中、山家(やまが)ものでも商人(あきんど)は利に敏(さと)い――名物の力餅を乾餅(かきもち)にして貯えても、活計(くらし)の立たぬ事に疾(はや)く心着いて、どれも竹の橋の停車場前へ引越しまして、袖無しのちゃんちゃんこを、裄(ゆき)の長い半纏(はんてん)に着換えたでござります。さて雪国の山家とて、桁(けた)梁(うつばり)厳丈(がんじょう)な本陣擬(まがい)、百年経(た)って石にはなっても、滅多に朽ちる憂(うれい)はない。それだけにまた、盗賊の棲家(すみか)にでもなりはせぬか、と申します内に、一夏、一日(あるひ)晩方から、や、もう可恐(おそろし)く羽蟻(はあり)が飛んで、麓(ふもと)一円、目も開(あ)きませぬ。これはならぬ、と言う、口へ入る、鼻へ飛込む。蚊帳を釣っても寝床の上をうようよと這廻(はいまわ)る――さ、その夜あけ方に、あれあれ峠を見され、羽蟻が黒雲のように真直(まっすぐ)に、と押魂消(おったまげ)る内、焼けました。
 残ったのがたった一軒。
 いずれ、山※(「てへん+峠のつくり」、第3水準1-84-76)(やまかせ)ぎのものか、乞食どもの疎※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)(そそう)であろう。焼残った一軒も、そのままにしておいては物騒じゃに因って、上段の床の間へ御仏像でも据えたなら、構(かまえ)は大(おおき)い。そのまま題にして、倶利伽羅山焼残寺(くりからざんしょうざんじ)が一院、北国名代(ほっこくなだい)の巡拝所――
 と申す説もござりました。」

       七

「ところが、買手が附いたのでござりましてな。随分広い、山ぐるみ地所附だと申す事で。」
 行者がちょいと句切ったので、
「別荘にでもなりましたか。」
 煙管(きせる)を揮(ふ)って、遮るごとく、
「いや、その儀なら仔細(しさい)はござらん、またどこの好事(ものずき)じゃと申して、そんな峠へ別荘でもござりますまい。……まず理窟は措(お)いて、誰だか買主が分らぬでございます。第一その話がござってから、二人や、三人、ぽつぽつ峠を越したものもございますが、一向に人の住んでいる様子は見えぬという事で。ただ稀代なのは、いつの間にやら雨で洗ったように、焼跡(やけあと)らしい灰もなし、焚(もえ)さしの材木一本横(よこた)わっておらぬばかりか、大風で飛ばしたか、土礎石(どだいいし)一つ無い。すらりと飯櫃形(いびつなり)の猿ヶ馬場(ばんば)に、吹溜(ふきた)まった落葉を敷いて、閑々と静まりかえった、埋(うも)れ井戸には桔梗(ききょう)が咲き、薄(すすき)に女郎花(おみなえし)が交ったは、薄彩色(うすさいしき)の褥(しとね)のようで、上座(かみくら)に猿丸太夫、眷属(けんぞく)ずらりと居流れ、連歌でもしそうな模様じゃ。……(焼撃(やきうち)をしたのも九十九折(つづらおり)の猿が所為(しわざ)よ、道理こそ、柿の樹と栗の樹は焼かずに背戸へ残したわ。)……などと申す。
 山家徒(やまがであい)でござるに因って、何か一軒家を買取ったも、古猿の化けた奴(やつ)。古(むかし)この猿ヶ馬場には、渾名(あだな)を熊坂(くまさか)と言った大猿があって、通行の旅人を追剥(おいはが)し、石動(いするぎ)の里へ出て、刀の鍔(つば)で小豆餅(あずきもち)を買ったとある、と雪の炉端(ろばた)で話が積(つも)る。
 トそこら白いものばっかりで、雪上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(ゆきじょうろう)は白無垢(しろむく)じゃ……なんぞと言う処から、袖裾(そですそ)が出来たものと見えまして、近頃峠の古屋には、世にも美しい婦(おんな)が住(すま)う。
 人が通ると、猿ヶ馬場に、むらむらと立つ、靄(もや)、霞、霧の中に、御殿女中の装いした婦(おんな)の姿がすっと立つ――
 見たものは命がない。
 さあ、その風説(うわさ)が立ちますと、それからこっち両三年、悪いと言うのを強いて越して、麓(ふもと)へ下りて煩うのもあれば、中には全く死んだもござる。……」
「まったく?」
 とハタと巻莨(まきたばこ)を棄てて、境は路傍(みちばた)へ高く居直る。
 行者は、掌(てのひら)で、鐸(すず)の蓋(ふた)して、腰を張って、
「さればその儀で。――
 隣村も山道半里、谷戸(やと)一里、いつの幾日(いつか)に誰が死んで、その葬式(とむらい)に参ったというでもござらぬ、が杜鵑(ほととぎす)の一声で、あの山、その谷、それそれに聞えまする。
 地体、一軒家を買取った者というのも、猿じゃ、狐じゃ、と申す隙(ひま)に、停車場前の、今、餅屋で聞くか、その筋へ出て尋ねれば、皆目知れぬ事はござるまい。が、人間そこまではせぬもので、火元は分らず、火の粉ばかり、わッぱと申す。
 さらぬだに往来の途絶えた峠、怪(あやし)い風説があるために、近来ほとんど人跡が絶果てました。
 ところがな、ついこの頃、石動在の若者、村相撲の関を取る力自慢の強がりが、田植が済んだ祝酒の上機嫌、雨霽(あまあが)りで元気は可(よし)、女小児(こども)の手前もあって、これ見よがしに腕を扼(さす)って――己(おら)が一番見届ける、得物なんぞ、何、手掴(てづか)みだ、と大手を振って出懸けたのが、山路へかかって、八ツさがりに、私(わし)ども御堂(みどう)へ寄ったでござります。
 そこで、御神酒(おみき)を進ぜました。あびらうんけんそわかと唱えて、押頂いて飲んだですて……
(お気をつけられい。)
 と申して石段を送って出ますと、坂へ立身上(たつみあが)りに片足を踏伸ばいて、
(先達、訳あねえ。)
 と向顱巻(むこうはちまき)したであります――はてさて、この気構えでは、どうやら覚束(おぼつか)ないと存じながら、連(つれ)にはぐれた小相撲という風に、源氏車の首抜(くびぬき)浴衣の諸肌脱(もろはだぬぎ)、素足に草鞋穿(わらじばき)、じんじん端折(ばしょり)で、てすけとくてく峠へ押上(おしのぼ)る後姿(うしろつき)を、日脚なりに遠く蔭るまで見送りましたが、何が、貴辺(あなた)、」
「え、その男は?」

       八

 先達は渋面して、
「まず生命(いのち)に別条のないばかり、――日が暮れましたで、私(てまえ)御本堂へだけ燈明を点(つ)けました。で、縁の端で……されば四日頃の月をこう、」
 手廂(てびさし)して、
「森の間(あい)から視(なが)めていますと、けたたましい音を立てて、ぐるぐる舞いじゃ、二三度立樹(たちき)に打着(ぶつか)りながら、件(くだん)のその昼間の妖物(ばけもの)退治が、駆込んで参りました。
(お先達、水を一口、)
 と云うと、のめずって、低い縁へ、片肱(かたひじ)かけたなり尻餅を支(つ)いたが、……月明りで見るせいではござらん、顔の色、真蒼(まっさお)でな。
 すぐに岩清水を月影に透かして、大茶碗に汲(く)んで進ぜた。
(明王のお水でござる……しっかりなされ。)
 と申したが、こっちで口へ当(あて)がってやらずには、震えて飲めなんだでござります。
 やっと人心地になった処で、本堂傍(わき)の休息所へ連込みました。
 処で様子を尋ねると、(そ、その森の中、垣根越、女の姿がちらちらする、わあ、追懸(おっか)けて来た、入って来る……閉めて欲(ほし)い。)と云うで、ばたばた小窓など塞(ふさ)ぎ、赫(かっ)と明(あかる)くとも参らんが、煤(すす)けたなりに洋燈(ランプ)も点(つ)けたて。
 少々落着いての話では――勢(いきおい)に任せて、峠をさして押上った、途中別に仔細(しさい)はござらん。元来(もともと)、そこから引返そうというではなく、猿ヶ馬場を、向うへ……
 というのが、……こちらで、」
 と煙管の尖(さき)で草を圧(おさ)え、
「峠越し竹の橋へ下りて、汽車で帰ろう了簡(りょうけん)。ただただ、山一つ越せば可(い)いわ、で薄(すすき)、焼石(やけいし)、踏(ふみ)だいに、……薄暮合(うすくれあい)――猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛が蟠(わだか)まったような形。人が開けたとは受取れぬ、雨戸が横に一枚と、入口の大戸の半分ばかり開いた様子が、口をぱくりと……それ、遣(や)った塩梅(あんばい)。根太ごと、がたがたと動出しもし兼ねんですて。
 そいつを睨(にら)みつけて、右の向顱巻(むこうはちまき)、大肌脱で通りかかると、キチキチ、キチキチと草が鳴る……いや、何か鳴くですじゃ、……
 蟋蟀(きりぎりす)にしては声が大(おおき)いぞ――道理かな、鼬(いたち)、かの鼬な。
 鼬でござるが、仰向(あおむ)けに腹を出して、尻尾をぶるぶると遣って、同一(おなじ)処をごろごろ廻る。
 つい、路傍(みちばた)の足許(あしもと)故に、
(叱(しつ)! 叱!)
 と追ってみたが、同一(おなじ)処をちょっとも動かず、四足をびりびりと伸べつ、縮めつ、白い面(つら)を、目も口も分らぬ真仰向(まあおむ)けに、草に擦(すり)つけ擦つけて転げる工合(ぐあい)が、どうも狗(いぬ)ころの戯(じゃ)れると違って、焦茶(こげちゃ)色の毛の火になるばかり、悶(もだ)え苦(くるし)むに相違ござらん。
 大蛇(うわばみ)でも居て狙(ねら)うか、と若い者ちと恐気(おじけ)がついたげな、四辺(あたり)に紛(まが)いそうな松の樹もなし、天窓(あたま)の上から、四斗樽(しとだる)ほどな大蛇(だいじゃ)の頭が覗(のぞ)くというでもござるまい。
 なお熟(じっ)と瞻(みまも)ると、何やら陽炎(かげろう)のようなものが、鼬の体から、すっと伝(つたわ)り、草の尖(さき)をひらひらと……細い波形に靡(なび)いている。はてな、で、その筋を据眼(すえまなこ)で、続く方へ辿(たど)って行(ゆ)くと……いや、解(よ)めましたて。
 右の一軒家の軒下に、こう崩れかかった区劃石(くぎりのいし)の上に、ト天を睨(にら)んだ、腹の上へ両方の眼(まなこ)を凸(なかだか)、シャ! と構えたのは蟇(ひきがえる)で――手ごろの沢庵圧(たくあんおし)ぐらいあろうという曲者(くせもの)。
 吐(つ)く息あたかも虹(にじ)のごとしで、かッと鼬に吹掛ける。これとても、蚊(か)や蜉蝣(ぶゆ)を吸うような事ではござらん、式(かた)のごとき大物をせしめるで、垂々(たらたら)と汗を流す。濡色が蒼黄色(あおぎいろ)に夕日に光る。
 怪しさも、凄(すご)さもこれほどなら朝茶の子、こいつ見物(みもの)と、裾を捲(まく)って、蹲(しゃが)み込んで、
(負けるな、ウシ、)
 などと面白半分、鼬殿を煽(あお)ったが、もう弱ったか、キチキチという声も出ぬ。だんだんに、影が薄くなったと申す事で。」

       九

「その内に、同じく伸(のッ)つ、反(そッ)つ、背中を橋に、草に頸窪(ぼんのくぼ)を擦りつけながら、こう、じりりじりりと手繰(たぐ)られる体(てい)に引寄せられて、心持動いたげにございました。
 発奮(はず)んで、ずるずると来た奴(やつ)が、若衆(わかいしゅ)の足許で、ころりと飜(かえ)ると、クシャッと異変な声を出した。
 こいつ嗅(か)がされては百年目、ひょいと立って退(すさ)ったげな、うむと呼吸(いき)を詰めていて、しばらくして、密(そっ)と嗅ぐと、芬(ぷん)と――貴辺(あなた)。
 ここが可訝(おかし)い。
 何とも得(え)知れぬ佳(い)い薫(かおり)が、露出(むきだし)の胸に冷(ひや)りとする。や、これがために、若衆は清涼剤(きつけ)を飲んだように気が変って、今まで傍目(わきめ)も触(ふ)らずにいました蟇(ひきがえる)の虹を外して、フト前途(むこう)を見る、と何と、一軒家の門(かど)を離れた、峠の絶頂、馬場の真中(まんなか)、背後(うしろ)へ海のような蒼空(あおぞら)を取廻して、天涯に衝立(ついたて)めいた医王山(いおうせん)の巓(いただき)を背負(しょ)い、颯(さっ)と一幅(ひとはば)、障子を立てた白い夕靄(ゆうもや)から半身を顕(あら)わして、錦(にしき)の帯は確(たしか)に見た。……婦人(おんな)が一人……御殿女中の風をして、」
 ――顔を合わせた。――
「御殿女中の?……」
 と三造は聞返す。
「お聞きなされ、その若衆(わかいしゅ)の話でござって――ト見ると、唇がキラキラと玉虫色、……それが、ぽっちり燃えるように紅(あか)くなったが、莞爾(にっこり)したげな。
 若衆は、一支えもせず、腰を抜いたが、手を支(つ)く間もない、仰向(あおの)けに引(ひっ)くりかえる。独りでに手足が動く、ばたばたはじまる。はッあァ、鼬の形と同一(おんなじ)じゃ。と胸を突くほど、足が窘(すく)む、手が縮まる、五体を手毬(てまり)にかがられる……六万四千の毛穴から血が颯(さっ)と霧になって、件(くだん)のその紅い唇を染めるらしい。草に頸(うなじ)を擦着け擦着け、
(お助け下さい、お助け!)……
 と頭(ず)で尺取って、じりじりと後退(あとずさ)り、――どうやらちっと、緊(し)めつけられた手足の筋の弛(ゆる)んだ処で、馬場の外れへ俵転がし、むっくりこと天窓(あたま)へ星を載(の)せて、山端(やまばな)へ突立(つった)つ、と目が眩(くら)んだか、日が暮れたか、四辺(あたり)は暗くなって何も見えぬ。
 で、見返りもせず、逆落し、旧(もと)の坂をどどどッと駆下りる――いやもう途中、追々ものの色が分るにつけ、山茨(やまいばら)の白いのも女の顔に顕(あら)われて、呼吸(いき)も吐(つ)けずに遁(に)げた、――と申す。
 若衆は話の中(うち)も、わなわなと歯の根が合わぬ。
(生血(いきち)を吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。)
 と引被(ひっかぶ)せてやりました夜具の襟から手を出して、情(なさけ)なさそうに、銀の指環を視(なが)める処が、とんと早や大病人でな。
 お不動様の御像(おすがた)の前へ、かんかん燈明を点じまして、その夜(よ)は一晩、私(てまえ)が附添ったほどでござります。
 峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。午(ひる)過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御堂(みどう)へ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
 が、唯今(ただいま)もお尋ねの肝腎のその怪(あやし)い婦人が、姿容(すがたかたち)、これがそれ御殿女中と申す一件――振袖(ふりそで)か詰袖(つめそで)か、裙(すそ)模様でも着てござったか、年紀(とし)ごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、委(くわ)しく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見境(みさかい)がございません。
 何でも御殿女中は御殿女中で、薄ら蒼(あお)いにどこか黄味がかった処のある衣物(きもの)で、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
 して見ると、風説(うわさ)を聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実確(たしか)にどんな姿だか分りませぬ。
 さあ、是沙汰(これざた)は大業(おおぎょう)で、……
(朝疾(と)う起きて空見れば、
   口紅つけた上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)が、)
 と村の小児(こども)は峠を視(なが)める。津幡川(つばたがわ)を漕(こ)ぐ船頭は、(笄(こうがい)さした黒髪が、空から水に映る)と申す、――峠の婦人(おんな)は、里も村も、ちらちらと遊行(ゆぎょう)なさるる……」

       十

「その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。」
「それで、」
聞惚(ききと)れていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
「貴下(あなた)が、探険――山開きをなさいましたんですね。」
 先達は額に手を当て、膨れた懐中(ふところ)を伏目に覗(のぞ)いて、
「御意で、恐縮をいたします……さような行力(ぎょうりき)がありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日和下駄(ひよりげた)じゃ、ここらは先達めきましたな。立山(たてやま)、御嶽(おんたけ)、修行にならば這摺(はいず)っても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
 また早い話が、この峠を越さねばと申して、多勢(たぜい)のものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山の端(は)に、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高峰(たかね)の花と、合点(がってん)すれば済みます事。
 処を、年効(としがい)もない、密(そっ)と……様子が見たい漫(そぞ)ろ心で、我慢がならず企てました。
 それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御堂(みどう)の額面に飾ってござります獅噛面(しかみおもて)、――待て待て対手(あいて)は何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五枚錣(ごまいじころ)を頂いたも同然、同じ天窓(あたま)から一口でも、変化(へんげ)の口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛高(いらだか)がわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。」
「猿ヶ馬場へ、」
「さようで、立場(たてば)の焼跡へ、」
「はあ成程。」
「縄張のあります処から、ここぞともはや面(おもて)を装い、チャクと黒鬼に構えました。
 仔細(しさい)なく、鼻の穴から麓(ふもと)まで見通し、濶(かッ)と睨(にら)んだ大の眼(まなこ)は、ここの、」
 と額に皺(しわ)を寄せて、
「汗を吹抜きの風通(かざとお)し……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背負(しょ)って歩行(ある)く工合で、何となく、坂路が捗取(はかど)りません。
 馬場(ばんば)へ懸(かか)ると、早や日脚が摺(ず)って、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺麗(きれい)に敷くでござりましてな、成程、早咲の桔梗(ききょう)が、ちらほら。ははあ、そこらが埋(うもれ)井戸か……薄(すすき)がざわざわと波を打つ。またその風の冷たさが、颯(さっ)と魂を濯(あら)うような爽快(さわや)いだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
 おのれ、と心(しん)をまず丹田(たんでん)に落(おち)つけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這廻(はいまわ)るのが、むらむらと鼠色に畝(うね)って染めるので、変に幻の山を踏む――下駄の歯がふわふわと浮上る。
 さあ、こうなると、長し短し、面被(めんかぶ)りでござるに因って、眼(がん)は明(あかる)いが、面(つら)は真暗(まっくら)、とんと夢の中に節穴を覗(のぞ)く――まず塩梅(あんばい)。
 それ、躓(つまず)くまい、見当を狂わすなと、俯向(うつむ)きざまに、面をぱくぱく、鼻の穴で撓(た)める様子が、クン、クンと嗅(か)いで、
(やあ人臭いぞ。)
 と吐(ほざ)きそうな。これがさ、峠にただ一人で遣(や)る挙動(ふるまい)じゃ、我ながら攫(さら)われて魔道を一人旅の異変な体(てい)。」
「まったく……ですね。」
 と三造は頷(うなず)いたのである。
「な、貴辺(あなた)、こりゃかような態(ざま)をするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いて上(あが)るか、谷へ逆様(さかさま)ではなかろうか、なぞと怯気(おじけ)がつくと、足が窘(すく)んで、膝がっくり。
 ヤ、ヤ、このまんまで、窮(いきつ)いては山車(だし)人形の土用干――堪(たま)らんと身悶(みもだ)えして、何のこれ、若衆(わかいしゅ)でさえ、婦人(おんな)の姿を見るまでは、向顱巻(むこうはちまき)が弛(ゆる)まなんだに、いやしくも行者の身として、――」

       十一

「ごもっともですね。」
 ちとこれが不意だったか、先達は、はたと詰(つま)って、擽(くすぐっ)たい顔色(がんしょく)で、
「痛入(いたみい)ります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」
 境は心着いて、気の毒そうに、
「いいえ、いいえ。」
「何、私(てまえ)もその気で仰有(おっしゃ)ったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
 笑事(わらいごと)ではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓(こたつやぐら)を跨(また)いだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番突立(つった)てておこう了簡(りょうけん)。
 薄(すすき)の中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが刺(ささ)りません。えいと杖の尖(さき)で捏(こ)ねる内に、何の花か、底光りがして艶(つや)を持った黄色いのが、右の突捲(つきまく)りで、薄(すすき)なりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」
「おお!」
「得も言われぬ佳(い)い匂(におい)がしました。はてな、あの一軒家の戸口を覗(のぞ)くと、ちらりと見えた――や、その艶麗(あでやか)なことと申すものは。――
 時ならぬ月が廂(ひさし)から衝(つ)と出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
 必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服(きもの)の色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、私(てまえ)の方はただ颯(さっ)と白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝(まっくらさんぽう)、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合(ぐあい)が、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
(鬼じゃ、)
 と、私(てまえ)一つ大声を上げました。
(鬼じゃ、鬼じゃ。)
 と、こうぬっと腕を突張(つっぱ)った。金剛杖(こんごうづえ)を棄置いて、腰の据(すわ)らぬ高足を※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と踏んで、躍上(おどりあが)るようにその前を通った、が、可笑(おかし)い事には、対方(さき)が女性(にょしょう)じゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告(なのり)が慇懃(いんぎん)になりましてな。……
(鬼でござる。)
 と夢中で喚(わめ)いて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――
 処で、先刻の不調法、」
 と息を吐(つ)き、
「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細(しさい)はこうでござります――が、さて同一(おなじ)人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺(あなた)を前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方(こなた)こそ異形を扮装(いでたち)をしましたけれども、彼方(あなた)は何にせよ女体でござる。風説(うわさ)の通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好事(ものずき)な御令嬢が住居(すまい)いたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁出(にげだ)しましても可(よ)さそうなものじゃったに……
 ……と申すがやはり、貴辺(あなた)にお目に掛(かか)りましてからの分別で。ぱっと美しいもので目が眩(くら)みました途端には、ただ我を忘れて、
(鬼じゃ。)
 と拳(こぶし)を握りました。
 これだけでは、よう御合点はなりますまいで、私(てまえ)のその驚き方と申すものは、変った処に艶麗(あでやか)な女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山気(さんき)の凝って鼠色の靄(もや)のかかりました一軒家、廂合(ひあわい)から白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい――いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。」

       十二

「分りました。」
 と三造は衣紋(えもん)を合わせて、
「何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。」
「御存じかな。」
「たびたび通って知っています。」
「ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋(かぎや)と申したのが焼残っておりますが。」
「鍵屋、――二軒目の。」
 と云って境は俯向(うつむ)いた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、旧(もと)来た麓(ふもと)へ引返そうかとも迷ったのである。
 が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心が極(きま)った。
 様子は先達にも見て取られて、
「ええ、鍵屋なら、お上(あが)りになりますかな。」
「別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。」
 と云って、別離(わかれ)の会釈に頭(つむり)を下げたが、そこに根を生(はや)して、傍目(わきめ)も触(ふ)らず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。
「悪いんですか、参っては。」
 山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右瞻左瞻(とみこうみ)て、
「お待ち下さい。血気に逸(はや)り、我慢に推上(おしのぼ)ろうとなさる御仁なら、お肯入(ききい)れのないまでも、お留め申すが私(てまえ)年効(としがい)ではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまいで、必ず御無用とは申上げん。
 峠でその婦人を見るものは……云々(うんぬん)と恐るべき風説はいたすが、現に、私(てまえ)とても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことお出(いで)が宜(よろ)しい。」
「ああ、それはどうも難有(ありがた)い。」
 と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。
「さ、さ、」
 先達も立構えで、話の中(うち)に※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(むし)って落した道芝の、帯の端折目(はしょりめ)に散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、煽(あお)ぐように払(はた)いてくれた。
「ところで、」
 顔を振って四辺(あたり)を見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。
「この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。――急ぎの旅ではなかろうで、手前お守(まも)りをいたす、麓(ふもと)の御堂(みどう)で御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰も居(お)らず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。
 私(てまえ)は、急いで、竹の橋まで下(くだ)りますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴辺(あなた)はまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶を沸(わか)して相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。
 就きましては、」
 かさかさと胸を開いて、仰向(あおむ)けに手に据えた、鬼の面は、紺青(こんじょう)の空に映って、山深き径(こみち)に幽(かすか)なる光を放つ。
「先生方にはただの木の面形(めんがた)でござれども、現に私(てまえ)が試みました。驚破(すわ)とある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。」
 三造は猶予(ためら)いつつ、
「しかし、御重宝、」
「いや、御役に立てば本懐であります。」
 すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手に鐸(すず)が鳴った。
「御無事で、」
「さようなら。」
 蜩(ひぐらし)の声に風颯(さっ)と、背を押上げらるるがごとく境は頭(こうべ)を峠に上げた。雲の峰は縁(へり)を浅葱(あさぎ)に、鼠色の牡丹(ぼたん)をかさねた、頂白くキラキラと黄金(こがね)の条(すじ)の流れたのは、月がその裡(うち)に宿ったろう。高嶺(たかね)の霞に咲くという、金色(こんじき)の董(すみれ)の野を、天上遥(はる)かに仰いだ風情。
西山日没東山昏(せいざんひはぼっしてとうざんくらし)。旋風吹馬馬蹈雲(せんぷううまをふきうまくもをふむ)。――
 低声(こごえ)に唱いかけて、耳を澄ますと、鐸の音(ね)は梢(こずえ)を揺(ゆす)って、薄暗い谷に沈む。

       十三

女巫澆酒雲満空(じょふさけをそそぐくもくうにみつ)。玉炉炭火香鼕鼕(ぎょくろたんかにおいとうとう)。海神山鬼来座中(かいしんさんきざちゅうにきたる)。紙銭※※(「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16)鳴※風(しせんしつそつせんぷうになる)[#「穴かんむり/悉」、387-9][#「風にょう+旋のつくり」、387-16]。相思木帖金舞鸞(そうしぼくちょうきんぶらん)。
※(「てへん+讚のつくり」、第3水準1-85-6)蛾一※重一弾(さんがいっそうまたいったん)[#「口+睫のつくり」、387-18]。呼星召鬼※(「音+欠」、第3水準1-86-32)杯盤(ほしをよびおにをめしはいばんをきんす)。山魅食時人森寒(さんみくらうときひとしんかんす)。
 境の足は猿ヶ馬場に掛(かか)った。今や影一つ、山の端(は)に立つのである。
終南日色低平湾(しゅうなんのにっしょくわんにひくし)。神兮長有有無間(かみやとこしなえにうむのあいだにあり)。
 越(こし)の海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北国(ほっこく)の山々は、皆黄昏(たそがれ)の袖を連ねた。
「神兮長に有無の間にあり。」
 胸を見ると、背中まで抜けそうな眼(まなこ)が濶(かっ)と、鬼の面が馬場を睨(にら)んで、ここにも一人神が彳(たたず)む、三造は身自から魔界を辿(たど)る思(おもい)がある。
 峠のこの故道(ふるみち)は、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、蘆(あし)の茂(しげり)かと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、――それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目標(めじるし)の一軒家は靄(もや)も掛(かか)らぬのに屋根も分らぬ。
 場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈迷(ふみまよ)う路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶予(ためら)うて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……
 ひょっこり肌脱の若衆(わかいしゅ)が、草鞋穿(わらじばき)で出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさと顕(あら)われそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目前(めさき)へ幻影(まぼろし)に出るものかも知れぬ。
 現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る――通ると……その形が幻を束(つか)ねた雲になって、颯(さっ)と一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりと湧(わ)いて来て、ふいと行(ゆ)くと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずに凝(じっ)と留まって、裾(すそ)の消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。
 またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他愛(たわい)もなく、形なく力もなく、袖を透かして背後(うしろ)へ通る。
 三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、薄(すすき)の海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。
「ああ、そうか……」
 山伏は大跨(おおまた)で、やがて麓(ふもと)へ着いた時分、と、足許(あしもと)の杉の梢(こずえ)にかかった一片(ひとひら)の雲を透かして、里可懐(なつかし)く麓を望んだ……時であった。
 今昇った坂一畝(ひとうね)り下(さが)た処、後前(あとさき)草がくれの径(こみち)の上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える――斉(ひとし)く雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いが彩(いろどり)があって、髪が黒く、俤(おもかげ)が白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、細(ほっそ)りと劃(くぎ)って濃い。
 道は二町ばかり、間は隔(へだた)ったが、翳(かざ)せばやがて掌(てのひら)へ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長(おもなが)らしいのも想像された。
 同時に、その傍(かたわら)のもう一人、瞳を返して、三造は眉を顰(ひそ)めた。まさしく先刻の婆(ばば)らしい。それが、黒い袖の桁(ゆき)短かに、皺(しわ)の想わるる手をぶらりと、首桶(くびおけ)か、骨瓶(こつがめ)か、風呂敷包を一包(ひとつつみ)提げていた。
 境が、上から伸懸(のしかか)るようにして差覗(さしのぞ)くと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。
 確(たしか)に暗号(あいず)に違いない、しかも自分にするのらしい。
「ええ。」
 胸倉を取って小突かれるように、強く此方(こなた)へ応(こた)えるばかりで、見るなか、行(ゆ)けか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横啣(よこぐわ)えにして飛びそうな、厭(いや)な手つきだとしみじみ感じた。

       十四

 その内に……婆の手の傍(かたわら)から薄(すすき)が靡(なび)いて、穂のような手が動いた。密(そっ)と招いて、胸を開くと、片袖を掻込(かいこ)みながら、腕(かいな)をしなやかに、その裾(すそ)のあたりを教えた。
 そこへ下りて来よ、と三造に云うのである――
 意味は明(あきら)かに、しかも優しく、美(うるわ)しく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?
 峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分我(われ)にしか云うものが、婦人(おんな)の身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずん行(ゆ)けば何とする?
 すべてかかる事に手間隙(ひま)取って、とこうするのが魔が魅(さ)すのである。――構わず行(ゆ)こう。
「何だ。」
 谿間(たにま)の百合の大輪(おおりん)がほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。踵(くびす)を廻らし、猛然と飛入るがごとく、葎(むぐら)の中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。
 山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋の淵(ふち)の底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲蛇(めくらへび)でまっしぐらに突いて出ると、颯(さっ)と開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真暗(まっくら)に聳(そび)えたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一条(ひとすじ)濃い靄(もや)が懸(かか)った、靄の下に、九十九谷(つくもだに)に介(はさ)まった里と、村と、神通(じんつう)、射水(いみず)の二大川(だいせん)と、富山の市(まち)が包まるる。
 さればこそ思い違えた、――峠の立場(たてば)はここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
 紫に桔梗(ききょう)の花を織出した、緑は氈(せん)を開いたよう。こんもりとした果(はて)には、山の痩(や)せた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹(おいき)の桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に彳(たたず)む。
 と見れば鍵屋は、礎(いしずえ)が動いたか、四辺(あたり)の地勢が露出(むきだ)しになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一艘(そう)頂に据えたるごとく、厳(おごそか)にかつ寂しく、片廂(かたびさし)をぐいと、山の端(は)から空へ離して、舳(みよし)の立った形して、立山の波を漕がんとす。
 境は可懐(なつかし)げに進み寄った。
「や!」
 その門口(かどぐち)に、美しい清水が流るる。いや、水のような褄(つま)が溢(こぼ)れて、脇明(わきあけ)の肌ちらちらと、白い撫子(なでしこ)の乱咲(みだれざき)を、帯で結んだ、浴衣の地の薄(うす)お納戸。
 すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の腕(かいな)力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく艶(つやや)かな鬢(びん)を支えた、前髪を透く、清らかな耳許(みみもと)の、幽(かすか)に洩(も)るる俯向(うつむ)き形(なり)、膝を折って打伏した姿を見た。
 冷い風が、衝(つ)と薫って吹いたが、キキと鳴く鼬(いたち)も聞えず、その婦人(おんな)が蝦蟇(がま)にもならぬ。
 耳が赫(かっ)と、目ばかり冴(さ)える。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、件(くだん)の姿ばかりは、がっくり伸ばした頸(うなじ)の白さに、毛筋が揃って、後(おく)れ毛のはらはらと戦(そよ)ぐのまで、瞳に映って透通る。
 これを見棄てては駆抜けられない。
「もし……」
 と言いもあえず、後方(あと)へ退(さが)って、
「これだ!」
 とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、突(つッ)ぱじけて、
「……顔を見ると……のっぺらぼう――」
 と思わずまた独言(ひとりごと)。我が声ながら、変に掠(かす)れて、まるで先刻(さっき)の山伏の音(おん)。
「今も今、手を掉(ふ)った……ああ、頻(しき)りに留めた……」
 と思うと、五体を取って緊附(しめつ)けられる心地がした。

       十五

 けれども、まだ幸(さいわい)に俯向(うつむ)けに投出されぬ。
「触らぬ神に祟(たたり)なし……」
 非常な場合に、極めて普通な諺(ことわざ)が、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出(ふみだ)して去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
 境は後髪(うしろがみ)を取って引かれた。
 洋傘(こうもり)を支(つ)いて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた視(なが)めた。――今しがた、ちぎれ雲の草を掠(かす)めて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを過(よぎ)った事は確(たしか)である。
 確で、しかもその顔には、この鬼の面を被(かぶ)っていた。――時に、門口へ露(あら)われた婦人(おんな)の姿を鼻の穴から覗(のぞ)いたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために尠(すくな)からず驚かされた。
 おお、それだと、たとい須磨(すま)に居ても、明石(あかし)に居ても、姫御前(ひめごぜ)は目をまわそう。
 三造は心着いて、夕露の玉を鏤(ちりば)めた女の寝姿に引返した。
「鬼じゃ。」
 試みに山伏の言(ことば)を繰返して、まさしく、怯(おびや)かされたに相違ないと思った。
「鬼じゃ。……」
 と一足出てまた呟(つぶや)いたが、フト今度は、反対に、人を警(いまし)むる山伏の声に聞えた。勿(なか)れ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
 境は再び逡巡した。
 が、凝(じっ)と瞻(みつ)めて立つと、衣(きぬ)の模様の白い花、撫子の俤(おもかげ)も、一目の時より際立って、伏隠(ふしかく)れた膚(はだ)の色の、小草(おぐさ)に搦(から)んで乱れた有様。
 手に触ると、よし蛇の衣(きぬ)とも変(な)らば化(な)れ、熱いと云っても月は抱(いだ)く。
 三造は重い廂(ひさし)の下に入って、背に盤石(ばんじゃく)を負いながら、やっと婦(おんな)の肩際に蹲(しゃが)んだのである。
 耳許はずれに密(そ)と覗(のぞ)く。俯向(うつむ)けのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を翳(かざ)しもしなかったが、鬢(びん)の毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、幽(かすか)に呼吸(いき)がありそうである。
「令嬢(じょうさん)。」
 とちょっと低声(こごえ)に呼んだ――爪(つま)はずれ、帯の状(さま)、肩の様子、山家(やまが)の人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
「嬢さん、嬢さん――」
 とやや心易げに呼活(よびい)けながら、
「どうなすったんですか。」
 とその肩に手を置いたが、花弁(はなびら)に触るに斉(ひと)しい。
 三造は四辺(あたり)を見て、つッと立って、門口から、真暗(まっくら)な家(や)の内へ、
「御免。」
「ほう……」
 と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って谺(こだま)と知れた。自分の声が高かった。
「誰も居ないな。」
 美女の姿は、依然として足許に横(よこた)わる。無慚(むざん)や、片頬(かたほ)は土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目(むすびめ)高う根が弛(ゆる)んで、簪(かんざし)の何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
 しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可厭(いや)な婆と二人居て手を掉(ふ)ったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等(かれら)怪しき輩(やから)が、ここにかかる犠牲(いけにえ)のあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て妨(さまたげ)しょう。早く助けずば、と急心(せきごころ)に赫(かっ)となって、戦(おのの)く膝を支(つ)いて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした腕(かいな)が柔かに動いて、脇明(わきあけ)を辷(すべ)った手尖(てさき)が胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに抱(いだ)き上げると、仰向(あおむ)けに綿を載(の)せた、胸がふっくりと咽喉(のど)が白い。カチリと音して、櫛(くし)が鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後(うしろ)へ投(ほう)った。
「山伏め、何を言う!」

       十六

「いや、もう、先方(さき)が婦人(おんな)にもいたせ、男子(おとこ)にもいたせ、人間でさえありますれば、手前は正(しょう)のもの鬼でござる。――狼(おおかみ)が法衣(ころも)より始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面を被(かぶ)った山伏は、さて早や申訳がない。」
 御堂(みどう)の屋根を蔽(おお)い包んだ、杉の樹立の、廂(ひさし)を籠(こ)めた影が射(さ)す、炉(ろ)の灰も薄蒼(うすあお)う、茶を煮る火の色の※(ぱっ)[#「火+發」、396-5]と冴えて、埃(ほこり)は見えぬが、休息所の古畳。まちなし黒木綿の腰袴(こしばかま)で、畏(かしこま)った膝に、両の腕(かいな)の毛だらけなのを、ぬい、と突いた、賤(いや)しからざる先達が総髪(そうがみ)の人品は、山一つあなたへ獅噛(しかみ)を被って参りしには、ちと分別が見え過ぎる。
「怪(け)しからぬ山伏め、と貴辺(あなた)がお思いなされたで好都合。その御婦人が手前の異形に驚いて、恍惚(うっとり)となられる。貴辺(あなた)は貴辺で、手前の野譫言(のたわごと)を真実と思召し、そりゃこそ鬼よ、触らぬ神に祟(たた)りなしの御思案で、またまたお見棄てになったとしまする、御婦人がそれなりで御覧(ごろう)じろ、手前は立派な人殺(ひとごろし)でございます。何も、げし人(にん)に立派は要らぬが、承りましただけでも、冷汗になりますで。
 いや、それにつけても、」
 と山伏の肩が聳(そび)え、
「物事と申すは、よく分別をすべきであります。私(てまえ)ども身柄、鬼神を信ぜぬと云うもいかがですが、軽忽(かるはずみ)に天窓(あたま)から怪(あやし)くして、さる御令嬢を、蟇(ひきがえる)、土蜘蛛の変化(へんげ)同然に心得ましたのは、俗にそれ……棕櫚箒(しゅろぼうき)が鬼、にも増(まさ)った狼狽(うろた)え方、何とも恥入って退(の)けました。
 ――(山伏め、何を吐(ぬか)す。)――結構でござるとも。その御婦人をお救けなさって、手前もお庇(かげ)で助かりました。
 いかにも、不意に貴辺(あなた)にお出逢い申したに就いて、体(てい)の可(い)い怪談をいたし、その実、手前、峠において、異変なる扮装(いでたち)して、昼強盗、追落(おいおとし)はまだな事、御婦人に対し、あるまじき無法不礼を働いたように思召したも至極の至りで。」
「まあ、お先達、貴下(あなた)、」
 対向(さしむか)いの三造は、脚絆(きゃはん)を解いた痩脛(やせずね)の、疲切(つかれき)った風していたのが、この時遮る。……
「いやいや、仰せではありますが、早い話が、これが手前なら、やっぱり貴辺をそう存ずる、……道でござる、理でございます。
 しかし笑って遣わされ。まず山中毒(やまあたり)とでも申すか、五里霧中とやらに※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)徊(さまよ)いました手前、真人間から見ますると狂人の沙汰ですが、思いの外時刻が早く、汽車で時の間(ま)に立帰りましたのを、何か神通で、雲に乗つて馳(は)せ戻ったほどの意気組。その勢(いきおい)でな、いらだか、苛(いら)って、揉(もみ)上げ、押摺(おしす)り、貴辺が御無事に下山のほどを、先刻この森の中へ、夢のようにお立出(たちい)でになった御姿を見まするまで、明王の霊前に祈(いのり)を上げておりました。
 それもって、貴辺が、必定、お立寄り下さると信じましたからで。
 信じながらも、思い懸けぬ山路(やまみち)に一人憩(やす)んでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目に懸(かか)ったような、茫(ぼう)とした気がしまして、眼前(めのまえ)に焚(た)きました護摩(ごま)の果(はて)が霧になって森へ染み、森へ染み、峠の方(かた)を蔽(おお)い隠すようにもござった。……
 何にせよ、私(てまえ)どうかしていたと見えます。兎はちょいちょい、猿も時々は見懸けますが、狐狸は気もつきませぬに、穴の中からでも魅(や)りましたかな。
 明王もさぞ呆れ返って、苦笑いなされたに相違ござらん。私(てまえ)のその痴(たわ)けさ加減、――ああ、御無事を祈るに、お年紀(とし)も分らぬ、貴辺の苗字だけでも窺(うかが)っておこうものを、――心着かぬことをした。」
 総髪をうしろへ撫でる。
「などと早や……」
 三造は片手をちゃんと炉縁(ろぶち)に支(つ)いて、
「難有(ありがと)う存じます。御厚意、何とも。」

       十七

 更(あらた)めて、
「お先達、そうやって貴下(あなた)は、御自分お心得違いのようにばかりお言いですが、――その人を抱き起して美しい顔を見た時、貴下に対して心得違いしましたのは、私の方じゃありませんか。
 そして、無事、」
 と言い懸けたが、寂しい顔をした、――実は、余り無事でばかりもなかったのであるから。
「ともかくも……峠を抜けられましたのは、貴下が御祈念の功徳かも知れません――確(たしか)に功徳です。
 そうでないと、今頃どうなっていたか自分で自分が解らんのです。何ともお礼の申上げようはありません。実際。
 その人だって、またそうです――あの可恐(おそろし)い面のために気絶をした。私が行(ゆ)かないとそのまま一命が終ったかも知れない、と言えば、貴下に取って面倒になりますけれども、ただ夢のように思ったと、彼方(あちら)で言います――それなり茫となって、まあ、すやすやと寐入(ねい)ったも同じ事で。たとい門口に倒れていたって、茎(じく)が枯れたというんじゃなし、姿の萎(しぼ)んだだけなんです……露が降りれば、ひとりでにまた、恍惚(うっとり)と咲いて覚める、……殊に不思議な花なんですもの。自然の露がその唇に点滴(したた)らなければ点滴らないで、その襟の崩れから、ほんのり花弁(はなびら)が白んだような、その人自身の乳房から、冷い甘いのを吸い上げて、人手は藉(か)らないでも、活返(いきかえ)るに疑いない。
 私は――膝へ、こう抱き起して、その顔を見た咄嗟(とっさ)にも、直ぐにそう考えました。――
 こりゃ余計な事をしたか。自分がこの人を介抱しようとするのは、眠った花を、さあ、咲け、と人間の呼吸(いき)を吹掛けるも同一(おんなじ)だと。……
 で、懐中(ふところ)の宝丹でも出すか、じたばた水でも探してからなら、まだしもな処を、その帯腰から裾(すそ)が、私に起こされて、柔かに揺れたと思うと、もう睫毛(まつげ)が震えて来た。糸のように目を開(あ)いたんですから、しまった! となお思ったんです――まるで、夕顔の封じ目を、不作法に指で解いたように。
 はッとしながら、玉を抱いた逆上(のぼ)せ加減で、おお、山蟻(やまあり)が這(は)ってるぞ、と真白(まっしろ)な咽喉(のど)の下を手で払(はた)くと、何と、小さな黒子(ほくろ)があったんでしょう。
 逆(さかさ)に温かな血の通うのが、指の尖(さき)へヒヤリとして、手がぶるぶるとなった、が、引込(ひっこ)める間もありません。婦(おんな)がその私の手首を、こう取ると……無意識のようじゃありましたが、下の襟を片手で取って、ぐいと胸さがりに脇へ引いて、掻合(かきあ)わせたので、災難にも、私の手は、馥郁(ふくいく)とものの薫る、襟裏へ縫留められた。
 さあ、言わないことか、花弁(はらびら)の中へ迷込んで、虻(あぶ)め、蜿(もが)いても抜出されぬ。
 困窮と云いますものは、……
 黙っちゃいられませんから、
(御免なさいよ。)
 と、のっけから恐入った。――その場の成行きだったんですな。――」
「いかにも、」
 と先達は、膝に両手を重ねながら、目を据えるまで聞入るのである。
「黙っています。が、こう、水の底へ澄切ったという目を開いて、じっと膝を枕に、腕(かいな)に後毛(おくれげ)を掛けたまま私を見詰める。眉が浮くように少し仰向(あおむ)いた形で、……抜けかかった櫛(くし)も落さず、動きもしません。
 黙っちゃいられませんから、
(気がついたんですか。失礼を、)
 まだ詫(わび)をする工合(ぐあい)の悪さ。でも、やっぱり黙っています。
(気分はどうなんです。ここに倒れていなすったんだが。)
 これで分ったろう、放したまえ、早く擦抜けようと、もじつくのが、婦(おんな)の背(せな)を突いて揺(ゆすぶ)るようだから、慌ててまた窘(すく)まりましたよ。どこを糸で結んで手足になったか、女の身体(からだ)がまるで綿で……」

       十八

「綿で……重いことは膝が折れそう――もっともこの重いのは、あの昔話の、怪(あやし)い者が負(おぶ)さると途中で挫(ひし)げるほどに目貫(めかた)がかかるっていう、そんなのじゃない。そりゃ私にも分っていましたが、……
 ああ、これはなぜ私が介抱したか、その人はどうしていたか、そんな事なんぞ言ってるんではまだるッこい。
(失礼しました、今何です、貴女の胸に蟻が這っていたもんですから、)
 つい払って上げよう、と触ったんだ、とてっきりそれがために、そんな様子で居るんだろう、と気が着いて、言訳をしましたがね。
 黙っています……ちっとも動かないで、私の顔を、そのまま見詰めてるじゃありませんか。」
 と三造は先達の顔を瞻(みまも)って、
「じゃ、まだ気が遠くなったままで、何も聞えんのかと思えば、……顔よりは、私が何か言うその声の方が、かえってその人の瞳に映るような様子でしょう。梔子(くちなし)の花でないのは、一目見てもはじめから分ってます。
 弱りました。汗が冷く、慄気(ぞっ)と寒い。息が発奮(はず)んで、身内が震う処から、取ったのを放してくれない指の先へ、ぱっと火がついたように、ト胸へ来たのは、やあ!こうやって生血を吸い取る……」
「成程、成程、いずれその辺で、大慨気絶(ひきつ)けてしまうのでござろう。」
 と先達は合点(がってん)する。
「転倒(てんどう)しても気は確(たしか)で、そんなら、振切っても刎上(はねあが)ったかと言えば、またそうもし得ない、ここへ、」
 境は帯を圧(おさ)えつつ、
「天女の顔の刺繍(ほりもの)して、自分の腰から下はさながら羽衣の裾になってる姿でしょう。退(の)きも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです――お先達、」
 と何か急(せ)きながら言淀(いいよど)んで、
「話に聞いた人面瘡(じんめんそう)――その瘡(かさ)の顔が窈窕(ようちょう)としているので、接吻(キッス)を……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。」
 と云うと、先達は落着いた面色(おももち)で、
「人面瘡、ははあ、」
 さも知己(ちかづき)のような言いぶりで、
「はあ、人面瘡、成程、その面(つら)が天人のように美しい。芙蓉(ふよう)の眦(まなじり)、丹花の唇――でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛着(あいじゃく)の念が起って、花の唇を……ふん、」
 と仰向(あおむ)いて目を瞑(ねむ)ったが、半眼になって、傾きざまに膝を密(そ)と打ち、
「津々(しんしん)として玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿汁(うみしる)といたした処で、病人の迷うのを、強(あなが)ち白痴(たわけ)とは申されん、――むむ、さようなお心持でありましたか。」
 真顔で言われると、恥じたる色して、
「いいえ、心持と言うよりも、美人を膝に抱(いだ)いたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
 段々孤家(ひとつや)の軒が暗くなって、鉄板で張ったような廂(ひさし)が、上から圧伏(おっぷ)せるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちて行(ゆ)くかと、心も消々(きえぎえ)となりながら、ああ、して見ると、坂下で手を掉(ふ)った気高い女性(にょしょう)は、我らがための仏であった。――
 この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠牲(いけにえ)などと言う不心得。
 と俯向(うつむ)いて、熟(じっ)と目を睡(ねむ)ると……歴々(まざまざ)と、坂下に居たその婦(おんな)の姿、――羅(うすもの)の衣紋(えもん)の正しい、水の垂れそうな円髷(まるまげ)に、櫛のてらてらとあるのが目前(めのまえ)へ。――
 驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海の凪(な)ぎたような緑の草の上へ、渚(なぎさ)の浪のすらすらとある靄(もや)を、爪(つま)さきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を救うためか。
 と思うと、どうして、これも敵方の女将軍(じょしょうぐん)。」
「女将軍?ええ、山賊の巣窟(そうくつ)かな。」
 と山伏はきょとんとする。

       十九

「後で聞きますと、それが山へ来る約束の日だったので、私の膝に居る女が、心待(こころまち)に古家(ふるいえ)の門口(かどぐち)まで出た処へ、貴下(あなた)が、例の異形で御通行になったのだそうです。
 その円髷(まげ)に結(い)った姉(あね)の方は、竹の橋から上ったのだと言いました。つい一条路(ひとすじみち)の、あの上りを、時刻も大抵同じくらい、貴下は途中でお逢いになりはしませんでしたか。」
 先達は怪訝(けげん)な顔して、
「されば、……ところで、その婆さんはどうしましたな、坂下に立ったのを御覧になった時は、傍(そば)についていたというお話続きの、」
 とかえってたずねる。
「それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路傍(みちばた)に二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……」
「さよう。」
「あすこよりは、ずっと麓(ふもと)の方です。」
「すると、そのどちらかは分りませんが、貴辺(あなた)に分れて下山の途中で、婆さん一人にだけは逢いました。成程――承れば、何か手に包んだものを持っていた様子で――大方その従伴(とも)をして登った方のでありましょうな。
 それにしては、お話しのその円髷(まげ)に結(い)った婦人に、一条路(ひとすじみち)出会わねばならん筈(はず)、……何か、崖の裏、立樹の蔭へでも姿を隠しましたかな。いずれそれ人目を忍ぶという条(すじ)で、」
「きっとそうでしょう。金沢から汽車で来たんだそうですから。」
 先達は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)って、
「金沢から、」
「ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。」
「旅をかけて働きますかな。」
「ええ、」
「いや、盗賊(どろぼう)も便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立籠(たてこも)って――御時節がら怪(け)しからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。」
 黙った三造は、しばらくして、
「お先達。」
「はい、」
 と澄ました風で居る。
「風呂敷の中は、綺麗な蒔絵(まきえ)の重箱でしたよ。」
「どこのか、什物(じゅうもつ)、」
「いいえ、その婦人(ひと)の台所の。」
「はてな、」
「中に入ったのは鮎(あゆ)の鮨(すし)でした。」
「鮎の鮨とは、」
「荘河(しょうがわ)の名産ですって、」
 先達は唖然(あぜん)として、
「どうもならん。こりゃ眉毛に唾(つば)じゃ。貴辺も一ツ穴の貉(むじな)ではないか。怪物(ばけもの)かと思えば美人で、人面瘡(にんめんそう)で天人じゃ、地獄、極楽、円髷(まるまげ)で、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体裁(ていたらく)も、森の中だけ狸に見える。何と、この囲炉裏(いろり)の灰に、手形を一つお圧(お)しなさい、ちょぼりと落雁(らくがん)の形でござろう。」
「怪しからん、」
 と笑って、気競(きお)って、
「誰も山賊の棲家(すみか)だとも、万引の隠場所(かくればしょ)だとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?」
「はい、」
 と言って、瞬きして、たちまち呵々(からから)と笑出した。
「はッはッはッ、慌てました、いや、大狼狽(だいろうばい)。またしても獅噛(しかみ)を行(や)ったて。すべて、この心得じゃに因って、鬼の面を被(かぶ)ります。
 時にお茶が沸きました。――したが鮎の鮨とは好もしい、貴下も御賞翫(ごしょうがん)なされたかな。」

       二十

「承った処では、麓(ふもと)からその重詰を土産に持って、右の婦人が登山されたものと見えますな――但しどうやら、貴辺(あなた)がその鮨を召(あが)ると、南蛮(なんばん)秘法の痺薬(しびれぐすり)で、たちまち前後不覚、といったような気がしてなりません。早く伺いたい。鮨はいかがで?」
 その時境は煎茶(せんちゃ)に心を静めていた。
「御馳走(ごちそう)は……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠蘇(とそ)の香のする青い色の酒に添えて――その時は、筧(かけひ)の水に埃(ほこり)も流して、袖の長い、振(ふり)の開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。」
「いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。」
 と日に焼けた額を押撫(おしな)でながら、山伏は破顔する。
「しかし、その倒れていた婦人ですが、」
「はあ、それがお酌を参ったか。」
「いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。」
「そうそうそう、またこれは面被(めんかぶ)りじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可(いか)ん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺(あなた)の膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立(せきた)ちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。」
「けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前後(あとさき)を辿(たど)り辿りしないと、茫(ぼう)として掴(つかま)えられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
 ――その円髷(まるまげ)の、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。――
 膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
 手を放すと、そのまま、半分背を起した。――両膝を細(ほっそ)りと内端(うちわ)に屈(かが)めながら、忘れたらしく投げてた裾(すそ)を、すっと掻込(かいこ)んで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活々(いきいき)した、清(すずし)い調子で、
(姉(ねえ)さん、この方を留めて下さい、帰しちゃ厭(いや)よ。)
 と言うが疾(はや)いか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
 私は呆気(あっけ)に取られた。
 すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、緊(しま)った口許(くちもと)で、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へ行(ゆ)くな、と言って………手で教えた婦人(ひと)でしょう。
 何にも言わないだけなお気がさす。
(ええ、実は……)
 と前刻(さっき)からの様子を饒舌(しゃべ)って、ついでに疑(うたがい)を解こうとしたが、不可(いけ)ません。
(ああ、)
 それ覗(のぞ)くまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人の後(あと)を軒下にこう透(すか)しながら、
(しばらくどうぞ。)
 坂を上って、アノ薄原(すすきはら)を潜(くぐ)るのに、見得もなく引提(ひっさ)げていた、――重箱の――その紫包を白い手で、羅(うすもの)の袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出来たの、何の。大巌(おおいわ)の一枚戸のような奴がまた恐しく辷(すべ)りが良くって、発奮(はず)みかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンと谺(こだま)を返すんです。ぎょっとしました。
 その時です。
(どこへもいらしっちゃ不可(いけ)ませんよ。)
 と振返りざまに莞爾(にっこり)、美しいだけにその凄(すご)さと云ったら。高い敷居に褄(つま)も飜(かえ)さず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一条(ひとすじ)の長い土間が、門形角形(かどなりかくがた)に、縦に真暗(まっくら)な穴で。」
 と言った、この辺(あたり)家の構(かまえ)は、件(くだん)の長い土間に添うて、一側(ひとかわ)に座敷を並べ、鍵(かぎ)の手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭(せんじん)の倶利伽羅谷(くりからだに)、九十九谷(つくもだに)の一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。

       二十一

「今の一言に釘を刺されて、私は遁(にげ)ることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。止(や)むことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母衣(ほろ)を背負(しょ)って、深い穴の気がする、その土間の奥を覗(のぞ)いていました。……冷(ひやっ)こい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
 その時分には、当人大童(おおわらわ)で、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
 遥(はる)か突当り――崖を左へ避(よ)けた離れ座敷、確か一宇(ひとむね)別になって根太(ねだ)の高いのがありました、……そこの障子が、薄い色硝子(いろがらす)を嵌(は)めたように、ぼうとこう鶏卵色(たまごいろ)になった、灯(あかり)を点(つ)けたものらしい。
 その障子で、姿を仕切って、高縁(たかえん)から腰を下(おろ)して、裾(すそ)を踏落した……と思う態度(ふり)で、手を伸(のば)して、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
(ええ、ええ。)
 と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる――その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜違(はすか)いに糶出(せりだ)すんですがね、どうして、掴(つか)まった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、挺(てこ)でも足が動きません。
 またちらりと招く。
 招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引込(ひっこ)まして、門(かど)へ身体(からだ)を横づけに、腕組をして棒立ち――で、熟(じっ)と目を睡(ねむ)って俯向(うつむ)いていました。
 この体(てい)が、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もし麓(ふもと)だと、頬被(ほおかぶり)をして、礫(つぶて)をトンと合図をする、カタカタと……忍足(しのびあし)の飛石づたいで………
(いらっしゃいな。)
 と不意に鼻の前(さき)で声がしました。いや、その、もの越(ごし)の婀娜(あだ)に砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
(はッあ。)
 と言う。
(さあ、どうぞ。)
 と何にも思わない調子でしたが、板戸を劃(くぎり)に、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。」
「これは、どちらの御婦人で、」
 と先達は、湯を注(さ)しかけた土瓶を置く。
「それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
 敷居を跨(また)ぐ時、一つ躓(つまず)いて、とっぱぐったじき傍(わき)に、婦人(おんな)が立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
(これは。)
 と云うと…………
(お危うございます、お気をつけ下さいまし。)
(どうもつい馴(な)れませんので、)
 と言いましたがね、考えると変な挨拶(あいさつ)。誰がこんな処を歩行馴(あるきな)れた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心積(こころづも)り十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。――そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折曲(おれまが)って、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折曲(おれまがり)の処まで、店口から掛けて、以前、上下の草鞋穿(わらじば)きが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛氈(もうせん)の上へあがった場処です。
 余計なことを言うようですが、後(あと)の都合がありますから、この屋造(やづくり)の様子を聞いて下さい。
 で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明りで見えました。それは戸外(そと)からも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
 が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入口(はいりくち)しばらくの間、おまけに狭い処が、隧道(トンネル)でしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。――黙って手を曳(ひ)いたではありませんか。」

       二十二

「対手(あいて)は悠々としたもので、
(蜘蛛の巣が酷(ひど)いのでございますよ。)
 か何かで、時々歩行(ある)きながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽搏(はう)つ塩梅(あんばい)。
 これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
 果して、そうでした。雨戸の開けてある、広土間(ひろどま)の処で、円髷(まるまげ)が古い柱の艶(つや)に映った。外は八重葎(やえむぐら)で、ずッと崖です。崖にはむらむらと靄(もや)が立って、廂合(ひあわい)から星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬杖(ほおづえ)を支(つ)いて、蟇(ひきがえる)が覗(のぞ)いていそうで。婦人(おんな)がまた蒼黄色(あおぎいろ)になりはしないか、と密(そっ)と横目で見ましたがね。襲(かさね)を透いた空色の絽(ろ)の色ばかり、すっきりして、黄昏(たそがれ)の羅(うすもの)はさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人気勢(ひとけはい)がある。ああ、白脛(しらはぎ)が、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
 向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈火(ともしび)に描かれる。――そこへ行(ゆ)く背戸は、浅茅生(あさぢう)で、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
(さあ、こちらへ。)
 ここで手を離して、沓脱(くつぬぎ)の石に熊笹の生え被(かぶさ)った傍(わき)へ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小手招(こてまねき)をしたのでしょう。
(上りましても差支えはございませんか。)
 とその期(ご)に及んで、まだ煮切(にえき)らない事を私が言うと、
(主人(あるじ)がお宿をいたします。お宅同様、どうぞお寛(くつろ)ぎ下さいまし。)
 と先へ廻って、こう覗(のぞ)き込むようにして褥(しとね)を直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
(ともかく御免を、)
 高縁へ腰を蹂(にじ)って、爪尖下(つまさきさが)りに草鞋(わらじ)の足を、左の膝へ凭(もた)せ掛けると、目敏(めざと)く貴婦人が気を着けて、
(ああ、お濯(すす)ぎ遊ばしましょうね。)
 と二坪ばかりの浅茅生を斜(はす)に切って、土間口をこっちから、
(お綾(あや)さん――)
 と呼びます。
(ああ、もしもし。)
 私は草鞋を解きながら、
(乾いた道で、この足袋がございます。よく払(はた)けば、何、汚れはしません。お手数(てかず)は恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、)
 と心着くと、無雑作で、
(いいえ、もう御覧の通り、土間も同一(おんなじ)でございますもの、そんな事なぞ、ちっともお厭(いと)いには及びませんの。)
 と云いかけて莞爾(にっこり)して、
(まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住居(すまい)を、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。)
 いかにも、この別亭(はなれ)が住居(すまい)らしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
 そこで、ちと低声(こごえ)になって、
(貴女(あなた)は……此家(ここ)の……ではおあんなさいませんのですか。)
(は、私もお客ですよ。――不行届きでございますから、事に因りますと、お合宿(あいやど)を願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。)
 とちょいと煽(あお)いだ、女扇子(おんなおうぎ)に口許(くちもと)を隠したものです。」
「成程、どうも。」
 山伏は髯(ひげ)だらけな頬を撫でる。
「私は、黙って懐中(ふところ)を探しました。さあ、慌てたのは、手拭(てぬぐい)、蝦蟇口(がまぐち)、皆(みんな)無い。さまでとも思わなかったに、余程顛動(てんどう)したらしい。門(かど)へ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足を払(はた)く……」

       二十三

「……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、袂(たもと)を引いたが長襦袢(ながじゅばん)の端と一所に、涼しい手巾(ハンケチ)を出したんですがね。
 崖へ向いた後姿、すぐに浅茅生(あさぢう)へ帯腰を細く曲げたと思うと、さらさらと水が聞えた。――朧(おぼろ)の清水と云うんですか、草がくれで気が着かなかった、……むしろそれより、この貴婦人に神通があって、露を集めた小流(こながれ)らしい。
(これで、貴下(あなた)、)
 と渡す――筧(かけひ)がそこにあるのであったら、手数(てかず)は掛けないでも洗ったものを、と思いながら思ったように口へは出ないで、黙(だんま)りで、恐入ったんですが、柔(やわらか)く絹が搦(から)んで、水色に足の透いた処は、玉を踏んで洗うようで。
(さあ、お寄越しなさいまし。)
 と美しい濡れた手を出す。
(ちょいと濯(そそ)ぎましょう。)
 遮ると、叱るように、
(何ですね、跣足(はだし)でお出なすっては、また汚れるではありませんか。)
 で恐縮なのは、そのままで手を拭(ふ)いて、
(後で洗いますよ。)と丸(まろ)げて落した。手巾(ハンケチ)は草の中。何の、後で洗うまでには、蛇が来て抱くか、山※(「けものへん+噪のつくり」、第4水準2-80-51)(やまおとこ)が接吻(キッス)をしよう、とそこいらを※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)しましたが、おっかなびっくり。
(姉さん。)
(ああ、)
(ちょいと。……)
 土間口の優しい声が、貴婦人を暗がりへ呼込んだ。が、二ツ三ツ何か言交わすと、両手に白いものを載(の)せて出た――浴衣でした。
 余り人間離れがしますから、浅葱(あさぎ)の麻の葉絞りで絹縮(きぬちぢみ)らしい扱帯(しごき)は、平(ひら)にあやまりましたが、寝衣(ねまき)に着換えろ、とあるから、思切って素裸(すッぱだか)になって引掛(ひっか)けたんです。女もので袖が長い――洗ったばかりだからとは言われたが、どこかヒヤヒヤと頸元(えりもと)から身に染む白粉(おしろい)の、時めく匂(におい)で。
 またぼうとなって、居心(いごころ)が据(すわ)らず、四畳半を燈火(ともしび)の前後(まえうしろ)、障子に凭懸(よりかか)ると、透間からふっと蛇の臭(におい)が来そうで、驚いて摺(ず)って出る。壁際に附着(くッつ)けば、上から蜘蛛(くも)がすっと下りそうで、天窓(あたま)を窘(すく)めて、ぐるりと居直る……真中(まんなか)に据えた座蒲団(ざぶとん)の友染模様(ゆうぜんもよう)が、桔梗(ききょう)があって薄(すすき)がすらすら、地が萌黄(もえぎ)の薄い処、戸外(おもて)の猿ヶ馬場そっくりというのを、ずッと避けて、ぐるぐる廻りは、早や我ながら独りでぐでんに酔ったようで、座敷が揺れる、障子が動く、目が廻る。ぐたりと手を支(つ)く、や、またぐたりと手を支く。
 これじゃならん、と居坐居(いずまい)を直して、キチンとすると、掻合(かきあ)わせる浴衣を……潜(くぐ)って触る自分の身体(からだ)が、何となく、するりと女性(にょしょう)のようで、ぶるッとして、つい、と腕を出して、つくづくと視(なが)める始朱。さ、こうなると、愚にもつかぬ、この長い袖の底には、針のようを褐色(かばいろ)の毛がうじゃうじゃ……で、背中からむずつきはじめる。
 もっとも、今浴衣を持って来て、
(私もちょいと失礼をいたしますよ。)
 で、貴婦人は母屋(おもや)へ入った――当分離座敷に一人の段取(だんどり)で。
 その内に、床の間へ目が着きますとね、掛地(かけじ)がない。掛地なしで、柱の掛花活(かけはないけ)に、燈火(あかり)には黒く見えた、鬼薊(おにあざみ)が投込んである。怪(け)しからん好みでしょう、……がそれはまだ可(い)い。傍(わき)の袋戸棚と板床の隅に附着(くッつ)けて、桐の中古(ちゅうぶる)の本箱が三箇(みっつ)、どれも揃って、彼方(むこう)向きに、蓋(ふた)の方をぴたりと壁に押着(おッつ)けたんです。……」
「はあ、」
 とばかりで、山伏は膝の上で手を拡げた。
「昔修行者(しゅぎょうじゃ)が、こんな孤家(ひとつや)に、行暮(ゆきく)れて、宿を借ると、承塵(なげし)にかけた、槍(やり)一筋で、主人(あるじ)の由緒が分ろうという処。本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼方(むこう)向けの不開(あかず)の蓋で、またしても眉を顰(ひそ)めずにはいられませんのに、押並べて小机があった。は可懐(なつか)しいが、どうです――その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦蟇口(がまぐち)と手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。」
 と境は居直る。

       二十四

「背後(うしろ)は峰で、横は谷です。峰も、胴(どうなか)の窪(くぼ)んだ、頭(かしら)がざんばらの栗の林で蔽(おお)い被(かぶ)さっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更遁出(にげだ)そうッたって隙(すき)があるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静(じっ)としていられないから、手近の障子をがたりと勢(いきおい)よく開けました。……何か命令をされたようで、自分気儘(きまま)には、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
 すると貴下(あなた)、何とその横縁に、これもまた吃驚(びっくり)だ。私のいかがな麦藁帽(むぎわらぼう)から、洋傘(こうもり)、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下(あなた)が打棄(うっちゃ)っておいでなすったと聞きました、その金剛杖(こんごうづえ)まで、一揃(ひとそろい)、驚いたものの目には、何か面当(つらあて)らしく飾りつけたもののように置いてある。……」
 山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音(あしおと)が響いて来て、浅茅生(あさぢう)を颯々(さっさっ)、沓脚(くつぬぎ)で、カタリと留(や)むと、所在紛らし、谷の上の靄(もや)を視(なが)めて縁に立った、私の直ぐ背後(うしろ)で、衣摺(きぬず)れが、はらりとする。
 小さな咳(しわぶき)して、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望(ながめ)になりますよ。)
 と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗(のぞ)くように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向(うつむ)いた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺(あおがいずり)の櫛が晃(きら)めく、鬢(びん)も撫(なで)つけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極(き)まった、小取廻(こどりまわ)しの姿の好(よ)さ。よろけ縞(じま)の明石(あかし)を透いて、肩から背(せな)がふっくりと白かった――若い方の婦人(おんな)なんです。
 お馴染(なじみ)の貴婦人だとばかり、不意を喰(くら)って、
(いらっしゃい。)
 と調子を外ずして、馬鹿な言(こと)を、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠(てれかく)しに勢(いきおい)よく煙草盆(たばこぼん)の前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
 莞爾(にっこり)して顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、瞼(まぶた)をほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
(とんでもない。)
 と突(つん)のめるように巻煙草を火入(ひいれ)に入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
(お火が消えましたかしら。)
 とちょっと翳(かざ)した、火入れは欠けて燻(くす)ぶったのに、自然木(じねんぼく)を抉抜(くりぬき)の煙草盆。なかんずく灰吹(はいふき)の目覚しさは、……およそ六貫目掛(がけ)の筍(たけのこ)ほどあって、縁(へり)の刻々(ささら)になった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
 何の、火は赤々とあって、白魚(しらお)に花が散りそうでした。
 やっと煙(けむ)のような煙(けむり)を吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一颪(ひとおろし)颯(さっ)と吹込む。
 と胸をずらして、燈(あかり)を片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちの紅(くれない)は薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
(おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出には颯(さっ)といってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。)
 と燈(あかり)を背(せな)に、縁の端へ仰向(あおむ)いた顔で恍惚(うっとり)する。
(栗の林へ鵲(かささぎ)の橋が懸(かか)りました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃々(きらきら)と、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。)
(ほとんど仙境(せんきょう)。)
 と私は手を支(つ)いて摺(ず)って出ました。
(まるで、人間界を離れていますね。)
 ……お先達、私のこう言ったのはどうです。」
 急に問われて、山伏は、
「ははあ、」
 と言う。

       二十五

「驚駭(おどろき)に馴(な)れて、いくらか度胸も出来たと見え、内々諷(ふう)する心持もあったんですね。
 直ぐには答えないで、手捌(てさば)きよく茶を注(つ)いで、
(粗(ひど)いんですよ。)
 と言う、自分の湯呑(ゆのみ)で、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥加(みょうが)至極。も一つ唐草(からくさ)の透(すか)し模様の、硝子(ビイドロ)の水呑が俯向(うつむ)けに出ていて、
(お暑いんですから、冷水(おひや)がお宜(よろ)しいかも知れません。それだと直きそこに綺麗なのが湧(わ)いていますけれども、こんな時節には蛇が来て身体(からだ)を冷(ひや)すと申しますから。……)
 この様子では飲料(のみもの)で吐血(とけつ)をしそうにも思われないから、一息に煽(あお)りました。実はげっそりと腹も空いて。
 それを見ながら今の続きを、……
(ほんとに心細いんですわ。もう、おっしゃいます通り、こんな山の中で、幾日(いくか)も何日もないようですが、確か、あの十三四日の月夜ですのね、里では、お盆でしょう。――そこいらの谷の底の方に、どうやら、それらしい燈籠(とうろう)の灯が、昨夜(ゆうべ)幽(かすか)に見えましたわ……ぽっちりよ。)
 と蓮葉(はすは)に云ったが、
(蛍くらいに。)
 そのままで、わざとでもなく、こう崖へかけて俯向(うつむ)き加減に、雪の手を翳(かざ)した時は、言うばかりない品が備わって、気高い程に見えました。
(どんなに、可懐(なつか)しゅうござんしたでしょう。)
 たちまち悄(しお)れて涙ぐむように、口許が引しまった。
 見ると堪(たま)らなくなって、
(そのかわり、また、里から眺めて、自然こうやってお縁側でも開いていて、フトこの燈火(ともしび)が見えましたら、どんなにか神々(こうごう)しい、天上の御殿のように思われましょう。)
 なぜ山住居(やまずまい)をせらるる、と聞く間もなしに慰めたんです。
 あどけなく頭(かぶり)を振って、
(いいえ、何の、どこか松の梢(こずえ)に消え残りました、寂(さみ)しい高燈籠(たかとうろう)のように見えますよ。里のお墓には、お隣りもお向うもありますけれど、ここには私唯一人(ひとりきり)。)
 小指を反らして、爪尖(つまさき)を凝(じっ)と見て、
(ほんとに貴下(あなた)、心細い。蓮(はす)の台(うてな)に乗ったって一人切(ひとりぼっち)では寂(さみ)しいんですのに、おまけにここは地獄ですもの。)
(地獄。)
 と言って聞返しましたがね、分別もなしに、さてはと思った。それ、貴下(あなた)の一件です。」
「鬼の面、鬼の面。」
 と山伏は頭を掻く。
「ところが違います。私もてっきり……だろうと思って、
(貴女(あなた)、唐突(だしぬけ)ですが、昼間変なものの姿を見て、それで、厭(いや)な、そんな忌(いま)わしい事をおっしゃるんじゃありませんか、きっとそうでしょう。)
 に極(き)めてかかって、
(御心配はありません。あれは、麓(ふもと)の山伏が……)
 ッて、ここで貴下の話をしました。
 ついては、ちっと繕って、まあ、穏かに、里で言う峠の風説(うわさ)――面と向っているんですから、そう明白(あからさま)にも言えませんでしたが、でも峠を越すものの煩うぐらいの事は言った。で、承った通り、現にこの間も、これこれと、向う顱巻(はちまき)の豪傑が引転(ひっくり)かえったなぞは、対手(あいて)の急所だ、と思って、饒舌(しゃべ)ったには饒舌りましたが、……自若としている。」
「自若として、」
「それは実に澄ましたものです。蟇(ひきがえる)が出て鼬(いたち)の生血(いきち)を吸ったと言っても、微笑(ほほえ)んでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちは急(あせ)って、
(なぜまたこんな処にお一人で。)
 と思い切って胸を据えると、莞爾(にっこり)して、
(だって、山蟻(やまあり)の附着(くッつ)いた身体(からだ)ですもの。)
 と肩をぶるぶると震わしてしっかりと抱いた、胸に夕顔の花がまたほのめく。……ああ、魂というものは、あんな色か、と婦(おんな)に玉の緒を取って扱(しご)かれたように、私がふらふらとした時、
(貴下(あなた)、)
 と顔を上げて、凝(じっ)とまた見ました。」

       二十六

「色めいた媚(なまめ)かしさ、弱々と優しく、直ぐに男の腕へ入りそうに、怪しい翼を掻窘(かいすく)めて誘込むといった形。情に堪えないで、そのまま抱緊(だきし)めでもしようものなら、立処(たちどころ)にぱッと羽搏(はばた)きを打つ……たちまち蛇が寸断(ずたずた)になるんだ。何のその術(て)を食うものか、とぐっと落着いて張合った気で見れば、余りしおらしいのが癪(しゃく)に障った。
 が、それは自分勝手に、対手(さき)が色仕掛けにする……いや、してくれる……と思った、こっちが大の自惚(うぬぼれ)……
 もっての外です。
 実は、涙をもって、あわれに、最惜(いとお)しく、その胸を抱いて様子を見るべき筈(はず)で。やがてまた、物凄(ものすご)さ恐しさに、戦(おのの)き戦き、その膚(はだ)を見ねばならんのでした。」――
 と語りかけて、なぜか三造は歎息した。
 山伏は茶盆を突退(つきの)けて、釜(かま)の此方(こなた)へ乗って出て、
「自惚でない。承った、その様子、怪(け)しからん嬌媚(きょうび)の体(てい)じゃ。さようなことをいたいて、少(わか)い方の魂を蕩(とろ)かすわ、ふん、ふふん、」
 と頻(しき)りに頷(うなず)きながら、
「そこでその、白い乳房でも露(あらわ)したでござるか。」
「いいえ。」
「いずれ、鳩尾(みずおち)に鱗(うろこ)が三枚……」
 黙って三造は頭(かぶり)を掉(ふ)る。
「全体蛇体(じゃたい)でござるかな。」
「いいえ。」
「しからば一面の黒子(ほくろ)かな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……」
「見ました、見ましたが、それは寝てからです。」
「寝て……からはなお怪しからん。これは大変。」
 と引掴(ひッつか)んで膝去(いざ)り出した、煙草入れ押戻しさまに、たじたじとなって、摺下(ずりさが)って、
「はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのその羅(うすもの)を透くと聞きましただけでも美しさが思い遣(や)られる。寝てから膚を見たは慄然(ぞっ)とする……もう目前(めさき)へちらつく、独(ひとり)の時なら鐸(すず)を振って怨敵退散(おんてきたいさん)と念ずる処じゃ。」
「聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでも臥(ふせ)ったように、」
「違いますか。」
「飛んだ事を!」
 と強く言った。
「はてな。」
「婦(おんな)たちは母屋に寝て、私は浅芽生(あさぢう)の背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。」
「またそれで、どうして貴辺(あなた)は?」
「そうです……お聞苦しかろうが、覗(のぞ)いたんです。」
「お覗きなすった?いずれから。」
「長土間を伝って行って、母屋の一室(ひとま)を閨(ねや)にした、その二人の蚊帳を、……
 というのが――一人で離座敷に寝たには寝たが、どうしても静(じっ)と枕をしている事が出来なくなってしまったんですね。」
「山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。」
「迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。」
「はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這込(はいこ)んでも、目をまわすほど怯(おびや)かされる、よくあるやつじゃ。」
「いや、蚊帳は釣らないで臥(ふせ)りました。――母屋の方はそうも行かんが、清水があって、風通しの可(い)いせいか、離座敷には蚊は居ません。で、ちと薄ら寒いくらいだから――って……敷くのを二枚と小掻巻(こがいまき)。どれも藍縞(あいじま)の郡内絹(ぐんないぎぬ)、もちろんお綾さん、と言いました、少(わか)い人の夜のもの……そのかわり蚊帳は差上げません。――
(ちと美しい唇に、分けてお遣んなさいまし。……殿方の血は、殿方ばかりのものじゃありませんよ。)
 と凄(すご)いような串戯(じょうだん)を、これは貴婦人の方が言って。――辞退したが肯(き)かないで、床の間の傍(わき)の押入から、私の床を出して敷いたあとを、一人が蚊帳を、一人が絹の四布蒲団(よのぶとん)を、明石と絽縮緬(ろちりめん)の裳(もすそ)に搦(から)めて、蹴出褄(けだしづま)の朱鷺色(ときいろ)、水色、はらはらと白脛(しらはぎ)も透いて重(かさな)って正屋(おもや)へ隠れた、その後(あと)の事なんですが。」

       二十七

「二人の婦(おんな)が、その姿で、沓脱(くつぬぎ)の笹(ささ)を擦る褄(つま)はずれ尋常に、前の浅芽生(あさぢう)に出た空には、銀河(あまのがわ)が颯(さっ)と流れて、草が青う浮出しそうな月でしょう――蚊帳釣草(かやつりぐさ)にも、蓼(たで)の葉にも、萌黄(もえぎ)、藍(あい)、紅麻(こうあさ)の絹の影が射(さ)して、銀(しろがね)の色紙(しきし)に山神(さんじん)のお花畑を描いたような、そのままそこを閨(ねや)にしたら、月の光が畳の目、寝姿に白露の刺繍(ぬいとり)が出来そうで、障子をこっちで閉めてからも、しばらく幻が消えません。
 が、二人はもう暗い母屋へ入ったんです。と、草清水(くさしみず)の音がさらさらと聞え出す、それが、抱いた蚊帳と、掛蒲団が、狭い土間を雨戸に触って、どこまでも、ずッと遠くへ行(ゆ)くのが、響くかと思われる。……
 ところで、いつでも用あり次第、往通(ゆきか)いの出来るようにと、……一体土間のその口にも扉がついている。そこと、それから斜違(はすか)いに向い合った沓脱の上の雨戸一枚は、閉めないで、障子ばかり。あとは辻堂のような、ぐるりとある廻縁(まわりえん)、残らず雨戸が繰ってあった。
 さて、寝る段になって、そのすっと軽く敷いた床を見ると、まるで、花で織った羅(うすもの)のようでもあるし、虹(にじ)で染めた蜘蛛の巣のようにも見える――
 ずかと無遠慮には踏込み兼ねて、誰か内端(うちわ)に引被(ひっかつ)いで寝た処を揺起(ゆりおこ)すといった体裁……
 枕許に坐って、密(そっ)と掻巻(かいまき)の襟へ手を懸けると、冷(つめた)かった。が、底に幽(かすか)に温味(あたたか)のある気がしてなりません。
 また気のせいで、どうやら、こう、すやすやと花が夜露を吸う寝息が聞える。可訝(おかし)く、天鵞絨(びろうど)の襟もふっくり高い。
 や、開けると、あの顔、――寝乱れた白い胸に、山蟻がぽっちり黒いぞ、と思うと、なぜか、この夜具へ寝るのは、少(わか)い主婦(あるじ)の懐中(ふところ)へ入るようで、心咎(こころとがめ)がしてならないので、しばらく考えていましたがね。
 そうでもない、またどんな事で、母屋から出て来ないと限らん。誰か見るとこの体(てい)は、蓋(ふた)を壁にした本箱なり、押入なり、秘密の鍵(かぎ)を盗もう、とするらしく思われよう。心苦しいと思って、思い切って、掻巻の袖を上げると、キラリと光ったものがある。
 鱗(うろこ)か、金の、と総毛立つ――と櫛(くし)でした。いつ取落したか、青貝摺(あおがいずり)ので、しかも直ぐ襟許(えりもと)に落ちていました。
 待て、女の櫛は、誰も居ない夜具の中に入っていると、すやすやと寝息をするものか、と考えたくらい、もうそれほどの事には驚かず、当然(あたりまえ)のようだったのも、気がどうかしていたんでしょう。
 しばらく手に取って視(なが)めていましたが、
(ええ、縁切(えんきり)だ!)
 とちと気勢(きお)って、ヤケ気味に床の間へ投出すと、カチリという。折れたか、と吃驚(びっくり)して、拾い直して、密(そっ)と机に乗せた時、いささか、蝦蟆口(がまぐち)の、これで復讎(ふくしゅう)が出来たらしく、大(おおい)に男性の意気を発して、
(どうするものか!)
 ぐっと潜って、
(何でも来い。)
 で枕を外して、大の字になった、……は可(い)いが、踏伸ばした脚を、直ぐに意気地なく、徐々(そろそろ)縮め掛けたのは……
 ぎゃっ!
 あれは五位鷺(ごいさぎ)でしょうな。」
「ええ。」
「それとも時鳥(ほととぎす)かも知れませんが、ぎゃっ! と啼(な)きます……
 可厭(いや)な声で。はじめ、一声、二声は、横手の崖に満充(みちみ)ちた靄(もや)の底の方に響きました。虚空へ上って、ぎゃっと啼くかと思うと、直ぐにまたぎゃっと来る。
 ちょうど谷底から、一軒家を、環(わ)に飛び廻っているようです。幾羽も居るんなら居るで可いが、何だか、その声が、同(おんな)じ一つ鳥のらしいので、変に心地が悪いのです。……およそ三四十度(たび)、声が聞えたでしょうか。
 枕頭(まくらもと)で、ウーンと呻吟(うめ)くのが響き出した、その声が、何とも言われぬ……」

       二十八

「寝てから多時(しばらく)経(た)つ。これは昼間からの気疲れに、自分の魘(うな)される声が、自然と耳に入るのじゃないか。
 そうも思ったが、しかしやっぱり聞える。聞えるからには、自分でないのは確(たしか)でしょう。
 またどうも呻吟(うめ)くのが、魘されるのとは様子が違って、苦(くるし)み※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)(もが)くといった調子だ……さ、その同一(おなじ)苦み※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)くというにも、種々(いろいろ)ありますが、訳は分らず、しかもその苦悩(くるしみ)が容易じゃない。今にも息を引取るか、なぶり殺しに切刻(きざ)まれてでもいそうです。」
「やあやあ、どちらの御婦人で。」
「いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦人(おんな)なら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。」
「男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥間(おなかま)らしい、南無三(なむさん)、そこで?」
「何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、頭(かしら)を擡(もた)げて、熟(じっ)と聞くと……やっぱり、ウーと呻吟(うな)る、それが枕許のその本箱の中らしい。」
「本箱の?」
「一体、向うへ向けたのが気になったんだが、それにしても本箱の中は可訝(おかし)い、とよくよく聞き澄しても、間違いでないばかりか、今度は何です、なお困ったのは、その声が一人でない、二人――三人――三個(みッつ)の本箱、どれもこれも唸(うな)っている。
 ウーウーウーという続けさまのは、厭(いや)な内にもまだしも穏かな方で、時々、ヒイッと悲鳴を上げる、キャッと叫ぶ、ダァーと云う。突刺された、斬(き)られた、焼かれた、と、秒を切って劃(くぎり)のつくだけ、一々ドキリドキリと胸へ来ます。
 私はむっくり起直った。
 ああ、硫黄(いおう)の臭(におい)もせず、蒼(あお)い火も吹出さず、大釜(おおがま)に湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿鼻叫喚(あびきょうかん)が風の繞(めぐ)るごとくに響くと聞く……さては……少(わか)い女が先刻(さっき)――
(ここは地獄ですもの。)
 と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、抉(えぐ)られた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻吟(うめ)く。
 とても堪(たま)らん。
 気のせいで、浅茅生を、縁近(えんぢか)に湧出(わきで)る水の月の雫(しずく)が点滴(したた)るか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
 さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻唸(うな)り出す――数百(すひゃく)の虫が一斉(いっとき)に離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合目(あわせめ)から溢出(はみだ)そう。
 幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処――その一方だけは可厭(いや)な声がまだ憑着(とりつ)きません。おお! 事ある時は、それから母屋へ遁(に)げよ、という、一条(ひとすじ)の活路なのかも料(はか)られん。……
 お先達、」
 と大息ついて、
「……こう私が考えたには、所説(いわれ)があります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。――先刻(さっき)、――

(だって、山蟻の附着(くッつ)いてる身体(からだ)ですもの。)
 で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。――そこへ、
(お綾さん、これなのかい。)
 と声を掛けて、貴婦人が、衝(つ)と入って来たのでした。……片手に、あの、蒔絵(まきえ)ものの包(つつみ)を提げて、片手に小(ちいさ)な盆を一個(ひとつ)。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝子盃(コップ)を伏せて、真緑(まみどり)で透通る、美しい液体の入った、共口の壜(びん)が添って、――三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
(ああ、それなの、憚(はばか)りさま。)
 と少(わか)いのが言うと、
(手の着かないのは無いようね。)
 と緑の露の映る手で、ずッと私の前へ直しました。酒なんですね。
(手が着いたって、姉(ねえ)さん、食べかけではないわ、お酒ですもの。)
 綺麗な歯をちらりと見せたもんですね。その時、」

       二十九

「貴婦人も莞爾(にっこり)して、
(ま、そうね、私はちっとも頂かないものだから。)
(あら人聞きが悪いわ。私ばかりお酒を飲むようで。)
(だってそれに違いないんですもの、ほんとに困った人だこと。)
 ちょいと躾(たしな)めるような目をした。二人で仲よく争いながら、硝子盃(コップ)を取って指しました。
(さあ、お一つ召上れな、お綾さんの食べかけではないそうですから……しかしお甘いんで不可(いけ)ませんか。)
 と貴婦人が言った時は、もう少(わか)い方が壜(びん)を持って待ってるんでしょう。手首へ掛けて蒼(あお)い酒に、颯(さっ)と月影が射(さ)したんです。
 毒虫を絞った汁にもせよ、人生れて男にして、これは辞すべきでない。
 引掛(ひっか)けて受けました。
 薫(かおり)と酔(よい)が、ほんのりと五臓六腑(ごぞうろっぷ)へ染渡(しみわた)る。ところで大胆(だいたん)にその盃(さかずき)を、少(わか)い女に返しますとね、半分ばかり貴婦人に注(つ)いでもらって、袖を膝に載(の)せながら、少し横向きになって、カチリと皓歯(しらは)の音がした、目を瞑(ねむ)って飲んだんです。
(姉さんは。)
(いいえ、沢山、私は卑(いやし)いようなけれども、どうも大変にお肚(なか)が空いたよ。)
 とお肴(さかな)兼帯――怪しげな膳(ぜん)よりは、と云って紫の風呂敷を開いた上へ、蒔絵の蓋(ふた)を隙(す)かしてあった。そのお持たせの鮎(あゆ)の鮨(すし)を、銀の振出しの箸(はし)で取って撮(つま)んだでしょう。
(お茶を注(さ)して来ましょうね。)
 と吸子(きゆうす)を取って、沓脱(くつぬぎ)を、向うむきに片褄(かたづま)を蹴落(けおと)しながら、美しい眉を開いて、
(二人で置くは心配ね。)
 と斜めになって袖を噛(か)むと、鬢(びんずら)の戦(そよ)ぎに連立って、袂(たもと)の尖(さき)がすっと折れる。
 貴婦人が畳に手を支(つ)き、
(お盃をしたのは貴女(あなた)でしょう。)
(ですから、なおの事。)
 と言い棄てて袂を啣(くわ)えたまま蓮葉(はすは)に出ました。
 私は※(「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2-12-81)(もう)となった。
 が、ここだ、と一番(ひとつ)、三盃(さんばい)の酔(よい)の元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
(夫人(おくさん)。)と遣った――
(生命(いのち)に別条はありませんでしょうな。)
 卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとく浴(あび)せたんです。
 笑うか、打(ぶ)つか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私を視(み)て、
(ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。)
 と判然(きっぱり)言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔が蒼(あお)く、なぜか目の色が光るようで、羅(うすもの)の縞(しま)もきりりと堅く引緊(ひきしま)って、くっきり黒くなったのに、悚然(ぞっと)すると、身震(みぶるい)がして酔が醒(さ)めた。
(ええ!)
 しばらくして、私は両手を支(つ)かないばかりに、
(申訳がありません。)
 でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手を掉(ふ)って、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
(どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。)
 と方(かた)なしに頭(つむり)を下げた。
(さあ。)
 と大事に居直って、
(それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴下(あなた)お厭(いや)でしょう。)
 私は目ばかり働いた。
(ですが、あの通り美しいのに、貴下にお願(ねがい)があると云って、衣物(きもの)も着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不可(いけ)ませんか、お可厭(いや)らしいのねえ。)
 と歎息をされたのには、私もと胸(むね)を吐(つ)きました。……」

       三十

「ちょいと二人とも言(ことば)が途絶えた。
(ですがね、貴下(あなた)、無理にも発程(たっ)てお帰り遊ばそうとするのは――それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。)
 と居座(いずまい)を開いて、庭を見ながら、
(よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。)
 話は切れたんです、少(わか)い人が、いそいそ入って来ましたから。……
 ところで、俯向(うつむ)いていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私には敵(かたき)らしい少(わか)い人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対向(さしむか)いになると、凄(すご)いようで、おのずから五体が緊(しま)る、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
 まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、私(わたくし)ども二人して、と確(たしか)に言った。
 すると、……二人とも味方なのか、それとも敵(かたき)なのか、どれが鬼で、いずれが菩薩(ぼさつ)か、ちっとも分りません。
 分らずじまいに、三人で鮨(すし)を食べた。茶話に山吹も出れば、巴(ともえ)も出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五色(ごしき)の礫(こいし)、==月かなし==という芭蕉(ばしょう)の碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気に留(とま)った事があります。
 少(わか)い女が持出した、金蒔絵(きんまきえ)の大形の見事な食籠(じきろう)……形(がた)の菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨形(すみがた)の落雁(らくがん)が入れてありました。ところで、蓋(ふた)から身をかけて、一面に蒔(ま)いた秋草が実に見事で、塗(ぬり)も時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見惚(みと)れるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつで空(から)になると、その底に、何にもない漆(うるし)の中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイと髯(ひげ)を立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余り佳(い)いから、あっ、と賞(ほ)めると、貴婦人が、ついした風で、
(これは、お綾さんのお父(とっ)さんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、)
 と言いかける、と、目配せをした目が衝(つ)と動いた。少(わか)いのはまた颯(さっ)と瞼(まぶた)を染めたんです。
 で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心を安(やすん)じたは可(い)いが――寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻吟(うめき)。……
 お先達、ここなんです。

 二人で心配をしてやろうと言ったは、今だ。疾(はや)くその遁口(にげぐち)から母屋に抜けよう。が、あるいは三方から引包(ひッつつ)んで、誘(おび)き出す一方口の土間は、さながら穽穴(おとしあな)とも思ったけれども、ままよ、あの二人にならどうともされろ!で、浅茅生へドンと下りた、勿論跣足(はだし)で。
 峰も谷も、物凄(ものすご)い真夜中ですから、傍目(わきめ)も触(ふ)らないで土間へ辷(すべ)り込む。
 ずッと遥(はるか)な、門(かど)へ近い処に、一間、煤(すす)けた障子に灯(あかり)が射(さ)す。
 閨(ねや)は……あすこだ。
 難有(ありがた)い、としっとり、びしょ濡れに夜露の染(し)んだ土間を、ぴたぴたと踏んで、もっとも向うの灯は届かぬ、手探りですよ。
 やがて、その土間の広くなった処へ掛(かか)ると、朧気(おぼろげ)に、縁と障子が、こう、幻のように見えたも道理、外は七月十四日の夜(よ)の月。で、雨戸が外れたままです。
 けれども峰を横倒しに戸口に挿込んだように、靄(もや)の蔓(はびこ)ったのが、頭(かしら)を出して、四辺(あたり)は一面に濛々(もうもう)として、霧の海を鴉(からす)が縫うように、処々、松杉の梢(こずえ)がぬっと顕(あらわ)れた。他(ほか)は、幅も底も測知(はかりし)られぬ、山の中を、時々すっと火の筋が閃(ひらめ)いて通る……角に松明(たいまつ)を括(くく)った牛かと思う、稲妻ではない、甲虫(かぶとむし)が月を浴びて飛ぶのか、土地神(とちのかみ)が蝋燭(ろうそく)点(つ)けて歩行(ある)くらしい。
 見ても凄(すご)い、早やそこへ、と思って寝衣(ねまき)の襟を掻合(かきあわ)せると、その目当の閨(ねや)で、――確に女の――すすり泣きする声がしました。……ひそひそと泣いているんですね。」

       三十一

「夜半に及んで、婦人の閨へ推参で、同じ憚(はばか)るにしても、黙って寝ていれば呼べもするし、笑声(わらいごえ)なら与(くみ)し易いが、泣いてる処じゃ、たとい何でも、迂濶(うかつ)に声も懸けられますまい。
 何しろ、泣悲(なきかなし)むというは、一通りの事ではない。気にもなるし、案じられもする……また怪しくもあった。ですから、悪いが、密(そっ)と寄って、そこで障子の破目(やぶれめ)から――
 その破目が大層で、此方(てまえ)へ閉ってます引手の処なんざ、桟がぶら下(さが)って行抜けの風穴(かざあな)で。二小間(ふたこま)青蒼(まっさお)に蚊帳が漏れて、裾(すそ)の紅麻(こうあさ)まで下へ透いてて、立つと胸まで出そうだから、覗(のぞ)くどころじゃありません。
 屈(かが)んで通抜けました。そこを除(よ)けて、わざわざ廻って、逆に小さな破(やぶれ)から透かして見ると……
 蚊帳越(ごし)ですが、向うの壁に附着(くッつ)けた燈(あかり)と、対向(さしむか)いでよく分る。
 その灯(ひ)を背にして、こちら向きに起返っていたのは、年上の貴婦人で。蚊帳の萌黄(もえぎ)に色が淡く、有るか無いか分らぬ、長襦袢(ながじゅばん)の寝衣(ねまき)で居た。枕は袖の下に一個(ひとつ)見えたが、絹の四布蒲団(よのぶとん)を真中(まんなか)へ敷いた上に、掛けるものの用意はなく、また寝るつもりもなかったらしい――貴婦人の膝に突伏(つっぷ)して、こうぐっと腕(かいな)を掴(つか)まって、しがみついたという体(てい)で、それで※々(なよなよ)[#「女+(「島」の「山」に代えて「衣」)」、442-7]と力なさそうに背筋を曲(くね)って、独鈷入(とっこいり)の博多(はかた)の扱帯(しごき)が、一ツ絡(まつわ)って、ずるりと腰を辷(すべ)った、少(わか)い女は、帯だけ取ったが、明石(あかし)の縞(しま)を着たままなんです。
 泣いているのはそれですね。前刻(さっき)から多時(しばらく)そうやっていたと見えて、ただしくしく泣く。後(おく)れ毛が揺れるばかり。慰めていそうな貴婦人も、差俯向(さしうつむ)いて、無言の処で、仔細(しさい)は知れず……花室(はなむろ)が夜風に冷えて、咲凋(さきしお)れたという風情。
 その内に、肩越に抱くようにして投掛けていた貴婦人の手で脱がしたか、自分の手先で払ったか、少(わか)い女の片肌が、ふっくりと円く抜けると、麻の目が颯(さっ)と遮ったが、直(すぐ)に底澄(そこず)んだように白くなる……また片一方を脱いだんです。脱ぐと羅(うすもの)の襟が、肉置(ししおき)のほどの好(い)い頸筋(えりすじ)に掛(かか)って、すっと留まったのを、貴婦人の手が下へ押下げると、見る目には苛(いじ)らしゅう、引剥(ひっぱ)ぐように思われて、裏を返して、はらりと落ちて、腰帯さがりに飜った。
 と見ると、蒼白く透(とお)った、その背筋を捩(よじ)って、貴婦人の膝へ伸し上(あが)りざまに、半月形(はんげつなり)の乳房をなぞえに、脇腹を反らしながら、ぐいと上げた手を、貴婦人の頸(うなじ)へ巻いて、その肩へ顔を附ける……
 その半裸体の脇の下から、乳房を斜(はす)に掛けて、やァ、抉(えぐ)った、突いた、血が流れる、炎が閃(ひら)めいて燃えつくかと思う、洪(どっ)と迸(ほとばし)ったような真赤(まっか)な痣(あざ)があるんです。」
 山伏は大息ついて聞くのである。
「その痣を、貴婦人が細い指で、柔かにそろそろと撫でましたっけ。それさえ気味が悪いのに、十度(とたび)ばかり擦(さす)っておいて、円髷(まるまげ)を何と、少(わか)い女の耳許から潜(くぐ)らして、あの鼻筋の通った、愛嬌(あいきょう)のない細面(ほそおもて)の緊(しま)った口で、その痣(あざ)を、チュッと吸う、」
「うーむ、」
 と山伏は呻吟(うな)った。
「私は生血を吸うのだと震え上(あが)った。トどうかは知らんが、少(わか)い女の絡(から)んだ腕は、ひとりで貴婦人の頸(うなじ)を解けて、ぐたりと仰向(あおむ)けに寝ましたがね、鳩尾(みずおち)の下にも一ヶ所、めらめらと炎の痣。
 やがて、むっくりと起上って、身を飜した半身雪の、褄(つま)を乱して、手をつくと、袖が下(さが)って、裳(もすそ)を捌(さば)いて、四ツ這(ば)いになった、背中にも一ツ、赤斑(あかまだら)のある……その姿は……何とも言えぬ、女の狗(いぬ)。」
「ああ!」
「驚く拍子に、私が物音を立てたらしい。貴婦人が、衝(つ)と立つと、蚊帳越にパッと燈(あかり)を……少(わか)い女は這(は)ったままで掻消(かきけ)すよう――よく一息に、ああ消えたと思う。貴婦人の背の高かったこと、蚊帳の天井から真白な顔が突抜けて出たようで――いまだに気味の悪さが俤立(おもかげだ)ってちらちらします。
 あとは、真暗(まっくら)、蚊帳は漆(うるし)のようになった。」

       三十二

「何が何でも、そこに立っちゃいられんから、這(は)ったか、摺(ず)ったか、弁別(わきまえ)はない、凸凹(でこぼこ)の土間をよろよろで別亭(はなれ)の方へ引返すと……
 また、まあどうです。
 あの、雨戸がはずれて、月明りが靄(もや)ながら射込(さしこ)んでいる、折曲った縁側は、横縦にがやがやと人影が映って、さながら、以前、この立場(たてば)が繁昌(はんじょう)した、午飯頃(ひるめしごろ)の光景(ありさま)ではありませんか。
 入乱れて皆腰を掛けてる。
 私は構わず、その前を切って抜けようとしました。
 大胆だと思いますか――何(なあに)、そうではない。度胸も信仰も有るのではありません、がすべてこういう場合に処する奥の手が私にある。それは、何です、剣術の先生は足が顫(ふる)えて立縮(たちすく)んだが、座頭の坊は琵琶(びわ)を背負(しょ)ったなり四這(よつんば)いになって木曾の桟(かけはし)をすらすら渡り越したという、それと一般(ひとつ)。
 希代な事には、わざと胸に手を置いて寝て可恐(おそろし)い夢を平気で見ます。勿論夢と知りつつ慰みに試みるんです。が、夢にもしろ、いかにも堪(たま)らなくなると、やと叫んで刎起(はねお)きる、冷汗は浴(あび)るばかり、動悸(どうき)は波を立てていても、ちっとも身体(からだ)に別条はない。
 これです!
 いざとなれば刎起きよう、夢でなくって、こんな事があるべき筈(はず)のもんじゃない、と断念(あきら)めは附けましたが。
 突懸(つっかか)り、端に居た奴(やつ)は、くたびれた麦藁帽(むぎわらぼう)を仰(のけ)ざまに被(かぶ)って、頸窪(ぼんのくぼ)へ摺(ず)り落ちそうに天井を睨(にら)んで、握拳(にぎりこぶし)をぬっと上げた、脚絆(きゃはん)がけの旅商人(たびあきんど)らしい風でしたが、大欠伸(おおあくび)をしているのか、と見ると、違った! 空を掴(つか)んで苦しんでるので、咽喉(のど)から垂々(たらたら)と血が流れる。
 その隣座(となりざ)に、どたりと真俯向(まうつむ)けになった、百姓体(てい)の親仁(おやじ)は、抜衣紋(ぬきえもん)の背中に、薬研形(やげんがた)の穴がある。
 で、ウンウン呻吟(うめ)く。
 少し離れて、青い洋服を着た少年の、二十ばかりで、学生風のが、頻(しき)りに紐(ひも)のようなものを持って腰の廻りを巻いてるから、帯でもするかと見ると、振(ぶ)ら下った腸(はらわた)で、切裂かれ臍(へそ)の下へ、押込もうとする、だくだく流れる血(あけ)の中で、一掴(ひとつかみ)、ずるりと詰めたが、ヒイッと悲鳴で仰向(あおむ)けに土間に転がり落ちると、その下になって、ぐしゃりと圧拉(ひしゃ)げたように、膝を頭(ず)の上へ立てて、蠢(うご)めいた頤髯(あごひげ)のある立派な紳士は、附元(つけもと)から引断(ひきき)れて片足ない、まるで不具(かたわ)の蟋蟀(きりぎりす)。
 もう、一面に算を乱して、溝泥(どぶどろ)を擲附(たたきつ)けたような血(のり)の中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。――
 いつの間にか、障子が透(す)けて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦朧(もうろう)と灰色の磔柱(はりつけばしら)が露(あら)われて、アノ胸を突反(つきそ)らして、胴を橋に、両手を開いて釣下(つりさが)ったのは、よくある基督(キリスト)の体(てい)だ。
 床柱と思う正面には、広い額の真中(まんなか)へ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真蒼(まっさお)に黄色い眼(まなこ)を赫(かっ)と※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)く、この俤(おもかげ)は、話にある幽霊船(ゆうれいぶね)の船長(ふなおさ)にそっくり。
 大俎(おおまないた)がある、白刃(しらは)が光る、筏(いかだ)のように槍(やり)を組んで、まるで地獄の雛壇(ひなだん)です。
 どれも抱着(だきつ)きもせず、足へも縋(すが)らぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後退(あとじさ)りになって、ドンと突当ったまま、蹌踉(よろ)けなりに投出されたように浅茅生(あさぢう)へ出た。
(はああ。)
 と息を引いた、掌(てのひら)へ、脂(あぶら)のごとく、しかも冷い汗が、総身(そうみ)を絞って颯(さっ)と来た。
 例の草清水(くさしみず)がありましょう。
 日蝕(にっしょく)の時のような、草の斑(まだら)に黒い、朦(もう)とした月明りに、そこに蹲(しゃが)んだ男がある。大形の浴衣の諸膚脱(もろはだぬぎ)で、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへ投(ほう)った、絹の手巾(ハンケチ)を引伸(ひんの)しながら、ぐいぐいと背中を拭(ふ)いている。
 これは人間らしいと、一足寄って、
(君……)
 と掠(かす)れた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、瓶(かめ)のようで、胴中(どうなか)ばかり。
(首はないが交際(つきあ)うけえ。)
 と、野太い声で怒鳴(どな)られたので、はっと思うと、私も仰向(あおむ)けに倒れたんです。
 やがて、気のついた時は、少(わか)い人の膝枕で、貴婦人が私の胸を撫でていました。」

       三十三

「お先達、そこで二人して交(かわ)るがわる話しました。――峠の一軒家を買取ったのは、貴婦人なんです。
 これは当時石川県のある顕官(けんかん)の令夫人、以前は某(なにがし)と云う一時富山の裁判長だった人の令嬢で、その頃この峠を越えて金沢へ出て、女学校に通っていたのが、お綾と云う、ある蒔絵師(まきえし)の娘と一つ学校で、姉妹のように仲が好(よ)かったんだそうです。
 対手(さき)は懺悔(ざんげ)をしたんですが、身分を思うから名は言いますまい。……貴婦人は十八九で、もう六七人情人(じょうじん)がありました。多情な女で、文ばかり通わしているのや、目顔で知らせ合っただけなのなんぞ――その容色(きりょう)でしかも妙齢(としごろ)、自分でも美しいのを信じただけ、一度擦違(すれちが)ったものでも直ぐに我を恋うると極(き)めていたので――胸に描いたのは幾人だか分らなかった。
 罪の報(むくい)か。男どもが、貴婦人の胸の中で掴(つか)み合いをはじめた。野郎が恐らくこのくらい気の利かない話はない。惚(ほ)れた女の腹の中で、じたばたでんぐり返しを打って騒ぐ、噛(か)み合う、掴み合う、引掻(ひっか)き合う。
 この騒ぎが一団(ひとかたまり)の仏掌藷(つくねいも)のような悪玉(あくだま)になって、下腹から鳩尾(みずおち)へ突上げるので、うむと云って歯を喰切(くいしば)って、のけぞるという奇病にかかった。
 はじめの内は、一日に、一度二度ぐらいずつで留(とま)ったのが、次第に嵩(こう)じて、十回以上、手足をぶるぶると震わして、人事不省で、烈(はげ)しい痙攣(けいれん)を起す容体だけれども、どこもちっとも痛むんじゃない。――ただ夢中になって反っちまって、白い胸を開けて見ると、肉へ響いて、団(かたまり)が動いたと言います。
 三度五度は訳も解らず、宿のものが回生剤(きつけ)だ、水だ、で介抱して、それでまた開きも着いたが、日一日数は重なる。段々開きが遅くなって、激(はげし)い時は、半時も夢中で居る。夢中で居ながら、あれ、誰(た)が来て怨(うら)む、彼(か)が来て責める、咽喉(のど)を緊(し)める、指を折る、足を捻(ねじ)る、苦しい、と七転八倒。
 情人が押懸けるんです。自分で口走るので、さては、と皆(みんな)頷(うなず)いた。
 浅ましいの何のじゃない。が、女中を二人連れて看病に駆着けて来た母親は、娘が不行為(ふしだら)とは考えない。男に膚(はだ)を許さないのを、恋するものが怨むためだ、と思ったそうです。
 とても宿じゃ、手が届かんで、県の病院へ入れる事になると、医者(せんせい)達は皆頭(こうべ)を捻(ひね)った。病体少しも分らず、でただまあ応急手当に、例の仰反(のけぞ)った時は、薬を嗅(か)がせて正気づかせる外はないのです。
 ざっと一月半入院したが、病勢は日に日に募(つの)る。しかも力が強くなって、伸しかかって胸を圧(おさ)える看護婦に助手なんぞ、一所に両方へ投飛ばす、まるで狂人(きちがい)。
 そうかと思うと、食べるものも尋常だし、気さえ注(つ)けば、間違った口一つ利かない。天人のような令嬢なんで、始末に困った。
 すると、もう一人の少(わか)い方です。――お綾はその通りの仲だから、はじめから姉(あね)が病気のように心配をして、見舞にも行(ゆ)けば看病もしたが、暑中休暇になったので、ほとんど病院で附切り同様。
 妙な事には、この人が手を懸けると、直ぐに胸が柔かになる。開きは着かぬまでも三人四人で圧(おさ)え切れぬのが、静(しずか)に納まって、夢中でただ譫事(うわごと)を云うくらいに過ぎぬ。
 で、母親が、親にも頼んで、夜も詰め切ってもらったそうで。肥満女(ふとっちょ)の女中などは、失礼無躾(ぶしつけ)構っちゃいられん。膚脱(はだぬぎ)の大汗を掻いて冬瓜(とうがん)の膝で乗上っても、その胸の悪玉に突離(つッぱな)されて、素転(すてん)ころりと倒れる。
(お綾様。お綾様。)
 と夜が夜中(よなか)、看病疲れにすやすやと寝ているのを起すと、訳はない、ちょいと手を載せて、
(おや、また来ているよ。……)
 誰某(たれそれ)だね……という工合(ぐあい)で、その時々の男の名を覚えて、串戯(じょうだん)のように言うと、病人が
(ああ、)
 と言って、胸の落着く処を、
(煩(うるさ)い人だよ。お帰り。)
 で、すっと撫で下ろす。」――

       三十四

「すると、取憑(とッつ)いた男どもが、眉間尺(みけんじゃく)のように噛合(かみあ)ったまま、出まいとして、乳(ち)の下を潜(くぐ)って転げる、其奴(そいつ)を追っ懸け追っ懸け、お綾が擦(さす)ると、腕へ辷(すべ)って、舞戻って、鳩尾(みずおち)をビクリと下って、膝をかけて畝(うね)る頃には、はじめ鞠(まり)ほどなのが、段々小さく、豆位になって、足の甲を蠢(うご)めいて、ふっと拇指(おやゆび)の爪から抜ける。その時分には、もう芥子粒(けしつぶ)だけもないのです、お綾さんの爪にも堪(たま)らず、消滅する。
 トはっと気を返して、恍惚(うっとり)目を開(あ)く。夢が覚めたように、起上って、取乱した態(なり)もそのまま、婦(おんな)同士、お綾の膝に乗掛(のりかか)って、頸(くび)に手を搦(から)みながら、切ない息の下で、
(済まないわね。)
 と言うのが、ほとんど例になっていたそうです。――お綾が、よく病人の気を知った事は、一日(あるひ)も痙攣が起って、人事不省なのを介抱していると、病人が、例に因って、
(来たよ。)
 と呻吟(うめ)く。
(……でしょうね、)
 と親類内の従兄(いとこ)とかで、これも関係のあった、――少年の名をお綾が云うと……
(ああ、青い幽霊、)
 と夢中で言った――処へひょっこり廊下から……脱いだ帽子を手に提げて、夏服の青いので生白(なましろ)い顔を出したのは、その少年で。出会頭(であいがしら)に聞かされたので、真赤(まっか)になって逃げたと言います。その癖お綾は一度も逢った事はないのだそうで。
 さあへ医師(いしゃ)は止(よ)しても、お綾は病人から手離せますまい。
 いつまで入院をしていても、ちっとも快方(いいほう)に向わないから、一旦(いったん)内へ引取って、静かに保養をしようという事になった時、貴婦人の母親は、涙でお綾の親達に頼んだんです。
 頼まれては否(いや)と言わぬ、職人気質(かたぎ)で引受けたでしょう。
 途中の、不意の用心に、男が二人、母親と、女中と、今の二人の婦人(おんな)で、五台、人力車を聯(つら)ねて、倶利伽羅峠を越したのは、――ちょうど十年前(ぜん)になる――
 同じ立場(たてば)で、車をがらがらと引込んで休んだのは、やっぱり、今残る、あの、一軒家。しかも車から出る、と痙攣(ひきつ)けて、大勢に抱え込まれて、お綾の膝に抱かれた処は。……
(先刻、貴下(あなた)が、怪(あやし)い姿で抱合っている処を蚊帳越に御覧なすった、母屋の、あの座敷です。)
 ッて貴婦人が言いましたっけ。
 お先達。」
 三造は酔えるがごとき対手(あいて)を呼んで、
「その時、私は更(あらた)めて、二人の婦人にこう言いました。
(時が時、折が折なんですから、実は何にも言出しはしませんでしたが、その日、広土間の縁の出張(でば)りに一人腰を掛けて、力餅(ちからもち)を食べていた、鳥打帽を冠(かぶ)って、久留米の絣(かすり)を着た学生がありました。お心は着かなかったでしょうが、……それは私です。……
 そして、その時の絵のような美しさが、可懐(なつか)しさの余り、今度この山越(やまごえ)を思い立って参ったんです。)
 お先達、事実なんです。」
 と三造は言った。
「これを聞いて少(わか)い女(ひと)が、
(そして貴下が、私を御覧なさいましたのは、その時が初めてですか、)
(いいえ、)
 と私が直ぐに答えた。
(違うかどうか分りませんが、その以前に二度あります。……一度は金沢の藪(やぶ)の内と言う処――城の大手前と対(むか)い合った、土塀の裏を、鍵(かぎ)の手形(てなり)。名の通りで、竹藪の中を石垣に従(つ)いて曲る小路(こうじ)。家も何にもない処で、狐がどうの、狸がどうの、と沙汰(さた)をして誰も通らない路(みち)、何に誘われたか一人で歩行(ある)いた。……その時、曲角(まがりかど)で顔を見ました。春の真昼間(まっぴるま)、暖い霞のような白い路が、藪の下を一条(ひとすじ)に貫いた、二三間前(さき)を、一人通った娘があります。衣服(きもの)は分らず、何の織物か知りませんが、帯は緋色(ひいろ)をしていたのを覚えている。そして結目(むすびめ)が腰へ少し長目でした。ふらふらとついて見送って行(ゆ)く内に、また曲角で、それなり分らなくなったんです。)
 ――二人は顔を見合せました。」

       三十五

「私はまた……
(もう一度は、その翌年、やっぱり春の、正午(ひる)少し後(さが)った頃、公園の見晴しで、花の中から町中(まちなか)の桜を視(なが)めていると、向うが山で、居る処が高台の、両方から、谷のような、一ヶ所空の寂しい士町(さむらいまち)と思う所の、物干(ものほし)の上にあがって、霞を眺めるらしい立姿の女が見えた。それがどうも同じ女らしい。ロハ台を立って、柳の下から乗り出して、熟(じっ)と瞻(みまも)る内に、花吹雪がはらはらとして、それっきり影も見えなくなる、と物干の在所(ありか)も町の見当も分らなくなってしまった。……が、忘れられん、朧夜(おぼろよ)にはそこぞと思う小路々々を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(さまよ)い※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)い日を重ねて、青葉に移るのが、酔のさめ際のように心寂しくってならなかった――人は二度とも、美しい通魔(とおりま)を見たんだ、と言う……私もあるいはそうかと思った。)
 貴婦人が聞澄まして、
(二度目のは引越した処でしょう!)
 と少(わか)い人に言うんです。
(物干で、花見をしたり、藪(やぶ)の中を歩行(ある)いたり、やっぱり、皆(みんな)こういう身体(からだ)になる前兆でしょう。よく貴下(あなた)、お胸に留めて下さいました。姉さん、私もう一度緋色の帯がしめたいわ。)
 と、はらはらと落涙して、
(お恥かしいが……)
 ――と続いて話した。――
 で、途中介抱しながら、富山へ行って、その裁判長の家に落着く。医者では不可(いか)ん、加持祈祷(かじきとう)と、父親の方から我(が)を折ってお札、お水、護摩となると、元々そういう容体ですから、少しずつ治まって、痙攣(けいれん)も一日に二三度、それも大抵時刻が極(きま)って、途中不意に卒倒するような憂慮(きづかい)なし、二人で散歩などが出来るようになったそうです。
 一日(あるひ)、巴旦杏(はたんきょう)の実の青々した二階の窓際で、涼しそうに、うとうと、一人が寝ると、一人も眠った。貴婦人は神通川の方を裾で、お綾の方は立山の方(かた)を枕で、互違いに、つい肱枕(ひじまくら)をしたんですね。
 トントントン跫音(あしおと)がして、二階の梯子段(はしごだん)から顔を出した男がある。
 お綾が起返ると、いつも病人が夢中で名を呼ぶ……内証では、その惚話(のろけ)を言う、何とか云う男なんです。
 ずッと来て、裾から貴婦人の足を圧(おさ)えようとするから、ええ、不躾(ぶしつけ)な、姉(あね)を悩(なやま)す、病(やまい)の鬼と、床の間に、重代の黄金(こがね)づくりの長船(おさふね)が、邪気を払うといって飾ってあったのを、抜く手も見せず、颯(さっ)と真額(まびたい)へ斬付(きりつ)ける。天窓(あたま)がはっと二つに分れた、西瓜をさっくり切(や)ったよう。
 処へ、背後(うしろ)の窓下の屋根を踏んで、窓から顔を出した奴がある、一目見るや、膝を返しざまに見当もつけず片手なぐりに斬払って、其奴(そいつ)の片腕をばさりと落した。時に、巴旦杏の樹へ樹上(きのぼ)りをして、足を踏(ふんば)張って透見(すきみ)をしていたのは、青い洋服の少年です。
 お綾が、つかつかと屋根へ出て、狼狽(うろた)えてその少年の下りる処を、ぐいと突貫いたが、下腹で、ずるり腸(はらわた)が枝にかかって、主は血みどれ、どしんと落ちた。
 この光景(ありさま)に、驚いたか、湯殿口に立った髯面(ひげづら)の紳士が、絽羽織(ろばおり)の裾(すそ)を煽(あお)って、庭を切って遁(に)げるのに心着いて、屋根から飜然(ひらり)……と飛んだと言います。垣を越える、町を突切(つッき)る、川を走る、やがて、山の腹へ抱(だき)ついて、のそのそと這上(はいあが)るのを、追縋(おいすが)りさまに、尻を下から白刃(しらは)で縫上げる。
 ト頂に一人立って、こっちへ指さしをして笑ったものがある。エエ、と剣(つるぎ)を取って飛ばすと、胸元へ刺さって、ばったり、と朽木倒(くちきだおれ)。
 するする攀上(よじのぼ)って、長船のキラリとするのを死骸から抜取ると、垂々(たらたら)と湧(わ)く血雫(ちしずく)を逆手に除(と)り、山の端(は)に腰を掛けたが、はじめて吻(ほっ)と一息つく。――瞰下(みおろ)す麓(ふもと)の路へ集(たか)って、頭ばかり、うようよして八九人、得物を持って押寄せた。
 猶予(ためら)わず、すらりと立つ、裳(もすそ)が宙に蹴出(けだし)を搦(から)んで、踵(かかと)が腰に上(あが)ると同時に、ふっと他愛なく軽々と、風を泳いで下りるが早いか、裾がまだ地に着かぬ前(さき)に、提(ひっさ)げた刃(やいば)の下に、一人が帽子から左右へ裂けた。
 一同が、わっと遁(に)げる。……」

       三十六

「今はもう追うにも及ばず、するすると後(あと)を歩行(ある)きながら、刃(やいば)を振って、
(は、)
 と声懸けると、声に応じて、一人ずつ、どたり、ばたりで、算を乱した、……生木の枝の死骸(しがい)ばかり。
 いつの間にか、二階へ戻った。
 時に、大形の浴衣の諸膚脱(もろはだぬ)ぎで、投出(なげだ)した、白い手の貴婦人の二の腕へ、しっくり喰(くい)ついた若いもの、かねて聞いた、――これはその人の下宿へ出入りの八百屋だそうで、やっぱり情人の一人なんです。
(推参。)
 か何かの片手なぐりが、見事に首をころりと落す。拳(こぶし)の冴(さえ)に、白刃(しらは)の尖(さき)が姉の腕を掠(かす)って、カチリと鳴った。
 あっと云うと、二人とも目を覚した。
 お綾の手に、抜いた刀はなかったが、貴婦人は二の腕にはめた守護袋(まもりぶくろ)の黄色(きん)の金具を圧(おさ)えていたっていう事です。
 実は、同じ夢を見たんだそうで、もっとも二階から顔を出したのも、窓から覗(のぞ)いたのも、樹上りをしたのも、皆(みんな)同時に貴婦人は知っていた。
 自分の情人を、一人々々妹が斬殺すんで、はらはらするが、手足は動かず、声も出せない。その疲れた身体(からだ)で、最後に八百屋の若いものに悩まされた処――片腕一所に斬られた、と思ったが、守護袋で留まったと言う。
 貴婦人の病気は、それで、快癒(かいゆ)。
 が、入交(いれかわ)って、お綾は今の身になった。
 と言うのは、夢中ながら、男を斬った心持が、骨髄(こつずい)に徹して忘れられん。……思い出すと、何とも言えず、肉が動く、血汐(ちしお)が湧(わ)く、筋が離れる。
 他(ほか)の事は考えられず、何事も手に着かない、で、三度の食も欲(ほし)くなくなる。
 ところが、親が蒔絵職(まきえしょく)。小児(こども)の時から見習いで絵心があったので、ノオトブックへ鉛筆で、まず、その最初の眉間割(みけんわり)を描(か)いたのがはじまりで。
 顔だけでは、飽足(あきた)らず、線香のような手足を描いて、で、のけぞらした形へ、疵(きず)をつける。それも墨だけでは心ゆかず、やがて絵の具をつかい出した。
 けれども、男の膚(はだ)は知らない処女の、艶書(ふみ)を書くより恥かしくって、人目を避くる苦労に痩(や)せたが、病(やまい)は嵩(こう)じて、夜も昼もぼんやりして来た。
 貴婦人も、それっきり学校はやめたが、お綾も同断。その代り寂(さびし)い途中、立向うても見送っても、その男を目に留めて、これを絵姿にして、斬る、突く、胸を刺す。……血を彩って、日を経(ふ)ると、きっとそのものは生命(いのち)がないというのが知れる……段々嵩じて、行違いなりにも、ハッと気合を入れると、即座に打倒(ぶったお)れる人さえ出来た。
 が、可恐(おそろし)いのは、一夜(あるよ)、夜中に、ある男を呪詛(のろ)っていると、ばたりと落ちて、脇腹から、鳩尾(みずおち)の下、背中と、浴衣越しに、――それから男に血を彩ろうという――紅(べに)の絵の具皿の覆(こぼ)れかかったのが、我が身の皮を染め、肉を透して、血に交って、洗っても、拭(ぬぐ)っても、濃くなるばかりで、褪(あ)せさえせぬ。
 お綾は貴婦人の膝に縋(すが)って、すべてを打明けて泣いたんです。
 その頃は、もう生れかわったようになって、何某(なにがし)の令夫人だった貴婦人は、我が身も同(おんな)じに、悲(かなし)み傷(いた)んで、何は措(お)いても、その悪い癖を撓(た)め直そうと、千辛万苦(せんしんばんく)したけれども、お綾は、怪(あやし)い情を制し得ない。
 情を知った貴婦人は、それから心着いて試みると、お綾に呪詛(のろ)われたものは、必ず無事ではないのが確(たしか)で。
 今はこう、とお綾の決心を聞いた上、心一つで計らって、姫捨山を見立てました。
 ところが、この倶利伽羅峠は、夢に山の端(は)に白刃(しらは)を拭(ぬぐ)って憩った、まさしくその山の姿だと言う。しかしこの峠を越したのが、少(わか)い人には、はじめて国の境を出たので、その思出もあったからでしょう。
 ちょうど、立場(たてば)が荒廃(すた)れて、一軒家が焼残ったというのも奇蹟だからと、そこで貴婦人が買取って、少(わか)い女(ひと)の世を避ける隠れ里にしたのだと言います。
 で、一切(すべて)の事は、秘密に貴婦人が取(とり)まかなう。」

       三十七

「月に一度、あるいは二度、貴婦人が忍んで山に上って来る。その時は、ああして抱いて、もとは自分から起った事と、膚(はだ)の曇(くもり)に接吻(キッス)をする。
 が、雪なす膚に、燃え立つ鬼百合の花は、吸消されもせず、しぼみもしない。のみならず、会心の男が出来て、これはと思うその胸へ、グザと刃(やいば)を描いて刺す時、膚を当てると、鮮紅(からくれない)の露を絞って、生血(いきち)の雫(しずく)が滴点(したた)ると言います。
 広間の壁には、竹箆(たけべら)で土を削って、基督(キリスト)の像が、等身に刻みつけて描(か)いてあった。本箱の中も、残らず惨憺(さんたん)たる彩色画(さいしきが)で、これは目当の男のない時、歴史に血を流した人を描くのでした。」
 と物語る、三造の声は震えた。……
「お先達。
 で、貴婦人は、
(縁のある貴下(あなた)。……ここに居て、打ちもし、蹴りもし、縛(くく)りもして、悪い癖を治して上げて下さい。)
 と言う。
 若い人は、
(おなつかしい方だけに、こんな魔所には留められません、身体(からだ)の斑(ぶち)が消えないでは。)
 と、しっかり袂(たもと)に縋(すが)って泣きます。
 私は、死ぬ決心をするほど迷った。
 果しなく猶予(ためら)っているのを見て、大方、それまでに話した様子で、後で呪詛(のろ)われるのを恐れるために、立て得ないんだと思ったらしい。
 沓脱(くつぬぎ)をつかつかと、真白い跣足(はだし)で背戸へ出ると、母屋の羽目(はめ)を、軒へ掛けて、森のように搦(から)んだ烏瓜(からすうり)の蔓(つる)を手繰(たぐ)って、一束(ひとつか)ねずるずると引きながら、浅茅生(あさぢう)の露に膝を埋(うず)めて、背(せな)から袖をぐるぐると、我手(わがて)で巻くので、花は雪のように降りかかった。
 旭(あさひ)が出ました。
 驚く私を屹(きっ)と見て
(誓(ちかい)は違(たが)えぬ! 貴下が去(い)って、他(ほか)の犠牲(にえ)の――巣にかかるまで、このままここで動きはしない、)
 心安く下山せよ。
(さあ、)
 と言うと、一目凝(じっ)と見た目を瞑(ねむ)って、黒髪をさげて俯向(うつむ)いたんです。
 顔を背けて、我にもあらず、縁に腰を落した内に、貴婦人が草鞋(わらじ)を結んだ。
 堪(たま)らなくなって、飛出して、蔓(つる)を解こうと手を懸ける。胸を引いて頭(つむり)を掉(ふ)るから、葉を引※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(ひきむし)って、私は涙を落しました。
(私なんざ構わんから。)
(いいえ、こうしてまで誓を立てぬと、私は貴下を殺すことを、自分でも制し切れない。一夜(ひとよ)冥土(めいど)へ留めました。お生きなさいまし、新(あらた)にお存(なが)らえ遊ばせ。)
 と、目を潤(うる)ましたが凜々(りり)しく云う。
(たとい、しばらくの辛抱でも。男を呪詛(のろ)う気のないのは、お綾さんにも幸福(しあわせ)です。そうしておおきなさいまし。)
 と、貴婦人が、金剛杖も一所に渡した。
 膝さがりに荷を下げて、杖を抱いてしょんぼり立つのを……
(さようなら、御機嫌よう。)
(はっ、)
 と言って土間へ出たが、振返ると、若い女(ひと)は泣いていました。露が閃(きら)めく葉を分けて、明石に透いた素膚(すはだ)を焼くか、と鬼百合が赫(かっ)と紅(あか)い。
 その時、峰はずれに、火の矢のように、颯(さっ)と太陽の光が射(さ)した。貴婦人が袖を翳(かざ)して、若い女を庇(かば)いました。……
 あの、鬼の面は、昨夜(ゆうべ)、貴下を罵(ののし)るトタンに、婦(おんな)を驚かすまいと思って、夢中で投げたが――驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人を睨(にら)むよう、濶(かっ)と眼(まなこ)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いて、紫の緒で、真面(まむき)に引掛(ひっかか)っていたのです。……
 お先達、私はどうしたら可(い)いでしょう。」
 と溜息(ためいき)を一度に吐(つ)く――
「ふう、」
 と一時(いっとき)に返事をして、ややあって、
「鬼神に横道はござらんな。」
 と山伏も目を瞬(しばたた)いた。
 で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日と経(た)たぬに、飢(うえ)もしよう、渇きもしよう、炎天に曝(さら)されよう。が、旅人があって、幸(さいわい)に通るとすると、それは直ちに犠牲(にえ)になる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
 心を山伏に語ると、先達も拳(こぶし)を握って、不束(ふつつか)ながら身命に賭けて諸共(もろとも)にその美女(たおやめ)を説いて、悪(あし)き心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽手水(うがいちょうず)して、明王の前に額着(ぬかづ)いて、やがて、相並んで、日を正射(まとも)に、白い、眩(まばゆ)い、峠を望んで進んだ。
 雲から吐出されたもののように、坂に突伏(つっぷ)した旅人(りょじん)が一人。
 ああ、犠牲(にえ)は代った。
 扶(たす)け起こすと、心なき旅人(たびびと)かな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、躓(つまず)いて転んだはずみに、あれと喚(わめ)く。膝から股(また)へ真白(まっしろ)な通草(あけび)のよう、さくり切れたは、俗に鎌鼬(かまいたち)が抓(か)けたと言う。間々ある事とか。
 先達が担いで引返(ひっかえ)した。
 石動の町の医師を託(ことづ)かりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓草(つるくさ)の絆(きずな)も断(た)ったろう……その美女(たおやめ)の、山の麓(ふもと)を辿(たど)ったのである。
明治四十一(一九〇八)年十一月
了

底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
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