あらすじ
ある日、小松原は旅行中に、医学士の家で一泊することになりました。医学士は健康を害し、保養がてら開業しているとのことでした。
小松原は、夜中に薄暗い診察室で、誰かから「開けて下さい」と声をかけられ、目を覚まします。しかし、部屋には誰もいません。
その声は、小松原の記憶の奥底に深く刻まれた、ある女性の幻影のように思え、小松原は深い不安に襲われます。
「ああ、奥さん、」
 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内(まのうち)は真暗(まっくら)で黒白(あやめ)が分らぬ。寝てから大分の時が経(た)ったらしくもあるし、つい今しがた現々(うとうと)したかとも思われる。
 その現々たるや、意味のごとく曖昧(あいまい)で、虚気(うっかり)としていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束(おぼつか)ないが、
「ああ、奥さん、」
 と返事をした声は、確(たしか)に耳に入(い)って、判然(はっきり)聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体(からだ)のどっかが、がっくりと窪(くぼ)んだ気がする。
 そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。――呼んだのは、室の扉(ひらき)の外からだった――すなわち、閨(ねや)の戸を音訪(おとず)れられたのである。
 但し閨の戸では、この室には相応(そぐ)わぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋室(ま)……と云うが、この部落における、ある国手(いしゃ)の診察室で。
 小松原は、旅行中、夏の一夜(ひとよ)を、知己(ちかづき)の医学士の家に宿ったのであった。
 隙間漏る夜半(よわ)の風に、ひたひたと裙(すそ)の靡(なび)く、薄黒い、ものある影を、臆病(おくびょう)のために嫌うでもなく、さればとて、群(むらが)り集(たか)る蚊の嘴(くちばし)を忍んでまで厭(いと)うほどこじれたのでもないが、鬱陶(うっとう)しさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。
 ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被(かぶ)っても、成るべくは、蛍、萱草(かやくさ)、行抜けに見たい了簡(りょうけん)。それには持って来いの診察室。装飾(かざり)の整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足(はだし)で歩行(ある)かれる絨氈(じゅうたん)が敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪(あ)せた、緑の窓帷(カアテン)が絞ってある。これさえ引いておけば、田圃(たんぼ)は近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥(あおむ)かせて、内の国手(せんせい)が聴診器を当てようという、寝台(ねだい)の上。ますます妙なのは蚤(のみ)の憂(うれい)更になし。
 地方(いなか)と言っても、さまで辺鄙(へんぴ)な処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯(がす)が窓越の森に映って、薄ら蒼(あお)くぱっと点(つ)いていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立(つッた)って、捻(ねじ)って、ふっと消した。
「何、この方が勝手です、燧火(マッチ)を一つ置いといて頂けば沢山で。」
 この家(や)の細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅(あか)い扱帯(しごき)、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈(ランプ)をそこへ、……
「いいえ、お馴(な)れなさらないと、偶(ふ)とお目覚めの時、不可(いけな)いもんですよ。夫(やど)でもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可(い)いてって、此室(ここ)へ臥(ふせ)りましてね、夜中に戸迷(とまど)いをして、それは貴下(あなた)、方々へ打附(ぶつか)りなんかして、飛んだ可笑(おか)しかったことがござんすの。
 可笑(おかし)いより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜(よろ)しかったようなものの、私(わたくし)どもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切(きれ)を掛けて蔽(おおい)にしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を極(き)めようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨(がいこつ)に、ぴったり打撞(ぶつか)ったんでございますとさ、厭(いや)ではござんせんかねえ。」
 ……と寝台の横手、窓際に卓子(テエブル)があるのに、その洋燈(ランプ)を載(の)せながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師(せんせい)と対向(さしむか)いになる一脚で、
「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」
 と愛嬌(あいきょう)よく莞爾(にっこり)した。
「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」
「ですから、お気を注(つ)けなさいまし。夫(やど)とは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦(おんな)のだって、言いますから。」

 主人(あるじ)の医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢気(のんき)を専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対談(はなし)が発奮(はず)んで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、
「どうぞ御緩(ごゆっく)り。」
 と洋燈(ランプ)を差置き、ちらちらと――足袋じゃない、爪先(つまさき)が白く、絨氈(じゅうたん)の上を斜めに切って、扉(ひらき)を出た。
 しばらくして、女中が入って来て、
「ここへ、冷水(おひや)をお置き申します。」
 声を聞いたばかり。昼間歩行(ある)き廻った疲労(つかれ)と、四五杯の麦酒(ビイル)の酔に、小松原はもう現々(うとうと)で、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て去(い)ったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一緊(ひとしめ)胸を緊(し)めたほど、顔の上へ暗さが乗懸(のしかか)ったので心着くと、やがて、すうすう汐(しお)が退(ひ)く塩梅(あんばい)に、灯(あかり)が小さく遠くなり、遥(はるか)に見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅入込(めいりこ)んで、ずっと谷底の古御堂(ふるみどう)の狐格子(きつねごうし)の奥深く点(とも)れたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿(たど)る峠から覗(のぞ)く景色か、つい他愛(たわい)がなくなる。
 処を、前に言った、(奥さん)――で目が覚めたが、真暗(まっくら)、洋燈はその時消えていた。
 枕を擡(もた)げて、
「唯今(ただいま)!」
 威勢よく、(開けます)とやろうとする、その扉(ひらき)の見当が附かぬから、臥床(ねどこ)に片手支(つ)いたなり、熟(じっ)と室(ま)の内を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)しながら、耳を傾けると、それ切り物の気勢(けはい)がせぬ。
「はてな、」
 自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立二(りゅうじ)とも、我が姓、我が名(めい)を呼ばれたのでもなければ、聞馴(ききな)れた声で、貴郎(あなた)、と言われた次第でもない。
 とは言え、呼んだのは確(たしか)に婦(おんな)で……しかも目のぱっちりした――
「待て、待て、」
 当人寝惚(ねぼ)けている癖に、他(ひと)の目色(めつき)の穿鑿(せんさく)どころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の清(すず)しい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯向(うつむ)き加減の、就中(なかんずく)、歴然(ありあり)と目に残るのは、すっと鼻筋の通った……
 ここまで来ると、この家(や)の細君の顔ではない。それはもっと愛嬌(あいきょう)があって、これはそれよりも品が優る。
 勿論、女中などに似ようはないと、夢か、現(うつつ)か、朦朧(もうろう)と認めた顔の容(かたち)が、どうやらこう、目前(めさき)に、やっぱりその俯向(うつむ)き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、
「開けて下さい。」
 と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰(さた)も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「他(ほか)に開ける処と言っては、窓だが、」
 さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗込(のぞきこ)んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。
 いや、無いとも限らん――有れば急病人の許(とこ)から駈着(かけつ)けて、門を敲(たた)いても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等閑(なおざり)な田舎の構(かまえ)、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊伸(せいのび)で覗(のぞ)いた奴(やつ)。
 かとも思ったが、どちらを視(なが)めても、何も居(お)らず、どこに窓らしい薄明りも射(さ)さなければ、一間開放した筈(はず)の、帷(カアテン)の戦(そよ)ぎも見えぬ。
 カタリとも言わず……あまつさえ西洋室(ま)の、ひしとあり、寂(しん)として、芬(ぷん)と、脳(ここ)へ染(く)る、強い、湿っぽい、重くるしい薬の匂(におい)が、形ある箔(はく)のように颯(さっ)と来て、時にヒイヤリと寝台を包む。

 渠(かれ)は、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。
 窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある習(ならい)で。どうかすると、青い顔が幾つも重(かさな)って、隙間から差覗(さしのぞ)いて、ベソを掻(か)いたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。――希代なのは、その隙間形(すきまなり)に、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱形(ひしがた)にも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺木(すりこぎ)に足が生えたり、破(やぶれ)障子が口を開けたり、時ならぬ月が出(い)でなどするが、例えば雪の一片(ひとひら)ごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断片(かけら)らしい。
 すると、今見た女の顔は……何に憑(つ)いて露(あらわ)れたろう。
「何だか美しかった。」
 と思出して、今度は悚然(ぞっ)とした。
「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」
 確(たしか)に此家(ここ)の細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……
 と胸の裡(うち)で繰返して、その目と、髪と、色艶(いろつや)と、一つ一つ絡(まと)まり掛けると……覚(おぼえ)がある!
 トンと寝台(ねだい)に音を立てて、小松原は真暗(まっくら)な中に、むっくと起きた。
「馬鹿な。」
 と思わず呟(つぶや)いた。
「何、そんな奴(やつ)があるものか。」
 いや、いや、もしその人だとすれば――三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その俤(おもかげ)は当然(あたりまえ)で、かえって不審(いぶかし)くも凄(すご)くもない筈(はず)。
「開けて下さい、」
 と云った……それそれ、扉(ひらき)を開けるつもりで、目を覚(さま)したに違いはない。
 且つ現(うつつ)から我に返った、咄嗟(とっさ)には、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対手(さき)は何でも、小松原自分の目には、皆(みんな)胸にある、その人の俤(おもかげ)に見えるのかも知れぬ。
「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」
 一体――と渠はまた熟(じっ)と考えた。
 既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、現(うつつ)だったものらしいが。
 窓は開いているし、扉(ひらき)の外は音信(おとずれ)は絶えたり、外に開けるものは、卓子(テエブル)の抽斗(ひきだし)か、水差の蓋(ふた)……
 いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医師(せんせい)が手にかけたという、嬰児(あかんぼ)の酒精(アルコオル)に浸(つ)けたのが、茶色に紫がかって、黄色い膚(はだ)に褐斑(かばまだら)の汚点(しみ)が着いて、ぐたりとなって、狗(いぬ)の児(こ)か鼠の児かちょいとは分らぬ、天窓(あたま)のひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不状(ぶざま)なのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、呀(や)! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七月児(ななつきご)か、六月児(むつきご)か、昼間見た時、医師(せんせい)の説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海鼠(なまこ)のような、またその岩のふやけたような、厭(いや)な膚合(はだあい)、ぷつりと切った胞衣(えな)のあとの大きな疣(いぼ)に似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三個(みッつ)。
 と考え出すと、南無三宝(なむさんぽう)、も一つの瓶には蝮(まむし)が居たぞ、ぐるぐると蜷局(とぐろ)を巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青隈(あおぐま)が凹(くぼ)んで、逆鱗(さかうろこ)の立ったるが、瓶の口へ、ト達(とど)く処に、鎌首を擡(もた)げた一件、封じ目を突出る勢(いきおい)。
「一口どうかね。」
 と串戯(じょうだん)に瓶の底を傾けて、一つ医師(せんせい)が振った時、底の沈澱(よどみ)がむらむらと立って、煙(けむ)のように蛇身を捲(ま)いたわ。
 場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕許(まくらもと)にずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお在(いで)なさらぬ。
 ああ、悪い処へ寝たぞ。
 中にも件(くだん)の長物(ながもの)などは、かかる夜更(よふけ)に、ともすると、人の眠(ねむり)を驚かして、
「開けて下さい。」
 を遣(や)りかねまい、と独りで拵(こしら)えて、独りで苦笑した。

 寝覚(ねざめ)の思いの取留め無さも、酒精浸(アルコオルづけ)の蝮(まむし)が、瓶の口をば開けて給(た)べ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句可笑(おかし)く、幻に見た婦(おんな)の顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り現(うつつ)に見た、と合点が行(ゆ)くと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰向(あおむ)けに、どたりと寝た。
 急に起上ったのであるけれども、さまで慌(あわただ)しくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が極(き)まると、寝台(ねだい)の向(むき)も、室(ま)の工合(ぐあい)も、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲目覗(めくらのぞ)きではあるが、扉(ひらき)、窓、卓子(テエブル)、戸棚の在所(ありどころ)などがしっかり知れる。
 上に、その六月目、七月目の腹籠(はらごもり)、蝮が据置かれた硝子(がらす)戸棚は、蒼筋(あおすじ)の勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚解剖(かいぼう)の図を提げて、隙間一面、晃々(きらきら)と医療器械の入れてあるのがちょうど掻巻(かいまき)の裾(すそ)の所、二間の壁に押着(おッつ)けて、直ぐ扉(ひらき)の横手に当る。そこには明(あかり)取りも何にもないから、仄(ほのか)な星明(ほしあかり)も辿(たど)れないが、昼の見覚(みおぼえ)は違うまい。同じ戸棚が左右に二個(ふたつ)、別に真中(まんなか)にずっと高いのを挟んで、それには真白(まっしろ)な切(きれ)が懸(かか)っていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。茫(ぼう)と天井から一幅(ひとはば)落ちたが、四辺(あたり)が暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明晃々(こうこう)たる器械のありとも見えず、寂(しん)となって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑場(しおきば)とも思われる。
 旅行の袂(たもと)に携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶然(ふと)目に浮べたは可(よ)かったが、たちまち、小松原は胸を打った。
 本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします――しかも婦(おんな)の骸骨(がいこつ)で、その真白(まっしろ)な蔽(おおい)の中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯向(うつむ)いたのが、腰、肩、蒼白(あおじろ)く繋(つな)がって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫陽花(あじさい)の影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。
 もうこの上には、仇(あだ)、情(なさけ)、貴下(あなた)、私も無さそうな形ながら、婦(おんな)というだけ、骨の細りと、胸の辺(あたり)も慎ましやかに、頤(おとがい)を掻込(かいこ)んだ姿を、仔細(しさい)らしく視(なが)めたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一風(ひとかぜ)颯(さっ)と――田舎はこれが馳走(ちそう)という、青田の風が簾(すだれ)を吹いて、水の薫(かおり)が芬(ぷん)とした時、――膳(ぜん)の上の冷奴豆腐(ひややっこ)の鉢の中へ、その骨のどの辺(あたり)かが、薄(うっす)りと浮いて出た。
 それから前(さき)は、……寝しなに細君が串戯(じょうだん)に、
「夜中に出掛けますかも知れません、婦(おんな)だって言いますから。」
 と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその婦(おんな)が来て……
「ほい、蝮(まむし)より、この方が開けてくれに縁がある。」
 いや、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、縁なんぞないのが可(い)い、と枕を横に目を外(そ)らすと、この切(きれ)がまた白い。襟許(えりもと)の浴衣が白い。同一(おなじ)色なのが、何となく、戸棚の蔽(おおい)に、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪路(ゆきみち)のように、天井裏まで見上げさせる。
 小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂々(たらたら)と流したが、大分夜も更けた様子で、冷々(ひやひや)と、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽喉(のど)を掠(かす)める。
 ごほんと、乾咳(からぜき)を咳(せ)いて、掻巻(かいまき)の襟を引張(ひっぱ)ると、暗がりの中に、その袖が一波(ひとなみ)打って煽(あお)るに連れて、白い蔽(おおい)に、襞※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)(ひだ)が入って、何だか、呼吸(いき)をするように、ぶるぶると動き出す。
 目を塞(ふさ)いでも、こんな時は詮(せん)がないから、一層また起直って、確(しか)と、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆病眼(おくびょうまなこ)が震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、瞼(まぶた)がだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。
 ままよ、寝っちまえ! ぐッと引被(ひっかぶ)ると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押立(おった)って、まざまざと屏風(びょうぶ)を立てたように寄って来る。

 さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第低(びく)に、耐力(たわい)なく根を抜いて、すっと掻巻(かいまき)の上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重量(おもみ)が掛(かか)って、うむ、と圧(お)された同然に、息苦しくなったので、急いで、刎退(はねの)けに懸(かか)ると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊着(しめつ)けられているような。
 腕を引っこ抜く勢(いきおい)で、※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)(もが)いて、掻巻をぱっと剥(は)ぐ、と戸棚の蔽(おおい)は、旧(もと)の処にぼうと下(さが)って、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼臭(あおくさ)い、汗蒸(いき)れた匂(におい)が、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。
 疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹籠(はらごも)りで、蒼臭いのは蝮(まむし)の骸(むくろ)、汗蒸れたのは自分であろう。
 そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)す内に、何となくほんのりと、誰だか、婦(おんな)の、冷い黒髪の香がしはじめる。
 香のする方を、熟(じっ)と見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり鬢(びん)が纏(まとま)って、濃い前髪の形らしく見分(みわけ)がつく、と下から捲(まき)上がるごとく、白い切(きれ)が、くるくると小さくなり、左右から、きりりと緊(しま)って、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。
「奥さん!」
 と思わず言って、小松原はまた目を覚した。
 トもまだ心着かないで、
「今、開けます。」
 と言って、愕然(がくぜん)として我に返った。
「また、夢か。」
 今度は目が覚めつつも、まだ、その俤(おもかげ)が室(ま)の中(うち)に朦朧(もうろう)として残ったが、吻(ほ)と吐(つ)く呼吸(いき)にでも吹遣(ふきや)られるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、衝(つ)と失(な)くなる。
 後がたちまち真暗(まっくら)になるのが、白の一重芥子(ひとえげし)がぱらりと散って、一片(ひとひら)葉の上に留(とま)りながら、ほろほろと落ちる風情。
「こりゃ、どうかしているな。」
 現(うつつ)と幻との見境(みさかい)さえ附きかねた。その上、寒気はする、頭(かしら)は重し、いや、耐(たま)らぬほど体が怠(だる)い。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先刻(さっき)より、今は起直る力がない。
 特に我慢のならぬのは、呼吸苦(いきぐる)しいので、はあはあ耳に響いて、気の怯(ひ)けるほど心臓の鼓動が烈(はげ)しくなった。
 手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある筈(はず)、と思いながら、枕を乗出すさえ億劫(おっくう)で、我ながら随意(まま)にならぬ。
 ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が溢(こぼ)したかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音信(おとずれ)ではない。
 陰気な、鈍い、濁った――厭果(あきは)てた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠雨(ぬかあめ)の、その点滴(したたり)が黴(か)びた畳に浸込(しみこ)む時の――心細い、陰気でうんざりとなる気勢(けはい)である。
「水差が漏るのかな……」
 亀裂(ひび)でも入(い)っていたろう。
「洋燈(ランプ)から滲出(しみだ)すのか……」
 可厭(いや)な音だ。がそれにしては、石油の臭(におい)がするでもなし……こう精神が濛(もう)としては、ものの香は分るまい。
 断念(あきら)めるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、頻(しき)りに臭う。湿っぽい、蒼(あお)くさい、汗蒸(いき)れたのが跳廻(はねまわ)る。
「ソレまた……」
 気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の薫(かおり)が颯(さっ)と来た。
「また夢か。」
 いつまで続く、ともうげんなりして、思慮(かんがえ)が、ドドドと地(じ)の底へ滅入(めい)り込む、と今度は、戸棚の蔽(おおい)が纏(まとま)って、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、扉(ひらき)の方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫音(あしおと)。

 その音は――今しがた聞え出した、何かを漏れて、雫(しずく)の落ちる不快な響(ひびき)が、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。
 何しろ、同一(おなじ)方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋燈(ランプ)がそこで消えた卓子(テエブル)の脚を伝(つたわ)って床に浸出す見当で、段々判然(はっきり)して、ほたりと、耳許(みみもと)で響くかとするとまた幽(かすか)になる。幽になって外(おもて)の木(こ)の葉を、夜露が伝うように遠ざかる。――が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ入(い)りつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸出(にじみだ)すか、零(こぼ)れるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。
 しばらく経(た)つと、重さに半ば枕に埋(うず)んで、がっくりとした我が頭髪(かみのけ)が、その※(しぶき)[#「さんずい+散」、U+6F75、282-16]……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘々(ねんばり)とするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天窓(あたま)にあるべくもないが、カランと、櫛(くし)の落ちた音……
 例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに新(あたらし)い音がはじまり、寝台(ねだい)の脚から掻巻(かいまき)の裾(すそ)へかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪先(つまさき)で擦(こす)るでなしに、宙を伝う裙(すそ)から出て、踵(かかと)が摺(す)れ摺れに床へ触るらしく、小股(こまた)に歩行(ある)くほどの間(あわい)を措(お)いて、しと、しと、しと。
 まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は投(なげ)に出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周囲(まわり)を廻って、ぐるりと一周りして枕許(まくらもと)を通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰向(あおむ)けに引落される――はっとすると、もう横手へ退(の)く。
 その内に、窓下の点滴(したたり)が、ますます床へ浸出(しみだ)すそうで、初手は、件(くだん)の跫音(あしおと)とは、彼これ間(あわい)を隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一条(ひとすじ)濡れた路が繋(つなが)ったらしくなると、歩行(ある)く方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。
 これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛々(とびとび)に残っていようも知れぬ。
 飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。
 しとしという尋常らしい跫音(あしおと)が、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら踵(かかと)まで浴(かか)ろう深さ、そうして小刻(こきざみ)に疾(はや)くなったが、水田(みずた)へ蹈込(ふみこ)んで渡るのを畔(あぜ)から聞く位の響き。
 と卓子(テエブル)の上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。――さてもさても夥多(おびただ)しい水らしいが、滝の勢(いきおい)もなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆捲(さかま)かず、走っても迸(ほとばし)らぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨上(あまあが)りの広田圃(ひろたんぼ)を見るような、鮒(ふな)と鰌(どじょう)の洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大河(おおかわ)の出水(でみず)の凄(すご)いに増(まさ)る。
 そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。
 やがて短夜(みじかよ)が……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が注(さ)して、どんよりと光って、卓子(テエブル)の上へ飜った、と見ると、跫音(あしおと)が、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを駈(か)けたが、風か、水か、ざっと鳴る時、婦(おんな)の悲鳴が、
「あッ」
 と云う……
「奥さん。」
 と刎起(はねお)きる、と、起きた正面に、白い姿が、髴(ふつ)とある!
「ああ、夢か。」
 と気が着いたが、まざまざ垂れたその切(きれ)が、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その辺(あたり)が、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。
 あの、雪に、糸一条(ひとすじ)も懸(かか)らぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような衣(きぬ)をぞ絡(まと)う。
 と見ると、乳(ち)の辺(あたり)、胸へ掛けて、無慚(むざん)や、颯(さっ)と赤くなって、垂々(たらたら)と血に染まった。

 枕に響いた点滴(したたり)の音も、今さらこの胸からか、と悚然(ぞっ)とするまで、その血が、ほたほたと落ちて、汐(しお)が引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が萎(しぼ)む、と手と足に蒼味(あおみ)が注(さ)して、腰、肩、胸の隅々(くまぐま)に、まだその白い膚(はだ)が消々(きえぎえ)に、薄(うっす)らと雪を被(かつ)いで残りながら、細々と枝を組んで、肋骨(あばらぼね)が透いて見えた。
「ああ、これだな。」
 と合点が行(ゆ)く。
 途端に、がたがたと戸棚が鳴った。
 自分で正気づいたと、心が確(たしか)になった時だけ、現(うつつ)の婦(おんな)の跫音(あしおと)より、このがたがたにもう堪(たま)らず、やにわに寝台(ねだい)からずるずると落ちた。
 小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先刻(さっき)から電燈(でんき)で照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶予(ためら)いもせず、ズシンと身体(からだ)ごと扉(ひらき)の引手に持って行(ゆ)くと、もとより錠を下ろしたのではない。
 ドンと開(あ)く。
 扉に身体(からだ)が附着(くッつ)いて、発奮(はず)んで出たが、跨(また)いだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑婆(しゃば)へ踏掛けた体(てい)で、独(ひとり)で※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)(もが)いて、どたんばたん、扉の面(おもて)と、や、組んだりける。
 この物音に、驚破(すわや)と奥で起直って、早や身構(みがまえ)をしたと見える――慌(あわただ)しい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな響(ひびき)がまた聞えたのに、堪(たま)りかねて主人(あるじ)を呼ぶと――向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと射(さ)していた灯(あかり)が動いて、直ぐに台附の洋燈(ランプ)を手にした、浴衣の胸のはだかった、扱帯(しごき)のずるずるとある医師(せんせい)が、右を曲って、正面へ。
 開放した障子を洩(も)れて、だらりと裾(すそ)を引いた萌黄(もえぎ)の蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、
「便所か。」
 と云う、髯(ひげ)、口許(くちもと)が明々(あかあか)として、洋燈(ランプ)を翳(かざ)す。
 この明(あかり)で、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎垂(しょぼた)れた、腰の据(すわ)らぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼母(たのも)しさ。顔を見ると、蘇生(よみがえ)った心地で、
「やあ。」と掛けた声が勢(いきおい)なく中途で掠(かす)れて、
「夜更けに恐縮、」
 とやっと根こそぎに室(へや)を離れた。……扉(ひらき)を後(うしろ)ざまに突放せば、ここが当館(やかた)の関門、来診者の出入口で、建附に気を注(つ)けてあるそうで、刎返(はねかえ)って、ズーンと閉る。
 と突出された体(てい)にしょんぼり立って、
「どうも、何だ、夜夜中(よるよなか)、」
 医師(せんせい)は亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切頓着(とんじゃく)なく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対向(さしむかい)になる時、傍(かたわら)の玄関の壁越に凄(すさま)じい鼾(いびき)を聞いて、
「壮(さかん)だ、壮だ。」
 と莞爾(にっこり)する。
 顔色(かおつき)が、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼覚(よびさま)されて、眠いに迷惑らしい様子もないので、
「どうも気の毒です。酷(ひど)い目に逢ってね。」
 といささか落着く。
 医師(せんせい)は立(たち)はだかりつつ、
「どうした、蚊軍(ぶんぐん)の襲来かい。」
 なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、
「ええ、」
 といかにも気が利かない。
「蚊に城を破られたかよ。」
「そこどころか。」
 対手(あいて)の余り暢気(のんき)なのが、この際怨(うら)めしく思われた。
「この中は大変だ。」
「大変だ?」
「何か来たんだ。」
「何、入って来たか、」
 と洋燈(ランプ)を上げて、扉(ひらき)の上を、ぐいと仰ぐ。
「がたがた遣(や)ってる。」
 小松原は、ずうっと医師(せんせい)に身を寄せる、と目を返して、今度はその体(てい)をじろじろ視(なが)めて、
「震えてるね、君は。」

「どうだい、心持は。もう爽快(さっぱり)したろう。」
 主人(あるじ)の医師(せんせい)は、奥座敷の蚊帳の中に、胡坐(あぐら)して、枕許(まくらもと)の煙草(たばこ)盆を引寄せた。
「こういう時は、医師(いしゃ)の友達は頼母(たのも)しかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡萄酒(ぶどうしゅ)でも薬局で喇叭(らっぱ)を極(き)めると、何となく難有味(ありがたみ)が違って、自(おのずか)ら精神が爽快(そうかい)になります。しかし怯(おび)えたっけ、ははは。」
 と髯(ひげ)を捻(ひね)って、冴々(さえざえ)しい。
 蚊がぶうんと唸(うな)って、歯切(はぎしり)もどこかでする。灯(あかり)の暗い、鬱陶(うっとう)しかるべき蚊帳の内も、主人(あるじ)がこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。
 小松原は、裾(すそ)を細う、横に手枕で気を休めていた。
「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、遁(に)げるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」
 咽喉(のど)を斜(ななめ)に手を入れて、痩(や)せた胸を圧(おさ)えながら、
「見たまえ、いまだにこの動悸(どうき)を、」
「色は白くっても、野郎の癪(しゃく)を圧(おさ)えたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」
「ふ、ふ、」
 と力抜けた声で笑って、
「奥さんは?」と俯向(うつむ)けに額を圧える。
「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小児(こども)の奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、大(おおき)に台所の内諭(ないゆ)なきにしもあらずだろうが。
 そこで、先刻(さっき)、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。――空鉄砲(からでっぽう)の機会(きっかけ)もなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思入(おもいいれ)があったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。
 君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」
 折から陽気にという積りか、医師(せんせい)の言は、大(おおい)に諧謔(かいぎゃく)の調を帯びたが、小松原はただ生真面目(きまじめ)で、
「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」
「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道好(よ)くない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝台(ねだい)だもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。
 しかしそれにしてもあんまりな怯(おび)え方だ。夢を見て遁出(にげだ)すなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵倒(ばとう)するわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串戯(じょうだん)じゃない、病気になる。
 そんなのが嵩(こう)じると、何も餅(もち)屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真昼間(まっぴるま)でも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。傍(はた)から見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。
 何も、朦朧(もうろう)と露(あらわ)れたって、歴々(ありあり)と映ったって、高が婦(おんな)じゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」
「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周囲(まわり)を歩行(ある)いたんだが、そう、どっちにしても婦(おんな)らしく思われた――それがすぐに、息の詰るほど厭(いや)な心地(こころもち)だったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに鯰(なまず)でも湧出(わきだ)しそうな、泥水の中へ引摺込(ひきずりこ)まれそうな気がしたんで、骨まで浸透(しみとお)るほど慄然々々(ぞくぞく)するんだ。」
 と肩を細うして、背(せな)で呼吸(いき)をする。
「男らしくもない、そんな事を言って梅雨期(つゆどき)はどうします、まさか蓑笠(みのかさ)を着て坐ってやしまい。」
「うむ、何、それがただのじとじとなら可(い)いけれど、今云う泥水の一件だ、轟(ごう)と来た洪水か何かで、一思(ひとおもい)に流されるならまだしもです――灯(あかり)の消えた、あの診察処(じょ)のような真暗(まっくら)な夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨(ぬかあめ)の中に、ぐしゃりと水のついた畔道(あぜみち)に打坐(ぶっすわ)って、足の裏を水田(みずた)のじょろじょろ流(ながれ)に擽(くす)ぐられて、裙(すそ)からじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」
 と力強く云って、また小松原は溜息(ためいき)で居る。

 医師(せんせい)は徐(おもむろ)に、煙草盆を引寄せて、
「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで可(よ)かろう。何も真暗(まっくら)な夜、田圃(たんぼ)の中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を擽(くすぐ)られて、腰から冷通(ひえとお)るとまで、こじつけずともの事だ。その気でお膳(ぜん)に向った日にゃ、お汁(つけ)の湯気が濛々(もうもう)と立騰(たちのぼ)ると、これが毒のある霧になる、そこで咽死(むせじに)に死にかねませんな。」
「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆病(おくびょう)です。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄想(もうぞう)した訳ではありません。
 実際、そんな目に逢って、一生忘れられん思(おもい)をした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥立(よだ)つ。」
 フイと起返って、蚊帳の中を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)したが、妙に、この男にばかり麻目が蒼(あお)い。
 医師(せんせい)は落着いて、煙を吹かして、
「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」
「ううむ。」
 と深く頭(かぶり)を振って、
「いつかの時さ、あの一件の……」
 と言懸けて、頬のこけた横顔になって打背(うちそむ)いた。――小松原の肩のあたりから片面(かたおも)の耳朶(みみたぶ)かけて、天井の暗さが倒(さかさま)に襲ったのを、熟(じっ)と見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと頷(うなず)いた。
 当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど前(さき)に、七十五日も通越したから、更(あらた)めて思出すほどでもなし、おいそれと言(ことば)に従(つ)いて、極(きま)りの悪い思(おもい)をさせるでもなかろう。で、一向無頓着(むとんじゃく)に、
「何だい、いつかの一件とは?」
「面目次第も無い件(こと)さ。三年前(ぜん)だ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損(そく)なった、その時なんです。」
「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」
 と云う内に自(おのず)から真心が籠(こも)って、
「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴切(どうぎり)にされたって承合(うけあい)助かる。洒落(しゃれ)にちょいと轢(ひ)かれてみるなんぞも異(おつ)だがね、一人の時は危険だよ。」
 わざと話に、一人なる語(ことば)を交えて、小松原が慚愧(ざんき)の念を打消そうとするつもりだった。
 ところが案外! この情(なさけ)に、太(いた)く動かされた色が見えたが、面(おもて)を正しゅう向直った。
「何とも――感謝する。古疵(ふるきず)の悩(なやみ)を覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは真(まこと)に嬉しい、難有(ありがた)いが……それでは怨(うらみ)だ。
 ねえ。
 あれほどの騒ぎだもの。ことに自惚(うぬぼれ)らしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん振(ふり)をしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余処(よそ)の夫人を誘って、心中を仕損(しそくな)った、とそう思っているからです。
 勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」
 と俯向(うつむ)いて腕を拱(こまぬ)き、
「その君の情(なさけ)ある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」
 医師(せんせい)は潔く、
「承わろう。今更その条道(すじみち)を話して聞かせる……惚気(のろけ)なら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴(ぐち)なら男らしくもない、止(よ)したまえ――だが、私たちが誤解をしているんなら、大(おおい)に弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」
「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」
「可(い)いじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師(いしゃ)には秘密を打開(うちあ)けて可(い)いもんだ。」
「…………」
 言淀(いいよど)んで見えたので、ここへ来い、と構(かまえ)を崩して、透(すき)を見せた頬杖(ほおづえ)し、ごろりと横になって、小松原の顔を覗込(のぞきこ)みつつ、
「で、何か、その晩、田圃(たんぼ)に坐ったのか。」
 と軽く扱(あしら)って誘(さそい)を入れた。

「まあ、坐ったんだ。」
 小松原は苦笑して頬を撫(な)でたが、寂しそうに打傾き、
「土下坐(どげざ)をしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」
「またどうしてだい。」
 と医師(せんせい)は寛(くつろ)いだ身の動作(こなし)で、掻巻(かいまき)の上へ足を投げて、綴糸(つづりいと)を手で引張(ひっぱ)る。
「それがね、」
と熟(じっ)と灰吹を見詰めてから、静かに巻莨(まきたばこ)を突込(つッこ)みながら、
「はじめは何でもない事だった。――何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」
「あの人ッて?」
「…………」
「ははあ、対手(あいて)の貴婦人だね。」
「そんな事を言わないで、」
 と吸口をもっと突込(つッこ)む。
「可(い)いじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」
「何、貴婦人に違いはないが、その対手(あいて)が悪い。」
「可(よ)し、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」
「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人(なこうど)で結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越(みしりごし)でいたのだった。
 ちょうど戦争のあった年でね。
 主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才(みッつ)だった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳(せき)が出て、塩梅(あんばい)が悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可(い)い、場所は、と云って此地(ここ)を、その主治医が指定したというもんです。
 小児(こども)の病気とはいいながら、旅館と来ると湯治(とうじ)らしく、時節柄人目に立つ。新(あらた)に別荘を一軒借りるのも億劫(おっくう)だし、部屋借(がり)が出ず入らず、しかるべき空座敷(あきざしき)があるまいか、と私が此地(こっち)に居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。
 そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃(たんぼ)の方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商(あきない)も大きく遣(や)っている、家主の人柄も可(よ)し、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。
 直ぐに極(き)めて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場(ステエション)へ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。
 五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣(ひとえ)に羽織を被(き)て、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠(とじこも)っていた処……その日は朝から雨が上(あが)って、昼頃には雲切(くもぎれ)がして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空(あおぞら)は見えなかったが、多日(しばらく)ぶりで、出歩行(である)くに傘は要らない。
 小児(こども)を歩行かせるには路(みち)が悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜(はす)っかいに私の前二階を覗(のぞ)いて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、
(お出掛けなさいませんか。)
 と浜を誘いに見えるだろう。
(小松……君。)
 と原抜きにして、高慢に仇気(あどけ)なく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。
 その内、湯に入ると、薄(うっす)りと湯槽(ゆぶね)の縁へ西日がさす。覗(のぞ)くと、空の真白(まっしろ)な底に、高くから蒼空が団扇(うちわ)をどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲(かこい)の外を、
(水が出たぞ。)
(田圃一面。)
 と饒舌(しゃべ)って通った。
 これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌(ろく)に手拭(てぬぐい)も絞らないで、ふらんねるを引(ひっ)かけたなり、帽子も被(かぶ)らずに、下駄を突掛(つッか)けて出たんだがね。」――

「汎水(でみず)だ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈出(かけだ)して見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……
 董(すみれ)、茅花(つばな)の時分から、苗代、青田、豆の花、蜻蛉(とんぼ)、蛍、何でも田圃が好(すき)で、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案山子(かかし)の船頭。芋※(ずいき)[#「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384、298-6]の靡(なび)く様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔(ひえまき)染みた考えで、深山大沢(しんざんだいたく)でない処は卑怯(ひきょう)だけれど、鯨(くじら)より小鮒(こぶな)です、白鷺(しらさぎ)、鶉(うずら)、鷭(ばん)、鶺鴒(せきれい)、皆(みん)な我々と知己(ちかづき)のようで、閑古鳥よりは可懐(なつかし)い。
 山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。
 いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、可(いい)心持に、すっと足を伸(のば)す、背(せなか)が浮いて、他愛(たわい)なくこう、その華胥(かしょ)の国とか云う、そこへだ――引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌黄色(もえぎいろ)の葉の茂ったのが、上へかかって、その樺色(かばいろ)の根を静(しずか)に洗う。藍(あい)がかった水の流(ながれ)が、緩く畝(うね)って、前後(あとさき)の霞んだ処が、枕からかけて、睫(まつげ)の上へ、自分と何かの境目(さかいめ)へ露(あらわ)れる。……
 トその樹の下に、笊(ざる)か何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、掬(すく)ってる小児(こども)がある。其奴(そいつ)が自分で。――ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身節(みふし)がなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小濁(ささにご)りに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ溢(あふれ)るんだがね、その土手が、城趾(しろあと)の濠(ほり)の石垣らしくも見えれば、田の畔(あぜ)のようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽炎(かげろう)が絡(まつわ)る形に、その水の増す内が、何とも言えない可(い)い心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶上(せりあが)ると、土手の上で、――ここが可訝(おか)しい――足の白い、綺麗(きれい)な褄(つま)をしっとりと、水とすれすれに内端(うちわ)に掻込(かいこ)んで、一人美人が彳(たたず)む、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍惚(うっとり)……
 すやすや寝ます。
 枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で賺(す)かされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける――それでも、散らかって、絡(まと)まらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。
 そこで、大好きな田圃の中でも、選分(えりわ)けて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨上(あまあが)りにちっと水が殖(ふ)えて、畔へかかった処が無類で。
 取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。――本人にも一向掴(つかま)え処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日中(ひなか)だか、それさえ曖昧(あいまい)で、ただ見える。
 さあ、模様が誂向(あつらえむ)きとなったろう――ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商家(あきんどや)の前を通るんだったよ。
 店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その門(かど)を見ると、小児(こども)が遊んでいたらしく、めんこが四五枚、散(ばら)に靴脱ぎのたたきの上へ散(ちらか)って、喇叭(らっぱ)が一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈出(かけだ)したか、格子戸が開放(あけっぱな)し、框(かまち)の障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。
 その格子戸の潜(くぐり)の上へ手を掛けて、
(健ちゃん、)
 と呼んでみたが、黙っていた。
(居ないの。お留守、)
 と遣(や)ると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫音(あしおと)がして、でも、黙然(だんまり)で、ちょいと顔だけ見せて覗(のぞ)いたが、直ぐに莞爾(にっこり)して、縁側を奥座敷へ上(あが)った姿は……
 帯なし、掻取(かいど)り気味に褄(つま)を合せて、胸で引抱えた手に、濡手拭(ぬれてぬぐい)を提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞爾(にっこり)すると、……」
「謹聴、」
 と医学士(せんせい)が唐突(だしぬけ)に云った。
「真面目だよ、真面目だよ。」

「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の可(い)い顔を、ほんのり薄紅(うすべに)の注(さ)した美しい耳許(みみもと)の見えるまで、人可懐(ひとなつッこ)く斜めにして、
(失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)
 と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸々(のびのび)と寛容(ゆったり)して、串戯(じょうだん)の一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急込(せきこ)んで、
(田圃へ行って見ませんか、)
 と何のあしらいもなく装附(もりつ)けた。
(は、参りましょう、)
 と頷(うなず)いて、台所の方を振返りながら、
(ちょいと、御免なさいよ。)
 支度を、と断るまでもなく、平常着(ふだんぎ)のままで出は出たが、――その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。裙(すそ)が落ちて、畳に颯(さっ)と捌(さば)けると、薄色の壁に美しく濡蔦(ぬれづた)が搦(から)んで絵模様、水の垂りそうな濡毛(ぬれげ)を、くっきりと肱(ひじ)で劃(くぎ)って、透通るように櫛(くし)を入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった――勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです――あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化粧(つくり)をする事もなかろう。
 熟(じっ)と見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を掠(かす)めて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……膚(はだ)の白い人だっけ。
 直ぐにそれは消えたけれど、今のその褄(つま)はずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……
 ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。
 何に誘われて出たんだか、――とうとうあんな酷(ひど)い目に逢う原因(もと)だったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、――いや、夢じゃない、我が心に、誘出(さそいだ)されたものかと思う。」
 小松原は、現(うつつ)のように目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)って、今向直って気を入れた、医師(せんせい)の顔を瞻(みまも)りながら、
「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか頻(しき)りにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小児(こども)の時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。
 それにね、そんな風で停車場(ステエション)へ迎いに行って、連れて来て、家(うち)も案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩行(ある)いて、台所の俎(まないた)、摺鉢(あたりばち)の恰好(かっこう)まで心得てるような関係になっていたから、夏の中(うち)も随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで――また小児のために、それが何よりの目的なんでね。
 来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬丁(べっとう)と、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮炊(にたき)が間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御馳走(ごちそう)になった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。
 一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を極(きま)って、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真中(まんなか)へ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば埒(らち)は明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開閉(あけたて)一つで往来(ゆきき)の出来る、家主の店へ頼んで、一足後(おく)れ馳(ば)せにでも、
(坊ちゃん)……か何かで、直ぐに追着(おッつ)く。
 だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。
 浜に人影がなくなって、海松(みる)ばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手遊(おもちゃ)のバケツを振提(ぶらさ)げると、近所の八百屋へ交渉して、豌豆豆(えんどうまめ)を二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。磯(いそ)へ出ると、砂を穿(ほ)って小さく囲って、そこいらの燃料(もえくさ)で焚附(たきつ)ける。バケツへ汐汲(しおくみ)という振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ薄(うっす)りと煙が靡(なび)くと、富士を真正面(まっしょうめん)に、奥方もちっと参る。が、落日に対して真(まこと)に気高い、蓬莱(ほうらい)の島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が随(つ)いていたのに。」

「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、
(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。
(そこいらに居ましょう。)
 と藤色の緒の表附(おもてつき)の駒下駄(こまげた)を、紅(べに)の潮(さ)した爪先(つまさき)に引掛(ひっか)けながら、私が退(の)いた後へ手を掛けて、格子から外を覗(のぞ)いた、門(かど)を出てからで可(よ)さそうなものを、やっぱり雨に閉籠(とじこも)った処を、四五日振りの湯上りで晴々(せいせい)して、戸外(おもて)へ出るのが嬉しくって、気が急(せ)いたものらしかった。
 帯もざっとした引掛(ひっかけ)結びで、
(おや、居ませんか?)
 ッて蓮葉(はすは)に出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込(のぞきこ)んで、
(健ちゃん、健ちゃんや。)
 と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児(こども)の声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切(ぼうちぎれ)を持って健坊が顔を出した。田圃(たんぼ)へお出(い)で、と云うと、
(厭(いや)だべい。)
 で突掛(つッかか)るように刎附(はねつ)ける、同じ腕白夥間(なかま)に大勢馴染(なじみ)が出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒(まっくろ)になった。母様(かあさん)がまたこれを大層喜んでいたもんです。
(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)
(うん、)
 と云うと、わっと吶喊(とき)を上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋(とりごや)の前で、健ちゃんは素飛(すっと)ぶ。
(お庇様(かげさま)で、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)
 と嬉しそうに見えて、
(どちらへ?)と聞く。
(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)
 百姓家二三軒でもう畷(なわて)だが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方(かたっぽ)に田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝(あぜづた)いに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう――もっとも汎水(でみず)と云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行(あるき)を通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。
 路は悪かった。所々の水溜(みずたまり)では、夫人(おくさん)の足がちらちら映る。真中(まんなか)は泥濘(ぬかるみ)が甚(ひど)いので、裙(すそ)の濡れるのは我慢しても、路傍(みちばた)の草を行(ゆ)かねばならない。
 停車場(ステエション)は、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光(しろびかり)に光って、夜になると蒼(あお)く燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田(みずた)の方へ、むらむらと斑(まだら)に飛ぶ。が海を抱(いだ)いた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一拭(ぬぐ)い拭(ぬぐい)を掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果(はて)と思う処に、あるかなし墨を引いた曇(くもり)が亘(わた)って、驚破(すわ)と云うとずんずん押出して、山の雲と一絡(まと)めにまた空を暗闇(くらやみ)にしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯(ともしび)の影も見られなそうな夕暮だった。
(もう、お天気になりましょうね。)
(さあ、)
 とは云ったがどうも請合いかねる。……明白(あからさま)に云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭(あ)き厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。
 風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢(あふ)れた水が田へ被(かぶ)るそれらしかった。
 踏切を渡ると、鴉(からす)が一羽……その飛んだ事ったら――吃驚(びっくり)したほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端(は)か、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気(あまけ)が深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。
 もう少し隧道(トンネル)の方へ行(ゆ)くと、あすこに、路の真中(まんなか)に、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭(ぼうぐい)のように欄干がついて、――あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色(かわらいろ)に濁ったのが、どうどうとただ一幅(ひとはば)だけれども畝(うねり)を立てて、橋の底へすれすれに凄(すさま)じいほど流れている。いつもは俯向(うつむ)いて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩(かさ)増して、薄(すすき)の葉が瀬を造って、もうこれで充満(いっぱい)と云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣(や)ってた。」

「この水が、路端(みちばた)の芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物凄(ものすご)い渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人立(ひとだち)がして、明(あかる)い雲の下に、海の方へ後向(うしろむき)に、一筆画(ひとふでがき)の墨絵で突立(つッた)つ。蓑(みの)を脱いで手に提げて鍬(くわ)を支(つ)いた百姓だの、小児(こども)を負(おぶ)った古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。
 見ると、堪(たま)らなく嬉しくなった。
(さあ、こうしておいでなさい。)
 と畦(あぜ)を踏分けて跡をつけては、先へ立って、畠(はたけ)を切れて、夜は虫が鳴く土手を上(あが)ったが、ここらはまだ褄(つま)を取るほどの雫(しずく)じゃなかった。
 線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲穂(いなぼ)の分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細流(せせらぎ)が蜘蛛手(くもで)に走る。二三枚空が映って、田の白いのは被(かぶ)ったらしい。松があって雑樹が一叢(ひとむら)、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が溢(あふ)れていよう。
(もうこれだけかね、)
 甚だ怪(け)しからん次第だったけれども、稲の上を筏(いかだ)ででも漕(こ)いでくれたら、と思って、傍(そば)に居た親仁(おやじ)に聞くと、
(汐(しお)が上(あが)ったら、まっと溢(かか)るべい。)
 と、腕組をして熟(じっ)と視(なが)める。
 成程、漁師町を繞(めぐ)ったり、別荘の松原を廻ったり、七八(ななや)筋に分れて、また一ツになって海へ灌(そそ)ぐが、そこ行(ゆ)くとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が注(さ)そう。
 と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の端(はな)から※(ぱっ)[#「火+發」、U+243CB、308-10]と雲を射たが、親仁の額も赫(かっ)となれば、線路も颯(さっ)と赤く染まる。稲を潜(くぐ)って隠れた水も、一面に俤立(おもかげだ)って紫雲英(げんげ)が咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白帆(しらほ)も行(ゆ)きそうだった。
 またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝染(どぶぞ)めに暮れかかると、次第に褪(あ)せて行(ゆ)く茜色(あかねいろ)を、さながら剥(は)ぎたての牛の皮を拡げた上を、爪立(つまだ)って歩行(ある)くような厭(いや)な心持がするようになっちまった。
 ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを危(あぶな)っかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨(ひとまた)ぎで、漁師町の裏へ上(あが)ろうとする処で、思いがけなく行(ゆ)きついたろうではないか。」
「ふん、どうしてだい。」
 と医師(せんせい)は枕を抱く。
 小松原は一息ついて、
「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手拭(てぬぐい)を当てても堰留(せきと)められそうな、田の切目(きれめ)が、薬研形(やげんなり)に崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁水(にごりみず)の渦を巻く。ここでは稲が藻屑(もくず)になって、どうどう流れる。もっとも線路から段々下(さが)りに低いからね。山の裾(すそ)で取囲んだ浜田ありたけの溢(あふ)れ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の畦(あぜ)の処に、漁師の子が三人ばかり、素裸(すっぱだか)で浸っていたろう。
(どうだ深いか。)
 と一ツ当って見ると、己(おれ)達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突懸(つッかか)り気味に、
(深え。)
(二丈(ふたたけ)の上あるぜ。)
 と口を尖(とん)がらかしたも道理こそ。此方(このほう)づれの体(てい)は、と見ると、私が尻端折(しりぱしょり)で、下駄を持った。あの人もまた遣附(やりつ)けない褄(つま)を取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣足(はだし)で、びしょびしょと立った所は、煤払(すすはき)の台所へ、手桶(ておけ)が打覆(ぶっかえ)った塩梅(あんばい)だろう。」
 この時一所に笑い出したが。
「ね、小児(こども)だって、本場の苦労人(くろうと)が裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。
 が、まだ威(おど)かしではないか、と思う未練があった。――処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の前(さき)へ、ぶっくり浮いた河童小僧(かっぱこぞう)。
 おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一条(ひとすじ)仰向(あおむ)けに水を噴(ふ)いた……深いんです。
 どうもこれにゃ逡巡(たじろ)いで、二人で顔を見合せたんだ。」

「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど可(い)いくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。
 さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草鞋掛(わらじがけ)ででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。
 それ、今言った通り跣足(はだし)です。なるだけ水の上の高い処を、と拾って畦(あぜ)を伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥濘(ぬかるみ)で辷(すべ)る、乾いた処ちっともなし。……
(お危のうございますよ。)
(は、大丈夫、)
 と声を掛けて、やっと辿(たど)ったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと薪(まき)を倒したほどの足掛(あしかけ)が架(かか)っているが、たださえ落す時分が、今日の出水(でみず)で、ざあざあ瀬になり、どっと溢(あふ)れる、根を洗って稲の下から湧立(わきた)つ勢(いきおい)、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、
(お手をお取り申しましょうかね。)
 と一畦離れていて云うと、
(是非、どうぞ。)
 なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水溜(みずたまり)へ片足踏込んで、私が前(さき)へ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣足(はだし)、湯上りの足は泥だらけで――ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩行(ある)いてる内に綺麗に落ちる、その位皆(みんな)水です。
 で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足許(あしもと)も悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……
 とこの時……
 薄(うっす)り路へ被(かか)った水を踏んで、その濡色(ぬれいろ)へ真白(まっしろ)に映って、蹴出(けだ)し褄(づま)の搦(から)んだのが、私と並んで立った姿――そっくりいつも見る、座敷の額の画(え)に覚えのあるような有様だった――はてな、夢か知らん……と恍惚(うっとり)となった。
 ざあざあ、地(じ)の底を吹き荒れる風のような水の音。
 我に返って、密(そっ)と顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。
(ここは通れません。)
(引返しましょう。)
(飛んだ御案内をしてお気の毒です。)
(いいえ、おもしろうござんすよ。こんな奇(うま)い態(なり)をして。)
 と美しく微笑(ほほえ)みながら、
(いっそ袂(たもと)を担ぎましょうか。)
 この元気だから。どうやら水嵩(みずかさ)[#ルビの「みずかさ」は底本では「みづかさ」]も大分増して、橋の中ほどを、蝦蟇(がま)が覗(のぞ)くように水が越すが、両岸の杭(くい)に結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背後(うしろ)から片手をかけて。
 それから――前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに畝(うね)って流れる、小川の両方に生被(おいかぶ)さった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、累(かさな)り累り、所々煽(あお)って、高い所を泥水が走りかかって、田も畑(はた)も山も一色(ひといろ)の、もう四辺(あたり)が朦朧(もうろう)として来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。
 人は一人も居(お)らず、……今渡った橋は、魚(うお)の腹のように仄白(ほのじろ)く水の上へ出ているが、その先の小児(こども)などは、いつの間にか影も消えていた。
(小松原さん。)
 とあの人が、摺寄(すりよ)って、
(もう一つの路はどうでしょうかしら。)
 と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。
 もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を行(ゆ)く、その川縁(かわべり)を蘆(あし)の根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、汐(しお)はこの方が余計に注(さ)すから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、
(行って見ましょう。)
 と歩行(ある)き出して、向(むき)を代えて、もう構わず、落水(おちみず)の口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで上(あが)ると、片側が蘆の茂りで。」

「透かした前途(ゆくて)に、蘆の葉に搦(から)んで、一条(ひとすじ)白い物がすっと懸(かか)った。――穂か、いやいや、変に仇光(あだびか)りのする様子が水らしい、水だと無駄です。
(ここにいらっしゃい。)
 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越(はねこ)え、跳越え、倒れかかる蘆(あし)を薙立(なぎた)てて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆(がっかり)した。線路から眺めて水浸(みずびたし)の田は、ここだろう。……
 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐(しお)が上げているんだから流れはせん。薄い水溜(みずたまり)だ、と試みに遣(や)ってみると、ほんの踵(かかと)まで、で、下は草です。結句、泥濘(ぬかるみ)を辷(すべ)るより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥(おびただ)しい、畦(あぜ)が十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。
 早や暗くなって、この田圃(たんぼ)にただ一人の筈(はず)の、あの人の影が見えない。
 浜で手鍋(てなべ)の時なんかは、調子に乗って、
(お房さん。)
 と呼んだりしたが、もう真(しん)になって、
(夫人(おくさん)!)
 と慌てて呼んだ。
(はーい。)と云う、厭(いや)に寂しい。
 声を便りに駈戻(かけもど)って、蘆がくれなのを勇んで誘い、
(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)
 誰も落着いてはいないのを、汝(うぬ)が周章(あわ)てて捲立(まくした)てて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。
 路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中(まんなか)へ立った姿で、何だか幻の中を行(ゆ)く、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美(うつくし)い色が、薄濁った水に映った――」
 小松原は歯を噛(か)んで言渋ったが、
(先方(さき)でも、手を出した……それを曳(ひ)こうと思った時……
 私はぎょっとした。
 つい目の前を、足に絡(から)んだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力(そこぢから)のあるのが、一筋、褐色(かばいろ)の鱗(うろこ)を立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕(あらわ)れたんだ。
 ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢(いきおい)だからもう不可(いけな)い。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽(あおり)を打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々(おいでおいで)を極(き)めてるなんざ、情(なさけ)なかろうではないか。
 しかも幅一間とは無いんだよ。
(不可(いけ)ないのねえ。)
(駄目です、)
 と言ったきり。だって口惜(くや)しかろう。その川一条(ひとすじ)の前途(さき)は、麗々と土が出て、薄(うっす)りと霧が這(は)って、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨(にら)み詰めて立っていた。」
 医師(せんせい)はむくむくと起きて、平胡坐(ひらあぐら)で、枕を頤(おとがい)に突支(つッか)って、
「いや、散々、散々、お察し申すな。」
「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向(はしむこう)へ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠(ほ)える、吠える! うう、と唸(うな)る、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄(すご)かった。
(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)
 と低声(こごえ)で、あの人が言う。
(なぜ。)
 と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行(ある)き出した。
 現在犬に怪(あやし)まれているんです……漁師村を表(おもて)に、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。
 が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、
(一奮発遣附(やッつ)けましょう。)
 と勇(いさみ)が出た。」

「その努力で、蘆の中だけは潜(くぐ)り抜けて、旧(もと)の方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか畦(あぜ)だか覚束(おぼつか)なく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから轟(ごう)と鳴る、心細さといったら。
 川筋さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]避(よ)けて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛々(とびとび)の黒い影も見えなくなって、後は水田(みずた)の暗夜(やみ)になった。
 時に……急(あせ)ったせいか、私の方が真先(まっさき)に二度辷(すべ)った、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に這(は)った。
(あれ、お危い。)
 と云う人を、こっちが、
(お気を注(つ)けなさらないと、)
 この通り、ト仕方で見せて、だらしなく起(た)つ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙然(だんまり)、そら解(どけ)がしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。
 気が付いて、
(穿物(はきもの)を持って上げましょう、)
 と注意すると、
(はい、いいえ、可(よ)うござんす。)
 と云ったが、しばらくして、
(流れてしまったようですよ。)
 成程、畦(あぜ)の切口(きれぐち)らしい、どっと落ちるんだ。
(飛んだ事をなさいました。)
(いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)
 愚図々々(ぐずぐず)していたので、
(可(い)いんですよ、構やしない。)
 とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が可(い)い。が、私が猶予(ためら)ったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔失(な)くなしている。――実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大概(おはず)に着いてたけれども、踏処(ふみどころ)が悪いと水田へ陥(はま)る。
 果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と胆(たん)を据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突込(つッこ)んだ。
(あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。
 お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥土(めいど)へ来たのかと思った。あの広場(ひろっぱ)を手探りでどうするもんかね。……
 背後(うしろ)の足弱(あしよわ)が段々呼吸(いき)づかいが荒くなってね、とうとう、
(ちっと休みましょう。)
 と言い出した[#「言い出した」は底本では「言ひ出した」]。雪路以上、随分へとへとに揉抜(もみぬ)いたから。
 私は凭懸(よっかか)るものもなく、ぼんやり暗(やみ)の中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤立(おもかげだ)つ。
(腰を掛けたんですか。)
(ええ、)と云う。
(濡れていましょう。)
(ええ、何ですか、瀬戸物の欠(かけ)がざくざくして、)
 私は肚胸(とむね)を突いたんだ。
(不可(いけな)い! 貴女(あなた)、そりゃ塵塚(はきだめ)だ。)
 と云う内にも、襤褸切(ぼろぎれ)や、爪(うり)の皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない芥(あくた)が目に浮ぶ。
(でも水の上よりは増(まし)ですわ。)
 と断念(あきら)めたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば諸(もろ)ともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺抜(すりぬ)けようとしたけれども、頬擦(ほおず)るばかりの鬢(びん)の薫(かおり)に。……
 ここで、真(まこと)に相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身体(からだ)に触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣足(はだし)にさせ、夜露に打たせて……羅綾(らりょう)にも堪えない身体(からだ)を、と言おうとして、言いようがないから、
(荒い風にもお当りなさらない。)
 とヘマを言って、ああ厭味(いやみ)だと思って、冷汗を掻(か)いた処を、
(お人が悪いよ、子持だと思って、)
 これにまたヒヤリとしたように覚えている。」

「それと同時に小児(こども)の事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度上下(のぼりくだり)した。
 この汽車だが……果(はて)しの知れない暗闇(くらやみ)の広野(ひろの)――とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途――その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが――後には可悪(おそろし)い偉大(おおき)な獣(けもの)が、焔(ほのお)を吹いて唸(うな)って来るか、と身震(みぶるい)をするまでに、なってしまった。
 第一、足の出しようがない。それに……
 もうこう夜(よ)も遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風説(うわさ)をしている折からだから憂慮(きづか)わしい。
(どうでしょう。)
 と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に――人が見ては悪いわ――と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、
(さあ、私もそれが気になります。)
 返事がこれで。何とも言いようがなくって溜息(ためいき)が出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、情(なさけ)ない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。
 あの人にも聞えたか。
(お腹が空いたでしょうね。)
 と来たのにゃ、赫(かっ)としたよ、但しそういう方も晩飯前です。……
 詮方(しかた)がない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒鳴(どな)んなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って救(すくい)を呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串戯(じょうだん)じゃない。」
 医師(せんせい)は聞く中(うち)にも笑出した。
 言うものも釣込まれたが、
「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟々(つくづく)思った。
 ところで……
 じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑婆(しゃば)だから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、
(戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)
 とは言ったがね。まさか夜(よ)の明けるまでそうして居られるものとは思うまい。
 糠雨(ぬかあめ)が降って来たもの。その天窓(あたま)から顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で嘗(な)めるようです。
 水の音は次第々々に、あるいは嘲(あざけ)り、あるいは罵(ののし)り、中にゃ独言(ひとりごと)を云うのも交って、人を憤り世を呪詛(のろ)った声で、見ろ、見ろ、汝(なんじ)等、水源(みなもと)の秘密を解せず、灌漑(かんがい)の恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細流(せせらぎ)の威力(ちから)を見よと、流れ廻り、駈(か)け繞(めぐ)って、黒白(あやめ)も分(わか)ぬ真の闇夜(やみよ)を縦(ほしいまま)に蹂躪(ふみにじ)る。と時々どどどと勝誇って、躍上(おどりあが)る気勢(けはい)がする。
 その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。
 次第に雨が溜(たま)るのか、水が殖(ふ)えたか、投出してる足許(あしもと)へ、縮めて見ても流(ながれ)が出来て、ちょろちょろと搦(から)みつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと沫(しぶき)が掛(かか)る、雫(しずく)が落ちる。
 地鳴(じなり)が轟(ごう)として、ぱっと一条(ひとすじ)の焔(ほのお)を吐くと、峰の松が、颯(さっ)とその中に映って、三丈ばかりの真黒(まっくろ)な面(つら)が出た、真正面(まっしょうめん)へ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。
 下りの終(しまい)汽車らしい、と思った時、
(あ痛(いつ)、痛(つ)。)
 はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、
(胸が。)と云う、歯の根が合わない。
(冷えたんです。)
 と言いながら、私もわなわなし出した。」

「一生懸命の声をして、
(さ、お掴(つかま)んなさい。)
 とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴(つか)んだが、苦痛を堪える恐(おそろし)い力が入って、痺(しび)れるばかり。
(しっかり……しっかりして下さいよ。)
 背中を擦(さす)ろうとした手が辷(すべ)って、ひやひやと後毛(おくれげ)を潜(くぐ)って、柔かな襟脚に障(さわ)ったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。
 その時ふっとまた、褄(つま)の水に映るのが、薄彩色(うすさいしき)して目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!
 膝に倒れたのは、あの人だ。
 私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。
(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命(いのち)にも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出(かけだ)して行って支度して迎(むかえ)に来ます。)
 と声も震えながら云うと、
(一人で、どうして居られましょう、一所に。)
 ッて、ぐいと袂(たもと)に掴(つか)まったが、絞ると見えて水が垂った。
(田も畦(あぜ)も構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我(けが)があると不可(いけ)ません。)
(可(い)いの、貴下(あなた)、婦(おんな)は最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)
 と縋(すが)った手を、しっかりと取合った。
(じゃ、悪魔に攫(さら)われたと、断念(あきら)めて、目を瞑(ねむ)って、覚悟をして……)
(は、瞑りました。)
 と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」
 と、小松原は拳(こぶし)を握った手首をかえして、目を圧(おさ)えて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。
「考えて見れば怪しい。
 はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞(しゃが)んでるにも当らず。不断見れば掌(てのひら)ほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄(もてあそ)ばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚(うっとり)となると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。
 畢竟(ひっきょう)ずるに、言訳沢山の恋かも知れん。
 その罰です。
 後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合(ひきあ)って駈出(かけだ)した処を、あっと云う間もなく、終(しまい)汽車で刎飛(はねと)ばされた。
 気が付いた時は、真蒼(まっさお)な何かの灯(あかり)で、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣(きもの)を脱がしてあった。ただ一束(ひとつか)ねの滑(なめら)かな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺(あたり)に血が染(にじ)んだ、――この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。
 君も知ってる、生命(いのち)は、あの人も助かったんだが、その後(のち)影を隠してしまって、いまだに杳(よう)として消息がない。
 これが風説(うわさ)の心中仕損(しそこない)。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然(おのず)から明りは立つ。面と向って汝(きさま)が、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一(おんなじ)なんだ。
 お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活(い)きているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。――ただもう一度逢いたいよ。」
 と団扇(うちわ)を膝につくと、額を暗うした。
 医師(せんせい)は黙っている。
「しかし、」
 と、小松原が額を上げた。

「未練だね。世間じゃ、誰もあの人が活(い)きているとは思わない。私だって、実際生存(ながら)えていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜索(さがし)もしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過去(すぎさ)ったんだ。だから、もしやが頼まれる……
 それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」
「しかし逢いたいんだ?」
 と医師(せんせい)は笑いながら口を入れた。
「…………」
「成程、そこで魘(うな)されたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭(いや)だったろう、全く気の精だな。遁出(にげだ)したも道理(もっとも)だ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」
「時に、」
 小松原は、気が着いたらしく更(あらた)まって、
「あの、白骨だがね、」
 と皆まで言わせず、手を掉(ふ)って、
「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」
「骨じゃない、」
 と鸚鵡返(おうむがえ)しで、
「けれども、婦(おんな)のだと言うじゃないか。何年経(た)ったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。
 婦が、あの姿を人目に曝(さら)されたら、どんな心持だと思います――君にこんな事を云うのは、解剖室で命乞(いのちごい)をするようなものだが、たとい骨でも、一室(ひとま)に泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。――私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚然(ぞっ)とする。どうだね、可哀想(かわいそう)だとは思わないかね。」
「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜(おし)みはせんが、打棄(うっちゃ)っておきたまえ。そんな事を気にするのは宜(よ)くないから止(よ)したが可(よ)かろう。」
「貴郎(あなた)、」
 と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の室(ま)の暗い中を透かした。暑いので襖(ふすま)は無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その中(うち)に、浴衣の模様が、蝶々のように掠(かす)れて見えたは細君で、しかも坐って、紅麻(こうあさ)に裳(もすそ)を寄せ、端近う坐っていた。
「何だ、起きていたのか。」
「はい、つい、あのお話しに聞惚(ききと)れまして、」
 と云うのに、しんみりと涙が籠(こも)る。
「どうも、」
 とばかりで、小松原は額を圧(おさ)えた。医師(せんせい)は事も無げに、
「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢(こぼ)しちゃ不可(いか)んぜ、水が出ると大変だ。」
「あれ、可厭(いや)な。」
「馬鹿だな、臆病。」
「だって、」
 と蚊帳の裾を引被(ひっかつ)ぐ、腕(かいな)が白く、扱帯(しごき)の紅(くれない)が透いた時、わっと小児(こども)が泣いたので、
「おお。」
 と云って添臥(そいぶ)したが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。
「ねえ、貴郎(あなた)、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可恐(こわ)いんですもの。」
 と弄(から)かうごとく、団扇を膝でくるりと遣(や)る。
「いいえ、ですがね、あの御骨(おこつ)……」
「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」
「御免なさいましよ。」
 と客に云って、細君は、小児(こども)に添乳(そいぢ)の胸白く、掻巻(かいまき)長う、半ば起きて、
「串戯(じょうだん)ではなくってよ。貴郎(あなた)が持って来て、あそこへ据えてから、玄関の方(かた)なんぞも、この間中種々(いろん)な事を言ってるんですよ。
 話声がするの、跫音(あしおと)が聞えるのって――大方女中なんかを徒(いたずら)に威(おど)すんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」

「ねえ、小松原さん、」
 とぼかしたような顔が、蚊帳の中で朧(おぼろ)に動いて、
「あの御骨(おこつ)だって、水に縁があるんですもの。」
「婦女子の言です。」
 と医師(せんせい)は横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室(となり)へ摺寄(すりよ)る身構えで、
「水に縁と……仰有(おっしゃ)ると?」
「あれは貴下(あなた)、何ですわ、つい近い頃、夫(やど)が拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧(もと)あった処は沼なんですって。」
「沼!」
「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰(なまず)に網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上(すくいあ)げるもんか。」
「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が殖(ふ)えたので、底から流出(ながれだ)したんだろうッて、貴郎(あなた)がそう言っていらしったではありませんか。――小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻(さっき)おっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼(あおぬま)が溢(あふ)れたんですって、田圃の用水は、皆(みんな)そこから来るんだって申します……
 その近処の病家へ行(ゆ)きました時に、其家(そこ)の作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、夫(やど)が貴下(あなた)、好事(ものずき)にその男を連れて帰りがけに、廻道(まわりみち)をして、内の車夫(わかいしゅ)に手伝わして、拾って来たんですわ。
 御骨は、沼の縁に柔(やわらか)な泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も繋(つなが)って、膝を屈(かが)めるようにしていたんだそうです。」
「妄誕臆説(ぼうたんおくせつ)!」
 と称(とな)えて、肩を一つ団扇で敲(たた)く。
「臆説って、貴下(あなた)がお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体具(そなわ)っているのは、何でも非常な別嬪(べっぴん)に違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩(ぼさつ)の化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾(みだしなみ)の可(い)い処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」
 と、もう小児(こども)も寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。
 医師(せんせい)喟然(きぜん)として、
「宜(よろ)しく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意(ぎょい)なさい、こちらへ来て講中にならんか。」
 と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣(ねまき)で突立(つッた)った。
 が横向に隣を見て、
「何だ、お前も手水(ちょうず)か。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」
 と言う。
 小松原が、ト透(すか)すと、二重(ふたえ)遮って仄(ほのか)ではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。
「貴郎(あなた)、」
 とこの時、細君の声は、果せる哉(かな)、太(いた)く震えて、
「貴郎……」
「うむ、」
 小松原も蚊帳の中に悚然(ぞっ)として、
「酒田。」
 と変な声をする。
「誰か居ますか。」
「おお……」
 と医師(せんせい)は、蹌踉(よろ)けたように、雨戸を背(うしろ)に、此方(こなた)を向き替え、斜めに隣室(となり)の蚊帳を覗(のぞ)いた。
「私はここに居ますんですよ。」
「誰だ、今のは?」
 うっかり医師(せんせい)が言うや否や……
「厭(いや)……」
 と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を潜(くぐ)ると、裙(すそ)と裙とにばっと挟まる、と蜘蛛(くも)の巣に掛(かか)ったように見えたが、一つ煽(あお)って、すッと痩(や)せたようになって、此方(こなた)の蚊帳へ――廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ――腰を細く、乗るばかり、胸に縋(すが)った手が白く、小松原の膝にしがみついた。
 ――この状(さま)を……後に、医学士が人に語る。――
「蒼沼(あおぬま)の水は可恐(おそろ)しい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は嫉(ねた)もうとした。」

 その時医師(せんせい)は肩を昂(あ)げて、
「雨かな。」
 と仰向(あおむ)けになったが、また、俯向(うつむ)いて胸を払った。
「何だ、廊下は水だらけだ。」
 細君は何にも言わぬ。小松原も居窘(いすく)まって、忙(せわ)しく息をするばかり。
 鶏(とり)が鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突立(つッた)った夫を見た時、聞耳を立てて、
「何です……がたがた、がたがた言って、」
 小松原が、
「あ、」
「あれか、」
 と医師(せんせい)もそこで聞取った。
「酒田……先刻(さっき)のも、」
「むむ、診察処だ。」
「あれえ。」
「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」
 と言って、蚊帳の周囲(まわり)をぐるりと半分、床の間をがたりと遣(や)ると、何か提(ひっさ)げた、その一腰、片手に洋燈(ランプ)を翳(かざ)したので、黒塗(くろぬり)の鞘(さや)が、袖をせめて、つらりと光った。
「危い、貴郎(あなた)、」
「大丈夫だ。」
「いいえ、」
 細君は一声、誰かを呼んで、
「玄関の方を起して下さい、正吉――」
 もう医師(せんせい)の姿はなかった。
 ばたん、と扉(ひらき)の開(あ)いた音。
 二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は静(しずか)に悠々と取って返す。
「どうした。」
「鼈(すっぽん)だ。」
「え。」
「鼈が三個(みッつ)よ。」
「どこに、ですえ。」
 と細君は歯の音も合わぬ。
 医師(せんせい)は真面目な顔して、
「場所はちと悪い、白いものの前だ。」
「あれ。」
「さぞまた蒼沼から、迎(むかえ)に来たと言うだろうなあ。」
 と雨戸を一枚、颯(さっ)と風が入って、押伏(おっぷ)せて、そこに置いた洋燈(ランプ)が消えた。
 が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。
 白骨が旧(もと)の沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一夜(ひとよ)の縁(えにし)のみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の源(みなもと)ぞと聞くからに、顔を知らぬ許婚(いいなずけ)に初めて逢いに行(ゆ)く気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立出(たちい)づる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の梢(こずえ)に、髣髴(ほうふつ)として瑠璃(るり)を湛(たた)える。
 その心は色に出て、医師(せんせい)は小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介添(かいぞえ)に附いたのは、正吉と云う壮(わか)い車夫。
 国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠勇(きおい)らしいが、いや、山育ちの自然生(じねんじょう)、大の浄土宗。
 お萩が好(すき)の酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大風(おおかぜ)から、七ツ金(かね)ぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。豪(えら)いのは、旅の修行者(しゅぎょうじゃ)の直伝(じきでん)とあって、『姑蘇啄麻耶啄(こそたくまやたく)』と呪(じゅ)して疣黒子(いぼほくろ)を抜くという、使いがらもって来いの人物。
 これが、例の戸棚掛の白布(しろぬの)を、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に載(の)せて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯気(びく)ともしないで、一件を小脇に抱える。
 この腰の物は、魔除(まよ)けに、と云う細君の心添(こころぞえ)で。細君は、白骨も戻すと極(きま)り、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、
「昨晩はお楽(たのし)み……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」
 など遣ったものだが、あえてこれは冷評(ひやか)したのではない。その証拠には、小松原と一足違(ちがい)に内を出て、女子(おんな)扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某寺(なにがしじ)へ。供養のため――

「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」
 と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道(ふるみち)を横へ切れる細い路。次第高(だか)の棚田に架(かか)って、峰からなぞえに此方(こなた)へ低い。田の青さと、茂った樹立(こだち)の間を透いて、六月(みなづき)の空は藍(あい)よりも蒼(あお)く、日は海の方へ廻って、背後(うしろ)から赫(かっ)と当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。
 三方、山の尾が迫った、一方は大(おおい)なる楓(かえで)の梢(こずえ)へ、青田の波が越すばかり。それから青芒(あおすすき)の線を延(のば)して、左へ離れた一方に、一叢立(ひとむらだち)の藪(やぶ)があって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出(ゆりだ)し、揺出す。その上に、萱(かや)で包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳(たたず)んだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯(さっ)と黒髪を捌(さば)いたごとく、梢(うら)が乱れ、根が茂る。
 路はその雑木の中に出つ入(い)りつ、糸を引いて枝折(しおり)にした形に入る……赤土の隙間(すきま)なく、凹(くぼみ)に蔭ある、樹の下闇(したやみ)の鰭爪(ひづめ)の跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜(たつ)の鱗(うろこ)を踏むと思えば、鼈(すっぽん)の足痕(あしあと)を辿(たど)るよとも疑われた。
 次第に山の裾を分け上ると、件(くだん)の楓を左の方に低く視(なが)めて、右へ折曲(おりまが)ってもう一谷戸(ひとやと)、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐(やまふところ)の土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径(こみち)の端に、抜けた岩ごと泥が堆(うずたか)かった。
「沼はこの先でがんす。」
 と正吉は前(さき)へ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷(うなず)かるる。
「梅雨あけに、医師(せんせい)と、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車(くるま)もはい、持立(もった)てるようにしてここまでは曳(ひ)いて来ただが、前(さき)あ挺(てこ)でも動きましねえでね。」
 と言う。
 このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何(なあに)、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直(じき)そこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込(かいこ)んだのが、けろりとした目で、閑(ひま)に任(ま)かして、退屈まぎれに独言(ひとりごと)を言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻(あり)までが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々(りょうりょう)として調べ奏(かな)でる。
 ……きょ、きょら、くらら、くららっ!
 と転がして、発奮(はず)みかかって、ちょいと留めて、一つ撓(た)めておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺(こだま)に響く。
 小松原は、魂を取って扱(しご)かれるほど、ひしひしと身に堪(こた)え、
「……京から、今日ら……来るか、来るか!」
 と言われるようで、
「来ました、東京から今日来ましたよ。」
 と胸の裡(うち)で言った。
 その蒼沼は……
 小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸(むこう)へ山の青簾(あおすだれ)、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面(おもて)を打って、爪先(つまさき)寒う湛(たた)えたのである。
 水の面(おも)は秋の空、汀(みぎわ)に蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉(ふたは)三葉(みは)折れながら葉ばかりの菖蒲(あやめ)の伸びた蔭は、どんよりと白い。木(こ)の葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜(ぬなわ)の蔓(つる)が、水筋を這(は)い廻る――空は、と見ると、覆(おおい)かかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方(おちかた)は遠方なりに遮って、池の周囲(まわり)と同じ程より、多くは天(そら)を余さぬから、押包(おッつつ)んだ山の緑に藍(あい)を累(かさ)ねて、日なく月なく星もなく、倒(さかさ)に沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸(か)れて荒(すさ)びて、主(ぬし)やあらん、その、主の留守の物寂しい。

 濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折込(おれこ)んで、縁(ふち)を浅黄に、木(こ)の葉を照らす。この影に、人は蒼白(あおじろ)く一息した。
 なぜか、葬礼(とむらい)の式に列(つらな)ったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙草(たばこ)も喫(の)まないで、小松原は踞(つくば)った正吉を顧みて、
「どこで拾ったね。」
「やあ、それだがね……先刻(さっき)から気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高(だか)な処(とこ)さ、見さっせいまし、己(おら)あ押魂消(おったまげ)ただ。その節あんな芭蕉(ばしょう)はなかっけ。」
 と言う。
 目覚しいのは、そこに生えた、森を欺(あざむ)くような水芭蕉で、沼の片隅から真蒼(まっさお)な柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に颯(さっ)と萌黄(もえぎ)の窓帷(カアテン)を掛けて、倒(さかさ)に裾(すそ)を開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。
 正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、訝(いぶか)しむ仔細(しさい)は無い。
 さて、家を出る時から、拾った場所へ旧(もと)の通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると汀(みぎわ)が浅い、ト白骨は肋(あばら)の数も隠されず、蝶々蜻蛉(とんぼ)の影はよし、鳥の糞(ふん)にも汚(けが)されよう。勢い諸手高く差翳(さしかざ)して、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。
「そんな事が出来るものか。」
 と小松原が猶予(ためら)うと、
「成程、へい、手荒だね。」
 と正吉さえ頷(うなず)くのである。
 ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……
「まあ、それを解け。」
 と手伝って、上包の結目(むすびめ)を解くと、ずしりと圧(おし)にある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。――虹(にじ)のごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、
「わッ!」
 と正吉が飛退(とびしさ)った。途端に白布(しろぬの)の包は、草に乗って一つ動く。
「旦那(だんな)、気イ確(たしか)に持たっせえ。」
 昨夜からの小松原の容子(ようす)は、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。
 やがて孫呉空(そんごくう)が雲の上を曳々声(えいえいごえ)で引背負(ひっしょ)ったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、芬(ぷん)と真蒼(まっさお)な香(におい)が樹の中に籠(こも)って、草の上を引いて来たが――全身引(ひっ)くるまって乗っかった程に大(おおき)いのである。
 小松原は莞爾々々(にこにこ)しながら、
「さあ、これへ乗せよう。」
 まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、密(そっ)と取って、骨を広葉の只中(ただなか)へ。
 葉先を汀(みぎわ)へ、蘆摺(あしず)れに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと辷(すべ)る、柄を向うへ……
「南無阿弥陀(なんまいだ) 南無阿弥陀。」
 と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が鰭(ひれ)のように水を捌(さば)いて行(ゆ)く、と小波(ささなみ)が立って、後を送って、やがて沼の中ばに、静(じっ)と留まる。
 そのまま葉が垂れると、縋(すが)りつく状(さま)に、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が弛(ゆる)んで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、婦(おんな)が臥(ふ)した姿になる。
 思出して、はっと目を塞(ふさ)いだが、やがて見れば、もう沈んだ。
 途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千条(ちすじ)百条(ももすじ)網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ揺(ゆり)かけると、水鳥が衝(つ)と蹴(け)たごとく、芭蕉の広葉は向うの汀(みぎわ)へ、するすると小さく片寄る。

 ……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……
 と、しばらくはただ鳥の声。
 熟(じっ)と沼の面(おも)を見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の皺(しわ)が揺(ゆ)っては消し揺(ゆす)っては消す――そうかと思うと、その水紋の揺(ゆら)めく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰向(あおむ)けに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで絡(まとま)らない。
 急(あせ)って、※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)(もが)いて、立ったり居たり、汀(みぎわ)もそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)せば、早や何が染(そま)るでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄暮合(うすくれあい)。
「旦那もう晩方だよ。」
 と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の前(さき)で、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。
 独(ひとり)になって、思うさま、胸にたたんだ空想に耽(ふけ)ろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を卸(おろ)して、衣紋(えもん)まで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。
 とかくして沼の中を、身動きもしないで覗込(のぞきこ)んだ……
 あわれ水よ、偉(おおい)なる宇宙を三分して、その一を有する汝(なんじ)、瀬となり、滝となり、淵(ふち)となり、目(ま)のあたり我が怪しき恋となりぬ。
 いで、霧となって虹(にじ)を放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき膚(はだえ)とならずや、あの濡れたような瞳とならずや。
 と思い思う、まさしく、そこに、水底(みなぞこ)へ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。
 見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。
 胸を打って、襟を掴(つか)んで、咽喉(のど)をせめて、思いを一処(ひとところ)に凝らそうとすれば、なおぞ、千々(ちぢ)に乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。
 が、確(たしか)にその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は確(たしか)に……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ――白き珊瑚(さんご)の玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨夜(ゆうべ)より我は信じて疑わぬ。
 何が不足で一所に死ねぬ――
「その肉身か。」
 と己(おの)が頭髪(ずはつ)を掴(つか)んで、宙に下がるばかり突立(つッた)った。
「卑怯(ひきょう)だ、此奴(こいつ)! 始(はじめ)からそれは求めぬ誓(ちかい)であった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず捉(とら)うる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその霊(こころ)であろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。
 肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む膚(はだ)、溺(おぼ)れて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに違(たが)わん!」
 入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと蘆(あし)を誘って、沼の真中(まんなか)へ引寄せる。
 小松原は立ったまま地※(「革+稻のつくり」、第4水準2-92-8)(ぢだんだ)を踏んだが、
「ええ! 腑効(ふがい)ない。」
 どっかり草へ。
 蘆の葉末(はずえ)に水を載(の)せて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、腕(かいな)か、肩か、胸か、乳か、白々と漾(ただよ)い居る。
 ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは達(とど)かぬ。
 何をか疑い、何をか猶予(ためら)う。
 余(あまり)の事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚然(ぞっ)として、帰ろうとして、骨を送った船の漾(ただよ)う処を視(なが)むれば、四五本打った、杭(くい)の根に留(とま)ったが、その杭から、友染(ゆうぜん)の切(きれ)を流した風情で、黄昏(たそがれ)を翡翠(かわせみ)が一羽。

 それをこう視(なが)めた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、美(うつくし)い色の水を見る、描いたるごとき夢幻(ゆめうつつ)の境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩色(さいしき)した影のごとくに浮(うか)んだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。
 それも可(よし)、ままよ、なるようになれとなった。……
 その内に、翡翠(かわせみ)の背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪郭(りんかく)は朧(おぼろ)になったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮増(くれまさ)るのである。その暮れるのと、来かかるのとが、蘆(あし)の汀(みぎわ)を段々伝いに、そよそよと風に、背後(うしろ)を、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫音(あしおと)も聞えなかったが、上(かみ)からか下(しも)からか、小松原の目に、婦(おんな)の色ある衣(きぬ)の裙(すそ)が見えて、傍(かたわら)に来て、しっとり留(とま)る。……
「奥さん。」
 と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝台(ねだい)でなかった。そこで、
「…………」
 誰かが何か言う。ただ赫(かっ)として、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫毛(まつげ)が黒く下向にそこに彳(たたず)んだのを見出(みいだ)した時、
「立二さん。」
 と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太肉(ふとりじし)だった人が、げっそりと痩(や)せて小さくなった。
「おお!」
 とばかりで、肩で呼吸(いき)して、草に胡坐(あぐら)したまま、己(おの)が膝を引掴(ひッつか)んで、せいせい言って唇を震わす。
 上では、俯向(うつむ)きさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微笑(ほほえ)みして、
「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」
 と相変らずしとやかなものの言いよう哉(や)。
 それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を引(ひっ)くり返したのと、知っただけの言(ことば)を大絡(おおまとめ)にしたのが、一斉(いちどき)に胸へ込上げて、咽喉(のど)で支(つか)えて、ぎゅうとも言えず、口は開(あ)かずに、目は動く。
「それでも、」
 と鬢(びん)へちょいと手を遣(や)ったが、櫛(くし)、笄(こうがい)、簪(かんざし)、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。
「まさか、墓へは連れて行(ゆ)かないから、私の許(とこ)へ御一所に。」
 指(ゆびさ)して、指の先で、男が只瞻(ひたみは)りに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で築(つ)いた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、
「あすこを通って、岨伝(そばづた)いに出られる里。……立さん、そんなに吃驚(びっくり)なさらないでも、貴下(あなた)が昨日、お医師(いしゃ)様の許(とこ)へおいでなすった事は、私もう知っています。
 いつかの時の怪我(けが)でねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……
 立さんが、先刻(さっき)葬式(おとむらい)にいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。
 この頃、また、ちっと塩梅(あんばい)が悪いので、医師(いしゃ)へ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。
 先刻(さっき)から、あちこちで、様子を見ていましたけれども、傍(そば)に人が居るから、見られるのが可厭(いや)で来ませんでしたよ。
 さあ、いらっしゃい。」
「……参ります!」
 とだけは決然として気競(きお)って云ったが、膝が萎(な)えて、がくついて、ついした事には行(ゆ)かないで、
「貴女、貴女、」
 とばかり言う。
「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」
 と軽く頷(うなず)く、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。

 その涙を払う状(さま)に、四辺(あたり)を見つつ、
「御覧なさい、可厭(いや)な。どこより前(さき)に、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の源(もと)なんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」
 と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると斉(ひと)しく、立二は焼火箸(やけひばし)を嚥(の)んだように突立(つッた)った。
 ト、佳(い)い薫(かおり)が、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に汀(みぎわ)を行(ゆ)く。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。
 そこへ、はらはらとかかる白絽(しろろ)の袂(たもと)に、魂を結びつけられたか、と思うと、筋骨(すじぼね)のこんがらかって、捌(さばき)のつかないほど、揉(も)み立てられた身体(からだ)が、自然に歩行(ある)く。……足はどこを踏んだか覚えなし。
 しばらく行(ゆ)くと、その人が、偶(ふ)と立停(たちどま)って、弱腰を捻(ね)じて、肩へ、横顔で見返って、
「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」
 と案内する……処に……丸木橋が、斧(おの)の柄の朽ちた体(てい)に、ほろりと中絶えがして折込(おれこ)んだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可憐(しおらし)やか。ここには葉ばかりでなく、後(おく)れ咲(ざき)か、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜若(かきつばた)が二三輪、ぱっと花弁(はなびら)を向けた。その山の端(は)に月が出た。
「今夜は私が、」
 すっと跨(また)ぐ、色が、紫に奪われて、杜若に裙(すそ)が消えたが、花から抜ける捌(さば)いた裳(もすそ)が、橋の向うで納(おさ)まると、直ぐに此方(こなた)へ向替えて、
「手を引いて上げましょう。」
 嫋娜(なよやか)に出されたので、ついその、伸(のば)せば達(とど)く、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐(なつかし)い薫(かおり)に包まれた。
 まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、
 ……おのれら! おのれら!……
 と鳴く。
 ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大芭蕉(おおばしょう)の葉の、沼の上へ擢(ぬき)んでたのが、峰から伸出(のしだ)いて覗(のぞ)くかと、頭(かしら)に高う、さながら馬の鬣(たてがみ)のごとく、譬(たと)えば長髪を乱した体(てい)の、ばさとある附元(つけもと)は、どうやら痩(やせ)こけた蒼黒(あおぐろ)い、尖(とが)った頤(おとがい)らしくもある。
 あれあれ裂けた処が、そっくり口で、
 ……おのれら!……
 とまた鳴いた。その体(てい)は……薄汚れた青竹の太杖(ふとづえ)を突いて、破目(やぶれめ)の目立つ、蒼黒い道服を着(ちゃく)に及んで、丈(せい)高う跳(のさ)ばって、天上から瞰下(みおろ)しながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。
 その葉が大きく上にかぶさる、下に彳(たたず)んで熟(じっ)と見た、瞳が霑(うる)んで溜息(ためいき)して、
「立さん、立さん、」
 と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、
「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押覆(おっかぶ)さるもんですから、御覧なさい。出汐(でしお)をこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ伸(のび)る、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。
 可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」
 翳(かざ)せばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄金(きん)の覆輪(ふくりん)をかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵琶(びわ)を中空に据えたようで、蘆(あし)の葉摺(はず)れに、りんりんと鳴りそうながら、一条(ひとすじ)白銀(しろがね)の糸も掛(かか)らず、暗々として漆して鼠が駈廻(かけまわ)りそうである。
「先刻(さっき)、貴下(あなた)がなすったついでに、もうちっと切払って下されば可(よ)かったのねえ。」
 ただ等閑(なおざり)に言い棄てたが、小松原は思わず拳(こぶし)を握った。生れて以来(このかた)、かよわきこの女性(にょしょう)に対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために露(あら)わし得た覚(おぼえ)がない。腑効(ふがい)なさもそのドン詰(づまり)に……
 しゃ! 要こそあれ。
 今も不思議に片手に持った、鞘(さや)を棄てて、提(ひっさ)げて衝(つ)と出たが、屹(きっ)と見上げて、
「おのれ!」
 と横薙(よこなぎ)、刃(やいば)が抜けると、そのもの、長髪をざっと捌(さば)く。驚破(すわ)天窓(あたま)から押潰(おしつぶ)すよと、思うに肖(に)ず、二丈(ふたたけ)ばかりの仙人先生、ぐしゃと挫(ひし)げて、ぴしゃりとのめずる。
 これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒道人(くろどうじん)に切附(きりつ)けると、がさりと葉尖(はさき)から崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を築(つ)いて、すっくと立つ青仙人を、腰車に斬(き)って落す。拝打(おがみうち)、輪切(わぎり)、袈裟掛(けさがけ)、はて、我ながら、気が冴(さ)え、手が冴え、白刃(しらは)とともに、抜けつ潜(くぐ)りつ、刎越(はねこ)え、飛び交い、八面に渡って、薙立(なぎた)て薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一幅(ひとはば)の黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が射(さ)して、芭蕉のあとを、明るくなる。
 果(はて)は丘のごとく、葉を累(かさ)ねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き雫(しずく)を流して、逆手(さかて)に支(つ)いてほっと息する。
 褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。
 白刃を落して、その時腕(かいな)をさすって憩う、小松原の手を取って、
「ああ、嬉しい。」
 と、山の端(は)出(い)でたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。背(せな)撓(たわ)み、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る衣(きぬ)の上へ膚(はだえ)が透き、真白な乳(ち)が膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、腕(かいな)を繞(めぐ)り、遍(あまね)く身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃々(きらきら)と裳(もすそ)が揺れて、両の足の爪先(つまさき)に、美(うつくし)い綾(あや)が立ち、月が小波(ささなみ)を渡るように、滑(なめら)かに襞※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)(ひだ)を打った。
 ※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)と思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。
 今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋(すが)ると、靡(なび)くや黒髪、溌(ぱっ)と薫って、冷(つめた)く、涼(すずし)く、たらたらと腕に掛(かか)る。

 …………小松原は、俯向(うつむ)けに蒼沼に落ちた処を、帰宅(かえり)のほどが遅いので、医師(せんせい)が見せに寄越(よこし)した、正吉に救われた。
 車夫は沼の隅の物音に、提灯(ちょうちん)を差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐(おそれ)をなして、しばらく様子を見ていたと言う。

 小松原が恢復(かいふく)して、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。
「昔だと、仏門に入(い)る処だが、君は哲学を学(や)っとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪(あや)しいな。」
明治四十一(一九〇八)年六月
了

底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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