あらすじ
木村芥舟は、旧幕府の軍艦奉行を務めた人物です。福沢諭吉は、彼の航海に随行した経験を通して、西洋の知識を深め、人生観までも大きく変えられました。この作品は、芥舟との深い交流を通して、福沢諭吉が受けた恩情と感謝の念を、彼自身の言葉で綴ったものです。芥舟の人柄、そして福沢諭吉の真摯な思いに、ぜひ触れてみてください。
 左の一篇は木村芥舟翁(きむらかいしゅうおう)の稿(こう)に係(かか)り、時事新報(じじしんぽう)に掲載(けいさい)したるものなり。その文中、瘠我慢(やせがまん)の説(せつ)に関係(かんけい)するものあるを以て、ここに附記(ふき)す。

     福沢先生を憶(おも)う

木村芥舟
 明治三十四年一月廿五日、予(よ)、先生を三田(みた)の邸(やしき)に訪(と)いしは、午後一時頃なり。例(れい)の通り奥(おく)の一間(ひとま)にて先生及び夫人と鼎坐(ていざ)し、寒暄(かんけん)の挨拶(あいさつ)了(おわ)りて先生先ず口を開き、この間(あいだ)、十六歳の時咸臨丸(かんりんまる)にて御供(おとも)したる人来(きた)りて夕方まで咄(はな)しましたと、夫人に向(むか)われ、その名は何(なん)とか言いしと。予、夫(そ)れは留蔵(とめぞう)ならんといえば、先生、それそれその森田(もりた)留蔵……それより談(だん)、新旧の事に及ぶうち、予今朝(こんちょう)の時事新報に出(いで)たる瘠我慢(やせがまん)の説(せつ)に対する評論(ひょうろん)についてと題する一篇に、旧幕政府(きゅうばくせいふ)の内情を詳記(しょうき)したるは、いずれ先生の御話(おはなし)に拠(よ)りたるものなるべし、先生には能(よ)くもかかる機密(きみつ)を御承知(ごしょうち)にて今日までも記憶(きおく)せられたりといえば、先生、いや私が書生仲間(しょせいなかま)には随分(ずいぶん)かようなる事に常々(つねづね)注意(ちゅうい)し、当時の秘密(ひみつ)を探(さぐ)り出し、互に語(かた)り合いたることあり、なお洩(も)れたる事柄(ことがら)も多かるべし、ただ遺憾(いかん)なるは彼(か)の脇屋(わきや)某が屠腹(とふく)を命ぜられたる事を聞き、かかる暴政(ぼうせい)の下に在(あり)ては何時(いつ)いかなる嫌疑(けんぎ)をうけて首を斬(き)られんも知れずと思い、その時筐中(きょうちゅう)に秘(ひ)し置(おき)たる書類(しょるい)は大抵(たいてい)焼捨(やきすて)ました、今日と成(な)りては惜(お)しき事をしましたと談次(だんじ)、先生遽(にわ)かに坐(ざ)を起(たち)て椽(えん)の方に出(いで)らる。その挙止(きょし)活溌(かっぱつ)にして少しも病後(びょうご)疲労(ひろう)の体(てい)見えざれば、予(よ)、心の内に先生の健康(けんこう)全く旧(きゅう)に復(ふく)したりと竊(ひそ)かに喜びたり。
 夫人云(い)わるるよう、この頃用便(ようべん)が至(いたっ)て近くなりまして、いつもあの通りで困(こま)りますと。やがて先生座(ざ)に復(ふく)され、予、近日の飲食(いんしょく)御起居(ごききょ)如何(いかん)と問えば、先生、左右(さゆう)の手を両(りょう)の袖(そで)のうちに入れ、御覧(ごらん)の通り衣(きもの)はこの通り何んでも構(かま)いませぬ、食物は魚(さかな)并(ならび)に肉類(にくるい)は一切用いず、蕎麦(そば)もこの頃は止(や)めました、粥(かゆ)と野菜(やさい)少し許(ばか)り、牛乳(ぎゅうにゅう)二合ほどつとめて呑(の)みます、すべて営養上(えいようじょう)の嗜好(しこう)はありませんと。この日、先生頗(すこぶ)る心(こころ)能(よ)げに喜色(きしょく)眉宇(びう)に溢(あふ)れ、言語も至(いたっ)て明晰(めいせき)にして爽快(そうかい)なりき。
 談(だん)、刻(こく)を移して、予(よ)、暇(いとま)を告げて去らんとすれば、先生猶(なお)しばしと引留(ひきとめ)られしが、やがて玄関(げんかん)まで送り出られたるぞ、豈(あに)知(し)らんや、これ一生(いっしょう)の永訣(えいけつ)ならんとは。予が辞去(じきょ)の後、先生例の散歩(さんぽ)を試(こころ)みられ、黄昏(こうこん)帰邸(きてい)、初夜(しょや)寝(しん)に就(つか)れんとする際発病(はつびょう)、終(つい)に起(た)たれず。哀哉(かなしいかな)。
 嗚呼(ああ)、先生は我国の聖人(せいじん)なり。その碩徳(せきとく)偉業(いぎょう)、宇宙に炳琅(へいろう)として内外幾多の新聞皆(みな)口を極(きわ)めて讃称(さんしょう)し、天下の人の熟知(じゅくち)するところ、予が喋々(ちょうちょう)を要せず。予は唯(ただ)一箇人(いっこじん)として四十余年、先生との交際(こうさい)及び先生より受けたる親愛(しんあい)恩情(おんじょう)の一斑(いっぱん)を記(しる)し、いささか老後(ろうご)の思(おもい)を慰(なぐさ)め、またこれを子孫に示(しめ)さんとするのみ。
 予の初めて先生を知(し)りしは安政(あんせい)六年、月日は忘(わす)れたり。先生が大阪より江戸に出で、鉄炮洲(てっぽうず)の中津藩邸(なかつはんてい)に住(すま)われし始めの事にして、先生は廿五歳、予は廿九歳の時なり。先生咸臨丸(かんりんまる)米行(べいこう)の挙(きょ)ありと聞て、予が親戚(しんせき)医官(いかん)桂川氏(かつらがわし)を介(かい)してその随行(ずいこう)たらんことを求められしに、予はこれ幸(さいわい)の事なりと思い、直(ただ)ちにこれを肯(がえ)んじ、一見(けん)旧(きゅう)のごとし。
 翌年正月十九日の夕、共(とも)に咸臨丸(かんりんまる)に乗組(のりくみ)て浦賀湾(うらがわん)を出帆(しゅっぱん)したり。先生は予がこの行(こう)に伴(ともな)いしを深(ふか)く感謝(かんしゃ)せらるるといえども、予の先生に負(お)うところ、かえって大(だい)にして大(おおい)に謝(しゃ)せざるべからざるものあり。それを如何(いかん)というに、この時洋中(ようちゅう)風浪(ふうろう)暴(あら)くして、予が外(ほか)に伴いたる従者(じゅうしゃ)は皆昏暈(こんうん)疲憊(ひはい)して、一人も起(た)つこと能(あた)わず。先生は毫(ごう)も平日と異(こと)なることなく、予が飲食(いんしょく)起臥(きが)の末に至るまで、力を尽(つく)しこれを扶(たす)け、また彼地(かのち)に上陸(じょうりく)したる後も、通弁(つうべん)その他、先生に依頼(いらい)して便宜(べんぎ)を得たること頗(すこぶ)る多ければなり。
 その年閏(うるう)五月五日、咸臨丸(かんりんまる)は無事(ぶじ)に帰朝(きちょう)し、艦(かん)の浦賀(うらが)に達(たっ)するや、予が家の老僕(ろうぼく)迎(むかい)に来(きた)りし時、先生老僕(ろうぼく)に向い、吾輩(わがはい)留守中(るすちゅう)江戸において何か珍事(ちんじ)はなきやと。老僕(ろうぼく)額(ひたい)を蹙(しか)め、有(あ)り有り、大変(たいへん)が有りたりという。先生手を挙(あ)げて、そは姑(しば)らく説(と)くを休(や)めよ、我まずこれを言わん、浮浪(ふろう)の壮士(そうし)が御老中(ごろうじゅう)にても暗殺(あんさつ)せしにはあらざる歟(か)と。老僕聞て大に驚(おどろ)き、過(すぐ)る三月三日、桜田(さくらだ)の一条(いちじょう)を語(かた)りければ、一船ここに至りて皆はじめて愕然(がくぜん)たり。
 予が新銭座(しんせんざ)の宅(たく)と先生の塾(じゅく)とは咫尺(しせき)にして、先生毎日のごとく出入(しゅつにゅう)せられ何事も打明(うちあ)け談ずるうち、毎(つね)に幕政(ばくせい)の敗頽(はいたい)を嘆(たん)じける。間(ま)もなく先生は幕府外国方翻訳御用(がいこくかたほんやくごよう)出役(しゅつやく)を命ぜらる。或日、先生、役所よりの帰途(きと)、予が家に立寄(たちよ)り、今日俸給(ほうきゅう)を受取りたりとて、一歩銀(いちぶぎん)廿五両包(づつみ)二個(こ)を手拭(てぬぐい)にくるみて提(さ)げ来られ、予が妻(さい)に示(しめ)し、今日(きょう)貰(もらっ)て来ました、勇気(ゆうき)はこれに在りとて大笑(たいしょう)せられたり。
 また或時(あるとき)、市中より何か買物(かいもの)をなして帰(かえ)り掛(が)け、鉛筆(えんぴつ)を借り少時(しばらく)計算(けいさん)せらるると思ううち、アヽ面倒(めんどう)だ面倒だとて鉛筆を抛(なげう)ち去らる。
 或日、老僕(ろうぼく)、先生の家に至りしに、二三の来客(らいかく)ありて、座敷(ざしき)の真中に摺鉢(すりばち)に鰯(いわし)のぬたを盛(も)り、側(かたわ)らに貧乏徳利(びんぼうとくり)二ツ三ツありたりとて、大(おおい)にその真率(しんそつ)に驚き、帰りて家人(かじん)に告(つ)げたることあり。
 先生は白皙(はくせき)長身(ちょうしん)、一見して皆その偉人(いじん)たるを知る。されば先生は常に袴(はかま)をも着せず、一書生(いちしょせい)の風体(ふうたい)なるにかかわらず、予が家の婢僕等(ひぼくら)皆尊敬(そんけい)して、呼ぶに先生を以てし、門番(もんばん)、先生を見れば俄(にわ)かに衣を纒(まと)いてその裸体(らたい)を蔽(おお)いて礼(れい)を為(な)せり。
 先生の親友(しんゆう)に高橋順益(たかはしじゅんえき)という医師(いし)あり。至(いたっ)て莫逆(ばくげき)にして管鮑(かんぽう)啻(ただ)ならず。いつも二人相(あい)伴(ともな)いて予が家に来り、互(たがい)に相(あい)調謔(ちょうぎゃく)して旁人(ぼうじん)を笑わしめたり。一日、予が妻、ワーフルという菓子(かし)を焼(や)き居たりしを先生見て、これは至極(しごく)面白(おもしろ)し、予もこの器械(きかい)を借用(しゃくよう)して一ツやって見(み)たしとのことにつき、翌日これを老僕(ろうぼく)に持(も)たせ遣(つかわ)しければ、先生大(おおい)に喜び、やがて自(みず)から麺粉(めんふん)[#「麺粉」は底本では「麺紛」]に鶏卵(けいらん)を合せ焼(や)き居られしが、高橋も来りてこれを見て居けるうち、鶏卵の加減(かげん)少し度(ど)に過(す)ぎたる故(ゆえ)、ぱちぱちと刎出(はねだ)し、先生の衣服(いふく)は勿論(もちろん)、余滴(よてき)、高橋にも及びしかば、高橋例(れい)の悪口(わるくち)を言出せば、先生、黙(だま)って見て居(お)れ、その代(かわ)りに我れ鰻飯(うなぎめし)を汝(なんじ)に奢(おご)らんと。高橋その馳走(ちそう)をうけ、これにて少し腹(はら)が癒(い)えたとて去りたりと。この高橋は洋学(ようがく)にも精通(せいつう)し、後来(こうらい)有望(ゆうぼう)の人なりけるに、不幸(ふこう)にして世を早(はや)うせり。先生深く※(「りっしんべん+宛」、第3水準1-84-51)惜(えんせき)し、厚く後事(こうじ)を恤(めぐ)まれたりという。
 慶応義塾(けいおうぎじゅく)はこの頃(ころ)、弟子いよいよ進(すす)み、その数すでに数百に達し、また旧日の比(ひ)にあらず。或夜(あるよ)、神明社(しんめいしゃ)の辺(ほとり)より失火し、予が門前(もんぜん)まで延焼(えんしょう)せり。先生の居(きょ)、同じく戒心(かいしん)あるにもかかわらず、数十の生徒(せいと)を伴(ともな)い跣足(せんそく)率先(そっせん)して池水(いけみず)を汲(くみ)ては門前に運び出し、泥塗満身(でいとまんしん)消防(しょうぼう)に尽力(じんりょく)せらるること一霎(いっしょう)時間(じかん)、依(よっ)て辛(かろ)うじてその災(さい)を免(まぬか)れたり。その後暴人(ぼうじん)江戸市街(しがい)に横行(おうこう)し、良家(りょうか)に闖入(ちんにゅう)して金銭を掠(かすむ)るの噂(うわさ)ありし時も、先生頗(すこぶ)る予が家を憂慮(ゆうりょ)せられ、特に塾員(じゅくいん)に命(めい)じ、来(きたっ)て予が家に宿泊(しゅくはく)せしめ、昼夜(ちゅうや)警護(けいご)せられたることあり。その厚意(こうい)今なお寸時(すんじ)も忘(わす)るること能(あた)わず。
 江戸開城(かいじょう)の後、予は骸骨(がいこつ)を乞(こ)い、しばらく先生と袂(たもと)を分(わか)ち、跡(あと)を武州(ぶしゅう)府中(ふちゅう)の辺に屏(さ)け居るに、先生は間断(かんだん)なく慰問(いもん)せられたり。
 明治四年八月、予再(ふたた)び家を東京に移(うつ)すに及び、先生直(ただ)ちに駕(が)を抂(まげ)られ、いわるるよう、鄙意(ひい)、君が何事か不慮(ふりょ)の災(さい)あらん時には、一臂(いっぴ)の力を出し扶助(ふじょ)せんと思い居(お)りしが、かくてはその災害(さいがい)を待つに同(おなじ)くして本意(ほんい)に非ざれば、今より毎年寸志(すんし)までの菲品(ひひん)を呈(てい)すべしとて、その後は盆(ぼん)と暮(くれ)に衣物(いぶつ)金幣(きんへい)、或は予が特に嗜好(しこう)するところの数種を添(そ)えて※(おく)[#「貝+兄」、97-15]られたり。またその時予が妻(さい)に向(むかっ)て、今日福沢諭吉は大丸(だいまる)ほどの身代(しんだい)に成りたれば、いつにても予が宅に来て数日逗留(とうりゅう)し、意を慰(なぐさ)め給うべしとなり。
 明治十四年九月、予は従来筆記(ひっき)し置(おき)たる小冊を刊行(かんこう)し、これを菊窓偶筆(きくそうぐうひつ)と名づけ世に公(おおやけ)にせんと欲し先生に示したれば、先生これを社員(しゃいん)それ等の事に通暁(つうぎょう)せる者に命じ、印刷(いんさつ)出板(しゅっぱん)の手続きより一切(いっさい)費用(ひよう)の事まで引受(ひきうけ)られ、日ならずして予が望(のぞみ)のごとく美(び)なる冊子(さっし)数百部を調製(ちょうせい)せしめて予に贈(おく)られたり。
 同二十四年十月、予また幕末(ばくまつ)の編年史(へんねんし)を作り、これを三十年史と名(なづ)け刊行(かんこう)して世に問(と)わんとせし時、誰人(たれびと)かに序文(じょぶん)を乞(こ)わんと思いしが、児(じ)駿(しゅん)、側(かたわら)に在(あ)りて福沢先生の高文(こうぶん)を得ばもっとも光栄(こうえい)なるべしという。然(しか)れども先生は従来(じゅうらい)他人の書に序(じょ)を賜(たま)いたること更になし、今強(しい)てこれを先生に煩(わずらわ)さんこと然(しか)るべからずと拒(こば)んで許さざりしに、児(じ)竊(ひそ)かにこれを携(たずさ)え先生の許(もと)に至り懇願(こんがん)せしかば、先生速(すみやか)に肯諾(こうだく)せられ、纔(わず)か一日にして左のごとくの高序(こうじょ)を賜(たま)わりたるは、実に予の望外(ぼうがい)なり。

 木村芥舟先生は旧幕府(きゅうばくふ)旗下(きか)の士にして摂津守(せっつのかみ)と称し時の軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)たり。すなわち我開国(かいこく)の後、徳川政府にて新(あらた)に編製(へんせい)したる海軍の長官(ちょうかん)なり。
 日本海軍の起源(きげん)は、安政初年の頃(ころ)より長崎にて阿蘭人(オランダじん)の伝(つた)うるところにして、伝習(でんしゅう)およそ六七年、学生の伎倆(ぎりょう)も略(ほぼ)熟(じゅく)したるに付(つ)き、幕議(ばくぎ)、遠洋(えんよう)の渡航を試(こころみ)んとて軍艦(ぐんかん)咸臨丸(かんりんまる)を艤装(ぎそう)し、摂津守を総督(そうとく)に任じて随行(ずいこう)には勝麟太郎(かつりんたろう)(今の勝安芳(やすよし))以下長崎伝習生(でんしゅうせい)を以てし、太平洋を絶(わた)りて北米(ほくべい)桑港(サンフランシスコ)に徃(ゆ)くことを命じ、江戸湾を解纜(かいらん)したるは、実に安政(あんせい)六年十二月なり。首尾(しゅび)能(よ)く彼岸(ひがん)に達して滞在(たいざい)数月、帰航の途(と)に就(つ)き、翌年閏(うるう)五月を以て日本に安着(あんちゃく)したり。
 これぞ我大日本国の開闢(かいびゃく)以来(いらい)、自国人の手を以て自国の軍艦(ぐんかん)を運転(うんてん)し遠く外国に渡(わた)りたる濫觴(らんしょう)にして、この一挙(いっきょ)以て我国の名声(めいせい)を海外諸国に鳴らし、自(おのず)から九鼎(きゅうてい)大呂(たいりょ)の重(おもき)を成したるは、事実に争うべからず。就中(なかんずく)、木村摂津守の名は今なお米国において記録(きろく)に存し、また古老(ころう)の記憶(きおく)する処(ところ)にして、我海軍の歴史に堙没(いんぼつ)すべからざるものなり。
 当時、諭吉は旧(きゅう)中津藩(なかつはん)の士族にして、夙(つと)に洋学(ようがく)に志し江戸に来て藩邸内(はんていない)に在りしが、軍艦の遠洋航海(えんようこうかい)を聞き、外行(がいこう)の念(ねん)自(みず)から禁ずる能(あた)わず。すなわち紹介(しょうかい)を求めて軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)の邸(やしき)に伺候(しこう)し、従僕(じゅうぼく)となりて随行(ずいこう)せんことを懇願(こんがん)せしに、奉行は唯(ただ)一面識(いちめんしき)の下(もと)に容易(たやす)くこれを許(ゆる)して航海(こうかい)の列(れつ)に加わるを得たり。航海中より彼地(かのち)に至(いた)りて滞在(たいざい)僅々(きんきん)数箇月なるも、所見(しょけん)所聞(しょぶん)一として新(あらた)ならざるはなし。多年来(たねんらい)西洋の書を読(よ)み理(り)を講(こう)じて多少に得たるところのその知見(ちけん)も、今や始めて実物(じつぶつ)に接して、大(おおい)に平生(へいぜい)の思想(しそう)齟齬(そご)するものあり、また正しく符合(ふごう)するものもありて、これを要(よう)するに今度の航海は、諭吉が机上(きじょう)の学問(がくもん)を実(じつ)にしたるものにして、畢生(ひっせい)の利益これより大なるはなし。而(しこう)してその利益はすなわち木村軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)知遇(ちぐう)の賜(たまもの)にして、終(つい)に忘(わす)るべからざるところのものなり。芥舟先生は少小より文思(ぶんし)に富(と)み、また経世(けいせい)の識(しき)あり。常に筆硯(ひっけん)を友として老(おい)の到るを知らず。頃日(けいじつ)脱稿(だっこう)の三十年史は、近時(きんじ)およそ三十年間、我外交(がいこう)の始末(しまつ)につき世間に伝(つた)うるところ徃々(おうおう)誤謬(ごびゅう)多きを憂(うれ)い、先生が旧幕府の時代より身(み)躬(みず)から耳聞(じぶん)目撃(もくげき)して筆記に存(そん)するものを、年月の前後に従(したが)い順次(じゅんじ)に編集(へんしゅう)せられたる実事談(じつじだん)なり。近年、著書(ちょしょ)の坊間(ぼうかん)に現わるるもの甚(はなは)だ多し。その書の多き、随(したがっ)て誤聞(ごぶん)謬伝(びゅうでん)もまた少なからず。殊(こと)に旧政府時代の外交(がいこう)は内治に関係(かんけい)することもっとも重大(じゅうだい)にして、我国人の記念(きねん)に存(そん)すべきものもっとも多きにもかかわらず、今日すでにその事実(じじつ)を失うは識者の常に遺憾(いかん)とするところなりしに、この書一度(ひとた)び世に出(い)でてより、天下(てんか)後世(こうせい)の史家(しか)をしてその拠(よ)るところを確実(かくじつ)にし、自(みず)から誤(あやま)りまた人を誤るの憂(うれい)を免(まぬ)かれしむるに足(た)るべし。
 先生、諭吉に序文(じょぶん)を命(めい)ず。諭吉は年来(ねんらい)他人の書に序(じょ)するを好(この)まずして一切その需(もとめ)を謝絶(しゃぜつ)するの例なれども、諭吉の先生における一身上(しんじょう)の関係(かんけい)浅(あさ)からずして旧恩(きゅうおん)の忘るべからざるものあり。よってその関係(かんけい)の大概(たいがい)を記(しる)して序文に代(か)う。明治二十四年十月十六日、木村旧軍艦奉行(ぶぎょう)の従僕福沢諭吉 誌(しるす)

 同二十六年七月、予腸窒扶斯(ちょうチフス)に罹(かか)りたるとき、先生、特(とく)に駕(が)を抂(まげ)られ、枕辺(まくらべ)にて厚く家人に看護(かんご)の心得(こころえ)を諭(さと)され、その上、予が自(みず)から搗(つ)きたる精米(せいまい)あり、これは極古米(ごくこまい)にして味軽く滋養(じよう)も多ければ、これを粥(かゆ)としまた鰹節(かつぶし)を煮出(にだ)して用(もちう)れば大に裨益(ひえき)あればとて、即時(そくじ)、价(しもべ)を馳(は)せて贈(おく)られたるなど、余は感泣(かんきゅう)措(お)くこと能(あた)わず、涕涙(ているい)しばしば被(ひ)を沾(うるお)したり。また先生の教(おしえ)に従(したが)いて赤十字社病院に入(いり)たる後も、先生来問(らいもん)ありて識(し)るところの医官(いかん)に談じ特に予が事を託(たく)せられたるを以て、一方(ひとかた)ならず便宜(べんぎ)を得たり。数旬を経(へ)て病(やまい)癒(いえ)て退院(たいいん)せんとする時、その諸費を払(はら)わんとせしに院吏(いんり)いう、君の諸入費(しょにゅうひ)は悉皆(しっかい)福沢氏より払(はら)い渡(わた)されたれば、もはやその事に及ばずとなり。
 後(のち)また数旬を経(へ)て、先生予を箱根(はこね)に伴(ともな)い霊泉(れいせん)に浴(よく)して痾(やまい)を養わしめんとの事にて、すなわち先生一家(いっか)子女(しじょ)と共に老妻(ろうさい)諸共(もろとも)、湯本(ゆもと)の福住(ふくずみ)に寓(ぐう)すること凡(およそ)三旬、先生に陪(ばい)して或は古墳(こふん)旧刹(きゅうさつ)を探(さぐ)り、また山を攀(よ)じ川を渉(わた)り、世の塵紛(じんふん)を忘れて神洞(しんどう)仙窟(せんくつ)に遊ぶがごとく、大(おおい)に体力(たいりょく)の重量を増(ま)すに至れり。嗚呼(ああ)、先生何(なん)ぞ予を愛(あい)するの深くして切(せつ)なるや。予何の果報(かほう)ありて、かかる先生の厚遇(こうぐう)を辱(かたじけの)うして老境(ろうきょう)を慰(なぐさ)めたりや。要するに、予の半生(はんせい)将死(しょうし)の気力を蘇(そ)し、やや快(こころよ)くその光陰(こういん)を送り、今なお残喘(ざんぜん)を延(の)べ得たるは、真(しん)に先生の賜(たまもの)というべし。
 以上記(き)するところは、皆予が一身(いっしん)一箇(いっこ)の事にして、他人にこれを示(しめ)すべきものにあらず。またこれを記(しる)すとも、予が禿筆(とくひつ)、その山よりも高(たか)く海よりも深(ふか)き万分の一ツをもいい尽(つく)すこと能(あた)わず。またせめては先生の生前(せいぜん)において、予がいかにこの感泣(かんきゅう)すべきこの感謝(かんしゃ)[#「感謝」は底本では「感射」]すべき熱心(ねっしん)と、いかにこの欣戴(きんたい)し惜(お)かざる衷情(ちゅうじょう)とを具(つぶ)さに言(い)いも出(いで)ずして今日に至りたるは、先生これを何(なん)とか思われんなどと、一念(いちねん)ここに及ぶ毎(ごと)に、胸(むね)裂(さ)け腸(はらわた)砕(さ)けて、真(しん)に悔恨(かいこん)已(や)む能(あた)わざるなり。
了

底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
※緒言は石河幹明によるものです。
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
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