あらすじ
「瘠我慢の説」は、幕末の日本の政治家・小栗上野介が、外国の干渉から日本を守るために、どのように行動したのかを描いた作品です。著者は、当時の外交事情を詳しく分析し、小栗上野介の行動が、当時の日本の状況において最善の選択であったことを力強く主張します。緻密な歴史資料に基づいた論理的な展開は、読者を幕末の激動の時代へと引き込み、政治家たちの苦悩と決断を鮮やかに描き出します。
 一月一日の時事新報に瘠我慢(やせがまん)の説(せつ)を公(おおやけ)にするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論(ひょうろん)を掲(かか)げたり。先生その大意(たいい)を人より聞き余(よ)に謂(いい)て曰(いわ)く、兼(かね)てより幕末外交の顛末(てんまつ)を記載(きさい)せんとして志を果(はた)さず、今評論の誤謬(ごびゅう)を正す為(た)めその一端を語(かた)る可(べ)しとて、当時の事情を説(と)くこと頗(すこぶ)る詳(つまびらか)なり。余すなわちその事実に拠(よ)り一文を草し、碩果生(せきかせい)の名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載(けいさい)せり。実に先生発病(はつびょう)の当日なり。本文と関係(かんけい)あるを以て茲(ここ)に附記(ふき)す。
石河幹明記(しるす)
     瘠我慢の説に対する評論について

碩果生(せきかせい)
 去る十三日の国民新聞(こくみんしんぶん)に「瘠我慢の説を読む」と題(だい)する一篇の評論(ひょうろん)を掲(かか)げたり。これを一読するに惜(おし)むべし論者は幕末(ばくまつ)外交の真相(しんそう)を詳(つまびらか)にせざるがために、折角(せつかく)の評論も全く事実に適(てき)せずして徒(いたずら)に一篇の空文字(くうもんじ)を成(な)したるに過ぎず。
「勝伯(かつはく)が徳川方の大将となり官軍を迎(むか)え戦いたりとせよ、その結果(けっか)はいかなるべきぞ。人を殺(ころ)し財(ざい)を散(さん)ずるがごときは眼前の禍(わざわい)に過(す)ぎず。もしそれ真(しん)の禍は外国の干渉(かんしょう)にあり。これ勝伯の当時においてもっとも憂慮(ゆうりょ)したる点にして、吾人はこれを当時の記録(きろく)に徴(ちょう)して実(じつ)にその憂慮の然(しか)るべき道理(どうり)を見るなり云々(うんぬん)。当時(とうじ)幕府の進歩派小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)の輩(はい)のごときは仏蘭西(フランス)に結びその力を仮(か)りて以て幕府統一の政(まつりごと)をなさんと欲(ほっ)し、薩長(さっちょう)は英国に倚(よ)りてこれに抗(こう)し互(たがい)に掎角(きかく)の勢(いきおい)をなせり。而(しこう)して露国またその虚(きょ)に乗(じょう)ぜんとす。その危機(きき)実に一髪(いっぱつ)と謂(い)わざるべからず。若(も)し幕府にして戦端(せんたん)を開かば、その底止(ていし)するところ何(いずれ)の辺(へん)に在るべき。これ勝伯が一身(しん)を以て万死(ばんし)の途に馳駆(ちく)し、その危局(ききょく)を拾収(しゅうしゅう)し、維新の大業を完成(かんせい)せしむるに余力を剰(あま)さざりし所以(ゆえん)にあらずや云々(うんぬん)」とは評論全篇の骨子(こっし)にして、論者がかかる推定(すいてい)より当時もっとも恐るべきの禍(わざわい)は外国の干渉(かんしょう)に在りとなし、東西開戦(かいせん)せば日本国の存亡(そんぼう)も図(はか)るべからざるごとくに認め、以て勝氏の行為(こうい)を弁護(べんご)したるは、畢竟(ひっきょう)するに全く事実を知らざるに坐(ざ)するものなり。
 今当時(とうじ)における外交の事情(じじょう)を述べんとするに当り、先(ま)ず小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)の人と為(な)りより説(と)かんに、小栗は家康公(いえやすこう)以来有名(ゆうめい)なる家柄(いえがら)に生れ旗下(きか)中の鏘々(そうそう)たる武士にして幕末の事、すでに為(な)すべからざるを知るといえども、我(わ)が事(つか)うるところの存(そん)せん限(かぎ)りは一日も政府の任を尽(つ)くさざるべからずとて極力(きょくりょく)計画(けいかく)したるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは勘定奉行(かんじょうぶぎょう)在職中(ざいしょくちゅう)にして一身を以て各方面に当(あた)り、彼(か)の横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)の設立(せつりつ)のごとき、この人の発意(はつい)に出(い)でたるものなり。
 小栗はかくのごとく自(みず)から内外の局(きょく)に当(あた)りて時の幕吏中(ばくりちゅう)にては割合に外国の事情(じじょう)にも通じたる人なれども、平生(へいぜい)の言(こと)に西洋の技術(ぎじゅつ)はすべて日本に優(まさ)るといえども医術(いじゅつ)だけは漢方(かんぽう)に及ばず、ただ洋法(ようほう)に取るべきものは熱病(ねつびょう)の治療法(ちりょうほう)のみなりとて、彼(か)の浅田宗伯(あさだそうはく)を信ずること深(ふか)かりしという。すなわちその思想(しそう)は純然たる古流(こりゅう)にして、三河武士(みかわぶし)一片の精神(せいしん)、ただ徳川累世(るいせい)の恩義(おんぎ)に報(むく)ゆるの外他志(たし)あることなし。
 小栗の人物(じんぶつ)は右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼(か)の米国の使節(しせつ)ペルリが渡来(とらい)して開国(かいこく)を促(うなが)したる最初(さいしょ)の目的は、単に薪水(しんすい)食料(しょくりょう)を求むるの便宜(べんぎ)を得んとするに過ぎざりしは、その要求(ようきゅう)の個条(かじょう)を見るも明白(めいはく)にして、その後タオンセント・ハリスが全権(ぜんけん)を帯びて来るに及び、始めて通商条約(つうしょうじょうやく)を結び、次(つい)で英露仏等の諸国も来りて新条約の仲間入(なかまいり)したれども、その目的は他に非ず、日本との交際(こうさい)は恰(あたか)も当時の流行(りゅうこう)にして、ただその流行に連(つ)れて条約を結びたるのみ。
 通商貿易(つうしょうぼうえき)の利益(りえき)など最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子(ようす)を見れば案外(あんがい)開(ひら)けたる国にして生糸(きいと)その他の物産(ぶっさん)に乏(とぼ)しからず、随(したがっ)て案外にも外国品を需用(じゅよう)するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意(ちゅうい)することと為(な)りたれども、彼等の見(み)るところはただこれ一個の貿易国(ぼうえきこく)として単にその利益(りえき)を利せんとしたるに過(す)ぎず。素(もと)より今日のごとき国交際(こくこうさい)の関係(かんけい)あるに非ざれば、大抵(たいてい)のことは出先(でさ)きの公使に一任し、本国政府においてはただ報告(ほうこく)を聞くに止(とど)まりたるその趣(おもむき)は、彼(か)の国々が従来未開国(みかいこく)に対するの筆法(ひっぽう)に徴(ちょう)して想像(そうぞう)するに足(た)るべし。
 されば各国公使等の挙動(きょどう)を窺(うかが)えば、国際の礼儀(れいぎ)法式(ほうしき)のごとき固(もと)より眼中(がんちゅう)に置(お)かず、動(やや)もすれば脅嚇手段(きょうかくしゅだん)を用い些細(ささい)のことにも声を大(だい)にして兵力を訴(うった)えて目的(もくてき)を達すべしと公言するなど、その乱暴狼籍(らんぼうろうぜき)驚くべきものあり。外国の事情(じじょう)に通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意向(いこう)も云々(うんぬん)ならんと漫(みだり)に推測(すいそく)して恐怖(きょうふ)を懐(いだ)きたるものありしかども、その挙動(きょどう)は公使一個の考(かんがえ)にして政府の意志(いし)を代表(だいひょう)したるものと見るべからず。すなわち彼等の目的(もくてき)は時機(じき)に投じて恩威(おんい)並(なら)び施(ほどこ)し、飽(あ)くまでも自国の利益(りえき)を張(は)らんとしたるその中には、公使始めこれに附随(ふずい)する一類(いちるい)の輩(はい)にも種々の人物(じんぶつ)ありて、この機会(きかい)に乗じて自(みず)から利(り)し自家(じか)の懐(ふところ)を肥(こ)やさんと謀(はか)りたるものも少なからず。
 その事実を記(しる)さんに、外国公使中にて最初(さいしょ)日本人に親(した)しかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実好意(こうい)を以て我国(わがくに)に対したりしも、後任(こうにん)のブライン氏は前任者に引換(ひきか)え甚(はなは)だ不親切(ふしんせつ)の人なりとて評判(ひょうばん)宜(よろ)しからず。小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)が全盛(ぜんせい)の当時、常に政府に近(ちか)づきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗本鋤雲(くりもとじょうん)等とも親(した)しく交際(こうさい)し政府のために種々の策(さく)を建てたる中にも、ロセツが彼(か)の横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)設立の計画(けいかく)に関係(かんけい)したるがごとき、その謀計(ぼうけい)頗(すこぶ)る奇(き)なる者あり。
 当時外国公使はいずれも横浜に駐剳(ちゅうさつ)せしに、ロセツは各国人環視(かんし)の中にては事を謀(はか)るに不便(ふべん)なるを認めたることならん、病(やまい)と称し飄然(ひょうぜん)熱海(あたみ)に去りて容易(ようい)に帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅田宗伯(あさだそうはく)という名医(めいい)ありと聞く、ぜひその診察を乞(こ)いたしとの請求に、此方(このほう)にては仏公使が浅田の診察(しんさつ)を乞(こ)うは日本の名誉(めいよ)なりとの考にて、早速(さっそく)これを許(ゆる)し宗伯を熱海に遣(つか)わすこととなり、爾来(じらい)浅田はしばしば熱海に往復(おうふく)して公使を診察(しんさつ)せり。浅田が大医(たいい)の名を博(はく)して大(おおい)に流行したるはこの評判(ひょうばん)高かりしが為(ため)なりという。
 さてロセツが何故(なにゆえ)に浅田を指名して診察(しんさつ)を求(もと)めたるやというに、診察とは口実(こうじつ)のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知(たんち)し、治療(ちりょう)に託してこれに親(した)しみ、浅田を介(かい)して小栗との間に、交通(こうつう)を開き事を謀(はか)りたる者にて、流石(さすが)は外交家の手腕(しゅわん)を見るべし。かくて事の漸(ようや)く進むや外国奉行(がいこくぶぎょう)等は近海巡視(きんかいじゅんし)など称し幕府の小軍艦に乗(じょう)じて頻々(ひんぴん)公使の許(もと)に往復(おうふく)し、他の外国人の知(しら)ぬ間に約束(やくそく)成立(せいりつ)して発表(はっぴょう)したるは、すなわち横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)の設立にして、日本政府は二百四十万弗(ドル)を支出(ししゅつ)し、四年間継続(けいぞく)の工事としてこれを経営(けいえい)し、技師職工は仏人を雇(やと)い、随(したがっ)て器械(きかい)材料(ざいりょう)の買入までも仏人に任(まか)せたり。
 小栗等の目的(もくてき)は一意(いちい)軍備の基(もとい)を固(かた)うするがために幕末財政(ざいせい)窮迫(きゅうはく)の最中(さいちゅう)にもかかわらず奮(ふるっ)てこの計画(けいかく)を企(くわだ)てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内(ふあんない)なる時に際し、これを引受(ひきう)けたる仏人の利益(りえき)は想(おも)い見るべし。ロセツはこれがために非常(ひじょう)に利したりという。
 かくて一方には造船所の計画(けいかく)成(な)ると同時に、一方において更(さら)にロセツより申出(もうしい)でたるその言に曰(いわ)く、日本国中には将軍殿下(しょうぐんでんか)の御領地(ごりょうち)も少からざることならん、その土地の内に産(さん)する生糸(きいと)は一切他(た)に出(いだ)さずして政府の手より仏国人に売渡(うりわた)さるるよう致(いた)し度(た)し、御承知(ごしょうち)にてもあらんが仏国は世界第一の織物国(おりものこく)にして生糸の需用(じゅよう)甚(はなは)だ盛(さかん)なれば、他国の相場(そうば)より幾割の高価(こうか)にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味(いみ)なきがごとくなれども、ロセツの真意(しんい)は政府が造船所(ぞうせんじょ)の経営(けいえい)を企(くわだ)てしその費用の出処(しゅっしょ)に苦しみつつある内情を洞見(どうけん)し、かくして日本政府に一種の財源(ざいげん)を与(あた)うるときは、生糸専売(きいとせんばい)の利益を占(し)むるの目的(もくてき)を達し得べしと考(かんが)えたることならん。
 すなわち実際には造船所の計画(けいかく)と聯関(れんかん)したるものなれども、これを別問題(べつもんだい)としてさり気(げ)なく申出(もうしいだ)したるは、たといこの事が行われざるも造船所計画(けいかく)の進行(しんこう)に故障(こしょう)を及ぼさしむべからずとの用意(ようい)に外ならず。掛引(かけひき)の妙(みょう)を得たるものなれども、政府にてはかかる企(たくら)みと知るや知らずや、財政窮迫(きゅうはく)の折柄(おりから)、この申出(もうしいで)に逢うて恰(あたか)も渡(わた)りに舟(ふね)の思(おもい)をなし、直(ただち)にこれを承諾(しょうだく)したるに、かかる事柄(ことがら)は固(もと)より行わるべきに非ず。その事の知(し)れ渡(わた)るや各国公使は異口同音(いくどうおん)に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使(オランダこうし)のごときもっとも強硬(きょうこう)にして、現に瓜哇(ジャワ)には蘭王(らんおう)の料地(りょうち)ありて物産(ぶっさん)を出せども、これを政府の手にて売捌(うりさば)くことなし、外国と通商条約(つうしょうじょうやく)を取結びながら、或(あ)る産物(さんぶつ)を或る一国に専売(せんばい)するがごとき万国公法(ばんこくこうほう)に違反(いはん)したる挙動(きょどう)ならずやとの口調(くちょう)を以て厳(きび)しく談(だん)じ込(こ)まれたるが故(ゆえ)に、政府においては一言(いちごん)もなく、ロセツの申出はついに行(おこな)われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用(しんよう)を利用して利を謀(はか)るに抜目(ぬけめ)なかりしは凡(およ)そこの類(たぐい)なり。
 単に公使のみならず仏国の訳官(やくかん)にメルメデ・カションという者あり。本来宣教師(せんきょうし)にして久しく函館(はこだて)に在(あ)り、ほぼ日本語にも通(つう)じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近(ちか)づきて利したること尠(すく)なからず。その一例を申せば、幕府にて下(しも)ノ関(せき)償金(しょうきん)の一部分を払うに際し、かねて貯(たくわ)うるところの文銭(ぶんせん)(一文銅銭)二十何万円を売り金(きん)に換(か)えんとするに、文銭は銅質(どうしつ)善良(ぜんりょう)なるを以てその実価(じっか)の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定(ほうてい)の価格に由(よ)るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置(しょち)につき勘考中(かんこうちゅう)、カションこれを聞き込み、その銭(ぜに)を一手に引受(ひきう)け海外の市場に輸出し大(おおい)に儲(もう)けんとして香港(ホンコン)に送りしに、陸揚(りくあげ)の際に銭(ぜに)を積(つ)みたる端船(たんせん)覆没(ふくぼつ)してかえって大に損(そん)したることあり。その後カションはいかなる病気(びょうき)に罹(かか)りけん、盲目(もうもく)となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果(いんが)覿面(てきめん)、好(よ)き気味(きみ)なりと竊(ひそか)に語(かた)り合いしという。
 またその反対(はんたい)の例を記(しる)せば、彼(か)の生麦事件(なまむぎじけん)につき英人の挙動(きょどう)は如何(いかん)というに、損害要求(そんがいようきゅう)のためとて軍艦を品川に乗入(のりい)れ、時間を限(かぎ)りて幕府に決答(けっとう)を促(うなが)したるその時の意気込(いきご)みは非常(ひじょう)のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇(ちゅうちょ)するときは軍艦より先(ま)ず高輪(たかなわ)の薩州邸(さっしゅうてい)を砲撃(ほうげき)し、更(さ)らに浜御殿(はまごてん)を占領(せんりょう)して此処(ここ)より大城に向て砲火(ほうか)を開き、江戸市街を焼打(やきうち)にすべし云々(うんぬん)とて、その戦略(せんりゃく)さえ公言(こうげん)して憚(はば)からざるは、以て虚喝(きょかつ)に外ならざるを知るべし。
 されば米国人などは、一個人の殺害(さつがい)せられたるために三十五万弗(ドル)の金額を要求するごとき不法(ふほう)の沙汰(さた)は未(いま)だかつて聞かざるところなり、砲撃(ほうげき)云々(うんぬん)は全く虚喝(きょかつ)に過(す)ぎざれば断じてその要求を拒絶(きょぜつ)すべし、たといこれを拒絶(きょぜつ)するも真実(しんじつ)国と国との開戦(かいせん)に至(いた)らざるは請合(うけあ)いなりとて頻(しき)りに拒絶論(きょぜつろん)を唱(とな)えたれども、幕府の当局者は彼の権幕(けんまく)に恐怖(きょうふ)して直(ただち)に償金(しょうきん)を払(はら)い渡(わた)したり。
 この時、更(さ)らに奇怪(きかい)なりしは仏国公使の挙動(きょどう)にして本来(ほんらい)その事件には全く関係(かんけい)なきにかかわらず、公然書面を政府に差出(さしいだ)し、政府もし英国の要求を聞入(ききい)れざるにおいては仏国は英と同盟して直(ただち)に開戦(かいせん)に及(およ)ぶべしと迫(せま)りたるがごとき、孰(いずれ)も公使一個の考(かんがえ)にして決して本国政府の命令(めいれい)に出でたるものと見るべからず。
 彼(か)の下ノ関砲撃事件(ほうげきじけん)のごときも、各公使が臨機(りんき)の計(はから)いにして、深き考ありしに非ず。現(げん)に後日、彼の砲撃に与(あずか)りたる或(あ)る米国士官の実話(じつわ)に、彼の時は他国の軍艦が行(ゆ)かんとするゆえ強(し)いて同行したるまでにて、恰(あたか)も銃猟(じゅうりょう)にても誘(さそ)われたる積(つも)りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
 右のごとき始末(しまつ)にして、外国政府が日本の内乱に乗(じょう)じ兵力(へいりょく)を用いて大(おおい)に干渉(かんしょう)を試みんとするの意志(いし)を懐(いだ)きたるなど到底(とうてい)思(おも)いも寄らざるところなれども、当時(とうじ)外国人にも自(おのず)から種々の説を唱(とな)えたるものなきにあらずというその次第(しだい)は、たとえば幕府にて始めに使節(しせつ)を米国に遣(つか)わしたるとき、彼の軍艦咸臨丸(かんりんまる)に便乗(ぴんじょう)したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇(あ)うて南軍に属し、一種の弾丸(だんがん)を発明(はつめい)しこれを使用してしばしば戦功を現(あら)わせしが、戦後その身の閑(かん)なるがために所謂(いわゆる)脾肉(ひにく)の嘆(たん)に堪(た)えず、折柄(おりから)渡来(とらい)したる日本人に対し、もしも日本政府にて余(よ)を雇入(やといい)れ彼(か)の若年寄(わかどしより)の屋敷(やしき)のごとき邸宅(ていたく)に居るを得せしめなば別(べつ)に金(かね)は望まず、日本に行(ゆき)て政府のために尽力(じんりょく)したしと真面目(まじめ)に語りたることあり。
 また維新の際にも或(あ)る米人のごとき、もしも政府において五十万弗(ドル)を支出(ししゅつ)せんには三隻(せき)の船を造(つく)りこれに水雷を装置(そうち)して敵(てき)に当るべし、西国大名のごときこれを粉韲(ふんさい)[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する容易(ようい)のみとて頻(しき)りに勧説(かんせつ)したるものあり。蓋(けだ)し当時南北戦争漸(ようや)く止(や)み、その戦争(せんそう)に従事したる壮年(そうねん)血気(けっき)の輩(はい)は無聊(ぶりょう)に苦しみたる折柄(おりから)なれば、米人には自(おのず)からこの種(しゅ)の輩(はい)多(おお)かりしといえども、或(あるい)はその他の外国人にも同様(どうよう)の者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑(たじふんざつ)の際に何か一(ひ)と仕事(しごと)して恰(あたか)も一杯の酒を贏(か)ち得(う)れば自(みず)からこれを愉快(ゆかい)とするものにして、ただ当人銘々(めいめい)の好事心(こうずしん)より出でたるに過ぎず。五十万円(ママ)を以て三隻の水雷船(すいらいせん)を造り、以て敵を鏖(みなごろし)にすべしなど真に一場(じょう)の戯言(ぎげん)に似(に)たれども、何(いず)れの時代にもかくのごとき奇談(きだん)は珍らしからず。
 現に日清戦争(にっしんせんそう)の時にも、種々の計(はかりごと)を献(けん)じて支那政府の採用(さいよう)を求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙(しんぶんし)に見えて世人の記憶(きおく)するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻(しき)りに来訪(らいほう)して、前記のごとき計画(けいかく)を説き政府に取次(とりつぎ)を求めたるもの一にして足(た)らざりしかども、ただこれを聞流(ききなが)して取合(とりあ)わざりしという。もしもかかる事実(じじつ)を以て外国人に云々(しかじか)の企(くわだて)ありなど認むるものもあらんには大なる間違(まちがい)にして、干渉(かんしょう)の危険のごとき、いやしくも時の事情を知(し)るものの何人(なんぴと)も認めざりしところなり。
 されば王政維新(おうせいいしん)の後、新政府にては各国公使を大阪に召集(しょうしゅう)し政府革命(かくめい)の事を告げて各国の承認(しょうにん)を求めたるに、素(もと)より異議(いぎ)あるべきにあらず、いずれも同意を表(ひょう)したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制(へんせい)その他の事に関し少なからざる債権(さいけん)あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭(もうとう)差支(さしつかえ)なしとてその挨拶(あいさつ)甚(はなは)だ淡泊(たんぱく)なりしという。仏国が殊(こと)に幕府を庇護(ひご)するの意なかりし一証(しょう)として見るべし。
 ついでながら仏公使の云々(うんぬん)したる陸軍の事を記(しる)さんに、徳川の海軍は蘭人(らんじん)より伝習(でんしゅう)したれども、陸軍は仏人に依頼(いらい)し一切仏式(ふっしき)を用いていわゆる三兵(さんぺい)なるものを組織(そしき)したり。これも小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)等の尽力(じんりょく)に出でたるものにて、例の財政(ざいせい)困難(こんなん)の場合とて費用の支出(ししゅつ)については当局者の苦心(くしん)尋常(じんじょう)ならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長(たいちょう)等は仏国教師の言を聞(き)き、これも必要なり彼(か)れも入用なりとて兵器は勿論(もちろん)、被服(ひふく)帽子(ぼうし)の類に至るまで仏国品を取寄(とりよ)するの約束(やくそく)を結びながら、その都度(つど)小栗には謀(はか)らずして直(ただち)に老中(ろうじゅう)の調印(ちょういん)を求めたるに、老中等は事の要不要(ようふよう)を問わず、乞(こ)わるるまま一々調印(ちょういん)したるにぞ、小栗もほとんど当惑(とうわく)せりという。仏公使が幕府に対するの債権(さいけん)とはこれ等の代価(だいか)を指(さ)したる者なり。
 かかる次第(しだい)にして小栗等が仏人を延(ひ)いて種々計画(けいかく)したるは事実(じじつ)なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専(もっぱ)ら軍備(ぐんび)を整うるの目的(もくてき)に外ならず。すなわち明治政府において外国の金(かね)を借り、またその人を雇(やと)うて鉄道海軍の事を計画(けいかく)したると毫(ごう)も異(こと)なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神(せいしん)気魄(きはく)純然たる当年の三河武士(みかわぶし)なり。徳川の存(そん)する限りは一日にてもその事(つか)うるところに忠ならんことを勉(つと)め、鞠躬(きっきゅう)尽瘁(じんすい)、終(つい)に身を以てこれに殉(じゅん)じたるものなり。外国の力を仮(か)りて政府を保存(ほぞん)せんと謀(はか)りたりとの評(ひょう)の如(ごと)きは、決(けっ)して甘受(かんじゅ)せざるところならん。
 今仮(か)りに一歩を譲(ゆず)り、幕末に際(さい)して外国(がいこく)干渉(かんしょう)の憂(うれい)ありしとせんか、その機会(きかい)は官軍(かんぐん)東下(とうか)、徳川顛覆(てんぷく)の場合にあらずして、むしろ長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)の時にありしならん。長州征伐は幕府創立(そうりつ)以来の大騒動(だいそうどう)にして、前後数年の久(ひさ)しきにわたり目的(もくてき)を達するを得ず、徳川三百年の積威(せきい)はこれがために失墜(しっつい)し、大名中にもこれより幕命(ばくめい)を聞かざるものあるに至りし始末(しまつ)なれば、果(はた)して外国人に干渉(かんしょう)の意あらんにはこの機会(きかい)こそ逸(いっ)すべからざるはずなるに、然(しか)るに当時外人の挙動(きょどう)を見れば、別に異(こと)なりたる様子(ようす)もなく、長州騒動(そうどう)の沙汰(さた)のごとき、一般にこれを馬耳東風(ばじとうふう)に付し去るの有様(ありさま)なりき。
 すなわち彼等は長州が勝(か)つも徳川が負(ま)くるも毫(ごう)も心に関(かん)せず、心に関するところはただ利益(りえき)の一点にして、或(あるい)は商人のごときは兵乱(へいらん)のために兵器(へいき)を売付(うりつ)くるの道を得てひそかに喜(よろこ)びたるものありしならんといえども、その隙(すき)に乗(じょう)じて政治的干渉(かんしょう)を試(こころ)みるなど企(くわだ)てたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動(そうどう)に対して痛痒(つうよう)相(あい)関(かん)せざりしに反し、官軍の東下に引続(ひきつづ)き奥羽の戦争(せんそう)に付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶(きょうこう)を起したるその次第(しだい)は、中国辺にいかなる騒乱(そうらん)あるも、ただ農作(のうさく)を妨(さまた)ぐるのみにして、米の収穫(しゅうかく)如何(いかん)は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地(ようさんち)にして、もしもその地方が戦争のために荒(あ)らされて生糸の輸出(ゆしゅつ)断絶(だんぜつ)する時は、横浜の貿易に非常の影響(えいきょう)を蒙(こうむ)らざるを得ず、すなわち外人の恐惶(きょうこう)を催(もよお)したる所以(ゆえん)にして、彼等の利害上、内乱(ないらん)に干渉(かんしょう)してますますその騒動を大ならしむるがごとき思(おも)いも寄(よ)らず、ただ一日も平和回復(へいわかいふく)の早(はや)からんことを望みたるならんのみ。
 また更(さ)らに一歩を進(すす)めて考(かんが)うれば、日本の内乱に際し外国干渉(かんしょう)の憂(うれい)ありとせんには、王政維新(おうせいいしん)の後に至りてもまた機会(きかい)なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争(せいなんせんそう)なり。当時薩兵(さっぺい)の勢(いきおい)、猛烈(もうれつ)なりしは幕末(ばくまつ)における長州の比(ひ)にあらず。政府はほとんど全国の兵を挙(あ)げ、加(くわ)うるに文明精巧(せいこう)の兵器(へいき)を以てして尚(な)お容易(ようい)にこれを鎮圧(ちんあつ)するを得ず、攻城(こうじょう)野戦(やせん)凡(およ)そ八箇月、わずかに平定(へいてい)の功(こう)を奏(そう)したれども、戦争中国内の有様(ありさま)を察(さっ)すれば所在(しょざい)の不平士族(ふへいしぞく)は日夜、剣(けん)を撫(ぶ)して官軍の勢(いきおい)、利ならずと見るときは蹶起(けっき)直(ただち)に政府に抗(こう)せんとし、すでにその用意(ようい)に着手(ちゃくしゅ)したるものもあり。
 また百姓(ひゃくしょう)の輩(はい)は地租改正(ちそかいせい)のために竹槍(ちくそう)席旗(せきき)の暴動(ぼうどう)を醸(かも)したるその余炎(よえん)未(いま)だ収(おさ)まらず、況(いわ)んや現に政府の顕官(けんかん)中にも竊(ひそか)に不平士族と気脈(きみゃく)を通じて、蕭牆(しょうしょう)の辺(へん)に乱(らん)を企(くわだ)てたる者さえなきに非ず。形勢(けいせい)の急(きゅう)なるは、幕末の時に比(ひ)して更(さ)らに急なるその内乱(ないらん)危急(ききゅう)の場合に際し、外国人の挙動(きょどう)は如何というに、甚(はなは)だ平気(へいき)にして干渉(かんしょう)などの様子(ようす)なきのみならず、日本人においても敵味方(てきみかた)共(とも)に実際干渉(かんしょう)を掛念(けねん)したるものはあるべからず。
 或は西南の騒動(そうどう)は、一個の臣民(しんみん)たる西郷が正統(せいとう)の政府に対して叛乱(はんらん)を企(くわだ)てたるものに過ぎざれども、戊辰(ぼしん)の変(へん)は京都の政府と江戸の政府と対立(たいりつ)して恰(あたか)も両政府の争(あらそい)なれば、外国人はおのおのその認(みと)むるところの政府に左袒(さたん)して干渉(かんしょう)の端(たん)を開くの恐(おそ)れありしといわんか。外人の眼を以て見(み)るときは、戊辰(ぼしん)における薩長人(さっちょうじん)の挙動(きょどう)と十年における西郷の挙動と何の選(えら)むところあらんや。等(ひと)しく時の政府に反抗(はんこう)したるものにして、若(も)しも西郷が志(こころざし)を得て実際(じっさい)に新政府を組織(そしき)したらんには、これを認むることなお維新政府(いしんせいふ)を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質(せいしつ)如何(いかん)は以て干渉の有無(うむ)を判断(はんだん)するの標準(ひょうじゅん)とするに足(た)らざるなり。
 そもそも幕末の時に当りて上方(かみがた)の辺に出没(しゅつぼつ)したるいわゆる勤王有志家(きんのうゆうしか)の挙動を見れば、家を焼(や)くものあり人を殺(ころ)すものあり、或は足利(あしかが)三代の木像(もくぞう)の首を斬(き)りこれを梟(きょう)するなど、乱暴狼籍(らんぼうろうぜき)名状(めいじょう)すべからず。その中には多少時勢(じせい)に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢(ぶぜい)、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺(なが)むるときは、ただこれ攘夷(じょうい)一偏の壮士輩(そうしはい)と認めざるを得ず。然(しか)らば幕府の内情は如何(いかん)というに攘夷論(じょういろん)の盛(さかん)なるは当時の諸藩(しょはん)に譲(ゆず)らず、否(い)な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬(きょうこう)なる攘夷(じょうい)藩というも可なる程(ほど)なれども、ただ責任(せきにん)の局に在(あ)るが故(ゆえ)に、止(や)むを得ず外国人に接して表面(ひょうめん)に和親(わしん)を表したるのみ。内実は飽(あ)くまでも鎖攘主義(さじょうしゅぎ)にして、ひたすら外人を遠(とお)ざけんとしたるその一例をいえば、品川(しながわ)に無益(むえき)の砲台(ほうだい)など築(きず)きたるその上に、更(さ)らに兵庫(ひょうご)の和田岬(わだみさき)に新砲台の建築(けんちく)を命じたるその命を受けて築造(ちくぞう)に従事せしはすなわち勝氏(かつし)にして、その目的(もくてき)は固(もと)より攘夷(じょうい)に外ならず。勝氏は真実(しんじつ)の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時(とうじ)の勢(いきおい)、止(や)むを得ずして攘夷論を装(よそお)いたるものならん。その事情(じじょう)以(もっ)て知るべし。
 されば鳥羽(とば)伏見(ふしみ)の戦争、次(つい)で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩(じょういはん)と攘夷藩との衝突(しょうとつ)にして、たとい徳川が倒(たお)れて薩長がこれに代わるも、更(さ)らに第二の徳川政府を見るに過(す)ぎざるべしと一般に予想(よそう)したるも無理(むり)なき次第(しだい)にして、維新後(いしんご)の変化(へんか)は或(あるい)は当局者においては自(みず)から意外(いがい)に思うところならんに、然(しか)るに勝氏は一身の働(はたらき)を以て強(し)いて幕府を解散(かいさん)し、薩長の徒(と)に天下を引渡(ひきわた)したるはいかなる考(かんがえ)より出でたるか、今日に至りこれを弁護(べんご)するものは、勝氏は当時外国干渉(がいこくかんしょう)すなわち国家の危機(きき)に際して、対世界の見地(けんち)より経綸(けいりん)を定めたりなど云々(うんぬん)するも、果(はた)して当人(とうにん)の心事(しんじ)を穿(うが)ち得たるや否(いな)や。
 もしも勝氏が当時において、真実(しんじつ)外国干渉の患(うれい)あるを恐れてかかる処置(しょち)に及びたりとすれば、独(ひと)り自(みず)から架空(かくう)の想像(そうぞう)を逞(たくまし)うしてこれがために無益(むえき)の挙動(きょどう)を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶(うかつ)の人物にあらず。思うに当時人心(じんしん)激昂(げきこう)の際、敵軍を城下に引受(ひきう)けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏(おだやか)に解散(かいさん)せんとするは武士道の変則(へんそく)古今の珍事(ちんじ)にして、これを断行(だんこう)するには非常の勇気(ゆうき)を要すると共に、人心(じんしん)を籠絡(ろうらく)してその激昂(げきこう)を鎮撫(ちんぶ)するに足(た)るの口実(こうじつ)なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機(きき)云々(うんぬん)を絶叫(ぜっきょう)して、その声を大にし以て人の視聴(しちょう)を聳動(しょうどう)せんと勉(つと)めたる所以(ゆえん)に非ざるか、竊(ひそか)に測量(そくりょう)するところなれども、人々の所見(しょけん)は自(おのず)から異(こと)にして漫(みだり)に他より断定(だんてい)するを得ず。
 当人の心事(しんじ)如何(いかん)は知るに由(よし)なしとするも、左(さ)るにても惜(お)しむべきは勝氏の晩節(ばんせつ)なり。江戸の開城(かいじょう)その事甚(はなは)だ奇(き)にして当局者の心事(しんじ)は解(かい)すべからずといえども、兎(と)に角(かく)その出来上(できあが)りたる結果(けっか)を見れば大成功(だいせいこう)と認めざるを得ず。およそ古今の革命(かくめい)には必ず非常の惨毒(さんどく)を流すの常にして、豊臣(とよとみ)氏の末路(まつろ)のごとき人をして酸鼻(さんび)に堪(た)えざらしむるものあり。然(しか)るに幕府の始末(しまつ)はこれに反し、穏(おだやか)に政府を解散(かいさん)して流血(りゅうけつ)の禍(わざわい)を避(さ)け、無辜(むこ)の人を殺さず、無用(むよう)の財(ざい)を散ぜず、一方には徳川家の祀(まつり)を存し、一方には維新政府の成立(せいりつ)を容易(ようい)ならしめたるは、時勢(じせい)の然(しか)らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走(ほんそう)周旋(しゅうせん)し、内外の困難(こんなん)に当(あた)り円滑(えんかつ)に事を纒(まと)めたるがためにして、その苦心(くしん)の尋常(じんじょう)ならざると、その功徳(こうとく)の大(だい)なるとは、これを争(あらそ)う者あるべからず、明(あきらか)に認(みと)むるところなれども、日本の武士道(ぶしどう)を以てすれば如何(いか)にしても忍(しの)ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功(きこう)を収(おさ)めたる以上は、我事(わがこと)すでに了(おわ)れりとし主家の結末と共に進退(しんたい)を決し、たとい身に墨染(すみぞめ)の衣(ころも)を纒(まと)わざるも心は全く浮世(うきよ)の栄辱(えいじょく)を外(ほか)にして片山里(かたやまざと)に引籠(ひきこも)り静に余生(よせい)を送るの決断(けつだん)に出でたらば、世間においても真実、天下の為(た)めに一身を犠牲(ぎせい)にしたるその苦衷(くちゅう)苦節(くせつ)を諒(りょう)して、一点の非難(ひなん)を挟(さしはさ)むものなかるべし。
 すなわち徳川家が七十万石の新封(しんぽう)を得て纔(わずか)にその祀(まつり)を存したるの日は勝氏が断然(だんぜん)処決(しょけつ)すべきの時機(じき)なりしに、然(しか)るにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散(かいさん)したるその功を持参金(じさんきん)にして、新政府に嫁(か)し、維新功臣の末班(まっぱん)に列して爵位(しゃくい)の高きに居(お)り、俸禄(ほうろく)の豊(ゆたか)なるに安(やす)んじ、得々(とくとく)として貴顕(きけん)栄華(えいが)の新地位(しんちい)を占めたるは、独(ひと)り三河武士(みかわぶし)の末流として徳川累世(るいせい)の恩義(おんぎ)に対し相済(あいす)まざるのみならず、苟(いやしく)も一個の士人たる徳義(とくぎ)操行(そうこう)において天下後世に申訳(もうしわけ)あるべからず。瘠我慢(やせがまん)一篇の精神(せいしん)も専(もっぱ)らここに疑(うたがい)を存しあえてこれを後世の輿論(よろん)に質(ただ)さんとしたるものにして、この一点については論者輩(ろんしゃはい)がいかに千言万語(せんげんばんご)を重(かさ)ぬるも到底(とうてい)弁護(べんご)の効(こう)はなかるべし。返(かえ)す返(がえ)すも勝氏のために惜(お)しまざるを得ざるなり。
 蓋(けだ)し論者のごとき当時の事情(じじょう)を詳(つまびら)かにせず、軽々(けいけい)他人の言に依(よっ)て事を論断(ろんだん)したるが故(ゆえ)にその論の全く事実に反(はん)するも無理(むり)ならず。あえて咎(とが)むるに足(た)らずといえども、これを文字に記(しる)して新聞紙上に公(おおやけ)にするに至りては、伝(つた)えまた伝えて或は世人を誤(あやま)るの掛念(けねん)なきにあらず。いささか筆を労(ろう)して当時の事実を明(あきらか)にするの止(や)むべからざる所以(ゆえん)なり。
了

底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
初出:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
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