あらすじ
大正五年、風ぐすり、料理人の泣言、ゴリキイ危篤、画家と書物、ペンキ一缶、加藤男の出迎へ、陶庵侯と漱石、床次氏凹む、名士の墓石、春葉氏と子供、美術学校問題、料理と芸、男女の奉納物、夜の祭、楊の木、男二人女二人、俊子の道連れ、魯庵の友喰ひ、涙と汗の音曲、食物の味、栖鳳の懐中時計、ニツク・カアタア、鴉と府知事、鬼、月郊と床柱、父と子、酒、魔法使、女の親切、雪舟と禿山、借金の名人、太陽に惚れた人……。薄田泣菫は、大正五年の世相を、ユーモラスな筆致で描き出します。社会の風刺、人間模様、そして歴史と文化の断片が、軽妙な語り口で織りなす珠玉の短篇集です。
目次

風ぐすり

4・12(夕)
 蚯蚓(みゝず)が風邪の妙薬だといひ出してから、彼方此方(あちらこちら)の垣根や塀外(へいそと)を穿(ほじ)くり荒すのを職業(しやうばい)にする人達が出来て来た。郊外生活の地続き、猫の額ほどな空地(あきち)に十歩の春を娯(たのし)まうとする花いぢりも、かういふ輩(てあひ)に遭(あ)つては何(なに)も角(か)も滅茶苦茶に荒されてしまふ。
 箏曲家の鈴木鼓村氏は巨大胃(メガロガストリイ)を有(も)つた男として聞えてゐる人だが、氏は風邪にかゝると、五合飯(めし)と味噌汁をバケツに一杯食べて、それから平素(ふだん)余り好かない煙草を暴(やけ)に吸ふのださうな。「さうすると身体(からだ)ぢゆうの何処(どこ)にも風邪の匿(かく)れる場所が無くなつてしまふ。」と言つてゐる。
 昆虫学者として名高い、それがためにノオベル賞金をも貰(もら)つた仏蘭西(フランス)のアンリ・フアブル先生は、いつも風邪をひくと、自分の頭を灰のなかに突込(つゝこ)むといふ事だ。すると一頻(しき)り咳(せき)が出て風邪はけろりと癒(なほ)つてしまふ。
「随分荒療治ですな。」
と或(ある)人がいふと、フアブル先生済(す)ましたもので、
「何でもありません。一寸(ちよつと)風邪のお葬式をやつたのです。」


料理人の泣言

4・13(夕)
 大隈伯の台所に長く働いてゐる或る料理人の話によると、伯爵家の台所はかなり贅沢(ぜいたく)なものだが、それとは打つて変つて伯自身のお膳立(ぜんだて)は伯爵夫人のお心添(こゝろぞへ)で滋養本位の柔(やはらか)い物づくめなので頓(とん)と腕の見せどころが無いさうだ。また味加減をつけるにも、例の口喧(くちやかま)しい伯の事とて他(ひと)一倍(ばい)講釈はするが、舌は正直なもので、何でも鹹(しよ)つぱくさへして置けば恐悦して舌鼓(したつゞみ)を打つてゐるといふ事だ。
 この料理人の言葉によると、「伯の腰巾着で仕合せなのは武富(たけとみ)や尾崎や高田で、それぞれ大臣の椅子に日向(ひなた)ぼつこをしてゐるが、自分一人は折角の腕を持ちながら一向(かう)主人に味はつて貰へない」のださうだ。
 以前仏蘭西(フランス)の大統領官舎でフエリツクス・フオウルからルウベエ、フワリエエルと三代の大統領に料理番を勤めた男があつて、ある時こんな事を言つてゐた。
「フオウルは仲々の料理通で牡蠣(かき)や蟹が大の好物で葡萄酒も本場の飛切りといふ奴しか口にしなかつた。ルウベエは南仏蘭西の田舎生れだが、それでもお国料理の魚羹(ブイヤベース)のやうな物は滅多に命令(いひつ)けた事は無かつたし、美味(うま)いものを拵(こしら)へると相応に味はつて呉れたものだ。ところがフワリエエルと来てはお話にも何(なん)にもなつたものでは無い。何もかも油でいためて、加之(おまけ)に葱(ねぎ)を添へて置かなくつちや承知しないんだからな。こんな男にいつ迄(まで)ついて居るでもあるまいと思つて、体(てい)よく此方(こつち)からお暇を貰つて来た。」
 これで見ると、腕のある料理番は、忘れても田舎者の大統領や総理大臣の台所には住み込まない事だ。料理が味はつて貰へない上に、事によると給金までも安いかも知れない。


ゴリキイ危篤

4・14(夕)
 ゴリキイが肺炎で危篤だといふ事だ。戦争が始まつてから、ある新聞の特派通信員となつて、戦地に出掛けてゐたから、風邪でも引き込んだのが、肺炎に変つたらしい。
「お腹(なか)の空(す)いてゐる人間の魂は、お腹のいゝ人達の魂に比べると、営養(やしなひ)もよく、ずつと健全(ぢやうぶ)だ。」と言つたゴリキイは、自慢だけに健全(ぢやうぶ)な霊魂(たましひ)は有(も)つてゐるが、肉体(からだ)は余り達者では無く終始(しよつちゆう)肺病に苦しんでゐた。
 二三年前(ぜん)伊太利(イタリー)のカプリ島に謫居(たくきよ)してゐた頃、日本人の学生がその近所に旅をしてゐる事を聞いて、日本人といふものはまだ見た事が無い、一度会つてみたいものだと、恰(まる)で動物園に新着の鸚鵡(あうむ)でも見るやうな物好きな気持で、その日本人に会つた事があつた。
 その折ゴリキイは、件(くだん)の日本人に向つて、日本画を賞(ほ)め、日本人を賞め、日本が東洋一体のお弟子を教育する態度は、歴史にも滅多に見られぬ素晴しいものだといつて賞めちぎつたさうだが、そのお弟子の間(なか)にもお隣の袁(ゑん)氏のやうな不良書生がゐる事を聞かせたらどんなに言ふだらう。
 いつだつたか、莫斯科(モスコー)の芸術座の近くでゴリキイが料理屋に入つてゐると、崇拝者の多くがその姿を見つけてぞろ/\店先に集(たか)つて来た。それを見たゴリキイは例の放浪性を発揮して、
「君達はポカンと口を開(あ)けて何に見惚(みと)れてるんだね。僕は踊子でもなければ、死人(しびと)でも無いんだ。ちよい/\小説を書いて暮らす男が、何が面白くてそんなにきよろ/\するんだね。」
と噛みつくやうに怒鳴(どな)つた。
 翌日(あくるひ)の新聞は、その話を伝へて、自分の崇拝者をこんなに邪慳(じやけん)に取扱つたゴリキイには、お行儀作法の端くれでも教へ込まなければなるまいと、冷(ひや)かしを言つてゐたが、そんな事をいふ輩(てあひ)は崇拝者を持つた事の無い奴で、世の中に崇拝者程うるさいものは無い。
 そのなかで別(わ)けてうるさいのは女の崇拝者で、妻君を崇拝者に有(も)つたのは一番事が面倒だ。だから凡(すべ)ての学者、芸術家、政治家にとつて最も無難な行(や)り方(かた)は、成るべく自分の細君に解(わか)らないやうに物を言ふ事だ。新渡戸(にとべ)博士は婦人雑誌の原稿をかく時には、細君の同意を得(う)るやうな考へしか書かないさうだが、以(もつ)ての外(ほか)の不了見である。


画家と書物

4・15(夕)
 京都大学の新村(しんむら)教授は日本画家の作物(さくぶつ)を難(けな)して、画家(ゑかき)はどうしても本を読まなければ駄目だと言つたさうだ。画家(ゑかき)に本を読めといふのは大学教授に髯(ひげ)を剃(そ)れといふのと同じやうに良い事には相違ない。だが剃立(そりたて)の顔が学者に似合はない事もあるやうに、どうかすると本に食中(しよくあた)りをする画家(ゑかき)もある事を忘れてはならない。新村教授は本を読む画家(ゑかき)の代表として富岡鉄斎をあげて、あの人の画(ゑ)には気品があるといつたさうだが、よしんば気品はあるにしても、鉄斎の画には画家(ゑかき)の敏感(センス)が少しも出てゐない。画家(ゑかき)に本よりも大切(だいじ)なのは敏感(センス)である。
 むかし今津(いまづ)に米屋与右衛門(こめやよゑもん)といふ男が居た。富豪(かねもち)の家に生れたが、学問が好きで色々の書物を貪り読んだ。珍らしい働き手で、酒男(さかをとこ)と一緒に倉に入つてせつせと稼いだから、身代(しんだい)は太る一方だつたが、太るだけの物は道修繕(みちなほし)、橋普請(はしふしん)といつたやうな公共事業に費して少しも惜(をし)まなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てて泣いた。なかに一人智恵の足りない婆さんが交(まじ)つてゐて、おろ/\声で、
「これ程学問してさへこんな好(い)いお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。」
と言つたさうだ。
 婆(ばばあ)め、なか/\皮肉な事を言ひをるわい。


ペンキ一缶

4・16(夕)
 紐育(ニユーヨーク)のあるペンキ商店での出来事だ。――ある日主人が店の間(ま)へ出て来ると、多くのペンキ缶のなかに、たつた一つ曾(つひ)ぞ自分の店で取扱つた事の無いペンキ缶が転がつてゐる。主人はそれを見て支配人を呼んだ。
「この缶は何(ど)うしたのだい。うちで扱つたことの無い代物(しろもの)ぢや無いか。」
「左様(さやう)で御座います。扱つた事はありません。」
 主人の眼は不思議さうに支配人の顔を見た。
「扱はないものが、何だつて店に転がつてるんだね。」
 支配人は例(いつも)のやうににこ/\顔で、
「さればで御座います。今朝程一人のお客さんがお見えになりまして、このペンキは此方(こちら)の店で買つたのだが、不用になつたから原価(もとね)で買ひ戻して呉れまいかと仰有(おつしや)います。見ると店で扱つた品では御座いませんが、お客様の機嫌を損じてもと思つて、言ひなり通りお金を渡して、缶を受取つて置きましたやうな訳で……」
 それを聞いた主人は手を拍(う)つて喜んださうだ。支配人の考へでは、その缶は何店(どこ)で買つたものか知らないが、客がそれを戻さうとする時には、ペンキ屋といへば、直ぐ今の店が代表的に頭に浮んで来たのでそこへ持ち込んだに過ぎなかつた。それをいや違ひます、手前共で扱つた品ではありませんといへば、客の頭に他(ほか)のペンキ屋を思ひ浮ばせるのみか自分の店に対して不愉快な悪い印象を与へる事になる。そこが気転の利(き)かし処(どころ)で、はい/\と言つて二つ返事で買ひ戻しておけば、客は少からぬ好意をもつて店を見る事になる。僅(わづか)なペンキ一缶の価でこの「好意」が買へたかと思ふとこんな嬉しい事はないといふのださうだ。
 そんぢよそこらの百貨店(デパートメント・ストア)や小売店は、牛が※(「齒+台」、第4水準2-94-79)(にれ)をかむやうに、山県(やまがた)公が擂餌(すりゑ)を食べるやうに、よくこの話しを噛みしめて貰ひたい。


 十六日の午前五時四十九分、梅田着の上り列車で同志会総理加藤高明男が南海遊説の帰途(かへりみち)に大阪へ立寄るといふので、まだ薄暗い朝靄(あさもや)のなかから、一等待合室へ顔を出した待受(まちうけ)の三人衆、一人は北浜花外楼(きたはまくわぐわいろう)の女将(おかみ)、あとの二人は痩(や)せたお役人とまる/\肥(ふと)つた浪人者。
 女将は皺くちやな鼻先に今朝は薄化粧さへ施してゐる。二人の男の顔を見比べて「もう程なうお着きだつしやろ。ま、雨が霽(は)れてお出迎へするにもほんまに結構だつせ」と二三日前から取つて置きの愛嬌を、撒水(まきみづ)のやうに寝不足らしい男の顔へぶち撒けてゐる。外には女将が乗りつけて来た男爵お待受けの自動車が、雨上りの道へのつそり匍匐(はひつくば)つてゐる。二人の男はお茶代を弾(はじ)いてゐる女将の腹を見透(みすか)したやうに、四五銭がとこ顔を歪(ゆが)めて、一寸笑顔を見せた。
 瘠(や)せた男は役人生活をしてゐるからには、何日(いつ)また大臣の椅子に直(なほ)らうかも知れぬ加藤さんだ、一寸出迎へをした位で、そんな場合に官等の一つも上(あが)る事が出来たなら、飛んだ儲(まう)け物(もの)だ位は心得てゐる。昨夕(ゆうべ)から毀(こは)れかけの眼覚時計に螺旋(ねぢ)を巻いて、今朝はいつもにない夙起(はやおき)をして来てゐるのだ。
 肥つた男は以前御用雑誌の記者をしてゐる頃、加藤男の計らひで支那視察に出掛ける事になり、しこたま旅費も貰つて、そのなかから流行(はやり)のフロツクコートも一着拵(こしら)へたが、出発間際になつて風邪を引込んで、延々(のびのび)になつてゐるうち、つい沙汰止(さたや)みになつてしまつた。旅費はいつの間にかポケツトの内で消えてしまつて、済まない/\とだけは思つてゐるのだが、幸ひ今日男爵が大阪へ来る事なら、一寸顔出しをして、従来(これまで)の気まづさと旅費の張消しをしようと思つてゐるのだ。で、敬意を表する積りでその折のフロツクコートだけは今朝も着込んでゐる。
 時計はずん/\経(た)つて往(い)つたが、この三人の他には誰一人出迎へるものもない。三人は人数の少いだけ御利益(ごりやく)も多からうと、胸をわく/\させてゐると、程なく汽車は夜通し駆け廻つて懶(だら)けきつた身体(からだ)を廊下(プラツトフオーム)へ横たへた。三人は息せき駆け出して往つたが、出て来る群集(ひとごみ)のなかには加藤男らしいものは影さへ見せなかつた。
 三人は詰らなささうにすた/\構内を出て来た。――皆は言ひ合せたやうにお腹が空(す)いてゐるのだ。実際胃の腑だけは正直なのを持合せてゐるのだから……。


陶庵侯と漱石

4・18(夕)
 西園寺陶庵侯の雨声会が久(ひさ)し振(ぶり)に近日開かれるといふ事だ。招かれる文士のなかには例年通り今から、即吟の下拵(したごしら)へに取蒐(とりかゝ)つてゐる向(むき)もあるらしいと聞いてゐる。
 いつだつたかの雨声会に、夏目漱石氏が招待(せうだい)を受けて、素気(そつけ)なく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひに衝(つ)き合はせてみようと思つたのは、活花(いけばな)去風(こふう)流の家元西川一草亭であつた。
 一草亭は露伴、黙語、月郊などにも花を教へた事のある趣味の男で、陶庵侯の邸(やしき)へもよく花を活けに往(ゆ)くし、漱石氏へも教へに出掛けるしするので、ついこんな事を思ひついて、それを漱石氏に話してみた。
 皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。
「西園寺さんに会へつていふのかい、何だつてあの人に会はなければならないんだね。」
「お会ひになつたら、屹度(きつと)面白い話があるでせうよ。」
「何だつて、そんな事が判(わか)るね。」
 花の家元だけに一草亭は二人の会合を、苅萱(かるかや)と野菊の配合(あしらひ)位に軽く思つて、それを一寸取持つてみたいと思つたに過ぎなかつた。一草亭はこれまで色々(いろん)な草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
「何だつて会はなければならないんだね。」
などと駄目を押した事は無かつた。胃病持ちは面倒臭(めんどくさ)いなと一草亭は思つた。
 一草亭が思ひついたやうに、この二人が無事に顔を合はせたところで、あの通り旋毛曲(つむじまが)りの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすまい。二三時間も黙つて向き合つた末、最後に椎茸(しひたけ)か高野豆腐(かうやどうふ)かの話でもしてその儘(まゝ)別れたに相違なからう。


 九州遊説中の原政友会総裁が鹿児島の鶴鳴館で歓迎を受けた時の事、発起人の挨拶に次いで堀切代議士が五分間演説に、予(かね)て大きい/\とは聞いてゐたが、西郷南洲が実際大きかつた事を今度鹿児島へ来て初めて知つたと、南洲を桜島大根か何ぞのやうに言つてのけると、次に立つたのが床次竹二郎代議士で、成程(なるほど)南洲も大きかつたに相違ないが往時(むかし)の偉人を賞(ほ)める許(ばか)りでは詰(つま)らぬ、吾々自ら偉人となつた積りで働かなければならぬと、蜀山人(しよくさんじん)が見たといふ鰻(うなぎ)になりかけた薯蕷(やまのいも)のやうに、半分方(がた)偉人になりかけたやうな事を言つて、のつそり引下つた。
 すると、末座の方から「諸君!」といつて立ち上つた一人の男、海老のやうに腰を屈(かゞ)め、海老のやうに真赤になつて、「自分は姶良(あひら)郡帖佐(てうさ)の住人で臍(へそ)の緒(を)切つて以来(このかた)演説などいふ下らぬ事をやつた事もなし、またやらうとも思はなかつたが、一生に一度の積りで今日は喋舌(しやべ)らして貰ひたい」といふ冒頭(まくら)で、徐々(ぼつ/\)皮肉つた一条。
「南洲翁の大きかつた事を今になつて吃驚(びつくり)するやうでは、寧(いつ)そ吃驚(びつくり)せずに死んだ方がましだ。何故といふに、そんな人は明日(あす)になつたら、また候(ぞろ)自分の下らぬ事に吃驚(びつくり)するかも知れないから。また床次君のやうに自分が偉人らしい言草(いひぐさ)も気に喰はぬ、身(み)不肖(ふせう)ながら朝夕南洲翁に随(つ)いてゐたから、翁の面目(めんもく)はよく知つてゐるが、翁は一度だつて床次君のやうに偉人になつた積りで働いた事は無かつた。」
と遣(や)つたので床次氏は勿論の事、原敬(けい)迄が半分偉人になつた積りの顔を歪めて苦笑してゐたさうだ。その男といふのは何でも帖佐辺の村長だといふ事だ。


名士の墓石

4・20(夕)
 亡くなつた市川斎入は茶人だけに、紫野(むらさきの)の大徳寺にある、千利休の塔形(たふがた)の墓石(はかいし)に甚(ひど)く感心をして、
「成程、あの墓石(はかいし)に耳を当てがふと、何時(いつ)でも茶の湯の沸(たぎ)る音がしてまんな。私(わて)も俳優甲斐(やくしやがひ)に洒落(しやれ)た墓石(はかいし)が一つ欲しうおまんね。」
と言つてゐるので、或人が、
「君は幽霊や宙釣(ちうづ)りが巧(うま)かつたから、墓石(はかいし)にも一つケレンを仕組(しぐ)んでみたら何(ど)うだい。」
と冷(ひや)かすと、
「阿呆(あほ)らしい。」
と皺くちやな顔を歪めて※(「弗+色」、第3水準1-90-60)(む)くれたさうだ。
 だが、それは斎入が物を識(し)らないからで、徳川時代の洒落者の多かつた江戸町人の墓石(はかいし)には、故人が好物の形に似せた墓も少くなかつた。碁好きの墓に台石を碁盤に拵(こしら)へ、碁笥(ごげ)を花立(はなだて)に見立てたのや、酒飲みの墓を徳利形や、酒樽形に刻んだのもあつた。可笑(をか)しいのは賭博(ばくち)が好きだつたからといつて、墓石(はかいし)に骰子(さいころ)の目まで盛つたのがあつた事だ。それを考へて伜(せがれ)の右団次も亡父(おやぢ)の墓を幽霊の姿にでも刻んだら面白からう。
 この伝で今の名士の墓を定(き)めたら、大隈伯のはメガホン型、原敬のは巡査のサアベル型、山本権兵衛のは英蘭(イングランド)銀行の証券型、尾崎学堂のはテオドラ夫人の……。


春葉氏と子供

4・21(夕)
 洋画家の鹿子木孟郎(かのこぎたけしらう)氏は、結婚した当座といふもの、子供が無いのを甚(ひど)く苦に病んでゐたが、巴里(パリー)で秘方の薬でも授かつたものか、二度目の洋行から帰つて来ると、程なく花のやうな女の児(こ)を儲(まう)けた。それは恰(ちやう)ど結婚後十三年目に当つてゐたが、その後間もなく男の児を生んで、今では立派な子持になつてゐる。
 その初めての産があつた時、同じ画家(ゑかき)仲間の某(なにがし)がどんな婦人(をんな)でもたつた十ヶ月で為(す)る仕事を、画家(ゑかき)ともいはれるものが物の十三年も懸(かゝ)つて、漸(やつ)と仕上げるなんて、そんな間抜(まぬけ)な事があるものかと、厳(きつ)い抗議を申込んだのが、その頃の笑ひ話になつて残つてゐる。
 小説家の柳川(やながは)春葉氏は大の子供好きだが、自分には子供が居無いので、狗(いぬ)ころや小猫を可愛(かあい)がつて、お客の前をも厭(いと)はず、土足の儘(まゝ)で上下(あげおろ)しをするので、清潔好(きれいず)きのお客のなかには気を悪くする向きもあつたが、近頃は何(ど)うした事か、そんな物も余り掛(か)け構(かま)はなくなつたばかしか、友達の顔を見ると、よくこんな事をいふ。
「君、僕も既(も)う結婚後十三年になるよ。」
「へえ十三年にもなるかな。それはお慶(めでた)い。」
「有難(ありがた)う。何しろ十三年目だからね。」
「早いもんだな。」
「ほんとにさ。十三年目なんだからね。」
「可笑(をか)しいぢやないか、十三年目が何(ど)うかしたのかい。」
「うん何だか子供が出来さうなんだよ、何しろ十三年目だからね。」
 聞けば柳川夫人はもう臨月に間もない身体(からだ)ださうで、お慶(めでた)い訳である。春葉氏の説によると、結婚後一二年で直ぐ出来るやうな、極(ごく)安手な早上(はやあが)りは別として、少し遅い子供は七年目とか十三年目とかちやんと年期を追うて出来るものなのださうだ。
 してみると、子供の無い者も、心配は十四年目から始めてもまだ遅くない。


美術学校問題

4・22(夕)
 石井柏亭、坂井犀水(せいすい)等(ら)の美術学校改革案は、無論ある点では美術学校の宿弊に触れてゐる。正木校長は世間の噂通りに判らず屋の無能だし、その蔭に隠れてにや/\笑つてゐる大村西崖(せいがい)が、美術界切つての策士であるのは誰も知つてゐる。
 だが、石井柏亭氏等(ら)の後方(うしろ)にも岩村透(とほる)男(だん)といふ茶目が控へてゐる。あの改革案が岩村男の指金(さしがね)で無かつたら、夙(とつ)くの往昔(むかし)に文部省の方でも取りあげてゐたに相違ないといふのは、少しく美術界の消息に通じてゐる者の誰しも首肯する所だ。
 岩村男は洋行帰り当時は、洒脱な交際ぶりと諧謔交(おどけまじ)りの口上手と無学者ばかりの美術界に幾らか本を読んでゐる、若(もし)くは本が読めるといふので重宝がられて、自分でも下手な絵の方はそつち除(のけ)に、美術の批評家になり済(すま)して了(しま)つた。
 所(ところ)がその美術の批評眼といふのが甚(はなは)だ怪しい。文展審査員当時も、出品をじろりと一瞥(べつ)して「拙(まづ)いな」と顔を顰(しか)めて吐き出すやうに言ふが、さういふ口の下から、落款の「石井柏亭」といふ文字が目につくと、打つて変つたやうに「だが、よく見ると好(い)いね。却々(なか/\)傑作だよ。」といふやうになつた事もある。
 岩村男は口癖のやうに「八百屋の店先に転がつてゐる大根の曲線が解らぬやうでは裸体美の話は出来ぬ。」と言つてゐるが、世の中には大根の曲線だけが解つて、裸体美の一向解らぬ者が無いでもない。
 誰やらの言ひ草ではないが、美術の批評家には二つの資格が要る。第一には美術が解らぬといふ事だ。第二には解らぬ癖にお喋舌(しやべり)がしてみたいといふ事だ。この二つを十分に備へたもので、初めて立派な美術批評家といへるが、かうした意味に於(おい)て岩村男を秀れた美術批評家といふのに無論異存はない。
 だが、美術学校改革問題では、寧(むし)ろ岩村男一派のいふ事に真実があるのだから、美術通を以て任ずる高田文相はこの際同校に思ひ切つた革新が施して貰ひたい。これは極々(ごく/\)の内証話(ないしようばなし)だが、高田文相も岩村男と同じ意味に於て立派に二つの資格を備へた美術通である。


料理と芸

4・23(夕)
 市内で相応に名を売つてゐる或る鶏肉(かしは)屋の主人(あるじ)「鶏肉(かしは)の味は鶏(とり)を落(おと)す瞬間(ほんのま)にあります。」と言つて厳(しかつ)べらしく語り出す。
「味噌汁を拵(こしら)へるのに、味噌の煮え立つ前に、滑(すべ)つこい焼石(やけいし)を鍋(なべ)に衝込(つゝこ)むものがある。かうすると味噌がはつと吃驚(びつくり)して、その瞬間に所謂(いはゆる)味噌の味噌臭い匂ひが失(な)くなつて、真実(ほんとう)の味となる。」
「鶏を料理するにも、この焼石の機転が無くてはならぬ。鶏を安心させておいて、その瞬間にはつと落す。落すにはそれ/″\自分が手に入(い)つた方法を択(えら)んで差支(さしつかへ)ないが、唯(たゞ)落すその一瞬間は鶏に気取(けど)られぬ程の微妙(デリケート)な点(ところ)が無くてはならぬ。気取られたが最後肉の味はまづくなる。自分は今日まで幾千羽といふ鶏を潰(つぶ)したが吾ながら巧(うま)かつたと思ふやうなは真(ほん)に数へる程しか無かつた。」と。
 巴里(パリー)の葡萄検査所の横に、銀の塔を看板に出してゐる料理屋がある。三四年前(ぜん)まで其家(そこ)にゐた主人は、家鴨(あひる)料理の名人で、家鴨を片手でぶら下げながら、一寸庖丁を当てて切つて出すのが得意だつた。その日記を見ると、六十幾つまで二十五年の間三万四千余りの家鴨を料理したと書いてゐる。
 三万四千羽! よくもこれだけの殺生をしたものだと思ふ。
「幾ら職業(しやうばい)とは言ひながら、そんなに生物(いきもの)を殺す気持はどんなだらう。」
と訊(き)くと、件(くだん)の鶏屋(とりや)の云ふ。
「職業(しやうばい)ではありません。職業(しやうばい)では迚(とて)も殺生は出来ません。料理は芸の一つで、芸には工夫とそれに附物(つきもの)の楽(たのし)みといふものがありますからね。」


男女の奉納物

4・24(夕)
 香取秀真(かとりほつま)氏が法隆寺の峰の薬師で取調べたところに拠(よ)ると、お薬師様に奉納物(ほうなふもの)の鏡には、随分傑(すぐ)れた価値(ねうち)のものも鮮(すくな)くなかつたが、同じ献上物(けんじやうもの)の刀剣は皆(みんな)なまくらで鏡と比べたらてんで談話(はなし)にもならなかつたさうだ。峰の薬師は祈願を籠めると、霊験(れいげん)のあらたかなので聞えた仏様で、大願成就の暁には、その祈願者の身につけた物のうちで、一番大切(だいじ)な物を奉納しなければならぬと言伝へになつてゐる。
 身に着けた物のうちで、一番大切(だいじ)な物といふと、往時(むかし)はいふ迄も無く男には刀、女には鏡で無ければならなかつた。といふ訳で峰の薬師には刀剣と鏡とがどつさりあつて、何(いづ)れも素晴しい名作揃(めいさくぞろ)ひだといふ噂だつたが、調べてみると鏡には逸品が鮮くないのに、刀は揃ひも揃つてなまくら許(ばか)りとは飛んだ愛嬌である。
 これで見ると、女には正直者が多いが、男には仏様の前でもペテンを行(や)り兼ねない手合(てあひ)が少くないといふ事になる。願(ぐわん)を掛けて願が叶ふ。掛けた当座は腰の業物(わざもの)を奉納しようと思ひながら、願が叶ふとついそれが惜しくなつて、飛んだ贋物(にせもの)で胡麻化(ごまか)してしまふ。お薬師様が刀の鑑定(めきゝ)に下手で、加之(おまけ)に無口だから可(い)いやうなものの、若(も)しか犬養木堂(いぬかひもくだう)のやうな鑑定(めきゝ)自慢で、口汚ない仏様だつたら溜(たま)つたものでは無からう。
 しかし今では女も男に負けぬ程狡(ずる)くなつた。大隈伯が願を掛けたら、屹度(きつと)義足を奉納する。貞奴(さだやつこ)だつたら桃介(たうすけ)さんの心(しん)の臓(ざう)でも納めよう。彼等は孰方(どちら)も、もつと立派な掛替(かけがへ)のあることを知つてゐるから……。


夜の祭

4・25(夕)
 鋳金家の岡崎雪声氏のところへ或る男が牛の彫像を頼みにやつて来た事がある。その男のいふのでは、牛程人間の役に立つものは鮮(すくな)い。田を耕(たが)へし、荷車を曳(ひ)き、頭から尻尾(しつぽ)の尖(さき)まで何一つ捨てるところも無い。やくざな軍人の政治家のやうな者が銅像になる世の中に、牛を表彰しないといふ法は無いといふのださうな。
 岡崎氏も人並外(はづ)れた牛好きだけに、喜んでその註文を引受けて製作にかゝつたが、件(くだん)の註文主(ちゆうもんぬし)は、牛を馬に乗り替へたものか、その後頓(とん)と音沙汰をしないので、岡崎氏は今では身銭(みぜに)を切つて、こつこつ仕揚(しあげ)に取りかかつてゐる。そして出来あがつた上は太秦(うづまさ)のそれに倣(なら)つて牛祭を催す事に定(き)めて、伊原青々園(せい/\ゑん)の祭文(さいぶん)を、梅幸(ばいかう)の振付で、その往時(むかし)の丑之助(うしのすけ)の名に因(ちな)んで菊五郎が踊るのだといふ。
 太秦の牛祭は、静かな秋の夜半(よなか)過ぎてからの祭で、鞍馬の火祭、宇治の県祭(あがたまつり)と並んで夜祭の三絶と呼ばれてゐる。岡崎氏は大の夜祭好きで、東京にそれが無いのを何よりも残念がつて牛祭だけは是非夜の祭にしたいと言つてゐる。――といふのは、氏は何よりも夜が好きなので、いつも夕方になると、ナハチガルのやうに、ふらりと巣を飛び出した儘(まゝ)、明方近くまで彼方此方(あつちこつち)を枝移りして飛び歩くのが癖になつてゐるからだ。
 夜の祭には色々好(い)い拾ひ物がある。県祭などにも色々(いろん)な面白い夢が転がつてゐるのを聞くが、頼(らい)山陽なども、その夢を拾つた一人(にん)で、相手は何でも特殊部落の娘だつたらしいといふ事だ。


楊(やなぎ)の木

4・26(夕)
 摂津の大物(だいもつ)が浦(うら)に片葉(かたは)の蘆(あし)しか生(で)きないといふ伝説は古い蘆刈の物語に載つてゐる。
 むかし基督(キリスト)がエルサレムの何とかいふ郊外を通りかかつた事があつた。暖い日で額が汗ばむ程なので、基督は外套を脱いで、そこらの楊の木に引掛(ひつか)けた儘(まゝ)、岡を上(のぼ)つて多くの群衆にお説教をしに出掛けた。
 空には小鳥が鳴いてゐるし、お腹(なか)には弟子達(だち)が焼いて呉れた犢(こうし)の肉が一杯詰つてゐるしするので、基督はこれ迄にない上機嫌で、親父(おやぢ)の神様に代つて、姦通(まをとこ)のほかは大抵の罪はかけ構ひなく、大負(おほまけ)に負けて天国へ通してやつてもいゝやうな事を言つた。実際その日はぶら/\天国へ旅立(たびだち)でもするには持つて来いといふ日和だつた。
 楊の木は自分の頭にすつぽり被(き)せかけられた外套を見た。どこかの金持の女が寄附したらしい立派な毛織で、神様の一人息子が着るのに不足のないものだつた。楊の木は自分にもこんな外套が一枚あつたらなあと思つた。聞くともなしに聞くと、基督は今姦通(まをとこ)のほかは大抵の罪は許してもいゝやうなお説教をしてゐる。楊の木は片足踏み出したと思ふと、外套を被(かづ)いた儘こそ/\逃げ出して往(い)つた。
 お説教が済むと、基督はいゝ気持で岡の下へおりて来た。見ると外套も無ければ楊の木も見えない。てつきり持逃げされたなと思ふと、基督は楊の木を呪(のろ)はずには居られなかつた。それ以来その郊外には楊の木は育たなくなつたさうだ。
 自分も基督に劣らぬ上等の外套を一着持つてゐる。この頃(ごろ)の暖い春日和にはそれをいろんな木に懸けて休むが、一度だつて盗まれた事が無い。日本の木は日本の婦人(をんな)のやうにむやみに外套を欲しがらないものと見える。


男二人女二人

4・27(夕)
 文部視学官の丸山環(たまき)氏は九人の子福者(こふくしや)で、お湯に入る時には自分が湯槽(ゆぶね)に浸(つか)りながら、順ぐりに飛び込んで来る子供達を芋の子でも洗ふやうに垢(あか)を擦(こす)つてやる。それを夫人がタオルで清潔(きれい)に拭(ふ)くと、女中が着物を被(き)せるといふ手順で子供達をそつくり湯を済ます時分には、親はげんなりと草臥(くたびれ)てしまふといふ事だ。その故(せゐ)かして氏は朋輩(ほうばい)知人の家に子供が四人も生(で)きるといふと、その顔を見る度(たび)に、
「君悪い事は言はないが、もう宜(い)い加減に止(よ)したら何(ど)うだ。」
と、しみ/″\意見立(いけんだて)をするさうだ。
 エレン・ケイは子供は男二人女二人が最も理想的だと言つた。――確かエレン・ケイがかう言つたやうに覚えてゐるが、人間は何でも覚えるといふ訳には往(い)かないから、若(もし)かするとケイの言つた事では無かつたかも知れぬが、何だかケイの言ひさうな事のやうに思はれる――実際男二人女二人は何からいつても都合が善(よ)ささうだ。だが、親の間違(まちがひ)で(親といふものはよく間違を言つたり、為(し)たりするものなのだ)その四人が五人に殖えたからといつて、何も首を縊(くゝ)つて死ぬるにも及ぶまい。五人は五人で、その時はまた理論の立て方もある。
 英吉利(イギリス)の貴族は、恋で平民の娘と一緒になつたり、金で亜米利加(アメリカ)辺の跳(はね)つ返(かへ)りと結婚したりするので、それによつて血統の廃頽を救つてゐると言はれてゐるが、今度の戦争で貴族出の若者の多くは死んだり、傷ついたりしてゐるから、戦後の英吉利は血において最も革命的であらうと目されてゐる。社会上、思想上において英吉利が従来(これまで)の伝統(トラヂシヨン)を維持して往(ゆ)くにはエレン・ケイの所謂(いはゆる)、男二人女二人では迚(とて)も追付(おつつ)くまい。独逸(ドイツ)や仏蘭西(フランス)では心配する戦後の人口減少が、英吉利ではその上にまた伝統(トラヂシヨン)の危機を伴ふところが面白い。


俊子の道連れ

4・28(夕)
 小説家の田村俊子は自分でも書いてゐる通り、主人の松魚(しようぎよ)はそつちのけに、よく他の男と散歩に出掛る。同じ小説家仲間の徳田秋声、上司小剣(せうけん)、正宗白鳥などもちよい/\そのお相手になるが、こんな人達が皆(みんな)揃つて一緒に出掛ける時になると、男三人に女一人だけに、そこはまた不思議なもので、俊子が誰と誰との間(なか)に挿(はさ)まるかが一寸問題になる。
 相手は妙齢(としごろ)の縹緻(きりやう)よしといふでは無し、また別に色つぽい談話(はなし)をするのでもなしするから、そんなに肩が擦れ合はないでもよかりさうなものだが、そこは男と女だけにまた格別なものと見える。
 別(わ)けて面白いのは、いゝ加減散歩をして、さてこれから別れようといふ時で、
「俊子は誰と一緒に帰るだらうな。」
とは、言はず語らずの間に、皆の胸に起きて来る疑問なのだ。俊子が一人離れて側道(わきみち)へ逸(そ)れてしまへばそれでいゝのだが、帰途(かへり)の都合からそのなかの一人と途連(みちづれ)になるやうな事があると、彼(あと)の二人は何だか物寂しい、欺(だま)されたやうな気持になるのださうだ。
 酸(す)いも甘いも知りぬいた筈の小説家とは言ひ条、男と女だ、無理もないさ――忘れてゐたが、田村俊子は女である。尤(もつと)も自分は実地会つてみたといふ訳では無いが、俊子自身のいふのでは確(たしか)に女である。


 新著『きのふけふ』で、今は亡き数(かず)の美妙斎を始め、紅葉、緑雨、二葉亭などの逸事を書いた内田魯庵氏は、友人(ともだち)の台所の小遣帳から晩飯の菜(さい)まで知りぬいてゐるのが自慢で、隠(かく)し立(だて)をする友人には随分気味を悪がられた程の人だ。
 今では丸善の顧問で、禿げ上つた額を撫(な)でながら一流の皮肉で納まつてゐるが、時折店の註文帳を調べてみて、A博士は先頃何とかいふ本を取寄せたと思つたら、それが直ぐ論文になつて翌月(あくるつき)の雑誌に出たとか、B小説家の新作小説は、先日(こなひだ)月賦払ひで漸(やつ)と買取つたモウパツサン全集の焼直しに過ぎないとかいふ事を、極(ごく)内々(ない/\)で吹聴(ふいちやう)するのを道楽にしてゐる。
 むかし笠置(かさぎ)の解脱(げだつ)上人が、栂尾(とがのを)の明恵(みやうゑ)上人を訪ねた事があつた。その折明恵は質素(じみ)な緇衣(しえ)の下に、婦人(をんな)の着さうな、緋(ひ)の勝つた派手な下着を被(き)てゐるので、解脱はそれが気になつて溜らなかつた。出家の身分で、とりわけ上人とも呼ばれる境涯でありながら、こんな下着を被てゐるとは実際何(ど)うかしてゐるなと思つた。で、話の途切れに、
「つかない事を言ふやうぢやが、つひぞ見馴れない立派な下着を被てゐられますな。」
と幾らか皮肉の積りで言つてみた。
 すると明恵は言はれて初めて気が注(つ)いたやうに、
「これでござるかな。」と一寸自分の襟を扱(しご)いて見せた。「これは予(かね)て私に帰依(きえ)してゐる或る町家(ちやうか)の一人娘が亡くなつたので、その親達から何かの代(しろ)にと言つて寄進して参つたから、娘の菩提(ぼだい)のためと思つて、一寸身につけてゐるやうな仕儀で――えらい所へお目が留(とま)りましたな。」
と言つて粛(つゝ)ましやかに一寸笑つてみせた。
 解脱上人はそれを聞いて、
「要らぬ所へ目がついたな。ほんの一寸の間(ま)でもそんな所へ心を遣(や)つたと思へば、明恵の思はくも恥(はづか)しい」
と顔から火が出るやうな思ひをしたさうだ。
 何も魯庵氏の事をいふのではないが、世の中には随分緋の下着を見つけたのを自慢に吹聴する者が居ないでもない。――よく断つておくが、何も魯庵氏の事ばかり言つたのではない。


 洋画家の満谷(みつたに)国四郎氏はこの頃(ごろ)謡曲に夢中になつて、画室(アトリエ)で裸体画の素描(デツサン)を行(や)る時にも、「今はさながら天人(てんにん)も羽根(はね)なき鳥の如くにて……」と低声(こごゑ)で謡(うた)ひ出すのが癖になつてゐる。
 先日(こなひだ)備中(びつちゆう)酒津(さかづ)に同じ画家(ゑかき)仲間の児島(こじま)虎次郎氏を訪ねて、二三日そこに逗留(とうりう)してゐたが、満谷氏が何(ど)うかすると押売(おしうり)に謡ひ出さうとするのを知つてゐる児島氏は、奥の一室(ま)に子供が寝かしてあるといふのを口実に巧(うま)く難を遁(のが)れたといふ事だ。
 以前京都で月に一度づつ琵琶法師の藤村性禅(しやうぜん)氏を中心に平曲好(へいきよくず)きの人達の会合が催されてゐた事があつた。場所は寺町(てらまち)四条の浄教寺で、京都図書館長の湯浅半月氏を始め二三の弾手(ひきて)が集まつたが、聴衆(きゝて)はいつも十人そこ/\で、それも初めの一二段を聴くと、何時(いつ)の間にかこそ/\逃げ出して、肝腎の藤村検校(けんげう)が出る頃には、聴衆(きゝて)は一人も居ないといふやうな事が少くなかつた。
 これではならぬと、仲間の歌詠(うたよみ)や画家(ゑかき)に塗(なす)つて貰つた短冊(たんざく)を五六枚と、茶菓子一皿を景品のつもりで、最後まで聴いて呉れた人に送ることにしたが、短冊と茶菓子の人並外れて好きな京都人も、矢張り最後まで居残る人は一人も無かつたので、折角の名案も何の役にも立たなかつた事がある。
 人間に馬鹿と悧巧と二種(いろ)あるやうに、音曲にも二つの種類がある。一つは涙を流す音曲。今一つは汗を流す音曲。


食物の味

5・1(夕)
 詩人の蒲原有明(かんばらありあけ)氏は、どんな好(よ)い景色を見ても、そこで何か喰(た)べねば印象が薄いといつて、異(かは)つた土地へ往(ゆ)く度(たんび)に、土地(ところ)の名物をぱくづきながら景色を見る事にしてゐる。
「僕は景色を見るばかりでは満足出来ない、その上に気色を喰べるんでなくつちや……」
とは氏が例(いつ)もよく言ふ事だ。
 野口米次郎(よねじらう)氏は「蟇(かへる)を食べるのは、その唄をも食べるといふ事だ。七面鳥を頬張るのは、その夢をも頬張るといふ事だ。」といつて、よく唄やら夢やらを頬張つてゐる。
 つまりこの人達は物を食べる時は、想像をも一緒に嚥(の)み下(くだ)してゐるのだ。
 西川一草亭氏はこれとは反対(あべこべ)に、物を食べる時には、その値段から切り離して持前の味のみを味はひ度(た)いと言つてゐる。甘藷(さつまいも)は廉(やす)いからとか、七面鳥の肉は高価(たか)いからとかいふ、その値段の観念に煩(わづら)はされないで、味自身を味はひ度いといふのだ。
 女房と朝飯(あさめし)と――何方(どちら)が人世(じんせい)に関係する所が大きいだらうと疑つた者がある。
「なに朝飯さへ甘(うま)く食べさせて呉れるなら、女房のする事は大抵(たいてい)見遁(みのが)してやるさ。」
と言つたものがある。


 芸術に技巧家があるやうに生活にもまた技巧家がある。尾崎法相の生活は西園寺陶庵侯のそれと比べて技巧がいかにも態(わざ)とらしい。中村鴈治郎(がんぢらう)の生活は片岡仁左衛門(にざゑもん)や市村羽左衛門(うざゑもん)のそれと並べてみると、技巧が著しく目に立つ。画家(ゑかき)では竹内栖鳳の生活に技巧が勝つてゐるのは誰しも知つてゐる所だ。
 栖鳳と鴈治郎とがある所で落合つた時の挨拶を側(そば)にゐて聞いた者がある。その者の談話(はなし)によると、二人は柔かい牡丹刷毛(ぼたんばけ)で腋(わき)の下を擽(くす)ぐるやうなお上手ばかり言ひ合つて、一向談話(はなし)に真実が籠(こも)つてゐないので、一言(こと)でもいゝから真実(ほんとう)の事を言はし度(た)いと思つて、
「唯今は何時頃でせう。」
と訊(き)いてみた。
 すると、鴈治郎と栖鳳とはめい/\角帯の間(なか)から、時計を取り出してみた。栖鳳氏は言つた。
「私のは三時半です。一寸狂つてやしないかと思ひますが。」
 鴈治郎は一寸時計を振つてみた。
「私(わて)のも三時半だす。さつきにから止つてたやうに思ひまんがな。」
 二人は忠実な自分の時計をすらお上手なしには報告出来ないのだ。それを見て取つた第三者は自分の信じてゐる基督の名によつて、二人の懐中時計を持主相応のお上手ものにして欲しいと祈つたさうだ。
 自分の霊魂(たましひ)と自分の女房(かない)を信じない人も、懐中時計だけは信ずる。その懐中時計をすらお上手なしに報告出来ない人は、世にも不幸(ふしあはせ)な技巧家である。


ニツク・カアタア

5・3(夕)
 飛田(とびた)遊廓の漏洩問題については主務省と府の当事者と互(たがひ)に責任の塗(なす)りつこをして、自分ばかりが良い児(こ)にならうとしてゐる。
 ニツク・カアタアといへば、活動写真好きの茶目連は先刻御存じの探偵物の主人公だが、以前巴里(パリー)にこの名を名乗つて大仕事をする宝石商荒しがあつた。巴里の宝石商といふ宝石商は、ニツク・カアタアの名前を聞くと、怖毛(おぢけ)を顫(ふる)つて縮み上つたものだつた。時の警視総監は刑事中での腕利(うできゝ)として知られてゐたガストン・ワルゼエといふ男にこの宝石荒しの探偵を命令(いひつ)けた。
 ワルゼエはよく淫売狩をも行(や)つた男で、何でもその当時巴里で名うての白首(しろくび)を情婦にして、内職には盗賊(どろぼう)を稼いでゐた。その頃流行の探偵小説から思ひついて、ニツク・カアタアといふ名で宝石屋荒しを行(や)つてゐたのが、実はそのワルゼエ自身なので、上官の捜索命令をうけた時は流石(さすが)に苦笑(にがわらひ)をしない訳に往(ゆ)かなかつた。所が間(ま)が悪く徒党(なかま)の一人が捉(つか)まつたので、到頭露(ば)れて逮捕せられてしまつた。
 自分は知事や警部長などいふ、役人を親戚(みうち)に有(も)たないやうに、神様をも伯父さんに持合はせてゐないから、はつきり見通した事は言はれないが、世の中には随分巴里の宝石屋荒しのやうな事は少くないと思ふ。呉々(くれ/″\)も言つておくが、自分は知事や警部長や神様やを伯父さんには持つて居ない。自分の伯父さん達は何も知らない代りに、何も喋舌(しやべ)らない人ばかりさ。


 悪戯好(いたづらず)きのある男が弾機仕掛(ばねじかけ)の玩具(おもちや)の蛇を麦酒瓶(ビールびん)に入れて、胡桃(くるみ)の栓をしたまゝ瓶を庭先に投(ほ)り出しておいた。すると、食意地(くひいぢ)の張つた鴉が一羽下りて来て、胡桃が欲しさに、瓶の栓を嘴(くちばし)に啣(くは)へて力一杯引張つた。胡桃の栓がすぽりと抜けると、弾機仕掛の蛇がぬつと鎌首を出した。吃驚(びつくり)した鴉は一足(あし)二足(あし)後方(うしろ)に飛(と)び退(しさ)つて、じつと蛇の頭を見てゐたが、急に厭世的な顔をしたと思ふと、その儘(まゝ)引(ひつ)くりかへつて死んで了(しま)つた。
 悪戯好(いたづらず)きの男は不思議に思つて、鴉を解剖してみると、心臓が破裂してゐたさうだ。遊廓問題に行き悩んでゐる府知事の智慧袋(ちゑぶくろ)のやうに、量(かさ)の小さい鴉の心(しん)の臓は、この怖ろしい出来事に出遭つて何(ど)うにも持堪(もちこら)へる事が出来なかつたのだ。――と言つて、別段笑ふにも当るまい、鴉は維新三傑の子息(むすこ)では無かつたのだから。
 ある時英国の一文豪が下院の演壇に立つて、
「諸君吾輩が考ふるに……」
と厳(しかつ)べらしく言つてその儘口を閉ぢた事がある。暫(しばら)くして文豪はまた口を開いた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
 行(ゆ)き詰(つま)つた文豪は洋盃(コツプ)の水を嚥(の)んで勢ひをつけた。
「諸君吾輩が考ふるに……」
 こゝまで漕(こ)ぎ直して来て、また黙りこくつてしまふと、皮肉な一議員は議長を呼んだ。
「議長。尊敬すべき議員は三度(たび)考へられましたが、到頭何一つお考へになりませんでしたな。」
と半畳を入れたので、弁士は満場の笑声(わらひごゑ)のなかに顔を火のやうにして引き下らねばならなかつた。
 大久保知事は、遊廓問題について府会の十七人組の前で、二十八日迄に何とか考へると約束しながら、その英国の文豪と同じやうに何一つ考へなかつた。――それに何の無理があらう、物を考へるにはなかなか高価な材料が要る。府知事は誠実らしい顔付と、人形のやうな夫人と、流行(はやり)の山高帽とその外(ほか)色んな物を持つてはゐるが、唯一つ肝腎な物を持合はさない。肝腎な物とは他でもない、「勇気」である。


鬼

5・5(夕)
 陰陽博士(おんやうはくし)で聞えた安倍晴明(あべのせいめい)の後裔が京都の上京(かみぎやう)に住んでゐる。ある時日の暮(く)れ方(かた)に急(いそ)ぎ歩(あし)で一条戻り橋を通りかゝると、橋の下から、
「安倍氏(あべうぢ)々々」
と言つて自分の名を呼ぶものがある。立停(たちど)まつてみると、附近(あたり)には誰一人姿は見えない。
 安倍氏(あべし)は凝(じつ)と耳を傾けた。声は橋の下から聞えて来るらしい。掠(かす)めたやうな調子で、
「自分はもと洛中を騒がした鬼だが、余り悪戯(いたづら)が過ぎるとあつて貴方(あなた)の御先祖安倍晴明殿のために、この橋の下に封(ふう)ぜられて了(しま)つた。晴明殿はその後私の事などはすつかり忘れて了はれて、程なく亡くなられ申したが、私こそいゝ災難で、橋の下に封ぜられた儘(まゝ)あつたら千年の月日を過ごして了つた。何(ど)うか一生のお願ひだから封を解いて貰ひ度い。」
と言ふのだ。
 安倍氏は亡くなつた父親(おやぢ)の遺言にも、鬼の事は一向聞いて居なかつたので流石(さすが)に一寸驚いた。家へ帰つて色々古い書物を捗(あさ)つて見ると、封を解く呪文(じゆもん)だけは何(ど)うにか了解(のみこ)めたが、さて封を解いたものか何(ど)うか一寸始末に困つた。
「折角先祖が封じたものを解(ほど)いて、もしか鬼が知事か警部長かの耳の穴にでも入つて、何処かのやうに遊廓でも建て増されては溜らないからな。」
 安倍氏はかうも考へたので、その後はどんな急用があつても、戻り橋だけは通らない事に定(き)めてゐると聞いた。
 新約全書の鬼は豚の尻の穴に逃げ込んだので、豚はすつかり気が狂つて海に入つて死んで了つたさうだ。安倍氏も一つ思ひ切つてその鬼を戻り橋の下から引張り出して大学の構内にでも追ひ込んだら面白からう。那辺(あすこ)には頭に鬼の入るだけの空地(あきち)を有(も)つた学者がちよつと居る筈だから。


 最近に『東西文学比較評論』といふ著作を公にした高安(たかやす)月郊氏は飄逸(へういつ)な詩人風の性行をもつて知られてゐる人だが、ずつと以前自作の脚本を川上音二郎一派の手で新富(しんとみ)座の舞台に上(のぼ)した事があつた。
 ある日の事、月郊氏が幕間(まくあひ)の時間を川上の楽屋で世間話に過してゐると、そこへその当時の大立物伊藤春畝(しゆんぽ)公が金子堅太郎、末松謙澄(けんちよう)などいふ子分を連れてぬつと入つて来た。何でも御贔屓(ごひいき)がひに劇(しばゐ)を見に来たのだが、例(いつも)の気紛れで貞奴(さだやつこ)でも調弄(からか)はうと思つて楽屋口を潜(くゞ)つたらしかつた。
 川上夫妻は狭つ苦しい自分の楽屋に、鷹揚な伊藤公の姿を見つけたので流石に一寸どぎまぎした。見ると床の間の上座(じやうざ)には作者の月郊君が坐つてゐる。公爵などいふものは、床柱か女かの前で無ければ坐るべきものでないと思つてゐる川上は、成るべくなら、床柱と女房との真中に公爵を坐らせてみたかつた。で、眇(すがめ)のやうな眼つきをして一寸月郊君の顔を見た。
 月郊君も何(ど)うやら川上の意(こゝろ)は察したらしかつたが、実は伊藤公とは生れて初めての同座で、今後またこんな機会があらうとも思はれない。それに自分は今度の劇(しばゐ)では作者であり、伊藤公は普通(たゞ)の観客(けんぶつ)に過ぎない。作者が観客(けんぶつ)に座を譲るやうな気弱い事では作者冥加(みやうが)に尽きるかも知れないからと、その儘(まゝ)素知(そし)らぬ顔で凝(じつ)と尻を落(おち)つけてゐた。
 流石に伊藤公は無頓着(むとんぢやく)で、悪い顔もせず、入口にどかりと胡坐(あぐら)を掻いたまゝ、例の女の唇を数知れず嘗(な)めた口元を歪(ゆが)めながら、芝居話に興じてゐたが、お伴の小さい政治家二人は苦り切つた顔をして閾際(しきゐぎは)に衝立(つゝた)つてゐたさうだ。
 何によらず小さいのは惨(みじめ)なものだが、とりわけ政治家の小さいのは気の毒なものだ。


父と子

5・7(夕)
 この頃京都図書館長を辞めて早稲田大学の図書館に転ずるとかいふ湯浅半月氏は、例の女買ひについて頻(しきり)と噂を立てられてゐるが、流石に口上手の男だけに、別に弁疏(いひわけ)がましい事もせず、
「京都にはもう飽いたからな。」
と言つてゐる。
 女買ひをするにも、昵懇(なじみ)になると面倒だからといつて同じ女を滅多に二度と聘(よ)ばないのを自慢にしてゐる位だから京都に飽いたといふのに無理も無いが、この評判の女買ひを肝腎の湯浅夫人だけは今日まで少しも知らなかつたさうだ。
 湯浅夫人は神戸の女学院にゐた頃、書庫の図書を一冊も残らず読み尽したといふ程の読書人で、図書館長としては半月氏よりも、ずつと適任者であるが、堅い基督信者(クリスチヤン)で、終始(しよつちゆう)神様のお側(そば)に居過ぎた故(せゐ)で、つい人間の事を忘れて了(しま)つたらしい。
 神様といふものは随分費用のかゝるものだが、その中で新教(プロテスタント)の神様は質素(じみ)で倹約で加之(おまけ)に涙脆(なみだもろ)いので婦人(をんな)には愛される方(ほう)だが、余りに同情(おもひやり)があり過ぎるので、時々困らせられる。
 半月氏は例(いつ)も笑ひ話しに、
「僕の父は金儲(かねまうけ)と道楽が好きだつたが、性来(うまれつき)父に及ばない僕等兄弟は父の才能を二人で分担して、兄は金儲を、僕は道楽の方を演(や)る事に定(き)めてゐるのだ。」
と言つてゐる。半月氏の兄といふのは、洋画家湯浅一郎氏の阿父(おとう)さん治郎氏のことだ。
 子息(むすこ)の才能の総和が親爺(おやぢ)のそれに匹敵するのは何(ど)うにか辛抱出来るが、大久保甲東の息子達のやうなのは一寸……。


酒

5・8(夕)
 少し前の事だが、Kといふ若い法学士が夜更けて或(ある)料理屋の門を出た。酒好きな上に酒よりも好きな妓(をんな)を相手に夕方から夜半(よなか)過ぎまで立続(たてつゞ)けに呷飲(あふ)りつけたので、大分(だいぶん)酔つ払つてゐた。
 街灯の灯(ひ)も点(とも)つてゐない真ツ暗がりに、Kは自分の鼻先に脊(せ)のひよろ高い男が立塞(たちふさ)がつてゐるのを見たので、酔(よ)つ払(ぱらひ)がよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀をしたが、相手は会釈一つしないのでKは少し※(「弗+色」、第3水準1-90-60)然(むつ)とした。
「さあ、退(ど)いた/\。成(な)り立(たて)の法学士様のお通りだぞ。」
 Kはとろんこの眼を見据ゑて怒鳴るやうに言つたが、相手は一寸(すん)も身動きしようとしなかつた。
 喧嘩早いKは、いきなり拳(こぶし)をふり揚げて厭(いや)といふ程相手の頭をどやしつけた。が、相手は蚊の止つた程にも感ぜぬらしく、Kを見下(みおろ)してにや/\笑つてゐる。若い法学士は侮辱されたやうに、暴(やけ)にいきり立つて、
「野郎かうして呉れるぞ。」
といきなり両手を拡げて武者振(むしやぶり)ついたと思ふと、力一杯頭突(づつき)を食はせた。法律の箇条書(かでうがき)で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空殻(あきがら)を投げたやうに、かんと音がした。
 Kは脳振盪(なうしんたう)を起してその儘(まゝ)引(ひつ)くり返つて死んで了(しま)つた。相手は相変らず身動(みうごき)もしない。身動しないのもその筈で、相手は無神経な電信柱で、酔払つたKは夜目(よめ)にそれを人間と見違へて喧嘩をしたのだつた。
 Kは生き残つた母の手で青山の墓地に葬られたが、毎晩のやうにその夢枕に立つて、頭の向(むき)が違つてる違つてるといふので、母は人夫を雇つて掘返してみると、かんと音のした頭は果して南向に葬られてゐた。母親は泣き/\向きを直して葬つて了ふと、それ以来また夢枕に立たなくなつたさうだ。


 役人に嘘吐(うそつ)きが多いやうに瓜哇(ジヤワ)人には魔法使が多い。日本の女で馬来(マレー)半島に住んでゐる仏蘭西人の妾(めかけ)が、ある時国許(くにもと)に送つて遣(や)らなければならぬ筈の金銭(かね)の事で心配してゐると、そこへ瓜哇の魔法使が通りかゝつて、
「お前は金銭(かね)の事で屈託してゐるらしいが、さう心配するが物はない。今日午過(ひるすぎ)に、お前の主人が頭が病めるといひ出す。その折お前は何となく睡(ねむ)つぽくなるだらうからそれをきつかけに主人に相談してみろ、屹度(きつと)金銭(かね)は出来る。」
と言つて教へて呉れた。
 女は不審しながらも、魔法使の事は予(かね)て聞いてゐるので幾分(いくらか)待心(まちごゝろ)で居ると、午過になつて案の定主人が頭が病めるといひ出し、自分は睡つぽくなつて来た。こゝぞと思つてお金銭(かね)の一件を相談すると、主人は二つ返事で重い財布を投げ出して呉れたさうだ。
 瓜哇の魔法使は又かういふ事をする。多くの人の見る前で、砂を盛つた植木鉢へコスモスの種子(たね)などを蒔(ま)いて、じつと祈祷(きたう)を凝(こら)す。すると種子(たね)が弾(はじ)けて芽はぐん/\砂を持上げて頭を出して来る。一寸二寸と瞬(またゝ)く間(うち)に茎が伸びたと思ふと、最後に小さい花がぱつと開く。蹇(ゐざり)を立たせた基督だつて、これ以上の不思議は出来まいと思はれる程だ。言ふ迄もなく基督は神様のお坊ちやんで、瓜哇の魔法使は乞食坊主である。
 日本の魔法使も、埃臭(ほこりくさ)い飛田(とびた)の土の中から、コスモスの芽生(めばえ)には似てもつかない色々(いろん)な物を見せてくれる。業突張(ごうつくばり)の予選派の面(つら)。食(くひ)しん坊の同志会の胃の腑。泥だらけな市長の掌面(てのひら)……。


女の親切

5・10(夕)
 むかし津山藩主の何とかいつた奥方は、余程悋気深(りんきぶか)い性(たち)だつたと見えて、殿の愛妾を縊(し)め殺した上、太腿の肉を切り取り、それを羹(あつもの)にして何喰はぬ顔で殿が晩酌の膳に上(のぼ)しておいた。殿が何の肉だと訊(き)くと、
「貴方(あなた)様の御好物でございますよ。」
といつて、にやりと笑つたといふ事だ。
 大和(やまと)屋の妓(をんな)浜勇は、亡くなつた秋月桂太郎と好(い)い仲だつたが、いつだつたか秋月が病気の全快祝に、赤飯(あかめし)だけの工面はついたが、帛紗(ふくさ)の持合せが無いので思案に余つて浜勇に相談した事があつた。浜勇にしても色気は有り余る程たつぷり持合せてゐるが、肝腎のお銭(あし)といつては一文(もん)も無かつた。といつて男の頼みを無下(むげ)に断る訳にも往(ゆ)かなかつたので、思案の末がたつた一枚きりの縮緬(ちりめん)の腰巻を外(はづ)した。
「これなと染替(そめかへ)ておこ。」
といつて新しく色揚(いろあげ)をして、帛紗に仕立てて間に合はせたさうだ。
 画家(ゑかき)のミレエの細君は貧乏で食べる物が無くなつた時には、雲脂(ふけ)だらけな頭をした亭主を胸に抱へて、麺麭(パン)の代りだといつて、熱い接吻(キツス)をして呉れたものださうだ。
 尾崎テオドラ夫人は、「主人(やど)は国事に頭を使つてゐるから、家庭では成るべく気を遣(つか)はないやうに静かにさせてゐる。とりわけ食事は女中任せには出来ないから」といつて手製のオムレツ許(ばか)りを頬張らせてゐるさうだ。
 散銭(ばらせん)に色々文字替りがあるやうに、顔立(かほだち)で別(わ)けると女にも色々種類はあるが、大抵は皆(みんな)男に親切なものさ。


 講道館の嘉納治五郎氏は、書画を娯(たのし)み度(た)いが、正真物(しやうしんもの)の書画は値段が張つて迚(とて)も買へないからといつて、書画代用の妙案を実行してゐる。
 それは他でもない相模や紀州の海岸で、人里離れた、眺望のいゝ山を買込んで、自分の別荘地としておくのだ。別荘地といつたところで、掘立小屋一つ建てるのでは無く、夏になると、南向きの恰好な足場に天幕(テント)を張つて、飯だけは近くにある田舎町の旅籠屋(はたごや)から運ばせる事にして、日がな一日天幕(テント)を出たり入つたりして自然を娯むのだ。
「真物(ほんもの)の山水のなかへ浸(ひた)つて、自分も景物の一つになつて暮らす気持は、雪舟の名幅を見てるよりも、ずつと気が利いてるからな。」
と氏は言ひ/\してゐる。
 そんなだつたら何も自分で山を買はなくとも、何処(どこ)でも構はない景色の美(い)い土地(ところ)へ勝手に天幕(テント)を持込んだらよかりさうなものだが、嘉納氏に言はせると、さうは往(ゆ)かない。
「人間には所持慾つて奴があつて自分の有(もの)にしないでは落付(おちつ)いて娯まれないのだ。兎一つ棲(す)まないやうな禿山だつて自分の有(もの)にするとまた格別だからな。」
 成程(なるほど)聴いてみれば無理もない。世の中には髪の毛一本生えてない禿頭を、自分の持物だといふだけで、毎朝磨きをかけてゐる人間もある事だから。
「相模や紀州の突端(とつぱな)だけに、往来(ゆきき)が不自由で、さう/\は出掛けられないが、然(しか)し雪舟の名幅だつて、何時(いつ)も掛け通しにして置く訳のものでは無い。一年に一度が精々なのを思ふと、夏休みに一度でも禿山を見舞つたら、それで十分ぢやないか。」
と言つてゐる嘉納氏は、
「さういふ雪舟代用の山だつたら、一度見せて貰ひ度いものだ。」
と愛相(あいそ)を言ふ人があると、急に顔の相好(さうがう)を崩して、
「是非見て貰ひ度い、富豪(かねもち)が雪舟を見せ度がる格で、禿山でも自分の者になると、矢張(やつぱり)見て貰ひたくてなあ。」
 風景画好きの嘉納氏が、雪舟の代りに禿山を掘出したのは面白いが、そんぢよそこらの美人画好きも、春章(しゆんしやう)や歌麿の美人画代りに、活(い)きた女菩薩(によぼさつ)でも探し出して、腰弁当でちよく/\出掛けたらどんな物だらう。


借金の名人

5・12(夕)
 森田草平(さうへい)氏が手紙の上手な事は隠れもない事実で、氏から手紙で金の工面でも頼まれると、どんな男でもついふら/\となつて、唯(たつた)一人しかない女房(かない)を誤魔化してでも金を拵(こしら)へてやり度くなるといふ事だ。
 一部の画家(ゑかき)仲間に天才人と言はれた青木繁が、また借金の名人で、どんな画家(ゑかき)でも出合頭(であひがしら)にこの男と打衝(ぶつつか)つて二語(こと)三語(こと)話してゐると、慈善会の切符でも押し付けられたやうに、つい懐中(ふところ)から財布が取り出したくなるといふ事だ。尤(もつと)も画家(ゑかき)などいふものは、無駄口と同情(おもひやり)は他(ひと)一倍(ばい)持合せてゐる癖に、金といつては散銭(ばらせん)一つ持つてない輩(てあひ)が多いが、さういふ輩(てあひ)は財布を開(あ)ける代りに、青木氏を自分の宅(うち)に連れ込んで、一月(つき)二月(つき)は立養(たてやしな)ひをしたものださうだ。
 青木氏が東京に居られなくなつて浴衣(ゆかた)一枚で九州落(おち)をした事がある、その折門司(もじ)か何処かで自分が子供の時の先生が土地(ところ)の小学校長をしてゐるのを思ひ出した。青木氏は倒れ込むには恰好の家(うち)だとは思つたが、流石に着のみ着の儘(まゝ)の自分の姿が振りかへられた。
 所へ魚釣(うをつり)の帰途(かへり)らしい子供が一人通りかゝつた。手には小鮒(こふな)を四五尾(ひき)提(さ)げてゐる。青木氏は懐中(ふところ)の写生帖(スケツチブツク)から子供の好きさうな画(ゑ)を一枚引き裂いて、それと小鮒の二尾程と取(と)り替(かへ)つこをした。
「いゝ物が手に入つた、これさへあれば大手(おほて)を振つて先生の家(うち)へ倒れ込まれる。」
 青木氏は独語(ひとりごと)を言ひ/\、久し振に校長の宅(うち)を訪ねた。校長は玄関へ飛び出して来た。(念の為言つておくが、学校教員といふものは自宅(うち)では玄関番をしたり、子供の襁褓(おしめ)を洗つたりするものなのだ。)
 青木氏は校長の顔を見て、
「先日(こなひだ)から門司へ写生に来てゐましたが、今日は一寸釣りに出掛けて、お門(かど)を通り掛つたものですから……」
と言つて蠱術(まじなひ)のやうに小鮒を校長の鼻先で振つて見せた。校長は、
「さうか、よく訪ねて呉れた。」
といつて、手を執(と)る許(ばか)りにして、青木氏を座敷へ引張り上げた。
 何処を何(ど)う言ひ繕つたものか、青木氏はその儘(まゝ)二月(つき)程校長の宅(うち)に平気でごろ/\してゐたさうだ。――これを天才といふに何の不思議もない筈だ。他人が顔を赧(あか)めないでは居られない事を、平気で遣(や)つて退(の)ける事が出来るのだもの。


 月の終りにはタゴオルが来る、七月にはゴリキイが来ると聞いてゐるのに、今度はまた露国詩壇の革新者コンスタンチン・バリモントが来るといふ噂が伝はつてゐる。
 バリモントは仏蘭西のユゴオのやうに太陽と美との熱愛者で、その名高い詩集にも『太陽のやうに』といふのがある位だ。この詩人が文壇に立つてから、二十五年目の記念会が三四年前(ぜん)ペテルブルグ大学で開かれたことがあつた。その折ブラウン教授の挨拶に、
「バリモントがこの世に生れたのは太陽を見るためだつた。太陽はこの詩人の心を饒(ゆた)かに、その夢を黄金にした。太陽はその詩の何(いづ)れもに燃えてゐる。」
と言つた程、お天道様(てんとさま)に惚れてゐる人なのだ。この人が暗い淋しい露西亜を出て、明るい陽気な「日出づる国」へ旅立するのに不思議はない筈だ。
(その自伝によると)バリモントは五歳(いつつ)の時に、婦人(をんな)を見るとぽつと顔を赧(あか)めるやうになり、九歳(こゝのつ)の時には真剣に女に惚れるやうになり、十四の時に肉慾を覚えたと言つてゐる。五歳(いつつ)といへばまだミルク・キヤラメルの欲しい年頃だ、日本では『好色一代男』の主人公が腰元の手を取つて、「恋は闇といふ事を知らずや」といつたのは、確か七歳(なゝつ)だといふから、バリモントはそれ以上の早熟(ませ)た子供で、その頃から乳母(ばあや)にお尻を叩かれては、くす/\喜んでゐたに相違ない。
 二十二歳の時、友達が自殺をしたのに感化(かぶ)れて、三階の窓から下の敷石を目がけて身投(みなげ)をした事があつた。骨は砕けて、身体(からだ)は血塗(ちまみ)れになつたが、不思議と生命(いのち)だけは取り留めて、それからはずつと健康(たつしや)でゐる。バリモントは後にその折の事を思ひ出して、
「お蔭で創(きず)が癒(なほ)つてからは、人間も一段と悧巧になり、従来(これまで)のやうに鬱々(くさ/\)しないで、その日その日を娯(たの)しむやうになつた。」
と言つてゐる。
 女がお産をして強くなり、色男が女に捨てられて賢くなる格で三階から飛下りて吃驚(びつくり)したのでそれ迄皮膜(かは)を被(かぶ)つてゐた智慧が急に弾(はじ)け出したのだ。それを思ふとやくざな知事や大臣は紙屑のやうに一度三階から投(ほ)り出してやり度くなる。


死人の下駄

5・14(夕)
 人間といふものは、生れて来る時下駄(げた)を穿(は)いて来なかつた故(せゐ)か、身投(みなげ)でもして死ぬる時は屹度(きつと)履物(はきもの)を脱いでゐる。それも其辺(そこら)へだらしなく投(ほ)り出さないで、きちんと爪先(つまさき)を揃へた儘(まゝ)脱ぎ捨ててゐる。恰(まる)で借りた物を返すといつた風だ。得て投身(みなげ)でもする人は、借りた金を返さないやうな輩(てあひ)に多いが、履物だけは自分の持合せでありながら借物ででもあるやうにきちんと取揃へてゐる。だから芝居でもそれに倣(なら)つて、舞台で情死者(しんぢゆうもの)の身投をする時には、俳優(やくしや)は極(きま)つたやうに履物を揃へる。
 それも古風な身投などの場合に限らず、電車や汽車で轢死(れきし)をする場合にも、履物だけはちやんと揃へてゐるから可笑(をか)しい。どんな粗忽屋(そゝつかしや)でも下駄を穿いた儘で軌道(レール)に飛び込むやうな無作法な事はしない。家鴨(あひる)が外套を脱いで鴨鍋へ飛び込むやうに、自殺でもしようといふ心掛(こゝろがけ)のある者は、履物を脱ぎ揃へて軌道(レール)に横になる位の儀式はちやんと心得てゐる。
 電車の車掌なども、轢死者があつた場合は、其奴(そいつ)が男か女か、老人(としより)か子供か、馬鹿か悧巧かを吟味する前に、先づ履物を調べる。そして履物がちやんと揃へて脱ぎ捨ててあるのを見ると、
「占(し)めた。やつぱり自殺だつた。」
と、吻(ほつ)と胸先を撫でおろすさうだ。だから間違つて電車に轢(し)き殺される場合には、成るべく履物を後先(あとさき)へ、片々(かた/\)は天国へ、片々(かた/\)は地獄へ届く程跳ね飛ばす事だけは忘れてはならない。さもないと、自殺に定(き)められて、慰藉金(ゐしやきん)も貰へない上に、理窟の立たない厭世観さへ抱(だ)かされるやうな事になる。
 同じ淵でも身投をする場所は大抵定(きま)つてゐるやうに、長い電車線路でも轢死する場所は、大抵見当がついてゐるさうだ。だから、狡(ずる)い運転手になると、その区間だけは速力の加減をする事を忘れない。
 もしか大隈伯が身投でもする場合には、矢張(やつぱり)履物を脱いで、義足を露出(むきだ)しに死ぬるだらうかと疑つた者がある。すると、いやあの人の事だ、死ぬ前に義足は割引で売つてしまふだらうと言つたものがある。


性慾

5・15(夕)
 トルストイ伯は、息子のイリヤが十八歳の頃、ある日屏風(びやうぶ)の裏表で背中合せになつて、
「イリヤ、こゝでは誰も聞いては居ないし、私達もお互に顔が見えないから、恥かしい事は無い。お前は今日まで女と関係した事があるかい。」
と訊いた。
 息子のイリヤが、
「否(いゝえ)、そんな事はありません。」
と答へると、トルストイは急に欷歔(すゝりなき)をし出した。そして子供のやうにおい/\声を立てて泣き出すので、息子のイリヤも屏風の裏でしく/\泣き入つたといふ事だ。
 トルストイは私に相談して泣いた訳でも無かつたから、何故(なぜ)息子の返事を聞いて泣き出したか解る筈もないが、察する所、自分が若い頃の不品行(ふみもち)に比べて、息子の純潔なのについ知らず感激させられたものらしい。
 新渡戸稲造博士は、自分が近眼(ちかめ)の原因をある学生に訊かれた時、次の室(ま)の夫人に聞えないやうに声を低めて、
「無論本も読んだには読んだがね、然(しか)し本を幾ら読んだからつて、人間は近眼(ちかめ)になるものぢやない。僕は学生時代にね……」と『英文武士道』の表紙のやうに一寸顔を紅(あか)くして「気恥しい訳だが、性慾の自己満足を余り行(や)り過ぎたもんだでね……」
と言つて、口が酸つぱくなる程性慾の自己満足を戒めたさうだ。
 新渡戸博士が自分の近眼(ちかめ)と性慾の自己満足を結びつけて、深く後悔して居(ゐ)るのは善(よ)い事だが、世の中には近眼者(ちかめ)といつても沢山(たくさん)居(ゐ)る事だし、その近眼者(ちかめ)が皆が皆まで博士のやうな「良心」を持合せてゐまいから、達(たつ)て近眼(ちかめ)を恥ぢよと言つた所でさう/\恥ぢもすまい。
 聖(セント)アントニウスはあの通りの道心堅固な生涯を送りながら、猶(なほ)側(はた)の人の目に見える迄性慾の煩悶に陥つてゐた。アントニウスの眼の前には毎夜のやうに裸の美人が映つて、聖者を誘惑しようとして有(あら)ゆる戯(ふざ)けた姿をして踊り狂つてゐたといふ事だ。
 男の聖者(ひじり)が多く女の聖者(ひじり)を渇仰(かつがう)するに対して、女の聖者(ひじり)は大抵男の聖者(ひじり)に帰依(きえ)をする。ロヨラは聖母マリヤの信仰家であつたが、婦人の多くはナザレの耶蘇(ヤソ)と精神的結婚を遂げてゐるのだ。もし耶蘇があの年齢(とし)で髪の毛の縮れた女房(かない)でも迎へてゐたなら、大抵の女は教会で欠伸(あくび)か居睡(ゐねむ)りかをするだらう。実際女は猫のやうなもので、鼠のゐない時には屹度(きつと)欠伸か居睡りをする事を知つてゐる。


虱(しらみ)

5・16(夕)
 今日阪神電車に乗ると、私の前に齢(とし)の頃は四十恰好の職人風らしい男が腰をかけてゐた。木綿物(もめんもの)だが小瀟洒(こざつぱり)した身装(みなり)をしてゐるのにメリヤスの襦袢(シヤツ)のみは垢染(あかじ)んで薄汚かつた。閉(た)てきつた鎧戸(よろひど)に鳥打帽の頭を当てがつて、こくり/\居睡(ゐねむ)りをしてゐたが、電車が大物(だいもつ)を出た頃に、ひよいと頭を持ち直して、ぱつちり眼を開(あ)けた。そして手早く胸釦(むなぼたん)を外して、シヤツを裏返したと思ふと、指先に何かちよつぴり抓(つま)むで左の掌面(てのひら)に載つけた。――よく見ると、会社の重役のやうに血を吸つて真紅(まつか)になつてゐる虱(しらみ)なのだ。
 虱は慌てて其辺(そこら)を這(は)ひ回つたが、職人の掌面は職人の住むでゐる世界よりもずつと広かつた。虱は方角を取(と)り損(そくな)つて中指にのぼりかけた。生れて唯の一度も運を掴んだ事のない掌面だけに、指も普通(あたりまへ)よりはずつと短かつたので、虱は直ぐと指先に上(のぼ)りきつた。
 職人はわざと皆に見えるやうに中指を鼻先に持つて来て、四辺(あたり)を見越してにやり笑つた。この無作法な素振(そぶり)を見て誰一人怒り出さうともしなかつた。皆は顔を見合せて苦笑ひするより外に仕方が無かつた。
 蚤(のみ)に小(ち)つぽけな馬車を牽(ひ)かす蚤飼の話は噂に聞いてゐるのみで、実地見た事はないが、虱は唯もうその辺を這ひ回るのみで、芸人としては一向価値(ねうち)が無い。
 職人は暫くそんな悪戯(いたづら)をしてゐたが、最後に袂(たもと)を探つて、マツチを取り出したと思ふと、ぱつと火を磨(す)つて虱の背に当てがつた。この懶惰(なまくら)な芸人は手脚(てあし)をもじもじさせてゐたが、ぴちと爆(は)ぜたやうな音がしたと思ふと、身体(からだ)はその儘(まゝ)見えなくなつてしまつた。恰(ちやう)ど耶蘇の死骸が墓のなかで紛失(ふんじつ)したやうなもので、不思議は四福音書にあるやうに、職人の掌面にもあるものなのだ。
「人は自分の蚤を殺すには、自分の流儀を使ふ外には仕方が無い。」
――仏蘭西人はよくこんな事をいふが、真実(まつたく)だなと思つた。


女の手

5・17(夕)
 少し談話(はなし)が古いが、日独の国交が断絶して、独逸の日本留学生が一纏(まと)めに店立(たなだて)を食はされた時の事、皆は和蘭(オランダ)経由で英吉利(イギリス)に落ち延びようとして、日を定(き)めて一緒に伯林(ベルリン)のレアタア停車場(ていしやぢやう)を発(た)つた。
 何がさて、急場の事なり、書物や古履(ふるぐつ)や日本魂(やまとだましひ)などいふ、やくざな荷厄介な物は、皆(みんな)一纏めに下宿屋の押入に取残した儘(まゝ)逃げて来たので、皆(みんな)は腑抜(ふぬけ)のやうな顔をして溜息ばかり吐(つ)いてゐた。もしか兵隊さんの大きな面(つら)が窓越しに覗(のぞ)きでもしようものなら、皆(みんな)は護謨毬(ごむまり)のやうに一度に腰掛から飛上(とびあが)つたかも知れない。
 汽車がレアタアの次ぎの駅に着くと、一人の若い娘が入つて来て空席に腰をおろした。それを見ると其辺(そこら)の黄いろい萎(しな)びた顔が一度に灯(ひ)が点(つ)いたやうに明るくなつた。――それに何の無理があらう、娘の直ぐ隣には、A医学士がゐる。医学士は、女をパラピンのやうに掌面(てのひら)に丸め込む事に馴れてゐる男だ。
 皆は言ひ合せたやうに、眼を閉ぢて睡(ねむ)つた風をしてゐた。医学士は娘に向つて、一言二言話してゐるうちに、例(いつ)も女を蕩(たら)す折にするやうに、掌面の講釈を始めた。支那の哲学者が言つたやうに(A医学士は哲学者とか袋鼠(カンガルウ)とか自分の知らない物は悉皆(みんな)支那に棲(す)んでゐると思つてゐるのだ)人間一生の「幸運(しあはせ)」は掌面の恰好と大きさとに現れてゐるといふ前置(まへおき)で、
「お嬢さんのと僕のと、何方(どちら)が掌面が大きいのでせう、一つ比べてみませんか。」
と言つて、安々(やす/\)と娘の暖(あたゝか)さうな掌面と不恰好な自分のをぴたりと合せたと思ふと、その儘(まゝ)凝(じつ)と握り締めた。
 狸寝入の連中は、もう胸をわくわくさせ出した。娘が別に振切らうともしないのに味をしめた医学士は、円(まる)まつちい娘の首根つこを抱いたと思ふと、いきなり唇を鳴らした。
「うまい事を行(や)つたのう。」
 直前(すぐまへ)のK法学士が、溜(たま)らなささうに喚(わめ)いて眼を露(む)くと、皆は一度に眼を開(あ)いて笑ひ出した。娘はとう/\居溜(ゐたゝま)らなくなつて次の室(ま)に逃げ出したさうだ。
 国境へ立退きのどさくさにも、まだ女の唇を忘れないのは流石(さすが)に医者だけある。医者といふ者は、死人の枕もとに坐つて、薬代の胸算用が出来る程余裕のある人間だ。
 メフイストフエレスは若い学生に、女の手を握らうと思へば医者になれと勧めた。実際医学ほど詰らぬ学問も少いが、唯(たつた)一つ女の手が握れるので埋合せがつく。


 京都に今歳(ことし)八十幾つかになる老人(としより)で、指頭画(しとうぐわ)の達者な爺さんがある。古い支那画(しなゑ)などを指頭(ゆびさき)で臨※(「暮」の「日」に代えて「手」、第3水準1-84-88)(うつ)すが、なか/\上手だ。夏目漱石氏が先年京都に遊びに来てからは、
「京都では別にこれといつて気に入つた物もないが、唯黄檗と指頭画とには悉皆(すつかり)感服させられた。」
と言ひ/\してゐる。
 指頭画は下らぬ芸で、大雅堂なども一頻(しき)りこれに凝つた時代があつたが、友達に戒められて思ひ止(とゞ)まつてしまつた。
「何故黄檗が好(い)いんだらう。」
といふと、
「一体お寺の本山などいふものは、山の腹か頂辺(てつぺん)かに建ててある。見ると嶮(けは)しく落つこちさうで危い。そこになると、黄檗はあの通り平地(ひらち)に建つてゐるので、廓然(からり)と気持がいゝつたらない。」
と言つてゐるが、実の所は胃病持だけに高い所は息切れがして堪らない故(せゐ)らしい。
 漱石氏は近頃よく拙(まづ)い画(ゑ)を描(か)く。臆面もなく拙(まづ)い画を描(か)く。正岡子規は画をかくのに、枕頭(まくらもと)に草花や果物を置いて、よく写生したものだが、漱石氏は一向写生といふ事をしない。他人(ひと)が手器用(てきよう)にさつさと筆を塗(なす)つて往(ゆ)くのを見ると、羨ましさうにちよつと舌打をして、
「画つてものは、そんなに忙しさうに描(か)いちや駄目だよ、緩(ゆつ)くり落着いて掛らなくつちや。」
と言ひ/\、子供のやうに長く寝そべつて、だらけた胃袋を畳の上に投げ出しながら、何ぞといふと黄檗のやうなお寺の屋根瓦を一枚一枚描(か)きにかゝる。そしてそれが出来上ると、今度は黄檗で見たやうな松の樹を描いて、克明にも松の葉を一本々々つけてゆく。
「そんな出鱈目(でたらめ)な山水なぞ描(か)かないで、何か写生したらよかりさうなものだ。」
といふと、にやりと笑つて、黄檗の禅坊主がするやうに、いかにも意味がありさうに一寸指先きで自分の胸元を指して見せる。そこには黄檗に似てもつかない弱い胃の腑が溜息を吐(つ)いてゐる。


狐と狸

5・19(夕)
 兵庫には化狸(ばけたぬき)と間違つて婆さんを叩き殺した者があるさうだ。西洋のある学者は霙(みぞれ)の降る冬の日に蝙蝠傘(かうもりがさ)をさして大学から帰る途々(みち/\)、家へ着いたなら、蝙蝠傘を壁にたてかけて置いて、自分は暖炉(ストーヴ)に当つて暖まらうと娯(たのし)みに思つてゐるうち、宅(うち)へ辿(たど)り着く頃には、すつかり自分と蝙蝠傘とを取り違へ、傘を暖炉(ストーヴ)に暖ためながら、自分は夜(よつ)ぴて壁に凭(もた)れてゐたといふことだ。学者でさへ蝙蝠傘と自分とを取違へる世の中だ。馬鹿者が婆さんを狸と見違へるに無理もない筈だ。
 狸退治の極意を一寸こゝにお話すると、(何(ど)うか成るべく口の中で低声(こごゑ)で読んで欲しい、さもないと狸が立聞(たちぎき)するかも知れないから)狸はよく雨夜(あまよ)に出て悪戯(いたづら)をする。春雨のしと/\降る折、夜道を一人通ると、だしぬけに傘(からかさ)が重くなる事がある。
「狸だな、やい誰だと思つてるんだ。見違ふない。」
 独語(ひとりごと)を言ひ/\、てつきり狸が傘(からかさ)の上に載(の)つかゝつてゐるものと思つて、誰でもが唯もう無中(むちゆう)になつて頭の方ばかり気にする。
 だが、これは飛んだ間違ひで、実はこの時狸は傘(からかさ)の柄(え)にぶら下つてゐるのだ。だから夜途(よみち)で雨傘が重くなつたら、いきなり拳(こぶし)を固めて厭(いや)といふ程柄の下を擲(なぐ)つてみる。すると狸はその儘(まゝ)気絶をするか、さもなければ這(は)ひ踞(つくば)つて屹度(きつと)謝罪をする。
 序(つい)でに狐退治の極意を披露すると、田舎の一軒屋などでは、夜が更けると狐がとん/\と扉(と)を叩いて悪戯(いたづら)をする事がある。その時狐は後向(うしろむき)になつて持前の太い尻尾で扉(と)に触(さは)つてゐるのだ。さういふ折には何気ない調子で、
「どなた?」
と訊いておいて、暫くしてから扉(と)を開けると、狐は屹度其辺(そこら)の小陰に身を潜めてゐる。
 態(わざ)とぶつくさ言ひながら、また扉(と)を閉(た)て切ると、直ぐ後(あと)からとん/\と聞える。
「どなた?」
と扉(と)を開けると、狐は既(も)う居ない。三度目が愈々(いよ/\)の正念場(しやうねんば)で、扉(と)を閉めて暫く待つてゐると、興(きよう)にはづんだ狐の脚音がして、尻尾の扉(と)に触る音が聞えたか聞えぬかに、矢庭(やには)に扉(と)を引開けると、後向きに尻尾を振りあげた狐は、機(はづ)みを喰(く)つて閾越(しきゐご)しに庭に転げ込んで来るので、直ぐ手捕(てどり)にする事が出来る。
 以上狐狸(こり)退治の秘伝、親類縁者たりとも極(ごく)内々(ない/\)の事内々の事。


 伊予の松山は日露戦争以来(このかた)俘虜の収容地になつてゐるので、そんな事から彼地(あすこ)の実業家井上要(かなめ)氏は色々(いろん)な方面の報道を集めて俘虜研究を行(や)つてゐる。
 井上氏の言葉によると、露西亜の俘虜は一向研究心が無いから、長い間日本に居ても、日本語はからきし判らなかつたのに、独逸の俘虜は大抵日本語が解る。解るのみならず、上手にそれを操る事が出来る。
 物を買ふにも、露西亜の俘虜は行きつけの店へ入つて、お昵懇(なじみ)の積りで笑顔の一つも見せる事を知つてゐるが、独逸の俘虜には一向行(ゆ)きつけの店といふものが無い。韈(くつした)一つ買ふにも、市中の雑貨商を二三軒歩き廻つた上、一番廉(やす)い店で買ふ事にする。
 露西亜人は俘虜になつても、自分は大国の国民だ、沢庵(たくあん)を噛(かじ)つて、紙と木片(きぎれ)とで出来上つた家に住んでゐる日本人などと比べ物にはならないといふので、日本人が滅多に手も着けない飛切(とびきり)の上等品を買込むが、独逸人は夢にもそんな贅沢な真似(まね)はしない。買ふ物も買ふ物も、みんな日本人が手に取らうともしない下等品で、値段が廉くさへあれば、喜んで買ひ取る。
 だから露西亜の俘虜は何時でも借金だらけで「霊魂(たましひ)」が抵当(かた)になるものなら、書入れに少しの躊躇(ちうちよ)もしないが、可憎(あひにく)日本では「霊魂(たましひ)」の相場が安過ぎるので詮事無(せうことな)しに自分達が本国から送つて貰ふ筈の月給を抵当に、行きつけの店から借り出すものが多かつたが、独逸人は借金どころか毎週定(きま)つたやうに貯金をする。もしか日本の監督将校が首でも縊(くゝ)りさうな顔をしてゐると、
「何(ど)うだ金が要るのか、利子さへきちんと払つたら幾らでも立替へるぞ。」
といふやうな事をいふ。
 露西亜人はあゝした暢気(のんき)な、お人好しの国民だから、俘虜になつても、例のオブロモフ主義で喰(く)つては寝転び、偶(たま)に女の顔を見てにや/\する位が落(おち)だが、独逸人となると例の研究好きで、暇さへあると何か取調(とりしらべ)を始める。誰だったか[#「誰だったか」はママ]独逸人を地獄へ堕(おと)したら、屹度(きつと)地獄と伯林(ベルリン)との比較研究を始めて、地獄の道にも伯林の大通(おほどほり)のやうに菩提樹の並樹(なみき)を植付けたい。それには自分に受負はせて呉れたら格安に勉強するとでも吐(ほざ)くだらうと言つたが、松山に居る独逸の俘虜で、日本の紋の研究を始めて、材料をどつさり集めてゐるのがあるさうだ。
 独逸の俘虜は物を買ふのに、屹度雨降(あめふり)の日を選(よ)つて出掛ける。雨降りだと、日本人がうるさく附(つ)き纏(まと)はないから、韈(くつした)一つ買ふにも町中歩きまはつて、ゆつくり値段の廉いのを捜す事が出来るからださうだ。


一万円の仏画

5・21(夕)
 早稲田大学の美学教授紀淑雄(きのとしを)氏は、近頃真黒に燻(くすぶ)つた仏画を持ち廻つて頻(しき)りと購客(かひて)を捜してゐる。幾らだと訊くと、「まあ、ずつと見切つた所で一万円」といふので、大抵の人は肝腎の仏画は見ないで紀(きの)氏の顔を見て笑つて済ましてゐる。
 紀氏は遅緩(もど)かしくなつて、友達仲間を説き廻つて、
「誰でもいゝ、この画(ゑ)を一万円に周旋(とりも)つて呉れたなら、手数料として千円位出しても可(い)い。」
といふので、仲間の美術通や画家(ゑかき)などは、血眼(ちまなこ)になつて得意先を駈けづり廻つてゐる。言ふ迄もなく美術通や画家(ゑかき)などいふものは、閑暇(ひま)がある代りに金銭(かね)が無い連中(れんぢゆう)である。
 一体仏画といふものはざらにあるが、名高い二十五菩薩来迎(らいかう)や山越(やまごし)の阿弥陀などを除(の)けると、何(いづ)れも凡作揃ひでお談話(はなし)にもならぬが、美術の好きな者には盲目(めくら)が多く、盲目(めくら)には富豪(かねもち)が多いから、下らぬ仏画に万金を投じても悔いないのだ。
 紀君の仏画はまだ見た事もないし、それに売物の事だから彼是(かれこれ)言はうとも思はないが、一体何を標準(めやす)に一万円といふ売値をつけたのだと訊いてみると、亡くなつた岡倉覚三氏がその画を見て、米国へ持込んだら屹度(きつと)三万円には売れるだらうといつた、その一言(こと)を標準(めやす)に、大負けに負けて一万円といふのださうな。
 岡倉覚三氏は邦画の鑑定(めきゝ)にかけては、随分鋭い鑑識を持つてゐた人だから、あの人の鑑定つきだったら[#「だったら」はママ]、三万円位投(ほ)り出す富豪(かねもち)があつたかも知れないが、さうかといつて紀氏も地獄へまで鑑定書(かんていがき)を取りにも往(ゆ)けまい。尤(もつと)も大隈伯にでも頼んだら、二つ返事で地獄の門番に添書(てんしよ)だけは書いて呉れるかも知れない。あの人は人に親切を尽すといふ事は、添書(てんしよ)をつける事だと弁(わきま)へてゐるのだから。
 その一万円が手に入つたら、紀氏は真面目に支那画(しなゑ)を研究したいと言つてゐる。支那画も善(い)いには相違なからう。人間といふものは、金銭(かね)が手に入らない間(うち)は、いろんな善(い)いことを考へつくものだから。


 大阪美術倶楽部(くらぶ)で催された故清元(きよもと)順三の追悼会(ついたうゑ)に、家元延寿太夫(えんじゆだいふ)が順三との幼馴染(おさななじみ)を懐(おも)ひ出して、病後の窶(やつ)れにも拘(かゝは)らず、遙々(はる/″\)下阪(げはん)して来たのは美しい情誼であつた。
 延寿太夫はその席上で、『角田川(すみだがは)』を語つた。清元としては甚(ひど)く上品なもので、何も判らない聴衆(きゝて)は何(いづ)れも手を拍(う)つて喜んでゐたが、自分は独(ひと)り欺(あざむ)かれたやうな気持がしない事もなかつた。
 意気で、うまみで持つてゐる清元を、強(し)ひて上品に拗曲(ねぢま)げようとするのは寧(むし)ろ当流音曲の自殺である。四代目お葉は二代目の不思議な横死が富本(とみもと)の手で行はれたかも知れないといふ疑(うたがひ)一つで、富本の紋章に縁のある桜の花は生涯家に植ゑさせなかつた程だ。家の芸が自分で首を縊(くゝ)らうとするのを見たら、どんなに言ふだらう。
 先代の延寿は道楽といふ道楽を仕尽(しつく)して、とどの果(はて)には舌切情死(したきりしんぢゆう)までしようとした。さういふ遊蕩的分子をその血にたんと持伝へてゐたから、舌切雀のやうに情死(しんぢゆう)で損じた舌をも、何(ど)うにか工夫して独吟となると聴客(きゝて)の魂を吸ひつけるやうな離(はな)れ業(わざ)も出来たのだ。ラムネの瓶(びん)にはギヤマンの「魂」が、露西亜人にはだらけた「心」が要るやうに、清元に無くて叶はぬものは、この遊蕩的分子である。
 今の家元は所謂(いはゆる)上流夫人といふ階級の気に入らうとして、清元を『角田川』のやうなお上品なものにしようとしてゐる。今の上流夫人の好くものは、お手製の西洋菓子と、オペラ袋(バツグ)と、新音曲と――孰(いづ)れもお上品で軽い物揃ひである。


 飛田(とびた)遊廓反対者が一木内相を訪問すると、内相はブリキ製の玩具(おもちや)人形のやうな謹厳な顔をして、
「人間の性慾といふものは、却々(なか/\)抑(おさ)へ切れないものだから、それを遂げさす機関も無くてはならない。」
と言つたさうだ。
 卸(おろ)し立ての手帛(ハンケチ)のやうに真白で皺(しわ)の寄らない心を持つた或る真言(しんごん)の尼僧は、半裸体の仏様のお姿を見て、
「まあ、仏様にも臍(へそ)がある……」
と言つて、悲しさうな声を出して泣いたさうだ。一木内相が人間に性慾があるのを発見したのは、仏様に臍があるのを見つけたと同じやうに、非常な発見で、この場合内相が若い比丘尼(びくに)のやうに声を立てて泣かなかつたのは、流石に男である。男といふものは女と同じやうに神様の玩具(おもちや)に過ぎないが、女には胸を押へると泣き出す仕掛があるのに、男にはそれが無いだけの相違(ちがひ)だ。
 一木内相は男である。男だから毎週土曜日の午後には東京を発(た)つて小田原の別荘へ行く事に定(き)めてゐる。別荘には夫人が待つてゐる。夫人は言ふ迄もなく女である。――それを思ふと、何事も二宮宗(のみやしゆう)の勤倹一点張でやり通さうとする内相に、性慾は余り贅沢過ぎるやうだ。
 神様は粘土(ねばつち)で人間を作るのに、凡(すべ)て自分に肖(に)せたといふ事だ。ジヨオヂ・ムアに従ふと、英吉利の男も矢張(やつぱり)神様のやうに、自分達に肖せて女を拵(こしら)へるが、それに要る土だけは亜米利加から取寄せてゐるといふ事だ。
 一木内相の理想(おもはく)通りに女を拵へさせたら、どんな物が出来上るだらう。堅麺麭(かたパン)のやうな二宮宗に、ちよつぴり性慾を撮(つま)み込んだ、恰(まる)でサンドヰツチのやうな女が生(でき)るに相違ない。


仏の笑顔

5・24(夕)
 先日(こなひだ)来遊した露国の詩人バリモントは、態々(わざ/\)日光まで出掛けて往つたが、噂と違つて一向結構な点(ところ)が無いので失望した、多分京都や奈良へ往つたら、この償ひがつくだらうと、心細い事を言つてゐるさうだ。
 日光を結構な土地(ところ)と思つたのが間違で、日光には鋳掛(いかけ)屋の荷物のやうな、ぴか/\した建物があるだけで、那処(あすこ)では芸術は死んでゐる。あれを有難いものと思つてゐるのは、関東人に腹の底からの田舎者が多いのを証拠立ててゐる訳だ。バリモントも態々(わざ/\)日光へ出掛けるなぞ無駄な事をしたものだが、それでも感服しなかつただけが取得(とりえ)だ。矢張評判に背(そむ)かないだけの詩人の感覚(センス)といふものを持つてゐると見える。
 日本の景色を恰(まる)で楽園(エデン)のやうに云ふ人がある。エデンに嘘吐(うそつ)きの蛇(じや)と、騙(だま)され易(やす)い女とが居るやうに、日本にもこの二つがざらに居るから、この意味で楽園(エデン)だといふのに異議は無いが、景色はさう/\自慢する程のものではない。バリモントも詩人だといふからには、景色だけを見に態々(わざ/\)来なかつた筈だ。
 関西(かみがた)へ来たなら、是非見せて置きたいものが二つ三つある。一つは京都の博物館にある婆藪(ばそう)仙人と今一つは法隆寺の宝蔵にゐる何とか言つた仏体だ。(以前(まへかた)訳のあつた女の名前も時々(ちよい/\)忘れる事があるやうに、名高い仏様のお名前もどうかすると想ひ出せない事があるものだ。)
 日本に長く居た工芸家のリイチ氏なども、日本の彫刻は大抵見尽したから、価値(ねうち)はちやんと解つてゐるなどと、甚(ひど)く喰(く)つたやうな事を言つてゐたが、件(くだん)の仏像に惚れぬいてゐる富本憲吉氏が、
「頼むから、たつた五分間でもいゝ見て欲しい。」
と、嫌(いや)がるのを無理に引張つて往(ゆ)くと、魂でも吸ひつけられたやうにその前に棒立(ぼうだち)になつて、
「素敵だな。こんなものが日本にあらうとは思ひ掛けなかつた。ビンチのジヨコンダが思ひ出されるやうな作品だ。いや、ジヨコンダ以上だ。」
と賞立(ほめた)てた事のある仏体だ。
 ジヨコンダも謎のやうに笑つてゐるが、法隆寺の仏様も笑つてゐる。ジヨコンダの笑ひは人間臭いが、この仏様の笑ひは天人の笑ひである。笑ひといへば京都博物館の婆藪仙人も笑つてゐる。これは地獄を見て来た者の笑ひである。


書物

5・25(夕)
 ある男が慶応大学の鎌田(かまだ)栄吉氏に、ほんの愛相(あいさう)のつもりで、
「近頃はどんな本をお読みですかい。」
と訊いてみた。すると鎌田氏は馬のやうに気取つて、そして馬のやうににやりとして、
「近頃は本なぞ些(ちつ)とも読みませんさ。世間は私や門野(かどの)君を――」と側(そば)に居合はせた門野幾之進氏を一寸振り返つて、「まるで本ばかり読んでゐる男のやうに思つてると見えて、よくそんな質問に出会(でくは)しますがね……」
と言つてゐた。
 先日(こなひだ)まで京都図書館長をしてゐた湯浅半月氏に、
「君の顔はどこかモウパツサンに肖(に)てゐる。」
と出鱈目(でたらめ)の挨拶をした者がある。すると湯浅氏は禿かかつた前額をつるりと撫で下して、
「誰やらもそんな事を言つたつけが……」
と言つて、その翌日(あくるひ)これまで図書館に持合はさなかつたモウパツサン全集の英訳を丸善に註文したといふ事だ。
 湯浅氏がモウパツサンに少しも肖てゐないやうに、誰も鎌田氏を読書人(どくしよにん)だと思ふものも無からうが、当人になつてみると、世間がそんなに買被(かひかぶ)りをしてゐるらしく思はれるものと見える。
 だが、かう言つた所で鎌田氏も失望するが物は無い。本を読むといふ事は、ココアを啜(すゝ)るといふ事と同じで、何も大した事では無いのだ。渋沢男爵などは、婿(むこ)の阪谷男(さかたにだん)が万国経済会議に出掛ける餞別(せんべつ)にポケツト論語を贈つたさうだが、あれなども何(ど)ういふ気でした事か一寸考へ及ばれない。
 論語は善(よ)い本だ。善(よ)い本だからと言つて、それで人生が引(ひつ)くり覆(かへ)るものなら、この世は幾度か既(も)う引くり覆つてゐる筈だ。


新画

5・26(夕)
 トルストイは『芸術とは何ぞや』といふ書物のなかで仏蘭西の新しい詩人を攻撃しようとして、作家連の詩集から例証をあげるのに奇抜な方法を選んだ。それはいろんな詩集から廿八頁目の詩を引つこ抜いて来るといふ方法なのだ。
 茶話子は散歩をするのに、四つ辻へ来ると手に持つた洋杖(ステツキ)なり蝙蝠傘(かうもりがさ)なりを真直に立ててみてそれが倒れる方へ歩き出す事がよくある。
 近頃新画の展覧会があちこちで開かれるが、作家と絵の出来栄(できばえ)について何の好悪(すききらひ)も持たない今の成金のなかには、眼を閉ぢて番組(プログラム)を押へるとか、又は従来(これまで)自分と縁起のよかつた、25とか73とかの番号に当つてゐるのを捜すとかして、それを買取る事にきめるのがある。
 そんな時には何(ど)うかすると同じやうな買手が顔を出すもので、互に意地を張つた末が、定(きま)つたやうにぢやん拳で縁極(えんき)めをする。よく新画の展覧会へ出掛けると、一つの画幅の前で火喰鳥(ひくひどり)のやうな鋭い顔をした男が三四人、ぢやん拳をして、きやつ/\乾躁(はしや)ぎ散らしてゐるのを見掛ける事がある。
 なかには地所を買ふより割高になるといつて、展覧会があると、絵なぞ一目(め)とも見ようとはしないで、電話でもつて何号から何号まで総高幾干(いくら)を取除(とりの)けて置いて貰ひたいと、恰(ちやう)ど勧業債券でも買込むやうな取引をするのがあるさうだ。
 大浦(おほうら)の隠居さんが取引した議員政治家の値段と、栖鳳が書きなぐつた雀一羽とを比べてみると、雀の方がずつと値が高い。流石は結構な美術国である。


禁酒のお水

5・27(夕)
 一心寺に元和(げんな)の往時(むかし)、天王寺で討死(うちじに)した本多忠朝(たゞとも)と家来九人を葬つた墳(つか)のある事は、誰もがよく知つてゐる筈だ。
 忠朝は生きてゐる間(うち)は、鉄の棒を揮(ふ)りまはす外(ほか)には何の能も無かつた男に相違ないが、死んでからは面白い内職にありついてゐる。内職といふのは、禁酒の願(ぐわん)を聞くといふ事なのだ。一体男に禁酒させるのは、女に有難がられる第一の功徳(くどく)で、世の中に仕事といふ仕事は沢山あるが、女に有難がられる仕事ほど行(や)り甲斐(がひ)のあるものは無い。
 忠朝の墓前に小さな壺があつていつも蓋(ふた)がしてあるが、中には銀のやうな水が溢れてゐる。酒を断たうとする者は、その水を戴(いたゞ)いて飲むと、何日(いつ)の間にか酒嫌(さけきら)ひになるといふ事だ。
 ある日其処(そこ)を通りかゝると、頭を島田(しまた)に結つた十七八の女が、壺から水を掬(く)むで家(うち)から持つて来たらしい硝子瓶(ガラスびん)に入れてゐるのがある。
「何(ど)うするんだね。」
と訊くと、
「檀那はんが酒癖が悪うおますよつて、ぶぶうに入れて上げるのだつせ。」
と、女は「救世主」のやうな、おせつかいな顔をして私を見た。実際女といふものは、男の知らぬ間(ま)に、その飲物のなかへ色々(いろん)な物を撮(つま)み込むのが好きで溜らぬらしい。それが酒断(さけだち)の水であらうと、塩であらうと、莫児比涅(モルヒネ)であらうと、悉皆(みんな)持合せのおせつかいからする事なので、男は目を閉(つむ)つて謹んでそれを戴かなければならぬ。
 ハウプトマンの『沈鐘』を読むと、鐘師のハインリツヒが山の上で怪しい女と酒を飲んで踊つてゐると、村に残した子供二人が、大事さうに小さな瓶を提(さ)げて坂を上(のぼ)つて来る。瓶のなかには何があるのだと訊くと悲しさうな顔をして、
「母様(かあさま)の涙です。」
といふ条(くだり)がある。
 母様の涙は少し鹹(しほ)つぽいが、忠朝の墓の水は冷(ひや)つこい。どちらも妙に酒飲みの阿父(おとつ)さんには効力(きゝめ)があるといふ事だ。


 先日ある会で画家の鏑木(かぶらぎ)清方氏と池田輝方氏とが出会つて、
「どうだい閑(ひま)だつたら久し振に一緒に築地辺でも※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(ぶらつ)かうか。」
といふやうな談話(はなし)が持上つて、二人は嬉しさうに築地へ散歩に出掛けた。
 清方といふ人は江戸ツ子によくある酷(ひど)い郷土自慢で、偶(たま)に病気にでも罹(かゝ)つて、箱根辺へ保養に出掛けなければならぬ折には、家族と水盃(みづさかづき)も仕兼ねない程の旅行嫌ひで、東京市内でも山の手は田舎臭いといつて、滅多に出掛けた事が無いさうだが、その日は築地だつたから、別れに水盃の必要もなかつた。
 だが、これには理由(わけ)のある事、清方氏は輝方氏とは同じやうに築地で育つた人で、子供の時分には互に顔は見知らなかつたものの、清方氏の家(うち)には葡萄棚があつて、夏になると美しい房が鈴生(すゞなり)に生(な)るので、腕白者(わんぱくもの)の輝方氏は近所の鼻(はな)つ垂(たら)しと一緒に、いつも盗みに出掛けたものだつた。或る晩などは逃後(にげおく)れた輝方氏が女中に掴(つか)まつて、恋女房の蕉園女史にしか触らせた事のない口の端(はた)を思ひ切り抓(つね)られたものださうだ。
 その後二人が同じやうに、水野年方(としかた)氏の門に入(い)つた時、色々の世間話からその事が判つて、
「君だつたら葡萄位(ぐらゐ)呉れてやつてもよかつたんだ。」
と言つて笑つたさうだ。かういふ縁で二人は時々築地通(どほり)を散歩するのださうだ。
 画家(ゑかき)といふものは、何(ど)うかすると他所(よそ)の葡萄を欲しがつたり、相弟子(あひでし)の女画家に惚れたりするものなのだ。


先輩後輩

5・29(夕)
 鴈治郎と歌右衛門とが大阪での顔合せが、梅玉父子(ばいぎよくおやこ)の意地張(いぢばり)から急に沙汰止(さたや)みになつたので、例(いつも)のやうに大阪俳優の大顔寄せといふ事になり、旅興行の延若(えんじやく)へその旨を通じると、延若は承知しない。
 従来(これまで)興行政策の上から、鴈治郎には随分犠牲になつてゐる。以前(もと)の延二郎ならば兎(と)も角(かく)も、亡父(おやぢ)の名前を相続してみれば、さう/\お人好しに許(ばか)りはなつては居られない。
「今は既(も)う競争の時期に入つてゐるのや。どつちやが捷(か)つかまあ長い目で見てみなはれ。」
と胡瓜(きうり)のやうな長い頤(おとがひ)に、胡瓜のやうな刺(とげ)をちら/\させてゐる。
 レオナルドとミケエルアンゼロとは所謂(いはゆる)文芸復興期の二大天才だが、この二人に就いてこんな話がある。或時レオナルドが例(いつも)のやうに長い顎鬚(あごひげ)を扱(しご)きながら、市街(まち)を散歩してゐると、五六人の若い市民が、ダンテの詩に就いて、喧(やかま)しく議論をしてゐるのに衝突(ぶつつか)つた。
 市民はレオナルドを見ると、
「先生貴方(あなた)の御意見は如何(どう)です。」
と訊いてみた。すると丁度またミケエルアンゼロが其処(そこ)を通(とほ)り懸(かゝ)つたので、レオナルドは、
「おゝアンゼロが来た。その事ならばあの男がよく知つてゐる筈だ。」
と言つた。アンゼロは平常(ふだん)からレオナルドの長い顎鬚を癪(しやく)にさへてゐたので、
「君が自分で説明したら可(い)いぢやないか、君は何時(いつ)だつたか、青銅(ブロンズ)で馬の模型(モデル)を作りかけて鋳上げる事もしないで、打捨(うつちや)り放(ぱな)しにしたぢやないか、いい恥晒(はぢさら)しだね。」
と吐き出すやうに言つた。レオナルドはそれを聞いて海老のやうに真紅(まつか)になつて了(しま)つたさうだ。
 鴈治郎と延若とを、レオナルドとアンゼロとに比べるのは、藁※(「禾+皆」、第4水準2-82-94)(わらしべ)と黄金(きん)の塊(かたまり)の目方を引くやうなもので、天秤(はかり)を神経衰弱にするに過ぎないが、然(しか)し先輩後輩の関係だけには一寸似寄つた節(ふし)がある。
「時」はいつも若い者に味方をする、だが、人間はいつ迄も若くては居られない。


 愛知医専教授中村豊氏(耳鼻咽喉専門)の説によると、芸妓といふものは大抵慢性喉頭加答児(かたる)に罹(かゝ)つてゐる。それは無理に声を使ひ、無理に酒や煙草を飲み、無理に夜更(よふか)しをし、無理な借銭や、無理な恋をするといつた風に凡(すべ)てが無理づくめなからださうだ。唄でも謡(うた)ふ時は鶯(うぐひす)のやうに滑(なめら)かだが談話(はなし)をすると曳臼(ひきうす)のやうな平べつたい声をするのは、咽喉を病んでゐる証拠ださうだ。
 中村氏は一度呂昇の咽喉を見た事がある。凡(すべ)て女の声帯は細いのに呂昇のは男と同じ程度に大きく、咽喉もよく発達してゐるが、扁桃腺(へんたうせん)が非常に肥(ふと)つて、どんなに贔屓目(ひいきめ)に見ても健全(ぢやうぶ)な咽喉とは言ひ兼ねたさうだ。余つ程扁桃腺を切らうかとも思つたが、その拍子に浄瑠璃を傷つけてもと思つて見合せたさうだ。素人(しろうと)の浄瑠璃は鼻の先に巣くつてゐるが、呂昇のやうな黒人(くろうと)のは、何処に隠れてゐるのか医者にも一寸判らないといふ事だ。
 雲右衛門(くもゑもん)の咽喉は、大久保知事の頭のやうに滅茶々々に荒れて、声帯は手の着けやうも無い。一体浪花節語(なにはぶしかた)りは、首を縊(し)められた鶩(あひる)のやうに、一生に一度出せばよい声を、ざらに絞り出すので誰でもが病的になつてしまふ。
 先年大隅太夫が声が出なくなつて、約束の席に差支(さしつか)へた時、高峰博士のアドレナリンの声帯注射を試みて、無事に席を済まさせた事があつた。これは声帯の充血を一時的に散らすので、長い効能は無いが、女でも口説(くど)かうといふものはその三十分前にこれを注射して見るのも面白からう。
 だが、或人の説によると、そんなに手数(てすう)の要る事をするよりも、その注射代だけ手土産(てみやげ)を持つて往つた方が、屹度(きつと)女の気に入るといふ事だ。


女の鑑定家

5・31(夕)
 神様の数多い作品のなかで女が第一の傑作であるといふ事は、多くの婦人雑誌が主張する所で、自分もそれに就いては少しの異議もない。女の美しさ――それだけでも十分なのに、加之(おまけ)にまた女の狡(ずる)さ――これを傑作と呼ばないのは盲目(めくら)である。
 かういう神様の傑作も、竈(へつゝひ)の前へ置きつ放しにしておくと、何時(いつ)となく煤(すゝ)ばんで来る。すると浅果(あさはか)な男心は直ぐ我楽多(がらくた)のやうな、ぞんざいな扱(あしら)ひ風(ぶり)を見せて、何(ど)うかすると神様の傑作に対して敬意を失するやうな事になる。
 この頃(ごろ)西洋新聞を見ると、ある男女が結婚して四五年経つと、互に鼻に附き出して、顔を見るのも厭(いや)になつた。そこで寧(いつ)そ別れようといふ事で、日を定(き)めて弁護士の許(とこ)に落合つて、その手続をする事に談話(はなし)を運んだ。
 その日になつて、女は素晴しく着飾つて来た。身動きする度(たび)に、絹摩(きぬず)れの音がして、麝香猫(じやかうねこ)のやうな香(にほひ)がぷん/\する。男は眩(めま)ひがしさうになつて来た。
「見違へる程美しいぢやないか、何(ど)うしたんだね。」
「いえね、貴方(あなた)にお別れすれば、独身(ひとりみ)でも居られないしと思つて、嫁入口を捜しに往つたんですわ。」
「怖(おそろ)しく早手廻しだな。良(い)いのが見つかつたらう。」
男は吐き出すやうにいふ。
「もう御存じなの、貴方にも宜(よろ)しくつて言つてたわ。」
女は一寸笑つてみせた。
 男はいきなり女の手を取つて少し相談があると言つて、弁護士の家(うち)を出て往つた。三十分後には、この二人は活動写真館に入つて、夫婦鳩(めをとばと)のやうに肩を並べて戯(ふざ)け散らしてゐたさうだ。
 謹んで世上の女に告げる。男は皆かうしたものだ。彼は「女」の鑑定家としては最も与(く)みし易いやくざ者である。


女といふもの

6・1(夕)
 大杉栄(さかえ)と伊藤野枝(のえ)とが例の恋愛事件に対する告白を読んで見ると、孰(いづ)れも理屈ばかり列(なら)べてゐる。理屈などは何(ど)うでもよい、栄といふ男と野枝といふ女とが附着(くつつ)かねばならなかつた真実(ほんとう)の特殊の事情を告白する事が出来なければ嘘だ。
 彼等は他(ひと)に是認されるやうにと思つて、単に自分達の仕(し)た事に筋道許(ばか)りを附けようとしてゐる。そして自分達二人の間の特殊の境遇と感情とを忘れようとしてゐる。
 女を捉(つか)まへたら、力一杯それを引き着けてゐなければならない。女は筋肉の逞(たくまし)い男の腕の上でのみ睡(ねむ)る事が出来る。女は狡猾な鳩のやうなもので、男がうつかり掌面(てのひら)を弛(ゆる)めると、直ぐぱた/\と飛び出す。そしてそれを男の油断からだとは思はないで、自分に羽があるからだと穿違(はきちが)へる。
 近頃は別れた女が、以前関係のあつた男を棚卸しをする事が流行(はや)る。棚卸しの対象(あひて)としては、男は恰好の代物(しろもの)である。どの男もどの男も女に対しては悉皆(みんな)共通の弱味を持つてゐるので、或る一人の棚卸しは、やがて男全体の棚卸しとなる事が出来る。もしか伊藤野枝のやうな女が、
「今だから白状しますが私の先(せん)の亭主には尻尾があつてよ。」
と言ひでもすると、世上の男といふ男は、みんな頭を抱へ込んで、
「野枝め、俺に当てつけてるんぢや無からうか、確か俺にも尻尾があつたつけな。」
と恐縮するに極(きま)つてゐる。
 先年巴里(パリー)で、人の妻たるものに、有つて欲しい性質を投票させた事があつた。その時の投票に依ると、「慈愛」が一万三千八点。「整理」が一万八千四百四十点。「信任」が一万九百四点といふ結果であつた。この頃(ごろ)のやうに女に油断が出来なくなつたら、いやそれは西洋の事だ、日本はまた別だなどと勝手な事は言はないから、何卒(どうか)男子保護政策として別れた後(のち)に「亭主の棚卸しを仕(し)ない」といふ点に最高票を投じて貰ひたいものだ。


タゴオルの知人

6・2(夕)
 タゴオルが来ると、友人や知辺(しるべ)やが其辺(そこら)ぢゆうから飛び出して、色々な勝手な事をいつてゐる。
「私はタゴオル家へ二晩泊つた。その晩詩人は歌を唱(うた)つた。」
「僕はタゴオルの寝言を聞いた。寝言がすつかり韻が踏んであつたには驚いた。」
「私はタゴオルの外套を見た。左のポケツトには『詩』が入つて居(を)り、右のポケツトには『哲学』があつた。財布は――財布は確か洋袴(づぼん)の隠しにあつたやうに思ふ。」
「詩人は僕の前で欠伸(あくび)をした。あの欠伸が解るのは、日本で野口米次郎氏位のものだらう。」
と言つたやうなもので、どれもこれも御尤(ごもつとも)の事づくめだ。
 さういふ人達がタゴオルの親友であるのは夢更(ゆめさら)疑ふのでは無い。だが、実をいふと、そんなに詩人と懇意なのだつたら、もつと早くタゴオルの人物と作物(さくぶつ)とを紹介して貰ひたかつたのだ。
 聖母マリヤが昇天して、神様のお側(そば)に居ると、色々な男や女が、
「マリヤ様の昔昵懇(むかしなじみ)だよつて極楽に入らさせて呉れさつしやれ。」
と言つて、ドヤ/\入つて来た。マリヤが窃(そつ)とその人達を見ると、何(いづ)れも見知らぬ顔で、なかに三四人以前耶蘇を生み落した当時、
「いたづらな阿魔つ子めが……」
と途(みち)の出会頭(であひがしら)に石を擲(な)げつけた女達が交(まじ)つてゐたといふ事を何かの本で読んだ事がある。
 タゴオルが若(も)しか涅槃(ねはん)の国へでも往つたら、早速訪ねて往つて、お釈迦様か阿弥陀様かに紹介状を認(したゝ)めて貰ひ度いといふのは、かういふ日本人に一番多からう。


 乞食が頭陀袋(づだぶくろ)の充実をはかるやうに、早稲田派の文士は、絶えず生の充実をはかつてゐる。そのなかでも相馬御風君などは、書いてゐる論文でみると、散髪をする閑(ひま)もない程、人生の事ばかり思つてゐるらしい。ほんとに殊勝な事だ。もしかこの世界が私の手製だつたら、相馬君のやうな心掛のいゝ人には、密(そつ)と内証(ないしよう)で打明けてやりたいものだ。
「人生つてそんなに意味のあるものぢや無いのだよ。」と言つてね。
 京都の西川一草亭氏は、相馬御風氏の論文を見て、こんなに始終(しよつちゆう)人生の事ばかり考へて居ては、嘸(さぞ)肩が凝つて溜るまいと、自分の実弟(おとうと)で予(かね)て相馬氏と知合(しりあひ)の津田青楓に訊いてみた。
「相馬君つて毎日どんなにして暮してるね。始終(しよつちゆう)独語(ひとりごと)でも言つてるのかい、蟹のやうに。」
「独語(ひとりごと)も言つて無いやうだね。」
「ぢや何をしてゐるね。」
 一草亭は好奇(ものずき)の目を光らせた。
「さうさなあ――よく将棊をしてるやうだがね。」
と津田氏はいつだつたか、相馬氏が歩と桂馬とを人生の秘密か何ぞのやうに、緊(しつか)り掌面(てのひら)に握つてゐた事を思ひ出した。
「え、将棊をさしてるつて。」
 一草亭氏は覚えず吹き出してしまつた。
「将棊をさすなんて、そんな……そんな閑暇(ひま)があるのかい。あんな忙しさうな議論を書きながら。」
 それからといふもの、一草亭氏は二度ともう相馬氏の論文を読まなくなつたさうだ。


露伴と島

6・5(夕)
 タゴオルが到(いた)る所で歓迎されてゐるのは喜ばしい。『ギタンヂヤリ』の詩人は私の叔父でも従兄(いとこ)でも無いが、詩人の尊敬せられるのは、軍人や政治家の持てるのと異(ちが)つて、見てゐて気持が好(い)い。だが、日本人が印度(インド)の詩人に払ふ敬意の半分でも、自国の詩人に捧げる事を知つてゐたなら、日本はもつと幸福な国になつてゐられたに相違ない。
 タゴオルの一家では、亡くなつた岡倉覚三氏に島を一つ買つて配(あてが)はうとした事があつた。相手は岡倉氏の事だ。買つて配(あてが)つたところで、格別礼も言はないで、一寸領(うなづ)いてみせた位で、直ぐ受取つたに相違ない。
 島を貰つて何(ど)うする? なに心配するが物は無い。住み飽いたら売つてしまふばかりさ。現代仏蘭西の文豪アナトオル・フランスは友達が寄贈して呉れた書物は碌(ろく)に読みもしないで、セエヌ河の河縁(かはぶち)にある古本屋に売り飛ばしてしまふといふ事だ。そして他(ひと)が訊くと、
「なに、田舎の友人に送つてやつたのさ。」
と何喰(なにく)はぬ顔で済ましてゐるさうだ。
 岩代(いはしろ)猪苗代湖のなかに翁島(おきなじま)といふ小さな島がある。樹木のこんもり繁つた静かな島だが、これが先年三千円か知(し)らで売りに出た事があつた。幸田露伴氏がそれを欲しがつて、買つても可(い)いと言つてゐたが、買ひ度いと思つた時には三千円の工面がつかず、工面が附きかかつた時には、もつと好(い)い考へが起きて来たので到頭沙汰止みになつた。好(い)い考へといふのは、島を買つて棲むよりか、借金をしない方がずつと安静だといふ事だ。
 その折露伴氏は、島が万一自分の者になつたら、どんな訪問客(はうもんかく)でも活(い)きた鱒(ます)の子を手土産に持つて来ないものは、面会を謝絶する事にしたい。そしてお客の持つて来た鱒の子は、悉皆(みんな)湖水のなかへ放して遣(や)つたら、幾年かの間に湖水は鱒で一杯になるだらうと言ひ/\してゐた。
 露伴といふ人は色んな面白い事を思ひつく人だ。そしてもつと面白いのは、大抵それを実行しないで済ます事だ。


贋物(にせもの)

6・6(夕)
 村井吾兵衛(きちべゑ)が伊達家の入札で幾万円とかの骨董物を買込んだといふ噂を伝へ聞いた男が、
「幾ら名器だつて何万円は高過ぎよう。それにそんな物を唯(たつた)一つ買つたところで、他(ほか)の持合せと調和が出来なからうぢやないか。」
といふと、吉兵衛は女と金の事しか考へた事のない頭を、勿体ぶつて一寸掉(ふ)つてみせた。そして一言一句が五十銭づつの値段でもするやうに、出(だ)し惜(をし)みをするらしく緩(ゆつく)りした調子で、
「なに高い事は無いさ、幾万円払つた骨董が宅(うち)の土蔵にしまひ込んであるとなると、外(ほか)に沢山(どつさり)あるがらくた道具までが、そのお蔭で万更(まんざら)な物ぢや無からうといふので、自然値(ね)が出て来ようといふものぢやないか。」
と言つて笑つたといふ談話(はなし)だ。
 今の富豪(かねもち)が高い金を惜しまないで骨董品を集めるなかには、かうして狡い考へをするのが少くない。唯骨董品ばかりでは無い。一人娘に華族の次男を聟養子(むこやうし)にするなぞもそれだが、多くの場合に骨董に贋物が多いやうに、聟養子にやくざ者が多いのはよくしたものだ。
 京都でさる知名の男が、自分の書斎を新築して立派に出来上つたが、さてその書斎の出来栄に調和するだけの額や軸物の持合せが少しも無い。買ひ集めるとなると、大枚の金が要る事だし、寧(いつ)そ贋物(がんぶつ)で辛抱したら、格安に出来上るだらうと、懸額(かけがく)から、軸物、屏風、床(とこ)の置物まで悉皆(すつかり)贋物(がんぶつ)で取揃へて、書斎の名まで贋物堂(がんぶつだう)と名づけて納まつてゐた。
 面白いのは、そこの主人が軸物よりも屏風よりも、もつと甚(ひど)い贋物(がんぶつ)である事だ。――京都の画家(ゑかき)が贋物(いかもの)を拵(こさ)へる事が巧(うま)いやうに、京都の女は贋物(いかもの)を産む事が上手だ。孰(いづ)れにしても立派な腕前である。


フロツクコート

6・7(夕)
 坪内逍遙博士は名高い洋服嫌ひで、洋服と言つてはフロツクコートが一着しか無い。そのフロツクコートといふのが、博士が大学を卒業した当時拵(こしら)へたもので、その後長年箪笥(たんす)の底に蔵(しま)ひ込んで置いたが、博士になつた当座文部省へ出頭する時には、恭(うや/\)しくそれを着込んでゐた。
 息子の士行(しかう)氏が洋行から帰つて来た時、博士はぽんたの娘で士行氏と許嫁(いひなづけ)の養女国子さんと、件(くだん)のフロツクコートを取り揃へて士行氏に呉れようとした。博士の心算(つもり)では息子は二つ返事でそのフロツクコートを被(き)て、国子さんと結婚するものだと思つて居たのだ。それに何の無理があらう、二者(ふたつ)とも文字通りに箱入(はこいり)には相違なかつたのだから。
 士行氏は二者(ふたつ)とも気に入らなかつた。国子さんには什※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)(どんな)に言つたか知らないが、フロツクコートを見た時には、急に歯痛(はいた)でも起きたやうに、泣き出しさうな顔をして頼んだ。
「阿爺(おとう)さん後生ですから元々通り箪笥に蔵ひ込んで置いて下さい。万一(もしか)私が沙翁(セキスピヤ)物でも演(や)る事があつたら、その折着させて戴きます。何しろ結構な仕立で、何卒(どうか)樟脳をどつさり入れてね……」
 博士はイプセンの流行(はや)つた当時守り本尊の沙翁(セキスピヤ)をしまひ込んだと同じ程度の鄭重(ていちよう)さで、そのフロツクコートをまた箪笥に蔵ひ込んでしまつた。箪笥といふものは、博士の宅(うち)にあつても、俥夫(くるまや)の宅(うち)にあつても感心な程腹の太いもので、亭主の秘密(ないしよ)も、女房の臍繰(へそくり)も、流行品も流行後れも同じやうに飲み込んで、ちつとも厭な顔を見せない。
 近頃そのフロツクコートを、博士の箪笥から引張り出さうと目論(もくろ)んでゐる者がある。それは無名会俳優の東儀鉄笛(とうぎてつてき)氏で、「何(ど)うするのだ」と訊くと、
「一度申訳だけに舞台で被(き)て、あとは縫ひ返して子供の外套に仕立(したて)るんだ、型は古いが地(ぢ)が好(い)いんだからね。」
と虫のいゝ事を言つてゐる。


独身元帥

6・9(夕)
 キツチナー元帥が不意の横死を遂げたのは、同盟国の為に気の毒に堪へぬ。元帥はあの通りの武断主義者で、加之(おまけ)に独身主義者であつたから、随分敵も多かつたが、例の皮肉屋バアナアド・シヨウが『新聞切抜(プレツスカチング)』といふ一幕物で、元帥をモデルに扱つたのなぞは最も悪戯(いたづら)がひどい。
 キツチナー将軍が首相のアスキスと婦人選挙権と兵役強制法の事を論じてゐると、其処(そこ)へ婦人の訪問客(はうもんかく)が来て、将軍を調弄(からか)ふ。将軍が蟷螂(かまきり)のやうに怫(むつ)とした顔をして、
「八度(たび)戦争(いくさ)に出て、生命懸(いのちが)けの働きをした者は自制の道を弁(わきま)へてゐますぞ。」
といふと、女は鸚鵡返(あうむがへ)しに、
「八度(たび)産褥(さんじよく)で生命懸けの目に逢つた女は、ちつとやそつとの悪口(あくこう)は利きませんよ。」
と言つて、
「もしか女が死んで失(な)くなつたら、貴方(あなた)は寝室(ベツド)へ往つて双児を産みますか。」
と我鳴(がな)り散らすので、将軍は苦虫を噛み潰したやうな顔をする。
「そんな事は医者に訊きなさい、私は赤面するばかりだ。」
 そこへ女子参政反対運動の婦人が二人訪れて来て、
「男の手で女子参政論者を二哩(マイル)以外に放逐する事が出来なければ、女の私達が武器を取つて立ちます。」
と一人の婦人が短銃(ピストル)を取り出す。キツチナー将軍が武器を取上げるのは私の職務だといふと、今一人の婦人が十八世紀式の短銃(ピストル)を掴み出して、
「これをもお取(と)り上(あげ)ですか。」
と将軍の頭に突きつける。将軍は落付き払つて、
「それは武器ではない、好奇心(キユリオシチイ)です。私の頭に配(あてが)ふよりも博物館に持つて往つた方が宜(よろ)しい。」といふ。
 二人の婦人は短銃(ピストル)を揮(ふ)り廻して、
「婦人に選挙権などは要らない、その代り兵役に就かせて呉れ。男子を奴隷とするには、ビスマークの所謂(いはゆる)鉄と血とが必要だ。さういへばビスマークも屹度(きつと)男装してゐた婦人に相違ない。歴史上の英雄豪傑は悉皆(みんな)婦人(をんな)で世間体を胡麻化(ごまか)すために男装をしてゐたまでです。」
 トヾ、将軍が以前の婦人へ結婚申込をすると、婦人は娘に相談の電話をかける。それを警察へと思ひ違へをした将軍が、
「巡査にお引渡しは恐れ入る。私は本気なんです。」と逡巡(へどもど)する。「お齢(とし)は?」と婦人が訊くと、将軍が「五十二です」と答へる。すると娘の方から、
「でも who's who(フウズフウ) には六十一歳とありますわ。」
といふので将軍が赤面をする滑稽などもある。
 そのキツチナーも六十五歳、独身の儘(まゝ)死んでしまつた。「独身」は女に好かれるものだが、それが主義となると打つて変つて女に嫌はれる。女は狗(いぬ)のやうなもので余り好かれても五月蠅(うるさ)くて迷惑するが、嫌はれても一寸困る。彼等は吠えつく術(すべ)を知つてゐるから。


親といふもの

6・10(夕)
 奥繁三郎(しげさぶらう)氏の母親(おふくろ)は九十近くの老齢(とし)で、今だに達者でゐるが、孝行者の奥氏は東京へでも旅をする時には、一番に母親(おふくろ)へ挨拶に往(ゆ)く事を忘れない。すると母親(おふくろ)は、定(きま)つたやうにいふ。
「東京へお往(い)きやす言うて、誰(だれ)ぞお伴(つれ)でもおすのかいな。」
「いゝえ、私一人です。」
「あんた一人で東京までようお往(い)きやすか。」と母親(おふくろ)はもう涙を一杯眼に浮べて「繁(しげ)も可憫(かはい)さうに、お伴(つれ)が些(ちつ)とも出来(でけ)よらんのかいなあ。」とそつと溜息をする。
 奥氏はどんな旅行をするにも、母親(おふくろ)の前では屹度(きつと)、
「一週間旅へ往つて来ます」
といふ。するとその翌日(あくるひ)から母親(おふくろ)はもう、
「繁はまだ帰つて来やはらんかいな。」と訊くので、
「まだ昨日(きのふ)お発(た)ちやしたのやおへんか。」といふと、
「さうかいな、もう一週間も経つたやうに思へるさかい。」
と、其辺(そこら)を捜しでもするやうにうろ/\する。
 親といふものは有難いもので、神様が人間を罪人扱ひにするのに比べて、親はいつ迄もその子を子供扱ひにする。親が神様になつては可(い)けないやうに、神様も親になつては可けないが、親には神様が真似の出来ない長所がある。それは子供の為には「馬鹿」になるといふ事で、神様より人間の偉い点(とこ)は確(たしか)にこゝにある。丁度「愚痴」を持つてゐる女が、それを持合はさない男より強いやうなものだ。


 亡くなつた足立通衛(みちゑ)氏の告別式が大阪青年会館で行はれた時、弔(とむらひ)演説をした宮川経輝(つねてる)氏は、霊魂(たましひ)の一手販売人のやうな口風(くちぶり)で、名代(なだい)の雄弁を揮(ふる)つて、警察が干渉でもしなければ一日でも喋舌(しやべ)り続けようとする意気込(いきごみ)を見せた。
 宮川氏の説によると、足立氏は高知生れだけに武士魂を持合せてゐたが、同志社で基督魂を、紐育(ニユーヨーク)で亜米利加魂を一つ宛(づつ)買ひ込んだので、紳士として申分(まをしぶん)のない男になつたのださうだ。
 宮川氏の説によると、かうした結構な魂を三つ迄持合せた紳士は、いつ亡くなつても構はないのださうだが、さも無い男は死ぬ前に、こんな魂を仕込まなければならないので、牛乳でも飲んで健康に注意しなければならない事になる。
 雄弁もいゝが、時によると飛んだ失策(しくじり)をする事がある。――チエホフの短篇に『雄弁家』といふのがある。お喋舌(しやべり)の好きな男で、どんな腹の空(す)いた時でも追悼演説を頼まれると、直ぐ出掛けて往つて、宮川氏のやうに悲しさうな詞(ことば)を料理場の油虫よりも沢山並べ立てて呉れる。
 ある時八等書記が死(な)くなつたので、俥(くるま)代をはずむで貰つて、告別式の演説に出掛けて往つた。例(いつも)の通り立板に水の弁舌で故人を褒め立ててゐると聴衆は変な顔をし出した。
 それは無理もない、亡くなつた男は一生涯細君と戦争(いくさ)を続けて来たのに、弁士は独身者(どくしんもの)のやうに言つてゐる。また亡者は濃い赤鬚(あかひげ)を一生剃らなかつたのに、弁士はいつも顔を綺麗に剃つてゐたやうに言つてゐる。そのうち弁士も気が注(つ)いてみると、向ふの墓石(はかいし)の側(そば)に、死んだ筈の書記が立つてゐるではないか。
「あ、亡者が生きてゐる。」
と叫んで、そつと司会者に訊くと、弁士が弔演説をしてゐる男は、今は課長に昇進して、亡くなつた男がその後釜(あとがま)に据(すわ)つてゐたのを雄弁家がつい早飲込みにその男だと穿違(はきちが)へて了(しま)つたのだ。帰(かへ)り途(みち)に件(くだん)の課長は何故俺を死人扱ひにして加之(おまけ)に顔の棚卸しまでしたと言つて、雄弁家に喧嘩を吹き掛けたさうだ。
 宮川氏が弔演説をした足立氏は、実際死んでゐたのだから差支(さしつかへ)なかつたが、生きて居たらそんなに結構な魂なら三つとも買ひ取つて呉れと、宮川氏に押談判(おしだんぱん)をしたかも知れない。


臭い果物

6・14(夕)
 馬来(マレイ)半島にヅリヤンといふ果物のある事は、一度でも船で那処(あすこ)を通つた事のある人は皆知つてゐる筈だ。素敵に美味(うま)い上に、素敵に臭味(くさみ)をもつてゐる果物で、一度でもあの臭味を嗅(か)いだが最期、一生懸つたつて、それが忘れられる物ではない。
 だが、喰(た)べ馴れて来ると、そんな臭味でさへ堪(たま)らなく懐しくなつて来るさうで、ヅリヤンが市場に出盛る頃には、女郎屋町(ぢよろやまち)でさへが不景気になるといふ事だ。美味(うま)い果物を鱈腹(たらふく)食つて女買(をんなかひ)をしたところで、それを喧(やかま)しくいふ印度の神様でもないが、ヅリヤンが余り美味いのでつい財布の底を叩くやうな始末になるのだ。
 独逸軍の毒瓦斯(どくガス)に対して、ヅリヤンを砲弾代りに使つたらと聯合軍(れんがふぐん)に勧めた者がある。命中(あた)つたが最期殻の刺毛(とげ)で人間(ひと)の五六人は殺せるし、命中(あた)らなかつた所で、巧(うま)く爆(はじ)けさへすれば激しい臭味でもつて一大隊位の兵士を窒息させるのは朝飯前だといふのだ。
 土人達の習慣によると、ヅリヤンを盗んだ者は重く罰せられるが熟(う)れて自然(ひとりで)に落ちたのを拾つた者は、飛んだ幸福者(しあはせもの)として羨まれるさうで、気の長い土人達は、ヅリヤンの鈴生(すゞなり)に生(な)つた木蔭で、朝つぱらから煙管(きせる)を啣(くは)へて一日凝(じつ)と待ち通しに待つてゐるさうだ。巧く落ちたのを拾ふ事が出来れば、美味い果物にありつけるし、落ちて来なかつた処(ところ)で少しの損もない。そんな時には定(きま)つたやうに昼寝をする事を知つてゐるから。
 だが、待つてさへ居れば果物は大抵落ちて来るもので、支那では袁世凱(ゑんせいがい)が落ちた。英国ではキツチナーが落ちた。袁世凱はヅリヤンの味を持たないで、その臭味だけを持つてゐた。キツチナーは味も臭味も無いが、刺毛(とげ)だけは鋭い。


 犬養木堂(もくだう)の硯の話は、あの人の外交談や政治談よりはずつと有益だ。その硯については面白い話がある。徳川の末期に鶴笑(くわくせう)道人といふ印刻家があつた。硯の善(よ)いのを沢山持ち合せてゐたが、その一つに蓋に大雅堂(たいがだう)の筆で「天然研」と書いたのがあつた。阿波の殿様がそれを見て、自分の秘蔵の研(すゞり)七枚までも出すから、取り替ては呉れまいかとの談話(はなし)があつたが、鶴笑はなか/\諾(うん)とは言はなかつた。
 呉れぬ物が猶(な)ほ欲しくなるのは、殿様や子供の持つて生れた性分で、阿波の殿様は、望みとあらば何でも呉れてやらうから、達(たつ)て「天然研」を譲つて貰ひたいと執念(しふね)く持ちかけて来た。鶴笑は一寸顔を顰(しか)めた。
「ぢや仕方が無い、阿波の国半分だけ戴く事にしませう。」
と切り出した。鶴笑の積りではそれでも大分見切つた上の申出(まをしで)らしかつた。何故といつて阿波の国は半分割(さ)いた処で、別段差支(さしつかへ)もなかつたが、硯だけは半分に割つては何(ど)うする事も出来なかつた。あの内閣や政党を毀(こは)す事の大好きな木堂ですら「鋒(ほう)」とやらを見るためには、硝酸銀で硯を焼かなければならぬ、そんな勿体ない事が出来るものぢやないといつてゐる位だから。
 だが勘定高い殿様はそれを聞くと、
「仕方がない、この硯と鳴門の瀬戸は俺(わし)の力にも及ばぬものと見えるて。」
と、溜息を吐(つ)いてあきらめた。殿様がこの場合鳴門の瀬戸を思ひ出したのは賢い方法で、人間(ひと)の力で自由にならないものは沢山(どつさり)あるのだから、その中からどんな物を引合ひに出さうと自分の勝手である。かうして絶念(あきらめ)がつけばそんな廉価な事は無い筈だ。


画(ゑ)の鑑定

6・16(夕)
 或人が海北友松(かいほういうしよう)の画を田能村竹田(たのむらちくでん)に見せた事がある。
「中井履軒さんの鑑定書(かんていがき)がついてゐるさかい、正真物(ほんもの)に相違おまへんて。」
といふ自慢なのだ。竹田がその鑑定書(かんていがき)を見ると、
「海北の画驚目候(めをおどろかしそろ)、相違はあるまじく存候(ぞんじそろ)。さりながら素人の目と医者と土蔵とは真実あてにならぬ物と聞及(きゝおよ)び候(そろ)。」
と書いてあつたさうだ。
 富岡鉄斎の画を持合せてゐる男が鉄斎の画には随分贋造(にせ)が多いと聞いて、鑑定書(かんていがき)を添へて置いたら、売物に出す時に便利だらうと思つて、子息(むすこ)の謙蔵さんの許(もと)にそれを持ち込んだ事があつた。
 謙蔵さんは鼻眼鏡を掛けてゐる。大学の構内に転がつてゐる物は、蜥蜴(とかげ)の交尾(つる)んだのでも鄭重に眼鏡を通して見るが、大学以外の物はみんな眼鏡越しに見る事に定(き)めてゐる。その折も眼鏡越しにじろりと画を見てゐたが、ちよつと舌打をしたと思ふと、
「真赤の贋物(にせもの)でさ。」
と吐き出すやうに言つた。
 画の持主は吃驚(びつくり)した。
「でも君、いつだつたか君の居る前で鉄斎翁に画(か)いて頂いたんぢや無いか。それをそんな……」
「それをそんな……」とは言つたが絶念(あきらめ)のいゝ人だつたからその儘(まゝ)持つて帰つて、押入に突込んでしまつた。
 画を逆さまに掛けて置いてそれが逆さまだと判るやうだつたら、既(も)う一廉(かど)の鑑定家といつて可(い)い。その上の心得は余り画を愛しないといふ事だ。


「富士山の如く」

6・17(夕)
 北米の文豪マアク・トエインが、何時だつたか、墺太利(オーストリー)皇帝フランツ・ヨセフに謁見(えつけん)した事があつた。その折或る新聞記者がトエインを訪ねて謁見の模様を訊くと、皮肉屋のトエインはにや/\笑つて、
「さればさ、お目に懸つたら恁様(こんな)に申上げようと思つて、十八語ばかりで立派な御挨拶を拵(こしら)へて御殿に上(あが)つてみると皇帝は非常に鄭重なお言葉で色々御物語があるぢやないか、お蔭で十八語の用意はすつかり役に立たなくなつて、つい例(いつも)のお喋舌(しやべり)をして退(の)けた。なにその十八語は何(ど)う言ふのだつて? そんな事を今迄記憶(おぼ)えて居て溜るものかい。」
と言つたさうだ。
 タゴールも日本へ渡る迄には、日本人に会つたらこんな事も言はうと、腹のなかで十八語ばかりの立派な挨拶を持合はせてゐるらしかつた。日本の土を踏んで、数々の日本人に会つてゐるうちについその取つて置きの挨拶は何処かへ落して了(しま)つたらしい。そして日本人の会合へ出ると、何時でも、
「富士の山のやうにあれ。」
と云ふ事に定(き)めてゐるらしい。
 富士の山は御覧の通り結構な山だ。結構な山には相違ないが、
「富士の山のやうにあれ。」
と言ふのは「阿父(おやぢ)のやうにあれ」とか「阿母(おふくろ)のやうにあれ」とか言ふのとは違つて、少しぼんやりし過ぎてゐる。そのぼんやりし過ぎた事を言つたのはタゴールの賢い所以(ゆゑん)で、彼は日本の阿父(おやぢ)や阿母(おふくろ)が余り理想的で無い事をよく知つてゐるのだ。


 山県伊三郎氏が先日(こなひだ)朝鮮へ帰りがけに、関門の山陽ホテルに泊つた。その折訪ねて往つた男が何気なく、
「噂を聞きますと、この頃椿山荘をお売りになつたさうですね。お幾らでした。」
と訊いてみた。
 すると、伊三郎氏は丁度口に頬張つてゐたチヨコレートをぐつと鵜飲みにして、
「そんなに他(ひと)の懐中(ふところ)勘定を訊くのは、初めて結婚した男に、
『おい、何(ど)うだつたい、花嫁さんの……』
と訊くやうなものぢやないか。誰が真面目に返辞するものか。」
と言つて、薬を飲まされる家鴨(あひる)のやうに、しつかり口を噤(つぐ)んだが、物の三十分も経つたと思ふ頃、急に爆(はじ)けるやうに笑ひ出した。そして両手で腹を抱へて可笑(をか)しさに溜らぬやうに肩を揺(ゆす)ぶつてゐたが、終(しま)ひには眼頭(めがしら)に涙を一杯溜めて椅子の上を転げ廻つた。その恰好を一目でも舅(しうと)の山県公に見せたら、顔を顰(しか)めて、椿山荘と一緒に養子の株をも売りに出したかも知れなかつた程だ。
 お客は吃驚(びつくり)した。
「何をそんなにお笑ひになりますか、閣下……」
 平素(ふだん)は「山県さん」とか、「伊三(いさ)はん」とか言ふ事に定(き)めてゐるが、「閣下」と言つて相手が健康体に恢復するものなら、これに越した事は無からうと思つたのだ。このお客は一度間違つて、懸りつけの医者に「閣下」と一言(こと)いつた丈(だけ)で、そのお医者から薬代を無代(ただ)にして貰つた事があるので、それ以来まさかの時には、例(いつ)も「閣下」を使ふ事に決めてゐる。
 伊三はん閣下は、横(よこ)つ腹(ぱら)を押へた儘(まゝ)、苦しさうな声で、
「何つて君、今の洒落さ。洒落が解らなかつたのかい。」
と言つて、また一頻(しき)り可笑しさうに笑ひ崩れた。
 お客は安心した。伊三はんは自分で自分が言つた洒落に感心して笑つてゐるのだ。
「手数(てすう)の懸らない人だな、養子には打つてつけさ。」
と独語(ひとりごと)を言うて帰つて来た。そのお客は新聞記者だつたから、山県氏は待設(まちまう)けたやうに翌日(あくるひ)の新聞をしこたま買込んで連絡船に乗込んだといふ。


 先日(こなひだ)硯と阿波侯についての話しを書いたが、姫路藩にも硯について逸話が一つある。藩の家老職に河合寸翁(かはひすんをう)といふ男があつて、頼山陽と硯とが大好きなので聞えてゐた。
 頼山陽を硯に比べたら、あの通りの慷慨家(かうがいか)だけに、ぷり/\憤(おこ)り出すかも知れないが、実際の事を言ふと、河合寸翁は山陽よりもまだ硯の方が好きだつたらしい。珍しい硯を百面以上も集めて、百硯(けん)箪笥(たんす)といつて凝つた箪笥に蔵(しま)ひ込んで女房や鼠などは滅多に其処(そこ)へ寄せ付けなかつた。
 同じ藩に松平太夫(たいふ)といふ幕府の御附家老があつて、これはまた「古松研」といふ紫石端渓の素晴しい名硯を持合せてゐた。何でもこの硯一つで河合家の百硯に対抗するといふ代物(しろもの)で、山陽の賞(ほ)めちぎつた箱書(はこがき)さへ添(そ)はつてゐるので、硯好きの河合はいゝ機会(をり)があつたら、何でも自分の方に捲(ま)き上げたいものだと、始終神様に願掛(ぐわんかけ)をしてゐたといふ事だ。
 ある日河合と松平とは例(いつも)のやうに碁を打つてゐた。河合は態(わざ)と一二番負けて置いて、それからそろ/\、
「何(ど)うも今日は厭(いや)に負(まけ)が込む。こんな日には賭碁(かけご)でもしたら気が引立つかも知れない。何(ど)うだい、貴公には古松研、拙者には沈南蘋(しんなんぴん)の名画があるが、あれを一つ賭けてみようぢやないか。」
と切り出してみた。
 松平は二つ返事で承知をした。
「お気の毒だが、沈南蘋は拙者が頂くかな。」
などと戯談(ぜうだん)を言ひ言ひ、また打ち始めたが、かね/″\お賽銭(さいせん)を貰つてゐる氏神様のお力で、河合は手もなく松平を負かして、名高い「古松研」は到頭河合の手に渡つて了つた。
 維新後河合家の名硯は、それ/″\百硯箪笥から飛び出して知らぬ人に買ひ取られて往つた。当地の八田氏の売立会に出てゐた「金星銀糸硯」なども、その一つだが、例の「古松研」は今は神戸の某実業家の手に入つて、細君以上に可愛(かあい)がられてゐるといふことだ。


 新橋の老妓(らうぎ)桃太郎がその往時(むかし)、雛妓(おしやく)として初めて座敷へ突き出された時、所謂姐(ねえ)さんなる者から、仮にも妓(をんな)の忘るまじき三箇条の心得を説き聞かされた。
 三箇条といふのは、第一、お客の悪(わる)てんがうに腹を立てぬ事。第二、晴衣(はれぎ)の汚れを気にしない事。第三、七里(り)けつぱいお客に惚れない事、万一惚れねばならぬ時は、成るべくよぼ/\の老人(としより)を見立てる事。
 桃太郎はこの三箇条の心得を、ちやんと頭に畳み込んでお座敷に出た。桃太郎はその頃まだ男よりもチヨコレエトの方が好きな年頃だつたので、お座敷で客に惚れる程の冒険はしなかつた。よしんば什※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)(どんな)冒険好きな女でも、チヨコレエトの代りに男に惚れるやうな心得違(こゝろえちがひ)はしない筈だ。女といふものは、十人が十人、先づチヨコレエトを喰(た)べて、それから徐々(そろ/\)男に惚れるものなのだ。
 だが、桃太郎はあとの二箇条には、お座敷へ出る早々、ぶつ突(つ)かつた。その時のお客は、若い医者で、どんな医者にも共通な自惚(うぬぼれ)だけはたつぷり持合せてゐた。で、耳を噛んだり、鼻先を押へたり、色々な戯(ふざ)けた振(ふり)をして桃太郎に調弄(からか)つた。
 桃太郎はてんで頓着しなかつた。それが癪(しやく)に触ると言つて、お客は桃太郎の頭から熱爛(あつかん)の酒をぶつ掛けた。酒は肩から膝一面に流れた。紅(あか)い長襦袢(ながじゆばん)の色は透綾(すきや)の表にまで滲(し)み透(とほ)つて来たが、桃太郎は眉毛一つ動かさうとしなかつた。
 姐さんはそれを聞いて、大喜びに喜んで、代りの晴着を拵(こしら)へて呉れた。お客は酔(ゑひ)から醒(さ)めて、真青な顔をして謝りに来た。匙(さじ)加減や見立違ひで人を殺しておいて詫言(わびごと)一つ言つた事のない医者にとつて、謝りに来るのは、魂を嘔吐(はきだ)すよりも苦しかつたに相違ない。


馬車の葬式

6・21(夕)
 巴里(パリー)の辻々にある円太郎馬車が廃(や)められて、自動車が代るやうになつた時、その会社員を始め、乗りつけのお客さん達が、サン・シユルピイスのお寺で乗合馬車の葬式を行(や)つた事があつた。
 旧教の坊さんが勿体ぶつて聖書を朗読すると、会葬者は声を合せて「アーメン」と唱へた。悧巧な耶蘇だつて、まさか乗合馬車のお葬(とむら)ひまでしようとは思はなかつたらうから、それに相応した文句は残さなかつたらうが、巴里の坊さんは別に引導には困らなかつたらしい。何故といつて、聖書で見ると、どんな人間(ひと)だつて乗合馬車位の「罪」は、各自(てんで)にみんな背負(しよ)つてるのだから。
 式が済むと、円太郎馬車は送られて火葬場(くわさうぢやう)へ往つた。二里余りの道中を絹帽(シルクハツト)を被(かむ)つた会葬者はぞろぞろと続いた。路傍(みちばた)の見物人は、恰(まる)で名士の葬式にでも出会つたやうに、克明に帽子を脱いでお辞儀をしたといふ事だ。
 日本では往時(むかし)から文塚(ふみづか)、筆塚、針塚といつたやうなものもあるが、東京新聞の漫画家が寄集まつて、島田三郎氏の漫画葬式をやつたのは面白い企てであつた。大阪のやうな土地柄では名妓の落籍(ひか)される場合などには、以前の関係筋が寄つて集(たか)つて葬式をするのも面白からう。坊さんには矯風会の林歌子女史など打つて附けの尼さんだらう。あの人はお説教を聞かないでも顔だけ見れば悲しくなりさうだから。


 画家(ゑかき)といふものは、言ひ合はしたやうに、画(ゑ)を覚える前に、屹度(きつと)酒の味を覚えるものだ。なかには生涯画の道が解らないで済ます癖に、酒だけは一人前になり切つてゐるのがある。
 そのなかに洋画家の斎藤与里氏だけは不思議に酒の味を知らない。先日(こなひだ)氏の許(とこ)へ或人から一瓶の進物(しんもつ)を贈つて来た。丁度与里氏はその折頭の事を考へてゐたので(画家だつて、頭の事を考へてはならないといふ法は無い。彼等も世間並に頭を一つ持つてゐるのだから)、てつきりこれは頭髪(あたま)に塗る香油だと思つてしまつた。
 成程頭髪(あたま)に塗つてみるとすつとして気持が好(い)い。だが香気(にほひ)だけは余り感心しなかつたので、よく調べてみると、上等のウイスキイだつたさうだ。
 ある名高い日本画家が巴里(パリー)に居た折の事、何処へ往(ゆ)く折にも、人目に立たないやうに屹度一壜(びん)提(さ)げてゐる。何の壜だと訊いてみても、にや/\笑ふばかりで一向それと打明けない。或時珈琲店(カフエー)で落合つた悪戯(いたづら)な友達の一人が、打明けなければかうすると言つて、首を縊(し)めにかゝると、件(くだん)の日本画家は川向ふの天主教の尼さんに聴(きこ)えないやうに低声(こごゑ)で加之(おまけ)に京都訛(なまり)で、
「ぢや言ひまひよ。これ淫薬どつせ。」
と白状した。
 友達は眼の色を変へて、その瓶を引(ひ)つ手繰(たく)つた。そして一字づつ克明に壜の文字を読んでゐたが暫くすると、
「成程さうだ、まあ大事に蔵(しま)つておいて、ちびり/\飲むんだな。」
と言つて、笑ひ笑ひ壜を返した。壜は安物のシヤンペン酒だつた。


 京都大学の構内は博士も通れば土方も通る。博士は右のポケツトには葉巻(シガア)を、左のポケツトには「真理」を入れてゐる。だが、いつの時代でも大学は葉巻(シガア)の製造所で無いと同じやうに、「真理」の工場でも無いから、ポケツトの葉巻(シガア)も、「真理」も博士達の手製でない事だけは争へない。土方はそんな物の代りに弁当を提(さ)げてゐる。弁当は言ふ迄もなく手製である。
 その博士や土方に交(まじ)つて毎朝大学の構内を通る十歳(とを)許(ばか)りの子供がある。子供に似気(にげ)なくいつも歩きながらも書物(ほん)を読んでゐるので、よくそれを見掛(みかけ)る男が、
「ちやんとした身装(みなり)をしてゐて、可憫(かはい)さうに貧乏人の二宮金次郎の真似でもあるまい。」
と心配した事があつた。
 その子供が先日(こなひだ)学校で貰つた賞品を抱へて、例(いつも)のやうに大学の構内を通りかゝつた。すると、擦違(すれちが)つた大学生の一人が、
「やあ褒美を貰つたな。一寸僕にも見せろ。」
とそれを覗(のぞ)きにかゝつた。その大学生は幼稚園この方(かた)まだ褒美といふものを貰つた事が無かつたので、甚(ひど)くそれが珍しかつたのだ。
 子供は一寸小脇にそれを隠した。
「無代(たゞ)ぢや見せないや、こゝに書いてある僕の名を読んだら見せる。」
「生意気な小僧だな、どれ/\。」
と言つて大学生は名前を見た。名前には「尋常科二年生内藤戊申」と書いてあつた。
「内藤ボシンぢやないか、さあ/\褒美を見せろ。」
「ボシンぢや無いや。」
「ぢやイヌサルか。」
「馬鹿やなあ、シゲノブと読むんや。」と子供は一散に走り出した。「えゝ齢(とし)してよう読みをらん、あほんだらめ。」
 大学生は悔(くや)しがつて、何家(どこ)の子供か知らと訊(たづ)ねてみると、文科大学の内藤湖南博士が秘蔵(ひぞ)つ児(こ)だつたさうだ。
「道理で、寒山拾得(じつとく)のやうな顔をしてたつけ。それにしても変てこな名をつけたものだなあ」
と、無学な大学生はその後も頻(しきり)とそれを気にしてゐる。


玄関

6・24(夕)
 そのむかし池大雅が真葛原(まくずがはら)の住居(すまゐ)には、別に玄関といつて室(へや)も無かつたので、軒先(のきさき)に暖簾(のれん)を吊(つる)して、例の大雅一流の達者な字で「玄関」と書いてあつたさうだ。上田秋成が南禅寺常林庵の小家(こいへ)にも、入(い)り口(くち)に暖簾をかけて「鶉屋(うづらや)」とたつた二字が認(したゝ)めてあつたといふ事だ。
 拗(す)ね者(もの)の金龍通人は自分の戸口に洒落た一聯(れん)を懸(かけ)ておいた。聯の文句はかういふのだ。
「貧乏なり、乞食物貰ひ入(い)る可(べ)からず」
「文盲(もんまう)なり、詩人墨客(ぼくかく)来(きた)る可からず」
 乞食物貰ひも五月蠅(うるさ)くない事もないが、それでも詩人墨客よりはまだ愈(まし)な場合が多かつた。何故といつて、乞食は物を呉れて遣(や)れば、素直に帰つて往(ゆ)くが詩人墨客は自分が納得出来るまで「知つたかぶり」を押売しないでは滅多に帰らなかつたから。
 小説家の正宗白鳥氏は他(ひと)の家(うち)へ出入(ではいり)をするのに、がらりと入口(いりくち)の扉(と)を開(あ)けはするが、その手で滅多に閉めた事は無い。尤(もつと)もこれには主義のある事で、自分が出入(ではいり)するのに扉(と)は是非開けなければならぬが、それを閉めて置かなければならぬ何等の理由も発見出来ないからださうだ。かういふ来客に取つては、大雅や秋成のやうな暖簾の玄関は手数(てかず)が要らないで可(い)い。
 玄関に狗(いぬ)を繋(つな)いでゐる家(うち)、九官鳥を飼つてゐる家(うち)、汚(むさ)くるしい書生を飼つてゐる家(うち)、猫がぞろ/\這ひ出して来る家(うち)――そんな家(うち)へは添書(てんしよ)をつけて悪魔でも送つてやり度くなる。


 東京の絵画商人の某(なにがし)が、京都で展覧会を開くために、今尾景年氏の許(とこ)へ、半切(はんせつ)の揮毫(きがう)を頼みに出掛けた。高(たか)が半切だと聞いて、画家は会はうともしない。
「先生はお忙しうおすさかい、なか/\お出来(でけ)になりまへんぜ。」
と玄関番は閾(しきゐ)に突立つた儘(まゝ)、欠伸(あくび)をしい/\言つた。玄関番といふものは、主人が奥で欠伸をする時分には、自分も極(きま)つてそれをするものだ。
 商人(あきんど)は四条派の画家(ゑかき)によく金を欲しがる持病があるのを知つてゐるから、
「それでは伺つた印に潤筆料だけ承はつて参りませう。」
と言つた。玄関番は商人(あきんど)の前に片手を拡げてみせた。
「半切一枚五十円どつせ。」
 商人(あきんど)は懐中(ふところ)から財布を取り出した。
「それではこゝに五十円差上げて置きますから、お気に向いた時に一枚御揮毫を願つておきます。」
 玄関番はそれを見ると、急ににこにこし出した。
「そんなら最(も)一度頼んで来まつさ。なに理由(わけ)を話したら先生の事やさかい、半切の一枚や二枚ちよつくらちよつと書いて呉りやはりますやろ。」
 さういつて奥へ隠れたと思ふと、玄関番はまた表へ飛び出して来た。
「唯今先生がお会ひになりますさかい、まあ何卒(どうぞ)お上り……」
 今度は商人(あきんど)が承知しなかつた。
「折角ですが、私は絵をお頼みに上りましたんで、先生にお目に懸りに来たのではありませんから。」
と言つて、その儘(まゝ)すた/\と帰つてしまつた。
 流石に商人(あきうど)は目が敏捷(はや)かつた。絵は売る為めに註文したので、画家(ゑかき)に会つた為に売値を崩すやうな事があつても詰らなかつた。実際画家(ゑかき)のなかには、その人に会つたが為めに、折角描(か)いて貰つた錦鶏鳥(きんけいてう)の画(ゑ)までが厭になるやうな人も少くなかつた。
「先生はお忙しうおすさかい……」
 先生がお忙しいのは、先生自身に取つても、お客に取つても勿怪(もつけ)の幸福(さいはひ)であつた。孰方(どつち)も損をしないで済む事なのだから。


 清教徒の英雄オリヴア・クロムヱルの髑髏(しやれかうべ)はオツクスフオード大学の図書館に珍蔵せられて、世界に名高いものだが、その後メエラント附近の牧師ヰルキンソンが発見したものが一つ、今倫敦(ロンドン)の考古学博物館に納まつてゐる。つまり頭をたつた一つしか有(も)たなかつた英雄に、髑髏(どくろ)が二つ出た事になるのだ。
 政治家や実業家の仲間には、「良心」を幾つも持つて、それを自慢にしてゐるのがある。その事を思ふと、クロムヱルの髑髏(しやれかうべ)が二つ出たところで格別差支(さしつかへ)はない。或(あるひ)はもつと捜したら、もつと出るかも知れない。
 山科(やましな)の上醍醐(かみだいご)寺の宝蔵に「平中将将門(へいちゆうじやうまさかど)」の髑髏(しやれかうべ)がある。桐の二重箱に入れて、大切に蔵(しま)つてある。将門が醍醐の開基理源大師の法力(ほふりき)で縛(いまし)められ、梟(さら)し首(くび)に遭つたのを残念がつて、首が空を飛んで来たのを拾つたのだといふが、事に依つたら、大師が申請(まをしう)けたのかも知れない。
 ある夏醍醐に遊んでゐると、その頃の京都府知事大森鍾(しよう)一氏が山へ上(のぼ)つて来た。山の坊さん連は知事に何を見せたものだらうかと色々詮議の末が、
「宋版の一切経(さいきやう)や山楽(さんらく)の屏風を見せたところで、解りさうにもなし、やつぱり将門の髑髏(しやれかうべ)を見せるに限る。あれならばまさか貰つて帰るとも言ふまいから。」
と言ふので、宝蔵から例の髑髏(しやれかうべ)を出して見せた。
 大森氏はためつすがめつ髑髏(しやれかうべ)を見てゐた。恰(ちやう)ど梅雨(つゆ)時分の事で、髑髏(しやれかうべ)からは官吏や会社の重役の古手(ふるて)から出るやうな黴臭(かびくさ)い香気(にほひ)がぷんとした。
「成程よくは判らないが、矢張(やつぱり)将門の骨(こつ)らしいな。こゝに叛骨(はんこつ)が出てる工合から見ると……」
 暫く経つてから、知事は擽(くすぐ)つたさうな顔をして言つた。
「へえ……叛骨と申しますと……」
 坊さんが安つぽさうな頭を突き出した。
「ここさ。こゝの骨さ、叛骨といふのは……」大森氏は扇の端で一寸髑髏(しやれかうべ)の後部(うしろ)を突(つゝ)ついた。「むかし蜀(しよく)の曹操が関羽の頭を見て、此奴(こいつ)は叛骨が飛び出しているから叛反(むほん)をすると言つた……」
「へえ、その方(かた)も矢張(やつぱ)り叛反(むほん)をおしやした。争はれんもんどすなあ。」
と坊さんは感心したやうに頸窩(ぼんのくぼ)へ手をやつた。
 見ると、大森氏の頭にも、安つぽい坊さんの頭にも、それらしい骨が一寸飛び出してゐた。なに、飛び出してゐたつて心配するが物はない。叛反(むほん)にも色々ある。男爵になりたいのも、金持の檀家が欲しいのも、実際叛反(むほん)には相違ないのだから。


健忘症

6・27(夕)
 先日(こなひだ)神戸高商の小川忠蔵、小久保定之助(ていのすけ)の両氏が、英語専攻の学生に饗(よ)ばれた返礼を、安上りだといつてカフエエ・オリエントでする事になつた。
 饗ばれる学生は多勢(おほぜい)だし、饗ぶのは唯(たつた)二人だしするから、珈琲屋(カフエー)位で済ます事に定(き)めたのは、流石に頭脳明晰であるが、さて肝腎の生徒にそれを伝へる段になると、急に頭が変になつて、
「おい、間違つちや可(い)かんぞ、会場はカフエエ・パウリスタだから。いゝかえ。」
と駄目まで押してしまつた。
 その日は小久保氏に誘はれて、小川氏は雨の降る間(なか)をカフエエ・オリエントに着いた。そして二人は円卓(テーブル)を差向ひに煙草を喫(ふか)しながら、細君や丸善や蚤(のみ)の話をしてゐた。「細君」と「丸善」とは学校教員が住むでる世界の二大人格だが、蚤は昨夜(ゆうべ)二人ともそれに螫(さ)されて、とうと寝付かれなかつたからだ。
 談話(はなし)の種は切れたが、お客は唯の一人入つて来ない。
「何(ど)うしたのだらう、厭に落付いてる。」
と呟(ぼや)いた瞬間、小川氏の頭に「パウリスタ」の名がぼんやり浮び出して来た。
 パウリスタへ集まつた学生達はいつ迄待つても主人役の二人が見えないので、業(ごふ)を煮やしてぶつぶつ呟(ぼや)いてゐる処へ、幽霊のやうに小川氏が入つて来た。
「君達は何だつて、こんな処へ集(たか)つてるんだ、蠅のやうに。御馳走が彼方(あつち)で待惚(まちぼ)けてるぢやないか。」
「彼方(あつち)て何処です。」
「判つてるぢやないか。パウリスタだよ。」
 神戸高商にはこんな人達が多いと見えて、或教授は歯医者へ行く途中、咽喉(のど)が乾いて仕方がないので(学校教員だとて咽喉の涸(かわ)かぬといふ法はない)珈琲店(カフエー)へ飛び込んで、立続(たてつゞ)けに紅茶を二杯飲んだ。
 そして代価を払つて立上ると、
「さあ、もう用事は済んだぞ。」
とその儘(まゝ)今下りた許(ばか)しの電車の停留場へ来ると、忘れられた奥歯が急にづき/\痛み出したので、
「さうだ、俺は歯医者へ往(ゆ)く筈だつたんだ。」
と慌てて歯医者へ駆けつけたさうだ。
 珈琲店(カフエー)や歯医者を忘れる分には差支(さしつかへ)ないが、細君と丸善とだけは何時迄も覚えてゐて貰ひたい。彼等は学校教師にとつての二大人格だから。そして尋(つい)でに蚤もまた。蚤を忘れると、夜分寝付かれないから。


口は調法

6・28(夕)
 英詩人野口米次郎氏の頭の天辺(てつぺん)は夙(はや)くから馬鈴薯(じやがいも)のやうな生地(きぢ)を出しかけてゐた。氏は無気味さうに一寸それに触つてみて、
「これは帽子を被(かぶ)りつけてゐるからさ。つまり一種の文明病だな。」
と言ひ/\してゐた。
 サミユエル・ジヨンソンは自分の英辞書で「大麦(オホト)」という語(ことば)の下に、
「英蘭(イングランド)では馬の餌。蘇格蘭(スコツトランド)では人間の食物(たべもの)。」
といふ皮肉な解釈を下したが、例の高木兼寛博士の説によると、日本人は英蘭の馬ではないが、麦飯さへ食つて居(を)れば、哲学を考へたり、女房と啀(いが)み合つたりするのに少しの不足も無いさうだ。
 高木氏は病家を診察して、病人が鯛(たひ)の刺身や吸物でも食べてゐるのを見ると、
「こんな物を食つちや可(い)かん。麦飯だけで十分さ。」
と言つて、何(ど)うかすると自分でその御馳走をぺろりと食べてしまふ。そして、
「俺(わし)は構はん、俺(わし)は医者だからな。」
と済ましてゐる。
 その麦飯主義もまだ十分で無いと見えて、高木氏はその後「裸頭跣足(らとうせんそく)」主義を標榜してゐるが、近頃また関西地方へお説教旁(かた/″\)出掛けて来るといつてゐる。「裸頭跣足」は言ふ迄もなく、帽子も被(かぶ)らず、履(くつ)も穿(は)かない主義で、一口にいふと、日本人を生蕃人(せいばんじん)にしようとするのだ。生蕃人を日本人にしようとするよりも、この方が寧(いつ)そ近道かも知れない。
 何分(なにぶん)氏の事だ。講演会の席上で上等のパナマ帽でも見つかると、例の調子で、
「そんな物を被(かぶ)つちや可(い)かん。おや履まで穿いてるぢやないか。」
いきなり引(ひ)つ手操(たく)つて自分の頭と足とに、それを穿(は)めるかも知れない。「俺(わし)は構はん、俺(わし)は医者だからな。」と言つて。
 金森通倫(つうりん)氏が政府の御用弁士で貯金の勧めをしてゐた頃ある処で、
「散髪なんか一々理髪床(かみゆひどこ)でするには及ばない。めいめい剪刀(はさみ)で剪(つ)み切る事にしたら、散髪代だけ儲かる。」
と言つた。すると、正直な聴客(きゝて)の一人(にん)が、
「貴方(あなた)の頭はやはり御自分でお刈りになりますか。」
と訊いた。金森氏は酢を嘗めたやうな口元をして、
「私は自分では刈らない。私は貯金の演説をするので、貯金をするのは貴方方(あなたがた)ですから。」
と答へた。――口は調法なもの、出来る事なら、その口に帽子を被(き)せて、尋(つい)でに上等な履まで穿かせてやりたい。


露伴の机

6・29(夕)
 今の中村歌右衛門の父、芝翫(しくわん)は随分常識外れの妙な癖で聞えた男だが、この俳優の数ある癖のなかで一番面白いのは、そら火事だといふと、どんな遠方でも構はない、印半纏(しるしばんてん)を引つかけて直ぐ飛び出した事で、火の粉(こ)の散るなかをうろ/\駈けづり廻つて、帰途(かへり)には茶飯(ちやめし)の一杯も掻き込んで、いゝ気で納まつてゐた。
 今一つ妙な癖は指物(さしもの)が好きで、閑(ひま)さへあれば何かこつ/\指物師の真似事をしてゐたが、手際はから下手(べた)な癖に講釈だけは他(ひと)一倍(ばい)やかましく、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)などは名人の使つたのでないと手にしなかつた。なかでも一番文句が多かつたのは指物に使ふ木で、あゝでもない、かうでもないと贅(ぜい)を言つてゐたが、一度なぞは一日土蔵に入つてこつ/\やつてゐて、日の暮(く)れ方(がた)に漸(やつ)と外へ這ひ出して来た。
「かう見ねえ、立派な煙草盆が出来上ったよ[#「出来上ったよ」はママ]。」
 見ると歪形(いびつ)の煙草盆を大事さうに掌面(てのひら)に載つけてゐる。もしやと思つて土蔵を覗いてみると、女房(かみさん)が一番大事の唐木箪笥(からきだんす)をすつかり引(ひ)つ剥(ぺが)してしまつてゐたさうだ。
 幸田露伴氏もよく指物をした。洒落た机が拵(こしら)へたい、それには伐(き)つてから百五十年以上経つた材木で無いと、狂ひが出来るからといつて、方々捜し廻つてゐるうち、下谷(したや)の古い薬舗(くすりみせ)で、恰好の看板を見つけて、漸(やつ)とそれを手に入れた。
 脚には何がよからう、名人の吹いた尺八が面白からう。さうだ、それに限るといつて、閑(ひま)にまかせて方々の道具屋を尋ね歩いた。
「お店(うち)には名人の吹いた尺八がありますまいか。四本ばかりでいゝんだが……」
 仕合(しあはせ)と道具屋は名人を拵(こさ)へる事にかけては、その道の師匠よりもずつと傑(すぐ)れた腕を持つてゐるので、幸田氏は十日も経たぬうちに名人の吹いた尺八を三本まで手に入れた。
 だが机の脚は馬の脚と同じやうに四本無くてはならない。あとの一本を発見(めつけ)るために幸田氏は二週間程無駄足を踏んだ。二週間といへば十四日である。男が女を忘れるには七日あれば十分だ。女が男を忘れるには九日で不足はない筈だ。二週間も経つ間(うち)に幸田氏はすつかり机の事を忘れてしまつた。忘れてよかつた。すべて自分に都合の悪い事は忘れるに越した事はないのだから。


 今度皇后宮大夫(くわうごうぐうだいぶ)になつた大森鍾一氏は官吏は威容を整へなければならぬといふので、何時(いつ)も葉巻を啣(くは)へる事に決めてゐる。又ある知辺(ちかづき)の言ふのでは、あれは三十年前(ぜん)仏蘭西へ往つた時に覚えて来た癖ださうだが、それでも一向差支ない、折角仏蘭西まで往つて何一つ覚えなかつたとすれば、せめて葉巻の味位覚えて居ても好(い)いのだから。それに監獄へ入つて道徳を覚えて来たと自慢さへする者のある世の中だ、かういふ事は公然(おつぴら)に言つて貰ひ度い位のものだ。
 大森氏が京都府知事時代に管内の郡部を巡視中、時々持合せの葉巻が切れる事がある。さういふ折には属官が田舎町の煙草屋を片つ端から尋ね歩く。属官にしても田舎町に葉巻の無い位は弁(わきま)へてゐるが、凡(すべ)て、何かの「長」になつてゐる者は、部下が尻切蜻蛉(しりきれとんぼ)のやうにきり/\舞(まひ)をするのを見るのが楽(たのし)みなものだといふ事を知つてゐる。で彼方此方(あつちこつち)を捜し廻るのが、とゞの果(はて)は京都にある夫人の許(もと)へ、電報で葉巻を催促をする。
 大森氏は同じ主義から、どんな酷暑の候でも、官吏は簡単な服装をしてはならないといふので、洋服の釦(ぼたん)一つ外した事がない。この意味から詰襟などは巻煙草(シガレツト)や刻煙草(きざみたばこ)と一緒に大嫌ひである。
 ある夏内務部長の塚本清治(せいぢ)氏が白リンネルの詰襟で来ると、大森氏の顔は妙に歪(ゆが)み出した。
「坂本君、今時(いまどき)詰襟で歩いてゐるものは、郵便配達夫と電車の車掌とそれから……」
 一息にここまで驀(まく)し立てると、後(あと)が続かなくなつたのと、葉巻(シガー)の煙(けぶり)が咽喉に入つたのとで、大森氏は一寸言葉を切つて、大きな嚏(くさめ)をした。そして苦しさうに涙を目に一杯溜めて、
「巡査と軍人だよ。」
と喚(わめ)くやうに言つた。
 塚本氏はそれ以後滅多に詰襟を着なくなつたが、大森氏が今度宮内官になつて、詰襟を着るやうになつたのを見たら、どんなに言ふだらう。


蘆花氏と本屋

7・1(夕)
 ある時書肆(ほんや)が徳富蘆花氏の原稿を貰ひに、粕谷(かすや)の田舎まで出掛けると、蘆花氏は縁端(えんばな)に衝立(つゝた)つて、大きな欠伸(あくび)をしい/\、
「この頃は誰にも面会しない事に定(き)めてるが、風呂の水を掬(く)むで呉れるなら会つても可(い)い。」
という挨拶なので、書肆(ほんや)は不承々々に風呂の水を掬むだ。
 書肆(ほんや)はへと/\になつて、漸(やつ)と縁端(えんばな)に腰を下(おろ)すなり、原稿の談話(はなし)を切り出すと、蘆花氏は頭の天辺(てつぺん)から絞り出すやうな声で、
「原稿よか、もつと好(い)い物があげてある筈ぢやないか。」
といふので、近眼(ちかめ)の書肆(ほんや)は慌てて膝頭から尻の周囲(あたり)を撫でまはしてみたが、そこには鉄道の無賃乗車券らしいものは無かつた。旅行好(たびず)きの書肆(ほんや)の頭には、原稿より好(よ)い物は、鉄道の無賃乗車券より外(ほか)には、何も無かつた。
「何(なん)だんね、先生、何もおまへんやないか。」
 大阪生れの書肆(ほんや)は怪体(けつたい)な眼つきをして、蘆花氏の顔を見た。
「労働の神聖さ。」
 蘆花氏は写真版にあるトルストイのやうに、眩(まぶ)しさうな眼つきをして言つた。そしてトルストイが使ひ馴れた草刈鎌でも捜すやうに、腰のあたりへ手をやつたが、そこには縄帯の代りに、メリンスの兵児帯(へこおび)がちよこなんと結んであつた。
「労働の神聖さ」――書肆(ほんや)は口のなかでそれを繰り返してみた。口のなかは先刻(さつき)の働きで唾(つばき)がから/\に乾いてゐたので、少し苦しかつた。書肆(ほんや)は持合せの丸薬を二つ三つ取り出して噛んだ。すると気がすうとなつた。この時本物のトルストイが顔でも出したら、書肆(ほんや)は食べ残りの丸薬をいきなり毛むくじやらの口へ押し込んだかも知れない。だが、蘆花氏にはそれも出来なかつた。
「あの人は胡桃(くるみ)でも噛み割りさうな歯を持つてゐやはるさかい。」
 書肆(ほんや)はかういつて絶念(あきら)めた。


苜蓿(うまごやし)

7・2(夕)
 北欧のある詩人は、外へ出掛ける時には、いつも両方のポケツトに草花の種子(たね)を一杯詰め込んで、根の下(お)りさうな土地を見かけると所構はず何処へでもふり撒(ま)いたさうだ。
 京都の御所を通つた事のあるものは、御苑の植込に所嫌はず西洋種(だね)の苜蓿が一面に生(は)へ繁つて、女子供が皇宮警手(くわうきゆうけいしゆ)の眼に見つからないやうに、そのなかに蹲踞(しやが)んで珍らしい四つ葉を捜してゐるのを見掛けるだらう。
 この苜蓿は丹羽(には)圭介氏が明治の初年欧羅巴(ヨーロツパ)へ往つた時、牧草としてはこんな好(い)い草はないといふ事を聞いて、その種子(たね)をしこたま買ひ込んで帰つた事があつた。さて日本に着いてみると、牛どころかまだ人間の始末もついてゐない頃なので、欧羅巴で考へたのとは大分(だいぶん)見当が違つた。
 さうかといつて、苜蓿を京都人に食べさせる訳にも往(ゆ)かなかつたので(京都人は色が白くなるとさへ言つたら、どんな草でも喜んで食べる)丹羽氏は折角の種子(たね)を、みんな其辺(そこら)へぶち撒けてしまつた。
 それが次から次へと蔓(はびこ)つて、今では御苑の植込は言ふに及ばず、京都一体にどこの空地(あきち)にも苜蓿の生へてない土地(ところ)は見られないやうになつてしまつた。
 苜蓿によく似た葉で、淡紅(うすあか)色の可愛(かあい)らしい花をもつ花酢漿(はなかたばみ)も京都にはよく見かける。この花の原産地は阿弗利加(アフリカ)の喜望峰だといふ事だが、あれなぞも何処かの男が禅坊主にでも食べさす積りで持つて来たものかも知れない。禅坊主は家畜の食べるものなら何でも口にする。唯一つ貘(ばく)の食べる「夢」を知らないばかりさ。「夢」は彼等にとつて余りに上品すぎる。


台湾と考へ事

7・3(夕)
 岡松参太郎博士の言葉によると、満洲に居る時は、頭がはつきりと澄んで細かい考へ事や計算やも極(ごく)楽に出来るが、台湾へ出掛けると、頭がぼんやりと草臥(くたび)れてしまつて、考へ事はとんちんかんに、計算は間違ひだらけになる。台湾に三日も過ごすと、満洲に三十日も居た程疲れが出るさうだ。
 台湾のある製糖会社に大学出の支配人がゐる。年に一度同窓生の会合があると、いつも遙々(はる/″\)東京まで出掛けて来る。そして会が始まつて、皆の者が何か議論がましい事でも言ひ出すと、怪訝(けげん)な顔をしてそれに聴きとれてゐるやうだが、暫くすると椅子に凭(もた)れた儘(まゝ)ぐうぐう鼾(いびき)をかいて寝入つてしまふ。
 一頻(ひとしき)り喋舌(しやべ)り疲れた連中(れんぢゆう)がどしんと一つ卓子(テーブル)を叩いて、
「△△君、君のお考へは何(ど)うだね。」
と訊くと慌てて椅子から飛び上つて、
「さうですね、僕の考へは……」
といつて、極(きま)つたやうにポケツトから鉛筆を引張り出し、ちよつと卓子(テーブル)の上に立ててみて、誰でも構はない、それが倒れかゝつた方の味方をする。
 心安立(こころやすだて)の友達が、鉛筆もまんざら悪くはないが、いつもあれでは余り無定見ぢやないかといふと、支配人は砂糖臭い大きな欠伸(あくび)を一つした。
「でも僕には皆の喋舌つてゐる事が、てんで解らないんだもの。僕も今ぢやすつかり台湾向きだよ。」
 この支配人のいふのでは、台湾では考へ事は何(ど)うしても出来ない。唯二つの選択があるばかりだ。譬(たと)へていつたら朝と晩、総督と生蕃(せいばん)、砂糖と樟脳、成功と失敗といつたやうなもので、それを選ぶにしても鉛筆は人間の頭よりもずつと公平に判断するさうだ。


蜜蜂の失敗

7・4(夕)
 ある蜜蜂飼養家が何かの用事で印度へ渡つて見ると、野にも山にも花といふ花が咲きこぼれてゐるので、蜜蜂飼養家は躍り上つて喜んだ。
「印度つてこんなに花の多い土地(ところ)とは知らなかつた。こゝで蜂を飼つたら、しこたま蜜が穫(と)れるに相違ない。」
 そして、急いで国へ帰るなり、蜜蜂をもつて又印度へ出掛けて往つた。恰(ちやう)ど金持を見つけて賭博打(ばくちうち)が骰子(さいころ)を持つて又珈琲屋(カフエー)へ出掛けて往(ゆ)くやうに。
 骰子ほど意地の悪い物は無い。蜜蜂は箱から取り出されて、美しい香気(にほひ)を嗅ぐと狂気(きちがひ)のやうに花の中を転げ廻つたが、何時(いつ)まで待つても蜜を拵(こしら)へようとはしなかつた。それもその筈で、印度のやうに何時でも花のある土地では、蜜の臍繰(へそくり)を拵へておく必要も無かつたのだ。蜜蜂飼養家は大事な蜂を失つた代りに、幾らか賢くなつて郷土(くに)へ帰つて来た。人間といふものは賢くなるためには、従来(これまで)持つてゐた何物かを失はなければならない、とすると、女房(かみさん)や馬に遁(に)げられるよりは、蜜蜂を失(な)くした方が、まだ仕合(しあはせ)だつた。
 岩野泡鳴氏は文士や画家(ゑかき)が片手間(かたでま)の生産事業(じごふ)としては養蜂ほど好(よ)いものは無いといつて、一頻(ひとしき)りせつせと蜜蜂の世話を焼いてゐた。そして蜂に螫(さ)されない用意だといつて、細君が着古した面※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(ヴエール)をすぽりと頭から被(かぶ)つてゐたが、蜂には螫されない代りに、とうと細君に螫されてしまつた。
 蜜蜂を扱ふのに面※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(ヴエール)が要るやうだつたら、女を扱(あし)らふにはそれを二枚重ねなければならぬ。臆病者に限つて剣は長いのを持つてる世の中だから。


女を賢くする法

7・5(夕)
 今中(なか)座で『マクベス』を演(や)つてゐる東儀鉄笛(とうぎてつてき)氏に、誰かが、
「君も義歯(いれば)の数が殖えたやうだが、今のうちに恋でも試(や)つておいたら何(ど)うだね。」
と言ふと、東儀氏はあの牛のやうな大きな眼をぐりぐりさせて、
「人間も犢鼻褌(ふんどし)一つで、子供の枕もとで蚊を焼いて歩くやうになつちや、もうから意気地もない。」
と嘆(こぼ)してゐる。
 旧文芸協会当時、東儀氏が例の明けつ放しの気質(かたぎ)から、ちよい/\松井須磨子に心安立(こゝろやすだて)の戯談(ぜうだん)でもいふと、側(そば)で見てゐる島村抱月氏は気が気でなく、幾らか誤解(はきちがへ)も手伝つて、
「東儀君、松井を可愛(かあい)がるのは止(よ)して貰ひ度いもんだな。」
と倫理の教師のやうな悲しさうな顔をして、
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来るんだからね……」
 流石に島村君は学者だけに巧(うま)い事をいふものだ。
「君が可愛がると子供が出来るが、僕が可愛がると頭が出来る。」
 ほんとにさうだと東儀氏は感心をして、又と戯談(ぜうだん)を言はなくなつた。
 女に頭を拵(こさ)へるには、島村君のやうなセルの袴(はかま)を穿(は)いた温和(おとな)しい学者に可愛がつて貰ふのもよいが、一番良いのは恋人に棄てて貰ふ事だ。女は男に突き放されると、一度に十年も賢くなる。


 ラフエエル前派の詩人ロゼツチが自分の詩集を、亡き妻の棺に納めて葬つたのを、後(あと)になつて友達の勧めに随(したが)ひ、妻の墓を掘かへして、詩集をとり返したのは名高い話だ。
 新納(にひろ)武蔵守は薩摩武士の生粋(きつすい)で例の戯談好(ぜうだんず)きな太閤様の歌にある、ちんちろりんのやうな長い鬚を生やした男だつたが、矢張り薩摩者に有りうちの、ちんちろりんのやうに雌を可愛(かあい)がるので聞えた男だつた。
 ちんちろりんは随分な嫉妬(やきもち)焼きで雌が他(よそ)の雄と談話(はなし)でもしてゐようものなら、いきなり相手を後脚(あとあし)で蹴飛ばすさうだが、薩摩者もこの点ではちんちろりんに劣らぬ道徳家である。
 新納武蔵に可愛がられてゐた若い小間使(こまづかひ)があつた。ある日雨の徒然(つれ/″\)に自分の居間で何だか認(したゝ)めてゐると、丁度そこへ武蔵が入つて来た。(男といふものは猫のやうによく女の内証事(ないしようごと)を発見(めつけ)るものなのだ。)
 はつと思つて、女が袖の下へそれを隠すと、武蔵はちんちろりんのやうな顔で袖の下を覗き込む。すると、女は意地になつて、よく小娘がするやうにその反古(ほご)を口の中に噛みしめて、ぐつと嚥(の)み下(くだ)してしまつた。
 武蔵は女が隠し男に遣(や)る文(ふみ)とでも誤解(はきちが)へたものか、激しい嫉妬で顔は蟹のやうに真紅(まつか)になつた。そしていきなり女を手打にして腸のなかからその反古を引張り出した。
 反古には優しい筆の蹟(あと)で、
「人ならば浮名やたゝん小夜ふけて枕にかよふ軒の梅が香」
と認(したゝ)めてあつた。武蔵も少しは歌を咏(よ)んだ男だけに、ちんちろりんのやうな顔に涙を流して不憫がつた。
 歌反古だつたから泣かれたやうなものの腸のなかから鼈甲櫛(べつかふぐし)の勘定書(かんぢやうがき)でも出たらどんな顔をしたものか、一寸始末に困るだらう。


小説家と薪(まき)

7・7(夕)
 この頃発売禁止になつた『ボ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リイ夫人』の著者フロウベエルがある婦人と恋をした事があつた。婦人はある時伊太利(イタリー)語を彫りつけた葉巻入(はまきいれ)をこの小説家に贈つた所が、フロウベエルは小説の女主人公が自分の情夫(いろおとこ)に贈物をする時に、その伊太利語をその儘(まゝ)借用させた。
 それを見た恋女(こひをんな)は、真剣な自分の恋を馬鹿にしてゐるといつて※(「弗+色」、第3水準1-90-60)(む)くれ出した。温和(おとな)しいフロウベエルは色々に弁解(いひわけ)をしたが、嫉妬焼(やきもちや)きの女は何(ど)うしても承知しないので、小説家もとうと本気になつて怒り出した。そして薪(まき)ざつ棒(ぽう)をふり上げて擲(なぐ)り倒さうとした。(小説家だといつて薪ざつ棒を揮(ふ)りあげないものでもない。ニイチエは女を訪問する時には鞭(むち)を忘れるなといつたが、鞭を忘れた時には薪ざつ棒でもふりあげねばなるまい。)
 フロウベエルは薪ざつ棒をふりあげた。女は部屋の片隅に顫(ふる)へながら、まだ家鴨(あひる)のやうに我鳴り立ててゐる。この時小説家の頭に、若(も)しか擲り倒したら、女は直ぐ告訴するだらうなといふ考へが矢のやうに走つた。フロウベエルは薪ざつ棒を足もとに投げ出した儘、ふいと室(へや)を飛び出したが、それきりもう帰つて来なかつた。
 女が口喧(くちやかま)しいからといつて警察の手に引渡した男はない筈だ。それだのに男の手に薪ざつ棒を見ると、女は直ぐ法律の腕(かひな)に縋(すが)らうとする。武器としての女の口は薪などと比べ物にはならない。薪は間違つて肉体を叩き潰すかも知れないが、女の舌は一度に霊魂(たましひ)を窒息させてしまふ。


 むかし雄略天皇は狩の途(みち)すがら三輪(わ)川に洗濯(せんだく)をしてゐる田舎娘を御覧になつて、「顔立(かほたち)のいゝ娘ぢや、大宮に召し抱へよう」とお約束になつた事があつた。その日の狩は獲物が多かつたと見えて、夕方(ゆふかた)宮にお帰りになる頃には、すつかり田舎娘の事はお忘れになつてゐた。田舎娘は今日か明日かとお迎へを待つてゐるうちに、とうと八十年の月日を過して、白髪頭(しらがあたま)の婆さんになつてしまつた。
 むかし島原に美しい遊女がゐて、よく物忘れをするので聞えてゐた。何を忘れても覚えてゐなければならぬお客の顔さへ、その夜を過ぎるとけろりと忘れてゐるので、それが浮れ客の評判になつて、
「あんなに忘れつぽくはあるが、何処かに真実がありさうだから、貴方一人は忘られないといふ客もなくつちやならない。」
といふので、男が持前の自惚(うぬぼれ)から、みんな自分がその忘れられない男にならうと、せつせと通つて来るので、甚(ひど)く全盛を極めたさうだ。
 この頃(ごろ)近江(あふみ)の矢橋(やばせ)で遊女梅川の墓が発見(めつけ)られた。物好きな人の調べによると、梅川は忠兵衛に別れてから、幾十年といふ長い月日をこゝで暮し、八十三でころりと亡くなつたさうだ。
 芝雀(しじやく)の演(す)る、福助の演(す)るあの梅川が八十三の皺くちや婆(ばゞあ)になるまで生き存(なが)らへてゐた事を考へるのは、恋をする者にとつて良い教訓である。何しろ長い間の事だ、梅川も終(しま)ひには忠兵衛の名なぞは、すつかり、忘れてしまつて、
「忠兵衛つてあの山雀(やまがら)の事で御座んすかい、もんどり上手の……」
と言つて、こくり/\居睡(ゐねむり)でもしてゐたか判らない。さう言つたからとて、何も腹を立てるには及ばない。人生はそんなものなのだから。


 竹のや主人、饗庭(あへば)篁村氏は剽軽(へうきん)な面白い爺さんだが、夫人はなか/\の確(しつか)り者(もの)なので、お尻の長い友達衆は、平素(ふだん)は余り寄付(よりつ)かない癖に、夫人が不在(るす)だと聞くと、直ぐ駈けつける。篁村氏自身も夫人が旅立でもすると、
「おい、女房(かない)が不在(るす)になつたから遊びに来い。」
と態々(わざ/\)使(つかひ)を出して催促する。
 ある夏の事、御多分に洩れぬ幸堂得知(かうだうとくち)氏が夫人の不在(るす)を覗(ねら)つて無駄話に尻を腐らせてゐると、表を鰯売が通つた。幸堂氏は急に話を止(や)めた。
「おい、饗庭、あの鰯を呼んでくれ、今日は拙者が一つ御馳走をしてくれるから。」
 鰯を買つた幸堂氏は葱(ねぎ)を買ひに主人を近所の八百屋に走らせた。茶気のある篁村氏は一銭がとこ葱を提(さ)げて嬉しさうに帰つて来た。平素(ふだん)女房(かない)にいたぶられてゐる亭主は女房の不在(るす)に台所の隅で光つてゐる菜切庖丁(なきりばうちやう)や、葱の尻尾に触つてみるのが愉快で溜らぬものだ。
「や、いゝ葱だね。序(つい)でに気の毒だが、扇子の古いのを一本発見出(めつけだ)して呉れないか。」
「扇子? 扇子を何(ど)うするんだい。」
 篁村氏は片手に葱をぶら提げながら、神聖な夫人の居間を捜して破けた扇子を一本持ち出して来た。
 幸堂氏は料理人(いたば)がするやうに、手拭(てぬぐひ)を襷(たすき)に効々(かひ/″\)しく袂(たもと)を絞つて台所で俎板(まないた)を洗つてゐた。
「や、御苦労/\。ぢや君は其処(そこ)で見てゐ給へ。鰯はかうやつて下(おろ)すものなのさ。」
 幸堂氏は無駄口を叩き/\古扇子(ふるせんす)の骨の間に鰯の骨を挿(はさ)んで、さつと扱(しご)くと魚は器用に三枚に下(おろ)された。
「な、なある程、巧(うま)いもんだな。」
 篁村氏は、帝劇で松助(まつすけ)の芸を賞めるやうに、禿頭をふり/\感心した。
 小一時間も経つ頃、漸(やつ)と鰯の「ぬた」が出来上つて、食膳の皿に盛られると、味利(あぢき)きだといつて、幸堂氏は一箸(はし)口へ頬張つて、もぐもぐさせてゐたが、急に変な顔をして考へ出したと思ふと、はたと膝を叩いて笑ひ出した。
「失敗(しま)つた。あんまり急いだもんだから、鰯の鱗(こけ)をふくのを、すつかり忘れちやつた。」
「さうかい……」と言つて、篁村氏も箸をつけたが、「なに、美味(うま)く出来てるぢやないか。」とむしや/\食べ出した。ほんとに鰯の鱗(うろこ)は除(と)つてなかつたが、不断女房(かない)の刺(とげ)のある言葉を食べつけてゐる者にとつては、魚の鱗(うろこ)などは何でもなかつた。


坪内博士の傘

7・11(夕)
 先日(こなひだ)物忘れの事を書いたが、独逸の歴史家モムゼンは専門以外の事は何でも忘れつぽいので聞えた男で、ある時大学から帰つて自分の書斎に入ると、何を思ひ出したものか卓子(テーブル)の周囲(まはり)を掃除し出した。見ると寝椅子の上に古綿(ふるわた)のやうなものがあるので、ぶつ/\言ひながらそれを引つ掴むで反古籠(ほごかご)のなかに投(ほ)り込んだ。
 古綿は急に蛙のやうな声をして鳴き出した。古綿が蛙に化けるなぞは羅馬(ローマ)の帝政時代にも無かつた事なので、流石にモムゼンも吃驚(びつくり)した。で、側(そば)へすり寄つてよく見ると、古綿のやうなのは、その頃生れたばかりの孩児(あかんぼ)であつた。お蔭で学者は細君に小(こ)つ酷(ぴど)く叱り飛ばされてしまつた。無理はない、どんな学者の事業だつて、女の生む「孩児(あかんぼ)」に比べると、ほんの無益物(やくざもの)に過ぎないのだから。
 坪内逍遙博士が今の高田文相などと一緒に高野(かうや)に上(のぼ)つた事があつた。見物も一通り済んで、いよいよ下山といふ事になると、博士はお寺の土間をうろうろして何だか捜し物でもしてゐるらしい。
「何か忘れ物でもあるんですか。」
 高田氏は鷹揚に訊いたが、いつも出掛(でかけ)には夫人にさう言はれつけてゐるので、言葉の調子に何処か女らしい点(ところ)があつた。
「洋傘(かうもりがさ)が見えないんです。先刻(さつき)ここへ置いたと思ふんだが……」
 坪内博士は薄暗(うすくら)い土間の隅つこを、鶏のやうに脚で掻き捜してゐる。
「洋傘(かうもりがさ)だつたら、君が腋(わき)に挟(はさ)んでるぢやありませんか。」
 高田氏は笑ひ笑ひ言つた。気がついて見ると、博士は大事の/\繻子張(しゆすばり)の洋傘(かうもりがさ)は腋に挟んだまゝ、もう一本捜してゐるのだつた。
 洋傘(かうもりがさ)は二本あつても、一本を高田氏に呉れてやつたら事は済む。「真理」が二つあつたら、博士は首を縊(し)めなければならなかつたらう。


上田博士の死

7・12(夕)
 上田敏博士が亡くなつたのは、吾が文壇にとつて、京都大学にとつて、また償ふ事の出来ない損失といはなければならぬ。博士は平素(ふだん)大学教授といふ名前を厭がつてゐたが、多くの大学教授のうちで、博士は京都大学の最も誇るべき人であつた。
 たつた一人きりの愛嬢瑠璃子さんが、京都の銅駝(どうだ)校を出ると、博士は東京芝の聖心女学院へ入学させるために夫人と一緒に瑠璃子さんを東京へ送り、自分は独身生活を営んで、冷い弁当飯(べんたうめし)で過してゐたが、その寂しい生活が大分(だいぶん)健康に障(さは)つたらしい。
 オスカア・ワイルドは亜米利加の婦人達(をんなだち)は死んで天国へ昇るよりか、巴里(パリー)へ生れ代るのが願望(のぞみ)らしいと言つたが、上田博士は巴里と東京とが大好きで、瑠璃子さんを教育するにも、京都の学校へ入れるのは、大分(だいぶん)嫌(いや)だつたらしかつた。で、小学校を出ると直ぐ東京へ送つたが、それも普通の女学校よりか仏蘭西式の学校を選んだ。知恩院の境内で亡くならないで東京の町のなかで目を瞑(つむ)つたのは博士がせめてもの本望だつたかも知れない。
 幸田露伴博士が京都大学の講師になつて来た時、家族を同伴しないのを何故だと他(ひと)に訊かれて、
「でも、子供に京都語(きやうとことば)だけは覚えさせたくありませんからね。」
と言つた事があつた。それを人伝(ひとづて)に聞いた時、上田博士は、
「全くですね。」
と言つて、煙脂焼(やにやけ)のした前歯をちつと見せて笑つてゐた。数多い京都大学にこの二人のやうな東京好きはまたと無かつた。


 亡くなつた上田敏博士が京都大学に初めて来た頃谷本梨庵博士は文科の創設者として早くから京都の土を踏むでゐたから、高等師範以来(このかた)の顔昵懇(かほなじみ)といふので、色々京都についてお説教をしたものだ。
 そのお説教の一つに、ダンテの名句に「見て過ぎよ」といふのがあるが、京都は実際見て過ぎればよい土地で、神社もお寺も拝むよりか見て過ぎるやうに出来てゐる。交通機関の電車にしてからが、(その頃京都にはまだ市の電車といふものは無かつた)横目で見て通ればよいので、あれに乗つては時間(ひま)が潰れて仕方が無いと言つてゐた。実際谷本博士は長年京都にゐながら、一度も電車に乗つた事はなかつた。そして何時(いつ)も横目で車台(しやたい)を睨み/\てく/\歩いてゐたが滅多に電車にひけは取らなかつた。
 独逸哲学と一緒に、伯林(ベルリン)の汽車の時間表まで鵜呑(うのみ)にしてゐる桑木博士なども、
「谷本君のは長い経験から出たので、全く真理だよ。」
と甚(ひど)く感心してゐたが「真理」といふものは、独逸製以外に、京都でもちよい/\安手なのが出来るものと見える。
 谷本博士はある日教授の溜室(たまり)で上田博士の顔を見ると、
「上田君一度君に御馳走をしたいと思つてるんだが、君は文壇の名士だから、名妓を引合はしたいと思つて、彼是(かれこれ)銓衡中(せんかうちゆう)なんだ。」
と、はつきりした日本語で言つてゐたが(念のため言つておくが、上田博士も谷本博士も数個国(すうかこく)の国語には通じてゐたが、談話(はなし)をする時には一番不完全な日本語でしてゐた)色々都合があつて、その御馳走もお流れになつたらしかつた。よしんば都合が無かつたにしても人間には忘れるといふ事があるから。
 ほんとの事をいふと、谷本博士が名妓を引合せたいと思つてゐる頃には、上田博士はもうちやんとそんな者は知り抜いてゐたのだ。


どくだみ

7・14(夕)
 むかし京都の島原に五雲といふ俳諧師が居た。毎月(まいげつ)二十五日には北野の天神へ怠らず参詣(まゐ)つてゐたが、或日雨の降るなかを弟子が訪ねて往(ゆ)くと、五雲は仰向(あふむけ)に寝て、両手を組んで枕に当てがひ、両足をあげて地面(ぢべた)を踏むやうな真似をしてゐる。何(ど)うしたのですと訊くと、今日は北野へ参詣の例日(れいじつ)だが、雨が降るもんだからかうして北野へ往復(ゆきかへ)りするだけの足数(あしかず)を踏んでゐるのだと言つた。
 面白いのはこの足数も踏むに連れて、沿道の人家や立木やが次から次へと眼の前に幻となつて展開する事で、五雲は仰向(あふむき)になつて、
「やあ、那処(あすこ)にいつもの両替(りやうかへ)屋の寡婦(ごけ)が見える。」
と、独りで娯(たの)しんでゐたさうだ。
 亡くなつた上田敏氏は子供の時静岡へ往(ゆ)く道中、てくてく歩きで箱根を越えた。丁度梅雨晴(つゆば)れの頃で、ある百姓家の軒続きに、心臓形の青い葉が一面に蔓(はびこ)つてゐる畑を見て、
「おや/\※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)菜(どくだみ)がこんなに植わつてる……」
と独語(ひとりごと)をいふと、そこに居合はした百姓が笑ひ/\、
「坊ちやま、これあ※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)菜ぢやござりましねえ、坊ちやまの食べさつしやる甘藷(さつまいも)でがさ。」
と教へて呉れたさうだ。
 その後(ご)大学の教室に立つて、欧羅巴(ヨーロツパ)の近代文学を論ずるやうになつても、梅雨晴れの日光が硝子窓からちらちらするのを見ると、いつもその※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)菜の葉が幻のやうに想ひ出されると言つてゐた。


京の水

7・15(夕)
 むかし京都で物好きな男が三四人集まつて鴨川のほとりで茶を煎(せん)じて遊んだ事があつた。(菅茶山(くわんさざん)が言つたやうに、京都は物静かで遊ぶには持つて来いの土地柄だが、とりわけお茶と恋をするには一番よい。)
 水の講釈にかけては人一倍やかましい茶人達の事とて、あつちこつちの名水を瓶(かめ)に入れて各自(てんで)に持寄りをする事にきめた。で、集まつた水を一つ宛(づつ)煮て味はつてみたところが、矢張加茂川の水が一番美味(うま)かつたさうだ。
 或る通人がそれを聞いて、「尤(もつと)も至極(しごく)の事で、他所(ほか)の水は瓶(びん)に貯(たくは)へて持ち寄りをしたのだから、時間(とき)が経つて死水(しにみづ)になつてゐる。加茂川のは掬(く)み立(たて)だけに水が活(い)きてゐる。美味いに不思議はない筈だ。」と言つた。
 久保田米僊(べいせん)は、大阪の鱧(はも)も、京都へ持つて来て、一晩加茂川の水へ漬けておくと屹度(きつと)味がよくなると言つてゐたが、米僊は私に一度も鱧の御馳走をしなかつたから、嘘か真実(ほんとう)か保証する限りでない。
 京都俳優(やくしや)の随一人坂田藤十郎はよく江戸の劇場(しばゐ)へも出たが、その都度江戸の水は不味(まづ)くて飲めないからといつて、態々(わざ/\)飲み馴れた京の水を幾つかの大樽に詰め込んで、江戸まで持ち運んだものださうな。水自慢は縹緻(きりやう)自慢と一緒で、自慢する人自身の拵(こしら)へ物(もの)でないだけに面白い。


雷

7・16(夕)
 梅雨(つゆ)が明けて雷が鳴る頃になつた。雷といへば上州あたりには雷狩(かみなりがり)をして、捉(とら)へた奴を料(れう)つて食べる土地(ところ)があるげに聞いてゐる。雷といふのは、多分雷鼠(らいねずみ)の事で、打捨(うつちや)つておくと、芋の根を喰(く)ひ荒して仕方がないさうだ。
 不思議なのは、雷狩をした年の夏は、屹度(きつと)雷鳴(かみなり)が少いといふ事だ。この雷狩は山や野原でする許(ばか)りでなく、また海(うみ)つ辺(ぱた)でもやる。翡翠(あをせみ)のやうに寂しい海岸に穴を掘つて、そこから顔を出して遊んでゐるのを漁師が捉(つか)まへる事がある。
 政事家が余り喋舌(しやべ)り過ぎて大臣の椅子から滑り落ちるやうに、雷も時偶(ときたま)図に乗り過ぎて海へ落ちる事がある。さういふ折に漁師が水棹(みづさを)を貸してやらなければ、空へ帰る事が出来ないので乱暴者の雷も漁師だけには極(ごく)素直だといふ事だ。
 京都は三方(ぽう)山に囲まれてゐるので、夏になると雷が多い。空がごろごろ鳴り出すと、京都の女はチヨコレエトを食べさして、蚕(かひこ)のやうにぶるぶるつと身体(からだ)を顫(ふる)はせる。
「貴方(あんた)はん、また雷鳴(かみなり)どつせ。どないしまほ、妾(わて)あれ聞くと頭痛がしまつさ。」
と言ひ言ひ、嬌(あま)えるやうに男の顔を見る。
 実のところは雷は嫌ひでも何でも無い。唯かういふと、男の眼に優しく美しく見られるといふ事を女の本能から知つてゐるのだ。男は鈍(のろ)いもので、この瞬間女を飛切り美しいものに見るばかりでなく、自分をも非常な勇者のやうに思違(おもひちが)へをする。鈍間(のろま)なる男よ、汝(なんぢ)はいつも女の前に勇者である。


未亡人の涙

7・17(夕)
 東京三越(こし)の「山と水」展覧会に、故人角田浩々歌客(かくだかう/\かかく)が世界の各地から集めた石と一緒に、塚本工学博士が出品した瓶詰の黄河の水がある。
 英国のある停車場(ていしやぢやう)の駅長はグラツドストーンが落して往つた履(くつ)の踵(かゞと)を拾つて、丁寧に箱入にして蔵(しま)つておいたといふから、黄河の濁り水を克明に瓶に入れて持つて帰つたからといつて、別に咎(とが)め立(だて)もしないが、同じ持つて帰るなら、もつと美しい物を見つけて欲しかつた。
 波斯(ペルシヤ)で亭主に死別(しにわか)れた許(ばか)しの、新しい未亡人(ごけ)さんを訪ねると、屹度(きつと)棚の上に大事さうに瓶が置いてあるのが目につく。他でもない、波斯では未亡人(ごけ)さんといふ未亡人(ごけ)さんは、亭主に死別れてからは、毎日々々涙を一雫(ひとしづく)も零(こぼ)さないやうに小瓶に溜めておいて、それが二本溜まると、喪を廃(や)める事になつてゐるからだ。
 一雫も零さないやうにするのは、何も追懐(おもひで)の涙が神聖なからでは無い。成るべく早く瓶を詰めて、喪服を着更(きか)へてしまひたいからだ。多いなかには亭主の事を追懐(おもひだ)しても一向涙なぞ出ないのがある。(それに不思議はない筈だ。涙は亭主の生きてゐる間(うち)に、みんな絞り出してしまつたのだから。)そんな輩(てあひ)は涙脆(なみだもろ)い女を見つけて、一瓶幾らといふ値段で涙を買取つて、一日も早く喪を済まさうとする。
 ある皮肉家(ひにくや)が、古(むかし)の詩人は血で書いた、中頃(なかごろ)になつては墨汁(インキ)で書いた、それが極(ごく)近頃になつては墨汁(インキ)に水を割つて書くやうだと言つたが、涙にしても水を割つたら、直ぐ瓶に詰まりさうなものだが、さうは仕(し)ないで、縁もゆかりも無い者からでも、矢張正真物(しやうしんもの)の涙を買ふところに、一寸女房の情合(じやうあひ)が見えて可笑(をか)しい。
 目薬瓶に涙二杯! 男にとつて申分(まをしぶん)のない値段である。


贅沢な蟻

7・18(夕)
 ラボツクは蟻の研究で聞えた人だが、ある時一匹の蟻をウイスキイの洋盃(コツプ)に投(ほ)り込んで、したたか酒に酔はせた。
 蟻はすつかり喰(た)べ酔つたが、それでも人間のやうに片手を他(ひと)の鼻先で拡げて金を貸せとも言はないで、唯もう蹣跚(よろ/\)と、其辺(そこら)を這ひ廻つてゐた。
 仲間の蟻が、五六匹そこへ遣(や)つて来た。そして喰べ酔つた友達を見つけると、こんな不心得者を自分の巣から出したのを恥ぢるやうに、何かひそ/\合図でもしてゐるらしかつた。
 暫くすると、仲間は各自(てんで)に酔ひどれを啣(くは)へて巣のなかへ引張り込み、丁寧に寝かしてやつた。酔(よひ)が醒(さ)めると、件(くだん)の蟻はこそ/\這ひ出して直ぐ例(いつも)の仕事にかゝつたさうだ。
 一度他の巣の蟻がこの酔ひどれを見つけた事があつたが、その折は少しの容捨(ようしや)もしないで、いきなり相手を啣へて水溜りのなかに投(ほ)り込んでしまつた。
 人間にも女中や下男の厄介になつて暮すやくざな輩(てあひ)があるやうに、蟻にも奴隷を置いて、その世話になつてゐるのがある。巣を拵(こしら)へ、食物(たべもの)を集めるのに奴隷の手を藉(か)りるばかりでなく、どんなに食物(たべもの)があつても、奴隷の手でそれを食べさせて貰はなければ何(ど)うにも出来ないので、奴隷の機嫌でも損じると、餓死(うゑじに)するより仕方がない。
 人間が牛や馬を養つてゐるやうに、蟻もまた家畜を飼つてゐる――といふと、何から何まで蟻は人間と同じやうだが、蟻には人間のやうな懶惰者(なまくらもの)がゐないだけに、女を大事にする事を知つてゐる。何といふ結構な道徳であらう、女は陶器皿(せとざら)と一緒で、同じ事なら大事に取扱つた方がよいのだ。――蜂は閑(ひま)さへあれば女王の顔を見て娯(たの)しんでゐるさうだ。


鉄扇の威嚇

7・19(夕)
 今は故人の松下軍治がしたゝか者だつた事は知らぬ者もないが、譬(たと)へば、金でも借りようとか蔓(つる)でも発見(めつけ)ようとかいふ目論見(もくろみ)で人を訪ねる事があるとする。(松下が金と蔓と、この二つ以外の用事で人を訪ねようなどは夢にも思はれなかつた事だ。)
 先づ応接室に通されて、暫くすると隔ての襖(ふすま)が開(あ)いて主人の顔が見える。
「ヤ、入らつしやい。お久しぶりですな。」
 松下のやうな男には、誰でもが挨拶だけは成るべく叮嚀(ていねい)にしようとする。挨拶には別に資本(もとで)が掛らないで済む事だから。
「何(ど)うです、この頃の暑さは。随分厳しいぢやありませんか。」
 かう言つて、主人はにこ/\顔で椅子に腰を下さうとする。
 この時松下は腹一杯の声で、
「御主人……」
と喚(わめ)くと同時に、手に持つた鉄扇で、思ひ切り強く卓子(テエブル)を叩(どや)しつける。(松下はこんな訪問には、いつも「体面」を置いて往(ゆ)く代りに、机の抽斗(ひきだし)から鉄扇を持ち出す事に定(き)めてゐる。)
 主人は卓子(テエブル)の上の葉巻入と一緒に、吃驚(びつくり)して椅子から飛び上らうとする、松下はじろりとそれを尻目にかけて、
「お気の毒だがお冷水(ひや)を一つ下さい。」
と静かに言ふ。この場合お冷水だらうが持参金つきの娘だらうが、相手の気に入る事なら、主人はどんな物でも調(とゝの)へようと思つてゐる。かうなると、もう占めたもので、松下は希望通(のぞみどほ)り相手の魂でも引抜く事が出来る。
 松下の行(や)り方は、他人(ひと)を見れば敵(かたき)と思つた封建時代の遺習で、型としては既(も)う黴(かび)が生えてゐる。往時(むかし)の閑人(ひまじん)はこんな輩(てあひ)に驚かないやうに、武士道や禅学で胆(きも)を練つたものだが、今の人達は、武士道や禅学の代りに、お蔭で「生活難」で鍛へられてゐる。「貧乏」は鉄扇の音に吃驚(びつくり)しないばかりか、鉄扇を質に入れる事さへ知つてゐる。


 栂尾(とがのを)の明恵上人は雑炊の非常に好きな人であつた。ある時弟子の一人が師僧を慰める積りで、極(ごく)念入(ねんいり)の雑炊を拵(こしら)へた。念入だといつたところで、何も鰹節を使つたといふ訳ではない。鰹節は猫と真宗寺(しんしゆうでら)との好物で明恵はあんなものは好かなかつた。
 明恵は何気なく膳に対(むか)つたが、好物の雑炊が目につくとにつこり笑つた。そして、
「今日は御馳走だな。」
といつて、弟子の顔を見た。弟子は師僧の気に入つたのが嬉しいと見えて、蒟蒻球(こんにやくだま)のやうな顔を下げてお辞儀をした。
「お上人様が平素(ふだん)からお好きでいらつしやいますから。」
 明恵は箸を取つて一口頬張つたと思ふと箸を取つた右の指先で障子の桟を目にも止まらぬ速さで一寸撫でた。弟子は吃驚(びつくり)して見つめてゐると、明恵は何喰はぬ顔でその指先を嘗(な)めて、それからまた雑炊を食べようとした。
「蠱(まじなひ)だらうかな。」
と弟子は考へたが、これまで一度だつてそんな真似は見た事も無かつたので、不思議さうに訊いた。
「お上人様、つかぬ事をお訊き申すやうですが、たつた今貴僧(あなた)様は障子の桟を撫でて、それをお嘗め遊ばした。あれは何のお蠱でございます。もしや、食中毒(しよくあたり)の……」
 明恵は尼さんのやうに口を窄(すぼ)めて笑つた。
「いや、蠱でも何でもない、其方(そなた)が拵へて呉れた雑炊が余り美味(うま)いものだから、つい障子の埃(ほこり)を嘗めたのだ。」
 成程障子の桟を見ると、埃が白く溜つてゐた。埃は正直なもので、掃除を怠けると、直ぐ溜るものだなと弟子は思つた。だが、雑炊が美味いからといつて、その埃まで嘗めなければならない理由(わけ)が判らなかつた。
 明恵は言つた。
「余り雑炊が美味いので、つい染着心(せんぢやくしん)でも出来ては怖ろしいと思つたものだから、そんな事の無いやうに一寸埃を嘗めたまでさ。」
 弟子はそれを聞いて、師僧の雑炊を拵へるのはなかなか難(むつか)しいものだなと思つた。
 大隈侯はどんな物でも鵜呑にする事が上手だが、唯それに砂糖をつけないでは承知しない。砂糖とは他でもない「高遠の理想」の事さ。


 本阿弥光悦が書いた本法寺の額は「法」といふ字の扁が二水(にすい)になつてゐるので名高いものだ。光悦はあゝいふ洒落者だけに、本法寺の門前を流れてゐる水を、その一水(いつすい)に象(かたど)つて、わざとさうしたのだといふ事だ。
 むかし天龍寺塔頭(たつちゆう)のある寺にあつた書院の杉戸は、探幽の筆として聞えてゐたが、戸には李白一人が画(か)いてあつて、滝らしいものが一向に書いてなかつた。これは嵐山(らんざん)の戸無瀬(となせ)の滝を目の前に控へてゐるので、滝は態(わざ)と描(か)かなかつたのだ。
 池坊の祖先某(なにがし)は、六角堂に立花(りつくわ)の会があつた時、自分の花に態と正心松(しやうしんまつ)を欠いて活(い)けておいた。何故だらうとそれが一座の人の噂の種となつてゐる頃、池坊は、
「松は今御覧に入れます。」
と言つて、障子を引明けると、庭にある好(い)い枝振(えだぶり)の松がうまく立花のなかに取入れられたさうだ。流石に池坊式でこれには拵(こしら)へ事(ごと)の態(わざ)とらしさがある。
 竹内栖鳳氏は東本願寺の天井に、天人飛行(てんにんひぎやう)の絵を画(か)く約束で、もう幾年といふもの考へ込んでゐるが、まだ一向に出来上らない。往時(むかし)ある処(ところ)に狩野永徳の描(か)いた空飛ぶ鴈(かり)の間(ま)といふのがあつた。何でも襖障子(ふすましやうじ)一面に葦と雁(かり)とを描(か)き、所々に鴈(かり)が羽叩(はばたき)して水を飛揚(とびあが)つてゐるのを配(あしら)つた上、天井には雁(かり)の飛ぶのを下から見上げた姿に、鴈(かり)の腹と翼の裏を描(か)いて居(を)つたといふので名高かつた。この伝で往くと、栖鳳氏の天人は臍(へそ)の孔(あな)から擽(くすぐ)つたい腋(わき)の下の皺まで描(か)かねばならなくなる。
 なに、そんなに心配するが物はない。相手は肉食(にくじき)妻帯の本願寺だ。いつそ光悦や探幽式に裏方や姫達を天人と見立てて、天井へは何も画かない事にしたら、どんな物だらう。凡(すべ)ての画家に勧める、自分の手に画(か)きこなせないものは画(か)かないに限る。


 むかし徳川初代の頃に本願寺の役人に下間某(しもつまなにがし)といふものがあつた。乱舞(らつぷ)にかけては却々(なか/\)の巧者人(かうしやじん)で、徳川家の前などでも、いつも召されて乱舞を舞つてゐた。
 ある時、この男が紀州の道成寺に詣(まゐ)つた事があつた。その折拍子を踏み/\石段を数へてゐたが、ふと立停(たちどま)つて、不思議さうな顔をして道伴(みちづれ)に言つた。
「この鐘楼(しゆろう)の石段は屹度(きつと)一つだけ土にでも埋もれてゐるんぢや無からうか。今一つ宛(づつ)踏んで居るのに、何(ど)うしても段拍子(だんびやうし)に合はない。」
 道連(みちづれ)は可笑(をか)しな事を言ふとは思つたが、相手があの通りの巧者人の事なので、笑つてばかり済ます訳にも往(ゆ)かないので(世の中には笑つて済まされる事は沢山ある、金の事、女の事、それから……)土を掘り下げてみると、案の定下から石段が一つ出た。
 京都の桂離宮は小堀遠州が豊太閤(ほうたいかふ)に頼まれて、一世一代の積りで拵へた名園だが、ずつと後(のち)になつて遠州の孫がその結構を見に庭へ入つた事があつた。木戸口を潜(くゞ)つて、庭石を二つ三つ踏むだと思ふと、ひよいと立停つた儘(まゝ)、
「どうも解らない。」
と、じつと考へ込んでしまつた。
 案内の男が、
「何かお解りになりませんか。」
と訊くと、
「いや。この石だが、も少し右に置いてなければならん筈なのだ。」
と独語(ひとりごと)のやうに答へる。考へてみると、一二年前に庭木を入れる事があつて、その折件(くだん)の庭石を引(ひ)つ剥(ぺが)したまゝ、植木屋の手で勝手に据ゑ直してあつたのだ。
 このやうに物にはちやんと拍子といふものがある。この拍子を見別(みわ)けるやうになると、物の巧者だといへる。だが断つておくが、諸君の夫人の顔立が拍子に適(かな)はないからといつて、それは茶話記者の知つた事ではない。大きい声では言へないが、一体女は初(しよ)つ端(ぱな)から拍子に合つたやうに拵へられてはゐないのだから。


醜女と哲学

7・24(夕)
 伊勢の山田から二里ばかりの在所に磯村といふ土地(ところ)がある。言ひ伝へによると、白拍子(しらびやうし)静(しづか)が母の磯禅師(いそのぜんじ)はこゝに住むでゐたのださうで、禅師の血統(ちすぢ)はその後も伝はつてゐるが、産(うま)れる娘は皆醜婦揃(すべたぞろ)ひである。
 これは静が人並外れた美人だつたので、多くの男にも苦労をさせ、女自身にも悲しい事ばかり見て来たのを思ふと、もう美人は懲(こ)り/\だとあつて、
「娘が生れます事なら、いつそ醜女にしてやつて下さい。」
と神様に祈願を籠(こ)めたのが、お引受になつたのださうだ。
 美人を生ませて下さいと、願(ぐわん)を籠めたところで、神様は滅多に承引しては下さらないが、醜女(すべた)を孕(はら)ませて下さいと頼むと、大抵はお引請(ひきうけ)になる。お引請になるのは、何も神様の手並が拙(まづ)くて、醜女(すべた)の方が丁度手頃なからでは更々ない。神様は女に哲学を教へようとなさるからだ。
 女は美人に生れると、悲哀(かなしみ)が多い、「芸術」が必要な所以(ゆゑん)だ。醜女に生れると絶念(あきら)めなければならぬ、「哲学」が無くてはならぬ訳である。哲学は蛇と共に女の一番嫌ひな物である。


 希臘(ギリシヤ)のある皮肉哲学者が富豪(かねもち)に饗(よ)ばれた事があつた。哲学者が富豪(かねもち)に思想を説きたがるやうに、富豪(かねもち)はまた哲学者に自分の住んでゐる世界を見せびらかしたいものなのだ。
 その富豪(かねもち)も皮肉哲学者に、自家の邸宅(やしき)を自慢したいばかりに、飾り立てた客室(きやくま)から、数寄(すき)を凝らした剪栽(うゑこみ)の隅々まで案内してみせた。
「如何(いかゞ)でげせう、これでも先生方のお気には召しますまいかな、俺(あつし)としては相応(かなり)趣向も凝(こら)した積りなんでげすが……」
 かういつて、富豪(かねもち)はその大きな顔を、哲学者の方へ捻(ね)ぢ向けた。
 哲学者はそれには何とも答へないで、いきなり痰唾(たんつば)を富豪(かねもち)の顔に吐きかけた。富豪(かねもち)は西洋茄子(トマト)のやうに真紅(まつか)になつて憤(おこ)つた。
「何をしなさるんだ。他(ひと)の顔に唾(つばき)をしかけるなんて、余りぢやごわせんか。」
 皮肉な哲学者は落つき払つたもので、
「いやはや余り結構づくめなお邸宅(やしき)なんで、唾(つばき)が吐きたくなつても、何処にも恰好な場所が見つからないもんですから、ついお顔を汚しましたやうな訳で……」
と別に謝(あや)まらうともしなかつた。
 勿論いつの時代でも富豪(かねもち)の顔と霊魂(たましひ)とは、数あるその持物のなかで、一番汚いに極(きま)つてゐるが、それに唾(つばき)を吐きかけたのは流石に皮肉哲学者の見(め)つけ物(もの)である。
 一番無難なのは、哲学者なぞ御馳走しない事だが、もし達(たつ)て饗ばなければならないとすると(渋沢男(だん)が孔子を先生扱ひにするやうに、一体富豪(かねもち)は凡(すべ)て哲学者が好きらしい。何故といつて、孔子は色々難(むつか)しい事を聴かせて呉れる上に滅多に金を貸せなぞ言はないから)何を忘れても痰壺だけは用意しておく事だ。


大きな鼻

7・26(夕)
 むかし通尖(つうせん)上人といふ坊さんがあつた。内外諸宗にわたつて博識の名が隠れもなく、自分にも大分(だいぶん)それを自慢に思つてゐた。
 ある秋の夜(よ)の事、お説教が済んで、上人はひどく気持が善(よ)ささうな顔をしてゐた。一体お説教とか講演とかいふものは、よく出来た場合は聴衆(きゝて)よりも演者(やりて)の方がずつと気持のいゝもので、基督のやうな真面目な男でさへ、名高い山の上のお説教を済ました後(のち)は、すつかり好(い)い気持になつて、汚い癩病患者なども直ぐ癒(なほ)してやつた。だから、お説教の済んだあとで、
「どうも素敵でしたね。皆もすつかり感心しちまつて、もつと何か聴きたさうな顔をしてまさ。」
と言つてみるがいい。坊さんは屹度(きつと)お袈裟(けさ)の袖をたくしながら、手品の隠し芸でもして見せるに極(きま)つてゐる。
 通尖上人はすつかり上機嫌で、この分ぢやどんな難問が出ようとも、直ぐ解いて聞かせて呉れる。ほんとに吾ながら偉い博識(ものしり)になつたものだと高慢さうな顔つきで、附近(あたり)をじろ/\見まはしてゐると、だしぬけに隔ての障子が破れて、なかから大きな鼻が一つ飛出した。おやと思ふうちに、鼻はまたすつと引込んで障子はもとのやうになつた。
 流石の通尖も、これには度胆(どぎも)をぬかれてしまつた。変な顔をして暫く眼をぱち/\させてゐたが、すうと席を滑り下りたと思ふと、その儘(まゝ)見えなくなつてしまつた。あとでよく調べてみると、大樹寺(たいじゆじ)といふのに入つて専修念仏(せんじゆねんぶつ)の行(ぎやう)をおこなひ済ましてゐたさうだ。よく/\自力(じりき)には懲りたものと見える。
 寺内元帥なども、近頃少し高慢な相が見えて来た。今の内に誰か障子の孔(あな)から大きな鼻でも覗かせてやらなければならぬ。


 ある画家(ゑかき)の使つてゐる紅(あか)の色が、心憎いまで立派なので、仲間は吸ひつけられたやうにその画(ゑ)の前に立つた。そして不思議さうに訊いた。
「素晴しい色彩(いろ)ぢやないか、一体何店(どこ)で掘出して来たんだね。」
 画家(ゑかき)はそれに答へようともしないで、牛のやうに黙りこくつて、せつせと仕事に精出してゐたが、画が描(か)けるに連れて、身体はだん/\衰へて来た。そして仕揚(しあげ)に今一息といふ際どい時になつて、刷毛(はけ)を手に持つた儘(まゝ)、画の前に突伏(つゝぷ)して倒れてゐた。仲間が死骸を片付けようとして見ると、画家(ゑかき)は耶蘇のやうに胸に孔(あな)があいて、孔からは真紅(まつか)な血が流れてゐた。仲間はそれを見ると、
「色彩(いろ)だと思つたのは、自分の血だつたのか。」
声を揚げて驚いたといふ話がある。
 四条派の名家だつた望月玉泉が、晩年に京都のある高等女学校に、邦画の教師として一週幾時間か酸漿(ほほづき)のやうな真紅(まつか)な顔を覗(のぞ)けてゐた事があつた。普通(なみ)の絵具は生徒が買合せの安物の水絵具で辛抱してゐたが、緑青と群青(ぐんじやう)とだけは、自分の宅(うち)から懐中(ふところ)へ捻(ね)ぢ込んで来てそれを生徒に売つてゐた。
「これは緑青と群青やで。どつちやも高い絵具やが、貴女方(あんたがた)はお弟子やさかい、廉(やす)う負けといて一度分五銭にしときまつさ。」
 玉泉はこんなに言つてその緑青と群青とを使つた生徒からは、その場で五銭宛(づつ)受取つて袂(たもと)に投げ込んでゐた。
 生徒が草花(さうくわ)の写生でもすると、玉泉はじつと覗き込んで、
「よう出来よつたな。それに緑青をお塗りやすと、ぐつと引立ちよる。お塗りやすいな、緑青を……」
といつたやうな調子で、つい懐中(ふところ)の緑青を押売する。
 もしか自分の血が好(い)い絵具になる事を知つてゐたら、玉泉さんは緑青や群青の代りに萎(しな)びた自分の胸を切売(きりうり)したかも知れない。


保証人

7・28
 慶安太平記の由井正雪が大望(たいまう)を企てた時、その一味徒党には浪人ものが多かつた。これは当時の法度(はつと)として養子といふものを禁じた結果として、甚六でない二男三男四男五男……が有り余つた。
 養子に往(ゆ)くのは、戦争(いくさ)に出かけると同じやうに敵をそつくり生捕(いけど)るか、さもなければ身一つで逃げ出すだけの気転が無くてはならぬが、それでも養子に往(ゆ)けぬとなると、先を折られたやうな気持がするかして、こんな輩(てあひ)は養子に往(ゆ)けない鬱憤を晴らす為に大抵浪人になつた。
 この浪人者をどんなにして救済したかといふ問題を提示したのは穂積(ほづみ)陳重博士。それをまた例の福本日南が、頭の禿に触られでもしたかのやうに博士に喰(く)つてかゝつて、往時(むかし)の事を疝気(せんき)に病むよりは、寧(いつ)そ博士の育てた高等遊民の救済法でも考へたがよからうと口を尖(とが)らせた。
 高等遊民も部類分けにすると色々あるが、なかで法学士が一番多い。この七月には又ぞろこんな輩(てあひ)が東西の両大学から一千人近くもぞろ/\這ひ出して来るのだ。
 彼等は今から養子口と捌(は)け口(くち)とを同時に捜してゐるが、何処へ往(ゆ)くにも紹介人や保証人が無くてはならぬ今日(こんにち)、一度出た門を急に後退(あとかへ)りをして厄介ついでに成るべく人の好ささうな教授連に紹介やら保証やらを頼み廻つてゐる。
 京大の跡部(あとべ)博士なども、
「保証人になつたからといつて、証書に書いてある通りの責任を負はなければならぬものなら、自分の伜(せがれ)の保証人になる者もあるまいて。保証書にあるやうな責任は負はない積りでこそ保証人にはなれるのだ。」
と言つて、頼まれると二つ返事でべたべたと印を捺(お)してゐる。
 それで好(よ)いさ、それで好(よ)いさ。実際保証書などはそれで好(よ)いが、どうか学問だけはよく吟味して教へて欲しいものだ。


油が足りない

7・29(夕)
 石油王ロツクフエラアが、ある時自動車に乗つて出掛けようとすると、直ぐ側(そば)に何家(どこ)の児(こ)とも知れない六歳(むつつ)ばかりの小娘が立つてゐて、この富豪(かねもち)の顔をしげしげと見てゐるのに気がついた。
 一体富豪(ものもち)といふものは、十人が十人石のやうに冷たい顔をしてゐるもので、平素(ふだん)人形や阿母(おつか)さんやの莞爾(にこ/\)した顔を見馴れてゐる子供にとつては、まるで別世界の感じがするに違ひない。
「叔父(をぢ)ちやん、何処へ往(ゆ)くの、自動車へ乗つて。」
 子供は不思議さうに訊いた。もしか同じ問が紐育(ニユーヨーク)の新聞記者からでも訊かれたのだつたら、ロツクフエラアは急に感冒(かぜ)をひいたやうな顔をして、大きな嚏(くさめ)でもしたのだらうが、相手が可愛(かあい)らしい子供だけに、にこ/\して、
「さあ、何処へ出掛けようね。叔父さんは寧(いつ)そ天国へでも往(ゆ)きたいんだが。」
と、いつもに似げなく冗談口をきいた。
 子供はそれを聞くと、吃驚(びつくり)したやうに眼を円(まる)くした。そして気の毒さうに言つた。
「お止(よ)しなさいよ、叔父ちやん。天国へ行(ゆ)くには油が足りない事よ。」
「さうか油が足りないか。」
 ロツクフエラアは子供の言つた事を繰返し/\、首を縊(し)められた家鴨(あひる)のやうな顔をして、暫くは其処(そこ)に衝立(つゝた)つてゐたさうだ。
「天国へ往(ゆ)くには油が足りない。」
 子供といふものは巧(うま)い事を言ふものさ。富豪(かねもち)はどこの国でも皆(みんな)油の足りない連中許(ばかり)だ。


男女の幽霊

7・30(夕)
 ある男が寺へ泊つた事があつた。夜が更けて眼が覚めてみると、誰だか障子の外でひそ/\話をしてゐるのが聞える。気になるものだから、起き上つて窓から見ると、あかるい月明りの下に男と女とが立つてゐる。男は二十四五の、草臥(くたび)れたやうな顔、女は六十ばかりの皺くちやな媼(ばあ)さんで、談話(はなし)の模様でみると、親子といふやうな調子があつた。
 男は幽霊か知らとは思つたが、それにしても二人の年齢(とし)が一向合点(がてん)が往(ゆ)かないので、その儘(まゝ)夜明(よあけ)を待つた。東が白(しろ)んでから、二人が立つてゐた附近(あたり)へ往つてみると、小さな合葬の墓があつて無縁になつてゐる。訊いてみると、墓の主人(あるじ)は大分以前二十四五で亡くなり、その女房は久しく生き延びて、洗濯婆(せんだくばゞ)となつて暮しを立ててゐたが、二三年前に六十幾つかで死んだのでここに合葬したのださうだ。
 それを聞いた寺の住職は、
「無縁だし、加之(おまけ)に月がよいので、二人とも遊びに出たのだつしやろ。」
と言つてゐたが、二人とも丁度亡くなつた年齢(とし)相応の姿をしてゐたのには笑はずには居られなかつた。
 男にせよ、女にせよ、連添(つれそひ)に死別れてから、四十年も生き延びてゐると、色々(いろん)な面白い利益(ため)になる事を覚えるものだ。洗濯婆(せんだくばあ)さんだつて六十迄も存(ながら)へてゐるうちには大英百科全書にもないやうな智識も獲(え)たに相違ない。さういふ智識から見れば、二十四五で死んだ亭主は全(まる)で子供のやうで喰(く)ひ足りなかつたらうと思はれる。
 それを思ふと、情死(しんぢゆう)する場合の他は、相手に二世(せ)の約束だけはしない方がよい。多くの場合、女は男よりも長生(ながいき)をするものだが、来世で皺くちやな女の顔を見るのは、男にとつて胃の薬を飲むよりも辛(つら)いものだ。だが、それよりも辛いのは、色々(いろん)な事を知つた女が、生(うぶ)で、無垢な昔馴染の男に出会つた時の事で、女はそんな時には、極(きま)つたやうに頭の地(ぢ)を掻き/\、その後昵懇(なじみ)になつた男の数を懐中(ふところ)で数(よ)みながら、
「もう何時でせうね。」
と時間を訊きたがるものなのだ。よく言つておくが、女が時計の針を気にするのは、大抵逃げ出したい時に限る。


 マベル・ボードマン嬢といふのは、米国の赤十字社でちやき/\の働き手だが、嬢の意見によると、赤十字の勤務(つとめ)は、ひとり戦時のみでなく、平常(ふだん)の衛生状態をも、もつと立派にし、そして出来る事なら天国へ送る死人の健康状態をも申分の無いものに仕(し)なければならないのださうだ。
 嬢は先頃南米地方へ旅行をした事があつた。その折ある地方で、皮膚(はだ)の赤茶けた土人が、地面(ぢべた)に蹲踞(はひつくば)つて玉蜀黍(たうもろこし)の煙管(パイプ)で脂(やに)くさい煙草をすぱすぱやつてゐるのを見かけた。
 ボードマン嬢は雌狗(めいぬ)のやうに鼻を動かした。そして言つた。
「爺や、お前そんな脂臭い呼吸(いき)をして天国へ往けるとお思ひかい。」
「ひひひ……」と土人は歯の抜けた口で笑ひ出した。「脂臭(やにくせ)え呼吸(いき)だと言はつしやるが、おいら死ぬ時や呼吸(いき)引き取りますだよ。」
 むかし道命(どうみやう)といふ名高い坊さんがあつた。怖ろしく声の美(い)い人で、お経を誦(よ)むと、その調子が自然に律呂(りつりよ)に合(かな)つて、まるで音楽でも聴くやうな気持がするので、道命が法華(ほつけ)を誦むとなると、大峰(おほみね)から、熊野から、住吉(すみよし)から、松尾(まつのを)から色々の神様が態々(わざ/\)聴きに来たものだ。そんな折には、道命は一寸後を振り向いてみて、
「今日も神様が来てるな……」
と、得意になつて一段と声を張り上げたものださうな。
 道命は和泉式部と好(い)い仲だつた。(道命だつて男だから女を愛するのに不思議はないが、僧侶(ばうず)といふ身分に対して稍(ちと)不都合だと思われる向(むき)は、どうか成るべく内聞にして置いて欲しい。道命も名僧だし、和泉式部も聞えた歌人(うたよみ)の事だから。)ある夜式部の家(うち)で寝て、翌(あく)る朝何喰はぬ顔で寺へ帰つて、例(いつも)のやうに法華を誦みにかゝつた。
 ふと後方(うしろ)を振り返つてみると、いつも見馴れた立派な神様達の代りに薄汚い乞食のやうな仏様が一人居る。道命はお経を誦みさして訊いた。
「貴方は誰方(どなた)ですかい。」
 仏様は一寸お辞儀をした。
「私は五条西洞院辺(にしのとうゐんへん)にゐる仏ぢやが、つね/″\評判のお前様の読経を聴きたい/\と思つてゐたが、平素(ふだん)は梵天帝釈(ぼんてんたいしやく)などのお入来(いで)があるので遠慮してゐた。所が今日はお前様の身体(からだ)が汚(けが)れてゐるから、他様(ほかさま)はお出でがない、そこで遣(や)つて来ましたぢや。」
 成程気がついてみると、道命は前の夜和泉式部と好(い)い事をした口を、その儘(まゝ)灑(すゝ)がないでお経を誦んでゐたのだつた。


 ある時門司(もじ)で若い芸妓(げいしや)が病気で亡くなつた。流行(はやり)つ妓(こ)だけあつて、生きてゐる間(うち)には、色々(いろん)な人に愛相(あいそ)よくお世辞を言つてゐたが、亡くなる時には誰にも相談しないでこつそり息を引取つた。
 枕許(まくらもと)に坐つて看護をしてゐた妹芸者が、何か言ひ残す事は無いかと訊(たづ)ねると、
「三毛猫を空腹(ひもじ)がらさんやうに頼みまつさ。」
と言つて寂しさうに笑つた。呉々(くれ/″\)も言つておくが、その芸者が最後まで気にかけてゐたのは、三毛猫の事で、贔屓筋(ひいきすぢ)のお医者さんや、市会議員を空腹(ひもじ)がらせるなと言つたのでは更々ない。
 その事が土地の新聞に載つたのがふとした事で俳優(やくしや)の鴈治郎の目に止つた。鴈治郎はその折玉屋町(たまやまち)の自宅で、弟子に按摩(あんま)を揉(も)ませながら新聞を読んでゐた。で、その芸者の亡くなつた記事が目につくと「呀(あ)」と言つたが、直ぐ顔を揚げて忰(せがれ)の長三郎を呼んだ。
「長公、長公は居やへんか。」
 長公は隣の室(へや)から返事をした。
「何や、阿爺(おとつ)さん。」
 鴈治郎は声のする方を覗き込むやうに一寸首を伸ばした。
「そこに居よつたんか。お前あの門司の△△はんと関係があつたんやろ。そやなあ。」
 長三郎は他事(ひとごと)でも訊かれたやうな軽い調子で答へた。
「ふん、関係しとつた。何(ど)うしたんや、それが。」
「△△はん、死によつたぜ。」
「さよか。」
 長三郎は起き上らうともしなかつた。彼は腹這(はらばひ)になつて、舶来の玩具(おもちや)を弄(ひね)くつてゐるのだ。
 親子が顔をも赧(あか)めないで、平気で自分の情事(いろごと)を話し合つてゐるのが俳優の家庭である。舞台で人生を演活(しいか)すためには、平素(ふだん)からかうした囚(とら)はれない情態が必要なのか、それとも舞台の心持が家庭生活にまで伝染(うつ)つてゆくのだらうか。
 孰方(どちら)とも真実(ほんとう)だらう。そしてもつと真実(ほんとう)なのは、親子のどちらもに取つてこれが一番都合がよいからであらう。


 七月三十一日午後六時過(すぎ)の事、阪神電車の梅田停留場から神戸行の電車に乗込んだ。鈴(ベル)が鳴つて電車がこれから出かゝらうとした時、席の真中程から慌(あわたゞ)しく衝立(つゝた)ち上つた若い男がある。
 その男は目敏(めさと)く自分の両側を見渡した。
「何(ど)うだ。みんな野郎ばかりだ。女気(をんなけ)といつたらこれつぱかしも居やしない。」
と誰かに話しでもしてるやうな調子で、
「次ぎを待たう、次ぎまで待たなくつちや仕方が無い。」
と言ひ捨ててあたふた下りて往つた。
 皆は気が注(つ)いたやうに車(カア)のなかを見渡した。成程男ばかりだ。揃ひも揃つて、安つぽい顔に安つぽい帽子を被(かぶ)つた男ばかりだ。
「成程野郎ばかりだな。はゝゝ……」
 誰かが詰らなささうに笑つたが、それでも誰一人続いて下りようとはしなかつた。
 下りた男は何所(どこ)の誰か判らない。女が好きなのか、男が嫌ひなのか、それも判らない。次ぎの電車で望み通りに若い美しい女と差し向ひに坐る事が出来たらうか、それもまた判らない。
 女は教会へ往(ゆ)くにも、地獄へ落ちるにも好(い)い道連(みちづれ)たるを失はない。真実(ほんと)の事をいふと、始終(しよつちゆう)一緒に居ても厄介なものだが、さうかと言つて、離れても居られないのが女の取柄である。
 男ばかりの電車は、少し逆上気味(のぼせぎみ)で獣(けもの)のやうに風を切つて飛んだが、漸(やつ)と大物(だいもつ)まで来て一人の女を乗せる事が出来た。女といふのは、四十近(ちか)い、四角い顔をした、愛国婦人会の幹事でもしさうな女だ。
 辛抱するさ、婦人会の幹事でも女には相違ないのだから。


 英国の文豪キプリングが、ある時米国の雑誌が見たいから、五六種送つて欲しいと、紐育(ニユーヨーク)にゐる友達の許(とこ)へ頼んでよこした事があつた。
 米国の雑誌はいづれも広告の頁(ペエジ)がどつさりあるので、知られてゐる。キプリングの友達は、幾らか郵税を倹約(しまつ)したい考へから、広告の頁だけ引裂いて、残つた内容を一纏(まと)めにして送つて寄(よこ)した。
 キプリングは包みを解(ほど)いてみると、雑誌はみんな広告の頁だけ引き裂かれてゐる。何故だらうとキプリングは小首を傾(かし)げたが、それが郵税の節倹(しまつ)からだと聞いて、文豪は蟹のやうにぶつぶつ憤(おこ)り出した。
 キプリングの言ひ条では、米国の雑誌は広告欄が面白いので取柄がある。内容と広告と孰方(どちら)に新知識が多いと訊かれたら、誰だつて選択に迷はない筈だ。
「そんなに郵税が節倹(しまつ)したかつたら、内容の方だけ引裂いて呉れればよかつたに。」
と、友達まで不平を申込んださうだ。
 世の中には米国の雑誌みたいな人も少くない。法隆寺にゐる北畠男爵などはその一人(にん)で、暴風(あらし)のやうなあの人一流の法螺(ほら)は一寸困り物だが、夏帽だけはパナマの良いのを着けてゐる。もしかキプリングの友達のやうに、郵税を節倹(しまつ)しなければならないとすると、「男爵」は捨ててしまつても、あの帽子だけは撰びたいものだ。


食物と格言

8・4(夕)
 むかし滝川(たきかは)雪堂といふ男が百人組の頭(かしら)になつて、当直の行厨(べんたう)につかふ食器を新しく拵(こしら)へた。その蓋(ふた)に食事をする度(たび)に、見て心得になるやうな文句を書いて欲しいと、学者の大郷(おほがう)信斎に頼んで寄(よこ)した。信斎は佐藤一斎等(ら)の先輩で、鯖江(さばえ)侯のお抱へ儒者であつた。
 信斎は自分の学問の底を叩(はた)いて、色々利益(ため)になりさうな名句を拾ひ集めては比べてみたりした。そして漸(やつ)と出来上つたのが、平(ひら)の蓋に、
「咬得菜根(さいこんをかみえば)百事可做(ひやくじなすべし)」
汁の蓋に、
「不素餐兮(そさんせず)」
飯の蓋に、
「粒々皆辛苦(りふ/\みなしんく)」
といふ固苦しい文字であつた。言ふまでもなく汪(わう)信民や、朱雲や、李紳の往事(むかしごと)から拾つて来て戒めたのだ。
 役人とか会社の重役とかの弁当箱には是非書いておきたいやうな文句だが、普通(たゞ)の人には一寸咽喉(のど)に支(つか)へさうで可(い)けない。こんな文句を毎日眼の前におきながら、弁当をぱくついてゐた雪堂といふ百人頭は性来(うまれつき)齦(はぐき)の勁(つよ)い、胃の腑の素敵に丈夫な男だつたらしい。
 そこへ持つて往(ゆ)くと、売酒郎※(「口+會」、第3水準1-15-25)々(ばいしゆらうくわい/\)が、所謂七重(へ)の絹で七度(たび)漉(こ)した酒を飲ませたといふ、東山の竹酔館は、表の招牌(まねきかんばん)も、
「この肆(みせ)の下物(かぶつ)、一は漢書(かんしよ)、二は双柑(さうかん)、三は黄鳥(くわうてう)一声(せい)」といふ洒落た文句で、よしんば摘(つま)み肴(さかな)一つ無かつたにしろ、酒はうまく飲ませたに相違ない。
 飯を食ふにも、酒を飲ませるにも、それと一緒に想像を喰べさせなければ嘘だ。肉皿に新しい野菜と想像とを一緒に撮(つま)む事の出来る細君にして初めてお台所を委(まか)せる事が出来る。


 幸田露伴氏が今のやうに文字の考証や、お説教やに浮身(うきみ)を窶(やつ)さない頃、春になると、饗庭篁村(あへばくわうそん)氏などと一緒に面白い事をして遊んでゐた。
 それは他でもない、仲間が五六人行列を作つて、味噌を盛つた小皿を掌面(てのひら)に載せて野原に出る。そして真先に立つた一人が、其辺(そこら)の道傍(みちばた)に芽ぐんでゐる草の葉を摘むで、それに味噌をつけて食べると、後(あと)に続いた者は順繰(じゆんぐり)にその葉を摘取(つみと)つて食はなければならぬ。
 先達(せんだち)は仲間を懲らさうとして、態(わざ)と名も知らぬ草の葉に手をつけるが、それがどんな変てこな草だらうが、先達が食つたとあれば、仲間は厭(いや)でもそれを口にしなければならぬ。
 偶(たま)には見る/\先達(せんだち)の唇が腫上(はれあが)るやうな毒草にも出会(でくは)したが、仲間は滅多に閉口しなかつた。
「なに、文久銭と蟹の甲殻(かふら)の他だつたら、味噌さへ附ければ、どんな物だつて食べられまさ。」
 こんな事を言ひ合ひながら、負けぬ気になつて、味噌をつけてはばり/\毒草の葉を噛んだ。丁度後(のち)になつてどんな物事にも理窟をつけては嚥(の)み込み嚥み込みするやうに。
 で、物(もの)の五丁も歩くと、今度は先達(せんだち)を代へて、また同じやうな事を繰返すのだ。間(ま)の悪い日になると夕方家に帰る頃には、皆の両唇が腫(むく)み上つて碌(ろく)に物も言へなくなつたやうな事さへあつた。
「お蔭で食べられる草と、食べられない草との見別(みわけ)はちやんと附くやうになりました。」
と露伴氏は今でも言ひ/\してゐるが、真実(ほんと)に結構な事さ。
 人間はひよつとした神様の手違(てちがひ)で、後の世に牛か馬かに生れ代る事が無いとも限らないのだから。


殿様の臍(へそ)

8・6(夕)
 ある薩摩の殿様に、九十を過ぎても色々の道楽に憂身(うきみ)を窶(やつ)さないでは居られないやうな達者な人があつた。
 数(かぞ)ふる道楽のうちで、殿様は一番変り種の小鳥や獣(けもの)が好きで、自分の力で手に入れる事が出来る限り、いろんな物を飼つて娯(たの)しんでゐた。
 英雄僧マホメツトも甚(ひど)く小猫を可愛(かあい)がつたもので、ある日なぞ衣物(きもの)の裾に寝かしておくと、不意に外へ出掛けなければならない用事が持ち上つた。だが可愛い猫は起したくなしといふので、わざ/\大事の衣物(きもの)の裾を剪刀(はさみ)でつみ切つて起(た)ち上つたといふ事だ。
 政治家のリセリウもまた愛猫家として聞えてゐるが、死ぬる時には遺言で、莫大の遺産金まで猫に呉れてやつた。猫がその遺産金を何(ど)う費(つか)つたかは、自分がその相談に与(あづか)らなかつたから、よくは知らないが、唯愛国婦人会や赤十字社に寄附しなかつた事だけは事実らしい。
 薩摩の殿様は、ある日籠のなかから、栗鼠(りす)と梟(ふくろ)とを取出させて喧嘩をさせてみた。栗鼠も梟も詮事(せうこと)なしに喧嘩をおつ初めたが栗鼠はふだん殿様が自分を可愛(かあい)がつて呉れるのは、自分の芸が見たいからだらうと思つて、籠のなかで飜斗返(とんぼがへ)りばかり稽古してゐたので、こんな喧嘩にはすつかり用意が欠けてゐた。で、梟のために散々に啄(つゝ)かれた。
 栗鼠は逃足になつて、いきなり殿様の懐中(ふところ)に飛び込んだが、悔(くや)しまぎれに厭といふ程主人の臍を噛んだ。
 殿様はその故(せゐ)で四五十日ばかり傷療治をしなければならなくなつたが、傷が治つた後(あと)でも、別段賢くはなつてゐなかつた。賢くなるには余りに齢(とし)を取り過ぎてゐたから。老人(としより)といふものは、こんな場合にも、栗鼠が狂者(きちがひ)だつたとか、臍がうつかりしてゐたとか、得(え)て言訳をしたがるものなのだ。


醜男(ぶをとこ)

8・8(夕)
 女流文学者として盛名を伝へられてゐる某女史が、一夏(ひとなつ)男の友達五六人と、信州辺のある山へ避暑旅行を企てた事があつた。
 東京を立つて初めての夜(よ)、一行は山の上の旅宿(はたごや)で泊る事になつた。旅宿(はたごや)には大きな部屋が無かつたので、一行は廊下を隔てた二つの室(へや)に分宿しなければならなかつた。
 女流文学者は、
「あたし女の事で、草臥(くたびれ)てますから、お先へ失礼します。」
と言つて、皆の食事が済むか済まないうちに、一つの蚊帳(かや)に入つてしまつた。
 男達五六人のなかに、一人の美男子(びだんし)と一人の醜男とが交(まじ)つてゐた。顔の見つともないのは、頭の悪いのと同じやうに恥づべき事で、葛城(かつらぎ)の神様などは、顔が醜いのを恥(はづか)しがつて、夜しか外を出歩かなかつたといふ事だ。それだのに一人の醜男は無遠慮に皆と同じやうに口を開(あ)けて食つたり笑つたりしてゐた。
 女流文学者はそれを心憎い事に思つた。そして出来る事なら、自分と同じ蚊帳には、片つ方の美男子を寝させたいものだと思つた。
 女流文学者はいつの間にかぐつすり寝込んだ。そして夜半過(よなかすぎ)に眼をさまして見ると自分の次ぎの床には、例の醜男が口をあんぐり開(あ)けて眠つてゐた。女流文学者は毎月晦日(みそか)には定(きま)つて厭世観を起す例になつてゐるが、然(しか)しこの瞬間ほど世の中を厭に思つた事はない。
 女流文学者は信州の山から下りて来ると、中(ちゆう)つ腹(ぱら)の気味で、
「私が醜男を避けて、美男子と一つ蚊帳に居たいと思つたのは、好色の念からでせう。ですが、恋愛は非難される場合もありませうけど、好色は美に伴ふもので、結構な事だと思ひますよ。」
 と言ひ言ひしてゐる。
 何も心配する事はない、好色は結構な事さ。油断すると醜男が同じ蚊帳に寝てるやうな、儘(まゝ)ならぬ世の中だ。好色位結構な事にしておくさ。


 ケエリイ・トオマス嬢といへば、かなり聞えた女博士(をんなはかせ)で、今は威耳斯(ヱールズ)のブラン・モウル大学の校長を勤めてゐる。
 トオマス嬢はある日の夕方(ゆふかた)美しく刈込まれた学校の校庭(カムパス)を散歩してゐた。晩食(ばんめし)は消化(こなれ)のいゝ物でうまく食べたし、新調の履(くつ)は繊細(きやしや)な足の裏で軽く鳴つてゐるので、女博士(をんなはかせ)はすつかりいい気持になつた。そして出来る事なら天国へ往(ゆ)く折にも、こんな消化(こなれ)のいい物を食つて、こんな軽い履(くつ)を穿(は)いてゐたいと思つた。
 だしぬけに寄宿舎の一室(ま)からけたたましい騒ぎが聞えた。拍手の音さへそれに交(まじ)つてゐる。
「何事だらう。」
と女博士(をんなはかせ)は静かな眉尻に一寸皺を寄せた。そして天国の黄金(きん)の梯子(はしご)でも下りるやうな足つきをしてかたことと廊下を歩(あゆ)んで、騒ぎの聞える一室の前に立つた。
 トオマス嬢はとん/\と扉(と)を叩いた。
「どなた。」
 内部(なか)から誰かが訊いた。
「It(イテ) is(イス) me(ミイ). ミス・トオマスですよ。」
と博士(はかせ)は静かに返事をした。
「違つてよ。」となかから突走(つつぱし)つた声が聞えた。「トオマス博士(はかせ)だつたら、『It(イテ) is(イス) me(ミイ)』なんて仰有(おつしや)らずに、『It(イテ) is(イス) I(アイ)』と仰有つてよ。」
 女博士(をんなはかせ)は困つたなと思つてその儘(まゝ)そつと逃げ出さうとしてゐると、内部(なか)から扉(と)が開(あ)いて悪戯盛(いたづらざか)りの女学生が「ばあ」と言つて顔を出した。
 岩野清子のやうに、自分の離婚問題にも、婦人全体のためだと気張つてゐる女は、かういふ折には屹度(きつと)「We(ヰイ)」とでも言ふだらう。ああいふ女は、物を考へる折には「私(わたくし)」といふ事を忘れて、新聞の論説などと同じやうに「We」といつて考へ出すことになつてゐるから。


儒者の独身

8・10(夕)
 西依(にしより)成斎は肥後生れの儒者で、京都の望楠書院で鳴らし、摂津の今津(いまづ)へも十年ばかり住むでゐて弟子取(でしとり)をしてゐたので、京阪(かみがた)ではよく名前が通つてゐる。
 その成斎の弟子に、度々(たび/\)色街へ出掛けて、女狂ひに憂身を窶(やつ)してゐる男があつた。いろ/\と両親が異見をしてみても、一向効力(きゝめ)が無いので、
「一つ先生様の御力で……」
といふ事になつた。
 成斎はその弟子を呼びつけた。そしてたつた今朱文公に会つた帰(かへ)り途(みち)だといふやうな生真面目な顔をして、
「お前はこの頃頻(しきり)と色町に出浮(でう)くさうだが、怪(け)しからん事だ、以後は屹度(きつと)慎んだがよからう。」
と高飛車(たかびしや)に叱りつけた。
 弟子は先生の剣幕のひどいので、両手を膝の上に揃へて、鼠のやうに縮み上つてゐると、成斎は変な眼つきをしてその手首を見つめた。若い弟子の手首は妓(をんな)の握り易いやうに繊細(きやしや)に出来てゐた。
「廓通(くるわがよひ)といふものは、第一金が掛るばかしでなく、身体(からだ)の養生にならない。俺(わし)などはそんな遊びを止(や)めてから、今年でもう廿年にもなるが、その故(せゐ)かしてこんなに達者になつた。」
と言つて、先生は大きな両手を、弟子の鼻先でふり廻してみせた。成程腕(うで)つ節(ぷし)は勁(つよ)さうに出来てゐるが、その二十年といふもの、金なぞたんまり握つた事の無ささうな掌面(てのひら)だなと弟子は思つた。
 弟子は怖(おそ)る/\先生の顔を見た。
「有難うございました。お言葉は夢にも忘れないやうに心掛けませう。」といつて叮嚀にお辞儀をした。
「で、一寸伺ひますが、先生は当年お幾つでいらつしやいます。」
 成済は案外叱言(こごと)の効力(きゝめ)が早かつたのと、自分の達者な腕つ節に満足したらしく、声を揚(あ)げて笑つた。
「俺(わし)かの、俺(わし)は当年九十三になる。」
「してみると……」
 弟子は先生が道楽を思ひ止つたといふ二十年前の齢(とし)を繰つてみた。そして眼を円くして驚いた。言ひ忘れたが、成斎は生涯独身で暮した男である。


クンカン

8・11(夕)
 亡くなつた上田敏博士は晩年、京都知恩院境内の源光院にある広岡氏の別荘に間借をして住んでゐた。
 その広岡氏と博士とがある時祇園の大友(だいとも)へ遊びに往つた。大学教授には二種(いろ)あつて、一種(いろ)は芸者を女中のやうに「お前」と呼びつけ、一種(いろ)はお嬢さんのやうに「あなた」と言つてゐる。博士は後者の方で、どの芸者をも「あなた」呼ばはりをするので、芸者の方でも「敏(びん)さん/\」と近しくなつてゐた。
 その頃から少し加減の悪くなつてゐた博士は一足先きへ帰つた。夜半(よなか)過ぎ広岡氏が宅(うち)へ帰つてみると、博士はまだ起きて東京にゐる瑠璃子さんに手紙を書いてゐた。
 博士は階段(はしご)から顔を覗(のぞ)けた広岡氏を振りかへつた。
「まあ、お上りなさい。私が帰つてから何かはずみましたか。」
 広岡氏はのこ/\上つて博士の前に坐つた。
「奮(はず)みましたとも。あれから妓(こども)達と一緒にクンカンなんか行(や)りましてね。甚(ひど)く躁(はしや)ぎましたよ。」
 博士は「クンカン?」といつて、一寸小首を傾(かし)げたが、その儘(まゝ)起上(たちあが)つて書棚から新版の辞書を引下(ひきおろ)して来た。そして物の十五分も黙りこくつてあちこちを繰つてゐたが、漸(やつ)と何か見つかつたらしく、上品な声で「はは……」と笑つた。実際上品な声で、古文書(こもんじよ)の入つた桐の箱が笑ひでもしたら、あんな声をするだらうと思はれた。
 博士は辞書を伏せて、
「クンカンぢやありません。カンカンですよ。あれはタンゴ踊(をどり)などと一緒に最新の流行ですが、もう日本に来てるとは驚きましたね。この次に往つたら是非見せて戴(いたゞ)きませう。」
 広岡氏は辞書といふものは色々(いろん)な事を教へて呉れるものだと感心した。そしてそれからといふものは博士の前では忘れてもクンカンの事は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)(おくび)にも出さないやうにしてゐた。祇園の芸妓(げいこ)は辞書と同じ物識(ものしり)だとも思へないのだから。


大発明

8・12(夕)
 三高教授の安藤勝(しよう)一郎(らう)氏は人も知る音楽学校の安藤幸子(かうこ)女史の亭主で、幸子女史と比べると、ずつと女性的の優しい顔立を持つてゐる。
 良人(をつと)は三高の語学教授で京都に住み、細君(かない)は音楽学校のヴイオロニストで東京に居るのでは、恰(まる)で七夕様のやうに夏休みを娯(たのし)む他には、いい機会もあるまい。寧(いつ)そ幸子女史が音楽の先生なぞ止(や)めてしまつて、京都へ来て世話女房になるか、それとも安藤氏が語学の教師を思ひ止(とゞ)まつて、東京へ帰つて、嬰児(あかんぼ)の守(もり)でもするか、二つに一つ、どちらかに決めて了(しま)へば可(よ)かりさうなものだのにと飛んだおせつかいを言つてる向(むき)も無いではない。
 だが、心配するが物はない。必要は色々な事を教へるもので、安藤氏夫妻はこの頃になつて素晴しい発明をした。実際驚くべき発明で、こんな発明が猿のやうな日本人の頭から生れようとは、どんな国贔屓(くにびいき)の人達(ひとだち)でも思(おも)ひ懸(が)けなかつた事だらう。
 発明とは他でもない。汽車を利用する事で、安藤夫妻は、毎週土曜日の課業が済むと、一人は京都から、一人は東京から汽車に乗つて、静岡で落合ひ、日曜日一日を思ふ様(さま)楽しく過して月曜日の朝までにはそれぞれ学校へ帰り着くといふ寸法だ。「日曜日」と「汽車」とは電話や巡査(おまはり)さんと同じやうに、幾ら利用しようとも利用し過ぎるといふ法はないのだから。
 恋をするものにとつて、こんな結構な媒介(なかだち)があらうか、それを思ふと、今日まで兵隊や氷詰(こほりづめ)の魚ばかし輸送してゐたのは勿体ないやうな気持がする。それから、これは極(ごく)内々(ない/\)の話だが、汽車には寝台車といふものがあつて、相当の料金さへ出せば、誰にも顔を見られず、一人で帷(カーテン)のなかで思ひ出し笑ひが出来る仕掛になつてゐるさうだ。有難い世の中さ。


紋どころ

8・13(夕)
 紋所といふもの、もとは車の紋から起きたといふ説があるが、真実(ほんとう)の事か何(ど)うか知らない。徳川家が葵(あふひ)を紋所に用ゐるやうになつたのにも、色々な伝説がある。
 酒井家の説によると、家康の祖父清康が岡崎にゐた頃戦(いくさ)があつた。酒井家の主人は気の利いた男だと見えて、円盆(まるぼん)に勝栗を盛つて主人の前へ差し出した。
 清康はそれをじつと見て、
「ほゝう、勝栗ぢやの、これは縁起がいゝ。」
といつて、硬(こは)つぱしい掌面(てのひら)にそれを取り上げたと思ふと、ばりばり音をさせて噛んだ。
 栗の下には葵の葉が二三枚布(し)いてあつた。その日の戦(いくさ)は無事に徳川家の勝となつたので、清康は記念に葵の葉を紋所に使ふやうになつたといふのだ。
 本多家ではまた異(ちが)つた伝説を持つてゐる。本多家の祖先某(なにがし)はもと加茂の社家(しやけ)であつたが、豊後の本多荘(ほんだのしやう)に流されたので、本多を名乗るやうになつた。
 加茂の社家だつただけに本多家では二葉葵を紋所に使つてゐると、それを清康が見て、
「いゝ紋ぢや、俺の家(うち)で使ふ事にしよう。」
と言つて勝手に取り上げて了(しま)つた。もと/\加茂の二葉葵には長い葉茎(はぐき)がくつ附いてゐるのだが、清康はそんな物は無益(やくざ)だといつて摘み切つてしまつた。家康の祖父(ぢい)さんだけにこんな事にも吝(しみ)つたれだつたと見える。
 ラフカヂオ・ヘルン又の名小泉八雲氏は時偶(ときたま)日本服を着る事があつたが、羽織の紋にはヘルンといふ自分の名からもじつて蒼鷺(ヘロン)をつけてゐた。鷺はヘルン氏の紋として恰好な動物であつた。
 京都にある若い画家(ゑかき)があつた。画(ゑ)が拙(まづ)かつた故(せゐ)か、度々(たび/\)女に捨てられた。だが、何(ど)うしても絶念(あきら)められなかつたと見えて、羽織の紋所には、捨てられた女五人の名前を書き込んで平気でそれを著(き)てゐた。羽織は最初に見捨てた女が拵(こさ)へてくれたので、地(ぢ)は薄かつたが、女の心よりは長持もしたし、値段も幾らか張つてゐた。


男装婦人

8・14(夕)
 獅子や驢馬(ろば)と共同生活を営んでゐた仏蘭西の女流画家ロザ・ボナアルは、何処に一つ女らしい点(ところ)のない生れつきで、夕方(ゆふかた)野路(のみち)でも散歩してゐると野良(のら)がへりの農夫達(ひやくしやうだち)は、
「へい、檀那様、今晩は。」
と丁寧にお辞儀をして、別れ際に後(あと)をふり回(かへ)つて、
「あの小柄な檀那衆はいつも今時分此辺(こゝいら)を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊、第3水準1-84-32」)(ぶらつ)いてるな。」
と朋輩に言ひ言ひしたものださうな。
 米国にメエリイ・ヲルカアといふ有名な婦人がある。この婦人は他の事でもつと聞えてもよいのだが、幸(しあはせ)か不幸(ふしあはせ)か、いつも男装をしてゐるので、それで一層名高くなつてゐる。
 なぜ男装してゐるかに就いて、この婦人の答(こた)へは至極(しごく)はつきりしてゐる。
「私にとつては女着(をんなぎ)の袴(はかま)よりも、ヅボンの方がずつと気持がよござんすから。」
 尤もな理屈で、かういふ勇気のある婦人は、素足がヅボンよりも気持がいゝ事を知つたら、思ひ切つてそのヅボンをも脱ぎ捨てるかも知れない。
 ある時この婦人がマサチウセツツの某市(なにがしまち)へ旅をした事があつた。途中で道を迷つて甚(ひど)く当惑してゐるところへ、農夫(ひやくしやう)が一人通りかゝつた。農夫(ひやくしやう)といふものは、どんな時にでも、どんな所へでもよく通りかゝるもので、基督がお説教をしたがつてる時にも、追剥(おひはぎ)が物を欲しがつてる所にも得(え)て農夫(ひやくしやう)がそこへ通り合はせる。そして霊魂(たましひ)を奪(と)られたり、外套を引(ひ)つ剥(ぱが)されたりする。農夫(ひやくしやう)といふものは、四福音書へ出るにも、探偵小説へ出るにも、極(ごく)日当が廉(やす)くて、加之(おまけ)に物が解らないから手数(てすう)が掛らなくていゝ。男装婦人はその農夫(ひやくしやう)に訊いた。
「一寸お訊ねしますが、某市(なにがしまち)へはこの道を往(ゆ)きますか。」
「あゝ、おつ魂消(たまげ)た。」農夫(ひやくしやう)は眼をこすり/\言つた。「俺(おら)はあ、何にも知んねえだよ。お前(めえ)様のやうな女子(あまつこ)みたいな男初めて見ただからの。」
 折角柔かい乳房を持ちながら、男のやうな硬い考へ方をする婦人(をんな)がある。正直な農夫(ひやくしやう)め、そんなのを見たら、どんなに言ふだらう。


 蕪村の画(ゑ)の門人に田原(たはら)慶作といふ男がある。ある日日の暮(く)れ方(がた)に師匠を訪ねると、蕪村の家(うち)では戸を締め切つてゐる。宵(よひ)つ張(ぱり)の師匠だのに、今日に限つて早寝だなと慶作は思つた。(蕪村が宵つ張なのに何の不思議もない筈だ、彼は画家(ゑかき)であると共に、夜更(よふか)しが附物(つきもの)の俳諧師でもある。よしんば俳諧師でなかつたにしたところで、文部(もんぶ)留学生の洋画家が、昼間はカルチエル・ラタンの居酒屋と球突(たまつき)屋で暮し、夜になつて漸(やつ)と絵具箱を担(かつ)ぎ出すのが多いのを見ると、蕪村にしても夜画(ゑ)をかいたかも判らないのだから。)
 慶作は出直さうと思つて、逡巡(もぢ/\)してゐると、寝鎮まつた筈の家の中から、ぱた/\物を叩(はた)く音がして折々何か掛声でもするらしい容子(ようす)がある。
「怪体(けつたい)やな。一遍訊いてみよか。」
 慶作はとんとんと表戸(おもてど)を叩いてみた。
 すると、内(なか)から「どなた?」といふ声がして、扉(と)は静かに開けられた。確(たしか)に蕪村の声に相違ないので、慶作は不審しながら、入つて往(ゆ)くと、其辺(そこら)ぢゆうに箒(はうき)や塵掃(はたき)がごた/\取り散らされて、師匠はひとりで窃々(くす/\)笑つてゐる。
 理由(わけ)を訊くと女房と娘とは女中を連れて逗留(とまり)がけで里へ帰つた。その留守事(るすごと)に一寸芝居の真似をしてゐたのださうな。
「こなひだ、芝耕(しこう)の芝居を見て、すつかり感じたもんやさかい、ちよつくら真似てみたが、なか/\出来(でけ)よらんわい。」
 蕪村は声を出して笑つた。
 京都大学のある法学者は、家族がみんな不在(るす)になると、すつくと逆立になつて、書斎からのそり/\這ひ出して来て、玄関から台所まで一廻り廻つて来る癖がある。法学者だけにこの男も色んな事に理窟をつけないでは承知しないが、たつた一つこの逆立だけには理窟をつけてゐない。理窟が無い筈だ、本人の積りでは逆立は芸術ださうだから。
 男といふものは、女房の居る前では公然(おおぴら)に行(や)りかねる「芸術」をそれ/″\もつてゐるものだ。芝居の真似事だらうが、逆立だらうが、女房(かない)が不在(るす)になつたら、さつとお浚(さら)へをするが可(い)い。――これは女にしても同じ事だが、女はかういふ時には、大抵パン菓子を食べるものらしい。それにしても立派な芸術だ。


お湯嫌(きら)ひ

8・19(夕)
 最近希臘(ギリシヤ)の各地方を巡遊して帰つて来た京都大学の浜田青陵氏は(幾ら古い物好きな浜田氏だつて、まさか希臘ばかしを見て来た訳では無からうが、希臘だけは幾度見て来たといつても差支(さしつかへ)ない)希臘ほど失望させられた土地(ところ)はない、那地(あすこ)は唯想像でだけ楽しむでゐればいゝ国だと甚(ひど)くこき下(おろ)してゐる。
 浜田氏の言ふのによると、希臘には道路が無い、旅館が無い、山には樹が無い、河には水が無い。やつと旅屋(やどや)を見つけて、泊り込むと、直ぐと南京虫がちくちく螫(さ)しに来るので、迚(とて)も寝つかれない。留学費のなかから買込むだ大缶(おほくわん)の蚤取粉(のみとりこ)を、惜気(をしげ)もなくばら撒(ま)いてみたところで一向利き目が無い。
 それから今一つの難渋は洗湯(ゆ)の高い事で、入浴料が日本の貨(かね)で一円二三十銭。浜田氏の白状によると、氏は二ヶ月余りの旅に湯に入つた事は唯の一回だけしか無かつたといふ事だが、それも真実(ほんとう)の事か何(ど)うだか判らない。もしか原勝郎(かつらう)君のやうな人が、
「なに、希臘では偉い学者はみんな湯に入らぬものなんだ。」
と言ひでもすると浜田氏はその口の下から、
「真実(ほんとう)は僕も一度だつてお湯に入つた事はなかつた。」
と白状するかも知れない。
 だから、希臘人といふ希臘人は皆(みんな)垢(あか)まみれで、側(そば)へ寄つてみると、(考古学者だつて、偶(たま)には活(い)きた人間の側に寄らないとも限らない)酸つぱいやうな匂ひがぷんとする。
「ソクラテスやアリストオトルも矢張あんな匂(にほひ)がしたかも知れないと思ふと厭になる。」
と浜田氏は鼻をしかめて厭がつてゐるが、そんなに厭がらなくともよからう。幾ら異教徒嫌ひの神様だつて、まさかソクラテスと浜田氏を同じ檻(をり)には打込(ぶちこ)むまいから。
 湯好きな日本人にも随分な湯嫌ひが居ない事はない。俳優(やくしや)の中村鴈治郎などもその一人で、彼はこの頃よく東京の劇場(こや)へ出るが、あの通りに白粉(おしろい)をべた塗りする職業(しやうばい)でありながら、一興行二十六日間一度だつてお湯に入る事はないさうだ。彼はそれが為(た)めに清潔好(きれいず)きな東京の女に嫌はれるかも知れないが、持つて生れた癖だけに平気で垢塗(あかまみ)れで通してゐる。


 むかし観世(くわんぜ)の家元に豊和(とよかず)といつて家の芸は素(もと)より、香聞(かうきゝ)にも一ぱし聞えた男がゐて、金春(こんぱる)流の某(なにがし)と仲がよかつた。で、閑(ひま)な折にちよい/\遊びに往(ゆ)くと、金春家では香好きな豊和への御馳走とあつて、いつも秘蔵の香を※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)(た)いたものだ。
 豊和はそれを嗅ぐたんびに、
「どうも素的(すてき)な香だ、何でも曰(いは)く附(つき)の物に相違ない。」
とは思つたが、迂濶に言ひ出して、主人に物惜みされても詰らないと思つて、態(わざ)と黙つてゐた。言ふ迄もなく、金春家の主人は香道には極(ごく)の素人で、今時(いまどき)の文学者と一緒に蚊取線香の匂ひを嬉しがる方の男だつた。
 ある時、香道の家元蜂谷貞重(はちやさだしげ)が江戸に下(くだ)つて来た。豊和は蜂谷の顔を見ると、懐中(ふところ)から懐紙に包んだものを取出して、蜂谷が生命(いのち)より大切(だいじ)の鼻を引拗(ひきちぎ)るやうにしてそれへ押しつけた。
「一寸聞いてみて呉れ給へ。実は先日(こないだ)から君が下(くだ)つて来るのを待ちくたびれて居たのだ。」
 包は豊和がこつそり金春家から取つて来た香炉の灰であつた。
 蜂谷は自慢の鼻を一寸その灰に当てがつたと思ふと、眼を円くして吃驚(びつくり)した。
「これあ君、赤栴檀ぢやないか、何(ど)うも素的なものを※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)いてるね。」
「え、赤栴檀だつて!」
 豊和はさう言ふなり、直ぐ表へ駈出して往つて金春家を訪ねた。
 豊和は何気ない振(ふり)で、色々と世間話を持出してゐたがふと思ひ出したやうな口風(くちぶり)で、
「時に近頃御無心の次第だが、先日中(こなひだちゆう)いつもお※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)きになつてゐたあの御秘蔵の香ですな、あれを少しばかり戴かれますまいかな。」
と切出してみた。
 金春の主人は金でも貸せといふのかと思ふと、香の話なので、
「いや、お安い御用で……」
と、その場で件(くだん)の香を小指の先ほど割つて呉れた。
 豊和はそれを左の掌面(てのひら)で戴いたと思ふと、しかと右の掌面(てのひら)で押へつけた。そして嬉しまぎれに大きな声で言つた。
「や、有難う。今だから言ふがこの香こそ名代(なだい)の赤栴檀だよ。」
「え、赤栴檀だつて。」
 金春家の主人はさう聞いて、直ぐ手を延ばして香を取り戻しにかゝつたが、豊和は敏捷(すばしこ)く内懐中(うちふところ)にしまひ込んでしまつた。
 骨董好きの富豪(かねもち)に教へる。いつ迄も秘蔵の骨董を失ふまいとするには、自分達の家族を成るべく物識(ものしり)にしておくが一番手堅い。


虫の声

8・21(夕)
 むかし公家(くげ)の某(なにがし)が死にかゝつてゐると、不断顔昵懇(かほなじみ)の坊さんが出て来て(医者が来るのが遅過ぎる時には、きつと坊主が来るのが早過ぎるものなのだ)枕頭(まくらもと)で珠数(じゆず)をさらさら言はせながら、
「早く念仏をお唱へなさらなくつちや。さもないと中有(ちゆうう)でお迷ひになるかも判らないから。」
と甚(ひど)く心配さうな容子(ようす)で、最後の念仏を勧めにかゝつた。
 看護(みはり)の者がべそを掻いたやうな顔をして、
「中有と申しますと……」
と訊くと、坊さんは嘘をつく者に附物(つきもの)の小鼻(こはな)を妙にぴくぴくさせて、
「広い荒野(あれの)でな、西も東も判りませんぢやて。」
と低声(こごゑ)で答へた。
 その談話(はなし)を苦しい間(なか)にも病人が洩聞(もれぎき)をした。病人は骨張つた顔を坊さんの方へ捻(ね)ぢ向けた。
「お上人(しやうにん)、そんな荒野(あれの)にも秋が来ますと、虫が鳴きませうな。」
 お上人は急に行詰(ゆきつま)つたやうな表情をして、てれ隠しに一寸空咳(からぜき)をした。無理もない、中有の野に虫が居るか居ないかといふ事は、どのお経にも書いてなかつた。お上人はもしか間違つてゐたら、お布施を返す積りで独断(ひとりぎめ)の返事をした。
「さやうさ、野といひますから、虫もゐるにはゐませうて。」
 公家は死顔に寂しさうな笑(ゑみ)を洩らした。
「虫さへ居る事なら、中有とやらに迷つてもいゝと思ひます。だからお念仏だけは申しますまい。」
 坊さんは苦笑ひをして口の中でぶつ/\言つてゐたが、病人はとうとお念仏の一遍も唱へないで亡くなつてしまつた。その中有の野とやらには虫が居たか居なかつたか、今だにはつきりしない。
 上田敏博士の追悼会(ついたうゑ)が先日(こなひだ)知恩院の本堂で営まれた時、九十余りの骸骨のやうな山下管長が緋の袈裟(けさ)を被(かぶ)つて、叮嚀にお念仏を唱へた。そしてその声一つで博士も浄土へ送り込まれたやうな顔をして入つて往つた。
 自分はそれを見た時、博士のやうな運命のために騙(だま)し打(うち)に遭つたものが、念仏の声位(くらゐ)で成仏出来るものかと思つた。よしまた成仏出来るにしても博士は成仏すまいと思つた。
 生前仏道は信じなかつたものの大学教授だつたから無切符で浄土へ入れると言ふかも知れないが、博士も矢張その公家と一緒に、虫の声に心を惹(ひ)かされてゐるに相違ない。


中橋氏と狸

8・22(夕)
 中橋徳五郎氏は頻(しき)りと狸の焼物を集めてゐる。京都の高台寺焼を始めいろんな瀬戸物屋へ自分で出掛けて往つて、狸だと見ると値段を問はず買ひ込んで来るので、今では百幾つも溜つてゐるといふ事だ。
 成程よく見ると、中橋氏の顔はどこか狸に肖(に)たところがある。さういつた所で何もむきになるにも及ぶまい。ソクラテスに「先生のお顔はブル・ドツグに肖(に)てますね。」といつた処で、まさか決闘を申込はしなかつたらう。それどころか、あの哲学者の事だもの、「そんな狗(いぬ)がどこに居るね。」とその足で直ぐ訪ねて往つて、幼昵懇(おさななじみ)のやうに狗と一緒に転げ廻つたかも知れない。
 中橋氏は実業家(氏は今ではもう政治家の積りかも知れない、恰(ちやう)ど水※(「萬/虫」、第3水準1-91-67)(やご)が塩辛蜻蛉(しほからとんぼ)になつたやうに)には珍しく書物(ほん)を読むが、狸にしても文字をよく知つてゐるのがある。むかし植木玉※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)(ぎよくがい)の親類に居た狸などはそのいゝ例である。
 この狸は家(うち)の者の見ぬ間(ま)には、下手な字で障子襖に皆の棚下(たなおろ)しをする。「誰こわくない」「誰少しこわい」といつたやうな調子で。ある時来客がその噂を聞いて能勢の黒札を狸が怖がる話をすると、いつの間にか後の障子に、「黒札こわくない」と書いてゐたさうだ。
 その家(うち)の女房(かみさん)が芝居の八百蔵(やほざう)が大の贔屓(ひいき)だつたが、その頃不入続きで悄気(しよげ)てゐると、狸は「八百蔵大(おほ)へいこ」と書いて済ましてゐたさうだ。――中橋氏の狸も例の金沢の選挙無効を聞いて「徳ちやん大あたり」と書く位の洒落気はあつてもよからう。


 先日(こなひだ)七十三の老齢(とし)まで女遊びをしたといふ西依成斎の事を書いたが、成斎の生れた家(うち)は、熊本在の水呑百姓で、両親は朝夙(はや)くから肥桶(こえたご)を担いで野良へ仕事に出たものだ。
 そんな間(なか)に育ちながら、成斎は野良仕事を助けようとはしないで、日がな一日青表紙に囓(かじ)りついてゐた。親爺(おやぢ)は幾度か叱り飛ばして漸(やつ)と芋畑に連れ出しはしたが、成斎は鼬(いたち)のやうにいつの間にか畑から滑り出して、自分の家(うち)に帰つてゐた。百姓だけに仇花(あだはな)は拗(ちぎ)つて捨てるものと思ひ込んだ親爺は、とうと成斎を家(うち)から投(ほ)り出す事に決めた。
 成斎は泣く泣く家(うち)を出たが、それでも出がけに節用集一巻を懐中(ふところ)に捻(ね)ぢ込む事だけは忘れなかつた。節用集といつただけでは今時の若い人には解らないかも知れない。ある大学生が国史科の教授に「先生、赤穂義士の仇討(かたきうち)といふのは一体京都であつた事なんですか、それとも東京なんですか」と訊いた事があつたといふ程だから、節用集といふのは今の小百科全書の事だと言ひ添へて置きたい。
 成斎はその節用集を抱へ込んで、狗児(いぬころ)のやうに鎮守(ちんじゆ)の社殿の下に潜り込んだ。そして節用集を読み覚えると、その覚えた個所(かしよ)だけは紙を引拗(ひきちぎ)つて食べた。書物(ほん)を読み覚える頃には、腹もかなり空いてゐるので、節用集はその儘(まゝ)飯の代りにもなつた訳だ。で、十日も経たぬ間(うち)に、とうと大部な節用集一冊を食べてしまつたといふ事だ。
 灰屋紹益(はひやぜうえき)は自分が生命(いのち)までもと思ひを掛けた吉野太夫が死ぬると、その骨(こつ)を墓のなかに埋(う)めるのは勿体ないからと言つて、酒に混ぜてすつかり飲み尽してしまつた。
 だが、かういふ事は余り真似をしない方がいゝ。今時の書物は鵜呑にすると、頭を痛めるやうに胃の腑を損ねる。それから女の骨(こつ)を飲むなどは以ての外で、七周忌目に箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)から、亭主をこき下(おろ)した日記を発見(めつけ)たからといつて、一度嚥(の)み下(くだ)した後では何(ど)うとも仕兼(しかね)るではないか。
 そして、そんな女なぞ居ないと誰が請合ふ事が出来るのだ。達(たつ)て嚥みたかつたら三周忌を過ぎてからでも遅くはない筈だ。


強制姙娠

8・25(夕)
 独逸では戦争から起る人口の減少を気遣つて、戦線に立つてゐる元気な壮丁(さうてい)に、時々休暇(ひま)を呉れて郷里(くに)に帰らせ、婦人(をんな)と見れば無差別に子種を植付(うゑつ)けようとしてゐる。
 先日(このあひだ)京大の松下禎(てい)二博士と大阪大学の木下東作博士とが或所で落合つた時、木下氏がこの話を持ち出して、
「まさかとは思ふが、真実(ほんと)か知ら。」
といふと、松下氏は自分が下相談にでも与(あづか)つたやうに、
「真実(ほんと)だともさ、実際行(や)つてるんだよ。」
ときつぱり答へた。
「でも。……」と木下氏は兎のやうな長い耳を一寸傾(かし)げた。「戦線に立つてる兵士の多くは女房(かない)や娘やを持つてるだらうが、自分の家族がそんな目に遭つてるのが黙つて辛抱出来るだらうか知ら。」
「それは出来ようともさ。国家の為(た)めだからね。」とこの齢(とし)まで細君をも迎へず、一人で研究室に閉ぢ籠つてゐる松下博士は、モルモツトの話でもしてゐるやうな平気な調子で言つた。「兎に角行(や)つてるのださうだ。」
「だが、まあ考へてみ給へ。」木下氏は大きな掌面(てのひら)で汗ばんだ鼻先を一気に撫で下した。鼻はその邪慳さに腹立(はらだち)でもしたやうに真赤になつた。「もしか自身に奥様(おくさん)やお嬢さんがあるとして、君はその人達(ひとだち)がそんな酷(ひど)い目に遭つてるのを平気で辛抱してゐられるかね。」
「さうさなあ」と松下氏は初めて気がついたやうに木下氏の真赤な鼻先を見つめた。そして「吾輩自身の事にしてみると……」と独語(ひとりごと)のやうに言つてゐたが、急に笑ひ出した。「成程こいつは迚(とて)も辛抱出来ないわい。してみると、独逸もそんな乱暴なことは行(や)つて居(を)らんかな。やつぱり噂だけで、真実(ほんとう)は行(や)つてないんだらうて。」
 学者に教へる。帽子を買ふ時には自分の頭に被(かぶ)つてみる。履物(はきもの)を買ふ時には自分の脚に穿(は)いてみる。そして男女問題は真先に自分の細君に当てはめて考へてみる事だ。唯こんな場合には醜(みつともな)い細君よりは美しい方がずつと恰好なものだ、丁度帽子を被(きせ)る頭は禿げたのよりも、髪の毛の長いのが恰好なやうに。


 ある婦人が市街(まち)を歩いてゐると、一人の男が横合(よこつちよ)から飛び出して来て、じつと婦人(をんな)の顔を見てゐたが、暫(しばら)くすると黙つて婦人の跡をつけた。婦人は立ち止つた。
「何故あなたは私に蹤(つ)いていらつしやるの、そんなにして。」
「何故つて……」男は一寸揉手(もみで)をした。「実をいふと、貴女(あなた)に惚れつちまつたのでさ。」
 婦人はそれを聞いてビスケツトのやうに乾いた唇を一寸へし曲げたが、直ぐ愛嬌笑ひをした。
「まあ、有難いわね。だが、一寸御覧なさい、あそこへ私の妹が来かゝつてるでせう。妹は私に比べると、それは美しいんですよ。同じ手間なら貴方(あなた)、妹にお惚れなすつたら如何(いかゞ)……」
 男は直ぐ引返して婦人が教へて呉れた女に近づいてみた。それは美人どころか、鼻の挫(ひしや)げた狗(いぬ)のやうな顔をした女だつた。男はぶつくさと呟(ぼや)きながら、先刻(さつき)の婦人を追駈(おつか)けた。
「どうも恐れ入りましたね、他(ひと)を担(かつ)ぐなんて。貴女(あなた)は見掛によらない性悪ですね。」
「性悪……」と婦人は立ち止つて男の顔を見た。凡(すべ)ての男はこんな時履(くつ)の踵(かゞと)のやうな痛ましい表情をするものだ。「何方(どつち)が性悪なんでせう、もしか仰有る通り、貴方が私にお惚れなすつたのだつたら、あの女の方(かた)を追駈(おつか)けはなさらなかつた筈ぢやなくつて。」
 これは土耳其(トルコ)の昔譚(むかしばなし)にある話だが、寺内総督が政権譲渡(ゆづりわたし)で大隈侯の撞木杖(クラツチ)の周囲(まはり)をうろ/\したのなぞは、すつかりこれに似てゐる。土耳其人だつて馬鹿には出来ない。


静かな死

8・27(夕)
 茶人橘広樹の死際(しにぎは)こそこの上もなく静かなものだつた。その日は大阪にゐる友達から、名高いお城の黄金水(わうごんすい)を送つて来たからそれでお茶を煮るのだといつて、仲よしの田能村竹田やなぞを招いて気軽さうに働いてゐた。
 火を吹きおこしたり、水瓶(みづかめ)を洗つたりしてゐるうち広樹は急に気分が悪くなつたといつて横になつた。竹田は今更茶でもないので、枕頭(まくらもと)に坐つて看病してゐると、暁方(あけがた)に広樹は重さうな頭をもち上げて竹田を見た。
「いろ/\有難う、だが、今度は迚(とて)も助かるまい。もう茶を立てる間(ま)も無ささうだから、あの黄金水を飲んでお別れがしたいものだな。」
 竹田は水瓶(みづかめ)を引張り寄せて一口飲んで広樹にさした。病人は鶴が水を飲むやうな口つきをして美味(うま)さうに一口に飲みほした。そして今一度といつて竹田にさした。竹田はまた飲んだ。
 広樹は枕に顔をもたせて「今歌が出来たから、一つ書留てくれ給へ」といふので、竹田は筆を執つた。
ちよろづと
こそむすぶべき黄金水(こがねみづ)
汲みかはすれば
水泡(みなわ)とぞ消(き)ゆ
 広樹は懶(だる)さうに頭を擡(もた)げてその拙(まづ)い歌を見てゐたが、独語(ひとりごと)のやうに、
「おや、水の字がさし合ひになつてゐる。死ぬ迄の気紛(きまぐ)れに一つ考へ直してみよう。」
と言つてゐたが、暫くすると、
「さうだ、『泡と消えゆく』でよかつたんだ。」
と言つたかと思ふと、その儘(まゝ)息が絶えてしまつたさうだ。
 静かな死際だ。唯一つ慾をいふと、歌だけが余計だつた。日本人は地味で生(き)一本(ぽん)で別(ほか)に言分(いひぶん)はないが、唯(たつた)一つ辞世だけは贅沢すぎる。死際にはお喋舌(しやべり)は要らぬ事だ。狼のやうに黙つて死にたい。


哲学者と兎

8・29(夕)
 独身哲学者で名の通つた田中王堂氏は、近頃耳の長い白兎を二匹飼つて、閑(ひま)さへあればその面倒を見てゐる。
「何だつてまたそんな気になつたのだ。」
と訊くと、独身哲学者はもじや/\した頭の毛に掌面(てのひら)を衝込(つゝこ)んで、智慧(ちゑ)を駆り出しでもするやうに其辺(そこら)を掻き廻した。
「でも、近頃は世間が物騒になつて、滅多に人交際(ひとづきあひ)も出来ないんだから、かうして兎と遊んでるやうな始末さ。」
 多分一頻(ひとしき)り噂のあつた岩野清子女史との結婚問題を気にして、それで一寸拗(す)ね出したものらしい。
 哲学者が結婚しても差支(さしつかへ)ないのは哲学者が白兎を飼つても差支ないのと同じ理由(わけ)だ。唯兎は飼主の掌面から黙つて餌を拾ふばかしだが、女は時々飼主の指先を噛む事がある。
 岩野氏夫妻がまだ大阪にゐた頃、良人(をつと)の泡鳴氏が新聞社に出掛けると、清子女史は時々良人の監督だといつて、自分も新聞社へ出掛けたものだ。そんな時には屹度(きつと)丸髷(まるまげ)に金縁眼鏡(きんぶちめがね)をかけて、すぽりと面※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(ヴエール)を被(かづ)いて、足には履(くつ)を穿(は)いてゐる。
 女房だから丸髷を、近眼(ちかめ)だから眼鏡を、風が吹くから面※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(ヴエール)を被(かぶ)つてゐるのに仔細(しさい)は無いが、何故また履を穿いてゐなければならないのか、その理由が解らない。訊いてみると女史はにこりともしないで、
「履は貰ひ物ですよ。」
と言つて、その貰ひ物の履の踵(かゞと)で馬のやうに床板を蹴(け)つたさうだ。
 神様の謎を知つてゐる筈の哲学者だつて、あながち女の急所を知りぬいてゐるとも限らない。兎で辛抱出来るものなら、女房(かない)は取らぬに越した事がない。達(たつ)て取らなければならぬとすれば、履だけは穿かせないに限る。履は険呑(けんのん)な上に蹠(あしのうら)を台なしにする。蹠の綺麗な女は叱言(こごと)一つ言はれずに亭主の顔をさへ踏みつける事が出来る。


 少し以前の事、茶話記者がまだ京都に住むでゐる頃だつた。ある日小栗(をぐり)風葉氏の弟子分にあたる岡本霊華といふ小説家がひよつくり訪ねて来た。何だか一人ぽつちでこの世に生れて来たやうな、寂しい顔をしてゐる男だ。
「時にだしぬけに失礼ですが、質屋の通帳(かよひ)をお貸し下さいませんか。」
 岡本氏は両手を膝の上に置いて言つた。
「え、質屋の通帳(かよひ)を。」
 私は呆(あき)れて相手の顔を見た。相手は私の家(うち)のどこかに質屋の通帳(かよひ)の二つか三つは懸つてゐさうな眼つきをしてゐた。
「旅に出て来て一寸費(つか)ひ過ぎたもんですから、羽織でも入れたいと思ひましてね。なに、決して御迷惑は掛けません。」
 岡本氏はかういつてその入れたいといふ羽織の襟を指先で扱(しご)いてみせた。細かい銘仙の絣(かすり)で大分皺くちやになつてゐる。
「そんなにしなくともいいでせう。少しで足りる事なら私が立替(たてかへ)ませうから。」
とでも言つたらこの小説家の気に入つたかも知らないが、実際の事をいふと、私はその折他(ひと)に貸す程の金を持合せてゐなかつたし、それに折角質屋の通帳(かよひ)があると睨(にら)むで来た小説家にもそれでは済まなかつた。
 私は言つた。
「妙な事があればあるもんですね。昨日(きのふ)丁度君のやうな人が来て、通帳(かよひ)は借りて往(ゆ)きましたよ。」
 小説家はそれを聴いて、自分が「こゝには通帳(かよひ)がある」と睨んで来た眼の違はなかつた事を満足して帰つて往つた。通帳(かよひ)の手に入る、入らないは全く運と言つてもいゝのだから。


片腕

8・31(夕)
 虎列拉(コレラ)が流行(はや)り出した為め大阪名物の一つ、築港の夜釣(よつり)が出来なくなつたのは、釣好きにとつて近頃の恐慌である。
 むかし釣好きの江戸つ児が鱚(きす)を釣りに品川沖へ出た。ちやうど鱚釣に打つてつけの日和で、獲物も大分(だいぶん)あつたので、船のなかで持つて来た酒など取り出して少し飲んだ。
 ほろ酔の顔を擽(くすぐ)つたい程の風に吹かせて、その男はまた釣り出した。すると、直ぐ一寸手応(てごたへ)がしたので、
「おいでなすつたな。」
と独語(ひとりごと)を言ひ言ひ、鉤(はり)を合はせてぐつと引揚げた。
 鉤には誰かが河豚(ふぐ)にでも切られたらしい釣鉤と錘具(おもり)とが引つ懸つてゐるばかしで鱚らしいものは一尾(ぴき)も躍(をど)つてゐなかつた。
「へつ、遣(や)られたかな。」
と男は呟(ぼや)きながら何気なくその釣綸(つりいと)を引張り寄せると、ちらと釣竿の端が見え出した。
 半分程引寄せてみると、これはまた結構な釣竿で、自分の持合せなどとは迚(とて)も比べ物になりさうもない。
「いゝ竿だ、大分金目(かねめ)の掛つた拵(こしら)へだぞ……」
 こんな事を言ひ/\、竿の根元まで引揚げると、しつかり握り詰めた人間の片腕がずつと揚つて来た。
「や、死人が……」
 釣好きの男は覚えず声を立てて、手を放さうとしたが、打捨(うつちや)るには余りに結構な釣竿なので、
「気の毒だが余り結構だからこの竿だけは貰ふよ。」
と、言訳をしいしい、その片腕を捉(つかま)へて堅く握りつめた五本の指を解(ほど)いた。竿から外された片腕は黙つて沈んで行つた。
「金目の懸つた竿だけに溺死(おぼれじ)ぬ場合にも心が残つて、あんなに聢(しつか)り握り緊(し)めてゐたのだらうて。」
と拾つた男は後々(のち/\)まで噂をしながら、その竿で鱚を釣り、蟹を釣り、ある時は剽軽(へうきん)な章魚(たこ)を釣つて笑つたりした。
 だが、そんな金目な竿と一緒に溺れた男は誰だつたらう。左手に竿を握つてゐなかつたのを見れば、寺内伯で無かつた事だけは事実だ。それに考へてみると、時代も江戸の頃だ。まあ安心するさ。


泡鳴と王堂

9・1(夕)
 岩野泡鳴氏は厭になつて自分が捨てて逃げた清子夫人と哲学者の田中王堂氏とが怪(をか)しいといつて、態々(わざ/\)探偵までつけて二人の行動(しうち)を気をつけてゐたが、とうと辛抱出来ぬ節があつたと見えて、持前の癇癪玉(かんしやくだま)を破裂させた。
 岩野氏が田中に当てつけた厭味を読むと、
「汝(おまへ)は燕(つばくろ)の不在(るす)に燕(つばくろ)の巣に入り、夜(よ)の十二時過ぎ迄も話し込み早く帰れよがしに取扱はれても、それを自分に対する尊敬と思ふ程、それ程自信の深い好人物だ。」
「人の見限つた女でも、欲しければ貰つてやつても可(い)い。然(しか)しまだ籍が抜けないのに態々(わざ/\)離婚訴訟の渦中に飛び込んでその女の旅先までも追ひゆき、女の家(うち)へは行き度くないからだと呆(とぼ)け顔。そして実は何(ど)うだ、探偵の報告によると、口に婦人のやうな声を出させて、度々(たび/\)ほくろの鼻をのつそりと女の門に入れるのはいつも午後の九時過ぎからである。汝(なんぢ)薄のろの哲学者よ……兎角汝は人の亭主の明巣(あきす)を狙(ねら)ひたがる。」
といふ激しい文句がある。
 岩野氏のやうな、女を捨てる事を草履を穿(は)き換へる位にしか思つてない人でも、その草履を独身者(ひとりもの)の哲学者が、つい足に突つ掛けるのを見ると、急にまた惜しくなつて、嫉(や)けて妬(や)けて溜らなくなるらしい。
 そこが女の附込(つけこ)み所(どころ)で、世の中の賢い女は、この急所をちやんと知りぬいてゐて、何喰はぬ顔で亭主を操縦する。さういふ女に懸つては、男は馬よりも忠実である。清子夫人がそんな女か何(ど)うかはよく知らないが、唯この婦人を中心に泡鳴氏と王堂氏が追(お)つ駆(かけ)つこをしてゐるのは面白い。手製ではあるが二人とも日本一の文学者ださうだ。こゝでいふ日本一は箕有電鉄(みのでん)の沿線にたんと転がつてゐる日本一と同じ意味である。


聟選(むこえら)み

9・2(夕)
 ベンヂヤミン・フランクリンが女房(かない)を迎へようとした時、その女の母親は聟がねフランクリンの職業(しごと)は何かと訊いて寄こした。フランクリンは幾らか自慢のつもりで、
「新聞記者です。」
と答へた。
「え、新聞記者だつて……」女の母親は飛び上るばかり吃驚(びつくり)した。「新聞記者のやうな、そんな忙しい職業(しごと)を仕(し)てる男に、宅(うち)の娘は添はせたくないものですね。」
 母親の積りでは、可愛(かあい)い娘の事だ、出来る事なら教会の牧師のやうな、日曜日にだけお定(きま)りの御祈祷をして、あとの六日はぼんやりして過すやうな閑(ひま)な男に遣(や)りたかつたものらしい。
 フランクリンの頃には亜米利加全国を通じて、たつた六種(いろ)の新聞しか無かつたといふからにはフランクリンの携はつてゐた仕事だつて、忙しいとは言ひ条高(たか)の知れたものだつたに相違ない。だが、それすら忙しいからといつて、一度は縁談が破談になりかけたのだ。
 ところが今では女の好みも大分移り変つて、聟選みをするには、成るべく男の職業(しごと)が忙しいのを好くといふ事だ。著作家や牧師のやうな始終(しよつちゆう)家(うち)ばかしに燻(くすぶ)つてゐるのは一番の困り者で、出来る事なら船乗(ふなのり)や海軍軍人のやうな月の半分か、一年の何分(なにぶんの)一かを海の上で送つて、滅多に家(うち)へ帰つて来ないのへ嫁(かたづ)きたがるといふ事だ。
 ある日本汽船が独逸の潜航艇に沈められたといふ噂の立つた時、ある男がその船の機関長の不在宅(るすたく)を見舞つた。電報を見せて悔(くや)みを言ふと、若い夫人は毀(こは)れた玩具人形(おもちやにんぎやう)のやうに胸をぺこ/\させて泣き出した。
「貞女かな。」
とお客はその泣声を聞きながら思つた。お客といふのは、ハム・サラダと貞女とが大の好物なのだ。
 一頻(しき)り泣き止んだ時、お客は機関長の年齢(とし)を訊いた。
「恰(ちやう)ど三十二なんですわ。」
 追(おつ)かけて平素(ふだん)の好物を訊くと、夫人は低声(こごゑ)で答へた。
「カツレツと尺八が一番好きでございましてね。」
 お客は帰(かへ)り途(みち)に、会社に寄つて、同僚に確(たしか)めてみると、夫人の言葉は大抵間違で、機関長の年齢(とし)は三十七。尺八が好きなのは船長で、無器用な機関長は吹く術(すべ)さへ知らなかつたさうだ。
 夫人が出鱈目(でたらめ)を言つたに少しの不思議もない。長(なが)の不在(るす)に女は男を忘れてゐたに過ぎないのだ。尤もカツレツだけは機関長もよく食べさせられた。女といふものは、亭主の不在(るす)には大抵一つ位は新しい料理を覚えてゐるものだ。そしてそれを亭主に頬張らせる事によつて不在中(るすちゆう)の色々(いろん)な事は帳消しになると思つてゐる。


謡曲を武器に

9・4(夕)
 自分の隣家(となり)に謡曲(うたひ)の師匠が住んでゐる。朝から晩まで引切(しつきり)なしに鵞鳥の締め殺されるやうな声で、近傍(あたり)構はず謡(うた)ひ続けるのでその喧(やかま)しさといつたら一通(ひととほり)の沙汰ではない。謡曲(うたひ)が済む頃になると、其家(そこ)の忰(せがれ)が蓄音機を鳴らし出す。それがまた奈良丸の浪花節(なにはぶし)一式と来てゐるので、迚(とて)も溜つたものではない。
 華族と法律とを拵(こしら)へる事を情慾のやうに心得てゐる国家が、何故「音曲(おんぎよく)」に関する法律だけは打捨(うつちや)り放(ぱな)しにしてゐるのか理由(わけ)が分らない。短銃(ピストル)は弾一つで人一人しか殺さないが、騒々しい音曲は近所隣りの良民をすつかり狂人(きちがひ)のやうにしてしまふ。実際自分などは下手な謡曲(うたひ)を聴かされると気が荒くなつて直ぐに決闘でも申込みたくなる。
 独逸の宰相ビスマルクが議会で反対党のヰルヒヨオから小(こ)つ酷(ぴど)く攻撃された事があつた。ヰルヒヨオは独逸のお医者さんだから、その攻撃に謡曲や蓄音機を持込んだ訳でもなかつたが、ビスマルクは鉄瓶のやうに湯気を立てて怒(いか)つた。
 で、相手の事務室に飛び込むなり、直ぐ決闘を申込んだ。ヰルヒヨオは急(せ)きこんだ大宰相の顔をじろ/\見て、気味が悪い程落付いてゐた。
「いや御申込(おんまをしこ)みは確(たしか)に承知しました。だが、武器の撰好(えりこの)みは申込まれた方の権利にある。ところで……」
とお医者さんは薬焼(くすりやけ)のした指で棚にある壜の一つを指し示した。「私はあれを貴方と二人で飲みたいと思ふ。」
 ビスマルクは英吉利製のヰスキイでもある事かと振り返つて壜を覗いてみた。壜にはこの政事家の好きな独逸語で「虎列拉(コレラ)菌の培養液」と書いてあつた。
 ビスマルクはそれを見ると、急に悄気返(しよげかへ)つてゐたが、都合よく仲裁者が出て来て、決闘は沙汰止みになつて了つた。
 自分は隣家(となり)の謡曲家に決闘を申込む位は厭(いと)はないが、武器に「謡曲」でも撰ばれはしなからうかと内心びく/\してゐる。あれは何(ど)うかすると、決闘者ばかりか、介添人をも一度に頓死させてしまふから。


 色街で女買(をんなかひ)をするのを男の自慢のやうに心得てゐる男が一年程過ぎて算盤(そろばん)を取つて見ると、費(つひへ)が思つたよりは意外に嵩(かさ)んでゐるのに気が注(つ)いた。
「これではどむならんわい。女買も悪くはないが、こんなに費用が掛つては一寸考物(かんがへもの)やな。」
と、じつと両手を拱(く)んで思案に暮れてゐたが、ふと忘れ物をしてゐるのに気が注いてにやりとした。
 忘れ物とは他でもない女房(かない)の事だ。女房(かない)といふものがあるのに、態々(わざ/\)外へ出て女買ひに耽(ふけ)つたのは勿体なかつた。
「魔がさしたんやな。これからは一心に金を取り返さなならんわい。」
と、その男は気が注いたやうに女房(かない)の顔を見た。女房(かない)は板のやうに平べつたい顔をして笑つた。
 その男はそれからといふもの女房(かない)と寝る度(たんび)に、以前の放蕩を思ひ出して、一両宛(づつ)貯金筒に投げ込んで置いた。そして半ヶ年の後にその筒を検(しら)べてみると、随分な高に上(のぼ)つてゐるので、男も女も声をあげて喜んだ。
 それからといふもの、夫婦は一生懸命になつて金を貯(た)めた。そして一年の後になつて勘定してみると、三百八十五両溜つてゐたさうだ。これは言ふ迄もなく往時(むかし)の訪だが、往時(むかし)だからといつて、一年は三百六十日しか無かつたのだ。


 千利休がある時昵懇(なじみ)の女を、数寄屋(すきや)に呼び込んで内密話(ひそひそばなし)に無中(むちゆう)になつてゐた事があつた。世間の人は利休といふと、一生涯お茶の事しか考へなかつたやうに思ひ違へをしてゐるらしいが、利休はお茶と同じやうに色々世間の事も考へてゐた男なのだ。
 利休の女房は、余程(よつぽど)の疳癪持(かんしやくもち)だつたと見えて、亭主と女との逢曳(あひびき)を勘(がん)づくと、いきなり刀を引つこ抜いて、数寄屋へ通ふ路地の木を滅茶苦茶に伐(き)りつけ、加之(おまけ)に数寄屋に並べてあつた大切(だいじ)の茶器を手当り次第に叩(たゝ)き破(わ)つて了つた。
 ソクラテスの女房は、何(ど)うかして機嫌の悪い時には、一頻(しきり)我鳴りたてた揚句(あげく)の果(はて)が、いきなり水甕(みづかめ)の水を哲学者の頭に、滝のやうに打(ぶ)ち撒(ま)けたものだ。すると、哲学者は魚のやうに水のなかで溜息をついて、
「雷鳴(かみなり)のあとに、夕立の来るのはお定(き)まりさ。」
といつて平気な顔をしてゐたさうだ。
 利休は女房の叩(たゝ)き破(わ)つた茶器を、一つ一つ拾ひ上げて、克明にそれを漆で継いだものだ。そして女房のちんちんなどは素知らぬ顔で相変らずお茶を啜(すゝ)つてゐた。
 ある人がその茶器を不思議がつて由緒(いはれ)を訊くと、利休は何気ない調子で、
「さればさ、茶器など申すものは、その儘(まゝ)では一向面白味が御座らんから、態(わざ)と割つて漆を引いてみました。路地の木も同じ趣向で、あのやうに枝を一寸伐(き)り透(すか)して置きましたが……」
と言つて、態々(わざ/\)立つて障子を開(あ)けて見せて呉れたさうだ。


 工学博士田辺朔郎(さくを)氏は、軍人軍属のためには靖国神社を始め、色々の鎮魂(たましづめ)の道具があるのに、学者や芸術家にはそんな設備が少しも無いのは国家として国民として片手落な次第だ。これだけは是非何とかしなければといふので近々(きん/\)高野山に素晴しく大きな英霊塔を建立する考へださうだ。
 考へは結構だが、自体学者や芸術家などいふ連中(れんぢゆう)には旋毛(つむじ)の曲つたのが多いから、英霊塔を建てたからといつて、その儘(まゝ)成仏はしなからう。尤も学者や芸術家は生前忙しく暮した故(せゐ)で、まだ高野山を見ないで死んだ輩(てあひ)も多からうから、博士の手で無賃乗車券でも配つたら、その人達(だち)の霊魂(たましひ)も一度は屹度(きつと)登山するに相違ない。
 高野山には色々(いろん)な人のお骨(こつ)がたんと納まつてゐる。あれは弥勒(みろく)出世(しゆつせ)の暁に弘法大師が皆の手を執つてお迎へに出られる誓願があつたからださうだが、大師の考へでは高々(たか/″\)三十人位の積りらしかつたが今のやうにたんと納まつては一寸始末に困るだらう。そんな事から弥勒菩薩も今では一寸顔出しが出来なくなつたらしい。
 むかし熊坂長範(ちやうはん)が山で一稼ぎする積りで夜(よ)が更けて高野へ登つた事があつた。大きな伽藍(がらん)は皆門を閉ぢてゐるなかに、唯(たつた)一つ小さな灯(ひ)の見える所がある。覗いてみると皺くちやな坊さんが一人立つてゐて、附近(あたり)には人間の骨がごろ/\転がつてゐる。長範は自分が盗賊(どろぼう)に来た事も忘れて理由(わけ)を訊くと、坊さんは例の弥勒出世の大師の誓願を説いて聞かせた。
 長範はそんな事なら、自分も御一緒に願ひ度いと言ひ出した。長範の腕は盗みをするだけに寸も長かつたし、納骨には打(う)つて附(つけ)の代物であつたが、山でもまだ一稼ぎしなければならぬので、一寸出(だ)し惜(をし)みをした。で、石でもつて前歯を一つ叩き折つた。
「ぢや前歯を一つ納めて置きませう、何卒(どうぞ)お忘れのないやうに。」
と言つて駄目をおしてその歯を坊さんの手に載つけた。前歯はこれまで幾度か嘘を吐(つ)いた歯ではあつたが、その歯が一本無くなつたからといつて今後(これから)嘘を吐(つ)くのに別段差支へる訳でもなかつた。
 長範は好(い)い物を納めた。だが、時期が少し早過ぎた。もつと齢(とし)をとつて、入歯(いれば)をする頃にしても遅くは無かつたのだ。弥勒は今だにぐづ/\してゐられるから。


寺か女か

9・8(夕)
 むかし嵯峨に独照といふ僧が居た。黄檗(わうばく)の隠元(いんげん)が日本へやつて来た折、第一に払子(ほつす)を受けたのは、この独照だつたといふからには、満更(まんざら)の男では無かつたらしい。
 この独照がまだ小さな庵室に籠つてゐる頃、ひと秋雨のしよぼ/\降(ふ)り頻(しき)る夕方とん/\と門の扉(と)を叩くものがある。独照は何気なく出てみると、若い女が外に立つてしく/\泣いてゐる。
 独照が「何(ど)うかなすつたのかい。」と訊くと、娘は艶(なま)めかしい京言葉で理由(わけ)を話した。それに依ると、娘は中京(なかぎやう)辺の商人(あきんど)の一粒種だが、今日店の者大勢と一緒に山へ茸狩(たけがり)に往つた。初めて山へ来てみた嬉しさに、娘は一人で木立を分けてゐるうちに、つい連れにはぐれた。その内、日は暮れるし、雨は降り出すし、方々捜し歩いた末、漸(やつ)とここまで下りて来る事が出来た。
「ほんまに御気の毒さんどすが、今夜一夜(よ)さだけお泊めやしてお呉れやす。」
 女はかういつて丁寧に頭を下げた。
 独照は女を庫裏(くり)に連れ込み、湿(ぬ)れ徹(とほ)つたその着物を脱がせて鼠色の自分の着物を被(き)せてやつた。そして囲炉裏に榾(ほだ)をくべて、女はそこに打捨(うちや)らかした儘(まゝ)、自分ひとり煎餅蒲団に包(くる)まつてごろりと横になつた。
「まあ、いゝ気な和尚(おつ)さんやわ、御自分ひとりお蒲団に包(くる)まつて。」
 女は蓑虫(みのむし)のやうに坊さんの包(くる)まつた蒲団をめくりに掛つた。そしてその端の方に自分も小さく横になつた。
 夜(よ)が更けて、本尊様が寝言でも仰有らうといふ頃、独照はがばと跳起(はねお)きた。
「何をする、不届者(ふとゞきもの)めが……」
と、解けかゝつた帯を締め直して、その儘女を引きずり起して門の外へ押出してしまつた。女は扉につかまつて、
「あんまりどすえ、和尚(おつ)さん……」
と泣き入つてゐたが、独照は耳を藉(か)さうともしなかつた。
 その噂が村の人に伝はつて心堅い和尚様だといふので、独照は立派な寺を建てて貰つた。
 寺がいゝか、女がいゝか。いつ迄経つても味のある問題である。


記者凹(へこ)む

9・9(夕)
 トルストイ伯は、その名著『アンナ・カレニナ』のなかで、塞耳維(セルビア)対土耳其(トルコ)の紛紜(いきさつ)から、もしか戦争でもおつ始(ぱじ)まるやうだつたら、筆一本で喧(やかま)しく主戦論を吹き立てた人達だけで、別に中隊を組織して、一番前線にそれを使ふ事にしたい、「すると、屹度(きつと)立派な中隊が出来る。」と皮肉を言つてゐる。
 イダ・ハステツド・ハアパア女史といふと、婦人参政権の賛成論者として相応(かなり)名を売つてゐるが、この女が最近紐育(ニユーヨーク)の有名な新聞記者に会見を申込んで来た。それはこの記者を生擒(いけどり)にして、新聞紙の上で熾(さかん)に賛成論を書き立てさせたら、屹度効力(ききめ)があるだらうと思つたからだつた。
「婦人参政権ですつて? 今時そんな下らない……」と新聞記者は吐き出すやうに、「もしか私達の国が欧洲戦争に引張り出されるとして、誰が武器一つ取る事を知らない輩(てあひ)に投票なんかするもんですか。」
とそつ気(け)なく言つたが、相手の険しい顔色を見ると、一寸調弄(からか)つて見たくなつて、
「奥様(おくさん)、貴女(あなた)だつたら何(ど)うなさいます、もしか戦争でも始まりましたら。」
「はい、貴方のしてゐらつしやる通りに遣(や)りますわ。」と夫人は急に雌鳥(めんどり)のやうに鼻息を荒くした。「お国の為めだからつて、他(ほか)の人達はみんな戦線に立つて血を流すやうに書き立てませうよ。そして自分一人は編輯室(へんしふしつ)の安楽椅子に踏(ふ)ん反(ぞ)りかへつてね。」


 高安月郊氏が同志社女学校で東西比較文学の講義をしてゐた頃、講話(はなし)の序(つい)でから話題が「文学者と髯」といふ事にまで及んで来た。
 高安氏の持論によると、詩人芸術家すべて傑出してゐる人物には、定(きま)つたやうに髯が無いといふのだ。氏はその例として、ダンテ、ゲエテ、シルレル、ミルトン、シエリイ、キイツ、芭蕉、馬琴、巣林子(さうりんし)……などいふ名家を引張り出して来た。
 談話(はなし)に聴きとれてゐる女学生は、かういふ詩人の肖像を頭のなかで描き出してみた。大抵安雑誌の口絵で見覚えてゐるので、誰も彼も天然痘を患(わづら)つたやうな顔をしてゐるが、実際髯の無い事だけは確かであつた。
 女学生は詩人や芸術家のなかから、髯の無い例を探り出すのが面白くなつて、てんでに自分達の記憶から色々(いろん)な人達の口元を思ひ浮べて見た。
「紫式部、清少納言、ヂヨオヂ・エリオツト、クリスチナ・ロセツチ……成程ほんとやわ、みんな髯があらへん。」
 若い娘達は感心したやうに高安氏の顔を見た。成程この人にも髯といつては一本も生えてゐない。
 女学生の眼は言ひ合はしたやうに、高安氏の立つてゐる講壇の後方(うしろ)に注がれた。そこには写真版のロングフエロオの肖像が掛つてゐる。それを見ると、皆は一度に声を揚げて笑ひ出した。
 高安氏は何気なく後方(うしろ)を振向いてみると、ロングフエロオが悪性の風邪でも引込んだやうに、顎髯をもじや/\生やした儘(まゝ)、後で苦り切つてゐるのが目についた。
 氏は一流の扱(こ)き下(おろ)すやうな調子で、「うん、この男か。この男なざ小詩人だから全(まる)で問題にならん。」
 この談話(はなし)を聴いた女学生は今ではそれ/″\巣立(すだち)をして人の細君(かない)になつてゐるが、誰一人詩人や芸術家には嫁(かたづ)いてゐないらしいから、髯の有無(あるなし)は余り問題にはしてゐない。実際髯抔(など)は何(ど)うでも可(い)い、問題は尻尾の有無(あるなし)である。女の嫁きたがる男には狐の様によく尻尾を引摺(ひきず)つてゐるのがある。


 マリイ・アンチンといふ猶太種(ユダヤだね)の女は、火のやうな激しい性格で、今アメリカの各地方で頻(しき)りと演説をし歩いてゐる。その演説といふのは、猶太人が伝説的に持ち伝へてゐる、神様がお約束の理想郷は、他でもない亜米利加の事だといふのだ。
 成程聴いてみると、尤(もつと)もな話で、亜米利加には猶太人の好きな金は有り余る程あるし、口喧(くちやかま)しい神様は居無いし、加之(おまけ)に男はみんな女に親切だといふから、猶太種(ユダヤだね)の女が理想郷とするに打つて附けの土地柄だ。そして今一ついゝ事には亜米利加人といふ奴は、こんなお世辞をいふと、極(きま)つたやうににこ/\して、
「マリイ・アンチンはよく物の解つた女で、加之(おまけ)に素敵な美人だ。」
と直ぐもう美人にして呉れる。
 この女が最近土耳其(トルコ)から帰つたばかしの男の友達と何処かで会つた。男は色々(いろん)な面白い旅行話を聞かせた後、指の節(ふし)をぽき/\鳴らしながら、
「さうだ、忘れてゐたが、土耳其には面白い二つの習慣があるんですよ。」
と妙に調子をはずませて話し出した。
「それはね猶太人と狗だと見ると、ふん捕(づかま)へるなり、直ぐ叩き殺してもいゝんですとさ。」
 マリイ・アンチンの円い顔は銀貨の様に真青になつた。
「まあ、仕合せだつたわね、貴君(あなた)や私がそんな国に住んで居なかつたのはね。」
 男の友達は眼を円くして吃驚(びつくり)した。自分は猶太種(ユダヤだね)ではない。してみると、相手は自分を狗と間違へてゐるのだと思つて……。


 元良(もとら)勇次郎博士が、生前大学で心理学の講義をしてゐた頃、ある時何かの例証を和歌から引いた事があつた。(和歌といふものは、手際よく例をひくと、旱天(ひでり)に雨を降らす事も、借金の日限を延ばす事も出来るものなのだ。)
 博士はフロツクコオトの隠しから皺くちやな手帛(はんかち)を取出して、一寸洟(みづばな)をおし拭(ぬぐ)うた。そして例(いつも)の几帳面な調子で、
「一体和歌といふものは、諸君も御存じかも知らんが、三十一文字(みそひともじ)といつて、ちやんと三十一字から成立(なりた)つてゐる。こゝに一つ例をあげると……」
と博士は一寸言葉を切つて記憶から手頃な歌を一つ探り出さうとした。
 甜瓜(まくはうり)の恰好をした博士の頭のなかには、歌といつては『百人一首』が二つ三つ転がつてゐるに過ぎなかつた。博士は顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)(こめかみ)を拇指(おやゆび)で押へた儘(まゝ)じつと考へ込んでゐると、都合よく道真(みちざね)公の歌がひよつくりと滑り出して来た。
「こゝに一つ例をあげると……」と博士は繰返して、「名高い百人一首にある歌だが丁度三十一文字で出来てゐる。」と叮嚀に節高(ふしだか)な指を折つて数へ出した。「菅家(くわんけ)、このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)……」
 歌を下(しも)の句まで誦(よ)んでしまふと、忠実な博士の指は三十五文字を数へてゐた。それに何の不思議があらう、歌は第二句目で一字延びてゐる上に、博士は「菅家」といふ名前までも数(よ)み込んでゐたのだから。
 博士は数へた片手を中(ちゆう)に浮(う)けたまゝ、世間が厭になつたやうな顔をして棒立になつてゐたが、暫くするとぐつと唾を飲み込んだ。
「あゝこれは字余りでした。和歌にはちよい/\字余りといつて、普通のより文字が延びてゐるのがあります。丁度猿に尻尾の長いのがあるやうなもので……」
 高芙蓉(こうふよう)がある時弟子を集めて、蒙求(もうぎう)の講釈をしてゐた。「車胤集螢」の章になると、高芙蓉は肝腎の車胤(しやいん)の事なぞは忘れたやうに、これまで自分が見て来た方々の螢の話をし出した。そして最後に宇治の螢を引張り出して、「那処(あそこ)の螢は大きいね。さやうさ、雀よりももつと大きかつたかな。何しろ源(げん)三位(み)頼政の亡魂だといふんだからな。」と吹いてゐたさうだ。
 笑つては可(い)けない。先生といふものは、大抵こんな事を教へるやうに出来てゐるものなのだ。


楽書(らくがき)

9・13(夕)
 京都といふ土地は妙な習慣のあるところで、少し文字を識(し)つた男が四五人集まると、屹度(きつと)画箋紙(ぐわせんし)か画絹(ゑきぬ)をのべて寄書(よせがき)をする。亡くなつた上田敏博士は、そんな時には定(きま)つたやうに、ヘラクリトスの、
「万法流転」
といふ語(ことば)を書きつけたが、それが少し堅過ぎると思はれる場合には、『松の葉』のなかから、気の利いた小唄を拾つて来てそれをさら/\と書きつけた。
 博士は詩歌も巧(うま)かつたし、警句にも富んでゐたから、自分の頭から出たそんな物を書きつけたらよかりさうなものだのに、何(ど)うしたものか、何時でも「万法流転」と『松の葉』の小唄を借用してゐた。
 むかし王羲之(わうぎし)が※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)山(しふざん)といふところに住んでゐた頃、近所に団扇売(うちはうり)の姥(ばあ)さんがゐた。六角の団扇で一寸洒落た恰好をしてゐた。ある時王羲之の家(うち)へも売りに来たが、こゝの主人は、唯の一本も買はないで、加之(おまけ)にその団扇へべた/\楽書をした。(どこの国でも文学者や画家(ゑかき)などいふ輩(てあひ)は、滅多に物を購(か)はないで、直ぐ楽書をしたがるものなのだ。)
 それを見ると、姥(ばあ)さんは火のやうに憤(おこ)つて、折角の売物を代なしにした、是非引取つて貰はうと懸合つたが、王羲之は黙つて財布を揮(ふ)つてみせた。財布には散銭(ばらせん)一つ鳴つてゐなかつた。
「何そんなに怒るがものは無いさ、俺(わし)の楽書だと言つたら、誰でもが手を出すよ。」
 王羲之は落着き払つてこんな事を言つた。
 姥(ばあ)さんはぶつくさ呟(ぼや)きながらも出て往つたが、町へ持つて出ると、色々な人が集(たか)つて来た。
「なに王羲之の楽書だつて。」
と言つて、めい/\ふん奪(だく)り合ひをして、高い値段で引取つて往つた。
 姥さんはにこ/\もので帰つて来た。そして六角団扇をしこたま抱へ込んで、また王羲之の許(もと)へやつて来た。
「さ、遠慮なしに、も一度楽書をして呉れさつしやれ。その代りには気に入つたのを一本お前さんに進ぜるからの。」
と言つたが、今度は王羲之の方が相手にならなかつた。
 王羲之がどんな文句を塗(なす)つたか、私はその団扇を買はなかつたから、そこ迄は知らない。


墓の中

9・14(夕)
 法隆寺の雷爺(かみなりおやぢ)北畠治房老人などが寄つて集(たか)つて北畠准后(じゆごう)の墓に相違ないといつて、態々(わざ/\)発掘にかゝつた室生寺(むろふでら)の境内から、碌(ろく)な物といつては何一つ出て来なかつたのは面白い。もしか親房(ちかふさ)卿から今の北畠男爵になる迄の歴とした系図でも出たら、法隆寺の老人も煙草入(たばこいれ)のやうな口を開(あ)けて喜んだに相違ないが、惜しい事をしたものだ。
 支那の三国時代に鍾※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)(しようえう)といふ名高い書家があつた。この男が書いた草書は「飛鴻(ひこう)海に戯れ、舞鶴(ぶくわく)天に游(あそ)ぶが如し」とあるから、こんな人から手紙を貰つたところで仮名が振つてなかつたら少しも読めなかつたかも知れない。
 この鍾※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)が先輩の韋誕といふ男に、蔡※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)(さいよう)の筆法を訊きに往つた事があつた。すると韋誕はそれを惜んで何(ど)うしても諾(うん)と言つて教へて呉れなかつた。
 間もなく韋誕が死ぬると、鍾※(「鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)は小躍りして喜んだ。そして人に知られぬやうにこつそりその墓を掘りかへして、棺のなかから蔡※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)の秘書を盗み出した。鍾※(「搖鷂のへん+系」、第3水準1-90-20)の書が急に巧(うま)くなつたのは、それからだといふ話だ。
 ある人が元の張伯雨といふ男の墓を掘つてみた。すると中から青い表紙の珍らしい書物が二冊見え出した。
「これだ/\。自分が見たいと思つてるのは。奴(やつこ)さんやつぱり懐中(ふところ)に捻(ね)ぢ込んで御座つたな。」
と無駄口を言ひ/\、泥のついた手で先づその一冊を取り出した。そしてそれを附近(あたり)の乾いた石の上に置いて、今一冊の方を取り出さうとすると、その本はもう影も形も見えなくなつてゐた。
「奴(やつこ)さん、惜しがつて引込めたな。無理もないさ、あんなに見せともなかつた本だからな。」
と、その男は幾らか気味も悪かつたので、一冊だけですつかり絶念(あきら)めて、また以前(もと)のやうに墓へ土をかけて置いたさうだ。


就職口

9・15(夕)
 新しい文科大学の卒業生が就職口に困つて、その周旋方(かた)を井上哲次郎博士に頼みに往つた事があつた。博士はその朝何処かの新聞で二行ばかし自分を賞めてゐた記事があつた。それでも読んだかして大分(だいぶん)機嫌がよかつた。
「うむ、君一人位だつたら何(ど)うにかならん事もなからう。今日はまあ悠(ゆつ)くり遊んで往(ゆ)くさ。」
と言つて、色々な世間話をし出した。
 一頻(しき)り世間話が済むと、博士は、
「一寸こつちへ蹤(つ)いて来たまへ、君にはまだ自宅(うち)の書庫(ライブラリー)を見せなかつたね。」
と態々(わざ/\)立つて自慢の書庫へ案内してくれた。大学でも書物好(ほんず)きの友達を探し出す時の外(ほか)は、滅多に書庫に入つた事の無かつたその男は、一寸厭な顔をしたが、それでも不承々々に蹤いて往つた。
 薄暗い書庫のなかには、色々な書物(ほん)がさつと一度に猫のやうな金色な眼を光らせて、この昵懇(なじみ)の薄いお客を見つめた。博士は「真理」を掴むために特別に拵(こしら)へさせたらしい脂つ気の無い手で、隅の方を指さした。
「あすこが哲学、それから文芸、神学――とまあ、東西古今の書物で目星(めぼ)しいものだけは残らず集めてあるがね。困つたのは火事だて。」と博士は火災保険の会社員のやうに一寸眉を顰(しか)めて、「実際火事には困る。他の家財はみんな焼いたつて構はないが、この書庫だけは失(な)くし度くないからな。」
と心配さうに言つたが、ふと気がついたやうに後方(うしろ)を振かへつて訊いた。
「君達はまだ書物(ほん)も格別溜つてゐなからうが、一体書庫はどんな設備にしたものかな。」
「書庫の設備ですか。」と卒業生はつい浮(うつ)かり口を滑らした。「そんな物は私達には要りません。読んだだけの書物はちやんと此処(ここ)に蔵(をさ)めてありますからね。」と調子に乗つて雲脂(ふけ)だらけな頭を指さした。だが真実(ほんとう)の事をいふと、その頭のなかには探偵小説の二三冊と、女の手紙と、誤訳だらけのタゴオルの哲学がごつちやになつてゐるに過ぎなかつた。
 博士はそれを見て、「ふふむ」と言つて、不機嫌な顔をしたが、座敷に帰るなり相手の頭を見下(みおろ)して、
「就職口と言つたところで、何処にも椅子を空(あ)けて君なぞ待つてる処(ところ)は無いんだから、自分にもせつせと捜さんければ可(い)かん。」
と素つ気なく言つたさうだ。


キ元帥の幽霊

9・16(夕)
 この頃(ごろ)欧羅巴(ヨーロツパ)の西部戦線にゐる英軍の塹壕(ざんがう)内では、彼方(あつち)でも此方(こつち)でもキツチナア元帥に遭つたといふ風説が盛(さかん)に行はれてゐる。オウクネエ島附近で溺死した元帥が今頃蘇生(いきかへ)つてゐる筈もないが、それでも彼方(あつち)でも見た、此方(こつち)でも見た。なかには埃塗(ほこりまみ)れの手で、湯気の立つたスウプの皿を持つてゐるのを見掛けたと言ふからには、これも満更(まんざら)嘘だとばかしは言はれない。
 先年オスカア・ワイルドが巴里(パリー)の汚い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから彼方此方(あつちこつち)の町でワイルドを見掛けたといふ人がちよい/\あつた。
 伊勢は寂照寺の画僧月僊(げつせん)は乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料を蓄(た)め込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐて、沈黙家(むつつりや)で石のやうに手堅い性(うま)れつきであつた。
 沈黙家(むつつりや)ではあつたが、世間並に母親(おふくろ)が一人あつた。この母親(おふくろ)がある時芝居へ往(ゆ)くと、隣桟敷(となりさじき)に予(かね)て知合(しりあひ)の某(なにがし)といふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、俳優(やくしや)の顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
 その日も二人は夢中になつて、芝居や俳優(やくしや)の噂をした。翌(あく)る日になつて、月窓の母親(おふくろ)が挨拶かた/″\その女を訪ねてゆくと、鼻の尖(とが)つた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
「阿母(おつか)さんですか、阿母(おつか)さんは貴女(あなた)、亡くなりましてから、今日で三月(つき)余りにもなりますよ。」
「え、お亡くなりですつて。でも、私は昨夜(ゆうべ)芝居でお目に懸りましたが……」
「まさか。」
といつて嫁さんは相手にしなかつた。そして何(ど)うかすると、此方(こつち)を狂人(きちがひ)扱ひにしさうなので、月窓の母親(おふくろ)は黙つて帰つたが、道々蹠(あしのうら)は地に着かなかつた。


 石黒忠悳男は今では閑(ひま)にまかせて茶の湯を立てたり、媒人(なかうど)をしたり、また喧嘩の仲裁をしたりして暮してゐる。その石黒男の邸(やしき)に長年奉公(つと)めてゐる女中が、ある日の事、男爵の前に両手を突いて、
「檀那さま、一寸お願ひが御座いまして……」
と結(ゆ)ひ立(たて)の頭を下げた。
 夫人に子種が無いからといつて、頑丈な田舎娘を女中に傭(やと)ひ入れて、立派な男の子を拵(こしら)へた程の男爵ではあるが、近頃は齢(とし)を取つてゐるので、別に女中から相談を持込まれる程の悪戯(いたづら)も無かつた筈だ。それだけに男爵も一寸見当に困つた。
 男爵は禿げた頭をつるりと撫(な)で下(おろ)した。
「何ぢや、宿下(やどさが)りなら奥にでも頼んだがよからう。」
「いえ」と女中は言ひ難(にく)さうに一寸膝の上を見つめた。「甚(はなは)だ申し兼ねますが、乃木さんのお手紙を二本ばかし戴かれますれば……」
「うむ、乃木の手紙が欲しいといふか。」
と男爵は今更のやうに気をつけて女中の顔を見た。円々(まるまる)と肥えた顔に細い目が開(あ)いてゐるので、いつも膃肭臍(おつとせい)のやうだとばかし思つてゐたが、今見ると何とかいつた芝辺(へん)の女医者によく肖(に)てゐる。膃肭臍と女医者、大層な違(ちがひ)ぢや、矢張(やつぱ)り邸(やしき)にゐるお蔭だと男爵は思つた。
「乃木の手紙を欲しがるとは近頃感心なこつちや。だが、何故また二本要るかの。」
 女中はもう貰へる物だとばかし思ひ込んで、丁寧に頭を下げた。
「はい二本御座いますと、帯が一本買へるさうに承はりました。」
 石黒男は大きな掌面(てのひら)で鼻先を撫で下されたやうに目をぱちくりさせた。よく見ると女医者に肖てゐた女中の顔は、やつぱり膃肭臍に生写しだ。
「俺はな、乃木がそんなに名高くなるとも思わなかつたので、手紙は残して置かなかつたよ。」
 男爵はかう言つたきり、立ち上つて次の室(ま)へ入つた。
「まあ勿体ない、お手紙をみんな失(な)くしちまつたんだつて。」と女中は膃肭臍のやうな細い眼で檀那の後姿を見送りながら惜しさうに呟(ぼや)いた。「ほんとに手紙だけは残して置かなくつちや、誰が腹を切るか知れたもんぢやないんだから。」


崋山の手紙

9・18(夕)
 昨日(きのふ)乃木さんの手紙二通で帯一本が出来る話を書いたが、乃木さんと同しやうに腹を切つて死んだ渡辺崋山の手紙は、今では唯(たつた)一通で帯が幾本も買へる。
 崋山の手紙も今ではそんなに値段が高まつて来たが、以前(もと)は素麺箱(そうめんばこ)に一杯で、たつた十円の時代もあつた。――断つておくが、素麺の値段は、今とその頃と大した差違(ちがひ)はない。
 崋山の親友に真木(まき)重兵衛といふ男がゐた。その重兵衛に豊(ゆたか)といふ遊び好きな孫があつて、ある時廓返(くるわがへ)りに馬を連れて、古い素麺箱を一つ、豊橋のさる骨董屋に担ぎ込んだ。
 骨董屋の主人はその素麺箱を見て、ぶつくさ呟(ぼや)きながら懐中(ふところ)から惜しさうに十円紙幣(さつ)を出して呉れた。豊はそれを持つて馬と一緒に帰つて往つた。その跡で骨董屋は素麺箱を引繰返して居ると、なかから皺くちやになつた崋山の手紙が、座敷一杯に転がり出した。
 その日の夕方、骨董屋の店先へぬつと顔を出したのは、豊の親父(おやぢ)であつた。
「崋山の手紙を十円で引取つて呉れたさうで、色々有難う。だがあのなかには藩公に関係した秘密の手紙が交(まじ)つてるから、あれだけは返して貰はなくつちや。」と言つて、その手紙を五六通捜して持つて帰つた。
 今豊橋辺にあつちこつち崋山の手紙が散(ちら)ばつて、虎の子のやうに大事がられてゐるが、あれはみんなこの素麺箱から転がり出したものなのだ。
 石黒男爵の女中に教へてやりたい。乃木さんの手紙が無かつたら、崋山の手紙でも好(よ)いのだ。崋山の手紙が無かつたら呉服屋の切手でも好(い)いではないかと言つて。何方(どちら)にしても女中は新しい帯さへ締める事が出来たらそれで結構なのだ。


小説家の面会

9・19(夕)
 仏蘭西の小説家エミイル・ゾラは、寺内伯と同じやうに新聞記者との会談を甚(ひど)く怖がつてゐた。例のドレエフス事件の折などは、自分も進んでその関係者の一人(にん)となつただけに、新聞記者に捉(つかま)つて、大袈裟に畳み掛けた質問にでも出会(でくは)しはしなからうかと怯々(びく/\)ものでゐた。
 ところが、その事件の最中に或る新聞記者は是非ゾラに面会しなければならぬ用事が出来た。だしぬけに名刺を突き付けたところで、時節柄この文豪が直ぐお目に懸らうとも言ふまいし、記者はほとほと当惑した。
 記者はそんな折に例(いつ)もするやうに煙草を喫(ふか)さうと思つて上衣(うはぎ)のポケツトに手を入れた。指先に触つたのは煙草では無くて、矢張その頃の文士の一人フランソア・コツペエの詩集であつた。
 記者は先刻(さきがた)友達に出会つた時、コツペエの詩集を読みさしの儘(まゝ)、ポケツトに入れた事に気が注(つ)いた。そしてその頃コツペエが風邪か何かで臥(ふせ)つてゐるのを思ひ出すと、覚えず小躍りして叫んだ。
「さうだ、コツペエさんの御厄介にならう。」
 記者はその脚で直ぐゾラを訪ねた。そして受附(うけつけ)の男を見ると急に悲しさうな顔をして、
「フランソア・コツペエが亡くなりました。御主人がまだ御存知でなければ一寸報(しら)せて上げて下さい。」と出鱈目(でたらめ)な事を言つた。
 間もなく、ゾラは右手にペンを持つた儘、あたふたと飛び出して来た。
「なにコツペエが亡くなつたつて。まあ、此方(こつち)へ通つて委細(くは)しく話して聞かせて下さい。」
 応接室へ通されると、年若な記者は突如(いきなり)頭が卓子(テーブル)に打突(ぶつつ)かる程大きなお辞儀をした。
「まことに申訳が御座いません。コツペエさんはお風邪のやうには聞きましたが、お生命(いのち)に別条は御座いません。唯さうでも申さなければ、先生がお会ひ下さるまいと思つたものですから……」
 かういつて、記者はまた一つお辞儀をした。
 ゾラはそれを聴くと、鉄瓶のやうに湯気を立てて怒り出した。何しろあの通りの駄文家の事だから、例(いつも)の長文句(ながもんく)で立続(たてつゞ)けに口汚く罵(のゝし)つたに相違ないが、一頻(しきり)嵐が過ぎてしまふと、それでも一々記者の質問に答へて、自分の意見を聞かせて呉れたさうだ。


蘆花の置土産

9・20(夕)
 金尾(かなを)文淵堂の主人といふと、どんな見ず知らずの大家の許へでも、その人が何か書いてゐるといふ噂を聞きつけると、
「ゲンコウイタダキタシ」
といふ電報を打つて寄(よこ)すので同業者間に名を知られてゐる。
 徳富蘆花がエルサレム巡礼の途(みち)に上(のぼ)つた時、文淵堂の主人は例(いつも)の通りに幾通か電報を打つたが、相手が相手だけに一向手応へがないので、態々(わざ/\)見立てるのだといつて、神戸から門司まで蘆花君と一緒に薄汚い汽船の三等室に滑り込んだ。
 船が播州沖を出かゝると、色々の世間話に取り交ぜて、それとなく原稿の事を切り出してみると、蘆花君は円い色眼鏡の奥からじろ/\本屋の顔を見つめた。本屋は魚のやうな冷い顔をしてゐた。
「原稿も原稿だが、それよりももつと善(い)い物をあげませう。」
 蘆花君はこんなに言つて、立上つて甲板へ出た。
 本屋は一刻も早くその「善(い)い物」が見度(みた)さに後(あと)から蹤(つ)いて甲板に出た。船の前には撮(つま)んで投げたやうな島が幾つか転がつてゐる。蘆花君は一寸後を振向いて見て、
「いゝ景色ですな。」
と言つたきり、大きな腕を胸の上で拱(く)んだ儘(まゝ)、大跨(おほまた)に其辺(そこら)を歩き廻つてゐたが、いつの間にか姿が見えなくなつた。
 本屋は慌ててまた船室へ帰つてみた。蘆花君は薄暗い室(へや)の隅つこで、膝小節(ひざこぶし)を抱へ込んだ儘、こくりこくりと居睡(ゐねむ)りをしてゐる。附近(あたり)には見窄(みすぼ)らしい荷物が一つ限(きり)で、何処にもその「善い物」は見つからなかつた。
 船が門司に着かうとする時、本屋の主人(あるじ)はそれとなくまた原稿の一件を切り出して見た。すると蘆花君は急に思ひ出したやうに、
「さうでしたつけな。いや、原稿も原稿だが、それよりももつと善(い)い物をあげませう。」
と、また同じ事を繰り返した。
「原稿より善い物つて何ですか。」
 本屋は直ぐ訊きかへした。
「信仰です。」
 蘆花君はトルストイのやうな口元をしてきつぱりと言つた。頤(おとがひ)にトルストイのやうな※(「參+毛」、第3水準1-86-45)々(もじや/\)した髯のないのが口惜しかつた。
「先づ神をお信じなさい、その外の事はみんな詰りません。」
 本屋の主人は眼を円くして蘆花君の顔を見た。そして鸚鵡返(あうむがへ)しに、
「先づ原稿をお呉んなさい。その外の事はいづれ考へてからにしませう。」
と言ひたかつたが、相手を怒らせてもと、その儘別れて小蒸汽船に乗つた。


 むかし支唐禅師(ぜんじ)といふ坊さんが、行脚(あんぎや)をして出羽の国へ往つた。そして土地(ところ)の禅寺(ぜんでら)に逗留(とうりう)してゐるうち、その寺の後方(うしろ)に大きな椎の木の枯木(かれき)があるのを発見(めつ)けた。
 禅師は寺の住職に勧めて、その枯木を根から掘らせた。だん/\掘つて往(ゆ)くうちに、椎の木のなかが深い洞穴(うろ)になつてゐるのに気が注(つ)いた。
 樵夫(きこり)の斧(をの)が深く幹に喰(く)ひ込むやうになると、急にばた/\と音がして、洞穴(うろ)のなかから何か飛び出した物がある。見ると番(つが)ひの梟(ふくろ)で、厭世哲学者のシヨオペンハウエルのやうな眼をして、じつと其辺(そこら)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みまは)してゐたが、暫くすると背後(うしろ)の藪のなかへ逃げ込んでしまつた。
「奴(やつこ)さん、巣をくつてたな、洞穴(うろ)のなかへ。」
 こんな事を言ひ/\、樵夫(きこり)が漸(やつ)と枯木(かれき)を伐(き)り倒すと、なかから土で拵(こさ)へた梟(ふくろ)の形をした物が、三つまでころころと転がり出した。よく見ると、その一つには毛が生えて、ちよつぴり撮(つま)むだやうな嘴(くちばし)も伸びかゝつてゐたさうだ。
 禅師の説によると、梟(ふくろ)は土を捏(こ)ねて、それを暖めて雛(ひよ)つ児(こ)にするものださうで、禅師は古人の歌やら伝説やらを引張り出してそれを証明した。側(そば)で聴いてゐた人は禅師の物識(ものしり)に驚いたといふ事だ。
 梟(ふくろ)が土を円(まる)めて雛(ひよ)つ児(こ)にするか、何(ど)うかは真実疑はしいが、人間にはよくこんな真似をするのがある。官僚派が寄つて集(たか)つて寺内伯を第二の山県(やまがた)公に仕立てようとするなぞがそれで、伯の尖つた頭から梟(ふくろ)のやうに毛がむくむく生え出して来たらお慰みである。


難船した人

9・22(夕)
 ある男が由緒(ゆいちよ)のある古いお寺に詣(まゐ)つた事があつた。そこには壁一面に夥(おびたゞ)しい金ぴかの額が懸つて、額のなかには各自(てんで)にぐつと気取つた人達の顔が描(か)いてあつた。
 参詣したその男は、案内の僧侶(ばうず)に訊いてみた。
「ちよつと伺ひますが、これは何をなすつた方々で御座いますか。」
「さればさ。」と僧侶(ばうず)は高慢さうな咳払(せきばら)ひをした。「この方々はみんな海で難船した人達ぢやが、平素(ふだん)神様御信心の御利益(ごりやく)で、不思議にも生命拾(いのちひろ)いをなすつたぢや、その御礼とあつて、こんなにして額をあげて御座るのぢや。」
 その男は、それを聞いて、も一度額の顔を見直した。成程誰も彼もが、神様のお力でも藉(か)りなければ、陸の上でも難船しさうな顔をしてゐる。
「いや、よく解りました。ところで……」とその男は皮肉さうな眼つきをして僧侶(ばうず)の顔を見た。「平素(ふだん)神様を御信心致しながら、それでも難船して死んだ人の額は何処に懸つて居(を)りますな。」
 僧侶(ばう)さんは兎のやうに口をもぐ/\させたが何とも答へなかつた。実際答へやうは無かつたのだ。何故といつて、そんな人達の額を懸けるにはお寺の壁は余りに狭かつたから。


無心状

9・23(夕)
 著述家が書物を出版すると、見ず知らずの人からたんと手紙が来る。その多くは無代価(ただ)で書物を貰はうとする吝(けち)な輩(てあひ)で「平素(ふだん)から貴君(あなた)を尊敬してゐる」とか、「御著作は欠かさず読んでゐるが、近頃手許が苦しくて買へないから」とか言つたやうな文句がよくある。
 なかには郵便切手を二三枚封じ込むで、郵税だけは此方(こつち)持ちにするから、書物だけ恵むで欲しいといふのがある。そんなのに出会(でつくは)した場合、大抵の著作家は郵便切手だけは預りつ放しにして、一切取合はない。
 かういふ虫の好(い)い事を言つて寄(よこ)す手紙の宛名は十人が八人まで女名前になつてゐる。女といへば大抵の無理は通るものと思つてゐるらしいが、実際多くの著作家のなかには女名前の手紙には、喜んで返事を書くやうな甘(あま)つ垂(たる)い輩(てあひ)が居ないとも限らない。
 米国にアリス・ヘガン・ライス夫人といふ女流作者がある。この人が著作を公にすると毎度(いつも)煩(うる)さい程いろんな手紙が舞ひ込んで来る。
 ある時、テキサスの老軍人から来た手紙は「お前は幼い時別れた私の娘ぢやないか。」と、生みの娘扱ひに、ぞんざいな言葉で書いてあつた。また二人の男から同時に結婚の申込を封じ込むだ手紙を受取つた事があつた。
 シカゴの或るお婆さんは、「私は聾(つんぼ)で加之(おまけ)に唖(おし)です。気の毒だとお思ひなら、貴女(あなた)の書物を一冊送つて呉れ」と申込んで来た。これには流石の女流作家も弱らされたが「私は聾や唖を好かないから。」と返事を出して、漸(やつ)と免(のが)れた。
 可笑(をか)しかつたのは何処かの小娘の寄(よこ)した無心状で、
「先生、あなたの直筆で書いた物を送つて下さい。何卒(どうぞ)リチヤアド・デヰスさんや、マリイ・ヰルキンスさんの真似をして下さいますな。あの人達は私の切手を取つちまつてよ。」
と書いて、手紙の端にアラビヤ護謨(ごむ)で滅多に剥(めく)れないやうに切手が貼つてあつた。言ふ迄もなくデヰスやヰルキンスは、切手を取りつ放しにした連中(れんぢゆう)である。


懸賞短篇小説

9・24(夕)
 最近米国のある雑誌の主催で「短篇小説競技会」といつたやうなものが催された。一体短篇小説はどの程度まで文字が切り詰められるものかといふ、言はば一種の悪戯(いたづら)から思ひ立たれたものだ。
 応募原稿は総て三万余通、世界の各方面から送つて寄(よこ)されたもので、なかには仏蘭西の塹壕のなかで書いた物さへあつた。内容には色々な世相を描(うつ)してゐるが、秀れたものは、矢張り恋愛と戦争を書いたものに多かつた。
 唯一の規定は「総語数一千五百以下たるべし」といふ一箇条で、これより長いものは取上げない。原稿料は無論払つたが、その払ひ方が随分奇抜で、書いた物には払はないで、書かなかつた物にだけ払ふといふ約束(きめ)なのだ。
 といふのは、応募原稿が規定の千五百語より少かつた場合には、その少い語数だけ一語十仙(セント)の割合で原稿料を払ふのだ。だから、千五百語ぽつきりで書き上げた人は、どんな立派な短篇小説を書いたつて、鐚(びた)一文(もん)も貰へない。もしかそれを千四百九十語で書き上げてゐたら、一弗(ドル)だけ貰ふ事が出来るし、たつた十語で済ます事が出来たら、百四十九弗貰ふといふ勘定だ。
 数多い応募原稿のうちで、一番長いのが千四百九十五語で、その作者は原稿料大枚(たいまい)五十仙を貰つた。一番短いのは七十六語で、その作家は雑誌社から百四十二弗四十仙を貰つて、にこ/\してゐたさうだ。
 もしか、こんな事が日本で出来たなら、多くの不仕合せな女は、自分が持合せてゐる離縁状を書留郵便で送つたがよからう。たつた三行半(みくだりはん)で、あれだけ意味の長い物語は、どんな小説家だつで書きやうがない。応募者は少くとも百四十二弗四十仙位は手に握れる勘定だ。それだけあつたら第二の男を拵(こしら)へる支度に不足はない筈だ。


正宗氏の油絵

9・25(夕)
 つい先頃島崎藤村氏と一緒に仏蘭西から帰つて来た正宗得三郎氏、あの人が洋行前(ぜん)大阪で自作の展覧会を開いた時、ある文学者がそれを見に往(ゆ)くと、正宗氏は多くのなかから一つの絵を指(ゆびさ)して見せた。
「君にはこの絵がお気に入りませう、僕には何だかさう思へる。」
と言つて笑つてゐる。
 文学者はその絵を見た。こんもり繁つた雑木林のなかから、田舎家の白壁が見えて、夕日が明るくそれに射(あた)つてゐて、いかにも気持の好(い)い画(ゑ)だ。文学者は平素(ふだん)からこんな画を一枚壁にかけて、その下で馬のやうに欠伸(あくび)でもしてゐたいと思つてゐたが、今多くの人の前で自分の選好(えりごの)みを他(ひと)に言ひ当てられてみると、何だか癪(しやく)に触つて一寸頭(かぶり)を掉(ふ)つてみたくなつた。
「さうですな、絵はなか/\よく出来てゐるが、好き嫌ひから言ふと余り好きません。それよか――」と文学者は盲滅法に隅にある一枚の絵を指(ゆびさ)した。「あの方がずつと気に入りました。」
「あれが?」と正宗氏は腑に落ちなささうな顔をしてちらとその絵を見返つたが、「へえあれが気に入つた。ぢや、差し上げますから持つて帰つて下さる?」
 その一刹那(せつな)、文学者は失敗(しま)つたと思つた。それによく見ると、自分が指(ゆびさ)した絵は絵柄から言つても前(さき)のとは比較(くらべもの)にならぬ見劣りがしてゐるし、幅も思ひ切つて大きく、持つて帰つたところで、自分の家(うち)にはそれを懸けるやうな場所すらない。
「いや、僕は他(ひと)から貰物(もらひもの)をするのは、余り好かないから。」
と文学者は泣き出しさうな顔をして手を掉つたが、正宗氏はそんな事には頓着なく、大きな絵を壁から引き下して文学者の前に突きつけた。


 欧羅巴(ヨーロツパ)戦争は、交戦国に寡婦(ごけ)さんをたんと拵(こしら)へたやうに、日本には成金をたんと生み出して呉れた。寡婦(ごけ)さんと成金と、どちらも新生活の翹望者(げうばうしや)たる点において同じである。
 神戸に成金が一人ある。しこたま金が出来てみると、女房(かない)の顔と現在(いま)の住家(すみか)とが何だか物足りなくて仕方がない。だが、女房(かない)の顔は何(ど)うにも手の着けやうが無いので、住家(すみか)だけを新(あらた)に拵へる事に定(き)めた。
 自分の財産から割り出して、建築費をざつと十二三万円と定(き)めて、ぼつ/\普請に取(と)り蒐(かゝ)つたが、住家(すみか)が八九分方(がた)出来上つた頃には、株の上景気で財産が二三倍方(がた)太つてゐるのに気注(きづ)いた。
「困つたな、ああして拵へはしたものの、今の俺(おいら)の身分では、あんな安つぽい家(うち)には入れんからな。」
 かう言つて、成金は女房(かない)の方を振向いた。女房(かない)は有合せの顔で一寸笑つてみせた。
 成金は建ち上つた家(うち)を、その儘(まゝ)番頭に呉れてやつて、自分はまた現在の財産から割出して四十万近くの建築費を見込むで、素晴しい邸(やしき)を拵へにかかつた。が、間が悪い時には悪いもので、邸がまだ半分も出来上らない昨今、身代(しんだい)はまたバアクシヤア種(だね)の豚のやうに留め度もなく肥(ふと)り出して来た。
 成金は算盤(そろばん)を弾(はじ)いて泣き出しさうな顔になつた。
「厭になるよ。こんなに身代が肥つて来ちや、今度の邸が出来上つたからつて、俺(おいら)の身分として今更あんな土地(ところ)にも引込(ひつこ)めなからうしさ。」
と、ぶつ/\呟(ぼや)きながら、その男は今度の新建(しんだち)をも誰ぞ貰つて呉れ手は無からうかと、人の顔さへ見ると無理強(むりしひ)に押しつけてゐるさうだ。
 何事も急ぐには及ばない。暫くする間(うち)に貰ひ手は屹度(きつと)出来て来る。その折こそ成金が住み馴れた古家と古女房を初めて身分相応だつたと気の注(つ)く時である。


南画と娘

9・27(夕)
 貫名海屋(ぬきなかいをく)の系統を伝へた谷口藹山(あいざん)が、まだ京都の下長者町(しもちやうじやまち)に居た頃、南画好きのある男が態々(わざ/\)大阪から訪ねて往つて弟子入りをした。
 藹山は娘と二人で其処(そこ)に住んでゐたが、その日は娘に留守番でも言ひつかつたと見えて、皺くちやな藹山は、
「今日は誰も居ぬでの……」
と断つて薄茶一服立てようともしなかつた。その代り薄茶よりも水つぽい南画の講釈をくど/\と言つて聞かせた。
 南画を習はない先に、南画は迚(とて)も習へないものだと知つたその男は、折を見て帰らうとすると、藹山は押へるやうな手つきをして引留めた。
「一寸待ちな。今娘が帰つて来たさかい、お引合せする。」
 その男は南画も好きだつたが、それ以上に女が好きであつた。南画にはまだ解らない点(ところ)もたんとあつたが、女の事だけは何も角(か)も大抵知り抜いた積りでゐた。それだけに娘に引合せると聞いては帰る訳にも往(ゆ)かなかつた、で、居ずまひを直したり、一寸襟に手をやつたりした。
 間もなく隔ての襖が開(あ)いてお茶が運び出された。
「これが俺(わし)の娘や、不束者(ふつつかもん)での……」
といふ藹山の言葉に、初めて気が附いたやうに、その男は鄭寧(ていねい)にお辞儀をした。そして顔を上げて相手を見た時吃驚(びつくり)した。
 娘さんは小皺の寄つたお婆さんなのだ。
 よくよく考へてみると、不思議でもない。その頃藹山はもう七十の上を越してゐたらしかつたから、五十近(ぢか)い娘があつたところで、別段腹を立てる程の事でも無かつた。
 その男はお茶も碌(ろく)に飲まないで、そこ/\に挨拶して帰つた。そして二度と藹山の門を潜(くゞ)らうともしなかつた。


高田実

9・28(夕)
 ある劇場(しばゐ)の楽屋で、松崎天民氏が亡くなつた高田実に訊いた事があつた。
「君達も今は劇は芸術だからつて、高く止(とま)つてゐるが、芝居に足を踏(ふ)ん込(ご)むだ抑々(そも/\)は、まさか芸術家になつてみたいと思つた訳でも無かつたらう。」
といふと、高田は血色の悪い顔を一寸しやくつてみせて、
「さうですとも。僕が俳優(やくしや)になつた動機は、唯女に惚れて貰ひたかつたからです。その外の事は、みんな後から附けた理窟でさ。」
と言つて、乃木大将のやうな口をして「ははは」と声を出して笑つた。
「ところで、君は今自分の演(や)つてゐる芝居を真実(ほんとう)に芸術的だと思つてますか。」
と傍(そば)にゐた男が訊くと、高田は赤禿の鬘(かづら)をすつぽりと冠(かぶ)つたばかしの頭を強く揮(ふ)つた。
「何の/\。中途半端の贋物(いかもの)ばかりでさ。私も何日(いつ)迄もこんなでは詰らないから、自信のある物をも演(や)つてみたいとは思ひますが、何しろ一時(じ)金(かね)が入つたに連れて、生活(くらし)の程度を身分不相応に引揚げてるでせう。その故(せゐ)で自然収入(みいり)があるやうにと思つて見物に媚(こ)びる事になります。」と言つて、白粉刷毛(おしろいばけ)で鼻先をぞんざいに塗りたくつた。「好きな茶器も、つい買ひ度くなりますね。」
 何でも噂によると、高田は一つ一万円もする贋(にせ)の急須(きふす)を大事に蔵(しま)ひ込むでゐたさうだ。――贋の急須が買ひ度さに、贋の女の気に入りたさに、男といふものは、せつせと飛んだり跳ねたりする。強(あなが)ち高田ばかりではない。キングスレエも言つたぢやないか――「稼がにやならぬ男の身」さ。


 イネズ・ミルホオランド・ボアス※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン女史といふと、米国の女権論者のちやき/\で、加之(おまけ)に数へる程しか無い女流弁護士の一人(にん)として相応(かなり)名を売つてゐる女だ。
 この女弁護士と同じ建物のなかで、隣り合せに住んでゐる男が、ある時洋服を一着盗まれた。色々詮議の末が、門番の黒人(くろんぼ)に嫌疑がかゝつて、黒人(くろんぼ)は自分の部屋で朝食(あさめし)を食つてゐるところを押へられた。(忘れても用心しなければならないのは、凡(すべ)ての訪問客(はうもんかく)は大抵朝早く来るといふ事だ。)
 黒人(くろんぼ)は女弁護士に手紙を出して、熱心に自分の弁護を頼んだ。黒人(くろんぼ)を法廷で弁護するのは、黒人(くろんぼ)を天国へ引張りあげるよか、ずつと愉快な事に相違ない。何故といつて、天国へ引揚げられた黒人(くろんぼ)は、多時(しば/\)地獄へ落ちてゆくが、牢屋から出て来る黒人(くろんぼ)は、また同じ弁護士の事務室に顔出しするに極(きま)つてゐるから。
 女弁護士はその弁護を引請(ひきう)けて、法廷に立つた。そして色々の方面から熱心に喋舌(しやべ)つた効(かひ)があつて、黒人(くろんぼ)は巧(うま)く無罪になつた。
 黒人(くろんぼ)はその翌日朝早く女弁護士の事務室に入つて来た。そして、
「先生昨日(きのふ)は色々どうも有り難う御座いやした。」と白い歯を見せて追従(ついしよう)笑ひをした。「実際あの服は私(わつち)がちよろまかしたに相違ありやせんが、先生の弁護を聞いてると、何(ど)うやら私(わつち)が盗んだつてえのも怪しくなつて来やした。事によつたら、私(わつち)の仕事ぢや無かつたかも知れやせんぜ。」
 例の涜職(とくしよく)議員の公判記録を読んでみると、ある議員などは、自分で自分の附会(こじつけ)た議論に感心して、洋服を盗んだ黒人(くろんぼ)のやうに、涜職事件を、結局(つまり)は政事家らしい行動とでも思つてゐるらしく見られる。こんな人達は手で犯した罪よりも、ずつと大きな罪を頭の中で犯してゐる。


渓水の落款

10・1(夕)
 亡くなつた高田実は、道頓堀の劇場(こや)へ出る時には、いつも日本橋北詰(きたづめ)にある定宿(ぢやうやど)へ泊つたものだ。その旅館(はたごや)は高田を始め、新旧俳優の多くが巣のやうにしてゐるが、松井須磨子なども、文芸協会の往時(むかし)から、いつも其家(そこ)に泊つてゐる。
 ある時、須磨子が湯上りの身体(からだ)に派手な沿衣(ゆかた)を引掛(ひつか)けてとんとんと階段(はしごだん)を上(あが)つて自分の居間に入ると、ふと承塵(なげし)に懸つた額が目についた。従来(これまで)も幾度かこの部屋に泊り合はせてはゐたが、ついぞ目に着かなかつたものだ。さうかと言つて何も須磨子を責めるには及ばない。世の中には結婚後八年目に初めて女房(かない)の笑窪(ゑくぼ)を発見(めつけ)たものがある。亭主が有卦(うけ)に入(い)つて従来(これまで)隠してゐた真実(ほんとう)の年齢(とし)を打明けると、女房(かない)も、
「まあ、さうなの。ぢや私も言つてしまふわ。私かう見えても真実(ほんとう)は三十(ちやうど)なのよ。」
と、すつかり白状して初めて笑窪を見せたといふ事だ。つまり亭主は女房(かない)の年齢(とし)で笑窪を二つ購(か)つた事になつた。
 須磨子が見つけた額には、気取つた筆で無意味な文字を二三字擲(なぐ)り書(がき)にして、渓水と落款があつた。須磨子は、疳走(かんばし)つた声で「ちよいと先生」と呼んだ。すると隔ての襖が開いてセルの袴(はかま)を穿(は)いた先生がぬつと入つて来た。先生は言ふ迄もなく島村抱月氏である。
 須磨子は抱月氏の顔を見て、
「この額の渓水つて誰(だれ)なの。」
と一寸嬌(あま)えたやうな口を利いた。抱月氏は怠儀さうに額を見た。
「さあ、渓水といふと……金子堅太郎かな。確かあの人が渓水といつたやうに思ふ。」
と言つて胡散(うさん)さうな顔をした。
 丁度そこへ襖を開(あ)けて入つて来た座員の一人(にん)がそれを見て、
「この額ですか、こりや貴方、高田実ぢやありませんか。」
といふと、抱月氏は須磨子と目を見合せて、
「何だ、高田か。そんな物を吾々の部屋へは懸けて置かれないね。取外(とりはづ)したら可(い)いでせう。」
と詰らなささうな顔をしたが、それでも別に手を延ばして取(と)り下(おろ)さうともしなかつた。なに、気に入らないものは目を上げて見なければ好(い)いのだから。
 然(しか)し金子堅太郎と高田実と何方(どつち)が人間らしい仕事をしたかといふ段になると、誰でもが高田の方へ団扇(うちは)をあげる。


神通力

10・12(夕)
 近頃東京の文学者仲間に妙な神様が流行してゐる。神様といふのは、ある鉱山師の女房で、その女は何処かで掘出して来たらしい大黒さんを座敷に祠(まつ)り、そこに引籠つて、躄(ゐざり)を立たせたり、一寸した頭痛持を癒(なほ)したりしてゐる。
 お弟子は随分あるが、世間に聞えてゐる人達には、生田長江(いくたちやうかう)、小山内薫、沼波瓊音(ぬなみけいおん)、栗原古城(こじやう)、山田耕作、岡田三郎助などいふ顔触(かほぶれ)がある。なかにも沼波瓊音氏は家族を挙げて、その女神様(をんなかみさま)の許(もと)に入浸(いりびた)りになつてゐる。
 千里眼問題このかた、かうした女の好きな福来友吉(ふくらいともきち)博士が、ある時沼波氏を訪ねると、主人は乗地(のりぢ)になつて女神様のお蔭話を持ち出した。福来博士も夢中になつて膝を進めてゐると、急に夕立がざつと降り出して来た。
「困つたな。雨が降つて来た。僕は雨傘を用意して来なかつたが……」
と、福来博士は心配さうな顔をして空を見上げた。博士は心理学者だけに人間の事はよく注意してゐるが、お天道様(てんとさま)は雨降(あめふり)か雪降(ゆきふり)かで無ければ余り気には掛けてゐなかつた。
 その顔色を見て取つた沼波氏は、
「なに雨ですか。雨だつたらお帰途(かへり)までには屹度(きつと)止めて上げませう。」
と平気な調子で言つた。博士は一寸返事に困つた。
「いや、雨傘が拝借出来たら……」
「雨傘は荷厄介ですから」と沼波氏は蠱術(まじなひ)のやうに一寸自分の鼻を抓(つま)んでみせた。「いつそ雨を止めてしまひませう。」
 暫くして福来博士が帰る頃になると、果して夕立はからりと霽(は)れ上つてゐた。博士はそれを見てすつかり沼波氏の神通力に驚いてしまつた。――霽れたのに何の不思議があらう。相手は気短(きみじか)の夕立で、博士はお尻の長い話し好きである。


豆猿

10・13(夕)
 文展がまた開けた。入選した画家(ゑかき)の苦心談を読んでみると、大抵影に忠実な細君が居て、塩断(しほだち)茶断(ちやだち)をしたり、神様に百日の願を掛けたりしてゐる。女といふものはよく目端の利くもので、平素(ふだん)から良人(をつと)の腕前はちやんと見貫(みぬ)いてゐるから、その力量(ちから)一つで迚(とて)も背負(しよ)ひ切れないと見ると、直ぐ神様の許(とこ)へ駈けつける。
 日本の画家(ゑかき)がかうした目端の利く、忠実な女房をざらに持つてゐるのは実(まこと)に結構な事だが、支那では女の出来が日本ほど思はしくないので那地(あちら)の画家(ゑかき)は女房(かない)の他に今一つ豆猿を飼つてゐる。
 豆猿といふのは、ポケツトや掌面(てのひら)のなかにでも円(まる)め込んでしまはれさうな小さな猿で、支那でも湖南あたりにしか見受けられない奴(やつこ)さんだ。
 この豆猿は大層木炭が好きで、お腹(なか)が空(す)くと、直ぐ木炭を強請(ねだ)つて食べる。だが、画家(ゑかき)といふものは、時々(ちよい/\)木炭を購(か)ふ銭(ぜに)にも事を欠くもので、そんな時には猿は定(き)まつたやうに墨汁(すみ)の使ひ残しを嘗(な)める。
 何処の画家(ゑかき)でも墨汁(すみ)の使ひ残しに難渋するもので、幾ら忠実だからと言つて、女房(かない)にそれを食べさす訳にも往(ゆ)かないが、豆猿は好物だけに舌鼓(したつゞみ)を打つてぺろりとそれを嘗め尽してしまふ。
 だが、豆猿の好きなのは使ひ残しの墨汁(すみ)の事で、文展に落選した女画家(をんなゑかき)の涙までも嘗めて呉れるか、何(ど)うかは請合(うけあ)はれない。豆猿は余り水つぽい物は好かないさうだから。


結婚と奴隷

10・15(夕)
 米国はヰスコンシンの上院議員ラ・フオレツト氏の愛嬢フオラ・ラ・フオレツト女史は彼国(あちら)でも新しい女として名高い人で、先年脚本作家のヂヨルヂ・ミツドルトン氏と結婚したが、結婚後も良人(をつと)の姓は名乗らないで、矢張里方(さとかた)の娘の儘(まんま)で押通してゐる。
 何故そんなにするのだと訊くと、女史は、「真理」や「婦人問題」を語るには勿体ないやうな美しい唇から、「何事も婦人の独立のためです。」
と、きつぱり返事をする。
 フオラ女史のお友達に、婦人運動に憂身を窶(やつ)してゐる或る貴婦人があつた。この婦人がある時、民主党議員クラウド・キチン氏の夫人を訪ねた事があつた。
 女同士は夙(はや)くからの知己(ちかづき)ではあつたが、亭主のキチン氏と貴婦人とはまだ一度も会つた事が無かつた。
 丁度お天気の好(よ)い日だつたので、キチン氏は薄汚い園芸服に破けた麦稈帽(むぎわらぼう)を被(かぶ)つて、せつせと玄関前の花壇で働いてゐた。
 婦人は花壇の前で立停(たちどま)つた。凡(すべ)ての女は男が草掻(くさかき)をもつて、土塗(つちまみ)れになつてゐるのを見るのが、好きで溜らぬものらしい。婦人は一寸鼻眼鏡に手をやつて訊いた。
「爺や、御精(ごせい)が出るね。お前こちらの奥様(おくさん)のお宅に長らく御奉公してるの。」
「さうですね。もう相応(かなり)になりますな。」
「こちらはお給金は善(い)いのかい。」
「いや、もう漸(やつ)と食つて往(ゆ)けるだけでさ、てんと詰りません。」
 園芸服のキチン氏は、せつせと土を穿(ほじ)くりながら答へた。
 婦人は一足(あし)前へ乗り出して、身を屈(かゞ)めるやうにして、
「ぢや、宅(うち)へ来たら何(ど)うだい、食べるだけの、お小遺(こづかひ)も上げるよ。」
「有難う。」と麦稈帽は一寸お辞儀をした。「だが、一生涯こちらの奥様(おくさん)とここに御厄介になる約束をしてしまつたもんですからね。」
「え、一生涯! まあ可憫(かはい)さうに。」と婦人は小皺の寄つた顔をくしや/\させた。「そんな約束が何処にあるもんかね。まるで奴隷だわね。」
「さうかも知れませんね。」とキチン氏は土塗れの手をして立ち上つた。「だが、私共ではそれを結婚と申しますよ。奥さん。」


 文展の彫刻部に『瓢箪鯰(へうたんなまづ)』を出品した米原(よねはら)雲海氏は、この頃夜(よ)の眼も眠らないで、せつせと仁王さんを刻んでゐる。仁王さんは丈(ぢやう)六のかなり大きい木像だ。
 信濃の善光寺から七八里ばかしの村に近郷切つての富豪(かねもち)がゐる。女房(かない)は世間並に一人あるが、醜婦(すべた)で稼(かせ)ぎ人(にん)で、加之(おまけ)に子供を生む事を知らないので、金は溜る一方であつたが、夫婦とも揃ひも揃つた吝嗇坊(しわんばう)で、寄附事といつたら鐚銭(びたせん)一つでも出し惜みをした。
 先頃村に火事が起きて、近所は丸焼に焼けてしまつたが、その富豪(かねもち)の邸(やしき)のみは奇異(ふしぎ)と無事に助かつた。富豪(かねもち)はこれも全く神仏のお影だ、何か御恩報じしなければなるまいが、それにしては何処の仏さんに定(き)めたものだらうかと一寸思案をした。
 幸ひ長野には善光寺がある。自分の村からは汽車でも通へるので、お影を授かるには一番便利だからと、富豪(かねもち)は善光寺へ仁王さんを寄附する事にした。
 善光寺の如来さんは、富豪(かねもち)の殊勝な心掛に感心して、何か心許(こゝろばか)りのお礼をして遣(や)らねばなるまいと思つた。幸(さいはひ)富豪(かねもち)には子供が無かつたので、如来さんは子供を一人授ける事に定(き)められた。別に仏さんのお腹(なか)を痛める訳でも無いので、お礼にはこんな手頃なものは無かつた。
 富豪(かねもち)の女房(かみさん)は程なく一人の子供を生み落した。その子の顔を見ると、富豪(かねもち)は急に仁王さんの寄附が惜しくなつて来た。仁王さんには大抵一万円もかゝる予算だつたから。富豪は取りあへず寄附の申込みを取消して来た。
 それを聞くと、善光寺の世話方(せわかた)も吃驚(びつくり)したが、一番魂消(たまげ)たのは矢張(やつぱり)如来さんであつた。今更子供の取消(とりけし)も出来ないので、困つた事をしたものだと、可愛(かあい)らしい顔を顰(しか)めてゐたが、仕合(しあわせ)と小才(こさい)の利いた男が、
「今更そんな事を言つては、出来た嬰児(あかんぼ)にどんな罰(ばち)が当るかも知れないから。」
と言つて、漸(やつ)と富豪(かねもち)を説き伏せる事が出来た。
 二度ある事は三度あるで、又子供が出来でもすると、どんな事にならうかも知れないからと、米原氏はせつせと仁王さんを彫急(ほりいそ)いでゐるのだ。


 維也納(ウヰンナ)のある医者の報告によると(医者といふものは色々な報告をする。吾々はその報告に依つてナポレオンが男色好きだつた事や、医者自身が余り人間の事に通じてゐないのを知る事が出来る)、ある墺太利(オーストリー)の婦人は四十五歳の間に三十回姙娠して三十六人の子供を生んだ。そのうち四回は双児(ふたご)を産み、一回は三児(ご)を生んだといふ事だ。
 今市俄古(シカゴ)に住んでゐる、米国(アメリカ)の首歌妓(プリマ・ドンナ)シユウマン・ハインク女史は、無論声楽家としても聞えてゐるが、それよりも子供のたんと有る音楽家として名が通つてゐる。
 ハインク女史が舞台へ立つて一寸愛嬌笑ひでもしてみせると、屹度(きつと)大向うから、
「阿母(おつか)さん、しつかり頼みますぜ。」
といふ掛声がかゝる。成程乳房のだらりと垂れた工合から、下腹(したばら)のだらしなさ加減が、誰の眼にも子福者とは直ぐ判る。
 ある時若い画家(ゑかき)が女史を訪れて来て、肖像画を描(か)かせて呉れと頼んだ。「阿母(おつか)さん」はぷくぷくした自分の下(した)つ腹(ぱら)の辺(あたり)を眺めて、逡巡(もぢ/\)してゐると、若い画家(ゑかき)はにこ/\しながら一寸愛相(あいさう)をいつた。
「お気遣ひなさいますな、奥様。出来るだけ正直にやりますから。」
「いえ/\」と女史は笑ひ/\首(かぶり)を掉(ふ)つた。「私何も正直に描(か)いて戴きたいんぢやありませんわ。どうぞ出来るだけ御贔屓振(ごひいきぶり)をお見せなすつてね。」
 画家(ゑかき)はこの一刹那(せつな)女史の顔中の皺が一緒くたになつてお辞儀をしてゐるやうに思つたといふ事だ。


性慾錯乱

10・18(夕)
 人間に性慾の錯乱があるのは、誰でもが熟(よ)く知つてゐる事だが、鳥類にもそれがある。唯(たゞ)鳥類にそんな間違があるからといつて、余り喧(やかま)しく言ひ立てる事だけは止(よ)して貰ひたい。鳥は人間程道徳的でないから、事によると顔を赧(あか)めるかも知れない。
 ある学者の報告によると、その男の飼つてゐた一羽の孔雀(くじやく)は、どうかすると鶏小舎(とりごや)のなかへ忍び込んで、おめかしやの雄鶏(をんどり)の後(あと)をせつせと追ひ廻したさうだ。孔雀はその前の年に雌に死別れた男鰥(をとこやもめ)だつたのに、雌鶏(めんどり)には一向見向きもしないで、鳥冠(とさか)の紅(あか)い雄鶏(をす)ばかりをつけ廻してゐた。
 また或る鵞鳥(がてう)は、自分の雌を殺されて(雌が牧師の胃の腑に納まつたか何(ど)うかは知らないが、牧師は気持よささうに鵞鳥の殺されるのを見てゐた)このかた、同じ家(うち)の狗(いぬ)に惚れだした。狗が外から帰つて来ると、嬉しさうに我鳴り立てるし、狗が日向ぼつこでもすると、自分もその前に蹲踞込(しやがみこ)んで、太い嘴(くちばし)で相手の鼻つ先を突(つゝ)き廻したりする。
 飼主が見かねて、雌を一羽当てがつたが、鵞鳥はそれに振向きもしないで、狗が迷惑さうな顔をするにも頓着(とんぢやく)なく、相変らずべたべたしてゐたさうだ。
 政党にもよく性慾の錯乱がある。政友会はその何よりも好(よ)い例である。


お国自慢

10・19(夕)
 米国の戦時通信記者として名高いゼエムス・バアンス氏が、今度の戦争の当初、白耳義(ベルジユーム)にゐた折の事、ある日ブラツセルの市街(まち)を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(ぶらつ)いてゐると、前方(むかう)から独逸の自動車が一輛(りやう)風を切つて飛んで来た。その一刹那バアンス氏の頭には、
「奴(やつこ)さん、てつきり独探(どくたん)だな。」
といふ考へが矢のやうに閃(ひらめ)いた。
 と、見ると、その後(うしろ)から白耳義の自動車が一台、獣(けもの)のやうに唸(うな)りを立てて追駆けて来るのが目についた。
「面白いぞ、どんな芸当をやるだらうな。」
 バアンス氏は胸をわく/\させながら、この自動車の駈(か)けつ競(くら)に見惚(みと)れてゐた。
 白耳義の自動車は、全速力を出して漸(やつ)と追着いたと思ふと、獣が餌を捉(つかま)へる折のやうに、いきなり運転手台を、相手の尻つ骨に乗り揚げて、車台も前輪(まへわ)も滅茶滅茶に押し潰してしまつた。
「巧(うま)いぞ。とうと遣(や)つつけた。」
とバアンス氏は直ぐ現場に駆けつけてみた。
 擦(かす)り創(きず)一つ負はなかつた白耳義の運転手は、にこにこもので其辺(そこら)の群集(ひとごみ)を見廻してゐたが、ふとバアンス氏の亜米利加式の顔が目につくと、いきなり帽子を脱いで頭の上で揮(ふ)りまはした。
「いよう、亜米利加の先生……」と運転手は大きな声で我鳴り立てた。「今の芸当だね、あれを何処で習つたと思はつしやる。一年前紐育(ニユーヨーク)の大通(おほどほり)で、せつせと辻自動車(タキシ)を扱(こ)き使つたお蔭でさ。」
「紐育の大通で習つたからだと言つてたよ。彼奴(あいつ)めが……」
とバアンス氏は、それからといふもの、会ふ人毎(ごと)にお国自慢をしてにこ/\してゐる。アメリカ人といふ奴は、巾着切でも、人殺しでも良(い)い、これはアメリカから習つたのだとさへ言へば、自分の財布を掏(す)られても、女房の心(しん)の臓を引抜かれても平気でゐる。


女中の返事

10・20(夕)
 上田敏博士が文科大学教授として初めて京都の土を踏んだ時、腹が空いてゐたので、停車場(ていしやぢやう)近くの或る旅館(はたごや)へ飛込んで、昼飯(ひるめし)を急(せ)き立てたことがあつた。
 女中がいそいそ持ち出して来た膳部を見ると鯛の塩焼だの、鱸(すゞき)の洗ひだのがごたごた一所(しよ)に並べてあつた。博士は水つぽい吸物(すひもの)を啜(すゝ)りながら、江戸つ子に附物(つきもの)の、東京以外の土地は巴里(パリー)だらうが、天国だらうが、みんな田舎だと見下(みくだ)したやうな調子で、
「ほう、京都にも鯛や鱸があるんだね。一体何処から来る?」
と訊いてみた。
 女中は博士の好きな希臘(ギリシヤ)彫刻のやうな冷い顔をして、眉毛一つ動かさないで、
「須磨や明石のあたりから。」
と言つて、その儘(まゝ)じつと唇(くち)を噤(つぐ)んだ。
 博士はその折(をり)鯛の塩焼を突(つゝ)ついてゐたが、吃驚(びつくり)して箸を持つた儘女中の顔を見た。女中は笑つたら所得税でも掛るやうに、両手を膝の上に重ねて、ちやんと済ましてゐる。
 博士はその折、女中が自分の膝側(ひざわき)に朱塗の櫓(やぐら)のやうな物を置いてゐるのを見つけた。それを漬物台と知らうやうのない博士は一寸覗き込むやうにして、
「姐(ねえ)さん、その櫓みたいな物には、何が入つてるんだね。」
と訊いてみた。
 女中は矢張眼を伏せたまゝ、『千本桜』の若葉(わかば)の内侍(ないじ)のやうに上品に口をつぼめて、
「海の物やら山の物やら。」
と答へた。そしてその海の物や山の物を出し惜しみをするやうに、心持(こゝろもち)後ろへ引張つた。
 博士はトラムプの水兵(ヂヤツク)が『百人一首』のなかに紛れ込んだやうな、勝手違ひな変な顔をして、二度ともう口を利かうとしなかつた。そして昼飯(ちうはん)を済ますなり、直ぐ表へ飛び出して、逃げるやうに大学の構内へ俥(くるま)を走らせた。大学は世間体(せけんてい)最高学府といふ事にはなつてゐるが、誰一人この女中程上品な口を利かなかつたし、それに揃ひも揃つてお喋舌(しやべり)が過ぎた。


牧師の杖

10・21(夕)
 ある牧師がすつかり上機嫌でいつものやうに、杖(ステツキ)を小腋(こわき)に抱へ込んで市街(まち)をぶらぶら散歩してゐると、ふと途(みち)の片側に乞食が一人衝立(つゝた)つて、往来(ゆきき)の人にお鳥目(てうもく)をねだつてゐるのが目についた。
 牧師は自分の住(すま)つてゐる界隈に、乞食が迂路(うろ)つかうなどとは夢にも思はなかつた。(何処の国でも宗教家といふものは、富豪(ものもち)のなかに住んで、「貧乏」を説くのが好きなものだ。)で、づか/\とその側(そば)に歩み寄つたと思ふと、いつもお寺でするやうに、額へ一寸手を当てがつて、
「神よ、この哀れなる者をお恵み下さい。」
と言つて、その儘(まゝ)立ち去らうとした。
「ちよいと旦那様……」と乞食は牧師を呼びとめた。「御祈祷(おいのり)は有難うがしたが、神様は迚(とて)も俺(わし)らが許(とこ)には御座らつしやるまいから、此方(こつち)から出向きますべい。近頃御無心な次第ぢやが、その杖(ステツキ)をお貸し下さるまいかな。」
と乞食は垢塗(あかまみ)れの手でその杖(ステツキ)に触らうとした。
 牧師は慌てて杖(ステツキ)を引込(ひつこ)めた。杖(ステツキ)といふのは、さる富豪(ものもち)の寡婦(ごけ)さんが贈つて来たもので、匂ひの高い木に金金具(きんかなぐ)が贅沢に打ちつけてあつた。牧師は死ぬる時は天国にまで持つて往(ゆ)く積りで、この世では成るべく汚(よご)すまいとして、いつも小腋に抱へ込んで歩いてゐたものだ。
 牧師は叱るやうに言つた。
「基督も『窄(せま)き門より入(い)れよ』と仰有つたぢやないか、お前達がこんな杖(ステツキ)なぞ持つてたら窄い門を入るのに邪魔にならあ。」
「へへへ……」と乞食は無気味な笑ひ方をした。「御心配さつしやりますな。その窄い門とやらに入ります前に、俺(わし)ら杖(ステツキ)を売る事を知つとりますな。」
 これは英吉利(イギリス)のある田舎町であつた事で、大阪であつた事ではない。大阪では牧師は乞食などに見向(みむき)もしない。そして杖(ステツキ)や聖書の代りに汽車の時間表をポケツトに入れてゐる。彼は神様よりも可愛(かあい)い女房子(にようばうこ)が、郊外の家に待つてゐるのを知つてゐる筈だから。


鵞鳥

10・22(夕)
 ずつと以前(まへ)、丁度この頃のやうな秋日和に東京の近郊、雑司(ざふし)が谷(や)の附近(あたり)を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(ぶらつ)いてゐると、一人の洋画家が古ぼけた繻子張(しゆすばり)の蝙蝠傘(かうもりがさ)の下で、其辺(そこら)の野道をせつせと写生してゐた。
 そこには美しい灌木(くわんぼく)が二三本風に吹かれて立つてゐた。洋画家はそれを描(か)かうとして、幾度か刷毛(はけ)を取り直してゐたが、何(ど)うしても思ふやうに描(か)けないので、自暴(やけ)を起したらしく、すつと起(た)ち上つたと思ふと、いきなり駈け寄つて、手当り次第にその灌木をへし折つてしまつた。この洋画家は誰でもない、中村不折(ふせつ)である。
 その不折が喧(やかま)しく言ひ立てる王羲之(わうぎし)は、大層鵞鳥が好きだつた。その頃近所に姥(ばあ)さんが居て、鵞鳥を一羽飼つてゐた。美しく鳴くので王羲之はすつかりそれに惚れ込んでしまつて、姥さんの顔さへ見ると、
「どうだ、あの鵞鳥を売つて呉れないか、値段は幾らでも出すから。」
と懸合(かけあ)つてみるが、姥さんはなか/\諾(うん)と言はなかつた。
 ある時仲のいゝ友達が王羲之を訪ねて来て、例(いつも)のやうに鵞鳥の談話(はなし)をし出した。王羲之は、
「鵞鳥といへば、近所の姥さんが素晴しく立派なのを飼つてる。後(あと)から見に出掛けよう。」
と言つて、態々(わざ/\)使(つかひ)を立て、姥さんにその由を申込んで置いた。
 暫く経(た)つて出掛けてみると、姥さんは色々の御馳走を出して饗応(もてな)して呉れた。
「御馳走も結構だが、例(いつも)の一件だね、那奴(あいつ)を一寸見せて貰つた上で、ゆつくり戴きたいもんだね。」
と王羲之が言ふと、姥さんは気(け)もない顔でこんな事を答へた。
「あの鵞鳥の事を言はつしやりますのか。あれは汝(おまへ)折角のお越ぢやからと思つて、たつた今絞め殺して汁の身に入れときましたぢや。」


女の泣顔

10・23(夕)
 アメリカのペンシルヴアニヤ州のクリヤフイルド市にヘンズレエといふ今歳(ことし)とつて十九になる妙齢(としごろ)の娘がある。町内きつての縹緻(きりやう)よしなので、そんぢよ其辺(そこら)の放蕩息子(どうらくむすこ)がそれとなく言ひ寄るが、娘はてんで見向きもしなかつた。
 ところが、近頃米墨(べいぼく)両国の間に、行違ひが頻(しきり)に起きるので、米国政府は国境に向つてどん/\兵隊を送り出す。それを見たヘンズレエ嬢は、毎日朝つぱらから停車場(ていしやぢやう)に詰めて、兵士を載せた汽車がプラツトフオームに着くと、飛蝗(ばつた)のやうに飛んで往つて、汽車の窓に捉(つか)まつた儘(まゝ)、誰彼の容捨なく接吻(キツス)をする。
 兵士達はみんな大喜びに喜んで雀のやうに口を鳴らしてゐる。何でも今日まで千名許(ばか)しの兵士を喜ばせたさうで、意固地(いこぢ)な牧師の細君(かない)などはおつ魂消(たまげ)てしまつて、
「まあ、飛んでもない。今に神様のお怒りで、鶏卵(たまご)とキヤベツの値が上るに違ひない。」
と言つてゐるが、ヘンズレエ嬢は済ました顔で、
「お国の為(た)めだと思へば接吻(キツス)位何でもない。」
と洒蛙々々(しやあ/\)してゐる。
 林歌子や矢島楫子(かぢこ)などのお婆さんが棒頭(ぼうがしら)になつて、二百余名の婦人達が飛田(とびた)遊廓の取消請願をその筋に持出したのは近頃結構な事だ。――実際結構な事には相違ないが、あの人達がもつと若く、もつと美しかつたなら、一段と結構な事に相違なかつたらう。
「真理」や「道徳」は、今日まで長い間気の弱い男や、醜い女と道伴(みちづれ)となつたので懲々(こり/″\)してゐる。近頃は強い男と、美しい女と一緒でなければ滅多に尻を揚げようとはしない。
 婦人運動者にお勧めする。大抵の事は辛抱するが、何(ど)うか善い事をする時に、泣き顔だけは見せないやうに願ひたい。


俳優の盗み

10・24(夕)
 英国の名高い俳優某(なにがし)がある時、倫敦(ロンドン)の煤(くす)ぼつた市街(まち)をぶら/\歩いてゐると、大きな紙包を抱へ込んで、ある雑貨屋から飛び出して来た男が、ふと俳優の顔を見るなり、急ににこ/\してその前に立(た)ち跨(はだ)かつた。
「いよう久し振だな。」その男は言つた。「馬鹿に艶々(つや/\)した顔をしてるぢやないか、何を食つてるんだね、近頃は。」
 その俳優(やくしや)は名代の食道楽で、数ある珍味のなかで、とりわけ牛の脳味噌と女の心(しん)の臓とが一番好きだつた。紙包を抱へた男が「何を食つてるね。」と訊いたのは、その実「どんな女が出来たかな」といふ積りであつたらしかつた。
「うむ、雛児(ひよつこ)ばかり食(や)つてるのさ。」と俳優(やくしや)は可愛(かあい)らしい口元をして言つた。「君も知つてるだらうが、今度の劇(しばゐ)に僕の持役は、そら泥的(どろてき)と来てるだらう。実を言ふと、僕はこの齢(とし)になつて、まだ泥棒をした事が無いんだから、巧(うま)く往けるやうにと思つて、毎日宅(うち)の鶏小舎(とりこや)から雛児を盗んでは、それを料(れう)つてるんだあね。」
「へえ、雛児を盗んでるつて毎日……」
と友達は大事さうに紙包を左の腋下(わきした)に持ち替へながら、可笑(をか)しさうに首(かぶり)を振つた。
「うむ、毎日食(や)つてるが、今日でもう卅羽(ぱ)も食つたかな。お蔭で顔もこんなに若くなり泥的もすつかり巧くなつたよ。」
と俳優(やくしや)は自慢さうに、雛児を盗み出す自分の両手でもつて顔を撫でてみせた。
 中村鴈治郎が、北陽(しんち)の芸妓(げいこ)喜代治と、だらしのない恋をしてゐるのは、鴈治郎自身の言(い)ひ前(まへ)によると、いつ迄も色気を無くさないで、若くありたい為めの事らしい。
 成程聞いてみると、結構な訳だが、唯それだけの事なら、いつそ英吉利の俳優(やくしや)と同じやうに、自分許(とこ)の雛児を盗み出したが、一番手つ取早い。雛児の卅羽(ぱ)も取り出すうちには、顔も艶々(つや/\)しくなる上に、立派な芸さへ覚える事が出来る。


石碑と文展

10・25(夕)
 むかし唐の欧陽詢(おうやうじゆん)が馬に乗つて、ある古駅(こえき)を通りかゝると、崩れかゝつた道(みち)つ端(ぱた)に、苔のへばりついた旧(ふる)い石碑が立つてゐるのが目についた。碑の文字は瞥見(ちよつとみ)にも棄て難い味はひがあつた。
 丁度そこへ百姓が一人通りかゝつた。手には引いたばかしの大根を提(さ)げてゐる。欧陽詢は「一寸……」と言つて呼びとめて訊いてみた。
「この碑は誰(だれ)の書だね、お前知つては居なからうな。」
「知らねえと思ふ人間(ふと)に何故聞かつしやるだ。」と百姓は蟷螂(かまきり)のやうに※(「弗+色」、第3水準1-90-60)(む)くれた顔をあげた。「これはあ、索靖(さくせい)といふ偉(えれ)え方の書だつぺ。」
「ふむ、索靖か」
と、欧陽詢は百姓の方には見向きもしないで、馬を駐(と)めた儘(まゝ)、じつと石碑の文字に見惚(みと)れてゐた。馬は幸福(しあはせ)と文字の鑑定(めきゝ)が出来なかつたので、その間(ま)にせつせと道つ端の草を食べてゐた。
 暫くすると、欧陽詢は気が注(つ)いたやうに馬を促立(せきた)てた。馬は食べさしの草を啣(くは)へた儘ぽか/\と歩き出した。漸(やつ)と小(こ)一丁(ちやう)も来たかと思ふと、欧陽詢はだしぬけに手綱を引張つて馬を後退(あとかへ)らさうとする。馬はむら気(ぎ)な主人の仕打を笑ふやうな顔をして、また後退りをした。
 欧陽詢は馬から飛び下りて、石碑の前に立つた。そして、
「巧(うま)いな。」
と言ひ言ひ、小首を傾(かし)げた儘いつ迄も/\じつと文字に見惚(みと)れてゐたが、とうと立(た)ち草臥(くたび)れたかして、馬の背(せな)から敷物を取り下してその上にべつたり尻をおろした。
 そしてその晩も、翌(あく)る晩も、また翌る晩もその石碑の下(もと)に野宿をして、じつと石碑の文字に惚々(ほれ/″\)してゐるので、馬はとうと腹を立てて、其処(そこら)の草(くさ)つ原(ぱら)にごろり横になつた。横になつたからと言つて、馬は猫や大学教授のやうに哲学なぞは考へない。馬は日本の実業家と同じやうに食ふ事と雌の事ばかり考へてゐる。
 欧陽詢が馬を起して、漸(やつ)と石碑のとこを去つたのは、丁度四日目の朝だつたさうで、彼が索靖の文字にどんなに心を牽(ひ)かされたかが、これでよく判る。
 文展には色々の大家名家が数知れず出品してゐるが、ある批評家は、あのなかを唯(たつた)四十五分で見歩く事が出来ると自慢してゐる。欧陽詢と好(い)い比べ物である。


名士と好物

10・26(夕)
 露西亜の文豪プウシキンは自分が職業的詩人で無いのを見せるために、他(ひと)と話す時には成るべく文学の事なぞは話さないで、馬だの、骨牌(かるた)だの、料理だのの事ばかし話してゐたといふ事だ。
 その癖亜剌比亜(アラビア)馬とは何(ど)んな馬をいふのか、一向区別(みさかひ)がつかず、骨牌の切札とはどんなものか、それも知りもしなかつた。とりわけ酷(ひど)いのは料理で、仏蘭西式の本場の庖丁加減よりも、馬鈴薯(じやがいも)の天麩羅(てんぷら)が好きで、何かといふとそればかりを頬張つた。
 名士の好物調べも一寸面白いものだが、こゝに少しばかり挙げると、頼山陽は餅、梁川(やながは)星巌は羊羹、佐藤一斎は蕎麦(そば)、大橋訥庵(とつあん)は鰻の蒲焼、鈴木重胤(しげたね)は五目鮨(ごもくすし)が大好きであつた。
 菊池容斎は寺納豆(てらなつとう)、藤田東湖は訥庵と同じやうに鰻の蒲焼、森春濤(しゆんとう)は蚕豆(そらまめ)、生方鼎斎(うぶかたていさい)はとろゝ汁、椿椿山(つばきちんざん)は猪肉(やまくぢら)、藤森弘庵は鼠のやうに生米(なまごめ)を囓(かじ)るのが好きで好きで溜らぬらしかつた。
 ある西洋の学者の説によると、人間一生の間に食べるものは、七千二百九十一貫六百四十八匁(もんめ)の食物(しよくもつ)と六千六百四貫六百四十匁の飲料とが要るさうだ。女は男よりも比較的菓子が好きで、女一生の間に食べる菓子類は、ざつと見積つたところで四百十九貫三百二十八匁を下るまいとの事だ。
 女の名家がどんな物を好くかといふ事は、余り興味の無い事で、女は男のお世辞とお菓子とを等分に好くと思へば間違(まちがひ)はない。だが、何方(どちら)も人によつて砂糖の加減をしなくてはなるまい。


 むかし柴田是真(ぜしん)が鈴木南嶺の添書(てんしよ)を持つて京都へ入つて来た。「笠につく蝶と一つに都入り」といふのは、その時の句ださうで、一向詰らないものだが、こんな句よりも京都に来て山陽や景樹(かげき)や豊彦やに会つたのは、彼の生涯にとつて忘れられない事柄だつた。
 是真はその折塩川文麟をも訪ねた。文麟は、
「折角の珍客(ちんかく)やさかい、一献(こん)やりまほか。」
と、是真を木屋町(きやまち)の料理屋に案内した。
 料理屋の二階からは、紫ばんだ東山の夕景色が絵の様に見えた。灰色の靄(もや)の底に鴨川の水が白く流れてゐるのも捨て難い趣(おもむき)であつた。文麟はそれを指ざしながら言つた。
「どうどす。お江戸は将軍家のお膝下(ひざもと)やさうどすが、まさかこんな美(い)い景色はたんとおすまい。」
 先刻(さきがた)から文麟の土地(ところ)自慢に虫の居所を悪くしてゐた是真は、それを聞くと、
「ほんまにたんとおへんな。」
と調弄気味(からかひぎみ)に京訛(きやうなまり)を一寸模(まね)てみせて、
「だけどさ、京都にはこの景色が描(か)ける画家(ゑかき)はたんと有るまいて。」
と、江戸ツ子一流の※(「くさかんむり/斂」、第4水準2-87-15)(ゑぐ)い皮肉を投げつけたので、文麟は目を白黒させたといふ事だ。
 それは京都の景色の事。今大和の法隆寺村に隠棲してゐる北畠治房男(だん)の狂人染(きちがひじ)みた眼の色から顎髯(あごひげ)の長く胸元に垂れかゝつた恰好を、ある洋画家が甚(ひど)く賞(ほ)め立てておいて、
「如何(いかゞ)です、私に一つ描(か)かせて下さいませんか。」
と頼んでみた。
 すると老人はじろりとその画家(ゑかき)の顔を見た。
「お前は油絵描(か)きだつたな。」
「さうです、油絵描(か)きです。」と画家(ゑかき)は無気味さうに答へた。
「五六年司馬江漢でも研究しろ。」と老人は喚(わめ)くやうに言つた。「そしたら描(か)かせんとも限らん。」
 画家(ゑかき)はその声に吃驚(びつくり)して弾機細工(ばねざいく)のやうにお辞儀をしたが、その瞬間、この老人がそれ迄達者でゐるだらうかと思つて、また一つお辞儀をした。


 京都高等工芸の中沢岩太博士が洋画を描(か)くのは、世間によく聞えた事実で、博士自身は、
「閑(ひま)な折、ちよい/\浅井黙語君に見て貰つたといふばかしで、てんでお話にもならんさ。」
と言つてはゐるが、真実(ほんとう)はいつぱし画家(ゑかき)の積りでゐるらしい。
 以前菊池大麓(だいろく)氏が文部大臣を勤めてゐた頃、ある宴会で誰かがこの話を持ち出した。すると、大麓氏は、「へえ、中沢君が油絵を描(か)く。」と言つて、不思議さうに卓子(テーブル)の向側(むかうがは)にゐた中沢博士の顔を見た。「それは初耳だ、真実(まつたく)ですか。」
 中沢博士は「ははは……」と言つて、あんぐり口を開(あ)けて笑つたばかしで、別に描(か)くとも描(か)かないとも判然(はつきり)返事をしなかつたが、腹の内(なか)では、
「大麓め、まだ俺の絵を見た事も無いと見えるな、迂濶だなあ。」
と位は思つてゐたらしかつた。
 大麓氏は大臣らしい物の言ひ方をしようと思つて注(つ)ぎさしの平野水(ひらのすい)を一杯ぐつと飲んだ。
「ぢや、是非一枚描(か)いて貰はう、中沢君の物なら、吾輩喜んで書斎に掲(か)ける。」
 大麓はかういつて、両手を胸の上でX(エツキス)といふ字に拱(く)んだ。根が数学者だけに文字の恰好もよかつた。
「有難う。」と言つて中沢氏は禿げた頭を一寸下げた。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて大麓さんも口を開(あ)けて大臣のやうに作り声をして笑つた。
 その後奥田義人氏が文部大臣になつた時、ある所で中沢博士と顔が合ふと、奥田氏も大麓さんと同じやうに油絵を一枚呉れろと言ひ出した。(大臣などいふものは、誰でも同じ事を仕(し)たり、言つたりするよか仕方がないのだ。)
 それを聞くと、中沢博士はまた「有難う。」と言つて頭を下げたが、以前に比べると、余り禿げ過ぎてゐるので、一寸手加減をした。「折角ですが、お断りしませう。吾々は服務規則で上役に物を贈る事は出来ませんからな。」
「成程な。」と言つて、奥田氏はにや/\笑つてゐたが「だが君、それは値段のある物の事だらう。まさか君の描(か)いた絵が値段もあるまいぢやないか。」

「なんぼ悧巧でも、美術の鑑賞(めきゝ)はまた別の物さ。」
 画家(ゑかき)はよくこんな事をいふが、中沢博士もそれからといふもの、奥田氏に対してこんな考へを有(も)つて居るかも知れない。博士も画家(ゑかき)の一人だから。


椅子

10・31(夕)
 オルガ・サマロフ女史がある時音楽会を開いた。女史がいつも出演する折のやうに、その夜(よ)も聴衆(きゝて)は会場にぎつしり詰つて、身動きの出来ない程であつた。
 そこへ髪の毛の長い、お洒落な紳士が一人入つて来た。一体どこの芝居でも、どこの音楽会でもお洒落な男や女は大抵人が一杯詰まつた頃に、のつそり入つて来るものなので、彼等はかうして満場の視線を自分の身一つに集める事に、ぞく/\した嬉しさを感ずる。
 だが、その紳士は余り念入りに髪の毛に香水を振りかけてゐた故(せゐ)で、入つて来るのが二分方(がた)遅過ぎた。何処を見渡しても椅子一つ空(あ)いてゐないので、紳士は少しどぎまぎした。
 もともと見え張りの男だけに椅子が無いなと気が注(つ)くと、いきなりその晩の演奏者サマロフ女史の許(もと)へ駈けつけた。
「どこも椅子が無くて閉口してゐる所なんです。貴女(あなた)のお口添で一つ捜して戴けないでせうか。」
 女流音楽家はじろりと相手の顔を見た。
「私の坐る席が一つ明いてます、何ならお使ひになつても苦しくありません。」
「有難う、何処で御座います。」
と紳士はぴよこ/\お辞儀をした。
「ピアノの前なんです。」
 女史は気(け)もない風(ふり)で言つた。紳士は吃驚(びつくり)して馬のやうな顔をした。


 大阪劇団の恩人として、優に大近松以上の手柄を興行上に残した竹田出雲の墓は、今日迄かいくれ判らなかつたのを、今度浄曲研究家木谷蓬吟(きたにほうぎん)氏の手で偶然(ひよつくり)発見せられた。
 それは生玉寺町(いくたまてらまち)青蓮(しやうれん)寺の墓地で、この寺は明治三年神仏混淆(こんかう)の時にお廃止になつた生玉東門(とうもん)の遍照院の後身である。
 出雲の法名は「文明院(ぶんみやうゐん)岑松立顕居士(しんしようりつけんこじ)」で、同寺保存の旧過去帳を見ると、宝暦六年十一月四日歿といふ事になつてゐる。従来(これまで)の記録に十月二十一日とあるのに比べると、十二三日生延びてゐた事になる。歴史や記録やは、時によると医者よりも手荒い療治をする事があるものだ。
 この墓地(はかち)には、出雲の外(ほか)に、その女房子(にようばうこ)と、親父(おやぢ)の近江(あふみ)、兄弟など六十幾人かの墓が並んでゐる。過去帳にも竹田氏一族五十余名の名前がちやんと書き残してあるのを思ふと、竹田一族が寛文以後七八十年の間豊(ゆたか)に生活を送つてゐた事がよく判る。出雲の父近江は竹田のからくり芝居の元祖で、自分が発明した砂からくり、水からくりの人形自動劇を竹田の芝居で打つて素晴しい成金となつたのは、その頃流行(はや)つた、
「大阪道頓堀竹田の芝居
銭(ぜに)は安いが面白い。」
といふ俗謡でもよく推察し得られる。
 出雲は二男か三男からしく、相応(かなり)な資本(もとで)を父から頒(わ)けられると、それでもつて竹本座の操(あやつ)り芝居を買取つて、座主、興行主(ぬし)、兼作者として奮闘し、正面の床(ゆか)を横に、人形遣ひ(てすり)を三人に改めたり、背景や変り道具を試みるといつた風に、色々と舞台向(むき)の改革を施して、その多くは成功した。
 かういふ劇界の功労者の墓が、蓬吟氏の手で発見(めつけ)られたのは喜ばしい事だ。今浪花(なには)座で『忠臣蔵』を演(や)つてゐる鴈治郎なども、お軽(かる)の道行(みちゆき)のやうな濡事(ぬれごと)を実地行(や)る閑(ひま)があつたら一度青蓮寺に参詣(まゐ)つたがよからう。


 亜米利加のある田舎に居酒屋があつた。そこの女将(おかみ)は娘のうちから出嫌ひの上に、店の仕事が忙しづくめなので、十年許(ばか)りといふもの、滅多に戸口から外へ出なかつた。
 さうかうする間(うち)、女将は多くの居酒屋の亭主にあるやうに、むくむく肥(ふと)り出した。脂ぎつた顔が河馬(ヒポポタマス)のやうにだらしなくなりかけると、客足は現金なもので毎日のやうに寂(さび)れ出した。
 つい手許(てもと)が不如意なので、女将は租税を納めるのを怠つた。一体租税とか女房(かない)から頼まれた手紙とかいふものはよく忘れ勝なもので、そんな物を忘れたり、怠つたりした所で、一向掛構(かけかま)ひの無ささうなものだが土地(ところ)の収税吏は怖い顔をして催促に出掛けて来た。
 収税吏は痩せた男だつた。痩せてゐるだけに女将の脂ぎつた顔を見ると、つい胸が悪くなつて、悪口(あくこう)の二つ三つを投付けた。すると女将はいきなり大きな掌面(てのひら)でもつて収税吏の横(よこ)つ腹(ぱら)を押へてぐつと締めつけた。羸弱(ひよわ)な役人の腹は薄荷(ペパミント)酒の空壜(あきびん)のやうな恰好になつた。
 収税吏は女将の手許を潜りぬけて、空壜のやうに表へ転がり出したと思ふと、直ぐ巡査を連れて戻つて来た。暴行犯として女将を拘引しようといふのだ。
 巡査は女将の手首を掴(つかま)へて、表へ引張り出さうとはするが、肥つた女の体躯(からだ)が入口に一杯になつて何(ど)うにも仕方が無い。強ひて拘引しようとすれば、入口を毀(こは)さなければならぬ。巡査にそんな力は与へられてゐないので、二人は仕末(しまつ)に困つて、ぶつ/\言ひながら引揚げたさうだ。


 画家(ゑかき)の田能村直入(たのむらちよくにふ)は、晩年年齢(とし)を取る事が大好きになつて、太陽暦で八十の齢(とし)を迎へてまだ二月(つき)と経たぬうちに、旧暦のお正月が来ると、
「さあ、俺も八十一になつたぞ。」
と、すつかりその積りで、他(ひと)に齢を問はれると、「確か八十一ぢやつたかな。」と答へたものだ。
 他(ひと)がそれを真実(ほんとう)に受けると、直入はいゝ気になつて盆節季や、祇園祭といつたやうに、世間が酒や金勘定に夢中になつて、画家(ゑかき)の事なぞ、すつかり忘れてゐる頃に、また一つ宛(づつ)年齢(とし)を殖やしておく。偶(たま)にそれに気付いたらしい相手が、
「へい、八十八におなりやす? でも、昨年の春どしたか、八十三やさうに、お聞き申しましたが……」
と胡散(うさん)さうな顔でもすると、直入は急に風邪でも引いたやうに嚏(くさめ)をして、
「齢をとると、月日が短かうての。」
と言ひ言ひしたものだ。
 鈴木松年氏はこの二三年来外へ出掛ける時には、いつも珠数(じゆず)を一つ袂(たもと)の底へ投げ込んで置く事に定(き)めてゐる。だが偶(たま)に清水(きよみづ)へ参る時はあつてもそんな折には袂の珠数はすつかり忘れてしまつて、松年氏は観音様の前へ立つなり、持合せの両手を合せて、一寸お辞儀をする。その両手といふのは、従来(これまで)幾度か観音様を半殺しにした事があるので、仏様はそれが目につくと、急に生娘(きむすめ)のやうに真青な顔になつて、平素(ふだん)のたしなみも何も忘れてお了(しま)ひになる。
 ある人がそんなに使ひもしない珠数を何故袂に入れておくのだと訊くと、松年氏は、
「俺も御覧の通り老(とし)が寄つたでの」と死神に立聴きでもされないやうに、急に声を低めて、「何時何処で死ぬかも知れんやらう、そんな折に他(ひと)が袂を触つてみて、松年さんは偉い、ちやんと死ぬる日を知つてはつて、袂に珠数を入れときやしたと言つて感心するやらう。」と言つたといふ事だ。
 序(つい)でに松年氏に教へる。片つ方の袂には毎日一銭銅貨を一つ入れておく事だ。頓死でもしたらその儘(まゝ)六道銭にもならうし、死ななかつたら代りに夕刊新聞を買ふ事が出来る。夕刊には画家(ゑかき)の知らない、色んな面白い世界が載つてゐる筈だ。


富岡鉄斎

11・5(夕)
 画家(ゑかき)仲間の達者人(たつしやじん)といはれた富岡鉄斎翁も近頃大分(だいぶん)耄(ほう)けて来た。狡(ずる)い道具屋などはそれを好(い)い事にして、よく贋物(にせもの)を持ち込んでは、巧(うま)く箱書(はこがき)を取らうとする。先日(こなひだ)もある男が一幅(ぷく)そんなのを抱へ込むで来た。
 鉄斎翁は眼鏡を透(とほ)して、うそ/\見てゐたが、
「よう出来(でけ)とるな。この蟇(がま)の顔が何とも言へんな。いつ頃の作やつたかなあ。」
とその男の顔を見た。絵は蟇仙人の図で、蟇が人間の顔をしてゐる代りに、人間は蟇のやうな顔をしてゐた。
「確か二十年ばかし前のやうに記憶しとりますが……」
 その男はかう言つて頭を一つ下げた。その頭は三月前の事も何一つ記憶してはゐなかつた。
「そや/\。確かさうやつたなあ。」と鉄斎翁は惚々(ほれ/″\)と贋(にせ)の画(ゑ)に見とれてゐた。「俺(わし)もあの頃は達者に画(か)いたもんや、迚(とて)も今はこんな真似は出来上(でけあが)らんて。」
 かういつた風で、いつも偽物(ぎぶつ)に箱書をしたり、薄茶でも一服饗応(ふるま)はれると、出先で直ぐ席画を描(か)いたりするので、家族連の心配は一通(とほり)でない。新画の高い今時、そんな勿体(もつたい)ない事があるものかと、鉄斎が外出(そとで)をする時には、途中が危いからと言つて、屹度(きつと)附人(つきびと)を一人当てがふ事にしてゐる。
 附人の役目は鉄斎翁に何も書かさないで、お喋舌(しやべり)さへさせて置けばよい事になつてゐる。鉄斎のやうな老人(としより)だからといつて、時偶(ときたま)「真理」を喋舌(しやべ)らない事もないが、今の世の中では口で言つた「真理」は、紙に描(か)いた雀一羽程の値段もしないので、鉄斎は手を懐中(ふところ)に入れた儘(まゝ)安心していろんな事を喋舌(しやべ)る事が出来る。
 家族といふものは、みんな親切なものさ。


小切手

11・6(夕)
 今芸術座の理事をしてゐる中村吉蔵(きちざう)氏は、他(ひと)が大阪一流の芸妓(げいこ)はと訊くと、急に莞爾(こに/\)して、
「大和屋(やまとや)の若久(わかひさ)さ。」
と答へる。
「ぢや、三流どこではどんなのが居るね。」
と訊くと、
「やつばり大和屋の若久かな。」
と云つて、にや/\してゐる。実の所を言ふと、中村氏が知つてゐるのは、数多い大阪の芸妓(げいこ)を通じて、若久一人しか無いのだ。
 その中村氏が以前まだ早稲田の学生で居た頃、ある新聞の懸賞小説に当選して、大枚(だいまい)三百円かの賞金を貰ふ事になつた。
 その折新聞社の会計係が、三百円の小切手を渡すと、中村氏は大事に懐中(ふところ)に蔵(しま)ひ込んであつた右の手を出してそれを受取つた。受取るには受取つたが、三百円といへば一円紙幣で三百枚、五十銭銀貨で六百枚の事だとばかし思つてゐた中村氏は、
「随分嵩張(かさば)るだらうからな。」
と、下宿を出る時、手織木綿の風呂敷を用意までして来てゐたので、薄(うす)つ片(ぺら)な小切手を見ると変な顔をした。
「これは何ですか。」
 中村氏は駝鳥(だてう)のやうな長い首を会計課の窓に覗(のぞ)けて言つた。
「それは三百円の懸賞金です。」
 会計係が窃々(くす/\)笑ひながら答へると、中村氏は腑に落ちなささうな顔をして、小切手を裏返してみたり、透(すか)してみたりしてゐたが、暫くすると、
「何(ど)うも困りますな、こんな物で戴いては。矢張一円紙幣か銀貨かで戴きませう、その方が都合ですから。」
と言つて、小切手を窓口から押し返した。
 会計係が解り易い日本語で、小切手の決して心配な物で無い事、銀行へ持つて行(ゆ)けば何時(いつ)でも好きな銀貨や銅貨に替へて呉れる事を説き聞かすと、中村氏は幾らか納得が往つたやうな素振(そぶり)で、地球でも包(くる)まれさうな大風呂敷に、その小切手一枚を畳み込んで大事に持つて帰つたさうだ。
 だが、笑つては可(い)けない。習ふよりは馴れろで、今では中村氏も芸術座の為めには手形を振出す事をすら知つてゐる。


お茶一杯

11・7(夕)
 茨城の北相馬郡桑原(くははら)村といふ土地(ところ)に伝右衛門(でんゑもん)といふ爺さんが居た。一体茨城の人には、人間では水戸烈公より外(ほか)に偉い人はなく、山では筑波山の外に山らしい山は無いと思つてゐるのが多いが、伝右衛門もその一人で、仕合せと文字(もんじ)を知らなかつたから、烈公の方は絶念(あきら)めて、閑(ひま)さへあると筑波山へばかり登つてゐた。
 ある夏、草鞋作(わらぢづく)りにも飽(あ)いたので、ひよつくり思ひ立つてまた筑波山へ登つた。すると、俄(にはか)に空が曇つて雷がごろごろ鳴り出したと思ふと、夕立がざあつと降つて来た。伝右衛門は慌てて其辺(そこら)の掛茶屋(かけぢやや)に駈け込んで雨上(あまあが)りを待つ事にした。
 見ると、茶店の縁端(えんばた)には、誰に注(つ)いだともないお茶が一つ置いてあつた。咽喉(のど)の渇いてゐた伝右衛門がそれを飲まうとすると、茶店の媼(ばあ)さんは慌てて止めた。
「止(よ)しにさつしやれ。お前には此方(こつち)のを上げますべい。それは雷様に上げてあるのだからの。」
 伝右街門が不思議な顔をして、雷様がお茶を食(あが)るのかいと訊くと、
「食(あが)るともさ。」と媼さんは茶飲友達の噂でもするやうに「雷さまは、えらお茶が好きだあよ。」と言つた。
「へえ、そんなにお茶が好きなのかい。」と伝右衛門は感心したやうに首を掉(ふ)つた。「そんなだつたら家(うち)へ来れば浴びる程お茶を饗応(ふるま)つてやるのに。」
 それから五六日経つと、大雷(おほかみなり)が鳴つて雨がどしや降(ぶり)に降り出した。窒扶斯(チブス)の熱度表のやうな雷光(いなづま)がぴかりと光つたと思ふと、大隈侯のやうな顔をした雷さまがにこにこもので一人伝右衛門の家へ転げ落ちて来た。
 そして台所の附近(まはり)をうろ/\捜し廻つてゐたが、お茶が入れてないのを見ると、急に難(むつ)かしい顔をして薬鑵(やくわん)の湯を台所一杯にぶち撒(ま)けて引き揚げて往つた。
 伝右衛門は吃驚(びつくり)して尻餅をついたが、でもまあ、雷様でよかつた。それが大隈侯だつたら、代りに酒でも菓子でも出せといつてその儘(まゝ)居据わつたかも知れない。


竹内栖鳳

11・17(夕)
 文学者や画家(ゑかき)の許(とこ)へは、何ぞと言つては書いた者を強請(ねだ)りに来る輩(てあひ)が少くない。とりわけそれに幾らかの市価があるといふ事になると、色々の手段(てだて)を尽して引出しに来る。
 この頃竹内栖鳳氏の画(ゑ)がづば抜けて値が高いので、栖鳳氏の許(とこ)へは取り替へ引き替へ色々の事を言つて、無代(たゞ)の画を描(か)かしに来る者が多いといふ事だ。先日(こなひだ)もこんな事があつた。
 それは幸野楳嶺(かうのばいれい)の幅(ふく)を持合せて居る男が、一度手隙(てすき)にその画を鑑定して貰ひ度いと言つて来たから起きた事なので、箔(はく)をつけるといふ事は、滅多に人に会はない事だと思つてゐる栖鳳氏も、外(ほか)ならぬ師匠の画の事なので、不承不承に会う事にした。
 その男は楳嶺の画を抱へて入つて来た。画は尺八か何(なん)かの大きさで、随分手の込んだ密画で、出来も決して悪い方では無かつた。
「これや立派なもんや。」と栖鳳氏は言つたが、例(いつも)の癖で直ぐ有合せのお上手が言つて見たくなつた。「宅(うち)にも前方(まへかた)からこんな出来のが一幅欲しい欲しい思つてましたんやが、さて欲しいとなると、却々(なか/\)手に入りよらんでなあ。」
 その男は目の前の機会を取逃さなかつた。
「そんなにお気に召しましたか。」と覚えず膝を乗り出した。「そんなら物は御相談でございますが、実はこの幅は手前共の床の間には幅(はゞ)つたくて困つてゐる所なんです。で、一つ何でも結構で御座いますから、先生の小幅(せうふく)と御交換が願へましたら……なに、ほんの一寸した小幅で結構でございますから。」
「成程な。」栖鳳氏はにやにや笑ひ出した。「交換いつた所で、手の込むだ師匠の密画と換へるのやさかい、私が粗末な略画を描(か)いたんぢや師匠に済まんし、いつそ換へるなら私もこの大きさでこの位の密画を描(か)かんならんが……」
「いや誠に有難うございます。」
と言つて、その男は蠅取蜘蛛のやうに畳の上に平べつたくなつた。畳の目は一度に皺くちやになつて笑ひ出した。
「そいぢや、お宅(うち)の床の間には、師匠のこの幅は懸(かゝ)らんで、私のは懸る事になりますな、同じ大きさの幅(ふく)でゐて。」と栖鳳氏は一寸窄口(つぼぐち)をして笑つた。「ところで、私が描(か)くにしても、この位の密画やと四五年は懸るさかい、この幅(ふく)はまあ持つて往(い)んで、懸けて置いて下さい。」


拍子木

11・18(夕)
 南画家富岡鉄斎老人の幼友達に、京都は新町丸太町辺に住んでゐる丸兵(まるひやう)といふ傘屋(からかさや)の爺さんがゐる。
 爺さんはいつも仕事場に坐ると、
「俺(わし)が一日怠けでもしようもんなら、京の奴ら、悉皆(みんな)ぐしよ濡れになるやらう。可哀(かあい)さうなもんや。」
と独語(ひとりごと)を言ひ/\傘(からかさ)を貼つてゐる。実際爺さんの心算(つもり)では、傘(からかさ)貼りは一ぱし他助(ひとだす)けの仕事らしいが、それに少しの嘘も無い、何故といつて京都人は霊魂(たましひ)よりも着物がずつと値段の張つてゐる事をよく判(わきま)へてゐる人種だから。
 その爺さんの家(うち)に秘蔵の拍子木がある。それには池大雅(いけのたいが)が例の達筆で、
「火の用心」
と書き残してゐるので、それが鉄斎老人の耳に入ると、(老人は名代の金聾(かなつんぼ)だが、耳で聞えぬ事は目で読む事が出来る)例(いつも)の癖で何とかして自分の手に入れたくなつて来た。
 鉄斎老人は久し振に傘屋(からかさや)を訪ねた。そして蛤御門(はまぐりごもん)の戦(いくさ)や、桃太郎の鬼が島征伐などの昔話をして、二人とも目頭に涙を浮べて喜んだ。話に油が乗つて来ると、鉄斎老人は例の大雅堂の拍子木の事を持出して、あれを譲つては呉れまいかと切り出した。
 傘屋(かさかさや)の爺さんは、貼(は)り立(たて)の傘(からかさ)に油を塗るやうに、皺くちやな掌面(てのひら)で顔を撫でまはした。そして、
「よろしおす。傘屋(からかさや)におした所で何の役にも立ちよらんが、貴方(あん)さん許(とこ)やと拍子木にも値打が出ますやろからな。」
と二つ返事で承知をして、拍子木を取り出して鉄斎老人の膝の上に置いた。
 老人は拍子木を貰つた礼に何を返したものだらうかと色々思案の末が、矢張仏手藷(つくねいも)のやうな山水を画(か)いていつもの禿山の代りに精々(せい/″\)木立のこんもりした所を見せて送ることに決めた。――何(な)んといふ立派な考へであらう、どんなにどつさり立木を描(か)いた所で、木は有合せ物で、画家(ゑかき)の懐中(ふところ)一つ痛めずに済む事なのだから。


鼠の貿易

11・19(夕)
 御影(みかげ)に住んでゐる男が、国元に相応(かなり)な田畑(でんばた)を持つてゐるので、小作米の揚つたのを汽車で送らせて、御影の家で貯(たくは)へてゐるのがある。そんな田畑があるなら、それを売払つて、その銭(かね)で白米を買つたなら、善(よ)かりさうなものだが、その田畑は亡くなつた親父(おやぢ)が拵(こしら)へたものだけに、その男の自由にもなり兼ねるらしい。
 御影の家には米を貯へる倉が無い。御影にだつて倉の附いてゐる家(うち)も無い事もないが、そんな家(うち)は得て家賃が高い。で、その男は送つて来た米俵を、内庭に高く積み、その上へ大きな金網を蔽(かぶ)せて鼠除(ねずみよけ)をしてゐる。
 ところが、この頃の夜長にふと気が注(つ)いてみると、金網の中に何かぱり/\音をさせて米を噛(かじ)つてゐる物がある。カーキ色の軍人が軍器を噛るやうな音だ。その男は蝋燭(らふそく)をつけて俵の下を覗いてみると、大きな鼠がうろ/\してゐる。
 その男は金網を調べてみたが、何処に一つ毀(こは)れた所も無かつた。で、この鼠は以前子鼠であつた頃網の目を潜(くゞ)つてちよく/\走り込んだものと判つた。
 だが、さる物識(ものしり)の説によると、基督が言つたやうに人は麺麭(パン)のみで生きるものでないと同じく、鼠も米のみで生きる事は出来ない。人間に宗教が要るやうに、鼠には水気(みづけ)のある菜つ葉が必要だ。
 その菜つ葉を鼠が何(ど)うして獲(え)たかといふと、それは朋輩の力を借りて、台所の隅から持つて来て貰ふ外(ほか)には仕方が無かつた。彼等は長い間金網の内と外で米と菜つ葉とを交換してゐたのだ。恰(ちやう)ど神戸の貿易商が絹とお茶とを積み出して、代りに毒薬と護謨細工(ごむざいく)の人形とを持つて帰るやうに……。


狂人(きちがひ)

11・20(夕)
 アメリカにオテイス・スキンナアといふ聞えた俳優(やくしや)が居る。浪漫的(ロマンチツク)な芸風で、倫敦(ロンドン)や巴里(パリー)や伯林(ベルリン)などで興行した時も、相応(かなり)な評判を取つたものだ。
 この俳優がある時紐育(ニユーヨーク)の舞台へ出るために、夫人と一緒に、その頃住(すま)つてゐたフイラデルヒヤから紐育行きの汽車に乗り込んだものだ。
 スキンナアは汽車中の二時間ばかしで、今度の持役の台詞(せりふ)を、すつかり記憶(おぼ)え込む積りで、外套の大きな隠しから台詞書(せりふが)きを引張り出した。そして低声(こごゑ)でそれを暗誦(あんしよう)し出した。時々顔を顰(しか)めたり、鼻先で掌面(てのひら)をぱつと開(あ)けたりして。
 夫人は例(いつも)の事なので良人(をつと)の方には見向きもしないで、せつせと韈(くつした)を編むでゐた。女といふものは韈を編む時には、
「ほんとに私は親切者だわ、一寸の暇も無駄にしないで、こんなにして家(うち)の人のを編んでるんだもの。」と思ひ/\、針を運ぶものだが、ついその「親切」を見せびらかす積りで、韈の丈を余り長くするので、良人は永久に足の裏が韈の底に届かぬやうな事になる。
 夫人が編(あみ)さしの韈を膝の上に引伸ばしてじつと良人の足と見比べてゐると、後から右肩をちよい/\突(つゝ)くものがある。振り向いてみると髪の毛の縮れた五十婆さんで、手には十五六の小娘の読みさうな恋愛小説を持つてゐる。
 婆さんは夫人に耳打をした。「お気の毒さまですね。私(あたし)すつかり身につまされちまつた。と言ふのはね……」と小説本を大事さうに畳みながら、「家(うち)の人も恰(ちやう)ど御主人と同じやうな病気でね。」
 スキンナアは狂人(きちがひ)と見違へられたのだ。だが、怒るにも及ぶまい、すべての女は自分の亭主以外の男子(をとこ)は大抵狂人(きちがひ)か馬鹿だと思つてゐるのだから。


 露西亜の若い、ハイカラ紳士が気取つた身振で巴里(パリー)の料理屋に入つた。別段お腹(なか)が空いてもゐなかつたが、滑らかな仏蘭西語で献立を註文するのが嬉しくてならなかつたのだ。
 紳士が稍(やゝ)反身(そりみ)になつて卓子(テーブル)の前の椅子に腰をおろすと、鵞鳥のやうに白い上(うは)つ張(ぱり)を着た給仕人がやつて来て註文を聞いた。紳士は一寸その方へ顎をしやくつて、“Une(ユヌ) portion(ポルシヨン) de(ド) bifteck(ビフテク) aux pomme(オーパム) de(ド) terre(テル)”(馬鈴薯(じやがいも)つきのビフテキ)と一皿命(いひつ)けて、「何(ど)うだ、巧(うま)からう」といつたやうに四辺(あたり)を見廻した。
 すると、丁度帳場にかゝつた古時計が悲しさうに午後三時を打つた。紳士はそれを自分を褒めて呉れたもののやうに思つて、態々(わざ/\)懐中時計を引張り出して、今正規の時間に合はした許(ばか)りの針をまた古時計の通りに引直(ひきなほ)した。古時計は年を取つて気短(きみじか)になつてゐたので卅分ばかり進んでゐた。
 直ぐ隣りの卓子(テーブル)にまた一人お客が入つて来た。指先で軽く給仕人を呼んで“Gar※(セディラ付きC小文字)on(ガルソン) bifteck(ビフテク) pomme(パム)”(ちよいと、じやがテキをね。)と言つて、どかりと椅子に腰をおろした。何処から見ても五分(ぶ)の透(すき)もない巴里(パリー)ツ子である。
「隣の奴め馬鈴薯(じやが)テキと言つたな。」と思ふと、ハイカラ紳士は顔から火が出るやうに恥(はづか)しくなつた。「Bifteck(ビフテク) pomme(パム) ――それに比べると、俺の仏蘭西語はまるで鼠のやうに長い尻(し)つ尾(ぽ)を生(は)やしてら。」
 紳士は泣き出しさうな眼付きして古時計を見た。古時計はナポレオン三世のやうな気忙(きぜは)しさうな顔をして、露西亜人などには頓着(とんぢやく)なく息を奮(はづ)ませてゐる。紳士はいつになく露西亜が恋しくなつて来た。
 だが、その露西亜へ帰つて来ると、紳士は何処の料理屋へ往つても、巴里へでも聞えさうな大きな声で、「Bifteck pomme」と誂(あつら)へる事に定(き)めてしまつたさうだ。
 囃子方(はやしかた)の六合(がふ)新三郎は西洋料理屋に入つて、ライスカレーの註文をするのに、
「おい、辛子のおじやを持つて来い。」
と言つたといふ事だ。新三郎が仏蘭西語で註文しなかつたのは無理もないが、「辛子のおじや」は聞いて呆れる。恥ぢよと言つた所で、恥ぢもすまいから困る。


女の秘密

11・23(夕)
 ある美顔術師が千里眼問題で名を売つた福来友吉(ふくらいともきち)博士を訪問した事があつた。すると盛装した夫人がひよつくり応接室へ顔を出して、これから或る婦人会へ出掛けるといふ挨拶なので、美顔術師は、
「ぢや、一寸お待ちなさい、こゝでお化粧して上げますから。」
と言つて引(ひき)とめた。
 美顔術師は掌面(てのひら)でパラピンのやうに夫人の顔を弄(もじやく)つてゐたが、暫くすると、見違へる程美しくなつた。そこへ入つて来た福来博士は吃驚(びつくり)して艶々(つや/\)した夫人の顔を見てゐたが、漸(やつ)とそれが自分の最愛の妻だと判ると、実験心理学でごちや/\になつた頭を鄭寧(ていねい)に下げてお辞儀を一つした。
 先刻(さつき)から夫人のお連(つれ)が玄関で待つてゐる由を聞いた美顔術師は、何も序(つい)でだからその人の顔をも一緒に弄(もじやく)つてやらうかと云ひ出した。すると博士夫人は生み立(たて)の卵のやうな顔を一寸顰(しか)めた。
「止(よ)して置いて下さいな。そんなに仕(し)て戴くと、折角の私の顔が晴れなくなつちまふわ。」
と、達(たつ)て留(と)め立(だて)をしたといふ事だ。
 美顔術師の所へ通う多くの婦人連は、途中でその美顔術師に遭つても、外(そ)つ方(ぽう)を向いて成るべく素知らぬ顔をする。そして後(あと)から直ぐ訪れて来て、
「お宅に通ふのが知れると、直ぐ何(なん)の角(か)のと言ひ触らされるんですからね。」
とお詫をする。
 だから美顔術師となるものの第一の心得は、途中で自分のお得意に出会つても、成るべく素知らぬ顔をする事だ。――一寸内証(ないしよう)で言つておくが、これは亭主にとつても同じ事で、女房に好かれようと思つたら、途中で自分の連合(つれあひ)に出会つても、成るべく外(そ)つ方(ぽう)を向いてゐる事だ。女といふものは、亭主持で居ながら、外へ出ると処女(きむすめ)か独身者(ひとりもの)からしい顔をしたがるものなのだ。


茶匙(ちやさじ)

11・25(夕)
 住友の鈴木馬左也(まさや)氏が中学時代に甚(ひど)く世話になつた教師がある。その後教師は職に離れて色んな事に手を出してみるが、多くは失敗続きなので、馬左也氏はそれが気の毒さに泣き付かれる儘(まゝ)に二度ばかり千円程出した。
 教師はそれを持つて、何かまた事業(しごと)を目論(もくろ)んだらしかつたが、それも結果が悪かつたかして、また馬左也氏の応接間へひよつくり出て来た。そして閾際(しきゐぎは)に立つて鄭寧(ていねい)に胡麻白頭(ごまじろあたま)を下げてお辞儀をした。
 物が欲しくて来たものは、閾際でお辞儀をする。喧嘩がしたくて来たものは、卓子(テーブル)に捉(つか)まつてお辞儀をするものだと知つてゐる馬左也氏は、直ぐ老教師の用事を見貫(みぬ)いて苦い顔をした。
「貴方にも困りますな。さう繁々(しげ/\)お来(いで)になつては。無論私は以前御厄介にもなつた事があるし、今は幾らか金銭(かね)の融通もつく身分ですから、出来るだけはお尽ししたいが……」
と言つて氏は机の抽斗(ひきだし)から紙入を取出した。そしてその中の幾枚かを紙に包んで、老教師の前に出した。
「今日はこれでお帰りが願ひ度い。そして今後(これから)は私の事は一切お忘れになるやうに。」
 老教師はその紙包を戴いて何※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)(どんな)事があつても、馬左也氏の名前丈(だけ)は忘れまいと胡麻白(ごましろ)の頭を幾度か下げて引下(ひきさが)つた。
 それから一週間程経つて、馬左也氏はある骨董物の売立会(うりたてくわい)で、茶匙を一本二千円で買つた。茶匙がそんな値打のあるものか何(ど)うか、馬左也氏はよく知らなかつたが、道具屋がさう言つたから、それに違ひあるまいと思つた。
 馬左也氏は二千円を払つて茶匙を受取つた時、覚えずはつと思つた。(馬左也氏はちよい/\参禅をするが、禅に入つた人はよくはつと思ふものなのだ。)
「自分は先日(こなひだ)以前の教師が困つてゐるのを見ながら、つい金銭(かね)の出惜(だしをし)みをした。それが今二千円も奮(はづ)んで茶匙一本を買ふなんて、何て矛盾した事だらう。」
と気が注(つ)いてみると、何(ど)うしてもその茶匙を弄(ひね)くる気になれなくなつた。
 で、その後(ご)は「良心」が吃驚(びつくり)すると可(い)けないからと言つて、茶匙は道具箱に納(しま)ひ込んで滅多に見ない事に決めてゐる。茶人馬左也氏に教へる。もつと善(い)い「良心」の保護法は、その茶匙をその儘老教師に呉れてやる事だ。すると、恩人に物を恵んだといふ満足の外(ほか)にその匙が真実(ほんとう)は十円の値段がなかつたといふ事を知る事が出来る。


飛行機

11・26(夕)
 近頃市電の運転車輛が甚(ひど)く少いので、何処の停留場にも、乗客(のりて)が一杯集(たか)つて、険しい眼を光らせながら、
「もう小一時間も立たせやがる。これだけの閑(ひま)があつたら地獄へでも用達(ようたし)に往(ゆ)けら。」
「電鉄の杉山め、車輛を処女(きむすめ)のやうに労(いた)はつてるから可笑(をか)しい。」
と、口々に呟(ぼや)いてゐる。
 その杉山清次郎氏が、電鉄部長といふ職掌柄から、市電の操車振(さうしやぶり)を見ようとして時々電車で市内を乗り廻す事がある。すると辻々に立つてゐる監督がそれを発見(めつけ)るが早いか監督詰所に駆け込むで、その電車が通つて往(ゆ)く途々(みち/\)の箱番へ直ぐ電話をかける。
「おい、君は本町(ほんまち)交叉点かい。今飛行機が君の方へ飛んだから用心するんだぞ。」
 電話を受取つた監督詰所では、居睡(ゐねむ)りを止(や)め、笑ひ話を切り上げて、見合でもしさうな顔をしてきちんと取済ましてゐる。すると、杉山氏は電車の窓から色の黒い顔を覗けてみて、
「俺が口喧(くちやかま)しく言ふもんだから、みんなあの通りに一生懸命に行(や)つてら。」
と「小細工」やら「電気の知識」やら混雑(ごちや/\)に入つた頭を撫でて喜んでゐる。
「何故飛行機なんて綽名(あだな)がついたんだね。」
と監督の一人に訊いてみると、
「何だつて貴方(あなた)、しよつちゆう羽を拡げてぶう/\唸(うな)り散らしてるんですもの、加之(おまけ)に目方が軽くつてね……」


三人画家

11・27(夕)
 先年横山大観、寺崎広業(てらさきくわうげふ)、山岡米華(べいくわ)の諸氏が連立(つれだつ)て支那観光に出掛ける途(みち)すがら神戸へ立寄ると、土地(ところ)の富豪連(かねもちれん)が寄(よ)つて集(たか)つて三人を招待(せうだい)した。
 一体富豪(かねもち)が他(ひと)を招待(せうだい)するのは、何か見せつけ度いとか、何か強請(ねだ)り度いとかいふ時に限る事で、もしかお客が一向(かう)物に感心しなかつたり、何一つ持合(もちあはせ)の無い男だつたら、富豪(かねもち)といふものは二度ともうそんな人を招侍(せうだい)しようとはしない。
 神戸の富豪(かねもち)もちやんとさういふ型に嵌(はま)つてゐたから、宴会半ばになると、そろ/\画絹(ゑきぬ)を引張り出して三人の画家(ゑかき)の前に拡げ出した。
「何か一寸したもので結構です、後(のち)の記念になる事ですから。」
 かういつて、缶詰のなかへ石を入れる事を忘れない頭を鄭寧(ていねい)に下げた。
 それを見た大観は急に喰(た)べ酔つたやうな顔をし出した。蹣跚(よろよろ)と立ち上つて、
「何か一つ遣(や)つ付(つ)けませうかな。」
と、だらしなく画絹の前に坐ると変な手附(てつき)で馬鈴薯(じやがいも)のやうなものをさつと塗(なす)くつた。そしてとろんこの眼で凝(じつ)と見てゐたが「此奴(こいつ)あ可(い)かん。」と言つて、画絹をさつと放り出した。
 で、今度はまた新しい画絹の上に、蝌蚪(おたまじやくし)のやうなものを描(か)きかけたが、「駄目だ、駄目だ。」と呟(ぼや)いてまた其辺(そこら)へおつ投(ぽ)り出した。
 すると最前からそれを見て居た富豪連(かねもちれん)は、いつの間にか各自(てんで)にそつと画絹を抱へ込んで遁(に)げ出した。そして言ひ合はせたやうに米華の前に集(たか)つて来た。
「山岡さんはいつ見てもお若いですな。――どうぞお尋(つい)でに一寸……」
 米華は山のやうな画絹を前に、汗みづくになつて滝を描(か)き、山を描(か)き、鶴を描(か)き、亀を描(か)き、洋妾(らしやめん)のやうな観音様を描(か)き、神戸市長のやうな馬を描(か)きしてゐるうちに、到頭眩(めまひ)がして自分にも判らぬやうな変な物を描(か)き出した。
「巧(うま)いぞ……」
 だしぬけに後で大きな声で喚(わめ)く者があるので、皆が吃驚(びつくり)して振りかへると、両手を懐中(ふところ)に大観が欠伸(あくび)をしい/\衝立(つゝた)つてゐた。
 なに、広業が居ないつて。――そんな筈はない。敏捷(すばしこ)い広業は画絹が取出されたのを見ると、いつの間にか厠(かはや)に滑り込んで、その儘(まゝ)そこで居睡(ゐねむり)をしてゐたのだ。


 先日(こなひだ)藤田家の茶会に、故人香雪軒(かうせつけん)の遺愛品として陳列せられてゐた漢田村文琳(かんたむらぶんりん)の茶入(ちやいれ)については面白い話がある。
 あれは以前某(なにがし)の売立会で、馬越恭平氏の手に入りかゝつたのを、横つちよから飛び出した藤田伝三郎氏が、一目見るなり欲しくて欲しくて溜らず、
「達(たつ)ての頼みだ、是非譲つて欲しい。」
と、きつい所望に、馬越氏も止むを得ず譲る事にしたものだ。
 馬越氏の腹では、
「藤田があんなに欲しがつた茶入だ。千円も贈つて来るかな。」
と、その千円が手に入(い)つたら、腹癒(はらいせ)に一つ思ひ切つて洒落(しやれ)た茶会でも開いてやらうと、心待(こゝろまち)にしてゐると、其処(そこ)へ届いたのは藤田氏からの一封で、開(あ)けて見ると六千円の小切手が一枚無雑作に包んであつた。
 馬越氏が最初の心積りだと、それだけ有つたら洒落た茶会の六七度は出来る筈だつたが、馬越氏は茶会の代りに一度にやつと笑つて、それで済ましてしまつた。そしてこんな場合、笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと、つく/″\感心をした。
 さういふ履歴附の文琳の茶入が陳列されるといふので、廿一日の茶会には東京から名高い五人組の茶人が下(くだ)つて来た。五人組といふのは、益田孝、朝吹英二、加藤正義、野崎広太、高橋義雄といふ顔触(かほぶれ)。
 五人はその茶入の前に来ると、一斉に眼を光らせた。成程結構な茶入だ、滅多に獲(え)られない名器だなと思ふと、五人の頭に言ひ合はせたやうに馬越氏の事が浮んで来た。
「馬越は何処に居るだらう。惜しい物を手離したもんだな。」
「確か大連(たいれん)に旅行してる筈だ、電報をやらうか。」
「よからう。皆で一緒に笑つてやれ。」
といふので、その場で直ぐに電報が打たれた。
 大連の旅館(はたごや)で馬越氏は五人名前の電報を受取つた。
「タムラブンリンミタ バカヤロウ」
 幾度読み返してみても同じ事なので、馬越氏はお婆さんのやうな顔を歪(ゆが)めてにやつと笑つた。そしてこんな場合笑つて済ます事の出来る自分は、何といふ悧巧者だらうと熟々(つく/″\)また感心をした。


黄金仏

11・29(夕)
 京大文科の教授某氏の家(うち)に、昔時(むかし)から持伝へた封印つきの仏様がある。何でも純金(むくきん)で出来上つたものださうで、封を解くと眼が潰れるかも知れないといふ言伝へになつてゐた。
 教授某氏は、物心のつく時分から、一度開(あ)けてみたくて仕方がなかつたが、その都度信心深い阿母(おつか)さんに止められて残り惜しさうに思ひ止(とま)つてゐた。
 すると、近頃阿母(おつか)さんが亡くなつたので、教授は一七日(か)の回向(ゑかう)を済ますと、直ぐ封を解きにかゝつた。大学教授といふものは凡(すべ)て「真理」を窮めるために生きてゐるものだが、某氏が龕(づし)を開(あ)けにかゝつたのは、何も研究の為めでは無かつた。実をいふと、それを売つて纏(まと)まつた金が握りたかつたのだ。仏様は交(まじ)りつ気(け)なしの純金(むくきん)だと聞いてゐたから。
 教授は怖(おそ)る/\龕(づし)の扉(と)を開けにかゝつた。定めし黄金(きん)の眩(まぶ)しい光でも射(さ)す事だらうと、心持眼を細くしてゐると、なかから転げ出したのは鼠のやうな真黒な仏さんだつた。
 教授は慌ててそれを取り上げた。そして眼を一杯に開(あ)けてじろ/\見廻したが、何処に一つ純金(むくきん)らしい光は無かつたし、それに持重(もちおも)りが少しも無かつた。
「訝(をか)しいな。こんな筈ぢや無かつたつけが……」
と、教授は腑抜(ふぬけ)のした顔でそれをもじや繰(ぐ)つてゐるうち、ふと仏様の笑顔が家主の因業爺(いんごふぢい)のやうに見え出した。
「糞ツ、勝手にしろ。」
と教授は膨(ふく)れつ面(つら)をして床(ゆか)の間(ま)にそれを投げつけた。仏様は将棋の桂馬のやうな足音をさせて、其辺(そこら)を飛び廻つた。
 その瞬間教授の頭に茸(きのこ)のやうにむくりと持上つたものがある。理髪床(かみゆひどこ)の親仁(おやぢ)が好く地口(ぢくち)といふものだ。
「俺はキンの像が欲しかつたのだ。そして飛び出したのは御覧の通りキ(木)の仏様だ。つまり俺にはン(運)が無いんだな。」
 かういつて教授は泣き出しさうな顔をして笑つた。拙(まづ)い洒落だが、それでも納得出来れば無いよりは愈(まし)だ。丁度田舎者の腹痛(はらいた)が買薬(かひぐすり)で間に合ふやうなものだから。


 故人井上馨(かをる)侯が素晴しい癇癪持だつた事は名高い事実だ。故人は自分でもよくそれを弁(わきま)へてゐて、自分の都合の悪い時には、滅多に癇癪を起さなかつたから猶(なほ)始末に困つた。
 数多い故人の昵懇(ちかづき)のなかで、鴻池(こうのいけ)H氏のみは、よく侯爵に対する手心を知つてゐて、滅多に疳癪玉を弾(はじ)けさせなかつた。もし井上侯を猛獣に譬(たと)へるなら、H氏は差し詰め手練(しゆれん)な猛獣使ひといふ事になる。猛獣使ひが余り名誉な職業(しごと)で無いと同じやうに、井上侯を手管(てくだ)に取るのも、大して立派な事業(しごと)では無かつた。
 H氏が東上して井上侯を訪問する場合には、いつも鴻池の埃臭い土蔵から一つ二つ目星(めぼし)い骨董物(こつとうもの)を持参する事を忘れなかつた。
「ええ、御前、これは光悦の赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)(あかちやわん)で御座いますが、形が俵形で面白いと存じましたから、一寸お目に懸けます。」
「なに光悦の赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ぢやと。」
 侯爵は嬉しさうににこ/\して「ほゝう、これは又面白い出来ぢやの、成程俵形で……」と皺くちやな掌面(てのひら)で弄(ひね)くり廻して悦に入つてゐる。こんな時には、よしんば鼻先を抓(つま)まれたつて侯爵は決して腹を立てない。赤茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)は脆(や)つこい物で、腹を立てると毀(わ)れるといふ事を知つてゐるから。
 かういふ理由(わけ)で、H氏が上京する報知が来ると、井上侯はいつも迎へ車を停車場(ていしやば)まで寄(よこ)す事を忘れなかつた。もしかH氏が乳母車で乗りつけ度いと言ひ出したら、侯爵は態々(わざ/\)乳母車を停車場(ていしやば)まで廻したかも知れない。
 だが、井上侯が亡くなると、H氏は長い目録を侯爵家に持出した。そして、
「これだけの品は予(かね)て老侯にお目に懸けて置きましたから、お調べの上お返し下さいますやうに。」
といふ挨拶なのだ。
 もしか老侯が地獄で(井上侯が地獄に入つてないと誰が言ふ事が出来る)この事を聞いたなら、持前の疳癪玉を破裂させて、一度婆婆(しやば)へ帰るとでも言ひ出すかも知れないが、まあ安心するが可(い)い、地獄には乗りつけの乳母車は往つてゐない筈だから。――乳母車が死んだらその儘(まゝ)天国へ往(ゆ)く事が出来る。


抱月氏

12・1(夕)
 島村抱月氏はよく欠伸(あくび)をするので友達仲間に聞えた男だ。会つて談話(はなし)をしてゐると、物の二分間も経たないうちに狗(いぬ)のやうにあんぐり口を開(あ)いて大きな欠伸をする。まるで霊魂(たましひ)でも吐出(はきだ)しさうな欠伸だ。
 五六年前島村氏が神経衰弱とやらで暫く京都に遊んでゐた事があつた。ある日ひよつくり思ひ立つて岡崎にゐる上田敏博士を訪ねた。相手が上田敏氏と島村抱月氏の事だから、羅甸(ラテン)語交(まじ)りで詩人ホラチウスの話でもしたに相違ないと思ふ人があるかも知れないが、実際は二人とも調子の低い日本語で、
「京都は寒いですね、すつかり風邪を引いちやつて……」
「それは可(い)けませんね、私も二三日前(ぜん)から少し風邪気味なんですが……」
と、土地で引いた鼻風邪の話をしたに過ぎなかつた。
 だが、二言三言そんな談話(はなし)をしてゐるうち、島村氏はお定(きま)りの大きな欠伸を出した。そしてそれを手始めに、一時間足らずの談話(はなし)に三十七の欠伸をしたので流石に上田氏も吃驚(びつくり)した。そして島村氏の帰つた後(あと)で、夫人と顔を見合せて言つた。
「よく欠伸をするとは聞いてゐたが、それにしても余り甚(ひど)い。余程身体(からだ)が何(ど)うかしてゐると見える。」
 さう言つて島村氏の健康を気遣つた上田氏は、不図(ふと)した病気から脆(もろ)くも倒れてしまひ、草臥(くたび)れて欠伸ばかり続けてゐた抱月氏は、その後(ご)ずつと健康を恢復(とりかへ)してぴち/\してゐる。そして近頃ではその名代の欠伸も滅多に見られなくなつた。
 何でも噂によると、須磨子が欠伸が嫌ひだから自然癖が直つたのだともいふが、事によるとさうかも知れない。一に武士道、二に小猫の尻つ尾、三に竈(へつゝひ)の油虫……すべて女の嫌ひなものは滅びてゆく世の中である。


旅銭代用

12・3(夕)
 書家細井広沢がまだ壮(わか)かつた頃、ある日僧侶(ばうず)が一人訪ねて来て、
「私は房州某寺(なにがしでら)の住職でござるが、先生の御作(ごさく)を戴いて、永く寺宝として後(のち)に伝へたいものだと存じますので。」と所禿(ところはげ)のある頭を鄭寧(ていねい)に下げた。「甚(はなは)だ勝手がましいお願(ねがひ)では御座るが、百幅(ふく)程御寄進が願へますまいか。」
といふ挨拶なのだ。
 広沢は自分の書いた物で、仏様に結縁(けちえん)が出来る事なら、こんな結構な事は無からうと思つて、安受合(やすうけあひ)に引請(ひきう)けた。そして僧侶(ばうず)を待たせておいて直ぐその場で書き出した。
 三十幅四十幅と書いてゐるうちに、広沢は徐々(そろ/\)厭になり出した。仏様のお引立で極楽に往つたところで、そこで好きな書が書けるか何(ど)うか疑はしいし、それに仏様が書を奉納したからといつて、贔屓目(ひいきめ)に見てくれるか何(ど)うかも判らなかつた。僧侶(ばうず)の話では、仏様はそんな物よりもお鳥目(てうもく)の方が好きらしかつたから。
 広沢は五十幅目を書(か)き畢(をは)ると、草臥(くたび)れたやうに筆を投げ出した。
「これで止(やめ)にしときませう。もう厭になりましたから。」
 僧侶(ばうず)が驚いて、うろ覚えの華厳経の言語(ことば)など引張り出して色々頼んでみたが、広沢は二度と筆を執り上げようとしなかつた。僧侶(ばうず)はぶつ/\呟(ぼや)きながらも、流石に三つ四つお辞儀をして帰つた。
 後(のち)になつて聞くと、広沢がその折寄進した書が、房州路のあちこちの宿屋に一枚宛(づつ)散(ちら)ばつてゐる。理由(わけ)を質(たゞ)してみると、あの僧侶(ばうず)が道筋の宿屋々々で、旅籠銭(はたごせん)の代りに、その書を置いて往つたといふ事が判つた。
 広沢は善(い)い事をした。お慈悲深い仏様さへ手の届かなかつた売僧(まいす)を一人助けた上に、自分の書が田舎の房州路でさへ旅籠銭の代りになるといふ事を知つたのだから。


手錠の音

12・5(夕)
 殺人狂入江三郎を護送した巡査に聞くと、三郎の両手を縛るのに革製の手錠を穿(は)めると、彼は手首を前後に振つてみて、革の裏表がきゆつ/\と擦れて鳴る音にじつと耳を引立(ひつた)ててゐる。そして、
「これは好(い)い音がする、やつぱり手錠は革に限りますな。」
と、その手錠を娯む色が見える。
 革製の手錠を試しに金属製のに取換へてやると、矢張同じやうに手首をかち/\鳴らせてみて、
「うむ、これも好(い)い音がする。なか/\好(い)い手錠だ。」
と、骨董好きが古渡(こわた)りの茶※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)(ちやわん)でも見るやうな、うつとりした眼つきで自分の手首に穿(はま)つた手錠に見惚(みと)れてゐる。
 今度はその手錠を解(ほど)いて麻縄で縛つてみると、三郎は以前と同じやうに手首を振つてゐたが、急に険(けは)しい眼附(めつき)になつて、
「何(なん)にも音がしない、こんな手錠は厭だ。」
と、そこいら一杯に唾を吐き出した。その手錠から、巡査の面附(つらつき)から、署長の小鼻から、まるで汚い物づくめなやうに顔を顰(しか)めながら。
 手錠といふと、数年前西伯利亜(シベリア)の監獄にゐる或る囚徒が本国の文豪ゴリキイに手錠を一つ送つて寄(よこ)した。自分が牢屋で拵(こさ)へた記念品だから、遠慮なく納めて呉れと言つた。
 牢屋で拵(こさ)へる物にも色々ある。そのなかで手錠は少し気味が悪かつたし、加之(おまけ)に銀貨や女の鼻先と同じやうに手触(てざはり)が冷た過ぎた。だが、旋毛(つむじ)曲りのゴリキイは顔を顰めてそれを受取つた。そして新聞紙でそのお礼状を発表した。
 お礼状の文句に「露西亜は詰らぬ凡人を西伯利亜へ送るが、西伯利亜からはドストイエフスキイ、コロレンコ、メルシンなどいふ偉い男が帰つて来た。多分将来もそんな事だらう。」といふ一節があつた。


落書無用

12・6(夕)
 むかし王献之(わうけんし)の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償(たゞ)でそれを手に入れようといふ、虫の善(い)い事を考へる向(むき)が多く出来て来た。
 さういふ狡い輩(てあひ)のなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。
 で、白い切り立ての紗(しや)で特別仕立の上(うは)つ張(ぱり)のやうなものを拵(こしら)へ、それを着込んでにこにこもので王献之の許(とこ)へ着て往つた。王献之は熟々(つく/″\)それを見てゐたが、
「良(い)い紗だな。こんな奴へ一つ腕を揮(ふる)つて書いてみたら面白からうな。」
と独語(ひとりごと)のやうに言つた。
 若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。
「無けなしの銭(ぜに)で拵(こさ)へたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮つてみて下さい。」
 王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、
「や、近頃になく良く出来た。お蔭で思ふ存分腕が揮へたよ。」
と言つて、そつと筆をさし置いた。側(そば)にゐた弟子の誰彼は舌打しながら凝(じつ)と見惚(みと)れてゐた。
 若者は手を出してその上(うは)つ被(ぱり)をさつと掻(か)つ浚(さら)つたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、上(うは)つ被(ぱり)は滅茶々々に引(ひ)つ奪(たく)られ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲んだか、何(ど)うかといふ事は私の知つた事ではない。
 今、仙台の第二高等学校にゐる登張(とばり)竹風は、酒に酔ふと、筆を執つて其辺(そこら)へ落書をする。障子であらうと、金屏風(きんびやうぶ)であらうと一向厭(いと)はないが、とりわけ女の長襦袢(ながじゆばん)へ書くのが好きらしい。昵懇(なじみ)芸者のなかには、偶(たま)には竹風の書いた長襦袢を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀に蔵(しま)ひ込んでるのもあると聞いてゐる。
 そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢を拙(まづ)い書画の酔興から保護しなければならぬ。


高浜虚子

12・7(夕)
 先日(こなひだ)横山大観氏が席上(せきじやう)揮毫(きがう)で、画絹(ゑきぬ)の書損(かきそこな)ひをどつさり拵(こしら)へて、神戸の富豪(ものもち)の胆を潰させた事を書いたが、人間の胆といふものは、大地震(おほぢしん)や大海嘯(おほつなみ)の前には平気でゐて、却(かへ)つて女の一寸した嚏(くさみ)や、紙片(かみきれ)の書潰しなどで、潰れる事があるものなのだ。
 高浜虚子氏が以前何(なん)かの用事で大阪に遊びに来た事があつた。その頃船場(せんば)辺の商人(あきうど)の坊子連(ぼんちれん)で、新しい俳句に夢中になつてる連中は、ぞろぞろ一団(かたま)りになつて高浜氏をその旅宿(やどや)に訪問した。
 博労(ばくらう)が馬の話をするやうに、俳人といふものは寝ても覚めても俳句の話で持ち切つてゐるものだ。坊子連(ぼんちれん)は俳句が十七字で出来上つてゐるのは、離縁状が三行半(くだりはん)なのと同じやうに定(きま)つた型である事、その離縁状が偶(たま)に四行(くだり)になつても構はないやうに、俳句にも字余りがある事、その字余りは成るべく三十字迄にしておき度い、何故といつて三十一文字になると、和歌に差支(さしつか)へるからといふやうな事を話し合つて、鼻を鳴らして喜んだ。
 そのうち一人の坊子(ぼんち)が懐中(ふところ)から短冊(たんざく)を一束取り出した。そして、
「先生、何でもよろしおますよつて、御近作を一つ……」
といつて、大阪人に附物(つきもの)の茶かすやうな笑ひ方をした。
 高浜氏は黙つてその短冊を取り上げて太いぶつきら棒な字で何だか五文字程認(したゝ)めたと思ふと、急に厭な顔をして、
「拙(まづ)いな、何(ど)うしたんだらう……」
と言つて、さつとその短冊を引裂いた。
 かうして高浜氏は続(つゞ)け様(ざま)に五六枚ばかし暴(やけ)に引裂いた。短冊は本金(ほんきん)を使つた相応(かなり)上等な物だつたので、勘定高い坊子(ぼんち)は、その度(たび)に五十銭が程づつ顔を歪めてゐたが、やつと高浜氏が最後の一枚に何か認(したゝ)めて投出して呉れた時にはとうと泣出しさうな顔になつてゐた。
 そこに居並んでゐた連中はみんな懐中(ふところ)にそれ/″\短冊を忍ばせてゐたが、何(なに)も彼(か)も引裂かないでは承知し兼ねまじき高浜氏の顔色(がんしよく)を見て、誰一人それを取出さうとはしないで、匆々(そこ/\)に座を立つて帰つて来た。
 その連中も今ではもう一廉(かど)の俳人気取りで、田舎者の前などで、矢鱈(やたら)に短冊の書損ねを行つてゐる。何事も進化の世の中である。ダアヰンもさう言つてゐた。


米大統領

12・10(夕)
 米国の大統領ウヰルソン氏は、二度目の今の夫人を迎へてからは、日曜日日曜日に一度だつて教会へお参りするのを忘れたことが無い。――実際あの齢(とし)でゐて、あのやうに若い美しい後添(のちぞひ)を貰ふ事の出来たのは、外(ほか)ならぬ神様のお蔭で、幾度お礼を言つたつて、言ひ過ぎるといふ訳のものではない。
 先日(こなひだ)独逸の潜航艇問題が起きた時、ウヰルソン氏は色々心配の余り、幾日か夜徹(よどほし)をして仕事に精を出した。で、その問題も先づ無事に片がつくと、大統領は久し振で可愛(かあい)い夫人の腕(かいな)に凭(よ)りかかつて教会に往つた。
 教会にはあいにく神様がお不在(るす)だつたので、若い牧師が留守番をしてゐた。(事によつたら、その牧師が居た故(せゐ)で、神様の方が逃出されたのかも知れない。)その牧師はいつも判り切つた事を長つたらしく喋舌(しやべ)り続けるので名高い男だつた。
 その日も牧師はフライ鍋の底を掻くやうな声をして、神様の吹聴を長々と述べ出した。何でもその説によると、地面(ぢべた)に起きる事も、海の上で持上る事も何一つ神様の摂理で無いものはない。近頃米国の近海で起きた独逸の潜航艇問題の如きも、みんな基督が心あつて行(や)つた事だといふのだ。
「さうか知ら。ぢや、基督はちやんと潜航艇の事まで御存じなんだな。」とウヰルソン氏は睡(ねむ)さうな眼で牧師の顔を見ながら凝(じつ)と考へてゐたが、そつと夫人の方を振向いて「私にはどうもあの人の言ふ事がさつぱり判らん。」と呟(ぼや)いた。
 夫人は気の毒さうに、三毛猫でもあやすやうに大統領の頭を撫でて言つた。
「ぢや、帰つてゆつくりお寝(やす)みなさい、すると少しは善(よ)くなつてよ。」
 この言葉は日本でもその儘(まゝ)真理で、実際牧師のお説教を聴くよりも、一寝入(ひとねいり)寝ておきた方がずつと利益(ため)になる事が多い。だが唯一つ感心なのは、ウヰルソン氏に解り兼ねた牧師のお説教が、何(ど)うやら夫人には了解(のみこ)めたらしい事だ。猫の声、あかんぼの声――すべて男に解らないものを読みわけるのが女の能力である。


広岡浅子

12・12(夕)
 先日(こなひだ)ある婦人会で大阪府知事の夫人栄子氏と広岡浅子氏とが一緒になつた。この婦人会は大阪市の有力な夫人が集まつて、姉(あね)さんごつこのやうな事をして遊ぶ為に拵(こしら)へてあるのだが、広岡のお婆さんが、何ぞといふと我鳴り立てるので、近頃出席者がぽつぽつ減り出した。
 その日も思つた程顔触(かほぶれ)が集まらないので、お婆さんは徐々(そろ/\)※(「弗+色」、第3水準1-90-60)(むく)れ出した。
「何(ど)うしてこんなに顔触が少いんでせうね。今のお若い方はどうも因循で困る。」
と当て附けがましく言ふので、誰よりも若い積りの大久保夫人は一寸調弄気味(からかひぎみ)になつた。
「広岡さん、貴方が何ぞといつてはお叱りになるもんですから、つい皆さんの足が遠退(とほの)くんでせうよ。」
 お婆さんは大きな膝を夫人の方へ捩(ね)ぢ向けた。椅子はその重みに溜らぬやうに、お婆さんの腰の下で蛙(かはづ)のやうに泣き声を立てた。
「何ですつて、夫人(おくさん)。私の叱言(こごと)が過ぎるから、会員が減るんですつて。ぢや、もうこれからは一切この会へ寄りつきませんからね。」と顔を歪めて喚(わめ)くやうに我鳴り立てたが、隅つこに小さくなつてゐた何家(どこ)かの未亡人(ごけ)さんが覚えずくすりと笑つたので、今度はその方へ捩ぢ向いた。「今のお若い婦人方は大抵男子の玩弄物(おもちや)になつて満足してゐるんだから困る。」
「さうかも知れませんが、少くとも私はさうぢやありません。」と大久保夫人は笑ひ/\言つた。「私は母として子供を立派に育て上げるといふ真面目な仕事を持つてますから。」
「子供を?」と広岡のお婆さんは吃驚(びつくり)した顔をした。お婆さんは女が子供を生むといふ事は少しも知らなかつた。少くともすつかり忘れてゐたのだ。「成程貴女(あんた)はたんと子供さんをお持ちだ。さうして皆(みんな)男の子供さんだと聞いてゐる。どんなに立派におなりか、今から目をあいて見て居(を)らう。」と言つて婆さんは起(た)ち上つた。
 大久保の子供達は皆稚(をさな)い。それがすつかり大人になるまで婆さんは生き伸びる積りでゐるらしい。大変な事を約束したものだ。


大発見

12・15(夕)
 近頃その筋の手で、大和唐招提寺にある国宝の修繕をするに就いて、偶然にもそこの金堂(こんだう)で素晴しい大発見をした。発見といふのは、寺の敷地が伝説通り新田部(にたべ)親王の邸跡(やしきあと)に相違なかつたとか、開基の鑑真(がんじん)和尚が胃病患者だつたとかいふ、そんな無益な問題では無い。
 問題はずつと大きい。それは外(ほか)でもない、あの堂に安置してある等身大の梵天(ぼんてん)の立像に手を入れる時、台座を外(はづ)してみると、その箝(は)め合(あは)せの所に、男子の局部が二つ描(か)いてあつたといふ事だ。
 その横に同じ墨色で二三の文字が落書(らくがき)してある、その文字の字体から見ると、この可笑(をか)しな楽書は、徳川時代に幾度か行はれたらしい修繕当時の悪戯(いたづら)では無く、全くこの木像を刻んだ最初の仏師の楽書に相違ないといふ事が判る。
 してみると、楽書としては随分古いもので、何(なに)によらず古いものでさへあれば珍重がる京都大学などでは、この剽軽(へうきん)な楽書の研究に、一生を棒に振つても悔(く)いないだけの学者が出なければならぬ筈だ。
 往時(むかし)から仏像の創作には、一刀(とう)一礼(らい)とか、精進潔斎とか喧(やかま)しく言ひ伝へられてゐるが、まんざらさうばかりでもないのはこの楽書がよく証拠立ててゐる。――と言つたところで、仏様を涜(けが)す積りではさら/\ない。仏様は何事も御存じで、知らないのは坊さんと学者ばかりである。


増田義(ぎ)一

12・17(夕)
 自動車に乗る人は多いが、実業の日本社の増田義一氏ほどそれを上手に使ひこなす人も少い。増田氏は西洋へ往つて、頭のなかに何も入れて来なかつた代りに、新型の自動車を一台買ひ込んで来た。
 増田氏は朝早く自宅(うち)を出る時には、いつも背広に中折帽(なかをれぼう)といふ身軽な扮装(いでたち)で、すつと自動車のなかに乗込む。そして南紺屋町の社へ駈けつけると、※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)(ばつた)のやうに車を飛び出し、二つ三つ指図をして、やがてまたゆつたりと自動車の人となる。
 増田氏は雑誌社を経営してゐる他に、色々な会社へ頭を突込んでゐる。自慢の自動車が獣(けもの)のやうな声を立てて、関係会社の前へ来て止まると、増田氏は扉(ドア)のなかから、山高(やまだか)にモーニングといふ扮装(いでたち)ですつと出て来る。
 居心地のいゝ会社の椅子に暫くモーニングの背(せな)を凭(もた)らせて、こくり/\お定(きま)りの居睡(ゐねむり)をすると、増田氏は大きな欠伸(あくび)をしい/\のつそりと立ち上る。そして一(いつ)ぱし立派な仕事を遣(や)つてのけた積りで、上機嫌で受附のぼん/\時計にまで会釈をしながら、のつそり自動車に乗り込む。
 それから二十分経つて、増田氏の自動車がある宴会の式場へ横づけになると、氏はいつの間にか婦人雑誌の口絵から抜け出して来たやうな絹帽(シルクハツト)にフロツクコートといふ、りうとした身装(みなり)で、履音(くつおと)軽く扉(ドア)のなかから出て来る。
「まるで活動役者のやうな早業(はやわざ)ぢやないか。」
とそれを見た或人が不思議がつて訊くと、増田氏はその男を態々(わざ/\)自動車へ引張り込んで、衣裳箱(スウツケース)から料紙インキ壺の特別装置まで、自慢さうに説明して聞かせたさうだ。
 結構な自動車さ。こんな自動車に乗つて、一度天国へでも往つたらどんなものだらうて。


大森博士

12・20(夕)
 先日(こなひだ)東京の銀行集会所へ全国の重立(おもだ)つた銀行家が集まつて、地震学で名高い大森博士を招待(せうだい)して、講演を頼んだ事があつた。実業家が地震や天国の談話(はなし)を聞いた所で仕方がないが、彼等は学者に勝手な事を喋舌(しやべ)らして於(お)いて、そして後(あと)から、
「どうも学者などいふものはあんな迂遠な事ばかし考へてゐて、よく生きて往かれるもんですな。」
と笑ひ話にする事が好きなのだ。
 それを見て取つた大森氏は講壇の上から銀行家の禿頭を見下(みおろ)して、
「諸君は朝から晩まで金を弄(いぢ)くり廻してゐられるが、一体一億円の金塊の大きさは何(ど)の位あると思ひます。」
と変な事を言ひ出した。
 銀行家は「さあ」と言つたきり顔を見合せて誰一人返事をするものが無かつた。大森氏はにやりと笑つて、
「お答へが無いのに無理もありません。銀行家だからといつて、まさか金塊を懐中(ポケツト)に入れてゐる訳でもありますまいから、一億円の金塊は恰度(ちやうど)三尺立方の嵩(かさ)があります。序(つい)でに今一つ訊きますが、富士山の高さ程一円紙幣を積むと幾干(いくら)になるとお思ひですか。」
と全(まる)で小学校の生徒にでも訊くやうな事を言ひ出した。
 銀行家は今度もまた「さうさ、なあ」と言つたきり誰一人返事をする者が無かつた。大森氏は小学教員のやうな安手な勿体振をつけて、
「三千七百万円になります。」
と言つて聞かせた。
 先刻(さつき)からこんな問答に業(ごふ)を煮やしてゐた森村市左衛門氏は、「大森さん」と言つて衝立(つゝた)ち上りながら、
「一寸伺ひますが、往時(むかし)一夜(や)のうちに琵琶湖とか富士山とか出来たと言ひますが、富士山を取崩したら、見事琵琶湖が埋まるでせうかな。」
と切り出した。居合せた銀行家は、「森村のお爺さん、巧(うま)くやつたな。」とにやにや笑つて大森氏の顔を見た。
 大森氏は「さやう」と言つて、森村氏の禿頭を見た。頭はニツケルのやうに光つてゐた。「御殿場を標準(めやす)にして富士山を横断すると、それだけでもつて琵琶湖が十七程埋め立てられる事になります。」
 森村氏は「なる程な。」と言つて、そのニツケルのやうな頭を両手に抱へて笑ひ出した。頭のなかでは「耶蘇教」と「貯金」と「長生術」とが混雑(ごつちや)になつて揺(ゆす)ぶれてゐた。


馬の顔

12・21(夕)
 東京市電気局が、まだ東京鉄道会社だつた頃の車掌運転手の制帽は、白い線を巻きつけて、技術が熟練して来ると、その線を一本二本と殖やしてゆくので、よく第一高等学校のそれと間違へられたものだ。
 学習院の平素(ふだん)の制服といふのは、釦(ぼたん)のない詰襟(つめゑり)のホツク留(どめ)だが、加之(おまけ)に帽子の徽章(きしやう)が桜の花になつてゐるので、どうかすると海軍士官に間違はれる。
 その学習院に洋画の教師を勤めてゐる岡野栄氏が、ある日の事青山三丁目から電車に乗り込んで吊り皮に垂下(ぶらさが)つてゐると、直前(すぐまへ)に腰を掛けてゐる海驢(あしか)のやうな顔をした海軍大尉が、急に挙手注目して席を譲つて呉れた。
 岡野氏も画家(ゑかき)の事だから、画家(ゑかき)に無くてならない暢気(のんき)さ加減は十分持合せてゐた。
「大尉め、どこか近くの停留場に下りるんで、婦人(をんな)の乗客(のりて)もあるのに態々(わざ/\)画家(ゑかき)の俺を見立てて譲つて呉れたんだな。若いのに似合(にあは)ぬ怜悧(りこう)な軍人だ、さういへばどこか見所がありさうな顔をしてるて。」
 岡野氏はこんな事を思ひながら、一寸顎をしやくつて、その儘(まゝ)そこへ腰を下した。
 だが、その軍人は次の停留場でも、そのまた次ぎの停留場でも下りなかつた。それを見た岡野氏は、やつと自分の服装に気が付いてはつと思つた。
「成程俺を海軍軍人に見立てたんだな。相手が大尉だから先づ中佐格かな。」
 岡野氏はいつもの停留場へ来ると、その中佐のやうな気持で、胸を反(そ)らしながら電車を下りて往つた。
 それ以後お礼心の積りで、馬でも描(か)く折には岡野氏はいつもその海軍士官の顔をモデルに取る事を忘れないやうにしてゐる。結構な心掛で、詩人ダンテがその傑作のなかで、因業(いんごふ)な家主を地獄に堕(おと)した事を考へると、岡野氏が馬の顔を士官に似せたのは思ひ切つた優遇である。何故といつて、馬は士官のやうに制服制帽で人を見分けるやうな愚(ばか)な真似はしないから。


 先日(こなひだ)亡くなつた喜劇俳優(やくしや)渋谷天外は、何処へ往(ゆ)くのにも、紫縮緬(むらさきちりめん)の小さな包みを懐中(ふところ)にねぢ込むで置くのを忘れなかつた。
「何をそんなに大切(だいじ)がつてるんだね。」
と他人(ひと)が訊くと、
「これだつか、喜劇の酵母(もと)だつせ。」
と言ひ/\、自慢さうに膨らむだ懐中(ふところ)を叩いたものだ。
 帛紗包(ふくさづつ)みのなかに入つてゐるのは他でもない、小本(こほん)の『膝栗毛』の一冊で、この剽軽(へうきん)な喜劇俳優(やくしや)は、借金取に出会(でくは)すか、救世軍を見るかして、気が真面目に鬱(ふさ)ぎ出すと、早速その紫縮緬の包みを解(ほど)いて、『膝栗毛』を読み出したものだ。
「すると、何時の間にかおもしろくなつて、つい俄師(にはかし)の気持になられまんがな。廉(やす)いもんだつせ、本は古本屋で五十銭だしたよつてな。」
と言ひ/\してゐた。
 伊東胡蝶園の祖父伊東玄朴は蘭書の蒐集(しうしふ)家として聞えてゐたが、数多いその書物のなかで、唯(たつた)一つだけ風呂敷包みにして、その上に封印までして、何(ど)うしても他人(ひと)に見せなかつた。
 仲よしの高野長英が、それを見つけて、
「どんな本だ、一寸でいゝから見せてくれ。」
と強請(せが)むと、慌てて膝の下に押し隠して、
「可(い)けない/\。これを読むと狂人(きちがひ)になる。」
と顔色を違へて謝絶(ことわ)るので、
「へえ、狂人(きちがひ)になる。気味の悪い本だな。」
と、長英はそんな本を読まない内から狂人(きちがひ)になりかけてゐた頭を掉(ふ)つて不思議がつたといふ事だ。
 玄朴が封印をしてゐた本は外(ほか)でもない和蘭(オランダ)版の「民法」の本で、旧幕時代でこんな本を読まうものなら、さしづめ狂人(きちがひ)にでもならなければなるまいと、お医者だけに玄朴は考へたものらしい。尤もの事だ、日本には今だに狂人(きちがひ)になる本はどつさりある。
了

底本:「完本 茶話 上」」冨山房百科文庫、冨山房
   1983(昭和58)年11月25日第1刷発行
   1984(昭和59)年11月15日第8刷発行
初出:「大阪毎日新聞 夕刊」
   1916(大正5)年4月12日〜12月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※人名等に付けられた「〔〕」付きの編集部注は削除しました。
入力:kompass
校正:仙酔ゑびす
2013年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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