やさしきこころのうちに愛のひそむは、森のみどり葉がくれに鳥のすむに似たりといふなるに、このはかなき草わかばのかげにはいまだ夢さそふにほひもなきがごとく、わが調に慣れぬ胸のおもひは、色をも彩をもなしあへぬをいかにせむ。

歡樂(よろこび)ふかくもえいづる
香を慕ふにも草嫩(くさわかば)
細き葉がくれ身をよせて
羞(は)ぢてひそめる花の影

羞ぢてかくるるさまながら
花はほがひのよそほひや
空には夢のたはぶれの
紅こそ淡くかかるなれ

唇(くちびる)を解(と)く歌の君
春のたくみの手は高く
夕にはまた彩(あや)を織る
光は雲にながれけり

いのちのねざしうるほへば
ここなる花もかをるなり
文布(しづり)織(お)ります羽槌雄(はづちを)の
神の高機(たかはた)しののめに
いろあやとくもととなひて
影かすかなり星の梭(をさ)

雲はいと濃き紫に
うすくれなゐの糸をぬき
高野路(たかのぢ)夢の花罌粟(はなげし)の
つぼみひらくる曙や
げにかぎりなきよそほひの
榮(はえ)あふぐこそゆかしけれ

いとものふりし冬の夜の
幽宮(かくれのみや)のまゆごもり
もぬけいでては天の原
春の霞のもろつばさ
まだかよわげに見ゆれども
おほはぬ空もなかりけり。

夜の闇消えてゆく空に
見よ白鳩の羽(はね)を矧(は)ぎて
にほふ桂の眞鹿兒矢(まがごや)の
生矢(いくや)千箭(ちのり)の靱(ゆぎ)を負(お)ひ
日女(ひるめ)の神は春かへる
かの稚宮(わかみや)にいでましぬ

御統(みすまる)の玉おとたかく
天(あめ)にきこえて曉の
星の光のゆらぐ時
この世なやめる人の身も
こごえし靈(たま)もやはらかき
春の日影にむかへかし

をりこそよけれ常世(とこよ)なる
甘(うま)き菓(このみ)の新釀(にひしぼり)
碼瑙(めなう)の谿(たに)にしたたれば
わきほとばしる白泡(しらあわ)の
にほふがごとくみなぎりて
光さしそふ日のみ神

ああうるはしき日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)貴(ひるめむち)
まだ天地(あめつち)のわかくして
影清かりし朝ぼらけ
遠き光を身にしめて
誰か高市(たけち)に神集(かんつど)ふ
神のみ聲をこの日傳へむ

手にふれたまふことなかれ
うれしき君とおもへども
まだうらわかき野の花は
熱(あつ)き情(なさけ)の日にたへじ

ゆめふれたまふことなかれ
いといともろきわが胸に
激浪(おほなみ)たちて白珠(しらたま)の
涙くだかばつらからむ

ただふれたまふことなかれ
祕(ひ)めてぞ清き戀なるを
もしかかる夜に罪やどる
星墜(お)ちゆかばいかにせむ

おもふに夢に誰かわが
手にふれたりや知らぬまに
空はかすめる夢としも
げに春はこそいふべけれ

知らですごしぬこの日まで
その祕(ひ)めごとを歡樂(よろこび)を
さあれ知りてはやすからず
ああわが胸のいつになく

おもふに誰かめづらしき
たよりを夢に傳へけむ
かしこよりとしたのむにも
あやなく雲ぞかすみたる

嗚呼さばかりに何ゆゑに
あくがるるわがおもひぞや
微草(をぐさ)よなれもゆかしげに
もゆるは何の夢ごこち

おもふに春にいづこより
遠き調の傳ふとも
幽(かす)かなるべき絃(いと)にだに
うらわかみこそ觸(ふ)れもすれ

色し慕へどわりなくも
香をし戀ふれどさながらに
されば少女(をとめ)のわがこころ
寤(さ)めてかつひに夢みてか

野ぢよりひとりかへり來て
あやしくなぞやはづかしき
髮にかざしし草の花
それさへ祕(ひ)めてえも見せじ

髮にかざしし草の花
色さへ香さへさとらせじ
見せよと人の強(しひ)ていはば
しづかに胸にひめてまし

靜かにさらば祕(ひ)めてとか
ああいつはりぬわれながら
春日(はるび)あまりに樂しくて
かくこそ胸はさわぐなれ

浪だつ胸にたよりつつ
花は眠りてあるならむ
よしや夢みてさめずとも
つらき人にはえも見せじ

春うらわかき追憶(おもひで)に
空のこころもかすむ時
雲は流れて古歳(ふるとし)の
よろこびにこそかへるなれ

ああその影のいと淡き
光に榮(は)ゆるくろかみの
少女が櫛(くし)に匂ふごと
輕げにとくるすがたあり

ああそのかげの靜けさや
たとへば遠き海原(うなばら)に
小島(をじま)うかびてみゆるごと
愁(うれひ)にさわぐ浪の外

われや野の空うちあふぎ
いつか嘆(なげ)きを忘れけり
なげきよりこそ人沈(しづ)め
春の彩(あや)ある雲を見よ

さてしも情(なさけ)いと熱(あつ)き
胸のしろきにくらぶれば
げに觸(ふ)れがたきたのしみの
夢かよふなり春の雲

あくがれたちてながむれば
乳(ちゝ)の江(え)をゆく船に似て
また見かへせばうまざけの
大海(おほうみ)にこそ浮びけれ

誰かおもはむこの時し
なかぞら高き紫の
雲ゆふまぐれ消え去りて
幻影(まぼろし)つひにたえむとは

榮(はえ)ある幸(さち)よゆくすゑを
おもひわづらふこともなく
雲もながれて古歳(ふるとし)の
よろこびにこそかへるなれ

わかやぐひかり野べのいろ
しらべもかすむ春のうた
あはれこの世にいくちとせ
人はなさけの香(か)を慕(した)ふ

たのしや遠き古(いにしへ)の
その日に空の彩(あや)を見し
小琴(をごと)もけふはよろこびの
まためづらしき音にたたむ

曉(あかつき)ひとり消えてゆく
星よ雲ゐの路(みち)すてて
しばしは人の世にくだり
めぐらばいかに春の野を

ここには匂ふ若草(わかくさ)に
ゆらめくいきももゆるとき
よろこび慕(した)ふ胸にしも
熱(あつ)きおもひはやどるなり

花野(はなの)は盾(たて)のひとおもて
大神(おほかみ)の手のたくみぞと
夢よただへてわづらひの
征矢(そや)鳴りやめるかげにかくれむ

さにてはなきや昨日(きのふ)こそ
冬のあはれはこもりしか
古井(ふるゐ)のかげよ今日(けふ)はまた
追憶(おもひで)深き草の花

追憶ふかき草なれば
菫(すみれ)やさしくにほふなり
やさしく匂ふ花なれば
そのこころさへ慧(さと)からむ

されば知れりや歡樂(よろこび)の
泉にかかる琴のねを
ここには誰(たれ)ぞ彈(ひ)きすてて
世はすががきのみだれのみ

さてしも難(かた)きよろこびや
かくも忘れし祕(ひ)めごとや
いやまし人は嘆く日に
匂ひは深き花すみれ

常磐(ときは)の緑(みどり)葉をかさね
森の香いかに高くとも
汝(な)がにほはしのくちづけに
われはかへじよ花すみれ

神のこころはほのかにて
人知る際(きは)にあらねども
いくよ忘れし思ひさへ
ただこの花に忍ばるる

げに世は夢よ歡樂(よろこび)の
泉はつきてかへらねど
古井のかげの戀草(こひぐさ)に
なほ新しきにほひあらずや

海に來て戀をおもへば
わが戀はみだるるうしほ
君にゆき君にむかへば
わが身たださみしきおもひ

わが情(なさけ)君がなさけに
ふたつもしくらべみるとき
いかでわが青沼(あをぬま)の水
君が野のいづみに如(し)かむ

南(みんなみ)の花の香(かをり)か
浪ひびく夢の小笛(をぶえ)か
君はこれにほひの身なり
君はまたしらべのすがた

われはまた樹(こ)の間(ま)の小鳥
君が眼(め)の空(そら)にかかれる
うるはしき瞳(ひとみ)の星の
色すめるかげをぞたのむ

かくてわが命(いのち)の甕(かめ)に
濁(にごり)汲(く)むひくき流(ながれ)も
君が戀ほのほはげしき
海にこそ注(そそ)ぎいでしか

君はまた常住(とは)のよろこび
緑なるつきせぬ廣野(ひろの)
その廣野君が狩くら
狩くらにわが身迷へり

わがなやみ君がよろこび
わが愁ひ君が琴のね
白銀(しろがね)の獵矢(さつや)を君は
小男鹿(さをじか)の痛手(いたで)ぞわれに

君が戀あまりに高く
黄昏(たそがれ)も知らぬ光や
浮雲(うきくも)のかげにもあはれ
たふれゆくわが身およばじ

牡蠣(かき)の殼(から)なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨(ひと)りあやふく限ある
そのおもひこそ悲しけれ

身はこれ盲目(めしひ)すべもなく
巖(いはほ)のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮(しほ)のみちひをおぼゆめり

いかに黎明(あさあけ)あさ汐(じほ)の
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼

たとへ夕づついと清き
光は浪の穗に照りて
遠野(とほの)が鴿(はと)の面影に
似たりとてはた何ならむ

痛(いた)ましきかなわたづみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど

されど一度(ひとたび)あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎(くだ)けざるべき

いまだ葉守(はもり)の神わかく
枝うちかざし風呼べば
わかるる人もしばしとて
夏は樹蔭(こかげ)を慕ふらむ

さればきのふのわが春よ
草ひきむすびやすらひて
若葉(わかば)かがやくかげにこそ
過ぎし夜がたりつぐべけれ

潜(ひそ)むは何のこころぞや
その葉がくれの夢にだに
春よ消えにし花の面(おも)
淡げにのみも見えよかし

野路(のぢ)は戀路(こひぢ)にあらねども
野草(のぐさ)は熱(あつ)きあくがれに
みどりの夢のそのいきの
はげしく深き夏の野べ

かなたに消ゆる世のかげの
みだれはここにをさまりて
青野(あをの)花草(はなぐさ)日にとくる
白銀(しろがね)の音(ね)に似たりけり

光は高き洪水(おほみづ)に
この時ひとりただよへば
聲も傳へぬ深海(ふかうみ)の
小舟(をぶね)の身こそをかしけれ

かしこ港やいと清き
おもひぞ泊(は)つる青葉かげ
かしこ盡きせぬ眞珠(しらたま)を
さぐるもよしや野のいづみ

戀ぢは野ぢにあらねども
なやみの草の夏しげき
かげにもなどや靜けさの
よろこび深き夢のなからむ

浪を劃(かぎ)りて磯濱(いそはま)に
乾(かわ)ける沙(すな)は誰(た)が置きし
へだつればこそ君が家(や)に
枳殼(からたち)の墻(かき)恨みしか

雨緑(あめみどり)野(の)に鳴り歇(や)みて
皐月(さつき)風なく日は蒸(む)しぬ
垣根いといとしめやかに
けふ枳殼の花一重(はなひとへ)

一重に白き花あはれ
一瓣(ひとよ)にこもる夢あはれ
身は卑(いや)しくて思ひのみ
繁(しげ)きわれにはなど似たる

われや佇(たたず)む夕まぐれ
嘆くと知れる君ならず
もとより門(かど)の枳殼の
花をし愛(め)づる君ならず

あまりある血をいたづらに
青葉の下に冷さむや
一たび君がにほひある
こころの底に染めてこそ

鴎に寄する歌
何とはなしにはてもなく
昔にかへるわが身かな
おもふはその日旅の空
すでに三歳(みとせ)を過ぎにけり

その日は海の夕まぐれ
わが船浪に漕(こ)ぎくれば
鴎つばさは白くして
ひとり汐(しほ)げの闇をゆく

苦吟(くぎん)あやめもわかぬ時
靈光(れいくわう)頭を射るごとく
鴎よはじめ汝(なれ)を見て
心竊(ひそ)かに驚きぬ

嗚呼塵染めぬ翅(つばさ)かげ
わが身を納(い)れよかくばかり
愁ひはさわぐ激浪(おほなみ)の
やみがたくしてすべぞなき

鴎よ行方(ゆくへ)遠からむ
消え去るかげを惜めども
可怜小汀(うましをばま)のいづかたを
汝(な)が戀ふとしも知らざりき

おもひはつきずある夜また
夢に潮(うしほ)の流れ來て
大海(おほうみ)とほくかぎりなき
そのはてをしも慕ひけり

可怜小汀か甲斐なくも
問ふはいくたびそもいづこ
八汐路(やしほぢ)難(かた)き沖の上
夢浮舟のすゑ悲し

鴎よかくてはてもなく
昔にかへるしばらくは
白き翅にさそはれて
胸ゆらぐこそあやしけれ

菱(ひし)の實(み)とるは誰(た)が子ぞや
くろかみ風にみだれたる

菱の實とるは誰が子ぞや
ひとり浮びて古池(ふるいけ)に

鄙歌(ひなうた)のふしおもしろく
君なほざりにうたふめり

聲(こゑ)夢ごこちほそきとき
ききまどふこそをかしけれ

かごはみてりや秋深く
實(み)はさばかりにおほからじ

菱の葉のみは朽つれども
げに菱の實はおほからじ

かごはみたずや光なき
日は暮れてゆく短かさよ

なほなげかじなうらわかみ
なさけにもゆる君ならば

君や菱賣(う)る影清く
はしる市路(いちぢ)のゆふまぐれ

そのすがたをば憐(あはれ)みて
ああなど誰(たれ)かつらからむ

君がゑまひの花かげに
ふれなばおちむ實こそあれ

うるはしとおもふ實のひとつ
いつかこの身にこぼれけむ

旅ゆき迷ふわづらひも
しばしぞ今は忘らるる

あやしむなかれわれはただ
なさけのかげを慕ふのみ

さながらわれは若櫨(わかはじ)の
枝に來て鳴く小鳥(ことり)のみ

『祈祷(いのり)あげよ』と星の界(よ)の
少女(をとめ)の一人(ひとり)その聲よ
愛の泉のしたたりや

その聲よまたさながらに
聖なる小河(をがは)うち掩ふ
蘆葉(あしば)さやぎのひめごとや

その聲音(こわね)こそすみわたる
光の海の遠浪(とほなみ)の
天いと深く傳ひゆけ

『いざ祈祷(いのり)をぞ榮(はえ)おほき
つとめ』といへばひざまづく
靈(たま)の身かげのまた二人(ふたり)

一人(ひとり)は高きよろこびに
黄金(こがね)彩雲(あやくも)とほ空の
底(そこ)にかがやく色を讃(ほ)め

一人(ひとり)は殘る愁ひより
紫(むらさき)濃雲(こぐも)故里の
界(よ)をしまとふとなつかしむ

二人(ふたり)おもはずかしここそ
ああ夕まぐれわが界(よ)はと
言はむのまどひさてやみぬ

祈祷はつひにつとめはて
高榮(たかはえ)めぐる聖燭(みあかし)の
焔(ほのほ)もここにともされぬ

見よ聖燭の火は生(お)ひぬ
熾(さか)りぬ照(て)りぬ(嗚呼何ぞ
人の世われに夕短かき)

かの紫の夕雲(ゆふぐも)に
かの黄昏(たそがれ)のさびしさの
あふぎ見るだにたへがたき
いろこそ深く染めにけれ

彩(あや)ある雲に慕ひよる
愁ひの影の夕暮の
魂の少女のくろ髮の
にほひもあらぬ空のうへ

我が胸にしもさらばまた
黄金(こがね)の色のかはりはて
追憶(おもひで)つらきかたみなる
みだるる髮のかからずや

みだるる髮はかかるとも
わが手にさぐるちからなく
ひとりもだゆるこころより
ただ大空(おほそら)をながめけり

沈むこころの海原(うなばら)の
浪の響はさはあれど
闇(やみ)なる痛(いた)みたへがたく
聽(き)かじとするにすべもなし

わかき血潮はしづみゆく
わが身にもなほ戀あらば
高きみ座(くら)にかなしみの
聖燭(みあかし)添(そ)へむわがねがひ

かがやきわたれる星のかの界(よ)
いづれの光もいと慕はし

さはあれひとへにわけてめづる
ゆかしき影こそ胸は照らせ

いろ彩(あや)ととなふ虹のごとく
そのかげ天(あめ)より地(つち)にわたり

すぎにし歡樂(よろこび)いにしうれひ
やすみの園生(そのふ)に夢をさそふ

かたらひ契りし少女の名に
夜(よ)ごとよびさます星は照らす

少女(をとめ)はうせしや墓(はか)はいづこ
わが星いづれと問ふをやめよ

はてなき空を流れ去りて
星の光も消ゆるごと
愁ひのかげは時として
胸ふかくこそおちにけれ

わがよろこびは新草(にひぐさ)の
野べとしおもふその日だに
命(いのち)の榮(はえ)の花もなく
夕影(ゆふかげ)などや沈むらむ

愁ひのかげは掩(おほ)ひ來て
闇となる身のはかなしや
幾世(いくよ)なやみの羽音(はおと)さへ
さても聞きしるわがこころ

げに人の世のことわりの
深きにほひもたそがれて
淺瀬(あさせ)すべなきわづらひの
流(ながれ)に夢はみだれけり

魂(たま)の身かをる桂(かつら)かげ
天(あめ)なる光戀ふれども
身はいたづらに沈みゆく
卑(ひく)きなやみをいかにせむ

光はにほふ天(あめ)の香(か)を
慕ひしたひしたのしさに
薔薇(さうび)の宮(みや)となづけつつ
めでにし星も墜(お)ちてけり

こよひは清き愁ひより
うるほひひらく影見れば
百合(ゆり)の宿座(やどり)とよびかへて
ふたたび空にあくがれむ

追懷(おもひで)深きかがやきぞ
迷ふわが身のたよりなる
さればよ照らせ荒磯に
また闇(やみ)沈む墓(はか)かげに

光かすかに日は落ちて
愁はせまるゆふまぐれ
またうちさわぐわが胸の
ものおもひこそあやしけれ

つつむは何のこころぞや
憶(おも)ひいづるぞさてはよき

夕(ゆふべ)なごりのしづけさに
しばしはあはき影ひけよ
野の曙(あけぼの)をわれ趁(お)ひて
醉(ゑ)ひて過ぎしも夢なりや

さしもつつみて何かせむ
憶ひいでずばかひなしや

ただかりそめに星讃(ほ)めて
ただ麗(うるは)しき人すごし
ほのぐらき路(みち)ふみゆけば
熱(あつ)き血しほも冷(ひ)えにけり

さあれつつむに忍びむや
憶ひいづればたのしきを

樹杪(こずゑ)わかるる光こそ
雲にかくれてゆきにしか
今宵(こよひ)は昔たえはてし
清きしらべもかへり來(こ)よ

つつむといふもこころから
ああまたおもひいでてまし

嗚呼かの野邊のかたらひや
その幸(さち)常久(とは)に盡(つ)きざれば
よろこびの華(はな)褪(あ)せずして
生命(いのち)の草(くさ)もにほふなり

つひにつつむにたへがたし
おもひいづるぞさてはよき

かすかに胸にけふはまた
むかしの海の響(ひびき)すと
ひとり寂しきうたがひに
山邊(やまべ)の翁(おきな)つぶやける

山邊にかくは齡老(としお)いて
遠きおもひもあらざりき
今日(けふ)しいかなるたはむれぞ
翅(つばさ)は生ひぬわが夢に

雲に彩(あや)あり高嶺(たかね)なる
あらき巖(いはほ)をつつむとき
榮(はえ)よ樹(こ)かげをはなれゆきて
夢の翅ぞ匂ふなる

憂(う)さいぶせさは谷の奧
かくて忘れつ故郷(ふるさと)を
かなたに今はひたすらに
海の響をきかむとす

幽(かす)かなれどもわかやかに
漲(みなぎ)りわたる大海(おほうみ)の
その音(おと)なひよ歡びの
わが日むかしの歌の聲

觸(ふ)れてこそまたなつかしみ
ふるるによけれ何日(いつ)までも
されどわが世の磯濱(いそはま)に
浪はひとたびすぎしのみ

浪は碎(くだ)けてすぎけれど
今はた聞けば後(のち)の日の
すさめる胸の追憶(おもひで)に
海のひびきのゆかしきを

何(なに)今更(いまさら)にたゆたひて
夢の翅の衰(おとろ)ふる
獨りかくてもおくつきに
とくいりはてばいかにせむ

嗚呼また一重(ひとへ)しほからき
狹霧(さぎり)ひらかむ夢もがな
舊(もと)の渚(なぎさ)のさのみやは
いつまでわれに見えぬらむ

白晝(まひる)のをりの眞砂路(まさごぢ)に
潮(うしほ)の華(はな)の明(あき)らかに
映(うつ)りしさまを戀ふれども
つらくすべなくなりぬめり

嗚呼堪へがたし遠海(とほうみ)の
とよみむなしく聽てあれば
そは似たりけりかの媚(こび)に
あだなる人の私語(ささやぎ)に

すべて忘れてありつるを
夢よいかなるいつはりぞ
翅もつひに沈むまに
をぐらくなりぬ空のはて

よろこび
なれがゆらめく高(たか)むね
大海原(おほうなばら)にゆきめぐれる
潮(うしほ)なれやさこそ
光にみちてもあふるるなれ

よろこび
なれがにほへる唇(くちびる)
かの曉に天(あめ)あけゆく
焔なれやさこそ
熱き絃(いと)ふるへ音(ね)にたつなれ

よろこび
なれがすがたや何なる
望(のぞみ)に照れるそのよそほひ
さればさればさこそ
いといと高きをたたふるなれ

東方(ひんがし)
ここに國(くに)するよろこび
高日(たかひ)繞(めぐ)れる黄金(こがね)御座(みくら)
ああ誰かはここに
み座(くら)のにほひを仰がざらむ

くにたみ
われらささぐる讃歌(ほめうた)
せめて眞白き翅とらば
ああ御輦(みくるま)めぐる
この日の榮(はえ)もて天(あま)かけらむ

よろこび
なれがねがひはくまなく
かがやく幸(さち)やそのもろごゑ
さればさればさこそ
いといと高きをたたふるなれ

曙のうた
漲(みなぎ)り披(ひら)く千重(ちへ)の浪
憊(つか)るる色は更になし
擁(いだ)くは勁(つよ)く張りし琴
音(おと)の高きに副(そ)へばなり

深き遠きを問はずして
胸によろづの聲を籠(こ)め
夜を傷(いた)みて夢おほき
人の世の岸洗ひ去る

曙に海鳴りわたれ
 鳴りわたれ海あけぼのに
磯うち湧きてあがり
溢(あふ)れて沙(いさご)噛(か)めよ

曉の星あふぎ見て
舒(の)びていざよふ雲の君
にほひ含(ふく)める唇に
讃(ほ)むるは朝の光なり

曉の空いと清く
明(あ)けゆく雲はやすらひて
彩(あや)ある榮(はえ)の光こそ
その胸にしもうつりけり

曙に風吹きかへせ
 吹きかへせ風あけぼのに
高きに光纒(まと)ひ
微(かす)かに淨(きよ)く拂へ

愁(うれひ)は谷の霧なれば
思ひは暗き澤(さは)がくれ
かなしみ細くいと苦(にが)き
小草(をぐさ)を把(と)りしわが身さへ

高潮(たかじほ)滿ちて繞(めぐ)りゆく
海のほとりによみがへり
雲は匂へる朝ぼらけ
生るる靈(たま)の幸(さち)想(おも)ふ

曙に海鳴りわたれ
 鳴りわたれ海あけぼのに
豐(ゆた)かに遠く湛(たた)へ
流れて岸に觸(ふ)れよ

海に映(うつ)りつ輝きつ
雲あひ牽(ひ)きて影逐(お)へば
母なる地(つち)の歡樂(よろこび)に
塵もこの時また聖(きよ)し

流轉(るてん)よ暫時(しばし)たちかへり
翼(つばさ)收(をさ)めて虚空(そら)に見よ
野の花わかき髮に添ひ
森の香健(たけ)き胸に入る

曙に風吹きかへせ
 吹きかへせ風あけぼのに
極(はて)より極(はて)に過ぎて
天(あめ)より地(つち)に下りよ
  *  *  *

重(かさ)なる歳月(とき)は移(うつ)れども
忘られぬ日は稀(まれ)なりや
古來(こらい)の典籍(ふみ)を繙(ひもと)きて
世をば激(げき)せし蹤(あと)を見よ

無憂樹(むいうじゆ)の蔭(かげ)華(はな)饒(おほ)く
馬槽(うまぶね)の邊(へ)に星照らす
嗚呼その法(のり)の曙の
光もいつか影歛(をさ)め
傷(いた)みてひとり嘆きつつ
懷疑(うたがひ)の途(みち)人走る

奔放(ほしいまゝ)なれかかる世や
熱慕(ねつぼ)情(なさけ)にただ嚮(むか)へ
微闇(ほのくら)き空いかばかり
雲華(はな)やかに染め來ずや
うち咽(むせ)ぶ海またここに
潮(うしほ)ふたたび滿(み)ち來ずや
然(さ)らずや高き遠き見て
明(あ)けゆく磯にわが立てば
この曙に白銀(しろがね)の
獵箭(さつや)弓弦(ゆづる)を斷(た)つがごと
雄々しき魂の生れいで
この曙に琴のねの
祝ひの歌を曳(ひ)くがごと
やさしき魂の聲あげむ
われ今清き曙に
色と香を慕ふ時
おのづからなる命(いのち)こそ
活(い)きて極(はて)なく流れゆけ
響は浪に高くたち
光は雲に靆(たなび)きて
嗚呼この清き曙に
風吹きかへせ浪鳴りわたれ
(明治三十五年一月刊)
了

底本:「日本現代文學全集 22 土井晩翠・薄田泣菫・蒲原有明・伊良子清白・横瀬夜雨集」講談社
   1968(昭和43)年5月19日初版発行
   1969(昭和44)年10月1日第2刷
底本の親本:「草わかば」新聲社
   1902(明治35)年1月
入力:広橋はやみ
校正:岡村和彦
2015年12月13日作成
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