あらすじ
信濃の姨捨駅に降り立った一人の旅人は、目の前に広がる紅葉の絶景に言葉を失います。汽車は山深いトンネルを抜ける際、不思議な光景を目撃します。それは、薄暗い車内に現れた、美しくも妖しげな二人の女でした。彼女たちは、どこから来たのか、何処へ向かうのか、謎に包まれた存在です。やがて、男は二人の女と、謎めいた紳士、そして奇怪な鳥の遭遇を通して、不思議な出来事に巻き込まれていきます。
 峰(みね)は木(こ)の葉(は)の虹(にじ)である、谷(たに)は錦(にしき)の淵(ふち)である。……信濃(しなの)の秋(あき)の山深(やまふか)く、霜(しも)に冴(さ)えた夕月(ゆふづき)の色(いろ)を、まあ、何(なん)と言(い)はう。……流(ながれ)は銀鱗(ぎんりん)の龍(りう)である。
 鮮紅(からくれなゐ)と、朱鷺(とき)と、桃色(もゝいろ)と、薄紅梅(うすこうばい)と、丹(に)と、朱(しゆ)と、くすんだ樺(かば)と、冴(さ)えた黄(き)と、颯(さつ)と點滴(したゝ)る濃(こ)い紅(べに)と、紫(むらさき)の霧(きり)を山氣(さんき)に漉(こ)して、玲瓏(れいろう)として映(うつ)る、窓々(まど/\)は恰(あたか)も名(な)にし負(お)ふ田毎(たごと)の月(つき)のやうな汽車(きしや)の中(なか)から、はじめ遠山(とほやま)の雲(くも)の薄衣(うすぎぬ)の裾(すそ)に、ちら/\と白(しろ)く、衝(つ)と冷(つめた)く光(ひか)つて走(はし)り出(だ)した、其(そ)の水(みづ)の色(いろ)を遙(はるか)に望(のぞ)んだ時(とき)は、錦(にしき)の衾(ふすま)を分(わ)けた仙宮(せんきう)の雪(ゆき)の兎(うさぎ)と見(み)た。
 尾花(をばな)も白(しろ)い。尾上(をのへ)に遙(はるか)に、崖(がけ)に靡(なび)いて、堤防(どて)に殘(のこ)り、稻束(いなづか)を縫(ぬ)つて、莖(くき)も葉(は)も亂(みだ)れ亂(みだ)れて其(それ)は蕎麥(そば)よりも赤(あか)いのに、穗(ほ)は夢(ゆめ)のやうに白(しろ)い幻(まぼろし)にして然(しか)も、日(ひ)の名殘(なごり)か、月影(つきかげ)か、晃々(きら/\)と艶(つや)を放(はな)つて、山(やま)の袖(そで)に、懷(ふところ)に、錦(にしき)に面影(おもかげ)を留(と)めた風情(ふぜい)は、山嶽(さんがく)の色香(いろか)に思(おもひ)を碎(くだ)いて、戀(こひ)の棧橋(かけはし)を落(お)ちた蒼空(あをぞら)の雲(くも)の餘波(なごり)のやうである。
 空(そら)澄(す)んで風(かぜ)のない日(ひ)で、尾花(をばな)は靜(ぢつ)として動(うご)かなかつたのに。……
 胡粉(ごふん)に分(わか)れた水(みづ)の影(かげ)は、朱(しゆ)を研(と)ぐ藥研(やげん)に水銀(すゐぎん)の轉(まろ)ぶが如(ごと)く、衝(つ)と流(なが)れて、すら/\と絲(いと)を曳(ひ)くのであつた。
 汽車(きしや)の進(すゝ)むに連(つ)れて、水(みづ)の畝(うね)るのが知(し)れた。……濃(こ)き薄(うす)き、もみぢの中(なか)を、霧(きり)の隙(ひま)を、次第(しだい)に月(つき)の光(ひかり)が添(そ)つて、雲(くも)に吸(す)はるゝが如(ごと)く、眞蒼(まつさを)な空(そら)の下(した)に常磐木(ときはぎ)の碧(あを)きがあれば、其處(そこ)に、すつと浮立(うきた)つて、音(おと)もなく玉(たま)散(ちら)す。
 窓(まど)もやゝ黄昏(たそが)れて、村里(むらざと)の柿(かき)の實(み)も輕(かる)くぱら/\と紅(くれなゐ)の林(はやし)に紛(まぎ)れて、さま/″\のものの緑(みどり)も黄色(きいろ)に、藁屋根(わらやね)の樺(かば)なるも赤(あか)い草(くさ)に影(かげ)が沈(しづ)む、底(そこ)澄(す)む霧(きり)に艶(つや)を増(ま)して、露(つゆ)もこぼさす、霜(しも)も置(お)かず、紅(べに)も笹色(さゝいろ)の粧(よそほひ)を凝(こら)して、月光(げつくわう)に溶(と)けて二葉(ふたは)三葉(みは)、たゞ紅(べに)の點滴(したゝ)る如(ごと)く、峯(みね)を落(お)ちつつ、淵(ふち)にも沈(しづ)まず飜(ひるがへ)る。
 散(ち)る、風(かぜ)なくして散(ち)る其(その)もみぢ葉(ば)の影(かげ)の消(き)ゆるのは、棚田(たなだ)、山田(やまだ)、小田(をだ)の彼方此方(あちこち)、砧(きぬた)の布(ぬの)のなごりを惜(をし)んで※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(さまよ)ふ状(さま)に、疊(たゝ)まれもせず、靡(なび)きも果(は)てないで、力(ちから)なげに、すら/\と末廣(すゑひろ)がりに細(ほそ)く彳(たゝず)む夕(ゆふべ)の煙(けむり)の中(なか)である。……煙(けむり)の遠(とほ)いのは人(ひと)かと見(み)ゆる、山(やま)の魂(たましひ)かと見(み)ゆる、峰(みね)の妾(おもひもの)かと見(み)ゆる、狩(か)り暮(く)らし夕霧(ゆふぎり)に薄(うす)く成(な)り行(ゆ)く、里(さと)の美女(たをやめ)の影(かげ)かとも視(なが)めらるゝ。
 水(みづ)ある上(うへ)には、横(よこ)に渡(わた)つて橋(はし)となり、崖(がけ)なす隈(くま)には、草(くさ)を潛(くゞ)つて路(みち)となり、家(いへ)ある軒(のき)には、斜(なゝ)めに繞(めぐ)つて暮行(くれゆ)く秋(あき)の思(おもひ)と成(な)る。
 煙(けむり)は靜(しづか)に、燃(も)ゆる火(ひ)の火先(ほさき)も宿(やど)さぬ。が、南天(なんてん)の實(み)の溢(こぼ)れたやうに、ちら/\と其(そ)の底(そこ)に映(うつ)るのは、雲(くも)の茜(あかね)が、峰裏(みねうら)に夕日(ゆふひ)の影(かげ)を投(な)げたのである。
 此(こ)の紅玉(こうぎよく)に入亂(いりみだ)れて、小草(をぐさ)に散(ち)つた眞珠(しんじゆ)の數(かず)は、次等々々(しだい/\)照増(てりまさ)る、月(つき)の田毎(たごと)の影(かげ)であつた。
 やがて、月(つき)の世界(せかい)と成(な)れば、野(の)に、畑(はた)に、山懷(やまふところ)に、峰(みね)の裾(すそ)に、遙(はるか)に炭(すみ)を燒(や)く、それは雲(くも)に紛(まが)ふ、はた遠(とほ)く筑摩川(ちくまがは)を挾(さしはさ)んだ、兩岸(りやうがん)に、すら/\と立昇(たちのぼ)るそれ等(ら)の煙(けむり)は、滿山(まんざん)の冷(つめた)き虹(にじ)の錦(にしき)の裏(うら)に、擬(こ)つて霜(しも)の階(きざはし)と成(な)らう。凍(い)てて水晶(すゐしやう)の圓(まろ)き柱(はしら)と成(な)らう。……
 錦葉(にしきば)の蓑(みの)を着(き)て、其(そ)の階(きざはし)、其(そ)の柱(はしら)を攀(よ)ぢて、山々(やま/\)、谷々(たに/″\)の、姫(ひめ)は、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらふ)は、美(うつく)しき鳥(とり)と成(な)つて、月宮殿(げつきうでん)に遊(あそ)ぶであらう。
 木(こ)の葉(は)は夜(よる)の虹(にじ)である、月(つき)の錦(にしき)の淵(ふち)である。
 此(こ)の峰(みね)、此(こ)の谷(たに)、恁(かゝ)る思(おもひ)。紅(くれなゐ)の梢(こずゑ)を行(ゆ)く汽車(きしや)さへ、轟(とゞろ)きさへ、音(おと)なき煙(けむり)の、雪(ゆき)なす瀧(たき)をさかのぼつて、輕(かる)い群青(ぐんじやう)の雲(くも)に響(ひゞ)く、幽(かすか)なる、微妙(びめう)なる音樂(おんがく)であつた。
 驛員(えきゐん)が黒(くろ)く流(なが)れて、
「姨捨(をばすて)!姨捨(をばすて)!」……

「失禮(しつれい)、此處(こゝ)は一體(いつたい)何處(どこ)なんですか。」
「姨捨(をばすて)です。」
 五分間(ふんかん)停車(ていしや)と聞(き)いて、昇降口(しようかうぐち)を、峠(たうげ)の棧橋(かけはし)のやうな、雲(くも)に近(ちか)い、夕月(ゆふづき)のしら/″\とあるプラツトフオームへ下(お)りた一人旅(ひとりたび)の旅客(りよきやく)が、恍惚(うつとり)とした顏(かほ)をして訪(たづ)ねた時(とき)、立會(たちあは)せた驛員(えきゐん)は、……恁(か)う答(こた)へた。が、大方(おほかた)睡(ねむり)から覺(さ)めたものが、覺束(おぼつか)なさに宿(しゆく)の名(な)に念(ねん)を入(い)れたものと思(おも)つたらう。
「姨捨(をばすて)です。」
「成程(なるほど)。」
 と胸(むね)に氣(き)を入(い)れたやうに頷(うなづ)いて云(い)つたが、汽車(きしや)に搖(ゆ)られて來(き)た聊(いさゝ)かの疲勞(つかれ)も交(まじ)つて、山(やま)の美(うつく)しさに魅(み)せられて身(み)の萎々(なえ/\)と成(な)つた、歎息(ためいき)のやうにも聞(きこ)えた。
 實際(じつさい)、彼(かれ)は驛員(えきゐん)の呼(よ)び聲(ごゑ)に、疾(と)く此(こ)の停車場(ステイシヨン)の名(な)は聞(き)いて心得(こゝろえ)たので。空(そら)も山(やま)も、餘(あま)りの色彩(いろどり)に、我(われ)は果(はた)して何處(いづこ)にありや、と自(みづか)ら疑(うたが)つて尋(たづ)ねたのであつた。
「何(なん)とも申(まを)しやうがありません。實(じつ)にいゝ景色(けしき)の處(ところ)ですな。」
 出入(ではひ)りの旅客(りよきやく)も僅(わづか)に二三。で、車室(しやしつ)から降(お)りたのは自分(じぶん)一人(ひとり)だつた彼(かれ)に、海拔(かいばつ)二千尺(じやく)の峰(みね)に於(お)けるプラツトフオームは、恰(あたか)も雲(くも)の上(うへ)に拵(しつら)へた白(しろ)き瑪瑙(めなう)の棧敷(さじき)であるが如(ごと)く思(おも)はれたから、驛員(えきゐん)に對(たい)する挨拶(あいさつ)も、客(きやく)が歡迎(くわんげい)する主人(しゆじん)に對(たい)して、感謝(かんしや)の意(い)を表(へう)するが如(ごと)きものであつた。
 心(こゝろ)は通(つう)ずる、驛員(えきゐん)も、然(さ)も滿足(まんぞく)したらしい微笑(びせう)を浮(うか)べて、
「お氣(き)に入(い)りまして結構(けつこう)です、もみぢを御見物(ごけんぶつ)でございますか。」
 と半(なか)ば得意(とくい)の髯(ひげ)を揉(も)む。
「否(いや)、見物(けんぶつ)と申(まを)すと、大分(だいぶ)贅澤(ぜいたく)なやうで。」
 と、彼(かれ)は何故(なぜ)か懷中(ふところ)の見(み)える、餘(あま)り工面(くめん)のよくない謙遜(けんそん)の仕方(しかた)で、
「氣紛(きまぐ)れに御厄介(ごやくかい)を掛(か)けますのです。しかし、觀光(くわんくわう)の客(きやく)が一向(いつかう)に少(すくな)いやうでございますな、此(これ)だけの處(ところ)を。」
「はあ……」と一寸(ちよつと)時計(とけい)を見(み)ながら、
「雜(ざつ)と十日(とをか)ばかり後(おく)れて居(ゐ)ますです。最(も)う雪(ゆき)ですからな。風(かぜ)によつては今夜(こんや)にも眞白(まつしろ)に成(な)りますものな。……尤(もつと)も出盛(でさか)りの旬(しゆん)だと云(い)つても、月(つき)の頃(ころ)ほどには來(こ)ないのでしてな。」
「あゝ、其(そ)の姨捨山(をばすてやま)と云(い)ふのは孰(ど)れでございます。」
「裏(うら)の此(こ)の山(やま)一體(いつたい)を然(さ)う云(い)ふんださうです。」
 と來合(きあは)せて立停(たちどま)つた、色(いろ)の白(しろ)い少年(せうねん)の驛夫(えきふ)が引取(ひきと)る。
 手(て)屆(とゞ)く其(そ)の山懷(やまふところ)に、蔽(おほ)ひかさなる錦葉(もみぢ)の蔭(かげ)に、葉(は)の眞赤(まつか)な龍膽(りんだう)が、ふさ/\と二三輪(りん)、霜(しも)に紫(むらさき)を凝(こら)して咲(さ)く。……
 途(みち)すがらも、此(こ)の神祕(しんぴ)な幽玄(いうげん)な花(はな)は、尾花(をばな)の根(ね)、林(はやし)の中(なか)、山(やま)の裂(さ)けた巖角(いはかど)に、輕(かろ)く藍(あゐ)に成(な)つたり、重(おも)く青(あを)く成(な)つたり、故(わざ)と淺黄(あさぎ)だつたり、色(いろ)が動(うご)きつつある風情(ふぜい)に、人(ひと)に其(そ)の生命(せいめい)あることを知(し)らせ顏(がほ)に裝(よそほ)つた。そして、下界(げかい)に降(お)りて、峰(みね)を、原(はら)を、紫(むらさき)の星(ほし)が微行(びかう)して幽(かすか)に散歩(さんぽ)する俤(おもかげ)があつたのである。
「月見堂(つきみだう)と云(い)ひますのは。」
「彼處(あすこ)が其(それ)です。」と、少年(せうねん)の驛夫(えきふ)が指(ゆびさ)す。
 其(そ)の錦(にしき)の淵(ふち)に、霧(きり)を被(か)けて尾花(をばな)が縁(へり)とる、緋(ひ)の毛氈(まうせん)を敷(し)いた築島(つきしま)のやうな山(やま)の端(は)に、もの珍(めづら)しく一叢(ひとむら)の緑(みどり)の樹立(こだち)。眞黄色(まつきいろ)な公孫樹(いてふ)が一本(ひともと)。篝火(かゞりび)焚(た)くか、と根(ね)が燃(も)えて、眞紅(しんく)の梢(こずゑ)が、ちら/\と夕(ゆふべ)の茜(あかね)をほとばしらす。
 道々(みち/\)は、峰(みね)にも、溪(たに)にも、然(さ)うした處(ところ)に野社(のやしろ)の鳥居(とりゐ)が見(み)えた。
 こゝには、銀(ぎん)の月(つき)一輪(いちりん)。

「空(そら)の色(いろ)が潭(ふち)のやうです、何(なん)と云(い)つたら可(い)いでせう。……碧(あを)とも淺黄(あさぎ)とも薄(うす)い納戸(なんど)とも、……」
 月(つき)が山々(やま/\)に曳(ひ)いた其(そ)の薄衣(うすぎぬ)を仰(あふ)ぐ時(とき)、雲(くも)の棧橋(かけはし)に立(た)つ思(おも)ひがした。
 再(ふたゝ)び見(み)た時計(とけい)を納(をさ)めて、
「あれへ御一泊(ごいつぱく)は如何(いかゞ)です。」
 目(め)の下(した)の崖(がけ)の樹(こ)の間(ま)に、山鳥(やまどり)が吐(は)いた蜃氣樓(しんきろう)の如(ごと)き白壁造(しらかべづくり)、屋根(やね)の石(いし)さへ群青(ぐんじやう)の岩(いは)の斷片(かけら)を葉(は)に散(ち)らす。
 唯(と)見(み)ると、驛員(えきゐん)は莞爾(くわんじ)として、機關車(きくわんしや)の方(はう)へ、悠然(いうぜん)として霧(きり)を渡(わた)つた。
「や、出(で)ますな。」
 衝(つ)と列車(れつしや)に入(はひ)つた時(とき)、驛夫(えきふ)の少年(せうねん)は車(くるま)の尾(を)へ駈(か)けて通(とほ)る。
 笛(ふえ)は谺(こだま)す、一鳥(いつてう)聲(こゑ)あり、汽車(きしや)はする/\と艶(つや)やかに動(うご)き出(だ)す。
 窓(まど)で、彼(かれ)が帽(ばう)を脱(ぬ)ぐのに、驛員(えきゐん)は擧手(きよしゆ)して一揖(いちいふ)した。
 霧(きり)が掠(かす)れて、ひた/\と絡(まと)ひつく、霜(しも)かと思(おも)ふ冷(つめた)さに、戸(と)を引(ひ)いたが、彼(かれ)は其(そ)の硝子(がらす)に面(おもて)をひたと着(つ)けたまゝ、身動(みうご)きもしないで尚(な)ほ見惚(みと)れた。
 筑摩川(ちくまがは)は、あとに成(な)り行(ゆ)く月見堂(つきみだう)の山(やま)の端(は)の蔭(かげ)から、月(つき)が投(な)げたる網(あみ)かと見(み)える……汽車(きしや)の動(うご)くに連(つ)れて、山(やま)の峽(かひ)、峰(みね)の谷戸(やと)が、田(た)をかさね、畝(あぜ)をかさねて、小櫻(こざくら)、緋縅(ひをどし)、萌黄匂(もえぎにほひ)、櫨匂(はじにほひ)を、青地(あをぢ)、赤地(あかぢ)、蜀紅(しよくこう)なんど錦襴(きんらん)の直垂(ひたゝれ)の上(うへ)へ、草摺(くさずり)曳(ひ)いて、さつく/\と鎧(よろ)ふが如(ごと)く繰擴(くりひろ)がつて、人(ひと)の俤(おもかげ)立昇(たちのぼ)る、遠近(をちこち)の夕煙(ゆふけむり)は、紫(むらさき)籠(こ)めて裾濃(すそご)に靡(なび)く。
 水(みづ)は金銀(きんぎん)の縫目(ぬひめ)である。川中島(かはなかじま)さへ遙(はるか)に思(おも)ふ。
「長野(ながの)で辨當(べんたう)を買(か)つた時(とき)に情(なさけ)なかつた。蓮(はす)に人參(にんじん)に臭(くさ)い牛肉(ぎうにく)、肴(さかな)と云(い)ふのが生燒(なまやけ)の鹽引(しほびき)の鮭(さけ)は弱(よわ)る。……稗澤山(ひえだくさん)もそ/\の、ぽんぽち飯(めし)、あゝ/\旅行(りよかう)はしなければ可(よ)かつたと思(おも)つた。
 いや、贅澤(ぜいたく)は云(い)ふまい、此(こ)の景色(けしき)に對(たい)しては恐多(おそれおほ)いぞ。」
「伺(うかゞ)ひます。」
 一停車場(あるステイシヨン)で、彼(かれ)の隣(となり)に居(ゐ)た、黒地(くろぢ)の質素(しつそ)な洋服(やうふく)を着(き)て、半外套(はんぐわいたう)を被(はお)つて、鳥打(とりうち)を被(かぶ)つた山林局(さんりんきよく)の官吏(くわんり)とも思(おも)ふ、痩(や)せた陰氣(いんき)な男(をとこ)が、薄暗(うすぐら)い窓(まど)から顏(かほ)を出(だ)して、通(とほり)がかりの驛員(えきゐん)を呼(よ)んで聞(き)いた。
「伊那(いな)へは、此(こ)の驛(えき)から何里(なんり)ですな。」
「六里半(りはん)、峠越(たうげご)しで、七里(り)でせう。」
「しますと、次(つぎ)の驛(えき)からだと如何(いかゞ)なものでせう。」
「然(さ)やう……おい/\。」
 呼(よ)ぶと、驛員(えきゐん)が駈(か)けて來(き)た。まだ宵(よひ)ながら靴(くつ)の音(おと)が高(たか)く響(ひゞ)く。……改札口(かいさつぐち)に人珍(ひとめづら)しげに此方(こなた)を透(す)かした山家(やまが)の小兒(こども)の乾栗(ほしぐり)のやうな顏(かほ)の寂(さび)しさ。
「……驛(えき)からだと伊那(いな)まで何里(なんり)かね。」
「山路(やまみち)六里(り)……彼是(かれこれ)七里(り)でございます。」
「はゝあ、」と歎息(たんそく)するやうに云(い)つた時(とき)の、旅客(りよきやく)の面色(おもゝち)も四邊(あたり)の光景(くわうけい)も陰々(いん/\)たるものであつた。
「俥(くるま)はありませうか。」
「ございます。」
 と驛夫(えきふ)が答(こた)へた。
「次(つぎ)の驛(えき)には、」
「多分(たぶん)ございませう、一臺(だい)ぐらゐは。」
「否(いや)、此處(こゝ)で下(お)ります。」
 と思沈(おもひしづ)んだのが、急(きふ)に慌(あわたゞ)しげに云(い)つて、
「此處(こゝ)で下(お)ります。」
 と、最(も)う一度(いちど)自(みづか)ら確(たしか)めるやうに言(い)ひ加(た)した。
 驛員等(えきゐんら)は衝(つ)と兩方(りやうはう)へ。
 旅客(りよきやく)は眉(まゆ)を壓(あつ)する山(やま)又(また)山(やま)に眉(まゆ)を蔽(おほ)はれた状(さま)に、俯目(ふしめ)に棚(たな)の荷(に)を探(さぐ)り取(と)つたが、笛(ふえ)の鳴(な)る時(とき)、角形(かくがた)の革鞄(かばん)に洋傘(かうもり)を持添(もちそ)へると、決然(けつぜん)とした態度(たいど)で、つか/\と下(お)りた。下(お)り際(しな)に、顧(かへり)みて彼(かれ)に會釋(ゑしやく)した。
 健康(けんかう)を祈(いの)る。

 隣(となり)に居(ゐ)た其(そ)の旅客(りよきやく)は、何處(どこ)から乘合(のりあは)せたのか彼(かれ)はそれさへ知(し)らぬ。其(そ)の上(うへ)、雙方(さうはう)とも、もの思(おも)ひに耽(ふけ)つて、一度(ど)も言葉(ことば)は交(かは)さなかつたのである。
 雖然(けれども)、いざ、分(わか)れると成(な)れば、各自(てんで)が心(こゝろ)寂(さび)しく、懷(なつ)かしく、他人(たにん)のやうには思(おも)はなかつたほど列車(れつしや)の中(なか)は人(ひと)稀(まれ)で、……稀(まれ)と云(い)ふより、殆(ほとん)ど誰(たれ)も居(ゐ)ないのであつた。
 彼(かれ)は、單身(たんしん)山(やま)又(また)山(やま)を分(わ)けて行(ゆ)く新(あたら)しい知己(ちき)の前途(ぜんと)を思(おも)つた。蜀道(しよくだう)磽※(「石+角」、第3水準1-89-6)(かうかく)として轉(うた)た世(よ)は嶮(けん)なるかな。
 孤驛(こえき)既(すで)に夜(よる)にして、里程(りてい)孰(いづ)れよりするも峠(たうげ)を隔(へだ)てて七里(り)に餘(あま)る。……彼(かれ)は其(そ)の道中(だうちう)の錦葉(もみぢ)を思(おも)つた、霧(きり)の深(ふか)さを思(おも)つた、霜(しも)の鋭(するど)さを思(おも)つた、寧(むし)ろ其(それ)よりも早(は)や雪(ゆき)を思(おも)つた、……外套(ぐわいたう)黒(くろ)く沈(しづ)んで行(ゆ)く。……
 月(つき)が晃々(きら/\)と窓(まど)を射(い)たので、戞然(からり)と玉(たま)の函(はこ)を開(ひら)いたやうに、山々(やま/\)谷々(たに/″\)の錦葉(もみぢ)の錦(にしき)は、照々(てら/\)と輝(かゞやき)を帶(お)びて颯(さつ)と目(め)の前(まへ)に又(また)卷絹(まきぎぬ)を解擴(ときひろ)げた。が、末(すゑ)は仄々(ほの/″\)と薄(うす)く成(な)り行(ゆ)く。渚(なぎさ)の月(つき)に、美(うつく)しき貝(かひ)を敷(し)いて、あの、すら/\と細(ほそ)く立(た)つ煙(けむり)の、恰(あたか)も鴎(かもめ)の白(しろ)き影(かげ)を岬(みさき)に曳(ひ)くが如(ごと)く思(おも)はれたのは、記憶(きおく)が返(かへ)つたのである。
 汽車(きしや)は山(やま)の狹間(はざま)の左右(さいう)に迫(せま)る、暗(くら)き斷崖(だんがい)を穿(うが)つて過(す)ぎるのであつた。
 窓(まど)なる峰(みね)に、星(ほし)を貫(つらぬ)く、高(たか)き火(ひ)の見(み)の階子(はしご)を見(み)た。
 孤家(ひとつや)の灯(ともしび)の影(かげ)とても、落(お)ちた木(こ)の葉(は)の、幻(まぼろし)に一葉(ひとは)紅(くれなゐ)の俤(おもかげ)に立(た)つばかりの明(あかり)さへ無(な)い。
 岩(いは)を削(けづ)つて點滴(したゝ)る水(みづ)は、其(そ)の火(ひ)の見(み)階子(ばしご)に、垂々(たら/\)と雫(しづく)して、立(た)ちながら氷柱(つらゝ)に成(な)らむ、と冷(ひやゝ)かさの身(み)に染(し)むのみ。何處(どこ)に家(いへ)を燒(や)く炎(ほのほ)があらう。
 曉(あかつき)の霜(しも)を裂(さ)き、夕暮(ゆふぐれ)の霧(きり)を分(わ)けて、山姫(やまひめ)が撞木(しゆもく)を當(あ)てて、もみぢの紅(くれなゐ)を里(さと)に響(ひゞ)かす、樹々(きゞ)の錦(にしき)の知(し)らせ、と見(み)れば、龍膽(りんだう)に似(に)て俯向(うつむ)けに咲(さ)いた、半鐘(はんしよう)の銅(あかゞね)は、月(つき)に紫(むらさき)の影(かげ)を照(て)らす。
 大(おほい)なる蝙蝠(かうもり)のやうに、煙(けむり)がむら/\と隙間(すきま)を潛(くゞ)つた。
「あゝ、隧道(トンネル)へ入(はひ)つた。」
 人(ひと)も知(し)つた……此(こ)の隧道(トンネル)は以(もつ)ての外(ほか)鎖(チエイン)がある。普通(ふつう)我國(わがくに)第(だい)一と稱(とな)へて、(代天工(てんこうにかはる))と銘打(めいう)つたと聞(き)く、甲州(かふしう)笹子(さゝご)の隧道(トンネル)より、寧(むし)ろ此(こ)の方(はう)が長(なが)いかも知(し)れぬ。
 はじめは、たゞあまりに通過(とほりす)ぎるつもりで、事(こと)とも爲(し)なかつたばかりで無(な)い。一向(いつかう)、此(こ)の變則(へんそく)の名所(めいしよ)に就(つ)いて、知識(ちしき)も經驗(けいけん)も無(な)かつた彼(かれ)は、次第(しだい)に暗(くら)く成(な)り、愈々(いよ/\)深(ふか)くなり、もの凄(すさま)じく成(な)つて、搖(ゆすぶ)れ/\轟然(ぐわうぜん)たる大音響(だいおんきやう)を發(はつ)して、汽車(きしや)は天窓(あたま)から、鈍(にぶ)き錐(きり)と變(へん)じて、山(やま)の底(そこ)に潛込(もぐりこ)むが如(ごと)き、易(やす)からぬものの氣勢(けはひ)に、少(すくな)からず驚(おどろ)かされたのである。
「此(これ)は難所(なんしよ)だ。」
 美人(びじん)に見惚(みと)るゝとて、あらう事(こと)か、ぐつたり鏡臺(きやうだい)に凭掛(もたれかゝ)つたと云(い)ふ他愛(たわい)なさ。で、腰掛(こしかけ)に上(あが)り込(こ)んで、月(つき)の硝子窓(がらすまど)に、骨(ほね)を拔(ぬ)いて凍付(いてつ)いて居(ゐ)たのが、慌(あわ)てて、向直(むきなほ)つて、爪探(つまさぐ)りに下駄(げた)を拾(ひろ)つて、外套(ぐわいたう)の下(した)で、ずるりと弛(ゆる)んだ帶(おび)を緊(し)めると、襟(えり)を引掻合(ひつかきあは)せる時(とき)、袂(たもと)へ辷(すべ)つて宙(ちう)に留(と)まつた、大切(たいせつ)な路銀(ろぎん)を、ト懷中(ふところ)へ御直(おんなほ)り候(さふら)へと据直(すゑなほ)して、前褄(まへづま)をぐい、と緊(し)めた。
「いや、なか/\だぞ、尚(ま)だ。……」
 汽車(きしや)は轟々(ぐわう/\)と、唯(たゞ)瀧(たき)に捲(ま)かれた如(ごと)くに響(ひゞ)く。
 此處(こゝ)で整然(きちん)として腰(こし)を掛(か)けて、外套(ぐわいたう)の袖(そで)を合(あは)せて、一(ひと)つ下腹(したつぱら)で落着(おちつ)いた氣(き)が、だらしもなく續(つゞ)けざまに噎(む)せ返(かへ)つた。
 煙(けむり)が烈(はげ)しい。

 室内(しつない)一面(いちめん)濛々(もう/\)とした上(うへ)へ、あくどい黄味(きみ)を帶(お)びたのが、生暖(なまぬる)い瀬(せ)を造(つく)つて、むく/\泡(あわ)を吹(ふ)くやうに、……獅噛面(しかみづら)で切齒(くひしば)つた窓々(まど/\)の、隙間(すきま)と云(い)ふ隙間(すきま)、天井(てんじやう)、廂合(ひあはひ)から流込(ながれこ)む。
 噂(うはさ)も知(し)らなかつた隧道(トンネル)が此(これ)だとすると、音(おと)に響(ひゞ)いた笹子(さゝご)は可恐(おそろ)しい。一層(いつそ)中仙道(なかせんだう)を中央線(ちうあうせん)で、名古屋(なごや)へ大※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(おほまは)りをしようかと思(おも)つたくらゐ。
「何(なん)にしろ酷(ひど)いぞ、此(これ)は……毒(どく)を以(もつ)て毒(どく)を制(せい)すと遣(や)れ。」
 で、袂(たもと)から卷莨(まきたばこ)を取(と)つて、燐寸(マツチ)を摺(す)つた。口(くち)の先(さき)に※(ぱつ)[#「火+發」、U+243CB、468-3]と燃(も)えた火(ひ)で勢付(いきほひづ)いて、故(わざ)と煙(けむり)を深(ふか)く吸(す)つて、石炭(せきたん)臭(くさ)いのを浚(さら)つて吹出(ふきだ)す。
 目(め)もやゝ爽(さわや)かに成(な)つて、吻(ほつ)と呼吸(いき)をした時(とき)――ふと、否(いや)、はじめてと言(い)はう、――彼(かれ)が掛(か)けた斜(はす)に、向(むか)う側(がは)の腰掛(こしかけ)に、疊(たゝ)まり積(つも)る霧(きり)の中(なか)に、落(お)ちて落(おち)かさなつた美(うつく)しい影(かげ)を見(み)た。
 影(かげ)ではない、色(いろ)ある衣(きぬ)の媚(なまめ)かしいのを見(み)たのである。
「女(をんな)が居(ゐ)る。」
 然(しか)も二人(ふたり)、……
 と認(みと)めたが、萎々(なえ/\)として、兩方(りやうはう)が左右(さいう)から、一人(ひとり)は一方(いつぱう)の膝(ひざ)の上(うへ)へ、一人(ひとり)は一方(いつぱう)の、おくれ毛(げ)も亂(みだ)れた肩(かた)へ、袖(そで)で面(おもて)をひたと蔽(おほ)うたまゝ、寄縋(よりすが)り抱合(いだきあ)ふやうに、俯伏(うつぶ)しに成(な)つて惱(なや)ましげである。
 姿(すがた)を、然(さ)うして撓(たを)やかに折重(をりかさ)ねた、袖(そで)の色(いろ)は、濃(こ)い萌黄(もえぎ)である。深(ふか)い紫(むらさき)である。いづれも上(うへ)に被(き)た羽織(はおり)とは知(し)れたが、縞目(しまめ)は分(わか)らぬ。言(い)ふまでもなく紋(もん)があらう。然(しか)し、煙(けむり)に包(つゝ)まれて、朦朧(もうろう)としてそれは見(み)えぬ。
 小袖(こそで)も判然(はつきり)せぬ。が、二人(ふたり)とも紋縮緬(もんちりめん)と云(い)ふのであらう、絞(しぼ)つた、染(にじ)んだやうな斑點(むら)のある緋(ひ)の長襦袢(ながじゆばん)を着(き)たのは確(たしか)。で、搦(から)み合(あ)つた四(よ)つの袖(そで)から、萌黄(もえぎ)と其(そ)の紫(むらさき)とが彩(いろ)を分(わ)けて、八(や)ツにはら/\と亂(みだ)れながら、しつとりと縺(もつ)れ合(あ)つて、棲(つま)紅(くれなゐ)に亂(みだ)れし姿(すがた)。……
 其(そ)の然(しか)も紅(くれなゐ)は、俯向(うつむ)いた襟(えり)を辷(すべ)り、凭(もた)れかゝつた衣紋(えもん)に崩(くづ)れて、膚(はだへ)も透(す)く、とちらめくばかり、氣勢(けはひ)は沈(しづ)んだが燃立(もえた)つやう。
 ト其(そ)の胸(むね)を、萌黄(もえぎ)に溢(こぼ)れ、紫(むらさき)に垂(た)れて、伊達卷(だてまき)であらう、一人(ひとり)は、鬱金(うこん)の、一人(ひとり)は朱鷺色(ときいろ)の、だらり結(むす)びが、ずらりと摩(なび)く。
「おや/\女郎(ぢよらう)かな。」
 雖然(けれども)、襦袢(じゆばん)ばかりに羽織(はおり)を掛(か)けて旅(たび)をすべき所説(いはれ)はない。……駈落(かけおち)と思(おも)ふ、が、頭巾(づきん)も被(かぶ)らぬ。
 顏(かほ)を入違(いれちが)ひに、肩(かた)に前髮(まへがみ)を伏(ふ)せた方(はう)は、此方(こちら)向(む)きに、やゝ俯向(うつむ)くやうに紫(むらさき)の袖(そで)で蔽(おほ)ふ、がつくりとしたれば、陰(かげ)に成(な)つて、髮(かみ)の形(かたち)は認(みと)められず。
 其(そ)の、膝(ひざ)に萌黄(もえぎ)の袖(そで)を折掛(をりか)けて、突俯(つゝぷ)した方(はう)は、絞(しぼり)か鹿(か)の子(こ)か、ふつくりと緋手柄(ひてがら)を掛(か)けた、もつれ毛(げ)はふさ/\と搖(ゆ)れつつも、煙(けむり)を分(わ)けた鬢(びん)の艶(つや)、結綿(ゆひわた)に結(ゆ)つて居(ゐ)た。
 此女(このをんな)が上(うへ)に坐(すわ)つて、紫(むらさき)の女(をんな)が、斜(なゝ)めになよ/\と腰(こし)を掛(か)けた。落(おと)した裳(もすそ)も、屈(かゞ)めた褄(つま)も、痛々(いた/\)しいまで亂(みだ)れたのである。
 年紀(とし)のころは云(い)ふまでもない、上(うへ)に襲(かさ)ねた衣(きぬ)ばかりで、手足(てあし)も同(おな)じ白(しろ)さと見(み)るまで、寸分(すんぶん)違(たが)はぬ脊丈恰好(せたけかつかう)。
 ……と云(い)ふ、其(そ)の脊丈恰好(せたけかつかう)が?……

「見世(みせ)ものに成(な)る女(をんな)ぢやないか。」
 一度(ど)、然(さ)う思(おも)つたほど小(ちひ)さかつた。
 が、いぢけたのでも縮(ちゞ)んだのでもない。吹込(ふきこ)む煙(けむり)に惱亂(なうらん)した風情(ふぜい)ながら、何處(どこ)か水々(みづ/\)として伸(の)びやかに見(み)える。襟許(えりもと)、肩附(かたつき)、褄(つま)はづれも尋常(じんじやう)で、見好(みよ)げに釣合(つりあ)ふ。小(ちひ)さいと云(い)ふより、……小造(こづく)りに過(す)ぎるのであつた。
 汽車(きしや)は倒(さかさま)に落(お)ちて留(や)まない。煙(けむり)が濃(こ)いのが岩(いは)を崩(くづ)して、泥(どろ)を掻(か)き/\、波(なみ)のやうな土(つち)を煽(あふ)つて、七轉八倒(しちてんばつたう)あがき悶(もだ)ゆる。
 俗(ぞく)に、隧道(トンネル)の最(もつと)も長(なが)いのも、ゆつくり吸(す)つて敷島(しきしま)一本(ぽん)の間(あひだ)と聞(き)く。
 二本目(ほんめ)を吸(す)ひつけた時(とき)、彼(かれ)は不安(ふあん)の念(ねん)を禁(きん)じ得(え)ないのであつた。……不思議(ふしぎ)な伴侶(みちづれ)である。姿(すがた)に色(いろ)を凝(こ)らした、朦朧(もうろう)とした女(をんな)の抱合(だきあ)つた影(かげ)は、汽車(きしや)に事變(じへん)のあるべき前兆(ぜんてう)ではないのであらうか。
 嘗(かつ)て此(こ)の隧道(トンネル)を穿(うが)ちし時(とき)、工夫(こうふ)が鶴觜(つるはし)、爆裂彈(ばくれつだん)の殘虐(ざんぎやく)に掛(かゝ)つた、弱(よわ)き棲主(ぬし)たちの幻(まぼろし)ならずや。
 或(あるひ)は此(こ)の室(しつ)にのみ、場所(ばしよ)と機會(きくわい)に因(よ)つて形(かたち)を顯(あらは)す、世(よ)に亡(な)き人(ひと)の怨靈(をんりやう)ならずや。
 と、誘(さそ)はれた彼(かれ)も、ぐら/\と地震(なゐ)ふる墓(はか)の中(なか)に、一所(いつしよ)に住(す)んで居(ゐ)るもののやうな思(おも)ひがして、をかしいばかり不安(ふあん)でならぬ。
 靜坐(せいざ)するに堪(た)へなく成(な)つて、急(きふ)に衝(つ)と立(た)つと、頭(あたま)がふら/\としてドンと尻(しり)もちをついて、一人(ひとり)で苦笑(くせう)した。
 ふと大風(おほかぜ)が留(や)んだやうに響(ひゞき)が留(や)んで、汽車(きしや)の音(おと)は舊(もと)に復(かへ)つた。
 彼(かれ)は慌(あわたゞ)しく窓(まど)を開(ひら)いて、呼吸(いき)のありたけを口(くち)から吐出(はきだ)すが如(ごと)くに月(つき)を仰(あふ)ぐ、と澄切(すみき)つた山(やま)の腰(こし)に、一幅(ひとはゞ)のむら尾花(をばな)を殘(のこ)して、室内(しつない)の煙(けむり)が透(す)く。それが岩(いは)に浸込(しみこ)んで次第(しだい)に消(き)える。
 夢(ゆめ)から覺(さ)めた思(おも)ひで、厚(あつ)ぼつたかつた顏(かほ)を撫(な)でた、其(そ)の掌(て)を膝(ひざ)に支(つ)いて、氣(き)も判然(はつきり)と向直(むきなほ)つた時(とき)、彼(かれ)は今(いま)までの想像(さうざう)の餘(あま)りな癡(たは)けさに又(また)獨(ひと)りで笑(わら)つた。
 いや、知己(ちかづき)でもない女(をんな)の前(まへ)で、獨笑(ひとりわらひ)は梟(ふくろふ)の業(わざ)であらう。
 冥界(めいかい)の伴侶(みちづれ)か、墓(はか)の相借家(あひじやくや)か、とまで怪(あや)しんだ二人(ふたり)の女(をんな)が、別條(べつでう)なく、然(しか)も、揃(そろ)つて美(うつく)しい顏(かほ)を上(あ)げて居(ゐ)たから。
「矢張(やつぱ)り隧道(トンネル)に惱(なや)んだんだ。」
 と彼(かれ)は頷(うなづ)いたのであつた。
「そして、踊(をどり)……踊(をどり)の歸途(かへり)……恁(か)う着崩(きくづ)した處(ところ)を見(み)ては、往路(ゆき)ではあるまい。踊子(をどりこ)だらう。後(あと)の宿(しゆく)あたりに何(なに)か催(もよほ)しがあつて、其處(そこ)へ呼(よ)ばれた、なにがし町(まち)の選(えり)ぬきとでも言(い)ふのが、一(ひと)つ先(さき)か、それとも次(つぎ)の驛(えき)へ歸(かへ)るのであらう。……踊(おどり)の催(もよほ)しと言(い)へば、園遊會(ゑんいうくわい)かなんぞで、灰色(はひいろ)の手(て)、黄色(きいろ)い手(て)、樺色(かばいろ)の手(て)の、鼬(いたち)、狐(きつね)、狸(たぬき)、中(なか)には熊(くま)のやうなのも交(まじ)つた大勢(おほぜい)の手(て)に、引※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(ひきまは)され、掴立(つかみた)てられ、袖(そで)も振(ふり)も亂(みだ)れたまゝを汽車(きしや)に乘(の)つた落人(おちうど)らしい。」
 落人(おちうど)と云(い)へば、踊(をど)つた番組(ばんぐみ)も何(なに)か然(さ)うした類(たぐひ)かも知(し)れぬ。……其(そ)の紫(むらさき)の方(はう)は、草束(くさたば)ねの島田(しまだ)とも見(み)えるが、房(ふつさ)りした男髷(をとこまげ)に結(ゆ)つて居(ゐ)たから。
 此方(このはう)は、やゝ細面(ほそおもて)で。結綿(ゆひわた)の娘(むすめ)は、ふつくりして居(ゐ)る。二人(ふたり)とも鬘(かつら)を被(かぶ)つたかと思(おも)ふ。年紀(とし)が少(わか)い、十三四か、それとも五六、七八か、眦(めじり)に紅(べに)を入(い)れたらしいまで極彩色(ごくさいしき)に化粧(けしやう)したが、烈(はげ)しく疲(つか)れたと見(み)えて、恍惚(うつとり)として頬(ほゝ)に蒼味(あをみ)がさして、透通(すきとほ)るほど色(いろ)が白(しろ)い。其(そ)の紅(べに)と思(おも)ふ瞼(まぶた)の紅(くれなゐ)がなかつたら、小柄(こがら)ではあるし、たゞ動(うご)く人形(にんぎやう)に過(す)ぎまい。

「何(な)にしろ弱(よわ)つたらしい。……舞臺(ぶたい)の歸途(かへり)として、今(いま)の隧道(トンネル)を越(こ)すのは、芝居(しばゐ)の奈落(ならく)を潛(くゞ)るやうなものだ、いや、眞個(まつたく)の奈落(ならく)だつた。」
――心細(こゝろぼそ)いよ木曾路(きそぢ)の旅(たび)は
    笠(かさ)に木(こ)の葉(は)が舞(ま)ひかゝる――
 人形(にんぎやう)のやうな此(こ)の女達(をんなたち)、聲(こゑ)を聞(き)きたい、錦葉(もみぢ)に歌(うた)ふ色鳥(いろどり)であらう。
 まだ全(まつた)く消(き)え果(は)てない煙(けむり)を便宜(よすが)に、あからめもしないで熟(ぢつ)と視(み)る時(とき)、女(をんな)は二人(ふたり)、揃(そろ)つて、目(め)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つて、四(よつ)ツの目(め)をぱつちりと瞬(またゝ)きした。……瞳(ひとみ)は水晶(すゐしやう)を張(は)つたやうで、薄煙(うすけむり)の室(しつ)を透(とほ)して透通(すきとほ)るばかり、月(つき)も射添(さしそ)ふ、と思(おも)ふと、紫(むらさき)も、萌黄(もえぎ)も、袖(そで)の色(いろ)が※(ぱつ)[#「火+發」、U+243CB、473-8]と冴(さ)えて、姿(すがた)の其處此處(そここゝ)、燃立(もえた)つ緋(ひ)は、炎(ほのほ)の亂(みだ)るゝやうであつた。
 すツかと立揚(たちあが)つた大漢子(おほをのこ)がある。
 先(さき)に――七里半(りはん)の峠(たうげ)を越(こ)さうとして下(お)りた一見(いつけん)の知己(ちき)が居(ゐ)た、椅子(いす)の間(あひだ)を向(むか)うへ隔(へだ)てて、彼(かれ)と同(おな)じ側(かは)の一隅(ひとすみ)に、薄青(うすあを)い天鵝絨(びろうど)の凭掛(よりかゝり)を枕(まくら)にして、隧道(トンネル)を越(こ)す以前(いぜん)から、夜(よる)の底(そこ)に沈(しづ)んだやうに、煙(けむり)に陰々(いん/\)として横倒(よこだふ)れに寐(ね)て居(ゐ)たのが、此(こ)の時(とき)仁王立(にわうだ)ちに成(な)つたのである。
 が、唐突(だしぬけ)に大(おほき)な材木(ざいもく)が化(ば)けて突立(つゝた)つて、手足(てあし)の枝(えだ)が生(は)えたかと疑(うたが)はるゝ。
 茶(ちや)の鳥打(とりうち)をずぼりと深(ふか)く、身(み)の丈(たけ)を上(うへ)から押込(おしこ)んだ體(てい)に被(かぶ)つたのでさへ、見上(みあ)げるばかり脊(せ)が高(たか)い。茶羅紗(ちやらしや)霜降(しもふり)の大外套(おほぐわいたう)を、風(かぜ)に向(むか)つた蓑(みの)よりも擴(ひろ)く裾(すそ)一杯(いつぱい)に着(き)て、赤革(あかゞは)の靴(くつ)を穿(は)いた。
 時(とき)に斜違(はすつか)ひにづかりと通(とほ)つて、二人(ふたり)の女(をんな)の前(まへ)へ會釋(ゑしやく)もなくぬつくと立(た)つ。ト紫(むらさき)の目(め)が、ト其(そ)の外套(ぐわいたう)の脇(わき)の下(した)で、俯目(ふしめ)に成(な)つたは氣(き)の毒(どく)らしい。――紅(くれなゐ)は萎(しぼ)む、萌黄(もえぎ)の八(や)ツ口(くち)。
 大漢子(おほをのこ)の兩手(りやうて)は、伸(のび)をして、天井(てんじやう)を突拔(つきぬ)く如(ごと)く空(そら)ざまに棚(たな)に掛(かゝ)る、と眞先(まつさき)に取(と)つたのは、彈丸帶(たまおび)で、外套(ぐわいたう)の腰(こし)へぎしりと〆(し)め、續(つゞ)いて銃(じう)を下(お)ろして、ト筈高(はずだか)にがツしと掛(か)けた。大(おほき)な獲(え)もの袋(ぶくろ)と、小革鞄(こかばん)と一所(いつしよ)に、片手掴(かたてづか)みに引下(ひきおろ)したのは革紐(かはひも)の魔法罎(まはふびん)。
 で、一搖(ひとゆす)り肩(かた)を搖(ゆす)つて、無雜作(むざふさ)に、左右(さいう)へ遣違(やりちが)へに、ざくりと投掛(なげか)ける、と腰(こし)でだぶりと動(うご)く。
 獲(え)もの袋(ぶくろ)が重(おも)さうに、然(しか)も發奮(はず)んで搖(ゆ)れた。
 ――山鳩(やまばと)七羽(は)、田鴫(たしぎ)十三、鶉(うづら)十五羽(は)、鴨(かも)が三羽(ば)――
 づしりと其(そ)の中(なか)にあるが如(ごと)くに見(み)て取(と)られる。……
 昨日(きのふ)、碓氷(うすひ)で汽車(きしや)を下(お)りて、峠(たうげ)の權現樣(ごんげんさま)に詣(まう)でた時(とき)、さしかゝりで俥(くるま)を下(お)りて、あとを案内(あんない)に立(た)つた車夫(しやふ)に、寂(さび)しい上坂(のぼりざか)で彼(かれ)は訊(たづ)ねた。
「些(ちつ)とも小鳥(ことり)が居(ゐ)ないやうだな。」
「搜(さが)すと居(を)ります。……昨日(きのふ)も鐵砲打(てつぱううち)の旦那(だんな)に、私(わし)がへい、お供(とも)で、御案内(ごあんない)でへい、立派(りつぱ)に打(う)たせましたので。」
 と狡(さか)しげな目(め)を光(ひか)らして云(い)つた。鴫(しぎ)も鳩(はと)も、――此處(こゝ)に其(そ)の獲(え)ものの數(かず)さへ思(おも)つたのは、車夫(しやふ)が其(そ)の時(とき)の言葉(ことば)の記憶(きおく)である。
 此(こ)の山里(やまざと)を、汽車(きしや)の中(なか)で、殆(ほとん)ど鳥(とり)の聲(こゑ)を聞(き)かなかつた彼(かれ)は、何故(なぜ)か、谷筋(たにすぢ)にあらゆる小禽(せうきん)の類(るゐ)が、此(こ)の巨(おほき)な手(て)の獵人(かりうど)のために狩盡(かりつく)されるやうな思(おも)ひして、何(なん)となく悚然(ぞつ)とした。其(それ)も瞬時(しゆんじ)で。
 汽車(きしや)は留(と)まつた。
「鹽尻(しほじり)、鹽尻(しほじり)――中央線(ちうあうせん)は乘換(のりかへ)。」
 其(そ)の途端(とたん)である。……鷹揚(おうやう)に、然(しか)も手馴(てな)れて、迅速(じんそく)に結束(けつそく)し果(は)てた紳士(しんし)は、其(そ)の爲(ため)に空(むな)しく待構(まちかま)へて居(ゐ)たらしい兩手(りやうて)にづかりと左右(ひだりみぎ)、其(そ)の二人(ふたり)の女(をんな)の、頸上(えりがみ)と思(おも)ふあたりを無手(むず)と掴(つか)んで引立(ひつた)てる、と、呀(やあ)? 衣(きぬ)も扱帶(しごき)も上(うへ)へ摺(ず)つて、するりと白(しろ)い顏(かほ)が襟(えり)に埋(うま)つた、紫(むらさき)と萌黄(もえぎ)の、緋(ひ)を流(なが)るゝやうに宙(ちう)に掛(か)けて、紳士(しんし)は大跨(おほまた)にづかり/\。
 呆氣(あつけ)に取(と)られた彼(かれ)を一人(ひとり)室内(しつない)に殘(のこ)して、悠然(いうぜん)と扉(とびら)を出(で)たのである。
 あとの、もの凄(すご)さ。

 紅(べに)さいた二(ふた)ツの愛々(あい/\)しい唇(くちびる)が、凍(い)てて櫻貝(さくらがひ)の散(ち)つて音(おと)するばかり、月(つき)にちら/\と、それ、彼處(あすこ)に此處(こゝ)に――
「あゝ、寒(さむ)い。」
 温泉(をんせん)に行(ゆ)かうとして、菊屋(きくや)の廣袖(どてら)に着換(きか)へるに附(つ)けても、途中(とちう)の胴震(どうぶる)ひの留(と)まらなかつたまで、彼(かれ)は少(すく)なからず怯(おびや)かされたのである。
 東京(とうきやう)を出程(た)つ時(とき)から、諏訪(すは)に一泊(ぱく)と豫定(よてい)して、旅籠屋(はたごや)は志(こゝろざ)した町通(まちどほ)りの其(そ)の菊屋(きくや)であつた。
 心細(こゝろぼそ)い事(こと)には、鹽尻(しほじり)でも、一人(ひとり)も同(おな)じ室(しつ)へ乘込(のりこ)まなかつた。……其(そ)の宿(しゆく)の名(な)は、八重垣姫(やへがきひめ)と、隨筆(ずゐひつ)の名(な)で、餘所(よそ)ながら、未見(みけん)の知己(ちき)。初對面(しよたいめん)の從姉妹(いとこ)と、伯父(をぢ)さんぐらゐに思(おも)つて居(ゐ)たのに。………
 下諏訪(しもすは)へ來(く)ると、七八人(にん)、田螺(たにし)を好(す)きさうな、然(しか)も娑婆氣(しやばつけ)な商人風(あきんどふう)のが身(み)を光(ひか)らして、ばら/\と入(はひ)つて來(き)た。其(そ)の中(なか)で一人(ひとり)、あの、其(そ)の女(をんな)二人(ふたり)居(ゐ)た處(ところ)へ、澄(す)まして腰(こし)を掛(か)けた男(をとこ)があつた。
 はつと思(おも)つたが、一向(いつかう)平氣(へいき)で、甲府(かふふ)か飯田町(いひだまち)へ乘越(のりこ)すらしい。上諏訪(かみすは)に彼(かれ)が下車(げしや)した時(とき)まで、別(べつ)に何事(なにごと)もなく、草(くさ)にも樹(き)にも成(な)らず、酒(さけ)のみと見(み)えて、鼻(はな)の尖(さき)の赤(あか)いのが、其(そ)のまゝ柿(かき)の實(み)にも成(な)らないのを寧(むし)ろ怪(あやし)む。
 はじめ、もう其(そ)のあたりから、山(やま)も野(の)も眇(べう)として諏訪(すは)の湖(みづうみ)の水(みづ)と成(な)る由(よし)、聞(き)いては居(ゐ)たが、ふと心着(こゝろづ)かずに過(す)ぎた、――氣(き)にして、女(をんな)の後(あと)ばかり視(なが)めて居(ゐ)たので。
 改札口(かいさつぐち)を冷(つめた)く出(で)ると、四邊(あたり)は山(やま)の陰(かげ)に、澄渡(すみわた)つた湖(みづうみ)を包(つゝ)んで、月(つき)に照返(てりかへ)さるゝ爲(ため)か、漆(うるし)の如(ごと)く艶(つや)やかに、黒(くろ)く、且(か)つ玲瓏(れいろう)として透通(すきとほ)る。
 白(しろ)きは町家(まちや)の屋根(やね)であつた。
 水(みづ)から湧(わ)いた影(かげ)のやうに、すら/\と黒(くろ)く煽(あふ)つて、俥(くるま)が三臺(だい)、つい目(め)の前(まへ)から駈出(かけだ)した。
 ――俥(くるま)が三臺(だい)、人(ひと)が三人(にん)――
「待(ま)てよ、先刻(さつき)の紳士(しんし)は、あゝして、鹽尻(しほじり)で下車(おり)たと思(おも)ふが、……其(それ)とも室(しつ)を替(か)へて此處(こゝ)まで來(き)たか、俥(くるま)が三臺(だい)、揃(そろ)つて。」
 と見(み)る、目(め)の前(まへ)へ、黄色(きいろ)い提灯(ちやうちん)の灯(ひ)が流(なが)れて、がたりと青(あを)く塗(ぬ)つた函車(はこぐるま)を曳出(ひきだ)すものあり。提灯(ちやうちん)には赤(あか)い蕋(しべ)で、車(くるま)には白(しろ)い紋(もん)で、菊屋(きくや)の店(みせ)に相違(さうゐ)ない。
「一寸(ちよいと)、菊屋(きくや)の迎(むかひ)かい。」
「然(さ)うで。」
 とぶつきら棒立(ぼうだち)。仲屋(なかや)の小僧(こぞう)と云(い)ふ身(み)の、から脛(すね)の、のツぽが答(こた)へる。
「おい、其處(そこ)へ行(ゆ)くんだ、俥(くるま)はないかね。」
「今(いま)ので出拂(ではら)つたで、」
「出拂(ではら)つた……然(さ)うか。……餘程(よつぽど)あるかい。」
「何(なに)、ぢき其處(そこ)だよ。旦那(だんな)、毛布(けつと)預(あづか)ろかい。」
 縞(しま)の膝掛(ひざかけ)を函(はこ)に載(の)せて、
「荷(に)もつも寄越(よこ)すが可(え)いよ。」
「追剥(おひはぎ)のやうだな。」
 と思(おも)はず笑(わら)つたが、これは分(わか)らなかつた。奴(やつこ)はけろりとして、冷(つめた)いか、日和下駄(ひよりげた)をかた/\と高足(たかあし)に踏鳴(ふみな)らす。
「おい來(き)た。」
 と出(だ)さうとした信玄袋(しんげんぶくろ)は、顧(かへり)みるに餘(あま)りに輕(かる)い。函(はこ)に載(の)せると、ポンと飛出(とびだ)しさうであるから遠慮(ゑんりよ)した。
「これは可(い)いよ。」
「然(さ)うかね、では、早(はや)く來(き)さつせいよ。寒(さむ)いから。」
 ありや、と威勢(ゐせい)よく頭突(づつき)に屈(かゞ)んで、鼻息(はないき)をふツと吹(ふ)き、一散(いつさん)に黒(くろ)く成(な)つてがら/\と月夜(つきよ)を駈出(かけだ)す。……
 猪(しゝ)が飛出(とびだ)したやうに又(また)驚(おどろ)いて、彼(かれ)は廣(ひろ)い辻(つじ)に一人(ひとり)立(た)つて、店々(みせ/\)の電燈(でんとう)の數(かず)より多(おほ)い、大屋根(おほやね)の石(いし)の蒼白(あをじろ)い數(かず)を見(み)た。
 紙張(かみばり)の立看板(たてかんばん)に、(浮世(うきよ)の波(なみ)。)新派劇(しんぱげき)とあるのを見(み)た。其(そ)の浮世(うきよ)の波(なみ)に、流(なが)れ寄(よ)つた枯枝(かれえ)であらう。非(あら)ず、湖(みづうみ)の冬(ふゆ)を彩(いろど)る、紅(くれなゐ)の二葉(ふたは)三葉(みは)。

「酒(さけ)を頼(たの)むよ、何(なに)しろ、……熱(あつ)くして。」
 菊屋(きくや)に着(つ)いて、一室(ひとま)に通(とほ)されると、まだ坐(すわ)りもしない前(さき)、外套(ぐわいたう)を脱(ぬ)ぎながら、案内(あんない)の女中(ぢよちう)に註文(ちうもん)したのは、此(こ)の男(をとこ)が、素人了簡(しろうとれうけん)の囘生劑(きつけ)であつた。
 其(そ)のまゝ、六疊(でふ)の眞中(まんなか)の卓子臺(ちやぶだい)の前(まへ)に、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)と坐(すわ)ると、早(は)や目前(めさき)にちらつく、濃(こ)き薄(うす)き、染色(そめいろ)の葉(は)に醉(よ)へるが如(ごと)く、額(ひたひ)を壓(おさ)へて、ぐつたりと成(な)つて、二度目(どめ)に火鉢(ひばち)を持(も)つて來(き)たのを、誰(たれ)とも知(し)らず、はじめから其處(そこ)に火(ひ)を裝(も)つて備附(そなへつ)けられたもののやうに、無意識(むいしき)に煙草(たばこ)を吸(す)つた。
 細(ほそ)い煙(けむり)も峰(みね)に靡(なび)く。
「お召(め)しかへなさいまして、お湯(ゆ)へ入(い)らつしやいまし。」
「然(さ)うだ、飛込(とびこ)まう。」
 と糊(のり)の新(あたら)しい浴衣(ゆかた)に着換(きか)へて――件(くだん)の胴震(どうぶる)ひをしながら――廊下(らうか)へ出(で)た。が、する/\と向(むか)うへ、帳場(ちやうば)の方(はう)へ、遙(はるか)に駈(か)けて行(ゆ)く女中(ぢよちう)を見(み)ながら、彼(かれ)は欄干(てすり)に立(た)つて猶豫(ためら)つたのである。
 湯氣(ゆげ)が温(あたゝか)く、目(め)の下(した)なる湯殿(ゆどの)の窓明(まどあかり)に、錦葉(もみぢ)を映(うつ)すが如(ごと)く色(いろ)づいて、むくりと此(こ)の二階(にかい)の軒(のき)を掠(かす)めて、中庭(なかには)の池(いけ)らしい、さら/\と鳴(な)る水(みづ)の音(おと)に搖(ゆ)れかゝるから、内湯(うちゆ)の在所(ありか)は聞(き)かないでも分(わか)る。
 が、通(とほ)された部屋(へや)は、すぐ突當(つきあた)りが壁(かべ)で、其處(そこ)から下(お)りる裏階子(うらばしご)の口(くち)は見(み)えない。で、湯殿(ゆどの)へは大※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(おほまは)りしないと行(ゆ)かれぬ。
 處(ところ)で、はじめ女中(ぢよちう)に案内(あんない)されて通(とほ)つた時(とき)から、
「此處(こゝ)では醉(よ)へないぞ。」と心(こゝろ)で叫(さけ)んだ、此(こ)の高(たか)いのに、別(べつ)に階子壇(はしごだん)と云(い)ふほどのものも無(な)し、廊下(らうか)を一※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(ひとまは)りして、向(むか)うへ下(お)りるあたりが、可(か)なりな勾配(こうばい)。低(ひく)い太鼓橋(たいこばし)を渡(わた)るくらゐ、拭込(ふきこ)んだ板敷(いたじき)が然(しか)もつるりと辷(すべ)る。
 彼(かれ)は木曾(きそ)の棧橋(かけはし)を、旅店(りよてん)の、部屋々々(へや/″\)の障子(しやうじ)、歩板(あゆみいた)の壁(かべ)に添(そ)つて渡(わた)つて來(き)た……其(それ)も風情(ふぜい)である。
 雖然(けれども)、心覺(こゝろおぼ)えで足許(あしもと)の覺束(おぼつか)なさに、寒(さむ)ければとて、三尺(さんじやく)を前結(まへむす)びに唯(たゞ)解(と)くばかりにしたればとて、ばた/\駈出(かけだ)すなんど思(おも)ひも寄(よ)らない。
 且(か)つは暗(くら)い。……前途(むかう)下(さが)りに、見込(みこ)んで、其(そ)の勾配(こうばい)の最(もつと)も著(いちじる)しい其處(そこ)から、母屋(おもや)の正面(しやうめん)の低(ひく)い縁側(えんがは)に成(な)る壁(かべ)に、薄明(うすあか)りの掛行燈(かけあんどん)が有(あ)るばかり。他(た)は、自分(じぶん)のと一間(ひとま)置(お)いて高樓(たかどの)の一方(いつぱう)の、隅(すみ)の部屋(へや)に客(きやく)がある、其處(そこ)の障子(しやうじ)に電燈(でんとう)の影(かげ)さすのみ。
「此(これ)は、そろり/\と參(まゐ)らう。」
 獨(ひと)りで苦笑(にがわら)ひして、迫上(せりあが)つた橋掛(はしがか)りを練(ね)るやうに、谿川(たにがは)に臨(のぞ)むが如(ごと)く、池(いけ)の周圍(まはり)を欄干(らんかん)づたひ。
 他(た)の客(きやく)の前(まへ)をなぞへに折曲(をれまが)つて、だら/\下(くだ)りの廊下(らうか)へ掛(かゝ)ると、舊(もと)來(き)た釣橋(つりばし)の下(した)に、磨硝子(すりがらす)の湯殿(ゆどの)が底(そこ)のやうに見(み)えて、而(そ)して、足許(あしもと)が急(きふ)に暗(くら)く成(な)つた。
 ト何處(どこ)へ響(ひゞ)いて、何(なに)に通(かよ)ふか、辿々(たど/\)しく一歩(ひとあし)二歩(ふたあし)移(うつ)すに連(つ)れて、キリ/\キリ/\と微(かすか)に廊下(らうか)の板(いた)が鳴(な)る。
 ちよろ/\とだけの流(ながれ)ながら、堤防(どて)も控(ひか)へず地續(ぢつゞ)きに、諏訪湖(すはこ)を一(ひと)つ控(ひか)へたれば、爪下(つました)へ大湖(たいこ)の水(みづ)、鎬(しのぎ)をせめて、矢(や)をはいで、じり/\と迫(せま)るが如(ごと)く思(おも)はるゝ。……其(そ)の音(おと)さへ、途(と)留(や)むか、と耳(みゝ)に響(ひゞ)いて、キリ/\と細(ほそ)く透(とほ)る。……
 奧山家(おくやまが)の一軒家(いつけんや)に、たをやかな女(をんな)が居(ゐ)て、白雪(しらゆき)の絲(いと)を谷(たに)に繰(く)り引(ひ)く絲車(いとぐるま)の音(おと)かと思(おも)ふ。……床(ゆか)しく、懷(なつか)しく、美(うつく)しく、心細(こゝろぼそ)く、且(か)つ凄(すご)い。
 ト又(また)聞(きこ)える。
(きり/\、きり/\
    きいこ、きいこ。)……

 彼(かれ)は引据(ひきす)ゑられるやうに立(た)つた。
 古(むかし)の本陣(ほんぢん)と云(い)ふ構(かま)への大(おほ)きな建(たて)ものは、寂然(ひつそり)として居(ゐ)る。
 客(きやく)は他(ほか)にない。
 湯(ゆ)に行(い)つた留守(るす)か、もの越(ごし)、氣勢(けはひ)もしないが、停車場(ステイシヨン)から俥(くるま)で走(はし)らした三人(にん)の客(きやく)、其(そ)の三人(にん)が其處(そこ)に、と思(おも)つて、深(ふか)く注意(ちうい)した、――今(いま)は背後(うしろ)に成(な)つた――取着(とツつ)きの電燈(でんとう)を裡(うち)に閉切(しめき)つた、障子(しやうじ)の前(まへ)へ、……翼(つばさ)を掻込(かいこ)んだ、地(ち)を渡(わた)る鳥(とり)の影(かげ)が黒(くろ)く映(うつ)つた。
 小形(こがた)な鳩(はと)ほどある、……
 唯(と)見(み)ると、する/\と動(うご)く。障子(しやうじ)はづれに消(き)えたと思(おも)ふと、きり/\と板(いた)に鳴(な)つて、つる/\と辷(すべ)つて、はツと思(おも)ふ袂(たもと)の下(した)を、悚然(ぞつ)と胸(むね)を冷(つめた)うさして通拔(とほりぬ)けた。が、颯(さつ)と、翠(みどり)に、藍(あゐ)を襲(かさ)ね、群青(ぐんじやう)を籠(こ)めて、紫(むらさき)に成(な)つて、つい、其(そ)の掛行燈(かけあんどん)の前(まへ)を拔(ぬ)けた。
 が、眞赤(まつか)な嘴口(くち/″\)を明(あ)けた。
 萌黄色(もえぎいろ)の首(くび)がする/\と伸(の)びて、車(くるま)が軋(きし)つて、
(きり/\、きり/\
     きいこ、きつこ、きいこ。)……
(樹(き)へ行(い)こ、樹(き)へ行(い)こ。
     樹樵(きツこり)來(く)るな、樹樵(きツこり)來(く)るな。きいこ、きいこ。)
 と鳴(な)いた。
 あゝ、あの、手遊(てあそ)びの青首(あをくび)の鴨(かも)だ、と見(み)ると、續(つゞ)いて、追(お)ひ状(さま)に袖(そで)の下(した)を拔(ぬ)けたのは、緋(ひ)に黄色(きいろ)に、艶々(つや/\)とした鴛鴦(をしどり)である。
 ともに、勾配(こうばい)にすら/\と、水(みづ)に流(なが)るゝ、……廊下(らうか)を辷(すべ)る。
「何處(どこ)かへ絲(いと)を引掛(ひつか)けた。」
 廣袖(どてら)へ着(つ)けて女中(ぢよちう)が、と、はた/\と袖(そで)を煽(あふ)つたが、フト鳥(とり)に成(な)るやうに思(おも)つて、暗(くら)がりで悚然(ぞつ)とした。
 第一(だいいち)、身(み)に着(つ)いた絲(いと)の、玩弄具(おもちや)の鳥(とり)が、彳(たゝず)んだものを、向(むか)うへ通拔(とほりぬ)ける數(すう)はない。
 手(て)を緊(し)めて、差窺(さしうかゞ)ふ、母屋(おもや)の、遠(とほ)く幽(かすか)なやうな帳場(ちやうば)から、明(あかり)の末(すゑ)が茫(ばう)と屆(とゞ)く。池(いけ)に面(めん)した大廣間(おほひろま)、中(なか)は四五十疊(でふ)と思(おも)はるゝ、薄暗(うすぐら)い障子(しやうじ)の數(かず)の眞中(まんなか)あたり。合(あは)せ目(め)を細目(ほそめ)に開(あ)けて、其處(そこ)に立(た)つて、背後(うしろ)に、月(つき)の影(かげ)さへ屆(とゞ)かぬ、山(やま)又(また)山(やま)の谷々(たに/″\)を、蜘蛛(くも)の圍(い)の如(ごと)く控(ひか)へた、星(ほし)に屆(とゞ)く黒(くろ)き洞穴(ほらあな)の如(ごと)き大(おほい)なる暗闇(くらがり)を翼(つばさ)に擴(ひろ)げて、姿(すがた)は細(ほそ)き障子(しやうじ)の立棧(たちざん)。
 温泉(いでゆ)の煙(けむり)に、ほんのりと、雪(ゆき)なす顏(かんばせ)、黒髮(くろかみ)の髷(まげ)。
 幻(まぼろし)の裳(もすそ)に月影(つきかげ)さすよと、爪先(つまさき)白(しろ)く立(た)つたのが、花(はな)の魂(たましひ)のやうな手(て)を上(あ)げて、ちらりと招(まね)く。
 きり/\と、鳥(とり)の形(かたち)は柱(はしら)を繞(めぐ)つた。
 其(そ)の女(をんな)は――
 ――此(これ)に就(つ)いて、別(べつ)に物語(ものがたり)があるのである。
了

底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
   1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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