あらすじ
ある男、元二は、色仕掛けで娘の身の皮を剥がした過去を持ち、その金で江戸へ向かう道中、人里離れた原で不思議な体験をします。満月の夜、草むらから聞こえる猫の鳴き声、そして薄暗い影を落とす水車、そして女の泣き声が、元二を恐怖の淵へと突き落とすのです。翌朝、元二が目覚めた時、その夜は夢だったと安堵しますが、旅籠の橋の上で再び黒猫と遭遇し、再び恐怖に襲われます。この奇妙な黒猫は元二を執拗につけ回し、その後も元二の人生に影を落とすことになるのです。果たして、この黒猫の正体は何なのか?そして、元二の運命は?
 話(はなし)は別(べつ)にある……色仕掛(いろじかけ)で、あはれな娘(むすめ)の身(み)の皮(かは)を剥(は)いだ元二(げんじ)と云(い)ふ奴(やつ)、其(そ)の袷(あはせ)に一枚(まい)づゝ帶(おび)を添(そ)へて質入(しちい)れにして、手(て)に握(にぎ)つた金子(きんす)一歩(ぶ)としてある。
 此(こ)の一歩(ぶ)に身(み)のかはを剥(は)がれたために可惜(をし)や、お春(はる)と云(い)ふ其(そ)の娘(むすめ)は繼母(まゝはゝ)のために手酷(てひど)き折檻(せつかん)を受(う)けて、身投(みな)げをしたが、其(それ)も後(のち)の事(こと)。件(くだん)の元二(げんじ)はあとをも見(み)ないで、村(むら)二(ふた)つ松並木(まつなみき)を一帳場(ひとちやうば)で瓜井戸(うりゐど)の原(はら)へ掛(かゝ)つたのが彼(かれ)これ夜(よる)の八(や)ツ過(すぎ)であつた。
 若草(わかくさ)ながら廣野(ひろの)一面(いちめん)渺茫(べうばう)として果(はて)しなく、霞(かすみ)を分(わ)けてしろ/″\と天中(そら)の月(つき)はさし上(のぼ)つたが、葉末(はずゑ)に吹(ふ)かるゝ我(われ)ばかり、狐(きつね)の提灯(ちやうちん)も見(み)えないで、時々(とき/″\)むら雲(くも)のはら/\と掛(かゝ)るやうに處々(ところ/″\)草(くさ)の上(うへ)を染(そ)めるのはこゝに野飼(のがひ)の駒(こま)の影(かげ)。
 元二(げんじ)は前途(ゆくて)を見渡(みわた)して、此(これ)から突張(つゝぱ)つて野(の)を越(こ)して瓜井戸(うりゐど)の宿(やど)へ入(はひ)るか、九(こゝの)つを越(こ)したと成(な)つては、旅籠屋(はたごや)を起(おこ)しても泊(と)めてはくれない、たしない路銀(ろぎん)で江戸(えど)まで行(ゆ)くのに、女郎屋(ぢよらうや)と云(い)ふわけには行(ゆ)かず、まゝよとこんな事(こと)はさて馴(な)れたもので、根笹(ねざさ)を分(わ)けて、草(くさ)を枕(まくら)にころりと寢(ね)たが、如何(いか)にも良(よ)い月(つき)。
 春(はる)の夜(よ)ながら冴(さ)えるまで、影(かげ)は草葉(くさば)の裏(うら)を透(す)く。其(そ)の光(ひかり)が目(め)へ射(さ)すので笠(かさ)を取(と)つて引被(ひつかぶ)つて、足(あし)を踏伸(ふみの)ばして、眠(ねむ)りかけるとニヤゴー、直(ぢ)きそれが耳許(みゝもと)で、小笹(こざさ)の根(ね)で鳴(な)くのが聞(きこ)えた。
「や、念入(ねんい)りな處(ところ)まで持(も)つて來(き)て棄(す)てやあがつた。野猫(のねこ)は居(ゐ)た事(こと)のない原場(はらつぱ)だが。」
 ニヤゴと又(また)啼(な)く。耳(みゝ)についてうるさいから、しツ/\などと遣(や)つて、寢(ね)ながら兩手(りやうて)でばた/\と追(お)つたが、矢張(やはり)聞(きこ)える、ニヤゴ、ニヤゴーと續(つゞ)くやうで。
「いけ可煩(うるせ)え畜生(ちくしやう)ぢやねえか、畜生(ちくしやう)!」と、怒鳴(どな)つて、笠(かさ)を拂(はら)つてむつくりと半身(はんしん)起上(おきあが)つて、透(す)かして見(み)ると何(なに)も居(を)らぬ。其(そ)の癖(くせ)四邊(あたり)にかくれるほどな、葉(は)の伸(の)びた草(くさ)の影(かげ)もなかつた。月(つき)は皎々(かう/\)として眞晝(まひる)かと疑(うたが)ふばかり、原(はら)は一面(いちめん)蒼海(あをうみ)で凪(な)ぎたる景色(けしき)。
 ト錨(いかり)が一具(いちぐ)据(すわ)つたやうに、間(あひ)十間(けん)ばかり隔(へだ)てて、薄黒(うすぐろ)い影(かげ)を落(おと)して、草(くさ)の中(なか)でくる/\と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)る車(くるま)がある。はて、何時(いつ)の間(ま)に、あんな處(ところ)に水車(すゐしや)を掛(か)けたらう、と熟(ぢつ)と透(す)かすと、何(ど)うやら絲(いと)を繰(く)る車(くるま)らしい。
 白鷺(しらさぎ)がすらりと首(くび)を伸(の)ばしたやうに、車(くるま)のまはるに從(したが)うて眞白(まつしろ)な絲(いと)の積(つも)るのが、まざ/\と白(しろ)い。
 何處(どこ)かで幽(かすか)に、ヒイと泣(な)き叫(さけ)ぶ、うら少(わか)い女(をんな)の聲(こゑ)。
 晝間(ひるま)あのお春(はる)が納戸(なんど)に絲(いと)を繰(く)つて居(ゐ)る姿(すがた)を猛然(まうぜん)と思出(おもひだ)すと、矢張(やつぱ)り啼留(なきや)まぬ猫(ねこ)の其(そ)の聲(こゑ)が、豫(かね)ての馴染(なじみ)でよく知(し)つた、お春(はる)が撫擦(なでさす)つて可愛(かはい)がつた黒(くろ)と云(い)ふ猫(ねこ)の聲(こゑ)に寸分(すんぶん)違(ちが)はぬ。
「夢(ゆめ)だ。」
 と思(おも)ひながら瓜井戸(うりゐど)の野(の)の眞中(まんなか)に、一人(ひとり)で頭(あたま)から悚然(ぞつと)すると、する/\と霞(かすみ)が伸(の)びるやうに、形(かたち)は見(み)えないが、自分(じぶん)の居(ゐ)まはりに絡(からま)つて啼(な)く猫(ねこ)の居(ゐ)る方(はう)へ、招(まね)いて手繰(たぐ)られたやうに絲卷(いとまき)から絲(いと)を曳(ひ)いたが、幅(はゞ)も丈(たけ)も颯(さつ)と一條(ひとすぢ)伸擴(のびひろ)がつて、肩(かた)を一捲(ひとまき)、胴(どう)で搦(から)んで。
「わツ。」
 と掻拂(かきはら)ふ手(て)をぐる/\捲(ま)きに、二捲(ふたまき)卷(ま)いてぎり/\と咽喉(のど)を絞(し)める、其(そ)の絞(しめ)らるゝ苦(くる)しさに、うむ、と呻(うめ)いて、脚(あし)を空(そら)ざまに仰反(そりかへ)る、と、膏汗(あぶらあせ)は身體(からだ)を絞(しぼ)つて、颯(さつ)と吹(ふ)く風(かぜ)に目(め)が覺(さ)めた。
 草(くさ)を枕(まくら)が其(そ)のまゝで、早(は)やしら/″\と夜(よ)が白(しら)む。駒(こま)の鬢(びん)がさら/\と朝(あさ)のづらに搖(ゆら)いで見(み)える。
 恐(おそ)ろしいより、夢(ゆめ)と知(し)れて、嬉(うれ)しさが前(さき)に立(た)つた。暫時(しばし)茫然(ばうぜん)として居(ゐ)たが、膚脱(はだぬ)ぎに成(な)つて大汗(おほあせ)をしつとり拭(ふ)いた、其(そ)の手拭(てぬぐひ)で向(むか)う顱卷(はちまき)をうんと緊(し)めて、氣(き)を確乎(しつか)と持直(もちなほ)して、すた/\と歩行出(あるきだ)す。
 野路(のみち)の朝風(あさかぜ)、足(あし)輕(かる)く、さつ/\と過(す)ぎて、瓜井戸(うりゐど)の宿(やど)に入(はひ)つたのが、まだしら/″\あけで。
 宿(やど)の入口(いりくち)に井戸川(ゐどがは)と云(い)つて江戸川(えどがは)をなまつたやうな、些(いさゝ)かもの欲(ほ)しさうな稱(な)の流(ながれ)があつた。古(ふる)い木(き)の橋(はし)が架(かゝ)つて居(ゐ)た。
 固(もと)より身(み)をやつす色氣(いろけ)十分(じふぶん)の男(をとこ)であるから、道中笠(だうちうがさ)の中(なか)ながら目(め)やにのついた顏(かほ)は、茶店(ちやや)の婆(ばゞあ)にも覗(のぞ)かせたくない。其處(そこ)で、でこぼこと足場(あしば)の惡(わる)い、蒼苔(あをごけ)と夜露(よつゆ)でつる/\と辷(すべ)る、岸(きし)の石壇(いしだん)を踏(ふ)んで下(お)りて、笠(かさ)を脱(ぬ)いで、岸(きし)の草(くさ)へ、荷物(にもつ)を其(そ)の上(うへ)。顱卷(はちまき)をはづして、こゝで、生白(なましろ)い素裸(すはだか)になつて、入(はひ)つて泳(およ)がないばかりに、足(あし)の爪先(つまさき)まで綺麗(きれい)に拭(ふ)いた。
 衣服(きもの)を着(き)て帶(おび)を〆(し)めて、やがて尻(しり)を端折(はしを)らうと云(い)ふ頃(ころ)、ふと橋(はし)の上(うへ)を見(み)ると、堅氣(かたぎ)も多(おほ)いが、賣女屋(ばいぢよや)のある小(ちひ)さな宿(やど)、何(なん)となく自墮落(じだらく)の風(ふう)が染(そ)まると見(み)えて、宿中(しゆくぢう)いづれも朝寢(あさね)らしい。
 馬(うま)のすゞ一(ひと)つまだ聞(き)こえず、鳥(とり)も居(ゐ)ない、其(そ)の橋(はし)の欄干(らんかん)の上(うへ)に、黒猫(くろねこ)が一疋(ぴき)。
 前後(ぜんご)の脚(あし)三本(ぼん)でのそりと留(と)まつて、筑波(つくば)の山(やま)を朝霞(あさがすみ)に、むつくりと構(かま)へながら、一本(ぽん)の前脚(まへあし)で、あの額際(ひたひぎは)から鼻(はな)の先(さき)をちよい/\と、其(そ)の毎(ごと)に口(くち)を箕(み)のやうに開(あ)けて、ニタ/\笑(わら)ひで、下(しも)の流(ながれ)を向(む)いて、恁(か)う、顏(かほ)を洗(あら)ふ、と云(い)ふ所作(しよさ)で居(ゐ)た。
「畜生(ちくしやう)め。」
 それかあらぬか、昨夜(ゆうべ)は耳許(みゝもと)でニヤゴ/\啼(な)いて、其(そ)のために可厭(いや)な夢(ゆめ)を見(み)た。其(そ)の憎(にく)さげな、高慢(かうまん)な、人(ひと)を馬鹿(ばか)にした形(かたち)は何(ど)うだい、總別(そうべつ)、氣(き)に食(く)はない畜生(ちくしやう)だ、と云(い)ふ心(こゝろ)から、石段(いしだん)の割(わ)れた欠(かけら)を拾(ひろ)つて、俗(ぞく)にねこと言(い)ふ、川楊(かはやぎ)の葉(は)がくれに、熟(ぢつ)と狙(ねら)つて、ひしりと擲(な)げる、と人(ひと)に見(み)せつけがましく此方(こつち)を見(み)い/\、右(みぎ)のちよつかいを遣(や)つて居(ゐ)たが、畜生(ちくしやう)不意(ふい)を打(う)たれたらしい。
 額(ひたひ)を掠(かす)つて、礫(つぶて)は耳(みゝ)の先(さき)へトンと當(あた)つた。
 ※(「火+赫」、第3水準1-87-66)(かツ)と眞黄色(まつきいろ)な目(め)を光(ひか)らしたが、ギヤツと啼(な)いて、ひたりと欄干(らんかん)を下(した)へ刎返(はねかへ)る、と橋(はし)を傳(つた)つて礫(つぶて)の走(はし)つた宿(やど)の中(なか)へ隱(かく)れたのである。
「態(ざま)ア見(み)やがれ。」
 カアカア、アオウガアガアガア、と五六羽(は)、水(みづ)の上(うへ)へ低(ひく)く濡色(ぬれいろ)の烏(からす)、嘴(くちばし)を黒(くろ)く飛(と)ぶ。ぐわた/\、かたり/\と橋(はし)の上(うへ)を曳(ひ)く荷車(にぐるま)。
「お早(はや)う。」
「や、お早(はや)う。」と聲(こゑ)を掛(か)けて、元二(げんじ)はすれ違(ちが)ひに橋(はし)を渡(わた)つた。
 それから、借(か)りのある賣女屋(ばいぢよや)の前(まへ)は笠(かさ)を傾(かたむ)けて、狐鼠々々(こそ/\)と隱(かく)れるやうにして通(とほ)つたが、まだ何處(どこ)も起(お)きては居(ゐ)ない、春(はる)濃(こまや)かに門(もん)を鎖(とざ)して、大根(だいこん)の夢(ゆめ)濃厚(こまやか)。此(こ)の瓜井戸(うりゐど)の宿(しゆく)はづれに、漸(や)つと戸(と)を一枚(まい)開(あ)けた一膳(いちぜん)めし屋(や)の軒(のき)へ入(はひ)つた。
「何(なに)か出來(でき)ますかね。」
 嬰兒(あかんぼ)も亭主(ていしゆ)もごみ/\と露出(むきだし)の一間(ひとま)に枕(まくら)を並(なら)べて、晨起(あさおき)の爺樣(ぢいさま)一人(ひとり)で、釜(かま)の下(した)を焚(たき)つけて居(ゐ)た處(ところ)で。
「まだ、へい、何(な)にもござりましねえね、いんま蕨(わらび)のお汁(しる)がたけるだが、お飯(めし)は昨日(きのふ)の冷飯(ひやめし)だ、それでよくば上(あ)げますがね。」
「結構(けつこう)だ、一膳(ぜん)出(だ)しておくんなさい、いや、どつこいしよ。」
 と店前(みせさき)の縁側(えんがは)、壁(かべ)に立掛(たてか)けてあつた奴(やつ)を、元二(げんじ)が自分(じぶん)で据直(すゑなほ)して、腰(こし)を掛(か)ける。
 其處(そこ)へ古(ふる)ちよツけた能代(のしろ)の膳(ぜん)。碗(わん)の塗(ぬり)も嬰兒(あかんぼ)が嘗(な)め剥(は)がしたか、と汚(きたな)らしいが、さすがに味噌汁(みそしる)の香(か)が、芬(ぷん)とすき腹(はら)をそゝつて香(にほ)ふ。
「さあ、遣(や)らつせえまし、蕨(わらび)は自慢(じまん)だよ。これでもへい家(うち)で食(く)ふではねえ。お客樣(きやくさま)に賣(う)るだで、澤山(どつさり)沙魚(はぜ)の頭(あたま)をだしに入(い)れて炊(た)くだアからね。」
「あゝ、あゝ、そりや飛(とん)だ御馳走(ごちそう)だ。」
 と箸(はし)の先(さき)で突(つゝ)いて見(み)て、
「堪(たま)らねえ、去年(きよねん)の沙魚(はぜ)の乾(ひ)からびた頭(あたま)ばかり、此(こゝ)にも妄念(まうねん)があると見(み)えて、北(きた)を向(む)いて揃(そろ)つて口(くち)を開(あ)けて居(ゐ)ら。蕨(わらび)を胴(どう)につけてうよ/\と這出(はひだ)しさうだ、ぺつ/\。」
 と、頭(あたま)だけ膳(ぜん)の隅(すみ)へはさみ出(だ)すと、味噌(みそ)かすに青膨(あをぶく)れで、ぶよ/\とかさなつて、芥溜(ごみため)の首塚(くびづか)を見(み)るやう、目(め)も當(あ)てられぬ。
 其(それ)でも、げつそり空(す)いた腹(はら)、汁(しる)かけ飯(めし)で五膳(ぜん)と云(い)ふもの厚切(あつぎり)の澤庵(たくあん)でばり/\と掻込(かつこ)んだ。生温(なまぬる)い茶(ちや)をがぶ/″\と遣(や)つて、爺(ぢい)がはさみ出(だ)してくれる焚落(たきおと)しで、立(た)て續(つゞ)けに煙草(たばこ)を飮(の)んで、大(おほい)に人心地(ひとごこち)も着(つ)いた元二(げんじ)。
「あい、お代(だい)は置(お)いたよ。」
「ゆつくらしてござらつせえ。」
「さて、出掛(でか)けよう。」
 と今(いま)はたいたまゝで、元二(げんじ)が、財布(さいふ)の出入(だしい)れをする内(うち)、縁側(えんがは)の端(はし)に置(お)いた煙管(きせる)を取(と)つて、兩提(りやうさげ)の筒(つゝ)へ突込(つゝこ)まうとする時(とき)、縁臺(えんだい)の下(した)から、のそ/\と前脚(まへあし)を黒(くろ)く這(は)ひ出(だ)した一疋(ぴき)の黒猫(くろねこ)がある。
 ト向直(むきなほ)つて、元二(げんじ)の顏(かほ)をじろりと見(み)るやうにして招(まね)き、と云(い)ふ形(かたち)で蹲(しやが)んだが、何故(なぜ)か無法(むはふ)に憎(にく)かつた。で、風呂敷包(ふろしきづつ)みと笠(かさ)を持(も)つて立(た)ちながら、煙管(きせる)を其(そ)のまゝ片手(かたて)に持(も)つて、づいと縁臺(えんだい)を離(はな)れて立(た)つて出(で)た。
 元二(げんじ)が、一膳(いちぜん)めし屋(や)の前(まへ)を離(はな)れて、振返(ふりかへ)る、と件(くだん)の黒猫(くろねこ)が、あとを、のそ/\と歩行(ある)いて居(ゐ)る。
 此處(こゝ)まで堪(こら)へたのは、飯屋(めしや)の飼猫(かひねこ)だ、と思(おも)つたからで。最(も)う、爺(ぢい)さまの目(め)の屆(とゞ)かないのを見澄(みす)まして、
「畜生(ちくしやう)。」
 と、雁首(がんくび)で、猫(ねこ)の額(ひたひ)をぴしりと打(う)つた、ぎやつ、と叫(さけ)ぶと、猫(ねこ)は斜(はす)かひに飛(と)んで、早(は)や、其處(そこ)が用水(ようすゐ)べりの田圃(たんぼ)に飛(と)んだ。
「おさらばだい。」
 と、煙管(きせる)を吹(ふ)く。とじり/\と吸込(すひこ)んで吹殼(ふきがら)のこそげ附(つ)いて拔(ぬ)けない奴(やつ)、よこなぐりに、並木(なみき)の松(まつ)へトンと拂(はら)つて、花(はな)の霞(かすみ)の江戸(えど)の空(そら)、筑波(つくば)を横(よこ)に急(いそ)ぐ。
 トあれ見(み)よ、其(そ)の頭(かうべ)を慕(した)つて、並木(なみき)の松(まつ)の枝(えだ)から枝(えだ)へ、土蜘蛛(つちぐも)の如(ごと)き黒猫(くろねこ)がぐる/\と舞(ま)ひながら。

 さても、其(そ)の後(のち)、江戸(えど)で元二(げんじ)が身(み)を置(お)いた處(ところ)は、本所南割下水(ほんじよみなみわりげすゐ)に住(す)んで祿千石(ろくせんごく)を領(りやう)した大御番役(おほごばんやく)服部式部邸(はつとりしきぶてい)で、傳手(つて)を求(もと)めて同(おな)じ本所林町(ほんじよはやしちやう)、家主(いへぬし)惣兵衞店(そうべゑたな)、傳平(でんべい)と云(い)ふもの請人(うけにん)で齊(ひとし)く仲間(ちうげん)に住込(すみこ)んで居(ゐ)たのであつた。
 小利口(こりこう)にきび/\と立※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(たちま)はつて、朝(あさ)は六(む)つ前(まへ)から起(お)きて、氣輕(きがる)身輕(みがる)は足輕(あしがる)相應(さうおう)、くる/\とよく働(はたら)く上(うへ)、早(はや)く江戸(えど)の水(みづ)に染(し)みて、早速(さつそく)情婦(いろ)を一(ひと)つと云(い)ふ了簡(れうけん)から、些(ちつ)と高(たか)い鼻柱(はなばしら)から手足(てあし)の先(さき)まで磨(みが)くこと洗(あら)ふこと、一日(いちにち)十度(とたび)に及(およ)ぶ。心状(しんじやう)のほどは知(し)らず、仲問(ちうげん)風情(ふぜい)には可惜(をしい)男振(をとこぶり)の少(わか)いものが、鼻綺麗(はなぎれい)で、勞力(ほね)を惜(をし)まず働(はたら)くから、これは然(さ)もありさうな事(こと)、上下(かみしも)擧(こぞ)つて通(とほ)りがよく、元二(げんじ)元二(げんじ)と大(たい)した評判(ひやうばん)。
 分(わ)けて最初(さいしよ)、其(そ)のめがねで召抱(めしかゝ)へた、服部家(はつとりけ)の用人(ようにん)關戸團右衞門(せきどだんゑもん)の贔屓(ひいき)と目(め)の掛(か)けやうは一通(ひとゝほ)りでなかつた。
 其(そ)の頼母(たのも)しいのと當人(たうにん)自慢(じまん)だけの生白(なまじろ)い處(ところ)へ、先(ま)づ足駄(あしだ)をひつくりかへしたのは、門内(もんない)、團右衞門(だんゑもん)とは隣合(となりあ)はせの當家(たうけ)の家老(からう)、山田宇兵衞(やまだうへゑ)召仕(めしつか)への、居(ゐ)まはり葛西(かさい)の飯炊(めしたき)。
 續(つゞ)いて引掛(ひつかゝ)つたのが同(おな)じ家(いへ)の子守兒(こもりつこ)で二人(ふたり)、三人目(にんめ)は部屋頭(へやがしら)何(なん)とか云(い)ふ爺(おやぢ)の女房(にようばう)であつた。
 いや、勇(いさ)んだの候(さふらふ)の、瓜井戸(うりゐど)の姉(あね)はべたりだが、江戸(えど)ものはコロリと來(く)るわ、で、葛西(かさい)に、栗橋北千住(くりはしきたせんぢゆ)の鰌(どぢやう)に鯰(なまづ)を、白魚(しらを)の氣(き)に成(な)つて、腮(あご)を撫(な)でた。當人(たうにん)、女(をんな)にかけては其(そ)のつもりで居(ゐ)る日(ひ)の下開山(したかいざん)、木下藤吉(きのしたとうきち)、一番槍(いちばんやり)、一番乘(いちばんのり)、一番首(いちばんくび)の功名(こうみやう)をして遣(や)つた了簡(れうけん)。
 此(こ)の勢(いきほひ)に乘(じよう)じて、立處(たちどころ)に一國一城(いつこくいちじやう)の主(あるじ)と志(こゝろざ)して狙(ねらひ)をつけたのは、あらう事(こと)か、用人(ようにん)團右衞門(だんゑもん)の御新造(ごしんぞ)、おきみ、と云(い)ふ、年(とし)は漸(やうや)く二十(はたち)と聞(き)く、如何(いか)にも一國一城(いつこくいちじやう)にたとへつべき至(いた)つて美(うつく)しいのであつた。
 が、此(これ)はさすがに、井戸端(ゐどばた)で、名(な)のり懸(か)けるわけには行(い)かない、さりとて用人(ようにん)の若御新造(わかごしんぞ)、さして深窓(しんさう)のと云(い)ふではないから、隨分(ずゐぶん)臺所(だいどころ)に、庭前(ていぜん)では朝(あさ)に、夕(ゆふ)に、其(そ)の下(した)がひの褄(つま)の媚(なまめ)かしいのさへ、ちら/\見(み)られる。
「元二(げんじ)や。」
 と優(やさ)しい聲(こゑ)も時々(とき/″\)聞(き)く。手(て)から手(て)へ直接(ちよくせつ)に、つかひの用(よう)のうけ渡(わたし)もするほどなので、御馳走(ごちそう)は目(め)の前(まへ)に、唯(たゞ)お預(あづ)けだ、と肝膽(かんたん)を絞(しぼ)りつつ悶(もだ)えた。
 ト此(こ)の團右衞門方(だんゑもんかた)に飼猫(かひねこ)の牡(をす)が一疋(ぴき)、これははじめから居(ゐ)たのであるが、元二(げんじ)が邸内(ていない)へ奉公(ほうこう)をしてから以來(いらい)、何處(どこ)から來(き)たか、むく/\と肥(ふと)つた黒毛(くろげ)で艶(つや)の好(い)い天鵝絨(びろうど)のやうな牝(めす)が一(ひと)つ、何時(いつ)の間(ま)にか、住居(すまひ)へ入(はひ)つて縁側(えんがは)、座敷(ざしき)、臺所(だいどころ)、と氣(き)まゝに二(ふた)つが狂(くる)ひ遊(あそ)ぶ。
 處(ところ)が、少(わか)い御新造(ごしんぞ)より、年(とし)とつた旦那(だんな)團右衞門(だんゑもん)の方(はう)が、聊(いさゝ)か煩惱(ぼんなう)と云(い)ふくらゐ至極(しごく)の猫好(ねこずき)で、些(ちつ)とも構(かま)はないで、同(おな)じやうに黒(くろ)よ、黒(くろ)よ、と可愛(かはい)がるので何時(いつ)ともなしに飼猫(かひねこ)と同樣(どうやう)に成(な)つたと言(い)ふ。此(こ)の黒(くろ)が、又(また)頻(しき)りに元二(げんじ)に馴(な)れ睦(むつ)んで、ニヤゴー、と夜(よ)も晝(ひる)も附添(つきそ)ひあるいて、啼聲(なくこゑ)も愛(あい)くるしく附(つ)いて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)る。
 ト元二(げんじ)が又(また)、撫(な)でつ擦(さす)りつ可愛(かはい)がる。最(も)う此(こ)の頃(ごろ)には、それとなく風(かぜ)のたよりに、故郷(こきやう)の音信(いんしん)を聞(き)いて自殺(じさつ)した嫂(あによめ)のお春(はる)の成(なり)ゆきも、皆(みな)其(そ)の心得違(こゝろえちが)ひから起(おこ)つた事(こと)と聞(き)いて知(し)つて居(ゐ)たので、自分(じぶん)、落目(おちめ)なら自棄(やけ)にも成(な)らうが、一番首(いちばんくび)一番乘(いちばんのり)、ソレ大得意(だいとくい)の時(とき)であるから何(なん)となく了簡(れうけん)も柔(やはら)かに、首筋(くびすぢ)もぐにや/\として居(ゐ)る折(をり)から、自然(しぜん)雨(あめ)の寂(さび)しく降(ふ)る夜(よ)などはお念佛(ねんぶつ)の一(ひと)つも唱(とな)へる處(ところ)。且(かつ)又(また)同(おな)じ一國一城(いつこくいちじやう)の主(あるじ)と成(な)るにも猛者(もさ)が夜撃朝懸(ようちあさがけ)とは質(たち)が違(ちが)ふ。色男(いろをとこ)の仕(し)こなしは、情(じやう)を含(ふく)んで、しめやかに、もの柔(やさ)しく、身(み)にしみ/″\とした風(ふう)が天晴武者振(あつぱれむしやぶり)であるのである。と分別(ふんべつ)をするから、礫(つぶて)を打(う)つたり、煙管(きせる)の雁首(がんくび)で引拂(ひつぱら)ふなど、今(いま)然(さ)やうな陣笠(ぢんがさ)の勢子(せこ)の業(わざ)は振舞(ふるま)はぬ、大將(たいしやう)は專(もつぱ)ら寛仁大度(くわんにんたいど)の事(こと)と、即(すなは)ち黒猫(くろねこ)を、ト御新造(ごしんぞ)の聲(こゑ)を内證(ないしよう)で眞似(まね)て、
「黒(くろ)や、黒(くろ)や。」
 と身振(みぶり)をして、時々(とき/″\)頬摺(ほゝずり)、はてさて氣障(きざ)な下郎(げらう)であつた。
 其(そ)の年(とし)寛政(くわんせい)十年(ねん)、押詰(おしつま)つて師走(しはす)の幾日(いくにち)かは當邸(たうてい)の御前(ごぜん)服部式部(はつとりしきぶ)どの誕生日(たんじやうび)とあつて、邸中(やしきぢう)が、とり/″\其(そ)の支度(したく)に急(いそ)がしく何(なん)となく祭(まつり)が近(ちかづ)いたやうにさゞめき立(た)つ。
 其(そ)の一日前(にちまへ)の暮方(くれがた)に、元二(げんじ)は團右衞門方(だんゑもんかた)の切戸口(きりどぐち)から庭前(にはさき)へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)つた、座敷(ざしき)に御新造(ごしんぞ)が居(ゐ)る事(こと)を豫(あらかじ)め知(し)つての上(うへ)で。
 落葉(おちば)を掃(は)く樣子(やうす)をして箒(はうき)を持(も)つて、枝折戸(しをりど)から入(はひ)つた。一寸(ちよつと)言添(いひそ)へる事(こと)がある、此(こ)の頃(ごろ)から元二(げんじ)は柔(やはら)かな下帶(したおび)などを心掛(こゝろが)け、淺黄(あさぎ)の襦袢(じゆばん)をたしなんで薄化粧(うすげしやう)などをする、尤(もつと)も今(いま)でこそあれ、其(そ)の時分(じぶん)仲間(ちうげん)が顏(かほ)に仙女香(せんぢよかう)を塗(ぬ)らうとは誰(たれ)も思(おも)ひがけないから、然(さ)うと知(し)つたものはなかつたらう、其(そ)の上(うへ)、ぞつこん思(おも)ひこがれる御新造(ごしんぞ)のお君(きみ)が優(やさ)しい風情(ふぜい)のあるのを窺(うかゞ)つて、居※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(ゐまは)りの夜店(よみせ)などで、表紙(へうし)の破(やぶ)れた御存(ごぞん)じの歌(うた)の本(ほん)を漁(あさ)つて來(き)て、何(なん)となく人(ひと)に見(み)せるやうに捻(ひね)くつて居(ゐ)たのであつたが。
 其(そ)の時(とき)御新造(ごしんぞ)は日(ひ)が短(みじか)い時分(じぶん)の事(こと)、縁(えん)の端近(はしぢか)へ出(で)て、御前(ごぜん)が誕生日(たんじやうび)には着換(きか)へて出(で)ようと云(い)ふ、紋服(もんぷく)を、又(また)然(さ)うでもない、しつけの絲(いと)一筋(ひとすぢ)も間違(まちが)ひのないやうに、箪笥(たんす)から出(だ)して、目(め)を通(とほ)して、更(あらた)めて疊(たゝ)み直(なほ)して居(ゐ)る處(ところ)。
「えゝ、御新造樣(ごしんぞさま)、續(つゞ)きまして結構(けつこう)なお天氣(てんき)にござります。」
「おや、元二(げんじ)かい、お精(せい)が出(で)ます。今度(こんど)は又(また)格別(かくべつ)お忙(いそが)しからう。御苦勞(ごくらう)だね。」
「何(ど)う仕(つかまつ)りまして、數(かず)なりませぬものも蔭(かげ)ながらお喜(よろこ)び申(まを)して居(を)ります。」
「あゝ、おめでたいね、お客(きやく)さまが濟(す)むと、毎年(まいねん)ね、お前(まへ)がたも夜(よ)あかしで遊(あそ)ぶんだよ。まあ、其(それ)を樂(たのしみ)にしてお働(はたら)きよ。」
 ともの優(やさ)しい、柔(やはら)かな言(ことば)に附入(つけい)つて、
「もう、其(それ)につきまして。」
 と沓脱(くつぬぎ)の傍(かたはら)へ蹲(うづくま)つて揉手(もみで)をしながら、※々(づう/\)[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、447-13]しい男(をとこ)で、づツと顏(かほ)を突出(つきだ)した。
「何(なん)とも恐多(おそれおほ)い事(こと)ではござりますが、御新造樣(ごしんぞさま)に一(ひと)つお願(ねがひ)があつて罷出(まかりで)ましてござります、へい。外(ほか)の事(こと)でもござりませんが、手前(てまへ)は當年(たうねん)はじめての御奉公(ごほうこう)にござりますが、承(うけたまは)りますれば、大殿樣(おほとのさま)御誕生(ごたんじやう)の御祝儀(ごしうぎ)の晩(ばん)、お客樣(きやくさま)がお立歸(たちかへ)りに成(な)りますると、手前(てまへ)ども一統(いつとう)にも部屋(へや)で御酒(ごしゆ)を下(くだ)さりまするとか。」
「あゝ、無禮講(ぶれいかう)と申(まを)すのだよ、たんとお遊(あそ)び、そしてお前(まへ)、屹(きつ)と何(なに)かおありだらう、隱藝(かくしげい)でもお出(だ)しだと可(い)いね。」
 と云(い)つて莞爾(につこり)した。元二(げんじ)、頸許(えりもと)からぞく/\、
「滅相(めつさう)な、隱藝(かくしげい)など、へゝゝ、其(それ)に就(つ)きましてでござります。其(そ)の無禮講(ぶれいかう)と申(まを)す事(こと)で、從前(じうぜん)にも向後(かうご)にも他(ほか)ありません此(こ)のお邸(やしき)、決(けつ)して然(さ)やうな事(こと)はござりますまいが、羽目(はめ)をはづしてたべ醉(よ)ひますると、得(え)て間違(まちがひ)の起(おこ)りやすいものでござります、其處(そこ)を以(も)ちまして、手前(てまへ)の了簡(れうけん)で、何(なん)と、今年(ことし)は一(ひと)つ趣(おもむき)をかへてお酒(さけ)を頂戴(ちやうだい)しながら、各々(めい/\)國々(くに/″\)の話(はなし)、土地(とち)處(ところ)の物語(ものがたり)と云(い)ふのを、しめやかにしようではあるまいかと申出(まをしで)ました處(ところ)部屋頭(へやがしら)が第(だい)一番(ばん)、いづれも當御邸(たうおやしき)の御家風(ごかふう)で、おとなしい、實體(じつてい)なものばかり、一人(ひとり)も異存(いぞん)はござりません。
 處(ところ)で發頭人(ほつとうにん)の手前(てまへ)、出來(でき)ませぬまでも皮切(かはきり)をいたしませぬと相成(あひな)りません。
 國許(くにもと)にござります其(そ)の話(はなし)につきまして、其(それ)を饒舌(しやべ)りますのに實(じつ)にこまりますことには、事柄(ことがら)の續(つゞき)の中(うち)に歌(うた)が一(ひと)つござりますので。
 部屋(へや)がしらは風流人(ふうりうじん)で、かむりづけ、ものはづくしなどと云(い)ふのを遣(や)ります。川柳(せんりう)に、歌(うた)一(ひと)つあつて話(はなし)にけつまづき、と云(い)ふのがあると何時(いつ)かも笑(わら)つて居(を)りましたが、成程(なるほど)其(そ)の通(とほ)りと感心(かんしん)しましたのが、今度(こんど)は身(み)の上(うへ)で、歌(うた)があつて躓(つまづ)きまして、部屋(へや)がしらに笑(わら)はれますのが、手前(てまへ)口惜(くちを)しいと存(ぞん)じまして。」
 と然(さ)も若氣(わかげ)に思込(おもひこ)んだやうな顏色(かほつき)をして云(い)つた。川柳(せんりう)を口吟(くちずさ)んでかむりづけを樂(たのし)む、其(そ)の結構(けつこう)な部屋(へや)がしらの女房(にようばう)を、ものして、居(ゐ)るから怪(け)しからぬ。
「少(すこ)しばかり小遣(こづかひ)の中(うち)から恁(か)やうなものを、」
 と懷中(ふところ)から半分(はんぶん)ばかり紺土佐(こんどさ)の表紙(へうし)の薄汚(うすよご)れたのを出(だ)して見(み)せる。
「おや、歌(うた)の……お見(み)せな。」
 と云(い)ふ瞳(ひとみ)が、疊(たゝ)みかけた良人(をつと)の禮服(れいふく)の紋(もん)を離(はな)れて、元二(げんじ)が懷中(ふところ)の本(ほん)に移(うつ)つたのであつた。
「否(いゝえ)、お恥(はづ)かしい、御目(おめ)に掛(か)けるやうなのではござりません。それに、夜店(よみせ)で買(か)ひましたので、お新造樣(しんぞさま)お手(て)に觸(ふ)れましては汚(きたな)うござります。」
 と引込(ひつこ)ませる、と水(みづ)の出花(でばな)と云(い)ふのでもお君(きみ)はさすがに武家(ぶけ)の女房(にようばう)、仲間(ちうげん)の膚(はだ)に着(つ)いたものを無理(むり)に見(み)ようとはしなかつた。
「然(さ)うかい。でも、お前(まへ)、優(やさ)しいお心掛(こゝろがけ)だね。」
 と云(い)ふ。宗桂(そうけい)が歩(ふ)のあしらひより、番太郎(ばんたらう)の桂馬(けいま)の方(はう)が、豪(えら)さうに見(み)える習(ならひ)であるから、お君(きみ)は感心(かんしん)したらしかつた。然(さ)もさうず、と元二(げんじ)が益々(ます/\)附入(つけい)る。
「本(ほん)を買(か)つてさぐり讀(よ)みに搜(さが)しましてもどれが何(なん)だか分(わか)りません。其(それ)に、あゝ、何(なん)とかの端本(はほん)か、と部屋頭(へやがしら)が本(ほん)の名(な)を存(ぞん)じて居(を)りますから、中(なか)の歌(うた)も此(これ)から引出(ひきだ)しましたのでは先刻(せんこく)承知(しようち)とやらでござりませう。其(それ)では種(たね)あかしの手品(てじな)同樣(どうやう)慰(なぐさみ)になりません、お願(ねがひ)と申(まを)しましたのは爰(こゝ)の事(こと)、御新造樣(ごしんぞさま)一(ひと)つ何(ど)うぞ何(なん)でもお教(をし)へなさつて遣(つか)はさりまし。」
 お君(きみ)さんが、ついうつかりと乘(の)せられて、
「私(わたし)にもよくは分(わか)らないけれど、あの、何(ど)う云(い)ふ事(こと)を申(まを)すのだえ、歌(うた)の心(こゝろ)はえ。」
「へい、話(はなし)の次第(しだい)でござりまして、其(それ)が其(そ)の戀(こひ)でござります。」
 と初心(うぶ)らしく故(わざ)と俯向(うつむ)いて赤(あか)く成(な)つた。お君(きみ)も、ほんのりと色(いろ)を染(そ)めたが、庭(には)の木(き)の葉(は)の夕榮(ゆふばえ)である。
「戀(こひ)の心(こゝろ)はどんなのだえ。思(おも)うて逢(あ)ふとか、逢(あ)はないとか、忍(しの)ぶ、待(ま)つ、怨(うら)む、いろ/\あるわね。」
「えゝ、申兼(まをしか)ねましたが、其(それ)が其(それ)が、些(ち)と道(みち)なりませぬ、目上(めうへ)のお方(かた)に、もう心(こゝろ)もくらんで迷(まよ)ひましたと云(い)ふのは、對手(あひて)が庄屋(しやうや)どのの、其(そ)の。」
 と口早(くちばや)に言足(いひた)した。
 で、お君(きみ)は何(なん)の氣(き)も着(つ)かない樣子(やうす)で、
「お待(ま)ち。」
 と少(すこ)し俯向(うつむ)いて考(かんが)へるやうに、歌袖(うたそで)を膝(ひざ)へ置(お)いた姿(すがた)は亦(また)類(たぐひ)なく美(うつく)しい。
「恁(か)ういたしたら何(ど)うであらうね。
思(おも)ふこと關路(せきぢ)の暗(やみ)のむら雲(くも)を
    晴(は)らしてしばしさせよ月影(つきかげ)
 分(わか)つたかい。一寸(ちよつと)いま思出(おもひだ)せないから、然(さ)うしてお置(お)きな、又(また)氣(き)が着(つ)いたら申(まを)さうから。」
 元二(げんじ)は目(め)を瞑(つぶ)つて、如何(いか)にも感(かん)に堪(た)へたらしく、
「思(おも)ふこと關路(せきぢ)の暗(やみ)のむち雲(くも)を、
 晴(は)らしてしばしさせよ月影(つきかげ)。
 御新造樣(ごしんぞさま)、此(こ)の上(うへ)の御無理(ごむり)は、助(たす)けると思召(おぼしめ)しまして、其(そ)のお歌(うた)を一寸(ちよつと)お認(したゝ)め下(くだ)さいまし。お使(つかひ)の口上(こうじやう)と違(ちが)ひまして、つい馴(な)れませぬ事(こと)は下根(げこん)のものに忘(わす)れがちにござります、よく、拜見(はいけん)して覺(おぼ)えますやうに。」
 としをらしく言(い)つたので、何心(なにごころ)なく其(そ)の言(ことば)に從(したが)つた。お君(きみ)は、しかけた用(よう)の忙(いそが)しい折(をり)から、冬(ふゆ)の日(ひ)は早(は)や暮(く)れかゝる、ついありあはせた躾(しつけ)の紅筆(べにふで)で懷紙(ふところがみ)へ、と丸髷(まるまげ)の鬢(びん)艶(つや)やかに、もみぢを流(なが)すうるはしかりし水莖(みづぐき)のあと。
 さて、話(はなし)の中(なか)の物語(ものがた)り、煩(わづら)はしいから略(はぶ)く、……祝(いはひ)の夜(よ)、仲間(ちうげん)ども一座(いちざ)の酒宴(しゆえん)、成程(なるほど)元二(げんじ)の仕組(しく)んだ通(とほ)り、いづれも持寄(もちよ)りで、國々(くに/″\)の話(はなし)をはじめた。元二(げんじ)の順(じゆん)に杯(さかづき)も※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)つて來(き)た時(とき)、自分(じぶん)國許(くにもと)の事(こと)に懲(こ)りて仔細(しさい)あつて、世(よ)を忍(しの)ぶ若(わか)ものが庄屋(しやうや)の屋敷(やしき)に奉公(ほうこう)して、其(そ)の妻(つま)と不義(ふぎ)をする、なかだちは、婦(をんな)が寵愛(ちようあい)の猫(ねこ)で、此(こ)の首環(くびわ)へ戀歌(こひうた)を結(むす)んで褄(つま)を引(ひ)くと云(い)ふ運(はこ)び。情婦(じやうふ)であつたお春(はる)の家(いへ)に手飼(てがひ)の猫(ねこ)があつたから、袖(そで)に袂(たもと)に、猫(ねこ)の搦(から)む處(ところ)は、目(め)で見(み)るやう手(て)に取(と)るやうに饒舌(しやべ)つて、
「實(じつ)は此(これ)は、御用人(ごようにん)の御新造樣(ごしんぞさま)に。」
 と如何(いか)なる企(くはだて)か、内證(ないしよう)の筈(はず)と故(わざ)と打明(うちあ)けて饒舌(しやべ)つて、紅筆(べにふで)の戀歌(こひうた)、移香(うつりが)の芬(ぷん)とする、懷紙(ふところがみ)を恭(うや/\)しく擴(ひろ)げて人々(ひと/″\)へ思入(おもひいれ)十分(じふぶん)で見(み)せびらかした。
 自分(じぶん)で許(ゆる)す色男(いろをとこ)が、思(おも)ひをかけて屆(とゞ)かぬ婦(をんな)を、恁(か)うして人(ひと)に誇(ほこ)る術(すべ)は隨分(ずゐぶん)數(かぞ)へ切(き)れないほどあるのである。
 一座(いちざ)、目(め)を欹(そばだ)てた。
 けれども、對手(あひて)が守子(もりつこ)や飯炊(めしたき)でない、人(ひと)もこそあれ一大事(いちだいじ)だ、と思(おも)ふから、其(そ)の後(のち)とても皆(みな)口(くち)をつぐんで何(なん)にも言(い)はず無事(ぶじ)にしばらく日(ひ)は經(た)つた。
 元二(げんじ)は、絶(た)えず、其(そ)の歌(うた)を、肌(はだ)に添(そ)へて持(も)つて居(ゐ)て、人(ひと)の目(め)につくやうに、つかないやうに、ちら/\と出(だ)しては始終(しじう)熟(ぢつ)と視(み)る。
 然(さ)うかと思(おも)ふと、一人(ひとり)で、思(おも)ひに堪(た)へ廉(か)ねるか、湯氣(ゆげ)の上(うへ)に、懷紙(ふところがみ)をかざして、紅(べに)を蒸(む)して、密(そつ)と二(に)の腕(うで)に當(あ)てた事(こと)などもある、ほりものにでもしよう了簡(れうけん)であつた、と見(み)えるが、此(これ)は其(そ)の效(かひ)がなかつたと言(い)ふ。
 翌年(よくねん)、二月(ぐわつ)初午(はつうま)の夜(よ)の事(こと)で、元二(げんじ)其(そ)の晩(ばん)は些(ち)と趣(おもむき)を替(か)へて、部屋(へや)に一人(ひとり)居(ゐ)て火鉢(ひばち)を引(ひき)つけながら例(れい)の歌(うた)を手本(てほん)に、美(うつく)しいかなの手習(てならひ)をして居(ゐ)た。
 其處(そこ)へあの、牝(めす)の黒猫(くろねこ)が、横合(よこあひ)から、フイと乘(の)りかゝつて、お君(きみ)のかいた歌(うた)の其(そ)の懷紙(ふところがみ)を、後脚(あとあし)で立(た)つてて前脚(まへあし)二(ふた)つで、咽喉(のど)へ抱(かゝ)へ込(こ)むやうにした。疾(はや)い事(こと)、くる/\と引込(ひきこ)んで手玉(てだま)を取(と)るから、吃驚(びつくり)して、元二(げんじ)が引(ひ)くと放(はな)さぬ。
 慌(あわ)てたの何(なん)のではない、が、烈(はげ)しく引張(ひつぱ)ると裂(さ)けさうな處(ところ)から、宥(なだ)めたが、すかしたが、其(そ)の效(かひ)さらになし、口(くち)へ啣(くは)へた。
 堪兼(たまりか)ねて、火箸(ひばし)を取(と)つて、ヤツと頭(あたま)を打(う)つたのが下(した)へ外(そ)れて、尖(さき)の當(あた)つたのが、左(ひだり)の目(め)の下(した)。キヤツと啼(な)く、と五六尺(しやく)眞黒(まつくろ)に躍(をど)り上(あが)つて、障子(しやうじ)の小間(こま)からドンと出(で)た、尤(もつと)も歌(うた)を啣(くは)へたまゝで、其(そ)ののち二日(ふつか)ばかり影(かげ)を見(み)せぬ。
 三日目(みつかめ)に、井戸端(ゐどばた)で、例(れい)の身體(からだ)を洗(あら)つて居(ゐ)る處(ところ)へ、ニヤーと出(で)て來(き)た。
 最(も)う忘(わす)れたやうに、相變(あひかは)らず、すれつ、縺(もつ)れつ、と云(い)ふ身(み)で可懷(かはい)い。
 目(め)の下(した)に、火箸(ひばし)の尖(さき)で突(つゝ)いた、疵(きず)がポツツリ見(み)える、ト確(たしか)に覺(おぼ)えて忘(わす)れぬ、瓜井戸(うりゐど)の宿(しゆく)はづれで、飯屋(めしや)の縁側(えんがは)の下(した)から出(で)た畜生(ちくしやう)を、煙管(きせる)の雁首(がんくび)でくらはしたのが、丁(ちやう)ど同(おな)じ左(ひだり)の目(め)の下(した)。で、又(また)今(いま)見(み)る疵(きず)が一昨日(をとゝひ)や昨夜(ゆうべ)怪我(けが)をしたものとは見(み)えぬ、綺麗(きれい)に癒(い)えて、生(うま)れつき其處(そこ)だけ、毛(け)の色(いろ)の變(かは)つて見(み)えるやうなのに悚然(ぎよつと)した。
 はじめから、形(かたち)と云(い)ひ、毛色(けいろ)と云(い)ひ、剩(あまつさ)へ其(それ)が、井戸川(ゐどがは)の橋(はし)の欄干(らんかん)で、顏洗(かほあら)ひを遣(や)つて居(ゐ)た猫(ねこ)と同一(おなじ)ことで、續(つゞ)いては、お春(はる)の可愛(かはい)がつた黒(くろ)にも似(に)て居(ゐ)る。
 とは知(し)つたけれども、黒猫(くろねこ)はざらにある、別(べつ)に可怪(をかしい)とも思(おも)はなかつたのが、此(こ)の疵(きず)を見(み)てから堪(たま)らなく氣(き)になり出(だ)した。然(しか)も、打(う)たれた男(をとこ)に齒向(はむ)いて、ウヽと爪(つめ)を磨(と)ぐのでない。それからは、猶更(なほさら)以(もつ)てじやれ着(つ)いて、ろくに團右衞門(だんゑもん)の邸(やしき)へも行(ゆ)かず、絡(まつ)はりつくので、ふら/\立(た)ちたいほど氣(き)に掛(かゝ)つた。
 處(ところ)へ、御新造(ごしんぞ)お君(きみ)さんが、病氣(びやうき)と云(い)ふ事(こと)、引籠(ひきこも)り、とあつてしばらく弗(ふつ)と姿(すがた)が見(み)えぬ。
 と思(おも)ふと、やがて保養(ほやう)とあつて、實家方(さとかた)へ、歸(かへ)つたのである。が、あはれ、此(こ)の婦人(ふじん)も自殺(じさつ)した。それは昔(むかし)、さりながら、田舍(ゐなか)ものの※々(づう/\)[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、454-14]しいのは、今(いま)も何(なに)よりも可恐(おそろ)しい。
了

底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
   1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。