あらすじ
都会の坂道を歩く婦人と、奇妙な男との出会いは、些細な出来事から始まります。男は、病院の土塀の前で、誰彼構わず砂利を投げつける狂人を目撃し、婦人にその危険を知らせようとします。婦人は、男の言葉に驚きながらも、自身の身に迫る脅威を感じ、その場を離れようとしますが、男は執拗に婦人の安全を案じます。二人の間には、奇妙な距離感が生まれます。やがて、男は婦人が落とした手紙を手渡します。その手紙は、男にとって非常に大切なもので、婦人の親切に感謝しつつ、その内容に触れようとしない男の態度に、婦人は興味を抱きます。そして、男の切実な願いに応え、手紙の内容を知ってしまった婦人は、その秘密を守るため、男に寄り添うことを決意します。二人の運命は、奇妙な出会いを経て、予想外の展開へと進んでいくのです。
「あゝもし、一寸(ちよつと)。」
「は、私(わたし)……でございますか。」
 電車(でんしや)を赤十字病院下(せきじふじびやうゐんした)で下(お)りて、向(むか)うへ大溝(おほどぶ)について、岬(みさき)なりに路(みち)を畝(うね)つて、あれから病院(びやうゐん)へ行(ゆ)くのに坂(さか)がある。あの坂(さか)の上(あが)り口(ぐち)の所(ところ)で、上(うへ)から來(き)た男(をとこ)が、上(あが)つて行(ゆ)く中年増(ちうどしま)の媚(なまめ)かしいのと行違(ゆきちが)つて、上(うへ)と下(した)へ五六歩(ぽ)離(はな)れた所(ところ)で、男(をとこ)が聲(こゑ)を掛(か)けると、其(そ)の媚(なまめ)かしいのは直(す)ぐに聞取(きゝと)つて、嬌娜(しなやか)に振返(ふりかへ)つた。
 兩方(りやうはう)の間(あひだ)には、袖(そで)を結(むす)んで絡(まと)ひつくやうに、ほんのりと得(え)ならぬ薫(かをり)が漾(たゞよ)ふ。……婦(をんな)は、薄色縮緬(うすいろちりめん)の紋着(もんつき)の單羽織(ひとへばおり)を、細(ほつそ)り、痩(やせ)ぎすな撫肩(なでがた)にすらりと着(き)た、肱(ひぢ)に掛(か)けて、濃(こ)い桔梗色(ききやういろ)の風呂敷包(ふろしきづつみ)を一(ひと)ツ持(も)つた。其(そ)の四(よつ)ツの端(はし)を柔(やはら)かに結(むす)んだ中(なか)から、大輪(おほりん)の杜若(かきつばた)の花(はな)の覗(のぞ)くも風情(ふぜい)で、緋牡丹(ひぼたん)も、白百合(しらゆり)も、透(す)きつる色(いろ)を競(きそ)うて映(うつ)る。……盛花(もりばな)の籠(かご)らしい。いづれ病院(びやうゐん)[#ルビの「びやうゐん」は底本では「びやうろん」]へ見舞(みまひ)の品(しな)であらう。路(みち)をしたうて來(き)た蝶(てふ)は居(ゐ)ないが、誘(さそ)ふ袂(たもと)に色香(いろか)が時(とき)めく。……
 輕(かる)い裾(すそ)の、すら/\と蹴出(けだし)にかへると同(おな)じ色(いろ)の洋傘(かうもり)を、日中(ひなか)、此(こ)の日(ひ)の當(あた)るのに、翳(かざ)しはしないで、片影(かたかげ)を土手(どて)に從(つ)いて、しと/\と手(て)に取(と)つたは、見(み)るさへ帶腰(おびごし)も弱々(よわ/\)しいので、坂道(さかみち)に得堪(えた)へぬらしい、なよ/\とした風情(ふぜい)である。
「貴女(あなた)、」
 と呼(よ)んで、ト引返(ひきかへ)した、鳥打(とりうち)を被(かぶ)つた男(をとこ)は、高足駄(たかあしだ)で、杖(ステツキ)を支(つ)いた妙(めう)な誂(あつら)へ。路(みち)は恁(か)う乾(かわ)いたのに、其(そ)の爪皮(つまかは)の泥(どろ)でも知(し)れる、雨(あめ)あがりの朝早(あさはや)く泥濘(ぬかるみ)の中(なか)を出(で)て來(き)たらしい。……雲(くも)の暑(あつ)いのにカラ/\歩行(ある)きで、些(ち)と汗(あせ)ばんだ顏(かほ)で居(ゐ)る。
「唐突(だしぬけ)にお呼(よ)び申(まを)して失禮(しつれい)ですが、」
「はい。」
 と一文字(いちもんじ)の眉(まゆ)はきりゝとしながら、清(すゞ)しい目(め)で優(やさ)しく見越(みこ)す。
「此(これ)から何方(どちら)へ行(い)らつしやる?……何(なに)、病院(びやうゐん)へお見舞(みまひ)のやうにお見受(みう)け申(まを)します。……失禮(しつれい)ですが、」
「えゝ、然(さ)うなんでございます。」
 此處(こゝ)で瞻(みまも)つたのを、輕(かる)く見迎(みむか)へて、一(ひと)ツ莞爾(につこり)して、
「否(いゝえ)、お知己(ちかづき)でも、お見知越(みしりごし)のものでもありません。眞個(まつたく)唯今(たゞいま)行違(ゆきちが)ひましたばかり……ですから失禮(しつれい)なんですけれども。」
 と云(い)つて、づツと寄(よ)つた。
「別(べつ)に何(なん)でもありませんが、一寸(ちよつと)御注意(ごちうい)までに申(まを)さうと思(おも)つて、今(いま)ね、貴女(あなた)が行(い)らつしやらうと云(い)ふ病院(びやうゐん)の途中(とちう)ですがね。」
「はあ、……」と、聞(き)くのに氣(き)の入(はひ)つた婦(をんな)の顏(かほ)は、途中(とちう)が不意(ふい)に川(かは)に成(な)つたかと思(おも)ふ、涼(すゞ)しけれども五月(ごぐわつ)半(なか)ばの太陽(ひ)の下(した)に、偶(ふ)と寂(さび)しい影(かげ)が映(さ)した。
 男(をとこ)は、自分(じぶん)の口(くち)から言出(いひだ)した事(こと)で、思(おも)ひも掛(か)けぬ心配(しんぱい)をさせるのを氣(き)の毒(どく)さうに、半(なか)ば打消(うちけ)す口吻(くちぶり)で、
「……餘(あま)り唐突(だしぬけ)で、變(へん)にお思(おも)ひでせう。何(なに)も御心配(ごしんぱい)な事(こと)ぢやありません。」
「何(なん)でございます、まあ、」と立停(たちどま)つて居(ゐ)たのが、二(ふた)ツばかり薄彩色(うすさいしき)の裾捌(すそさばき)で、手(て)にした籠(かご)の花(はな)の影(かげ)が、袖(そで)から白(しろ)い膚(はだ)へ颯(さつ)と透通(すきとほ)るかと見(み)えて、小戻(こもど)りして、ト斜(なゝ)めに向合(むきあ)ふ。
「をかしな奴(やつ)が一人(ひとり)、此方側(こちらがは)の土塀(どべい)の前(まへ)に、砂利(じやり)の上(うへ)に踞(しやが)みましてね、通(とほ)るものを待構(まちかま)へて居(ゐ)るんです。」
「えゝ、をかしな奴(やつ)が、――待構(まちかま)へて――あの婦(をんな)をですか。」
「否(いゝえ)、御婦人(ごふじん)に限(かぎ)つた事(こと)はありますまいとも。……現(げん)に私(わたくし)が迷惑(めいわく)をしたんですから……誰(だれ)だつて見境(みさかひ)はないんでせう。其奴(そいつ)が砂利(じやり)を掴(つか)んで滅茶々々(めちや/\)擲附(ぶツつ)けるんです。」
「可厭(いや)ですねえ。」
 と口(くち)を結(むす)んで前途(ゆくて)を見遣(みや)つた、眉(まゆ)が顰(ひそ)んで、婦(をんな)は洋傘(かうもり)を持直(もちなほ)す。
「胸(むね)だの、腕(うで)だの、二(ふた)ツ三(み)ツは、危(あぶな)く頬邊(ほつぺた)を、」
 と手(て)を當(あ)てたが、近々(ちか/″\)と見合(みあは)せた、麗(うらゝか)な瞳(ひとみ)の楯(たて)にも成(な)れとか。

「私(わたし)は見舞(みまひ)に行(い)つた歸途(かへり)です。」
 と男(をとこ)は口早(くちばや)に言(い)ひ續(つゞ)けて、
「往(ゆき)には、何(なん)にも、そんな奴(やつ)は居(ゐ)なかつたんです。尤(もつと)も大勢(おほぜい)人通(ひとゞほ)りがありましたから氣(き)が附(つ)かなかつたかも知(し)れません。還(かへり)は最(も)う病院(びやうゐん)の彼方(あつち)かどを、此方(こつち)へ曲(まが)ると、其奴(そいつ)の姿(すがた)がぽつねんとして一(ひと)ツ。其(それ)が、此(こ)の上(うへ)の、ずんどに、だゞつ廣(ぴろ)い昔(むかし)の大手前(おほてまへ)と云(い)つた通(とほり)へ、赫(くわツ)と日(ひ)が當(あた)つて、恁(か)うやつて蔭(かげ)もない。」
 と雲(くも)を仰(あふ)ぐと、鳥(とり)を見(み)るやうに婦(をんな)も見上(みあ)げた。
「泥濘(ぬかるみ)を捏返(こねかへ)したのが、其(そ)のまゝ乾(から)び着(つ)いて、火(ひ)の海(うみ)の荒磯(あらいそ)と云(い)つた處(ところ)に、硫黄(ゆわう)に腰(こし)を掛(か)けて、暑苦(あつくる)しい黒(くろ)い形(かたち)で踞(しやが)んで居(ゐ)るんですが。
 何心(なにごころ)なく、眩(まばゆ)がつて、すツとぼ/\、御覽(ごらん)の通(とほ)り高足駄(たかあしだ)で歩行(ある)いて來(く)ると、ばらり/\、カチリてツちや砂利(じやり)を投(な)げてるのが、離(はな)れた所(ところ)からも分(わか)りましたよ。
 中途(ちうと)で落(お)ちるのは、屆(とゞ)かないので。其(そ)の砂利(じやり)が、病院(びやうゐん)の裏門(うらもん)の、あの日中(ひなか)も陰氣(いんき)な、枯野(かれの)へ日(ひ)が沈(しづ)むと云(い)つた、寂(さび)しい赤(あか)い土塀(どべい)へ、トン……と……間(あひ)を措(お)いては、トーンと當(あた)るんです。
 何(なん)ですかね、島流(しまなが)しにでも逢(あ)つて、心(こゝろ)の遣場(やりば)のなさに、砂利(じやり)を掴(つか)んで海(うみ)へ投込(なげこ)んででも居(ゐ)るやうな、心細(こゝろぼそ)い、可哀(あはれ)な風(ふう)に見(み)えて、其(それ)が病院(びやうゐん)の土塀(どべい)を狙(ねら)つてるんですから、あゝ、氣(き)の毒(どく)だ。……
 年紀(とし)は少(わか)し……許嫁(いひなづけ)か、何(なに)か、身(み)に替(か)へて思(おも)ふ人(ひと)でも、入院(にふゐん)して居(ゐ)て、療治(れうぢ)が屆(とゞ)かなかつた所(ところ)から、無理(むり)とは知(し)つても、世間(せけん)には愚癡(ぐち)から起(おこ)る、人怨(ひとうら)み。よくある習(ならひ)で――醫師(いしや)の手(て)ぬかり、看護婦(かんごふ)の不深切(ふしんせつ)。何(なん)でも病院(びやうゐん)の越度(をちど)と思(おも)つて、其(それ)が口惜(くや)しさに、もの狂(ぐる)はしく大(おほき)な建(たて)ものを呪詛(のろ)つて居(ゐ)るんだらう。……
 と私(わたし)は然(さ)う思(おも)ひました。最(も)うね、一目(ひとめ)見(み)て、其(そ)の男(をとこ)のいくらか氣(き)が變(へん)だ、と云(い)ふ事(こと)は、顏色(かほいろ)で分(わか)りましたつけ。……目(め)の縁(ふち)が蒼(あを)くつて、色(いろ)は赤(あか)ツ茶(ちや)けたのに、厚(あつ)い唇(くちびる)が乾(かわ)いて、だらりと開(あ)いて、舌(した)を出(だ)しさうに喘(あへ)ぎ/\――下司(げす)な人相(にんさう)ですよ――髮(かみ)の長(なが)いのが、帽子(ばうし)の下(した)から眉(まゆ)の上(うへ)へ、ばさ/\に被(かぶ)さつて、そして目(め)が血走(ちばし)つて居(ゐ)るんですから。……」
「矢張(やつぱ)り、病院(びやうゐん)を怨(うら)んで居(ゐ)るんですかねえ、誰(だれ)かが亡(な)く成(な)つてさ、貴方(あなた)。」
 と見舞(みまひ)の途中(とちう)で氣(き)に成(な)つてか、婦(をんな)は恁(か)う聞(き)いて俯向(うつむ)いた。
「まあ、然(さ)うらしく思(おも)ふんです。」
「氣(き)の毒(どく)ですわね。」
 と顏(かほ)を上(あ)げる。
「雖然(けれども)、驚(おどろ)くぢやありませんか。突然(いきなり)、ばら/\と擲附(ぶつか)つたんですからね。何(なに)をする……も何(なん)にもありはしない。狂人(きちがひ)だつて事(こと)は初手(しよて)から知(し)れて居(ゐ)るんですから。
 ――頬邊(ほつぺた)は、可(い)い鹽梅(あんばい)に掠(かす)つたばかりなんですけれども、ぴしり/\酷(ひど)いのが來(き)ましたよ。又(また)うまいんだ、貴女(あなた)、其(そ)の石(いし)を投(な)げる手際(てぎは)が。面啖(めんくら)つて、へどもどしながら、そんな中(なか)でも其(それ)でも、何(なん)の拍子(ひやうし)だか、髮(かみ)の長(なが)い工合(ぐあひ)と云(い)ひ、股(また)の締(しま)らないだらけた風(ふう)が、朝鮮(てうせん)か支那(しな)の留學生(りうがくせい)か知(し)ら。……おや、と思(おも)ふと、ばら/\と又(また)投附(なげつ)けながら、……
 ――畜生(ちくしやう)、畜生(ちくしやう)――と口惜(くや)しさうに喚(わめ)く調子(てうし)が、立派(りつぱ)に同一(おなじ)先祖(せんぞ)らしい、お互(たがひ)の。」
 とフト苦笑(にがわらひ)した。
「それから本音(ほんね)を吐(は)きました。
 ――畜生(ちくしやう)、婦(あま)、畜生(ちくしやう)――
 大變(たいへん)だ。色情狂(いろきちがひ)。いや、婦(をんな)に怨恨(うらみ)のある奴(やつ)だ……
 と……何(なに)しろ酷(ひど)い目(め)に逢(あ)つて遁(に)げたんです。唯(たつ)た今(いま)の事(こと)なんです。
 漸(やつ)と此處(こゝ)まで來(き)て、別(べつ)に追掛(おひか)けては來(き)ませんでした――袖(そで)なんか拂(はら)つて、飛(と)んだ目(め)に逢(あ)ふものだ、と然(さ)う思(おも)ひましてね、汗(あせ)を拭(ふ)いて、此(こ)の何(なん)です、坂(さか)を下(お)りようとすると、下(した)から、ぞろ/\と十四五人(にん)、いろの袴(はかま)と、リボンで、一組(ひとくみ)總出(そうで)と云(い)つたらしい女學生(ぢよがくせい)、十五六から二十(はたち)ぐらゐなのが揃(そろ)つて來(き)ました。……」

「其(そ)の中(なか)に、一人(ひとり)、でつぷりと太(ふと)つた、肉(にく)づきの可(い)い、西洋人(せいやうじん)のお媼(ばあ)さんの、黒(くろ)い服(ふく)を裾長(すそなが)に練(ね)るのが居(ゐ)ました。何處(どこ)か宗教(しうけう)の學校(がくかう)らしい。
 今時分(いまじぶん)、こんな處(ところ)へ、運動會(うんどうくわい)ではありますまい。矢張(やつぱ)り見舞(みまひ)か、それとも死體(したい)を引取(ひきとり)に行(ゆ)くか、どつち道(みち)、頼(たの)もしさうなのは、其(その)お媼(ばあ)さんの、晃乎(きらり)と胸(むね)に架(か)けた、金屬製(きんぞくせい)の十字架(じふじか)で。――
 ずらりと女學生(ぢよがくせい)たちを從(したが)へて、頬(ほゝ)と頤(あご)をだぶ/″\、白髮(しらが)の渦(うづまき)を卷(ま)かせて、恁(か)う反身(そりみ)に出(で)て來(き)た所(ところ)が、何(なん)ですかね私(わたし)には、彼處(あすこ)に居(ゐ)る、其(そ)の狂人(きちがひ)を、救助船(たすけぶね)で濟度(さいど)に顯(あらは)れたやうに見(み)えたんです。
 が、矢張(やつぱ)り石(いし)を投(な)げるか、何(ど)うか、頻(しきり)に樣子(やうす)が見(み)たく成(な)つたもんですからね。御苦勞樣(ごくらうさま)な坂(さか)の下口(おりくち)で暫時(しばらく)立(た)つて居(ゐ)て、遣過(やりす)ごしたのを、後(あと)からついて上(あが)つて、其處(そこ)へ立(た)つて視(なが)めたもんです。
 船(ふね)で行(ゆ)くやうに其(そ)の連中(れんぢう)、大手(おほて)の眞中(まんなか)を洋傘(かうもり)の五色(ごしき)の波(なみ)で通(とほ)りました。
 氣(き)がかりな雲(くも)は、其(そ)の黒(くろ)い影(かげ)で、晴天(せいてん)にむら/\と湧(わ)いたと思(おも)ふと、颶風(はやて)だ。貴女(あなた)。……誰(だれ)もお媼(ばあ)さんの御馬前(ごばぜん)に討死(うちじに)する約束(やくそく)は豫(かね)て無(な)いらしい。我(われ)勝(が)ち、鳥(とり)が飛(と)ぶやうに、ばら/\散(ち)ると、さすがは救世主(キリスト)のお乳母(うば)さん、のさつと太陽(ひ)の下(した)に一人(ひとり)堆(うづたか)く黒(くろ)い服(ふく)で突立(つゝた)つて、其(そ)の狂人(きちがひ)と向合(むきあ)つて屈(かゞ)みましたつけが、叶(かな)はなく成(な)つたと見(み)えて、根(ね)を拔(ぬ)いてストンと貴女(あなた)、靴(くつ)の裏(うら)を飜(かへ)して遁(に)げた、遁(に)げると成(な)ると疾(はや)い事(こと)!……卷狩(まきがり)へ出(で)る猪(ゐのしゝ)ですな、踏留(ふみと)まつた學生(がくせい)を突退(つきの)けて、眞暗(まつくら)三寶(さんばう)に眞先(まつさき)へ素飛(すつと)びました。
 それは可笑(をかし)いくらゐでした。が、狂人(きちがひ)は、と見(み)ると、もとの所(ところ)へ、其(そ)のまゝ踞(しやが)み込(こ)んで、遁(に)げたのが曲(まが)り角(かど)で二三人(にん)見返(みかへ)つて見(み)えなくなる時分(じぶん)には、又(また)……カチリ、ばら/\。寂然(ひつそり)した日中(ひなか)の硫黄(ゆわう)ヶ島(しま)に陰氣(いんき)な音響(ひゞき)。
 通(とほ)りものでもするらしい、人足(ひとあし)が麻布(あざぶ)の空(そら)まで途絶(とだ)えて居(ゐ)る……
 所(ところ)へ、貴女(あなた)がおいでなすつたのに、恁(か)うしてお出合(であ)ひ申(まを)したんです。
 知(し)りもしないものが、突然(とつぜん)お驚(おどろ)かせ申(まを)して、御迷惑(ごめいわく)の所(ところ)はお許(ゆる)し下(くだ)さい。
 私(わたし)だつて、御覽(ごらん)の通(とほ)り、別(べつ)に怪我(けが)もせず無事(ぶじ)なんですから、故々(わざ/\)お話(はな)しをする程(ほど)でもないのかも知(し)れませんが、でも、氣(き)を附(つ)けて行(い)らつしやる方(はう)が可(よ)からうと思(おも)つたからです。……失禮(しつれい)しましたね。」
 と最(も)う、氣咎(きとが)めがするらしく、急(きふ)に別構(わかれがま)へに、鳥打(とりうち)に手(て)を掛(か)ける。
「何(なん)とも、御(ご)しんせつに……眞個(ほんと)に私(わたし)、」
 と胴(どう)をゆら/\と身動(みうご)きしたが、端(はした)なき風情(ふぜい)は見(み)えず、人(ひと)の情(なさけ)を汲入(くみい)れた、優(やさ)しい風采(とりなり)。
「貴方(あなた)、何(ど)うしたら可(い)いでせうね、私(わたし)……」
「成(な)りたけ遠(とほ)く離(はな)れて、向(むか)う側(がは)をお通(とほ)んなさい。何(なん)なら豫(あらかじ)め其(そ)の用心(ようじん)で、丁(ちやう)ど恁(か)うして人通(ひとゞほ)りはなし――構(かま)はず駈出(かけだ)したら可(い)いでせう……」
「私(わたし)、駈(か)けられませんの。」
 と心細(こゝろぼそ)さうに、なよやかな其(そ)の肩(かた)を見(み)た。
「苦(くる)しくつて。」
「成程(なるほど)、駈(か)けられますまいな。」
 と帽(ばう)の庇(ひさし)を壓(おさ)へたまゝ云(い)つた。
「持(もち)ものはおあんなさるし……では、恁(か)うなさると可(い)い。……日當(ひあた)りに御難儀(ごなんぎ)でも暫時(しばらく)此處(こゝ)においでなすつて、二三人(にん)、誰(だれ)か來(く)るのを待合(まちあ)はせて、それとなく一所(いつしよ)に行(い)らしつたら可(い)いでせう。……」
 と云(い)ひ掛(か)けて、極(きは)めて計略(けいりやく)の平凡(へいぼん)なのに、我(われ)ながら男(をとこ)は氣(き)の毒(どく)らしかつた。
「何(なん)だか、昔(むかし)の道中(だうちう)に、山犬(やまいぬ)が出(で)たと云(い)う時(とき)のやうですが。」
「否(いゝえ)、山犬(やまいぬ)ならまだしもでございます……そんな人(ひと)……氣味(きみ)の惡(わる)い、私(わたし)、何(ど)うしませう。」
 と困(こう)じた状(さま)して、白(しろ)い緒(を)の駒下駄(こまげた)の、爪尖(つまさき)をコト/\と刻(きざ)む洋傘(かうもり)の柄(え)の尖(さき)が、震(ふる)へるばかり、身(み)うちに傳(つた)うて花(はな)も搖(ゆ)れる。此(こ)の華奢(きやしや)なのを、あの唇(くちびる)の厚(あつ)い、大(おほき)なべろりとした口(くち)だと縱(たて)に銜(くは)へて呑(の)み兼(か)ねまい。
「ですから、矢張(やつぱ)り人通(ひとゞほ)りをお待合(まちあ)はせなさるが可(い)い。何(なに)、圖々(づう/\)しく、私(わたし)が、お送(おく)り申(まを)しませう、と云(い)ひかねもしませんが、實(じつ)は、然(さ)う云(い)つた、狂人(きちがひ)ですから、二人(ふたり)で連立(つれだ)つて參(まゐ)つたんぢや、尚(な)ほ荒立(あらだ)てさせるやうなものですからね。……」

 婦(をんな)は分別(ふんべつ)に伏(ふ)せた胸(むね)を、すつと伸(の)ばす状(さま)に立直(たちなほ)る。
「丁(ちやう)ど可(い)い鹽梅(あんばい)に、貴下(あなた)がお逢(あ)ひなさいましたやうな、大勢(おほぜい)の御婦人(ごふじん)づれでも來合(きあ)はせて下(くだ)されば可(よ)うございますけれどもねえ……でないと……畜生(ちくしやう)……だの――阿魔(あま)――だのツて……何(なん)ですか、婦(をんな)に怨恨(うらみ)、」
 と言(い)ひかけて――最(も)う足(あし)も背(せ)もずらして居(ゐ)る高足駄(たかあしだ)を――ものを言(い)ふ目(め)で、密(そつ)と引留(ひきと)めて、
「貴方(あなた)、……然(さ)う仰有(おつしや)いましたんですねえ。」
「當推(あてずゐ)ですがね。」
「でも何(なん)だか、そんな口(くち)を利(き)くやうですと。……あの、どんな、一寸(ちよいと)どんな風(ふう)な男(をとこ)でせう?」
「然(さ)うですね、年少(としわか)な田舍(ゐなか)の大盡(だいじん)が、相場(さうば)に掛(かゝ)つて失敗(しつぱい)でもしたか、婦(をんな)に引掛(ひつかゝ)つて酷(ひど)く費消(つかひ)過(す)ぎた……とでも云(い)ふのかと見(み)える樣子(やうす)です。暑(あつ)くるしいね、絣(かすり)の、大島(おほしま)か何(なに)かでせう、襟垢(えりあか)の着(つ)いた袷(あはせ)に、白縮緬(しろちりめん)の兵子帶(へこおび)を腸(はらわた)のやうに卷(ま)いて、近頃(ちかごろ)誰(だれ)も着(き)て居(ゐ)ます、鐵無地(てつむぢ)の羽織(はおり)を着(き)て、此(こ)の温氣(うんき)に、めりやすの襯衣(しやつ)です。そして、大開(おほはだ)けに成(な)つた足(あし)に、ずぼんを穿(は)いて、薄(うす)い鶸茶(ひわちや)と云(い)ふ絹(きぬ)の、手巾(ハンケチ)も念入(ねんいり)な奴(やつ)を、あぶらぎつた、じと/\した首(くび)、玉突(たまつき)の給仕(きふじ)のネクタイと云(い)ふ風(ふう)に、ぶらりと結(むす)んで、表(おもて)の摺切(すりき)れた嵩高(かさだか)な下駄(げた)に、兀(は)げた紺足袋(こんたび)を穿(は)いて居(ゐ)ます。」
「それは/\……」
 と輕(かる)く言(い)ふ……瞼(まぶち)がふつくりと成(な)つて、異(ことな)つた意味(いみ)の笑顏(ゑがほ)を見(み)せた、と同時(どうじ)に著(いちじる)しく眉(まゆ)を寄(よ)せた。
「そして、塀際(へいぎは)に居(ゐ)ますんですね……踞(しやが)んで、」
「えゝ、此方(こちら)の。」
 と横(よこ)に杖(ステツキ)で指(さ)した、男(をとこ)は又(また)やゝ坂(さか)を下(した)へ離(はな)れたのである。
「此方(こつち)の。……」
 と婦(をんな)も見返(みかへ)つたまゝ、坂(さか)を上(うへ)へ、白(しろ)い足袋(たび)の尖(さき)が、褄(つま)を洩(も)れつつ、
「上(あが)り角(かど)から見(み)えますか。」
「見(み)えますとも、乾溝(からどぶ)の背後(うしろ)がずらりと垣根(かきね)で、半分(はんぶん)折(を)れた松(まつ)の樹(き)の大(おほき)な根(ね)が這出(はひだ)して居(ゐ)ます。其(その)前(まへ)に、束(つく)ねた黒土(くろつち)から蒸氣(いきれ)の立(た)つやうな形(かたち)で居(ゐ)るんですよ。」
「可厭(いや)な、土蜘蛛(つちぐも)見(み)たやうな。」
 と裳(もすそ)をすらりと駒下駄(こまげた)を踏代(ふみか)へて向直(むきなほ)ると、半(なか)ば向(むか)うむきに、すつとした襟足(えりあし)で、毛筋(けすぢ)の通(とほ)つた水髮(みづがみ)の鬢(びん)の艶(つや)。と拔(ぬ)けさうな細(ほそ)い黄金脚(きんあし)の、淺黄(あさぎ)の翡翠(ひすゐ)に照映(てりは)えて尚(な)ほ白(しろ)い……横顏(よこがほ)で見返(みかへ)つた。
「貴方(あなた)、後生(ごしやう)ですから。ねえ、後生(ごしやう)ですから、其處(そこ)に居(ゐ)て下(くだ)さいましよ、屹(きつ)とよ……」
 と一度(ど)見(み)て、ちらりと瞳(ひとみ)を反(そ)らしたと思(おも)ふと、身輕(みがる)にすら/\と出(で)た。上(あが)り口(ぐち)の電信(でんしん)の柱(はしら)を楯(たて)に、肩(かた)を曲(くね)つて、洋傘(かうもり)の手(て)を柱(はしら)に縋(すが)つて、頸(うなじ)をしなやかに、柔(やはら)かな髢(たぼ)を落(おと)して、……帶(おび)の模樣(もやう)の颯(さつ)と透(す)く……羽織(はおり)の腰(こし)を撓(たわ)めながら、忙(せはし)さうに、且(か)つ凝(ぢつ)と覗(のぞ)いたが、岬(みさき)にかくれて星(ほし)も知(し)らぬ可恐(おそろし)い海(うみ)を窺(うかゞ)ふ風情(ふぜい)に見(み)えた。
 男(をとこ)は立(た)つて動(うご)けなかつた。
 と慌(あわたゞ)しく肩(かた)を引(ひ)くと、
「おゝ、可厭(いや)だ。」
 と袖(そで)も裳(もすそ)も、花(はな)の色(いろ)が颯(さつ)と白(しら)けた。ぶる/\と震(ふる)へて、衝(つ)と退(さが)る。
「何(ど)うしました。」と男(をとこ)は戻(もど)つた。
「まあ……堪(たま)らない。貴方(あなた)、此方(こちら)を見(み)て居(ゐ)ます……お日樣(ひさま)に向(む)いた所爲(せゐ)か、爛(たゞ)れて剥(む)けたやうに眞赤(まつか)に成(な)つて……」
 今(いま)さらの事(こと)ではない。
「勿論(もちろん)目(め)も血走(ちばし)つて居(ゐ)ますから、」
 と杖(ステツキ)を扱(あつか)ひながら、
「矢張(やつぱ)り石(いし)を投(な)げて居(ゐ)ましたか。」
「何(なん)ですか恁(か)うやつて、」
 と云(い)つた時(とき)、其(そ)の洋傘(かさ)を花籠(はなかご)の手(て)に持添(もちそ)へて、トあらためて、眞白(まつしろ)な腕(うで)を擧(あ)げた。
「石(いし)を投(な)げるんでせうか、其(それ)が、あの此方(こつち)を招(まね)くやうに見(み)えたんですもの。何(ど)うしたら可(い)いでせう。」
 と蓮葉(はすは)な手首(てくび)を淑(つゝ)ましげに、袖(そで)を投(な)げて袂(たもと)を掛(か)けると、手巾(ハンケチ)をはらりと取(と)る。……

 婦(をんな)は輕(かる)く吐息(といき)して、
「止(よ)しませう……最(も)う私(わたし)、行(い)かないで置(お)きますわ。」と正面(しやうめん)に男(をとこ)を見(み)て、早(は)や坂(さか)の上(うへ)を背(せ)にしたのである。
「病院(びやうゐん)へ、」
「はあ、」
「其奴(そいつ)は困(こま)りましたな。」
 男(をとこ)は實際(じつさい)當惑(たうわく)したらしかつた。
「いや、其(それ)は私(わたし)が弱(よわ)りました。知(し)らずにおいでなされば何(なん)の事(こと)はないものを。」
「あら、貴方(あなた)、何(なん)の事(こと)はない……どころなもんですか。澤山(たくさん)ですわ。私(わたし)は最(も)う……」
「否(いゝえ)、雖然(けれども)、不意(ふい)だつたら、お遁(に)げなすつても濟(す)んだんでせう。お怪我(けが)ほどもなかつたんでせうのに。」
「隨分(ずゐぶん)でござんすのね。」
 と皓齒(しらは)が見(み)えて、口許(くちもと)の婀娜(あだ)たる微笑(ほゝゑみ)。……行(ゆ)かないと心(こゝろ)が極(き)まると、さらりと屈託(くつたく)の拔(ぬ)けた状(さま)で、
「前(まへ)を通(とほ)り拔(ぬ)けるばかりで、身體(からだ)が窘(すく)みます。歩行(ある)けなく成(な)つた所(ところ)を、掴(つかま)つたら何(ど)うしませう……私(わたし)死(し)んで了(しま)ひますよ……婦(をんな)は弱(よわ)いものですねえ。」
 と持(も)つた手巾(ハンケチ)の裏透(うらす)くばかり、唇(くちびる)を輕(かる)く壓(おさ)へて伏目(ふしめ)に成(な)つたが、
「石(いし)を其處(そこ)へ打(う)たれましたら、どんなでせう。電(いなづま)でも投附(なげつ)けられるやうでせう。……最(も)う私(わたし)、此處(こゝ)へ兵隊(へいたい)さんの行列(ぎやうれつ)が來(き)て、其(そ)の背後(うしろ)から參(まゐ)るのだつて可厭(いや)な事(こと)でございます――歸(かへ)りますわ。」
 と更(あらた)めて判然(はつきり)言(い)つた。
「しかし、折角(せつかく)、御遠方(ごゑんぱう)からぢやありませんか。」
「築地(つきぢ)の方(はう)から、……貴方(あなた)は?」
「……芝(しば)の方(はう)へ、」
 と云(い)つたが、何故(なぜ)か、うろ/\と四邊(あたり)を見(み)た。
「同(おんな)じ電車(でんしや)でござんすのね。」
「然(さ)やう……」
 と大(おほ)きにためらふ體(てい)で、
「ですが、行(い)らつしやらないでも可(い)いんですか。お約束(やくそく)でもあつたんだと――何(ど)うにか出來(でき)さうなものですがね、――又(また)不思議(ふしぎ)に人足(ひとあし)が途絶(とだ)えましたな。こんな事(こと)つてない筈(はず)です。」
 雲(くも)は所々(ところ/″\)墨(すみ)が染(にじ)んだ、日(ひ)の照(てり)は又(また)赫(かつ)と強(つよ)い。が、何(なん)となく濕(しめり)を帶(お)びて重(おも)かつた。
「構(かま)ひません、毎日(まいにち)のやうに參(まゐ)るんですから……まあ、賑(にぎや)かな所(ところ)ですのに……魔日(まび)つて言(い)ふんでせう、こんな事(こと)があるものです。おや、尚(な)ほ氣味(きみ)が惡(わる)い、……さあ、參(まゐ)りませう。」
 とフト思出(おもひだ)したやうに花籠(はなかご)を、ト伏目(ふしめ)で見(み)た、頬(ほゝ)に菖蒲(あやめ)が影(かげ)さすばかり。
「一寸(ちよつと)、お待(ま)ち下(くだ)さいましよ。……折角(せつかく)持(も)つて參(まゐ)つたんですから、氣(き)ばかり、記念(しるし)に。……」
 で、男(をとこ)は手(て)を出(だ)さうとして、引込(ひつこ)めた。――婦(をんな)が口(くち)で、其(そ)の風呂敷(ふろしき)の桔梗色(ききやういろ)なのを解(と)いたから。百合(ゆり)は、薔薇(ばら)は、撫子(なでしこ)は露(つゆ)も輝(かゞや)くばかりに見(み)えたが、それよりも其(そ)の唇(くちびる)は、此(こ)の時(とき)、鐵漿(かね)を含(ふく)んだか、と影(かげ)さして、言(い)はれぬ媚(なまめ)かしいものであつた。
 花片(はなびら)を憐(いたは)るよ、蝶(てふ)の翼(つばさ)で撫(な)づるかと、はら/\と絹(きぬ)の手巾(ハンケチ)、輕(かろ)く拂(はら)つて、其(そ)の一輪(りん)の薔薇(ばら)を抽(ぬ)くと、重(おも)いやうに手(て)が撓(しな)つて、背(せな)を捻(ね)ぢさまに、衝(つ)と上(うへ)へ、――坂(さか)の上(うへ)へ、通(とほ)りの端(はし)へ、――花(はな)の眞紅(まつか)なのが、燃(も)ゆる不知火(しらぬひ)、めらりと飛(と)んで、其(そ)の荒海(あらうみ)に漾(たゞよ)ふ風情(ふぜい)に、日向(ひなた)の大地(だいち)に落(お)ちたのである。
 菖蒲(あやめ)は取(と)つて、足許(あしもと)に投(な)げた、薄紫(うすむらさき)が足袋(たび)を染(そ)める。
「や、惜(をし)い、貴女(あなた)。」
「否(いゝえ)、志(こゝろざし)です……病人(びやうにん)が夢(ゆめ)に見(み)てくれますでせう。……もし、恐入(おそれい)りますが、」
 花(はな)の、然(そ)うして、二本(ふたもと)ばかり抽(ぬ)かれたあとを、男(をとこ)は籠(かご)のまゝ、撫子(なでしこ)も、百合(ゆり)も胸(むね)に滿(み)つるばかり預(あづ)けられた。
 其(そ)の間(あひだ)に、風呂敷(ふろしき)は、手早(てばや)く疊(たゝ)んで袂(たもと)へ入(い)れて、婦(をんな)は背後(うしろ)のものを遮(さへぎ)るやうに、洋傘(かうもり)をすつと翳(かざ)す。と此(こ)の影(かげ)が、又(また)籠(かご)の花(はな)に薄(うつす)り色(いろ)を添(そ)へつつ映(うつ)る。……日(ひ)を隔(へだ)てたカアテンの裡(うち)なる白晝(まひる)に、花園(はなぞの)の夢(ゆめ)見(み)る如(ごと)き、男(をとこ)の顏(かほ)を凝(ぢつ)と見(み)て、
「恐入(おそれい)りました。何(ど)うぞ此方(こつち)へ。貴方(あなた)、御一所(ごいつしよ)に、後生(ごしやう)ですから。……背後(うしろ)から追掛(おつか)けて來(く)るやうで成(な)らないんですもの。」

「では、御一所(ごいつしよ)に。」
「まあ、嬉(うれ)しい。」
 と莞爾(につこり)して、風(かぜ)に亂(みだ)れる花片(はなびら)も、露(つゆ)を散(ち)らさぬ身繕(みづくろひ)。帶(おび)を壓(おさ)へたパチン留(どめ)を輕(かる)く一(ひと)つトンと當(あ)てた。
「あつ。」
 と思(おも)はず……男(をとこ)は驚駭(おどろき)の目(め)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)つた。……と其(そ)の帶(おび)に挾(はさ)んで、胸先(むなさき)に乳(ちゝ)をおさへた美女(たをやめ)の蕊(しべ)かと見(み)える……下〆(したじめ)のほのめく中(なか)に、状袋(じやうぶくろ)の端(はし)が見(み)えた、手紙(てがみ)が一通(つう)。
「あゝ……」と其(そ)の途端(とたん)に、婦(をんな)も心附(こゝろづ)いたらしく、其(そ)の手紙(てがみ)に手(て)を掛(か)けて、
「……拾(ひろ)つたんですよ。此(こ)の手紙(てがみ)は、」
「え、」
 と、聲(こゑ)も出(で)ないまで、舌(した)も乾(かわ)いたか、息(いき)せはしく、男(をとこ)は慌(あわたゞ)しく、懷中(ふところ)へ手(て)を突込(つゝこ)んだが、顏(かほ)の色(いろ)は血(ち)が褪(あ)せて颯(さつ)と變(かは)つた。
「見(み)せて下(くだ)さい、一寸(ちよつと)、何(ど)うぞ、一寸(ちよつと)、何(ど)うぞ。」
「さあ/\。……」
 と如何(いか)にも氣易(きやす)く、わけの無(な)ささうに、手巾(ハンケチ)を口(くち)に取(と)りながら、指環(ゆびわ)の玉(たま)の光澤(つや)を添(そ)へて美(うつく)しく手紙(てがみ)を抽(ぬ)いて渡(わた)す。
 此(こ)の封(ふう)は切(き)れて居(ゐ)た。……
「あゝ、此(これ)だ。」
 歩行(ある)いて居(ゐ)た足(あし)も留(とま)るまで、落膽(がつかり)氣落(きおち)がしたらしい。
「難有(ありがた)かつた、難有(ありがた)かつた……よく、貴女(あなた)、」
 と、もの珍(めづ)らしげに瞻(みまも)つたのは、故(わざ)と拾(ひろ)ふために、世(よ)に、此處(こゝ)に顯(あらは)れた美(うつく)しい人(ひと)とも思(おも)つたらう。……
「よく、拾(ひろ)つて下(くだ)すつた。」
「まあ、嬉(うれ)しい事(こと)、」
 と仇氣(あどけ)ないまで、婦(をんな)もともに嬉々(いそ/\)して、
「思(おも)ひ掛(が)けなくおために成(な)つて……一寸(ちよつと)、嬉(うれ)しい事(こと)よ私(わたし)は。……矢張(やつぱり)何事(なにごと)も心(こゝろ)は通(つう)じますのですわね。」と撫子(なでしこ)を又(また)路傍(みちばた)へ。忘(わす)れて咲(さ)いたか、と小草(をぐさ)にこぼれる。……
「何處(どこ)でお拾(ひろ)ひ下(くだ)すつた。」
「直(ぢ)き其處(そこ)で。最(も)う其處(そこ)へ參(まゐ)りますわ、坂(さか)の下(した)です。……今(いま)しがた貴方(あなた)にお目(め)に掛(かゝ)ります、一寸(ちよつと)前(さき)。何(なん)ですか、フツと打棄(うつちや)つて置(お)けない氣(き)がしましたから。……それも殿方(とのがた)のだと、何(なん)ですけれど、優(やさ)しい御婦人(ごふじん)のお書(て)でしたから拾(ひろ)ひました。尤(もつと)も、あの、にせて殿方(とのがた)のてのやうに書(か)いてはありますけれど、其(それ)は一目(ひとめ)見(み)れば分(わか)りますわ。」
 と莞爾(につこり)。で、斜(なゝ)めに見(み)る……
 男(をとこ)は悚然(ぞつ)としたやうだつた。
「中(なか)を見(み)やしませんか。」と聲(こゑ)が沈(しづ)む。
「否(いゝえ)。」
「大切(たいせつ)な事(こと)なんですから。もしか御覽(ごらん)なすつたら、構(かま)ひません、――言(い)つて下(くだ)さい、見(み)たと、貴女(あなた)、見(み)たと……構(かま)はないから言(い)つて下(くだ)さい。」
 と煩(むづ)かしい顏(かほ)をする。
「見(み)ますもんですか、」と故(わざ)とらしいが、つんとした、目許(めもと)の他(ほか)は、尚(な)ほ美(うつく)しい。
「いや、此(これ)は惡(わる)かつた。まあ、更(あらた)めて、更(あらた)めて御禮(おれい)を申(まを)します。……實際(じつさい)、此(こ)の手紙(てがみ)を遺失(おと)したと氣(き)が附(つ)かなかつた中(うち)に、貴女(あなた)の手(て)から戻(もど)つたのは、何(なん)とも言(い)ひやうのない幸福(しあはせ)なんです。……たとひ、恁(かう)して、貴女(あなた)が拾(ひろ)つて下(くだ)さるのが、丁(ちやん)と極(きま)つた運命(うんめい)で、當人(たうにん)其(それ)を知(し)つて居(ゐ)て、芝居(しばゐ)をする氣(き)で、唯(たゞ)遺失(おと)したと思(おも)ふだけの事(こと)をして見(み)ろ、と言(い)はれても、可厭(いや)です。金輪際(こんりんざい)出來(でき)ません。
 洒落(しやれ)に遺失(おと)したと思(おも)ふのさへ、其(そ)のくらゐなんですもの。實際(じつさい)遺失(おと)して、遺失(おと)した、と知(し)つて御覽(ごらん)なさい。
 搜(さが)さう、尋(たづ)ねようと思(おも)ふ前(まへ)に、土塀(どべい)に踞(しやが)んで砂利所(じやりどころ)か、石垣(いしがき)でも引拔(ひきぬ)いて、四邊(あたり)八方(はつぱう)投附(なげつ)けるかも分(わか)らなかつたんです。……
 思(おも)つても悚然(ぞつ)とする。――
 動悸(どうき)が分(わか)りませう、手(て)の震(ふる)へるのを御覽(ごらん)なさい、杖(ステツキ)にも恥(はづ)かしい。
 其(それ)を――時計(とけい)の針(はり)が一(ひと)つ打(う)つて、あとへ續(つゞ)くほどの心配(しんぱい)もさせないで、あつと思(おも)ふと、直(す)ぐに拾(ひろ)つて置(お)いて下(くだ)すつたのが分(わか)つた。
 御恩(ごおん)を忘(わす)れない、實際(じつさい)忘(わす)れません。」
「まあ、そんなに御大切(ごたいせつ)なものなんですか……」
「ですから、其(それ)ですから、失禮(しつれい)だけれどもお聞(き)き申(まを)すんです。」
「大丈夫(だいぢやうぶ)、中(なか)を見(み)はしませんよ。」
 と帶(おび)も薄(うす)くて樂(らく)なもの。……

「決(けつ)して、」
 と又(また)聲(こゑ)に力(ちから)を入(い)れた。男(をとこ)は立淀(たちよど)むまで歩行(ある)くのも遲(おそ)く成(な)つて、
「貴女(あなた)をお疑(うたが)ひ申(まを)すんぢやない。もと/\封(ふう)の切(き)れて居(ゐ)る手紙(てがみ)ですから、たとひ御覽(ごらん)に成(な)つたにしろ、其(それ)を兎(と)や角(か)う言(い)ふのぢやありません。が、又(また)それだと其(そ)のつもりで、どんなにしても、貴女(あなた)に、更(あらた)めてお願(ねが)ひ申(まを)さなければ成(な)らない事(こと)もあるんですから。……」
「他言(たごん)しては不可(いけな)い、極(ごく)の祕密(ないしよ)に、と言(い)ふやうな事(こと)なんですわね。」
 と澄(すま)して言(い)ふ。
 益々(ます/\)忙(あせ)つて、
「ですから眞個(ほんとう)の事(こと)を云(い)つて下(くだ)さい、見(み)たなら見(み)たと、……頼(たの)むんですから。」
「否(いゝえ)、見(み)はいたしませんもの、ですがね。旗野(はたの)さん、」
 と婦(をんな)は不意(ふい)に姓(せい)を呼(よ)んだ。
「…………」
 又(また)ひやりとした、旗野(はたの)は、名(な)を禮吉(れいきち)と云(い)ふ、美術學校(びじゆつがくかう)出身(しゆつしん)の蒔繪師(まきゑし)である。
 呆氣(あつけ)に取(と)られて瞻(みまも)るのを、優(やさ)しい洋傘(かうもり)の影(かげ)から、打傾(うちかたむ)いて流眄(ながしめ)で、
「お手紙(てがみ)の上書(うはがき)で覺(おぼ)えましたの……下郎(げらう)は口(くち)のさがないもんですわね。」と又(また)微笑(びせう)す。
 禮吉(れいきち)は得(え)も言(い)はれず、苦(くる)しげな笑(ゑみ)を浮(うか)べて、
「お人(ひと)が惡(わる)いな。」
 とあきらめたやうに言(い)つたが、又(また)其處(そこ)どころでは無(な)ささうな、聲(こゑ)も※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)(あせ)つて、
「眞個(ほんとう)に言(い)つて下(くだ)さい。唯今(たゞいま)も言(い)ひましたやうに、遺失(おと)すのを、何(なん)だつてそんなに心配(しんぱい)します。たゞ人(ひと)に知(し)れるのが可恐(おそろし)いんでせう。……何(なに)、私(わたし)は構(かま)はない。私(わたし)の身體(からだ)は構(かま)はないが、もしか、世間(せけん)に知(し)れるやうな事(こと)があると、先方(さき)の人(ひと)が大變(たいへん)なんです。
 恁(か)うやつて、奴凧(やつこだこ)が足駄(あしだ)を穿(は)いて澁谷(しぶや)へ落(お)ちたやうに、ふらついて居(ゐ)るのも、詰(つま)り此(この)手紙(てがみ)のためで、……其(それ)も中(なか)の文句(もんく)の用(よう)ではありません――ふみがらの始末(しまつ)なんです。一體(いつたい)は、すぐにも燒(や)いて了(しま)ふ筈(はず)なんですが、生憎(あいにく)、何處(どこ)の停車場(ステイシヨン)にも暖爐(ストオブ)の無(な)い時分(じぶん)、茶屋小屋(ちややこや)の火鉢(ひばち)で香(にほ)はすと、裂(さ)いた一端(ひとはし)も燒切(やけき)らないうちに、嗅(か)ぎつけられて、怪(あや)しまれて、それが因(もと)で事(こと)の破滅(はめつ)に成(な)りさうで、危險(きけん)で不可(いけな)い。自分(じぶん)の家(いへ)で、と云(い)へば猶更(なほさら)です……書(か)いてある事柄(ことがら)が事柄(ことがら)だけに、すぐにも燃(も)えさしが火(ひ)に成(な)つて、天井裏(てんじやううら)に拔(ぬ)けさうで可恐(おそろし)い。隱(かく)して置(お)くにも、何(なん)の中(なか)も、どんな箱(はこ)も安心(あんしん)ならず……鎖(じやう)をさせば、此處(こゝ)に大事(だいじ)が藏(しま)つてあると吹聽(ふいちやう)するも同一(おなじ)に成(な)ります。
 昨日(きのふ)の晩方(ばんがた)、受取(うけと)つてから以來(いらい)、此(これ)を跡方(あとかた)もなしに形(かたち)を消(け)すのに屈託(くつたく)して、昨夜(ゆうべ)は一目(ひとめ)も眠(ねむ)りません。……此處(こゝ)へ來(き)ます途中(とちう)でも、出(だ)して手(て)に持(も)てば人(ひと)が見(み)る……袂(たもと)の中(なか)で兩手(りやうて)で裂(さ)けば、裂(さ)けたのが一層(いつそ)、一片(ひとひら)でも世間(せけん)へ散(ち)つて出(で)さうでせう。水(みづ)へ流(なが)せば何處(どこ)を潛(くゞ)つて――池(いけ)があります――此(こ)の人(ひと)の住居(すまひ)へ流(なが)れて出(で)て、中(なか)でも祕(かく)さなければ成(な)らないものの目(め)に留(と)まりさうで身體(からだ)が震(ふる)へる。
 身(み)に附(つ)けて居(を)れば遺失(おと)しさうだ、――と云(い)つて、袖(そで)でも、袂(たもと)でも、恁(か)う、うか/\だと掏(す)られも仕兼(しか)ねない。……
 ……其(そ)の憂慮(きづかひ)さに、――懷中(ふところ)で、確乎(しつかり)手(て)を掛(か)けて居(ゐ)ただけに、御覽(ごらん)なさい。何(なに)かに氣(き)が紛(まぎ)れて、ふと心(こゝろ)をとられた一寸(ちよいと)一分(いつぷん)の間(ま)に、うつかり遺失(おと)したぢやありませんか。
 此(これ)で思(おも)ふと……石(いし)を投(な)げた狂人(きちがひ)と云(い)ふのも、女學生(ぢよがくせい)を連(つ)れた黒(くろ)い媼(ばあ)さんの行列(ぎやうれつ)も、獸(けもの)のやうに、鳥(とり)のやうに、散(ち)つた、駈(か)けたと云(い)ふ中(うち)に、其(それ)が皆(みな)、此(こ)の手紙(てがみ)を處置(しよち)するための魔性(ましやう)の變化(へんげ)かも知(し)れないと思(おも)ふんです。
 いや、然(さ)う云(い)ふ間(ま)もない、彼處(あすこ)に立(た)つてる、貴女(あなた)とお話(はなし)をするうちは、實際(じつさい)、胴忘(どうわす)れに手紙(てがみ)のことを忘(わす)れて居(ゐ)ました。……
 貴女(あなた)……氣障(きざはり)でせうが、見惚(みと)れたらしい。さあ、恁(か)うまで恥(はぢ)も外聞(ぐわいぶん)も忘(わす)れて、手(て)を下(さ)げます……次第(しだい)によつては又(また)打明(うちあ)けて、其(そ)の上(うへ)に、あらためてお頼(たの)み爲(し)やうもありませうから、なかの文句(もんく)を見(み)たなら見(み)たと云(い)つた聞(き)かして下(くだ)さい。願(ねが)ひます、嘆願(たんぐわん)するから……」
「拜見(はいけん)しましたよ。」
 とすつきり言(い)つた。
「えゝ!」
 瞳(ひとみ)も据(すわ)らず、血(ち)の褪(あ)せた男(をとこ)の顏(かほ)を、水晶(すゐしやう)の溶(と)けたる如(ごと)き瞳(ひとみ)に艶(つや)を籠(こ)めて凝(ぢつ)と視(み)ると、忘(わす)れた状(さま)に下(した)まぶち、然(さ)り氣(げ)なく密(そ)と當(あ)てた、手巾(ハンケチ)に露(つゆ)が掛(かゝ)かつた[#「掛(かゝ)かつた」はママ]。
「あゝ、先方(さき)の方(かた)がお羨(うらやま)しい。そんなに御苦勞(ごくらう)なさるんですか。」
「其(そ)の人(ひと)が、飛(と)んだことに成(な)りますから。」
「だつて、何(なん)の企謀(たくらみ)を遊(あそ)ばすんではなし、主(ぬし)のある方(かた)だと云(い)つて、たゞ夜半(よなか)忍(しの)んでお逢(あ)ひなさいます、其(そ)のあの、垣根(かきね)の隙間(すきま)を密(そつ)とお知(し)らせだけの玉章(ふみ)なんですわ。――あゝ、此處(こゝ)でしたよ。」
 男(をとこ)が呼吸(いき)を詰(つ)めた途端(とたん)に、立留(たちど)まつた坂(さか)の下(お)り口(くち)。……病院下(びやうゐんした)の三(み)ツ角(かど)は、遺失(おと)すくらゐか、路傍(みちばた)に手紙(てがみ)をのせて來(き)ても、戀(こひ)の宛名(あてな)に屆(とゞ)きさうな、塚(つか)、辻堂(つじだう)、賽(さい)の神(かみ)、道陸神(だうろくじん)のあとらしい所(ところ)である。
「此(こ)の溝石(みぞいし)の上(うへ)に、眞個(ほんとう)に、其(そ)の美(うつく)しい方(かた)が手(て)でお置(お)きなすつたやうに、容子(ようす)よく、ちやんと乘(の)つかつて居(ゐ)ましたよ。」
 と言(い)ふ。其處(そこ)へ花籠(はなかご)から、一本(ひともと)白百合(しらゆり)がはらりと仰向(あをむ)けに溢(こぼ)れて落(お)ちた……ちよろ/\流(なが)れに影(かげ)も宿(やど)る……百合(ゆり)はまた鹿(か)の子(こ)も、姫(ひめ)も、ばら/\と續(つゞ)いて溢(こぼ)れた。
「あゝ、籠(かご)から……」
「構(かま)ふもんですか。」
 と、撫子(なでしこ)を一束(ひとたば)拔(ぬ)いたが、籠(かご)を取(と)つて、はたと溝(どぶ)の中(なか)に棄(す)てると、輕(かろ)く翡翠(かはせみ)の影(かげ)が飜(ひるがへ)つて落(お)ちた。
「旗野(はたの)さん、」
「…………」
「貴方(あなた)の祕密(ないしよ)が、私(わたし)には知(し)れましても、お差支(さしつか)へのない事(こと)をお知(し)らせ申(まを)しませうか、――餘(あんま)り御心配(ごしんぱい)なすつておいとしいんですもの。眞個(ほんと)に、殿方(とのがた)はお優(やさ)しい。」
 と聲(こゑ)を曇(くも)らす、空(そら)には樹(き)の影(かげ)が涼(すゞ)しかつた。
「何(ど)うして、何(ど)うしてです。」
「あのね、見舞(みま)ひに行(ゆ)きますのは、私(わたし)の主人(しゆじん)……まあ、旦那(だんな)なんですよ。」
「如何(いか)にも。」
「斯(か)う見舞(みまひ)の盛花(もりばな)を、貴方(あなた)何(なん)だと思(おも)ひます――故(わざ)とね――青山(あをやま)の墓地(ぼち)へ行(い)つて、方々(はう/″\)の墓(はか)に手向(たむ)けてあります、其中(そのなか)から、成(な)りたけ枯(か)れて居(ゐ)ないのを選(よ)つて、拵(こしら)へて來(き)たんですもの、……
 貴方(あなた)、此(この)私(わたし)の心(こゝろ)が解(わか)つて……解(わか)つて?
 解(わか)つて?……
 そんなら、御安心(ごあんしん)なさいまし。」
 と莞爾(につこり)した。……
 禮吉(れいきち)は悚然(ぞつ)としながら、其(それ)でも青山(あをやま)の墓地(ぼち)の中(なか)を、青葉(あをば)がくれに、花(はな)を摘(つ)む、手(て)の白(しろ)さを思(おも)つた。……
 時(とき)に可恐(おそろし)かつたのは、坂(さか)の上(うへ)へ、あれなる狂人(きちがひ)の顯(あらは)れた事(こと)である。……
 婦(をんな)が言(い)つた、土蜘蛛(つちぐも)の如(ごと)く、横這(よこば)ひに、踞(しやが)んだなりで、坂(さか)をずる/\と摺(ず)つては、摺(ず)つては來(き)て、所々(ところ/″\)、一本(ひともと)、一輪(いちりん)、途中(とちう)へ棄(す)てた、いろ/\の花(はな)を取(と)つては嗅(か)ぎ、嘗(な)めるやうに嗅(か)いでは、摺(ず)つては來(き)、摺(ず)つては來(き)た。
 二人(ふたり)は急(いそ)いで電車(でんしや)に乘(の)つた。
 が、此(この)電車(でんしや)が、あの……車庫(しやこ)の處(ところ)で、一寸(ちよつと)手間(てま)が取(と)れて、やがて發車(はつしや)して間(ま)もなく、二(に)の橋(はし)へ、横搖(よこゆ)れに飛(と)んで進行中(しんかうちう)。疾風(しつぷう)の如(ごと)く駈(か)けて來(き)た件(くだん)の狂人(きちがひ)が、脚(あし)から宙(ちう)で飛乘(とびの)らうとした手(て)が外(そ)れると、づんと鳴(な)つて、屋根(やね)より高(たか)く、火山(くわざん)の岩(いは)の如(ごと)く刎上(はねあ)げられて、五體(ごたい)を碎(くだ)いた。
 飛乘(とびの)る瞬間(しゆんかん)に見(み)た顏(かほ)は、喘(あへ)ぐ口(くち)が海鼠(なまこ)を銜(ふく)んだやうであつた。
 其(それ)も、此(こ)の婦(をんな)のために氣(き)が狂(くる)つたものだと聞(き)く。……薔薇(ばら)は、百合(ゆり)は、ちら/\と、一(いち)の橋(はし)を――二(に)の橋(はし)を――三(さん)の橋(はし)を。
了

底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
   1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。