若(わか)いのと、少(すこ)し年(とし)の上(うへ)なると……
 此(こ)の二人(ふたり)の婦人(をんな)は、民也(たみや)のためには宿世(すぐせ)からの縁(えん)と見(み)える。ふとした時(とき)、思(おも)ひも懸(か)けない處(ところ)へ、夢(ゆめ)のやうに姿(すがた)を露(あら)はす――
 こゝで、夢(ゆめ)のやうに、と云(い)ふものの、實際(じつさい)は其(それ)が夢(ゆめ)だつた事(こと)もないではない。けれども、夢(ゆめ)の方(はう)は、又(また)……と思(おも)ふだけで、取(と)り留(と)めもなく、すぐに陽炎(かげろふ)の亂(みだ)るゝ如(ごと)く、記憶(きおく)の裡(うち)から亂(みだ)れて行(ゆ)く。
 しかし目前(まのあたり)、歴然(あり/\)と其(そ)の二人(ふたり)を見(み)たのは、何時(いつ)に成(な)つても忘(わす)れぬ。峰(みね)を視(なが)めて、山(やま)の端(は)に彳(たゝず)んだ時(とき)もあり、岸(きし)づたひに川船(かはぶね)に乘(の)つて船頭(せんどう)もなしに流(なが)れて行(ゆ)くのを見(み)たり、揃(そろ)つて、すつと拔(ぬ)けて、二人(ふたり)が床(とこ)の間(ま)の柱(はしら)から出(で)て來(き)た事(こと)もある。
 民也(たみや)は九(こゝの)ツ……十歳(とを)ばかりの時(とき)に、はじめて知(し)つて、三十を越(こ)すまでに、四度(よたび)か五度(いつたび)は確(たしか)に逢(あ)つた。
 これだと、隨分(ずゐぶん)中絶(なかだ)えして、久(ひさ)しいやうではあるけれども、自分(じぶん)には、然(さ)までたまさかのやうには思(おも)へぬ。人(ひと)は我(わ)が身體(からだ)の一部分(いちぶぶん)を、何年(なんねん)にも見(み)ないで濟(す)ます場合(ばあひ)が多(おほ)いから……姿見(すがたみ)に向(むか)はなければ、顏(かほ)にも逢(あ)はないと同一(おなじ)かも知(し)れぬ。
 で、見(み)なくつても、逢(あ)はないでも、忘(わす)れもせねば思出(おもひだ)すまでもなく、何時(いつ)も身(み)に着(つ)いて居(ゐ)ると同樣(どうやう)に、二個(ふたつ)、二人(ふたり)の姿(すがた)も亦(また)、十年(ねん)見(み)なからうが、逢(あ)はなからうが、そんなに間(あひだ)を隔(へだ)てたとは考(かんが)へない。
 が、つい近(ちか)くは、近(ちか)く、一昔前(ひとむかしまへ)は矢張(やつぱ)り前(まへ)、道理(だうり)に於(おい)て年(とし)を隔(へだ)てない筈(はず)はないから、十(とを)から三十までとしても、其(そ)の間(あひだ)は言(い)はずとも二十年(ねん)經(た)つのに、最初(さいしよ)逢(あ)つた時(とき)から幾歳(いくとせ)を經(へ)ても、婦人(をんな)二人(ふたり)は何時(いつ)も違(ちが)はぬ、顏容(かほかたち)に年(とし)を取(と)らず、些(ちつ)とも變(かは)らず、同一(おなじ)である。
 水(みづ)になり、空(そら)になり、面影(おもかげ)は宿(やど)つても、虹(にじ)のやうに、すつと映(うつ)つて、忽(たちま)ち消(き)えて行(ゆ)く姿(すがた)であるから、確(しか)と取留(とりと)めた事(こと)はないが――何時(いつ)でも二人連(ふたりづれ)の――其(そ)の一人(ひとり)は、年紀(とし)の頃(ころ)、どんな場合(ばあひ)にも二十四五の上(うへ)へは出(で)ない……一人(ひとり)は十八九で、此(こ)の少(わか)い方(はう)は、ふつくりして、引緊(ひきしま)つた肉(にく)づきの可(い)い、中背(ちうぜい)で、……年上(としうへ)の方(はう)は、すらりとして、細(ほそ)いほど瘠(や)せて居(ゐ)る。
 其(そ)の背(せい)の高(たか)いのは、極(きは)めて、品(ひん)の可(よ)い艷(つや)やかな圓髷(まるまげ)で顯(あらは)れる。少(わか)いのは時々(より/\)に髮(かみ)が違(ちが)ふ、銀杏返(いてふがへ)しの時(とき)もあつた、高島田(たかしまだ)の時(とき)もあつた、三輪(みつわ)と云(い)ふのに結(ゆ)つても居(ゐ)た。
 其(そ)のかはり、衣服(きもの)は年上(としうへ)の方(はう)が、紋着(もんつき)だつたり、お召(めし)だつたり、時(とき)にはしどけない伊達卷(だてまき)の寢着姿(ねまきすがた)と變(かは)るのに、若(わか)いのは、屹(きつ)と縞(しま)ものに定(さだま)つて、帶(おび)をきちんと〆(し)めて居(ゐ)る。
 二人(ふたり)とも色(いろ)が白(しろ)い。
 が、少(わか)い方(はう)は、ほんのりして、もう一人(ひとり)のは沈(しづ)んで見(み)える。
 其(そ)の人柄(ひとがら)、風采(とりなり)、※妹(きやうだい)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-5]ともつかず、主從(しうじう)でもなし、親(した)しい中(なか)の友達(ともだち)とも見(み)えず、從※妹(いとこ)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-5]でもないらしい。
 と思(おも)ふばかりで、何故(なぜ)と云(い)ふ次第(しだい)は民也(たみや)にも説明(せつめい)は出來(でき)ぬと云(い)ふ。――何(な)にしろ、遁(のが)れられない間(あひだ)と見(み)えた。孰方(どつち)か乳母(うば)の兒(こ)で、乳※妹(ちきやうだい)[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、648-8]。其(それ)とも嫂(あによめ)と弟嫁(おとよめ)か、敵同士(かたきどうし)か、いづれ二重(ふたへ)の幻影(げんえい)である。
 時(とき)に、民也(たみや)が、はじめて其(そ)の姿(すがた)を見(み)たのは、揃(そろ)つて二階(にかい)からすら/\と降(お)りる所(ところ)。
 で、彼(かれ)が九(こゝの)ツか十(とを)の年(とし)、其(そ)の日(ひ)は、小學校(せうがくかう)の友達(ともだち)と二人(ふたり)で見(み)た。
 霰(あられ)の降(ふ)つた夜更(よふけ)の事(こと)――

 山國(やまぐに)の山(やま)を、町(まち)へ掛(か)けて、戸外(おもて)の夜(よる)の色(いろ)は、部室(へや)の裡(うち)からよく知(し)れる。雲(くも)は暗(くら)からう……水(みづ)はもの凄(すご)く白(しろ)からう……空(そら)の所々(ところ/″\)に颯(さつ)と藥研(やげん)のやうなひゞが入(い)つて、霰(あられ)は其(そ)の中(なか)から、銀河(ぎんが)の珠(たま)を碎(くだ)くが如(ごと)く迸(ほとばし)る。
 ハタと止(や)めば、其(そ)の空(そら)の破(わ)れた處(ところ)へ、むら/\と又(また)一重(ひとへ)冷(つめた)い雲(くも)が累(かさな)りかゝつて、薄墨色(うすずみいろ)に縫合(ぬひあ)はせる、と風(かぜ)さへ、そよとのもの音(おと)も、蜜蝋(みつらふ)を以(もつ)て固(かた)く封(ふう)じた如(ごと)く、乾坤(けんこん)寂(じやく)と成(な)る。……
 建着(たてつけ)の惡(わる)い戸(と)、障子(しやうじ)、雨戸(あまど)も、カタリとも響(ひゞ)かず。鼬(いたち)が覘(のぞ)くやうな、鼠(ねずみ)が匍匐(はらば)つたやうな、切(き)つて填(は)めた菱(ひし)の實(み)が、ト、べつかつこをして、ぺろりと黒(くろ)い舌(した)を吐(は)くやうな、いや、念(ねん)の入(い)つた、雜多(ざつた)な隙間(すきま)、破(や)れ穴(あな)が、寒(さむ)さにきり/\と齒(は)を噛(か)んで、呼吸(いき)を詰(つ)めて、うむと堪(こら)へて凍着(こゞえつ)くが、古家(ふるいへ)の煤(すゝ)にむせると、時々(とき/″\)遣切(やりき)れなく成(な)つて、潛(ひそ)めた嚔(くしやめ)、ハツと噴出(ふきだ)しさうで不氣味(ぶきみ)な眞夜中(まよなか)。
 板戸(いたど)一(ひと)つが直(す)ぐ町(まち)の、店(みせ)の八疊(でふ)、古疊(ふるだたみ)の眞中(まんなか)に机(つくゑ)を置(お)いて對向(さしむか)ひに、洋燈(ランプ)に額(ひたひ)を突合(つきあ)はせた、友達(ともだち)と二人(ふたり)で、其(そ)の國(くに)の地誌略(ちしりやく)と云(い)ふ、學校(がくかう)の教科書(けうくわしよ)を讀(よ)んで居(ゐ)た。――其頃(そのころ)、風(ふう)をなして行(おこな)はれた試驗(しけん)間際(まぎは)に徹夜(てつや)の勉強(べんきやう)、終夜(しうや)と稱(とな)へて、氣(き)の合(あ)つた同志(どうし)が夜(よ)あかしに演習(おさらひ)をする、なまけものの節季仕事(せつきしごと)と云(い)ふのである。
 一枚(まい)……二枚(まい)、と兩方(りやうはう)で、ペエジを遣(やツ)つ、取(とツ)つして、眠氣(ねむけ)ざましに聲(こゑ)を出(だ)して讀(よ)んで居(ゐ)たが、恁(か)う夜(よ)が更(ふ)けて、可恐(おそろ)しく陰氣(いんき)に閉(とざ)されると、低(ひく)い聲(こゑ)さへ、びり/\と氷(こほり)を削(けづ)るやうに唇(くちびる)へきしんで響(ひゞ)いた。
 常(つね)さんと云(い)ふお友達(ともだち)が、讀(よ)み掛(か)けたのを、フツと留(と)めて、
「民(たみ)さん。」
 と呼(よ)ぶ、……本(ほん)を讀(よ)んでたとは、からりと調子(てうし)が變(かは)つて、引入(ひきい)れられさうに滅入(めい)つて聞(きこ)えた。
「……何(なあに)、」
 ト、一(ひと)つ一(ひと)つ、自分(じぶん)の睫(まつげ)が、紙(かみ)の上(うへ)へばら/\と溢(こぼ)れた、本(ほん)の、片假名(かたかな)まじりに落葉(おちば)する、山(やま)だの、谷(たに)だのを其(その)まゝの字(じ)を、熟(じつ)と相手(あひて)に讀(よ)ませて、傍目(わきめ)も觸(ふ)らず視(み)て居(ゐ)たのが。
 呼(よ)ばれて目(め)を上(あ)げると、笠(かさ)は破(やぶ)れて、紙(かみ)を被(かぶ)せた、黄色(きいろ)に燻(くすぶ)つたほやの上(うへ)へ、眉(まゆ)の優(やさ)しい額(ひたひ)を見(み)せた、頬(ほゝ)のあたりが、ぽつと白(しろ)く、朧夜(おぼろよ)に落(お)ちた目(め)かづらと云(い)ふ顏色(かほつき)。
「寂(さび)しいねえ。」
「あゝ……」
「何時(なんじ)だねえ。」
「先刻(さつき)二時(じ)うつたよ。眠(ねむ)く成(な)つたの?」
 對手(あひて)は忽(たちま)ち元氣(げんき)づいた聲(こゑ)を出(だ)して、
「何(なに)、眠(ねむ)いもんか……だけどもねえ、今時分(いまじぶん)になると寂(さび)しいねえ。」
「其處(そこ)に皆(みんな)寢(ね)て居(ゐ)るもの……」
 と云(い)つた――大(おほ)きな戸棚(とだな)、と云(い)つても先祖代々(せんぞだい/\)、刻(きざ)み着(つ)けて何時(いつ)が代(だい)にも動(うご)かした事(こと)のない、……其(そ)の横(よこ)の襖(ふすま)一重(ひとへ)の納戸(なんど)の内(うち)には、民也(たみや)の父(ちゝ)と祖母(そぼ)とが寢(ね)て居(ゐ)た。
 母(はゝ)は世(よ)を早(はや)うしたのである……
「常(つね)さんの許(とこ)よりか寂(さび)しくはない。」
「何(ど)うして?」
「だつて、君(きみ)の内(うち)はお邸(やしき)だから、廣(ひろ)い座敷(ざしき)を二(ふた)つも三(みツ)つも通(とほ)らないと、母(おつか)さんや何(なに)か寢(ね)て居(ゐ)る部屋(へや)へ行(ゆ)けないんだもの。此(こ)の間(あひだ)、君(きみ)の許(とこ)で、徹夜(てつや)をした時(とき)は、僕(ぼく)は、そりや、寂(さび)しかつた……」
「でもね、僕(ぼく)ン許(とこ)は二階(にかい)がないから……」
「二階(にかい)が寂(さび)しい?」
 と民也(たみや)は眞黒(まつくろ)な天井(てんじやう)を。……
 常(つね)さんの目(め)も、齊(ひと)しく仰(あふ)いで、冷(つめた)く光(ひか)つた。

「寂(さび)しいつて、別(べつ)に何(なん)でもないぢやないの。」
 と云(い)つたものの、兩方(りやうはう)で、机(つくゑ)をずつて、ごそ/\と火鉢(ひばち)に噛着(かじりつ)いて、ひつたりと寄合(よりあ)はす。
 炭(すみ)は黒(くろ)いが、今(いま)しがた繼(つ)いだばかりで、尉(じよう)にも成(な)らず、火氣(くわき)の立(た)ちぎは。其(そ)れよりも、徹夜(てつや)の温習(おさらひ)に、何(なに)よりか書入(かきい)れな夜半(やはん)の茶漬(ちやづけ)で忘(わす)れられぬ、大福(だいふく)めいた餡餅(あんも)を※(「火+共」、第3水準1-87-42)(あぶ)つたなごりの、餅網(もちあみ)が、侘(わび)しく破蓮(やればす)の形(かたち)で疊(たゝみ)に飛(と)んだ。……御馳走(ごちそう)は十二時(じ)と云(い)ふと早(は)や濟(す)んで、――一(ひと)つは二人(ふたり)とも其(それ)がために勇氣(ゆうき)がないので。……
 常(つね)さんは耳(みゝ)の白(しろ)い頬(ほゝ)を傾(かたむ)けて、民也(たみや)の顏(かほ)を覘(のぞ)くやうにしながら、
「でも、誰(だれ)も居(ゐ)ないんだもの……君(きみ)の許(とこ)の二階(にかい)は、廣(ひろ)いのに、がらんとして居(ゐ)る。……」
「病氣(びやうき)の時(とき)はね、お母(つか)さんが寢(ね)て居(ゐ)たんだよ。」
 コツ/\、炭(すみ)を火箸(ひばし)で突(つゝ)いて見(み)たつけ、はつと止(や)めて、目(め)を一(ひと)つ瞬(またゝ)いて、
「え、そして、亡(な)くなつた時(とき)、矢張(やつぱり)、二階(にかい)。」
「うゝむ……違(ちが)ふ。」
 とかぶりを掉(ふ)つて、
「其處(そこ)のね、奧(おく)……」
「小父(をぢ)さんだの、寢(ね)て居(ゐ)る許(とこ)かい。……ぢや可(い)いや。」と莞爾(につこり)した。
「弱蟲(よわむし)だなあ……」
「でも、小母(をば)さんは病氣(びやうき)の時(とき)寢(ね)て居(ゐ)たかつて、今(いま)は誰(だれ)も居(ゐ)ないんぢやないか。」
 と觀世捩(くわんぜより)が挫(ひしや)げた體(てい)に、元氣(げんき)なく話(はなし)は戻(もど)る……
「常(つね)さんの許(とこ)だつて、あの、廣(ひろ)い座敷(ざしき)が、風(かぜ)はすう/\通(とほ)つて、それで人(ひと)つ子(こ)は居(ゐ)ませんよ。」
「それでも階下(した)ばかりだもの。――二階(にかい)は天井(てんじやう)の上(うへ)だらう、空(そら)に近(ちか)いんだからね、高(たか)い所(ところ)には何(なに)が居(ゐ)るか知(し)れません。……」
「階下(した)だつて……君(きみ)の内(うち)でも、此(こ)の間(あひだ)、僕(ぼく)が、あの空間(あきま)を通(とほ)つた時(とき)、吃驚(びつくり)したものがあつたぢやないか。」
「どんなものさ、」
「床(とこ)の間(ま)に鎧(よろひ)が飾(かざ)つてあつて、便所(べんじよ)へ行(ゆ)く時(とき)に晃々(ぴか/\)光(ひか)つた……わツて、然(さ)う云(い)つたのを覺(おぼ)えて居(ゐ)ないかい。」
「臆病(おくびやう)だね、……鎧(よろひ)は君(きみ)、可恐(おそろし)いものが出(で)たつて、あれを着(き)て向(むか)つて行(ゆ)けるんだぜ、向(むか)つて、」
 と氣勢(きほ)つて肩(かた)を突構(つきかま)へ。
「こんな、寂(さび)しい時(とき)の、可恐(こは)いものにはね、鎧(よろひ)なんか着(き)たつて叶(かな)はないや……向(むか)つて行(ゆ)きや、消(きえ)つ了(ちま)ふんだもの……此(これ)から冬(ふゆ)の中頃(なかごろ)に成(な)ると、軒(のき)の下(した)へ近(ちか)く來(く)るつてさ、あの雪女郎(ゆきぢよらう)見(み)たいなもんだから、」
「然(さ)うかなあ、……雪女郎(ゆきぢよらう)つて眞個(ほんと)にあるんだつてね。」
「勿論(もちろん)だつさ。」
「雨(あめ)のびしよ/\降(ふ)る時(とき)には、油舐坊主(あぶらなめばうず)だの、とうふ買小僧(かひこぞう)だのつて……あるだらう。」
「ある……」
「可厭(いや)だなあ。こんな、霰(あられ)の降(ふ)る晩(ばん)には何(なん)にも別(べつ)にないだらうか。」
「町(まち)の中(なか)には何(なん)にもないとさ。それでも、人(ひと)の行(ゆ)かない山寺(やまでら)だの、峰(みね)の堂(だう)だのの、額(がく)の繪(ゑ)がね、霰(あられ)がぱら/\と降(ふ)る時(とき)、ぱちくり瞬(まばた)きをするんだつて……」
「嘘(うそ)を吐(つ)く……」
 と其(それ)でも常(つね)さんは瞬(またゝ)きした。からりと廂(ひさし)を鳴(な)らしたのは、樋竹(とひだけ)を辷(すべ)る、落(おち)たまりの霰(あられ)らしい。
「うそなもんか、其(それ)は眞暗(まつくら)な時(とき)……丁(ちやう)ど今夜(こんや)見(み)たやうな時(とき)なんだね。それから……雲(くも)の底(そこ)にお月樣(つきさま)が眞蒼(まつさを)に出(で)て居(ゐ)て、そして、降(ふ)る事(こと)があるだらう……さう云(い)ふ時(とき)は、八田潟(はつたがた)の鮒(ふな)が皆(みな)首(くび)を出(だ)して打(う)たれるつて云(い)ふんです。」
「痛(いた)からうなあ。」
「其處(そこ)が化(ば)けるんだから、……皆(みんな)、兜(かぶと)を着(き)て居(ゐ)るさうだよ。」
「ぢや、僕(ぼく)ン許(とこ)の蓮池(はすいけ)の緋鯉(ひごひ)なんか何(ど)うするだらうね?」
 其處(そこ)には小船(こぶね)も浮(うか)べられる。が、穴(あな)のやうな眞暗(まつくら)な場末(ばすゑ)の裏町(うらまち)を拔(ぬ)けて、大川(おほかは)に架(か)けた、近道(ちかみち)の、ぐら/\と搖(ゆ)れる一錢橋(いちもんばし)と云(い)ふのを渡(わた)つて、土塀(どべい)ばかりで家(うち)の疎(まばら)な、畠(はたけ)も池(いけ)も所々(ところ/″\)、侍町(さむらひまち)を幾曲(いくまが)り、で、突當(つきあた)りの松(まつ)の樹(き)の中(なか)の其(そ)の邸(やしき)に行(ゆ)く、……常(つね)さんの家(うち)を思(おも)ふにも、恰(あたか)も此(こ)の時(とき)、二更(にかう)の鐘(かね)の音(おと)、幽(かすか)。

 町(まち)なかの此處(こゝ)も同(おな)じ、一軒家(いつけんや)の思(おもひ)がある。
 民也(たみや)は心(こゝろ)も其(そ)の池(いけ)へ、目(め)も遙々(はる/″\)と成(な)つて恍惚(うつとり)しながら、
「蒼(あを)い鎧(よろひ)を着(き)るだらうと思(おも)ふ。」
「眞赤(まつか)な鰭(ひれ)へ。凄(すご)い月(つき)で、紫色(むらさきいろ)に透通(すきとほ)らうね。」
「其處(そこ)へ玉(たま)のやうな霰(あられ)が飛(と)ぶんだ……」
「そして、八田潟(はつたがた)の鮒(ふな)と戰(いくさ)をしたら、何方(どつち)が勝(か)つ?……」
「然(さ)うだね、」
 と眞顏(まがほ)に引込(ひきこ)まれて、
「緋鯉(ひごひ)は立派(りつぱ)だから大將(たいしやう)だらうが、鮒(ふな)は雜兵(ざふひやう)でも數(かず)が多(おほ)いよ……潟(かた)一杯(いつぱい)なんだもの。」
「蛙(かはづ)は何方(どつち)の味方(みかた)をする。」
「君(きみ)の池(いけ)の?」
「あゝ、」
「そりや同(おな)じ所(ところ)に住(す)んでるから、緋鯉(ひごひ)に屬(つ)くが當前(あたりまへ)だけれどもね、君(きみ)が、よくお飯粒(まんまつぶ)で、絲(いと)で釣上(つりあ)げちや投(な)げるだらう。ブツと咽喉(のど)を膨(ふく)らまして、ぐるりと目(め)を圓(まる)くして腹(はら)を立(た)つもの……鮒(ふな)の味方(みかた)に成(な)らうも知(し)れない。」
「あ、又(また)降(ふ)るよ……」
 凄(すさ)まじい霰(あられ)の音(おと)、八方(はつぱう)から亂打(みだれう)つや、大屋根(おほやね)の石(いし)もから/\と轉(ころ)げさうで、雲(くも)の渦(うづま)く影(かげ)が入(はひ)つて、洋燈(ランプ)の笠(かさ)が暗(くら)く成(な)つた。
「按摩(あんま)の笛(ふえ)が聞(きこ)えなくなつてから、三度目(さんどめ)だねえ。」
「矢(や)が飛(と)ぶ。」
「彈(たま)が走(はし)るんだね。」
「緋鯉(ひごひ)と鮒(ふな)とが戰(たゝか)ふんだよ。」
「紫(むらさき)の池(いけ)と、黒(くろ)い潟(かた)で……」
「蔀(しとみ)を一寸(ちよつと)開(あ)けて見(み)ようか、」
 と魅(み)せられた體(てい)で、ト立(た)たうとした。
 民也(たみや)は急(きふ)に慌(あわたゞ)しく、
「お止(よ)し?……」
「でも、何(なん)だか暗(くら)い中(なか)で、ひら/\眞黒(まつくろ)なのに交(まじ)つて、緋(ひ)だか、紫(むらさき)だか、飛(と)んで居(ゐ)さうで、面白(おもしろ)いもの、」
「面白(おもしろ)くはないよ……可恐(こは)いよ。」
「何故(なぜ)?」
「だつて、緋(ひ)だの、紫(むらさき)だの、暗(くら)い中(うち)に、霰(あられ)に交(まじ)つて――それだと電(いなびかり)がして居(ゐ)るやうだもの……其(そ)の蔀(しとみ)をこんな時(とき)に開(あ)けると、そりや可恐(こは)いぜ。
 さあ……此(これ)から海(うみ)が荒(あ)れるぞ、と云(い)ふ前觸(まへぶ)れに、廂(ひさし)よりか背(せ)の高(たか)い、大(おほき)な海坊主(うみばうず)が、海(うみ)から出(で)て來(き)て、町(まち)の中(なか)を歩行(ある)いて居(ゐ)てね……人(ひと)が覘(のぞ)くと、蛇(へび)のやうに腰(こし)を曲(ま)げて、其(そ)の窓(まど)から睨返(にらみかへ)して、よくも見(み)たな、よくも見(み)たな、と云(い)ふさうだから。」
「嘘(うそ)だ!嘘(うそ)ばつかり。」
「眞個(ほんと)だよ、霰(あられ)だつて、半分(はんぶん)は、其(そ)の海坊主(うみばうず)が蹴上(けあ)げて來(く)る、波(なみ)の※(しぶき)[#「さんずい+散」、U+6F75、657-13]が交(まじ)つてるんだとさ。」
「へえ?」
 と常(つね)さんは未(ま)だ腑(ふ)に落(お)ちないか、立掛(たちか)けた膝(ひざ)を落(おと)さなかつた……
 霰(あられ)は屋根(やね)を駈※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(かけまは)る。
 民也(たみや)は心(こゝろ)に恐怖(きようふ)のある時(とき)、其(そ)の蔀(しとみ)を開(あ)けさしたくなかつた。
 母(はゝ)がまだ存生(ぞんじやう)の時(とき)だつた。……一夏(あるなつ)、日(ひ)の暮方(くれがた)から凄(すさま)じい雷雨(らいう)があつた……電光(いなびかり)絶間(たえま)なく、雨(あめ)は車軸(しやぢく)を流(なが)して、荒金(あらがね)の地(つち)の車(くるま)は、轟(とゞろ)きながら奈落(ならく)の底(そこ)に沈(しづ)むと思(おも)ふ。――雨宿(あめやど)りに駈込(かけこ)んだ知合(しりあひ)の男(をとこ)が一人(ひとり)と、内中(うちぢう)、此(こ)の店(みせ)に居(ゐ)すくまつた。十時(じ)を過(す)ぎた頃(ころ)、一呼吸(ひといき)吐(つ)かせて、もの音(おと)は靜(しづ)まつたが、裾(すそ)を捲(ま)いて、雷神(はたゝがみ)を乘(の)せながら、赤黒(あかぐろ)に黄(き)を交(まじ)へた雲(くも)が虚空(そら)へ、舞(ま)ひ/\上(あが)つて、昇(のぼ)る氣勢(けはひ)に、雨(あめ)が、さあと小止(をや)みに成(な)る。
 其(そ)の喜(よろこ)びを告(まを)さむため、神棚(かみだな)に燈火(みあかし)を點(てん)じようとして立(た)つた父(ちゝ)が、其(そ)のまゝ色(いろ)をかへて立窘(たちすく)んだ。
 ひい、と泣(な)いて雲(くも)に透(とほ)る、……あはれに、悲(かな)しげな、何(なん)とも異樣(いやう)な聲(こゑ)が、人々(ひと/″\)の耳(みゝ)をも胸(むね)をも突貫(つきつらぬ)いて響(ひゞ)いたのである。

 笛(ふえ)を吹(ふ)く……と皆(みな)思(おも)つた。笛(ふえ)もある限(かぎ)り悲哀(ひあい)を籠(こ)めて、呼吸(いき)の續(つゞ)くだけ長(なが)く、且(か)つ細(ほそ)く叫(さけ)ぶらしい。
 雷鳴(らいめい)に、殆(ほとん)ど聾(し)ひなむとした人々(ひと/″\)の耳(みゝ)に、驚破(すは)や、天地(てんち)一(ひと)つの聲(こゑ)。
 誰(たれ)も其(そ)の聲(こゑ)の長(なが)さだけ、氣(き)を閉(と)ぢて呼吸(いき)を詰(つ)めたが、引(ひ)く呼吸(いき)は其(そ)の聲(こゑ)の一度(いちど)止(や)むまでは續(つゞ)かなかつた。
 皆(みな)戰(をのゝ)いた。
 ヒイと尾(を)を微(かす)かに、其(そ)の聲(こゑ)が切(き)れた、と思(おも)ふと、雨(あめ)がひたりと止(や)んで、又(また)二度(にど)めの聲(こゑ)が聞(きこ)えた。
「鳥(とり)か。」
「否(いゝや)。」
「何(なん)だらうの。」
 祖母(そぼ)と、父(ちゝ)と、其(そ)の客(きやく)と言(ことば)を交(か)はしたが、其(そ)の言葉(ことば)も、晃々(きら/\)と、震(ふる)へて動(うご)いて、目(め)を遮(さへぎ)る電光(いなびかり)は隙間(すきま)を射(い)た。
「近(ちか)い。」
「直(ぢ)き其處(そこ)だ。」
 と云(い)ふ。叫(さけ)ぶ聲(こゑ)は、確(たし)かに筋向(すぢむか)ひの二階家(にかいや)の、軒下(のきした)のあたりと覺(おぼ)えた。
 其(それ)が三聲(みこゑ)めに成(な)ると、泣(な)くやうな、怨(うら)むやうな、呻吟(うめ)くやうな、苦(くるし)み※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)(もが)くかと思(おも)ふ意味(いみ)が明(あきら)かに籠(こも)つて來(き)て、新(あた)らしく又(また)耳(みゝ)を劈(つんざ)く……
「見(み)よう、」
 年少(としわか)くて屈竟(くつきやう)な其(そ)の客(きやく)は、身震(みぶる)ひして、すつくと立(た)つて、内中(うちぢう)で止(と)めるのも肯(き)かないで、タン、ド、ドン!と其(そ)の、其處(そこ)の蔀(しとみ)を開(あ)けた。――

「何(なに)、」
 と此處(こゝ)まで話(はな)した時(とき)、常(つね)さんは堅(かた)くなつて火鉢(ひばち)を掴(つか)んだ。
「其(そ)の時(とき)の事(こと)を思出(おもひだ)すもの、外(ほか)に何(なに)が居(ゐ)ようも知(し)れない時(とき)、其(そ)の蔀(しとみ)を開(あ)けるのは。」
 と民也(たみや)は言(い)ふ。

 却説(さて)、大雷(たいらい)の後(あと)の希有(けう)なる悲鳴(ひめい)を聞(き)いた夜(よる)、客(きやく)が蔀(しとみ)を開(あ)けようとした時(とき)の人々(ひと/″\)の顏(かほ)は……年月(としつき)を長(なが)く經(へ)ても眼前(まのあたり)見(み)るやうな、いづれも石(いし)を以(もつ)て刻(きざ)みなした如(ごと)きものであつた。
 蔀(しとみ)を上(あ)げると、格子戸(かうしど)を上(うへ)へ切(き)つた……其(それ)も鳴(な)るか、簫(せう)の笛(ふえ)の如(ごと)き形(かたち)した窓(まど)のやうな隙間(すきま)があつて、衝(つ)と電光(いなびかり)に照(てら)される。
 と思(おも)ふと、引緊(ひきし)めるやうな、柔(やはら)かな母(はゝ)の兩(りやう)の手(て)が強(つよ)く民也(たみや)の背(せ)に掛(かゝ)つた。既(すで)に膝(ひざ)に乘(の)つて、噛(かじ)り着(つ)いて居(ゐ)た小兒(こども)は、其(それ)なり、薄青(うすあを)い襟(えり)を分(わ)けて、眞白(まつしろ)な胸(むね)の中(なか)へ、頬(ほゝ)も口(くち)も揉込(もみこ)むと、恍惚(うつとり)と成(な)つて、最(も)う一度(いちど)、ひよいと母親(はゝおや)の腹(はら)の内(うち)へ安置(あんち)され終(をは)んぬで、トもんどりを打(う)つて手足(てあし)を一(ひと)つに縮(ちゞ)めた處(ところ)は、瀧(たき)を分(わ)けて、すとんと別(べつ)の國(くに)へ出(で)た趣(おもむき)がある、……そして、透通(すきとほ)る胸(むね)の、暖(あたゝ)かな、鮮血(からくれなゐ)の美(うつく)しさ。眞紅(しんく)の花(はな)の咲滿(さきみ)ちた、雲(くも)の白(しろ)い花園(はなぞの)に、朗(ほが)らかな月(つき)の映(うつ)るよ、と其(そ)の浴衣(ゆかた)の色(いろ)を見(み)たのであつた。
 が、其(そ)の時(とき)までの可恐(おそろ)しさ。――

「常(つね)さん、今(いま)君(きみ)が蔀(しとみ)を開(あ)けて、何(なに)かが覗(のぞ)いたつて、僕(ぼく)は潛込(もぐりこ)む懷中(ふところ)がないんだもの……」

 簫(せう)の窓(まど)から覗(のぞ)いた客(きやく)は、何(なに)も見(み)えなかつた、と云(い)ひながら、眞蒼(まつさを)に成(な)つて居(ゐ)た。
 其(そ)の夜(よ)から、筋向(すぢむか)うの其(そ)の土藏附(どざうつき)の二階家(にかいや)に、一人(ひとり)氣(き)が違(ちが)つた婦(をんな)があつたのである。
 寂寞(ひつそり)と霰(あられ)が止(や)む。
 民也(たみや)は、ふと我(われ)に返(かへ)つたやうに成(な)つて、
「去年(きよねん)、母(おつか)さんがなくなつたからね……」
 火桶(ひをけ)の面(おもて)を背(そむ)けると、机(つくゑ)に降込(ふりこ)んだ霰(あられ)があつた。
 ぢゆうと火(ひ)の中(なか)にも溶(と)けた音(おと)。
「勉強(べんきやう)しようね、僕(ぼく)は父(おとつ)さんがないんだよ。さあ、」
 鮒(ふな)が兜(かぶと)を着(き)ると云(い)ふ。……
「八田潟(はつたがた)の處(ところ)を讀(よ)まう。」
 と常(つね)さんは机(つくゑ)の向(むか)うに居直(ゐなほ)つた。
 洋燈(ランプ)が、じい/\と鳴(な)る。
 其(そ)の時(とき)であつた。

 二階(にかい)の階子壇(はしごだん)の一番(いつち)上(うへ)の一壇目(いちだんめ)……と思(おも)ふ處(ところ)へ、欄間(らんま)の柱(はしら)を眞黒(まつくろ)に、くツきりと空(そら)にして、袖(そで)を欄干摺(てすりず)れに……其(そ)の時(とき)は、濃(こ)いお納戸(なんど)と、薄(うす)い茶(ちや)と、左右(さいう)に兩方(りやうはう)、褄前(つまさき)を揃(そろ)へて裾(すそ)を踏(ふ)みくゞむやうにして、圓髷(まげ)と島田(しまだ)の對丈(つゐたけ)に、面影(おもかげ)白(しろ)く、ふツと立(た)つた、兩個(ふたり)の見(み)も知(し)らぬ婦人(をんな)がある。
 ト其(そ)の色(いろ)も……薄(うす)いながら、判然(はつきり)と煤(すゝ)の中(なか)に、塵(ちり)を拂(はら)つてくつきりと鮮麗(あざやか)な姿(すがた)が、二人(ふたり)が机(つくゑ)に向(むか)つた横手(よこて)、疊數(たゝみかず)二疊(でふ)ばかり隔(へだ)てた處(ところ)に、寒(さむ)き夜(よ)なれば、ぴつたり閉(し)めた襖(ふすま)一枚(まい)……臺所(だいどころ)へ續(つゞ)くだゞつ廣(ぴろ)い板敷(いたじき)との隔(へだて)に成(な)る……出入口(ではひりぐち)の扉(ひらき)があつて、むしや/\と巖(いは)の根(ね)に蘭(らん)を描(ゑが)いたが、年數(ねんすう)算(さん)するに堪(た)へず、で深山(みやま)の色(いろ)に燻(くす)ぼつた、引手(ひきて)の傍(わき)に、嬰兒(あかんぼ)の掌(てのひら)の形(かたち)して、ふちのめくれた穴(あな)が開(あ)いた――其(そ)の穴(あな)から、件(くだん)の板敷(いたじき)を、向(むか)うの反古張(ほごばり)の古壁(ふるかべ)へ突當(つきあた)つて、ぎりゝと曲(まが)つて、直角(ちよくかく)に菎蒻色(こんにやくいろ)の干乾(ひから)びた階子壇(はしごだん)……十(とを)ばかり、遙(はる)かに穴(あな)の如(ごと)くに高(たか)い其(そ)の眞上(まうへ)。
 即(すなは)ち襖(ふすま)の破目(やれめ)を透(とほ)して、一(ひと)つ突當(つきあた)つて、折屈(をりまが)つた上(うへ)に、たとへば月(つき)の影(かげ)に、一刷(ひとはけ)彩(いろど)つた如(ごと)く見(み)えたのである。
 トンと云(い)ふ。
 と思(おも)ふと、トン/\トンと輕(かる)い柔(やはら)かな音(おと)に連(つ)れて、褄(つま)が搖(ゆ)れ/\、揃(そろ)つた裳(もすそ)が、柳(やなぎ)の二枝(ふたえだ)靡(なび)くやう……すら/\と段(だん)を下(お)りた。
 肩(かた)を揃(そろ)へて、雛(ひな)の繪(ゑ)に見(み)る……袖(そで)を左右(さいう)から重(かさ)ねた中(なか)に、どちらの手(て)だらう、手燭(てしよく)か、臺(だい)か、裸火(はだかび)の蝋燭(らふそく)を捧(さゝ)げて居(ゐ)た。
 蝋(らふ)の火(ひ)は白(しろ)く燃(も)えた。
 胸(むね)のあたりに蒼味(あをみ)が射(さ)す。
 頬(ほゝ)のかゝり白々(しろ/″\)と、中(なか)にも、圓髷(まるまげ)に結(ゆ)つた其(そ)の細面(ほそおもて)の氣高(けだか)く品(ひん)の可(い)い女性(によしやう)の、縺(もつ)れた鬢(びん)の露(つゆ)ばかり、面窶(おもやつ)れした横顏(よこがほ)を、瞬(またゝ)きもしない雙(さう)の瞳(ひとみ)に宿(やど)した途端(とたん)に、スーと下(お)りて、板(いた)の間(ま)で、もの優(やさ)しく肩(かた)が動(うご)くと、其(そ)の蝋(らふ)の火(ひ)が、件(くだん)の繪襖(ゑぶすま)の穴(あな)を覘(のぞ)く……其(そ)の火(ひ)が、洋燈(ランプ)の心(しん)の中(なか)へ、※(ぱつ)[#「火+發」、U+243CB、663-14]と入(はひ)つて、一(ひと)つに成(な)つたやうだつた。
 やあ!開(あ)けると思(おも)ふ。
「きやツ、」
 と叫(さけ)んで、友達(ともだち)が、前(さき)へ、背後(うしろ)の納戸(なんど)へ刎込(はねこ)んだ。
 口(くち)も利(き)けず……民也(たみや)も其(そ)の身體(からだ)へ重(かさ)なり合(あ)つて、父(ちゝ)の寢(ね)た枕頭(まくらもと)へ突伏(つゝぷ)した。
 こゝの障子(しやうじ)は、幼(をさな)いものの夜更(よふか)しを守(まも)つて、寒(さむ)いに一枚(まい)開(あ)けたまゝ、霰(あられ)の中(なか)にも、父(ちゝ)と祖母(そぼ)の情(なさけ)の夢(ゆめ)は、紙一重(かみひとへ)の遮(さへぎ)るさへなく、机(つくゑ)のあたりに通(かよ)つたのであつた。
 父(ちゝ)は夢(ゆめ)だ、と云(い)つて笑(わら)つた、……祖母(そぼ)もともに起(お)きて出(い)で、火鉢(ひばち)の上(うへ)には、再(ふたゝ)び芳(かんば)しい香(かをり)が滿(み)つる、餅網(もちあみ)がかゝつたのである。
 茶(ちや)の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)えた時(とき)、眞夜中(まよなか)に又(また)霰(あられ)が來(き)た。
 後(あと)で、常(つね)さんと語合(かたりあ)ふと……二人(ふたり)の見(み)たのは、しかも其(それ)が、錦繪(にしきゑ)を板(はん)に合(あ)はせたやうに同一(おなじ)かつたのである。
 此(これ)が、民也(たみや)の、ともすれば、フト出逢(であ)ふ、二人(ふたり)の姿(すがた)の最初(はじめ)であつた。
 常(つね)さんの、三日(みつか)ばかり學校(がくかう)を休(やす)んだのは然(さ)る事(こと)ながら、民也(たみや)は、それが夢(ゆめ)でなくとも、然(さ)まで可恐(おそろし)いとも可怪(あやし)いとも思(おも)はぬ。
 敢(あへ)て思(おも)はぬ、と云(い)ふではないが、恁(か)うしたあやしみには、其(そ)の時分(じぶん)馴(な)れて居(ゐ)た。
 毎夜(まいよ)の如(ごと)く、内井戸(うちゐど)の釣瓶(つるべ)の、人手(ひとで)を借(か)らず鳴(な)つたのも聞(き)く……
 轆轤(ろくろ)が軋(きし)んで、ギイと云(い)ふと、キリ/\と二(ふた)つばかり井戸繩(ゐどなは)の擦合(すれあ)ふ音(おと)して、少須(しばらく)して、トンと幽(かす)かに水(みづ)に響(ひゞ)く。
 極(きま)つたやうに、其(そ)のあとを、ちよき/\と細(こま)かに俎(まないた)を刻(きざ)む音(おと)。時雨(しぐれ)の頃(ころ)から尚(な)ほ冴(さ)えて、ひとり寢(ね)の燈火(ともしび)を消(け)した枕(まくら)に通(かよ)ふ。

 續(つゞ)いて、臺所(だいどころ)を、こと/\と云(い)ふ跫音(あしおと)がして、板(いた)の間(ま)へ掛(かゝ)る。――此(こ)の板(いた)の間(ま)へ、其(そ)の時(とき)の二人(ふたり)の姿(すがた)は來(き)たのであるが――又(また)……實際(じつさい)より、寢(ね)て居(ゐ)て思(おも)ふ板(いた)の間(ま)の廣(ひろ)い事(こと)。
 民也(たみや)は心(こゝろ)に、此(これ)を板(いた)の間(ま)ヶ原(はら)だ、と稱(とな)へた。
 傳(つた)へ言(い)ふ……孫右衞門(まごゑもん)と名(な)づけた氣(き)の可(い)い小父(をぢ)さんが、獨酌(どくしやく)の醉醒(よひざめ)に、我(わ)がねたを首(くび)あげて見(み)る寒(さむ)さかな、と來山張(らいざんばり)の屏風越(びやうぶご)しに、魂消(たまげ)た首(くび)を出(だ)して覘(のぞ)いたと聞(き)く。
 臺所(だいどころ)の豪傑儕(がうけつばら)、座敷方(ざしきがた)の僭上(せんじやう)、榮耀榮華(えいえうえいぐわ)に憤(いきどほり)を發(はつ)し、しや討(う)て、緋縮緬小褄(ひぢりめんこづま)の前(まへ)を奪取(ばひと)れとて、竈將軍(かまどしやうぐん)が押取(おつと)つた柄杓(ひしやく)の采配(さいはい)、火吹竹(ひふきだけ)の貝(かひ)を吹(ふ)いて、鍋釜(なべかま)の鎧武者(よろひむしや)が、のん/\のん/\と押出(おしだ)したとある……板(いた)の間(ま)ヶ原(はら)や、古戰場(こせんぢやう)。
 襖一重(ふすまひとへ)は一騎打(いつきうち)で、座敷方(ざしきがた)では切所(せつしよ)を防(ふせ)いだ、其處(そこ)の一段(いちだん)低(ひく)いのも面白(おもしろ)い。
 ト其(そ)の氣(き)で、頬杖(ほゝづゑ)をつく民也(たみや)に取(と)つては、寢床(ねどこ)から見(み)る其(そ)の板(いた)の間(ま)は、遙々(はる/″\)としたものであつた。
 跫音(あしおと)は其處(そこ)を通(とほ)つて、一寸(ちよつと)止(や)んで、やがて、トン/\と壇(だん)を上(あが)る、と高(たか)い空(そら)で、すらりと響(ひゞ)く襖(ふすま)の開(あ)く音(おと)。
「あゝ、二階(にかい)のお婆(ばあ)さんだ。」
 と、熟(じつ)と耳(みゝ)を澄(す)ますと、少時(しばらく)して、
「えゝん。」
 と云(い)ふ咳(せきばらひ)。
「今度(こんど)は二階(にかい)のお爺(ぢい)さん。」
 此(こ)の二人(ふたり)は、母(はゝ)の父母(ふぼ)で、同家(ひとついへ)に二階住居(にかいずまひ)で、睦(むつま)じく暮(くら)したが、民也(たみや)のもの心(ごころ)を覺(おぼ)えて後(のち)、母(はゝ)に先(さき)だつて、前後(ぜんご)して亡(な)くなられた……
 其(そ)の人(ひと)たちを、こゝにあるもののやうに、あらぬ跫音(あしおと)を考(かんが)へて、咳(しはぶき)を聞(き)く耳(みゝ)には、人氣勢(ひとけはひ)のない二階(にかい)から、手燭(てしよく)して、する/\と壇(だん)を下(お)りた二人(ふたり)の姿(すがた)を、然(さ)まで可恐(おそろし)いとは思(おも)はなかつた。
 却(かへ)つて、日(ひ)を經(ふ)るに從(したが)つて、物語(ものがたり)を聞(き)きさした如(ごと)く、床(ゆか)しく、可懷(なつか)しく、身(み)に染(し)みるやうに成(な)つたのである。……
 霰(あられ)が降(ふ)れば思(おもひ)が凝(こ)る。……
 然(さ)うした折(をり)よ、もう時雨(しぐれ)の頃(ころ)から、其(そ)の一二年(ねん)は約束(やくそく)のやうに、井戸(ゐど)の響(ひゞき)、板(いた)の間(ま)の跫音(あしおと)、人(ひと)なき二階(にかい)の襖(ふすま)の開(あ)くのを聞馴(きゝな)れたが、婦(をんな)の姿(すがた)は、當時(たうじ)又(また)多日(しばらく)の間(あひだ)見(み)えなかつた。
 白菊(しらぎく)の咲(さ)く頃(ころ)、大屋根(おほやね)へ出(で)て、棟瓦(むねがはら)をひらりと跨(また)いで、高(たか)く、高(たか)く、雲(くも)の白(しろ)きが、微(かすか)に動(うご)いて、瑠璃色(るりいろ)に澄渡(すみわた)つた空(そら)を仰(あふ)ぐ時(とき)は、あの、夕立(ゆふだち)の夜(よ)を思出(おもひだ)す……そして、美(うつく)しく清(きよ)らかな母(はゝ)の懷(ふところ)にある幼兒(をさなご)の身(み)にあこがれた。
 此(こ)の屋根(やね)と相向(あひむか)つて、眞蒼(まつさを)な流(ながれ)を隔(へだ)てた薄紫(うすむらさき)の山(やま)がある。
 醫王山(いわうぜん)。
 頂(いたゞき)を虚空(こくう)に連(つら)ねて、雪(ゆき)の白銀(しろがね)の光(ひかり)を放(はな)つて、遮(さへぎ)る樹立(こだち)の影(かげ)もないのは、名(な)にし負(お)ふ白山(はくさん)である。
 やゝ低(ひく)く、山(やま)の腰(こし)に其(そ)の流(ながれ)を繞(めぐ)らして、萌黄(もえぎ)まじりの朱(しゆ)の袖(そで)を、俤(おもかげ)の如(ごと)く宿(やど)したのは、つい、まのあたり近(ちか)い峰(みね)、向山(むかひやま)と人(ひと)は呼(よ)ぶ。
 其(そ)の裾(すそ)を長(なが)く曳(ひ)いた蔭(かげ)に、圓(まる)い姿見(すがたみ)の如(ごと)く、八田潟(はつたがた)の波(なみ)、一所(ひとところ)の水(みづ)が澄(す)む。
 島(しま)かと思(おも)ふ白帆(しらほ)に離(はな)れて、山(やま)の端(は)の岬(みさき)の形(かたち)、につと出(で)た端(はし)に、鶴(つる)の背(せ)に、緑(みどり)の被衣(かつぎ)させた風情(ふぜい)の松(まつ)がある。
 遙(はる)かに望(のぞ)んでも、其(そ)の枝(えだ)の下(した)は、一筵(ひとむしろ)、掃清(はききよ)めたか、と塵(ちり)も留(とゞ)めぬ。
 あゝ山(やま)の中(なか)に葬(はうむ)つた、母(はゝ)のおくつきは彼處(かしこ)に近(ちか)い。
 其(そ)の松(まつ)の蔭(かげ)に、其(そ)の後(のち)、時々(とき/″\)二人(ふたり)して佇(たゝず)むやうに、民也(たみや)は思(おも)つた、が、母(はゝ)には然(さ)うした女(をんな)のつれはなかつたのである。
 月(つき)の冴(さ)ゆる夜(よ)は、峰(みね)に向(むか)つた二階(にかい)の縁(えん)の四枚(よまい)の障子(しやうじ)に、それか、あらぬか、松影(まつかげ)射(さ)しぬ……戸袋(とぶくろ)かけて床(とこ)の間(ま)へ。……
 また前(まへ)に言(い)つた、もの凄(すご)い暗(くら)い夜(よる)も、年(とし)經(へ)て、なつかしい人(ひと)を思(おも)へば、降積(ふりつも)る霰(あられ)も、白菊(しらぎく)。
了

底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
   1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
   1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
初出:「太陽」
   1912(大正元)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「若(わか)い」と「少(わか)い」、「婦人(をんな)」と「婦(をんな)」と「女(をんな)」、「裡(うち)」と「内(うち)」、「彳(たゝず)んだ」と「佇(たゝず)む」、「亦(また)」と「又(また)」、「取(と)り留(と)め」と「取留(とりと)め」、「同一(おなじ)」と「同(おな)じ」、「年(とし)」と「年紀(とし)」、「相手(あひて)」と「對手(あひて)」、「云(い)ふ」と「言(い)ふ」、「少時(しばらく)」と「少須(しばらく)」と「多日(しばらく)」、「母(おつか)さん」と「お母(つか)さん」、「内(うち)」と「家(うち)」、「矢張(やつぱ)り」と「矢張(やつぱり)」、「電(いなびかり)」と「電光(いなびかり)」、「虚空(そら)」と「空(そら)」、「言(ことば)」と「言葉(ことば)」、「兩個(ふたり)」と「二人(ふたり)」、「幽(かす)か」と「微(かすか)」、「面影(おもかげ)」と「俤(おもかげ)」、「覘(のぞ)く」と「覗(のぞ)いた」、「留(と)め」と「止(と)め」、「見(み)た」と「視(み)て」、「處(ところ)」と「所(ところ)」、「懷中(ふところ)」と「懷(ふところ)」、「蒼(あを)」と「青(あを)」、「降(お)り」と「下(お)り」、「壇(だん)」と「段(だん)」、「確(たしか)」と「確(たし)か」、「思(おも)ひ」と「思(おもひ)」、「大(おほ)きな」と「大(おほき)な」の混在は、底本通りです。
※「入つて」に対するルビの「い」と「はひ」、「皆」に対するルビの「みんな」と「みな」、「圓髷」に対するルビの「まげ」と「まるまげ」、「時々」に対するルビの「より/\」と「とき/″\」、「瞬き」に対するルビの「まばた」と「またゝ」、「燈火」に対するルビの「ともしび」と「みあかし」、「咳」に対するルビの「せきばらひ」と「しはぶき」、「誰」に対するルビの「だれ」と「たれ」、「最初」に対するルビの「さいしよ」と「はじめ」、「可恐い」に対するルビの「おそろし」と「こは」、「虚空」に対するルビの「そら」と「こくう」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2021年10月27日作成
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