「もし/\、其處(そこ)へ行(い)らつしやりますお方(かた)。」……と呼(よ)ぶ。
 呼(よ)ばれた坂上(さかがみ)は、此(こ)の聲(こゑ)を聞(き)くと、外套(ぐわいたう)の襟(えり)から先(ま)づ悚然(ぞつ)とした。……誰(たれ)に似(に)て可厭(いや)な、何時(いつ)覺(おぼ)えのある可忌(いまは)しい調子(てうし)と云(い)ふのではない。が、辿(たど)りかゝつた其(そ)のたら/\上(あが)りの長(なが)い坂(さか)の、下(した)から丁(ちやう)ど中央(なかば)と思(おも)ふ處(ところ)で、靄(もや)のむら/\と、動(うご)かない渦(うづ)の中(なか)を、見(み)え隱(がく)れに、浮(う)いつ沈(しづ)みつする體(てい)で、跫音(あしおと)も聞(きこ)えぬばかり――四谷(よツや)の通(とほ)りから穴(あな)の横町(よこちやう)へ續(つゞ)く、坂(さか)の上(うへ)から、しよな/\下(お)りて來(き)て、擦違(すれちが)つたと思(おも)ふ、と其(そ)の聲(こゑ)。
 何(なん)の約束(やくそく)もなく、思(おも)ひも懸(か)けず行逢(ゆきあ)つたのに、ト見(み)ながら行過(ゆきす)ぎるうち、其(そ)れなり何事(なにごと)も無(な)しには分(わか)れまい。呼(よ)ぶか、留(と)めるか、屹(きつ)と口(くち)を利(き)くに違(ちが)ひない、と坂上(さかがみ)は不思議(ふしぎ)にも然(さ)う思(おも)つた。尤(もつと)も其(それ)は、或機會(あるきつかけ)に五位鷺(ごゐさぎ)が闇夜(やみ)を叫(さけ)ぶ、鴉(からす)が啼(な)く、と同(おな)じ意味(いみ)で、聞(き)くものは、其處(そこ)に自分(じぶん)一人(ひとり)でも、鳥(とり)は誰(たれ)に向(むか)つて呼(よ)ぶのか分(わか)らない。けれども、可厭(いや)な、可忌(いまは)しい聲(こゑ)を聞(き)かずには濟(す)むまい、と思(おも)ふと案(あん)の定(ぢやう)……
 來(き)て、其(そ)の行逢(ゆきあ)つたものは、一(ひと)ならびに並(なら)んだ三人(にん)づれで、どれも悄乎(しよんぼり)とした按摩(あんま)である。
 中(なか)に挾(はさ)まれたのは、弱々(よわ/\)と、首(くび)の白(しろ)い、髮(かみ)の濃(こ)い、中年増(ちうどしま)と思(おも)ふ婦(をんな)で、兩(りやう)の肩(かた)がげつそり痩(や)せて、襟(えり)に引合(ひきあは)せた袖(そで)の影(かげ)が――痩(や)せた胸(むね)を雙(さう)の乳房(ちぶさ)まで染(し)み通(とほ)るか、と薄暗(うすぐら)く、裾(すそ)をかけて、帶(おび)の色(いろ)と同(おな)じやうに――黒(くろ)く映(さ)して、ぴた/\ぴた/\と草履穿(ざうりばき)か、地(つち)とすれ/\の褄(つま)を見(み)た。
 先(さき)に立(た)つたのは鼠(ねずみ)であらう、夜目(よめ)には此(こ)の靄(もや)を織(お)つてなやした、被布(ひふ)のやうなものを、ぐたりと着(き)て、縁(ふち)なしの帽子(ばうし)らしい、ぬいと、のはうづに高(たか)い、坊主頭(ばうずあたま)其(そ)のまゝと云(い)ふのを被(かぶ)つた、脊(せい)のひよろりとしたのが、胴(どう)を畝(うね)らして……通(とほ)る。
 後(あと)なる一人(ひとり)は、中脊(ちうぜい)の細(ほそ)い男(をとこ)で、眞中(まんなか)の、其(そ)の盲目婦(めくらをんな)の髮(かみ)の影(かげ)にも隱(かく)れさうに、帶(おび)に體(からだ)を附着(くツつ)けて行違(ゆきちが)つたのであるから、形(なり)、恰好(かつかう)、孰(ど)れも判然(はつきり)としない中(なか)に、此(こ)の三人目(にんめ)のが就中(なかんづく)朧(おぼろ)に見(み)えた。
 此(そ)の癖(くせ)、もし/\、と云(い)つた、……聲(こゑ)を聞(き)くと、一番(いちばん)あとの按摩(あんま)が呼留(よびと)めた事(こと)が、何(ど)うしてか直(す)ぐに知(し)れた……
「私(わたし)かい。」
 と直(す)ぐに答(こた)へて、坂上(さかがみ)は其(そ)のまゝ立留(たちど)まつて、振向(ふりむ)いた……ひやりと肩(かた)から窘(すく)みながら、矢庭(やには)に吠(ほ)える犬(いぬ)に、(畜生(ちくしやう)、)とて擬勢(ぎせい)を示(しめ)す意氣組(いきぐみ)である。
「はあ、お前樣(まへさま)で。」
 と沈(しづ)んで云(い)ふ。果(はた)せる哉(かな)、殿(しんがり)の痩按摩(やせあんま)で、恁(か)う口(くち)をきく時(とき)、靄(もや)を漕(こ)ぐ、杖(つゑ)を櫂(かい)に、斜(なゝ)めに握(にぎ)つて、坂(さか)の二三歩(ぽ)低(ひく)い處(ところ)に、伸上(のびあが)るらしく仰向(あをむ)いて居(ゐ)た。
 先(さき)の二人(ふたり)、頭(あたま)の長(なが)いのと、何(なに)かに黒髮(くろかみ)を結(むす)んだのは、芝居(しばゐ)の樂屋(がくや)の鬘臺(かつらうけ)に、髷(まげ)をのせて、倒(さかさ)に釣(つる)した風情(ふぜい)で、前後(あとさき)になぞへに並(なら)んで、向(むか)うむきに立(た)つて、同伴者(つれ)の、然(さ)うして立淀(たちよど)んだのを待(ま)つらしい。
 坂上(さかがみ)は外套(ぐわいたう)の袖(そで)を捻(ね)ぢて、踵(くびす)を横(よこ)ざまに踏(ふ)みながら、中折(なかをれ)の庇(ひさし)から、對手(あひて)の眉間(みけん)を透(す)かし視(み)つつ、
「私(わたし)に用(よう)か。」
「一寸(ちよつと)……お話(はな)しが……ありまして……」と落着(おちつ)いたのか、息(いき)だはしいのか、冬(ふゆ)の夜(よ)ふけをなまぬるい。

「用事(ようじ)は何(なん)です。」
 はじめ、靄(もや)の中(なか)を、此(こ)の三人(にん)が來(き)て通(とほ)りすがつた時(とき)、長(なが)いのと短(みじか)いのと、野墓(のばか)に朽(く)ちた塔婆(たふば)が二本(ほん)、根本(ねもと)にすがれた尾花(をばな)の白(しろ)い穗(ほ)を縋(すが)らせたまゝ、土(つち)ながら、凩(こがらし)の餘波(なごり)に、ふは/\吹(ふ)き送(おく)られて來(き)たかと思(おも)つた。
 漸(や)つと、其(そ)の(思(おも)つた)が消(き)えて、まざ/\と恁(か)うしてものを言交(いひか)はせば、武藏野(むさしの)の丘(をか)の横穴(よこあな)めいた、山(やま)の手(て)場末(ばすゑ)の寂(さ)びた町(まち)を、搜(さぐ)り/\に稼(かせ)いで歩行(ある)くのが、誘(さそ)ひ合(あ)はせて、年(とし)を越(こ)す蚊(か)のやうに、細(ほそ)い笛(ふえ)の音(ね)で、やがて木賃宿(きちんやど)の行燈(あんどう)の中(なか)へ消(き)えるのであらうと、合點(がつてん)して、坂上(さかがみ)も稍(やゝ)もの言(い)ひが穩(おだや)かに成(な)つたのである。
 按摩(あんま)は其(その)仰向(あをむ)いて打傾(うちかたむ)いた、耳(みゝ)の痒(かゆ)いのを掻(か)きさうな手(て)つきで、右手(めて)に持添(もちそ)へた杖(つゑ)の尖(さき)を、輕(かる)く、コト/\コト/\と彈(はじ)きながら、
「用(よう)と云(い)うて、別(べつ)に、此(これ)と云(い)うてありませぬ。ありませぬ、けれども、お前樣(まへさま)今(いま)から、何處(どこ)へ行(ゆ)かれます。何處(どこ)へ、何處(どこ)へ、何處(どこ)へ?」……と些(ち)と嘲(あざ)けるやうに、小鼻(こばな)で調子(てうし)を取(と)つた聞(き)き方(かた)をする。
「構(かま)ひなさんな。」
 無理(むり)な首尾(しゆび)の、婦(をんな)に忍(しの)ぶ夜(よ)であつた……
 坂上(さかがみ)は憤然(むつ)として、
「何處(どこ)へ行(い)つても可(い)いではないか。」
「可(よ)うない、其(それ)が可(よ)うない、お前樣(まへさま)、」と押附(おしつ)けに言(い)つた聲(こゑ)に、振切(ふりき)つては衝(つ)と足(あし)の出(で)ぬ力(ちから)が籠(こも)る。
「何故(なぜ)惡(わる)いんだね。」
 と、却(かへ)つて坂下(さかした)へ小戻(こもど)りにつか/\と近(ちか)づいたが、餘(あま)り傍(そば)へ寄(よ)ると、靄(もや)が、ねば/\として顏(かほ)へ着(つ)きさうで、不氣味(ぶきみ)で控(ひか)へた。
「もう遲(おそ)い!」
 と急(きふ)に幅(はゞ)のある強(つよ)い聲(こゑ)。按摩(あんま)は其(そ)の時(とき)、がつくりと差俯向(さしうつむ)く。
 立(た)ち窘(すく)んだ體(てい)だつた、長頭(ながあたま)の先達盲人(せんだつめくら)は、此(こ)の時(とき)、のろりと身動(みうご)きして、横(よこ)に崖(がけ)の方(はう)へ顏(かほ)を向(む)けた。
 次(つぎ)の婦(をんな)は、腰(こし)から其(そ)の影(かげ)を地(つち)へ吸込(すひこ)まれさうに、悄乎(しよんぼり)と腰(こし)をなやして踞(しやが)む……鬢(びん)のはづれへ、ひよろりと杖(つゑ)の尖(さき)が抽(ぬ)けて青(あを)い。
 三人(にん)が根(ね)をおろしたらしく見(み)て取(と)ると、坂上(さかがみ)も、急(きふ)には踏出(ふみだ)せさうもなく、足(あし)が地(ち)に附着(くツつ)いたが、前途(さき)を急(いそ)ぐ胸(むね)は、はツ/\と、毒氣(どくき)を掴(つか)んで口(くち)から吹込(ふきこ)まれさうに躍(をど)つて、血(ち)を動(うご)かしては、ぐつと膨(ふく)れ、肉(にく)をわなゝかしては、げつそり挫(ひしや)げる。
 坂(さか)の其(そ)の兩方(りやうはう)は、見上(みあ)げて峰(みね)の如(ごと)き高臺(たかだい)のなだれた崖(がけ)で、……時(とき)に長頭(ながあたま)が面(おもて)を向(む)けた方(はう)は、空(そら)に一二軒(けん)、長屋立(ながやだて)が恰(あたか)も峠茶屋(たうげぢやや)と云(い)ふ形(かたち)に、霜(しも)よ、と靄(もや)のたゝまり積(つ)んだ、枯草(かれくさ)の上(うへ)に、灯(ひ)の影(かげ)もなく鎖(とざ)さるゝ。
 で、此(こ)のものどもの寄(よ)つた方(はう)は、木(き)の根(ね)ぐるみ地壓(ぢおさ)への杭(くひ)も露顯(あらは)に、泥(どろ)の崩(くづ)れた切立(きりた)てで、上(うへ)には樹立(こだち)が參差(すく/\)と骨(ほね)を繋(つな)ぐ。其(そ)の枝(えだ)の所々(しよ/\)、濁(にご)つた月影(つきかげ)のやうな可厭(いや)な色(いろ)の靄(もや)が搦(から)んで、星(ほし)もない……山(やま)深(ふか)く谷川(たにがは)の流(ながれ)に望(のぞ)んだ思(おも)ひの、暗夜(やみ)の四谷(よツや)の谷(たに)の底(そこ)、時刻(じこく)は丁(ちやう)ど一時(じ)頃(ごろ)。
 激(はげ)しく動(うご)くは胸(むね)ばかり……づん/\と陰氣(いんき)な空(そら)から、身體(からだ)を壓附(おしつ)けられるやうで、
「遲(おそ)いのが、何(なん)で惡(わる)い。」
 とものいひも重(おも)く成(な)る。
「然(さ)う言(い)はれる、申(まを)される……」
 と杖(つゑ)を持(も)つた手(て)の甲(かふ)を、丁(とん)と敲(たゝ)き、
「如何(いか)にも、もし、それが惡(わる)い……」
「行(い)つては不可(いけな)いと云(い)ふのかね。」と、心(こゝろ)がかりな今夜(こんや)の逢(あ)ふ瀬(せ)の、辻占(つじうら)にもと裏問(うらど)へば……
「惡(わる)いと云(い)うたりとて、お前樣(まへさま)氣(き)一(ひと)つで行(ゆ)かるれば、それまでの事(こと)ではあれど、先(ま)づお留(と)め申(まを)したい。
 これは、私(わし)一人(ひとり)か……
 其處(そこ)に居(ゐ)る人(じん)も。」
 と云(い)つて、杖(つゑ)をまつすぐに持直(もちなほ)すと、むかうで長頭(ながあたま)が、一(ひと)つ幽(かすか)な咳(しはぶき)。

「行(い)くなつたつて、行(い)かなけりや成(な)らない所(ところ)だつたら何(ど)うします。」
 と坂上(さかがみ)の呼吸(いき)はあせつた……
「親(おや)が大病(たいびやう)だか、友(とも)だちが急病(きふびやう)だか、知(し)れたもんですか。……君(きみ)たちのやうに言(い)つちや、何(なに)か、然(さ)も怪(あや)しい所(ところ)へでも出掛(でか)けるやうだね。」
「へゝゝ、」
 と杖(つゑ)の尖(さき)に頬(ほゝ)をすりつける如(ごと)く傾(かし)がつて、可厭(いや)に笑(わら)ひ、
「其(それ)が分(わか)ればこそ申(まを)すのなり、あの人(じん)も言(い)へと言(い)ひます……當(あ)てますか、私(わたし)が。……知(し)つても大事(だいじ)ない。明(あ)けて爾々(しか/″\)とお言(い)ひなされ。お前樣(まへさま)は婦(をなご)に逢(あ)ひに行(ゆ)く、」
「…………」
「な、然(しか)も、先方(さき)は、義理(ぎり)、首尾(しゆび)で、差當(さしあた)つては間(ま)の惡(わる)い處(ところ)を、お前樣(まへさま)が突詰(つきつ)めて、斷(た)つて、垣(かき)も塀(へい)も、押倒(おしたふ)し突破(つきやぶ)る、……其(そ)の力(ちから)で、胸(むね)を掻※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)(かきむし)るやうにあせるから、婦(をなご)も切(せま)つて、身(み)にも生命(いのち)にも代(か)へて逢(あ)はうと云(い)ふ。其(それ)へ行(ゆ)く……お前樣(まへさま)、其(そ)の途中(とちう)でありませう。通(とほ)りがかりから、行逢(ゆきあ)うて、恁(か)うやつて擦違(すれちが)うたまでの跫音(あしおと)で、よう知(し)れました。とぼ/\した、上(うは)の空(そら)なので丁(ちやん)と分(わか)る……
 霧(きり)もかゝり、霜(しも)もおりる……月(つき)も曇(くも)れば星(ほし)も暗(くら)し、此(こ)の大空(おほぞら)にも迷(まよ)ひはある。迷(まよ)ひも、其(それ)は穩(おだや)かなれども、胸(むね)の塞(ふさが)り呼吸(いき)が閉(とぢ)る、もやくやなあとの、電(いなびかり)、はたゝがみを御覽(ごらん)ぜい。
 人間(にんげん)の思(おも)ひ、何事(なにごと)も不思議(ふしぎ)はない。
 私(われら)が心(こゝろ)に思較(おもひくら)べた……身(み)に引較(ひきくら)べればこそ、此(こ)の掌(たなごころ)を……」
 と云(い)ふ、己(おの)が面(おもて)へ、掌(たなそこ)を蓋(ふた)する如(ごと)くに、
「……掌(たなごころ)を見(み)るとやら申(まを)す通(とほ)り、見(み)えぬ目(め)にも知(し)れました。」
 あとの二人(ふたり)とも、此(こ)の時(とき)言合(いひあ)はせた體(てい)に、上(うへ)と下(した)で、衣(き)ものの襞※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)(ひだ)まで、頷(うなづ)いたのが朧(おぼろ)に分(わか)つた。
 坂上(さかがみ)は、氣拔(きぬ)けのした状(さま)に、大息(おほいき)を吻(ほつ)と吐(つ)いて、
「辻(つじ)で賣卜(うらなひ)をする人(ひと)たちか。私(わたし)も氣(き)が急(いそ)いだので、何(なに)か失禮(しつれい)を言(い)つたかも知(し)れない……
 先方(さき)は足袋跣足(たびはだし)で、或家(あるいへ)を出(で)て、――些(ちつ)と遠(とほ)いが、これから行(ゆ)く所(ところ)に、森(もり)のある中(なか)に隱(かく)れて待(ま)つた切(きり)、一人(ひとり)で身動(みうご)きも出來(でき)ないで居(ゐ)るんです。
 其(そ)の事(こと)は、私(わたし)が今(いま)まで居(ゐ)た所(ところ)へ、當人(たうにん)から懸(か)けた、符牒(ふてふ)ばかりの電話(でんわ)で知(し)れて、實際(じつさい)、氣(き)も顛倒(てんだう)して急(いそ)ぐんです。行(い)かないで何(ど)うしますか、行(い)つては惡(わる)いんですか。」
「われら考(かんが)へたも其(そ)の通(とほ)り……いや、男(をとこ)らしく、よう申(まを)されました。さて、いづれもお最惜(いと)しいが、あゝ、危(あぶな)い事(こと)かな。」
 と杖(つゑ)を引緊(ひきし)めるやうに、胸(むね)へ取(と)つて兩手(りやうて)をかけた。痩按摩(やせあんま)は熟(じつ)と案(あん)じて、
「先(ま)づお聞(き)き申(まを)すが、唯今(たゞいま)、此(こ)の坂(さか)の此(こ)の、われらが片寄(かたよ)つて路傍(みちばた)に立(た)ちました……此(こ)の崖下(がけした)に、づら/\となぞへに並(なら)びました瓦斯燈(がすとう)は、幾基(いくだい)が所(ところ)燈(あかり)が點(つ)いて、幾基(いくだい)が所(ところ)消(き)えて居(を)ります。一寸(ちよつと)、御覽(ごらん)ぜ、一寸(ちよつと)御覽(ごらん)ぜ。」
 と言(い)ひ/\、がく/\と項(うなじ)を掉(ふ)つて首(かうべ)を垂(た)れる。
 言(ことば)に引向(ひきむ)けられたやうに、三人(にん)の並(なら)んだ背後(うしろ)を拾(ひろ)つて、坂下(さかした)から、上(うへ)の町(まち)へ、トづらりと視(み)ると……坂上(さかがみ)は今夜(こんや)はじめて此(こ)の路(みち)を通(とほ)るのではない。……片側(かたかは)へ並(なら)べて崖添(がけぞ)ひに、凡(およ)そ一間(けん)おきぐらゐに、間(なか)を籠(こ)めて、一二三堂(ひふみだう)と云(い)ふ、界隈(かいわい)の活動寫眞(くわつどうしやしん)の手(て)で建(た)てた、道路安全(だうろあんぜん)の瓦斯燈(がすとう)がすく/\ある。
 しろ/″\と霜柱(しもばしら)のやうに冷(つめ)たく並(なら)んで、硝子火屋(がらすほや)は、崖(がけ)の巖穴(いはあな)に一(ひと)ツ一(ひと)ツ窓(まど)を開(あ)けた風情(ふぜい)に見(み)えて、ばつたり、燈(あかり)が消(き)えたあとを、目(め)の屆(とゞ)く、どれも是(これ)も、靄(もや)を噛(か)んで、吸(す)ひ溜(た)め吸(す)ひ溜(た)め、透間(すきま)を覗(のぞ)いて切(き)れ/″\に灰色(はひいろ)の息(いき)を吹出(ふきだ)す。
 かと思(おも)へば、目(め)の前(まへ)に近(ちか)いのは、あらう事(こと)か、鬼(おに)の首(くび)を古綿(ふるわた)で面形(めんがた)に取(と)つた形(かたち)に、靄(もや)がむら/\と瓦斯燈(がすとう)の其(そ)の消(き)えたあとに蟠(わだかま)つて、怪(あや)しく土蜘蛛(つちぐも)の形(かたち)を顯(あらは)し、同(おな)じ透間(すきま)から吹(ふ)く息(いき)も、これは可恐(おそろ)しい絲(いと)を手繰(たぐ)つて、天(そら)へ投掛(なげか)け、地(ち)に敷(し)き展(の)べ、宙(ちう)に綾取(あやど)る。や、然(さ)う思(おも)へば、靄(もや)のねば/\は、這個(こ)の振舞(ふるまひ)か。

「大抵(たいてい)、皆(みな)消(き)えて居(を)ります筈(はず)で。」
 と按摩(あんま)は、坂上(さかがみ)が然(さ)うして、きよろ/\と瓦斯燈(がすとう)を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまは)す内(うち)に、先(さき)んじて又(また)云(い)つた。
「すつかり消(き)えて居(ゐ)る。あゝ、」と尚(な)ほ一倍(いちばい)、夜(よ)の更(ふ)けたのが身(み)に染(し)みた。
「な、消(き)えて居(を)りませう……けれども、お前樣(まへさま)から、坂(さか)の上(うへ)の方(はう)へ算(かぞ)へまして、其(そ)の何臺目(なんだいめ)かの瓦斯(がす)が一(ひと)つ、まだ燈(あかり)が點(つ)いて居(を)らねばなりませぬ。……見(み)えますか。」
「見(み)える……」
 と答(こた)へた、如何(いか)にも一臺(だい)、薄(うす)ぼんやりと、灯(ひ)が亂(みだ)れて、靄(もや)へ流(なが)れさうに點(つ)いて居(ゐ)る。
「しかし、何本(なんぼん)めだか一寸(ちよつと)分(わか)らない。」
「餘(あま)り遠(とほ)い所(ところ)ではありませぬ。人通(ひとどほ)りのない、故道松並木(ふるみちまつなみき)の五位鷺(ごゐさぎ)は、人(ひと)の居處(ゐどころ)から五本目(ほんめ)の枝(えだ)に留(とま)ります、道中(だうちう)定(さだま)り。……其(そ)の灯(ひ)の消殘(きえのこ)りましたのは、お前樣(まへさま)から、上(うへ)へ五本目(ほんめ)と存(ぞん)じます。
 私(わたし)が間違(まちが)つた事(こと)を言(い)ひますれば、其處(そこ)に居(ゐ)ます師匠(ししやう)、沙汰(さた)をします筈(はず)。點(とも)つて立(た)つて居(を)ります上(うへ)は、決(けつ)して相違(さうゐ)ないと存(ぞん)じます。數(かず)を取(と)つて御覽(ごらん)ぜ、御覽(ごらん)ぜ……一(ひと)つ、」と杖(つゑ)の尖(さき)をカタ/\と二(ふた)つ鳴(な)らす。
「一(ひ)い……」
「二(ふた)ツ、」と三(みつ)ツ、杖(つゑ)の尖(さき)をコト/\コト。
「三(み)い……四(よ)う……確(たしか)に五本目(ほんめ)……」
「でありませうな。」
「何(ど)うしたと云(い)ふんです。」
「お前樣(まへさま)、此(こ)の暗夜(やみ)に、われらの形(かたち)、崖(がけ)の樣子(やうす)、消(き)えた瓦斯燈(がすとう)の見(み)えますのも、皆(みな)其(そ)の一(ひと)つの影(かげ)なので。然(さ)もない事(こと)には、鼻(はな)を撮(つま)まれたとて分(わか)りませぬが。」
 成程(なるほど)、覺束(おぼつか)ない、ものの形(かたち)も、唯(たゞ)一(ひと)ツ其(そ)の燈(あかり)の影(かげ)なのである……心着(こゝろづ)くと、便(たよ)りない色(いろ)ながら、其(そ)の力(ちから)には、揃(そろ)つて消(き)えた街燈(がいとう)が、時々(とき/″\)ぎら/\と光(ひか)りさへする――靄(もや)が息(いき)を吐(は)いて瞬(またゝ)く中(うち)に、――坂上(さかがみ)の姿(すがた)もふら/\として、
「一體(いつたい)、其(それ)が何(ど)うしたんです。」
「然(さ)れば……其(そ)の五基目(だいめ)に一(ひと)ツ殘(のこ)りました灯(ひ)の下(した)に、何(なに)か見(み)えはいたしませぬか。」
「何(なに)が、」
 と云(い)ふのも聲(こゑ)が震(ふる)ふ、坂上(さかがみ)は又(また)慄然(ぞつ)とした。
「何(なに)か、居(ゐ)はいたしませぬか。」
「何(なん)にも、何(なん)にも居(を)らん。」
「居(を)りませぬか。」
「居(ゐ)ない。」
「居(ゐ)ないが定(ぢやう)に成(な)りませぬ。お前樣(まへさま)が其處(そこ)までお運(はこ)びなさりますれば、必(かなら)ず出(で)ます。……それ故(ゆゑ)に、お留(と)め申(まを)すのでありまして、まあ、お聞(き)きなさりまし。」
 と捻向(ねぢむ)いて、痩按摩(やせあんま)は腰(こし)を屈(かゞ)めながら、丁(ちやう)ど足許(あしもと)に一基(だい)あつた……瓦斯燈(がすとう)の根(ね)を、其處(そこ)に轉(ころ)がつた、ごろた石(いし)なりにカチ/\と杖(つゑ)で鳴(な)らした。が音(おと)も響(ひゞ)かず、靄(もや)に沈(しづ)む。
「先(ま)づ……最(も)う一(ひと)ツ念(ねん)のために申(まを)さうに……われらが居(を)ります此(これ)なる瓦斯燈(がすとう)、唯(たつ)た今(いま)、お前樣(まへさま)を呼留(よびと)めましたなり、一歩(ひとあし)とて後(あと)へも前(まへ)へも動(うご)きませぬ……此(これ)は坂下(さかした)からはじめまして、立(た)ちました瓦斯燈(がすとう)の、十九基(だい)めに相違(さうゐ)ありませぬ。
 間違(まちが)へば、師匠(ししやう)沙汰(さた)をなされます。
 さて、三年(ねん)前(まへ)、……日(ひ)は違(ちが)ひます。なれども、同(おな)じ此(こ)の霜月(しもつき)の夜(よ)さり、丁(ちやう)ど同(おな)じ今(いま)の時刻(じこく)、私(われら)にもお前樣(まへさま)と同(おな)じ事(こと)がありました。……
 其(そ)の頃(ころ)は、決(けつ)して其(そ)の、恁(か)やうな盲目(めくら)ではありませなんだ。」
 と云(い)ふ、まともに坂上(さかがみ)に對(たい)して、向直(むきなほ)つたけれども、俯向(うつむ)いたなりで顏(かほ)は上(あ)げぬ。
「よう似(に)た、お前樣(まへさま)と同(おな)じ事(こと)で、然(さ)る婦(をんな)にあひゞきに參(まゐ)るので、此處(こゝ)を、此(こ)の坂(さか)を、矢張(やは)り、向(むか)つて下(した)から、うか/\と上(あが)りかけたのでありました。
 時(とき)に擦違(すれちが)つたものが、これだけは、些(ち)と樣子(やうす)が違(ちが)ひまして、按摩(あんま)一人(ひとり)だけが見(み)えました。」
 其(そ)の時(とき)、件(くだん)の、長頭(ながあたま)は、くるりと眞背後(まうしろ)にむかうを向(む)いた、歩行出(あるきだ)すか、と思(おも)ふと……熟(じつ)と其(そ)のまゝ。

 婦(をんな)は、と見(み)ると、其(それ)は、夥間(なかま)の話(はなし)を聞(き)くらしく、踞(しやが)んだなりに、くるりと此方(こつち)に向直(むきなほ)つた、帶(おび)も膝(ひざ)も、くな/\と疊(たゝ)まれさうなが、咽喉(のど)のあたりは白(しろ)かつた。
 按摩(あんま)の聲(こゑ)は判然(はつきり)して、
「で、其(それ)で矢張(やつぱ)り、お前樣(まへさま)に私(われら)がしましたやうに、背後(うしろ)から呼留(よびと)めまして、瓦斯(がす)の五基目(だいめ)も、足(あし)もとの十九の數(かず)も、お前樣(まへさま)に今(いま)われらが言(い)うた通(とほ)りの事(こと)を申(まを)します。
 私(われら)はこゝで、其(そ)の通(とほ)りを、最(も)う一度(いちど)申(まを)しますばかりの事(こと)。
 何(なん)で、約束(やくそく)した其(そ)の婦(をんな)に逢(あ)ひに行(い)つては成(な)らぬのかと――今(いま)のお前樣(まへさま)の通(とほ)りを、又(また)其(そ)の時(とき)私(わたし)が尋(たづ)ねますと、彼(あ)の盲人(めくら)が申(まを)すには、」
 其(そ)の盲人(めくら)は、こゝに先達(せんだつ)の其(そ)の長頭(ながあたま)である事(こと)は、自(おのづ)から坂上(さかがみ)の胸(むね)に響(ひゞ)く。
「上(うへ)へ五本(ほん)めの、一(ひと)つ消(き)え殘(のこ)つた瓦斯燈(がすとう)の所(ところ)に、怪(あや)しいものの姿(すがた)が見(み)える……其(それ)は、凡(すべ)て人間(にんげん)の影(かげ)を捉(と)る、影(かげ)を掴(つか)む、影法師(かげぼふし)を啖(くら)ふ魔(ま)ものぢや。
 彼(かれ)めに影(かげ)を吸(す)はるれば、人間(にんげん)は形(かたち)痩(や)せ、嘗(な)めらるれば氣(き)衰(おとろ)へ、蹂躙(ふみにじ)らるれば身(み)を惱(なや)み、吹消(ふきけ)さるゝと命(いのち)が失(う)せる。
 凡(およ)そ、月(つき)と日(ひ)とともに、影法師(かげぼふし)のある所(ところ)、件(くだん)の魔(ま)もの附絡(つきまと)はずと云(い)ふ事(こと)なうて、且(か)つ吸(す)ひ、且(か)つ嘗(な)め、蹂躙(ふみにじ)る。が、いづれ其(そ)の人(ひと)の生命(いのち)に及(およ)ぶには間(ま)があらう。其(それ)もつて大事(だいじ)ぢやに、可恐(おそろ)しいは、今(いま)あるやうな燈(あかり)の場合(ばあひ)。一口(ひとくち)くわつと遣(や)つて、」
 と云(い)つた。按摩(あんま)の唇(くちびる)は尖(とが)つたな!
「立所(たちどころ)に影(かげ)を啖(くら)ふ、啖(く)はるれば、それまでぢや、生命(いのち)にも及(およ)びかねぬ。必(かなら)ず此(こ)の坂(さか)を通(とほ)らるゝな……
 と恁(か)う言(い)ひます。
 私(われら)も血氣(けつき)で、何(なに)を言(い)ふ。第一(だいいち)、其(その)魔(ま)ものとはどんなものか、と突懸(つゝかゝ)つて訊(き)きますと、其(そ)の盲人(めくら)ニヤリともせず、眞實(まじめ)な顏(かほ)をしまして、然(さ)れば、然(さ)れば先(ま)づ、守宮(やもり)が冠(かんむり)を被(かぶ)つたやうな、白犬(しろいぬ)が胴伸(どうの)びして、頭(づ)に山伏(やまぶし)の兜巾(ときん)を頂(いたゞ)いたやうなものぢや、と性(しやう)の知(し)れぬ事(こと)を言(い)ふ。
 いや、聞(き)くよりは見(み)るが疾(はや)い。さあ、生命(いのち)を取(と)られて遣(や)らう、と元來(ぐわんらい)、あたまから眞(まこと)とは思(おも)ひませぬなり。づか/\、其(そ)の、……其處(そこ)の其(そ)の五基(だい)めの瓦斯燈(がすとう)の處(ところ)まで小砂利(こざり)を蹴(け)つて參(まゐ)りますと、道理(もつとも)な事(こと)、何(なん)の仔細(しさい)もありませぬ。
 處(ところ)に、右(みぎ)の盲人(めくら)、カツ/\と杖(つゑ)を鳴(な)らして、刎上(はねあが)つて、飛(と)んで參(まゐ)り、これは無體(むたい)な事(こと)をなされる。……強(きつ)い元氣(げんき)ぢや。私(み)が言(い)うて聞(き)かす事(こと)を眞(まこと)とは思(おも)はぬ汝(こなた)に、言託(ことづ)けるのは無駄(むだ)ぢやらうが、ありやうは、右(みぎ)の魔(ま)ものは、さしあたり汝(こなた)の影(かげ)を、掴(つか)まうとするではない。
 今夜(こんや)……汝(こなた)が逢(あ)ひに行(い)く……其(そ)の婦(をんな)の影(かげ)を捉(と)らうと、豫(かね)てつけ狙(ねら)うて居(を)るによつて、嚴(きびし)い用心(ようじん)、深(ふか)い謹愼(つゝしみ)をしますやう、汝(こなた)を通(つう)じて、其(そ)の心(こゝろ)づけがしたかつたのぢや。
 と恁(か)う又(また)言(い)ふのでありました。」

「まざ/\と譫言(たはこと)吐(つ)く……私(われら)の婦(をんな)知(し)つたりや、と問(と)ひますと、其(それ)を知(し)らいで何(なに)をする……今日(けふ)も晩方(ばんがた)、私(み)が相長屋(あひながや)の女房(にようぼ)が見(み)て來(き)て話(はな)した。谷町(たにまち)の湯屋(ゆや)で逢(あ)うたげな。……よう湯(ゆ)の煙(けむり)で溶(と)けなんだ、白雪(しらゆき)を撫(な)でてふつくりした、其(それ)は、其(それ)は、綺麗(きれい)な膚(はだ)を緋(ひ)で緊(し)めて、淡(うす)い淺葱(あさぎ)の紐(ひも)で結(ゆは)へた、乳(ち)の下(した)する/\辷(すべ)るやうな長襦袢(ながじゆばん)。小春時(こはるどき)の一枚小袖(いちまいこそで)、藍(あゐ)と紺(こん)の小辨慶(こべんけい)、黒繻子(くろじゆす)の帶(おび)に、又(また)緋(ひ)の扱帶(しごき)……髷(まげ)に水色(みづいろ)の絞(しぼ)りの手絡(てがら)。艷(つや)の雫(しづく)のしたゝる鬢(びん)に、ほんのりとした耳(みゝ)のあたり、頸許(えりもと)の美(うつく)しさ。婦同士(をんなどうし)も見惚(みと)れたげで、前(まへ)へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)り、背後(うしろ)で視(なが)め、姿見(すがたみ)に透(す)かして、裸身(はだか)のまゝ、つけまはいて、黒子(ほくろ)が一(ひと)つ、左(ひだり)の乳(ちゝ)の、白(しろ)いつけ際(ぎは)に、ほつりとある事(こと)まで、よう知(し)つたと云(い)ふ話(はなし)。
 何(なん)と、此(こ)の婦(をんな)に相違(さうゐ)あるまい、汝(こなた)が逢(あ)ひに行(ゆ)く其(そ)の婦(をんな)は……
 と又(また)其(そ)の盲人(めくら)が云(い)ふのであります。」
 聞(き)くうちに、坂上(さかがみ)は、ぶる/\と身震(みぶる)ひした。其(それ)は、其處(そこ)に、此(こ)の話(はなし)をする按摩(あんま)の背後(うしろ)に跪(つ)い居(ゐ)て、折(をり)から面(かほ)を背(そむ)けた婦(をんな)が、衣服(きもの)も、帶(おび)も、まさしく、歴然(あり/\)と、其(そ)の言葉通(ことばどほ)りに目(め)に映(うつ)つたためばかりではない。――
 足袋跣足(たびはだし)で出(で)たと云(い)ふ、今夜(こんや)は、もしや、あの友染(いうぜん)に……あの裾模樣(すそもやう)、と思(おも)ふけれども、不斷(ふだん)見馴(みな)れて氣(き)に染(し)みついた、其(そ)の黒繻子(くろじゆす)に、小辨慶(こべんけい)。
 坂上(さかがみ)は血(ち)の冷(ひ)えるあとを赫(くわつ)と成(な)る。
「何(ど)うでありませう。お前樣(まへさま)。此(これ)から逢(あ)ひにおいでなさらうと云(い)ふ、其(そ)の婦(をなご)の方(かた)は、裾模樣(すそもやう)に、錦(にしき)の帶(おび)、緋縮緬(ひぢりめん)の蹴出(けだ)しでも。……其(そ)の黒繻子(くろじゆす)に、小辨慶(こべんけい)の藍(あゐ)と紺(こん)、膚(はだ)の白(しろ)さも可(い)いとして、乳房(ちゝ)の黒子(ほくろ)まで言(い)ひ當(あ)てられました、私(わたし)が其(そ)の時(とき)の心持(こゝろもち)、憚(はゞか)りながら御推量(ごすゐりやう)下(くだ)さりまし。
 こゝな四谷(よツや)の谷底(たにそこ)に、酷(むご)い事(こと)、帶紐(おびひも)取(と)つて、あか裸(はだか)で倒(たふ)されてでも居(を)りますのが、目(め)に見(み)えるやうに思(おも)はれました。
 で、右(みぎ)の其(そ)の盲人(めくら)は、例(れい)の魔(ま)ものは、其(そ)の婦(をんな)の影(かげ)を、嘗(な)めう、吸(す)はう、捉(とら)へよう、蹂躙(ふみにじ)らう、取啖(とりくら)はうとつけ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(まは)す――此(こ)の儀(ぎ)を汝(こなた)から託(ことづ)けて、氣(き)を注(つ)けるやう言(い)ひなさい、と申(まを)したのを、よくも聞(き)かずに、黒雲(くろくも)を捲(ま)いて、飛(と)んで行(ゆ)き、電(いなづま)のやうに、鐵(てつ)の門(もん)、石(いし)の唐戸(からと)にも、遮(さへぎ)らせず、眞赤(まつか)な胸(むね)の炎(ほのほ)で包(つゝ)んで、弱(よわ)い婦(をんな)に逢(あ)ひました。
 影(かげ)を取(と)る、影(かげ)を吸(す)ふ、影(かげ)を嘗(な)める、魔(ま)ものに逢(あ)つた。此(こ)の坂(さか)しか/″\の瓦斯燈(がすとう)のあかりで見(み)て來(き)た。……
 婦(をんな)の家(うち)は、つい此(こ)の居(ゐ)まはりでありました。――
 夜(よる)も晝(ひる)も附※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)(つけまは)すぞ、それ、影(かげ)が薄(うす)いわ、用心(ようじん)せい、とお前樣(まへさま)。
 可哀氣(かはいげ)に、苦勞(くらう)で氣(き)やみに煩(わづら)つて、帶(おび)をしめてもゆるむほど、細々(ほそ/″\)と成(な)つて居(ゐ)るものを、鐵槌(かなづち)で打(う)つやうに、がん/\と、あたまへ響(ひゞ)くまで申(まを)しましたわ。
 他人(ひと)に、膚(はだ)を見(み)せたと思(おも)ふ妬(ねた)みから、――婦(をんな)が膝(ひざ)に突俯(つゝぷ)して、震(ふる)へる聲(こゑ)の下(した)で、途中(とちう)、どんなものに逢(あ)つて誰(だれ)に聞(き)いた話(はなし)だ、と右(みぎ)の影(かげ)を捉(と)る魔(ま)について尋(たづ)ねました時(とき)、――おのれ、胸(むね)に問(と)へ!なぞと云(い)うて、盲人(めくら)から聞(き)いた事(こと)は言(い)はずに了(しま)つたのでありました。
 此(これ)が飛(と)んでもない心得違(こゝろえちが)ひ。其(そ)の盲人(めくら)こそ、其(そ)の婦(をんな)に思(おも)ひを懸(か)けて、影(かげ)のやうに附絡(つきまと)うて、それこそ、婦(をんな)の家(いへ)の居(ゐ)まはりの瓦斯燈(がすとう)のあかりで見(み)れば、守宮(やもり)か、と思(おも)ふ形體(ぎやうたい)で、裏板塀(うらいたべい)、木戸(きど)、垣根(かきね)に、いつも目(め)を赤(あか)く、面(つら)を蒼(あを)く、唇(くちびる)を白(しろ)く附着(くツつ)いて、出入(でい)りを附狙(つけねら)つて居(ゐ)たとの事(こと)。
 はじめから、威(おど)したものが盲人(めくら)と知(し)れれば、婦(をんな)も然(さ)までは呪詛(のろは)れずに濟(す)んだのでありませう。」

「今度(こんど)、……其(そ)の次(つぎ)……段々(だん/\)に婦(をんな)に逢(あ)ふ事(こと)が少(すくな)くなりました。
 兎角(とかく)むかうで、私(われら)を避(さ)けるやうにするのであります。
 ……殺(ころ)して死(し)なう、と逆上(ぎやくじやう)するうち、段々(だん/\)委(くは)しく聞(き)きますと、其(そ)の婦(をんな)が、不思議(ふしぎ)に人(ひと)に逢(あ)ふのを嫌(きら)ふ。妙(めう)に姿(すがた)を隱(かく)したがるのは、此(こ)の、私(われら)ばかりには限(かぎ)らぬ樣子(やうす)。
 終(しまひ)には猫又(ねこまた)が化(ば)けた、妾(めかけ)のやうに、日(ひ)の目(め)を厭(いと)うて、夜(よる)も晝(ひる)も、戸障子(としやうじ)雨戸(あまど)を閉(し)めた上(うへ)を、二重(ぢう)三重(ぢう)に屏風(びやうぶ)で圍(かこ)うて、一室(ひとま)どころに閉籠(とぢこも)つた切(きり)、と言(い)ひます……
 漸(やつ)との思(おも)ひ、念力(ねんりき)で、其(そ)の婦(をんな)を見(み)ました時(とき)は、絹絲(きぬいと)も、むれて、ほろ/\と切(き)れて消(き)えさうに、なよ/\として、唯(たゞ)うつむいて居(ゐ)たのであります。
 顏(かほ)を上(あ)げさした……ト目(め)が、潰(つぶ)れました。へい、いえ、其(そ)の婦(をんな)の兩眼(りやうがん)で。
 聞(き)きますると、私(われら)に、件(くだん)の影(かげ)を捉(と)る魔(ま)ものの話(はなし)を聞(き)いてからは、瞬(またゝ)く間(ま)さへ、瞳(ひとみ)に着(つ)いて、我(われ)と我(わ)が影(かげ)が目前(めさき)を離(はな)れぬ。
 臺所(だいどころ)を出(で)れば引窓(ひきまど)から、縁(えん)に立(た)てば沓脱(くつぬぎ)へ、見返(みかへ)れば障子(しやうじ)へ、壁(かべ)へ、屏風(びやうぶ)へかけて映(うつ)ります。
 映(うつ)ると其(そ)の影(かげ)を、魔(ま)が來(き)て、吸(す)ひさうで、嘗(な)めさうで、踏(ふ)みさうで、揉(も)みさうで、絡(から)みさうで、寢(ね)さうで成(な)らぬ。
 月(つき)の影(かげ)、日(ひ)の影(かげ)、燈(ともしび)の影(かげ)、雪(ゆき)、花(はな)の朧々(おぼろ/\)のあかりにも、見(み)て影(かげ)のない隙(ひま)はなし……影(かげ)あれば其(そ)の不氣味(ぶきみ)さ、可厭(いや)さ、可恐(おそろ)しさ、可忌(いまは)しさに堪兼(たへか)ねる。
 所詮(しよせん)が嵩(かう)じて、眞暗(まつくら)がり。我(わ)が掌(てのひら)は見(み)えいでも、歴々(あり/\)と、影(かげ)は映(うつ)る、燈(あかり)を消(け)しても同(おな)じ事(こと)で。
 次第(しだい)に、床(とこ)の間(ま)の柱(はしら)、天井裏(てんじやううら)、鴨居(かもゐ)、障子(しやうじ)の棧(さん)、疊(たゝみ)のへり。場所(ばしよ)、所(ところ)を變(か)へつゝ、彼(あ)の守宮(やもり)の形(かたち)で、天窓(あたま)にすぽりと何(なに)か被(かぶ)つた、あだ白(じろ)い、胴(どう)の長(なが)い、四足(よつあし)で畝(うね)るものが、ぴつたりと附着(くツつ)いたり、ことりと圓(まる)くなつたり、長々(なが/\)と這(は)ふのが見(み)えたり……やがて、闇(やみ)の中(なか)、枕(まくら)の下(した)にも居(ゐ)るやうに成(な)りました。
 見(み)る毎(たび)に、あツと聲(こゑ)を上(あ)げて、追(お)へば、其(そ)の疾(はや)い事(こと)、ちよろ/\と走(はし)つて消(き)えて、すぐに、のろりと顯(あらは)れる。
 見(み)まい、見(み)まいの氣(き)が逆上(うはず)つて、ものの見(み)えるは目(め)のあるため、と何(なん)とか申(まを)す藥(くすり)を、枕(まくら)をかいもの、仰向(あをむ)けに、髮(かみ)を縛(しば)つた目(め)の中(なか)へ點滴(したゝ)らして、其(そ)の兩眼(りやうがん)を、盲(めくら)にした、と云(い)ふのであります。
 心(こゝろ)も暗夜(やみ)の手(て)を取合(とりあ)つて、爾時(そのとき)はじめて、影(かげ)を捉(と)る魔(ま)ものの話(はなし)は、坂(さか)の途中(とちう)で、一人(ひとり)の盲人(めくら)に聞(き)かされた事(こと)を申(まを)して、其(そ)の脊恰好(せいかつかう)、年(とし)ごろを言(い)ひますと、婦(をんな)は、はツと、はじめて目(め)の覺(さ)めたやうに成(な)つて、さめ/″\と泣出(なきだ)しました。
 思(おも)ひの叶(かな)はぬ意趣返(いしゆがへ)しに、何(なん)と!右(みぎ)の其(そ)の横戀慕(よこれんぼ)の盲人(めくら)に、呪詛(のろ)はれたに相違(さうゐ)ありませぬ。
 頬(ほゝ)の肉(にく)を引掴(ひツつか)んで、口惜涙(くやしなみだ)、無念(むねん)の涙(なみだ)、慚愧(ざんき)の涙(なみだ)も詮(せん)ずれば、たゞ/\最惜(いとを)しさの涙(なみだ)の果(はて)は、おなじ思(おも)ひを一所(いつしよ)にしようと、私(われら)これ又(また)此(こ)の通(とほ)り、兩眼(りやうがん)を我(われ)と我手(わがて)に、……これは針(はり)でズブリと突(つ)いたのでありまする。
 三世(さんぜ)、一娑婆(ひとしやば)、因果(いんぐわ)と約束(やくそく)が繋(つなが)つたと、いづれも發起仕(ほつきつかまつ)り、懺悔(ざんげ)をいたし、五欲(ごよく)を離(はな)れて、唯(たゞ)今(いま)では、其(それ)なる盲人(めくら)ともろともに、三人(さんにん)一所(いつしよ)に、杖(つゑ)を引連(ひきつ)れて、晝(ひる)は面(おもて)が恥(はづ)かしい、夜(よる)とあれば通(とほ)ります……
 路(みち)すがら行逢(ゆきあ)ひました。
 御迷惑(ごめいわく)か存(ぞん)ぜぬが、靄(もや)の袖(そで)の擦合(すれあ)うた御縁(ごえん)とて、ぴつたり胸(むね)に當(あた)る事(こと)がありましたにより、お心着(こゝろづ)け申上(まをしあ)げます……お聞入(きゝい)れ、お取棄(とりす)て、ともお心次第(こゝろしだい)。
 此(こ)の上(うへ)は、さて、何(なに)も存(ぞん)ぜぬ。然(さ)やうなれば、お暇(いとま)を申受(まをしう)けます。」
 言(ことば)の下(した)より、其處(そこ)に、話(はなし)の途中(とちう)から、さめ/″\と泣(な)いて居(ゐ)た婦(をんな)は、悄然(せうぜん)として、しかも、すらりと立(た)つた。
 とぼ/\とした後姿(うしろすがた)で、長頭(ながあたま)から三(みつ)つの姿(すがた)、消(き)えたる瓦斯(がす)に、幻(まぼろし)や、杖(つゑ)の影(かげ)。
 婦(をんな)が、白(しろ)い優(やさ)しい片手(かたて)で立(た)つ時(とき)、眼(め)を拭(ふ)いた布(きれ)が姿(すがた)を偲(しの)ぶ……其(そ)の紅絹(もみ)ばかり、ちら/\と……蝶(てふ)のやうに靄(もや)を縫(ぬ)ひ……
了

底本:「鏡花全集 巻十四」岩波書店
   1942(昭和17)年3月10日第1刷発行
   1987(昭和62)年10月2日第3刷発行
初出:「中央公論 第二十七年第四號」
   1912(明治45)年4月
※「聞(き)き」と「訊(き)き」、「悚然(ぞつ)と」と「慄然(ぞつ)と」、「云(い)ふ」と「言(い)ふ」、「處(ところ)」と「所(ところ)」、「尤(もつと)も」と「道理(もつとも)」、「闇夜(やみ)」と「暗夜(やみ)」と「闇(やみ)」、「乳(ちゝ)」と「乳房(ちゝ)」、「生命(いのち)」と「命(いのち)」、「一(ひと)つ」と「一(ひと)ツ」、「二(ふた)つ」と「二(ふた)ツ」、「裸身(はだか)」と「裸(はだか)」、「歴然(あり/\)」と「歴々(あり/\)」、「其(そ)の時(とき)」と「爾時(そのとき)」、「目(め)」と「眼(め)」、「些(ちつ)と」と「些(ち)と」、「呪詛(のろは)れ」と「呪詛(のろ)はれ」の混在は底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「われら」と「わし」と「み」、「誰」に対するルビの「たれ」と「だれ」、「婦」に対するルビの「をんな」と「をなご」、「乳房」に対するルビの「ちぶさ」と「ちゝ」、「燈」に対するルビの「あかり」と「ともしび」、「電」に対するルビの「いなびかり」と「いなづま」、「掌」に対するルビの「たなごころ」と「たなそこ」と「てのひら」、「首」に対するルビの「かうべ」と「くび」、「矢張」に対するルビの「やつぱ」と「やは」、の混在は底本通りです。
※初出時の表題は「靄」です。
入力:門田裕志
校正:室谷きわ
2022年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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