あらすじ
折口信夫の「死者の書」は、二上山に眠る「耳面刀自」という女性の幽霊をめぐる物語です。語り手は、彼女に魅せられた男であり、死後の世界で、彼女との再会を望む一方で、生前の記憶と自身の存在意義に苦悩しています。美しくも哀しい、生と死、そして記憶と忘却の物語です。
彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱(よど)んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。膝が、肱(ひじ)が、徐(おもむ)ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧(あっ)しかかる黒い巌(いわお)の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀(いわどこ)。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫(しずく)の音。
時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋(つなが)って、ありありと、目に沁(し)みついているようである。
ああ耳面刀自(みみものとじ)。
甦(よみがえ)った語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。
耳面刀自。おれはまだお前を……思うている。おれはきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もっともっと長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。耳面刀自。ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。
古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと起き直ろうとした。だが、筋々が断(き)れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫(くじ)けるような、疼(うず)きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉(ぬばたま)の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓(ひろが)って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想(れんそう)の紐(ひも)に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯(しにが)れたからだに、再(ふたたび)立ち直って来た。
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声(ね)を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田(おさだ)の家を引き出されて、磐余(いわれ)の池に行った。堤の上には、遠捲(とおま)きに人が一ぱい。あしこの萱原(かやはら)、そこの矮叢(ぼさ)から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚(おら)び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚(わめ)き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚(ひとめぼ)れの女の哭(な)き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那(せつな)を、通った気がした。俄(にわ)かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっとそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣(わか)らぬ世界のものになってしまったのだ。
ああ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまったのだ。
足の踝(くるぶし)が、膝の膕(ひつかがみ)が、腰のつがいが、頸(くび)のつけ根が、顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)(こめかみ)が、ぼんの窪が――と、段々上って来るひよめきの為に蠢(うごめ)いた。自然に、ほんの偶然強(こわ)ばったままの膝が、折り屈(かが)められた。だが、依然として――常闇(とこやみ)。
おおそうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女(みこ)――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活(い)けに来ている。
姉御。ここだ。でもおまえさまは、尊い御神(おんかみ)に仕えている人だ。おれのからだに、触ってはならない。そこに居るのだ。じっとそこに、踏み止(とま)って居るのだ。――ああおれは、死んでいる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。そうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通い路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も、来ては居なかったのだな。ああよかった。おれのからだが、天日(てんぴ)に暴(さら)されて、見る見る、腐るところだった。だが、おかしいぞ。こうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言って居たのも今(いんま)の事――だったと思うのだが。昔だ。
おれのここへ来て、間もないことだった。おれは知っていた。十月だったから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻(ね)じちぎられて、何も訣らぬものになったことも。こうつと――姉御が、墓の戸で哭き喚いて、歌をうたいあげられたっけ。「巌岩(いそ)の上に生ふる馬酔木(あしび)を」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌(た)け初めた頃だと知った。おれの骸(むくろ)が、もう半分融け出した時分だった。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。そう言われたので、はっきりもう、死んだ人間になった、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさわって見たら、驚いたことに、おれのからだは、著(き)こんだ著物の下で、※(「月+昔」、第3水準1-90-47)(ほじし)のように、ぺしゃんこになって居た――。
臂(かいな)が動き出した。片手は、まっくらな空(くう)をさした。そうして、今一方は、そのまま、岩牀(いわどこ)の上を掻き捜(さぐ)って居る。
うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山(ふたかみやま)を愛兄弟(いろせ)と思はむ
誄歌(なきうた)が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌ってくれたのだ。其で知ったのは、おれの墓と言うものが、二上山の上にある、と言うことだ。
よい姉御だった。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになってしまった。
其から、どれほどたったのかなあ。どうもよっぽど、長い間だった気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢を醒(さま)された感じだった。其に比べると、今度は深い睡りの後(あと)見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が――。
手にとるようだ。目に見るようだ。心を鎮めて――。鎮めて。でないと、この考えが、復(また)散らかって行ってしまう。おれの昔が、ありありと訣って来た。だが待てよ。……其にしても一体、ここに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫(つま)なのだ。其をおれは、忘れてしまっているのだ。
両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐって居る。そうしてまるで、生き物のするような、深い溜(た)め息(いき)が洩(も)れて出た。
大変だ。おれの著物は、もうすっかり朽(くさ)って居る。おれの褌(はかま)は、ほこりになって飛んで行った。どうしろ、と言うのだ。此おれは、著物もなしに、寝て居るのだ。
筋ばしるように、彼(か)の人のからだに、血の馳(か)け廻るに似たものが、過ぎた。肱(ひじ)を支えて、上半身が闇の中に起き上った。
おお寒い。おれを、どうしろと仰(おっしゃ)るのだ。尊いおっかさま。おれが悪かったと言うのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまいます。
彼の人には、声であった。だが、声でないものとして、消えてしまった。声でない語(ことば)が、何時までも続いている。
くれろ。おっかさま。著物がなくなった。すっぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寝床の上を這いずり廻っているのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたばたやっているおれの、見える奴が居ぬのか。
その唸(うめ)き声のとおり、彼の人の骸は、まるでだだをこねる赤子のように、足もあががに、身あがきをば、くり返して居る。明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分朧(おぼ)ろに、見わけることが出来るようになって来た。どこからか、月光とも思える薄あかりが、さし入って来たのである。
どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆(さ)びついてしまった……。

月は、依然として照って居た。山が高いので、光りにあたるものが少かった。山を照し、谷を輝かして、剰(あま)る光りは、又空に跳ね返って、残る隈々(くまぐま)までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があった。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあって、深々と畝(うね)っている。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになって、俄かに出て来た霞の所為(せい)だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほっとりと、暖かく感じさせて居る。
広い端山(はやま)の群った先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた、輝く大佩帯(おおおび)は、石川である。その南北に渉(わた)っている長い光りの筋が、北の端で急に広がって見えるのは、凡河内(おおしこうち)の邑(むら)のあたりであろう。其へ、山間(やまあい)を出たばかりの堅塩(かたしお)川―大和川―が落ちあって居るのだ。そこから、乾(いぬい)の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列(つらな)って見えるのは、日下江(くさかえ)・永瀬江(ながせえ)・難波江(なにわえ)などの水面であろう[#「あろう」は底本では「あらう」]。
寂(しず)かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたように、しっとりとして静まって居る。谷にちらちらする雪のような輝きは、目の下の山田谷に多い、小桜の遅れ咲きである。
一本の路が、真直に通っている。二上山の男岳(おのかみ)・女岳(めのかみ)の間から、急に降(さが)って来るのである。難波から飛鳥(あすか)の都への古い間道なので、日によっては、昼は相応な人通りがある。道は白々と広く、夜目には、芝草の蔓(は)って居るのすら見える。当麻路(たぎまじ)である。一降(ひとくだ)りして又、大降(おおくだ)りにかかろうとする処が、中だるみに、やや坦(ひらた)くなっていた。梢の尖(とが)った栢(かえ)の木の森。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃って見える。月の光りも薄い木陰全体が、勾配(こうばい)を背負って造られた円塚であった。月は、瞬きもせずに照し、山々は、深く※(「目+匡」、第3水準1-88-81)(まぶた)を閉じている。
こう こう こう。
先刻(さっき)から、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂(しず)けさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
こう こう こう――こう こう こう。
確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわった韻(ひびき)を曳(ひ)いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城(かつらぎ)の峰々である。伏越(ふしごえ)・櫛羅(くしら)・小巨勢(こごせ)と段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へ馳(か)けおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物(きもの)・白い鬘(かずら)、手は、足は、すべて旅の装束(いでたち)である。頭より上に出た杖をついて――。この坦(たいら)に来て、森の前に立った。
こう こう こう。
誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだまは、驚いて一様に、忙しく声を合せた。だが、山は、忽(たちまち)一時の騒擾(そうじょう)から、元の緘黙(しじま)に戻ってしまった。
こう。こう。お出でなされ。藤原南家(なんけ)郎女(いらつめ)の御魂(みたま)。
こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。
お身さまの魂を、今、山たずね尋ねて、尋ねあてたおれたちぞよ。こう こう こう。
九つの杖びとは、心から神になって居る。彼らは、杖を地に置き、鬘を解いた。鬘は此時、唯真白な布に過ぎなかった。其を、長さの限り振り捌(さば)いて、一様に塚に向けて振った。
こう こう こう。
こう言う動作をくり返して居る間に、自然な感情の鬱屈(うっくつ)と、休息を欲するからだの疲れとが、九体の神の心を、人間に返した。彼らは見る間に、白い布を頭に捲(ま)きこんで鬘とし、杖を手にとった旅人として、立っていた。
おい。無言(しじま)の勤めも此までじゃ。
おお。
八つの声が答えて、彼等は訓練せられた所作のように、忽一度に、草の上に寛(くつろ)ぎ、再杖を横えた。
これで大和も、河内との境じゃで、もう魂ごいの行(ぎょう)もすんだ。今時分は、郎女さまのからだは、廬(いおり)の中で魂をとり返して、ぴちぴちして居られようぞ。
ここは、何処だいの。
知らぬかいよ。大和にとっては大和の国、河内にとっては河内の国の大関(おおぜき)。二上の当麻路の関――。
別の長老(とね)めいた者が、説明を続(つ)いだ。
四五十年あとまでは、唯関と言うばかりで、何の標(しるし)もなかった。其があの、近江の滋賀の宮に馴染み深かった、其よ。大和では、磯城(しき)の訳語田(おさだ)の御館(みたち)に居られたお方。池上の堤で命召されたあのお方の骸(むくろ)を、罪人に殯(もがり)するは、災の元と、天若日子(あめわかひこ)の昔語りに任せて、其まま此処にお搬(はこ)びなされて、お埋(い)けになったのが、此塚よ。
以前の声が、もう一層皺(しわ)がれた響きで、話をひきとった。
其時の仰せには、罪人よ。吾子(わこ)よ。吾子の為(し)了(おお)せなんだ荒(あら)び心で、吾子よりももっと、わるい猛(たけ)び心を持った者の、大和に来向うのを、待ち押え、塞(さ)え防いで居ろ、と仰せられた。
ほんに、あの頃は、まだおれたちも、壮盛(わかざか)りじゃったに。今ではもう、五十年昔になるげな。
今一人が、相談でもしかける様な、口ぶりを挿んだ。
さいや。あの時も、墓作りに雇われた。その後も、当麻路の修覆に召し出された。此お墓の事は、よく知って居る。ほんの苗木じゃった栢が、此ほどの森になったものな。畏(こわ)かったぞよ。此墓のみ魂が、河内安宿部(あすかべ)から石担(いしも)ちに来て居た男に、憑(つ)いた時はのう。
九人は、完全に現(うつ)し世(よ)の庶民の心に、なり還(かえ)って居た。山の上は、昔語りするには、あまり寂しいことを忘れて居たのである。時の更け過ぎた事が、彼等の心には、現実にひしひしと、感じられ出したのだろう。
もう此でよい。戻ろうや。
よかろ よかろ。
皆は、鬘をほどき、杖を棄てた白衣の修道者、と言うだけの姿(なり)になった。
だがの。皆も知ってようが、このお塚は、由緒深い、気のおける処ゆえ、もう一度、魂ごいをしておくまいか。
長老の語と共に、修道者たちは、再魂呼(たまよば)いの行を初めたのである。
こう こう こう。

おお……。
異様な声を出すものだ、と初めは誰も、自分らの中の一人を疑い、其でも変に、おじけづいた心を持ちかけていた。も一度、
こう こう こう。
其時、塚穴の深い奥から、冰(こお)りきった、而も今息を吹き返したばかりの声が、明らかに和したのである。
おおう……。
九人の心は、ばらばらの九人の心々であった。からだも亦ちりぢりに、山田谷へ、竹内谷へ、大阪越えへ、又当麻路へ、峰にちぎれた白い雲のように、消えてしまった。
唯畳まった山と、谷とに響いて、一つの声ばかりがする。
おおう……。

万法蔵院の北の山陰に、昔から小な庵室(あんしつ)があった。昔からと言うのは、村人がすべて、そう信じて居たのである。荒廃すれば繕い繕いして、人は住まぬ廬に、孔雀明王像(くじゃくみょうおうぞう)が据えてあった。当麻の村人の中には、稀(まれ)に、此が山田寺である、と言うものもあった。そう言う人の伝えでは、万法蔵院は、山田寺の荒れて後、飛鳥の宮の仰せを受けてとも言い、又御自身の御発起からだとも言うが、一人の尊いみ子が、昔の地を占めにお出でなされて、大伽藍(だいがらん)を建てさせられた。其際、山田寺の旧構を残すため、寺の四至の中、北の隅へ、当時立ち朽(ぐさ)りになって居た堂を移し、規模を小くして造られたもの、と伝え言うのであった。そう言えば、山田寺は、役君小角(えのきみおづぬ)が、山林仏教を創(はじ)める最初の足代(あししろ)になった処だと言う伝えが、吉野や、葛城の山伏行人(やまぶしぎょうにん)の間に行われていた。何しろ、万法蔵院の大伽藍が焼けて百年、荒野の道場となって居た、目と鼻との間に、こんな古い建て物が、残って居たと言うのも、不思議なことである。
夜は、もう更けて居た。谷川の激(たぎ)ちの音が、段々高まって来る。二上山の二つの峰の間から、流れくだる水なのだ。
廬の中は、暗かった。炉を焚(た)くことの少い此辺では、地下(じげ)百姓は、夜は真暗な中で、寝たり、坐ったりしているのだ。でもここには、本尊が祀(まつ)ってあった。夜を守って、仏の前で起き明す為には、御灯(みあかし)を照した。
孔雀明王の姿が、あるかないかに、ちろめく光りである。
姫は寝ることを忘れたように、坐って居た。
万法蔵院の上座の僧綱(そうごう)たちの考えでは、まず奈良へ使いを出さねばならぬ。横佩家(よこはきけ)の人々の心を、思うたのである。次には、女人結界(にょにんけっかい)を犯して、境内深く這入(はい)った罪は、郎女(いらつめ)自身に贖(あがな)わさねばならなかった。落慶のあったばかりの浄域だけに、一時は、塔頭(たっちゅう)塔頭の人たちの、青くなったのも、道理である。此は、財物を施入する、と謂(い)ったぐらいではすまされぬ。長期の物忌みを、寺近くに居て果させねばならぬと思った。其で、今日昼の程、奈良へ向って、早使いを出して、郎女の姿が、寺中に現れたゆくたてを、仔細(しさい)に告げてやったのである。
其と共に姫の身は、此庵室(あんしつ)に暫らく留め置かれることになった。たとい、都からの迎えが来ても、結界を越えた贖いを果す日数だけは、ここに居させよう、と言うのである。
牀(ゆか)は低いけれども、かいてあるにはあった。其替り、天井は無上(むしょう)に高くて、而も萱(かや)のそそけた屋根は、破風(はふ)の脇から、むき出しに、空の星が見えた。風が唸(うな)って過ぎたと思うと、其高い隙から、どっと吹き込んで来た。ばらばら落ちかかるのは、煤(すす)がこぼれるのだろう。明王の前の灯が、一時(いっとき)かっと明るくなった。
その光りで照し出されたのは、あさましく荒(すさ)んだ座敷だけでなかった。荒板の牀の上に、薦筵(こもむしろ)二枚重ねた姫の座席。其に向って、ずっと離れた壁ぎわに、板敷に直(じか)に坐って居る老婆の姿があった。
壁と言うよりは、壁代(かべしろ)であった。天井から吊りさげた竪薦(たつごも)が、幾枚も幾枚も、ちぐはぐに重って居て、どうやら、風は防ぐようになって居る。その壁代に張りついたように坐って居る女、先から※(「亥+欠」、第3水準1-86-30)嗽(しわぶき)一つせぬ静けさである。貴族の家の郎女は、一日もの言わずとも、寂しいとも思わぬ習慣がついて居た。其で、この山陰の一つ家に居ても、溜(た)め息(いき)一つ洩(もら)すのではなかった。昼(ひ)の内此処へ送りこまれた時、一人の姥(うば)のついて来たことは、知って居た。だが、あまり長く音も立たなかったので、人の居ることは忘れて居た。今ふっと明るくなった御灯(みあかし)の色で、その姥の姿から、顔まで一目で見た。どこやら、覚えのある人の気がする。さすがに、姫にも人懐しかった。ようべ家を出てから、女性(にょしょう)には、一人も逢って居ない。今そこに居る姥が、何だか、昔の知り人のように感じられたのも、無理はないのである。見覚えのあるように感じたのは、だが、其親しみ故だけではなかった。
郎女さま。
緘黙(しじま)を破って、却(かえっ)てもの寂しい、乾声(からごえ)が響いた。
郎女は、御存じおざるまい。でも、聴いて見る気はおありかえ。お生れなさらぬ前の世からのことを。それを知った姥でおざるがや。
一旦、口がほぐれると、老女は止めどなく、喋(しゃべ)り出した。姫は、この姥の顔に見知りのある気のした訣(わけ)を、悟りはじめて居た。藤原南家にも、常々、此年よりとおなじような媼(おむな)が、出入りして居た。郎女たちの居る女部屋までも、何時もずかずか這入って来て、憚(はばか)りなく古物語りを語った、あの中臣志斐媼(なかとみのしいのおむな)――。あれと、おなじ表情をして居る。其も、尤(もっとも)であった。志斐老女が、藤氏(とうし)の語部の一人であるように、此も亦、この当麻(たぎま)の村の旧族、当麻真人の「氏の語部」、亡び残りの一人であったのである。
藤原のお家が、今は、四筋に分れて居りまする。じゃが、大織冠(たいしょくかん)さまの代どころでは、ありは致しませぬ。淡海公の時も、まだ一流れのお家でおざりました。併し其頃やはり、藤原は、中臣と二つの筋に岐(わか)れました。中臣の氏人で、藤原の里に栄えられたのが、藤原と、家名の申され初めでおざりました。
藤原のお流れ。今ゆく先も、公家摂※(「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1-89-79)(くげしょうろく)の家柄。中臣の筋や、おん神仕え。差別差別(けじめけじめ)明らかに、御代御代(みよみよ)の宮守(みやまも)り。じゃが、今は今、昔は昔でおざります。藤原の遠つ祖(おや)、中臣の氏の神、天押雲根(あめのおしくもね)と申されるお方の事は、お聞き及びかえ。
今、奈良の宮におざります日の御子さま。其前は、藤原の宮の日のみ子さま。又其前は、飛鳥の宮の日のみ子さま。大和の国中(くになか)に、宮遷(うつ)し、宮奠(さだ)め遊した代々(よよ)の日のみ子さま。長く久しい御代御代に仕えた、中臣の家の神業。郎女さま。お聞き及びかえ。遠い代の昔語り。耳明らめてお聴きなされ。中臣・藤原の遠つ祖あめの押雲根命(おしくもね)。遠い昔の日のみ子さまのお喰(め)しの、飯(いい)と、み酒(き)を作る御料の水を、大和国中残る隈(くま)なく捜し覓(もと)めました。
その頃、国原の水は、水渋(そぶ)臭く、土濁りして、日のみ子さまのお喰しの料(しろ)に叶いません。天の神高天(たかま)の大御祖(おおみおや)教え給えと祈ろうにも、国中は国低し。山々もまんだ天遠し。大和の国とり囲む青垣山では、この二上山。空行く雲の通い路と、昇り立って祈りました。その時、高天の大御祖のお示しで、中臣の祖押雲根命、天の水の湧き口を、此二上山に八(や)ところまで見とどけて、其後久しく、日のみ子さまのおめしの湯水は、代々の中臣自身、此山へ汲みに参ります。お聞き及びかえ。
当麻真人の、氏の物語りである。そうして其が、中臣の神わざと繋(つなが)りのある点を、座談のように語り進んだ姥は、ふと口をつぐんだ。外には、瀬音が荒れて聞えている。中臣・藤原の遠祖が、天二上(あめのふたかみ)に求めた天八井(あめのやい)の水を集めて、峰を流れ降り、岩にあたって漲(みなぎ)り激(たぎ)つ川なのであろう。瀬音のする方に向いて、姫は、掌(たなそこ)を合せた。
併しやがて、ふり向いて、仄暗(ほのぐら)くさし寄って来ている姥の姿を見た時、言おうようない畏(おそろ)しさと、せつかれるような忙しさを、一つに感じたのである。其に、志斐姥の、本式に物語りをする時の表情が、此老女の顔にも現れていた。今、当麻の語部の姥は、神憑(かみがか)りに入るらしく、わなわな震いはじめて居るのである。

ひさかたの  天二上(あめふたかみ)に、
我(あ)が登り   見れば、
とぶとりの  明日香(あすか)
ふる里の   神南備山隠(かむなびごも)り、
家どころ   多(さは)に見え、
豊(ゆた)にし    屋庭(やには)は見ゆ。
弥彼方(いやをち)に   見ゆる家群(いへむら)
藤原の    朝臣(あそ)が宿。
 遠々に    我(あ)が見るものを、
 たか/″\に 我(あ)が待つものを、
処女子(をとめご)は   出で通(こ)ぬものか。
よき耳を   聞かさぬものか。
青馬の    耳面刀自(みゝものとじ)。
 刀自もがも。女弟(おと)もがも。
 その子の   はらからの子の
 処女子の   一人
 一人だに、  わが配偶(つま)に来(こ)よ。

ひさかたの  天二上
二上の陽面(かげとも)に、
生ひをゝり  繁(し)み咲く
馬酔木(あしび)の   にほへる子を
 我が     捉(と)り兼ねて、
馬酔木の   あしずりしつゝ
 吾(あ)はもよ偲(しぬ)ぶ。藤原処女

歌い了(お)えた姥は、大息をついて、ぐったりした。其から暫らく、山のそよぎ、川瀬の響きばかりが、耳についた。
姥は居ずまいを直して、厳かな声音(こわね)で、誦(かた)り出した。
とぶとりの 飛鳥の都に、日のみ子様のおそば近く侍(はべ)る尊いおん方。ささなみの大津の宮に人となり、唐土(もろこし)の学芸(ざえ)に詣(いた)り深く、詩(からうた)も、此国ではじめて作られたは、大友ノ皇子か、其とも此お方か、と申し伝えられる御方。
近江の都は離れ、飛鳥の都の再栄えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言う噂が、立ちました。
高天原広野姫尊(たかまのはらひろぬひめのみこと)、おん怒りをお発しになりまして、とうとう池上の堤に引き出して、お討たせになりました。
其お方がお死にの際(きわ)に、深く深く思いこまれた一人のお人がおざりまする。耳面ノ刀自と申す、大織冠(たいしょくかん)のお娘御でおざります。前から深くお思いになって居た、と云うでもありません。唯、此郎女(いらつめ)も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々(いよいよ)、磐余(いわれ)の池の草の上で、お命召されると言うことを聞いて、一目 見てなごり惜しみがしたくて、こらえられなくなりました。藤原から池上まで、おひろいでお出でになりました。小高い柴(しば)の一むらある中から、御様子を窺(うかご)うて帰ろうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となったのでおざりまする。
もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ
この思いがけない心残りを、お詠みになった歌よ、と私ども当麻(たぎま)の語部の物語りには、伝えて居ります。
その耳面刀自と申すは、淡海公の妹君、郎女の祖父(おおじ)君南家太政大臣(なんけだいじょうだいじん)には、叔母君にお当りになってでおざりまする。
人間の執心と言うものは、怖いものとはお思いなされぬかえ。
其亡き骸は、大和の国を守らせよ、と言う御諚(ごじょう)で、此山の上、河内から来る当麻路の脇にお埋(い)けになりました。其が何と、此世の悪心も何もかも、忘れ果てて清々(すがすが)しい心になりながら、唯そればかりの一念が、残って居る、と申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき、耳面刀自と、其幽界(かくりよ)の目には、見えるらしいのでおざりまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この当麻までお出でになったのでのうて、何でおざりましょう。
当麻路に墓を造りました当時(そのかみ)、石を搬(はこ)ぶ若い衆にのり移った霊(たま)が、あの長歌を謳(うと)うた、と申すのが伝え。
当麻語部媼(たぎまのかたりのおむな)は、南家の郎女の脅える様を想像しながら、物語って居たのかも知れぬ。唯さえ、この深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語り」の癖とは言え、語部の古婆(ふるばば)の心は、自身も思わぬ意地くね悪さを蔵しているものである。此が、神さびた職を寂しく守って居る者の優越感を、充すことにも、なるのであった。
大貴族の郎女は、人の語を疑うことは教えられて居なかった。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語部の物語りである。詞(ことば)の端々までも、真実を感じて、聴いて居る。
言うとおり、昔びとの宿執が、こうして自分を導いて来たことは、まことに違いないであろう。其にしても、ついしか見ぬお姿――尊い御仏と申すような相好が、其お方とは思われぬ。春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざまざと見たお姿。此日本(やまと)の国の人とは思われぬ。だが、自分のまだ知らぬこの国の男子(おのこご)たちには、ああ言う方もあるのか知らぬ。金色の鬢(びん)、金色の髪の豊かに垂れかかる片肌は、白々と袒(ぬ)いで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻隆(たか)く、眉秀で夢見るようにまみを伏せて、右手は乳の辺に挙げ、脇の下に垂れた左手は、ふくよかな掌を見せて……ああ雲の上に朱の唇、匂いやかにほほ笑まれると見た……その俤(おもかげ)。
日のみ子さまの御側仕えのお人の中には、あの様な人もおいでになるものだろうか。我が家の父や、兄人(しょうと)たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しい、と女たちは噂するが、其すら似もつかぬ……。
尊い女性(にょしょう)は、下賤な人と、口をきかぬのが当時の世の掟(おきて)である。何よりも、其語は、下ざまには通じぬもの、と考えられていた。それでも、此古物語りをする姥(うば)には、貴族の語もわかるであろう。郎女は、恥じながら問いかけた。
そこの人。ものを聞こう。此身の語が、聞きとれたら、答えしておくれ。
その飛鳥の宮の日のみ子さまに仕えた、と言うお方は、昔の罪びとらしいに、其が又何とした訣(わけ)で、姫の前に立ち現れては、神々(こうごう)しく見えるであろうぞ。
此だけの語が言い淀(よど)み、淀みして言われている間に、姥は、郎女の内に動く心もちの、凡(およそ)は、気(け)どったであろう。暗いみ灯(あかし)の光りの代りに、其頃は、もう東白みの明りが、部屋の内の物の形を、朧(おぼ)ろげに顕(あらわ)しはじめて居た。
我が説明(ことわけ)を、お聞きわけられませ。神代の昔びと、天若日子(あめわかひこ)。天若日子こそは、天(てん)の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其後(ご)、人の世になっても、氏貴い家々の娘御の閨(ねや)の戸までも、忍びよると申しまする。世に言う「天若みこ」と言うのが、其でおざります。
天若みこ。物語りにも、うき世語りにも申します。お聞き及びかえ。
姥は暫らく口を閉じた。そうして[#「そうして」は底本では「さうして」]言い出した声は、顔にも、年にも似ず、一段、はなやいで聞えた。
「もゝつたふ」の歌、残された飛鳥の宮の執心びと、世々の藤原の一(いち)の媛(ひめ)に祟(たた)る天若みこも、顔清く、声心惹(ひ)く天若みこのやはり、一人でおざりまする。
お心つけられませ。物語りも早、これまで。
其まま石のように、老女はじっとして居る。冷えた夜も、朝影を感じる頃になると、幾らか温みがさして来る。
万法蔵院は、村からは遠く、山によって立って居た。暁早い鶏の声も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥(ねぐらどり)が、近い端山(はやま)の木群(こむら)で、羽振(はぶ)きの音を立て初めている。

おれは活(い)きた。
闇(くら)い空間は、明りのようなものを漂していた。併し其は、蒼黒い靄(もや)の如く、たなびくものであった。
巌ばかりであった。壁も、牀(とこ)も、梁(はり)も、巌であった。自身のからだすらが、既に、巌になって居たのだ。
屋根が壁であった。壁が牀であった。巌ばかり――。触っても触っても、巌ばかりである。手を伸すと、更に堅い巌が、掌に触れた。脚をひろげると、もっと広い磐石(ばんじゃく)の面(おもて)が、感じられた。
纔(わず)かにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸いとったように、岩窟(いわむろ)の中に見えるものはなかった。唯けはい――彼の人の探り歩くらしい空気の微動があった。
思い出したぞ。おれが誰だったか、――訣(わか)ったぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦(しがつひこ)。其が、おれだったのだ。
歓びの激情を迎えるように、岩窟の中のすべての突角が哮(たけ)びの反響をあげた。彼の人は、立って居た。一本の木だった。だが、其姿が見えるほどの、はっきりした光線はなかった。明りに照し出されるほど、纏(まとま)った現(うつ)し身(み)をも、持たぬ彼の人であった。
唯、岩屋の中に矗立(しゅくりつ)した、立ち枯れの木に過ぎなかった。
おれの名は、誰も伝えるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛(いと)しいおれの名は、そうだ。語り伝える子があった筈だ。語り伝えさせる筈の語部も、出来て居ただろうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくしくと胸を刺すようだ。
――子代(こしろ)も、名代(なしろ)もない、おれにせられてしまったのだ。そうだ。其に違いない。この物足らぬ、大きな穴のあいた気持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかったと同前の人間になって、現(うつ)し身(み)の人間どもには、忘れ了(おお)されて居るのだ。憐みのないおっかさま。おまえさまは、おれの妻の、おれに殉死(ともじ)にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子(あわつこ)は、罪びとの子として、何処かへ連れて行かれた。野山のけだものの餌食(えじき)に、くれたのだろう。可愛そうな妻よ。哀なむすこよ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない。劫初(ごうしょ)から末代まで、此世に出ては消える、天(あめ)の下(した)の青人草(あおひとぐさ)と一列に、おれは、此世に、影も形も残さない草の葉になるのは、いやだ。どうあっても、不承知だ。
恵みのないおっかさま。お前さまにお縋(すが)りするにも、其おまえさますら、もうおいででない此世かも知れぬ。
くそ――外(そと)の世界が知りたい。世の中の様子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなって居る。闇の中にばかり瞑(つぶ)って居たおれの目よ。も一度かっと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いて、現し世のありのままをうつしてくれ、……土竜(もぐら)の目なと、おれに貸しおれ。
声は再、寂(しず)かになって行った。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであろう。丑刻(うし)に、静謐(せいひつ)の頂上に達した現し世は、其が過ぎると共に、俄(にわ)かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えそうだった四方の山々の上に、まず木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿(たに)のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和国中(くになか)の、何処からか起る一番鶏のつくるとき。
暁が来たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸(ねやど)から、ひそひそと帰って行くだろう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保っている。午前二時に朝の来る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思わずに、起きあがる。短い暁の目覚めの後、又、物に倚(よ)りかかって、新しい眠りを継ぐのである。
山風は頻(しき)りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋(あいひし)めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひっそとしたけしきに還(かえ)る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈(くま)を持ったように、朧(おぼ)ろになって来た。
岩窟(いわむろ)は、沈々と黝(くら)くなって冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞って垂れている。
耳面刀自(みみものとじ)。おれには、子がない。子がなくなった。おれは、その栄えている世の中には、跡を貽(のこ)して来なかった。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝える子どもを――。
岩牀(いわどこ)の上に、再白々と横って見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりが活(い)きているのであった。
まだ反省のとり戻されぬむくろには、心になるものがあって、心はなかった。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であったに違いはない。自分すら忘れきった、彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁(し)み、干からびた髄の心までも、唯彫(え)りつけられたようになって、残っているのである。

万法蔵院の晨朝(じんちょう)の鐘だ。夜の曙色(あけいろ)に、一度騒立(さわだ)った物々の胸をおちつかせる様に、鳴りわたる鐘の音(ね)だ。一(いっ)ぱし白みかかって来た東は、更にほの暗い明(あ)け昏(ぐ)れの寂けさに返った。
南家(なんけ)の郎女(いらつめ)は、一茎の草のそよぎでも聴き取れる暁凪(あかつきな)ぎを、自身擾(みだ)すことをすまいと言う風に、見じろきすらもせずに居る。
夜(よる)の間(ま)よりも暗くなった廬(いおり)の中では、明王像の立ち処(ど)さえ見定められぬばかりになって居る。
何処からか吹きこんだ朝山颪(おろし)に、御灯(みあかし)が消えたのである。当麻語部(たぎまかたり)の姥(うば)も、薄闇に蹲(うずくま)って居るのであろう。姫は再、この老女の事を忘れていた。
ただ一刻ばかり前、這入(はい)りの戸を揺った物音があった。一度 二度 三度。更に数度。音は次第に激しくなって行った。枢(とぼそ)がまるで、おしちぎられでもするかと思うほど、音に力のこもって来た時、ちょうど、鶏が鳴いた。其きりぴったり、戸にあたる者もなくなった。

新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が来ていた。けれども、頑(かたくな)な当麻氏の語部の古姥の為に、我々は今一度、去年以来の物語りをしておいても、よいであろう。まことに其は、昨(きぞ)の日からはじまるのである。

門をはいると、俄(にわ)かに松風が、吹きあてるように響いた。
一町も先に、固まって見える堂伽藍(がらん)――そこまでずっと、砂地である。
白い地面に、広い葉の青いままでちらばって居るのは、朴(ほお)の木だ。
まともに、寺を圧してつき立っているのは、二上山である。其真下に涅槃仏(ねはんぶつ)のような姿に横っているのが麻呂子山だ。其頂がやっと、講堂の屋の棟に、乗りかかっているようにしか見えない。こんな事を、女人(にょにん)の身で知って居る訣(わけ)はなかった。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合(そうごう)の、出来あがって居たのは疑われぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行った。
此寺の落慶供養のあったのは、つい四五日前(あと)であった。まだあの日の喜ばしい騒ぎの響(とよ)みが、どこかにする様に、麓(ふもと)の村びと等には、感じられて居る程である。
山颪に吹き暴(さら)されて、荒草深い山裾の斜面に、万法蔵院の細々とした御灯の、煽(あお)られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な転変に、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)って居るだろう。此郷に田荘(なりどころ)を残して、奈良に数代住みついた豪族の主人も、その日は、帰って来て居たっけ。此は、天竺(てんじく)の狐の為わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から残っている幻術師(まぼろし)のする迷わしではないか。あまり荘厳(しょうごん)を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆(そそ)られて、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものも、その供人(ともびと)のうちにはあった。
数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼって来て、唯一宇あった萱堂(かやどう)が、忽(たちまち)痕(あと)もなくなった。そんな小な事件が起って、注意を促してすら、そこに、曾(かつ)て美(うるわ)しい福田と、寺の創(はじ)められた代(よ)を、思い出す者もなかった程、それはそれは、微かな遠い昔であった。
以前、疑いを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。当麻の村にありながら、山田寺(やまだでら)と言ったからである。山の背(うしろ)の河内の国安宿部郡(あすかべごおり)の山田谷から移って二百年、寂しい道場に過ぎなかった。其でも一時は、倶舎(くしゃ)の寺として、栄えたこともあったのだった。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舎をひろげ、住侶(じゅうりょ)の数をお殖しになった。おいおい境内になる土地の地形(じぎょう)の進んでいる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。そうなる筈の、風水の相が、「まろこ」の身を招き寄せたのだろう。よしよし墓はそのまま、其村に築くがよい、との仰せがあった。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言う。まろ子というのは、尊い御一族だけに用いられる語で、おれの子というほどの、意味であった。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すような事が、起ったのである。
だが、そう言う物語りはあっても、それは唯、此里の語部の姥(うば)の口に、そう伝えられている、と言うに過ぎぬ古物語りであった。纔(わず)かに百年、其短いと言える時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考えると、同じ昔となってしまった。
旅の若い女性(にょしょう)は、型摺(かたず)りの大様な美しい模様をおいた著(き)る物を襲うて居る。笠は、浅い縁(へり)に、深い縹色(はなだいろ)の布が、うなじを隠すほどに、さがっていた。
日は仲春、空は雨あがりの、爽(さわ)やかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、自(おのずか)ら遠く建って居た。唯凡(およそ)、百人の僧俗が、寺(じ)中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養饗宴(きょうえん)の疲れで、今日はまだ、遅い朝を、姿すら見せずにいる。
その女人は、日に向ってひたすら輝く伽藍(がらん)の廻りを、残りなく歩いた。寺の南境(ざかい)は、み墓山の裾から、東へ出ている長い崎の尽きた所に、大門はあった。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立って居る。丘陵の道をうねりながら登った旅びとは、東の塔の下に出た。雨の後の水気の、立って居る大和の野は、すっかり澄みきって、若昼(わかひる)のきらきらしい景色になって居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡(かたおか)で、ほのぼのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の真中に、旅笠を伏せたように見える遠い小山は、耳無(みみなし)の山(やま)であった。其右に高くつっ立っている深緑は、畝傍山(うねびやま)。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安(はにやす)の池(いけ)ではなかろうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山なのだろう。旅の女子(おみなご)の目は、山々の姿を、一つ一つに辿(たど)っている。天香具山(あめのかぐやま)をあれだと考えた時、あの下が、若い父母(ちちはは)の育った、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き来した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てて伸び上る気持ちになって来るのが抑えきれなかった。
香具山の南の裾に輝く瓦舎(かわらや)は、大官大寺(だいかんだいじ)に違いない。其から更に真南の、山と山との間に、薄く霞んでいるのが、飛鳥の村なのであろう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生い立たれたのであろう。この国の女子に生れて、一足も女部屋を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎(かげろう)の立っている平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。
こう、その女性(にょしょう)は思うている。だが、何よりも大事なことは、此郎女(いらつめ)――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、ここまで歩いて来ているのである。其も、唯のひとりでであった。
家を出る時、ほんの暫し、心を掠(かす)めた――父君がお聞きになったら、と言う考えも、もう気にはかからなくなって居る。乳母があわてて探すだろう、と言う心が起って来ても、却(かえっ)てほのかな、こみあげ笑いを誘う位の事になっている。
山はずっしりとおちつき、野はおだやかに畝(うね)って居る。こうして居て、何の物思いがあろう。この貴(あて)な娘御は、やがて後をふり向いて、山のなぞえについて、次第に首をあげて行った。
二上山。ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すっかり違った胸の悸(ときめ)き。旅の郎女は、脇目も触らず、山に見入っている。そうして、静かな思いの充ちて来る満悦を、深く覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂(い)わば、――平野の里に感じた喜びは、過去生(かこしょう)に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未来世(みらいせ)を思う心躍りだ、とも謂えよう。
塔はまだ、厳重にやらいを組んだまま、人の立ち入りを禁(いまし)めてあった。でも、ものに拘泥することを教えられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初重(しょじゅう)の欄干に、自分のよりかかって居るのに気がついた。そうして、しみじみと山に見入って居る。まるで瞳が、吸いこまれるように。山と自分とに繋(つなが)る深い交渉を、又くり返し思い初めていた。
郎女の家は、奈良東城、右京三条第七坊にある。祖父(おおじ)武智麻呂(むちまろ)のここで亡くなって後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は男壮(おとこざかり)には、横佩(よこはき)の大将(だいしょう)と謂われる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて者(もの)であった。なみの人の竪(たて)にさげて佩く大刀を、横えて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まだそうした官吏としての、華奢(きゃしゃ)な服装を趣向(この)むまでに到って居なかった頃、姫の若い父は、近代の時世装に思いを凝して居た。その家に覲(たず)ねて来る古い留学生や、新来(いまき)の帰化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするようなのとも、亦違うていた。
そうした闊達(かったつ)な、やまとごころの、赴くままにふるもうて居る間に、才(ざえ)優れた族人(うからびと)が、彼を乗り越して行くのに気がつかなかった。姫には叔父、彼――豊成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠(すくな)くとも、姫などはそう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥(だざいのそつ)のはなばなしい生活の装いとして、連れられて行っていた。宮廷から賜る資人(とねり)・※(「にんべん+慊のつくり」、第3水準1-14-36)仗(たち)も、大貴族の家の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らされて、皆任地へついて行った。そうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が来た。
寂(しず)かな屋敷には、響く物音もない時が、多かった。この家も世間どおりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあった。その西側に、小な蔀戸(しとみど)があって[#「あって」は底本では「あつて」]、其をつきあげると、方三尺位な※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)になるように出来ている。そうして、其内側には、夏冬なしに簾(すだれ)が垂れてあって、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦(ふせ)いだ。
それから外廻りは、家の広い外郭になって居て、大炊屋(おおいや)もあれば、湯殿火焼(ひた)き屋(や)なども、下人の住いに近く、立っている。苑(その)と言われる菜畠や、ちょっとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であった。
武智麻呂存生(ぞんしょう)の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家(なんけ)と呼び慣わして来ている。此頃になって、仲麻呂の威勢が高まって来たので、何となく其古い通称は、人の口から薄れて、其に替る称(とな)えが、行われ出した様だった。三条七坊をすっかり占めた大屋敷を、一垣内(ひとかきつ)――一字(ひとあざな)と見倣(みな)して、横佩(よこはき)墻内(かきつ)と言う者が、著しく殖えて来たのである。
その太宰府からの音ずれが、久しく絶えたと思っていたら、都とは目と鼻の難波に、いつか還(かえ)り住んで、遥かに筑紫の政を聴いていた帥の殿であった。其父君から遣された家の子が、一車(ひとくるま)に積み余るほどな家づとを、家に残った家族たち殊に、姫君にと言ってはこんで来た。
山国の狭い平野に、一代一代都遷(みやこうつ)しのあった長い歴史の後、ここ五十年、やっと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なかなか整うまでには、行って居なかった。
官庁や、大寺が、にょっきりにょっきり、立っている外は、貴族の屋敷が、処々むやみに場をとって、その相間相間に、板屋や瓦屋(かわらや)が、交りまじりに続いている。其外は、広い水田と、畠と、存外多い荒蕪地(こうぶち)の間に、人の寄りつかぬ塚や岩群(いわむら)が、ちらばって見えるだけであった。兎や、狐が、大路小路を駆け廻る様なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路(しゅじゃくおおじ)の植え木の梢を、夜になると、※(「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68)鼠(むささび)が飛び歩くと言うので、一騒ぎした位である。
横佩家の郎女が、称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう)を写しはじめたのも、其頃からであった。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒(にぎ)やかにしたのは、此新訳の阿弥陀経(あみだきょう)一巻(いちかん)であった。
国の版図の上では、東に偏り過ぎた山国の首都よりも、太宰府は、遥かに開けていた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠(とお)の宮廷領(みかど)を通過するのであった。唐から渡った書物などで、太宰府ぎりに、都まで出て来ないものが、なかなか多かった。
学問や、芸術の味いを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであった。
南家の郎女(いらつめ)の手に入った称讃浄土経も、大和一国の大寺(おおてら)と言う大寺に、まだ一部も蔵せられて居ぬものであった。
姫は、蔀戸(しとみど)近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。夜も、侍女たちを寝静まらしてから、油火(あぶらび)の下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、夙(はや)くに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉(もみじ)して、其がもう散りはじめた。蟋蟀(こおろぎ)は、昼も苑(その)一面に鳴くようになった。佐保川の水を堰(せ)き入れた庭の池には、遣り水伝いに、川千鳥の啼(な)く日すら、続くようになった。
今朝も、深い霜朝を、何処からか、鴛鴦(おしどり)の夫婦鳥(つまどり)が来て浮んで居ります、と童女(わらわめ)が告げた。
五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれて来た。ほんの纔(わず)かの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるようになった。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰えたなりに、健康は定まって来たように見えた。やや蒼みを帯びた皮膚に、心もち細って見える髪が、愈々(いよいよ)黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言うことを厭(いと)うようになった。そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入って居るのが、皆の注意をひくほどであった。
実際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなった。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがいなさを悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出来ように、と思うからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだろうと言う噂が、京・洛外(らくがい)に広がったのも、其頃である。屋敷中の人々は、上近く事(つか)える人たちから、垣内(かきつ)の隅に住む奴隷(やっこ)・婢奴(めやっこ)の末にまで、顔を輝かして、此とり沙汰を迎えた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかった。其ほど、此頃の郎女は気むつかしく、外目(よそめ)に見えていたのである。
千部手写の望みは、そうした大願から立てられたものだろう、と言う者すらあった。そして誰ひとり、其を否む者はなかった。
南家の姫の美しい膚(はだ)は、益々透きとおり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。そうして、時々声に出して誦(じゅ)する経の文(もん)が、物の音(ね)に譬(たと)えようもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日の事であった。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向って居た。日は、此屋敷からは、稍(やや)坤(ひつじさる)によった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄(にわ)かに転(くるめ)き出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金(おうごん)の丸(まるがせ)になって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽(は)れた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳(しょうごん)な人の俤(おもかげ)が、瞬間顕(あらわ)れて消えた。後(あと)は、真暗な闇の空である。山の端も、雲も何もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝(まさ)って行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を無上(むしょう)の歓喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日の夕方であった。姫は、いつかの春の日のように、坐していた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた長い日の、後(のち)である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟(らんじゅく)した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲(ま)く嵐――。
雲がきれ、光りのしずまった山の端は細く金の外輪を靡(なび)かして居た。其時、男岳・女岳の峰の間に、ありありと浮き出た 髪 頭 肩 胸――。
姫は又、あの俤を見ることが、出来たのである。
南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗って来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。そうして、日を数(と)り初めて、ちょうど、今日と言う日。彼岸中日、春分の空が、朝から晴れて、雲雀(ひばり)は天に翔(かけ)り過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し終えて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であった。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほっと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなって居る。目をあげて見る蔀窓(しとみど)の外には、しとしとと――音がしたたって居るではないか。姫は立って、手ずから簾(すだれ)をあげて見た。雨。
苑(その)の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立って来た。
姫は、立っても坐(い)ても居られぬ、焦躁(しょうそう)に悶(もだ)えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然(ぼうぜん)として、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。

南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。横佩墻内(よこはきかきつ)に住む限りの者は、男も、女も、上の空になって、洛中(らくちゅう)洛外(らくがい)を馳(は)せ求めた。そうした奔(はし)り人(びと)の多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山(たかまどやま)の墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村(やまむら)、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆空足(からあし)を踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿(たど)って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛(はぎ)まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻(もとどり)をとり束ねて、襟から着物の中に、含(くく)み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳(そび)えて居た。毛孔(けあな)の竪(た)つような畏(おそろ)しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、頻(しき)りなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野(あらの)。それに――本村(ほんむら)を遠く離れた、時はずれの、人棲(す)まぬ田居(たい)ばかりである。
片破れ月が、上(あが)って来た。其が却(かえっ)て、あるいている道の辺(ほとり)の凄(すご)さを照し出した。其でも、星明りで辿って居るよりは、よるべを覚えて、足が先へ先へと出た。月が中天へ来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり白んで来た。
夜のほのぼの明けに、姫は、目を疑うばかりの現実に行きあった。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占って居るようだった。そう言う女どものふるまいに、特別に気は牽(ひ)かれなかった郎女だけれど、よく其人々が、「今朝の朝目がよかったから」「何と言う情ない朝目でしょう」などと、そわそわと興奮したり、むやみに塞(ふさ)ぎこんだりして居るのを、見聞きしていた。
郎女(いらつめ)は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂(い)った語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗(にぬ)りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。そうして、門から、更に中門が見とおされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配(こうばい)に建てられた堂・塔・伽藍(がらん)は、更に奥深く、朱(あけ)に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかった。其寂寞(せきばく)たる光りの海から、高く抽(ぬき)でて見える二上の山。淡海公の孫、大織冠(たいしょくかん)には曾孫。藤氏族長太宰帥、南家(なんけ)の豊成、其第一嬢子(だいいちじょうし)なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行(いざ)り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女のことである。順道(じゅんとう)ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡(ひらおか)の御神か、春日の御社(みやしろ)に、巫女(みこ)の君として仕えているはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗(ほのぐら)い女部屋に起き臥ししている人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おうしたてられて来た。
寺の浄域が、奈良の内外(うちと)にも、幾つとあって、横佩墻内(よこはきかきつ)と讃えられている屋敷よりも、もっと広大なものだ、と聞いて居た。そうでなくても、経文の上に伝えた浄土の荘厳(しょうごん)をうつすその建て物の様は想像せぬではなかった。だが目(ま)のあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであった。之に似た驚きの経験は曾(かつ)て一度したことがあった。姫は今其を思い起して居る。簡素と豪奢(ごうしゃ)との違いこそあれ、驚きの歓喜は、印象深く残っている。
今の太上天皇様が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳の南家の郎女は、童女(わらわめ)として、初の殿上(てんじょう)をした。穆々(ぼくぼく)たる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで、流れて居た。昼すら真夜(まよ)に等しい、御帳台(みちょうだい)のあたりにも、尊いみ声は、昭々(しょうしょう)と珠(たま)を揺る如く響いた。物わきまえもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になって生れたことよ」と仰せられた、と言う畏(おそ)れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十(はたち)になっていた。幼いからの聡(さと)さにかわりはなくて、玉・水精(すいしょう)の美しさが益々加って来たとの噂が、年一年と高まって来る。
姫は、大門の閾(しきみ)を越えながら、童女殿上の昔の畏(かしこ)さを、追想して居たのである。長い甃道(いしきみち)を踏んで、中門に届く間にも、誰一人出あう者がなかった。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔(つつま)しく併しのどかに、御堂御堂を拝んで、岡の東塔に来たのである。
ここからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考え浮べることも、しなかったであろう。まして、家人たちが、神隠しに遭(お)うた姫を、探しあぐんで居ようなどとは、思いもよらなかったのである。唯うっとりと、塔の下(もと)から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現(うつ)し世(よ)の目からは見えぬ姿を惟(おも)い観(み)ようとして居るのであろう。
此時分になって、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝(じんちょう)の勤めの間も、うとうとして居た僧たちは、爽(さわ)やかな朝の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いて、食堂(じきどう)へ降りて行った。奴婢(ぬひ)は、其々もち場持ち場の掃除を励む為に、ようべの雨に洗ったようになった、境内の沙地(すなじ)に出て来た。
そこにござるのは、どなたぞな。
岡の陰から、恐る恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴(やっこ)は、あるべからざる事を見た様に、自分自身を咎(とが)めるような声をかけた。女人の身として、這入(はい)ることの出来ぬ結界を犯していたのだった。姫は答えよう、とはせなかった。又答えようとしても、こう言う時に使う語には、馴れて居ぬ人であった。
若(も)し又、適当な語を知って居たにしたところで、今はそんな事に、考えを紊(みだ)されては、ならぬ時だったのである。
姫は唯、山を見ていた。依然として山の底に、ある俤(おもかげ)を観じ入っているのである。寺奴は、二言とは問いかけなかった。一晩のさすらいでやつれては居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断は、つかぬ筈はなかった。又暫らくして、四五人の跫音(あしおと)が、びたびたと岡へ上って来た。年のいったのや、若い僧たちが、ばらばらと走って、塔のやらいの外まで来た。
ここまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人(にょにん)は、とっとと出てお行きなされ。
姫は、やっと気がついた。そうして、人とあらそわぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで来た。
見れば、奈良のお方そうなが、どうして、そんな処にいらっしゃる。
それに又、どうして、ここまでお出でだった。伴(とも)の人も連れずに――。
口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめいめい、貴い女性をいたわる気持ちになって居た。
山をおがみに……。
まことに唯一詞(ひとこと)。当の姫すら思い設けなんだ詞(ことば)が、匂うが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下(ぼんげ)の家々の語とは、すっかり変って居た。だから言い方も、感じ方も、其うえ、語其ものさえ、郎女の語が、そっくり寺の所化輩(しょけはい)には、通じよう筈がなかった。
でも其でよかったのである。其でなくて、語の内容が、其まま受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女、と思われてしまったであろう。
それで、御館(みたち)はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問うのだよ――。
おお。家はとや。右京藤原南家……。
俄然(がぜん)として、群集の上にざわめきが起った。四五人だったのが、あとから後から登って来た僧たちも加って、二十人以上にもなって居た。其が、口々に喋(しゃべ)り出したものである。
ようべの嵐に、まだ残りがあったと見えて、日の明るく照って居る此小昼(こびる)に、又風が、ざわつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方(こなた)にも小桜の花が、咲き出したのである。
此時分になって、奈良の家では、誰となく、こんな事を考えはじめていた。此はきっと、里方の女たちのよくする、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習しである。春秋の、日と夜と平分する其頂上に当る日は、一日、日の影を逐(お)うて歩く風が行われて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送って行く女衆が多かった。そうして、夜に入ってくたくたになって、家路を戻る。此為来(しきた)りを何時となく、女たちの咄(はな)すのを聞いて、姫が、女の行として、この野遊びをする気になられたのだ、と思ったのである。こう言う、考えに落ちつくと、ありようもない考えだと訣(わか)って居ても、皆の心が一時、ほうと軽くなった。
ところが、其日も昼さがりになり、段々夕光(ゆうかげ)の、催して来る時刻が来た。昨日は、駄目になった日の入りの景色が、今日は中日にも劣るまいと思われる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなって居た。

奈良の都には、まだ時おり、石城(しき)と謂(い)われた石垣を残して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符(だいじょうがんぷ)で、其を家の周りに造ることが、禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなって居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代御一代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあった。其で凡(およそ)、都遷(みやこうつ)しのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城(とじょう)の姿は備えて行った。其数朝の間に、旧族の屋敷は、段々、家構えが整うて来た。
葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣(そがのおみ)なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城(しき)なども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城づくりの屋敷を構えるようになって行った。
蘇我臣一流(ひとなが)れで最栄えた島の大臣家(おとどけ)の亡びた時分から、石城の構えは禁(と)められ出した。
この国のはじまり、天から授けられたと言う、宮廷に伝わる神の御詞(みことば)に背く者は、今もなかった。が、書いた物の力は、其が、どのように由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いて居た。
其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様(たかまのはらひろぬひめのみことさま)の思召(おぼしめ)しで、其から一里北の藤井个(が)原に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様(もろこしよう)の端正(きらきら)しさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来(いまき)の高麗馬(こま)に跨(またが)って、馬上で通う風流士(たわれお)もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖(さぎす)の阪の北、香具山の麓(ふもと)から西へ、新しく地割りせられた京城(けいじょう)の坊々(まちまち)に屋敷を構え、家造りをした。その次の御代になっても、藤原の都は、日に益し、宮殿が建て増されて行って、ここを永宮(とこみや)と遊ばす思召しが、伺われた。その安堵(あんど)の心から、家々の外には、石城を廻すものが、又ぼつぼつ出て来た。そうして、そのはやり風俗が、見る見るうちに、また氏々の族長の家囲いを、あらかた石にしてしまった。その頃になって、天真宗豊祖父尊様(あめまむねとよおおじのみことさま)がおかくれになり、御母(みおや) 日本根子天津御代豊国成姫(やまとねこあまつみよとよくになすひめ)の大尊様(おおみことさま)がお立ち遊ばした。その四年目思いもかけず、奈良の都に宮遷しがあった。ところがまるで、追っかけるように、藤原の宮は固(もと)より、目ぬきの家並みが、不意の出火で、其こそ、あっと言う間に、痕形(あとかた)もなく、空(そら)の有(もの)となってしまった。もう此頃になると、太政官符(だいじょうがんぷ)に、更に厳しい添書(ことわき)がついて出ずとも、氏々の人は皆、目の前のすばやい人事自然の交錯した転変に、目を瞠(みは)るばかりであったので、久しい石城の問題も、其で、解決がついて行った。
古い氏種姓(うじすじょう)を言い立てて、神代以来の家職の神聖を誇った者どもは、其家職自身が、新しい藤原奈良の都には、次第に意味を失って来ている事に、気がついて居なかった。
最早くそこに心づいた、姫の祖父淡海公などは、古き神秘を誇って来た家職を、末代まで伝える為に、別に家を立てて中臣の名を保とうとした。そうして、自分・子供ら・孫たちと言う風に、いちはやく、新しい官人(つかさびと)の生活に入り立って行った。
ことし、四十を二つ三つ越えたばかりの大伴家持(おおとものやかもち)は、父旅人(たびと)の其年頃よりは、もっと優れた男ぶりであった。併し、世の中はもう、すっかり変って居た。見るもの障るもの、彼の心を苛(いら)つかせる種にならぬものはなかった。淡海公の、小百年前に実行して居る事に、今はじめて自分の心づいた鈍(おぞ)ましさが、憤らずに居られなかった。そうして、自分とおなじ風の性向の人の成り行きを、まざまざ省みて、慄然(りつぜん)とした。現に、時に誇る藤原びとでも、まだ昔風の夢に泥(なず)んで居た南家の横佩(よこはき)右大臣は、さきおととし、太宰員外帥(だざいのいんがいのそつ)に貶(おと)されて、都を離れた。そうして今は、難波で謹慎しているではないか。自分の親旅人も、三十年前に踏んだ道である。
世間の氏上家(うじのかみけ)の主人(あるじ)は、大方もう、石城など築き廻(まわ)して、大門小門を繋(つな)ぐと謂(い)った要害と、装飾とに、興味を失いかけて居るのに、何とした自分だ。おれはまだ現に、出来るなら、宮廷のお目こぼしを頂いて、石に囲われた家の中で、家の子どもを集め、氏人たちを召(よ)びつどえて、弓場(ゆば)に精励させ、棒術(ほこゆけ)・大刀かきに出精させよう、と謂ったことを空想して居る。そうして年々(としどし)頻繁に、氏神其外の神々を祭っている。其度毎に、家の語部大伴語造(おおとものかたりのみやつこ)の嫗(おむな)たちを呼んで、之に捉(つかま)え処もない昔代(むかしよ)の物語りをさせて、氏人に傾聴を強いて居る。何だか、空(くう)な事に力を入れて居たように思えてならぬ寂しさだ。
だが、其氏神祭りや、祭りの後宴(ごえん)に、大勢の氏人の集ることは、とりわけやかましく言われて来た、三四年以来の法度(はっと)である。
こんな溜(た)め息(いき)を洩(もら)しながら、大伴氏の旧(ふる)い習しを守って、どこまでも、宮廷守護の為の武道の伝襲に、努める外はない家持だったのである。
越中守として踏み歩いた越路の泥のかたが、まだ行縢(むかばき)から落ちきらぬ内に、もう復(また)、都を離れなければならぬ時の、迫って居るような気がして居た。其中、此針の筵(むしろ)の上で、兵部少輔(ひょうぶしょう)から、大輔(たいふ)に昇進した。そのことすら、益々脅迫感を強める方にばかりはたらいた。今年五月にもなれば、東大寺の四天王像の開眼が行われる筈で、奈良の都の貴族たちには、すでに寺から内見を願って来て居た。そうして、忙しい世の中にも、暫らくはその評判が、すべてのいざこざをおし鎮める程に、人の心を浮き立たした。本朝出来の像としてはまず、此程物凄い天部(てんぶ)の姿を拝んだことは、はじめてだ、と言うものもあった。神代の荒神(あらがみ)たちも、こんな形相でおありだったろう、と言う噂も聞かれた。
まだ公(おおやけ)の供養もすまぬのに、人の口はうるさいほど、頻繁に流説をふり撒(ま)いていた。あの多聞天と、広目天との顔つきに、思い当るものがないか、と言うのであった。此はここだけの咄(はなし)だよ、と言って話したのが、次第に広まって、家持の耳までも聞えて来た。なるほど、憤怒の相もすさまじいにはすさまじいが、あれがどうも、当今大倭(やまと)一だと言われる男たちの顔、そのままだと言うのである。貴人は言わぬ、こう言う種類の噂は、えて供をして見て来た道々の博士たちと謂った、心蔑(さも)しいものの、言いそうな事である。
多聞天は、大師藤原恵美中卿(ちゅうけい)だ。あの柔和な、五十を越してもまだ、三十代の美しさを失わぬあの方が、近頃おこりっぽくなって、よく下官や、仕え人を叱るようになった。あの円満(うま)し人(びと)が、どうしてこんな顔つきになるだろう、と思われる表情をすることがある。其面(おも)もちそっくりだ、と尤(もっとも)らしい言い分なのである。
そう言えば、あの方が壮盛(わかざか)りに、棒術を嗜(この)んで、今にも事あれかしと謂った顔で、立派な甲(よろい)をつけて、のっしのっしと長い物を杖(つ)いて歩かれたお姿が、あれを見ていて、ちらつくようだなど、と相槌(あいづち)をうつ者も出て来た。
其では、広目天の方はと言うと、
さあ、其がの――。
と誰に言わせても、ちょっと言い渋るように、困った顔をして見せる。
実は、ほんの人の噂だがの。噂だから、保証は出来ぬがの。義淵僧正の弟子の道鏡法師に、似てるぞなと言うがや。……けど、他人(ひと)に言わせると、――あれはもう、二十幾年にもなるかいや――筑紫で伐(う)たれなされた前太宰少弐(ぜんだざいのしょうに)―藤原広嗣―の殿に生写(しょううつ)しじゃ、とも言うがいよ。
わしには、どちらとも言えんがの。どうでも、見たことのあるお人に似て居さっしゃるには、似ていさっしゃるげなが……。
何しろ、此二つの天部が、互に敵視するような目つきで、睨(にら)みあって居る。噂を気にした住侶(じゅうりょ)たちが、色々に置き替えて見たが、どの隅からでも、互に相手の姿を、眦(まなじり)を裂いて見つめて居る。とうとうあきらめて、自然にとり沙汰の消えるのを待つより為方(しかた)がない、と思うようになったと言う。
若(も)しや、天下に大乱でも起らなければええが――。
こんな※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)きは、何時までも続きそうに、時と共に倦(う)まずに語られた。
前少弐殿でなくて、弓削新発意(ゆげしんぼち)の方であってくれれば、いっそ安心だがなあ。あれなら、事を起しそうな房主でもなし。起したくても、起せる身分でもないじゃまで――。
言いたい傍題(ほうだい)な事を言って居る人々も、たった此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の大師恵美朝臣(えみのあそん)の姪の横佩家(よこはきけ)の郎女(いらつめ)が、神隠しに遭(お)うたと言う、人の口の端に、旋風(つじかぜ)を起すような事件が、湧き上ったのである。

兵部大輔(ひょうぶたいふ)大伴家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちょうど、春分から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやって居た。二人ばかりの資人(とねり)が徒歩(かち)で、驚くほどに足早について行く。此は、晋唐の新しい文学の影響を、受け過ぎるほど享(う)け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなった癖である。こうして、何処まで行くのだろう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほほけて、霞のように飛んで居る。向うには、低い山と、細長い野が、のどかに陽炎(かげろ)うばかりである。資人の一人が、とっとと追いついて来たと思うと、主人の鞍(くら)に顔をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすごうた知り人の口から、聞いたばかりの噂である。
それで、何か――。娘御の行くえは知れた、と言うのか。
はい……。いいえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
この間抜け。話はもっと上手に聴くものだ。
柔らかく叱った。そこへ今(も)一人の伴(とも)が、追いついて来た。息をきらしている。
ふん。汝(わけ)は聞き出したね。南家(なんけ)の嬢子(おとめ)は、どうなった――。
出端(でばな)に油かけられた資人は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の、自由な咄(はな)し方で、まともに鼻を蠢(うごめか)して語った。
当麻(たぎま)の邑(むら)まで、おととい夜(よ)の中に行って居たこと、寺からは、昨日午後横佩墻内(かきつ)へ知らせが届いたこと其外には、何も聞きこむ間のなかったことまで。家持の聯想(れんそう)は、環(わ)のように繋(つなが)って、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであった。
南家で持って居た藤原の氏上(うじのかみ)職が、兄の家から、弟仲麻呂―押勝―の方へ移ろうとしている。来年か、再来年(さらいねん)の枚岡祭りに、参向する氏人の長者は、自然かの大師のほか、人がなくなって居る。恵美家からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子(だいいちじょうし)をくれとせがまれて居る。先日も、久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代って返し歌を作って遣した。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文(けそうぶみ)が、来ていた。
その壻候補(むこがね)の父なる人は、五十になっても、若かった頃の容色に頼む心が失せずにいて、兄の家娘にも執心は持って居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る。此は、横佩家へも出入りし、大伴家へも初中終(しょっちゅう)来る古刀自(ふるとじ)の、人のわるい内証話であった。其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡(もた)げて来て困った。仲麻呂は今年、五十を出ている。其から見れば、ひとまわりも若いおれなどは、思い出にもう一度、此匂やかな貌花(かおばな)を、垣内(かきつ)の坪苑(つぼ)に移せぬ限りはない。こんな当時の男が、皆持った心おどりに、はなやいだ、明るい気がした。
だが併し、あの郎女は、藤原四家の系統(すじ)で一番、神(かん)さびたたちを持って生れた、と謂(い)われる娘御である。今、枚岡の御神に仕えて居る斎(いつ)き姫(ひめ)の罷(や)める時が来ると、あの嬢子(おとめ)が替って立つ筈だ。其で、貴い所からのお召しにも応じかねて居るのだ。……結局、誰も彼も、あきらめねばならぬ時が来るのだ。神の物は、神の物――。横佩家の娘御は、神の手に落ちつくのだろう。
ほのかな感傷が、家持の心を浄(きよ)めて過ぎた。おれは、どうもあきらめが、よ過ぎる。十(とお)を出たばかりの幼さで、母は死に、父は疾(や)んで居る太宰府へ降(くだ)って、夙(はや)くから、海の彼方(あなた)の作り物語りや、唐詩(もろこしうた)のおかしさを知り初(そ)めたのが、病みつきになったのだ。死んだ父も、そうした物は、或は、おれよりも嗜(す)きだったかも知れぬほどだが、もっと物に執著(しゅうじゃく)が深かった。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を悩まして居た。おれも考えれば、たまらなくなって来る。其で、氏人を集めて喩(さと)したり、歌を作って訓諭して見たりする。だがそうした後の気持ちの爽(さわ)やかさは、どうしたことだ。洗い去った様に、心が、すっとしてしまうのだった。まるで、初めから家の事など考えて居なかった、とおなじすがすがしい心になってしまう。
あきらめと言う事を、知らなかった人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑(すぐ)れた、と伝えられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてこうだろう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋(つなが)らず、段々気にかかるものが、薄らぎ出して来ている。
ほう これは、京極(きょうはて)まで来た。
朱雀大路も、ここまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも区画にも、家は建って居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍(やや)茎を立て初めたのとがまじりあって、屋敷地から喰(は)み出し、道の上までも延びて居る。
こんな家が――。
驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構えの家が、建ちかかって居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事(しごと)に這入(はい)ったらしい木の道の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形(じぎょう)が出来て、見た目にもさっぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代えた垣、此頃言い出した築土垣(つきひじがき)というのは、此だな、と思って、じっと目をつけて居た。見る見る、そうした新しい好尚(このみ)のおもしろさが、家持の心を奪うてしまった。
築土垣の処々に、きりあけた口があって、其に、門が出来て居た。そうして、其処から、頻(しき)りに人が繋っては出て来て、石を曳(ひ)く。木を搬(も)つ。土を搬(はこ)び入れる。重苦しい石城(しき)。懐しい昔構え。今も、家持のなくなしたくなく考えている屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となって、彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
おれには、だが、この築土垣を択(と)ることが出来ぬ。
家持の乗馬(じょうめ)は再、憂鬱(ゆううつ)に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角(まちかど)を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
こんなにも、変って居たのかねえ。
ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
……旧草(ふるくさ)に 新草(にひくさ)まじり、生ひば 生ふるかに――だな。
近頃見つけた歌※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)所(かぶしょ)の古記録「東歌(あずまうた)」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
そうだ。「おもしろき野(ぬ)をば 勿(な)焼きそ」だ。此でよいのだ。
けげんな顔を仰(あおむけ)けている伴人(ともびと)らに、柔和な笑顔を向けた。
そうは思わぬか。立ち朽(ぐさ)りになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
仰(おっしゃ)るとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋は蝗(いなご)まろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
今一人が言う。
建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣(つきひじがき)を築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年三形王(みかたのおおきみ)の御殿での宴(うたげ)に誦(くちずさ)んだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
うつり行く時見る毎に、心疼(いた)く 昔の人し 思ほゆるかも
目をあげると、東の方春日の杜(もり)は、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋(みかさ)山・高円(たかまど)山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和(はるびより)になって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむしは迹(あと)を潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京(おおやまとへいせいけい)の土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、跨(またが)って居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、夥(おびただ)しい数の氏人などから、すっかり截(き)り離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人(おおやまとびと)である。おれには、憂鬱(ゆううつ)な家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心は饒(にぎ)わしく和らいで来て、為方がなかった。
おい、汝(わけ)たち。大伴氏上家(うじのかみけ)も、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
二人の声が、おなじ感情から迸(ほとばし)り出た。
年の増した方の資人(とねり)が、切実な胸を告白するように言った。
私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門(みかど)御垣(みかき)と、関係深い称(とな)えだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧(ごろう)じませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪(のろ)い申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族を蔑(ないがしろ)に致すことになりましょう。
こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持は忙(あわ)てて、資人の口を緘(と)めた。
うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談(じょうだん)だ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、晩(おそ)かれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群(へぐり)の丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
珍しい発見をしたように、彼は馬から身を翻(かえ)しておりた。二人の資人はすぐ、馳(か)け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かい柵(さく)をし囲(めぐ)らし、目隠しに枳殻(からたちばな)の叢生(やぶ)を作った家の外構えの一個処に、まだ石城(しき)が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
荒れては居るが、ここは横佩墻内(よこはきかきつ)だ。
そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとり毀(こぼ)たないとか申します。何分、帥(そつ)の殿のお都入りまでは、何としても、此儘(このまま)で置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女(いらつめ)のお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い魂(たま)や、霊(もの)が、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館(みたち)も、古いおところだけに、心得のある長老(おとな)の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。

おとめの閨戸(ねやど)をおとなう風(ふう)は、何も、珍しげのない国中の為来(しきた)りであった。だが其にも、曾(かつ)てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老(とね)たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入(はい)れ相(そう)に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神(もの)から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼(もの)との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲(す)むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚(はばか)りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸(しとみど)をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美(くわ)し女(め)の家に、奴隷(やっこ)になって住みこんだ古(いにしえ)の貴(あて)びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼神(もの)に入りこんで来い、と呼びかけるのと同じことだ。京の年よりにもあったし、田舎の村々では、之を言い立てに、ちっとでも、石城を残して置こうと争うた人々が、多かったのである。
そう言う家々では、実例として恐しい証拠を挙げた。卅年も昔、――天平八年厳命が降(くだ)って、何事も命令のはかばかしく行われぬのは、朝臣(ちょうしん)が先って行わぬからである。汝等(みましたち)進んで、石城(しき)を毀(こぼ)って、新京の時世装に叶うた家作りに改めよと、仰せ下された。藤氏四流の如き、今に旧態を易(か)えざるは、最其位に在るを顧みざるものぞ、とお咎(とが)めが降(くだ)った。此時一度、凡(すべて)、石城はとり毀たれたのである。ところが、其と時を同じくして、疱瘡(もがさ)がはやり出した。越えて翌年、益々盛んになって、四月北家を手初めに、京家・南家と、主人から、まず此時疫(じえき)に亡くなって、八月にはとうとう、式家の宇合卿(うまかいきょう)まで仆(たお)れた。家に、防ぐ筈の石城が失せたからだと、天下中の人が騒いだ。其でまた、とり壊した家も、ぼつぼつ旧(もと)に戻したりしたことであった。
こんなすさまじい事も、あって過ぎた夢だ。けれどもまだ、まざまざと人の心に焼きついて離れぬ、現(うつつ)の恐しさであった。
其は其として、昔から家の娘を守った邑々(むらむら)も、段々えたいの知れぬ村の風に感染(かま)けて、忍(しの)び夫(づま)の手に任せ傍題(ほうだい)にしようとしている。そうした求婚(つまどい)の風を伝えなかった氏々の間では、此は、忍び難い流行であった。其でも男たちは、のどかな風俗を喜んで、何とも思わぬようになった。が、家庭の中では、母・妻・乳母(おも)たちが、いまだにいきり立って、そうした風儀になって行く世間を、呪(のろ)いやめなかった。
手近いところで言うても、大伴宿禰(すくね)にせよ。藤原朝臣(あそん)にせよ。そう謂(い)う妻どいの式はなくて、数十代宮廷をめぐって、仕えて来た邑々のあるじの家筋であった。
でも何時か、そうした氏々の間にも、妻迎えの式には、
八千矛の神のみことは、とほ/″\し、高志(こし)の国に、美(くわ)し女(め)をありと聞かして、賢(さか)し女(め)をありと聞(きこ)して……
から謡い起す神語歌(かみがたりうた)を、語部に歌わせる風が、次第にひろまって来るのを、防ぎとめることが出来なくなって居た。
南家(なんけ)の郎女(いらつめ)にも、そう言う妻覓(つまま)ぎ人が――いや人群(ひとむれ)が、とりまいて居た。唯、あの型ばかり取り残された石城の為に、何だか屋敷へ入ることが、物忌み――たぶう――を犯すような危殆(ひあい)な心持ちで、誰も彼も、柵(さく)まで又、門まで来ては、かいまみしてひき還(かえ)すより上の勇気が、出ぬのであった。
通(かよ)わせ文(ぶみ)をおこすだけが、せめてものてだてで、其さえ無事に、姫の手に届いて、見られていると言う、自信を持つ人は、一人としてなかった。事実、大抵、女部屋の老女(とじ)たちが、引ったくって渡させなかった。そうした文のとりつぎをする若人―若女房―を呼びつけて、荒けなく叱って居る事も、度々見かけられた。
其方(おもと)は、この姫様こそ、藤原の氏神にお仕え遊ばす、清らかな常処女(とこおとめ)と申すのだ、と言うことを知らぬのかえ。神の咎(とが)めを憚(はばか)るがええ。宮から恐れ多いお召しがあってすら、ふつにおいらえを申しあげぬのも、それ故だとは考えつかぬげな。やくたい者。とっとと失せたがよい。そんな文とりついだ手を、率川(いざかわ)の一の瀬で浄めて来くさろう。罰(ばち)知らずが……。
こんな風に、わなりつけられた者は、併し、二人や三人ではなかった。横佩家(よこはきけ)の女部屋に住んだり、通うたりしている若人は、一人残らず一度は、経験したことだと謂(い)っても、うそではなかった。
だが、郎女は、ついに一度そんな事のあった様子も、知らされずに来た。
上つ方の郎女が、才(ざえ)をお習い遊ばすと言うことが御座りましょうか。それは近代(ちかつよ)、ずっと下(しも)ざまのおなごの致すことと承ります。父君がどう仰(おっしゃ)ろうとも、父御(ててご)様のお話は御一代。お家の習しは、神さまの御意趣(おむね)、とお思いつかわされませ。
氏の掟(おきて)の前には、氏上(うじのかみ)たる人の考えをすら、否みとおす事もある姥(うば)たちであった。
其老女たちすら、郎女の天稟(てんぴん)には、舌を捲(ま)きはじめて居た。
もう、自身たちの教えることものうなった。
こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母(むさのちおも)・桃花鳥野乳母(つきぬのまま)・波田坂上刀自(はたのさかのえのとじ)、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息(たんそく)し続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗(なかとみのしいのおむな)・三上水凝刀自女(みかみのみずごりのとじめ)なども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。
才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜(たも)れ。
素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。
何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口を挿(はさ)む。
唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂(たま)を揺(いぶ)る様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰を蒙(こうむ)らなければなりません。
こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃(たの)む知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手(おんなで)の写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母(ひおおば)にも当る橘(たちばな)夫人の法華経、又其御胎(おはら)にいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論(がっきろん)。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。
横佩大納言と謂われた頃から、父は此二部を、自分の魂のように大事にして居た。ちょっと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人(とねり)の荷として、持たせて行ったものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言わずにいたのである。さすがに我強(がづよ)い刀自たちも、此見覚えのある、美しい箱が出て来た時には、暫らく撲(う)たれたように、顔を見合せて居た。そうして後(のち)、後(あと)で恥しかろうことも忘れて、皆声をあげて泣いたものであった。
郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したような興奮は、認められなかった。唯一途(いちず)に素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。
其からは、此二つの女手の「本」を、一心に習いとおした。偶然は友を誘(ひ)くものであった。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺(あすかでら)―元興寺(がんこうじ)―から巻数(かんず)が届けられた。其には、難波にある帥(そつ)の殿の立願(りゅうがん)によって、仏前に読誦(とくしょう)した経文の名目が、書き列(つら)ねてあった。其に添えて、一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発(おこ)して、書き綴った「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠(こ)めたもの、と言うことは察せられる。其一巻が、どう言う訣(わけ)か、二十年もたってゆくりなく、横佩家へ戻って来たのである。
郎女の手に、此巻が渡った時、姫は端近く膝行(いざ)り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
難波とやらは、どちらに当るかえ。
と尋ねて、示す方角へ、活(い)き活(い)きした顔を向けた。其目からは、珠数の珠(たま)の水精(すいしょう)のような涙が、こぼれ出ていた。
其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本(おおやまと)びとなる父の書いた文(もん)。指から腕、腕から胸、胸から又心へ、沁(し)み沁(じ)みと深く、魂を育てる智慧の這入(はい)って行くのを、覚えたのである。
大日本日高見(おおやまとひたかみ)の国。国々に伝わるありとある歌諺(うたことわざ)、又其旧辞(もとつごと)。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くの語(かた)り詞(ごと)を、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々(のろのろ)しく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母(おも)や、嚼母(まま)たちの唱える詞(ことば)が、今更めいて、寂しく胸に蘇(よみがえ)って来る。
おお、あれだけの習しを覚える、ただ其だけで、此世に生きながらえて行かねばならぬみずからであった。
父に感謝し、次には、尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母(おおおば)の尊(みこと)に、何とお礼申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。だがまず、父よりも誰よりも、御礼申すべきは、み仏である。この珍貴(うず)の感覚(さとり)を授け給う、限り知られぬ愛(めぐ)みに充ちたよき人が、此世界の外に、居られたのである。郎女(いらつめ)は、塗香(ずこう)をとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣を薫(かお)るばかりに匂わした。

ほほき ほほきい ほほほきい――。
きのうよりも、澄んだよい日になった。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかっきりと、木草の影を落して居た。ほかほかした日よりなのに、其を見ていると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳(かげ)りもなく、晴れきった空だ。高原を拓(ひら)いて、間引いた疎(まば)らな木原(こはら)の上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったり降(さが)ったりして居る。たった一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けているのだ。
家の刀自(とじ)たちが、物語る口癖を、さっきから思い出して居た。出雲宿禰(いずものすくね)の分れの家の嬢子(おとめ)が、多くの男の言い寄るのを煩しがって、身をよけよけして、何時か、山の林の中に分け入った。そうして其処で、まどろんで居る中に、悠々(うらうら)と長い春の日も、暮れてしまった。嬢子は、家路と思う径(みち)を、あちこち歩いて見た。脚は茨(いばら)の棘(とげ)にさされ、袖(そで)は、木の楚(ずわえ)にひき裂かれた。そうしてとうとう、里らしい家群(いえむら)の見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物(きもの)も、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して来ている。嬢子はさくり上げて来る感情を、声に出した。
ほほき ほほきい。
何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかった。「おお此身は」と思った時に、自分の顔に触れた袖は袖ではないものであった。枯(か)れ原(ふ)の冬草の、山肌色をした小な翼であった。思いがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押えようとすると、自身すらいとおしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行ってしまって、替りに、ささやかな管のような喙(くちばし)が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考えさえもつかなかった。唯、身悶(みもだ)えをした。するとふわりと、からだは宙に浮き上った。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔(かけ)り昇って行く。五日月の照る空まで……。その後、今の世までも、
ほほき ほほきい ほほほきい。
と鳴いているのだ、と幼い耳に染みつけられた、物語りの出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。
郎女は、徐(しず)かに両袖(もろそで)を、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、褻(な)れ、皺立(しわだ)っているが、小鳥の羽には、なって居なかった。手をあげて唇に触れて見ると、喙でもなかった。やっぱり、ほっとりとした感触を、指の腹に覚えた。
ほほき鳥―鶯―になって居た方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原(しもとはら)へ入り込んだ。そうして、飛ぶ鳥になった。この身は、何とも知れぬ人の俤(おもかげ)にあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうして居る。せめて蝶飛虫(ちょうとり)にでもなれば、ひらひらと空に舞いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの――。
ほほき ほほきい。
自身の咽喉(のど)から出た声だ、と思った。だがやはり、廬(いおり)の外で鳴くのであった。
郎女の心に動き初めた叡(さと)い光りは、消えなかった。今まで手習いした書巻の何処かに、どうやら、法喜と言う字のあった気がする。法喜――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に、感(かま)けて鳴くのではなかろうか。そう思えば、この鶯も、
ほほき ほほきい。
嬉しそうな高音を、段々張って来る。
物語りする刀自たちの話でなく、若人らの言うことは、時たま、世の中の瑞々(みずみず)しい消息(しょうそこ)を伝えて来た。奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した、広いものであった。郎女の帳台の立ち処(ど)を一番奥にして、四つの間に、刀自・若人、凡(およそ)三十人も居た。若人等は、この頃、氏々の御館(みたち)ですることだと言って、苑(その)の池の蓮の茎を切って来ては、藕糸(はすいと)を引く工夫に、一心になって居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲(ま)いたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになって、水の反射が蔀(しとみ)を越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒(よ)る。
郎女は、女たちの凝っている手芸を、じっと見て居る日もあった。ほうほうと切れてしまう藕糸を、八合(こ)・十二合(こ)・二十合(はたこ)に縒って、根気よく、細い綱の様にする。其を績(う)み麻(お)の麻(お)ごけに繋(つな)ぎためて行く。奈良の御館でも、蚕(かうこ)は飼って居た。実際、刀自たちは、夏は殊にせわしく、そのせいで、不機嫌になって居る日が多かった。
刀自たちは、初めは、そんな韓(から)の技人(てびと)のするような事は、と目もくれなかった。だが時が立つと、段々興味を惹(ひ)かれる様子が見えて来た。
こりゃ、おもしろい。絹の糸と、績み麻との間を行く様な妙な糸の――。此で、切れさえしなければのう。
こうして績(つむ)ぎ蓄(た)めた藕糸は、皆一纏(ひとまと)めにして、寺々に納めようと、言うのである。寺には、其々(それそれ)の技女(ぎじょ)が居て、其糸で、唐土様(もろこしよう)と言うよりも、天竺風(てんじくふう)な織物に織りあげる、と言う評判であった。女たちは、唯功徳の為に糸を績いでいる。其でも、其が幾かせ、幾たまと言う風に貯(たま)って来ると、言い知れぬ愛著(あいちゃく)を覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかった。
若人たちは茎を折っては、巧みに糸を引き切らぬように、長く長くと抽(ぬ)き出す。又其、粘り気の少いさくいものを、まるで絹糸を縒り合せるように、手際よく糸にする間も、ちっとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では、出来ぬ掟(おきて)になって居た。なっては居ても、物珍(ものめ)でする盛りの若人たちには、口を塞(ふさ)いで緘黙行(しじま)を守ることは、死ぬよりもつらい行(ぎょう)であった。刀自らの油断を見ては、ぼつぼつ話をしている。其きれぎれが、聞こうとも思わぬ郎女の耳にも、ぼつぼつ這入(はい)って来勝ちなのであった。
鶯の鳴く声は、あれで、法華経(ほけきょう)法華経(ほけきょう)と言うのじやて――。
ほう、どうして、え――。
天竺のみ仏は、おなごは、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、其果てに、女(おなご)でも救う道が開かれた。其を説いたのが、法華経じゃと言うげな。
――こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思おうけれど、でも、世間では、そう言うもの――。
じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるといの。
ほんまにその、天竺(てんじく)のおなごが、あの鳥に化(な)り変って、み経の名を呼ばるるのかえ。
郎女(いらつめ)には、いつか小耳に挿(はさ)んだ其話が、その後、何時までも消えて行かなかった。その頃ちょうど、称讃浄土仏摂受経(しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう)を、千部写そうとの願を発(おこ)して居た時であった。其が、はかどらぬ。何時までも進まぬ。茫(ぼう)とした耳に、此世話(よばなし)が再また、紛(まぎ)れ入って来たのであった。
ふっと、こんな気がした。
ほほき鳥は、先の世で、御経(おんきょう)手写の願を立てながら、え果さいで、死にでもした、いとしい女子がなったのではなかろうか。……そう思えば、若(も)しや今、千部に満たずにしまうようなことがあったら、我が魂(たま)は何になることやら。やっぱり、鳥か、虫にでも生れて、切なく鳴き続けることであろう。
ついに一度、ものを考えた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまま、何も知らず思わずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性(にょしょう)の間に、蓮(はちす)の花がぽっちりと、莟(つぼみ)を擡(もた)げたように、物を考えることを知り初(そ)めた郎女であった。
おれよ。鶯よ。あな姦(かま)や。人に、物思いをつけくさる。
荒々しい声と一しょに、立って、表戸と直角(かね)になった草壁の蔀戸(しとみど)をつきあげたのは、当麻語部(たぎまのかたり)の媼(おむな)である。北側に当るらしい其外側は、※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)を圧するばかり、篠竹(しのだけ)が繁って居た。沢山の葉筋が、日をすかして一時にきらきらと、光って見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃(ひらめ)き過ぎた色を、瞼(まぶた)の裏に、見つめて居た。おとといの日の入り方、山の端に見た輝きが、思わずには居られなかったからである。
また一時(いっとき)、廬堂(いおりどう)を廻って、音するものもなかった。日は段々闌(た)けて、小昼(こびる)の温(ぬく)みが、ほの暗い郎女の居処にも、ほっとりと感じられて来た。
寺の奴(やっこ)が、三四人先に立って、僧綱(そうごう)が五六人、其に、大勢の所化(しょけ)たちのとり捲(ま)いた一群れが、廬へ来た。
これが、古(ふる)山田寺だ、と申します。
勿体ぶった、しわがれ声が聞えて来た。
そんな事は、どうでも――。まず、郎女さまを――。
噛みつくようにあせって居る家長老(いえおとな)額田部子古(ぬかたべのこふる)のがなり声がした。
同時に、表戸は引き剥(は)がされ、其に隣った、幾つかの竪薦(たつごも)をひきちぎる音がした。
ずうと這い寄って来た身狭乳母(むさのちおも)は、郎女の前に居たけを聳(そびや)かして、掩(おお)いになった。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前、殊には、庶民の目に、貴人(あてびと)の姿を暴(さら)すまい、とするのであろう。伴(とも)に立って来た家人(けにん)の一人が、大きな木の叉枝(またぶり)をへし折って来た。そうして、旅用意の巻帛(まきぎぬ)を、幾垂れか、其場で之に結び下げた。其を牀(ゆか)につきさして、即座の竪帷(たつばり)―几帳(きちょう)―は調った。乳母(おも)は、其前に座を占めたまま、何時までも動かなかった。

怒りの滝のようになった額田部子古は、奈良に還(かえ)って、公に訴えると言い出した。大和国にも断って、寺の奴ばらを追い払って貰うとまで、いきまいた。大師を頭(かしら)に、横佩家に深い筋合いのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願わずには置かぬ、と凄い顔をして、住侶(じゅうりょ)たちを脅かした。郎女は、貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢(けが)し、結界まで破られたからは、直にお還りになるようには計われぬ。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、その贖(あがな)いはして貰わねばならぬ、と寺方も、言い分はひっこめなかった。
理分に非分にも、これまで、南家の権勢でつき通してきた家長老(おとな)等にも、寺方の扱いと言うものの、世間どおりにはいかぬ事が訣(わか)って居た。乳母に相談かけても、一代そう言う世事に与った事のない此人は、そんな問題には、詮(かい)ない唯の女性(にょしょう)に過ぎなかった。
先刻(さっき)からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
其は、寺方が、理分でおざるがや。お随(おしたが)いなされねばならぬ。
其を聞くと、身狭乳母は、激しく、田舎語部の老女を叱りつけた。男たちに言いつけて、畳にしがみつき、柱にかき縋(すが)る古婆(ふるばば)を掴(つか)み出させた。そうした威高さは、さすがに自(おのずか)ら備っていた。
何事も、この身などの考えではきめられぬ。帥(そつ)の殿(との)に承ろうにも、国遠し。まず姑(しば)し、郎女様のお心による外はないもの、と思いまする。
其より外には、方(ほう)もつかなかった。奈良の御館(みたち)の人々と言っても、多くは、此人たちの意見を聴いてする人々である。よい思案を、考えつきそうなものも居ない。難波へは、直様、使いを立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。
郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤(もっとも)、寺方でも、候人(さぶらいびと)や、奴隷(やっこ)の人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案お洩(もら)し遊ばされ。
謂(い)わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母(おも)も、子古も、凡(およそ)は無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返(こだまがえ)しの様に、躊躇(ためら)うことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、凛(りん)としていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。
姫の咎(とが)は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
郎女の声・詞(ことば)を聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか此ほどに、頭の髄まで沁(し)み入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母(ちおも)だった。
寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此爽(さわ)やかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまで賢(さか)しい魂を窺(うかが)い得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだ曾(かつ)て覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。
ともあれ此上は、難波津(なにわづ)へ。
難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅(しらぎ)問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。
万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏(ほふく)した。
子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々(うらうら)と照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。
暴風雨(あらし)の夜、添下(そうのしも)・広瀬・葛城の野山を、かちあるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎(かげろう)も立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長く靡(なび)いて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々(いよいよ)遠く裾を曳(ひ)いて見えた。早い菫(すみれ)―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女(いらつめ)は、膝を叢(くさむら)について、じっと眺め入った。
これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来(しきた)りになって居た。
蓮(はちす)の花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広い萼(うてな)の上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。
夕風が冷(ひや)ついて参ります。内へと遊ばされ。
乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖(なぎ)の幾重も重った上に、二上の男岳(おのかみ)の頂が、赤い日に染って立っている。
今日は、又あまりに静かな夕(ゆうべ)である。山ものどかに、夕雲の中に這入(はい)って行こうとしている。
もうしもうし。もう外に居る時では御座りません。

「朝目よく」うるわしい兆(しるし)を見た昨日は、郎女(いらつめ)にとって、知らぬ経験を、後から後から展(ひら)いて行ったことであった。ただ人(びと)の考えから言えば、苦しい現実のひき続きではあったのだが、姫にとっては、心驚く事ばかりであった。一つ一つ変った事に逢う度に、「何も知らぬ身であった」と姫の心の底の声が揚った。そうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい気が、一ぱいであった。今日も其続きを、くわしく見た。
なごり惜しく過ぎ行く現(うつ)し世(よ)のさまざま。郎女は、今目を閉じて、心に一つ一つ収めこもうとして居る。ほのかに通り行き、将(はた)著しくはためき過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬(いおり)のまわりは、すっかり手入れがせられて居た。灯台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々(こうこう)と、油火(あぶらび)が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処には、すさまじいと言う者があって、どこかへ搬(はこ)んで行かれた。其よりも、郎女の為には、帳台の設備(しつら)われている安らかさ。今宵は、夜も、暖かであった。帷帳(とばり)を周(めぐ)らした中は、ほの暗かった。其でも、山の鬼神(もの)、野の魍魎(もの)を避ける為の灯の渦が、ぼうと梁(はり)に張り渡した頂板(つしいた)に揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。帳台のまわりには、乳母や、若人が寝たらしい。其ももう、一時(ひととき)も前の事で、皆すやすやと寝息の音を立てて居る。姫の心は、今は軽かった。たとえば、俤(おもかげ)に見たお人には逢わずとも、その俤を見た山の麓(ふもと)に来て、こう安らかに身を横えて居る。
灯台の明りは、郎女の額の上に、高く朧(おぼ)ろに見える光りの輪を作って居た。月のように円くて、幾つも上へ上へと、月輪(がちりん)の重っている如くも見えた。其が、隙間風の為であろう。時々薄れて行くと、一つの月になった。ぽうっと明り立つと、幾重にも隈(くま)の畳まった、大きな円(まど)かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やっと、遅い月が出たことであろう。
物の音。――つた つたと来て、ふうと佇(た)ち止るけはい。耳をすますと、元の寂(しず)かな夜に、――激(たぎ)ち降(くだ)る谷のとよみ。
つた つた つた。
又、ひたと止(や)む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音(あしおと)だろう。
つた。
郎女は刹那(せつな)、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじと戦(おのの)きが出て来た。
天若御子(あめわかみこ)――。
ようべ、当麻語部嫗(たぎまのかたりのおむな)の聞した物語り。ああ其お方の、来て窺(うかが)う夜なのか。
――青馬の 耳面刀自(みゝものとじ)。
刀自もがも。女弟(おと)もがも。
その子の はらからの子の
処女子(おとめご)の 一人
一人だに わが配偶(つま)に来よ
まことに畏(おそろ)しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧(おさ)えられるような畏(こわ)さを知った。あああの歌が、胸に生き蘇(かえ)って来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞(ことば)から、胸にとおって響く。乳房から迸(ほとばし)り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺(しわ)だむ。
ついと、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑(つぶ)った。だが――瞬間睫(まつげ)の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴(つか)んだ片手の白く光る指。
なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
何の反省もなく、唇を洩(も)れた詞。この時、姫の心は、急に寛(くつろ)ぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直(すぐ)に動顛(どうてん)した心を、とり直すことが出来た。
のうのう。あみだほとけ……。
今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経の文(もん)が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、簾(すだれ)越しにも聴聞は許されなかった。御経(おんきょう)の文(もん)は手写しても、固(もと)より意趣は、よく訣(わか)らなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟(とっさ)に口に上ろう、とは思うて居なかった。
白い骨、譬(たと)えば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残って居た。帷帳は、元のままに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでいるような気がする。
悲しさとも、懐しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行った。山の端に立った俤びとは、白々(しろじろ)とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のように、からびて寂しく、目にうつる。

長い渚を歩いて行く。郎女の髪は、左から右から吹く風に、あちらへ靡(なび)き、こちらへ乱れする。浪(なみ)はただ、足もとに寄せている。渚と思うたのは、海の中道(なかみち)である。浪は、両方から打って来る。どこまでもどこまでも、海の道は続く。郎女の足は、砂を踏んでいる。その砂すらも、段々水に掩(おお)われて来る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と気がつく。姫は身を屈(こご)めて、白玉を拾う。拾うても拾うても、玉は皆、掌(たなそこ)に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾い続ける。玉は水隠(みがく)れて、見えぬ様になって行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬(すく)おうとする。掬(むす)んでも掬んでも、水のように、手股(たなまた)から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶつぶ並んで見える。忙(あわただ)しく拾おうとする姫の俯(うつむ)いた背を越して、流れる浪が、泡立ってとおる。
姫は――やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。そう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆(たお)される。浪に漂う身……衣もなく、裳(も)もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現(うつ)し身(み)。
ずんずんと、さがって行く。水底(みなぞこ)に水漬(みづ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹(ひともと)の白い珊瑚(さんご)の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生い靡(なび)くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほっと息をついた。
まるで、潜(かず)きする海女が二十尋(はたひろ)・三十尋(みそひろ)の水底から浮び上って嘯(うそぶ)く様に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
ああ夢だった。当麻(たぎま)まで来た夜道の記憶は、まざまざと残って居るが、こんな苦しさは覚えなかった。だがやっぱり、おとといの道の続きを辿(たど)って居るらしい気がする。
水の面からさし入る月の光り、そう思うた時は、ずんずん海面に浮き出て来た。そうして悉(ことごと)く、跡形もない夢だった。唯、姫の仰ぎ寝る頂板(つしいた)に、ああ、水にさし入った月。そこに以前のままに、幾つも暈(かさ)の畳まった月輪の形が、揺めいて居る。
のうのう 阿弥陀(あみだ)ほとけ……。
再、口に出た。光りの暈は、今は愈々(いよいよ)明りを増して、輪と輪との境の隈々(くまぐま)しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝り初めて、明るい光明の中に、胸・肩・頭・髪、はっきりと形を現(げん)じた。白々と袒(ぬ)いだ美しい肌。浄(きよ)く伏せたまみが、郎女(いらつめ)の寝姿を見おろして居る。かの日の夕(ゆうべ)、山の端に見た俤(おもかげ)びと――。乳のあたりと、膝元とにある手――その指(および)、白玉の指。姫は、起き直った。天井の光りの輪が、元のままに、ただ仄(ほの)かに、事もなく揺れて居た。

貴人(うまびと)はうま人どち、やっこは奴隷(やっこ)どち、と言うからの――。
何時見ても、大師は、微塵(みじん)曇りのない、円(まど)かな相好(そうごう)である。其に、ふるまいのおおどかなこと。若くから氏上(うじのかみ)で、数十家(け)の一族や、日本国中数万の氏人から立てられて来た家持も、じっと対(むこ)うていると、その静かな威に、圧せられるような気がして来る。
言わしておくがよい。奴隷たちは、とやかくと口さがないのが、其為事(しごと)よ。此身とお身とは、おなじ貴人じゃ。おのずから、話も合おうと言うもの。此身が、段々なり上(のぼ)ると、うま人までがおのずとやっこ心になり居って、いや嫉(ねた)むの、そねむの。
家持は、此が多聞天か、と心に問いかけて居た。だがどうも、そうは思われぬ。同じ、かたどって作るなら、とつい聯想(れんそう)が逸(そ)れて行く。八年前、越中国から帰った当座の、世の中の豊かな騒ぎが、思い出された。あれからすぐ、大仏開眼供養が行われたのであった。其時、近々と仰ぎ奉った尊容、八十種好(しゅごう)具足した、と謂(い)われる其相好が、誰やらに似ている、と感じた。其がその時は、どうしても思い浮ばずにしまった。その時の印象が、今ぴったり、的にあてはまって来たのである。
こうして対いあって居る主人の顔なり、姿なりが、其ままあの盧遮那(るさな)ほとけの俤だ、と言って、誰が否もう。
お身も、少し咄(はな)したら、ええではないか。官位(こうぶり)はこうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、そう思わぬか。紫徴中台(しびちゅうだい)の、兵部省のと、位づけるのは、うき世の事だわ。家(うち)に居る時だけは、やはり神代以来の氏上づきあいが、ええ。
新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢土(もろこし)の才(ざえ)が、やまと心に入り替ったと謂(い)われて居る此人が、こんな嬉しいことを言う。家持は、感謝したい気がした。理会者・同感者を、思いもうけぬ処に見つけ出した嬉しさだったのである。
お身は、宋玉や、王褒(おうほう)の書いた物を大分持って居ると言うが、太宰府へ行った時に、手に入れたのじゃな。あんな若い年で、わせだったのだのう。お身は――。お身の氏では、古麻呂(こまろ)。身の家に近しい者でも奈良麻呂。あれらは漢(かん)魏(ぎ)はおろか、今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、言うがいない話じゃわ。
兵部大輔は、やっと話のつきほを捉えた。
お身さまのお話じゃが、わしは、賦の類には飽きました。どうもあれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい歌や、詩の出て来る元になって居る――そうつくづく思いますじゃて。ところで近頃は、方(かた)を換えて、張文成を拾い読みすることにしました。この方が、なんぼか――。
大きに、其は、身も賛成じゃ。じゃが、お身がその年になっても、まだ二十(はたち)代の若い心や、瑞々(みずみず)しい顔を持って居るのは、宋玉のおかげじゃぞ。まだなかなか隠れては歩き居(お)る、と人の噂じゃが、嘘じゃなかろう。身が保証する。おれなどは、張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気の尽きてしもうた心持ちがする。――じゃが全く、文成はええのう。あの仁(じん)に会うて来た者の話では、豬肥(いのこご)えのした、唯の漢土びとじゃったげなが、心はまるで、やまとのものと、一つと思うが、お身なら、諾(うべの)うてくれるだろうの。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は、読んで居て、知らぬ事ばかり教えられるようで、時々ふっと思い返すと、こんな思わざった考えを、いつの間にか、持っている――そんな空恐しい気さえすることが、ありますて。お身さまにも、そんな経験(おぼえ)は、おありでがな。
大ありおお有り。毎日毎日、其よ。しまいに、どうなるのじゃ。こんなに智慧づいては、と思われてならぬことが――。じゃが、女子(おみなご)だけには、まず当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬ、のどかな心で居させたいものじゃ。第一其が、われわれ男の為じゃて。
家持は、此了解に富んだ貴人に向っては、何でも言ってよい、青年のような気が湧いて来た。
さようさよう。智慧を持ち初めては、あの欝(いぶせ)い女部屋には、じっとして居ませぬげな。第一、横佩墻内(よこはきかきつ)の――
此はいけぬ、と思った。同時に、此臆(おく)れた気の出るのが、自分を卑(ひく)くし、大伴氏を、昔の位置から自ら蹶落(けおと)す心なのだ、と感じる。
好(ええ)、好(ええ)。遠慮はやめやめ。氏上づきあいじゃもの。ほい又出た。おれはまだ、藤原の氏上に任ぜられた訣(わけ)じゃあ、なかったっけの。
瞬間、暗い顔をしたが、直にさっと眉の間から、輝きが出て来た。
身の女姪(めい)が神隠しにおうたあの話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、そう解(と)るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も、定めて喜ぶじゃろう。実はこれまで、内々消息を遣して、小あたりにあたって見た、と言う口かね、お身も。
大きに。
今度は軽い心持ちが、大胆に押勝の話を受けとめた。
お身さまが経験(ためし)ずみじゃで、其で、郎女の才高(ざえだか)さと、男択びすることが訣(わか)りますな――。
此は――。額ざまに切りつけるぞ――。免(ゆる)せ免せと言うところじゃが、――あれはの、生れだちから違うものな。藤原の氏姫じゃからの。枚岡(ひらおか)の斎(いつ)き姫(ひめ)にあがる宿世(すくせ)を持って生れた者ゆえ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ。ははははは。
大師は、笑いをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になった。
じゃがどうも――。聴き及んでのことと思うが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言うし、楽毅論(がっきろん)から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習いしたらしいし、まだまだ孝経などは、これぽっちの頃に習うた、と言うし、なかなかの女博士(おなごはかせ)での。楚辞(そじ)や、小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬわのう。霜月・師走の垣毀雪女(かいこぼちおなご)じゃもの。――どうして、其だけの女子(おみなご)が、神隠しなどに逢おうかい。
第一、場処が、あの当麻で見つかったと言いますからの――。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天二上(あめのふたかみ)は、中臣寿詞(なかとみのよごと)にもあるし……。斎(いつ)き姫(ひめ)もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる気を起したのでないか、と考えると、もう不安で不安でのう。のどかな気持ちばかりでも居られぬて――。
押勝の眉は集って来て、皺(しわ)一つよせぬ美しい、この老いの見えぬ貴人の顔も、思いなし、ひずんで見えた。
何しろ、嫋女(たわやめ)は国の宝じゃでのう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしておきたいところじゃが、――人間の高望みは、そうばかりもさせてはおきおらぬがい――。ともかく、むざむざ尼寺へやる訣(わけ)にはいかぬ。
じゃが、お身さま。一人出家すれば、と云う詞(ことば)が、この頃はやりになって居りますが…。
九族が天に生じて、何になるというのじゃ。宝は何百人かかっても、作り出せるものではないぞよ。どだい兄公殿(あにきどの)が、少し仏凝(ほとけご)りが過ぎるでのう――。自然内(うち)うらまで、そんな気風がしみこむようになったかも知れぬぞ――。時に、お身のみ館の郎女(いらつめ)も、そんな育てはしてあるまいな。其では、家(うち)の久須麻呂が泣きを見るからの。
人の悪いからかい笑みを浮べて、話を無理にでも脇へ釣り出そうと努めるのは、考えるのも切ない胸の中が察せられる。
兄公殿は氏上に、身は氏助(うじのすけ)と言う訣なのじゃが、肝腎(かんじん)斎き姫で、枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年じゃ。去年春日祭りに、女使いで上られた姿を見て、神(かん)さびたものよ、と思うたぞ。今(も)一代此方から進ぜなかったら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取って替って、氏上に据るは。
兵部大輔にとっても、此はもう、他事(ひとごと)ではなかった。おなじ大伴幾流の中から、四代続いて氏上職を持ち堪(こた)えたのも、第一は宮廷の御恩徳もあるが、世の中のよせが重かったからである。其には、一番大事な条件として、美しい斎き姫が、後から後と此家に出て、とぎれることがなかった為でもある。大伴の家のは、表向き壻(むこ)どりさえして居ねば、子があっても、斎き姫は勤まる、と言う定めであった。今の阪上郎女(さかのうえのいらつめ)は、二人の女子(おみなご)を持って、やはり斎き姫である。此は、うっかり出来ない。此方(こちら)も藤原同様、叔母御が斎姫(いつき)で、まだそんな年でない、と思うているが、又どんなことで、他流の氏姫が、後を襲うことにならぬとも限らぬ。大伴・佐伯(さえき)の数知れぬ家々・人々が、外の大伴へ、頭をさげるようになってはならぬ。こう考えて来た家持の心の動揺などには、思いよりもせぬ風で、
こんな話は、よそほかの氏上に言うべきことでないが、兄公殿がああして、此先何年、難波にいても、太宰府に居ると言うが表面(おもて)だから、氏の祭りは、枚岡・春日と、二処に二度ずつ、其外、週(まわ)り年には、時々鹿島・香取の東路(あずまじ)のはてにある旧社(もとやしろ)の祭りまで、此方で勤めねばならぬ。実際よそほかの氏上よりも、此方の氏助ははたらいているのだが、――だから、自分で、氏上の気持ちになったりする。――もう一層なってしまうかな。お身はどう思う。こりゃ、答える訣にも行くまい。氏上に押し直ろうとしたところで、今の身の考え一つを抂(ま)げさせるものはない。上様方に於かせられて、お叱りの御沙汰を下しおかれぬ限りは――。
京中で、此恵美屋敷ほど、庭を嗜(たしな)んだ家はないと言う。門は、左京二条三坊に、北に向いて開いて居るが、主人家族の住いは、南を広く空けて、深々とした山斎(やま)が作ってある。其に入りこみの多い池を周(めぐ)らし、池の中の島も、飛鳥の宮風に造られて居た。東の中(なか)み門(かど)、西の中み門まで備って居る。どうかすると、庭と申そうより、寛々(かんかん)とした空き地の広くおありになる宮よりは、もっと手入れが届いて居そうな気がする。
庭を立派にして住んだ、うま人たちの末々の様が、兵部大輔の胸に来た。瞬間、憂欝(ゆううつ)な気持ちがかぶさって来て、前にいる大師の顔を見るのが、気の毒な様に思われる。
案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居る、と思うてるのだろう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館はどうだ。どの筋でも引き継がずに、今に荒してはあるが、あの立派さは。それあの山部の何とか言った、地下(じげ)の召し人の歌よみが、おれの三十になったばかりの頃、「昔見し旧(ふる)き堤は、年深み……年深み、池の渚(なぎさ)に、水草(みくさ)生ひにけり」とよんだ位だが、其後が、これ此様に、四流にも岐(わか)れて栄えている。もっとあるぞ――。なに、庭などによるものじゃないわ。
恃(たの)む所の深い此あて人は、庭の風景の、目立った個処個処を指摘しながら、其拠る所を、日本(やまと)・漢土(もろこし)に渉(わた)って説明した。
長い廊を、数人の童(わらわ)が続いて来る。
日ずかしです。お召しあがり下されましょう。
改って、簡単な饗応(きょうおう)の挨拶をした。まろうどに、早く酒を献じなさい、と言っている間に、美しい采女(うねめ)が、盃を額より高く捧げて出た。
おお、それだけ受けて頂けばよい。舞いぶりを一つ、見て貰いなさい。
家持は、何を考えても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外は、なかった。
うねめは、大伴の氏上へは、まだくださらぬのだったね。藤原では、存知でもあろうが、先例が早くからあって、淡海公が、近江の宮から頂戴した故事で、頂く習慣になって居ります。
時々、こんな畏(かしこ)まったもの言いもまじえる。兵部大輔は、自身の語(ことば)づかいにも、初中終(しょっちゅう)、気扱いをせねばならなかった。
氏上もな、身が執心で、兄公殿を太宰府へ追いまくって、後にすわろうとするのだ、と言う奴があるといの――。やっぱり「奴はやっこどち」じゃの。そう思うよ。時に女姪(めい)の姫だが――。
さすがの聡明(そうめい)第一の大師も、酒の量は少かった。其が、今日は幾分いけた、と見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒口(いとぐち)に、とりついた気で、
横佩墻内(よこはきかきつ)の郎女は、どうなるでしょう。社・寺、それとも宮――。どちらへ向いても、神さびた一生。あったら惜しいものでおありだ。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは、戻らぬかも知れんぞ。
末は、独り言になって居た。そうして、急に考え深い目を凝した。池へ落した水音は、未(ひつじ)がさがると、寒々と聞えて来る。
早く、躑躅(つつじ)の照る時分になってくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどおしいぞ。
大師藤原恵美押勝朝臣の声は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじえて居なかった。

つた つた つた。
郎女は、一向(ひたすら)、あの音の歩み寄って来る畏(おそろ)しい夜更けを、待つようになった。おとといよりは昨日、昨日よりは今日という風に、其跫音(あしおと)が間遠になって行き、此頃はふつに音せぬようになった。その氷の山に対(むこ)うて居るような、骨の疼(うず)く戦慄(せんりつ)の快感、其が失せて行くのを虞(おそ)れるように、姫は夜毎、鶏のうたい出すまでは、殆、祈る心で待ち続けて居る。
絶望のまま、幾晩も仰ぎ寝たきりで、目は昼よりも寤(さ)めて居た。其間に起る夜の間の現象には、一切心が留らなかった。現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板(つし)の面(おもて)の光り輪にすら、明盲(あきじ)いのように、注意は惹(ひ)かれなくなった。ここに来て、疾(と)くに、七日は過ぎ、十日・半月になった。山も、野も、春のけしきが整うて居た。野茨(のいばら)の花のようだった小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が、谷から峰かけて、断続しながら咲いているのも見える。麦原(むぎふ)は、驚くばかり伸び、里人の野為事(しごと)に出た姿が、終日、そのあたりに動いている。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に、春を起き臥すことか、と侘(わ)びる者が殖えて行った。廬堂(いおりどう)の近くに掘り立てた板屋に、こう長びくとは思わなかったし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は、妻子に会うことばかりを考えた。親に養われる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思う心が、切々として来るのである。女たちは、こうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習しに馴れて、何かと為事を考えてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もっと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母(むさのちおも)の思いやりから、男たちの多くは、唯さえ小人数な奈良の御館(みたち)の番に行け、と言って還(かえ)され、長老(おとな)一人の外は、唯雑用(ぞうよう)をする童と、奴隷(やっこ)位しか残らなかった。
乳母(おも)や、若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きている、郎女(いらつめ)の様子を感じ出して居た。でも、なぜそう夜深く溜(た)め息(いき)ついたり、うなされたりするか、知る筈のない昔かたぎの女たちである。
やはり、郎女の魂(たま)があくがれ出て、心が空しくなって居るもの、と単純に考えて居る。ある女は、魂ごいの為に、山尋ねの咒術(おこない)をして見たらどうだろう、と言った。
乳母は一口に言い消した。姫様、当麻(たぎま)に御安著(あんちゃく)なされた其夜、奈良の御館へ計わずに、私にした当麻真人の家人たちの山尋ねが、わるい結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂(い)った蠱物(まじもの)使いのような婆が、出しゃばっての差配が、こんな事を惹(ひ)き起したのだ。
その節、山の峠(たわ)の塚で起った不思議は、噂になって、この貴人(うまびと)一家の者にも、知れ渡って居た。あらぬ者の魂を呼び出して、郎女様におつけ申しあげたに違いない。もうもう、軽はずみな咒術は思いとまることにしよう。こうして、魂(たま)の游離(あくが)れ出た処の近くにさえ居れば、やがては、元のお身になり戻り遊されることだろう。こんな風に考えて、乳母は唯、気長に気ながに、と女たちを諭し諭しした。こんな事をして居る中に、早一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかった山に、躑躅(つつじ)が燃え立った。足も行かれぬ崖の上や、巌の腹などに、一群(ひとむら)一群咲いて居るのが、奥山の春は今だ、となのって居るようである。
ある日は、山へ山へと、里の娘ばかりが上って行くのを見た。凡(およそ)数十人の若い女が、何処で宿ったのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして、降りて来た。廬の庭から見あげた若女房の一人が、山の躑躅林が練って降るようだ、と声をあげた。
ぞよぞよと廬の前を通る時、皆頭をさげて行った。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時(なわしろどき)である。やがては田植えをする。其時は、見に出やしゃれ。こんな身でも、其時はずんと、おなごぶりが上るぞな、と笑う者もあった。
ここの田居の中で、植え初めの田は、腰折れ田と言うて、都までも聞えた物語りのある田じゃげな。
若人たちは、又例の蠱物姥(まじものうば)の古語りであろう、とまぜ返す。ともあれ、こうして、山ごもりに上った娘だけに、今年の田の早処女が当ります。其しるしが此じゃ、と大事そうに、頭の躑躅に触れて見せた。
もっと変った話を聞かせぬかえと誘われて、身分に高下はあっても、同じ若い同士のこととて、色々な田舎咄(いなかばなし)をして行った。其を後(のち)に乳母たちが聴いて、気にしたことがあった。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をどうどうと踏みおりて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて、苦しい息をついていると、音はそのまま、真下へ真下へ、降って行った。がらがらと、岩の崩(く)える響き。――ちょうど其が、此盧堂の真上の高処(たか)に当って居た。こんな処に道はない筈じゃが、と今朝起きぬけに見ると、案の定、赤岩の大崩崖(おおなぎ)。ようべの音は、音ばかりで、ちっとも痕(あと)は残って居なかった。
其で思い合せられるのは、此頃ちょくちょく、子(ね)から丑(うし)の間に、里から見えるこのあたりの峰(お)の上(え)に、光り物がしたり、時ならぬ一時颪(いっときおろし)の凄い唸(うな)りが、聞えたりする。今までついに聞かぬこと。里人は唯こう、恐れ謹しんで居る、とも言った。
こんな話を残して行った里の娘たちも、苗代田の畔(あぜ)に、めいめいのかざしの躑躅花を挿して帰った。其は昼のこと、田舎は田舎らしい閨(ねや)の中に、今は寝ついたであろう。夜はひた更けに、更けて行く。
昼の恐れのなごりに、寝苦しがって居た女たちも、おびえ疲れに寝入ってしまった。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思わぬ目を、ふっと開いた。続いて今ひと響き、びしとしたのは、鳥などの、翼ぐるめひき裂かれたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、生き物も絶えたように、虚しい空間の闇に、時間が立って行った。
郎女の額(ぬか)の上の天井の光の暈(かさ)が、ほのぼのと白んで来る。明りの隈(くま)はあちこちに偏倚(かたよ)って、光りを竪(たて)にくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白い菫(すみれ)。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の青蓮華(しょうれんげ)と言うものであろうか。郎女の目には、何とも知れぬ浄(きよ)らかな花が、車輪のように、宙にぱっと開いている。仄暗(ほのぐら)い蕋(しべ)の処に、むらむらと雲のように、動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は黄金の髪である。髪の中から匂い出た荘厳な顔。閉じた目が、憂いを持って、見おろして居る。ああ肩・胸・顕(あら)わな肌。――冷え冷えとした白い肌。おお おいとおしい。
郎女は、自身の声に、目が覚めた。夢から続いて、口は尚夢のように、語を逐(お)うて居た。
おいとおしい。お寒かろうに――。

山の躑躅の色は、様々ある。一つ色のものだけが、一時に咲き出して、一時に萎(しぼ)む。そうして、凡一月は、後から後から替った色のが匂い出て、禿(は)げた岩も、一冬のうら枯れをとり返さぬ柴木山(しばきやま)も、若夏の青雲の下に、はでなかざしをつける。其間に、藤の短い花房が、白く又紫に垂れて、老い木の幹の高さを、せつなく、寂しく見せる。下草に交って、馬酔木(あしび)が雪のように咲いても、花めいた心を、誰に起させることもなしに、過ぎるのがあわれである。
もう此頃になると、山は厭(いと)わしいほど緑に埋れ、谷は深々と、繁りに隠されてしまう。郭公(かっこう)は早く鳴き嗄(か)らし、時鳥(ほととぎす)が替って、日も夜も鳴く。
草の花が、どっと怒濤(どとう)の寄せるように咲き出して、山全体が花原見たようになって行く。里の麦は刈り急がれ、田の原は一様に青みわたって、もうこんなに伸びたか、と驚くほどになる。家の庭苑(その)にも、立ち替り咲き替って、栽(う)え木(き)、草花が、何処まで盛り続けるかと思われる。だが其も一盛りで、坪はひそまり返ったような時が来る。池には葦が伸び、蒲(がま)が秀(ほ)き、藺(い)が抽(ぬき)んでて来る。遅々として、併し忘れた頃に、俄(にわ)かに伸(の)し上るように育つのは、蓮の葉であった。

前年から今年にかけて、海の彼方の新羅の暴状が、目立って棄て置かれぬものに見えて来た。太宰府からは、軍船を新造して新羅征伐の設けをせよ、と言う命のお降(くだ)しを、度々都へ請うておこして居た。此忙しい時に、偶然流人太宰員外帥(だざいいんがいのそつ)として、難波に居た横佩家(よこはきけ)の豊成は、思いがけぬ日々を送らねばならなかった。
都の姫の事は、子古の口から聴いて知ったし、又、京・難波の間を往来する頻繁な公私の使いに、文をことづてる事は易かったけれども、どう処置してよいか、途方に昏(く)れた。ちょっと見は何でもない事の様で、実は重大な、家の大事である。其だけに、常の優柔不断な心癖は、益々つのるばかりであった。
寺々の知音に寄せて、当麻寺へ、よい様に命じてくれる様に、と書いてもやった。又処置方について伺うた横佩墻内の家の長老(とね)・刀自(とじ)たちへは、ひたすら、汝等の主の郎女(いらつめ)を護って居れ、と言うような、抽象風なことを、答えて来たりした。
次の消息には、何かと具体した仰せつけがあるだろう、と待って居る間に、日が立ち、月が過ぎて行くばかりである。其間にも、姫の失われたと見える魂が、お身に戻るか、其だけの望みで、人々は、山村に止って居た。物思いに、屈託ばかりもして居ぬ若人たちは、もう池のほとりにおり立って、伸びた蓮の茎を切り集め出した。其を見て居た寺の婢女(めやっこ)が、其はまだ若い、もう半月もおかねばと言って、寺領の一部に、蓮根を取る為に作ってあった蓮田(はちすだ)へ、案内しよう、と言い出した。あて人の家自身が、それぞれ、農村の大家(おおやけ)であった。其が次第に、官人(つかさびと)らしい姿に更(かわ)って来ても、家庭の生活には、何時までたっても、何処か農家らしい様子が、残って居た。家構えにも、屋敷の広場(にわ)にも、家の中の雑用具(ぞうようぐ)にも。第一、女たちの生活は、起居(たちい)ふるまいなり、服装なりは、優雅に優雅にと変っては行ったが、やはり昔の農家の家内(やうち)の匂いがつき纏(まと)うて離れなかった。刈り上げの秋になると、夫と離れて暮す年頃に達した夫人などは、よく其家の遠い田荘(なりどころ)へ行って、数日を過して来るような習しも、絶えることなく、くり返されて居た。
だから、刀自たちは固(もと)より若人らも、つくねんと女部屋の薄暗がりに、明し暮して居るのではなかった。てんでに、自分の出た村方の手芸を覚えて居て、其を、仕える君の為に為出(しいだ)そう、と出精してはたらいた。
裳(も)の襞(ひだ)を作るのに珍(な)い術(て)を持った女などが、何でもないことで、とりわけ重宝がられた。袖(そで)の先につける鰭袖(はたそで)を美しく為立てて、其に、珍しい縫いとりをする女なども居た。こんなのは、どの家庭にもある話でなく、こう言う若人をおきあてた家は、一つのよい見てくれを世間に持つ事になるのだ。一般に、染めや、裁ち縫いが、家々の顔見合わぬ女どうしの競技のように、もてはやされた。摺(す)り染めや、擣(う)ち染めの技術も、女たちの間には、目立たぬ進歩が年々にあったが、浸(ひ)で染めの為の染料が、韓の技工人(てびと)の影響から、途方もなく変化した。紫と謂(い)っても、茜(あかね)と謂っても皆、昔の様な、染め漿(しお)の処置(とりあつかい)はせなくなった。そうして、染め上りも、艶々しく、はでなものになって来た。表向きは、こうした色の禁令が、次第に行きわたって来たけれど、家の女部屋までは、官(かみ)の目も届くはずはなかった。
家庭の主婦が、居まわりの人を促したてて、自身も精励してするような為事は、あて人の家では、刀自等の受け持ちであった。若人たちも、田畠に出ぬと言うばかりで、家の中での為事は、まだ見参(まいりまみえ)をせずにいた田舎暮しの時分と、大差はなかった。とりわけ違うのは、其家々の神々に仕えると言う、誇りはあるが、小むつかしい事がつけ加えられて居る位のことである。外出には、下人たちの見ぬ様に、笠を深々とかずき、其下には、更に薄帛(うすぎぬ)を垂らして出かけた。
一時(いっとき)たたぬ中に、婢女ばかりでなく、自身たちも、田におりたったと見えて、泥だらけになって、若人たち十数人は戻って来た。皆手に手に、張り切って発育した、蓮の茎を抱えて、廬(いおり)の前に並んだのには、常々くすりとも笑わぬ乳母(おも)たちさえ、腹の皮をよって、切ながった。
郎女様。御覧(ごろう)じませ。
竪帳(たつばり)を手でのけて、姫に見せるだけが、やっとのことであった。
ほう――。
何が笑うべきものか、何が憎むに値するものか、一切知らぬ上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)には、唯常と変った皆の姿が、羨(うらやま)しく思われた。
この身も、その田居とやらにおり立ちたい――。
めっそうなこと、仰せられます。
めっそうな。きまって、誇張した顔と口との表現で答えることも、此ごろ、この小社会で行われ出した。何から何まで縛りつけるような、身狭乳母(むさのちおも)に対する反感も、此ものまねで幾分、いり合せがつく様な気がするのであろう。
其日からもう、若人たちの糸縒(いとよ)りは初まった。夜は、閨(ねや)の闇の中で寝る女たちには、稀(まれ)に男の声を聞くこともある、奈良の垣内(かきつ)住いが、恋しかった。朝になると又、何もかも忘れたようになって績(う)み貯(た)める。
そうした糸の、六かせ七かせを持って出て、郎女に見せたのは、其数日後であった。
乳母よ。この糸は、蝶鳥の翼よりも美しいが、蜘蛛(くも)の巣(い)より弱く見えるがよ――。
郎女は、久しぶりでにっこりした。労を犒(ねぎら)うと共に、考えの足らぬのを憐むようである。刀自は、驚いて姫の詞(ことば)を堰(せ)き止めた。
なる程、此は脆(さく)過ぎまする。
女たちは、板屋に戻っても、長く、健やかな喜びを、皆して語って居た。
全く些(すこ)しの悪意もまじえずに、言いたいままの気持ちから、
田居とやらへ[#「田居とやらへ」は底本では「田舎とやらへ」]おりたちたい――、
を反覆した。
刀自は、若人を呼び集めて、
もっと、きれぬ糸を作り出さねば、物はない。
と言った。女たちの中の一人が、
それでは、刀自に、何ぞよい御思案が――。
さればの――。
昔を守ることばかりはいかついが、新しいことの考えは唯、尋常(よのつね)の婆の如く、愚かしかった。
ゆくりない声が、郎女の口から洩(も)れた。
この身の考えることが、出来ることか試して見や。
うま人を軽侮することを、神への忌みとして居た昔人である。だが、かすかな軽(かる)しめに似た気持ちが、皆の心に動いた。
夏引きの麻生(おふ)の麻(あさ)を績むように、そして、もっと日ざらしよく、細くこまやかに――。
郎女は、目に見えぬもののさとしを、心の上で綴って行くように、語を吐いた。
板屋の前には、俄(にわ)かに、蓮の茎が乾し並べられた。そうして其が乾くと、谷の澱(よど)みに持ち下りて浸す。浸しては晒(さら)し、晒しては水に漬(ひ)でた幾日の後、筵(むしろ)の上で槌(つち)の音高く、こもごも、交々(こもごも)と叩き柔らげた。
その勤(いそ)しみを、郎女も時には、端近くいざり出て見て居た。咎(とが)めようとしても、思いつめたような目して、見入って居る姫を見ると、刀自は口を開くことが出来なくなった。
日晒しの茎を、八針(やつはり)に裂き、其を又、幾針にも裂く。郎女の物言わぬまなざしが、じっと若人たちの手もとをまもって居る。果ては、刀自も言い出した。
私も、績みましょう。
績みに績み、又績みに績んだ。藕糸(はすいと)のまるがせが、日に日に殖えて、廬堂の中に、次第に高く積まれて行った。
もう今日は、みな月に入る日じゃの――。
暦の事を言われて、刀自はぎょっとした。ほんに、今日こそ、氷室(ひむろ)の朔日(ついたち)じゃ。そう思う下から歯の根のあわぬような悪感を覚えた。大昔から、暦は聖(ひじり)の与(あずか)る道と考えて来た。其で、男女は唯、長老の言うがままに、時の来又去った事を教わって、村や、家の行事を進めて行くばかりであった。だから、教えぬに日月を語ることは、極めて聡(さと)い人の事として居た頃である。愈々(いよいよ)魂をとり戻されたのか、と瞻(まも)りながら、はらはらして居る乳母(おも)であった。唯、郎女(いらつめ)は復(また)、秋分の日の近づいて来て居ることを、心にと言うよりは、身の内に、そくそくと感じ初めて居たのである。蓮は、池のも、田居のも、極度に長(た)けて、莟(つぼみ)の大きくふくらんだのも、見え出した。婢女(めやっこ)は、今が刈りしおだ、と教えたので、若人たちは、皆手も足も泥にして、又田に立ち暮す日が続いた。

彼岸中日 秋分の夕。朝曇り後晴れて、海のように深碧(ふかみどり)に凪(な)いだ空に、昼過ぎて、白い雲が頻(しき)りにちぎれちぎれに飛んだ。其が門渡(とわた)る船と見えている内に、暴風(あらし)である。空は愈々(いよいよ)青澄み、昏(くら)くなる頃には、藍(あい)の様に色濃くなって行った。見あげる山の端は、横雲の空のように、茜色(あかねいろ)に輝いて居る。
大山颪(おおやまおろし)。木の葉も、枝も、顔に吹きつけられる程の物は、皆活(い)きて青かった。板屋は吹きあげられそうに、煽(あお)りきしんだ。若人たちは、悉(ことごと)く郎女の廬(いおり)に上って、刀自(とじ)を中に、心を一つにして、ひしと顔を寄せた。ただ互の顔の見えるばかりの緊張した気持ちの間に、刻々に移って行く風。西から真正面(まとも)に吹きおろしたのが、暫らくして北の方から落して来た。やがて、風は山を離れて、平野の方から、山に向ってひた吹きに吹きつけた。峰の松原も、空様(そらざま)に枝を掻き上げられた様になって、悲鳴を続けた。谷から峰(お)の上(へ)に生え上(のぼ)って居る萱原(かやはら)は、一様に上へ上へと糶(せ)り昇るように、葉裏を返して扱(こ)き上げられた。
家の中は、もう暗くなった。だがまだ見える庭先の明りは、黄にかっきりと、物の一つ一つを、鮮やかに見せて居た。
郎女様が――。
誰かの声である。皆、頭の毛が空へのぼる程、ぎょっとした。其が、何だと言われずとも、すべての心が、一度に了解して居た。言い難い恐怖にかみずった女たちは、誰一人声を出す者も居なかった。
身狭乳母は、今の今まで、姫の側に寄って、後から姫を抱えて居たのである。皆の人はけはいで、覚め難い夢から覚めたように、目をみひらくと、ああ、何時の間にか、姫は嫗(おむな)の両腕(もろうで)両膝の間には、居させられぬ。一時に、慟哭(どうこく)するような感激が来た。だが長い訓練が、老女の心をとり戻した。凛(りん)として、反り返る様な力が、湧き上った。
誰(た)ぞ、弓を――。鳴弦(つるうち)じゃ。
人を待つ間もなかった。彼女自身、壁代(かべしろ)に寄せかけて置いた白木の檀弓(まゆみ)をとり上げて居た。
それ皆の衆――。反閇(あしぶみ)ぞ。もっと声高(こわだか)に――。あっし、あっし、それ、あっしあっし……。
若人たちも、一人一人の心は、疾(と)くに飛んで行ってしまって居た。唯一つの声で、警※(けいひつ)[#「馬+畢」、U+9A46、198-下段-5]を発し、反閇(へんばい)した。
あっし あっし。
あっし あっし あっし。
狭い廬(いおり)の中を蹈(ふ)んで廻った。脇目からは、遶道(にょうどう)する群れのように。
郎女様は、こちらに御座りますか。
万法蔵院の婢女が、息をきらして走って来て、何時もなら、許されて居ぬ無作法で、近々と、廬の砌(みぎり)に立って叫んだ。
なに――。
皆の口が、一つであった。
郎女様か、と思われるあて人が――、み寺の門(かど)に立って居さっせるのを見たで、知らせにまいりました。
今度は、乳母一人の声が答えた。
なに、み寺の門に。
婢女を先に、行道の群れは、小石を飛す嵐の中を、早足に練り出した。
あっし あっし あっし ……。
声は、遠くからも聞えた。大風をつき抜く様な鋭声(とごえ)が、野面(のづら)に伝わる。
万法蔵院は、実に寂(せき)として居た。山風は物忘れした様に、鎮まって居た。夕闇はそろそろ、かぶさって来て居るのに、山裾のひらけた処を占めた寺庭は、白砂が、昼の明りに輝いていた。ここからよく見える二上の頂は、広く、赤々と夕映えている。
姫は、山田の道場の※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)から仰ぐ空の狭さを悲しんでいる間に、何時かここまで来て居たのである。浄域を穢(けが)した物忌みにこもっている身、と言うことを忘れさせぬものが、其でも心の隅にあったのであろう。門の閾(しきみ)から、伸び上るようにして、山の際(は)の空を見入って居た。
暫らくおだやんで居た嵐が、又山に廻ったらしい。だが、寺は物音もない黄昏(たそがれ)だ。
男岳(おのかみ)と女岳(めのかみ)との間になだれをなした大きな曲線(たわ)が、又次第に両方へ聳(そそ)って行っている、此二つの峰の間の広い空際。薄れかかった茜の雲が、急に輝き出して、白銀の炎をあげて来る。山の間(ま)に充満して居た夕闇は、光りに照されて、紫だって動きはじめた。
そうして暫らくは、外に動くもののない明るさ。山の空は、唯白々として、照り出されて居た。肌 肩 脇 胸 豊かな姿が、山の尾上の松原の上に現れた。併し、俤(おもかげ)に見つづけた其顔ばかりは、ほの暗かった。
今すこし著(しる)く み姿顕(あらわ)したまえ――。
郎女の口よりも、皮膚をつんざいて、あげた叫びである。山腹の紫は、雲となって靉(たなび)き、次第次第に降(さが)る様に見えた。
明るいのは、山際ばかりではなかった。地上は、砂(いさご)の数もよまれるほどである。
しずかに しずかに雲はおりて来る。万法蔵院の香殿・講堂・塔婆・楼閣・山門・僧房・庫裡(くり)、悉(ことごと)く金に、朱に、青に、昼より著(いちじる)く見え、自ら光りを発して居た。
庭の砂の上にすれすれに、雲は揺曳(ようえい)して、そこにありありと半身を顕した尊者の姿が、手にとる様に見えた。匂いやかな笑みを含んだ顔が、はじめて、まともに郎女に向けられた。伏し目に半ば閉じられた目は、此時、姫を認めたように、清(すず)しく見ひらいた。軽くつぐんだ脣(くちびる)は、この女性(にょしょう)に向うて、物を告げてでも居るように、ほぐれて見えた。
郎女は尊さに、目の低(た)れて来る思いがした。だが、此時を過してはと思う一心で、御姿(みすがた)から、目をそらさなかった。
あて人を讃えるものと、思いこんだあの詞(ことば)が、又心から迸(ほとばし)り出た。
なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。
瞬間に明りが薄れて行って、まのあたりに見える雲も、雲の上の尊者の姿も、ほのぼのと暗くなり、段々に高く、又高く上って行く。姫が、目送する間もない程であった。忽(たちまち)、二上山の山の端に溶け入るように消えて、まっくらな空ばかりの、たなびく夜に、なって居た。
あっし あっし。
足を蹈み、前(さき)を駆(お)う声が、耳もとまで近づいて来ていた。

当麻(たぎま)の邑(むら)は、此頃、一本の草、一塊(ひとくれ)の石すら、光りを持つほど、賑(にぎわ)い充(み)ちて居る。
当麻真人家(たぎまのまひとけ)の氏神当麻彦の社へ、祭り時に外れた昨今、急に、氏上の拝礼があった。故上総守老真人(かずさのかみおゆのまひと)以来、暫らく絶えて居たことである。
其上、もうに二三日に迫った八月(はつき)の朔日(ついたち)には、奈良の宮から、勅使が来向われる筈になって居た。当麻氏から出られた大夫人(だいふじん)のお生み申された宮の御代に、あらたまることになったからである。廬堂の中は、前よりは更に狭くなって居た。郎女が、奈良の御館(みたち)からとり寄せた高機(たかはた)を、設(た)てたからである。機織りに長(た)けた女も、一人や二人は、若人の中に居た。此女らの動かして見せる筬(おさ)や梭(ひ)の扱い方を、姫はすぐに会得した。機に上って日ねもす、時には終夜(よもすがら)織って見るけれど、蓮の糸は、すぐに円(つぶ)になったり、断(き)れたりした。其でも、倦(う)まずにさえ織って居れば、何時か織りあがるもの、と信じている様に、脇目からは見えた。
乳母(ちおも)は、人に見せた事のない憂わしげな顔を、此頃よくしている。
何しろ、唐土(もろこし)でも、天竺(てんじく)から渡った物より手に入らぬ、という藕糸織(はすいとお)りを遊ばそう、と言うのじゃもののう。
話相手にもしなかった若い者たちに、時々うっかりと、こんな事を、言う様になった。
こう糸が無駄になっては。
今の間にどしどし績(う)んで置かいでは――。
乳母の語に、若人たちは又、広々として野や田の面におり立つことを思うて、心がさわだった。そうして、女たちの刈りとった蓮積み車が、廬(いおり)に戻って来ると、何よりも先に、田居への降り道に見た、当麻の邑(むら)の騒ぎの噂である。
郎女(いらつめ)様のお従兄恵美の若子(わくご)さまのお母(はら)様も、当麻真人のお出じゃげな――。
恵美の御館(みたち)の叔父君の世界、見るような世になった。
兄御を、帥(そつ)の殿に落しておいて、御自身はのり越して、内相の、大師の、とおなりのぼりの御心持ちは、どうあろうのう――。
あて人に仕えて居ても、女はうっかりすると、人の評判に時を移した。
やめい やめい。お耳ざわりぞ。
しまいには、乳母が叱りに出た。だが、身狭刀自(むさのとじ)自身のうちにも、もだもだと咽喉(のど)につまった物のある感じが、残らずには居なかった。そうして、そんなことにかまけることなく、何の訣(わけ)やら知れぬが、一心に糸を績み、機を織って居る育ての姫が、いとおしくてたまらぬのであった。
昼の中多く出た虻(あぶ)は、潜んでしまったが、蚊は仲秋になると、益々あばれ出して来る。日中の興奮で、皆は正体もなく寝た。身狭までが、姫の起き明す灯の明りを避けて、隅の物陰に、深い鼾(いびき)を立てはじめた。
郎女は、断(き)れては織り、織っては断れ、手がだるくなっても、まだ梭(ひ)を放そうともせぬ。
だが、此頃の姫の心は、満ち足ろうて居た。あれほど、夜々(よるよる)見て居た俤人(おもかげびと)の姿も見ずに、安らかな気持ちが続いているのである。
「此機を織りあげて、はようあの素肌のお身を、掩(おお)うてあげたい。」
其ばかり考えて居る。世の中になし遂げられぬもののあると言うことを、あて人は知らぬのであった。
ちょう ちょう はた はた。
はた はた ちょう……。
筬(おさ)を流れるように、手もとにくり寄せられる糸が、動かなくなった。引いても扱(こ)いても通らぬ。筬の歯が幾枚も毀(こぼ)れて、糸筋の上にかかって居るのが見える。
郎女は、溜(た)め息(いき)をついた。乳母に問うても、知るまい。女たちを起して聞いた所で、滑らかに動かすことはえすまい。
どうしたら、よいのだろう。
姫ははじめて、顔へ偏ってかかって来る髪のうるささを感じた。筬の櫛目(くしめ)を覗いて見た。梭もはたいて見た。
ああ、何時になったら、したてた衣(ころも)を、お肌へふくよかにお貸し申すことが出来よう。
もう外の叢(くさむら)で鳴き出した、蟋蟀(こおろぎ)の声を、瞬間思い浮べて居た。
どれ、およこし遊ばされ。こう直せば、動かぬこともおざるまい――。
どうやら聞いた気のする声が、機の外にした。
あて人の姫は、何処から来た人とも疑わなかった。唯、そうした好意ある人を、予想して居た時なので、
見てたもれ。
機をおりた。
女は尼であった。髪を切って尼そぎにした女は、其も二三度は見かけたことはあったが、剃髪(ていはつ)した尼には会うたことのない姫であった。
はた はた ちょう ちょう
元の通りの音が、整って出て来た。
蓮の糸は、こう言う風では、織れるものではおざりませぬ。もっと寄って御覧(ごろう)じ――。これこう――おわかりかえ。
当麻語部姥(うば)の声である。だが、そんなことは、郎女の心には、間題でもなかった。
おわかりなさるかえ。これこう――。
姫の心は、こだまの如く聡(さと)くなって居た。此才伎(てわざ)の経緯(ゆきたて)は、すぐ呑み込まれた。
織ってごろうじませ。
姫が、高機に代って入ると、尼は機陰に身を倚(よ)せて立つ。
はた はた ゆら ゆら。
音までが、変って澄み上った。
女鳥(めとり)の わがおおきみの織(おろ)す機。誰(た)が為(た)ねろかも――、御存じ及びでおざりましょうのう。昔、こう、機殿の※(「片+總のつくり」、第3水準1-87-68)(まど)からのぞきこうで、問われたお方様がおざりましたっけ。
――その時、その貴い女性(にょしょう)がの、
たか行くや隼別(はやぶさわけ)の御被服料(みおすいがね)――そうお答えなされたとのう。
この中(じゅう)申し上げた滋賀津彦は、やはり隼別でもおざりました。天若日子(あめわかひこ)でもおざりました。天(てん)の日(ひ)に矢を射かける――。併し、極みなく美しいお人でおざりましたがよ。截(き)りはたり、ちょうちょう。それ――、早く織らねば、やがて、岩牀(いわどこ)の凍る冷い冬がまいりますがよ――。
郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭をとり直して見ると、
はた はた ゆら ゆら。ゆら はたた。
美しい織物が、筬の目から迸(ほとばし)る。
はた はた ゆら ゆら。
思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つの閾(しきみ)を越えたのである。

望の夜の月が冴えて居た。若人たちは、今日、郎女の織りあげた一反(ひとむら)の上帛(はた)を、夜の更けるのも忘れて、見讃(みはや)して居た。
この月の光りを受けた美しさ。
※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)(かとり)のようで、韓織(からおり)のようで、――やっぱり、此より外にはない、清らかな上帛じゃ。
乳母も、遠くなった眼をすがめながら、譬(たと)えようのない美しさと、ずっしりとした手あたりを、若い者のように楽しんでは、撫でまわして居た。
二度目の機は、初めの日数の半(なから)であがった。三反の上帛を織りあげて、姫の心には、新しい不安が頭をあげて来た。五反目を織りきると、機に上ることをやめた。そうして、日も夜も、針を動した。
長月の空は、三日の月のほのめき出したのさえ、寒く眺められる。この夜寒に、俤人の肩の白さを思うだけでも、堪えられなかった。
裁ち縫うわざは、あて人の子のする事ではなかった。唯、他人(ひと)の手に触れさせたくない。こう思う心から、解いては縫い、縫うてはほどきした。現(うつ)し世(よ)の幾人にも当る大きなお身に合う衣を、縫うすべを知らなかった。せっかく織り上げた上帛を、裁ったり截ったり、段々布は狭くなって行く。
女たちも、唯姫の手わざを見て居るほかはなかった。何を縫うものとも考え当らぬ囁(ささや)きに、日を暮すばかりである。
其上、日に増し、外は冷えて来る。人々は一日も早く、奈良の御館に帰ることを願うばかりになった。郎女は、暖かい昼、薄暗い廬の中で、うっとりとしていた。その時、語部(かたり)の尼が歩み寄って来るのを、又まざまざと見たのである。
何を思案遊ばす。壁代(かべしろ)の様に縦横に裁ちついで、其まま身に纏(まと)うようになさる外はおざらぬ。それ、ここに紐(ひも)をつけて、肩の上でくくりあわせれば、昼は衣になりましょう。紐を解き敷いて、折り返し被(かぶ)れは、やがて夜の衾(ふすま)にもなりまする。天竺の行人(ぎょうにん)たちの著(き)る僧伽梨(そうぎゃり)と言うのが、其でおざりまする。早くお縫いあそばされ。
だが、気がつくと、やはり昼の夢を見て居たのだ。裁ちきった布を綴り合せて縫い初めると、二日もたたぬ間に、大きな一面の綴りの上帛(はた)が出来あがった。
郎女(いらつめ)様は、月ごろかかって、唯の壁代(かべしろ)をお織りなされた。
あったら 惜しやの。
はりが抜けたように、若人たちが声を落して言うて居る時、姫は悲しみながら、次の営みを考えて居た。
「これでは、あまり寒々としている。殯(もがり)の庭の棺(ひつぎ)にかけるひしきもの―喪氈―、とやら言うものと、見た目にかわりはあるまい。」

もう、世の人の心は賢(さか)しくなり過ぎて居た。独り語りの物語りなどに、信(しん)をうちこんで聴く者のある筈はなかった。聞く人のない森の中などで、よく、つぶつぶと物言う者がある、と思うて近づくと、其が、語部の家の者だったなど言う話が、どの村でも、笑い咄(ばなし)のように言われるような世の中になって居た。当麻語部(たぎまのかたりべ)の嫗(おむな)なども、都の上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)の、もの疑いせぬ清い心に、知る限りの事を語りかけようとした。だが、忽(たちまち)違った氏の語部なるが故に、追い退(の)けられたのであった。
そう言う聴きてを見あてた刹那(せつな)に、持った執心の深さ。その後、自身の家の中でも、又廬堂(いおりどう)に近い木立ちの陰でも、或は其処を見おろす山の上からでも、郎女に向ってする、ひとり語りは続けられて居た。
今年八月、当麻の氏人に縁深いお方が、めでたく世にお上りなされたあの時こそ、再己(おの)が世が来た、とほくそ笑みをした――が、氏の神祭りにも、語部を請(しょう)じて、神語りを語らそうともせられなかった。ひきついであった、勅使の参向の節にも、呼び出されて、当麻氏の古物語りを奏上せい、と仰せられるか、と思うて居た予期(あらまし)も、空頼みになった。
此はもう、自身や、自身の祖(おや)たちが、長く覚え伝え、語りついで来た間、こうした事に行き逢おうとは、考えもつかなかった時代(ときよ)が来たのだ、と思うた瞬間、何もかも、見知らぬ世界に追放(やら)われている気がして、唯驚くばかりであった。娯(たの)しみを失いきった語部の古婆は、もう飯を喰べても、味は失うてしまった。水を飲んでも、口をついて、独り語りが囈語(うわごと)のように出るばかりになった。
秋深くなるにつれて、衰えの、目立って来た姥(うば)は、知る限りの物語りを、喋(しゃべ)りつづけて死のう、と言う腹をきめた。そうして、郎女の耳に近い処をところをと覓(もと)めて、さまよい歩くようになった。

郎女は、奈良の家に送られたことのある、大唐の彩色(えのぐ)の数々を思い出した。其を思いついたのは、夜であった。今から、横佩墻内(よこはきかきつ)へ馳(か)けつけて、彩色を持って還(かえ)れ、と命ぜられたのは、女の中に、唯一人残って居た長老(おとな)である。ついしか、こんな言いつけをしたことのない郎女の、性急な命令に驚いて、女たちは復(また)、何か事の起るのではないか、とおどおどして居た。だが、身狭乳母(むさのちおも)の計いで、長老は渋々、夜道を、奈良へ向って急いだ。
あくる日、絵具の届けられた時、姫の声ははなやいで、興奮(はや)りかに響いた。
女たちの噂した所の、袈裟(けさ)で謂(い)えば、五十条の大衣(だいえ)とも言うべき、藕糸(ぐうし)の上帛(はた)の上に、郎女の目はじっとすわって居た。やがて筆は、愉(たの)しげにとり上げられた。線描(すみが)きなしに、うちつけに絵具を塗り進めた。美しい彩画(たみえ)は、七色八色の虹のように、郎女の目の前に、輝き増して行く。
姫は、緑青を盛って、層々うち重る楼閣伽藍(がらん)の屋根を表した。数多い柱や、廊の立ち続く姿が、目赫(めかがや)くばかり、朱で彩(た)みあげられた。むらむらと靉(たなび)くものは、紺青の雲である。紫雲は一筋長くたなびいて、中央根本堂とも見える屋の上から、画きおろされた、雲の上には金泥(こんでい)の光り輝く靄(もや)が、漂いはじめた。姫の命を搾るまでの念力が、筆のままに動いて居る。やがて金色(こんじき)の雲気は、次第に凝り成して、照り充ちた色身(しきしん)――現(うつ)し世(よ)の人とも見えぬ尊い姿が顕(あらわ)れた。
郎女は唯、先の日見た、万法蔵院の夕(ゆうべ)の幻を、筆に追うて居るばかりである。堂・塔・伽藍すべては、当麻のみ寺のありの姿であった。だが、彩画の上に湧き上った宮殿(くうでん)楼閣は、兜率天宮(とそつてんぐう)のたたずまいさながらであった。しかも、其四十九重の宝宮の内院に現れた尊者の相好(そうごう)は、あの夕、近々と目に見た俤(おもかげ)びとの姿を、心に覓(と)めて描き顕したばかりであった。
刀自(とじ)・若人たちは、一刻一刻、時の移るのも知らず、身ゆるぎもせずに、姫の前に開かれて来る光りの霞に、唯見呆けて居るばかりであった。
郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(えま)いを、円(まろ)く跪坐(ついい)る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去った刹那、心づく者は一人もなかったのである。まして、戸口に消える際(きわ)に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣(わけ)はなかった。
姫の俤びとに貸す為の衣に描いた絵様(えよう)は、そのまま曼陀羅(まんだら)の相(すがた)を具えて居たにしても、姫はその中に、唯一人の色身の幻を描いたに過ぎなかった。併し、残された刀自・若人たちの、うち瞻(まも)る画面には、見る見る、数千地涌(すせんじゆ)の菩薩(ぼさつ)の姿が、浮き出て来た。其は、幾人の人々が、同時に見た、白日夢のたぐいかも知れぬ。
了

底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第廿四巻」中央公論社
   1967(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論 第十四巻第一号〜三号」
   1939(昭和14)年1月〜3月
初収単行本:「死者の書」青磁社
   1943(昭和18)年9月
※誤植と組み体裁の誤りが疑われる箇所は、底本の親本を参照して修正しました。
入力:kompass
校正:米田進
2003年12月27日作成
2012年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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