あらすじ
山奥の廃城跡に、一人の青年と、肩に担がれた女の姿が現れます。青年は疲労困憊で、女はまるで人形のように動かずに、どこを見ているのかさえ分かりません。青年は女が生きているのか死んでいるのか、はたまた何か別のものなのか、混乱し、不安に駆られます。やがて青年は、担いでいた女が実は精巧な木製の彫像であったことに気づくのです。一体、青年は何者で、女の彫像は何故そこにあったのでしょうか?そして、この奇妙な物語は、どのような展開を迎えるのでしょうか?
       朱鷺船(ときふね)


         一

 濡色(ぬれいろ)を含(ふく)んだ曙(あけぼの)の霞(かすみ)の中(なか)から、姿(すがた)も振(ふり)もしつとりとした婦(をんな)を肩(かた)に、片手(かたて)を引担(ひつかつ)ぐやうにして、一人(ひとり)の青年(わかもの)がとぼ/\と顕(あら)はれた。
 色(いろ)が真蒼(まつさを)で、目(め)も血走(ちばし)り、伸(の)びた髪(かみ)が額(ひたひ)に被(かゝ)つて、冠物(かぶりもの)なしに、埃塗(ほこりまみ)れの薄汚(うすよご)れた、処々(ところ/″\)釦(ボタン)の断(ちぎ)れた背広(せびろ)を被(き)て、靴(くつ)足袋(たび)もない素跣足(すはだし)で、歩行(ある)くのに蹌踉々々(よろ/\)する。
 其(それ)が婦(をんな)を扶(たす)け曳(ひ)いた処(ところ)は、夜一夜(よひとよ)辿々(たど/\)しく、山路野道(やまみちのみち)、茨(いばら)の中(なか)を※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)(さまよ)つた落人(おちうど)に、夜(よ)が白(しら)んだやうでもあるし、生命懸(いのちがけ)の喧嘩(けんくわ)から慌(あはたゞ)しく抜出(ぬけだ)したのが、勢(せい)が尽(つ)きて疲果(つかれは)てたものらしくもある。が、道行(みちゆき)にしろ、喧嘩(けんくわ)にしろ、其(そ)の出(で)て来(き)た処(ところ)が、遁(に)げるにも忍(しの)んで出(で)るにも、背後(うしろ)に、村(むら)、里(さと)、松並木(まつなみき)、畷(なはて)も家(いへ)も有(あ)るのではない。山(やま)を崩(くづ)して、其(そ)の峯(みね)を余(あま)した状(さま)に、昔(むかし)の城趾(しろあと)の天守(てんしゆ)だけ残(のこ)つたのが、翼(つばさ)を拡(ひろ)げて、鷲(わし)が中空(なかぞら)に翔(かけ)るか、と雲(くも)を破(やぶ)つて胸毛(むなげ)が白(しろ)い。と同(おな)じ高(たか)さに頂(いたゞき)を並(なら)べて、遠近(をちこち)の峯(みね)が、東雲(しのゝめ)を動(うご)きはじめる霞(かすみ)の上(うへ)に漾(たゞよ)つて、水紅色(ときいろ)と薄紫(うすむらさき)と相累(あひかさな)り、浅黄(あさぎ)と紺青(こんじやう)と対向(むかひあ)ふ、幽(かすか)に中(なか)に雪(ゆき)を被(かつ)いで、明星(みやうじやう)の余波(なごり)の如(ごと)く晃々(きら/\)と輝(かゞや)くのがある。……此(こ)の山中(さんちゆう)を、誰(たれ)と喧嘩(けんくわ)して、何処(どこ)から駆落(かけおち)して来(こ)やう? ……
 婦(をんな)は、と云(い)ふと、引担(ひつかつ)がれた手(て)は袖(そで)にくるまつて、有(あ)りや、無(な)しや、片手(かたて)もふら/\と下(さが)つて、何(なに)を便(たよ)るとも見(み)えず。臘(らふ)に白粉(おしろい)した、殆(ほとん)ど血(ち)の色(いろ)のない顔(かほ)を真向(まむき)に、ぱつちりとした二重瞼(ふたへまぶた)の黒目勝(くろめがち)なのを一杯(いつぱい)に※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いて、瞬(またゝき)もしないまで。而(そ)して男(をとこ)の耳(みゝ)と、其(そ)の鬢(びん)と、すれ/\に顔(かほ)を並(なら)べた、一方(いつぱう)が小造(こづくり)な方(はう)ではないから、婦(をんな)の背(せ)が随分(ずいぶん)高(たか)い。
 然(さ)うかと思(おも)へば、帯(おび)から下(した)は、げつそりと風(ふう)が薄(うす)く、裙(すそ)は緊(しま)つたが、ふうわりとして力(ちから)が入(はい)らぬ。踵(かゝと)が浮(う)いて、恁(か)う、上(うへ)へ担(かつ)ぎ上(あ)げられて居(ゐ)さうな様子(やうす)。
 二人(ふたり)とも、それで、やがて膝(ひざ)の上(うへ)あたりまで、乱(みだ)れかゝつた枯蘆(かれあし)で蔽(おほ)はれた上(うへ)を、又(また)其(そ)の下(した)を這(は)ふ霞(かすみ)が隠(かく)す。
 最(もつと)も路(みち)のない処(ところ)を辿(たど)るのではなかつた。背後(うしろ)に、尚(な)ほ覚果(さめは)てぬ暁(あかつき)の夢(ゆめ)が幻(まぼろし)に残(のこ)つたやうに、衝(つ)と聳(そび)へた天守(てんしゆ)の真表(まおもて)。差懸(さしかゝ)つたのは大手道(おほてみち)で、垂々下(だら/\お)りの右左(みぎひだり)は、半(なか)ば埋(うも)れた濠(ほり)である。
 空濠(からぼり)と云(い)ふではない、が、天守(てんしゆ)に向(むか)つた大手(おほて)の跡(あと)の、左右(さいう)に連(つら)なる石垣(いしがき)こそまだ高(たか)いが、岸(きし)が浅(あさ)く、段々(だん/\)に埋(うも)れて、土堤(どて)を掛(か)けて道(みち)を包(つゝ)むまで蘆(あし)が森(もり)をなして生茂(おひしげ)る。然(しか)も、鎌(かま)は長(とこしへ)に入(い)れぬ処(ところ)、折(をり)から枯葉(かれは)の中(なか)を透(す)いて、どんよりと霞(かすみ)の溶(と)けた水(みづ)の色(いろ)は、日(ひ)の出(で)を待(ま)つて、さま/″\の姿(すがた)と成(な)つて、其(それ)から其(それ)へ、ふわ/\と遊(あそ)びに出(で)る、到(いた)る処(ところ)の、あの陽炎(かげらふ)が、こゝに屯(たむろ)したやうである。
 其(そ)の蘆(あし)がくれの大手(おほて)を、婦(をんな)は分(わ)けて、微吹(そよふ)く朝風(あさかぜ)にも揺(ゆ)らるゝ風情(ふぜい)で、男(をとこ)の振(ふら)つくとゝもに振(ふら)ついて下(お)りて来(き)た。……若(も)しこれで声(こゑ)がないと、男女(ふたり)は陽炎(かげらふ)が顕(あら)はす、其(そ)の最初(さいしよ)の姿(すがた)であらうも知(し)れぬ。
 が、青年(わかもの)が息切(いきゞ)れのする声(こゑ)で、言(ものい)ふのを聞(き)け。
「寐(ね)るなんて、……寐(ね)るなんて、何(ど)うしたんだらう。真個(まつたく)、気(き)が着(つ)いて自分(じぶん)でも驚(おどろ)いた。白(しら)んで来(き)たもの。何時(いつ)の間(ま)に夜(よ)が明(あ)けたか些(ちつ)とも知(し)らん。お前(まへ)も又(また)何(なん)だ、打(ぶ)つてゞも揺(ゆすぶ)つてゞも起(おこ)せば可(い)いのに――しかし疲(つか)れた、私(わたし)は非常(ひじやう)に疲(つか)れて居(ゐ)る。お前(まへ)に分(わか)れてから以来(このかた)、まるで一目(ひとめ)も寐(ね)ないんだから。……」
とせい/\、肩(かた)を揺(ゆすぶ)ると、其(そ)の響(ひゞ)きか、震(ふる)へながら、婦(をんな)は真黒(まつくろ)な髪(かみ)の中(なか)に、大理石(だいりせき)のやうな白(しろ)い顔(かほ)を押据(おしす)えて、前途(ゆくさき)を唯(たゞ)熟(じつ)と瞻(みまも)る。

         二

「考(かんが)へると、能(よ)くあんな中(なか)で寐(ね)られたものだ。」
と男(をとこ)は尚(な)ほ半(なか)ば呟(つぶや)くやうに、
「言(い)つて見(み)れば敵(てき)の中(なか)だ。敵(てき)の中(なか)で、夜(よ)の明(あ)けるのを知(し)らなかつたのは実(じつ)に自分(じぶん)ながら度胸(どきやう)が可(い)い。……いや、然(さ)うではない、一時(いちじ)死(し)んだかも分(わか)らん。
 然(さ)うだ、死(し)んだと言(い)へば、生死(いきしに)の分(わか)らなかつた、お前(まへ)の無事(ぶじ)な顔(かほ)を見(み)た嬉(うれ)しさに、張詰(はりつ)めた気(き)が弛(ゆる)んで落胆(がつかり)して、其(それ)つ切(きり)に成(な)つたんだ。嘸(さぞ)お前(まへ)は、待(ま)ちに待(ま)つた私(わたし)と云(い)ふものが、目(め)の前(まへ)に見(み)えるか見(み)えないに、だらしなく、ぐつたりと成(な)つて了(しま)つて、どんなにか、頼(たの)みがひがないと怨(うら)んだらう。
 真個(まつたく)、安心(あんしん)の余(あま)り気絶(きぜつ)したんだと断念(あきら)めて、許(ゆる)してくれ。寐(ね)たんぢやない。又(また)、何(ど)うして寐(ね)られる……実(じつ)は一刻(いつこく)も疾(はや)く、此(こ)の娑婆(しやば)へ連出(つれだ)すために、お前(まへ)の顔(かほ)を見(み)たらば其(そ)の時(とき)! 壇(だん)を下(お)りるなぞは間弛(まだる)ツこい。天守(てんしゆ)の五階(ごかい)から城趾(しろあと)へ飛下(とびお)りて帰(かへ)らう! 其(そ)の意気込(いきご)みで出懸(でか)けたんだ、実際(じつさい)だよ。
 が、彼(あ)の頂上(ちやうじやう)から飛(とん)だ日(ひ)には、二人(ふたり)とも五躰(ごたい)は微塵(みじん)だ。五躰(ごたい)が微塵(みぢん)ぢや、顔(かほ)も視(み)られん、何(なん)にも成(な)らない。然(さ)うすりや、何(なに)を救(すく)ふんだか、救(すく)はれるんだか、……何(なに)を言(い)ふんだか、はゝはゝ。」
と取留(とりと)めもなく笑(わら)つた拍子(ひやうし)に、草(くさ)を踏(ふ)んだ爪先下(つまさきさが)りの足許(あしもと)に力(ちから)が抜(ぬ)けたか、婦(をんな)を肩(かた)に、恋(こひ)の重荷(おもに)の懸(かゝ)つた方(はう)の片膝(かたひざ)をはたと支(つ)く、トはつと手(て)を離(はな)すと同時(どうじ)に、婦(をんな)の黒髪(くろかみ)は頬摺(ほゝず)れにづるりと落(お)ちて、前伏(まへぶし)に、男(をとこ)の膝(ひざ)へ背(せな)が偃(のめ)つて、弱腰(よわごし)を折重(をりかさ)ねた。
「あつ!」と慌(あはたゞ)しく、青年(わかもの)は其(そ)の帯(おび)の上(うへ)へ手(て)を掛(か)けて、
「危(あぶな)い。あゝ、何(なん)て事(こと)だ。――お浦(うら)、」
と言(い)つたは婦(をんな)の名(な)で。
「怪我(けが)はしないか、何処(どこ)も痛(いた)めはしなかつたか。可(よし)、何(なん)ともない。」
 婦(をんな)が、あ、とも言(い)はず、声(こゑ)の無(な)いのを、過失(あやまち)はせぬ事(こと)、と頷(うなづ)いて、さあ、起(た)たうとすると些(ちつ)とも動(うご)かぬ。
「起(た)たないか、こんな処(ところ)に長居(ながゐ)は無益(むえき)だ。何(ど)うした。」
と密(そつ)と揺(ゆす)ぶる、手(て)に従(したが)つて揺(ゆす)ぶれるのが、死(し)んだ魚(うを)の鰭(ひれ)を摘(つま)んで、水(みづ)を動(うご)かすと同(おな)じ工合(ぐあひ)で、此方(こちら)が留(や)めれば静(じつ)と成(な)つて、浮(う)きも沈(しづ)みもしない風(ふう)。
 はじめて驚(おどろ)いた色(いろ)して、
「何(ど)うかしたか、お浦(うら)。はてな、今(いま)転(ころ)んだつて、下(した)へは落(おと)さん、、怪我(けが)も過失(あやまち)も為(し)さうぢやない。何(なん)だか正体(しやうたい)がないやうだ。矢張(やつぱ)り一時(いちじ)に疲労(つかれ)が出(で)たのか。あゝ、然(さ)う言(い)へば前刻(さつき)から人(ひと)にばかりものを言(い)はせる。確乎(しつかり)してくれ、お浦(うら)、何(ど)うしたんだ。」
と今(いま)は慌(あはたゞ)しく成(な)つた。青年(わかもの)は矢庭(やには)に頸(うなじ)を抱(だ)き、膝(ひざ)なりに背(せ)を向(むか)ふへ捻廻(ねぢま)はすやうにして、我(わ)が胸(むね)を前(まへ)へ捻(ひね)つて、押仰向(おしあふむ)けた婦(をんな)の顔(かほ)。
 今(いま)も目(め)は塞(ふさ)がず、例(れい)の眸(みは)つて、些(さ)の顰(ひそ)むべき悩(なや)みも無(な)げに、額(ひたひ)に毛(け)ばかりの筋(すぢ)も刻(きざ)まず、美(うつく)しう優(やさし)い眉(まゆ)の展(の)びたまゝ、瞬(またゝき)もしないで、其(そ)のまゝ見据(みす)えた。
 其(そ)の顔(かほ)と、此(こ)の時(とき)、引返(ひきかへ)した身動(みじろ)ぎに、飜(ひるがへ)つた褄(つま)の乱(みだ)れに、雪(ゆき)のやうに顕(あら)はれた円(まる)い膝頭(ひざがしら)……を一目(ひとめ)見(み)るや、
「うむ、」と一声(ひとこゑ)、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(だう)と枯蘆(かれあし)に腰(こし)を落(おと)して、殆(ほと)んど痙攣(けいれん)を起(おこ)した如(ごと)く、足(あし)を投出(なげだ)してぶる/\と震(ふる)へて、
「違(ちが)つた/\。造(つく)りものだ、拵(こしら)へものだ、彫像(てうざう)だ。昨夜(ゆふべ)持(も)つて行(い)つた形代(かたしろ)だ、こりや、……おゝ。」
 戦(おのゝ)く手(て)に、婦(をんな)の胸(むね)を確乎(しつか)と圧(お)せば、膨(ふく)らかな襟(ゑり)のあたりも、掌(てのひら)に堅(かた)く且(か)つ冷(つめ)たいのであつた。
「何(なん)だ、又(また)これを持(も)つて帰(かへ)るほどなら、誰(たれ)が命(いのち)がけに成(な)つて、這麼(こんな)ものを拵(こしら)へやう。……誑(たぶらか)しやあがつたな! 山猫(やまねこ)め、狐(きつね)め、野狸(のだぬき)め。」
と邪慳(じやけん)に、胸先(むなさき)を取(と)つて片手(かたて)で引立(ひつた)てざまに、渠(かれ)は棒立(ぼうだ)ちにぬつくり立(た)つ。可憐(あはれ)や艶麗(あでやか)な女(をんな)の姿(すがた)は、背筋(せすぢ)を弓形(ゆみなり)、裳(もすそ)を宙(ちう)に、縊(くび)られた如(ごと)くぶらりと成(な)る。

         三

 青年(わかもの)は半狂乱(はんきやうらん)の躰(てい)で、地韜(ぢだんだ)を踏(ふ)んで歯噛(はがみ)をした。
「おのれえ、魔(ま)でも、鬼(おに)でも、約束(やくそく)を違(たが)へる、と言(い)ふ不都合(ふつがふ)があるか、何(なん)と言(い)つた、何(なん)と言(い)つた。」
と詰(なじ)るが如(ごと)くに掠(かす)れ声(ごゑ)して、手(て)を握(にぎ)つて、空(くう)を打(う)つて、天守(てんしゆ)の屋根(やね)を睨(にら)んで喚(わめ)いた。大手筋(おほてすぢ)を下切(おりき)つた濠端(ほりばた)に――まだ明果(あけは)てない、海(うみ)のやうな、山中(さんちゆう)の原(はら)を背後(うしろ)にして――朝虹(あさにじ)に鱗(うろこ)したやうに一方(いつぱう)の谷(たに)から湧上(わきあが)る向(むか)ふ岸(ぎし)なる石垣(いしがき)越(ごし)に、其(そ)の天守(てんしゆ)に向(むか)つて喚(わめ)く……
 喚(わめ)くが、しかし、一騎(いつき)朝蒐(あさがけ)で、敵(てき)を詈(のゝし)る勇(いさ)ましい様子(やうす)はなく、横歩行(よこあるき)に、ふら/\して、前(まへ)へ出(で)たり、退(すさ)つたり、且(か)つ蹌踉(よろ)めき、且(か)つ独言(ひとりごと)するのである。
「畜生(ちくしやう)、人(ひと)の女房(にようばう)を奪(うば)つた畜生(ちくしやう)、魔物(まもの)に義理(ぎり)はあるまいが、約束(やくそく)を違(たが)へて済(す)むか、……何(なん)と言(い)つて約束(やくそく)した――婦(をんな)の彫像(てうざう)を拵(こしら)へろ、其(そ)の形代(かたしろ)を持(も)つて来(こ)い。お浦(うら)を返(かへ)すと言(い)つたのを忘(わす)れたか、忘(わす)れたのか。」
と其(そ)の握拳(にぎりこぶし)で、己(おの)が膝(ひざ)を礑(はた)と打(う)つたが、力(ちから)余(あま)つて背後(うしろ)へ蹌踉(よろ)ける、と石垣(いしがき)も天守(てんしゆ)も霞(かすみ)に揺(ゆ)れる。
「待(ま)てよ。雖然(けれども)、自分(じぶん)の製作(こしら)へた此(こ)の像(ざう)だ、これが、もし価値(ねうち)に積(つも)つて、あの、お浦(うら)より、遥(はるか)に劣(おと)つて居(ゐ)たら何(ど)うする。まるで取替(とりか)へる価(あたひ)がないと言(い)へば其(それ)までだ、――あゝ、其(それ)がために、旧通(もとどほ)りお浦(うら)を隠(かく)して、此(こ)の木像(もくざう)を突返(つきかへ)したのか。己(おれ)は夢中(むちゆう)で、此(これ)を恋(こひ)しい婦(をんな)だ、と思(おも)つて、うか/\抱(だ)いて返(かへ)つたのか、然(さ)うかも知(し)れん。
 其(それ)では、劣作(れつさく)だと言(い)ふのだな、駄物(だもの)だ、と言(い)ふのだな、劣作(れつさく)か、駄物(だもの)か、此奴(こいつ)。」
と首(くび)を引向(ひきむ)け胸(むね)に抱(いだ)いて、血走(ちばし)つた目(め)で屹(きつ)と其(そ)の顔(かほ)を。
「己(おれ)が、此(こ)の心(こゝろ)も知(し)らずに、けろりとして済(す)ました面(つら)よ。おのれ石(いし)でも、己(おれ)が此(こ)の心(こゝろ)を汲(く)んで、睫毛(まつげ)に露(つゆ)も宿(やど)さないか。霞(かすみ)にも曇(くも)らぬ瞳(ひとみ)は、蒟蒻玉(こんにやくだま)同然(どうぜん)だ。――其(それ)も道理(だうり)よ、血(ち)も通(かよ)はない、脉(みやく)もない、魂(たましひ)のない、たかゞ木屑(きくづ)の木像(もくざう)だ。」
と興覚顔(きようざめがほ)して、天守(てんしゆ)を仰(あふ)いで、又(また)俯向(うつむ)き、
「何(なん)だ、これは、魔物(まもの)が言(い)ひさうな事(こと)を己(おれ)が言(い)ふ、自分(じぶん)が言(い)ふ、我(われ)と我(わ)が口(くち)で詈(のゝし)るな。おゝ、自然(しぜん)と敵(てき)の意(い)を体(たい)して、自(みづ)から、罵倒(ばたう)するやうな木像(もくざう)では、前方(さき)が約束(やくそく)を遂(と)げんのも無理(むり)はない……駄物(だもの)、駄物(だもの)、駄物(だもの)、」
と三舎(さんしや)を避(さ)ける足取(あしどり)で、たぢ/\と後退(あとずさ)りして、
「さあ、恁(か)うなれば、お浦(うら)の紀念(かたみ)の方(はう)が大事(だいじ)だ。よくも、おのれ、ぬく/\と衣服(きもの)を着(き)た。」と言(い)ふ/\※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(むし)るが如(ごと)く衣紋(えもん)を開(ひら)いて帯(おび)をかなぐり、袖(そで)を外(はづ)すと、柔(やはら)かな肩(かた)が下(さが)つて、二(に)の腕(うで)がふらりと垂(た)れる。双(さう)の玉(たま)の乳房(ちぶさ)にも、糸一条(いとひとすぢ)の綾(あや)も残(のこ)さず、小脇(こわき)に抱(いだ)くや、此(こ)の彫刻家(てうこくか)の半身(はんしん)は、霞(かすみ)のまゝに山椿(やまつばき)の炎(ほのほ)が※(ぱつ)[#「火+發」、75-4]と搦(から)んだ風情(ふぜい)。
 其(そ)の下襲(したがさ)ねの緋鹿子(ひがのこ)に、足手(あして)の雪(ゆき)が照映(てりは)えて、女(をんな)の膚(はだえ)は朝桜(あさざくら)、白雲(しらくも)の裏(うら)越(こ)す日(ひ)の影(かげ)、血(ち)も通(かよ)ふ、と見(み)る内(うち)に、男(をとこ)の顔(かほ)は蒼(あを)く成(な)つた。――女(をんな)の像(ざう)の片腕(かたうで)が、肱(ひぢ)の処(ところ)から、切(き)れ目(め)赤(あか)う、さゝら立(だ)つて折(を)られて居(ゐ)た。
「わツ、」と叫(さけ)んで、其(そ)の咽喉(のど)を掴(つか)んだまゝ、投(な)げ附(つ)けやうとして振挙(ふりあ)げた手(て)の、筋(すぢ)が釣(つ)つて棒(ぼう)の如(ごと)くに衝(つ)と挙(あ)げると、女(をんな)の像(ざう)は鶴(つる)のやうに、ちら/\と髪(かみ)黒(くろ)く、青年(わかもの)の肩越(かたごし)に翼(つばさ)を乱(みだ)して飜(ひるがへ)つた。
 が、其(そ)のまゝには振飛(ふりと)ばさず。濠(ほり)を越(こ)して遥(はる)かな石垣(いしがき)の只中(たゞなか)へも叩(たゝ)きつけさうだつた勢(いきほひ)も失(う)せて――猶予(ためら)ふ状(さま)して……ト下(した)を見(み)る足許(あしもと)を、然(さ)まで下(くだ)らず、此方(こなた)は低(ひく)い濠(ほり)の岸(きし)の、すぐ灰色(はいいろ)の水(みづ)に成(な)る、角組(つのぐ)んだ蘆(あし)の上(うへ)へ、引上(ひきあ)げたか、浮(うか)べたか、水(みづ)のじと/\とある縁(へり)にかけて、小船(こぶね)が一艘(いつそう)、底(そこ)つた形(かたち)は、処(ところ)がら名(な)も知(し)れぬ大(おほい)なる魚(うを)の、がくり、と歯(は)を噛(か)んだ白髑髏(しやれかうべ)のやうなのがある。

         四

 処(ところ)が其(そ)の小船(こぶね)は、何(なん)の時(とき)か、向(むか)ふ岸(ぎし)から此(この)岸(きし)へ漕寄(こぎよ)せたものゝ如(ごと)く、艫(とも)を彼方(かなた)に、舳(みよし)を蘆(あし)の根(ね)に乗据(のつす)えた形(かたち)に見(み)える、……何処(どこ)の捨小船(すてをぶね)にも、恁(か)う逆(ぎやく)に攬(もや)つたと言(い)ふのは無(な)からう。まだ変(かは)つた事(こと)には、舷(ふなばた)を霞(かすみ)が包(つゝ)んで、ふつくり浮上(うきあが)つたやうな艫(とも)に留(と)まつて、五位鷺(ごゐさぎ)が一羽(いちは)、頬冠(ほゝかぶり)でも為(し)さうな風(ふう)で、のつと翼(つばさ)を休(やす)めて向(むか)ふむきにチヨンと居(ゐ)た。
 城趾(しろあと)の此(こ)の辺(あたり)は、人里(ひとざと)に遠(とほ)いから、鶏(にはとり)の声(こゑ)、鴉(からす)の声(こゑ)より、先(ま)づ五位鷺(ごゐさぎ)の色(いろ)に夜(よ)が明(あ)けやう。其(それ)に不思議(ふしぎ)は無(な)いが、如何(いか)に人(ひと)を恐(おそ)れねばとて、直(す)ぐ其(そ)の鶏冠(とさか)の上(うへ)で、人一人(ひとひとり)立騒(たちさは)ぐ先刻(さつき)から、造着(つくりつ)けた躰(てい)にきよとんとして、爪立(つまだ)てた片脚(かたあし)を下(お)ろさうともしなかつた。
 此(こ)の船(ふね)の中(なか)へ、どさりと落(おと)した。
 女(をんな)の像(ざう)は胴(どう)の間(ま)へ仰向(あふむ)けに、肩(かた)が舷(ふなべり)にかゝつて、黒髪(くろかみ)は蘆(あし)に挟(はさ)まり、乳(ち)の下(した)から裾(すそ)へ掛(か)けて、薄衣(うすぎぬ)の如(ごと)く霞(かすみ)が靡(なび)けば、風(かぜ)もなしに柔(やはら)かな葉摺(はず)れの音(おと)がそよら/\。で、船(ふね)が一揺(ひとゆす)れ揺(ゆ)れると思(おも)ふと、有繋(さすが)に物駭(ものおどろ)きを為(し)たらしい、艫(とも)に居(ゐ)た五位鷺(ごゐさぎ)は、はらりと其(そ)の紫(むらさき)がゝつた薄黒(うすぐろ)い翼(つばさ)を開(ひら)いた。
 開(ひら)いたが、飛(と)びはしない、で、ばさりと諸翼(もろつばさ)搏(はう)つと斉(ひと)しく、俯向(うつむ)けに頸(くび)を伸(の)ばして、あの長(なが)い嘴(くちばし)が、水(みづ)の面(も)へ衝(つ)と届(とゞ)くや否(いな)や、小船(こぶね)がすら/\と動(うご)きはじめて、音(おと)もなく漕(こ)いで出(で)る。
 見(み)るものは呆(あき)れ果(は)てゝ、どかと濠端(ほりばた)に腰(こし)を掛(か)けた。
 五位鷺(ごゐさぎ)の働(はたら)くこと。船(ふね)一艘(いつそう)漕(こ)ぐなれば、蘆(あし)の穂(ほ)の風(かぜ)に散(ち)る風情(ふぜい)、目(め)にも留(と)まらず、ひら/\と上下(うへした)に翼(つばさ)を煽(あふ)る。と船(ふね)の方(はう)は、落着済(おちつきす)まして夢(ゆめ)の空(そら)を辷(すべ)るやう、……やがて汀(みぎは)を漕(こ)ぎ離(はな)す。
 蘆(あし)の枯葉(かれは)をぬら/\と蒼(あを)ぬめりの水(みづ)が越(こ)して、浮草(うきぐさ)の樺色(かばいろ)まじりに、船脚(ふなあし)が輪(わ)に成(な)る頃(ころ)の、五位鷺(ごゐさぎ)の搏(はう)ちやう。又(また)一(ひと)しきり烈(はげ)しく急(きふ)に、滑(なめら)かな重(おも)い水(みづ)に響(ひゞ)いて、鳴渡(なりわた)るばかりと成(な)つたが。
 余(あま)りの労働(はたらき)、羽(はね)の間(あひだ)に垂々(たら/\)と、汗(あせ)か、※(しぶき)[#「さんずい+散」、76-16]か、羽先(はさき)を伝(つた)つて、水(みづ)へぽた/\と落(お)ちるのが、血(ち)の如(ごと)く色(いろ)づいて真赤(まつか)に溢(あふ)れる。……
「火(ひ)の粉(こ)だ、火(ひ)の粉(こ)だ。」と濠端(ほりばた)で、青年(わかもの)が驚(おどろ)き叫(さけ)んだ。
 果(はた)して血(ち)の汗(あせ)を絞(しぼ)る、と見(み)えたは、翼(つばさ)を落(お)ちる火(ひ)であつた。
「飛(と)ばつせえ船(ふね)の人(ひと)、船(ふね)の人(ひと)、飛(と)ばつせえ、飛込(とびこ)むのだえ!」
と野良調子(のらでうし)の高声(たかごゑ)を上(あ)げて、広野(ひろの)の霞(かすみ)に影(かげ)を煙(けぶ)らせ、一目散(いちもくさん)に駆附(かけつ)けるものがある。
 驚駭(おどろき)のあまり青年(わかもの)は、殆(ほとん)ど無意識(むいしき)に、小脇(こわき)に抱(いだ)いた、其(そ)の一襲(ひとかさ)ねの色衣(いろぎぬ)を、船(ふね)の火(ひ)に向(むか)つて颯(さつ)と投(な)げる、と水(みづ)へは落(お)ちたが、其処(そこ)には届(とゞ)かず、朱(しゆ)を流(なが)したやうに火(ひ)の影(かげ)を宿(やど)す萍(うきくさ)に漂(たゞよ)ふて、袖(そで)を煽(あふ)り、裳(もすそ)を開(ひら)いて、悶(もだ)へ苦(くる)しむが如(ごと)くに見(み)えつゝ、本尊(ほんぞん)たる女(をんな)の像(ざう)は、此(こ)の時(とき)早(はや)く黒煙(くろけむり)に包(つゝ)まれて、大(おほき)な朱鷺(とき)の形(かたち)した一団(いちだん)の燃(も)え立(た)つ火(ひ)が、一羽(いちは)倒(さかさま)に映(うつ)つて、水底(みなぞこ)に斉(ひと)しく宿(やど)る。舷(ふなばた)にも炎(ほのほ)が搦(から)んだ。
「えゝ! 飛込(とびこ)めい、水(みづ)は浅(あさ)い。」
と此(こ)の時(とき)濠端(ほりばた)へ駆(かけ)つけたは、もつぺと称(とな)へる裁着(たつゝけ)やうの股引(もゝひき)を穿(は)いた六十(むそじ)余(あま)りの背高(せたか)い老爺(おやぢ)で、腰(こし)から下(した)は、身躰(からだ)が二(ふた)つあるかと思(おも)ふ、大(おほき)な麻袋(あさぶくろ)を提(さ)げたのを、脚(あし)と一所(いつしよ)に飛(と)ばして来(き)て、
「あゝ、埒(らち)あかぬ。」と呟(つぶや)いて落胆(がつかり)する。
 艫(とも)の鷺(さぎ)の炎(ほのほ)は消(き)えて、船(ふね)の板(いた)は、ばらりと開(ひら)いた。一(ひと)つ一(ひと)つ、幅広(はゞひろ)い煙(けむり)を立(た)てゝ、地獄(ぢごく)の空(そら)に消(き)えて行(ゆ)く、黒(くろ)い帆(ほ)のやう、――女(をんな)の像(ざう)は影(かげ)も失(う)せた。
「やれ、後(おく)れた。水(みづ)は浅(あさ)いで、飛込(とびこ)めば助(たす)かつたに。――何(なん)と申(まを)さうやうもない、旦那(だんな)がお連(つれ)の方(かた)でがすかの。」
 青年(わかもの)は肩(かた)を揺(ゆす)つて、唯(たゞ)大息(おほいき)を吐(つ)くのであつた。
「飛(と)んだ事(こと)ぢや、こんな怪(あや)しげな処(ところ)へござつて、素性(すじやう)の知(し)れぬ船(ふね)に乗(の)ると云(い)ふ法(はふ)があるかい。お剰(まけ)にお前様(めえさま)、五位鷺(ごゐさぎ)の船頭(せんどう)ぢや……狸(たぬき)の拵(こさ)へた泥船(どろぶね)より、まだ/\危(あぶな)いのは知(し)れた事(こと)を。」

         五

 目(め)が覚(さ)めた、と言(い)ふでもなしに、少時(しばらく)すると、青年(わかもの)の瞳(ひとみ)は稍(やゝ)定(さだ)まつた。
「何(なに)、心配(しんぱい)には及(およ)ばん、船(ふね)に居(ゐ)たのは活(い)きた人間(にんげん)では無(な)いのだから。」
 木樵躰(きこりてい)の件(くだん)の老爺(ぢゞい)は、没怪(もつけ)な顔(かほ)して、
「や、活(い)きた人間(にんげん)で無(な)うて何(なん)でがす……死骸(しがい)かね、お前様(めえさま)。」
「死骸(しがい)は酷(ひど)い。……勿論(もちろん)、魔物(まもの)に突返(つゝかへ)されて、火葬(くわさう)に成(な)つた奴(やつ)だから、死骸(しがい)も同然(どうぜん)なものだらう。ものだらうが、私(わたし)の気(き)ぢや死骸(しがい)ではなかつた。生命(いのち)のある、価値(ねうち)のある、活(い)きたものゝ積(つも)りだつた。老爺(ぢい)さん、今(いま)のは、彼(あれ)は、木像(もくざう)だ、製作(つく)つた木彫(きぼり)の婦(をんな)なんだ。」
「木彫(きぼり)の? はて、」
と腕(うで)を組(く)んで、
「えい、其(それ)は又(また)、変(かは)つたもんだね。船(ふね)と一所(いつしよ)に焼(や)けたものは、活(い)きた人(ひと)で無(な)うて、私(わし)先(ま)づ安堵(あんど)をしたでがすが、木彫(きぼり)だ、と聞(き)けば尚(なほ)魂消(たまげ)る……豪(えれ)え見事(みごと)な、宛然(まるで)生身(しやうじん)のやうだつけの。背後(うしろ)の野原(のはら)さ出(で)て見(み)た処(ところ)で、肝玉(きもたま)の宿替(やどがへ)した。――あれ一面(いちめん)の霞(かすみ)の中(なか)、火(ひ)と煙(けむり)に包(つゝ)まれて、白(しろ)い手足(てあし)さびいく/\為(し)ながら、濠(ほり)の石垣(いしがき)へ掛(か)けて釣(つる)し上(あ)がるやうに見(み)えたゞもの。地獄(ぢごく)の釜(かま)の蓋(ふた)を取(と)つて、娑婆(しやば)へ吹上(ふきあ)げた幻燈(うつしゑ)か思(おも)ふたよ。
 尋常(じんじやう)な、婦(をんな)の人(ひと)ほどに見(み)えつけ。等身(とうしん)のお祖師様(そしさま)もござれば丈六(ぢやうろく)の弥陀仏(みだぶつ)も居(ゐ)さつしやる。――これ人形(にんぎやう)は、はい、玩具箱(おもちやばこ)ウ引転返(ひつくりかへ)した中(なか)からばかり出(で)るもんではねえで、其(そ)の、見事(みごと)なに不思議(ふしぎ)は無(な)いだが、心配(しんぱい)するな木彫(きぼり)だ、と言(い)はつしやる、……お前様(めえさま)が持(も)つて来(き)て、船(ふね)の中(なか)へ置(お)かしつたかな。」
「何(なに)、打棄(うつちや)つたんだ。」と青年(わかもの)は口惜(くや)しさうに言(い)つた。
「打棄(うつちや)らしつたえ、持重(もちおも)りが為(し)たゞかね。」
とけろりとして、目(め)を離(はな)れた白(しろ)い眉(まゆ)をふつさり揺(ゆす)る。
 青年(わかもの)はじり/\と寄(よ)つた。
「で、老爺(ぢい)さん、何(なに)か、君(きみ)は活(い)きた人間(にんげん)で無(な)いから安堵(あんど)したと言(い)つたね、今(いま)の船(ふね)には係合(かゝりあひ)でもある人(ひと)か。」
「係合(かゝりあひ)にも何(なん)にも、私(わし)船(ふね)の持主(もちぬし)でがすよ。」
「此(こ)の、魔物(まもの)。」
と青年(わかもの)は、然(さ)知(し)つた見得(みえ)に、後退(あとずさ)りしながら身構(みがま)へして、
「嬲(なぶ)るな。人(ひと)が生死(いきしに)の間(あひだ)に彷徨(さまよ)ふ処(ところ)を、玩弄(おもちや)にするのは残酷(ざんこく)だ。貴様(きさま)たちにも釘(くぎ)の折(をれ)ほど情(なさけ)が有(あ)るなら、一思(ひとおも)ひに殺(ころ)して了(しま)へ。さあ、引裂(ひきさ)け、片手(かたて)を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)(も)げ……」とはたと睨(にら)む。
「旦那々々(だんな/\)、」
「何(なに)が旦那(だんな)だ。捕虜(ほりよ)と言(い)へ、奴隷(どれい)と呼(よ)べ、弱者(じやくしや)と嘲(あざけ)れ。夢(ゆめ)か、現(うつゝ)か、分(わか)らん、俺(おれ)は迚(とて)も貴様達(きさまたち)に抵抗(てむかひ)する力(ちから)はない。残念(ざんねん)だが、貴様(きさま)に向(むか)ふと手足(てあし)も痺(しび)れる、腰(こし)も立(た)たん。
 が、助(たす)け出(だ)す筈(はづ)だつた女房(にようばう)を負(おぶ)つてなら……麓(ふもと)の温泉(をんせん)までは愚(おろか)な事(こと)、百里(ひやくり)、二百里(にひやくり)、故郷(こきやう)までも、東京(とうきやう)までも、貴様(きさま)の手(て)から救(すく)ふためには、飛(と)んでも帰(かへ)るつもりで居(ゐ)た。彫像(てうざう)一個(ひとつ)抱(だ)いて歩行(ある)くに持重(もちおも)りがして成(な)るものか! ……
 何故(なぜ)、様(ざま)を見(み)ろ、可気味(いゝきみ)だ、と高笑(たかわら)ひをして嘲弄(てうろう)しない。俺(おれ)が手(て)で棄(す)てたは棄(す)てたが、船(ふね)へ彫像(てうざう)を投(な)げたのは、貴様(きさま)が蹴込(けこ)んだも同然(どうぜん)だい。」と握(にぎ)つた拳(こぶし)をぶる/\震(ふる)はす、唇(くちびる)は白(しろ)く戦(おのゝ)く。
 老爺(ぢゞい)は遣瀬無(やるせな)い瞬(またゝき)して、
「芸(げい)もねえ、譫(あだ)けた事(こと)を言(い)はつしやるな。成程(なるほど)、船(ふね)を焼(や)いたは悪(わる)いけんど、蹴込(けこ)んだとは、何(なん)たる事(こと)だの。」
「おゝ、船(ふね)を焼(や)いたは貴様(きさま)だな。それ見(み)ろ、それ見(み)ろ。汝(うぬ)、魔物(まもの)。山猫(やまねこ)か、狒々(ひゝ)か、狐(きつね)か、何(なん)だ! 悪魔(あくま)、女房(にようばう)を奪(うば)つた奴(やつ)。せめて、俺(おれ)に、正体(しやうたい)を見(み)せてくれ。一生(いつしやう)の思出(おもひで)だ。さあ、のつぺらぱうか、目一(めひと)つか、汝(おのれ)其(そ)の真目(まじ)/\とした与一平面(よいちべいづら)は。眉(まゆ)なんぞ真白(まつしろ)に生(はや)しやがつて、分別(ふんべつ)らしく天窓(あたま)の禿(は)げたは何事(なにごと)だ。其(そ)の顱巻(はちまき)を取(と)れ、恍気(とぼけ)るな。」と目(め)が逆立(さかだ)つて、又(また)じり※(二の字点、1-2-22)と詰寄(つめよ)る。
 老爺(ぢゞい)は己(おの)が面(つら)を、ぺろりと一(ひと)つ撫下(なでさ)げた。

         六

 いや、様子(やうす)が如何(いか)にも、我(わ)が顔(かほ)ながら不気味(ぶきみ)さうに見(み)えた。――眉(まゆ)を顰(ひそ)めて、
「ま、ま、少(わけ)え旦那(だんな)、落着(おちつ)かつせえ、気(き)を静(しづ)めさつせえまし。……魔物(まもの)だ、鬼(おに)だ喚(わめ)いて、血相(けつさう)を変(か)へてござる……何(ど)うも見(み)た処(ところ)、――未(ま)だ此(こ)の上(うへ)に逆上(のぼせあが)らつしやるなよ――何(ど)うやら取逆(とりのぼ)せて居(ゐ)さつしやるが、はて、」
と上下(うへした)、天守(てんしゆ)を七分(しちぶ)、青年(わかもの)を三分(さんぶ)に見較(みくら)べ、
「もの、此処(こゝ)さ城趾(しろあと)の、お天守(てんしゆ)へ上(あが)らつしやりは為(し)ねえかの。」
「為(し)ねえかぢや無(な)からう。昨夜(ゆふべ)貴様(きさま)に何処(どこ)で逢(あ)つた?」
「先(ま)づ、むゝ、其(それ)で分(わか)つた。」
「分(わか)つたか。いや昨夜(さくや)は失礼(しつれい)したよ、魔物(まもの)の隊長(たいちやう)。」
「はて、迷惑(めいわく)な、私(わし)う魔物(まもの)だと思(おも)はつしやる。」
「魔物(まもの)で無(な)くて、魔物(まもの)で無(な)くて、汝(おのれ)、五位鷺(ごゐさぎ)が漕出(こぎだ)して、濠(ほり)の中(なか)で自然(しぜん)に焼(や)ける……不思議(ふしぎ)な船(ふね)の持主(もちぬし)が有(あ)るものか。」
「成程(なるほど)、何(なに)も仔細(しさい)を知(し)らつしやらぬお前様(めえさま)は、様子(やうす)を見(み)ても、此処等(こゝら)の人(ひと)ではござらつしやらぬ。」
「那様(そん)な事(こと)を言(い)つて何(ど)うする、貴様(きさま)は奪(うば)つて行(い)つた俺(おれ)の女房(にようばう)の、町処(ちやうところ)まで知(し)つてるでは無(な)いか。」
「急(せ)かつしやるな。此(こ)の山裾(やますそ)の、双六温泉(すごろくをんせん)へ、湯治(たうぢ)に来(き)さつせえた人(ひと)だんべいの。」
「知(し)れた事(こと)を、貴様(きさま)がお浦(うら)を掴出(つかみだ)した、……あの旅籠屋(はたごや)に逗留(とうりう)して居(ゐ)る。」
「そんなら、はい、無理(むり)はねえだ。」
と莞爾(につこり)して、草鞋(わらぢ)の尖(さき)で向直(むきなほ)つた。早(は)や煙(けむり)の余波(なごり)も消(き)えて、浮脂(きら)に紅蓮(ぐれん)の絵(ゑ)も描(か)かぬ、水(みづ)の其方(そなた)を眺(なが)めながら、
「あの……木葉船(こツぱぶね)はの、丁(ちやん)と自然(ひとりで)に動(うご)くでがすよ……土地(とち)のものは知(し)つとります。で、鷺(さぎ)の船頭(せんどう)と渾名(あだな)するだ。それ、見(み)さしつた通(とほ)り、五位鷺(ごゐさぎ)が漕(こ)ぐべいがね。」
「漕(こ)ぐのは鷺(さぎ)でも鳶(とんび)でも構(かま)はん。漕(こ)がせるのは人間(にんげん)ぢや無(な)いのだらう。」
 余計(よけい)なことを、と投(な)げ調子(てうし)。
「いんや、お前様(めえさま)、お天守(てんしゆ)の、」
と声(こゑ)を密(ひそ)めて、
「……魔(ま)の人(ひと)が為業(しわざ)なら、同一(おなじ)鷺(さぎ)が漕(こ)ぐにして、其(そ)の船(ふね)は光(ひかり)を放(はな)つて、ふわ/\雲(くも)の中(なか)を飛行(ひぎやう)するだ。
 ……たか/″\人間(にんげん)の仕事(しごと)だけに、羽(はね)の有(あ)る船頭(せんどう)を使(つか)ふても、水(みづ)の上(うへ)を浮(う)いて行(い)くだよ。何(なに)も希有(けう)がらつしやるには当(あた)らぬ。あの船(ふね)は、私(わし)が慰楽(なぐさみ)に造(つく)るでがす。」
「えゝ、拵(こしら)へる、而(そ)して魔物(まもの)では無(な)いと言(い)ふのか。」
「随意(まゝ)にさつしやりませ。すつとこ被(かぶ)りをした天狗様(てんぐさま)があつて成(な)ろかい。気(き)を静(しづ)めさつしやるが可(い)い。嘘(うそ)だ思(おも)ふなら、退屈(たいくつ)せずに四日(よつか)五日(いつか)、私(わし)が小屋(こや)へ来(き)て対向(さしむか)ひに座(すは)つてござれ、ごし/\こつ/\と打敲(ぶつたゝ)いて、同一(おなじ)船(ふね)を、主(ぬし)が目(め)の前(まへ)で拵(こさ)へて見(み)せるだ。」
「ふん、」と返事(へんじ)を呑込(のみこ)んだが、まだ其(そ)の息(いき)は発喘(はず)むのであつた。
「何(ど)うして作(つく)る。」
「何(ど)うして作(つく)る? ……つひ一寸(ちよつ)くら手真似(てまね)で話(はな)されるもんではねえ。此(こ)の胸(むね)に、機関(からくり)を知(し)つとります。」
「機関(からくり)か。」
「危険(けんのん)な機関(からくり)だで、小(ちひ)さく拵(こさ)へて、小児(こども)の玩弄(おもちや)にも成(な)りましねえ。が、親譲(おやゆづ)りの秘伝(ひでん)ものだ、はツはツはツ、」
と浮世(うきよ)を忘(わす)れた笑(わら)ひを行(や)る。
「お待(ま)ち、親譲(おやゆづ)りの秘伝(ひでん)と言(い)ふと……」
と言(い)ひ方(かた)は迫(せま)つたが、声(こゑ)の調子(てうし)は大分(だいぶ)静(しづ)まる。
「何(なに)も、家伝(かでん)の秘法(ひはふ)の言(い)ふて、勿体(もつたい)を附(つ)けるでねえがね……祖父(おんぢい)の代(だい)から為(し)た事(こと)を、見(み)やう見真似(みまね)に遣(や)るでがすよ。」
「其(それ)ぢや、三代(さんだい)船大工(ふなだいく)か。」
と些少(すこし)落着(おちつ)いて青年(わかもの)が聞(き)いた。


       雪枝(ゆきえ)、菊松(きくまつ)


         七

「何(なん)の、お前様(めえさま)、見(み)さる通(とほ)り二十八方仏子柑(にじふはつぱうぶしかん)の山間(やまあひ)ぢや。木(き)を伐出(きりだ)いて谿河(たにがは)へ流(なが)せば流(なが)す……駕籠(かご)の渡(わた)しの藤蔓(ふぢづる)は編(あ)むにせい、船大工(ふなだいく)は要(い)りましねえ。――私等(わしら)が家(うち)は、村里町(むらざとまち)の祭礼(まつり)の花車人形(だしにんぎやう)。木偶之坊(でくのばう)も拵(こしら)へれば、内職(ないしよく)にお玉杓子(たまじやくし)も売(う)つたでがす。獅子頭(しゝがしら)、閻魔様(えんまさま)、姉様(あねさま)の首(くび)の、天狗(てんぐ)の面(めん)、座頭(ざとう)の顔(かほ)、白粉(おしろひ)も塗(ぬ)れば紅(べに)もなする、青絵具(あをゑのぐ)もべつたりぢや。
 そんなものさ、甘干(あまぼし)の柿(かき)見(み)たやうに、軒(のき)へぶら下(さ)げて売(う)りましつけ、……水損(すゐそん)、山抜(やまぬ)け、御維新(ごゐしん)以来(このかた)、城趾(しろあと)へ草(くさ)が生(は)へる、濠(ほり)が埋(う)まる、村(むら)も里(さと)も無(な)くなりました処(ところ)へ、路(みち)が変(かは)つて、旅人(たびびと)も通(とほ)らぬけえに、根(ね)つから家業(かげふ)に成(な)らんでの、私(わし)ら、木挽(こびき)木樵(きこり)も遣(や)る。温泉場(をんせんば)に普請(ふしん)でも有(あ)る時(とき)には、下手(へた)な大工(だいく)の真似(まね)もする。閑(ひま)な日(ひ)には鰌(どぜう)を掬(しやく)つて暮(くら)すだが、祖父殿(おんぢいどん)は、繁昌(はんじやう)での、藩主様(とのさま)さ奥御殿(おくごてん)の、お雛様(ひなさま)も拵(こさ)へさしたと……
 其(そ)の祖父殿(おんぢいどん)はの、山伏(やまぶし)の姿(すがた)した旅(たび)の修業者(しゆげふじや)が、道陸神(だうろくじん)の傍(そば)に病倒(やみたふ)れたのを世話(せわ)して、死水(しにみづ)を取(と)らしつけ……其(そ)の修業者(しゆげふじや)に習(なら)つた言(い)ひます。
 轆轤首(ろくろくび)さ、引窓(ひきまど)から刎(は)ねて出(で)る、見越入道(みこしにふだう)がくわつと目(め)を開(あ)く、姉様(あねさま)の顔(かほ)は莞爾(につこり)笑(わら)ふだ、――切支丹宗門(キリシタンしうもん)で、魔法(まはふ)を使(つか)ふと言(い)ふて、お城(しろ)の中(なか)で殺(ころ)されたとも言(い)へば、行方知(ゆくへし)れずに成(な)つたとも言(い)ふ。
 はじめは、不思議(ふしぎ)な機関(からくり)を藩主様(とのさま)御前(ごぜん)で見(み)せい言(い)ふて、お城(しろ)へ召(め)されさしけえの、其時(そのとき)拵(こさ)へたのが、五位鷺(ごゐさぎ)の船頭(せんどう)ぢや。
 それ、船(ふね)を浮(うか)べたのは、矢張(やはり)此(こ)の濠(ほり)。」
と言(い)ひかけて、水(みづ)には臨(のぞ)まず、却(かへ)つて空(そら)を指(ゆびさ)した老爺(ぢい)の指(ゆび)は、一(ひとつ)の峰(みね)と相対(あひむか)つて、霞(かすみ)の高(たか)い、天守(てんしゆ)の棟(むね)に並(なら)んで見(み)えた。
「これは、其(そ)の三重濠(さんぢゆうぼり)で、二(に)の丸(まる)の奥(おく)でがす。お殿様(とのさま)は、継上下(つぎかみしも)の侍方(さむらひがた)、振袖(ふりそで)の腰元衆(こしもとしゆ)づらりと連(つ)れて出(で)て御見物(ごけんぶつ)ぢや。
『町人(ちやうにん)、此(こ)の船(ふね)を何(ど)うするな。』
『御意(ぎよい)にござります。舳(みよし)に据(す)えました其(そ)の五位鷺(ごゐさぎ)が翼(つばさ)を帆(ほ)に張(は)り、嘴(くちばし)を舵(かぢ)に仕(つかまつ)りまして、人手(ひとで)を藉(か)りませず水(みづ)の上(うへ)を渡(わた)りまする。』
と申上(まをしあ)げたて。……なれども唯(たゞ)差置(さしお)いたばかりでは鷺(さぎ)が翼(つばさ)を開(ひら)かぬで、人(ひと)が一人(ひとり)乗(の)る重量(おもみ)で、自然(おのづ)から漕(こ)いで出(で)る。……一体(いつたい)が、天上界(てんじやうかい)の遊山船(ゆさんぶね)に擬(なぞ)らへて、丹精(たんせい)籠(こ)めました細工(さいく)にござるで、御斉眉(おかしづき)の中(なか)から天人(てんにん)のやうな上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらう)御一方(おひとかた)、と望(のぞ)んだげな。
 当時(たうじ)飛鳥(とぶとり)も落(お)ちると言(い)ふ、お妾(めかけ)が一人(ひとり)乗(の)つて出(で)たが、船(ふね)の焼出(やけだ)したのは、主(ぬし)が見(み)さしつた通(とほ)りでがす。――其(そ)の妾(めかけ)と言(い)ふのが、祖父殿(おんぢいどん)の許嫁(いひなづけ)で有(あ)つたとも言(い)へば、馴染(なじみ)だとも風説(うはさ)したゞね。
 処(ところ)で、綾錦(あやにしき)へ燃(も)えつく時(とき)、祖父殿(おんぢいどん)が手(て)を挙(あ)げて、
『飛込(とびこ)め、助(たす)かる。』
と我鳴(がな)らしつけが、お妾(めかけ)は慌(あは)てもせず、珠(たま)の簪(かんざし)を抜(ぬ)くと、舷(ふなばた)から水中(すゐちう)へ投込(なげこ)んで、颯(さつ)と髪(かみ)の毛(け)を捌(さば)いたと思(おも)へ。……胴(どう)の間(ま)へ突伏(つゝぷ)して動(うご)かぬだ。
 裸(はだか)で飛込(とびこ)んだ、侍方(さむらひがた)、船(ふね)に寄(よ)りは寄(よ)つたれども、燃(も)え立(た)つ炎(ほのほ)で手(て)が出(だ)せぬ。漸(やつ)との思(おも)ひで船(ふね)を引(ひつ)くら返(かへ)した時分(じぶん)には、緋鯉(ひごひ)のやうに沈(しづ)んだげな。――これだもの、お前様(めえさま)、祖父殿(おんぢいどん)は家(うち)へ帰(かへ)りごと有(あ)るめえがね。
 お剰(まけ)に家中(うちぢう)、無事(ぶじ)なものは一人(ひとり)も無(な)かつた。が不思議(ふしぎ)に私(わし)だけが助(たすか)りました。
 御時世(ごじせい)が変(かは)つてから、古葛籠(ふるつゞら)の底(そこ)で見(み)つけました。祖父殿(おんぢいどん)が工夫(くふう)の絵図面(ゑづめん)、暇(ひま)にあかして遣(や)つて見(み)て、私(わし)が先(ま)づ乗(の)つて出(で)たが、案(あん)の定(ぢやう)燃出(もえだ)したで、やれ、人殺(ひとごろ)し、と……はツはツはツ、水(みづ)へ入(はい)つて泳(およ)いで遁(に)げた。
 困(こま)つた事(こと)には、私(わし)が腹(はら)からの工夫(くふう)でねえでの、焼(や)くまいやうに手(て)を抜(ぬ)くと、五位鷺(ごゐさぎ)が動(うご)かぬ。濠(ほり)の真中(まんなか)で燃(も)え出(だ)すを合点(がつてん)の向(むき)には、幾度(いくど)も拵(こさ)へて乗(の)せて進(しん)ぜる。其処(そこ)で、へい、麓(ふもと)のものは承知(しようち)して、私(わし)がことを鷺(さぎ)の船頭(せんどう)、埒(らち)もない芸当(げいたう)だあ。」
と蹲(しやが)んで、腰(こし)の煙草入(たばこいれ)を捻(ひね)り出(だ)す。
 聞(き)くものは、目(め)を閉(と)ぢて恍惚(ぼう)とした。

         八

「処(ところ)が、聞(き)かつせえまし。」
と、すぱ/\と煙(けむり)を吹(ふ)かす。近(ちか)い煙草(たばこ)に遠霞(とほがすみ)で、天守(てんしゆ)を包(つゝ)んだ鬱蒼(うつさう)たる樹立(こだち)の蔭(かげ)が透(す)いて来(く)る。
「段々(だん/\)村(むら)が遠退(とほの)いて、お天守(てんしゆ)が寂(さび)しく成(な)ると、可怪(あやし)可恐(おそろし)い事(こと)が間々(まゝ)有(あ)るで、あの船(ふね)も魔(ま)ものが漕(こ)いで焼(や)くと、今(いま)お前様(めえさま)が疑(うたが)はつせえた通(とほ)り……
 私(わし)が拵(こさ)へものと思(おも)ひながら、不気味(ぶきみ)がつて、何(なに)か魔(ま)の人(ひと)が仕掛(しか)けて置(お)く、囮(おとり)のやうに間違(まちが)へての。谿河(たにがは)を流(なが)す筏(いかだ)の端(はし)へ鴉(からす)が留(と)まつても気(き)に為(す)るだよ。
 誰(たれ)も来(き)て乗(の)らぬので、久(ひさし)い間(あひだ)雨曝(あまざら)しぢや。船頭(せんどう)も船(ふね)も退屈(たいくつ)をした処(ところ)、又(また)これが張合(はりあひ)で、私(わし)も手遊(おもちや)が拵(こさ)へられます。
 旦那(だんな)、嘸(さぞ)お前様(めえさま)吃驚(びつくり)さつせえたらうが、前刻(いましがた)船(ふね)と一所(いつしよ)に、白(しろ)い裸骸(はだか)の人(ひと)さ焼(や)けるのを見(み)た時(とき)は、やれ、五十年百年目(ごじふねんひやくねんめ)には、世(よ)の中(なか)に同(おな)じ事(こと)が又(また)有(あ)るか、と魂消(たまげ)ましけえ。其(それ)で無(な)うてさへ、御時節(ごじせつ)の有難(ありがた)さに、切支丹(キリシタン)と間違(まちが)へられぬが見(み)つけものゝ処(ところ)ぢや。あれが生身(いきみ)の婦(をんな)で無(な)うて、私(わし)もチヨン斬(ぎ)られずに済(す)んだでがす……
 が、お前様(めえさま)は又(また)、一躰(いつたい)どうさつせえた訳(わけ)でがすの。」
と、ちよこなんとした割膝(わりひざ)の、真中(まんなか)どころへ頤(あご)を据(す)えて、啣煙管(くはへぎせる)で熟(じつ)と眺(なが)める。……老爺(ぢゞい)の前(まへ)を六尺(ろくしやく)ばかり草(くさ)を隔(へだ)てゝ、青年(わかもの)はばつたり膝(ひざ)を支(つ)いて、手(て)を下(さ)げた。……此(こ)の姿(すがた)を、天守(てんしゆ)から見(み)たら、虫(むし)のやうな形(かたち)であらう。
「失礼(しつれい)しました。御老人(ごらうじん)、貴下(あなた)は大先生(だいせんせい)です。何(ど)うか、御高名(ごかうめい)をお名告(なの)り下(くだ)さい。私(わたくし)は香村雪枝(かむらゆきえ)と言(い)つて、出過(です)ぎましたやうですが、矢張(やつぱり)木(き)を刻(きざ)んで、ものゝ形(かたち)を拵(こしら)へます家業(かげふ)のものです。」とはツと額着(ぬかづ)く。
「是(これ)は、」
と同(おな)じく草(くさ)につけた双(さう)の掌(て)を上(あ)げたり下(さ)げたり、臀(いしき)を揉(も)んでもじついて、
「旦那(だんな)、はて、お前様(めえさま)、何(なに)言(い)はつしやる。何(ど)うさつしやる……気(き)を静(しづ)めてくらつせえよ。」
「否(いゝえ)、何(ど)うぞ、失礼(しつれい)ながらお名告(なの)り下(くだ)さい。御覧(ごらん)の通(とほ)り、私(わたくし)は何(ど)うかして居(ゐ)る。……夢(ゆめ)なんだか、現(うつゝ)なんだか、自分(じぶん)だか他人(たにん)だか、宛然(まるで)弁別(わきまへ)が無(な)いほどです――前刻(さつき)からお話(はな)し被為(なす)つた事(こと)も、其方(そちら)では唯(たゞ)あはあは笑(わら)つて居(ゐ)らつしやるのが、種々(いろ/\)な言(ことば)に成(な)つて、私(わたくし)の耳(みゝ)に聞(き)こえるのかも分(わか)りません。が、其(それ)に為(し)てもお聞(き)かせ下(くだ)さい。お名(な)が此(こ)の耳(みゝ)へ入(はい)れば、私(わたくし)は私(わたくし)だけで、承(うけたまは)つたことゝ了見(れうけん)します。香村雪枝(かむらゆきえ)つて言(い)ふんです。先生(せんせい)、真個(まつたく)は靱負(ゆきへ)と言(い)つて、昔(むかし)の侍(さむらひ)のやうな名(な)なんですが、其(それ)を其(そ)のまゝ雪(ゆき)の枝(えだ)と書(か)いて、号(がう)にして居(ゐ)る若輩(じやくはい)ものです。」
「えゝ/\、困(こま)つたな、これは。名(な)を言(い)へなら、言(い)ふだけれど、改(あらたま)つては面目(めんもく)ねえ。」
と天窓(あたま)を撫(な)でざまに、するりと顱巻(はちまき)を抜(ぬ)いて取(と)り、
「へい、些(ちつ)と爺(ぢゞい)には似合(にあ)ひましねえ、村(むら)の衆(しゆ)も笑(わら)ふでがすが、八才(やつつ)ぐれえな小児(こども)だね、へい、菊松(きくまつ)つて言(い)ふでがすよ。」
「菊松先生(きくまつせんせい)、貴下(あなた)は凡人(ぼんじん)では居(ゐ)らつしやらない。」
「勘弁(かんべん)して下(く)らつせえ。うゝとも、すうとも返答(へんたふ)打(う)つ術(すべ)もねえだ…私(わし)、先生(せんせい)と言(い)はれるは、臍(ほぞ)の緒(を)切(き)つては最初(はじめて)だでね。」
「何(なん)とも御謙遜(ごけんそん)で、申上(まをしあ)げやうもありません。大先生(だいせんせい)、貴下(あなた)で無(な)くつて、何(ど)うして、彼(あ)の五位鷺(ごゐさぎ)が刻(きざ)めます。あの船(ふね)が動(うご)かせます。而(そ)して、其(そ)の秘密(ひみつ)を人(ひと)に知(し)らせまいために、天(てん)の火(ひ)で焚(や)くと見(み)せて、船(ふね)をお秘(かく)しなさるんでせう。」
「お前様(めえさま)もの、祖父殿(おんぢいどん)の真似(まね)をするだ、で、私(わし)が自由(じいう)には成(な)んねえだ。間違(まちが)へて先生(せんせい)だ、師匠(ししやう)だ言(い)はつしやるなら、祖父殿(おんぢいどん)を然(さ)う呼(よ)ばらつせえ。」
「同(おな)じ事(こと)です、大名(だいみやう)の子孫(しそん)が華族(くわぞく)なら、名家(めいか)の御子孫(ごしそん)も先生(せんせい)です。特(とく)に私(わたくし)は然(さ)う申(まを)さなければ成(な)りません。
 私(わたくし)が今(いま)の此(こ)の仕事(しごと)を為(す)るやうに成(な)りましたのは、貴下(あなた)か、或(あるひ)は其(そ)の祖父様(ぢいさま)の御薫陶(ごくんたう)に預(あづか)つたと言(い)つて宜(よろ)しい。」……


       技芸天(ぎげいてん)


         九

「父(ちゝ)は或県(あるけん)の書記官(しよきくわん)でした。」
と雪枝(ゆきえ)は衣兜(かくし)に手(て)を挟(はさ)んだ。
「一年(あるとし)、此(こ)の地(ち)を巡廻(じゆんくわい)した事(こと)が有(あ)ります。私(わたくし)が七才(なゝつ)の時(とき)です。未(ま)だ其(そ)の頃(ころ)は、今(いま)の温泉(をんせん)は無(な)かつたやうですね。」
「温泉(をんせん)の開(ひら)けたのは近(ちか)い頃(ころ)の事(こと)でがすよ。然(さ)うでがすとも。前(まへ)から寂(さび)れては居(ゐ)ましつけえ、お城(しろ)の居(ゐ)まはりに、未(ま)だ、町(まち)の形(かたち)の残(のこ)つた頃(ころ)は、温泉(をんせん)は無(な)かつけの。
 地震(ぢしん)が豪(えら)く押(おつ)ぱだかつて、しやつきり残(のこ)つたのはお天守(てんしゆ)ばかりぢや。人間(にんげん)も家(いへ)も押転(おつころ)ばして、濠(ほり)も半分(はんぶん)がた埋(うま)りましけ。冬(ふゆ)の事(こと)での、其(そ)の前兆(ぜんてう)べい、八尺余(はつしやくよ)も積(つも)つた雪(ゆき)が一晩(ひとばん)に融(と)けて、びしや/\と消(き)えた。あれ松(まつ)が蒼(あを)いわ、と言(い)ふ内(うち)に、天(てん)も地(ち)も赤黒(あかぐろ)く成(な)つて、活(い)きものと言(い)ふ活(いき)ものは、泥(どろ)の上(うへ)を泳(およ)いだての。
 其(そ)の響(ひゞ)きで、今(いま)の処(ところ)へ、熱湯(ねつたう)が湧出(わきだ)いた。ぢやがさ、天道(てんだう)人(ひと)を殺(ころ)さずかい。生命(いのち)だけは助(たすか)つても、食(く)はう飲(の)まうの分別(ふんべつ)も出(で)なんだ処(ところ)温泉(をんせん)が昌(さか)つて来(き)たで、何(ど)うやら娑婆(しやば)の形(かたち)に成(な)つた。其(そ)のかはり、旧(もと)から噂(うはさ)の高(たか)かつたお天守(てんしゆ)の此(こ)の辺(へん)は、人(ひと)の寄附(よりつ)かぬ凄(すご)い処(ところ)に成(な)りましたよ。見(み)さつせえ、いまに太陽様(おてんとうさま)が出(で)さつせえても、濠端(ほりばた)かけて城跡(しろあと)には、お前様(めえさま)と私等(わしら)が他(ほか)には、人間(にんげん)らしい影(かげ)もねえだ。偶々(たま/\)突立(つゝた)つて歩行(ある)くものは、性(しやう)の善(よ)くねえ、野良狐(のらぎつね)か、山猫(やまねこ)だよ。
 こんな処(ところ)へ、主(ぬし)は何(なん)として又(また)姉様(あねさま)の人形(にんぎやう)連(つ)れて来(き)さつせえた。」
「其(それ)を順(じゆん)にお話(はなし)しませう、」
と雪枝(ゆきえ)は一度(いちど)塞(ふさ)いだ目(め)を、茫乎(ばう)と開(あ)けて、
「父(ちゝ)が此(こ)の処(ところ)を巡廻(じゆんくわい)した節(せつ)、何処(どこ)か山蔭(やまかげ)の小(ちひ)さな堂(だう)に、美(うつくし)い二十(はたち)ばかりの婦(をんな)の、珍(めづら)しい彫像(てうざう)が有(あ)つたのを、私(わたくし)の玩弄(おもちや)にさせうと、堂守(だうもり)に金子(かね)を遣(や)つて、供(とも)のものに持(も)たせて帰(かへ)つたのを、他(ほか)に姉妹(きやうだい)もなし、姉(あね)さんが一人(ひとり)出来(でき)たやうに、負(おぶ)つたり抱(だ)いたり為(し)ました。大(おほき)な像(ざう)で、飯(めし)の時(とき)なんぞ、並(なら)んで坐(すは)る、と七才(なゝつ)の年(とし)の私(わたくし)の芥子坊主(けしばうず)より、づゝと上(うへ)に、髪(かみ)の垂(さが)つた島田(しまだ)の髷(まげ)が見(み)えたんです。衣服(きもの)は白無垢(しろむく)に、水浅黄(みづあさぎ)の襟(ゑり)を重(かさ)ねて、袖口(そでくち)と褄(つま)はづれは、矢張(やつぱり)白(しろ)に常夏(とこなつ)の花(はな)を散(ち)らした長襦袢(ながじゆばん)らしく出来(でき)て居(ゐ)て……其(それ)が上(うへ)から着(き)せたのではない。木彫(きぼり)に彩色(さいしき)を為(し)たんです。が、不思議(ふしぎ)なのは、其(そ)の白無垢(しろむく)、何(ど)うして置(お)いても些(ちつ)とでも塵埃(ほこり)が溜(たま)らず、虫(むし)も蠅(はい)も、遂(つい)ぞ集(たか)つたことが無(な)い。花畑(はなばたけ)へでも抱(だ)いて出(で)ると、綺麗(きれい)な蝶々(てふ/\)は、帯(おび)に来(き)て、留(とま)つたんです、最(も)う一(ひと)つ不思議(ふしぎ)なのは、立像(りつざう)に刻(きざ)んだのが、膝(ひざ)柔(やはら)かにすつと坐(すは)る。
 袖(そで)は両方(りやうはう)から振(ふり)が合(あ)つて、乳(ちゝ)のあたりで、上下(うへした)に両手(りやうて)を重(かさ)ねたのが、ふつくりして、中(なか)に何(なに)か入(はい)つて居(ゐ)さうで、……駆(か)けて行(い)つて、
『姉(ねえ)さん、』と捉(つか)まつた時(とき)なぞ、肩(かた)が揺(ゆ)れると、ころりん、ころりんと其(それ)は実(じつ)に……何(なん)とも微妙(びめう)な音(ね)が為(し)て幽(かすか)に鳴(な)る、……父母(ふたおや)をはじめ、見(み)るほどのものは、何(なん)だらう何(なん)だらう、と言(い)ひ/\したが、指(ゆび)を折(を)らなくては分(わか)らないから、無論(むろん)開(あ)けては見(み)ず仕舞(じまひ)。
 とう/\其(そ)の彫像(てうざう)を――何(なん)です――父(ちゝ)が暖炉(ストーブ)に燻(く)べて焼(や)いたまでも分(わか)らなかつたんです。
 ちら/\雪(ゆき)の降(ふ)る晩方(ばんがた)でした。……私(わたくし)は、小児(こども)の群食(むらぐひ)で、欲(ほし)くない。両親(りやうしん)が卓子(ていぶる)に対向(さしむか)ひで晩飯(ばんめし)を食(た)べて居(ゐ)た。其処(そこ)へ、彫像(てうざう)を負(おぶ)つて入(はい)つたんですが、西洋室(せいやうま)の扉(ひらき)を開(あ)けやうとして、
『姉(ねえ)さん、』と仰向(あふむ)くと上(うへ)から俯向(うつむ)いて見(み)たやうに思(おも)ふ、……廊下(らうか)の長(なが)い、黄昏時(たそがれどき)の扉(ひらき)の際(きは)で、むら/\と鬢(びん)の毛(け)が、其時(そのとき)は戦(そよ)いだやうに思(おも)ひました。ぱつちりした目(め)が、眉(まゆ)の下(した)で、睫毛(まつげ)を黒(くろ)く瞬(またゝ)いたやうで。……」
 見(み)ながら、其(そ)のまゝ、扉(ひらき)を開(あ)ける、と小児(こども)の背(せな)に、裾(すそ)を後抱(うしろだき)にして居(ゐ)た彫像(てうざう)の丈(たけ)が反(そ)つて、髷(まげ)が、天井裏(てんじやううら)の高(たか)い処(ところ)に見(み)えた。
 ト半靴(はんぐつ)の先(さき)を反(そ)らした、母親(はゝおや)の白(しろ)い足(あし)が卓子掛(ていぶるかけ)と絨氈(じうたん)の間(あひだ)で動(うご)いた。窓(まど)の外(そと)は雪(ゆき)が其(そ)の光(ひかり)を撫(な)でゝ、さら/\音(おと)が為(し)さうに、月(つき)が有(あ)つて、植込(うゑこみ)の梢(こずえ)がちら/\黒(くろ)い。烈々(れつ/\)と燃(も)える暖炉(だんろ)のほてりで、赤(あか)い顔(かほ)の、小刀(ナイフ)を持(も)つたまゝ頤杖(あごづゑ)をついて、仰向(あふむ)いて、ひよいと此方(こちら)を向(む)いた父(ちゝ)の顔(かほ)が真蒼(まつさを)に成(な)つた。

         十

「東京(とうきやう)駿河台(するがだい)に家(うち)があつた、其(そ)の二階(にかい)でした。」
と言(い)ひかけて、左右(さいう)を見(み)る、と野(の)と濠(ほり)と草(くさ)ばかりでは無(な)く、黙(だま)つて打傾(うちかたむ)いて老爺(ぢゞい)が居(ゐ)た。其(それ)を、……雪枝(ゆきえ)は確(たしか)め得(え)た面色(おもゝち)であつた。
「父(ちち)が矗乎(すつくり)と立(た)つと……
『おのれ!』と言(い)つて、つか/\と来(き)ましたが。私(わたくし)の身躰(からだ)が一(ひと)つ、胴廻(どうまは)りを為(す)ると、肩(かた)から倒(さかさま)に婦(をんな)が落(お)ちた。裙(すそ)が未(ま)だ此(こ)の肱(ひぢ)に懸(かゝ)つて、橋(はし)に成(な)つて床(ゆか)に着(つ)く、仰向(あふむ)けの白(しろ)い咽喉(のど)を、小刀(ナイフ)でざつくりと、さあ、斬(き)りましたか、突(つ)いたんですか。
『きやつ、』と言(い)つて、私(わたくし)は鉄砲玉(てつぱうだま)のやうに飛出(とびだ)したが、廊下(らうか)の壁(かべ)に額(ひたひ)を打(ぶ)つて、ばつたり倒(たふ)れた。……気(き)の弱(よわ)い母(はゝ)もひきつけて了(しま)つたさうです。
 母(はゝ)は、父(ちゝ)が、其(そ)の木像(もくざう)の胴(どう)を挫折(ひしを)つた――其(それ)が又(また)脆(もろ)く折(を)れた――のを突然(いきなり)頭(あたま)から暖炉(ストーブ)へ突込(つゝこ)んだのを見(み)たが、折口(をれくち)に偶(ふ)と目(め)が着(つ)くと、内臓(ないざう)がすつかり刻込(きざみこ)んであつた。まるで生(しやう)のものを見(み)るやうに腸(はらわた)も長(なが)く、青(あを)い火(ひ)が其(それ)に搦(から)んだので、余(あまり)の事(こと)に気絶(きぜつ)したんだ、と後(のち)に言(い)ひます。
 父(ちゝ)は年(とし)経(た)つて亡(な)くなるまで、其時(そのとき)の事(こと)に就(つ)いては一言(いちごん)も何(なん)にも言(い)はない。最(もつと)も当坐(たうざ)二月(ふたつき)ばかりは、何(ど)うかすると一室(ひとま)に籠(こも)つて、誰(たれ)にも口(くち)を利(き)かないで、考事(かんがへごと)をして居(ゐ)たさうですが、別(べつ)に仔細(しさい)は無(な)かつたんです。
 但(たゞし)其時(そのとき)から、両親(りやうしん)は私(わたくし)を男(をとこ)にしました。其(それ)まで、三人(さんにん)も出来(でき)た児(こ)が皆(みんな)育(そだ)たなかつたので、私(わたくし)を女(をんな)にして置(お)いたんです。名(な)も雪枝(ゆきえ)と言(い)ふ女(をんな)のやうな。
 其(そ)の名(な)を直(す)ぐに号(がう)にして、今(いま)、こんな家業(かげふ)を為(す)るやうに成(な)つたのも、小児(こども)の時(とき)から、其(そ)の像(ざう)の事(こと)が、目(め)にも心(こゝろ)にも身躰(からだ)にも離(はな)れなかつた為(せゐ)なんです。
 こんな辺鄙(へんぴ)な温泉(をんせん)へ参(まゐ)つたのも、実(じつ)は忘(わす)れられない可懐(なつか)しい気(き)が為(し)たゝめです。何処(どこ)か知(し)らんが、其(そ)の木像(もくざう)は、父(ちゝ)が此(こ)の土地(とち)から持(も)つて帰(かへ)つたと言(い)ふぢやありませんか。
 山(やま)も谷(たに)も野(の)も水(みづ)も、其処(そこ)には私(わたくし)の師匠(ししやう)がある、と信(しん)じ居(ゐ)た。果(はた)して貴下(あなた)にお目(め)にかゝつた。――あの、白無垢(しろむく)に常夏(とこなつ)の長襦袢(ながじゆばん)、浅黄(あさぎ)の襟(ゑり)して島田(しまだ)に結(ゆ)つた、両(りやう)の手(て)に秘密(ひみつ)を蔵(かく)した、絶世(ぜつせ)の美人(びじん)の像(ざう)を刻(きざ)んだ方(かた)は、貴下(あなた)の其(そ)の祖父様(おぢいさん)では無(な)いでせうか。」
 雪枝(ゆきえ)は熟(じつ)と対手(あひて)を視(なが)めた。
「え、貴下(あなた)かも分(わか)らん、貴下(あなた)かも知(し)れません。先生(せんせい)、仰有(おつしや)つて下(くだ)さい、一生(いつしやう)のお願(ねが)ひです。」
「若(わけ)え旦那(だんな)、祖父殿(おんぢいどん)が事(こと)は私(わし)も知(し)らんで、何(なに)か言(い)はつしやりますやうな悪戯(いたづら)を為(し)たかも分(わか)らねえ。私(わし)は早(は)や、獅子鼻(しゝばな)や団栗目(どんぐりめ)、御神酒徳利(おみきどつくり)の口(くち)なら真似(まね)も遣(や)るが、弁天様(べんてんさま)は手(て)に負(お)えねえ……まあ、そんな事(こと)は措(お)かつしやい。ぢやが、お前様(めえさま)は山(やま)が先生(せんせい)、水(みづ)が師匠(ししやう)と言(い)ふわけ合(あひ)で、私等(わしら)が気(き)にや天上界(てんじやうかい)のやうな東京(とうきやう)から、遥々(はる/″\)と……飛騨(ひだ)の山家(やまが)までござつたかね。」
と掻蹲(かつゝくば)ひ、両腕(りやううで)を膝(ひざ)に預(あづ)けたまゝ啣煙管(くはへぎせる)で摺出(すりだ)す躰(てい)は、嘴(くちばし)長(なが)い鷺(さぎ)の船頭(せんどう)化(ば)けたやうな態(さま)である。
 雪枝(ゆきえ)は、しばらく猶予(ためら)つた。
「仮(かり)にも先生(せんせい)と呼(よ)んだ貴下(あなた)に向(むか)つて、嘘(うそ)は言(い)へません。……一度(いちど)来(こ)やう、是非(ぜひ)見(み)たい。生(うま)れない以前(いぜん)から雪枝(ゆきえ)の身躰(からだ)とは、許嫁(いひなづけ)の約束(やくそく)があるやうな此(こ)の土地(とち)です。信者(しんじや)が善光寺(ぜんくわうじ)、身延(みのぶ)へ順礼(じゆんれい)を為(す)るほどな願(ねがひ)だつたのが、――いざ、今度(こんど)、と言(い)ふ時(とき)、信仰(しんかう)が鈍(にぶ)つて、遊山(ゆさん)に成(な)つた。
 其(それ)が悪(わる)かつたんです……
 家内(かない)と二人連(ふたりづれ)で来(き)たんです、然(しか)も婚礼(こんれい)を為(し)たばかりでせう。」
 盃(さかづき)を納(をさめ)るなり汽車(きしや)に乗(の)つて家(いへ)を出(で)た夫婦(ふうふ)の身体(からだ)は、人間(にんげん)だか蝶(てふ)だか区別(くべつ)が附(つ)かない。遥々(はる/″\)来(き)た、と言(い)はれては何(なん)とも以(もつ)て極(きまり)が悪(わる)い。気(き)も魂(たましひ)もふら/\で、六十余州(ろくじふよしう)、菜(な)の花(はな)の上(うへ)を舞(ま)ひ歩行(ある)いても疲(つか)れぬ元気(げんき)。其(それ)も突(つゝ)かけに夜昼(よるひる)かけて此処(こゝ)まで来(き)たなら、まだ/\仕事(しごと)の手前(てまへ)、山(やま)にも水(みづ)にも言訳(いひわけ)があるのに……彼方(あつち)へ二晩(ふたばん)此方(こつち)へ三晩(みばん)、泊(とま)り泊(とま)りの道草(みちくさ)で、――花(はな)には紅(くれなゐ)、月(つき)には白(しろ)く、処々(ところ/″\)の温泉(をんせん)を、嫁(よめ)の姿(すがた)で彩色(さいしき)しては、前後左右(ぜんごさいう)、額縁(がくぶち)のやうな形(かたち)で、附添(つきそ)つて、木(き)を刻(きざ)んで拵(こしら)へたものが、恁(か)う行(い)くものか、と自(みづ)から彫刻家(てうこくか)であるのを嘲(あざ)ける了見(れうけん)。

         十一

 斧(をの)も鑿(のみ)も忘(わす)れたものが、木曾(きそ)、碓氷(うすひ)、寐覚(ねざめ)の床(とこ)も、旅(たび)だか家(うち)だか差別(さべつ)は無(な)い気(き)で、何(なん)の此(こ)の山(やま)や谷(たに)を、神聖(しんせい)な技芸(ぎげい)の天(てん)、芸術(げいじゆつ)の地(ち)と思(おも)はう。
 来(き)て見(み)ぬ内(うち)こそ、峯(みね)は雲(くも)に、谷(たに)は霞(かすみ)に、長(とこしへ)に封(ふう)ぜられて、自分等(じぶんら)、芸術(げいじゆつ)の神(かみ)に渇仰(かつがう)するものが、精進(しやうじん)の鷲(わし)の翼(つばさ)に乗(の)らないでは、杣(そま)山伏(やまぶし)も分入(わけい)る事(こと)は出来(でき)ぬであらう。流(ながれ)には斧(をの)の響(ひゞき)、木(き)の葉(は)には鑿(のみ)の音(おと)、白(しろ)い蝙蝠(かはほり)、赤(あか)い雀(すゞめ)が、麓(ふもと)の里(さと)を彩(いろど)つて、辻堂(つじだう)の中(うち)などは霞(かすみ)が掛(かゝ)つて、花(はな)の彫物(ほりもの)をして居(ゐ)やうとまで、信(しん)じて居(ゐ)たのが、恋(こひ)しい婦(をんな)と一所(いつしよ)に来(き)たゝめ、峯(みね)が雲(くも)に日(ひ)を刻(きざ)み、水(みづ)が谷(たに)に月(つき)を鑿(ほ)つた、大彫刻(だいてうこく)を眺(なが)めても、婦(をんな)が挿(さし)た笄(かんざし)ほども目(め)に着(つ)かないで、温泉宿(をんせんやど)へ泊(とま)つた翌日(よくじつ)、以前(もと)ならば何(なに)よりも前(さき)に、しか/″\の堂(だう)はないか、其(それ)らしい堂守(だうもり)は居(ゐ)まいか、と父(ちゝ)が以前(いぜん)持帰(もちかへ)つた、其(そ)の神秘(しんぴ)な木像(もくざう)の跡(あと)の、心当(こゝろあた)りを捜(さが)す処(ところ)、――気(き)にも掛(か)けないまで忘(わす)れて了(しま)つて、温泉宿(をんせんやど)の亭主(ていしゆ)を呼(よ)んで、先(ま)づ尋(たづ)ねたのが、世(よ)に伝(つた)へた双六谷(すごろくだに)の事(こと)だつた。
「老爺(おぢい)さん。」
と雪枝(ゆきえ)は嗟歎(さたん)して言(い)つた。
 温泉(いでゆ)の町(まち)の、谿流(けいりう)について溯(さかのぼ)ると、双六谷(すごろくだに)と言(い)ふのがある――其処(そこ)に一坐(いちざ)の大盤石(だいばんじやく)、天然(てんねん)に双六(すごろく)の目(め)の装(も)られたのが有(あ)ると言(い)ふが、事実(じじつ)か、と聞(き)いたのであつた。
 亭主(ていしゆ)が答(こた)へて、如何(いか)にも、此(こ)の辺(へん)で噂(うはさ)するには、春(はる)の曙(あけぼの)のやうに、蒼々(あを/\)と霞(かす)んだ、滑(なめら)かな盤石(ばんじやく)で、藤色(ふぢいろ)がゝつた紫(むらさき)の筋(すぢ)が、寸分(すんぶん)違(たが)はず、双六(すごろく)の目(め)に成(な)つて居(ゐ)る。
『丁(ちやう)ど、先(ま)づ其(そ)の工合(ぐあひ)と思(おも)はれまする。』と掌(てのひら)を畳(たゝみ)に着(つ)けて指(ゆびさ)して見(み)せた。
 其時(そのとき)坐(すは)つて居(ゐ)た蒲団(ふとん)が、蒼味(あをみ)の甲斐絹(かひき)で、成程(なるほど)濃(こ)い紫(むらさき)の縞(しま)があつたので、恰(あだか)も既(すで)に盤石(ばんじやく)の其(そ)の双六(すごろく)に対向(さしむか)ひに成(な)つた気(き)がして、夫婦(ふうふ)は顔(かほ)を見合(みあ)はせて、思(おも)はず微笑(ほゝえ)んだ。
 ……と雪枝(ゆきえ)は言(い)ふ。
 けれども、其(それ)は神(かみ)の斧(をの)の、微妙(いみじ)き製作(せいさく)を会得(ゑとく)した嬉(うれ)しさではなかつた。其(そ)の実(じつ)、矢叫(やさけび)の如(ごと)き流(ながれ)の音(おと)も、春雨(はるさめ)の密語(さゝやき)ぞ、と聞(き)く、温泉(いでゆ)の煙(けむ)りの暖(あたゝか)い、山国(やまぐに)ながら紫(むらさき)の霞(かすみ)の立籠(たてこも)る閨(ねや)を、菫(すみれ)に満(み)ちた池(いけ)と見る、鴛鴦(えんわう)の衾(ふすま)の寝物語(ねものがた)りに――主従(しゆじう)は三世(さんぜ)、親子(おやこ)は一世(いつせ)、夫婦(ふうふ)は二世(にせ)の契(ちぎり)と聞(き)く……
『全(まつた)く未来(みらい)でも添(そ)へるのでせうか。』と他愛(たあい)のない言(こと)を新婦(しんぷ)が言(い)つた。
 二世(にせ)は愚(おろ)か三世(さんぜ)までもと思(おも)ふ雪枝(ゆきえ)も、言葉(ことば)あらそひを興(きよう)がつて、
『何(なに)二世(にせ)なぞがあるものか、魂(たましひ)は滅(ほろ)びないでも、死(し)ねば夫婦(ふうふ)はわかれわかれだ。』
とはぐらかすと、褄(つま)を引合(ひきあ)はせながら、起直(おきなほ)つて、
『私(わたし)は此(こ)の世(よ)ばかりでは厭(いや)です。』
とツンとした。
『それでは二人(ふたり)で、一世(いつせ)か、二世(にせ)か賭(かけ)をしやう。』
 苟(いやし)くも未来(みらい)の有無(うむ)を賭博(かけもの)にするのである。相撲取草(すまうとりぐさ)の首(くび)つ引(ぴき)なぞでは其(そ)の神聖(しんせい)を損(そこな)ふこと夥(おびたゞ)しい。聞(き)けば此(こ)の山奥(やまおく)に天然(てんねん)の双六盤(すごろくばん)がある。其(そ)の仙境(せんきやう)で局(きよく)を囲(かこ)まう。
 で、其(そ)の勝敗(しようはい)を紀念(きねん)として、一先(ひとま)づ、今度(こんど)の蜜月(みつゞき)の旅(たび)を切上(きりあ)げやう。けれども双六盤(すごろくばん)は、唯(たゞ)土地(とち)の伝説(でんせつ)であらうも知(し)れぬ。実際(じつさい)なら奇蹟(きせき)であるから、念(ねん)のためと、こゝで、其(そ)の翌日(よくじつ)旅店(りよてん)の主人(あるじ)に聞(き)いたのが、……件(くだん)の青石(あをいし)に薄紫(うすむらさき)の筋(すぢ)の入(はい)つた、恰(あたか)も二人(ふたり)が敷(し)いた座蒲団(ざぶとん)に肖(に)て居(ゐ)ると言(い)ふ其(それ)であつた。
『案内者(あんないしや)でも雇(やと)へやうか。』
 亭主(ていしゆ)が飛(とん)でもない顔色(かほつき)で、二人(ふたり)を視(なが)めたも道理(だうり)。

         十二

 双六(すごろく)は確(たしか)にあり。天工(てんこう)の奇蹟(きせき)の故(ゆゑ)に、四五六(しごろく)また双六谷(すごろくだに)と其処(そこ)を称(とな)へ、温泉(をんせん)も世(よ)の聞(き)こえに、双六(すごろく)の名(な)を負(お)はするが、谷(たに)を究(きは)めて、盤石(ばんじやく)を見(み)たものは昔(むかし)から誰(だれ)も無(な)い。――土地(とち)の名所(めいしよ)とは言(い)ひながら、なか/\以(もつ)て、案内者(あんないしや)を連(つ)れて踏込(ふみこ)むやうな遊山場(ゆさんば)ならず。双六盤(すごろくばん)の事(こと)は疑無(うたがひな)けれど、其(そ)の是(これ)あるは、月(つき)の中(なか)に玉兎(ぎよくと)のある、と同(おんな)じ事(こと)、と亭主(ていしゆ)は語(かた)つた。
 土地(とち)のものが、其方(そなた)の空(そら)ぞと視(なが)め遣(や)る、谷(たに)の上(うへ)には、白雲(はくうん)行交(ゆきか)ひ、紫緑(むらさきみどり)の日影(ひかげ)が添(そ)ひ、月明(つきあかり)には、黄(き)なる、又(また)桃色(もゝいろ)なる、霧(きり)の騰(のぼ)るを時々(ときどき)望(のぞ)む。珠(たま)か、黄金(こがね)か、世(よ)にも貴(たうと)い宝什(たから)が潜(ひそ)んで、気(き)の群立(むらだ)つよ、と憧憬(あこが)れながら、風(かぜ)に木(き)の葉(は)の音信(たより)もなければ、もみぢを分入(わけい)る道(みち)も知(し)らず……恰(あたか)も燦爛(さんらん)として五彩(ごさい)に煌(きら)めく、天上(てんじやう)の星(ほし)を指(ゆびさ)しても、手(て)に取(と)られぬ、と異(かは)りはない。
 唯(たゞ)山深(やまふか)く木(き)を樵(こ)る賤(しづ)が、兎(と)もすれば、我(わ)が伐木(ばつぼく)の谺(こだま)にあらぬ、怪(あや)しく、床(ゆか)しく且(か)つ幽(かすか)に、ころりん、から/\、と妙(たへ)なる楽器(がくき)を奏(かな)づるが如(ごと)きを聞(き)く――其時(そのとき)は、森(もり)の枝(えだ)が、一(ひと)つ一(ひと)つ黄金(こがね)白銀(しろがね)の線(いと)に成(な)つて、其(そ)の音(ね)を伝(つた)ふるが如(ごと)くに感(かん)ずる……思(おも)ふに魔神(まじん)が対向(むかひあ)つて、采(さい)を投(な)げる響(ひゞき)であらう……何(なん)につけても、飛騨谷(ひだだに)第一(だいいち)の隠(かく)れ場所(ばしよ)、近(ちか)づき難(がた)い魔所(ましよ)である、と猶(な)ほ亭主(ていしゆ)が語(かた)つたのである。
 二人(ふたり)は、聞(き)くが如(ごと)き他界(たかい)であるのを信(しん)ずると共(とも)に、双六(すごろく)の賭(かけ)が弥(いや)が上(うへ)にも、意味(いみ)の深(ふか)いものに成(な)つた事(こと)を喜(よろこ)んだ……勿論(もちろん)、谷(たに)へ分入(わけい)るに就(つ)いて躊躇(ちうちよ)を為(し)たり、恐怖(おそれ)を抱(いだ)いたりするやうな念(ねん)は聊(いさゝか)も無(な)かつた。
 と雪枝(ゆきえ)は続(つゞ)いて言(い)つた。
「其(そ)の上(うへ)好奇心(かうきしん)にも駆(か)られたでせう。直(す)ぐにも草鞋(わらぢ)を買(か)はして、と思(おも)つたけれども、彼是(かれこれ)晩方(ばんがた)に成(な)つたから、宿(やど)の主人(あるじ)を強(し)ゐて、途中(とちゆう)まで案内者(あんないしや)を着(つ)けさせることにして、其(そ)の日(ひ)の晩飯(ばんめし)は済(すま)せました。」
 双六谷(すごろくだに)へは、翌早朝(よくさうてう)と言(い)ふ意気組(いきぐみ)、今夜(こんや)も二世(にせ)かけた勝敗(しようはい)は無(な)しに、唯(たゞ)睦(むつ)まじいのであらうと思(おも)ふ。宵寐(よひね)をするにも余(あま)り早(はや)い、一風呂(ひとふろ)浴(あ)びた後(あと)……を、ぶらりと二人連(ふたりづれ)で山路(やまみち)へ出(で)て見(み)たのが、丁(ちやう)ど……狐(きつね)の穴(あな)には灯(あかり)は点(つ)かぬが、猿(さる)の店(みせ)には燈(ともしび)の点(つ)く時分(じぶん)、何(なに)となく薄(うす)ら寒(さむ)い、其処等(そこら)の霞(かすみ)も、遠山(とほやま)の雪(ゆき)の影(かげ)が射(さ)すやうで、夕餉(ゆふげ)の煙(けむり)が物寂(ものさび)しう谷(たに)へ落(おち)る。五六軒(ごろくけん)の藁屋(わらや)ならび、中(なか)にも浅間(あさま)な掛小屋(かけこや)のやうな小店(こみせ)を開(あ)けて、穴(あな)から商売(しやうばい)をするやうに婆(ばあ)さんが一人(ひとり)戸(と)の外(そと)を透(す)かして居(ゐ)た。其(そ)の店(みせ)で獣(けもの)の皮(かは)だの、獅子頭(しゝがしら)、狐(きつね)猿(さる)の面(めん)、般若(はんにや)の面(めん)、二升樽(にしやうだる)ぐらゐな座頭(ざとう)の首(くび)、――いや其(それ)が白(しろ)い目(め)をぐるりと剥(む)いて、亀裂(ひゞ)の入(はい)つた壁(かべ)に仰向(あふむ)いた形(かたち)なんぞ余(あんま)り気味(きみ)の可(い)いものではなかつた。誰(たれ)か拵(こしら)へるものが居(ゐ)て、直(す)ぐ其(それ)を売(う)るらしい。破莚(やれむしろ)の上(うへ)は、藍(あゐ)の絵具(ゑのぐ)や、紅殻(べにがら)だらけ――婆(ばあ)さんの前垂(まへだれ)にも、ちら/\霜(しも)のやうに胡粉(ごふん)がかゝつた。其(そ)の他(た)角細工(つのざいく)も種々(いろ/\)ある。……
「はツはツ、婆様(ばあさま)が家(うち)ぢや。」と老爺(ぢゞい)は不意(ふい)に笑(わら)ひ懸(か)けて、
「茶(ちや)でも飲(あが)つてござつたかの。」
 雪枝(ゆきえ)は不図(ふと)心着(こゝろづ)いたらしく調子(てうし)を変(か)へて、
「あゝ、お知己(ちかづき)の店(みせ)なんですか。」
「昔(むかし)の恋(こひ)でがす。彼(あれ)でもの、お前様(めえさま)、新造盛(しんざうざか)りの事(こと)も有(あ)つけ。人形(あねさま)を欲(ほ)しがる時分(じぶん)ぢや。なんぼ山鳥(やまどり)のおろのかゞみで、頤髯(あごひげ)さ撫(な)でた処(ところ)で、木(き)の枝(えだ)で、鋸(のこぎり)を使(つか)ひ/\、猿(さる)の脚(あし)と並(なら)んだ尻(しり)を、下(した)から見(み)せては落(お)つこちねえ。其処(そこ)で、人形(にんぎやう)やら、おかめの面(めん)やら、御機嫌取(ごきげんとり)に拵(こしら)へて持(も)つて行つては、莞爾(につこり)させて他愛(たあい)なく見惚(みと)れて居(ゐ)たものでがす。はゝゝ、はじめの内(うち)は納戸(なんど)の押入(おしいれ)へ飾(かざ)つての、見(み)るな見(み)るな、と云(い)ふ。恐(おそ)ろしい、男(をとこ)を食(く)つて骨(ほね)を秘(かく)す、と村(むら)のものが嬲(なぶ)つたつけの……真個(ほん)の孤屋(ひとつや)の鬼(おに)に成(な)つて、狸婆(たぬきばゞあ)が、旧(もと)の色仕掛(いろじか)けで私(わし)に強請(ゆす)つて、今(いま)では銭(おあし)にするでがすが、旦那(だんな)、何(なに)か買(か)はしつたか、沢山(たんと)直切(ねぎ)らつしやれば可(よ)かつけな。」


       采(さい)


         十三

「おゝ、老爺(おぢい)さんが、あの、種々(いろ/\)なものを。」
と雪枝(ゆきえ)は目(め)の覚(さ)めた顔色(かほつき)して、
「面(めん)も頭(かしら)も、お製作(こしら)へに成(な)つたんですか。……あゝ、いや、鷺(さぎ)のお手際(てぎは)を見(み)たので分(わか)る。軒(のき)に振(ぶ)ら下(さが)つた獅子頭(しゝがしら)や、狐(きつね)の面(めん)など、どんな立派(りつぱ)なものだつたか分(わか)らない。が、其(それ)に気(き)が着(つ)く了見(れうけん)なら、こんな虚気(うつけ)な、――対手(あひて)が鬼(おに)にしろ、魔(ま)にしろ、自分(じぶん)の女房(にようばう)を奪(うば)はれる馬鹿(ばか)は見(み)ない。
 失礼(しつれい)ながら、そんなものは目(め)も留(と)めないで、
『采(さい)は無(な)いか。』
『お媼(ばあ)さん、あの、采(さい)はありませんか。』
と同伴(つれ)の婦(をんな)も聞(き)いたんです。」……
 双六巌(すごろくいは)で振(ふ)らうと云(い)ふ、よく考(かんが)へれば夢(ゆめ)のやうなことだつた。
『一六(いちろく)、三五(さんご)の釆粒(さいつぶ)かの、はい、ござります。』と隅(すみ)の壁(かべ)へ押着(おつゝ)けた、薬箪笥(くすりだんす)の古(ふる)びたやうな抽斗(ひきだし)を開(あ)けると、鼠(ねづみ)の屎(ふん)が、ぱら/\溢(こぼ)れる。其(そ)の中(なか)から、畳紙(たとうがみ)を出(だ)して、ころ/\と手(て)で揺(ゆす)りながら軒(のき)の明前(あかりさき)へ持(も)つて出(で)た。
『猪(ゐのしゝ)の牙(きば)で拵(こさ)へました、ほんに佳(い)い采(さい)でござります、御覧(ごらう)じまし。』と莞爾々々(にこ/\)しながら、掌(てのひら)を反(そ)らして載(の)せた処(ところ)を、二人(ふたり)で一個(ひとつ)づゝ取(と)つた。
 釆(さい)は珠(たま)のやうに見(み)えた。綺麗(きれい)に磨(みが)いたのが透通(すきとほ)るばかりに出来(でき)て、点々(ぽち/\)打(う)つた目(め)の黒(くろ)いのが、雪(ゆき)の中(なか)に影(かげ)の顕(あら)はれた、連(つらな)る山々(やま/\)、秀(ひい)でた峯(みね)、深(ふか)い谷(たに)のやうに不図(ふと)見(み)えた。
『可愛(かあい)ぢやありませんか。』
と同伴(つれ)の女(をんな)は一寸(ちよいと)摘(つま)んだが、掌(てのひら)へ据(す)え直(なほ)して、
『お媼(ばあ)さん、思(おも)ふ目(め)が出(で)ませうか。』と右(みぎ)の手(て)を蓋(ふた)で胸(むね)へつけて、ころ/\と振(ふ)つて試(み)る。
 と背中(せなか)から抱(だ)き締(し)めて、づる/\と遠(とほ)くへ持(も)つて行(ゆ)かれたやうに成(な)つて、雪枝(ゆきえ)は其時(そのとき)の事(こと)を思出(おもひだ)した。
「其(そ)の時(とき)の事(こと)と言(い)ふのは、父(ちゝ)が此(こ)の土地(とち)の祠(ほこら)から持(も)つて帰(かへ)つた、あの、掌(てのひら)に秘密(ひみつ)を蔵(かく)した木像(もくざう)です。」
「おゝ、」と頷(うなづ)く、老爺(ぢい)は腕組(うでぐみ)を為(し)た肩(かた)を動(うご)かす。
「あゝ、それぢや、木彫(きぼり)の美人(びじん)が、父(ちゝ)のナイフに突刺(つきさ)されて、暖炉(ストーブ)の中(なか)に焼(や)かれた時(とき)まで、些(ちつ)とも其(そ)の秘密(ひみつ)を明(あ)かさなかつた、微妙(びめう)な音(ね)のしたものは、同一(おなじ)、此(こ)の采(さい)であつたかも知(し)れない。
 時(とき)に、傍(そば)に立(た)つた家内(かない)の姿(すがた)が、其(それ)に髣髴(そつくり)だ、と思(おも)ふと、想像(さうざう)が遠(とほ)く昔(むかし)へ返(かへ)つて、不思議(ふしぎ)なもので、袖(そで)を並(なら)べたお浦(うら)の姿(すがた)が、づゝと離(はな)れて遥(はる)かな向(むか)ふへ……」
と雪枝(ゆきえ)は語(かた)つて、押遣(おしや)るやうに手(て)を振(ふ)つた。
「其時(そのとき)の事(こと)を思(おも)ふと、老爺(おぢい)さん、恁(か)う言(い)ふ内(うち)にも貴方(あなた)の身体(からだ)も遠(とほ)くへ行(ゆ)く……ふら/\と間(あひだ)が離(はな)れる。」……
 而(そ)して、婆(ばあ)さんの店(みせ)なりに、お浦(うら)の身体(からだ)が向(むか)ふへ歩行(ある)いて、見(み)る間(ま)に其(それ)が、谷(たに)を隔(へだ)てた山(やま)の絶頂(ぜつちやう)へ――湧出(わきで)る雲(くも)と裏表(うらおもて)に、動(うご)かぬ霞(かすみ)の懸(かゝ)つた中(なか)へ、裙袂(すそたもと)がはら/\と夕風(ゆふかぜ)に靡(なび)きながら薄(うす)くなる。
 あの辺(あたり)へ、夕暮(ゆふぐれ)の鐘(かね)が響(ひゞ)いたら、姿(すがた)が近(ちか)く戻(もど)るのだらう、――と誰(た)が言(い)ふともなく自分(じぶん)で安心(あんしん)して、益々(ます/\)以前(もと)の考(かんがへ)に耽(ふけ)つて居(ゐ)ると、榾(ほだ)を焚(た)くか、炭(すみ)を焼(や)くか、谷間(たにま)に、彼方此方(かなたこなた)、ひら/\、ひら/\と蒼白(あをじろ)い炎(ほのほ)が揚(あが)つた。
 思(おも)はず彫像(てうざう)を焼(や)いた暖炉(ストーブ)の火(ひ)に心着(こゝろづ)いて、何故(なぜ)か、急(きふ)に女(をんな)の身(み)が危(あや)ぶまれて来(き)た。
『お浦(うら)。』
と呼(よ)んだが返事(へんじ)をしない。
『お浦(うら)、お浦(うら)。』と言(い)つたが、返事(へんじ)を為(し)ない。雪枝(ゆきえ)最(も)うきよろ/\し出(だ)した、其(それ)で二足三足(ふたあしみあし)づゝ、前後左右(ぜんごさいう)を、ばた/\と行(い)つたり、来(き)たり……
 慌(あはたゞ)しく成(な)つて来(き)た。
 第一(だいいち)、お浦(うら)ばかりぢやない、其処(そこ)に居(ゐ)た婆(ばあ)さんも見(み)えなければ、其(それ)らしい店(みせ)もない。
 いや、これは可怪(おかし)いぞ。一人(ひとり)ばかり居(ゐ)ないのなら、女(をんな)が何(ど)うかしたのだらうが、店(みせ)も婆(ばあ)さんもなくなつた、とすると……前方(さき)が攫(さら)はれたのぢやなくつて、自分(じぶん)が魅(つま)まれたものらしい。
『おゝい、おゝい。』
と智恵(ちゑ)のない声(こゑ)をしながら、無暗(むやみ)に人(ひと)を呼(よ)んで、雪枝(ゆきえ)は山路(やまみち)を駆(かけ)づり廻(まは)つた。

         十四

「段々(だん/\)暗(くら)くなる、最(も)う目(め)は眩(くら)む、風(かぜ)が吹出(ふきだ)す。此(こ)の風(かぜ)は……昼間(ひるま)蒼(あを)く澄(す)んだ山(やま)の峡(かひ)から起(おこ)つて、障(さは)つて来(く)る樹(き)の枝(えだ)、岩角(いはかど)、谷間(たにあひ)に、白(しろ)い雲(くも)のちぎれて鳥(とり)の留(とま)るやうに見(み)えたのは未(ま)だ雪(ゆき)が残(のこ)つたのか、……と思(おも)ふほど横面(よこづら)を削(けづ)つて冷(つめ)たかつた。
『ま……、何処(どこ)へござらつしやる、旦那(だんな)。』
とすた/\小走(こばし)りに駆(か)けて来(き)て、背後(うしろ)から袂(たもと)を引留(ひきと)めた、山稼(やまかせ)ぎの若(わか)い男(をとこ)があつた。
『お城趾(しろあと)へ行(ゆ)かしつては成(な)りましねえだよ。日(ひ)も暮(く)れたに、当事(あてこと)もねえ。』と少(すこ)し叱(しか)つて言(い)ふ。
 煙(けむり)が立(た)つて、づん/\とあがる坂(さか)一筋(ひとすぢ)、やがて、其(そ)の煙(けむり)の裙(すそ)が下伏(したぶ)せに、ぱつと拡(ひろ)がつたやうな野末(のずゑ)の処(ところ)へ掛(かゝ)つて居(ゐ)ました。」
 雪枝(ゆきえ)は胸(むね)を伸上(のしあ)げて、岬(みさき)が突出(つきで)た湾(わん)の外(そと)を臨(のぞ)むが如(ごと)く背後状(うしろざま)に広野(ひろの)を視(なが)めた。……東雲(しのゝめ)の雲(くも)は其(そ)の野末(のずゑ)を離(はな)れて、細(ほそ)く長(なが)く縦(たて)に蒼空(あをぞら)の糸(いと)を引(ひ)いて、上(のぼ)つて行(ゆ)く、……人(ひと)も馬(うま)も、其処(そこ)を通(とほ)つたら、ほつほつと描(ゑが)かれやう、鳥(とり)も飛(と)ばゞ見(み)えやう、――けれども天守(てんしゆ)の屋根(やね)は森(もり)が包(つゝ)んで、霞(かすみ)がくれに尚(なほ)暗(くら)い。其(そ)の上(うへ)、野(の)の果(はて)を引上(ひきあげ)る雲(くも)も此方(こなた)をさして畳(たゝ)まつて来(く)るやうで、老爺(ぢゞい)と差向(さしむか)つた中空(なかぞら)は厚(あつ)さが増(ま)す。其(そ)の濃(こ)く暗(くら)い奥(おく)から、黄金色(こがねいろ)に赤味(あかみ)の注(さ)した雲(くも)が、むく/\と湧出(わきだ)す、太陽(たいやう)は其処(そこ)まで上(のぼ)つた――汀(みぎは)の蘆(あし)の枯(か)れた葉(は)にも、さすがに薄(うす)い光(ひかり)がかゝつて、角(つの)ぐむ芽生(めばえ)もやゝ煙(けぶ)りかけた。此(こ)の煙(けむり)は月夜(つきよ)のやうに水(みづ)の上(うへ)にも這(は)ひ懸(かゝ)る。船(ふね)の焼(や)けた余波(なごり)は分解(わか)ず……唯(たゞ)陽炎(かげらふ)が頻(しきり)に形(かたち)づくりするのが分解(わか)る。――やがて、此(これ)が、野(の)の一面(いちめん)の草(くさ)を伝(つたは)つて、次第(しだい)にひら/\と、麓(ふもと)に下(お)りて遊行(ゆぎやう)しやう。……さて、日(ひ)も当(あた)れば、北国(ほくこく)の山中(さんちゆう)ながら、人里(ひとざと)の背戸(せど)垣根(かきね)に、神(かみ)が咲(さ)かせた桃(もゝ)桜(さくら)が、何処(どこ)とも無(な)く空(そら)に映(うつ)らう。まだ、朝早(あさまだ)き、天守(てんしゆ)の上(うへ)から野(の)をかけて箕(み)の形(かたち)に雲(くも)が簇(むらが)つて、処々(ところ/″\)物凄(ものすさま)じく渦(うづ)を巻(まい)て、霰(あられ)も迸(ほとばし)つて出(で)さうなのは、風(かぜ)が動(うご)かすのではない。四辺(あたり)は寂寞(ひつそり)して居(ゐ)る……峰(みね)に当(あた)り、頂(いたゞき)に障(さは)つて、山々(やま/\)のために揺(ゆ)れるのである。
 雲(くも)の動(うご)く時(とき)、二人(ふたり)の形(かたち)は大(おほ)きく成(な)つた。静(じつ)とする時(とき)、渠等(かれら)の姿(すがた)は小(ちひ)さく成(な)つた。――飛騨(ひだ)の山(やま)の此(こ)のあたりは、土地(とち)が呼吸(こきう)をするのかも分(わか)らぬ。
 雪枝(ゆきえ)は伸上(のびあが)つた時(とき)、膝(ひざ)を草(くさ)に支(つ)いて居(ゐ)た。
「其(そ)の時(とき)来懸(きかゝ)つたのは、何(ど)うも、此(こ)の原(はら)の、向(むか)ふの取着(とつゝき)であつたらしい。
『お城趾(しろあと)の方(はう)さ行(い)つては成(な)んねえだ。』と云(い)つて其(そ)の男(をとこ)が引取(ひきと)めました……私(わたくし)は家内(かない)の姿(すがた)を高(たか)い山(やま)の端(は)で見失(みうしな)つたが、何(ど)うも、向(むか)ふが空(そら)へ上(あが)つたのではなく、自分(じぶん)が谷底(たにそこ)へ落(お)ちてたらしい。其処(そこ)で疵(きづ)だらけに成(な)つて漸々(やう/\)出(で)て来(き)た処(ところ)が、此(こ)の取着(とつゝ)きで、以前(いぜん)夫婦(ふうふ)づれで散歩(さんぽ)に出(で)た場所(ばしよ)とは、全然(まるで)方角(はうがく)が違(ちが)う、――御存(ごぞん)じの通(とほ)り、温泉(をんせん)は左右(さいう)へ見上(みあ)げるやうな山(やま)を控(ひか)へた、ドン底(ぞこ)から湧(わ)きます。
 で、婆(ばあ)さんの店(みせ)の有(あ)つたのは南(みなみ)の坂(さか)で、此(こ)の城趾(しろあと)は北(きた)の山路(やまみち)から来(く)るのでせう。
 土地(とち)の男(をとこ)に様子(やうす)を聞(き)いて、
『あゝ、魅(つま)まれた……魅(つま)まれたんだ。いや、薄髯(うすひげ)の生(は)へた面(つら)で、何(なん)とも面目(めんぼく)次第(しだい)もない。』
と頻(しきり)に面目(めんもく)ながる癖(くせ)に、あは/\得意(とくい)らしい高笑(たかわら)ひを行(や)つた。家内(かない)の無事(ぶじ)を祝福(しゆくふく)する心(こゝろ)では、自分(じぶん)の魅(み)せられたのを、却(かへ)つて幸福(かうふく)だと思(おも)つて喜(よろこ)んだんです。
『豪(えら)い、東京(とうきやう)の客(きやく)を魅(だま)すのは豪儀(がうぎ)だ。ひよい、と抱(だ)いて温泉宿(をんせんやど)の屋根越(やねごし)に山(やま)を一(ひと)つ、まるで方角(はうがく)の違(ちが)つた処(ところ)へ、私(わたし)を持(も)つて来(き)た手際(てぎは)と云(い)ふのは無(な)い。何(なに)か、此(こ)の辺(へん)に、有名(いうめい)な狐(きつね)でも居(ゐ)るか。』
と酔(よ)つぱらひのやうな言(こと)を云(い)つて、ひよろ/\為(し)ながら、其(そ)の男(をとこ)に導(みちび)かれて引返(ひきかへ)す。
『狐(きつね)や狸(たぬき)ではござりましねえ、お天守(てんしゆ)にござる天狗様(てんぐさま)だのエ、時々(とき/″\)悪戯(いたづら)をさつしやります。』
『何(なに)天狗(てんぐ)。』
と云(い)ふと慌(あはたゞ)しく袂(たもと)を曳(ひ)いて、
『えゝ、大(おほき)な声(こゑ)をさつしやりますな、聞(き)こえるがのエ』と、蒼(あを)い顔(かほ)して、其(そ)の男(をとこ)は、足許(あしもと)を樹(き)の梢(こずゑ)から透(す)いて見(み)える、燈(ともしび)の影(かげ)を指(ゆびさ)したんです。」


       谺(こだま)


         十五

 で、其処(そこ)が温泉宿(をんせんやど)だ、と教(をし)へて、山間(やまあひ)の崖(がけ)を樹(き)の茂(しげ)つた細(ほそ)い路(みち)へ、……背負(せを)つて居(ゐ)た、丈(たけ)の伸(の)びた雑木(ざうき)の薪(まき)を、身躰(からだ)ごと横(よこ)にして、ざつと入(はい)つて行(ゆ)く。
 しばらく、ざわ/\と鳴(な)つて居(ゐ)た。
 急(きふ)に何(なん)だか寂(さび)しく成(な)つて、酔(ゑひ)ざめのやうな身震(みぶる)ひが出(で)た。急(いそ)いで、燈火(ともしび)を当(あて)に駆下(かけお)りる、と思(おも)ひがけず、往(ゆき)には覚(おぼ)えもない石壇(いしだん)があつて、其(それ)を下切(おりき)つた処(ところ)が宿(やど)の横(よこ)を流(なが)れる矢(や)を射(ゐ)るやうな谿河(たにがは)だつた。――驚(おどろ)いたのは、山(やま)が二(ふた)わかれの真中(まんなか)を、温泉宿(をんせんやど)を貫(つらぬ)いて流(なが)れる、其(そ)の川(かは)を、何時(いつ)の間(ま)に越(こ)へて、此(こ)の城趾(しろあと)の方(はう)へ来(き)たか少(すこ)しも覚(おぼ)えが無(な)い。
 岸(きし)づたひに、岩(いは)を踏(ふ)んで後戻(あともど)りを為(し)て、橋(はし)の取着(とつゝき)の宿(やど)へ帰(かへ)つた、――此(これ)は前刻(さつき)渡(わた)つて、向(むか)ふ越(ごし)で、山路(やまみち)の方(はう)へ、あの婆(ばあ)さんの店(みせ)へ出(で)た橋(はし)だつた。
『お帰(かへ)りなさいまし。』
と向(むか)ふ廊下(らうか)から早足(はやあし)で、すた/\来懸(きかゝ)つた女中(ぢよちゆう)が一人(ひとり)、雪枝(ゆきえ)を見(み)て立停(たちと)まつた。
『御緩(ごゆつく)り様(さま)で、』と左側(ひだりがは)の、畳(たゝみ)五十畳(ごじふでふ)計(ばか)りの、だゞつ広(ぴろ)い帳場(ちやうば)、……真中(まんなか)に大(おほき)な炉(ろ)を切(き)つた、其(そ)の自在留(じざいとめ)の、ト尾鰭(をひれ)を刎(は)ねた鯉(こひ)の蔭(かげ)から、でつぷり肥(ふと)つた赤(あか)ら顔(がほ)を出(だ)して亭主(ていしゆ)が言(い)ふ。
『同伴(つれ)は帰(かへ)つたらうね。』と聞(き)いた時(とき)、雪枝(ゆきえ)は其(そ)の間違(まちがひ)の無(な)い事(こと)を信(しん)じながら、何(なん)だか胸(むね)がドキ/\した。
『奥方様(おくがたさま)で、はゝ、何(なに)や、一寸(ちよいと)お見申(みまを)せ。』と頤(あご)を向(む)けると、其処(そこ)に居(ゐ)た女中(ぢよちゆう)が、
『御一所(ごいつしよ)では無(な)かつたのでございますか。』
 で、ばた/\と廊下(らうか)を、直(す)ぐに二階(にかい)へ駆上(かけあが)つた。
 何故(なぜ)か雪枝(ゆきえ)は他人(たにん)を訪問(はうもん)に来(き)たやうな心持(こゝろもち)に成(な)つて、うつかり框際(かまちぎは)の広土間(ひろどま)に突立(つゝた)つて居(ゐ)た。
 山路(やまみち)から、後(あと)を跟(つ)けて来(き)たらしい嵐(あらし)が、袂(たもと)をひら/\と煽(あふ)つて、颯(さつ)と炉傍(ろばた)へ吹込(ふきこ)むと、燈(ともしび)が下伏(したぶせ)に暗(くら)く成(な)つて、炉(ろ)の中(なか)が明(あかる)く燃(も)える。これが赫(くわつ)と、壁(かべ)に並(なら)んだ提灯(ちやうちん)の箱(はこ)に映(うつ)る、と温泉(いでゆ)の薫(かをり)が芬(ぷん)とした。
 五六段(ごろくだん)階子(はしご)を残(のこ)して、女中(ぢよちゆう)が廊下(らうか)の高(たか)い処(ところ)へ顔(かほ)を出(だ)して、
『まだ、お帰(かへ)り遊(あそ)ばしません。』
『下(お)りて来(き)て、ちやんと申(まを)さぬかい、何(なん)ぢや、不作法(ぶさはふ)な。』と亭主(ていしゆ)が炉端(ろばた)から上睨(うはにら)みを行(や)る。
 雪枝(ゆきえ)は一文字(いちもんじ)に其(そ)の前(まへ)を突切(つゝき)つて、階子段(はしごだん)を駆上(かけあが)り状(ざま)に、女中(ぢよちゆう)と摺違(すれちが)つて、
『そんな筈(はづ)は無(な)い。そんな、お前(まへ)、』と躾(たしな)めるやうに言(い)ひ/\飛上(とびあが)つたのであつた。
『それともお湯(ゆ)へお出(い)でなさいましてですか、お座敷(ざしき)には居(ゐ)らつしやいませんですよ。』と小走(こばし)りに跟(つ)いて来(く)る。
 固(もと)より女中(ぢよちゆう)が串戯(ぢやうだん)を言(い)ふわけは無(な)い。居(ゐ)ないものは居(ゐ)ないので、座敷(ざしき)を見(み)ると、あとを片附(かたづ)けて掃出(はきだ)したらしく、きちんと成(な)つて、点(つ)けたての真(しん)を細(ほそ)めた台洋燈(だいらんぷ)が、影(かげ)を大(おほ)きく床(とこ)の間(ま)へ這(は)はして、片隅(かたすみ)へ二間(ふたま)に畳(たゝ)んだ六枚折(ろくまいをり)の屏風(びやうぶ)が如何(いか)にも寂(さび)しい。
 而(そ)して誰(たれ)も居(ゐ)ない八畳(はちでふ)の真中(まんなか)に、其(そ)の双六巌(すごろくいは)に似(に)たと言(い)ふ紫縞(むらさきじま)の座蒲団(ざぶとん)が二枚(にまい)、対坐(さしむかひ)に据(す)えて有(あ)つたのを一目(ひとめ)見(み)ると、天窓(あたま)から水(みづ)を浴(あ)びたやうに慄然(ぞつ)とした。此処(こゝ)へも颯(さつ)と一嵐(ひとあらし)、廊下(らうか)から追(お)つて来(き)て座敷(ざしき)を吹抜(ふきぬ)けて雨戸(あまど)をカタリと鳴(な)らす。
 恁(か)うして、お浦(うら)に別(わ)かれるのが極(きま)つた運命(うんめい)では無(な)からうかと思(おも)つた……
「浴室(ゆどの)だ、浴室(ゆどの)だ。見(み)ておいで。と女中(ぢよちゆう)を追遣(おひや)つて、倒(たふ)れ込(こ)むやうに部屋(へや)に入(はい)つて、廊下(らうか)を背後向(うしろむ)きに、火鉢(ひばち)に掴(つかま)つて、ぶる/\と震(ふる)へたんです。……老爺(おぢい)さん。」
と雪枝(ゆきえ)は片手(かたて)で胸(むね)を抱(だ)いた。
「亭主(ていしゆ)が上(あが)つて来(き)ました。
『えゝ、一寸(ちよいと)お引合(ひきあ)はせ申(まを)しまする。此(この)男(をとこ)が其(そ)の、明日(みやうにち)双六谷(すごろくだに)の途中(とちゆう)まで御案内(ごあんない)しまするで。さあ、主(ぬし)、お知己(ちかづき)に成(な)つて置(お)けや。』と障子(しやうじ)の蔭(かげ)に蹲(しやが)んで居(ゐ)た山男(やまをとこ)に顔(かほ)を出(だ)させる、と此(これ)が、今(いま)しがたつひ其処(そこ)まで私(わたし)を送(おく)つてくれた若(わか)いもの、……此方(こつち)は其処(そこ)どころぢや無(な)い。」

         十六

「恁(か)う成(な)ると、最(も)う外聞(ぐわいぶん)なんぞ構(かま)つては居(ゐ)られない。魅(つま)まれたか誑(たぶらか)されたか、山路(やまみち)を夢中(むちゆう)で歩行(ある)いた事(こと)を言出(いひだ)すと、皆(みな)まで恥(はぢ)を言(い)はぬ内(うち)に……其(そ)の若(わか)い男(をとこ)が半分(はんぶん)で合点(がつてん)したんです。」
 さあ、亭主(ていしゆ)も飛(とん)でも無(な)い顔(かほ)をする。捜(さが)すのに、湯殿(ゆどの)や小用場(こようば)では追着(おつつ)かなく成(な)つた。
『権七(ごんしち)や、主(ぬし)は先(ま)づ、婆様(ばあさま)が店(みせ)へ走(はし)れ、旦那様(だんなさま)、早速(さつそく)人(ひと)を出(だ)しますで、お案(あん)じなさりませんやうに。主(ぬし)も働(はたら)いてくれ、さあ、来(こ)い、』
と若(わか)いものを連(つ)れて、どたばた引上(ひきあ)げる時分(じぶん)には、部屋(へや)の前(まへ)から階子段(はしごだん)の上(うへ)へ掛(か)けて、女中(ぢよちゆう)まじりに、人立(ひとだ)ちがするくらゐ、二階(にかい)も下(した)も何(なに)となく騒(さは)ぎ立(た)つ。
 雨戸(あまど)を開(あ)けて欄干(らんかん)から外(そと)を見(み)ると、山気(さんき)が冷(ひやゝ)かな暗(やみ)を縫(ぬ)つて、橋(はし)の上(うへ)を提灯(ちやうちん)が二(ふた)つ三(み)つ、どや/\と人影(ひとかげ)が、道(みち)を右左(みぎひだり)へ分(わか)れて吹立(ふきた)てる風(かぜ)に飛(と)んで行(ゆ)く。
 真先(まつさき)に案内者(あんないしや)権七(ごんしち)の帰(かへ)つて来(き)たのが、ものゝ半時(はんとき)と間(あひだ)は無(な)かつた。けれども、足(あし)を爪立(つまだ)つて待(ま)つて居(ゐ)る身(み)には、夜中(よなか)までかゝつたやうに思(おも)ふ。
 婆(ばあ)さんに聞(き)けば、夫婦(ふうふ)づれの衆(しゆ)は、内(うち)で采粒(さいつぶ)を買(か)はつしやると、両方(りやうはう)で顔(かほ)を見合(みあ)ひながら後退(あとしざ)りをして、向(むか)ふ崖(がけ)の暗(くら)い方(はう)へ入(はい)つたまで。それからは覚(おぼ)えて居(を)らぬ。目(め)は踈(うと)し、暮方(くれがた)ではあり、やがて暗(くら)くなつて了(しま)つた、と権七(ごんしち)が言(い)ふ。
 のみ、手懸(てがゝ)りは何(なん)にも無(な)い。
『矢張(やつぱり)何(なに)か私(わたし)のやうに、魅(つま)まれて路(みち)を迷(まよ)つたらうか。』
『然(さ)うでもござりやすめえ、奥様(おくさま)は、其(そ)のお前様(めえさま)を捜(さが)し歩行(ある)いて、其(それ)で未(ま)だ、お帰(かへ)りが無(な)いのでござりやせうで、天狗様(てんぐさま)も二人一所(ふたりいつしよ)に攫(さら)はつしやることは滅多(めつた)にねえ事(こと)でござります。今(いま)にお帰(かへ)りに成(な)るでござりやしやう。宿(やど)でも心配(しんぱい)をして居(を)りますで、夜一夜(よつぴて)寐(ね)ねえで捜(さが)しますで、お前様(めえさま)は、まあ、休(やす)まつしやりましたが可(よ)うござります。』
 気(き)が気(き)では無(な)い。一所(いつしよ)に捜(さが)しに出(で)かけやうと言(い)ふと、いや/\山坂(やまさか)不案内(ふあんない)な客人(きやくじん)が、暗(やみ)の夜路(よみち)ぢや、崖(がけ)だ、谷(たに)だで、却(かへ)つて足手絡(あしてまと)ひに成(な)る。……案内者(あんないしや)に雇(やと)はれるものが、何(なに)も知(し)らない前(まへ)に道案内(みちあんない)を為(し)たと言(い)ふも何(なに)かの縁(えん)と思(おも)ふ。人一倍(ひといちばい)精出(せいだ)して捜(さが)さうから静(しづ)かに休(やす)め、と頼母(たのも)しく言(い)つて、すぐに又(また)下階(した)へ下(お)りた。
 一時(ひとしきり)騒々(さう/″\)しかつたのが、寂寞(ひつそり)ばつたりして平時(いつも)より余計(よけい)に寂(さび)しく夜(よ)が更(ふ)ける……さあ、一分(いつぷん)、一秒(いちびやう)、血(ち)が冷(ひ)え、骨(ほね)が刻(きざ)まれる思(おも)ひ。時(とき)が経(た)てば経(た)つだけ、それだけお浦(うら)の帰(かへ)る望(のぞ)みが無(な)くなると言(い)つた勘定(かんぢやう)。九時(くじ)が十時(じふじ)、十一時(じふいちじ)を過(す)ぎても音沙汰(おとざた)が無(な)い。時々(とき/″\)、廊下(らうか)を往通(ゆきかよ)ふ女中(ぢよちゆう)が、通(とほ)りすがりに、
『何(ど)う遊(あそ)ばしたのでございませう、』
『うむ、』
『御心配(ごしんぱい)でございます。』
『あゝ、』
 ――返答(へんたふ)が出来(でき)ないで、溜息(ためいき)を吐(つ)く顔(かほ)を見(み)て、遁(に)げるやうに二三人(にさんにん)摺(す)り抜(ぬ)けた。
 やがて十二時(じふにじ)を打(う)つた。女中(ぢよちゆう)が床(とこ)を取(と)りに来(き)て、一(ひと)つ伸(の)べて、二(ふた)つ並(なら)べやうと為(し)たので、
『そりや可(よ)からう、』と言(い)つた時(とき)は我(われ)ながら変(へん)な声(こゑ)だと思(おも)つた。……勿論(もちろん)寐(ね)もせず、枕元(まくらもと)へ例(れい)の紫縞(むらさきじま)のを摺(ず)らして、落着(おちつ)かない立膝(たてひざ)で何(なに)を聞(き)くとも無(な)く耳(みゝ)を澄(す)ますと、谿河(たにがは)の流(ながれ)がざつと響(ひゞ)くのが、落(お)ちた、流(なが)れた、打当(ぶちあ)てた、岩(いは)に砕(くだ)けた、死(しん)だ――と聞(き)こえる。
『あゝつ、』と忌(いま)はしさに手(て)で払(はら)つて、坐(すは)り直(なほ)して其処等(そこら)を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)(みまは)す、と密(そつ)と座敷(ざしき)を覗(のぞ)いた女中(ぢよちゆう)が、黙(だま)つて、スーツと障子(しやうじ)を閉(し)めた。――夜(よ)が更(ふ)けて寒(さむ)からうと、深切(しんせつ)に為(し)たに違(ちがひ)ないが、未練(みれん)らしい諦(あきら)めろ、と愛想尽(あいさうつか)しを為(さ)れたやうで、赫(くわつ)と顔(かほ)が熱(あつ)くなる。
 背中(せなか)がぞつと寒(さむ)く成(な)る……背後(うしろ)を見(み)る、と床(とこ)の間(ま)に袖畳(そでだゝ)みをした女(をんな)の羽織(はおり)、わがねた扱帯(しごき)、何(なに)となく色(いろ)が冷(つめた)く成(な)つて紀念(かたみ)のやうに見(み)えて来(き)た、――持主(もちぬし)が亡(な)くなると、却(かへ)つてそんなものが、手(て)ん手(で)に活(い)きて来(き)たやうに思(おも)はれて、一寸(ちよいと)触(さは)るのも憚(はゞ)かられる。
 何処(どこ)か、しゆつ/\と風(かぜ)が通(とほ)る……

         十七

「うら悲(かな)しい、心細(こゝろぼそ)い、可厭(いや)な声(こゑ)で、
『お客様(きやくさま)あゝ、』
『奥様(おくさま)、』と呼(よ)ぶのが、山颪(やまおろし)の風(かぜ)に響(ひゞ)いて、耳(みゝ)へカーンと谺(こだま)を返(かへ)してズヽンと脳(なう)を抉(えぐ)る。
『お客様(きやくさま)、』
『奥方様(おくがたさま)。』……は情(なさけ)ない。少(すこ)し裏山(うらやま)へ近(ちか)く成(な)つたと思(おも)ふと、女(をんな)の声(こゑ)が交(まじ)つて、
『奥様(おくさま)やあ、』と呼(よ)んだ。ヒイと之(これ)が悲鳴(ひめい)を上(あ)げるやうで、家内(かない)が絞殺(しめころ)される叫(さけ)びに聞(き)こえる、最(も)う堪(たま)りません。
 廊下(らうか)を跣足(はだし)で出(で)て、階子段(はしごだん)の上(うへ)から倒(さかさま)に帳場(ちやうば)を覗(のぞ)いて、
『御主人(ごしゆじん)、御主人(ごしゆじん)、』
と、海(うみ)が凪(な)いだ後(あと)を、ぶる/\震(ふる)へる波(なみ)のやうな畳(たゝみ)の上(うへ)に、男(をとこ)だか女(をんな)だか、二人(ふたり)ばかり打上(うちあ)げられた躰(てい)で、黒(くろ)く成(な)つて突伏(つゝぷ)した真中(まんなか)に、手酌(てじやく)でチビリ/\飲(や)つて居(ゐ)た亭主(ていしゆ)が、むつくり頭(あたま)を上(あ)げて、
『まだ御寐(およ)りませんかな。』と言(い)ひ/\四五段(しごだん)上(のぼ)つた、中途(ちゆうと)の上下(うへした)で欄干(てすり)越(ごし)に顔(かほ)を合(あ)はせた。
『又(また)入(い)れ替(かは)つて出(で)てくれたのかね、あゝ言(い)つて呼(よ)んでるのは、』
『へい、否(いゝえ)、山深(やまふか)く参(まゐ)つたのが、近廻(ちかまは)りへ引上(ひきあ)げて来(き)たでござります。』
『まだ、知(し)れんのだね、あゝして呼立(よびた)てゝ居(ゐ)るのを見(み)ると。』
『へい、何(なに)しろ、早(は)や、山(やま)も谷(たに)も数(すう)が知(し)れん処(ところ)でござりますけにな。……』
と歎息(たんそく)を為(し)たが、面(つら)を振(ふ)つて、嚏(くしやみ)をした。
『しかし、あれでござりましよ。何分(なにぶん)夜(よ)が更(ふ)けましたで、道(みち)を教(をし)へますものも明方(あけがた)まで待(ま)ちませうし、又(また)……奥方様(おくがたさま)も、何(ど)の道(みち)お草臥(くたび)れでござりませうで、いづれにも夜(よ)が明(あ)けましたら、分(わか)るに相違(さうゐ)ござりません。』
『分(わか)るつて? 死骸(しがい)か、』
『えゝ?』
『死(し)んだら其(それ)までだ。』と自棄(やけ)を言(い)つて寐床(ねどこ)へ帰(かへ)つて打倒(ぶつたふ)れた。……
『お客様(きやくさま)、』
『奥様(おくさま)、』と呼(よ)ぶのが十声(とこゑ)ばかりして、やがて、ガラ/\と門(かど)の戸(と)が大(おほ)きく鳴(な)つて開(あ)く。私(わたし)は襟(ゑり)を被(かぶ)つて耳(みゝ)を塞(ふさ)いだ! 誰(だれ)が無事(ぶじ)だ、と知(し)らせて来(き)ても、最(も)う聞(き)くまい、と拗(す)ねたやうに……勿論(もちろん)、何(なん)とも言(い)つては来(き)ません。
 其癖(そのくせ)、ガラ/\と又(また)……今度(こんど)は大戸(おほど)の閉(しま)つた時(とき)は、これで、最(も)う、家内(かない)と私(わたし)は、幽明(いうめい)処(ところ)を隔(へだ)てたと思(おも)つて、思(おも)はず知(し)らず涙(なみだ)が落(お)ちた。…
 ト前刻(さつき)、止(よ)せ、と云(い)つて留(と)めたけれども、其(それ)でも女中(ぢよちゆう)が伸(の)べて行(い)つた、隣(となり)の寐床(ねどこ)の、掻巻(かいまき)の袖(そで)が動(うご)いて、煽(あふ)るやうにして揺起(ゆりおこ)す。
『おゝ、』と飛附(とびつ)くやうな返事(へんじ)を為(し)て顔(かほ)を出(だ)したが、固(もと)より誰(たれ)も居(ゐ)やう筈(はず)は無(な)い。枕(まくら)ばかり寂(さび)しく丁(ちやん)とあり、木賃(きちん)で無(な)いのが尚(な)ほうら悲(かな)しい。
 熟(じつ)と視詰(みつ)めて、茫乎(ぼんやり)すると、並(なら)べた寐床(ねどこ)の、家内(かない)の枕(まくら)の両傍(りやうわき)へ、する/\と草(くさ)が生(は)へて、短(みじか)いのが見(み)る/\伸(の)びると、蔽(おほ)ひかゝつて、萱(かや)とも薄(すゝき)とも蘆(あし)とも分(わか)らず……其(そ)の中(なか)へ掻巻(かいまき)がスーと消(き)える、と大(おほき)な蛇(へび)がのたりと寐(ね)て、私(わたし)の方(はう)へ鎌首(かまくび)を擡(もた)げた。ぐつたりして手足(てあし)を働(はたら)かす元気(げんき)もない。首(くび)を締(し)めて殺(ころ)さば殺(ころ)せで、這出(はひだ)すやうに頭(あたま)を突附(つきつ)けると、真黒(まつくろ)に成(な)つて小山(こやま)のやうな機関車(きくわんしや)が、づゝづと天窓(あたま)の上(うへ)を曳(ひ)いて通(とほ)ると、柔(やはらか)いものが乗(の)つたやうな気持(きもち)で、胸(むね)がふわ/\と浮上(うきあが)つて、反身(そりみ)に手足(てあし)をだらりと下(さ)げて、自分(じぶん)の身躰(からだ)が天井(てんじやう)へ附着(くつつ)く、と思(おも)ふとはつと目(め)が覚(さ)める、……夜(よ)は未(ま)だ明(あ)けないのです。
 同(おな)じやうな切(せつ)ない夢(ゆめ)を、幾度(いくたび)となく続(つゞ)けて見(み)て、半死半生(はんしはんせい)の躰(てい)で漸(や)つと我(われ)に返(かへ)つた時(とき)、亭主(ていしゆ)が、
『御国許(おくにもと)へ電報(でんぱう)をお掛(か)け被成(なさ)りましては如何(いかゞ)でござりませう。』と枕許(まくらもと)に坐(すは)つて居(ゐ)ました。
『馬鹿(ばか)な。』
と一言(いちごん)のもとに卻(しりぞ)けたんです。」

         十八

「怪我(けが)、過失(あやまち)、病気(びやうき)なら格別(かくべつ)、……如何(いか)に虚気(うつけ)なればと言(い)つて、」
 雪枝(ゆきえ)は老爺(ぢゞい)に此(これ)を語(かた)る時(とき)、濠端(ほりばた)の草(くさ)に胡座(あぐら)した片膝(かたひざ)に、握拳(にぎりこぶし)をぐい、と支(つ)いて腹(はら)に波立(なみた)つまで気兢(きほ)つて言(い)つた。
「女房(にようばう)が紛失(ふんしつ)した、と親類(しんるゐ)知己(ちき)へ電報(でんぱう)は掛(か)けられない。
『何(なに)しろ、最(も)う些(ちつ)と手懸(てがゝ)りの出来(でき)るまで其(それ)は見合(みあ)はせやう。』
『で、ござりまするが、念(ねん)のために、お国許(くにもと)へお知(し)らせに成(な)りましては如何(いかゞ)なもので、』
『可(いゝ)から、死骸(しがい)でも何(なん)でも見着(みつ)かつた時(とき)にせう。』
『其(そ)の、へい……死骸(しがい)が何(ど)うも、』
『何(なん)だ、死骸(しがい)が分(わか)らん。』
 私(わたし)は胸(むね)が裂(さ)けるほど亭主(ていしゆ)の言葉(ことば)が気(き)に障(さは)つた。最(も)う死骸(しがい)に成(な)つてる、と言(い)つたやうな、奴(やつ)の言種(いひぐさ)が何(なん)とも以(もつ)て可忌(いまは)しい。
『己(おれ)が見着(みつ)けて持(も)つて帰(かへ)る、死骸(しがい)の来(く)るのを待(ま)つて居(を)れ。』と睨(にら)みつけて廊下(らうか)を蹴立(けた)てゝ出(で)た――帳場(ちやうば)に多人数(たにんず)寄合(よりあ)つて、草鞋穿(わらぢばき)の巡査(じゆんさ)が一人(ひとり)、框(かまち)に腰(こし)を掛(か)けて居(ゐ)たが、矢張(やつぱり)此(こ)の事(こと)に就(つ)いてらしい。
 痘痕(あばた)のある柔和(にうわ)な顔(かほ)で、気(き)の毒(どく)さうに私(わたし)を見(み)た。が口(くち)も利(き)かないでフイと門(かど)を、人(ひと)から振(ふり)もぎる身躰(からだ)のやうにづん/\出掛(でか)けた。」
 雲(くも)は白(しろ)く山(やま)は蒼(あを)く、風(かぜ)のやうに、水(みづ)のやうに、颯(さつ)と青(あを)く、颯(さつ)と白(しろ)く見(み)えるばかりで、黒髪(くろかみ)濃(こ)い緑(みどり)、山椿(やまつばき)の一輪(いちりん)紅色(べにいろ)をした褄(つま)に擬(まが)ふやうな色(いろ)さへ、手(て)がゝりは全然(まるで)ない。
 目(め)が眩(くら)むほど腹(はら)が空(す)けば、よた/\と宿(やど)へ帰(かへ)つて、
『おい、飯(めし)を食(く)はせろ。』
 で、又(また)飛出(とびだ)す、崖(がけ)も谷(たに)もほつゝき歩行(ある)く、――と雲(くも)が白(しろ)く、山(やま)が青(あを)い。……外(ほか)に見(み)えるものは何(なん)にもない。目(め)が青(あを)く脳(なう)が青(あを)く成(な)つて了(しま)つたかと思(おも)ふばかり。時々(とき/″\)黒(くろ)いものがスツスツと通(とほ)るが、犬(いぬ)だか人間(にんげん)だか差別(さべつ)がつかぬ……客人(きやくじん)は変(へん)に成(な)つた、気(き)が違(ちが)つた、と云(い)ふ声(こゑ)が嘲(あざ)ける如(ごと)く、憐(あはれ)む如(ごと)く、呟(つぶや)く如(ごと)く、また咒咀(のろ)ふ如(ごと)く耳(みゝ)に入(はい)る……
『お客様(きやくさま)、』
『奥様(おくさま)』と呼(よ)ぶのが峯(みね)から伝(つた)はる。谺(こだま)を返(かへ)して谷(たに)へカーンと響(ひゞ)く、――雲(くも)が白(しろ)く、山(やま)が青(あを)く、風(かぜ)が吹(ふ)いて水(みづ)が流(なが)れる。
『客人(きやくじん)は気(き)が違(ちが)つた、』と言(い)ふのが分(わか)る。
「可(よし)、何(なん)とでも言へ、昨日(きのふ)今日(けふ)二世(にせ)かけて契(ちぎり)を結(むす)んだ恋女房(こひにようばう)がフト掻消(かきけ)すやうに行衛(ゆくゑ)が知(し)れない。其(それ)を捜(さが)すのが狂人(きちがひ)なら、飯(めし)を食(く)ふものは皆(みな)狂気(きちがひ)、火(ひ)が熱(あつ)いと言(い)ふのも変(へん)で、水(みづ)が冷(つめた)いと思(おも)ふも可笑(をか)しい。温泉(をんせん)の湧出(わきだ)すなどは、沙汰(さた)の限(かぎ)りの狂気山(きちがひやま)だ、はゝゝはゝ、」
と雪枝(ゆきえ)は額髪(ひたひがみ)を揺(ゆす)るまで、膝(ひざ)を抱(かゝ)へて、高笑(たかわらひ)を遣(や)つた。
 雲(くも)が動(うご)いて、薄日(うすび)が射(さ)して、反(そ)らした胸(むね)と、仰(あふ)いだ其(そ)の額(ひたひ)を微(かす)かに照(て)らすと、ほつと酔(よ)つたやうな色(いろ)をしたが、唇(くちびる)は白(しろ)く、目(め)は血走(ちばし)るのである。
 老爺(ぢゞい)は小首(こくび)を傾(かたむ)けた。
 急(きふ)に又(また)雪枝(ゆきえ)は、宛然(さながら)稚子(おさなご)の為(す)るやうに、両掌(りやうて)を双(さう)の目(め)に確(しか)と当(あ)てゝ、がつくり俯向(うつむ)く、背中(せなか)に雲(くも)の影(かげ)が暗(くら)く映(さ)した。
「其(そ)の中(うち)に四辺(あたり)が真暗(まつくら)に成(な)つた。暗(くら)く成(な)つたのは夜(よる)だらう、夜(よる)の暗(くら)さの広(ひろ)いのは、田(た)か畠(はたけ)か平地(ひらち)らしい、原(はら)かも知(し)れない……一目(ひとめ)其(そ)の際限(さいげん)の無(な)い夜(よる)の中(なか)に、墨(すみ)が染(にじ)んだやうに見(み)えたのは水(みづ)らしかつた……が、水(みづ)でも構(かま)はん、女房(にようばう)の行衛(ゆくゑ)を捜(さが)すのに、火(ひ)の中(なか)だつて厭(いと)ひは為(し)ない。づか/\踏込(ふみこ)まうとすると、
『あゝ、深(ふか)いぞ、誰(たれ)ぢや、水(みづ)へ……』
と其時(そのとき)、暗(くら)がりから、しやがれた声(こゑ)を掛(か)けて、私(わたし)を呼留(よびと)めたものがあります。
 暗(やみ)に透(す)かすと、背(せ)の高(たか)い大(おほき)な坊主(ばうず)が居(ゐ)て、地(ち)から三尺(さんじやく)ばかり高(たか)い処(ところ)、宙(ちう)で胡座(あぐら)掻(か)いたも道理(だうり)、汀(みぎは)へ足代(あじろ)を組(く)んで板(いた)を渡(わた)した上(うへ)に構込(かまへこ)んで、有(あ)らう事(こと)か、出家(しゆつけ)の癖(くせ)に、……水(みづ)の中(なか)へは広(ひろ)い四手網(よつであみ)が沈(しづ)めてある。」
 老爺(ぢゞい)は眉毛(まゆげ)をひくつかせた。
「はての。」


       城(じやう)ヶ沼(ぬま)


         十九

「其(そ)の入道(にふだう)の、のそ/\と身動(みうご)きするのが、暗夜(やみ)の中(なか)に、雲(くも)の裾(すそ)が低(ひく)く舞下(まひさが)つて、水(みづ)にびつしより浸染(にじ)んだやうに、ぼうと水気(すゐき)が立(た)つので、朦朧(もうろう)として見(み)えた。
『沼(ぬま)ぢや、気(き)を着(つ)けやれ』と打切(ぶつき)つたやうに言(い)ひます。
『沼(ぬま)でも海(うみ)でも、女房(にようばう)が居(ゐ)れば入(はい)らずに置(お)けない。』
 苛々(いら/\)するから、此方(こつち)はふてくされで突掛(つゝかゝ)る。
 と入道(にふだう)が耳(みゝ)を貫(つらぬ)いて、骨髄(こつずゐ)に徹(とほ)る事(こと)を、一言(ひとこと)。
『はゝあ、此処(こゝ)なは、御身(おみ)が内儀(ないぎ)か、』
と言(い)ふ。
『此処(こゝ)なは……私(わたし)の……女房(にようばう)だと? ……』
『おゝ、私(わし)が今(いま)出逢(であ)ふた、水底(みなぞこ)から仰向(あふむ)けに顔(かほ)を出(だ)いた婦人(をんな)の事(こと)ぢや。』
『や、溺(おぼ)れて死(し)んだか。』
とばつたり膝(ひざ)を支(つ)く、と入道(にふだう)は足代(あじろ)の上(うへ)から、蔽被(おつかぶ)さるやうに覗(のぞ)いて、
『待(ま)て、待(ま)て、死骸(しがい)を見(み)たでは無(な)い。ぢやが、正(しやう)のものでもなかつた……謂(い)はゞ影(かげ)ぢやな。声(こゑ)の有(あ)る色(いろ)の有(あ)る影法師(かげぼふし)ぢや……其(そ)のものから、御身(おみ)に逢(あ)ふて話(はな)してくれい、と私(わし)が托言(ことづけ)をされたよ。……
 何(なに)かな、御身(おみ)は遠方(ゑんぱう)から、近頃(ちかごろ)此(こ)の双六(すごろく)の温泉(をんせん)へ、夫婦(ふうふ)づれで湯治(たうぢ)に来(き)て、不図(ふと)山道(やまみち)で其(そ)の内儀(ないぎ)の行衛(ゆくゑ)を失(うしな)ひ、半狂乱(はんきやうらん)に捜(さが)してござる御仁(ごじん)かな。』とつけ/\訊(たづ)ねる。
 女房(にようばう)が失(う)せて半狂乱(はんきやうらん)、」
と雪枝(ゆきえ)は、思出(おもひだ)すのも、口惜(くや)しさうに歯噛(はが)みをした。
「察(さつ)して下(くだ)さい、……唯(たゞ)其(そ)の音信(たより)の聞(き)きたさに、
『えゝ、其(その)ものです』と返事(へんじ)を為(し)ました。
『やれ/\、気(き)の毒(どく)。』
とさら/\と法衣(ころも)の袖(そで)を掻合(かきあ)はせる音(おと)がして、
『私(わし)は旅(たび)のものぢやが、此(こ)の沼(ぬま)は、城(じやう)ヶ沼(ぬま)と言(い)ふげぢやよ。』
 老爺(おぢい)さん、其処(そこ)は城(じやう)ヶ沼(ぬま)と言(い)ふ処(ところ)だつた。」
 雪枝(ゆきえ)は息(いき)せはしく成(な)つて一息(ひといき)吐(つ)く。ト老爺(ぢい)は煙草(たばこ)を払(はた)いた。吸殻(すゐがら)の落(おち)た小草(をぐさ)の根(ね)の露(つゆ)が、油(あぶら)のやうにじり/\と鳴(な)つて、煙(けむり)が立(た)つと、ほか/\薄日(うすび)に包(つゝ)まれた。雲(くも)は稍(やゝ)薄(うす)く成(な)つたが、天守(てんしゆ)の棟(むね)は、聳(そび)え立(た)つ峯(みね)よりも空(そら)に重(おも)い。
「えゝ、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の。はあ、夢中(むちゆう)で其処(そこ)ら駆廻(かけめぐ)らしつたものと見(み)える……それは山(やま)の上(うへ)では無(な)い。お前様(めえさま)が温泉(をんせん)へ来(き)さつしやつた街道端(かいだうばた)の、田畝(たんぼ)に近(ちか)い樹林(きはやし)の中(なか)にある大(おほき)い沼(ぬま)よ。――何(なに)が、其(そ)の水(みづ)は谿河(たにがは)の流(ながれ)を堰(せ)いて溜(た)めたでは無(な)うて、昔(むかし)から此(こ)の……此処(こゝ)な濠(ほり)の水(みづ)が地(ち)の底(そこ)を通(かよ)ふと言(い)ふだね。……
 お天守(てんしゆ)の下(した)へも穴(あな)が徹(とほ)つて、お城(しろ)の抜道(ぬけみち)ぢや言(い)ふ不思議(ふしぎ)な沼(ぬま)での、……私(わし)が祖父殿(おんぢいどん)が手細工(てざいく)の船(ふね)で、殿様(とのさま)の妾(めかけ)を焼(や)いたと言(い)つけ。其(そ)ん時(とき)はい、其(そ)の影(かげ)が、城(じやう)ヶ沼(ぬま)へ歴然(あり/\)と映(うつ)つて、空(そら)が真黒(まつくろ)に成(な)つたと言(い)ふだ。……其(それ)さ真個(ほんとう)か何(ど)うか分(わか)らねども、お天守(てんしゆ)の棟(むね)は、今以(いまも)つて明(あきら)かに映(うつ)るだね。水(みづ)の静(しづか)な時(とき)は大(おほき)い角(つの)の龍(りう)が底(そこ)に沈(しづ)んだやうで、風(かぜ)がさら/\と吹(ふ)く時(とき)は、胴中(どうなか)に成(な)つて水(みづ)の面(おもて)を鱗(うろこ)が走(はし)るで、お城(しろ)の様子(やうす)が覗(のぞ)けるだから、以前(いぜん)は沼(ぬま)の周囲(まはり)に御番所(ごばんしよ)が有(あ)つた。最(もつと)もはあ、殺生(せつしやう)禁制(きんせい)の場所(ばしよ)でがしたよ。
 其(そ)の上(うへ)、主(ぬし)が居(ゐ)て住(す)む、と云(い)ふて、今以(いまもつ)て誰一人(たれひとり)釣(つり)をするものはねえで、鯉(こひ)鮒(ふな)の多(いか)い事(こと)。……
 お前様(めえさま)が温泉(ゆ)の宿(やど)で見(み)さしつけな、囲炉裡(ゐろり)の自在留(じざいどめ)のやうな奴(やつ)さ、山蟻(やまあり)が這(は)ふやうに、ぞろ/\歩行(ある)く。
 あの、沼(ぬま)へ、待(ま)たつせえ、」
と又(また)眉(まゆ)をびく/\遣(や)つた。
「四手場(よつでば)を拵(こさ)えて網(あみ)を張(は)るものは近郷近在(きんがうきんざい)、私(わし)の他(ほか)に無(な)いのぢやが、……お前様(めえさま)が見(み)さしつた、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の四手場(よつでば)の足代(あじろ)の上(うへ)の黒坊主(くろばうず)と……はてな……其(そ)の坊様(ばうさま)は大(おほき)い割(わり)に、色(いろ)が蒼(あを)ざめては居(を)らんかの。」

         二十

「あゝ、蒼(あを)ざめた、」
と雪枝(ゆきえ)は起直(おきなほ)つて言(い)つた。
「鼻(はな)の円(まる)い、額(ひたひ)の広(ひろ)い、口(くち)の大(おほき)い、……其(そ)の顔(かほ)を、然(しか)も厭(いや)な色(いろ)の火(ひ)が燃(も)えたので、暗夜(やみ)に見(み)ました。……坊主(ばうず)は狐火(きつねび)だ、と言(い)つたんです。」
「それ/\、其(そ)の坊様(ばうさま)なら、宵(よひ)の口(くち)に私(わし)が頼(たの)んで四手場(よつでば)に居(ゐ)て貰(もら)ふたのぢや……、はあ、其処(そこ)へお前様(めえさま)が行逢(ゆきあ)はしつたの。はて、どうも、妙智力(めうちりき)、旦那様(だんなさま)と私(わし)は縁(えん)が有(あ)るだね。」
「確(たしか)に師弟(してい)の縁(えん)が有(あ)ると思(おも)ひます、」
と雪枝(ゆきえ)は慇懃(ゐんぎん)に言(い)ふ。
「まあ、串戯(じやうだん)は措(お)かつせえ。……時(とき)に其(そ)の坊様(ばうさま)は何(なん)と云(い)ふでがすね。」
「えゝ、……
『私(わし)は旅(たび)から旅(たび)をふら/\と経廻(へめぐ)るものぢやが、』と坊様(ばうさま)が言(い)ふんです。
『日(ひ)が暮(く)れて此処(こゝ)を通(とほ)りかゝると、今(いま)、私(わし)が御身(おみ)に申(まを)したやうに、沼(ぬま)の水(みづ)は深(ふか)いぞ、と気(き)を注(つ)けたものがある。此(こ)の四手場(よつでば)に片膝(かたひざ)で、暗(やみ)の水(みづ)を視詰(みつ)めて居(ゐ)た老人(らうじん)ぞや。さて漁(れう)はあるか、と問(と)へば、漁(れう)は有(あ)るが、魚(さかな)は一向(いつかう)に獲(と)れぬと言(い)ふ。
 希有(けう)な事(こと)を聞(き)くものぢや、其(そ)の理由(いはれ)は、と尋(たづ)ねると、老人(らうじん)の返事(へんじ)には、』
と其(そ)の坊主(ばうず)が話(はな)したんです。……ぢや、老爺(おぢい)さん――老人(らうじん)が貴下(あなた)なら、貴下(あなた)が坊主(ばうず)に話(はな)された、と云(い)ふ、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の鯉(こひ)鮒(ふな)は、網(あみ)で掬(すく)へば漁(れう)はあるが、畚(びく)に入(い)れると直(す)ぐに消(き)えて、一尾(いつぴき)も底(そこ)に留(たま)らぬ。鰌(どぜう)一尾(いつぴき)獲物(えもの)は無(な)い。無(な)いのを承知(しやうち)で、此処(こゝ)に四(よ)ツ手(で)を組(く)むと言(い)ふのは、夜(よ)が更(ふ)けると水(みづ)に沈(しづ)めた網(あみ)の中(なか)へ、何(なん)とも言(い)へない、美(うつく)しい女(をんな)が映(うつ)る。其(それ)を見(み)たい為(ため)に、独(ひと)り恁(か)うやつて構(かま)へて居(ゐ)る、……とお話(はなし)があつたやうに、其(そ)の時(とき)坊主(ばうず)から聞(き)いたんです……それは真個(ほんとう)の事(こと)ですか? 老爺(おぢい)さん。」
 一切(いつさい)、事実(じじつ)だ、と老爺(ぢゞい)は答(こた)へたのである。
 はじめの内(うち)、……獲(え)た魚(うを)は畚(びく)の中(なか)を途中(とちゆう)で消(き)えた。荻尾花道(をぎをばなみち)、木(き)の下路(したみち)、茄子畠(なすびばたけ)の畝(あぜ)、籔畳(やぶだゝみ)、丸木橋(まるきばし)、……城(じやう)ヶ沼(ぬま)に漁(すなど)つて、老爺(ぢゞい)が小家(こや)に帰(かへ)る途中(とちゆう)には、穴(あな)もあり、祠(ほこら)もあり、塚(つか)もある。月夜(つきよ)の陰(かげ)、銀河(ぎんが)の絶間(たえま)、暗夜(やみ)にも隈(くま)ある要害(えうがい)で、途々(みち/\)、狐(きつね)狸(たぬき)の輩(やから)に奪(うば)ひ取(と)られる、と心着(こゝろづ)き、煙草入(たばこいれ)の根附(ねつけ)が軋(きし)んで腰(こし)の骨(ほね)の痛(いた)いまで、下(した)つ腹(ぱら)に力(ちから)を籠(こ)め、気(き)を八方(はつぱう)に配(くば)つても、瞬(またゝき)をすれば、一(ひと)つ失(う)せ、鼻(はな)をかめば二(ふた)つ失(う)せ、嚏(くしやみ)をすればフイに成(な)る。……で、未(ま)だも途中(とちゆう)まで畚(びく)の重(おも)い内(うち)は張合(はりあひ)もあつた。けれども、次第(しだい)に畜生(ちくしやう)、横領(わうりやう)の威(ゐ)を奮(ふる)つて、宵(よひ)の内(うち)からちよろりと攫(さら)ふ、漁(すなど)る後(あと)から嘗(な)めて行(ゆ)く……見(み)る/\四(よ)つ手網(であみ)の網代(あじろ)の上(うへ)で、腰(こし)の周囲(まはり)から引奪(ひつたく)る。
 最(もつと)も其(そ)の時(とき)は、何(なに)となく身近(みぢか)に物(もの)の襲(おそ)ひ来(く)る気勢(けはひ)がする。左(ひだり)の手(て)がびくりとする時(とき)、左(ひだり)から丁手掻(ちよつかい)で、右(みぎ)の腕(うで)がぶるつと為(す)る時(とき)、右(みぎ)の方(はう)から狙(ねら)ふらしい。頸首(ゑりくび)脊筋(せすぢ)の冷(ひや)りと為(す)るは、後(うしろ)に構(か)まへてござる奴(やつ)。天窓(あたま)から悚然(ぞつ)とするのは、惟(おも)ふに親方(おやかた)が御出張(ごしゆつちやう)かな。いや早(は)や、其(それ)と知(し)りつゝ、さつ/\と持(も)つて行(ゆ)かれる。最(もつと)も身体(からだ)を蓋(ふた)に為(し)て畚(びく)の魚(さかな)を抱(だ)いてゞも居(ゐ)れば、如何(いか)に畜生(ちくしやう)に業通(ごふつう)が有(あ)つても、まさかに骨(ほね)を徹(とほ)しては抜(ぬ)くまい、と一心(いつしん)に守(まも)つて居(ゐ)れば、沼(ぬま)の真中(まんなか)へひら/\と火(ひ)を燃(もや)す、はあ、変(へん)だわ、と気(き)が散(ち)ると、立処(たちどころ)に鯉(こひ)が失(う)せる。其(そ)の術(て)で行(ゆ)かねば、業(わざ)を変(か)へて、何処(どこ)とも知(し)らず、真夜中(まよなか)にアハヽアハヽ笑(わら)ひをる、吃驚(びつくり)すると鮒(ふな)が消(き)える、――此方(こつち)も自棄腹(やけばら)の胴(どう)を極(き)めて、少々(せう/\)脇(わき)の下(した)を擽(くすぐ)られても、堪(こら)へて静(じつ)として畚(びく)を守(まも)れば、さすが目(め)に見(み)せて、尖(とが)つた面(つら)、長(なが)い尻尾(しつぽ)は出(だ)さぬけれど、さて然(さ)うして見(み)た日(ひ)には、足代(あじろ)を組(く)んで四手(よつで)を沈(しづ)めて、身体(からだ)を張(は)つて、体(てい)よく賃無(ちんな)しで雇(やと)はれた城(じやう)ヶ沼(ぬま)の番人(ばんにん)同然(どうぜん)、寐酒(ねざけ)にも成(な)らず、一向(いつかう)に市(いち)が栄(さか)えぬ。

         二十一

 魚(うを)が寄(よ)ると見(み)れば、網(あみ)を揚(あ)げる、網(あみ)を両手(りやうて)で、ぐい、と引(ひ)いて、目(め)も心(こゝろ)も水(みづ)に取(と)られる時(とき)の惨憺(みじめ)さ。ガサリなどゝ音(おと)をさして、畚(びく)を俯向(うつむ)けに引繰返(ひきくりかへ)す、と這奴(しやつ)にして遣(や)らるゝはまだしもの事(こと)、捕(と)つた魚(うを)が飜然(ひらり)と刎(は)ねて、ざぶんと水(みづ)に入(はい)つてスイと泳(およ)ぐ。
 余(あまり)の他愛(たあい)なさに、効無(かひな)い殺生(せつしやう)は留(やめ)にしやう、と発心(ほつしん)をした晩(ばん)、これが思切(おもひき)りの網(あみ)を引(ひ)くと、一面(いちめん)城(じやう)ヶ沼(ぬま)の水(みづ)を飜(ひるがへ)して、大四手(おほよつで)が張裂(はりさ)けるばかり縦(たて)に成(な)つて、ざつと両隅(りやうすみ)から高(たか)く星(ほし)の空(そら)へ影(かげ)が映(さ)して、沼(ぬま)の上(うへ)を離(はな)れる時(とき)、網(あみ)の目(め)を灌(そゝ)いで落(お)ちる水(みづ)の光(ひか)り、霞(かすみ)の懸(かゝ)つた大(おほき)な姿見(すがたみ)の中(なか)へ、薄(うつす)りと女(をんな)の姿(すがた)が映(うつ)つた。
「よく、はい、噂(うはさ)に聞(き)くお客様(きやくさま)が懸(かゝ)つたやうだね。恁(か)う、其(そ)の網(あみ)を引張(ひつぱ)つて、」
 老爺(ぢゞい)は手(て)で掴(つか)んで腰(こし)を反(そ)らして言(い)ふのである。
「引(ひ)き懸(か)けた処(ところ)でがんしよ……鮒(ふな)一尾(いつぴき)入(はい)つた手応(てごたへ)もねえで、水(みづ)はざんざと引覆(ぶつけえ)るだもの。人間(にんげん)の突入(つゝぺえ)つた重(おも)さはねえだ。で、持(も)つたまま大揺(おほゆ)りに身躰(からだ)ごと網(あみ)を揺(ゆ)れば、矢張(やつぱり)揺(ゆ)れて、衣服(きもの)だか鰭(ひれ)だか、尾毛(しつぽ)だか、網(あみ)の中(なか)の婦(をんな)の姿(すがた)がふら/\動(うご)くだ。はて、変(へん)だと手(て)を離(はな)すと、ざぶりと沈(しづ)むだ。其(そ)の網(あみ)の底(そこ)の方(はう)……水(みづ)ン中(なか)に、ちら/\と顔(かほ)が見(み)える……其(そ)のお前様(めえさま)、白(しろ)い顔(かほ)が正的(まとも)に熟(じつ)と此方(こちら)を見(み)るだよ。
 や、早(は)や其時(そのとき)は畚(びく)が足代(あじろ)を落(おつ)こちて、泥(どろ)の上(うへ)に俯向(うつむ)けだね。其奴(そいつ)が、へい、足(あし)を生(は)やして沼(ぬま)へ駆込(かけこ)まぬが見(み)つけものだで、畜生(ちくしやう)め、此(こ)の術(て)で今夜(こんや)は占(し)めをつた。
 何(なん)のつけ、最(も)う二度(にど)と来(く)る事(こと)ではない、とふつ/\我(が)を折(を)つて帰(かへ)りましけえ。怪※(をかし)[#「りっしんべん+牙」、119-16]な事(こと)には、眉(まゆ)が何(ど)う、目(め)が何(ど)う、と云(い)ふ覚(おぼえ)はねえだが、何(なん)とも言(い)はれねえ、其(そ)の女(をんな)の容色(きりやう)だで……色(いろ)も恋(こひ)も無(な)けれども、絵(ゑ)を見(み)るやうで、何(なん)とも其(そ)の、美(うつく)しさが忘(わす)れられぬ。
 化(ば)けたなら化(ば)けたで可(よし)、今夜(こんや)は蛇(じや)に成(な)らうも知(し)んねえが、最(も)う一晩(ひとばん)出懸(でか)けて見(み)べい。」……
 で、又(また)てく/\と沼(ぬま)へ出向(でむ)く、と一刷(ひとは)け刷(は)いた霞(かすみ)の上(うへ)へ、遠山(とほやま)の峰(みね)より高(たか)く引揚(ひきあ)げた、四手(よつで)を解(と)いて沈(しづ)めたが、何(ど)の道(みち)持(も)つては帰(かへ)られぬ獲物(えもの)なれば、断念(あきら)めて、鯉(こひ)が黄金(きん)で鮒(ふな)が銀(ぎん)でも、一向(いつかう)に気(き)に留(と)めず、水(みづ)に任(まか)せて夜(よ)を更(ふか)す。
 風(かぜ)が吹(ふ)き、風(かぜ)が凪(な)ぎ、水(みづ)が動(うご)き、水(みづ)が静(しづ)まる。大沼(おほぬま)の刻限(こくげん)も、村里(むらざと)と変(かは)り無(な)う、やがて丑満(うしみつ)と思(おも)ふ、昨夜(ゆふべ)の頃(ころ)、ソレ此処(こゝ)で、と網(あみ)を取(と)つたが、其(そ)の晩(ばん)は上(うへ)へ引揚(ひきあ)げる迄(まで)もなく、足代(あじろ)の上(うへ)から水(みづ)を覗(のぞ)くと歴然(あり/\)と又(また)顔(かほ)が映(うつ)つた。
 と老爺(ぢゞい)が話(はな)す。
「聞(き)かつせえまし、肩(かた)から胸(むね)の辺(あたり)まで、薄(うつす)らと見(み)えるだね、試(ため)して見(み)ろで、やつと引(ひ)き揚(あ)げると、矢張(やつぱ)り網(あみ)に懸(かゝ)つて水(みづ)を離(はな)れる……今度(こんど)は、ヤケにゆつさゆさ引振(ひつぷる)ふと、揉消(もみけ)すやうにすツと消(き)えるだ――其処(そこ)でざぶんと沈(しづ)める、と又(また)水(みづ)の中(なか)へ露(あら)はれる。……
 三夜(みよさ)四夜(よよさ)と続(つゞ)いたが、何時(いつ)も其(そ)の時刻(じこく)に屹(きつ)と映(うつ)るだ。追々(おひ/\)馴染(なじみ)が度重(たびかさな)ると、へい、朝顔(あさがほ)の花(はな)打沈(ぶちしづ)めたやうに、襟(ゑり)も咽喉(のど)も色(いろ)が分(わか)つて、口(くち)で言(い)ひやうは知(し)らぬけれど、目附(めつき)なり額(ひたひ)つきなり、押魂消(おつたまげ)た別嬪(べつぴん)が、過般中(いつかぢゆう)から、同(おな)じ時分(じぶん)に、私(わし)と顔(かほ)を合(あ)はせると、水(みづ)の中(なか)で莞爾(につこり)笑(わら)ふ。……
 や、其(そ)の笑顔(ゑがほ)を思(おも)ふては、地韜(ぢだんだ)踏(ふ)んで堪(こら)へても小家(こや)へは寐(ね)られぬ。雨(あめ)が降(ふ)れば簑(みの)を着(き)て、月(つき)の良(い)い夜(よ)は頬被(ほゝかぶ)り。つひ一晩(ひとばん)も欠(か)かさねえで、四手場(よつでば)も此(こ)の爺(ぢい)も、岸(きし)に居着(ゐつ)きの巌(いは)のやうだ――扨(さて)気(き)が着(つ)けばひよんな事(こと)、沼(ぬま)の主(ぬし)に魅入(みい)られた、何(なに)か前世(ぜんせ)の約束(やくそく)で、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の番人(ばんにん)に成(な)つたゞかな。何処(どこ)で死(し)ぬ身(み)と考(かんが)える、と心細(こゝろぼそ)い身(み)の上(うへ)ぢやが、何(なん)と為(し)ても思切(おもひき)れぬ……
 いけ年(どし)を為(し)た爺(ぢゞい)が、女色(いろ)に迷(まよ)ふと思(おも)はつしやるな。持(も)たぬ孫(まご)の可愛(かあい)さも、見(み)ぬ極楽(ごくらく)の恋(こひ)しいも、これ、同(おな)じ事(こと)と考(かんが)えたゞね。……
 さて困(こま)つたは、寒(さむ)ければ、へい、寒(さむ)し、暑(あつ)ければ暑(あつ)い身躰(からだ)ぢや、飯(めし)も食(く)へば、酒(さけ)も飲(の)むで、昼間(ひるま)寐(ね)て夜(よる)出懸(でか)けて、沼(ぬま)の姫様(ひいさま)見(み)るは可(え)えが、そればかりでは活(い)きて居(ゐ)られぬ。」


       雲(くも)の声(こゑ)


         二十二

 譬(たと)へば幻(まぼろし)の女(をんな)の姿(すがた)に憧(あこ)がるゝのは、老(おひ)の身(み)に取(と)り、極楽(ごくらく)を望(のぞ)むと同(おな)じと為(す)る。けれども其(そ)の姿(すがた)を見(み)やうには、……沼(ぬま)へ出掛(でか)けて、四(よ)つ手場(でば)に蹲(つくば)つて、或(ある)刻限(こくげん)まで待(ま)たねばならぬ。で、屋根(やね)から月(つき)が射(さ)すやうな訳(わけ)には行(ゆ)かない。其処(そこ)で、稼(かせ)ぎも為(せ)ず活計(くらし)も立(た)てず、夜毎(よごと)に沼(ぬま)の番(ばん)の難行(なんぎやう)は、極楽(ごくらく)へ参(まゐ)りたさに、身投(みな)げを為(す)るも同(おな)じ事(こと)、と老爺(ぢゞい)は苦笑(にがわら)ひをしながら言(い)つた。
 そんなら、四(よ)つ手場(でば)を留(や)めにして、小家(こや)で草鞋(わらぢ)でも造(つく)れば可(いゝ)が、因果(いんぐわ)と然(さ)うは断念(あきら)められず、日(ひ)が暮(く)れると、そゝ髪立(がみた)つまで、早(は)や魂(たましひ)は引窓(ひきまど)から出(で)て、城(じやう)ヶ沼(ぬま)を差(さ)してふわ/\と白(しろ)い蝙蝠(かはほり)のやうに※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)(さまよ)ひ行(ゆ)く。
 待(ま)てよ、恁(か)うまで、心(こゝろ)を曳(ひ)かるゝのは、よも尋常(たゞ)ごとでは有(あ)るまい。伝(つた)へ聞(き)く沼(ぬま)の中(なか)へは古城(こじやう)の天守(てんしゆ)が倒(さかさま)に宿(やど)る……我(わ)が祖先(そせん)の術(じゆつ)の為(ため)に、怪(あや)しき最後(さいご)を遂(と)げた婦(をんな)が、子孫(しそん)に絡(まつは)る因縁事(いんねんごと)か。其(それ)とも弔(とむ)らはれず浮(う)かばぬ霊(れい)が、無言(むごん)の中(うち)に供養(くやう)を望(のぞ)むのであらうも知(し)れぬ。独(ひと)りでは何(なに)しろ荷(に)が重(おも)い。村(むら)の誰(たれ)にかも見(み)せて、怪(あや)しさを唯(たゞ)※(しぶき)[#「さんずい+散」、122-3]の如(ごと)く散(ち)らさう、と人(ひと)に告(つ)げぬのでは無(な)いけれども、昼間(ひるま)さへ、分(わ)けて夜(よる)に成(な)つて、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の三町四方(さんちやうしはう)へ寄附(よりつ)かうと言(い)ふ兄哥(せなあ)は居(を)らぬ。
 殆(ほと)んど我身(わがみ)を持(も)て余(あま)した頃(ころ)の、其(そ)の夜(よ)……
「お前様(めえさま)が逢(あ)はしつた坊主(ばうず)が来(き)て、のつそり立(た)つた。や、これも怪(あや)しい。顔色(かほいろ)の蒼(あを)ざめた墨(すみ)の法衣(ころも)の、がんばり入道(にふだう)、影(かげ)の薄(うす)さも不気味(ぶきみ)な和尚(をしやう)、鯰(なまづ)でも化(ば)けたか、と思(おも)ふたが、――恁(か)く/\の次第(しだい)ぢや、御出家(ごしゆつけ)、……大方(おほかた)は亡霊(ばうれい)が廻向(えかう)を頼(たの)むであらうと思(おも)ふで、功徳(くどく)の為(た)め、丑満(うしみつ)まで此処(こゝ)にござつて引導(いんだう)を頼(たの)むでがす。――旅(たび)の疲労(つかれ)も有(あ)らつしやらうか、何(なん)なら、今夜(こんや)は私(わし)が小家(こや)へ休(やす)んで、明日(あす)の晩(ばん)にも、と言(い)ふたが、其(それ)には及(およ)ばぬ……若(も)しや、其(それ)が真実(しんじつ)なら、片時(へんし)も早(はや)く苦艱(くかん)を救(すく)ふて進(しん)ぜたい。南無南無(なむなむ)と口(くち)の裡(うち)で唱(とな)うるで、饗応振(もてなしぶり)に、藁(わら)など敷(し)いて坐(すは)らせて、足代(あじろ)の上(うへ)を黒坊主(くろばうず)と入替(いれかは)つた。
 さあ、身代(みがは)りは出来(でき)たぞ! 一目(ひとめ)彼(あ)の女(をんな)を見(み)され、即座(そくざ)に法衣(ころも)を着(き)た巌(いは)と成(な)つて、一寸(いつすん)も動(うご)けまい、と暗(やみ)の夜道(よみち)を馴(な)れた道(みち)ぢや、すた/\と小家(こや)へ帰(かへ)つてのけた……
 翌朝(あけのあさ)疾(はや)く握飯(にぎりめし)を拵(こしら)へ、竹(たけ)の皮(かは)包(つゝ)みに為(し)て、坊様(ばうさま)を見舞(みまひ)に行(ゆ)きつけ…靄(もや)の中(なか)に影(かげ)もねえだよ。
 はあ、よもや、とは思(おも)ふたが、矢張(やつぱ)り鯰(なまづ)めが来(う)せたげな。えゝ、埒(らち)もない、と気(き)が抜(ぬ)けて、又(また)番人(ばんにん)ぢや、と落胆(がつかり)したゞが、其(そ)の晩(ばん)もう一度(いちど)行(ゆ)く、と待(ま)つとも無(な)う夜(よる)が更(ふ)けても、何時(いつも)の影(かげ)は映(うつ)らなんだ。四手(よつで)を上(あ)げても星(ほし)も懸(かゝ)らず、鬢(びん)の香(か)のする雫(しづく)も落(お)ちぬ。あゝ、引導(いんだう)を渡(わた)したな。勿躰(もつたい)ない、名僧智識(めいそうちしき)で有(あ)つたもの、と足代(あじろ)の藁(わら)を頂(いたゞ)いたゞがの、……其(それ)では、お前様(めえさま)が私(わし)の後(あと)へござつて、其(そ)の坊主(ばうず)に逢(あは)しつたものだんべい。
 ……までは、はあ、分(わか)つたが、私(わし)が城(じやう)ヶ沼(ぬま)の水(みづ)の映(うつ)る女(をんな)を見(み)はじめたは久(ひさし)い以前(いぜん)ぢや。お前様(めえさま)湯治(たうぢ)にござつて、奥様(おくさま)の行方(ゆきがた)が知(し)れなく成(な)つたは、つひ此(こ)の頃(ごろ)の事(こと)ではねえだか、坊様(ばうさま)は何処(どこ)で聞(き)いて、奥様(おくさま)の言(こと)づけを為(し)たゞがの。」
「其(それ)を坊様(ばうさん)が言(い)つたんです。其(そ)の出家(しゆつけ)の言(い)ふには、
『……人(ひと)は知(し)らぬが、此処(こゝ)に居(ゐ)た老人(らうじん)に、水(みづ)の中(なか)へ姿(すがた)を顕(あら)はす幻(まぼろし)の婦(をんな)に廻向(えかう)を、と頼(たの)まれて、出家(しゆつけ)の役(やく)ぢや、……宵(よひ)から念仏(ねんぶつ)を唱(とな)へて待(ま)つ、と時刻(じこく)が来(き)た。
 大沼(おほぬま)の水(みづ)は唯(たゞ)、風(かぜ)にも成(な)らず雨(あめ)にも成(な)らぬ、灰色(はいいろ)の雲(くも)の倒(たふ)れた広(ひろ)い亡体(なきがら)のやうに見(み)えたのが、汀(みぎは)からはじめて、ひた/\と呼吸(いき)をし出(だ)した。ひた/\と言(い)ひ出(だ)した。幽(かすか)にひた/\と鳴出(なりだ)した。
 町方(まちかた)、里近(さとちか)の川(かは)は、真夜中(まよなか)に成(な)ると流(ながれ)の音(おと)が留(や)むと言(い)ふが反対(あべこべ)ぢやな。此(こ)の沼(ぬま)は、其時分(そのじぶん)から動(うご)き出(だ)す……呼吸(いき)が全躰(ぜんたい)に通(かよ)ふたら、真中(まんなか)から、むつくと起(お)きて、どつと洪水(こうずゐ)に成(な)りはせぬかと思(おも)ふ物凄(ものすご)さぢや。
 と其(そ)の中(なか)に何(なに)やら声(こゑ)がする。』……と坊主(ばうず)が言(い)ひます。」

         二十三

 其(そ)の声(こゑ)が、五位鷺(ごゐさぎ)の、げつく、げつくとも聞(き)こえれば、狐(きつね)の叫(さけ)ぶやうでもあるし、鼬(いたち)がキチ/\と歯(は)ぎしりする、勘走(かんばし)つたのも交(まざ)つた。然(さ)うかと思(おも)ふと、遠(とほ)い国(くに)から鐘(かね)の音(ね)が響(ひゞ)いて来(く)るか、とも聞取(きゝと)られて、何(なん)となく其処等(そこら)ががや/\し出(だ)す……雑多(ざつた)な声(こゑ)を袋(ふくろ)に入(い)れて、虚空(こくう)から沼(ぬま)の上(うへ)へ、口(くち)を弛(ゆる)めて、わや/\と打撒(ぶちま)けたやうに思(おも)ふと、
『血(ち)を洗(あら)へ、』
『洗(あら)へ』
『人間(にんげん)の血(ち)を洗(あら)へ。』
『笘(しもと)で破(やぶ)つた。』
『鞭(むち)で切(き)つた。』
『爪(つめ)で裂(さ)いた。』
『膚(はだ)を浄(きよ)めろ、』
『浄(きよ)めろ。』
と高(たか)く低(ひく)く、声々(こゑ/″\)に大沼(おほぬま)のひた/\と鳴(な)るのが交(まざ)つて、暗夜(あんや)を刻(きざ)んで響(ひゞ)いたが、雲(くも)から下(お)りたか、水(みづ)から湧(わ)いたか、沼(ぬま)の真中(まんなか)あたりへ薄(うす)い煙(けむり)が朦朧(もうろう)と靡(なび)いて立(た)つ……
『煮殺(にころ)すではないぞ。』
『うでるでない。』と言(い)ふ。
『湯加減(ゆかげん)、湯加減(ゆかげん)、』
『水加減(みづかげん)。』と喚(わめ)いた……
『沼(ぬま)の湯(ゆ)は熱(あつ)いか。』とぼやけた音(おん)で聞(き)くのがある……
『熱湯(ねつたう)。』と簡単(かんたん)に答(こた)へた。
『人間(にんげん)は知(し)るまいな。』
『知(し)るものか。』と傲然(がうぜん)とした調子(てうし)で言(い)つた。
『沼(ぬま)から何(なん)で沸湯(にえゆ)が出(で)る。』
『此(こ)の湯(ゆ)が沸(わ)いて殺(ころ)さぬと、魚(うを)が殖(ふ)へて水(みづ)が無(な)くなる、沼(ぬま)が乾(かは)くわ。』
と言(い)つた。
『※舌(しやべ)[#「口+堯」、125-7]るな、働(はたら)け。』
『血(ち)を洗(あら)へ、』
『傷(きづ)を洗(あら)へ』
『小袖(こそで)を剥(は)がせ』
『此(こ)の紫(むらさき)は?』
『菖蒲(あやめ)よ、藤(ふぢ)よ。』
『帯(おび)が長(なが)いぞ。』
『蔦(つた)、桂(かつら)、山鳥(やまどり)の尾(を)よ。』
『下着(したぎ)も奪(うば)へ、』
『此(こ)の紅(くれなゐ)は、』
『もみぢ、花(はな)。』
『やあ、此(こ)の膚(はだえ)は、』
『山陰(やまかげ)の雪(ゆき)だ。』
 ひいツ、と魂消(たまぎ)つて悲鳴(ひめい)を上(あ)げた、糸(いと)のやうな女(をんな)の声(こゑ)が谺(こだま)を返(かへ)して沼(ぬま)に響(ひゞ)いた。

 坊主(ばうず)が此処(こゝ)まで言(い)つた時(とき)、聞(き)いてた私(わたし)は熱鉄(ねつてつ)のやうな汗(あせ)が流(なが)れた。」
と雪枝(ゆきえ)は老爺(ぢゞい)に語(かた)りながら唇(くちびる)を戦(おのゝ)かせて、
「尚(な)ほ坊主(ばうず)が続(つゞ)けて、話(はな)す。

 さあ何(なに)ものかゞ寄(よ)つて集(たか)つて、誰(たれ)かを白裸(まるはだか)にした、と思(おも)へば、
『犬(いぬ)よ、犬(いぬ)よ。』と呼(よ)んだのがある。
 びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥(はる)かに犬(いぬ)が長吠(ながぼえ)して、可忌(いまは)しく夜陰(やいん)を貫(つらぬ)いたが、瞬(またゝ)く間(ま)に、里(さと)の方(はう)から、風(かぜ)のやうに颯(さつ)と来(き)て、背後(うしろ)から、足代場(あじろば)の上(うへ)に蹲(うづくま)つた――法衣(ころも)の袖(そで)を掠(かす)めて飛(と)んだ、トタンに腥(なまぐさ)い獣(けもの)の香(にほひ)がした。
 水(みづ)の上(うへ)で、わん、わん、と啼(な)く……
『男(をとこ)は知(し)るまい。』
『うゝ、』と犬(いぬ)の声(こゑ)。
『不便(ふびん)な奴(やつ)だ。』
『びやう、』と又(また)啼(な)いた。
 此(こ)の間(あひだ)、ざぶり/\と水(みづ)を懸(か)ける音(おと)が頻(しきり)にした。
『やがて可(い)いか、』
『血(ち)は留(と)まつた。』
『又(また)鞭打(むちう)つて、』
『又(また)洗(あら)はう。』
『やあ、己(おれ)が手(て)、』
『我(わ)が足(あし)、』
『此(こ)の面(つら)に絡(まつ)はるは。』
『水(みづ)に拡(ひろ)がる黒髪(くろかみ)ぢや、』
『山(やま)の婆々(ばゞ)の白髪(しらが)のやうに、すく/\と痛(いた)うは刺(さ)さぬ。』
『蛇(へび)よりは心地(こゝち)よやな。』と次第(しだい)に声(こゑ)が風(かぜ)に乗(の)り行(ゆ)く……

         二十四

 びやう/\と凄(すご)い声(こゑ)で、形(かたち)は見(み)えず、沼(ぬま)の上(うへ)で空(そら)ざまに犬(いぬ)が啼(な)く。
『犬(いぬ)よ、犬(いぬ)よ。』
『おう。』と吠(ほ)えた。
『人間(にんげん)の目(め)には見(み)えぬ……城山(しろやま)の天守(てんしゆ)の上(うへ)に、女(をんな)は梁(うつばり)から釣(つる)して置(お)く、と男(をとこ)に言(い)へ!』
『何(なに)が、彼(あ)の耳(みゝ)へ入(はい)らう。』
『わん、と啼(な)いたら、犬(いぬ)だと思(おも)はう、彼(あ)の痴漢(たわけ)が。』
と嘲(あざけ)る声(こゑ)。傍(かたはら)から老(ふ)けた声(こゑ)して、
『……其(そ)の言附(ことづけ)は、犬(いぬ)では不可(いか)ぬ。時鳥(ほとゝぎす)に一声(ひとこゑ)啼(な)かせろ。』
『まだ/\、まだ/\、山(やま)の中(なか)の約束(やくそく)は、人間(にんげん)のやうに間違(まちが)はぬ。今(いま)は未(ま)だ時鳥(ほとゝぎす)の啼(な)く時節(じせつ)で無(な)い。』
『唯(たゞ)姿(すがた)だけ見(み)せれば可(い)い。温泉宿(ゆのやど)の二階(にかい)は高(たか)し。あの欄干(らんかん)から飛込(とびこ)ませろ、……女房(にようばう)は帰(かへ)らぬぞ、女房(にようばう)は帰(かへ)らぬぞ、と羽(はね)で天井(てんじやう)をばさばさ遣(や)らせろ。』
『男(をとこ)は、女(をんな)の魂(たましひ)が時鳥(ほとゝぎす)に成(な)つた夢(ゆめ)を見(み)て、白(しろ)い毛布(けつと)で包(つゝ)んで取(と)らうと血眼(ちまなこ)で追駆(おつか)け回(まは)さう……寐惚面(ねぼけづら)見(み)るやうだ。』
 どつと笑(わら)つて、天守(てんしゆ)の方(はう)へ消(き)えた後(あと)は、颯々(さつ/\)と風(かぜ)に成(な)つた。
 が、田畠野(たばたけの)の空(そら)を、山(やま)の端(は)差(さ)して、何(なん)となく暗(やみ)ながら雲(くも)がむくむくと通(とほ)つて行(ゆ)く。其(そ)の気勢(けはひ)が、やがて昼間(ひるま)見(み)た天守(てんしゆ)の棟(むね)の上(うへ)に着(つ)いた程(ほど)に、ドヽンと凄(すご)い音(おと)がして、足代(あじろ)に乗(の)つた目(め)の下(した)、老人(らうじん)が沈(しづ)めて去(い)つた四(よ)つ手網(であみ)の真中(まんなか)あたりへ、したゝかな物(もの)の落(お)ちた音(おと)。水(みづ)が環(わ)に成(な)つて、颯(さつ)と網(あみ)を乗出(のりだ)して展(ひろ)げた中(なか)へ、天守(てんしゆ)の影(かげ)が、壁(かべ)も仄白(ほのじろ)く見(み)えるまで、三重(さんぢう)あたりを樹(き)の梢(こずゑ)に囲(かこ)まれながら、歴然(あり/\)と映(うつ)つて出(で)た。
 不思議(ふしぎ)や、其(そ)の天守(てんしゆ)の壁(かべ)を透(す)いて、中(なか)に灯(ひ)を点(つ)けたやうに、魚(うを)の形(かたち)した黄色(きいろ)い明(あかり)のひら/\するのが、矢間(やざま)の間(あひ)から、深(ふか)い処(ところ)に横開(よこひら)けで、網(あみ)の目(め)が映(うつ)るのか凡(およ)そ五十畳(ごじふでう)ばかりの広間(ひろま)が、水底(みずそこ)から水面(すゐめん)へ、斜(なゝめ)に立懸(たてか)けたやうに成(な)つて、ふわ/\と動(うご)いて見(み)える。
 他(ほか)に何(なに)も無(な)く誰(だれ)も居(を)らぬ。灯(あかり)唯(たゞ)一(ひと)つ有(あ)る。其(そ)の灯(あかり)が、背中(せなか)から淡(あは)く射(さ)して、真白(まつしろ)な乳(ちゝ)の下(した)を透(すか)す、……帯(おび)のあたりが、薄青(うすあを)く水(みづ)に成(な)つて、ゆら/\と流(なが)れるやうな、下(した)が裙(すそ)に成(な)つて、一寸(ちよつと)灯(ひ)の影(かげ)で胴(どう)から切(き)れた形(かたち)で、胸(むね)を反(そ)らした、顔(かほ)を仰向(あふむ)けに、悚然(ぞつ)とするやうな美(うつくし)い婦(をんな)。
 処(ところ)で、水(みづ)へ映(うつ)る影(かげ)と言(い)へば、我(わ)が面影(おもかげ)を覗(のぞ)くやうに、沼(ぬま)に向(むか)つて、顔(かほ)を合(あ)はせるやうに見(み)えるのであらう、と思(おも)ふたが違(ちが)う。――黒髪(くろかみ)が岸(きし)へ、足(あし)が彼方(かなた)へ、たとへば向(むか)ふの汀(みぎは)から影(かげ)が映(さ)すのを、倒(さかさま)に視(なが)める形(かたち)。つく/″\と見(み)れば無残(むざん)や、形(かたち)のない声(こゑ)が言交(いひか)はした如(ごと)く、頭(かしら)が畳(たゝみ)の上(うへ)へ離(はな)れ、裙(すそ)が梁(うつばり)にも留(と)まらずに上(うへ)から倒(さかさま)に釣(つる)して有(あ)る……
 と身(み)を悶(もが)くか水(みづ)が揺(ゆ)れるか、わな/\と姿(すがた)が戦(おのゝ)く――天守(てんしゆ)の影(かげ)の天井(てんじやう)から真黒(まつくろ)な雫(しづく)が落(お)ちて、其(そ)の手足(てあし)に懸(かゝ)つて、其(そ)のまゝ髪(かみ)の毛(け)を伝(つた)ふやうに、長(なが)く成(な)つて、下(した)へぽた/\と落(お)ちて、ずらりと伸(の)びて、廻(まは)りつ畝(うね)りつするのを、魚(うを)の泳(およ)ぐのか、と思(おも)ふと幾条(いくすぢ)かの蛇(へび)で、梁(うつばり)にでも巣(す)をくつて居(ゐ)るらしい。
 然(さ)うかと思(おも)ふと、膝(ひざ)のあたりを、のそ/\と山猫(やまねこ)が這(は)つて通(とほ)る。階子(はしご)の下(した)から上(あが)つて来(く)るらしく、海豚(いるか)が躍(をど)るやうな影法師(かげぼふし)は狐(きつね)で。ひよいと飛上(とびあが)るのもあれば、ぐる/\と歩行(ある)き廻(まは)るのもあるし、胴(どう)を伸(の)ばして矢間(やざま)から衝(つ)と出(で)て、天守(てんしゆ)の棟(むね)で鯱立(しやちほこだ)ちに成(な)るのも見(み)える。
 時々(とき/″\)ひら/\と烏(からす)が出(で)て、翼(つばさ)で、女(をんな)の胸(むね)を払(はた)く……
 中(なか)に見(み)る目(め)も恐(おそろ)しかつたは、――茶(ちや)と白大斑(しろおほまだら)の獣(けもの)が一頭(いつとう)、天守(てんしゆ)の階子(はしご)を、のし/\と、蹄(ひづめ)で蹈(ふ)んで上(あが)つて、畳(たゝみ)を抱(だ)いて人(ひと)のやうに立上(たちあが)つた影法師(かげぼふし)が、女(をんな)の上(うへ)を横(よこ)に通(とほ)ると、姿(すがた)は隠(かく)れて、颯(さつ)と蒼(あを)く成(な)つた面影(おもかげ)と、ちらりと白(しろ)い爪尖(つまさき)ばかりの残(のこ)つた時(とき)で――獣(けもの)が頓(やが)て消(き)えたと思(おも)ふと、胸(むね)を映(うつ)した影(かげ)が波立(なみだ)ち、髪(かみ)を宿(やど)した水(みづ)が動(うご)いた……
『御身(おみ)が女房(にようばう)の光景(ありさま)ぢや。』と坊主(ばうず)が私(わたし)の顔(かほ)の前(まへ)へ、何故(なぜ)か大(おほき)な掌(てのひら)を開(ひら)けて出(だ)した。」


       誂(あつら)へ物(もの)


         二十五

「私(わたし)は息(いき)を引(ひ)いて退(すさ)つたんです。」と雪枝(ゆきえ)は尚(な)ほ語(かた)り続(つゞ)けた。
「……水(みづ)の中(なか)からともなく、空(そら)からともなく、幽(かすか)に細々(ほそ/″\)とした消(き)えるやうな、少(わか)い女(をんな)の声(こゑ)で、出家(しゆつけ)を呼(よ)んだ、と言(い)ひます。
 而(そ)して、百年(ひやくねん)以来(いらい)、天守(てんしゆ)に棲(す)む或(ある)怪(あやし)いものゝ手(て)を攫(さら)はれて、今(いま)見(み)らるゝ通(とほ)りの苦艱(くげん)を受(う)ける……何(なに)とぞ此(こ)の趣(おもむき)を、温泉(をんせん)に今(いま)も逗留(とうりう)する夫(をつと)に伝(つた)へて、寸時(すんじ)も早(はや)く人間界(にんげんかい)に助(たす)けられたい。救(すく)ふには、天守(てんしゆ)の主人(あるじ)が満足(まんぞく)する、自分(じぶん)の身代(みがは)りに成(な)るほどな、木彫(きぼり)の像(ざう)を、夫(をつと)の手(て)で刻(きざ)んで償(つくな)ふ事(こと)で。其(そ)の他(ほか)に助(たす)かる術(すべ)はない……とあつた。
『都(みやこ)の人(ひと)、唯(たゞ)私(わし)が口(くち)から言(い)ふたでは、余(あまり)の事(こと)に真(まこと)とされまい。……あはれな犠牲(いけにえ)の婦人(をんな)も、唯(たゞ)恁(か)う申(まを)したばかりでは、夫(をつと)も心(こゝろ)に疑(うたが)ひませう……今(いま)其(そ)の印(しるし)を、と言(い)ふてな、色(いろ)は褪(あ)せたが、可愛(かあい)い唇(くちびる)を動(うご)かすと、白歯(しらは)に啣(くは)えたものがある。白魚(しらうを)の目(め)のやうな黒(くろ)い点々(ぽち/\)が一(ひと)つ見(み)えた……口(くち)からは不躾(ぶしつけ)ながら、見(み)らるゝ通(とほ)り縛(いまし)めの後手(うしろで)なれば、指(ゆび)さへ随意(まゝ)には動(うご)かされず……あゝ、苦(くる)しい。と総身(そうしん)を震(ふる)はして、小(ちひ)さな口(くち)を切(せつ)なさうに曲(ゆが)めて開(あ)けると、煽(あふ)つ水(みづ)に掻乱(かきみだ)されて影(かげ)が消(き)えた。戞然(かちり)と音(おと)して足代(あじろ)の上(うへ)へ、大空(おほぞら)からハタと落(お)ちて来(き)たものがある……手(て)に取(と)ると霰(あられ)のやうに冷(つめ)たかつたが、消(き)えも解(と)けもしないで、破(やぶ)れ法衣(ごろも)の袖(そで)に残(のこ)つた。
『印(しるし)はこれぢや。』
と私(わたし)の掌(てのひら)を開(あ)けさせて、ころりと振(ふ)つて乗(の)せたのは、忘(わす)れもしない、双六谷(すごろくだに)で、夫婦(ふうふ)が未来(みらい)の有無(ありなし)を賭(かけ)為(し)やうと思(おも)つて買(か)つた采(さい)だつたんです。
『都(みやこ)の人(ひと)、』
と坊主(ばうず)は又(また)更(あらた)めて、
『御身(おんみ)は木彫(きぼり)を行(や)るかな。』
『行(や)ります!』
と答(こた)へた時(とき)、私(わたし)は蘇生(よみがへ)つたやうに思(おも)つた。水(みづ)も白(しろ)く夜(よ)も明(あかる)く成(な)つた……お浦(うら)の行方(ゆくへ)も知(し)れ、其(そ)の在所(ありか)も分(わか)り、草鞋(わらぢ)や松明(たいまつ)で探(さぐ)つた処(ところ)で、所詮(しよせん)無駄(むだ)だと断念(あきらめ)も着(つ)く……其(それ)に、魔物(まもの)の手(て)から女房(にようばう)を取返(とりかへ)す手段(しゆだん)も出来(でき)た。我(わ)が手(て)に身代(みがはり)の像(ざう)を作(つく)れと云(い)ふ。敢(あへ)て黄金(こがね)を積(つ)め、山(やま)を崩(くづ)せ、と命(めい)ずるのでは無(な)いから、前途(ぜんと)に光明(くわうめい)が輝(かゞや)いて、心(こゝろ)は早(は)や明(あきら)かに渠(かれ)を救(すく)ふ途(みち)の第一歩(だいいつぽ)を辿(たど)り得(え)た。
 草(くさ)を開(ひら)いて、天守(てんしゆ)に昇(のぼ)る路(みち)も一筋(ひとすぢ)、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の水(みづ)を灌(そゝ)いで、野山(のやま)をかけて流(なが)すやうに足許(あしもと)から動(うご)いて見(み)える。
 我(わ)が妻(つま)、聞(き)くが如(ごと)くんば、御身(おんみ)は肉(にく)を裂(さ)かれ、我(われ)は腸(はらわた)を断(た)つ。相較(あひくら)べて劣(おと)りはせじ。堪(こら)へよ、暫時(しばし)、製作(せいさく)に骨(ほね)を削(けづ)り、血(ち)を灌(そゝ)いで、…其(そ)の苦痛(くつう)を償(つくな)はう、と城(じやう)ヶ沼(ぬま)に対(たい)して、瞑目(めいもく)し、振返(ふりかへ)つて、天守(てんしゆ)の空(そら)に高(たか)く両手(りやうて)を翳(かざ)して誓(ちか)つた。
 其(そ)の時(とき)、お浦(うら)が唇(くちびる)を開(ひら)いて、僧(そう)の手(て)に落(おと)したと云(い)ふ、猪(ゐのしゝ)の牙(きば)の采(さい)を自分(じぶん)の口(くち)に含(ふく)んで居(ゐ)た。が、同(おな)じ舌(した)の尖(さき)に触(ふ)れた、と思(おも)ふと血(ち)を絞(しぼ)つて湧(わ)き出(い)づる火(ひ)のやうな涙(なみだ)とゝもに、ほろり、と采(さい)が手(て)に落(お)ちた。其(そ)の掌(たなごゝろ)を忘(わす)るゝばかり心(こゝろ)を詰(つ)めて握占(にぎりし)めた時(とき)、花(はな)の輪(わ)が渦(うづま)くやうに製作(せいさく)の興(きよう)が湧(わ)いた。――閉(と)づる、又(また)開(ひら)く、扇(あふぎ)の要(かなめ)を思着(おもひつ)いた、骨(ほね)あれば筋(すぢ)あれば、手(て)も動(うご)かう、足(あし)も伸(の)びやう……風(かぜ)ある如(ごと)く言(ものい)はう…と早(は)や我(わ)が作(つく)る木彫(きぼり)の像(ざう)は、活(い)きて動(うご)いて、我(わ)が身(み)ながらも頼母(たのも)しい。さて其(そ)の要(かなめ)は、……手(て)に握(にぎ)つた采(さい)であつた。
 天(てん)が命(めい)じて、我(われ)をして為(な)さしむる、我(わ)が作(な)す美女(たをやめ)の立像(りつざう)は、其(そ)の掌(てのひら)に采(さい)を包(つゝ)んで、作(さく)の神秘(しんぴ)を胸(むね)に籠(こ)めやう。言(い)ふまでも無(な)く、其(そ)の面影(おもかげ)、其(そ)の姿(すがた)は、古城(こじやう)の天守(てんしゆ)の囚(とりこ)と成(な)つた、最惜(いとをし)い妻(つま)を其(そ)のまゝ、と豁然(くわつぜん)として悟(さと)ると同時(どうじ)に、腕(うで)には斧(をの)を取(と)る力(ちから)が籠(こも)つて、指(ゆび)と指(ゆび)とは鑿(のみ)を持(も)たうとして自然(ひとり)で動(うご)く――時(とき)なる哉(かな)、作(さく)の頭(こうべ)に飾(かざ)るが如(ごと)く、雲(くも)を破(やぶ)つて、晃々(きら/\)と星(ほし)が映(うつ)つた。
 星(ほし)の下(した)を飛(と)んで帰(かへ)つて、温泉(いでゆ)の宿(やど)で、早(は)や準備(じゆんび)を、と足(あし)が浮(う)く、と最(も)う遠(とほ)く離(はな)れた谿河(たにがは)の流(ながれ)が、砥石(といし)を洗(あら)ふ響(ひゞき)を伝(つた)へる。

         二十六

 然(さ)うすると、心(こゝろ)に刻(きざ)んで、想像(さうざう)に製(つく)り上(あ)げた……城(しろ)の俘虜(とりこ)を模型(もけい)と為(し)た彫像(てうざう)が、一団(いちだん)の雪(ゆき)の如(ごと)く、沼縁(ぬまべり)にすらりと立(た)つ。手(て)を伸(の)べよ、と思(おも)へば伸(の)べ、乳(ちゝ)を蔽(おほ)へと思(おも)へば蔽(おほ)ひ、髪(かみ)を乱(みだ)せと思(おも)へば乱(みだ)れ、結(むす)べよ、と思(おも)へば結(むす)ばる――さて、衣(きぬ)を着(き)せやうと思(おも)へば着(き)る。
 作(さく)の出来栄(できばえ)を予想(よさう)して、放(はな)つ薫(かほり)、閃(ひら)めく光(ひかり)の如(ごと)く眼前(がんぜん)に露(あら)はれた此(こ)の彫像(てうざう)の幻影(げんえい)は、悪魔(あくま)が手(て)に、帯(おび)を奪(うば)はうとして、成(な)らず、衣(きぬ)を解(と)かうとして、得(え)ず、縛(いまし)められても悩(なや)まず、鞭(むちう)つても痛(いた)まず、恐(おそ)らく火(ひ)にも焼(や)けず、水(みづ)にも溺(おぼ)れまい。
 見(み)よ/\、同(おな)じ幻(まぼろし)ながら、此(こ)の影(かげ)は出家(しゆつけ)の口(くち)より伝(つた)へられたやうな、倒(さかさま)に梁(うつばり)に釣(つる)される、繊弱(かよは)い可哀(あはれ)なものでは無(な)い。真直(まつすぐ)に、正(たゞ)しく、美(うるは)しく立(た)つ。あゝ、玉(たま)の如(ごと)き肩(かた)に、柳(やなぎ)の如(ごと)き黒髪(くろかみ)よ、白百合(しろゆり)の如(ごと)き胸(むね)よ、と恍惚(くわうこつ)と我(われ)を忘(わす)れて、偉大(ゐだい)なる力(ちから)は、我(わ)が手(て)に作(つく)らるべき此(こ)の佳作(かさく)を得(え)むが為(た)め、良匠(りようしやう)の精力(せいりよく)をして短(みじか)き時間(じかん)に尽(つく)さしむべく、然(しか)も其(そ)の労力(らうりよく)に仕払(しはら)ふべき、報酬(はうしう)の量(りやう)の莫大(ばくだい)なるに苦(くるし)んで、生命(いのち)にも代(か)へて最惜(いとをし)む恋人(こひびと)を仮(かり)に奪(うば)ふて、交換(かうくわん)すべき条件(でうけん)に充(あ)つる人質(ひとじち)と為(し)たに相違(さうゐ)ない。
 卑怯(ひけう)なる哉(かな)、土地祇(とちのかみ)、……実(まこと)に雪枝(ゆきえ)が製作(せいさく)の美人(びじん)を求(もと)めば、礼(れい)を厚(あつ)くして来(きた)り請(こ)はずや。もし其(そ)の代価(だいか)に苦(くるし)むとならば、玉(たま)を捧(さゝ)げよ、能(あた)はずんば鉱石(くわうせき)を捧(さゝ)げよ、能(あた)はずんば巌(いはほ)を欠(か)いて来(きた)り捧(さゝ)げよ。一枝(ひとえだ)の桂(かつら)を折(を)れ、一輪(いちりん)の花(はな)を摘(つ)め。奚(なん)ぞみだりに妻(つま)に仇(あだ)して、我(われ)をして避(さ)くるに処(ところ)なく、辞(じ)するに其(そ)の術(すべ)なからしむる。……汝等(なんじら)、此処(こゝ)に、立処(たちどころ)に作品(さくひん)の影(かげ)の顕(あら)はれたる此(こ)の幻(まぼろし)の姿(すがた)に対(たい)して、其(そ)の礼(れい)無(な)きを恥(は)ぢざるや……
 と背後(うしろ)から視(なが)めて意気(いき)昂(あが)つて、腕(うで)を拱(こまぬ)いて、虚空(こくう)を睨(にら)んだ。腰(こし)には、暗夜(あんや)を切(き)つて、直(たゞ)ちに木像(もくざう)の美女(たをやめ)とすべき、一口(ひとふり)の宝刀(ほうたう)を佩(お)びたる如(ごと)く、其(そ)の威力(ゐりよく)に脚(あし)を踏(ふ)んで、胸(むね)を反(そ)らした。
「本気(ほんき)の沙汰(さた)ではない、世(よ)にあるまじき呵責(かしやく)の苦痛(くつう)を受(う)けて居(ゐ)る、女房(にようばう)の音信(おとづれ)を聞(き)いて、赫(くわつ)と成(な)つて気(き)が違(ちが)つたんです。」
 我(われ)と我(わ)が想像(さうざう)に酔(よ)つて、見惚(みと)れた玉(たま)の膚(はだえ)の背(せなか)を透(とほ)して、坊主(ばうず)の黒(くろ)い法衣(ころも)が映(うつ)る、と水(みづ)の中(なか)に天守(てんしゆ)の梁(うつばり)に釣下(つりさ)げられた、其(そ)の姿(すがた)を獣(けもの)の襲(おそ)ふ、其(そ)の俤(おもかげ)を歴然(あり/\)と見(み)た。無惨(むざん)の状(さま)に、ふつと掻消(かきけ)した如(ごと)く美(うるは)しいものは消(き)えた。
『呼(よ)ぶわ、呼(よ)ぶわ。』
と云(い)つた坊主(ばうず)の声(こゑ)。
『おゝい/\、』
『お客様(きやくさま)、お客様(きやくさま)。』
と叫(さけ)ぶのが、遥(はるか)に、弱(よわ)い稲妻(いなづま)のやうに夜中(よなか)を走(はし)つて、提灯(ちやうちん)の灯(ひ)が点々(ぽつ/\)畷(なはて)に※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)(さまよ)ふ。
『お客様(きやくさま)。』
『旦那(だんな)、』
『奥方様(おくがたさま)。』
 あゝ、又(また)奥方様(おくがたさま)をくはせる……剰(あまつさ)へ、今(いま)心着(こゝろづ)いて、耳(みゝ)を澄(す)ませて聞(き)けば、我(われ)自(みづ)からも、此(こ)の頃(ごろ)では鉦太鼓(かねたいこ)こそ鳴(な)らさぬけれども、土俗(どぞく)に今(いま)も遣(や)る……天狗(てんぐ)に攫(さら)はれたものを探(さが)す方法(しかた)で、あの通(とほ)り呼立(よびた)て居(を)る――成程(なるほど)然(さ)う思(おも)へば、何時(いつ)温泉(をんせん)の宿(やど)を出(で)て、何処(どこ)を通(とほ)つて、城(じやう)ヶ沼(ぬま)に来(き)たか覚(おぼ)えて居(を)らぬ。
『御身(おみ)を呼(よ)ぶぢやろ、去(い)なつしやい。』と坊主(ばうず)が、はつと又(また)其(そ)の掌(てのひら)を拡(ひろ)げた。此(こ)の煽動(あふり)に横顔(よこがほ)を払(はら)はれたやうに思(おも)つて、蹌踉(よろ/\)としたが、惟(おも)ふに幻覚(げんかく)から覚(さ)めた疲労(ひろう)であらう、坊主(ばうず)が故意(こい)に然(さ)うしたものでは無(な)いらしい。
『御身(おみ)が内儀(ないぎ)の言(こと)づけを忘(わす)れまいな。』
『忘(わす)れない。』
と奮然(ふんぜん)として答(こた)へた。既(すで)に鬼神(きじん)に感応(かんおう)ある、芸術家(げいじゆつか)に対(たい)して、坊主(ばうず)の言語(げんご)と挙動(きよどう)は、何(なん)となく嘗(な)め過(す)ぎたやうに思(おも)はれたから……其(そ)のまゝ肩(かた)を聳(そび)やかして、三(み)つ四(よ)つ輝(かゞや)く星(ほし)を取(と)つて、直(たゞ)ちに額(ひたひ)を飾(かざ)る意気組(いきぐみ)。背(せ)を高(たか)く、足(あし)を踏(ふ)んで、沼(ぬま)の岸(きし)を離(はな)れると、足代(あじろ)に突立(つゝた)つて見送(みおく)つた坊主(ばうず)の影(かげ)は、背後(うしろ)から蔽覆(おつかぶ)さる如(ごと)く、大(おほひ)なる形(かたち)に成(な)つて見(み)えた。

         二十七

 温泉(いでゆ)の宿(やど)を差(さ)して、城(じやう)ヶ沼(ぬま)から引返(ひきかへ)す途中(とちゆう)は、気(き)も漫(そゞろ)に、直(す)ぐにも初(はじ)むべき――否(いな)、手(て)は既(すで)に何等(なにら)か其(それ)に向(むか)つて働(はたら)く……新(あらた)な事業(じげふ)に対(たい)する感興(かんきよう)の雲(くも)に乗(の)るやう、腕(かひな)が翼(はね)に成(な)つて、星(ほし)の下(した)を飛(と)ぶが如(ごと)き心地(こゝち)した。
 恁(か)うまで情(じやう)の昂(たか)ぶつた処(ところ)へ、はたと宿(やど)から捜(さが)しに出(で)た一行(いつかう)七八人(しちはちにん)の同勢(どうぜい)に出逢(であ)つたのである……定紋(じやうもん)の着(つ)いた提灯(ちやうちん)が一群(いちぐん)の中(なか)に三(み)ツばかり、念仏講(ねんぶつかう)の崩(くづ)れとも見(み)えれば、尋常(じんじやう)遠出(とほで)の宿引(やどひき)とも見(み)えるが、旅籠屋(はたごや)に取(と)つては実際(じつさい)容易(ようい)な事(こと)では無(な)からう、――仮初(かりそめ)に宿(やど)つた夫婦(ふうふ)が、婦(をんな)は生死(しやうし)も行衛(ゆくゑ)も知(し)れず、男(をとこ)は其(それ)が為(ため)に、殆(ほと)んど狂乱(きやうらん)の形(かたち)で、夜昼(ひるよる)とも無(な)しに迷(まよ)ひ歩行(ある)く……
 不面目(ふめんもく)ゆゑ、国許(くにもと)へ通知(つうち)は無用(むよう)、と当人(たうにん)は堅(かた)く留(と)めたものゝ、唯(はい)、然(さ)やうで、とばかりで旅籠屋(はたごや)では済(す)まして居(ゐ)られぬ。
 で、宿(やど)の了見(れうけん)ばかりで電報(でんぱう)を打(う)つた、と見(み)えて其処(そこ)で出逢(であ)つた一群(いちぐん)の内(うち)には、お浦(うら)の親類(しんるゐ)が二人(ふたり)も交(まざ)つた、……此(こ)の中(なか)に居(ゐ)ない巡査(じゆんさ)などは、同(おな)じ目的(もくてき)で、別(べつ)の方面(はうめん)に向(むか)つて居(ゐ)るらしい。
 畝路(あぜみち)で出合(であひ)がしらに、一同(いちどう)は騒(さわ)ぎ立(た)てた。就中(なかんづく)、わざ/\東京(とうきやう)から出張(でば)つて来(き)た親類(しんるゐ)のものは、或(あるひ)は慰(なぐさ)め、或(あるひ)は励(はげ)まし、又(また)戒(いまし)めなどする種々(いろ/\)の言葉(ことば)を、立続(たてつゞ)けに※舌(しやべ)[#「口+堯」、135-15]つたが、頭(あたま)から耳(みゝ)にも入(い)れず……暗闇(くらやみ)の路次(ろじ)へ入(はい)つて、ハタと板塀(いたべい)に突当(つきあた)つたやうに、棒立(ぼうだ)ちに成(な)つて居(ゐ)たが、唐突(だしぬけ)に、片手(かたて)の掌(てのひら)を開(あ)けて、ぬい、と渠等(かれら)の前(まへ)へ突出(つきだ)した。坊主(ばうず)が自分(じぶん)に向(むか)つて同(おな)じ事(こと)を為(し)たのを、フト思出(おもひだ)したのが、殆(ほと)んど無意識(むいしき)に挙動(ふるまひ)に出(で)た。ト尠(すくな)からず一同(いちどう)を驚(おどろ)かして、皆(みな)だぢ/\と成(な)つて退(すさ)る。
 ト此(こ)の鑿(のみ)を持(も)ち、鏨(たがね)を持(も)つべき腕(かひな)は、一度(ひとたび)掌(てのひら)を返(かへ)して、多勢(たせい)を圧(あつ)して将棊倒(しやうぎだふ)しにもする、大(おほい)なる権威(けんゐ)の備(そな)はるが如(ごと)くに思(おも)つて、会心(くわいしん)自得(じとく)の意(こゝろ)を、高声(たかごゑ)に漏(も)らして、呵々(から/\)と笑(わら)つた。
『御苦労(ごくらう)御苦労(ごくらう)、真(まこと)に御骨折(ごほねをり)を懸(か)けて誰方(どなた)にも相済(あひす)まん。が、最(も)う御心配(ごしんぱい)には及(およ)ばんのだ。――お聞(き)きなさい、行衛(ゆくゑ)の知(し)れなかつた家内(かない)は、唯今(たゞいま)其(そ)の所在(ありか)が分(わか)つた。……ナニ、無事(ぶじ)か? 無事(ぶじ)かではない。考(かんが)えて見(み)たつて知(し)れます。繊弱(かよわ)い婦(をんな)だ、然(しか)も蒲柳(ほりう)の質(しつ)です。一寸(ちよいと)躓(つまづ)いても怪我(けが)をするのに、方角(はうがく)の知(し)れない山(やま)の中(なか)で、掻消(かきけ)すやうに隠(かく)れたものが無事(ぶじ)で居(ゐ)やう筈(はづ)はないではないか。
 決(けつ)して安泰(あんたい)ではない。正(まさ)に其(そ)の爪(つめ)を剥(は)ぎ、血(ち)を絞(しぼ)り、肉(にく)を※(「てへん+毟」、第3水準2-78-12)(むし)り骨(ほね)を削(けづ)るやうな大苦艱(だいくかん)を受(う)けて居(ゐ)る、倒(さかさま)に釣(つ)られて居(ゐ)る。…………………』
と戦(おのゝ)いたが、すぐ肩(かた)を聳(そびや)かした。
『何処(どこ)に居(ゐ)る? 何(なに)、お浦(うら)の所在(ありか)は何処(どこ)だ、と言(い)ふのか。いや、君方(きみがた)に、其(それ)は話(はな)しても分(わか)るまい。水(みづ)の底(そこ)のやうな、樹(き)の梢(こずゑ)のやうな、雲(くも)の中(なか)のやうな、……それぢや分(わか)らん、分(わか)らない、と言(い)ふのかね、勿論(もちろん)分(わか)りませんとも!
 吾輩(わがはい)には丁(ちやん)と分(わか)つて居(ゐ)る。位置(ゐち)も方角(はうがく)も残(のこ)らず知(し)つてる、――指(ゆびさ)して言(い)へば、土地(とち)のものは残(のこ)らず知(し)つてる。けれども其(それ)を話(はな)すとなると、それ行(ゆ)け、救(すく)へで、松明(たいまつ)を振(ふ)り、鯨波(とき)の声(こゑ)を揚(あ)げて騒(さわ)ぐ、騒(さわ)いだ処(ところ)で所詮(しよせん)駄目(だめ)です。
 誰(たれ)が行(い)つても何者(なにもの)が騒(さわ)いでも、迚(とて)も彼(かれ)は救(すく)ひ出(だ)せない。
 おゝ! 君達(きみたち)にも粗(ほゞ)想像(さうざう)出来(でき)るか、お浦(うら)は魔(ま)に攫(さら)はれた、天狗(てんぐ)が掴(つか)んだ、……恐(おそ)らく然(さ)うだらう。……が、私(わたし)は此(これ)を地祇神(とちのかみ)の所業(しよげふ)と惟(おも)ふ。たゞし、鬼(おに)にしろ、神(かみ)にしろ、天狗(てんぐ)にしろ、何(なに)のためにお浦(うら)を攫(さら)つたか、其(そ)の意味(いみ)が分(わか)るまい、諸君(しよくん)には知(し)れなからう。
 独(ひと)りこれを知(し)るものは吾輩(わがはい)だよ。而(そ)して此(これ)を救(すく)ふものも又(また)吾輩(わがはい)でなければ不可(いけな)い。然(しか)も彼(かれ)を連(つ)れ返(かへ)る道(みち)は、丁(ちやん)と最(も)う着(つ)いて居(ゐ)るんだ。唯(たゞ)少時(しばらく)の辛抱(しんばう)です。いや/\、決(けつ)して貴下方(あなたがた)が御辛抱(ごしんばう)なさるには及(およ)ばん。辛抱(しんばう)をするのはお浦(うら)だ、可哀想(かあいさう)な婦(をんな)だ。我慢(がまん)をしてくれ、お浦(うら)、腕(うで)は確(たしか)だ。』
と、掌(てのひら)を開(ひら)いて、ぱつ、と出(だ)す。と一同(いちどう)はどさ/\と又(また)退(すさ)つた。吃驚(びつくり)して泥田(どろた)へ片脚(かたあし)落(おと)したのもある、……ばちやりと音(おと)して。……
『気(き)が違(ちが)つた。』
『変(へん)だ。』
『真物(ほんもの)だ。』……と囁(さゝや)き合(あ)ふ。


       祠(ほこら)


         二十八

 狂気(きやうき)した、変(へん)だ、と云(い)ふのは言葉(ことば)の切目毎(きれめごと)に耳(みゝ)に入(はい)つた。が、これほど確(たしか)な事(こと)を、渠等(かれら)は雲(くも)を掴(つか)むやうに聞(き)くのであらう。我(われ)は手(て)に握(にぎ)つて、双(さう)の眼(まなこ)で明(あきら)かに見(み)る采(さい)の目(め)を、多勢(たぜい)が暗中(あんちゆう)に摸索(もさく)して、丁(ちやう)か、半(はん)か、生(せい)か、死(し)か、と喧々(がや/\)騒(さわ)ぎ立(た)てるほど可笑(をかし)な事(こと)は無(な)い。
『はゝゝ、大丈夫(だいじやうぶ)、心配(しんぱい)は無(な)いと云(い)ふに、――お浦(うら)の所在(ありか)も、救(すく)ふ路(みち)も、すべて掌(たなごゝろ)の中(うち)に在(あ)る。吾輩(わがはい)が掴(つか)んで居(ゐ)る。要(えう)は唯(たゞ)掴(つか)んだ此(こ)の手(て)を開(ひら)く時間(じかん)を待(ま)つ事(こと)だ。――今(いま)開(ひら)け、と云(い)つても然(さ)うは不可(いか)ん。唯(たゞ)、開(ひら)くのではない、開(ひら)いてお浦(うら)の掌(てのひら)へ返(かへ)すんだ、いや/\彫像(てうざう)の拳(こぶし)に納(おさ)めるんだ。』
と、益々(ます/\)こんがらかつて、自分(じぶん)にも分(わか)らなく成(な)る。先方(さき)のきよとつくだけ此方(こつち)は苛立(いらだ)つ。言(い)へば言(い)ふほど枝葉(えだは)が茂(しげ)つて、路(みち)が岐(わか)れて谷(たに)が深(ふか)く、野(の)が広(ひろ)く、山(やま)が高(たか)く成(な)つて、雲(くも)が湧(わ)き出(だ)す、霞(かすみ)がかゝる、果(はて)は焦込(じれこ)んで、空(くう)を打(う)つて、
『皆(みんな)、これだ。』
と高(たか)い処(ところ)から揮下(ふりお)ろした拳(こぶし)の中(なか)に、……采(さい)を掴(つか)んで居(ゐ)た事(こと)は云(い)ふまでも無(な)い。
『……狂人(きちがひ)でも何(なん)でも構(かま)はん。自分(じぶん)が生命(いのち)がけの女房(にようばう)を自分(じぶん)が救(すく)ふに間違(まちがひ)は有(あ)るまい。凡(すべ)て任(まか)して貰(もら)はう。何(なん)でも私(わたし)のするまゝに為(さ)して下(くだ)さい。……
 処(ところ)で、私(わたし)が、お浦(うら)を救(すく)ふ道(みち)として、進(すゝ)むべき第一歩(だいいつぽ)は、何処(どこ)でも可(い)い、小家(こいへ)を一軒(いつけん)探(さが)す事(こと)だ。小家(こや)でも可(いゝ)、辻堂(つじだう)、祠(ほこら)でも構(かま)はん、何(なん)でも人(ひと)の居(ゐ)ない空屋(あきや)が望(のぞ)みだ。
 何(なに)、そんな処(ところ)にお浦(うら)が居(ゐ)るか、と……詰(つま)らん事(こと)を――お浦(うら)の居処(ゐどころ)は居処(ゐどころ)で話(はなし)が違(ちが)う。空家(あきや)を探(さが)すのは私(わたし)が探(さが)して私(わたし)が其処(そこ)へ入(はい)るんだ。――所帯(しよたい)を持(も)つのぢやない。……えゝ、落着(おちつ)いて、聞(き)かなければ不可(いか)ん。
 宜(よろし)いかね、此(これ)を要(えう)するに、少(すくな)くとも空屋(あきや)に限(かぎ)る……有(あ)りますか、人(ひと)の居(ゐ)ない小家(こや)はあるか。有(あ)れば、其処(そこ)へ行(ゆ)く。これから此(こ)の足(あし)で直(す)ぐに行(ゆ)きます。――宿(やど)へ帰(かへ)つて一先(ひとま)づ落着(おちつ)け? ……呑気(のんき)な事(こと)を。落着(おちつ)いて相談(さうだん)と? ……此(こ)の上(うへ)何(なん)の相談(さうだん)を為(す)るんです。お浦(うら)を救(すく)ふのには一刻(いつこく)を争(あらそ)ふ、寸秒(すんべう)を惜(をし)む。早速(さつそく)さあ、人(ひと)の居(ゐ)ない小家(こや)、辻堂(つじだう)、祠(ほこら)、何(なん)でも構(かま)はん、其処(そこ)へ行(ゆ)かう。行(い)つて直(す)ぐに仕事(しごと)にかゝる。が、誰(たれ)も来(き)ては不可(いけな)い、屹(きつ)と来(き)ては不可(いけな)い、いづれ、やがて其(そ)の仕事(しごと)が出来(でき)ると、お浦(うら)と一所(いつしよ)に、諸共(もろとも)にお目(め)に懸(かゝ)つて更(あらた)めて御挨拶(ごあいさつ)をする。
 しかし、恁(か)う言(い)ふのを信(しん)じないで、私(わたし)に任(ま)かせることを不安心(ふあんしん)と思(おも)ふなら、提灯(ちやうちん)の上(うへ)に松明(たいまつ)の数(かず)を殖(ふや)して、鉄砲(てつぱう)持参(じさん)で、隊(たい)を造(つく)つて、喇叭(らつぱ)を吹(ふ)いてお捜(さが)しなさい、其(それ)は御勝手(ごかつて)です。』
と嘲(あざ)けるやうに又(また)アハアハ笑(わら)ふ。いや、気味(きみ)の悪(わる)い……
『あれ、天狗様(てんぐさま)が憑移(のりうつ)らしやつた。』
『魔道(まだう)に墜(お)ちさしたものだんべい。』
と密(ひそめ)いて言(い)ふのが聞(きこ)えた。
 が、最(も)う、そんな事(こと)に頓着(とんぢやく)しない。人間(にんげん)などには目(め)も懸(か)けないで、暗(くら)い中(なか)を矢鱈(やたら)に、其処等(そこいら)の樹(き)を眺(なが)めた。刻(きざ)むに佳(い)い枝(えだ)や、幹(みき)や、と目(め)を光(ひか)らす……これも眼前(がんぜん)、魔(ま)に心(こゝろ)を通(かよ)はす挙動(きよどう)の如(ごと)くに見(み)えたであらう。
 けれども言出(いひだ)した事(こと)は、其(そ)の勢(いきほひ)だけに誰一人(たれいちにん)深切(しんせつ)づくにも敢(あへ)て留(と)めやうとするものは無(な)く、……其(そ)の同勢(どうぜい)で、ぞろ/\と温泉宿(をんせんやど)へ帰(かへ)る途中(とちゆう)、畷(なはて)を片傍(かたわき)に引込(ひつこ)んだ、森(もり)の中(なか)の、とある祠(ほこら)へ、送込(おくりこ)んだ……と言(い)ふよりは、づか/\踏込(ふみこ)んだ。後(あと)に踵(つ)いて来(き)て、渠等(かれら)は狐格子(きつねがうし)の外(そと)で留(と)まつたのである。
 提灯(ちやうちん)を一個(ひとつ)引奪(ふんだく)つて、三段(さんだん)ばかりある階(きざはし)の正面(しやうめん)へ突立(つゝた)つて、一揆(いつき)を制(せい)するが如(ごと)く、大手(おほて)を拡(ひろ)げて、
『さあ、皆(みんな)帰(かへ)れ。而(そ)して誰(たれ)か宿屋(やどや)へ行(い)つて、私(わたし)の大鞄(おほかばん)を脊負(しよ)つて来(き)て貰(もら)はう。――中(なか)にすべて仕事(しごと)に必要(ひつえう)な道具(だうぐ)がある。……私(わたし)は最(も)う、あの座敷(ざしき)へ入(はい)つて、脱(ぬ)いである衣服(きもの)、解(と)いてある紅(あか)い扱帯(しごき)を見(み)るに忍(しの)びん。……彼(かれ)が魔物(まもの)の手(て)に懸(かゝ)つて、身悶(みもだ)へしながら、帯(おび)からはじめて解(と)き去(さ)らるゝのを目(め)の前(まへ)に見(み)るやうだから。』
 親類(しんるゐ)の一人(いちにん)、インバネスを着(き)た男(をとこ)が真前(まつさき)に立(た)つて、皆(みな)ぞろ/\と帰(かへ)つた。……其(そ)の影(かげ)が潜(くゞ)つて出(で)る、祠(ほこら)の前(まへ)の、倒(たふ)れかゝつた木(き)の鳥居(とりゐ)に張(は)つた、何時(いつ)の時(とき)のか、注連縄(しめなは)の残(のこ)つたのが、二(ふた)ツ三(み)ツのたくつて、づらりと懸(かゝ)つた蛇(へび)に見(み)えた……

         二十九

 はて、面白(おもしろ)い。あれが天井(てんじやう)を伝(つた)ふ朽縄(くちなは)なら、其(そ)の下(した)に、しよんぼりと立(た)つた柱(はしら)は、直(す)ぐにお浦(うら)の姿(すがた)に成(な)る……取(と)つて像(ざう)を刻(きざ)む材料(ざいりやう)に遣(つか)うと為(し)やう。鋸(のこぎり)で挽(ひ)いて、女(をんな)の立像(りつざう)だけ抜(ぬ)いて取(と)る、と鳥居(とりゐ)は、片仮名(かたかな)のヰの字(じ)に成(な)つて、祠(ほこら)の前(まへ)に、森(もり)の出口(でぐち)から、田甫(たんぼ)、畷(なはて)、山(やま)を覗(のぞ)いて立(た)つであらう。
 と凝(じつ)と視(なが)める、と最(も)う其(そ)の鳥居(とりゐ)の柱(はしら)の中(なか)へ、婦(をんな)の姿(すがた)が透(す)いて映(うつ)る……木目(もくめ)が水(みづ)のやうに膚(はだ)に絡(まと)ふて。
『旦那様(だんなさま)、お荷物(にもつ)な持(も)つて参(めえ)りやした、まあ、暗(くれ)え処(とこ)に何(なに)を為(し)てござらつしやる。』
 成程(なるほど)、狐格子(きつねがうし)に釣(つ)つて置(お)いた提灯(ちやうちん)は何時(いつ)までも蝋燭(らふさく)が消(た)たずには居(を)らぬ。……気(き)が着(つ)くと板椽(いたえん)に腰(こし)を落(おと)し、段(だん)に脚(あし)を投(な)げてぐつたりして居(ゐ)た。
 鞄(かばん)を脊負(しよ)つて来(き)たのは木樵(きこり)の権七(ごんしち)で、此(こ)の男(をとこ)は、お浦(うら)を見失(みうしな)つた当時(たうじ)、うか/\城趾(しろあと)へ※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)(さまよ)つたのを宿(やど)へ連(つれ)られてから、一寸々々(ちよい/\)出(で)て来(き)ては記憶(きおく)の裡(うち)へ影(かげ)を露(あら)はす。此(これ)と、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の黒坊主(くろばうず)の蒼(あを)ざめた面影(おもかげ)を除(のぞ)いては、誰(たれ)の顔(かほ)も判然(はつきり)覚(おぼ)えて居(ゐ)なかつた。
『燈明(とうみやう)を点(つ)けさつしやりませ。洋燈(らんぷ)では旦那様(だんなさま)の身躰(からだ)危(あぶな)いと言(い)ふで、種油(たねあぶら)提(さ)げて、燈心(とうしん)土器(かはらけ)を用意(ようい)して参(めえ)りやしたよ。追附(おつつ)け、寝道具(ねだうぐ)も運(はこ)ぶでがすで。気(き)を静(しづ)めて休(やす)まつしやりませ。……私等(わしら)も又(また)、油断(ゆだん)なく奥様(おくさま)の行衛(ゆくゑ)な捜(さが)しますだで、えら、心(こゝろ)を狂(くる)はさつしやりますな。』
と言(い)ふ/\燈心(とうしん)を点(とも)して、板敷(いたじき)の上(うへ)へ薄縁(うすべり)を伸(の)べたり、毛布(けつと)を敷(し)く……
『私(わし)が頼(たの)まれましたけに、ちよく/\見廻(みまは)りに参(めえ)りますだ。用(よう)があるなら、言着(いひつ)けてくらつせえましよ。』
と背後(うしろ)むきに踵(かゝと)で探(さぐ)つて、草履(ざうり)を穿(は)いて、壇(だん)を下(お)りて、てく/\出(で)て行(ゆ)く。
『待(ま)て、待(ま)て。』と追(お)つて出(で)て、鳥居(とりゐ)をする/\と撫(な)でゝ見(み)せた。
『村一同(むらいちどう)へ言(こと)づけを頼(たの)まう。此(こ)の柱(はしら)を一本(いつぽん)頂(いたゞ)く……此(こ)の鳥居(とりゐ)のな。……後(あと)で幾(いく)らでも建立(こんりふ)するから、と然(さ)う言(い)つてな。』
『はい、……えゝ、東京(とうきやう)からござつた旦那方(だんながた)も其(そ)のつもりで相談(さうだん)打(ぶ)たしつた。奥様(おくさま)の居(ゐ)さつしやる処(ところ)の知(し)れるまでは、何(なん)でもお前様(めえさま)する事(こと)に逆(さか)らはねえやうにと言(い)ふだで、随分(ずゐぶん)好(す)き次第(しだい)にさつしやるが可(よ)うがんす。だが、もの、鳥居(とりゐ)の木柱(きばしら)な何(ど)うするだね。』
『此(これ)を刻(きざ)んで像(ざう)を造(つく)る、婦(をんな)のな、それは美(うつく)しい、先(ま)づ弁天様(べんてんさま)と言(い)つたもんだ、お前(まへ)にも見(み)せて遣(や)らう、吃驚(びつくり)するなよ。』
と其(そ)の呆(あき)れ顔(がほ)を掌(てのひら)でべたりと撫(な)でる。と此処(こゝ)へ一人(ひとり)で遣(や)つて来(く)るほど性根(しやうね)の据(すは)つた奴(やつ)、突然(いきなり)早腰(はやごし)も抜(ぬ)かさなんだが、目(め)を蔽(おほ)ふて、面(おもて)を背(そむ)けて、
『いとしぼげな、御道理(ごもつとも)でござります。』
とのそ/\帰(かへ)る……矢張(やつぱ)りお浦(うら)を攫(さら)はれた為(ため)に、気(き)が違(ちが)つたと思(おも)ふらしい。いや、是(これ)だから人間(にんげん)の来(く)るのは煩(うるさ)い!
「……しかし、其(そ)の後(のち)とも三度(さんど)の食事(しよくじ)、火(ひ)なり、水(みづ)なり、祠(ほこら)へ来(き)て用(よう)を達(た)してくれたのは其(そ)の男(をとこ)で。時(とき)とすると、二時三時(ふたときみとき)も傍(そば)に居(ゐ)て熟(じつ)と私(わたし)の仕事(しごと)を見(み)て居(ゐ)る。口(くち)も出(だ)さず邪魔(じやま)には成(な)らん。
 で、下仕事(したしごと)の手伝(てつだひ)ぐらゐは間(ま)に合(あ)つたんです。」
と雪枝(ゆきえ)は更(あらた)めて言(い)つた。
「処(ところ)で、一刻(いつこく)も疾(はや)く仕上(しあ)げにしやうと思(おも)ふから、飯(めし)も手掴(てづか)みで、水(みづ)で嚥下(のみおろ)す勢(いきほひ)、目(め)を据(す)えて働(はたら)くので、日(ひ)も時間(じかん)も、殆(ほと)んど昼夜(ちうや)の見境(みさかひ)はない。……女(をんな)の像(ざう)の第一作(だいいつさく)が、まだ手足(てあし)までは出来(でき)なかつたが、略(ほゞ)顔(かほ)の容(かたち)が備(そな)はつて、胸(むね)から鳩尾(みづおち)へかけて膨(ふつく)りと成(な)つた、木材(もくざい)に乳(ちゝ)が双(なら)んで、目鼻口元(めはなくちもと)の刻(きざ)まれた、フトした時(とき)……
『どうだ、大分(だいぶ)ものに成(な)つたらう、』と聊(いさゝ)か得意(とくい)で。丁(ちやう)ど居合(ゐあ)はせた権七(ごんしち)の顔(かほ)を目(め)を挙(あ)げて恁(か)う見(み)ると……日(ひ)に焼(や)けた色(いろ)の黒(くろ)いのが又(また)恐(おそ)ろしく真黒(まつくろ)で、額(ひたひ)が出(で)て、唇(くちびる)が長(なが)く反(そ)つて、目(め)ががつくりと窪(くぼ)んだ、其(そ)の目(め)がピカ/\と光(ひか)つて、ふツふツ、はツはツ、と喘(あへ)ぐやうな息(いき)をする。……


       供揃(ともぞろ)へ


         三十

 いや、其(そ)の息(いき)の臭(くさ)い事(こと)……剰(あまつさ)へ、立(た)つでもなく坐(すは)るでもなく、中腰(ちゆうごし)に蹲(しやが)んだ山男(やまをとこ)の膝(ひざ)が折(を)れかゝつた朽木(くちぎ)同然(どうぜん)、節(ふし)くれ立(だ)つてギクリと曲(まが)り、腕組(うでぐみ)をした肱(ひぢ)ばかりが胸(むね)に附着(くつつ)き、布子(ぬのこ)の袖(そで)の元(もと)へ窄(せばま)つて両方(りやうはう)へ刎(は)ねた処(ところ)が、宛然(さながら)の翼(つばさ)。
『権七(ごんしち)ぢやない! 小天狗(こてんぐ)が、天守(てんしゆ)から見張(みは)りに来(き)たな。』
 思(おも)はず突立(つゝた)つと、出来(でき)かゝつた像(ざう)を覗(のぞ)いて、角(つの)を扁平(ひらた)くしたやうな小鼻(こばな)を、ひいくひいく、……ふツふツはツはツと息(いき)を吹(ふ)いて居(ゐ)たのが、尖(とが)つた口(くち)を仰様(のけざま)に一(ひと)つぶるツと振(ふる)ふと、面(めん)を倒(さかさま)にしたと思(おも)へ。
 彫像(てうざう)の眼球(がんきう)をグサリと刺(さ)した。
 はつと思(おも)へば、烏(からす)ほどの真黒(まつくろ)な鳥(とり)が一羽(いちは)虫蝕(むしくひ)だらけの格天井(がうでんじやう)を颯(さつ)と掠(かす)めて狐格子(きつねがうし)をばさりと飛出(とびだ)す……
 目(め)一(ひと)つ抉(えぐ)られては半身(はんしん)をけづり去(さ)られたも同(おな)じ事(こと)、是(これ)がために、第一(だいいち)の作(さく)は不用(ふよう)に帰(き)した。
 ……余(あま)りの仕儀(しぎ)に唯(たゞ)茫然(ばうぜん)として、果(はて)は涙(なみだ)を流(なが)したが、いや/\、爰(こゝ)に形(かたち)づくられた未製品(みせいひん)は、其(そ)の容(かたち)半(なか)ばにして、早(はや)くも何処(どこ)にか破綻(はたん)を生(しやう)じて、我(わ)が作(さく)を欲(ほつ)するものゝ、不満足(ふまんぞく)を来(き)たしたのであらう――いかさまにも一(ひと)つ残(のこ)つた瞳(ひとみ)を見(み)れば、お浦(うら)の其(それ)より情(なさけ)を宿(やど)さぬ、露(つゆ)も帯(お)びぬ、……手足(てあし)既(すで)に完(まつた)うして斧(をの)を以(もつ)て砕(くだ)かれても、対手(あひて)が鬼神(きじん)では文句(もんく)はない筈(はづ)。力(ちから)を傾(かたむ)け尽(つく)さぬうち、予(あらかじ)め其(そ)の欠点(けつてん)を指示(さししめ)して一思(ひとおも)ひに未練(みれん)を棄(す)てさせたは、寧(むし)ろ尠(すくな)からぬ慈悲(じひ)である……
 で、直(たゞ)ちに木材(もくざい)を伐更(きりあらた)めて、第二(だいに)の像(ざう)を刻(きざ)みはじめた。が、又(また)此(こ)の作(さく)に対(たい)する迫害(はくがい)は一通(ひととほ)りではないのであつた。猫(ねこ)が来(き)て踏(ふ)んで行抜(ゆきぬ)ける、鼠(ねずみ)が噛(かじ)る。とろ/\と睡(ねむ)つて覚(さ)めれば、犬(いぬ)が来(き)てぺろ/\と嘗(な)めて居(ゐ)る……胴中(どうなか)を蛇(へび)が巻(ま)く、今(いま)穴(あな)を出(で)たらしい家守(やもり)が来(き)て鼻(はな)の上(うへ)を縦(たて)にのたくる……やがては作者(さくしや)の身躰(からだ)を襲(おそ)ふて、手(て)をゆすぶる、襟頸(ゑりくび)を取(と)つて引倒(ひきたふ)す、何者(なにもの)か知(し)れずキチ/\と啼(な)いて脇(わき)の下(した)をこそぐり掛(か)ける。
 無残(むざん)や、其(そ)の中(なか)にも命(いのち)を懸(か)けて、漸(やつ)と五躰(ごたい)を調(とゝの)へたのが、指(ゆび)が折(を)れる、乳首(ちくび)が欠(か)ける、耳(みゝ)が※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(も)げる、――これは我(わ)が手(て)に打砕(うちくだ)いた、其(そ)の斧(をの)を揮(ふる)つた時(とき)、さく/\さゝらに成(な)り行(ゆ)く像(ざう)は、骨(ほね)を裂(さ)く音(おと)がして、物凄(ものすご)く飛騨山(ひだやま)の谺(こだま)に響(ひゞ)いた。
 其(そ)の夜更(よふ)けから、しばらく正躰(しやうたい)を失(うしな)つたが、時(とき)も知(し)らず我(われ)に返(かへ)ると、忽(たちま)ち第三番目(だいさんばんめ)を作(つく)りはじめた、……時(とき)に祠(ほこら)の前(まへ)の鳥居(とりゐ)は倒(たふ)れて、朽(く)ちたる縄(なは)は、ほろ/\と断(き)れて跡(あと)もなく成(な)る。……
 と今度(こんど)のは完成(くわんせい)した。而(そ)して本堂(ほんだう)の正面(しやうめん)に、支(さゝえ)も置(お)かず、内端(うちは)に組(く)んだ、肉(にく)づきのしまつた、膝(ひざ)脛(はぎ)の釣合(つりあひ)よく、すつくりと立(た)つた時(とき)、木(き)の膚(はだえ)は小刀(こがたな)の冴(さえ)に、恰(あたか)も霜(しも)の如(ごと)く白(しろ)く見(み)えた。……が扉(とびら)を開(ひら)いて、伝説(でんせつ)なき縁起(えんぎ)なき由緒(ゆいしよ)なき、一躰(いつたい)風流(ふうりう)なる女神(によしん)のまざ/\として露(あら)はれたか、と疑(うたが)はれて、傍(かたはら)の棚(たな)に残(のこ)つた古幣(ふるぬさ)の斜(なゝ)めに立(た)つたのに対(たい)して、敢(あへ)て憚(はゞか)るべき色(いろ)は無(な)かつた。
 折(をり)から来合(きあ)はせた権七(ごんしち)に見(み)せると、色(いろ)を変(か)へ、口(くち)を尖(とが)らせ、目(め)を光(ひか)らせて視(なが)めたが、其(そ)の面(つら)は烏(からす)にも成(な)らず、……脚(あし)は朽木(くちき)にも成(な)らず、袖(そで)は羽(はね)にも成(な)らぬ。
 其処(そこ)で、自分(じぶん)で引背負(ひつしよ)ふなり、抱(だ)くなりして、其(そ)の彫像(てうざう)を城趾(しろあと)の天守(てんしゆ)に運(はこ)ぶ。……途中(とちゆう)の塵(ちり)を避(さ)けるため蔽(おほひ)がはりに、お浦(うら)の着換(きがえ)を、と思(おも)つて、権七(ごんしち)を温泉宿(をんせんやど)まで取(と)りに遣(や)つた。
 あとで、此(こ)の祠(ほこら)に籠(こも)つてから、幾日(いくか)の間(あひだ)か鳥居(とりゐ)より外(そと)へは出(で)ない、身躰(からだ)を伸々(のび/\)として大手(おほで)を振(ふ)つて畝路(あぜみち)から畷(なはて)へ出(で)た――然(さ)まで遠(とほ)くもない城(じやう)ヶ沼(ぬま)の方(はう)へ、何(なに)となく足(あし)が向(む)いて、ぶらり/\と歩行(ある)いたが、我(わ)が住居(すまゐ)を出(で)て其処等(そこら)散歩(さんぽ)をする、……祠(ほこら)の家(いへ)にはお浦(うら)が居(ゐ)て留主(るす)をして、我(わ)がために燈火(ともしび)のもとで針仕事(はりしごと)でも為(し)て居(ゐ)るやうな、つひした楽(たの)しい心地(こゝち)がする。……細(ほそ)い杖(ステツキ)を持(も)たないのが物足(ものた)りないくらゐなもので。
 風(かぜ)もふわ/\と樹(き)の枝(えだ)を擽(くすぐ)つて、はら/\笑(わら)はせて花(はな)にしやうとするらしい、壺(つぼ)の中(なか)のやうではあるが、山国(やまぐに)の夜(よ)は朧(をぼろ)。

         三十一

 譬(たと)へば城(じやう)ヶ沼(ぬま)を裏返(うらがへ)して、空(そら)へ漲(みなぎ)らした夜(よる)の色(いろ)――寝(ね)をびれて戸惑(とまど)ひをしたやうな肥(ふと)つた月(つき)が、田(た)の水(みづ)にも映(うつ)らず、山(やま)の姿(すがた)も照(て)らさず……然(さ)うかと言(い)つて並木(なみき)の松(まつ)に隠(かく)れもせず、谷(たに)の底(そこ)にも落(お)ちないで、ふわりと便(たより)のない処(ところ)に、土器色(かはらけいろ)して、畷(なはて)も畝(あぜ)も茫(ばう)と明(あかる)いのに、粘(ねば)つた、生暖(なまぬる)い小糠雨(こぬかあめ)が、月(つき)の上(うへ)からともなく、下(した)からともなく、しつとりと来(き)て、むら/\と途中(とちゆう)で消(き)える……と髪(かみ)も衣(きもの)も濡(ぬ)れもしないで、湿(しめつ)ぽい。が、手(て)で撫(な)でゝ見(み)ても雫(しづく)は分(わか)らぬ。――雨(あめ)が降(ふ)るのではない、月(つき)が欠伸(あくび)する息(いき)がかゝるのであらう……そんな晩(ばん)には獺(かはをそ)が化(ば)けると言(い)ふが、山国(やまぐに)に其(それ)は相応(ふさ)はぬ。イワナが化(ば)けて坊主(ばうず)になつて、殺生禁断(せつしやうきんだん)の説教(せつけう)に念仏(ねんぶつ)唱(とな)へて辿(たど)りさうな。……
 処(ところ)を、歩行(ある)く途中(とちゆう)、人一人(ひとひとり)にも逢(あ)はなんだ、が逢(あ)へば婦(をんな)でも山猫(やまねこ)でも、皆(みな)坊主(ばうず)の姿(すがた)に見(み)えやうと思(おも)つた。
 こん/\と狐(きつね)が啼(な)いた。……犬(いぬ)の声(こゑ)ではない。唯(と)ある松(まつ)の樹(き)の蔭(かげ)で、つひ通(とほ)りかゝつた足許(あしもと)で。
 こん/\こん/\と啼(な)くのに、フト耳(みゝ)を傾(かたむ)けて、虫(むし)を聞(き)くが如(ごと)く立停(たちどま)ると、何(なに)かものを言(い)ふやうで、
『コンクワイ、クワイ、来(こ)ぬかい、来(こ)ぬかい。』と恁(か)う啼(な)く。
『来(こ)ぬかい、来(こ)ぬかい、来(こ)ぬかい、案山子(かゝし)、来(こ)ぬかい案山子(かゝし)、』と又(また)聞(きこ)える。
 聞(き)く中(うち)に、畝(あぜ)の蔭(かげ)から、ひよいと出(で)て立(た)つた、藁束(わらたば)に竹(たけ)の脚(あし)で、痩(やせ)さらばへたものがある。……凩(こがらし)に吹(ふ)かれぬ前(まへ)に、雪国(ゆきぐに)の雪(ゆき)が不意(ふい)に来(き)て、其(そ)のまゝ焚附(たきつけ)にも成(な)らずに残(のこ)つた、冬(ふゆ)の中(うち)は、真白(まつしろ)な寐床(ねどこ)へ潜(もぐ)つて、立身(たちみ)でぬく/\と過(す)ごしたあとを、草枕(くさまくら)で寐込(ねこ)んで居(ゐ)た、これは飛騨山(ひだやま)の案山子(かゝし)である。
 此(こ)の親仁(おやぢ)、破(やぶ)れ簑(みの)の毛(け)を垂(た)らして、しよぼりとした躰(てい)で、ひよこひよこと動(うご)いて来(き)て、よたりと松(まつ)の幹(みき)へ凭(より)かゝつて、と其処(そこ)へ立(た)つて留(と)まる。
『来(こ)んかい、案山子(かゝし)、来(こ)んかい、案山子(かゝし)………』と例(れい)の声(こゑ)が尚(な)ほ続(つゞ)けて呼(よ)ぶ。
 些(ち)と離(はな)れた畝(あぜ)を伝(つた)つて、向(むか)ふから又(また)一(ひと)つ、ひよい/\と来(き)て、ばさりと頭(かしら)を寄(よ)せて同(おな)じく留(と)まる。と素直(まつすぐ)な畷筋(なはてすぢ)を、別(べつ)に一個(ひとつ)よたよた/\/\と、其(それ)でも小刻(こきざみ)の一本脚(いつぽんあし)、竹(たけ)を早(はや)めて急(いそ)いで近寄(ちかよ)る。
 此(こ)の後(あと)のなんぞは、何処(どこ)で工面(くめん)をしたか、竹(たけ)の小笠(をがさ)を横(よこ)ちよに被(かぶ)つて、仔細(しさい)らしく、其(そ)の笠(かさ)を歩行(あるく)に連(つ)れてぱく/\と上下(うへした)に揺(ゆす)つたもので。
 三個(みつつ)が、……其(それ)から土瓶(どびん)を釣(つ)つて番茶(ばんちや)でも煮(に)さうな形(かたち)に集(あつ)まると、何(なに)かゞ又(また)啼(な)き出(だ)す。
『コー/\/\、急(いそ)がう急(いそ)がう。』
 ばさ/\、と左右(さいう)へ分(わか)れて、前後(あとさき)に入乱(いりみだ)れたが、やがて畷(なはて)へ三個(みつつ)で並(なら)ぶ。
 其時(そのとき)樹(き)の上(うへ)から、何(なに)やら鳥(とり)の声(こゑ)がして、
『何処(どつけ)え行(く)、何処(どつけ)え行(く)!』
 で、がさりと枝(えだ)を踏(ふ)んだ音(おと)がした。何(ど)うやらものゝ、嘴(くちばし)を長(なが)く畷(なはて)を瞰下(みお)ろす気勢(けはひ)がした。
『ほこらだ。』
『ほこら、』
『ほこらへ行(い)くだ。』
とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと歩行(ある)き出(だ)す……案山子(かゝし)どもの出向(でむ)くのが、祠(ほこら)の方(はう)へ、雪枝(ゆきえ)の来(き)た路(みち)の方角(はうがく)に当(あた)る。向(むか)ふを指(さ)して城(じやう)ヶ沼(ぬま)へ身投(みな)げに行(ゆ)くのでは無(な)いらしい。
 待(ま)て、よくは分(わか)らぬ、其処等(そこら)と言(い)ふか、祠(ほこら)と言(い)ふか、声(こゑ)を伝(つた)へる生暖(なまぬる)い夜風(よかぜ)もサテぼやけたが、……帰(かへ)り路(みち)なれば引返(ひきかへ)して、うか/\と漫歩行(そゞろある)きの踵(きびす)を返(かへ)す。
『く、く、く、』
『ふ、ふ、』
『は、は、は、』と形(かたち)も定(さだ)めず、むや/\の海鼠(なまこ)のやうな影法師(かげぼふし)が、案山子(かゝし)の脚(あし)もとを四(よ)ツ五(いつ)ツむら/\と纒(まと)ふて進(すゝ)む。
「それは狐(きつね)か犬(いぬ)らしい、其(それ)とも何(なに)か鳥(とり)が居(ゐ)て、上(うへ)をふわ/\と飛(と)んだのかも分(わか)りません。」
と雪枝(ゆきえ)は老爺(ぢゞい)に言(い)ふのであつた……

         三十二

「忘(わす)れもしない、温泉(をんせん)へ行(ゆ)きがけには、夫婦(ふうふ)が腕車(くるま)で通(とほ)つた並木(なみき)を、魔物(まもの)が何(ど)うです、……勝手次第(かつてしだい)な其(そ)の躰(てい)でせう。」
 来(く)る時(とき)は気(き)がつかなかつたが、時(とき)に帰(かへり)がけに案山子(かゝし)の歩行(ある)く後(うしろ)から見(み)ると、途中(とちゆう)に一里塚(いちりづか)のやうな小蔭(こかげ)があつて、松(まつ)は其処(そこ)に、梢(こずえ)が低(ひく)く枝(えだ)が垂(た)れた。塚(つか)の上(うへ)に趺坐(ふざ)して打傾(うちかたむ)いて頬杖(ほゝづゑ)をした、如意輪(によいりん)の石像(せきざう)があつた。と彼(あ)のたよりのない土器色(かはらけいろ)の月(つき)は、ぶらりと下(さが)つて、仏(ほとけ)の頬(ほゝ)を片々(かた/\)照(て)らして、木蓮(もくれん)の花(はな)を手向(たむ)けたやうな影(かげ)が射(さ)した。
 其(そ)の前(まへ)を、一列(ひとなら)びに、ふら/\と通懸(とほりかゝ)つて、
『御許(ごゆる)され』と案山子(かゝし)の一(ひと)つが言へば、
『御許(ごゆる)され。』
と又(また)一(ひと)つが同(おな)じ言(こと)を繰返(くりかへ)す。
『御許(ごゆる)され、御許(ごゆる)され。』と声(こゑ)が交(まじ)つて、喧々(がや/\)と※舌(しやべ)[#「口+堯」、148-6]つた、と思(おも)はれよ。
『大儀(たいぎ)ぢや』
と正(まさ)しく如意輪(によいりん)が仰(あふ)せあつた……
『はツ、』と云(い)ふと一個(ひとつ)、丁(ちやう)ど石高道(いしだかみち)の石※(「石+鬼」、第4水準2-82-48)(いしころ)へ其(そ)の一本竹(いつぽんだけ)を踏掛(ふみか)けた真中(まんなか)のが、カタリと脚(あし)に音(おと)を立(た)てると、乗上(のりあが)つたやうに、ひよい、と背(せ)が高(たか)く成(な)つて、直(すぐ)に、ひよこりと又(また)同(おな)じ丈(たけ)に歩行(ある)き出(だ)す。
 人間(にんげん)が前(まへ)へ出(で)た時(とき)、如意輪(によいりん)の御姿(おすがた)は、スツと松蔭(まつかげ)へ稍(やゝ)遠(とほ)く、暗(くら)く小(ちひ)さく拝(をが)まれた。
 雨(あめ)がやゝ頻(しき)つて来(き)た。
 案山子(かゝし)の簑(みの)は、三(みつ)つともぴしよ/\と音(おと)するばかり、――中(なか)にも憎(にく)かつたは後(あと)から行(ゆ)く奴(やつ)、笠(かさ)を着(き)たを得意(とくい)の容躰(ようだい)、もの/\しや左右(さいう)を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)(みまは)しながら前途(ゆくて)へ蹌踉(よろめ)く。
 果(はた)して祠(ほこら)を指(さ)したらしい。
 横(よこ)へ切(き)れて田畝道(たんぼみち)を、向(むか)ふへ、一方(いつぱう)が山(やま)の裙(すそ)、片傍(かたはら)を一叢(ひとむら)の森(もり)で仕切(しき)つた真中(まんなか)が、茫(ぼう)と展(ひら)けて、草(くさ)の生(はへ)が朧月(おぼろづき)に、雲(くも)の簇(むら)がるやうな奥(おく)に、祠(ほこら)の狐格子(きつねがうし)を洩(も)れる灯(ひ)が、細雨(こさめ)に浸(にじ)むだのを見(み)ると――猶予(ためら)はず其方(そちら)へ向(む)いて、一度(いちど)斜(はす)に成(な)つて折曲(をれまが)つて列(つらな)り行(ゆ)く。
 其時(そのとき)気(き)に懸(かゝ)つたのは、祠(ほこら)の前(まへ)を階(きぎはし)から廻廊(くわいらう)の下(した)へ懸(か)けて、たゞ三(み)ツ五(いつ)ツではない、七(なゝ)八(や)ツ、それ/\十(と)ウにも余(あま)る物(もの)の形(かたち)が、孰(どれ)も土器色(かはらけいろ)の法衣(ころも)に、黒(くろ)い色(いろ)の袈裟(けさ)かけた、恰(あだか)も空摸様(そらもやう)のやうなのが、高(たか)い坊主(ばうず)と低(ひく)い坊主(ばうず)と大(おほき)な坊主(ばうず)と小(ちひ)さな坊主(ばうず)と、胡乱々々(うろ/\)動(うご)いて、むら/\居(ゐ)る……
『やあ、お浦(うら)を嬲(なぶ)る、』
と前(まへ)へ行(ゆ)く案山子(かゝし)どもを、横(よこ)に掠(かす)めて、一息(ひといき)に駆(か)け着(つ)けて、いきなり階(きざはし)に飛附(とびつ)いて、唯(と)見(み)ると、扨(さて)も、寄(よ)つたわ、来(き)たわ。僧形(そうぎやう)に見(み)えた有(あ)りたけの人数(にんず)は、其(それ)も是(これ)も同(おな)じやうな案山子(かゝし)の数々(かず/\)。――割(わ)つて通(とほ)つた人間(にんげん)の袖(そで)の煽(あふ)りに、よた/\と皆(みな)左右(さいう)に散(ち)つた、中(なか)には廻廊(くわいらう)に倒(たふ)れかゝつて、もぞ/\と動(うご)くのもある。
 正面(しやうめん)に伸上(のびあが)つて見(み)れば、向(むか)ふから、ひよこ/\来(く)る三個(みつゝ)の案山子(かゝし)も、同(おな)じやうな坊主(ばうず)に見(み)えた。
 扉(とびら)を入(はい)ると、無事(ぶじ)であつた。お浦(うら)を其(そ)のまゝの彫像(てうざう)は、灯(ひ)の影(かげ)にちら/\と瞳(ひとみ)も動(うご)いて、人待顔(ひとまちがほ)に立草臥(たちくたび)れて、横(よこ)に寝(ね)たさうにも見(み)えたのである。
 下(した)に敷(し)いた白毛布(しろけつと)の上(うへ)には、所狭(ところせま)く鑿(のみ)も鉋(かんな)も散(ちら)かり放題(はうだい)。初手(しよて)は此(こ)の毛布(けつと)に包(くる)んで、夜路(よみち)を城趾(しろあと)へ、と思(おも)つたが、――時鳥(ほとゝぎす)は啼(な)かぬけれども、然(さ)うするのは、身(み)を放(はな)れたお浦(うら)の魂(たましひ)を容(い)れたやうで、嘗(かつ)て城(じやう)ヶ沼(ぬま)の縁(ふち)で旅僧(たびそう)の口(くち)から魔界(まかい)の暗示(あんじ)を伝(つた)へられたゝめに――太(いた)く忌(いま)はしかつたので、……権七(ごんしち)に取寄(とりよ)せさした着換(きがえ)の衣(きぬ)は、恰(あたか)も祠(ほこら)の屋根(やね)に藤(ふぢ)の花(はな)が咲(さ)きかゝつたのを、月(つき)が破廂(やぶれひさし)から影(かげ)を落(おと)したやうに届(とゞ)いて居(ゐ)た。然(しか)も燃(も)え立(た)つばかりの緋(ひ)の扱帯(しごき)は、今(いま)しも其(そ)の腰(こし)のあたりをする/\と辷(すべ)つた如(ごと)く、足許(あしもと)に差置(さしお)かるゝ。
 縋着(すがりつ)けば、ころ/\と其(そ)の掌(たなそこ)に秘(ひ)めた采(さい)が鳴(な)つた。
『ござるか。』
『…………』
『ござるか、ござるか。』
と蚯蚓(みゝず)の這(は)ふやうな声(こゑ)が階(きざはし)の処(ところ)で聞(きこ)える。
『誰(たれ)だ。』
と、うつかり、づゝと出(で)ると、つひ忘(わす)れた……づらりと其処(そこ)に案山子(かかし)ども。


       バサリ


         三十三

 其(そ)の中(なか)の孰(いづ)れが言(ものい)ふ? 中気病(ちゆうきやみ)のやうな老(ふ)けた、舌(した)つ不足(たらず)で、
『おねんぎよ。』と言(い)ふ。
『おねんご。』
と又(また)訴(うつた)うる。……
 糠雨(ぬかあめ)の朧夜(おぼろよ)に、小(ちひさ)き山廓(さんかく)の祠(ほこら)の前(まへ)。破(やぶ)れ簑(みの)のしよぼ/\した渠等(かれら)の風躰(ふうてい)、……其(そ)の言(い)ふ処(ところ)が、お年貢(ねんぐ)、お年貢(ねんぐ)、と聞(きこ)えて、未進(みしん)の科条(くわでう)で水牢(みづらう)で死(し)んだ亡者(もうじや)か、百姓一揆(ひやくしやういつき)の怨霊(おんりやう)か、と思(おも)ひ附(つ)く。其(そ)の莚旗(むしろはた)を挙(あ)げたのが此(こ)の祠(ほこら)であらうも知(し)れぬ。――が、何(なに)を求(もと)むる? 其(そ)の意(い)を得(え)ない。熟(じつ)と瞻(みつむ)れば、右(みぎ)から左(ひだり)から階(きざはし)の前(まへ)へ、ぞろ/\と寄(よ)つた……簑(みの)の摺合(すれあ)ふ音(おと)して、
『うけとろ、』
『受(う)け取(と)らう。』
『おねんご受取(うけと)ろ。』と言(い)ふのが、何処(どこ)から出(で)る声(こゑ)か、一本竹(いつぽんだけ)で立(た)つた地(ち)の中(なか)から、ぶる/\湧出(わきだ)す。
『おゝ、』
と思(おも)はず合点(がつてん)した。
『人形(にんぎやう)か、此(こ)の彫像(てうざう)を受(う)け取(と)らうと言(い)ふのか?』
 中(なか)にも笠(かさ)ある案山子(かゝし)の頷(うなづ)くのが、ぱく/\動(うご)く。其(それ)は途中(とちゆう)からの馴染(なじみ)らしい。
『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と野良(のら)な音(おん)。恰(あたか)も、おゝ、然(さ)う負(おぶ)はう、負(おぶ)され、と云(い)ふが如(ごと)し。
『可(よし)、可(よし)、』
 で、衣服(きもの)を被(か)け、彫像(てうざう)を抱(いだ)いたなり、狐格子(きつねがうし)を更(あらた)めて開(ひら)いて立出(たちいで)たつる、
『おい、案山子(かゝし)ども、』
と真面目(まじめ)に遣(や)つた。今(いま)思(おも)へば、……言(い)ふまでも無(な)く何(ど)うかして居(ゐ)る。
『御苦労(ごくらう)、御厚意(ごかうい)は受取(うけと)つたが、己(おれ)の刻(きざ)んだ此(こ)の婦(をんな)は活(い)きとるぞ。貴様(きさま)たちに持運(もちはこ)ばれては血(ち)の道(みち)を起(おこ)さう、自分(じぶん)でおんぶだ。』
と高笑(たかわら)ひをして、其処(そこ)で肩(かた)の上(うへ)に揺上(ゆすりあ)げた。抱(だ)いても腕(うで)に乗(の)つたのに……と肩越(かたごし)に見上(みあ)げた時(とき)、天井(てんじやう)の蔭(かげ)に髪(かみ)も黒(くろ)く上(うへ)から覗込(のぞきこ)むやうに見(み)えたので、歴然(あり/\)と、自分(じぶん)が彫刻師(てうこくし)に成(な)つた幼(おさな)い時(とき)の運命(うんめい)が、形(かたち)に出(で)て顕(あら)はれた……雨(あめ)も此(こ)の朧夜(おぼろよ)を、細(ほそ)く微(かすか)な雪(ゆき)のやうに白(しろ)く野山(のやま)に降懸(ふりかゝ)つた。
『出懸(でか)けるぞ、案内(あんない)するか、続(つゞ)いて来(く)るか。』
 案山子(かゝし)どもは藁(わら)の乱(みだ)れた煙(けむり)の如(ごと)く、前後(あとさき)にふら/\附添(つきそ)ふ。……而(そ)して祠(ほこら)の樹立(こだち)を出離(ではな)れる時分(じぶん)から、希有(けう)な一行(いつかう)の間(あひだ)に、二(ふた)ツ三(み)ツ灯(あかり)が点(つ)いたが、光(ひかり)が有(あ)りとも見(み)えず、ものを映(うつ)さぬでも無(な)い。たとへば月(つき)の其(そ)の本尊(ほんぞん)が霞(かす)んで了(しま)つて、田毎(たごと)に宿(やど)る影(かげ)ばかり、縦(たて)に雨(あめ)の中(なか)へふつと映(うつ)る、宵(よひ)に見(み)た土器色(かはらけいろ)の月(つき)が幾(いく)つにも成(な)つて出(で)たらしい。
 其(それ)が案山子(かゝし)どもの行(ゆ)く方(はう)へ、進(すゝ)めば進(すゝ)み、移(うつ)れば移(うつ)り、路(みち)を曲(まが)る時(とき)なぞは、スイと前(まへ)へ飛(と)んで、一寸(ちよいと)停(と)まつて、土器色(かはらけいろ)を赫(くわつ)として待(ま)つ。ともすれば曇(くも)ることもあつた。此(こ)の灯(ひ)はひく/\呼吸(いき)を吐(つ)く、と見(み)えた。
 低(ひく)い藁屋(わらや)が二三軒(にさんげん)、煙出(けむだ)しの口(くち)も開(あ)かず、目(め)もなしに、暗(やみ)から潜出(もぐりだ)した獣(けもの)のやうに蹲(つくば)つて、寂(しん)と寝(ね)て居(ゐ)る前(まへ)を通(とほ)つた時(とき)。
『ばツさ、ばツさ。』
 簑(みの)を鳴(な)らしたのではない。案山子(かゝし)の一(ひと)つが、最(も)う耳(みゝ)に馴(な)れて遠慮(ゑんりよ)のない口(くち)を開(あ)けた。
『ばつさよ、ばつさよ。』
『コーコー、来(こ)ーい、来(こ)い。』
と最一(もひと)つ※舌(しやべ)[#「口+堯」、152-15]つた。
 ばさりと言(い)ふのが、ばさりと聞(き)こえて、ばさりと鳴(な)つて、其(そ)の藁屋(わらや)の廂(ひさし)から、畷(なはて)へばさりと落(お)ちたものがある、続(つゞ)いて又(また)一(ひと)つばさりとお出(で)やる。
 鳥(とり)か獣(けもの)か、こゝにバサリと名(な)づくるものが住(す)んで、案山子(かゝし)に呼出(よびだ)されたのであらう、と思(おも)つたが、やがて其(それ)が二(ふた)つが並(なら)んで、真直(まつすぐ)にひよいと立(た)つ、と左右(さいう)へ倒(たふ)れざまに、又(また)ばさりと言つた。が、名(な)ではない。ばさりと称(とな)へたは其(そ)の音(おと)で、正体(しやうたい)は二本(にほん)の番傘(ばんがさ)、ト蛇(じや)の目(め)に開(ひら)いたは可(いゝ)が、古御所(ふるごしよ)の簾(すだれ)めいて、ばら/\に裂(さ)けて居(ゐ)る。

         三十四

 唯(と)見(み)ると、両方(りやうはう)から柄(え)を合(あ)はせて、しつくり組(く)むだ。其(そ)の破(やぶ)れ傘(がさ)が輪(わ)に成(な)つて、畷(なはて)をぐる/\と廻(まは)つて丁(ちやう)と留(と)まる。
 案山子(かゝし)が三(み)ツ四(よ)ツ、ふら/\と取巻(とりま)いて、
『乗(の)つされ。』
『お人形(にんぎやう)、乗(の)つせえ。』と言(い)ふ。
『はゝあ、載(の)せろ、と言(い)ふのか、面白(おもしろ)い。』
 案(あん)ずるに、此(こ)の車(くるま)を以(も)つて、我(わ)が作品(さくひん)を礼(れい)するのであらう。其(そ)の厚志(かうし)、敢(あへ)て、輿(こし)と駕籠(かご)と破(やぶ)れ傘(がさ)とを択(えら)ばぬ。其処(そこ)で彫像(てうざう)の脇(わき)を抱(だ)いて、傘(からかさ)の柄(え)に腰(こし)を据(す)えると、不思議(ふしぎ)や、裾(すそ)も開(ひら)かず、肩(かた)も反(そ)らず……膠(にかは)で着(つ)けたやうに整然(ちやん)と乗(の)つた、同時(どうじ)にくる/\と傘(からかさ)が廻(まは)つて、さつさと行(ゆ)く……
 やがて温泉(いでゆ)の宿(やど)を前途(ゆくて)に望(のぞ)んで、傍(かたはら)に谿河(たにがは)の、恰(あたか)も銀河(ぎんが)の砕(くだ)けて山(やま)を貫(つらぬ)くが如(ごと)きを見(み)た時(とき)、傘(からかさ)の輪(わ)は流(ながれ)に逆(さから)ひ、疾(と)く水車(みづぐるま)の如(ごと)くに廻転(くわいてん)して、水(みづ)は宛然(さながら)其(そ)の破(やぶ)れ目(め)を走(はし)り抜(ぬ)けて、斜(なゝ)めに黄色(きいろ)な雪(ゆき)が散(ち)つた。や、何(ど)うも案山子(かゝし)の飛(と)ぶこと、ひよろつく事(こと)!
 此(これ)を見(み)よ、人々(ひと/″\)。――
 で、月(つき)が三(み)ツ四(よ)ツ出(で)て路(みち)を照(て)らすのも、案山子(かゝし)が飛(と)ぶのも、傘(からかさ)の車(くるま)も、其(そ)の車(くるま)に、と反身(そりみ)で、斜(しや)に構(かま)へて乗(の)つた像(ざう)の活(い)けるが如(ごと)きも、一切(すべて)自分(じぶん)の神通力(じんつうりき)の如(ごと)くに感(かん)じて、寝静(ねしづ)まつた宿屋(やどや)の方(はう)へ拳(こぶし)を突出(つきだ)して呵々(から/\)と笑(わら)つた。
『此(これ)を見(み)よ、人々(ひと/″\)。』
 其時(そのとき)車(くるま)を真中(まんなか)に、案山子(かゝし)の列(れつ)は橋(はし)にかゝつた。……瀬(せ)の音(おと)を横切(よこぎ)つて、竹(たけ)の脚(あし)を、蹌踉(よろ)めく癖(くせ)に、小賢(こざか)しくも案山子(かゝし)の同勢(どうぜい)橋板(はしいた)を、どゞろ/\とゞろと鳴(な)らす。
『寝(ね)て居(ゐ)るに騒(さわ)がしい。』
と欄干(らんかん)が声(こゑ)を懸(か)けた。
『あゝ、気(き)の毒(どく)だ。』
とうつかり人間(にんげん)の雪枝(ゆきえ)が答(こた)へた。おや、と心着(こゝろづ)くと最(も)うざんざと川水(かはみづ)。
 まだ可怪(おかし)かつたのは、一行(いつかう)が、其(それ)から過般(いつか)の、あの、城山(しろやま)へ上(のぼ)る取着(とつつき)の石段(いしだん)に懸(かゝ)つた時(とき)で。是(これ)から推上(おしあが)らうと云(い)ふのに一呼吸(ひといき)つくらしく、フト停(と)まると、中(なか)でも不精(ぶせう)らしい簑(みの)の裾(すそ)の長(なが)いのが、雲(くも)のやうに渦(うづま)いた段(だん)の下(した)の、大木(たいぼく)の槐(えんじゆ)の幹(みき)に恁懸(よりかゝ)つて、ごそりと身動(みうご)きをしたと思(おも)へ。
『わい、擽(くすぐつ)てえ。』と樹(き)が喚(わめ)いた。
 傘(からかさ)はぐる/\と段(だん)にかゝる、と苦(く)もなく攀上(よぢのぼ)るに不思議(ふしぎ)はない。濃(こまや)かな夜(よ)の色(いろ)が段(だん)を包(つゝ)んで、雲(くも)に乗(の)せたやうにすら/\と辷(すべ)らし上(あ)げる。気(き)の疾(はや)い、身軽(みがる)なのが、案山子(かゝし)の中(なか)にもあるにこそ。二(ふた)ツ三(み)ツ追続(おつつゞ)いて、すいと飛(と)んで、車(くるま)の上(うへ)を宙(ちう)から上(のぼ)つたのが、アノ土器色(かはらけいろ)の月(つき)の形(かたち)の灯(ともしび)をふわりと乗越(のりこ)す。
 段(だん)の上(うへ)で、一体(いつたい)の石地蔵(いしぢざう)に逢(あ)つた。
『坊(ばう)ちやま、坊(ばう)ちやま。』と一(ひと)ツが言(い)ふ。
『さても迷惑(めいわく)、』
と仰有(おつしや)つたが、御手(おんて)の錫杖(しやくぢやう)をづいと上(あ)げて、トンと下(お)ろしざまに歩行(あゆ)び出(で)らるゝ……成程(なるほど)、御襟(おんゑり)の唾掛(よだれかけ)めいた切(きれ)が、ひらり/\と揺(ゆ)れつゝ来(こ)らるゝ。
「此(こ)の野原(のはら)に来(き)た時(とき)です。」
と雪枝(ゆきえ)は老爺(ぢい)に向(むか)いて、振返(ふりかへ)つて左右(さいう)を視(なが)めた。
 陽炎(かげらふ)が膝(ひざ)に這(は)つて、太陽(たいやう)はほか/\と射(さ)して居(ゐ)る。空(そら)は晴(は)れたが、草(くさ)の葉(は)の濡色(ぬれいろ)は、次第(しだい)に霞(かすみ)に吸取(すひと)られやうとする風情(ふぜい)である。
「其(そ)の地蔵尊(ぢざうそん)が、前(まへ)の方(はう)から錫杖(しやくぢやう)を支(つ)いたなりで、後(うしろ)に続(つゞ)いた私(わたし)と擦違(すれちが)つて、黙(だま)つて坂(さか)の方(はう)へ戻(もど)つて行(ゆ)かるゝ……と案山子(かゝし)もぞろ/\と引返(ひきかへ)すんです。
 番傘(ばんがさ)は、と見(み)ると、此(これ)もくる/\と廻(まは)つて返(かへ)る。が、まるで空(から)に成(な)つて、上(うへ)に載(の)せた彫像(てうざう)がありますまい。
 ……つひ向(むか)ふを、何(ど)うです、……大牛(おほうし)が一頭(いつとう)、此方(こなた)へ尾(を)を向(む)けてのそりと行(ゆ)く。其(そ)の図体(づうたい)は山(やま)を圧(あつ)して此(こ)の野原(のはら)にも幅(はゞ)つたいほど、朧(おぼろ)の中(なか)に影(かげ)が偉(おほき)い。其(そ)の背中(せなか)にお浦(うら)の像(ざう)が、紅(くれなゐ)の扱帯(しごき)を長(なが)く、仰向(あふむ)けに成(な)つて柔(やはら)かに懸(かゝ)つて居(ゐ)る。」

         三十五

「破(やぶ)れ傘(がさ)の車(くるま)では、別(べつ)に侮(あなど)られ辱(はづかし)められるとも思(おも)はなかつたが、今(いま)牛(うし)の背(せ)に懸(か)けられたのを見(み)ると、酷(むごた)らしくて我慢(がまん)が出来(でき)ない! 木(き)を刻(きざ)んだものではあるが、節(ふし)から両岐(ふたまた)に裂(さ)かれさうに思(おも)はれて、生身(なまみ)のお浦(うら)だか、像(ざう)の女(をんな)だか、分別(ふんべつ)も着(つ)かないくらゐ。
『あツ、』と叫(さけ)んで、背後(うしろ)から飛蒐(とびかゝ)つたが、最(も)う一足(ひとあし)の処(ところ)で手(て)が届(とゞ)きさうに成(な)つても、何(ど)うしても尾(を)に及(およ)ばぬ……牛(うし)は急(いそ)ぐともなく、動(うご)かない朧夜(おぼろよ)が自然(おのづ)から時(とき)の移(うつ)るやうに悠々(いう/\)とのさばり行(ゆ)く。
 しばらくして、此(こ)の大手筋(おほてすぢ)を、去年(きよねん)一昨年(おととし)のまゝらしい、枯蘆(かれあし)の中(なか)を縫(ぬ)つた時(とき)は、俗(ぞく)に水底(みづそこ)を踏(ふ)んで通(とほ)ると言(い)ふ、どつしりしたものに見(み)えた。背(せな)の彫像(てうざう)の仰向(あふむ)けの胸(むね)に采(さい)を握(にぎ)つた拳(こぶし)が、苦(くるし)んで空(くう)を掴(つか)むやうに見(み)えて堪(た)へられない。
 後(あと)を喘(あへ)ぎ/\、はあ/\と呼吸(いき)して続(つゞ)く。
「其(そ)の牛(うし)が、老爺(おぢい)さん、」
と雪枝(ゆきえ)は聞(き)くものを呼懸(よびか)けた。
 天守(てんしゆ)の礎(いしずゑ)の土(つち)を後脚(あとあし)で踏(ふ)んで、前脚(まへあし)を上(うへ)へ挙(あ)げて、高(たか)く棟(むね)を抱(いだ)くやうに懸(か)けたと思(おも)ふと、一階目(いつかいめ)の廻廊(くわいらう)めいた板敷(いたじき)へ、ぬい、と上(のぼ)つて其(そ)の外周囲(そとまはり)をぐるりと歩行(ある)いた。……音(おと)に鎗(やり)ヶ嶽(だけ)と中空(なかぞら)に相聳(あひそび)えて、月(つき)を懸(か)け太陽(ひ)を迎(むか)ふると聞(き)く……此(こ)の建物(たてもの)はさすがに偉大(おほき)い。――朧(おぼろ)の中(なか)に然(さ)ばかり蔓(はびこ)つた牛(うし)の姿(すがた)も、床(ゆか)走(はし)る鼠(ねずみ)のやうに見(み)えた。
 ぐるりと一廻(ひとまは)りして、一(いつ)ヶ所(しよ)、巌(いはほ)を抉(えぐ)つたやうな扉(とびら)へ真黒(まつくろ)に成(な)つて入(はい)つたと思(おも)ふと、一(ひと)つよぢれた向(むか)ふ状(ざま)なる階子(はしご)の中(なか)ほどを、灰色(はいいろ)の背(せ)を畝(うね)つて上(のぼ)る、牛(うし)は斑(まだら)で。
 此(こ)の一階目(いつかいめ)の床(ゆか)は、今(いま)過(よぎ)つた野(の)に、扉(とびら)を建(た)てまはしたと見(み)るばかり広(ひろ)かつた。短(みじか)い草(くさ)も処々(ところ/″\)、矢間(やざま)に一(ひと)ツ黄色(きいろ)い月(つき)で、朧(おぼろ)の夜(よ)も同(おな)じやう。
 と黒雲(くろくも)を被(かつ)いだ如(ごと)く、牛(うし)の尾(を)が上口(あがりくち)を漏(も)れたのを仰(あふ)いで、上(うへ)の段(だん)、上(うへ)の段(だん)と、両手(りやうて)を先(さき)へ掛(か)けながら、慌(あはたゞ)しく駆上(かけあが)つた。……月(つき)は暗(くら)かつた、矢間(やざま)の外(そと)は森(もり)の下闇(したやみ)で苔(こけ)の香(か)が満(み)ちて居(ゐ)た。……牛(うし)の身躰(からだ)は、早(は)や又(また)段(だん)の上(うへ)へ半(なか)ばを乗越(のりこ)す。
 ぐる/\と急(いそ)いで廻(まは)つて取着(とつつ)いて追(お)つて上(のぼ)る。と此(こ)の矢間(やざま)の月(つき)は赤(あか)かつた。魔界(まかい)の色(いろ)であらうと思(おも)ふ。が、猶予(ためら)ふ隙(ひま)もなく直(たゞ)ちに三階目(さんがいめ)を攀(よ)ぢ上(のぼ)る……
 最(も)う仰(あふ)いでも覗(のぞ)いても、大牛(おほうし)の形(かたち)は目(め)に留(と)まらなく成(な)つたゝめに、あとは夢中(むちゆう)で、打附(ぶつゝか)れば退(すさ)り、床(ゆか)あれば踏(ふ)み、階子(はしご)あれば上(のぼ)る、其(そ)の何階目(なんかいめ)であつたか分(わか)らぬ。雲(くも)か、靄(もや)か、綿(わた)で包(つゝ)んだやうに凡(およ)そ三抱(みかゝえ)ばかりあらうと思(おも)ふ丸柱(まるばしら)が、白(しろ)く真中(まんなか)にぬつく、と立(た)つ、……と一目(ひとめ)見(み)れば、其(そ)の柱(はしら)の根(ね)に一人(ひとり)悄然(しよんぼり)と立(た)つた婦(をんな)の姿(すがた)……
『お浦(うら)……』と膝(ひざ)を支(つ)いて、摺寄(すりよ)つて緊乎(しつか)と抱(だ)いて、言(い)ふだけの事(こと)を呼吸(いき)も絶々(たえ/″\)に我(われ)を忘(わす)れて※舌(しやべ)[#「口+堯」、157-12]つた。声(こゑ)が籠(こも)つて空(そら)へ響(ひゞ)くか、天井(てんじやう)の上(うへ)――五階(ごかい)のあたりで、多人数(たにんずう)のわや/\もの言(い)ふ声(こゑ)を聞(き)きながら、積日(せきじつ)の辛労(しんらう)と安心(あんしん)した気抜(きぬ)けの所為(せゐ)で、其(その)まゝ前後不覚(ぜんごふかく)と成(な)つた。……
『や』
 心着(こゝろづ)く、と雲(くも)を踏(ふ)んでるやうな危(あぶなつ)かしさ。夫婦(ふうふ)が活(い)きて再(ふたゝ)び天日(てんじつ)を仰(あふ)ぐのは、唯(たゞ)無事(ぶじ)に下(した)まで幾階(いくかい)の段(だん)を降(お)りる、其(それ)ばかり、と思(おも)ふと、昨夜(ゆふべ)にも似(に)ず、爪先(つまさき)が震(ふる)ふ、腰(こし)が、がくつく、血(ち)が凍(こほ)つて肉(にく)が硬(こは)ばる。
『気(き)を着(つ)けて、気(き)を着(つ)けて、危(あぶな)い。』と両方(りやうはう)の脚(あし)の指(ゆび)、白(しろ)いのと、男(をとこ)のと、十本(じふぽん)づゝを、ちら/\と一心不乱(いつしんふらん)に瞻(みつ)めながら、恰(あたか)も断崖(だんがい)を下(お)りるやう、天守(てんしゆ)の下(した)は地(ち)が矢(や)の如(ごと)く流(なが)るゝか、と見(み)えた。……
 雪枝(ゆきえ)は語(かた)り続(つ)ぐ声(こゑ)も弱(よわ)つて、
「漸(やつ)との思(おも)ひで此処(こゝ)まで来(き)て……先(ま)づ一呼吸(ひといき)と気(き)が着(つ)くと、あの躰(てい)だ。老爺(おぢい)さん、形代(かたしろ)の犠牲(にえ)に代(か)へて、辛(から)くもです、我(わ)が手(て)に救(すく)ひ出(だ)したとばかり喜(よろこ)んだのは、お浦(うら)ぢやない、家内(かない)ぢやない。昨夜(ゆふべ)持(も)つて行(い)つた彫像(てうざう)を其(そ)のまゝ突返(つゝかへ)されて、のめ/\と担(かつ)いで帰(かへ)つたんです。然(しか)も片腕(かたうで)捩(もぎ)つてある、あの采(さい)を持(も)たせた手(て)が。……あゝ、私(わたし)は五躰(ごたい)が痺(しび)れる。」と胸(むね)を掴(つか)んで悶(もだ)へ倒(たふ)れる。


       天守(てんしゆ)の下(した)


         三十六

 聞(き)き果(は)てつ。……
 飛騨国(ひだのくに)の作人(さくにん)菊松(きくまつ)は、其処(そこ)に仰(あふ)ぎ倒(たふ)れて今(いま)も悪(わる)い夢(ゆめ)に魘(うな)されて居(ゐ)るやうな――青年(せいねん)の日向(ひなた)の顔(かほ)、額(ひたひ)に膏汗(あぶらあせ)の湧(わ)く悩(なや)ましげな状(さま)を、然(さ)も気(き)の毒(どく)げに瞻(みまも)つた。
「聞(き)けば聞(き)くほど、へい、何(なん)とも言(い)ひやうはねえ。けんども、お前様(めえさま)、お少(わけ)えに、其(そ)の位(くらゐ)の事(こと)に、然(さ)う気(き)い落(おと)さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜(ゆふべ)持(も)つて行(ゆ)かしつた其(そ)の形代(かたしろ)の像(ざう)が、お天守(てんしゆ)の…何様(なにさま)か腑(ふ)に落(お)ちねえ処(ところ)があるで、約束(やくそく)の通(とほ)り奥様(おくさま)を返(かへ)さねえもんでがんしよ。だで、最(も)う一(ひと)ツ拵(こさ)えさつせえ。美(うつくし)い婦(をんな)の木像(もくざう)さ又(また)遣直(やりなほ)すだね。えゝ、お前様(めえさま)、対手(あひて)が七六(しちむづ)ヶしいだけに張合(はりえゝ)がある……案山子(かゝし)ぢや成(な)んねえ。素袍(すはう)でも着(き)た徒(てあひ)が玉(たま)の輿(こし)持(も)つて、へい、お迎(むかへ)、と下座(げざ)するのを作(つく)らつせえ。えゝ! と元気(げんき)を出(だ)さつしやりまし。」
「其処(そこ)です、老爺(おぢい)さん、」
と雪枝(ゆきえ)は草(くさ)を掴(つか)んで起直(おきなほ)つて、
「現在(げんざい)、其(そ)の苦(くる)しみを為(し)て居(ゐ)るお浦(うら)を救(すく)はんために製作(こしら)へたんです。有(あり)つたけの元気(げんき)も出(だ)した、力(ちから)も尽(つく)した。最(も)う為(し)やうがない。しかし此処(こゝ)で貴老(あなた)に逢(あ)つたのは天(てん)の引合(ひきあ)はせだらうと思(おも)ふ。
 いや、其(それ)よりも此(こ)の土地(とち)へ来(き)て、夢(ゆめ)とも現(うつゝ)とも分(わか)らない種々(いろ/\)の事(こと)のあるのは、別(べつ)ではない、婦(をんな)のために、仕事(しごと)を忘(わす)れた眠(ねむり)を覚(さま)して、謹(つゝし)んで貴老(あなた)に教(をしへ)を受(う)けさせやうとする、芸(げい)の神(かみ)の計(はか)らひであらうも知(し)れない。私(わたし)は跪(ひざまづ)く、其(そ)の草鞋(わらぢ)を頂(いたゞ)く……何(ど)うぞ、弟子(でし)にして下(くだ)さい、教(をし)へて下(くだ)さい、而(そ)してお浦(うら)を救(すく)つて下(くだ)さい。」
「いや、前刻(さつき)船(ふね)の中(なか)で焚(や)けるのを向(むか)ふから見(み)た時(とき)な、活(い)きた人(ひと)だと吃驚(びつくり)しつけの。お前様(めえさま)一廉(ひとかど)の利(きゝ)ものだ。別(べつ)に私等(わしら)に相談(さうだん)打(ぶ)たつしやるに及(およ)ぶめえが、奥様(おくさま)のお身(み)の上(うへ)ぢや、出来(でき)る手伝(てつだひ)なら為(し)ずには居(ゐ)られぬで、年(とし)の功(こう)だけも取処(とりどこ)があるなら、今度(こんど)造(つく)らつしやるに助言(ぢよごん)な為(す)べいさ。まあ、待(また)つせえよ、私(わし)が今(いま)、」と狸(たぬき)のやうな麻袋(あさぶくろ)をふらりと、腰(こし)を伸(の)して、のつそりと立(た)つた。
 旭(あさひ)さす野(の)を一人(ひとり)、老爺(ぢゞい)は腰骨(こしぼね)に手(て)を組(く)んで、ものを捜(さが)す風(ふう)して歩行(ある)いたが、少時(しばらく)して引返(ひきかへ)した。拾(ひろ)つて来(き)たのは雄鹿(をじか)の角(つの)の折(をれ)、山(やま)深(ふか)ければ千歳(ちとせ)の松(まつ)の根(ね)に生(お)ふると聞(き)く、伏苓(ふくれう)と云(い)ふものめいたが、何(なに)、別(べつ)に……尋常(たゞ)の樹(き)の枝(えだ)、女(をんな)の腕(かひな)ぐらゐの細(ほそ)さで、一尺(いつしやく)有余(いうよ)也(なり)。
 ト件(くだん)の麻袋(あさぶくろ)の口(くち)を開(あ)けて、握飯(にぎりめし)でも出(だ)しさうなのが、一挺(いつちやう)小刀(こがたな)を抽取(ぬきと)つて、無雑作(むざうさ)に、さくりと当(あ)てる、ヤ又(また)能(よ)く切(き)れる、枝(えだ)はすかりと二(ふた)ツに成(な)つた。
「鯉(こひ)とも思(おも)ふが、木(き)が小(ちつこ)い。鰌(どぜう)では可笑(をかし)かんべい。鮒(ふな)を一(ひと)ツ製(こさ)へて見(み)せつせえ。雑(ざつ)と形(かたち)で可(え)え。鱗(うろこ)は縦横(たてよこ)に筋(すぢ)を引(ひ)くだ、……私(わし)も同(おな)じに遣(や)らかすで、較(くら)べて見(み)るだね。ひよつとかして、私(わし)の方(はう)さ出来(でき)が佳(よ)くば、相談対手(さうだんあひて)に成(な)れるだでの、可(いゝ)か、さあ、ござらつせえ。」
と小刀(こがたな)を添(そ)へて突着(つきつ)けた。雪枝(ゆきえ)は胡座(あぐら)を組直(くみなほ)した。
「一(ひ)イ二(ふ)ウ三(み)イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競(かけつくら)のやうだの。何(なに)も前後(あとさき)に構(かま)ひごとはねえだよ。お前様(めえさま)串戯(じやうだん)ごとではあんめえが、何(なん)でも仕事(しごと)するには元気(げんき)に限(かぎ)るだで、景気(けいき)をつけるだ。――可(えゝ)かの、一(ひ)イ二(ふ)ウ三(み)イで、遣(や)りかけるだ。一(ひ)イ二(ふ)ウ三(み)イ! はツはツはツ。」
 笑(わら)ひかけて、済(す)まして遣(や)り出(だ)す。老爺(ぢゞい)の手(て)にも小刀(こがたな)が動(うご)く、と双(なら)んで二挺(にちやう)、日(ひ)の光(ひかり)に晃々(きら/\)と閃(きらめ)きはじめた……掌(たなそこ)の木(き)の枝(えだ)は、其(そ)の小刀(こがたな)の輝(かゞや)くまゝに、恰(あたか)も鰭(ひれ)を振(ふる)ふと見(み)ゆる、香川雪枝(かがはゆきえ)[#「香川雪枝(かがはゆきえ)」はママ]も、さすがに名(な)を得(え)た青年(わかもの)であつた。
 と此(こ)の老爺(ぢゞい)と雪枝(ゆきえ)とが、旭(あさひ)に向(むか)つて濠端(ほりばた)に小刀(こがたな)を使(つか)ふ。前面(ぜんめん)の大手(おほて)の彼方(かなた)に、城址(しろあと)の天守(てんしゆ)が、雲(くも)の晴(は)れた蒼空(あをぞら)に群山(ぐんざん)を抽(ぬ)いて、すつくと立(た)つ……飛騨山(ひださん)の鞘(さや)を払(はら)つた鎗(やり)ヶ嶽(だけ)の絶頂(ぜつちやう)と、十里(じふり)の遠近(をちこち)に相対(あひたい)して、二人(ふたり)の頭上(づじやう)に他(た)の連峯(れんぽう)を率(ひき)ゐて聳(そび)ゆる事(こと)を忘(わす)れてはならぬ。
 件(くだん)の天守(てんしゆ)の棟(むね)に近(ちか)い、五階目(ごかいめ)あたりの端近(はしぢか)な処(ところ)へ出(で)て、霞(かすみ)を吸(す)ひつゝ大欠伸(おほあくび)を為(し)た坊主(ばうず)がある。


       双六盤(すごろくばん)


         三十七

 雪枝(ゆきえ)は合掌(がつしよう)して跪(ひざまづ)いた。
 渠(かれ)の前(まへ)には、一座(いちざ)滑(なめら)かな盤石(ばんじやく)の、其(そ)の色(いろ)、濃(こ)き緑(みどり)に碧(あを)を交(まじ)へて、恰(あだか)も千尋(せんじん)の淵(ふち)の底(そこ)に沈(しづ)んだ平(たひら)かな巌(いは)を、太陽(ひ)の色(いろ)も白(しろ)いまで、霞(かすみ)の満(み)ちた、一塵(いちぢん)の濁(にご)りもない蒼空(あをぞら)に、合(あは)せ鏡(かゞみ)して見(み)るやうな……大(おほき)さは然(さ)れば、畳(たゝみ)三畳(さんでふ)ばかりと見(み)ゆる、……音(おと)に聞(き)く、飛騨国(ひだのくに)吉城郡(よしきごふり)神宝(かんたから)の山奥(やまおく)にありと言(い)ふ、双六谷(すごろくだに)の名(な)に負(お)へる双六巌(すごろくいは)は是(これ)ならむ。巌(いは)の面(おもて)に浮模様(うきもやう)、末(すそ)を揃(そろ)へて、上下(うへした)に香(かう)の図(づ)を合(あ)はせたやうな柳条(しま)があり、虹(にじ)を削(けづ)つて画(ゑが)いた上(うへ)を、ほんのりと霞(かすみ)が彩(いろど)る。
 背後(うしろ)を囲(かこ)つた、若草(わかくさ)の薄紫(うすむらさき)の山懐(やまふところ)に、黄金(こがね)の網(あみ)を颯(さつ)と投(な)げた、日(ひ)の光(ひかり)は赫耀(かくやく)として輝(かゞや)くが、人(ひと)の目(め)を射(ゐ)るほどではなく、太陽(たいやう)は時(とき)に、幽(かすか)に遠(とほ)き連山(れんざん)の雪(ゆき)を被(かつ)いだ白蓮(びやくれん)の蕋(しべ)の如(ごと)くに見(み)えた。……次第(しだい)に近(ちか)く此処(こゝ)に迫(せま)る山(やま)と山(やま)、峯(みね)と峯(みね)との中(なか)を繋(つな)いで蒼空(あをぞら)を縫(ぬ)ふ白(しろ)い糸(いと)の、遠(とほ)きは雲(くも)、やがて霞(かすみ)、目前(まのあたり)なるは陽炎(かげらふ)である。
 陽炎(かげらふ)は、爾(しか)く、村里(むらざと)町家(まちや)に見(み)る、怪(あや)しき蜘蛛(くも)の囲(ゐ)の乱(みだ)れた、幻影(まぼろし)のやうなものでは無(な)く、恰(あだか)も練絹(ねりぎぬ)を解(と)いたやうで、蝶(てふ/\)のふわ/\と吐(つ)く呼吸(いき)が、其(その)羽(はね)なりに飜々(ひら/\)と拡(ひろ)がる風情(ふぜい)で、然(しか)も皆(みな)美(うつく)しい女(をんな)の姿(すがた)を象(かたど)る。其(そ)の或(ある)ものは裳(もすそ)黄(き)に、或(ある)ものは袖(そで)紫(むらさき)に……
 紫(むらさき)なるは菫(すみれ)の影(かげ)で、黄(き)なるは鼓草(たんぽゝ)の花(はな)の映(うつ)り添(そ)ふ色(いろ)であつた。
 巌(いは)のあたりは、此(こ)の二種(ふたいろ)の花(はな)、咲(さ)き埋(うづ)むばかり満(み)ちて居(ゐ)る……其等(それら)色(いろ)ある陽炎(かげらふ)の、いづれ手(て)にも留(と)まらぬ女(をんな)の風情(ふぜい)した中(なか)に、唯(たゞ)一人(いちにん)濃(こまや)かに雪(ゆき)を束(つか)ねたやうな美女(たをやめ)があつて、巌(いは)の彼方(かなた)に恰(あだか)も卓(つくえ)に向(むか)つて立(た)つ状(さま)して彳(たゝず)んだ。
 雪枝(ゆきえ)は其(そ)の美女(たをやめ)を前(まへ)に盤石(ばんじやく)を隔(へだ)てゝ蹲(うづくま)つたのである……
 双六巌(すごろくいは)の、其(そ)の虹(にじ)の如(ごと)き格目(こまめ)は、美女(たをやめ)の帯(おび)のあたりをスーツと引(ひ)いて、其処(そこ)へも紫(むらさき)が射(さ)し、黄(き)が映(うつ)る……雲(くも)は、霞(かすみ)は、陽炎(かげらふ)は、遠近(をちこち)に尽(こと/″\)く此(こ)の美女(たをやめ)を形(かたち)づくるために、濃(こ)くも薄(うす)くも懸(かゝ)るらし。其(そ)の形(かたち)の厳(おごそか)なるは、白銀(しろがね)の鎧(よろひ)して彼(かれ)を守護(しゆご)する勇士(いうし)の如(ごと)く、其(そ)の姿(すがた)の優(やさ)しいのは、姫(ひめ)に斉眉(かしづ)く侍女(じぢよ)かと見(み)える。
 美女(たをやめ)の背後(うしろ)に当(あた)る……其(そ)の山懐(やまふところ)に、唯(たゞ)一本(ひともと)、古歌(こか)の風情(ふぜい)の桜花(さくらばな)、浅黄(あさぎ)にも黒染(すみぞめ)にも白妙(しろたへ)にも咲(さ)かないで、一重(ひとへ)に颯(さつ)と薄紅(うすくれなゐ)。
 色(いろ)が美女(たをやめ)の瞼(まぶた)にさし、影(かげ)が美女(たをやめ)の衣(きぬ)を通(とほ)す……
 雪枝(ゆきえ)が路(みち)を分(わ)け、巌(いは)を伝(つた)ひ、流(ながれ)を渉(わた)り、梢(こずゑ)を攀(よ)ぢ、桂(かつら)を這(は)つて、此処(こゝ)に辿(たど)り着(つ)いた山蔭(やまかげ)に、はじめて見(み)たのは此(こ)の桜(さくら)で。……
 一行(いつかう)は、渠(かれ)と、老爺(おやぢ)と、別(べつ)に一人(ひとり)、背(せ)の高(たか)い、色(いろ)の蒼(あを)い坊主(ばうず)であつた。
 是(これ)より前(さき)、雪枝(ゆきえ)は城趾(しろあと)の濠端(ほりばた)で、老爺(ぢい)と並(なら)んで、殆(ほとん)ど小学生(せうがくせい)の態度(たいど)を以(もつ)て、熱心(ねつしん)に魚(うを)の形(かたち)を刻(きざ)みながら、同時(どうじ)に製作(せいさく)しはじめた老爺(ぢい)の手振(てぶり)を見(み)るべく……密(そつ)と傍見(わきみ)して、フト其(そ)の目(め)を外(そ)らした時(とき)、天守(てんしゆ)の矢間(やざま)を湧(わ)いて出(で)るやうな黒坊主(くろばうず)の姿(すがた)を見(み)たが、烏(からす)か、梟(ふくろう)か、と思(おも)つた。
 が、大牛(おほうし)が居(ゐ)る、妻(つま)の囚(とら)はれた魔(ま)の城(しろ)である……よし其(それ)が天狗(てんぐ)でも、気(き)を散(ち)らす処(ところ)でない。爰(こゝ)に一刀(いつたう)を下(お)ろすは、彼(かれ)を救(すく)ふ一歩(いつぽ)である、と爽(さはや)かに木削(きくづ)を散(ち)らして一思(ひとおも)ひに刻(きざみ)果(は)てた。
『どう、見(み)せさつせえ。』
 疾(と)く我(わ)が小刀(こがたな)を袋(ふくろ)に納(をさ)めて、頤杖(あごづゑ)して待(ま)つて居(ゐ)た老爺(ぢい)は、雪枝(ゆきえ)の作品(さくひん)を掌(て)に据(す)えて煙管(きせる)を啣(くは)えた。
『おゝ、出来(でき)た。ぴち/\と刎(は)ねる……いや、恁(か)うあらうと思(おも)ふた……見事(みごと)なものぢや、乾(かはか)して置(お)くと押死(おつち)ぬべい、それ、勝手(かつて)に泳(およ)げ!』とひよいと、放(はふ)ると、濠(ほり)の水(みづ)へばちやりと落(お)ちた。が、腹(はら)を出(だ)して浮脂(きら)の上(うへ)にぶくりと浮(う)く。

         三十八

『そりや少(わか)い魚(うを)の元気(げんき)を見習(みなら)へ。汝(ぬし)も、ばちや/\と泳(およ)げい。』
 で、老爺(ぢい)は今度(こんど)は自分(じぶん)の刻(きざ)んだ魚(うを)を、これは又(また)、不状(ぶざま)に引握(ひんにぎ)つたまゝ斉(ひと)しく投(な)げる、と※(しぶき)[#「さんずい+散」、163-9]が立(た)つたが、浮草(うきくさ)を颯(さつ)と分(わ)けて、鰭(ひれ)を縦(たて)に薄黒(うすぐろ)く、水際(みづぎは)に沈(しづ)んでスツと留(とま)る。ト雪枝(ゆきえ)の作品(さくひん)と並(なら)べた処(ところ)は、恰(あだか)も釣糸(つりいと)に繋(か)けた浮木(うき)が魚(さかな)を追(お)ふ風情(ふぜい)であつた。……
 何(なに)をか試(こゝろ)むる、と怪(あやし)んで、身(み)を起(おこ)し汀(みぎは)に立(た)つて、枯蘆(かれあし)の茎(くき)越(ごし)に、濠(ほり)の面(おもて)を瞻(みつ)めた雪枝(ゆきえ)は、浮脂(きら)の上(うへ)に、明(あきら)かに自他(じた)の優劣(いうれつ)の刻(きぎ)み着(つ)けられたのを悟得(さとりえ)て、思(おも)はず……
『はつ、』と歎息(たんそく)した。
 老爺(ぢい)は、もつぺの膝(ひざ)の小刀屑(こがたなくづ)を払(はた)きながら、眉(まゆ)をふさ/\と揺(ゆす)つて笑(わら)ひ、
『はつはつはつ一(ひ)イ二(ふ)ウ三(み)い! 私等(わしら)が勝(かち)ぢや。見(み)さつせえ、形(かたち)は同(おな)じやうな出来(でき)だが、の、お前様(めえさま)の鮒(ふな)は水(みづ)に入(い)れると腹(はら)を出(だ)いたで、死(お)ちた魚(いを)よ、……私等(わしら)が鮒(ふな)は、泳(およ)ぎ得(え)いでも、鰭(ひれ)を立(た)てたれば活(い)きた奴(やつ)。何(なん)とした処(ところ)で、俎(まないた)に乗(の)せれば、人間(にんげん)の口(くち)に食(く)へいでも、翡翠(かはせみ)が来(き)て狙(ねら)ふたら、ちよつくら潜(もぐ)つて遁(に)げべいさ。
 囲炉裏(ゐろり)の自在竹(じざいだけ)に引懸(ひつか)ける鯉(こひ)にしても、水(みづ)へ放(はな)せば活(い)きねばならぬ。お前様(めえさま)の鮒(ふな)のやうに、へたりと腹(はら)を出(だ)いては明(あ)かねえ。木(き)を削(けづ)る時(とき)の釣合(つりあひ)一(ひと)つで、水(みづ)に入(い)れた時(とき)浮(う)き方(かた)が違(ちが)ふでねえかの、縦(たて)に留(と)まれば生(しやう)がある、横(よこ)に寝(ね)れば、死(し)んだりよ。……煩(むづ)ヶ敷(し)い事(こと)ではねえだ。
 が、お前様(めえさま)、此(こ)の手際(てぎは)では、昨夜(ゆふべ)造(つく)り上(あ)げて、お天守(てんしゆ)へ持(も)つてござつた木像(もくざう)も、矢張(やつぱり)同(おな)じ型(かた)ではねえだか。……寸法(すんぽふ)が同(おな)じでも脚(あし)の筋(すぢ)が釣(つ)つて居(を)らぬか、其(それ)では跛足(びつこ)ぢや。右(みぎ)と左(ひだり)と腕(うで)の釣合(つりあひ)も悪(わる)かつたんべい。頬(ほつ)ぺたの肉(にく)が、どつちか違(ちが)へば、片(かた)がりべいと言(い)ふ不具(かたわ)ぢや、それでは美(うつく)しい女(をんな)でねえだよ。
 もし、へい、五体(ごたい)が満足(まんぞく)な彫刻物(ほりもの)であつたらば、真昼間(まつぴるま)、お前様(めえさま)と私(わし)とが、面(つら)突合(つきあ)はせた真中(まんなか)に置(お)いては動出(うごきだ)しもすめえけんども、月(つき)の黄色(きいろ)い小雨(こさめ)の夜中(よなか)、――主(ぬし)が今(いま)話(はな)さしつた、案山子(かゝし)が歩行(ある)く中(なか)へ入(い)れたら、ひとりで褄(つま)を取(と)つて、しやなら、しやならと行(や)るべい。何(なに)も、破(やぶ)れ傘(がさ)の化(ば)け車(ぐるま)に骨(ほね)を折(を)らせて運(はこ)ばせずと済(す)む事(こと)よ。平時(いつも)なら兎(と)も角(かく)ぢや、お剰(まけ)に案山子(かゝし)どもが声(こゑ)を出(だ)いて、お迎(むか)ひ、と言(い)ふ世界(せかい)なら、第一(だいゝち)お前様(めえさま)が其(そ)の像(ざう)を担(かつ)いで出(で)る法(ほふ)はあるめえ。何(なん)ではい、歩行(ある)け、さあ、木像(もくざう)、と言(い)ふ腹(はら)に成(な)らしやらぬ。……
 其(それ)では魔物(まもの)が不承知(ふしようち)ぢや。前方(さき)に些(ちつ)とも無理(むり)はねえ、気(き)に入(い)るも入(い)らぬもの……出来(でき)不出来(ふでき)は最初(せえしよ)から、お前様(めえさま)の魂(たましひ)にあるでねえか。
 其処(そこ)へ懸(か)けては我等(わしら)が鮒(ふな)ぢや。案山子(かゝし)が簑(みの)を捌(さば)いて捕(と)らうとするなら、ぴち/\刎(は)ねる、見事(みごと)に泳(およ)ぐぞ。老爺(ぢい)が広言(くわうげん)を吐(は)くではねえ。何(なん)の、橋(はし)の欄干(らんかん)が声(こゑ)を出(だ)す、槐(えんじゆ)が嚏(くしやみ)をすべいなら、鱗(うろこ)を光(ひか)らし、雲(くも)を捲(ま)いて踊(をどり)を踊(をど)らう。
 遣直(やりなほ)さつしやい、新(あらた)にはじめろ、最一(まひと)つ作(つく)れさ。
 何(ど)うやらお前様(めえさま)より増(まし)だんべいで、出来(でき)る事(こと)さ助言(じよごん)も為(し)べい、為(し)て可(い)い処(ところ)は手伝(てつだ)ふべい。
 腰(こし)につけて道具(だうぐ)も揃(そろ)ふ。』
と箙(えびら)の如(ごと)く、麻袋(あさぶくろ)を敲(たゝ)いて言(い)つた。
『すかりと斬(き)れるぞ。残(のこ)らず貸(か)すべい。兵粮(へうらう)も運(はこ)ぶだでの! 宿(やど)へも祠(ほこら)へも帰(かへ)らねえで、此処(こゝ)へ確乎(しつかり)胡座(あぐら)を掻(か)けさ。下腹(したはら)へうむと力(ちから)を入(い)れるだ。雨露(あめつゆ)を凌(しの)ぐなら、私等(わしら)が小屋(こや)がけをして進(しん)ぜる。大目玉(おほめだま)で、天守(てんしゆ)を睨(にら)んで、ト其処(そこ)に囚(と)られてござるげな、最惜(いとをし)い、魔界(まかい)の業苦(がうく)に、長(なが)い頭髪(かみのけ)一筋(ひとすぢ)づゝ、一刻(いつこく)に生血(いきち)を垂(た)らすだ、奥様(おくさま)の苦脳(くなう)を忘(わす)れずに、飽(あ)くまで行(や)れさ、倒(たふ)れたら介抱(かいはう)すべい。』
 雪枝(ゆきえ)は満面(まんめん)に紅(くれなゐ)を濯(そゝ)いで、天守(てんしゆ)に向(むか)つて峯(みね)より高(たか)く握拳(にぎりこぶし)を衝(つ)と上(あ)げた。
『少(わか)いものを唆(そゝの)かして要(い)らぬ骨(ほね)を折(を)らせるな、娑婆(しやば)ツ気(け)な老爺(おやぢ)めが、』
と二人(ふたり)の背後(うしろ)にぬいと立(た)つた……
 苔(こけ)かと見(み)ゆる薄毛(うすげ)の天窓(あたま)に、笠(かさ)も被(かぶ)らず、大木(たいぼく)の朽(く)ちたのが月夜(つきよ)に影(かげ)の射(さ)すやうな、ぼけやた色(いろ)の黒染(すみぞめ)扮装(でたち)で、顔(かほ)の蒼(あを)い大入道(おほにうだう)!
 振向(ふりむ)いた老爺(おやぢ)の顔(かほ)を瞰下(みお)ろして、
『覚(おぼ)えて居(ゐ)るか、暗(やみ)の晩(ばん)を、』と北叟笑(ほくそゑ)みした頬(ほゝ)が暗(くら)い。


       人(ひと)さし指(ゆび)


         三十九

『おゝ、御坊(ごばう)?』
『何日(いつ)かの晩(ばん)の!』
 雪枝(ゆきえ)と老爺(ぢい)は左右(さいう)から斉(ひと)しく呼(よ)ばわる。
『御身(おみ)も其(そ)の時(とき)の少(わか)い人(ひと)な。』と雪枝(ゆきえ)に向(む)いて、片頬(かたほゝ)を又(また)暗(くら)うして薄笑(うすわら)ひを為(し)た。
『血気(けつき)に逸(はや)つて、うか/\と老爺(ぢい)の口(くち)に乗(の)らぬが可(い)い。……其(そ)の気(き)で城趾(しろあと)に根(ね)を生(はや)いて、天守(てんしゆ)と根較(こんくら)べを遣(や)らうなら、御身(おみ)は蘆(あし)の中(なか)の鉋屑(かんなくづ)、蛙(かへる)の干物(ひもの)と成果(なりは)てやうぞ……此(この)老爺(ぢい)はなか/\術(て)がある! 蝙蝠(かはほり)を刻(きざ)んで飛(と)ばせ、魚(うを)を彫(ほ)つて泳(およ)がせる代(かはり)には、此(こ)の年紀(とし)をして怪(け)しからず、色気(いろけ)がある、……あるは可(い)いが、汝(うぬ)が身(み)で持余(もてあ)ました色恋(いろこひ)を、ぬつぺりと鯰抜(なまづぬ)けして、人(ひと)にかづけやうとするではないか。城(じやう)ヶ沼(ぬま)の暗夜(やみ)を思(おも)へ!
 何(なに)か、自分(じぶん)に此(こ)の天守(てんしゆ)の主人(あるじ)から、手間賃(てまちん)の前借(まへがり)をして居(を)つて、其(そ)の借(かり)を返(かへ)す羽目(はめ)を、投遣(なげや)りに怠惰(なまけ)を遣(や)り、格合(かくかう)な折(をり)から、少(わか)いものを煽(あふ)り立(た)つて、身代(みがは)りに働(はたら)かせやう気(き)かも計(はか)られぬ。』
『これ、これ、御坊(ごばう)、御坊(ごばう)、』と言(い)つて締(しま)つた口(くち)を尖(とが)らかす。
 相対(あひたひ)する坊主(ばうず)の口(くち)は、三日月形(みかづきなり)に上(うへ)へ大(おほ)きい、小鼻(こばな)の条(すぢ)を深(ふか)く莞(にや)つて、
『いや、暗(やみ)の夜(よ)を忘(わす)れまい。沼(ぬま)の中(なか)へ当(あて)の無(な)い経(きやう)読(よ)ませて、斎非時(ときひじ)にとて及(およ)ばぬが、渋茶(しぶちや)一(ひと)つ振舞(ふるま)はず、既(すん)での事(こと)に私(わし)は生涯(しやうがい)坊主(ばうず)の水車(みづぐるま)に成(な)らうとした。』
『む、まづ出家(しゆつけ)の役(やく)ぢや……断念(あきら)めさつしやい。然(さ)う又(また)一慨(いちがい)に説法(せつぽふ)されては、一言(いちごん)もねえ事(こと)よ。……けんども、やきもきと精出(せいだ)いて人(ひと)の色恋(いろこひ)で気(き)を揉(も)むのが、主(ぬし)たち道徳(だうとく)の役(やく)だんべい、押死(おつち)んだ魂(たましひ)さ導(みちび)くも勤(つとめ)なら、持余(もてあま)した色恋(いろこひ)の捌(さばき)を着(つ)けるも法(ほふ)ではねえだか、の、御坊(ごばう)。』
『然(さ)ればな……いや口(くち)の減(へ)らぬ老爺(ぢゞい)、身勝手(みがつて)を言(い)ふが、一理(いちり)ある。――処(ところ)でな、あの晩(ばん)四(よ)つ手網(であみ)の番(ばん)をしたが悪縁(あくえん)ぢや、御身(おみ)が言(い)ふ通(とほ)り色恋(いろこひ)の捌(さばき)を頼(たの)まれた事(こと)と思(おも)へ。
 別(べつ)ではない、此(こ)の少(わか)い人(ひと)の内儀(ないぎ)の事(こと)でな、』
 雪枝(ゆきえ)は屹(きつ)と向直(むきなほ)つた。
 流盻(しりめ)に掛(か)けつゝ尚(な)ほ老爺(ぢい)に、
『……其(そ)の夜(よ)、夢幻(ゆめまぼろし)のやうに言托(ことづけ)を頼(たの)まれて、采(さい)を験(しるし)に受取(うけと)つたは、さて此方衆(こなたしゆ)知(し)つての通(とほ)りだ。――頼(たの)まれた事(こと)は手廻(てまは)しに用済(ようず)みと成(な)つたでな、翌朝(あけのあさ)直(すぐ)にも、此処(こゝ)を出発(しゆつぱつ)と思(おも)ふたが、何(なに)か気(き)に成(な)る……温泉宿(おんせんやど)、村里(むらざと)を托鉢(たくはつ)して、何(なに)となく、ふら/\と日(ひ)を送(おく)つた。其(そ)の様子(やうす)を聞(き)けば、私(わし)が言托(ことづけ)を為(し)た通(とほ)り、何(なに)か、内儀(ないぎ)の形代(かたしろ)を一心(いつしん)に刻(きざ)むと聞(き)く、……其(それ)が成就(じやうじゆ)したと言(い)ふ昨夜(ゆふべ)ぢや。少(わか)い人(ひと)が人形(にんぎやう)を運(はこ)んで行(ゆ)く後(あと)になり前(さき)になり、天守(てんしゆ)へ入(はい)つて四階目(しかいめ)へ上(のぼ)つた、処(ところ)、柱(はしら)の根(ね)に其(そ)の木像(もくざう)を抱緊(だきし)めて、死(し)んだやうに眠(ねむ)つて居(を)る。
 はてな、内儀(ないぎ)を未(ま)だ返(かへ)さぬか、一体(いつたい)どんな魔物(まもの)が棲(す)むぞ。――其処(そこ)へ行(ゆ)くまでには何(なに)も目(め)に着(つ)いたものは無(な)かつたに因(よ)つて――尚(な)ほ此(こ)の上(うへ)か、と最一(もうひと)ツ五階(ごかい)へ上(のぼ)つて見(み)た。様子(やうす)は知(し)れた。』
と頷(うなづ)いて言(い)つた。
『何(なに)が、何者(なにもの)が居(ゐ)るんだ。』と雪枝(ゆきえ)は苛立(いらだ)つて犇(ひし)と詰寄(つめよ)る。
 遮(さへぎ)る如(ごと)く斜(しや)に構(かま)へて、
『いや、何(なに)か分(わか)らん、ものは見(み)えん。が、五階(ごかい)へ上(のぼ)り切(き)つて、堅(かた)い畳(たゝみ)の上(うへ)に立(た)つた。冷(つめた)い風(かぜ)が冷(ひや)りと来(く)ると、左(ひだり)の腕(うで)がびくりと動(うご)く、と引立(ひつた)てたやうに、ぐいと上(あが)つて、人指指(ひとさしゆび)がぶる/″\と振(ふる)ふとな、何(なに)かゞ口(くち)を利(き)くと同(おな)じに、其(そ)の心(こゝろ)が耳(みゝ)に通(つう)じた。……
 天守(てんしゆ)の主人(あるじ)は、御身(おみ)が内儀(ないぎ)の美艶(あでやか)な色(いろ)に懸想(けさう)したのぢや。理(り)も非(ひ)もない、業(ごふ)の力(ちから)で掴取(つかみと)つて、閨(ねや)近(ちか)く幽閉(おしこ)めた。従類(じうるゐ)眷属(けんぞく)寄(よ)りたかつて、上(あ)げつ下(お)ろしつ為(し)て責(せ)め苛(さいな)む、笞(しもと)の呵責(かしやく)は魔界(まかい)の清涼剤(きつけ)ぢや、静(しづか)に差置(さしお)けば人間(にんげん)は気病(きやみ)で死(し)ぬとな……
 言(い)ふまでもない肉(にく)を屠(ほふ)つて其(そ)の血(ち)を啜(すゝ)るに仔細(しさい)はないが、夫(をつと)は香村雪枝(かむらゆきえ)とか。天晴(あつぱ)れ一芸(いちげい)のある効(かひ)に、其(そ)の術(わざ)を以(もつ)て妻(つま)を償(あがな)へ! 魔神(まじん)を慰(なぐさ)め楽(たの)しますものゝ、美女(びじよ)に代(か)へて然(しか)るべきなら立処(たちどころ)に返(かへ)し得(え)さする。――
 可(い)いかな、此(こ)の心(こゝろ)は早(は)や御身(おみ)が内儀(ないぎ)に、私(わし)が頼(たの)まれて、御身(おみ)に伝(つた)へた。』

         四十

『活(い)けて視(なが)めうと思(おも)ふ花(はな)を、苞(つと)のまゝ室(へや)に寝(ね)かせて置(お)いて、待搆(まちかま)へた償(つくな)ひの彼(かれ)は何(なん)ぢや! 聾(つんぼ)の、唖(をうし)の、明盲人(あきめくら)の、鮫膚(さめはだ)で腰(こし)の立(た)たぬ、針線(はりがね)のやうな縮毛(ちゞれつけ)、人膚(ひとはだ)の留木(とめき)の薫(かをり)の代(かは)りに、屋根板(やねいた)の臭(にほひ)の芬(ぷん)とする、いぢかり股(また)の、腕脛(うですね)の節(ふし)くれ立(た)つた木像女(もくざうをんな)が何(なに)に成(な)る! ……悪(わる)く拳(こぶし)に采(さい)を持(も)たせて、不可思議(ふかしぎ)めいた、神通(じんつう)めいた、何(なに)となく天地(あめつち)の、言(い)ふに言(い)はれぬ心(こゝろ)を籠(こ)めたらしい所業(しわざ)が可笑(をか)しい。笑止千万(せうしせんばん)な大白痴(おほたはけ)!』
『ヌ、』とばかりで、下唇(したくちびる)をぴりゝと噛(か)んで、思(おも)はず掴懸(つかみかゝ)らうとすると、鷹揚(おうやう)に破法衣(やぶれごろも)の袖(そで)を開(ひら)いて、翼(つばさ)の目潰(めつぶし)、黒(くろ)く煽(あふ)つて、
『と、な、……天守(てんしゆ)の主人(あるじ)が言(い)はるゝのぢや……それが何(なに)もない天井(てんじやう)から、此(こ)の指(ゆび)にぶる/\と響(ひゞ)いて聞(き)こえた。』
 衝(つ)と、天守(てんしゆ)の棟(むね)を切(き)つて、人指指(ひとさしゆび)を空(そら)に延(の)ばすと、雪枝(ゆきえ)は蒼(あを)く成(な)つて、ばつたり膝支(ひざつ)く。
 負(ま)けぬ気(き)の老爺(ぢい)は、前屈(まへこゞ)みに腰(こし)を入(い)れて、
『分(わか)つた、分(わか)つたよ、御坊(ごばう)。お前様(めえさま)が、仏(ほとけ)でも鬼(おに)でも、魔物(まもの)でも、唯(たゞ)の人間(にんげん)の坊様(ばうさま)でも可(え)え。言(い)はつしやる事(こと)は腑(ふ)に落(お)ちた……疾(はや)い話(はなし)が、此(こ)の人(ひと)な持(も)つて行(い)つたは、腹(はら)を出(だ)いた鮒(ふな)だで、美(うつく)しい奥様(おくさま)とは取替(とりか)へぬ。……鰭(ひれ)を立(た)てた魚(うを)を持(も)ち来(こ)い、返(かへ)して遣(や)ると、恁(か)うだんべい。
 さ、其処(そこ)ぢやい! 其処(そこ)どころぢやに因(よ)つて私(わし)が後見(かうけん)助言(じよごん)の為(し)て、勝(すぐ)れた、優(まさ)つた、新(あたら)しい、……可(いゝ)かの、生命(いのち)のある……肉附(にくづき)もふつくりと、脚腰(あしこし)もすんなりした、膚(はだ)の佳(い)い、月(つき)に立(た)てば玉(たま)のやう、日(ひ)に向(むか)へば雪(ゆき)のやうな、へい、魔王殿(まわうどの)が一目(ひとめ)見(み)たら、松脂(まつやに)の涎(よだれ)を流(なが)いて、魂(たましひ)が夜這星(よばひぼし)に成(な)つて飛(と)ぶ……乳(ちゝ)の白(しろ)い、爪紅(つめべに)の赤(あか)い奴(やつ)を製作(こさ)へると言(い)はぬかい!
 少(わか)いものを唆(そゝの)かして、徒労力(むだぼね)を折(を)らせると何故(あぜ)で言(い)ふのぢや。御坊(ごばう)、飛騨山(ひだやま)の菊松(きくまつ)が、烏帽子(えばうし)を冠(かぶ)つて、向顱巻(むかふはちまき)を為(し)て手伝(てつだ)つて、見事(みごと)に仕上(しあ)げさせたら何(なん)とする。』
『然(さ)れば、言(い)ふ通(とほ)りに仕上(しあが)つて、其処(そこ)で其(そ)の木像(もくざう)が動(うご)くかな、目(め)を働(はたら)かすかな、指(さ)す手(て)は伸(の)び、引(ひ)く手(て)は曲(まが)るか、足(あし)は何(ど)うじや、歩行(ある)くかな。』
と皆(みな)まで言(い)はせず、老爺(ぢい)が其(そ)の眉(まゆ)、白銀(しろがね)の如(ごと)き光(ひかり)を帯(お)びて、太陽(ひ)に向(むか)ふ目(め)を輝(かゞや)かした。手拍子(てべうし)拍(う)つやう、腰(こし)の麻袋(あさぶくろ)をはた/\と敲(たゝ)いたが、鬼(おに)に向(むか)つて臀(いしき)を掻(か)く、大胆不敵(だいたんふてき)の状(さま)が見(み)えた。
『天守(てんしゆ)の魔物(まもの)は何時(いつ)から棲(す)むよ。飛騨国(ひだのくに)の住人(じうにん)日本(につぽん)の刻彫師(ほりものし)、尾(を)ヶ瀬(せ)菊之丞(きくのじやう)孫(まご)の菊松(きくまつ)、行年(ぎやうねん)積(つも)つて七十一歳(しちじふいつさい)。極楽(ごくらく)から剰銭(つりせん)を取(と)る年(とし)で、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の女(をんな)の影(かげ)に憂身(うきみ)を窶(やつ)すお庇(かげ)には、動(うご)く、働(はたら)く、彫刻物(ほりもの)は活(い)きて歩行(ある)く……独(ひと)りですら/\と天守(てんしゆ)へ上(あが)つて、魔物(まもの)の閨(ねや)に推参(すゐさん)する、が、張(はり)も意地(いぢ)も着(つ)いて居(を)るぞ、其(そ)の時(とき)嫌(きら)はれぬ用心(ようじん)さつせえ、と御坊(ごばう)に言托(ことづけ)を頼(たの)まうかい。』
『可(よ)い、可(よ)い。』
 ニヤ/\と両(りやう)の頬(ほゝ)を暗(くら)くして、あの三日月形(みかづきなり)の大口(おほぐち)を、食反(くひそ)らして結(むす)んだまゝ、口元(くちもと)をひく/\と舌(した)の赤(あか)う飜(かへ)るまで、蠢(うご)めかせた笑(わら)ひ方(かた)で、
『面白(おもしろ)い! 旅(たび)のものぢやが、其(それ)も聞(き)いた。此方(こなた)が手遊(てあそ)びに拵(こしら)える、五位鷺(ごゐさぎ)の船頭(せんどう)は、翼(つばさ)で舵取(かぢと)り、嘴(くちばし)で漕(こ)いで、水(みづ)の中(なか)で火(ひ)を吐(は)くとな………』
『天守(てんしゆ)の上(うへ)から御覧(ごらん)なされ、太夫(たいふ)ほんの前芸(まへげい)にござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンと頭(かしら)を下(さ)げて揉手(もみで)を為(し)て言(い)ふ。
『おゝ、其(そ)の面魂(つらだましひ)頼母(たのも)しい。満更(まんざら)の嘘(うそ)とは思(おも)はん。成程(なるほど)此方(こなた)が造(つく)つた像(ざう)は、目(め)も瞬(またゝ)かう、歩行(ある)かう、厭(いや)なものには拗(す)ねもせう。……然(さ)れば御身(おみ)は、少(わか)いものゝ尻圧(しりおし)して石(いし)に成(な)るまでも働(はたら)け、と励(はげ)ますのぢや。で、唆(そゝの)かすとは思(おも)ふまい。徒労力(むだぼね)をさせるとは知(し)るまい。が、私(わし)は、無駄(むだ)ぢや留(や)めい、と勧(すゝ)める……其(そ)の理由(わけ)を言(い)うて聞(き)かさう。
 其処(そこ)で、老爺(おやぢ)、』
『おい、』
『御身(おみ)が言(い)ふ、其(そ)の像(ざう)には血(ち)が通(かよ)ふか、』
『血(ち)が通(かよ)ふだ?』と聞返(きゝかへ)す。
『然(さ)ればよ、針(はり)の尖(さき)で突(つ)いても生命(いのち)を絞(しぼ)る、其(そ)の、あの人間(にんげん)の美(うつく)しい血(ち)が通(かよ)ふかな。』
『…………』と老爺(ぢい)の眉(まゆ)がはじめて顰(ひそ)む。

         四十一

 黒坊主(くろばうず)は嵩(かさ)に懸(かゝ)つて、
『まだ聞(き)きたい。御身(おみ)が作(さく)の其(そ)の膚(はだ)は滑(なめら)かぢやらう。が、肉(にく)はあるか、手(て)に触(ふ)れて暖味(あたゝかみ)があるか、木像(もくざう)の身(み)は冷(つめ)たうないか。』
『はてね、』と問(とひ)を怪(あやし)む中(なか)に、些(ち)とひるんだのが、頬(ほ)に出(い)づる。
『第一(だいゝち)肝要(かんえう)なは口(くち)を利(き)くかな、御身(おみ)の作(さく)は声(こゑ)を出(だ)すか、ものを言(い)ふかな。』
『馬鹿(ばか)な事(こと)を、無理無躰(むりむたい)ぢや。』
と呆果(あきれは)てた様子(やうす)であつた。
『理(り)も非(ひ)もない。はじめから人(ひと)の妻(つま)を掴(つか)み取(と)つてものを云(い)ふ、悪魔(あくま)の所業(しわざ)ぢや、無理(むり)も無躰(むたい)も法外(ほふぐわい)の沙汰(さた)と思(おも)へ。
 此所(こゝ)を聞(き)けよ、二人(ふたり)の人(ひと)。……御身達(おみたち)が、言(い)ふ通(とほ)り、今(いま)新(あたら)しく遣直(やりなほ)せば、幾干(いくら)か勝(すぐ)れたものは出来(でき)やう、がな、其(それ)は唯(たゞ)前(まへ)のに較(くら)べて些(ち)と優(まさ)ると言(い)ふばかりぢや。
 其(それ)も可(よ)からう、何(なに)も持(も)たぬ、空(むな)しい乏(とぼ)しいものに取(と)つたら、御身達(おみたち)が作(つく)り更(あらた)めると云(い)ふ其(そ)の木像(もくざう)でも、無(な)いよりは増(ま)しぢや、品(しな)に因(よ)つて、美(うつく)しいとも、珍(めづ)らしいとも思(おも)はうも知(し)れぬ。
 けれどもな、天守(てんしゆ)の主人(あるじ)は、最(も)う手(て)の内(うち)に、活(い)きた、生命(いのち)ある、ものを言(い)ふ、血(ち)の通(かよ)ふ、艶麗(あでやか)な女(をんな)を握(にぎ)つて居(ゐ)るのぢや。可(よ)いか、其(それ)に代(か)へやうと言(い)ふからには、蛍(ほたる)と星(ほし)、塵(ちり)と山(やま)、露(つゆ)一滴(いつてき)と、大海(だいかい)の潮(うしほ)ほど、抜群(ばつぐん)に勝(すぐ)れた立優(たちまさ)つたもので無(な)いからには、何(なに)を又(また)物好(ものず)きに美女(びぢよ)を木像(もくざう)と取(と)り代(か)へやう。
 彫刻(ほり)した鮒(ふな)の泳(およ)ぐも可(よ)い。面白(おもしろ)うないとは言(い)はぬが、煎(に)る、焼(や)く、或(あるひ)は生(なま)のまゝ其(そ)の肉(にく)を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)(くら)はうと思(おも)ふものに、料理(りやうり)をすれば、炭(すみ)に成(な)る、灰(はひ)に成(な)る、木(き)の切(きれ)を何(なに)にせい、と言(い)ふ了見(れうけん)だ。
 悪魔(あくま)は今(いま)其(そ)の肉(にく)を欲(ほつ)する、血(ち)を求(もと)むる……仏(ほとけ)が鬼女(きぢよ)を降伏(がうぶく)してさへ、人肉(じんにく)のかはりにと、柘榴(ざくろ)を与(あた)へたと言(い)ふでは無(な)いか。
 既(すで)に目指(めざ)す美女(びぢよ)を囚(とら)へて、思(おも)ふがまゝに勝矜(かちほこ)つた対手(あひて)に向(むか)ふて、要(い)らぬ償(つくな)ひの詮議(せんぎ)は留(や)めろ。
 何(ど)うぢや、それとも、御身達(おみたち)に、煙草(たばこ)の吸殻(すゐがら)を太陽(たいやう)の炎(ほのほ)に変(か)へ、悪魔(あくま)の煩脳(ぼんなう)を焼亡(やきほろ)ぼいて美女(びぢよ)を助(たす)ける工夫(くふう)があるか、すりや格別(かくべつ)ぢや。よもあるまい。有(あ)るか、無(な)からう。……
 それ、徒労力(むだぼね)と言(い)ふ事(こと)よ! 要(えう)もない仕事三昧(しごとざんまい)打棄(うつちや)つて、少(わか)い人(ひと)は妻(つま)を思切(おもひき)つて立帰(たちかへ)れえ。老爺(おやぢ)も要(い)らぬ尻押(しりおし)せず、柔順(すなほ)に妻(つま)を捧(さゝ)げるやうに、少(わか)いものを説得(せつとく)せい。
 勝手(かつて)に木像(もくざう)を刻(きざ)まば刻(きざ)め、天晴(あつぱ)れ出来(でか)したと思(おも)ふなら、自分(じぶん)に其(それ)を女房(にようぼう)のかはりにして、断念(あきら)めるが分別(ふんべつ)の為処(しどころ)だ。見事(みごと)だ、美(うつくし)いと敵手(あひて)を強(し)ゆるは、其方(そつち)の無理(むり)ぢや、分(わか)つたか。』
と衝(つ)と指(ゆび)を上(あ)げて雲(くも)を指(さ)した。
『天守(てんしゆ)の主人(あるじ)の言托(ことづけ)は此(こ)の通(とほ)り。更(あらた)めて其(そ)の印(しるし)を見(み)せう、……前刻(さきに)も申(まを)した、鮫膚(さめはだ)の縮毛(ちゞれけ)の、醜(みにく)い汚(きたな)い、木像(もくざう)を、仔細(しさい)ありげに装(よそほ)ふた、心根(こゝろね)のほどの苦々(にが/\)しさに、へし折(を)つて捻切(ねぢき)つた、女(をんな)の片腕(かたうで)、今(いま)返(かへ)すわ、受取(うけと)れ。』
と法衣(ころも)の破目(やぶれめ)を潜(くゞ)らす如(ごと)く、懐(ふところ)から抜(ぬ)いて、ポーンと投出(なげだ)す。
 途端(とたん)に又(また)指(ゆび)を立(た)てつゝ、足(あし)を一巾(ひとはゞ)、坊主(ばうず)が退(さが)つた。孰(いづれ)も首垂(うなだ)れた二人(ふたり)の中(なか)へ、草(くさ)に甲(かう)をつけて、あはれや、其(それ)でも媚(なまめ)かしい、優(やさ)しい腕(かひな)が仰向(あふむ)けに落(お)ちた。
 雪枝(ゆきえ)は唯(たゞ)肩(かた)を抱(いだ)いて身(み)を絞(しぼ)つた。
 老爺(ぢい)は、さすがに、まだ気丈(きじやう)で、対手(あひて)が然(さ)までに、口汚(くちぎたな)く詈(ののし)り嘲(あざ)ける、新弟子(しんでし)の作(さく)の如何(いか)なるかを、はじめて目前(まのあたり)験(ため)すらしく、横(よこ)に取(と)つて熟(じつ)と見(み)て、弱(よわ)つたと言(い)ふ顰(ひそ)み方(かた)で、少時(しばらく)ものも言(い)はなんだ。薄(うす)うは成(な)つたが、失(う)せ果(は)てない、底光(そこひかり)のする目(め)を細(ほそ)うして、
『いや、御出家(ごしゆつけ)。』
と調子(てうし)を変(か)へて……
『虫(むし)の居所(ゐどころ)で赫(くわつ)とも為(し)たがの、考(かんが)えて見(み)れば、お前様(めえさま)は、唯(たゞ)言托(ことづけ)を頼(たの)まれたばかりの事(こと)よ。何(なに)も喰(く)つて懸(かゝ)るには当(あた)らなんだか。……又(また)お前様(めえさま)とても何(なに)もこれ、此(こ)の少(わか)い人(ひと)に怨(うらみ)も恩(おん)も報(むくひ)もあらつしやる次第(しだい)でねえ。……処(ところ)でものは相談(さうだん)ぢやが、何(なん)とかして、其(そ)の奥様(おくさま)を助(たす)けると言(い)ふ工夫(くふう)はねえだか、のう、御坊(ごばう)、人助(ひとだす)けは此方(こなた)の勤(つとめ)ぢや、一(ひと)つ折入(をりい)つて頼(たの)むだで、勘考(かんかう)してくらつせえ。』とがらりと出直(でなほ)る。

         四十二

 これを聞(き)くと、然(さ)もあらむ、と言(い)ふ面色(おもゝち)した坊主(ばうず)の気色(きしよく)やゝ和(やわ)らいで、
『然(さ)れば、然(さ)う言(い)はれると私(わし)も弱(よわ)る。天守(てんしゆ)からは、よく捌(さば)け、最早(もは)や婦(をんな)を思(おも)ひ切(き)るやう少(わか)い人(ひと)を悟(さと)せとある……御身達(おみたち)は生命(いのち)に代(か)へても取戻(とりもど)したいと断(た)つて言(い)ふ。
 で、其(それ)を取戻(とりもど)す唯一(たゞひと)つの手段(てだて)と言(い)ふのが、償(つくな)ひの像(ざう)を作(つく)るにある、其(そ)の像(ざう)が、御身(おみ)たちに、』
『えゝ、えゝ、最(も)う、能(よ)う分(わか)つた。何(なん)ぼ私(わし)が顱巻(はちまき)しても、血(ち)の通(かよ)ふ、暖(あたゝか)い彫刻物(ほりもの)は覚束(おぼつか)ないで、……何(なん)とか別(べつ)の工夫(くふう)を頼(たの)むだ、最(も)う此(こ)なものは、』と手(て)にした腕(かひな)を、思切(おもひき)つたしるしに、擲(たゝきつ)けやうとして揮上(ふりあ)げた、……其(そ)の拳(こぶし)を漏(も)れて、ころ/\と采(さい)が溢(こぼ)れて。一(いち)か六(ろく)か、草(くさ)の中(なか)に、ぽつりと蟋蟀(こほろぎ)の目(め)に留(とま)んぬ。
 三人(さんにん)が熟(じつ)と視(なが)めた。
 坊主(ばうず)が先(ま)づ、
『老爺(おやぢ)……』と心(こゝろ)ありげに呼(よ)んだ。
『はあ、是(これ)ぢや、』
と采(さい)の上(うへ)で蓋(ふた)するやうに、老爺(ぢい)は眉(まゆ)の下(した)へ手(て)を翳(かざ)して、
『ちよつくら気(き)が着(つ)いた事(こと)がある、待(ま)たつせえ、御坊(ごばう)……』
『…………、』
『少(わか)い人(ひと)も何(ど)う思(おも)ふ。お前様(めえさま)が小児(こども)の時(とき)、姉様(あねさま)にして懐(なつ)かしがらしつたと言(い)ふ木像(もくざう)から縁(えん)を曳(ひ)いて、過日(こないだ)奥様(おくさま)の行方(ゆきがた)が分(わか)らなく成(な)つた時(とき)から廻(まは)り繞(めぐ)つて、釆粒(さいつぶ)が着(つ)き絡(まと)ふ、今(いま)此処(こゝ)に采(さい)がある……此(こ)の山奥(やまおく)に双六(すごろく)の巌(いは)がある。其処(そこ)も魔所(ましよ)ぢやと名(な)が高(たか)い。時々(とき/″\)山(やま)が空(くう)に成(な)つて寂(しん)とすると、ころころと采(さい)を投(な)げる音(おと)が木樵(きこり)の耳(みゝ)に響(ひゞ)くとやら風説(ふうせつ)するで。天守(てんしゆ)にも主人(あるじ)があれば双六巌(すごろくいは)にも主(ぬし)が棲(す)まう……どちらも膚合(はだあひ)の同(おな)じ魔物(まもの)が、疾(はえ)え話(はなし)が親類附合(しんるゐつきあひ)で居(ゐ)やうも知(し)れぬだ。魔界(まかい)は又(また)魔界(まかい)同士(どうし)、話(はなし)の附(つ)け方(かた)もあらうと思(おも)ふ、何(ど)うだね、御坊(ごばう)。』
 坊主(ばうず)も二三度(にさんど)頷(うなづ)いた。で、深(ふか)く其(そ)の広(ひろ)い額(ひたひ)を伏(ふ)せた。
『いや、可(い)い処(ところ)に気(き)が着(つ)いた、……何(なん)にせい、此(こ)の上(うへ)は各々(おの/\)我(が)を張(は)らずに人頼(ひとだの)みぢや。頼(たの)むには、成程(なるほど)其(そ)の辺(へん)であらうかな。』
『行(い)つて見(み)べい。方角(はうがく)は北東(きたひがし)、槍(やり)ヶ嶽(だけ)を見当(けんたう)に、辰巳(たつみ)に当(あた)つて、綿(わた)で包(つゝ)んだ、あれ/\天守(てんしゆ)の森(もり)の枝下(えださが)りに、峯(みね)が見(み)える、水(みづ)が見(み)える、又(また)峯(みね)が見(み)えて水(みづ)が曲(まが)る、又(また)一(ひと)つ峯(みね)が抽出(ぬきで)て居(を)る。あの空(そら)が紫立(むらさきだ)つてほんのり桃色(もゝいろ)に薄(うす)く見(み)えべい。――麻袋(あさふくろ)には昼飯(ひるめし)の握(にぎ)つた奴(やつ)、余(あま)るほど詰(つ)めて置(お)く、ちやうど僥幸(さいはひ)、山(やま)の芋(いも)を穿(ほ)つて横噛(よこかじ)りでも一日(いちにち)二日(ふつか)は凌(しの)げるだ。遣(や)りからかせ、さあ、ござい。少(わか)い人(ひと)。……お前様(めえさま)、其(そ)の采(さい)を拾(ひろ)はつしやい。御坊(ごばう)、』
『乗(の)りかゝつた船(ふね)ぢや、私(わし)も行(ゆ)く。……』
 で、連立(つれだ)つて、天守(てんしゆ)の森(もり)の外(そと)まはり、壕(ほり)を越(こ)えて、少時(しばらく)、石垣(いしがき)の上(うへ)を歩行(ある)いた。
 爾時(そのとき)、十八九人(じふはつくにん)の同勢(どうぜい)が、ぞろ/\と野(の)を越(こ)えて駆(か)けて来(き)た。中(なか)には巡査(じゆんさ)も交(まじ)つたが、早(は)や壕(ほり)の向(むか)ふの高(たか)い石垣(いしがき)の上(うへ)に、森(もり)の枝(えだ)を伝(つた)ふ躰(てい)の雪枝(ゆきえ)の姿(すがた)を、小(ちひ)さな鳥(とり)に成(な)つて、雲(くも)に入(い)り行(ゆ)く、と視(なが)めたであらう。……
 手(て)を挙(あ)げ、帽(ばう)を振(ふ)り、杖(ステツキ)を廻(ま)はしなどして、わあわつと声(こゑ)を上(あ)げたが、其(そ)の内(うち)に、一人(ひとり)、草(くさ)に落(おち)た女(をんな)の片腕(かたうで)を見(み)たものがある。それから一溜(ひとたま)りもなく裏崩(うらくづ)れして、真昼間(まつぴるま)の山(やま)の野原(のばら)を、一散(いつさん)に、や、雲(くも)を霞(かすみ)。
 森(もり)の幕(まく)が颯(さつ)と落(お)ちて、双六谷(すごろくだに)が舞台(ぶたい)の如(ごと)く眼前(めのまへ)に開(ひら)かれたやうに雪枝(ゆきえ)は思(おも)つた。……悪処(あくしよ)難路(なんろ)を辿(たど)りはしたが、然(さ)まで時(とき)が経(た)つたとも思(おも)はず、別(べつ)に其(それ)が為(ため)に、と思(おも)ふ疲労(つかれ)も増(ま)さない。で、足(あし)を運(はこ)ぶ内(うち)に至(いた)り着(つ)いたので、宛然(さながら)、城址(しろあと)の場所(ばしよ)から、森(もり)を土塀(どべい)に、一重(ひとへ)隔(へだ)てた背中合(せなかあ)はせの隣家(となり)ぐらゐにしか感(かん)じない。――最(もつと)も案内(あんない)をすると云(い)ふ老爺(ぢい)より、坊主(ばうず)の方(はう)が、すた/\先(さき)へ立(た)つて歩行(ある)いたが。
 時(とき)に、真先(まつさき)に、一朶(いちだ)の桜(さくら)が靉靆(あいたい)として、霞(かすみ)の中(なか)に朦朧(もうろう)たる光(ひかり)を放(はな)つて、山懐(やまふところ)に靡(なび)くのが、翌方(あけがた)の明星(みやうじやう)見(み)るやう、巌陰(いはかげ)を出(で)た目(め)に颯(さつ)と映(うつ)つた。


       四五六谷(しごろくだに)


         四十三

「叱(しつ)!」
と老爺(ぢい)が警蹕(けいひつ)めいた声(こゑ)を、我(われ)と我(わ)が口(くち)へ轡(くつわ)に懸(か)ける。
 トなだらかな、薄紫(うすむらさき)の崖(がけ)なりに、桜(さくら)の影(かげ)を霞(かすみ)の被衣(かつぎ)、ふうわり背中(せなか)から裳(すそ)へ落(おと)して、鼓草(たんぽゝ)と菫(すみれ)の敷満(しきみ)ちた巌(いは)を前(まへ)に、其(そ)の美女(たをやめ)が居(ゐ)たのである。
 少時(しばらく)、一行(いつかう)は呼吸(いき)を凝(こ)らした。
 見(み)よ! 見(み)よ! 巌(いは)の面(めん)は滑(なめら)かに、質(しつ)の青(あを)い艶(つや)を刻(きざ)んで、花(はな)の色(いろ)を映(うつ)したれば、恰(あたか)も紫(むらさき)の筋(すぢ)を彫(ほ)つた、自然(しぜん)に奇代(きたい)の双六磐(すごろくいは)。磐面(ばんめん)には花(はな)を摘(つ)んだ、大輪(だいりん)の菫(すみれ)と鼓草(たんぽゝ)とが、陽炎(かげらふ)の輝(かゞや)く中(なか)に、鼓草(たんぽゝ)は濃(こ)く、菫(すみれ)は薄(うす)く、美(うつく)しく色(いろ)を分(わか)つて、十二輪(じふにりん)、十二輪(じふにりん)、二十四輪(にじふしりん)の駒(こま)なるよ……向(むか)ふ合(あ)はせに区劃(くぎり)を隔(へだ)てゝ、二輪(にりん)、一輪(いちりん)、一輪(いちりん)、二輪(にりん)、空(そら)に蒔絵(まきゑ)した星(ほし)の如(ごと)く、浮彫(うきぼり)したやう並(なら)べられた。
 美女(たをやめ)は、やゝ俯向(うつむ)いて、其(そ)の駒(こま)を熟(じつ)と視(なが)める風情(ふぜい)の、黒髪(くろかみ)に唯(たゞ)一輪(いちりん)、……白(しろ)い鼓草(たんぽゝ)をさして居(ゐ)た。此(こ)の色(いろ)の花(はな)は、一谷(ひとたに)に他(ほか)には無(な)かつた。
 軽(かる)く其(そ)の黒髪(くろかみ)を戦(そよ)がしに来(く)る風(かぜ)もなしに、空(そら)なる桜(さくら)が、はら/\と散(ち)つたが、鳥(とり)も啼(な)かぬ静(しづ)かさに、花片(はなびら)の音(おと)がする……一片(ひとひら)……二片(ふたひら)……三片(みひら)……
「三(みツ)つ」と鶯(うぐひす)のやうな声(こゑ)、袖(そで)のあたりが揺(ゆ)れたと思(おも)へば、蝶(てふ)が一(ひと)ツひら/\と来(き)て、磐(ばん)の上(うへ)をすつと行(ゆ)く……
「一(ひと)つ、」
と美女(たをやめ)は又(また)算(かぞ)へて、鼓草(たんぽゝ)の駒(こま)を取(と)つて、格子(かうし)の中(なか)へ、……菫(すみれ)の花(はな)の色(いろ)を分(わ)けて、静(しづか)に置替(おきか)へながら、莞爾(につこ)と微笑(ほゝゑ)む。……
 気高(けだか)い中(なか)に其(そ)の優(やさ)しさ。
「は、」と、思(おも)はず雪枝(ゆきえ)は、此方(こなた)に潜(ひそ)みながら押堪(おしこら)へた息(いき)が発奮(はづ)んだ。
「誰(たれ)? ……」
と美女(たをやめ)の声(こゑ)が懸(かゝ)る。
 老爺(ぢい)は咳(しはぶき)を一(ひと)つ故(わざ)として、雪枝(ゆきえ)の背中(せなか)を丁(とん)と突出(つきだ)す。これに押出(おしだ)されたやうに、蹌踉(よろめ)いて、鼓草(たんぽゝ)菫(すみれ)の花(はな)を行(ゆ)く、雲(くも)踏(ふ)む浮足(うきあし)、ふらふらと成(な)つたまゝで、双六(すごろく)の前(まへ)に渠(かれ)は両手(りやうて)を支(つ)いて跪(ひざまづ)いたのであつた。
 坊主(ばうず)は懐中(ふところ)の輪袈裟(わげさ)を取(と)つて懸(か)け、老爺(ぢい)は麻袋(あさふくろ)を探(さぐ)つた、烏帽子(えぼうし)を丁(チヨン)と冠(かぶ)つて、更(あらた)めてづゝと出(で)た。
 美女(たをやめ)は密(そ)と鬢(びん)を圧(おさ)へた。
 声(こゑ)も出(だ)せぬ雪枝(ゆきえ)に代(かは)つて、老爺(ぢい)が始終(しゞう)を物語(ものがた)つた……
 坊主(ばうず)は、時々(とき/″\)眼(まなこ)を開(ひら)いて、聞澄(きゝすま)す美女(たをやめ)の横顔(よこがほ)を窺(うかゞ)ひ見(み)る。
「お姫様(ひめさま)、」
と語(かた)り果(は)てゝ老爺(ぢい)が呼(よ)んで、
「お助(たす)けを遣(つか)はされ、さあ、少(わか)い人(ひと)、願(ねが)へ。」
「姫様(ひいさま)、」
と雪枝(ゆきえ)は、窶(やつ)れに窶(やつ)れた人間(にんげん)の顔(かほ)して見上(みあ)げた。
「上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらう)どの、」と坊主(ばうず)も言足(いひた)す。
 美女(たをやめ)は引合(ひきあ)はせた袖(そで)を開(ひら)いた。而(そ)して、
「天守(てんしゆ)のお使者(つかひ)、天守(てんしゆ)のお使者(つかひ)。」
と二声(ふたこゑ)呼(よ)ばるゝ。
「やあ、拙僧(わし)が事(こと)か、」と、間(ま)を措(お)いて坊主(ばうず)が答(こた)へた。
「あの、其(そ)の指(ゆび)をお指(さ)しになれば、天守(てんしゆ)の方(かた)の、お心(こゝろ)が通(つう)じますかえ。」
「如何(いか)にも。」と片手(かたて)を握(にぎ)つて、片手(かたて)を其(そ)の蒼(あを)い頬(ほゝ)げたに並(なら)べて、横(よこ)に開(ひら)いて応(おう)じたのである。
「双六(すごろく)を打(う)つて賭(か)けませう。私(わたし)は其(そ)の他(ほか)の事(こと)は何(なん)にも知(し)らねば……而(そ)して、私(わたし)が負(ま)けましたら、其切(それきり)仕方(しかた)がありません。もし、あの、私(わたし)が勝(かち)となれば、此(こ)のお方(かた)の其(そ)の奥様(おくさま)を、恙(つゝが)なう、お戻(もど)しになりますやうに……お約束(やくそく)が出来(でき)ませうか。」
と物優(ものやさ)しいが力(ちから)ある声(こゑ)して聞(き)く。
 坊主(ばうず)は言下(ごんか)に空(くう)を指(さ)した。
「天守(てんしゆ)に於(おい)ては、予(かね)て貴女(あなた)と双六(すごろく)を打(う)つて慰(なぐさ)みたいが、御承知(ごしようち)なければ、致(いたし)やうも無(な)かつた折(をり)から……丁(ちやう)ど僥倖(さいはひ)、いや固(もと)より、固(もと)より望(のぞ)み申(まを)す処(ところ)……とある!」

         四十四

 美女(たをやめ)は世(よ)にも嬉(うれ)しげに……早(は)や頼(たの)まれて人(ひと)を救(すく)ふ、善根(ぜんこん)功徳(くどく)を仕遂(しと)げた如(ごと)く微笑(ほゝゑ)みながら、左右(さいう)に、雪枝(ゆきえ)と老爺(ぢい)とを艶麗(あでやか)に見(み)て、清(すゞ)しい瞳(ひとみ)を目配(めくば)せした。
「そんなら、私(わたし)が勝(か)ちましたら、奥様(おくさま)をお返(かへ)しなさいますね。」
「御念(ごねん)に及(およ)ばぬ、城(じやう)ヶ沼(ぬま)の底(そこ)に湧(わ)く……霊泉(れいせん)に浴(ゆあみ)させて、傷(きづ)もなく疲労(つかれ)もなく苦悩(くなう)もなく、健(すこや)かにしてお返(かへ)し申(まを)す。」
 美女(たをやめ)は、十二(じふに)の数(かず)の、黄(き)と紫(むらさき)を、両方(りやうはう)へ、颯(さつ)と分(わ)けて、
「天守(てんしゆ)のお方(かた)。どちらの駒(こま)を……」
「赫耀(かくやく)として日(ひ)に輝(かゞや)く、黄金(わうごん)の花(はな)は勝色(かちいろ)、鼓草(たんぽゝ)を私(わし)が方(はう)へ。」
と痩(や)せた頬(ほゝ)げたの膨(ふく)らむまで、坊主(ばうず)は浮色(うきいろ)に成(な)つて笑(ゑみ)を含(ふく)んで、駒(こま)を二(ふた)つづゝ六行(ろくぎやう)に。
 同(おな)じく二(ふた)つづゝ六行(ろくぎやう)に……紫(むらさき)の格子(かうし)に並(なら)べた。
「紫(むらさき)は朱(あけ)を奪(うば)ふ、お姫様(ひめさま)菫(すみれ)の花(はな)が、勝負事(しようぶごと)には勝色(かちいろ)ぢや。」
と老爺(ぢい)は盤面(ばんめん)を差覗(さしのぞ)いて、坊主(ばうず)を流盻(しりめ)に勇(いさ)んだ顔色(かほつき)。
 これに苦笑(にがわら)ひ為(し)て口(くち)を結(むす)んだ、坊主(ばうず)は心急(こゝろせ)く様子(やうす)が見(み)えて、
「ざ! 上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらう)、」
「お客(きやく)なれば貴僧(あなた)から、」
「や、采(さい)は、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらう)。」と高声(たかごゑ)で言(い)つた。
「空(そら)を行(ゆ)く雲(くも)の数(かづ)、」
と眉(まゆ)を開(ひら)いて見上(みあ)ぐる天(てん)を、白(しろ)い雲(くも)が来(き)ては消(き)え、白(しろ)い雲(くも)が来(き)ては消(き)えする。
「桜(さくら)の花(はな)の散(ち)るのを数(かぞ)へ、舞(ま)ひ来(く)る蝶(てふ)の翼(つばさ)を算(よ)んで、貴僧(あなた)、私(わたし)と順々(じゆん/\)に。」
 坊主(ばうず)は頷(うなづ)いて袈裟(けさ)を揺(ゆす)つた。
「言(い)ふ目(め)。」
と高(たか)く美女(たをやめ)が。
「乞目(こひめ)、」
と坊主(ばうず)が、互(たがひ)に一声(ひとこゑ)。鶯(うぐひす)と梟(ふくろふ)と、同時(どうじ)に声(こゑ)を懸合(かけあ)はせた。
「一(ひと)つ来(き)て、二(ふた)つぢや。」
と鶴(つる)の姿(すがた)の雲(くも)を睨(にら)んで、鼓草(たんぽゝ)は格子(かうし)を動(うご)く。
 ト美女(たをやめ)は袂(たもと)を取(と)つて、袖(そで)を斜(なゝ)めに、瞳(ひとみ)を流(なが)せば、心(こゝろ)ある如(ごと)く桜(さくら)の枝(えだ)から、花片(はなびら)がさら/\と白(しろ)く簪(かざし)の花(はな)を掠(かす)める時(とき)、紅(くれない)の色(いろ)を増(ま)して、受(う)け取(と)る袖(そで)に飜然(ひらり)と留(と)まつた。
「右(みぎ)が三(みつ)つ、」
と袖(そで)を返(かへ)して、左(ひだり)の袂(たもと)を静(しづ)かに引(ひ)くと、また花片(はなびら)がちらりと来(く)る。
「一(ひと)つと二(ふた)つ、」
と菫(すみれ)の花(はな)が白(しろ)い指(ゆび)から格子(かうし)へ入(はい)つた。
「雲(くも)よ、雲(くも)よ、雲(くも)よ、」
と呼(よ)んで、気色(けしき)ばんで、やゝ坊主(ばうず)があせり出(だ)した。――争(あらそ)ひの半(なかば)であつた。
「雲(くも)が来(く)る、花(はな)が降(ふ)る。や、此(こ)の采(さい)は気(き)が長(なが)いぞ。見(み)て居(ゐ)る内(うち)に斧(をの)の柄(え)が朽(く)ち、玉手箱(たまてばこ)が破(やぶ)れうも知(し)れぬが。少(わか)い人(ひと)、其(そ)の采(さい)を……其(そ)の采(さい)を出(だ)さつしやい。うつかり見惚(みと)れて私(わし)も忘(わす)れた。」
と目(め)の覚(さ)めたやうに老爺(ぢい)が言(い)つた。
 青年(わかもの)は疾(と)くから心着(こゝろづ)いて、仏舎利(ぶつしやり)のやうに手(て)に捧(さゝ)げて居(ゐ)たのを、密(そつ)と美女(たをやめ)の前(まへ)へ出(だ)した。
「一(ひと)つ振(ふ)つたり、」
と老爺(ぢい)が傍(かたはら)から、肝入(きもい)れして、采(さい)を盤石(ばん)に投(な)げさせた。
「お姫様(ひいさま)、それ/\、星(ほし)が一(ひと)つで、梅(うめ)が五(ご)ぢや。瞬(またゝき)する間(ま)に、十度(とたび)も目(め)が出(で)る。早(はや)く、もし、其(それ)で勝負(しようぶ)を着(つ)けさつせえまし。」
「天下(てんか)の重宝(ちやうほう)、私(わし)もつひ是(これ)に気(き)が着(つ)かなんだ。」
と坊主(ばうず)は手早(てばや)く拾(ひろ)ひ取(と)る。
「いえ、急(いそ)いでは成(な)りません、花(はな)の数(かず)、蝶(てふ)の数(かず)、雲(くも)の数(かず)で無(な)くつては。」と美女(たをやめ)は頭(かしら)を振(ふ)つた。
「えゝ、お姫様(ひいさま)の! 何(ど)うやら今(いま)までの乞目(こひめ)では、一度(いちど)に一年(いちねん)も懸(かゝ)りさうぢや。お庇(かげ)と私等(わしら)は飢(ひもじ)うも、だるうも無(な)けれど、肝心(かんじん)助(たす)け取(と)らうと云(い)ふ、奥様(おくさま)の身(み)をお察(さつ)しやれ。一息(ひといき)に血(ち)一点(ひとたらし)、一刻(いつこく)に肉(にく)一分(いちぶ)は絞(しぼ)られる、削(けづ)られる……天守(てんしゆ)の梁(うつばり)に倒(さかさま)で、身(み)の鞭(むち)に暇(ひま)はないげな。」
「其(そ)の通(とほ)り。」と傲然(がうぜん)として、坊主(ばうず)は身構(みがま)へ為(し)て袖(そで)を掲(かゝ)げた。

         四十五

 美女(たをやめ)の顔(かほ)の色(いろ)は早(は)や是非(ぜひ)なげに見(み)えた。
 一(いち)が起(お)き、六(ろく)が出(い)で、三(さん)に変(かは)り、二(に)に飜(かへ)り、五(ご)が並(なら)ぶ。天(てん)に星(ほし)の輝(かゞや)く如(ごと)く、采(さい)の目(め)の疾(と)く、駒(こま)の烈(はげ)しく動(うご)くに連(つ)れて、中空(なかぞら)を見(み)よ、岫(しう)を湧(わ)き、谷(たに)を飛(と)ぶ、消(き)えた雲(くも)が残(のこ)り、続(つゞ)く雲(くも)が累(かさな)り、追(お)ふ雲(くも)が結着(むすびつ)いて、雲(くも)はやがて厚(あつ)く、雲(くも)はやがて濃(こ)く、既(すで)にして近(ちか)くなり、低(ひく)く成(な)つた。……
 忽(たちま)ち一片(いつぺん)、美女(たをやめ)の面(おもて)にも雲(くも)の影(かげ)が映(さ)すよと見(み)れば、一谷(ひとだに)は暗(くら)く成(な)つた。
 鋭(するど)き山颪(やまおろし)が颯(さ)と来(く)ると、舞下(まひさが)る雲(くも)に交(まじ)つて、漂(たゞよ)ふ如(ごと)く菫(すみれ)の薫(かほり)が※(ぱつ)[#「火+發」、182-14]としたが、拭(ぬぐ)ひ去(さ)つて、つゝと消(き)えると、電(いなづま)が空(くう)を切(き)つた。……坊主(ばうず)の法衣(ころも)は、大巌(おほいは)の色(いろ)の乱(みだ)れた双六(すごろく)の盤(ばん)を蔽(おほ)ふて、四辺(あたり)は墨(すみ)よりも蔭(かげ)が黒(くろ)い。
 ト暗夜(あんや)の如(ごと)き山懐(やまふところ)を、桜(さくら)の花(はな)は矢(や)を射(ゐ)るばかり、白(しろ)い雨(あめ)と散(ち)り灌(そゝ)ぐ。其(そ)の間(あひだ)をくわつと輝(かゞや)く、電光(いなびかり)の縫目(ぬいめ)から空(そら)を破(やぶ)つて突出(つきだ)した、坊主(ばうず)の面(つら)は物凄(ものすさま)しいものである……
 唯(と)見(み)れば、頭(かしら)に、無手(むづ)と一本(いつぽん)の角(つの)生(お)ひたり。顔面(がんめん)黒(くろ)く漆(うるし)して、目(め)の隈(くま)、鼻頭(はなづら)、透通(すきとほ)る紫陽花(あぢさゐ)に藍(あゐ)を流(なが)し、額(ひたひ)から頤(あぎと)に掛(か)けて、長(なが)さ三尺(さんじやく)、口(くち)から口(くち)へ其(そ)の巾(はゞ)五尺(ごしやく)、仁王(にわう)の顔(かほ)を上(うへ)に二(ふた)つ下(した)に三(み)つ合(あ)はせたばかり、目(め)に余(あま)る大(おほき)さと成(な)つて、カチ/\と歯(は)の鳴(な)る時(とき)、鰐(わに)かと思(おも)ふ大口(おほぐち)を赫(くわつ)と開(ひら)いて、上頤(うはあご)を嘗(な)める舌(した)が赤(あか)い。
「騒(さわ)ぐまい、時々(とき/″\)ある……深山幽谷(しんざんいうこく)の変(へん)じや。少(わか)い人(ひと)、誰(たれ)の顔(かほ)も何(ど)の姿(すがた)も、何(ど)う変(かは)るか知(し)んねえだ! 驚(おどろ)くと気(き)が狂(くる)ふぞ、目(め)を塞(ふさ)いで踞(せぐゝま)れ、蹲(しやが)め、突伏(つゝふ)せ、目(め)を塞(ふさ)げい。」
と老爺(ぢい)が呼(よば)はる。
 雪枝(ゆきえ)はハツと身(み)を伏(ふ)せて、巌(いは)に吸込(すひこ)まれるかと呼吸(いき)を詰(つ)めたが、胸(むね)の動悸(だうき)が、持上(もちあ)げ揺上(ゆりあ)げ、山谷(さんこく)尽(こと/″\)く震(ふる)ふを覚(おぼ)えた。
 殷々(ゐん/\)として雷(らい)が響(ひゞ)く。
 音(おと)の中(なか)に、
「切(き)らう!」
と思切(おもひき)つた美女(たをやめ)の、細(ほそ)い透(とほ)る声音(こはね)が、胸(むね)を抉(えぐ)つて耳(みゝ)を貫(つらぬ)く。
「何(なに)を、切(き)ればと言(い)ふて早(は)や今(いま)は……乞目(こひめ)!」
と誇立(ほこりた)つた坊主(ばうず)の声(こゑ)が響(ひゞ)いたが。
「やあ、勝(か)つた。」
と叫(さけ)んで、大音(だいおん)に呵々(から/\)と笑(わら)ふと斉(ひと)しく、空(そら)を指(さ)した指(ゆび)の尖(さき)へ、法衣(ころも)の裙(すそ)が衝(つ)と上(あが)つた、黒雲(くろくも)の袖(そで)を捲(ま)いて、虚空(こくう)へ電(いなづま)を曳(ひ)いて飛(と)ぶ。
 と風(かぜ)の余波(なごり)に寂(しん)として、谷(たに)は瞬(またゝ)く間(ま)に、もとの陽炎(かげらふ)。
 が、日(ひ)の光(ひか)りやゝ弱(よわ)く、衣(きぬ)のひた/\と身(み)に着(つ)く処(ところ)に、薄(うす)い影(かげ)が繊細(かほそ)くさして、散乱(ちりみだ)れた桜(さくら)の花(はな)の、背(せ)に頸(くび)にかゝつたまゝ、美女(たをやめ)は、手(て)を額(ひたひ)に当(あ)てゝ、双六盤(すごろくばん)に差俯向(さしうつむ)いて、ものゝ悩(なや)ましげな風情(ふぜい)であつた。
「お姫様(ひめさま)、」
と風(かぜ)に曲(ゆが)んだ烏帽子(えばうし)の紐(ひも)を結直(ゆひなお)したが、老爺(ぢい)の声(こゑ)も力(ちから)が無(な)かつた。
「姫様(ひいさま)。」
と膝行(いざ)り寄(よ)つて、……雪枝(ゆきえ)が伸上(のびあが)るやうに膝(ひざ)を支(つ)いて、其(そ)の袖(そで)のあたりを拝(をが)んだ。
「頼(たの)まれたのに、済(す)みません。」
 二筋(ふたすぢ)三筋(みすぢ)、後毛(をくれげ)のふりかゝる顔(かほ)を上(あ)げて、青年(わかもの)の顔(かほ)を凝(じつ)と視(なが)めて、睫毛(まつげ)の蔭(かげ)に花(はな)の雫(しづく)、衝(つ)と光(ひか)つて、はら/\と玉(たま)の涙(なみだ)を落(おと)す。
 老爺(ぢい)も鼻(はな)を詰(つま)らせた。
 雪枝(ゆきえ)は身(み)を絞(しぼ)つて湧出(わきいづ)るやうに、熱(あつ)い、柔(やはらか)い涙(なみだ)が流(なが)れた。
「断念(あきら)めます、……断念(あきら)める……私(わたくし)はお浦(うら)を思切(おもひき)ります。何(ど)うぞ、其(そ)の代(かは)り、夢(ゆめ)でも可(い)い、夢(ゆめ)なら何時(いつ)までも覚(さ)めずに、私(わたくし)を此処(こゝ)に、貴女(あなた)の傍(そば)にお置(お)き下(くだ)さい。
 貴下(あなた)、生効(いきが)ひのない私(わたくし)、罰(ばち)も当(あた)れ、死(し)んでも構(かま)はん。」
と前倒(まへたふ)しに身(み)を投(な)げて、犇(ひし)と美女(たをやめ)の手(て)に縋(すが)ると、振(ふ)りも払(はら)はず取添(とりそ)へて、
「雪様(ゆきさま)。」
と優(やさ)しく言(い)ふ。
「え、」
 いや、老爺(ぢい)も驚(おどろ)くまいか。


       獅子(しゝ)の頭(かしら)


         四十六

「お懐(なつか)しい。私(わたし)は貴下(あなた)が七歳(なゝつ)の年紀(とし)、お傍(そば)に居(ゐ)たお友達(ともだち)……過世(すぐせ)の縁(えん)で、恋(こひ)しう成(な)り、いつまでも/\、御一所(ごいつしよ)にと思(おも)ふ心(こゝろ)が、我知(われし)らず形(かたち)に出(で)て、都(みやこ)の如月(きさらぎ)に雪(ゆき)の降(ふ)る晩(ばん)。其(そ)の雪(ゆき)は、故郷(ふるさと)から私(わたし)を迎(むかひ)に来(き)たものを、……帰(かへ)る気(き)は些(ちつと)も無(な)しに、貴下(あなた)の背(せな)に凭(より)かゝつて、二階(にかい)の部屋(へや)へ入(はい)りしなに、――貴下(あなた)のお父様(とうさま)が御覧(ごらん)の目(め)には、……急(きふ)に貴下(あなた)が大(おほ)きく成(な)つて、年(とし)ごろも対(つゐ)くらゐ、私(わたし)と二人(ふたり)が夫婦(ふうふ)のやうで熟(じつ)と抱合(だきあ)ふ形(かたち)に見(み)えて、……怪(あや)しい女(をんな)と、直(す)ぐに其(そ)の場(ば)で、暖炉(ストーブ)の灰(はい)にされましたが、戸(と)の外面(そとも)からひた/\寄(よ)る……迎(むか)ひの雪(ゆき)に煙(けむり)を包(つゝ)んで、月(つき)の下(した)を、旧(もと)の此(こ)の故郷(ふるさと)へ帰(かへ)りました。
 非情(ひじやう)のものが、恋(こひ)をした咎(とがめ)を受(う)けて、其(そ)の時(とき)から、唯(たゞ)一人(ひとり)で、今(いま)までも双六巌(すごろくいは)の番(ばん)をして、雨露(あめつゆ)に打(う)たれても、……貴下(あなた)の事(こと)が忘(わす)れられぬ。
 其(そ)の心(こゝろ)が通(つう)ずるのか、貴下(あなた)も年月(としつき)経(た)ち、日(ひ)が経(た)つても、私(わたし)の事(こと)をお忘(わす)れなさらず、昨日(きのふ)までも一昨日(おとゝひ)までも、思(おも)ひ詰(つ)めて居(ゐ)て下(くだ)さいましたが、奥様(おくさま)が出来(でき)たので、つひ余所事(よそごと)になさいました。
 それをお怨(うら)み申(まを)すのではない。嫉妬(ねたみ)も猜(そね)みもせぬけれど、……口惜(くちをし)い、其(それ)がために、敵(かたき)から仕事(しごと)の恥辱(ちじよく)をお受(う)け遊(あそ)ばす。……雲(くも)、花片(はなびら)の数(かず)を算(よ)めば、思(おも)ふまゝの乞目(こひめ)が出(で)て、双六(すごろく)に勝(か)てたのに、……唯(たゞ)一刻(いつこく)を争(あらそ)ふて、焦(あせ)つてお悶(もだ)へ遊(あそ)ばすから、危(あぶな)いとは思(おも)ひながら、我儘(わがまゝ)おつしやる可愛(かあい)らしさに、謹慎(つゝしみ)もつひ忘(わす)れ、心(こゝろ)が乱(みだ)れて、よもやに曳(ひ)かされ、人間(にんげん)の采(さい)を使(つか)つたので、効(かひ)なく敵(かたき)に負(ま)けました。貴下(あなた)も、悪(わる)い、私(わたし)も悪(わる)い。
 あゝ、花(はな)も恁(か)う乱(みだ)れぬうち、雲(くも)の中(うち)から奥様(おくさま)を助(たす)け出(だ)し、こゝへ並(なら)べて、蝶(てふ)の蔭(かげ)から、貴下(あなた)の喜(よろこ)ぶ顔(かほ)を見(み)て、其(そ)の後(あと)で名告(なの)りたうごさんした。」
としめやかに朱唇(しゆしん)が動(うご)く、と花(はな)が囁(さゝや)くやうなのに、恍惚(うつとり)して我(われ)を忘(わす)れる雪枝(ゆきえ)より、飛騨(ひだ)の国(くに)の住人(じゆうにん)以(も)つての外(ほか)畏縮(ゐしゆく)に及(およ)んで、
「南無三宝(なむさんぽう)、あやまり果(は)てた。」と烏帽子(えばうし)を掻(か)いて猪頸(ゐくび)に窘(すく)む。
「いえ/\此(これ)も定(さだ)まる約束(やくそく)。……しかし、尚(な)ほ懐(なつか)しい。奥様(おくさま)を思切(おもひき)り、世(よ)を捨(す)てゝも私(わたし)の傍(そば)に命(いのち)をかけて居(ゐ)やうとおつしやる。其(そ)のお言葉(ことば)で奥様(おくさま)は救(すく)はれます……私(わたし)も又(また)命(いのち)にかけても、お望(のぞみ)を遂(と)げさせましやう。
 さあ、貴下(あなた)、あらためて、奥様(おくさま)を償(つくな)ふための、木彫(きぼり)の像(ざう)をお作(つく)り遊(あそ)ばせ、勝(すぐ)れた、優(まさ)つた、生命(いのち)ある形代(かたしろ)をお刻(きざ)みなさい。
 屹(きつ)と敵(かたき)に不足(ふそく)は言(い)はせぬ。花片(はなびら)を雪(ゆき)にかへて、魔物(まもの)の煩悩(ぼんなう)のほむらを冷(ひや)す、価値(ねうち)のあるのを、私(わたくし)が作(つく)らせませう、……お爺(ぢい)さん、」
と見返(みかへ)つて、
「貴翁(あなた)がお家(いへ)重代(じゆうだい)の、其(そ)の小刀(こがたな)を、雪様(ゆきさま)にお貸(か)し下(くだ)さいまし。」
「心得(こゝろえ)ました。」
と謹(つゝし)んで持(も)つて寄(よ)る、小刀(こがたな)を受取(うけと)ると、密(そ)と取合(とりあ)つた手(て)を放(はな)して、柔(やはら)かに、優(やさ)しく、雪枝(ゆきえ)の手(て)の甲(かう)の、堅(かた)く成(な)つて指(ゆび)も動(うご)かぬを、撫(な)でさすりつゝ、美女(たをやめ)が其(そ)の掌(てのひら)に握(にぎ)らせた。
 四辺(あたり)を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)(みまは)し、衣紋(えもん)を直(なほ)して、雪枝(ゆきえ)に向(むか)つて、背後向(うしろむ)きに、双六巌(すごろくいは)に、初(はじ)めは唯(と)腰(こし)を掛(か)ける姿(すがた)と見(み)えたが、褄(つま)を放(はな)して、盤(ばん)の上(うへ)へ、菫(すみれ)鼓草(たんぽゝ)の駒(こま)を除(よ)けて、采(さい)を取(と)つて横(よこ)に寐(ね)た。
 陽炎(かげらふ)が裳(もすそ)に懸(かゝ)つた。
 美女(たをやめ)の風采(ありさま)は、紫(むらさき)の格目(こまめ)の上(うへ)に、虹(にじ)を枕(まくら)した風情(ふぜい)である。
 雪枝(ゆきえ)は、倒(たふ)れたと見(み)て、つゝと起(た)つた。
「……雪様(ゆきさま)、私(わたし)の目(め)を、私(わたし)の眉(まゆ)を、私(わたし)の額(ひたひ)を、私(わたし)の顔(かほ)を、私(わたし)の髪(かみ)を、此(こ)のまゝに……其(そ)の小刀(こがたな)でお刻(きざ)みなさいまし。」
「や、」と老爺(ぢい)が吃驚(びつくり)して、歯(は)の抜(ぬ)けた声(こゑ)を出(だ)して、
「成程(なるほど)、お天守(てんしゆ)で不足(ふそく)は言(い)ふまい、が、当事(あてこと)もない、滅法界(めつぽふかい)な。」
「雪様(ゆきさま)、痛(いた)くはない。血(ち)も出(で)ぬ、眉(まゆ)を顰(ひそ)めるほどもない。突(つ)いて、斬(き)つて、さあ、小刀(こがたな)で、此(こ)のなりに、……此(こ)のなりに、……」
「思切(おもひき)る、断念(あきら)めた、女房(にようばう)なんぞ汚(けが)らはしい。貴女(あなた)と一所(いつしよ)に置(お)いて下(くだ)さい、お爺(ぢい)さんも頼(たの)んで下(くだ)さい、最(も)う一度(いちど)手(て)を取(と)つて、」
 戞然(からり)と、どき/\した小刀(こがたな)を投出(なげだ)す。
「其(そ)のお心(こゝろ)の失(う)せない内(うち)、早(はや)く小刀(こがたな)をお取(と)りなさいまし。……そんな事(こと)をおつしやつて、奥様(おくさま)は、今(いま)何(ど)うして居(ゐ)らつしやいます。」
 それを聞(き)くや、
「わつ、」と泣(な)いて、雪枝(ゆきえ)は横様(よこざま)に縋(すが)りついた、胸(むね)を突伏(つゝふ)せて、唯(たゞ)戦(おのゝ)く……
 徐(やを)ら、其(そ)の背(せ)を、姉(あね)がするやう掻撫(かいな)でながら、
「恁(か)う成(な)るのが定(さだ)まり事(ごと)、……人(ひと)の運(うん)は一(ひと)つづゝ天(てん)の星(ほし)に宿(やど)ると言(い)ひます。其(それ)と同(おな)じに日本国中(にほんこくちゆう)、何処(どこ)ともなう、或年(あるとし)或月(あるつき)或日(あるひ)に、其(そ)の人(ひと)が行逢(ゆきあ)はす、山(やま)にも野(の)にも、水(みづ)にも樹(き)にも、草(くさ)にも石(いし)にも、橋(はし)にも家(いへ)にも、前(まへ)から定(さだ)まる運(うん)があつて、花(はな)ならば、花(はな)、蝶(てふ)ならば、蝶(てふ)、雲(くも)ならば、雲(くも)に、美(うつく)しくも凄(すご)くも寂(さび)しうも彩色(さいしき)されて描(か)いてある…手(て)を取合(とりあ)ふて睦(むつ)み合(あ)ふて、もの言(い)つて、二人(ふたり)居(ゐ)られる身(み)ではない。
 唯(たゞ)形(かたち)ばかり、何時(いつ)何処(いづく)でも、貴方(あなた)が思(おも)ふ時(とき)、其処(そこ)に居(ゐ)る、念(ねん)ずる時(とき)直(す)ぐに逢(あ)へます、お呼(よ)び遊(あそ)ばせば参(まゐ)られます。
 早(は)や、小刀(こがたな)を……、小刀(こがたな)を……、」
「帰命頂礼(きみやうてうらい)、南無不可思議(なむふかしぎ)、帰命頂礼(きみやうてうらい)、南無不可思議(なむふかしぎ)。」
と唱(とな)へながら、老爺(ぢい)が拾(ひろ)つて渡(わた)した時(とき)、雪枝(ゆきえ)は犇(ひし)と小刀(こがたな)を取(と)つた。
「一刀一拝(いつたういつぱい)、拝(をが)め、頼(たの)め、念(ねん)じて、念(ねん)じて、」
と励(はげ)まし教(をし)うるが如(ごと)くに老爺(ぢい)が言(い)ふ。
「姫(ひめ)、姫(ひめ)、」
と勇(いさ)ましく、
「疵(きづ)を附(つ)けたら、私(わたし)も死(し)ぬ。」
と熟(じつ)と見(み)て、小刀(こがたな)を取直(とりなほ)した。
 美女(たをやめ)の姿(すがた)ありのまゝ、木彫(きぼり)の像(ざう)と成(な)つた時(とき)、膝(ひざ)に取(と)つて、雪枝(ゆきえ)は犇(ひし)と抱締(だきし)めて離(はな)し得(え)なんだ。
 老爺(ぢい)が其(そ)の手(て)を曳(ひ)いて起(お)こして、さて、かはる/″\負(お)ひもし、抱(だ)きもして、嶮岨(けんそ)難処(なんしよ)を引返(ひきかへ)す。と二時(ふたとき)が程(ほど)に着(つ)いた双六谷(すごろくだに)を、城址(しろあと)までに、一夜(ひとよ)、山中(さんちゆう)に野宿(のじゆく)した。
 其(そ)の夜(よ)の星(ほし)の美(うつく)しさ。
 中(なか)にも山(やま)の端(は)に近(ちか)いのが、美女(たをやめ)の像(ざう)の額(ひたひ)を飾(かざ)つて輝(かゞや)いたのである。
 翌朝(あけのあさ)、棟(むね)の雲(くも)の切(き)れ間(ま)を仰(あふ)いで、勇(いさ)ましく天守(てんしゆ)に昇(のぼ)ると、四階目(しかいめ)を上切(のぼりき)つた、五階(ごかい)の口(くち)で、フト暗(くら)い中(なか)に、金色(こんじき)の光(ひかり)を放(はな)つ、爛々(らん/\)たる眼(まなこ)を見(み)た、
 一目(め)見(み)て、
「やあ、祖父殿(おんぢいどん)が、」
と老爺(ぢい)が叫(さけ)ぶ、……其(それ)なるは、黄金(こがね)の鯱(しやち)の頭(かしら)に似(に)た、一個(いつこ)青面(せいめん)の獅子(しゝ)の頭(かしら)、活(い)けるが如(ごと)き木彫(きぼり)の名作(めいさく)。櫓(やぐら)を圧(あつ)して、のつしとあり。角(つの)も、牙(きば)も、双六谷(すごろくだに)の黒雲(くろくも)の中(なか)に見(み)た、其(それ)であつた。……
 祖父(おほぢ)の作(さく)に、久(ひさ)しぶりの話(はなし)がある、と美女(たをやめ)の像(ざう)を受取(うけと)つて、老爺(ぢい)は天守(てんしゆ)に胡座(あぐら)して後(あと)に残(のこ)つた。時(とき)に、祖父(おほぢ)が我(わが)まゝの佗(わび)だと言つて、麻袋(あさぶくろ)を、烏帽子(えばうし)入(い)れたまゝ雪枝(ゆきえ)に譲(ゆづ)つた。
 さて、温泉宿(ゆのやど)に帰(かへ)つたが、人々(ひと/″\)は、雪枝(ゆきえ)の顔(かほ)の色(いろ)の清々(すが/\)しいのを視(なが)めて、はじめて渡(わた)した一通(いつつう)の書信(しよしん)がある。
 途中(とちゆう)より、としてお浦(うら)の名(な)で、二人(ふたり)が結婚(けつこん)を為(し)ない前(まへ)から、契(ちぎ)りを交(か)はした少年(せうねん)の学生(がくせい)が一人(ひとり)ある。此(こ)の度(たび)の密月(みつゞき)の旅(たび)の第一夜(だいいちや)から、附絡(つきまと)ふて、隣(となり)の部屋(へや)に何時(いつ)も宿(やど)る……其(それ)さへも恐(おそ)ろしいのに、つひ言葉(ことば)のはづみから、双六谷(すごろくだに)に分入(わけい)つて、二世(にせ)の契(ちぎり)を賭(か)けやうとする、聞(き)けば名高(なだか)い神秘(しんぴ)の山奥(やまおく)、迚(とて)も罪深(つみふか)さに堪(た)へないため、諸(もろ)ともに身(み)を隠(かく)す、とあつた。
 渠(かれ)は神色(しんしよく)自若(じゞやく)とした。
 あはれ、神(かみ)は、香村雪枝(かむらゆきえ)を守(まも)らせ給(たま)ふ!
 然(さ)うで無(な)いと、恁(か)くまでに恋慕(こひした)つた女(をんな)、気(き)が狂(くる)はずには居(ゐ)なかつたのである。
 東京(とうきやう)に帰(かへ)つて後(のち)、呼(よ)べば応(こた)へて顕(あら)はるゝ、双六谷(すごろくだに)の美女(たをやめ)の像(ざう)を、唯(たゞ)目(め)を開(ひら)いて見(み)るやうに、すら/\と刻(きざ)み得(え)た。麻袋(あさふくろ)の鑿(のみ)小刀(こがたな)は、如意(によい)自在(じざい)に働(はたら)く。
 彫像(てうざう)の成(な)つた時(とき)、北(きた)の一天(いつてん)、俄(には)かに黒雲(くろくも)を捲起(まきお)こして月夜(つきよ)ながら霰(あられ)を飛(と)ばした。
 年(とし)経(た)つて、再(ふたゝ)び双六(すごろく)の温泉(をんせん)に遊(あそ)んだ時(とき)、最(も)う老爺(ぢい)は居(ゐ)なかつた。が、城址(しろあと)の濠(ほり)には船(ふね)があつて、鷺(さぎ)ではない、老爺(ぢい)の姿(すがた)が、木彫(きぼり)に成(な)つて立(た)つのを見(み)て、渠(かれ)は蘆間(あしま)に手(て)を支(つか)えて、やがて天守(てんしゆ)を拝(はい)した。
 船(ふね)に乗(の)れば、すら/\と漕(こ)いで出(で)て、焼(や)けない処(どころ)か、もとの位置(ゐち)へすつと戻(もど)る……伝(つた)へ聞(き)く諾亜(ノア)の船(ふね)の如(ごと)きものであらう。
了


底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
   2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「神鑿」文泉堂書房
   1909(明治42)年9月16日
初出:「神鑿」文泉堂書房
   1909(明治42)年9月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「をんせん/おんせん」「城趾/城址」「魚(うを)/魚(いを)」「水底(みずそこ)/水底(みづそこ)」「灰(はひ)/灰(はい)」「鎗(やり)ヶ嶽(だけ)/槍(やり)ヶ嶽(だけ)」「烏帽子(えばうし)/烏帽子(えぼうし)」の混在は底本の通りです。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年8月12日作成
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