誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、
唯一つにて在りなん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。
唯一つにて在りなん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。
ヨハネ伝第十二章第二十四節
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アンナ・グリゴリエヴナ・ドストイエフスカヤにおくる
[#改ページ]この物語の主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフの伝記にとりかかるに当たって、自分は一種の懐疑に陥っている。すなわち、自分は、このアレクセイ・フョードロヴィッチを主人公と呼んではいるが、しかし彼がけっして偉大な人物でないことは、自分でもよく承知している。したがって、『アレクセイ・フョードロヴィッチをこの物語の主人公に選ばれたのは、何か彼に卓越したところがあってのことなのか? いったいこの男が、どんなことを成し遂げたというのか? 何によって、誰に知られているのか? いかなる理由によって、われわれ読者は、この人間の生涯の事実の研究に時間を費やさなければならないのか?』といったたぐいの質問を受けるにきまっていることは、今のうちからよくわかっている。
この最後の質問は最も致命的なものである。それに対しては、ただ、『御自分でこの小説をお読みになられたら、おそらく納得なさるであろう』としか答えられないからである。ところが、この小説を一通り読んでも、なおかつ納得がゆかず、わがアレクセイ・フョードロヴィッチの注目すべき点を認めることができないといわれた暁には、どうしたものか? こんなことを言うのも、実はまことに残念ながら、今からそれが見え透いているからである。作者にとっては、確かに注目すべき人物なのであるが、はたしてこれを読者に立証することができるだろうか、それがはなはだおぼつかない。問題は、彼もおそらく活動家なのであろうが、それもきわめて曖昧で、つかみどころのない活動家だというところにある。もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、全般的な乱雑さのうちに、ある普遍的な意義を発見する能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多い。奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別なものである。そうではないだろうか?
そこで、もしも読者がこの最後の主張に賛成なさらずに、『そうではない』とか、『必ずしもそうではない』と答えられるとすれば、自分はむしろわが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチの価値について大いに意を強うする次第である。というのは、奇人は『必ずしも』特殊なものでも、格別なものでもないばかりか、かえって、どうかすると彼が完全無欠の心髄を内にもっているかもしれず、その他の同時代の人たちは――ことごとく、何かの風の吹きまわしで、一時的にこの奇人から引き離されたのだ、といったような場合がよくあるからである……。
それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲をつかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上などはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかってもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読していただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要な小説は第二部になっている――これはわが主人公のすでに現代における活動である。すなわち、現に移りつつある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る十三年の前にあったことで、これはほとんど小説などというものではなくて、単にわが主人公の青年時代の初期の一刹那のことにすぎない。そうかといって、この初めの小説を抜きにすることはできない。そんなことをすれば、第二の小説の中でいろんなことがわからなくなってしまうからである。しかも、そうすれば自分の最初の困惑はいっそう紛糾してくる。すでにこの伝記者たる自分自身からして、こんなに控え目で、つかみどころのない主人公には、一つの小説でもよけいなくらいだろうと考えているのに、わざわざ二つにしたら、いったいどんなことになるであろう。それにまた、自分のこの不遜なやり口を、どうして説明したらよいであろう?
自分はこの問題の解決にゆき悩んだあげく、ついに、全く解決をつけずにいこうと決心した。もとより炯眼な読者はすでに、そもそもの最初から私がそんなことを言いそうだったと、早くも見抜いてしまって、ただ、――なんのために、むやみに役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費するのかと、私に対して腹を立てられたであろう。しかし、これに対しては、はっきりとこうお答えしよう。すなわち自分が役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費したのは、第一には儀礼のためであり、第二には、『何はともあれ、あらかじめ何か先手を打っておこう』という、ずるい考えによるのであると。
もっとも、自分は、この小説が、『本質的には完全な一体でありながら』おのずからにして二つの物語に分かれたことを喜んでさえもいるのである。読者が最初の物語を通読された以上、第二の物語に取りかかる価値があるかないかは、すでにおのずから決定されるであろう。いうまでもなく、誰ひとり、なんらの拘束を受けているわけではないので、最初の物語の二ページくらいのところから、もう二度とあけてみないつもりで、この本を放り出しても、いっこうさしつかえはないのである。しかし、公平な判断を誤るまいとして、ぜひとも最後まで読んでしまおうというようなデリケートな読者もあるのではないか。たとえば、ロシアのあらゆる批評家諸君がそれである。かような人たちに対しては、なんといっても気が楽である。つまり、彼らがどんなに精密で良心的であろうとも、やはりこの小説の第一の插話の辺で本を投げ出すのに最も正当な口実を提供しておくわけである。さあ、これで序文は種切れだ。自分はこれがよけいなものであるということに全く同感ではあるが、せっかくもう書いたことでもあるから、これはこのままにしておこう。
さて、いよいよ本文にとりかかろう。
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アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフは、この郡の地主フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの三男で、父のフョードルは、今からちょうど十三年前に悲劇的な陰惨な最後を遂げたために、そのころ(いや、今でもやはりこちらでは時おり噂にのぼる)非常に評判の高かった人物であるが、この事件についてはいずれしかるべきところにおいてお話しすることにしよう。ここでは単にこの『地主』が(当地では彼のことをこう呼んでいたが、その実、彼は一生涯ほとんど自分の持ち村で暮らしたことがなかった)かなりちょいちょい見受けるには見受けるが、一風変わった型の人間であった、というだけにとどめておこう。つまり、やくざで放埒なばかりではなく、それと同時にわけのわからない人間のタイプ――もっとも、同じわけのわからない連中の中でも、自分の財産に関する細々した事務を、巧みに処理することができて、しかも、それだけが身上かと思われるようなたぐいの人間であった。たとえば、フョードル・パーヴロヴィッチはほとんど無一物で世間へ出て、地主とはいってもきわめてささやかなものなので、よその家へ行って食事をしたり、居候に転がりこむことばかり狙っていたが、死んだ時には現金で十万ルーブルものこしていたことがわかった。それだのに、彼は依然として、一生涯を、郡内きっての最もわからずやの狂気じみた男の一人として押し通してしまったのである。くり返していうが、けっしてばかであったというわけではない。かえって、こういう狂気じみた人間の大多数は、かなり利口で狡猾である、――つまり、わけがわからないのである。しかも、そこにはなんとなく独特な国民的なところさえうかがわれる。
彼は結婚して、三人の子を挙げた。――長男のドミトリイは先妻、次の二人、すなわちイワンとアレクセイとは後妻の腹から生まれた。フョードルの先妻は、やはりこの郡の地主でミウーソフという、かなり裕福で名門の貴族の出であった。持参金つきで、おまけに美しく、そのうえてきぱきした聡明な娘――こういったたぐいの娘は現代のわが国ではいっこうめずらしくないが、そろそろ前世紀においても、現われかかっていた――が、あんな取るにも足らない『やくざ者』――そのころ、誰もがこう呼んでいた――とどうして結婚することができたのか、それについてはあまり詳しく説明しないことにする。自分はまだ前世紀の『ロマンチックな』時代に生まれた一人の娘を知っていた。この娘は何年かのあいだ、一人の紳士に謎めいた恋をしていたが、この相手と泰平無事にいつなんどきでも結婚することができるのに、結局どうにもならないような障害を勝手に考え出して、嵐の夜に、断崖のような高い岸から、かなりに深い激流に身を投じて死んでしまった。それというのも全く自分の気まぐれによることで、ひたすらシェークスピアのオフェリヤにあやかりたいためであった。それで、もし彼女がずっと以前から目をつけて、惚れこんでいたこの断崖が、それほど絵のように美しくなくて、その代わりに平凡な低い岸ででもあったならば、おそらく、こんな自殺などというさたは全く起こらなかったであろう。これはまぎれもない実話であるが、最近二百年なり三百年のあいだに、このような、ないしはこれと類を同じゅうする事件は、わがロシアの生活において、少なからず起こったものと考えなければならぬ。
これと同様にアデライーダ・ミウーソフの行動は、疑いもなく他人の思想の反映であり、囚われた思想に刺激されたものであった。ことによると、彼女は女性の独立を宣言し、社会の約束や、親戚家族の圧制に反抗して進みたかったのかもしれない。また、御丁寧にも空想のおかげで、彼女は、フョードル・パーヴロヴィッチが居候の身分でこそあれ、向上の途上にある過度期における、最も勇敢にして最も皮肉な人間の一人であると、たとい一瞬間だけにもせよ、思いこんでしまったのであろう。その実、相手は性根のよくない道化者にすぎなかった。なおそのうえに痛快なのは、駆け落ちという非常手段を取ったことで、これがまた、すっかりアデライーダ・イワーノヴナの心を引きつけてしまったのである。フョードル・パーヴロヴィッチにしてみれば、自分の社会的地位からいって、このくらいのきわどい芸当はこちらから進んでやりたいくらいであった。というのは、手段などは問題でなく、ただただ出世のいとぐちを見つけたい一心だったからである。名門に取り入って、持参金をせしめるということは、きわめて誘惑的なことであった。相互の愛情などというものに至っては、女のほうはもとより、男のほうにも、アデライーダ・イワーノヴナの美貌をもってしても、なお全然なかったようである。かようなわけで、ほんのちょっとでも向こうが色気を見せると、相手がどんな女であろうとも、すぐにしつこくつきまとわずにはおかない淫蕩このうえもない男で一生を通したフョードル・パーヴロヴィッチにとっては、これこそ一世一代の、おそらく唯一の偶然なことであったろう。それにしても、この女ばかりは情欲の点からいって、彼になんらの特別な感銘を与えなかったのである。
アデライーダ・イワーノヴナは駆け落ちの直後に、自分が良人を軽蔑しているのみで、それ以上にはなんの感情ももっていないことをたちどころに悟ってしまった。かくのごとくして、結婚の結末は非常な速さをもって暴露された。実家側がむしろ、かなり早めにこの事件にあきらめをつけて、家出をした娘に持参金を分けてやったのにもかかわらず、夫婦のあいだにはきわめて乱脈な生活と、絶え間のないいざこざが始まった。これは今なお世間に知られていることであるが、フョードル・パーヴロヴィッチは妻が金を受け取るやいなや、さっそく二万五千ルーブルからの金をすっかり巻きあげてしまった。したがって、彼女にとっては、これだけの大金が、あとかたもなく消えてしまったわけであるが、世間の人の噂によると、その際にも新妻のほうが良人よりも比べものにならないほど高邁な態度を示したという。やがて彼は、やはり彼女の持参金の中にはいっていた小さな村と、かなりに立派な町の家をも、何かそれ相当の証書を作って、自分の名義に書き換えようと、長いこと一生懸命に骨を折っていたが、絶え間なしにあつかましいおねだりや哀願をして、妻の心にいわば、軽蔑と嫌悪の念とをよび起こし、女のほうを根負けさせて、ただそれだけで、女の手を逃げようとあせっていたのに相違ない。ところが、運のよかったことには、アデライーダ・イワーノヴナの里方が仲にはいってこの横領を押えてしまった。夫婦の間によくつかみ合いがあったということは全く周知の話であるが、言い伝えによると、打ったのはフョードル・パーヴロヴィッチではなくて、アデライーダ・イワーノヴナのほうだという。彼女は癇癪の強い、向こう見ずな、顔の浅黒い、気短かな女でなみなみならぬ腕力を賦与されていた。とうとう、しまいに彼女は、三つになるミーチャをフョードル・パーヴロヴィッチの手に残して、貧困のために零落しかかっているある神学校出の教師と手に手をとって家出をしてしまった。フョードル・パーヴロヴィッチはたちまち自分の家へたくさんの女を引き入れて、酒色にふけるようになった。また、その合い間合い間には、ほとんど県下一帯を回るようにして、会う人ごとに自分を見すてたアデライーダ・イワーノヴナのことを涙ながらに訴えたりそのうえ、良人として口にするのはあまりにも恥ずかしい結婚生活の子細を臆面もなくしゃべり立てたりした。何はさておき、こうして衆人の前で、はずかしめられた良人という滑稽な役割を演じたり、あまつさえ、いろんな潤色まで施して自分がこうむった凌辱を事こまかに描き出して見せるのが、彼にとっては愉快なばかりか、気休めにさえなったものらしい。『なあに、フョードル・パーヴロヴィッチさん、つらいにはつらいでしょうけれど、位を授かったことを思えば、満足でしょうに』と口性ない連中が言ったりした。それに多くの人が、彼はときどき道化者の面目を一新して、人の前へ出るのを嬉しがって、いっそうおかしくするために、彼らに自分の滑稽な立場に気がつかないようなふりをするのだとよけいなことまで言っていた。もっとも、それはおそらく、彼にあっては、無邪気なことであったかもしれぬ。ついに、彼は出奔した妻の行方を突きとめた。哀れな女は教師とともにペテルブルグへ落ちのびて、そこできわめて奔放自由な解放に惑溺していたのであった。フョードル・パーヴロヴィッチは、さっそくあわて出して、自身でペテルブルグへ出かける準備をした。――なんのために? ということは、もとより、自分でもわからなかった。彼は実際、そのとき本当に行きかねなかったのであろうが、しかし、この決心を固めると同時に、彼は元気をつけるために、出発の前に、あらためて思いきりひと浮かれするのが当然の権利だと考えついた。ところが、まさにこの時であった。妻がペテルブルグで亡くなったという知らせが、彼女の里方へ届いたのである。彼女はどうかして、どこかの屋根裏で急に亡くなったのであった。一説にはチフスで亡くなったともいうが、また一説には飢え死にしたのだとも言われている。フョードル・パーヴロヴィッチは酔いしれているときに妻の訃報に接したが、いきなり往来へ駆け出すと、嬉しさのあまり両手を宙に差し上げながら、『今こそ重荷がおりた』と叫んだという。また一説には、いやなやつではあったが、小さな子供のように、おいおいと泣くので、見る目にも可哀そうなほどであった、ともいわれている。それもこれも大いにありそうなことである。つまり、解放されたことを喜ぶと共に、同時に解放してくれた妻を思って泣いたのであろう。人間というものは、たいていの場合に、たとえ悪人でさえも、われわれがおおよその見当をつけているよりもはるかに無邪気で単純なものである。われわれ自身にしてもやはり同じことである。
いうまでもなく、かような人間が父親として、また養育者として、どんな風であったかは、容易に想像がつくであろう。父親としての彼は、当然やりそうなことをしたまでであった。つまり、アデライーダ・イワーノヴナとのあいだに生まれた自分の子供を、まるきり見すててしまったのである。しかし、それは子供に対する悪意によるものでもなければ、はずかしめられた良人としての感情によるのでもなかった。ただ単に子供のことを全く忘れ果てていたからであった。彼が会う人ごとに涙を流し、泣き言を並べてうるさい思いをさせたり、自分の家を乱行の巣窟にしたりしているうちに、三つになるミーチャの世話を引き受けたのは、この家の忠僕グリゴリイであった。もしもそのころ、この男がめんどうを見てやらなかったなら、子供にシャツ一つ替えてやる者もなかったであろう。それに、子供の母方の縁者も、初めのうちこの子のことは忘れていたらしかった。祖父にあたるミウーソフ氏、つまりアデライーダ・イワーノヴナの現在の父は、もうそのころはあの世の人となって、その未亡人、すなわち、ミーチャの祖母も、モスクワへ移って、そこで重い病気にかかっており、姉妹という姉妹はみんなよそへ嫁いでしまっていたので、ミーチャはまる一年というもの、グリゴリイのもとで、下男小屋に暮らさなければならなかった。
それにしても、たとい父親がミーチャのことを思い出したとしても(事実、彼とても、この子の存在を知らずにいるわけにはいかなかった)、自分で、またもとの小屋へ追いやってしまったことであろう。なにしろ、子供はやはり放蕩の邪魔になるからである。ところが、偶然にも、アデライーダ・イワーノヴナの従兄で、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフという人がパリから帰って来た。この人は、そののち長年、ずっと外国に暮らしたほどで、そのころはまだかなりに若かったが、ミウーソフ家の人たちの中でも異色があり、都会的で、外国的な教養があり、のちには一生涯、ヨーロッパ人になりすましたばかりか、晩年には四、五十年代によくあった自由主義者の一人となったほどであった。その華やかなりしころを通じて、彼は同時代における内外の最も進歩的な、多くの自由主義者たちと交渉があり、プルードンやバクーニンをも個人的に知っており、遊歴時代の終わりごろには、四十八年のパリ二月革命の三日間のことを思い出して、自分も市街阻絶戦に参加した一人であると言わぬばかりにほのめかしながら物語るのが大好きであった。これこそ彼の青年時代における最も楽しい思い出の一つであった。
彼は昔の標準でいうと、千人ほどの農奴に相当する独立した財産をもっていた。彼の立派な領地はこの町を出はずれたところにあって、ここの有名な修道院の地所と境を接していた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチはまだほんの若い時分に遺産を相続するやいなや、よくはわからないが、何か川の漁業権とか、森の伐採権とかのことで、この修道院を相手にはてしのない訴訟を起こしたものであった。彼は『僧侶』たちを相手どって訴訟を起こすのを、公民としてまた教養人としての義務だと心得ていた。ところで、彼はアデライーダ・イワーノヴナのことは、もちろん今もなお記憶にとどめ、かつては心を引かれたこともあったが、この女の身の上をすっかり聞かされ、またミーチャという子供ののこっていることを知るとフョードル・パーヴロヴィッチに対する青年らしい義憤と侮蔑を感じながらも、この事件にかかわりあうこととなったのである。そこで、はじめてフョードル・パーヴロヴィッチなる者を知った。彼はいきなり、子供の養育を引き受けたいと申しいでた。彼がその後、フョードル・パーヴロヴィッチの特徴を示す好資料だといって、長いあいだ語りぐさとしたところによれば、彼がミーチャのことを話しだしたとき、相手はしばらくのあいだ、いったいどんな子供のことが話題にのぼっているのか、さっぱり合点がいかぬといった風で、自分の家のどこかにそんな小さな息子がいたのかと、びっくりしたような顔つきをしてみせたとのことであった。たとい、ピョートル・アレクサンドロヴィッチの話に誇張があるにしても、しかもなお真実らしい何ものかがあったに相違ない。しかし、事実において、フョードル・パーヴロヴィッチは一生涯、何かだしぬけに人を驚かせるような芝居を打ってみせるのが大好きで、それも、時としては、別になんの必要もないどころか、たとえば、今の場合のように、みすみす自分の損になることさえいとわないのであった。もっとも、こうした傾向は、ひとりフョードル・パーヴロヴィッチばかりに限らず、多くの人、ときにはかなりに聡明な人にさえも、ありがちなものである。ピョートル・アレクサンドロヴィッチは熱心に事を運んで、フョードル・パーヴロヴィッチと共に子供の後見人にまでなってやった。というのは、やはり母親が亡くなっても小さな持ち村や、家作や地所などが残っていたからである。こうしてミーチャはこの又叔父のところに引き取られたが、この人は自分の家族というものがなく、領地からあがる金の受け取り方を後顧の憂いのないように処理すると、すぐにまた、永逗留のために大急ぎでパリへ立ったので、子供は、この人の又叔母の一人で、モスクワに住んでいるある夫人のところに預けられた。ところが、パリに住み馴れて、ミウーソフはこの子供のことを忘れてしまい、わけても、彼に思いもよらなかったほどの強い感銘を与えて、もはや一生涯忘れることができなかった、あの二月革命の起こった時にはすっかり忘れ果ててしまった。モスクワの夫人も、そのうちにあの世の人となって、ミーチャはよそへかたづいている夫人の娘のところへ移った。やがてのちに、彼はもう一度、四度目に自分の巣を変えたらしかった。が、今はそんなことにまでは触れないでおくこととしよう。いずれ、このフョードル・パーヴロヴィッチの長男のことは、まだいろいろと物語らなくてはならないから、今はただこの小説を始めるのに欠くことのできないきわめて緊要な消息だけにとどめておこう。
まず第一に、このドミトリイ・フョードロヴィッチは、フョードル・パーヴロヴィッチの三人の息子のうち、自分はとにもかくにも、若干の財産を持っているから、丁年に達したら独立することができるという確信をもって成長した唯一の息子であった。青少年時代は、ぬらりくらりとして過ごしてしまった。中学校も中途でよして、ある陸軍の学校へはいり、のちにコーカサスへ行って任官したが、決闘をやったために位を貶され、のちにはまた元にかえると、今度はひどく放蕩をして、比較的多額の金を浪費した。フョードル・パーヴロヴィッチから仕送りを受けるようになったのは、丁年に達してからのことで、すでにそれまでにかなりの借金をしていたのである。自分の父、フョードル・パーヴロヴィッチを、はじめて見知ったのは、もう丁年に達してのちのことで、自分の財産のことを相談するために、わざわざこちらへやって来たときのことであった。どうやら、その時から、自分の父親が気に入らなかったらしく、永逗留もせずに、大急ぎで立ってしまった。ただ、父から幾らかの金をもらって、これからさき領地からあがる収益を受け取る方法について、少しばかり協議をしただけで、彼は自分の領地の年収額も価格も、フョードル・パーヴロヴィッチから聞き出せずにしまった(これは注意しておかなければならない事実である)。フョードル・パーヴロヴィッチはそのとき、はじめて会ったばかりで、ミーチャが自分の財産について、誇張した不正確な考えをいだいていることを見て取った(これも記憶しておかなければならぬ)。フョードル・パーヴロヴィッチは特殊な目安をおいていたので、このことにすっかり満足した。この若者は、ただ軽はずみで乱暴で、愛欲の強い、気短かな放蕩者にすぎない。だから、時たま少しばかり握らせさえすれば、むろんほんの当座だけのことではあるが、たちまちおとなしくなってしまうものと断定した。そこで、これをいいことにして、フョードル・パーヴロヴィッチは時おりほんの申しわけばかりの仕送りをしてその場をのがれていたが、ついに、それから四年ののち、ミーチャは堪忍袋の緒を切らして、きれいさっぱりと父親との交渉をかたづけるために、またもやこの町へやって来た。さて、来てみると、自分にはまるきりなんの財産もないことがわかって、少なからず驚いた。今ではどれくらいあったか勘定するのもむずかしいが、自分の全財産の価格に相当する金は、すでに全くフョードル・パーヴロヴィッチから引き出してしまって、ことによったら父親に対して、借りさえあるかもしれず、これこれのときに、彼自身の希望によって取り結んだこれこれの約束によって、彼はもう何一つ要求する権利もなくなっているなどということがわかったのであった。青年は愕然として、嘘ではないか、騙りではないかと疑い、ほとんどわれを忘れて、まるで気でも違ったようになってしまった。実にこの事情が一大破綻への導火線をなしたのであり、その前後の叙述こそは自分の第一の序説的小説の主題、というよりは、その外面的な方面を形づくっているのである。しかし、この小説に取りかかる前に、さらにフョードル・パーヴロヴィッチの次男、三男、つまりミーチャの二人の弟についても物語っておかなければならぬ。また、彼がどこから現われて来たかということも説明しておかなければならぬ。
フョードル・パーヴロヴィッチは四つになるミーチャを手もとから追いのけてしまうと、間もなく、二度目の結婚をした。この二度目の結婚生活は八年続いた。その後妻の、やはりかなりに若いソフィヤ・イワーノヴナという女は、彼があるユダヤ人と連れ立って、あるほんのちょっとした請負仕事のために出向いて行ったよその県から娶ったのである。フョードル・パーヴロヴィッチは放蕩もし、酒も飲み、乱暴もしたが、自分の資本の運用はけっしておろそかにはしなかった。もちろん、そのやり方はほとんどいつもきたなかったが、自分の商売にかけてはなかなか巧妙に処理したものであった。ソフィヤ・イワーノヴナはさる貧しい補祭の娘であったが、いわけないころから寄るべない『孤児』の一人となって、有名なヴォーロホフ将軍の未亡人で、彼女にとっては恩人であり、養育者でありながら、それでいて同時に迫害者でもあった老婦人の裕福な家に成長した。詳しい話は知らないが、ある時のこと、この気立てのすなおな、悪気のない内気な養女が、自分で納屋の釘に輪索をかけて、首をくくろうとしたところをおろされたとかいうことだけは耳にしている。それほど彼女はこの老婆の絶え間のない小言や移り気に耐えてゆくのがつらかったのであるが、その実、この老婆は、見たところ、別に意地の悪そうなところもなく、ただ、安逸な生活のために、どうにも我慢のならない強情な人間になっていたのであった。
フョードル・パーヴロヴィッチが結婚を申しこむと、先方ではいろいろと身もとを調べて、すげなく追い払ってしまった。ところが、彼は、初婚のときと同じように、今度もまたこの少女に駆け落ちをすすめた。もしもそのとき、彼のことを、もう少し詳しく聞きこんでいたならば、おそらく彼女は、どんなことがあっても、彼のところへなど行かなかったに相違ない。しかし、他県のことではあるし、ましてや、いつまでも恩人のところにいるくらいならば、いっそのこと川へでも飛びこんだほうがましだくらいに思いつめている十六や七の小娘に、物の道理のわかろうはずはない。哀れな少女はただ恩人を女から男に換えただけであった。が、今度という今度は、フョードル・パーヴロヴィッチにも鐚一文とることができなかった。なにしろ、将軍夫人がかんかんに怒って、何一つくれなかったばかりか、二人をのろってさえいたからである。もっとも、彼も今度は持参金を取ろうとは当てにしていなかった。ただ無邪気な少女のきわだった美しさに迷っただけであった。何よりもその無邪気な容姿が、これまで猥褻な女の色香にのみなじんで、荒みきっていた女たらしの心を打ったのである。
『あの無邪気な眼が、ちょうど、剃刀の刃のように、おれの心をひやっとさせたのさ』と、彼は後になって、例のいやらしい、忍び笑いをしながら、よく言い言いしたものである。もっとも、女たらしにとっては、これもおそらくは、単なる肉欲的なショックであったかもしれぬ。フョードル・パーヴロヴィッチは、なんのもうけにもならなかったこの妻に対してはなんの遠慮会釈もしなかった。それに、彼女が良人に対して、いわば『罪でもあるような』風でいるのをいいことにして、――また、ほとんど自分が『輪索にかかる』ところを救ってやったような立場にいるのにつけこんで、さらにまた生まれつき非常にすなおで内気なのにつけこんで、彼は夫婦間のきわめて普通な礼儀さえも、踏みにじって顧みなかった。妻がちゃんと控えている家の中へ、性の悪い女どもが乗りこんで来て、乱痴気騒ぎをやることもあった。ここに、そのころのきわだったこととして紹介しておきたいのは、あの陰気で、愚かしく、頑固で、理屈っぽい下男のグリゴリイが前の夫人アデライーダ・イワーノヴナを憎んでいたのに、今度は新しい奥様の味方になって、ほとんど下男にはあるまじき態度で、フョードル・パーヴロヴィッチと喧嘩までして、彼女をかばっていたことである。ある時などは、家へ集まって乱痴気騒ぎをしている蓮っ葉な女どもを、腕づくで一人残らず追い払ったほどであった。その後、子供のころから絶えずおびえてばかりいたこの不仕合わせな若い女は、一種の婦人神経病にかかった。それは田舎の百姓女などに実によく見られる病気で、この病気にかかった女は『憑かれた女』と呼ばれていた。恐ろしいヒステリイの発作を伴うこの病気のために、病人は時として理性をさえ失うことがあった。とはいえ、彼女はフョードル・パーヴロヴィッチとのあいだに、イワンとアレクセイの二人の子をもうけた。上のほうは結婚の年に、下のほうは三年たってからであった。彼女が亡くなったとき、アレクセイは四つになっていたが、彼は、不思議なことには、一生を通じて、もとより、夢のようなものではあったが、よく母親のことを覚えていた。母が亡くなってから二人の子供は、長男のミーチャの場合とほとんどそっくりそのままの運命に陥った。すなわち、二人は父親からすっかり忘れられ、見すてられて、やはり同じグリゴリイの手にかかって、下男小屋へ引き取られたのであった。二人の母の恩人であり、育ての親であった強情者の将軍夫人が彼らをはじめて見たのも、やはり、この下男小屋であった。夫人はまだ生きていたが、八年のあいだ、常に自分の受けた侮辱を忘れることができなかった。彼女はこの八年のあいだ、『ソフィヤ』がどんな暮らしをしているか、それとなく、きわめて正確な消息を手に入れて、彼女が病気をしていることや、いかばかり醜い場面の中に暮らしているかを耳にすると、一度ならず、二度も三度も、口に出して居候の女たちに向かってささやいたものであった、『それがあれにはあたりまえなのだよ。神様があれの恩知らずな仕打ちに罰をお当てなすったのだ』
ソフィヤ・イワーノヴナが亡くなってちょうど三か月目に、不意に、将軍夫人はみずからこの町に姿を現わして、まっすぐにフョードル・パーヴロヴィッチの家へ乗りこんだ。夫人がこの町にいたのはやっと半時間ほどであったが、彼女は多くのことを成しとげた。それは日の暮れ方のことであった。彼女がこの八年というもの絶えて会わなかったフョードル・パーヴロヴィッチは酔いしれて夫人の前に出た。すると、夫人は何一つ物を言わずに、彼の顔を見るなり、きき目のある、音のいい頬打ちを二つばかり食わしておいて、髪の毛をつかむと、三度ばかり、上から下へ引きむしった。それから、口もきかないで、さっさと二人の子供のいる下男小屋へおもむいた。彼らが湯も使っていないうえに、よごれきったシャツを着ているのを一目で見てとると、いきなり夫人はまたグリゴリイに頬打ちを食わして、子供を二人とも自分の家へ連れて行くと宣言した。そして、二人を着のみ着のままで膝かけの毛布にくるんで、馬車に乗せて自分の町へと連れて帰った。グリゴリイは忠実な奴隷のように、この頬打ちを耐え忍んで、ことば一つ返さずに、老夫人を馬車まで見送ったとき、うやうやしく最敬礼をしながら、子細らしく、『神様が孤児たちに代わってあなた様にお礼をしてくださりましょう』と挨拶した。将軍夫人は馬車が動き出すと、『それにしてもやはりおまえが間抜けなのだよ!』と叫んだ。
フョードル・パーヴロヴィッチはこの前後の事情を考えてみて、なかなか結構なことだと思ったので、将軍夫人の手もとで子供を養育する件について、のちに正式に承諾を与えたときにも、ただの一項目にさえも異議を申し立てなかった。ところで、例の頬をなぐられた件については、自分から出かけて町じゅうに振れまわったものであった。
やがて、この将軍夫人もほどなくこの世の人ではなくなった。が、二人の子供にそれぞれ千ルーブルずつ与えると遺言した。『二人の教育費として、この金額を必ず二人のために使用すること、ただし二人が丁年に達するまでは十分に足りるように使うこと。すなわち、かような子供には、これだけの贈り物にても十分すぎるゆえに。もっとも、何びとたりとも、篤志のかたは、随意に御自分の財布の紐を解かれることいっこうさしつかえこれなきこと』云々。自分はこの遺言状を読みはしなかったが、なんでもこんな風に妙な、実に独特な書き方がしてあったという話である。老夫人のおもなる遺産相続人はエフィム・ペトローヴィッチ・ポレーノフというその県の貴族団長で、高廉な人であった。フョードル・パーヴロヴィッチと手紙で交渉をしてみると、この男からはとても実子の養育費を引き出せないことがわかったので(もっとも、相手はけっしてあからさまには断わりはしなかったが、いつもこんな場合には長々と一寸のがれを言ったり、時には泣き言さえも並べるのであった)ポレーノフは親身になって孤児のめんどうを見ることにした。中でも、弟のアレクセイをことさらに可愛がったので、アレクセイは長いあいだその家の家族として大きくなったものといえる。私は最初からこのことに注目されんことを読者にお願いする。もし若者たちが養育と学問の点で、生涯を通じて、誰かに負うところがあったとすれば、それはすなわち、この、まれに見る高潔な、人情のあついエフィム・ペトローヴィッチに対してであった。彼は将軍夫人から残された二千ルーブルの金を、子供らのためにそっくり保管してきたので、二人が丁年に達しようとするころには利子が積もり積もって、それぞれ二倍からになっていた。彼は自分の金で二人を養育したのであるが、いうまでもなく、それは一人あたり千ルーブルよりはずっと多くかかっていた。彼らの青少年時代の細々した話にはいることはしばらく見合わせて、私はただ重要な点だけを述べておくことにしよう。それにしても、兄のイワンについては、彼が長ずるに従ってけっして臆病なわけではないが、なんとなく気むずかしい、引っこみ思案の少年になって、十くらいのころから自分たち兄弟はやはり他人の家で、他人のおなさけで育っているのだ、それに自分たちの父は、口にするのも恥ずかしいくらいの人間だなどということを、洞察していたらしいということだけは言っておこう。この少年はかなりに早くから、ほとんど幼年のころから(少なくとも、伝うるところによれば)、学問に対する一種の並ならぬ華々しい能力を現わし始めた。正確なことは知らないが、やっと十三くらいの年に彼はエフィム・ペトローヴィッチの家庭を離れて、モスクワの中学校に入学し、エフィム・ペトローヴィッチの幼な友だちで、ある経験のある、当時の有名な教育家の寄宿舎へはいったのであった。のちにイワン自身が話したところによると、これは、天才のある子供は天才のある教育家のもとで教育されねばならぬ、という思想に心酔していたエフィム・ペトローヴィッチの、『善事に対する熱情から』起こったことである。もっとも、この青年が中学を卒えて大学へ進んだころには、エフィム・ペトローヴィッチも、天才的な教育者も、すでにあの世の人となっていた。エフィム・ペトローヴィッチの処置がよろしきを得なかったばかりに、あの強情者の将軍夫人から譲られて、今では利に利が積もって千ルーブルから二千ルーブルにも殖えた、自分の子供の時分からの金が、この国ではなんともしようのないいろんな形式や、手続きの渋滞のおかげで容易に受け取ることができず、そのために、彼は大学における最初の二年間というもの、かなりひどい苦労をした。彼はこの間じゅう、自活の道を立てながら、同時に勉強をしなければならなかった。ところが、そのころの彼が、父と手紙のやりとりをしてみようとさえも考えなかったということは注意しておく必要がある。おそらく、傲慢な気持、父に対する軽蔑の念によるものであろう、それとも、父からほんのわずかでもまじめな援助を受ける望みのないことを教える冷静な、はっきりした判断力によったのかもしれぬ。それはともかくとして、青年は少しもまごつかずに、やっとのことで、仕事にありついた。最初のうちは一回二十カペイカの出張教授をやっていたが、のちには、あちこちの新聞の編集者のところを駆けずり回って、『目撃者』という署名のもとに、市井の出来事についての十行記事を寄稿したりした。この小さい記事は、いつも、なかなかおもしろく、辛辣だったので、たちまち評判になったという。彼はこの一事をもってしても、いつも貧しい暮らしをして不仕合わせな境遇にある、この国のおびただしい男女学生に比べて、実際的にも知的にも断然頭角をあらわしていた。両都の学生たちは、たいてい朝から晩まで、各種の新聞雑誌の編集室へ、お百度を踏みながら、相も変わらぬ仏文の翻訳だとか筆耕の口だとかを、あとからあとからと懇願する以外には、なんのいい思案も浮かばないのである。あちこちの編集部と近づきになると、イワン・フョードロヴィッチはその後も、ずっと関係を絶たずに、大学を終わるころにはいろんな専門的な書物に関するきわめて才能のある批評を掲載し始めたため、文学者仲間のあいだにまで有名になった。もっとも、偶然にも彼がずっと広範囲の読書に特別な注意をよび起こして、非常に多くの人から一時に認められ、記憶されるようになったのは、つい最近のことである。それはかなりに興味のある出来事であった。すでに大学を卒業して、例の二千ルーブルの金で外国行きを企てているうちに、イワン・フョードロヴィッチは突然ある大新聞に一つの奇妙な論文を載せて、専門外の人の注意まで引いたのであるが、なかんずくその題材が博物科を卒業した彼にとっては全く縁のなさそうなものであった。その論文は、そのころあちこちで論議されていた教会裁判問題に対して書かれたものである。すでにこの問題について公けにされた幾つかの意見を検討してから、彼は自分自身の見解を発表した。重要な点は文章の調子と、全く人の意表に出たその結論とにあった。ところで、教会派の大多数は断然彼を目して自党と確信したが、それと同時に公民権論者のみならず無神論者までがいっしょになって、各自の立場から、やんやと喝采し始めた。が、つまるところ、具眼の士はこの論文は、単に大胆不敵の俄狂言であり嘲弄にすぎないと断定した。このいきさつを特に紹介しておくのは、そのころもちあがった教会裁判問題について一般的な興味を持っていた、この町の郊外にある有名な修道院でも、たまたまこの論文が問題になって、非常な疑惑をよび起こしていたからである。さて筆者の名がわかって、それがこの町の出身者で、しかも『あのほかならぬフョードル・パーヴロヴィッチの息子である』ということがまた人々の興味を引くのであった。ところがちょうどそのころ、ひょっくりこの町へ当の筆者が姿を現わした。
なんのためにイワン・フョードロヴィッチがそのとき帰って来たのか――自分は当時すでにほとんど不安に近い気持で、この疑問を心にいだいたことを覚えている。あのような恐ろしい事件の端緒となったこの宿命的な帰郷は、自分にとって、その後長いあいだ、ほとんど常に不可解な謎として残っていた。だいたい、あれほど学問があり、あれほど見識が高くて、あれほど体面を慮る青年が、――一生自分の存在を無視して、自分を知りもしなければ覚えてもいず、もちろん、たといわが子の願いであろうとも、いついかなる場合にも金などを出す心配は絶対にないくせに、それでいて、やはりイワンとアレクセイがいつか帰って来て、金をねだりはしないかと、一生涯そればかりを恐れているような、こんな父親の乱脈きわまる家庭へ突然やって来たのは、不思議なことである。ところが、そんな父親の家へ戻って来てこの青年はもう二月ばかりもいっしょに暮らしているばかりでなく、両者のあいだはこのうえもなく折り合いが好いのである。これには単に私ばかりではなく、多くの人たちが特に驚かされた。ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフ――この人はすでに前にも述べたとおり、先妻とのつながりでフョードル・パーヴロヴィッチの遠い親戚に当たる人であるが、ちょうどそのころ、すっかり住み慣れたパリから帰って来て、再び当市に隣接した領地に居合わせた。この人が誰にもまして特に驚いていたように記憶する。
彼は異常なる興味を覚えてこの青年と相識のあいだになったが、ともすれば内心の苦痛を感じながら、知識の張り合いをすることがあった。『あの男は気位は高いし』と彼はそのころ、われわれに向かってイワンのことをこんな風に話していた。『いつでも小銭はもうけるし、それに今でも外国へ行くだけの金は持っているのだから、何もいまさらこんなところへやって来る必要はなさそうなものだが? 父親に金をもらうためにやって来たのでないことは、誰の眼にも明らかなことだ。なんにしても金を出す父親ではないのだから。あの男は酒を飲んだり、放埒なまねをしたりするのは、大嫌いなんだが、それだのに父親はあの男でなければ、夜も日も明けないありさまだ!』それは全く事実であった。イワンは父親に対して明らかに一種の勢力を持っていた。父は非常にわがままで、ときにはひどく片意地なこともあったが、しかも、時おりは彼の言うことを聞くらしかった。そればかりではなく、どうかすると、身持ちが幾らかなおったかと思われることさえもあった……。
後になってわかったことであるが、イワン・フョードロヴィッチが帰って来た一半の理由は、兄ドミトリイ・フョードロヴィッチの頼みとその用件のためであった。そのころ、生まれてはじめて兄のことを知り、顔を見たのもほとんどこの帰郷のときがはじめてであったが、しかし、ある重大な事件――といっても、主としてドミトリイ・フョードロヴィッチに関したことである――のために、モスクワから帰郷する前から文通は始めていた。それがいかなる事件であるかは、やがて読者に詳しくわかってくるはずである。とにかく、後日その特別な事情を聞き知った後でさえも、私にはイワン・フョードロヴィッチという人がやはり謎のように感ぜられ、その帰郷の理由も依然として不可解に思われた。
つけ加えて言っておくが、イワン・フョードロヴィッチはそのころ、父と大喧嘩をして、正式裁判にまでも訴えようとしていた兄のドミトリイ・フョードロヴィッチと父との間に挾まって、仲裁役といったような立場に立っていた。
この一家族は、くり返して言うが、このときはじめていっしょに落ち合ったのであって、ある者は生まれてはじめて互いに顔を見知ったのである。ただ末の子のアレクセイ・フョードロヴィッチだけは、一年ほど前から、こちらで暮らしていた。つまり兄弟じゅうで最も早く、われわれのところへ姿を現わしたわけである。さて、このアレクセイについて、小説の本舞台へ登場させるに先立って、こうした序説的な物語の中で説明することは、何よりも自分にとってはむずかしいことである。しかし、彼についても、やはり前書きを書かなければならぬ。少なくとも、ある非常に奇妙な点、すなわち、この未来の主人公を、小説の第一幕から新発意の法衣姿で、読者に紹介しなければならぬので、その点だけでもあらかじめ説明しておく必要があるのである。事実、彼がこちらの修道院に住みこんでからすでに一年近くになるが、どうやら彼は一生涯その中に閉じこもる覚悟でいるらしかった。
彼はその時まだやっと満二十歳であった(中の兄のイワンは当時二十四、長兄のドミトリイは二十八であった)。まず最初に言っておかなければならないのは、この青年アリョーシャが、けっして狂信者でもなければ、また、少なくとも自分の考えでは、けっして神秘主義者でさえなかったことである。前もって遠慮のない意見を述べるならば、彼はわずかに若き博愛家にすぎず、修道院の生活にはいったのも、ただその生活が彼の心をうち、いわば世界悪の闇から愛の光明を願い求める彼の魂の究極の理想として、そのころの彼の心に映じたからである。またこの修道院の生活が彼の驚異の念を呼びさましたのも、その中に、そのころ、彼の目してなみなみならぬ人物とする、有名な長老ゾシマを、発見したからであった。彼はやむにやまれぬ心の初恋のような熱情を捧げつくして、この長老に傾倒した。もっとも、彼はすでに揺籃時代から非常に変わった人間であったことは争われない事実である。ついでながら、彼がわずか四つで母に別れながら、その後一生を通じて、母の面影やその慈愛を、『あたかも自分の眼の前に母親が生きて立っているかのように』まざまざと覚えていたことはすでに述べたとおりである。こうした思い出はずっとずっと幼い――二つくらいのころからさえ、よく記憶に残るもので(それは誰でも知っていることであるが)、それは闇の中に浮かび出た明るい点のように、――また、それ以上は跡形もなく消え失せた大きな絵から切り抜かれた小さい断片のように、一生を通じて心のなかに浮かんでくるものである。アリョーシャの場合も全くそのとおりであった。彼はある夏の静かな夕暮を覚えていた。窓があいていた、夕日が斜めにさしこんでいた(この斜めにさしこむ光を彼は最もよく覚えていた)、部屋の片隅には聖像があり、その前には燈明がともされていた。聖像の前に母がひざまずいて、ヒステリイのようにすすり泣きしながら不意に金切声をあげてわめきだすと共に、彼を両の手で痛いほど固く抱きしめて、わが子の身の上を聖母マリヤに祈り、また聖母の被衣の陰に隠そうとでもするかのように、彼を両手に抱き上げて聖像の方へ差し伸べたりしていた……すると、不意に乳母が駆けこんで来て、おびえながら彼を母親の手からもぎ取ってしまった、これがそのときの光景であった! アリョーシャはその刹那の母の顔まで覚えていた。その顔は、彼が記憶している限りでは、取り乱してはいたが、美しいものであった。しかし、彼はこの記憶を人に打ち明けることをあまり好まなかった。幼年期にも、少年期にも、彼はあまり感情を面に現わさなかったばかりか、むしろ口数の少ないほうであった。それはけっして臆病のためとか、無愛想で人づきが悪いためではなかった。それどころか、かえって、原因は何か他にある。つまり、きわめて個人的な、他人にはなんの関係もない、自分だけの内心の屈託といったようなものであるが、それが彼にとっては非常に重大なものなので、このために他人のことは忘れるともなく忘れがちになるのであった。しかも彼は人を愛した。そして一生涯、人を信じきって暮らしたらしいが、かつて誰ひとりとして彼をばかというものもなければ、お人好しと考える者もなかった。彼の内部には、自分は他人の裁判官になるのはいやだ、そして他人を非難するのも好かないから、どんなことがあっても人を咎めない、とでも言っているようなところがあった(それはその後、一生を通じてそうであった)、事実、彼は少しもとがめ立てをせずに、ときには深い悲哀を感ずることもたびたびあったが、いっさいのことを許しているらしかった。この意味で、何びとも彼を驚かしたりおびやかしたりすることができないほどになっていた。二十歳の年に、まぎれもなく、けがらわしき淫蕩の巣窟たる父親の家に身を寄せてからも、童貞純潔な彼は、見るに忍びないときに、黙々としてその場をはずすばかりで相手が誰であろうとも、いささかの軽蔑をも非難をも見せなかった。かつてよその居候であったところから、侮辱に対しては敏感で繊細な神経を持っていた父親は、最初は、腑に落ちないような、気むずかしい態度で、『黙り者の腹はさまざま』といった風で彼を迎えたが、結局は、まだ二週間ともたたないうちに、絶えず彼を抱きしめて、接吻するようになった。もっとも、それは泣き上戸の感傷の涙まじりにではあったが、しかも彼のような人間には、ほかの何びとにも感ずることのないような、深い真実な愛情がありありと見えていた……。
それに、この青年はどこへ行っても人に好かれた。それはまだ幼い子供のときからそうであった。自分の恩人で養育者たるエフィム・ペトローヴィッチ・ポレーノフの家へ引き取られると、彼はこの家のあらゆる人たちをすっかり引きつけてしまって、全く本当の子供と同様に見なされたものであった。それにしても、彼がこの家庭へはいったのは、まだきわめて幼少のころで、こんな子供に打算的な悪知恵や、機嫌を取って人に好かれようとする術策や技巧や、自分を可愛がらせようとする手腕などといったものを期待することは、絶対にできないことである。したがって、おのれに対する特別な愛情を人の心に呼びさます能力は、なんら技巧を弄することなく、端的に自然から賦与された本性だったわけである。学校においてもやはり同じことであった。もっとも、彼は仲間から疑いや、時として嘲笑や、あるいはことによると、憎悪さえも受けそうな子供に見えたかもしれない。たとえば、彼はよく物思いに沈んで、人を避けるようなことがあった。ごく幼少のころから彼は隅のほうに引っこんで、読書にふけることを好んだ。それにもかかわらず、彼は学校にいる間じゅう、全くみんなの寵児といってもいいほど、仲間から可愛がられた。彼はめったにふざけたり、はしゃいだりはしなかったが、しかし、誰でも一目彼を見ると、それはけっして気むずかしさのためではなく、反対に、落ち着いてさっぱりした性質のためである、ということをすぐに悟るのであった。同じ年ごろの子供に伍しても、彼はけっして頭角を現わそうなどとは考えたことはなかった。そのせいであろうか、彼はついぞ何一つ恐れたことがなかった。それでいて仲間の子供たちは、彼が自分の勇気を鼻にかけているのでなく、かえって、自分が大胆で勇敢なことを、いっこう知らないようなありさまであることを、すぐに了解した。彼は侮辱を覚えていたことなどは一度としてなかった。侮辱を受けてから一時間ほどすると、当の侮辱者に返事をしたり、自分のほうからそれに話しかけたりすることがよくあった。そんなときには、まるで二人のあいだには何事もなかったかのように相手を信じきったような、晴れ晴れした顔をしている。それはうっかり、その侮辱を忘れたとか、またはことさらに許したとかいうような様子ではなく、そんなことは侮辱でもなんでもないといった顔つきなので、この点がすっかり子供たちの心を擒にし、征服したのであった。ただ一つ彼には人と変わった性質があって、それが下級生から上級生に至るまで、中学の全学級にわたって、彼をからかってやろう、という望みを友だちに起こさせたものである。もっとも、それは腹の黒い嘲笑ではなくただ皆にとってそれが楽しいからであった。この変わった性質というのは、野性的な、夢中になるほどの羞恥心と潔癖とであった。彼は女に関するある種のことばやある種の会話を、はたで聞いていることすらできなかった。ところが、不幸にも、こうした『ある種』のことばや会話は、いずれの学校においても絶やすことはできないものである。まだほんの子供で、心も魂も清浄潔白な少年たちが、時によっては兵隊でさえ口にするのを憚るような事柄や、場面や、方法などを、教室の中で、仲間同士大きな声で口外する。かえって兵隊などは、教育のある上流社会の年少の子弟が疾うの昔に知っているような、この方面のことを、あまり知りもしなければ、心得てもいないものである。まだ、そこにはおそらく、道徳的堕落というようなものはないであろう。厚顔無恥はあっても、やはり本当の意味での放縦な、内面的なものではなくて、ただ外面的なものにすぎないが、しかもこれがしばしば彼らのあいだでは、何かデリケートで、微妙で、男らしい、模倣に価するもののように考えられるのである。『アリョーシャ・カラマゾフ』が、『そのこと』について話の出るたびに、あわてて指で耳を塞ぐのを見て、時おり一同はことさらぐるりに集まって、むりやりにその手を払いのけながら、両の耳を向けて大声で忌まわしいことをわめくのであった。すると相手は、それを振り払って、床の上に倒れ、すっかり顔を隠してしまって、その際、何も言わなければ、乱暴な口ひとつきかず、無言のまま、じっと侮辱を忍ぶのであった。ついには誰も彼を構わなくなって、『女っ児』とからかうのさえもよしてしまったばかりではなく、この意味で彼に同情をもって見るようになった。ついでながら、級中、学課において彼はいつも優等生の一人であったが、一度も首席になったことはなかった。
エフィム・ペトローヴィッチが死んでからも、アリョーシャはなお二年のあいだ、県立の中学校にとどまっていた。エフィム・ペトローヴィッチの夫人は悲嘆に暮れて、良人の亡きあと、すぐに、女ばかりの家族をまとめて、永逗留の予定でイタリアへ旅立ってしまったので、アリョーシャはエフィム・ペトローヴィッチの遠縁に当たる、これまで一度も顔を見たこともない二人の婦人の家へ移ることになったが、いかなる条件のもとに引き取られたものか、それは自分でも知らなかった。もう一つ、彼の、非常にといっていいくらいの変わった性質は、自分はそもそも、誰の費用で生活をしているのか、ということを、これまで一度も心に留めたことのない点であった。この点において、兄のイワン・フョードロヴィッチが大学で初めの二年間、自分で働いて身すぎをしながら苦労をしたり、またほんの子供のころから、自分の恩人の家で他人のやっかいになっている、ということを感じてつらい思いをしていたのに比べると、全く正反対であった。
しかし、アリョーシャのこうした奇妙な性格も、あまり深くとがめるわけにはいくまいと思われる。というのは、彼を少しでも知っている者は誰でも、この問題にぶつかると、アレクセイはたとえ一時に多額の金がはいったところで、最初に出会った無心者に施してしまうか、なにかの慈善事業に寄付をするか、または単に巧妙な詐欺師にひっかかって巻きあげられるかして、苦もなく使い果たしてしまう宗教的キ印に類する青年の一人に違いないと、すぐに気づくからであった。概して彼は金の値打ちというものをよく知らなかった。もとより、それは文字どおりの意味ではない。彼はけっして自分から頼んだのではないが、時おり小遣い銭をもらうことがあったが、それも、時によると、幾週間もその使途に困ってもてあますかと思えば、また時にはおそろしく無雑作に扱って、またたく間になくしてしまうのであった。フョードル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフは、金やブルジョアらしい廉恥心にかけては、少なからず神経過敏なほうであったが、のちに、アレクセイを見慣れてしまってから、あるとき、彼について一つの名句を吐いたことがあった。
『この男はおそらく、世界じゅうにただ一人の、類のない人間かもしれない。あれはたとい人口百万ほどの不案内な都会の大広場へ、いきなりただ一人で、一文なしで打っちゃられても、けっして飢え死にをしたり、凍え死にをしたりすることはないだろう。すぐに人が食べものをくれたり、仕事の世話をしてくれたりするから。人がしてくれなくとも、自分ですぐどこかに職を見つける。しかもそれはあの人間にとって、骨の折れることでもなければ、屈辱でもなく、また世話をしてくれる人もそれを少しも苦にしないどころか、かえって満足に思うだろう』
彼は中学の全課程を終えなかった。まだ卒業までにはまる一年あるのに、彼はいきなり、やっかいになっていた二人の婦人に向かって、ふとある用事が頭に浮かんできたので、父のもとへ帰るつもりだと申し出た。婦人たちはひとかたならず彼を惜しんで、放そうとはしなかった。旅費はあまりたいした額でもなかったので、彼は恩人の遺族から、外国出発のおりに贈られた時計を質に入れようとしたが、二人の婦人はそれをも止めて、十分に旅費をつくってくれ、新しい着物や肌着類までも調えてくれた。しかし、彼はぜひ三等車に乗りたいからと言って、その金も半分は返してしまった。この町へ着いた時、『なんだって学校を卒業もしないで来たんだ?』という父親の最初の質問に対して、彼は何も答えなかった。そしていつものように物思いに沈んでいたという噂である。その後まもなく、彼が母の墓を捜していることがわかった。それが帰郷の唯一の目的であると、帰って来たとき自分でも打ち明けかかっていた。しかし、それだけで帰郷の理由の全部が尽きていたかどうかは疑わしい。不意に彼の心のうちにわきあがって、どこかよくわからないが、しかも避けがたい新しい道へ、いやおうなしにぐんぐんと彼を引っぱっていったのは、はたして何であったか、それはそのころ、彼自身にさえもわからず、なんら説明のしようがなかったのだと解釈するのが最も妥当なことであろう。フョードル・パーヴロヴィッチは自分の第二の妻をどこに葬ったか、わが子に教えることができなかった。棺へ土をかぶせてこのかた、一度も墓参りをしたことがないので、長い年月がたつうちに、そのときどこへ葬ったのか、全く忘れ果ててしまったからである……。
ついでながらフョードル・パーヴロヴィッチのことを少しばかり話しておこう。彼はそれまで長いあいだこの町に住んでいなかった。二度目の妻が亡くなってのち三、四年たって、南ロシアへ赴き、ついにオデッサまで行って、そこに何年か引き続いて暮らしたのであった。最初のうちは、彼自身の言いぐさによると、『多くの卑しい老若男女のユダヤ人』とつきあっていたが、やがてはユダヤ人ばかりでなく、『上流のユダヤ人の家へも出入りする』ようになった。彼が金もうけに特別の腕を磨きあげたのは、この時代のことと考えなければならぬ。彼が再びこの町へ帰って、すっかり落ち着くことになったのは、アリョーシャの帰郷よりわずか三年前のことであった。町の古馴染は、彼がまだけっしてそんな老人ではないのに、ひどく老けたように思った。彼の物ごしは上品になったというよりも、なんだか妙にあつかましくなってきた。昔の道化が、今度は、ほかの者を道化に仕立てようという、ずうずうしい要求を現わし始めたのである。女を相手に見苦しいまねをすることは、以前どおりに好きだというよりも、そのやり方がいっそういやらしくなったように思われた。間もなく彼は郡内に多くの新しい酒場を開いた。どうやら彼の財産は十万ルーブルか、それとも、幾分それに欠けるくらいはあったらしい。町内や郡内の多くの人たちが、たちまち彼から借金をしたが、それはもちろん、たしかな抵当を入れてのことであった。ごく最近になって、彼もなんだか気がゆるんだらしく、流暢さと身のしまりがなくなり、妙にだらしがなくなって、何か事を始めても、前後がすっかり食い違い、すべてが投げやりになって、いよいよ頻繁に深酒に浸るようになった。だから、もしも、そのころ、やはりいいかげんに老いぼれていた例の下男グリゴリイが、ほとんど付き添いの格で彼を見張っていなかったなら、フョードルの生活には、絶えずめんどうなごたごたが起こっていたことであろう。アリョーシャの帰郷は、精神的な方面から見ても、彼になんらかの影響を与えたらしい。年に似合わず老いぼれたフョードルの心のうちに、遠い昔に魂の中で萎えしぼんでいたあるものが、不意に眼ざめたかのようであった。『なあ、これ』と彼は、アリョーシャの顔をつくづく眺めながら、言うのであった、『おまえはあいつに生き写しだな、あの憑かれた女に』彼は自分の亡き妻で、アリョーシャの母をそう呼んでいたのである。その『憑かれた女』の墓は、ついに下男のグリゴリイによって、アリョーシャに教えられた。グリゴリイは彼を町の墓地へつれて行って、そこのずっと奥の隅にある鋳鉄製の、あまり金はかかっていないが、小ぢんまりした墓じるしを指さした。その上には故人の名まえ、身分、年齢、死亡の年などといっしょに碑銘があって、下の方には、一般に中産階級の人の墓に使われる古風な、四行詩のようなものまで刻んであった。驚いたことに、この墓じるしはグリゴリイの仕業であった。これは彼が自腹を切って、気の毒な『憑かれた女』の奥津城の上に建てたものである。それに先立って彼は幾度となく、この墓のことをほのめかして、フョードル・パーヴロヴィッチをうるさがらせたものであるが、結局フョードルは、ただにこの墓のことばかりではなく、あらゆる思い出を振りすてて、オデッサへ行ってしまったのであった。アリョーシャは母の墓の前でなんら感傷的な態度を示さなかった。彼はただ、墓じるしを建てるについてグリゴリイの物々しい、もっともらしい話にじっと聞き入ったばかりで、しばらく頭をたれてたたずんでいたが、やがて何一つ物も言わずに立ち去った。それきり、彼はおそらく、一年ばかりも墓場へ来なかったであろう。しかもこの小さな插話は、フョードル・パーヴロヴィッチにも影響を与えたが、しかもそれは非常に風変わりなものであった。彼は金を千ルーブル取り出すと、それを町の修道院へ持って行って、亡き妻の回向を頼んだのであった。しかし、それは二度目の妻、すなわちアリョーシャの母である『憑かれた女』のためでなく、自分を打った先妻のアデライーダ・イワーノヴナの菩提を葬うためであった。そして、その晩、酒に酔いしれて、アリョーシャを相手に坊主どもの悪口を言った。彼自身は信心からおよそ縁遠い人間であった。おそらく五カペイカの蝋燭一本さえも、聖像の前へ立てたことのない男であった。こんな手合いには、よくこうした奇妙な感情や思想の突発が起こるものである。
彼がこのごろ、ひどく気のゆるんできたことは、前に述べたとおりである。それに彼の容貌は最近とみに、過去の生活全体の内容と特質を、まざまざと証明するような相好を現わしてきた。いつも無遠慮でうさん臭い、しかも人を嘲けるような小さい眼の下に、長いぶよぶよした肉の袋がたれて、小さいながら脂ぎった顔に、おびただしい皺が深く刻まれているばかりでなく、とがった頤の下から、まるで金財布のようにだぶだぶした横に長い大きな贅肉がぶらさがっていた。それが彼の顔にいやらしい淫蕩な相を与えているのであった。そのうえに、腫れぼったい唇のあいだから、ほとんど腐ってしまった黒い歯のかけらをちらちら見せる貪欲らしい長い口が付いているのである。彼は話をするたびに唾をやたらに跳ね飛ばした。とはいえ、よく好んで、われとわが顔をひやかしたものであるが、さしてその顔に不満足でもなかったのである。ことに彼はそれほど大きくはないが、非常に細かくて、ひときわ目立つ段のついた鼻を指しながら、『正真正銘のローマ鼻だ』と言った、『こいつが肉袋といっしょになって、退廃期の古代ローマ貴族そのままの顔ができあがっているんだ』それが彼の自慢なところらしかった。
アリョーシャは母の墓を見つけてほどなく、いきなり、父に向かって、自分は修道院へはいりたい、修道僧たちも自分が新発意になることを許してくれたと言いだした。彼はまたそのとき、これは自分の格別な希望であるから、父としての厳粛な許しが与えられるように、ぜひともお願いすると説明した。老人は、この修道院内の庵室に行ない済ましているゾシマ長老が、自分の『おとなしい子供』に特殊な感銘を与えていることは、すでによく承知していた。
「あの長老は、そりゃあ、あすこではいちばん心の潔白な坊さんだよ」じっと黙ったまま何か考えこむような風でアリョーシャのことばを最後まで聞いて、彼はこう口を切ったが、わが子の願いに驚いた様子は少しもなかった。「ふむ……じゃあ、おまえはあすこへ行こうっていうのか、うちのおとなしい坊主!」彼は一杯機嫌だったが、突然、にやりと笑った。それは例の引きのばしたような、一杯機嫌ながらも、狡猾さと、生酔いの本性を失わぬ薄ら笑いであった。「ふむ……だが、わしも、いずれはおまえが、何かそんな風なことになるだろうとは、感づいておったのだよ。どうだ、思いがけなかったろうが? おまえは全くあすこをねらっておったんだからの。が、まあ、しかたがないさ、おまえも二千ルーブルという自分の金を持っておるのだから、あれがまあ、持参金になるってものだ。わしもけっしておまえを打っちゃっときゃあせんからな、今だって、寺で出せと言うだけのものは、おまえのために寄進するよ。だが、もし出せと言わなければ、なにもこっちから出しゃばったことをするにも当たるまいよ。そんなもんじゃないかえ? だって、おまえの金の使い方といえば、とんとカナリヤとおんなじで、一週間に二粒ずつもありゃたくさんだろうよ――ふむ……ときに、なんだな、あるお寺のことなんだが、そこにはちょっとした控え屋敷のようなものがあって、その中には、誰でも知っておることだが、『お囲い女房ばかりが住んでおる』のさ。なんでも三十匹ぐらいもいるらしいぞ……わしもそこへ行ったことがあるが、なかなかおもしろいわい。もちろん、一種特別な、変わっておるというだけのおもしろさなんだけれど、ただ惜しいことに、恐ろしい国粋主義で、フランスの女がさっぱりいないんでの。呼び寄せたらいいんだのに、金は幾らでもあるんだから。そのうち嗅ぎつけたら、やって来るだろうよ。だが、ここの寺には何もない。お囲い女房なんか一人もいないで、坊主ばかりが二百匹ほどもいるのさ。道心堅固で、戒律のやかましい連中ばかりなんだな、白状をすれば……。じゃあ、おまえは坊主の仲間へはいりたいんだな? だが、アリョーシャ、わしは全くのところ、おまえが可哀そうなんだよ。まさかと思うかもしれんが、わしはおまえが大好きになってしまったのだよ……それでも、これを機会に一つ、わしらのような罪障の深い者のために、お祈りをしてくれるんだな。全くわしらはここに御輿をすえているうちに、ずいぶんいろいろと罪を重ねたものだからな。わしはいつもよくそう思ったものさ――いつか、わしらのために祈ってくれる者がどこかにいるだろうか? そんな人間がはたしてこの世にいるかしらん? とな。なあ、可愛い坊主、おまえは本当にせんかもしれんが、このことにかけたら、わしはから他愛がないんだよ。そりゃおそろしくばかなのさ。ところが、ばかなりにも、しょっちゅうこのことを考えるんだよ。いや、しょっちゅうじゃない、むろん、ときどきの話だ。だが、わしが死んだとき、鬼どもがわしを鉤に引っ掛けて、地獄へ引きずりこむのを、ちょっと忘れさせるっていうわけにはいかんものだろうかなあ? わしの気になるのは、この鉤なんだよ。いったいやつらは、どこからそんなものを手に入れるんだろう? 何でこしらえてあるんかしら? 鉄だろうかな? そんなら、どこでそんなものを鍛つんだろう? 何か工場のようなものでも地獄にあるのかな? でも修道院では坊主どもはきっと、地獄に天井があるものと考えてるんだろう。ところが、わしは地獄というものを信じるのはいいけれど、まだねがわくば天井のないやつがいいな。そうすれば、地獄も少しは気のきいた、文化的な、つまりルーテル式なものになってくるからな。全く、天井があろうとなかろうと、同じことじゃないかよ。ところが、このいまいましい問題は、その中にあるんだ! それで、もし天井がないとすれば、鉤もないことになるだろう。ところで、鉤がないとすれば、すっかり見込み違いで、またわからなくなる、つまり、誰もわしを鉤にかけて引きずりこむ者はいないわけだ、ところで、もしわしを鉤にかけて引きずりこまないとしたら、そのときはどうだろうな、いったい、この世のどこに、真理があるというんだ? Il faudrait les inventer(ぜひとも作り出さにゃならんのだ)ことさらにその鉤をわしのために、わし一人のためにな、なぜと言って、とてもおまえにはわかるまいが、アリョーシャ、わしは実になんとも言えん恥知らずだからな!……」
「でも地獄には鉤なんかありませんよ」と父を見つめながら、静かにまじめにアリョーシャは答えた。
「そうだとも、そうだとも、ただ鉤の影ばかりなんだ、知ってるよ、知ってるよ。あるフランス人が地獄のことを書いておるが、全くそのとおりなんだ、J'ai vu l'ombre d'un cocher'qui avec l'ombre d'une brosse frottait l'ombre d'une carosse(わたしは見た、刷毛の影にて馬車の影を磨く御者の影を)だ。しかし、おまえはどうして鉤がないってことを知ってるんだい? 少しのあいだ坊さんたちの中へはいっておったら、そんなことも言わなくなるだろうが。しかし、まあ行くがいい、そして善知識になるがいいぞ。そうなったら、わしのところへ来て話して聞かしてくれ。なんといっても、あの世の様子が良く知っていさえすれば、そこへ行くのも楽なわけだからな。それに、おまえも、のんだくれの親爺や娘っ子どものそばにいるよりは、坊さんたちのところにいたほうが身のためだから……、せめておまえだけは、天使のように、なんにもさわらせたくないよ。いや、あすこへ行けば、おまえもさわるものがなかろう。わしがおまえに許しを与えるのも、つまりは、それを当てにするからなんだよ。おまえの心はまだ悪魔に食われておらんからな。ぱっと燃えて、消えて、それからすっかり以前のからだになって、帰って来るがいい。わしはおまえを待っておるぞ。実際、世界じゅうでこのわしを悪く言わないのは、ただおまえ一人きりだからな、それはわしも感じとるわい。本当に感じとるとも、実際、それを感じないわけにはいかんじゃないかえ?……」
そして、彼はすすりあげて泣きだしさえした。彼は感傷的であった。悪党ではあったが、同時に感傷的な人間でもあった。
おそらく、読者の中にこの青年を、病的な、われを忘れてしまうほど感じやすい、生まれつき発育のよくない、貧弱な痩せ衰えた人間で、青白い顔の空想家だろうと、考えられるかたがあるかもしれぬ。ところが、その正反対で、そのころのアリョーシャは堂々たる体格に、ばら色の頬をして、健康に燃えるような明るい眸の、二十歳の青年であった。そのころの彼はむしろ非常な美貌の持ち主であった。すらりとした中肉中背で、黒みがかった亜麻色の髪に、輪郭の正しい、しかもこころもち長めの卵なりの顔、大きく見はった濃い灰色の眼――概して考え深そうな、見たところは、いかにも落ち着いた青年であった。あるいは、ばら色の頬も、狂的信仰や神秘主義の邪魔にはならない、という人があるかもしれないが、しかし、自分には、むしろアリョーシャが誰にもまして真のレアリストではないかと思われる。それはなるほど、修道院へはいってから、彼はすっかり奇跡を信じたのには相違ない。しかし、自分の考えでは、奇跡はけっしてレアリストを困惑させるものでない。奇跡がレアリストを信仰に導くのではないからである。真のレアリストは、もし彼が不信者であるとすれば、常に奇跡を信じない力と才能を持っているのである。そして、もし奇跡が否定すべからざる事実となって現われた場合には、彼は奇跡を許容するよりも、むしろ自分の感覚を信じまいとする。けれど、いざ奇跡を許容するとなれば、きわめて自然な事実でありながら、今まで知られずにいた事実として許容するのである。レアリストにあっては、信仰が奇跡から生まれるのでなくて、信仰から奇跡が生ずるのである。もしひとたびレアリストが信仰をいだいたならば、まさしくその現実主義を通じて、必ず奇跡をも許容せざるを得ないのである。使徒トマスも、見ないうちは信じないと言い張ったが、いよいよ見たときには、『わが主よ、わが神よ!』と言った。これは、奇跡が彼を信じさせたのだろうか? おそらくそうではなくて、彼がただ信じたいと望んだればこそ、信ずることができたのであろう。たぶん彼が『見ないうちは信じない』と頑張ったときすでに、自己の存在の奥底では、完全に信じていたのかもしれない。
あるいはまた、アリョーシャは鈍な人間で、精神の発達も不十分で、学業も全うしなかったのだ、などという人がないとも限らない。彼が中学を卒業しなかったのは事実であるが、しかし、彼を鈍な人間だのばかだのというのは、たいへんな間違いである。自分はすでに前に述べたところを、いま一度くり返すまでであるが、――彼がこの道へ踏みこんだのは、当時ただこれのみが彼の心を撃ち、闇の中から光明を目ざして驀進する彼の心霊に対する究極の理想として映じたからにほかならない。それにいまひとつ、半面において彼がわが国の近代的青年であったことを付け加えればいい。つまり、天性潔白で、真理を探求し、ついにそれを信じるに至ったのであるが、いったんそれを信じたうえは、己が心魂を傾けて一刻の猶予もなくこれに馳せ参じて、少しも早く功績を立てたい、しかもその功績のためにはいっさいの物を、命さえも犠牲にすることを辞さないという、必死な希望にかられていたのである。とはいえ、不幸にして、こうした青年たちには、生命の犠牲はこういう場合、他のいかなる犠牲よりも、最も容易なものだということがわからないのである。たとえば、みずからそれに打ちこんで、その完成を心に期している同じ真理なり、功名なりに奉仕する力を増すだけにでも、青春の血に燃ゆる自己の生活から五年、六年を割いて、むずかしいやっかいな勉強のため、学問のための犠牲にするという――こうした不断の努力が、多くの青年にとってはほとんど全く耐えられないのである。アリョーシャはただ、人と正反対の道を取っただけで、一時も早く功績を立てたいと思う熱望に変わりはなかった。真剣になって思索した結果、不死と神とは存在するという信念に心を打たれると同時に、きわめて自然にこう口走った。『不死のために生きたい。中途半端な妥協はとるまい』これと同じく、もしも彼が不死や神は存在しないと決めた場合には、彼はたちまち無神論者や社会主義者の中へはいって行ったに違いない(なぜかといえば、社会主義は単なる労働問題、またはいわゆる第四階級の問題であるばかりでなく、主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉づけを施した問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられつつあるバビロンの塔であるから)。アリョーシャにはこれまでどおりの生活をするのが、奇怪で不可能なことにすら思われた。聖書にも、『もし完たからんと欲せば、すべての財宝を頒ちてわれの後より来たれ』と言ってある。で、アリョーシャは心につぶやいた。『自分は「すべて」の代わりに、弥撒へだけ顔を出すようなことはできない』彼の幼少のころの記憶の中に、よく母に抱かれて弥撒に詣った、この町の郊外の修道院に関する何ものかが残っていたのかもしれない。あるいはまた『憑かれた女』なる母が、彼を両手に載せて差し出した聖像の前の斜陽が、彼の心に何か作用を及ぼしたのかもしれない。彼が物思いに沈みながら、当時この町へ帰って来たのは、ここでは『すべて』であるか、それともただの『二ルーブル』であるかを見きわめるためだったかもしれない、が――この修道院で彼は長老に会ったのである……それは前にも述べたように、ゾシマ長老のことである。ここでひと言わが国の修道院における長老とはいかなる者であるかについて説明を加えなければならぬが、残念ながら自分はこの道にかけては、たいして資格もなければ、確かな心得もないような気がする。しかし、ちょっと手短かに、表面的な叙述を試みようと思う。まず第一に、権威ある専門家の説によると、長老とか長老制度とかが、わがロシアの修道院に現われたのはきわめて最近のことで、まだ百年にもなっていないが、東方の諸正教国、ことにシナイとアトスには千年も前からあったとのことである。なお彼らの主張に従えば、ロシアにも古代には存在していた。もしくは、存在していたに違いないのだが、国運の衰退とか、ダッタンの入寇とか、反乱とか、コンスタンチノープル陥落以後の東方との交通途絶とかいう、もろもろの事件の結果、わが国においてはこの制度が忘れられて、長老というものの跡を断つに至ったのである。それが復活したのは前世紀の終わりごろで、偉大なる苦行者(一般にそう呼ばれている)の一人パイーシイ・ヴェリチコーフスキイと、その弟子たちの力によったもので、それからほとんど百年も後の今日に至っても、ごく少数の修道院にしか存在せず、それさえどうかすると、ロシアでは話にも聞かぬ新制度として、迫害をこうむることがあったのである。これがロシアにおいてことに隆盛を見たのは、あの有名なコゼリスクの僧庵、オプチーナ修道院であった。いつ、何びとによって、この制度が当地の郊外にある修道院で創められたかは確言することができないけれど、ここの長老職はもう三代もつづき、ゾシマはその最後の長老である。しかもこの人が老衰と病気のためにほとんど死になんなんとしているにもかかわらず、誰をその後継者に推すべきかもわかっていなかった。これはこの修道院にとっては重大な問題であった。というのは、この修道院にはこれまで何一つ有名なものがなかった。聖僧の遺骨もなければ、世間に知られた霊験あらたかな聖像もなく、国史に縁のあるすばらしい伝説もなければ、歴史的勲功とか祖国に対する忠勤とかいうものもない。それにもかかわらず、この修道院が隆盛をきわめて、ロシア全体にその名をうたわれたのは、ひとえにこの長老たちのおかげであった。彼らの謦咳に接せんがために、ロシアの全土からおびただしい巡礼が、千里の道を遠しともせず、群れをなしてこの町へ流れこんで来るのであった。では長老とは何者かというに、これは人の霊魂と意志とをとって、自己の霊魂と意志とに結合させるものである。人はいったんある長老を選み出したら、全然おのれの意欲を断ち、全幅の服従と絶対の没我とをもって、これに自己の意志を預けるのである。こうして自己を委託した人は、長い試練の後に自己を征服し、かつ制御する日の来るのを期待して、甘んじてこうした試練、こうした恐ろしい『人生の学校』を迎えるのである。この全生涯の苦行を通じて、やがて完全なる自由、すなわち自我の解放に到達する。そして全生涯をいたずらに過ごして、ついに自己を発見することのできない人々と運命を共にすることを免れ得るのである。この発案、すなわち長老制度というものは、けっして理論的のものではなく、実践上東方に端を発してから、現代においてはすでに千年の古い経験を経ている。長老に対する義務は、いつの時代にもわが国の修道院にあったところの、普通の『戒律』とはおよそ趣を異にしている。ここに認められるものは、行に服する者の永久の懺悔である。結ぶ者と結ばれる者とのあいだの断つべからざる結縁のきずなである。たとえばこんな話がある。キリスト教として古い古い昔のことが、こうした一人の道心が、長老に課せられたある行を果たさないで、修道院を去って他国へおもむいた。それはシリアからエジプトへ行ったのである。そこで長いあいださまざまの偉大な苦行を積んだ結果、ついに認められて信仰のための拷問を受け、殉教者として死に就くこととなった。すでに教会が彼を聖徒と崇めて、そのからだを葬ろうとした時であった、『許されざるものは出でよ!』という助祭の声が響き渡ると同時に、殉教者のからだを納めた棺が、その場から動き出して、寺の外へ投げ飛ばされた。これが三度までくり返されたのである。その後ようやく、この聖い殉教者が戒律を破って、自分が長老のもとを立ち去ったために、たとえ偉大な功績があったにしても、長老の許可なくしては罪障を免れることができない、ということがわかった。そこで、呼び迎えられた長老がその戒律を解いたので、やっと埋葬を終えることができたということである。もちろんこれはほんの昔話であるが、ここについ近ごろの事実談がある。わが国の現代のある修道僧がアトスの地で修行をしていたが、突然、長老から、彼が聖地として、また穏かな避難所として、心の底から愛着していたアトスの地をすてて、聖地巡礼のためまずエルサレムにおもむき、それからロシアに引き返して、『北の端なるシベリアへ行け、おまえの住むべき場所はあちらなのだ、ここではない』と命ぜられた。思いがけない悲しみに打ちのめされた僧は、コンスタンチノープルへおもむき、全キリスト教大僧正のもとへ出頭して、自分の服従義務を解除してくれるように嘆願した。すると、大僧正の答えるには、単に大僧正たる自分にそれができないばかりでなく、いったん長老に課せられた戒律を解き得る権力は、世界じゅうのどこにもない。否あり得ない。それができるのは、戒律を課した当の長老あるのみだ、とのことであった。こういう次第で、長老というものはある一定の場合において、限りのない、不可思議な権力を賦与せられているのである。わが国の多くの修道院で、初めのうち長老制度が迫害をこうむったのは、これがためである。けれども、間もなく長老は、民間で非常に高い尊敬を受けるようになった。たとえば当地の修道院の長老のもとへも、庶民と貴族の別なく、等しく長老の前へ身を投げ出して、めいめいの懐疑や罪悪や苦悩を懺悔して、忠言と教訓を乞うために群がり集まったのである。これを見た反長老派の連中は、さまざまに非難を浴びせると共に、ここでは懺悔の神秘が専断軽率に貶し卑しめられていると告発した。――ところが、道心なり俗人なりが、絶えず自分の内心を長老に打ち明けるに際して、なんら神秘らしいところはないのである。しかし結局、長老制度は維持されてきて、しだいしだいにロシアの修道院に根をおろすに至った。もっとも奴隷状態から自由と精神的完成とに向かって、人間を更生させるところの、すでに千年の経験を積んだこの武器も、場合によっては両刃の凶器となることがある。それで、なかには、忍従と完全な自己制御におもむかないで、反対に悪魔的な倨傲へ、すなわち自由へではなくて、束縛へ導かれる者がないとも限らないのである。
ゾシマ長老は年齢六十五歳で、生まれは地主階級だったが、ごく若いころ、軍務に服して、コーカサスで尉官を勤めていたこともある。彼がなにかしら一種独特な性格でアリョーシャの心を震駭させたのは、疑いもない事実である。アリョーシャは長老の深い愛顧を受けて、その庵室に住むことを許されていた。ここでちょっと断わっておくが、当時アリョーシャは修道院に住んでいると言っても、まだなんの拘束も受けていなかったので、どこへでも自由に、幾日もぶっ通しに出かけてもかまわなかった。彼が僧服をつけていたのは、修道院の中で他の人ときわだたないように、みずからすすんで、そうしていたのであった。しかし、いうまでもなく、それが彼に気に入ってもいたのである。ことによったら、長老を常に取り巻いている権力と名声とが、彼の若々しい心に強く働きかけたのかもしれない。ゾシマ長老については、多くの人がこんなことを言っていた――彼のもとへあらゆる人々が、めいめいの心中を打ち明けて、霊験のあることばや忠言を聞こうという渇望に燃えながらやって来るので、長老は多年こういう人たちと接して、その懺悔や、苦悩や、告白を限りなく自分の心に受け入れたので、しまいには自分のところへ来る未知の人を一目見ただけで、どんな用事で来たのか、何が必要なのか、いかなる種類の苦しみがその人の良心を苛んでいるかというようなことまで、見抜いて、本人がまだ口をきかない先に、その霊魂の秘密を正確に言い当てて、当人を驚かしたりきまり悪がらせたり、ときには気味悪く思わせたりするほどの、繊細な洞察力を獲得しているのであった。しかもほとんどいつもアリョーシャの気づいたことは、最初、長老のところへ差し向かいで話しに来る多くの人が、たいていみな恐怖と不安の表情ではいって行くが、出て来るときには、晴れやかな喜ばしそうな顔つきになっていることであった。全く、恐ろしく陰気だった者が、さも幸福そうな顔に変わるのであった。いま一つアリョーシャを非常に感動させたのは、長老がけっして厳格ではなかったことである。そればかりか、かえってその応対ぶりはたいていいつでも、いかにも愉快そうであった。それに、彼は少しでもよけい罪の深い者に同情し、誰よりも最も罪の深い者を誰よりもいちばんに愛するのだ、と僧たちは話していた。僧たちの中には、長老の生涯が終わりに近づいた今でさえ、彼を憎んだりねたんだりする者があった。しかしそんな人もしだいに少なくなって、あまり悪口をつかなくなった。もっともそういう連中の中には、修道院でも非常に名の通った、有力な人物も幾人かあった。たとえばその中の一人は、古参の僧で、偉大な無言の行者でかつ希有の禁欲家であった。しかしそれでも大多数の者は、すでに疑いもなくゾシマ長老の味方であった。しかもその中には、全心を打ちこんで熱烈真摯に彼を愛している者も少なくなかった。ある者に至っては、ほとんど狂信的に彼に傾倒していた。こうした人たちは公然にこそ言わないが、長老は聖者である、それにはいささかの疑いもないと噂していた。そしてほどなき長老の逝去を予想していたので、ごく近いうちにその死体から急に奇跡が現われて、この修道院にとって偉大な名誉となるに違いないと期待していたのである。長老の奇跡的な力は、アリョーシャも絶対に信じて疑わなかった。それはちょうど、寺の中から消し飛んだ棺の話を、絶対に信じたのと同じであった。彼は病気の子供や大人の親族の者どもを連れて来て、長老がその病人の頭にちょっと手を載せて、祈祷を唱えてくれるようにと懇願する多くの人を見た。彼らは間もなく、なかにはすぐその翌日、再びやって来て、涙と共に長老の前にひれ伏して、病人を治癒してもらった礼を述べるのであった。はたしてそれが事実、長老によってなおされたのか、それとも病気の経過が自然に快方に向かったのか、――そんなことはアリョーシャにとって問題ではなかった。というのは、彼はすっかり師の精神力を信じきって、その声望を自分自身の勝利かなんぞのように思っていたからである。
ことに彼が胸のときめきをとどめかね、歓喜の光りに輝くようだったのは、長老を拝し、その祝福を受けるために、ロシアの全土から集まって来て、庵室の門口に待っている百姓町人の巡礼の群れへ、しずしずと長老が姿を現わすときであった。彼らはその前へひれ伏して、泣きながらその足に接吻し、その足の踏んでいる土を接吻し、声をあげて慟哭した。また女どもは彼の方へ子供を差し出したり、病める『憑かれた女』を連れて来た。長老は彼らとことばを交え、短い祈祷を唱え、祝福を与えて、彼らを退出させるのであった。最近では、病気の発作のため、ときとすると、僧房を出るのもむずかしいほど衰弱してしまうことがあったので、巡礼者たちはよく数日のあいだ、彼が出て来るのを修道院で待ち受けていた。どうして彼らがこれほど長老を愛慕するのか、なぜ、彼らは長老の顔を見るやいなや、その前に身を投げてありがた涙にむせぶのか、それは、アリョーシャにとってはなんの疑問にもならなかった。おお、彼はよく理解していた! 常に労苦と災禍に、いや、それよりもいっそう、日常坐臥の生活につきまとう不公平や、自己の罪のみならず世間の罪にまで苦しめられている、ロシア庶民の謙虚な魂にとっては、聖物もしくは聖者を得て、その前にひれ伏してぬかずくこと以上の、強い要求と慰謝はないのである。『よしわれわれに罪悪や、虚偽や、誘惑があってもかまわない。その代わり地球の上のどこかに聖者高僧があって、真理を保持している。その人が真理を知っている。つまり真理は地上に滅びてはいないのだ。してみれば、その真理はいつかわれわれにも伝わってきて、やがては神の約束どおり、全世界を支配するに違いない』と、こんな風に庶民が感じているばかりか、考えてさえいることをアリョーシャはよく知っていた。そしてゾシマ長老が庶民の信じているその当の聖人であり、真理の保持者であるということを疑わなかった。その点において彼自身も、これらのありがた涙に暮れる百姓や、子供を長老の方へ差し出す病的な女房などと変わりはなかった。また、長老が永眠ののち、この修道院になみなみならぬ名声を与えるという信念は、修道院内の誰にもまして最も深く、アリョーシャの心に根ざしていた。それに総じて、最近は、何かしら深遠な、炎のような心内の歓喜が、いよいよ激しく彼の胸に燃えさかるのであった。なんといっても、自分の目前に立っているのは、この長老ただ一人にすぎないということも、けっして彼を困惑させなかった。『どっちにしても、長老は神聖な人だから、この人の胸の中には万人に対する更新の秘訣がある、ついには真理を地上に押したてる偉力がある、それでやがては万人が神聖になり、互いに愛しあうようになるだろう。そして貧富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となり、こうしてついにキリストの王国が実現されるだろう』これがアリョーシャの胸に浮かぶ空想であった。
これまで全然知らなかった二人の兄の帰省は、アリョーシャに非常に強い印象を与えたらしい。長兄ドミトリイ・フョードロヴィッチとは、同腹の兄イワン・フョードロヴィッチとよりずっと早くかつ親しく知り合うことができた。そのくせ、長兄のほうが遅れて帰って来たのである。彼は兄イワンの人となりを知ることに非常な興味をいだいたが、その帰省以来ふた月のあいだに、二人はかなりたびたび顔を合わせたにもかかわらず、いまだにどうしても親密になれなかった。アリョーシャ自身も無口なほうで、何ものか待ち設けているような、何ものか恥じらっているような風であったし、兄イワンも初めのうちこそ、アリョーシャの気がつくほど長い、物珍しそうな視線をじっと弟に注いだものだが、やがて間もなく、彼のことなど考えてみようともしなくなったようだ。アリョーシャもこれに気がついて幾らかきまりが悪かった。彼は兄の冷淡な態度を二人の年齢、ことに教育の相違に帰したが、また別様にとれないでもなかった。それは、イワンのこうした好奇心や同情の欠乏は、ことによったら、アリョーシャの全然知らない、何か別の事情に起因するのではあるまいか? というのである。彼はなぜかこんな気がしてならなかった――イワンは何かに心を奪われている、何か重大な心内の出来事に気を取られている、おそらく何か非常に困難な、ある目的に向かって努力している。それで彼は弟のことどころではないのだ、これがアリョーシャに対する彼の放心したような態度の唯一の原因に違いない。アリョーシャはまた、こんなことも考えた――この態度の中には自分のような愚かしい道心に対する、学識ある無神論者としての侮蔑が交じっているのではなかろうか? と。彼は兄が無神論者だということを百も承知していた。もしそんな侮蔑の念があったにしても、それに対して彼は腹を立てるわけにゆかなかったが、それでも彼は、何か自分にもよくわからない、不安な擾乱をもって、兄がもう少し自分の方へ近寄る気持になるのを待っていた。長兄ドミトリイ・フョードロヴィッチはこのうえもなく深い尊敬と、何か特別な熱中をもってイワンのことを取りざたした。アリョーシャは、近ごろ二人の兄を目立って緊密に結び合わした、あの重大な事件の詳しいいきさつを、この長兄の口から聞いたのである。ドミトリイのイワンに関する感に耐えたような取りざたが、アリョーシャにいっそうおもしろく感じられたのは、兄ドミトリイがイワンに比べると、ほとんど無教育といっていいほどの人間で、二人をいっしょに並べてみると、性質にしろ人格にしろ、これくらい似ても似つかぬ二人の人間を想像することはむずかしいほど、極端な対照をなしていたことである。
ちょうどこのころ、長老の庵室で、この乱脈な一家の者一同の会見、というよりはむしろ、寄り合いが催されて、それがアリョーシャに異常な影響を与えたのである。実際この寄り合いの口実ははなはだ眉唾ものであった。当時、例の遺産のことや、それの算定に関するドミトリイ・フョードロヴィッチとその父フョードル・パーヴロヴィッチとの反目は、すでに飽和点に達していたらしい。そのあいだがいよいよ尖鋭化して、もはや耐えがたいものになったので、なんでもフョードル・パーヴロヴィッチのほうから、まず冗談半分に、ひとつ皆でゾシマ長老の庵室へ集まったらどうだ、という案をもちだしたものらしい、それは真正面から調停を仰ぐというわけではないけれど、なんとか穏便に話がつくかもしれない。それに長老の高い地位や人物が、何か和解的な示唆を与えないとも限らないから、というのであった。これまで、一度も長老をたずねたことも、顔を見たこともないドミトリイは、もちろん、長老をもちだして、自分をおどしつけようという肚だなと思ったが、最近、父との争いに際して、ともすれば乱暴な挙動に出たがる自分自身を、内々心にとがめていたやさきであったから、彼もその相談に乗ったのである。ちなみに、彼はイワン・フョードロヴィッチのように父の家にいないで、町はずれに別居していた。当時この町に逗留していたピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフが、むしょうにこのフョードル・パーヴロヴィッチの思いつきに賛成した。四、五十年代の自由主義者であり、また自由思想家で無神論者たる彼は、退屈しのぎのためか、それとも気軽な慰み半分にか、とにかくこの事件に非常に力を入れた。彼は急に、修道院や『聖者』が見たくなったのである。で、例の領地の境界や、森林の伐採権や、川の漁業権など、いろいろの事柄に関する古い係争がなお引き続き、修道院相手の訴訟が遷延していたので、彼は親しく修道院長に会って、なんとか事件を円満に解決するわけにはいかないものか、ひとつ談合してみたいという口実のもとに、それを利用しようと考えたのである。こういう有益な意図を持った来訪者は、修道院でも単なる好事家より一倍と注意を払って遇するに違いない。こうして事情を総合してみると、近ごろ病気のために普通の訪問者さえ拒絶して、ほとんど全く庵室を出なくなった長老に対しても、修道院の内部からなんとか都合のいい口添えをしてくれるかもしれなかった。結局、長老は承諾して、日取りまで決められた。『いったい誰がわしをあの人たちの仲へ割りこませたのだろう?』と、ただ一言、アリョーシャに向かって微笑を含みながら言った。会合の話を聞いて、アリョーシャはひどく当惑した。もしこれらの相争える不和な人たちの中で、誰かこの会合をまじめに見る人があるとすれば、それはまさしく兄ドミトリイだけである。爾余の連中に至っては、ただ軽薄な、長老にとって侮辱的な目的のためにやって来るのにすぎない――とアリョーシャはこんな風に考えたのだ。兄イワンとミウーソフは無作法きわまる好奇心からやって来るのだろうし、父はまた何か道化じみたお芝居の一幕を演ずるためにやって来るのだろう。実際、アリョーシャは口にこそ言わないけれど、かなり深く父を知っていた。かえすがえすも、この青年はけっして皆の考えているほどおめでたい人間ではなかった。彼は重苦しい気持をいだきながら、その日になるのを待っていた。彼が心中ひそかに、そうした家庭の紛擾に、なんとかしてけりがついてくれればと、ひたすらそれを気づかっていたのは疑いもないことである。とはいえ、彼のおもなる懸念は長老の身の上であった。彼には長老の名誉が心配でたまらなかった。長老に加えられる侮辱、ことにミウーソフの繊細で慇懃な嘲笑や、博学なイワンの人を見下げたような皮肉が恐ろしかった。そしてこんなことが絶えず彼の心にかかっているのであった。彼は長老に向かって、近いうちにやってくるに違いないこれらの連中について、なんとか警戒しておこうかとまで思ったが、しかし考えなおして口をつぐんだ。ただ会合の前日、彼は知人を通して兄ドミトリイに、自分は彼を愛しておる、そして彼が約束を実行してくれるのを期待していると伝言した。ドミトリイは何も約束した覚えがないので、いろいろ考えたすえ、手紙で『卑劣な言行』を見聞きしても、一生懸命に自分を抑制する、そして長老と弟イワンに対しては深い尊敬を払っているけれど、今度のことは自分をはめるための罠か、でなければばかばかしい茶番に違いないと確信している。『しかしとにかく、自分の舌を噛み切っても、おまえがそんなに尊敬している長老に対して、不敬なことはけっしてしない』そういう文句でドミトリイの手紙は結んであった。だが、アリョーシャには、それもさして心を引きたてるよすがにはならなかった。
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美しく澄み渡った暖かい晴朗な日和であった。それは八月の末のことであった。長老との会見は昼の弥撒のすぐあと、だいたい十一時半ごろということに決まっていた。わが訪問者たちは弥撒には列しないで、ちょうどそれの終わるころに到着した。彼らは二台の馬車に乗って来たが、二頭の高価な馬をつけた、瀟洒な先頭の軽馬車には、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフが、その遠い親戚に当たる、ピョートル・フォミッチ・カルガーノフという二十歳くらいの非常に若い青年と同乗していた。この青年は大学へはいろうとしていたが、ミウーソフ――この人の家に彼は何かの事情で当分同居していたのだ――は、自分といっしょに外国へ、チューリッヒかイエナへ行って、そこの大学を卒業したらと、彼をそそのかしていた。が、この青年はまだ決心がつきかねているのであった。彼はなんとなく瞑想的で、どこか放心したようなところがあった。その顔は感じがよく、体格もしっかりしていて、背はかなり高いほうであった。ときどきその眸が奇妙に固定することがあったが、それはすべて放心した人の常で、じっと長いあいだ人の顔を見つめることがあるけれど、そのくせ、ちっとも相手を見ているのではない。彼は無口のほうで、どこか少しぎこちないところがあった。しかしどうかすると、――もっとも誰かと二人きりで差し向かいのときに限るが、急にしゃべりだして、何がおかしいのかむしょうに笑いだすことがあった。けれどもこうした元気は、起こり初めと同じように、不意にぱったり消えてしまうのであった。彼はいつも立派な、しかも上品な服装をしていた。もうなにがしかの独立した財産を持っているうえに、まだこのさき、ずっと大きな遺産を相続することになっていた。アリョーシャとは親友であった。
ミウーソフの馬車からだいぶ遅れて、二頭の青鹿毛の老馬に引かせた、ひどく古びてがたがたする、だだっ広い辻馬車に乗って、フョードル・パーヴロヴィッチが息子のイワン・フョードロヴィッチといっしょに乗りこんで来た。ドミトリイ・フョードロヴィッチは、きのう時刻も日取りも知らしてあったのに遅刻した。一行は馬車を囲いの外の宿泊所に乗り捨てておいて、徒歩で修道院の門をはいった。フョードル・パーヴロヴィッチ以外の三人は、これまで一度も修道院というものを見たことがないらしい。ミウーソフに至っては、もう三十年ばかりのあいだ、教会へさえ足踏みをしないくらいである。彼は取ってつけたようなゆとりを表わした好奇の眼で、あたりを見回していた。しかし修道院の中へはいっても、本堂や塔や庫裡の建物――それもきわめて平凡なものであった――のほかには、彼の観察眼に映ずるものは何一つなかった。本堂からは、最後に残った参詣者たちが、帽子を取って十字を切りながら出て来た。それらの庶民階級の中に、旅の人らしい比較的上流の、二、三の婦人と、一人のひどく年の寄った将軍も交じっていた。この人たちは宿泊所に泊まっているのであった。乞食どもがさっそくわれらの一行をとり巻いたが、誰も施しをする者がなかった。ただペトルーシャ・カルガーノフだけが、金入れから十カペイカ銀貨を一つ取り出したが、どうしたわけか妙にあわてて、ひどくどぎまぎしながら、大急ぎで一人の女乞食の手へそれを押しこんで、『皆で同じに分けるんだよ』と早口に言った。同行者のうち誰ひとり、それに対してかれこれ言う者はなかったのだから、少しもきまり悪がることはないはずだのに、それに気がつくと、彼はなおいっそうどぎまぎしてしまった。
しかし合点のいかぬことであった。本来ならば、修道院ではこの一行を待ち受けているばかりでなく幾分の敬意さえ払って出迎えるべきはずであった。一人はまだついこのあいだ千ルーブルの寄進をしたばかりだし、いま一人は富裕な地主で、しかもいわば最高の教養を有する人で、訴訟の経過いかんによっては、川の漁業権に関して修道院内の人をことごとく左右し得る人物である。それだのに、いま公式に彼らを出迎える者が一人もいないのである。ミウーソフは堂のまわりにある墓石をぼんやり見回しながら、こういう『聖域』に葬られる権利のために、この墓はさぞ高いものについたことだろう、と言おうとしたが、ふと口をつぐんでしまった。それは罪のない自由主義的な反語が、肚の中でほとんどもう憤懣に変わりかけていたからである。
「ちぇっ、それはそうと、ここでは……このわけのわからんところでは、いったい誰に物を尋ねたらいいんだ……それからしてまず決めてかからなきゃならない。時間がぐんぐんたってしまうばかりだから」こう、だしぬけに、ひとりごとかなんぞのように彼はつぶやいた。
このとき突然、一行の傍へ一人いいかげんの年のいった、少々頭の禿げた男が、ゆったりした夏外套を着て、甘ったるい目つきをしながら近寄って来た。彼はちょっと帽子を持ち上げて、甘えた調子でしきりにしゅっしゅっという音を立てながら、誰とはなしに一同に向かって、自分はツーラ県の地主マクシーモフというものだと名乗った。そしてさっそく一行の懸念していることに口を入れた。
「ゾシマ長老は庵室に暮らしておられますよ。修道院から四百歩ばかり離れた庵室に閉じこもっておられますので、あの林の向こうですよ、あの林の……」
「それはわしも知っておりますよ、林の向こうだということはな」とフョードル・パーヴロヴィッチが答えた。「ところが、わしらは道をはっきり覚えておりませんのじゃよ、だいぶ長い御無沙汰をしましたのでな」
「ああ、それならこの門をはいりましてな、まっすぐに林を通って……林を通って……さあまいりましょう。もしなんでしたら……わたくしが……さあ、こちらへおいでなさい、こちらへ……」
一同は門をくぐって林の中を進んで行った。地主のマクシーモフは、六十くらいの男であったが、さっさと歩くというよりは、横っちょに駆け出すようにしながら、身震いの出るような、ほとんど名状しがたい好奇心をもって、一行を眺め回すのであった。その目のうちには、なんとなくあつかましい表情があった。
「実は、僕たちがあの長老のところへ行くのは、特別な用事のためなんですよ」とミウーソフはいかめしく彼に注意した。「僕たちはいわば『あのかた』に謁見を許されているんだからね、道案内をしてくださるのはありがたいけれど、御いっしょにおはいりを願うわけにはいかんですよ」
「わたくしは行ってまいりましたよ、行ってまいりましたよ、わたくしはもう行ってまいりましたんで……Un chevalier parfait !(立派な騎士です)」と地主は宙で指をぱちりと鳴らした。
「Chevalier って誰のことです?」
「長老のことですよ。すばらしい長老ですて。実にすばらしい……。この修道院のほまれですよ。ゾシマ長老。あのかたはまことに……」
しかし、そのまとまりのないことばを、ちょうど一行に追いついた、一人の僧がさえぎった。それは頭巾をかぶった、背のあまり高くない、恐ろしく顔の青ざめて痩せさらばえた僧であった。フョードル・パーヴロヴィッチとミウーソフとは立ち止まった。僧はほとんど顔が帯にくっつくくらい丁寧な会釈をしてから、こう言った。
「皆様、庵室のほうの御用が済みましたら、修道院長が皆様にお食事を差し上げたいと申しておられます。時刻は正一時で、それより遅くなりませぬように。あなたもどうぞ」と彼はマクシーモフの方へふり返ってつけ加えた。
「それはぜひお受けいたしますよ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチはその招待にひどく恐悦して叫んだ。「ぜひとも。それになんですよ、わたしたちはこちらにおる間じゅうは行儀に気をつける約束をしましたのじゃ……。ところで、ミウーソフさん、あなたもおいでになりますかな?」
「むろん、行かないでどうします。僕がここへ来ましたのは、つまり修道院の習慣をすっかり見せてもらうためなんですからね。ただ一つ困るのは、あなたと御いっしょに来たことでしてな、フョードル・パーヴロヴィッチ……」
「それに、ドミトリイがまだ来ませんしな」
「さようさ、あの男がずるけてくれたらありがたいんですがね。いったいあなたの家のごたごたが僕にとって、愉快だろうとでもいうんですか? おまけにあなたといっしょなんですからね。それじゃあ、お食事に参上しますから、修道院長によろしくお伝えください」と、彼は僧のほうへふり返って言った。
「いえ、わたくしはあなたがたを長老のところへ御案内しなくてはなりませんので」と僧が答えた。
「では、わたくしは修道院長のところへ……、わたくしはそのあいだに、じかに修道院長のところへまいりますわい」とマクシーモフがさえずり始めた。
「修道院長はただ今お忙しいのですけれど、でもあなたの御都合で……」と僧は渋りがちに言った。
「なんてうるさい爺だろう」と、マクシーモフがまた修道院のほうへ引っ返して駆け出した時、ミウーソフは口に出して言った。
「フォン・ゾンに似てらあ」とだしぬけにフョードルが言った。
「あなたの知ってるのはそんなことぐらいですよ。……どうしてあの男がフォン・ゾンに似てるんです! あなたは自分でフォン・ゾンを見たことがあるのですか?」
「写真で見ましたよ。別に顔つきが似ておるわけじゃないが、どことなしにそんなところがあるんですよ。正真正銘フォン・ゾンの生き写しだ。わしはいつでも顔つきを見ただけでそういうことがわかるんでしてね」
「おおきにね。あなたはその道の通人だから。ただね、フョードル・パーヴロヴィッチ、あなたがたった今、御自分でおっしゃったとおり、僕たちは行儀に気をつけるっていう約束をしたんですよ、ね、いいですか。どうか、気をつけてくださいよ。あなたが道化たまねを始めなさるようなら、僕はここであなたと同列に置かれる気は、さらさらないのですからね……どうです、なんという人でしょうね」と彼は僧のほうへふり向いた。「僕はこの人といっしょにきちんとした人を訪問するのが、心配でたまらないのですよ」
血の気のない青ざめた僧の唇には、一種ずるそうなところのある、かすかな無言の微笑が浮かんだ。けれども、彼はなんとも答えなかった。その沈黙が自分の品位を重んずる心から出たものだ、ということは明瞭すぎるくらいであった。ミウーソフはいっそうひどく眉をしかめた。
『ええ、ろくでもない、幾世紀もかかって仕上げたような顔をしているが、その実、駄法螺だ、荒唐無稽だ!』こうした考えが彼の頭を掠めた。
「あああれが庵室だ、いよいよ来ましたぜ!」とフョードルが叫んだ。「ちゃんと囲いがしてあって、門がしまっとるわい」
彼は門の上や、その両側に描いてある聖徒の像に向かって、ぎょうさんそうな十字を切り始めたものだ。
「郷に入っては郷に従えということがあるが」と彼が言いだした。「この庵室の中には二十五人からの聖人様が浮き世をのがれて、お互いににらみっこをしながら、キャベツばっかり食べてござる。そのくせ女は一人もこの門をはいることができん――ここが肝心なところなんですよ。しかもこれは全く本当のことなんですよ。しかし、長老が婦人がたに会われるという話を聞きましたが、どんなものでしょうな?」こう彼は不意に案内の僧に向かって聞いた。
「平民の女性は、今でも、そら、あすこの廊下のそばに待っております。ところで、上流の貴婦人がたのためには小部屋が二つ、この廊下に建て添えてありますが、しかし囲いの外になっておりますので、そら、あすこに見えておる窓がそうです。長老は気分のよいときには内側の廊下を通って、婦人がたに会いに行かれるのです。つまり、囲いの外で。今も一人の貴婦人のかたが――ハリコフの地主でホフラーコフ夫人とかいうかたが、病み衰えた娘御を連れて待っておられます。たぶんお会いすると、約束をされたのでございましょう。もっとも、このごろは非常に衰弱されて、一般の人たちにもめったに会いに出られませんが」
「じゃあなんですな、やっぱり庵室から婦人がたのところへ、抜け穴が作ってあるわけですな。いやなに、神父さん、わしが何かその、妙なことでも考えておるなどと思わんでくださいよ。別になんでもないので、ところで、アトスでは、お聞き及びでしょうが、女性の訪問が禁制になっとるばかりか、どんな生物でも牝はならん、牝鶏でも、牝の七面鳥でも、牝の犢でも……」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、僕はあなたを一人ここへうっちゃっといて、帰ってしまいますよ。僕がいなかったら、あなたなんぞ両手をつかんで引っ張り出されてしまいますぞ、それは僕が予言しておきますよ」
「なんでわしがあなたの邪魔になるんですかい、ミウーソフさん? おや、御覧なさい」庵室の囲い内へ一歩踏みこんだ時、彼はだしぬけにこう叫んだ。「御覧なさい、ここの人たちは、まるでばらの谷に暮らしているんですな!」
見ればなるほど、ばらの花こそ今はなかったが、めずらしい美しい秋の花が、植えられるかぎりいたるところにおびただしく咲き誇っていた、どれもこれも、見受けるところ、なかなか老練家の手で世話をされているらしい。花壇は堂の囲い内にも、墓のあいだにも設けてあった。長老の庵室のある木造の平家も、同様に花が植えめぐらしてあって、その入口の前には廊下が続いていた。
「これは先代のワルソノーフィ長老の時分からあったのですかい? なんでも、あのかたは優美なことが大嫌いで、婦人たちさえ杖で打たれたというじゃありませんか」と、フョードル・パーヴロヴィッチは正面の階段を上りながら言った。
「ワルソノーフィ長老は、実際、時として、宗教的奇人のように見えることがありましたけれど、人の噂にはずいぶんつまらぬことが多いのでございます。杖で人を打たれたなどということはけっして一度もありません」と僧は答えた。「それではちょっと皆さん、お待ちください、ただ今皆さんのおいでを知らせてまいりますから」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、これが最後の約束ですよ。いいですか。十分に言行を慎しんでくださいよ。でないと、僕にも考えがありますよ」ミウーソフは急いでもう一度そうささやいた。
「なんでまた、あなたがそうひどく興奮されるのか、とんとわからん」とフョードル・パーヴロヴィッチはからかうように言った。「それとも罪障のほどが恐ろしいんですかい? なんでも長老は相手の眼つきだけで、どんな人物で何の用に来たかということを見抜いてしまうそうですからな、しかし、あなたのようなちゃきちゃきのパリっ児で自由主義の紳士が、どうしてそんなに坊主どもの思わくを気になさるんでしょう。全く、びっくりしてしまいましたぜ、ほんとに!」
しかし、ミウーソフがこのいやみに応酬する暇もないうちに、一同は中へ招じ入れられた。彼は幾分むしゃくしゃした気色ではいって行った……。
『もう、ちゃんと今からわかってる、おれは癇癪を起こして喧嘩をおっぱじめる……かっとなったが最後――自分も自分の思想も卑しめるくらいがおちだ』そういう考えが彼の頭をかすめた。
彼等が部屋の中へはいるのとほとんど同時に、長老が自分の寝室から出て来た。僧房では一行に先立って二人の修道僧が、長老の出て来るのを待ち受けていた。一人は司書で、もう一人はさして年寄りではないが、病身で、人の噂では非常に学識の高い、パイーシイ神父であった。その他にもう一人、片隅に立って待っている若い男があった(この男はそれからあともずっと立ち通しであった)。見たところ二十二くらいの年格好で、普通のフロックコートを着ている。これはどういうわけでか修道院と僧侶団の庇護を受けている神学校卒業生で、未来の神学者なのであった。彼はかなり背が高くて、生き生きとした顔に、顴骨が広く、聡明らしい注意深い眼は細くて鳶色をしている。その顔には非常にうやうやしい表情が浮かんでいるが、それはきわめて礼儀にかなったもので、すこしも人にとりいろうとするようなところが見えない。はいって来た客に対しても、彼は挨拶をしなかった。それは自分が人の指揮監督を受ける身分で、対等の人間ではないからと遠慮したのである。
ゾシマ長老は別の道心とアリョーシャに伴われて出て来た。僧たちは立ち上がって、指の先が床に届くほど、きわめてうやうやしく彼に敬礼した。それから長老の祝福を受けると、その手に接吻するのであった、彼らを祝福してから、長老もやはり指が床につくくらい一人一人に会釈を返して、こっちからもいちいち祝福を求めた。こうした礼式はまるで毎日のしきたりの型のようではなく、非常に謹厳にほとんど一種の感激さえ伴っていた。しかしミウーソフにはいっさいのことが、わざとらしい思わせぶりのように見えた。彼はいっしょにはいった仲間の先頭に立っていた。で、よし彼がどんな思想をいだいているにもせよ、ただ礼儀のためとしても(ここではそれが習慣なのだから)、長老のそばへ寄って祝福を受けなければならぬ、手を接吻しないまでも、せめて祝福を乞うくらいのことはしなくてはならない――それは彼が昨夜から考えていたことである。ところが、今こうした僧たちの会釈や接吻を見ると、彼はたちまち決心を翻してしまった。そしてもったいらしくきまじめに、普通世間一般の会釈をすると、そのまま椅子の方へ退いてしまった。フョードル・パーヴロヴィッチも非常にものものしい丁寧な会釈をしたが、やはり直立不動の姿勢をとっていた。カルガーノフはすっかりまごついてしまって、まるっきりお辞儀もしなかった。長老は祝福のために上げかけた手をおろして、もう一度客に会釈をして着席を乞うた。紅潮がアリョーシャの頬に上った。彼は恥ずかしくてたまらなかった。不吉な予感が事実となって現われ始めたのである。
長老は革ばりの、恐ろしく旧式な造りのマホガニイの長椅子に腰をおろし、二人の僧を除く一同の客を、反対の壁ぎわにある、黒い革のひどくすれた四脚のマホガニイの椅子に、並んで坐らせた。二人の僧は両側に、一人は戸のそばに、もう一人は窓ぎわに座を占めた。神学生とアリョーシャと、もう一人の道心とは立ったままであった。僧房全体が非常に狭くて、なんとなく殺風景であった。調度や家具の類は粗末で貧弱な、ただもうなくてはならない品ばかりであった。鉢植えの花が窓の上に二つと、それから部屋の隅にたくさんの聖像が掛けてある――その中の一つは大きな聖母の像で、どうやら宗派分裂よりよほど前に描かれたものらしい。その前には燈明がとぼっている。そのかたわらには金色燦然たる聖飾をつけた聖像がもう二つ、またそのぐるりには作りものの第一天使やら陶器の卵やら、『嘆きの聖母』に抱かれた象牙製のカトリック式十字架やら、前世紀のイタリアの名画から複製した、舶来の版画やらがあった。こうした優美で高価な版画のほかに、聖徒や殉教者や僧正などを描いた、どこの定期市でも三カペイカか五カペイカで売っている、きわめて稚拙なロシア出来の石版画が、幾枚も麗々しく掲げてある。また現在や過去のロシアの主教の肖像を石版にしたものも少し掛かっていたが、それはもう別の壁であった。ミウーソフはこういう『繁文褥礼』にさっとひとわたり目を通してから、じっと執拗な凝視を長老に投げた。彼は自分の見解を自負する弱点を持っていた。もっとも、これは彼の五十という年齢を勘定に入れれば、たいてい許すことのできる欠点である。実際、この年配になると、賢い、世慣れた、生活に不自由をしない人は、誰でもだんだん自分というものを尊重するようになる。
そもそも最初の瞬間からして、彼には長老が気に入らなかった。実際、長老の顔にはミウーソフばかりでなく、多くの人の気に入らなそうなところがあった。それは腰の曲がった、非常に足の弱い、背の低い人で、まだやっと六十五にしかならないのに、病弱のため、ずっと――少なくとも十くらいは老けて見える。顔はひどく萎びて小皺に埋もれている。ことに眼の辺がいちばんひどい。薄色の小さな眼はしつこく動いて、まるで輝かしい二つの点のようにぎらぎら光っている。白い髪の毛は顳のあたりに少々残っているだけで、頤髯はまばらで楔がたをしている。その笑みを浮かべた唇は、二本の紐かなんぞのように細い。鼻は長いというよりは、鳥の嘴のように鋭くとがっている。
『どの点から見ても、意地悪で、高慢ちきな老爺だ』そういう考えがミウーソフの頭を掠めた。概して彼は非常に不機嫌であった。
時計が打ち出して話のいとぐちをつくった。分銅のついた安ものの小さな掛け時計が、急調子でかっきり十二時を報じた。
「ちょうどかっきりお約束の時刻でございます」とフョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。「ところが、倅のドミトリイはまだまいりませんので。あれに代わってお詫び申しますよ、神聖なる長老様! (この『神聖なる長老様』でアリョーシャは、思わずぎくりとした)当のわたくしはいつでもきちょうめんで、一分一秒とたがえたことはございません――正確は王者の礼儀なり、ということをよくわきまえておりますので……」
「だが、少なくとも、あなたは王者ではない」
我慢がならなくて、ミウーソフがすぐこうつぶやいた。
「さよう、全くそのとおりで、王様じゃありませんよ。それになんですよミウーソフさん、わしもそれくらいのことは知っておりますわい。全く! 猊下様、わたくしはいつもこんな風に、取ってもつかんときに口をすべらすのでございまして!」どうしたのか一瞬、感慨無量といった調子で、彼はこう叫んだ。「御覧のとおり、わたくしは正真正銘の道化でございます! もう正直に名乗りをあげてしまいます。昔からの悪い癖でございまして! しかし、ときどき取ってもつかんでたらめを言いますのも、当てがあってのことでございますよ。――どっと人を笑わして、愉快な人間になろう、という当てがあるのでございますわい。とかく愉快な人間になるってえことが必要でございますからなあ、そうじゃありませんか? 七年ばかり前に、ある町へ出向いたことがございます。ちょっとした用事がありましてな。そこでわたくしは幾たりかの小商人と仲間を組んで、警察署長のところへまいりました。それは、ちょっと依頼の筋がありまして、食事に招待しようという寸法だったのでございます。出て来たのを見ますと、その署長というのは肥えた、薄い髪の、むっつりとした人物で、――つまりこんな場合にいちばん剣呑なしろものなんで。なんしろ、こんな手合いは癇癪もちですからなあ、癇癪もちで……。わたくしはそのかたへずかずかと近寄って、世慣れた人間らしい無雑作な調子で、『署長さん、どうかその、われわれのナプラーウニックになっていただきたいものでして』とやったものです。すると、『いったいナプラーウニックとはなんですね?』と、こうなんです。わたくしはもう、その初手の瞬間に、こいつはしくじった、と思いましたよ。まじめくさった顔で突っ立ったまま、いっかな頑張っているじゃありませんか。『いえ、その、わたくしは一座を浮き立たすために、ちょっと冗談を言ったまででございますよ。つまりナプラーウニック氏は有名なロシアの音楽隊長ですからね。ところで、われわれの事業の調和のためにも、音楽隊長のようなものが入用なんでして……』なかなかうまくこじつけて、ばつを合わせたじゃありませんか? ところが、『まっぴらだ、わしは警察署長ですぞ、自分の官職を地口にするとはけしからん』そう言ってくるりと背中を向けて、出て行こうとします。わたくしはその後から、『そうですよ、そうですよ、あなたは警察署長で、ナプラーウニックじゃありません』とわめきましたが、『いいや、いったんそう言われた以上、わしはナプラーウニックです』とさ。どうでしょう、おかげでまんまとわたくしどもの仕事はおじゃんになってしまいましたわい! いつもわたくしはこうなんです。決まってこうなんですよ。徹頭徹尾、自分の愛嬌で損ばかりしておるのでございます! もう何年も前のこと、ある一人の勢力家に向かって『あなたの奥さんはずいぶんくすぐったがりの御婦人ですな』と言ったのです。つまり、名誉にかけて、と言うつもりだったので、その、精神的な特質をさして言ったのです。ところが、その人はいきなり、わたくしに『じゃ、あなたは家内をくすぐったんですか?』と聞きました。わたくしはその、つい我慢ができなくなって、まあお愛嬌のつもりで、『ええ、くすぐりましたよ』とやったんです。ところが、その人はさっそくわたくしをこっぴどくくすぐってくれましたて……。これはもうずっと昔のことなんで、お話ししても恥ずかしいとは思いませんがね。こういう風に、わたくしはしじゅう、自分の損になることばかりしておるのでございますよ!」
「あなたは今もそれをやってるんですよ」とミウーソフは吐き出すようにこう言った。
長老は無言のまま、二人を見比べていた。
「そうでしょうとも! そして、どうでしょう、ミウーソフさん、わしは口をきるといっしょに、ちゃんとそのことを感じましたよ。そればかりか、あなたがまっ先にそれを注意してくださる、ということまで感じておりましたんで。猊下様、わたくしは自分の茶番がうまくいかないなと思うと、その瞬間は、両方の頬が下の歯齦に干乾びついて、身うちがひきつってくるようなんでございますよ。これはまだ、わたくしが若い時分、貴族の家に居候をして、冷飯にありついておったころからの癖でしてな。わたくしは根から生まれついての道化で、まあ気違いも同然でございますな、猊下様、こりゃあきっと、わたくしの中には悪魔が住んでおるのに違いございません。もっとも、あまりたいしたしろものじゃありますまいよ、もう少しどうかしたやつだったら、もっとほかの宿を選びそうなもんですからなあ。ただし、ミウーソフさん、あんたじゃありませんぜ、あんたもあまりたいした宿ではありませんからな。けれど、その代わりにわたくしは信じていますよ。神様をなあ。ついこのごろちょっと疑いを起こしましたが、その代わり、今ではじっと坐って、偉大なことばを待っております。猊下様、わたくしはちょうど、あの哲学者のディデロートのようなものでございますよ。猊下様は哲学者のディデロートが、あのエカテリーナ女帝の御世の大司教プラトンのところへまいった話を御存じでございますか。はいるといきなり『神はない!』と言いました。それに対して偉い大僧正は指を上へあげて、『狂える者はおのが心に神なしと言う』と答えられました。するとこちらは、いきなりがばとその足もとへ身を投げて、『信じます、そして洗礼を受けます』と叫んだのでございます。そこですぐさま洗礼が施されましたが、ダシュウ公爵夫人が教母で、ポチョームキン元帥が教父でしてな!……」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、もう聞いちゃあいられない! あなたは自分でもでたらめを言ってることがわかってるんでしょう、そのばかばかしい一口話がまっかな嘘だってことが。いったいあなたはなんのためにそんな駄法螺を吹くんです?」ミウーソフは、もう少しも自分を押えようとしないで、声を震わせながら、こう言った。
「これは嘘だ――という感じは生涯、いだいてきましたんで」とフョードル・パーヴロヴィッチは夢中になって叫んだ。「その代わり皆さん、今度は嘘いつわりのないところを申し上げますよ。長老様! どうぞお許しください。いちばんしまいに申しました、あのディデロートの洗礼の話は、わたくしがたった今、自分で作ったのでございます。今お話ししているうちに考えついたことで、以前には頭に浮かんだこともありません。つまりぴりっとさせるために、つけ足したのでございます。ミウーソフさん、わしが駄法螺を吹くのは、ただ少しでも愛嬌者になりたいからですよ。もっとも、ときどきは自分でもなんのためだかわからんことがありますがね。そこで、ディデロートのことですな、あの『狂える者は』ってやつですよ。あれはわたしがまだ居候をしていた若い時分に、こちらの地主たちから、二十ぺんも聞かされたものですよ。あんたの伯母御のマーウラ・フォーミニシュナからも、いつか聞いたことがありますぜ。あの連中は、無神論者のディデロートが神様の議論をしに、プラトン大司教のところへ行ったことを、いまだに信じておるのですよ……」
ミウーソフは立ち上がった。それは我慢しきれなくなったためばかりでなく、前後を忘れてしまったからである。彼は狂暴な怒りにかられていたが、そのために自分自身が滑稽に見えることも自覚していた。実際僧房の中には、何かしらほとんどあり得べからざることが起こっていたのである。この僧房へは、先代、先々代の長老の時分から、もう四、五十年ものあいだ、毎日来訪者が集まって来たが、しかしそれはすべて深い敬虔の念をいだいて来るものばかりであった。この僧房へ通される人はたいてい誰でも、非常な恩恵を施されたような心持で、ここへはいって来るのであった。多くの者はいったんひざまずくと、初めから終わりまで、その膝を上げることができなかった。単なる好奇心か、またはその他の動機によってたずねて来る『上流の』人たちや、最も博学多才な人々のみならず、過激な思想をいだいた人たちですら、他の者と同席か、または差し向かいの対面を許されて、この僧房の中へはいって来ると、すべて一人残らず、会見の初めから終わりまで深い尊敬を示し、細心の注意を払うのを、第一の義務と心得るのであった。そのうえ、ここでは金銭というものは少しも問題にならず、一方からは愛と慈悲、他方からは懺悔と渇望――自己の心霊上の困難な問題、もしくは自己の心内の生活の困難な瞬間を解決しようという渇望が存在するばかりであった。それゆえ、今フョードル・パーヴロヴィッチが場所柄もわきまえずにさらけ出した、こうしたふざけた態度は、同席の人々、少なくともその中のある者に、疑惑と驚愕の念をよび起こした。それでも二人の僧は少しも表情を変えず、まじめな心構えで、長老がなんと言うだろうかと注視していたが、やはりミウーソフと同じように、もう座にいたたまれない様子であった。アリョーシャは今にも泣きだしそうな顔をして、首うなだれて立っていた。何より不思議なのは兄のイワンである。彼は父に対してかなり勢力を持っている唯一の人間だから、今にも父をたしなめてくれるかと、アリョーシャはそればかり当てにしているのに、彼は眼を伏せたまま、身じろぎもしないで椅子に腰かけている。そしてこの事件にはなんの関係もない赤の他人のように、物珍しそうな好奇の色を浮かべながら、事件がどんな風に落着するかを、待ち設けているかの観があった。アリョーシャはラキーチン(神学生)の顔さえ、眺めることができなかった。それはやはり彼の親しい知り合いで、親友といってもいいほどのあいだがらであった。彼はその肚の中をよく知っていた(もっとも、それがわかるのは、修道院じゅうでアリョーシャ一人きりであった)。
「どうかお許しください」とミウーソフは長老に向かって口をきった。「ことによると私も、この悪ふざけの共謀者のように、あなたのお目に映るかもしれませんが、たとえフョードル・パーヴロヴィッチのような人でも、ああいう尊敬すべきかたをおたずねする場合には、自分の義務をわきまえていることと信じたのが、私のそもそもの過ちでございました……私はまさかこの人といっしょに伺ったことで、お許しを乞うようなことになろうとは、思いもかけませんでした……」
ミウーソフは最後まで言いきらないうちにまごついてしまって、そそくさともう出て行きそうにした。
「御心配なされますな、お願いですじゃ」突然、長老はひよわい足を伸ばして中腰に席を立つと、ミウーソフの両手を取って再び彼を肘椅子に坐らせた。「落ち着いてくだされ、お願いですじゃ。別してあなたには、わしの客となってもらいとうござりますのじゃ」彼は会釈をすると、向きを変えて再び自分の長椅子に腰をおろした。
「神聖な長老様、どうかおっしゃってくださいまし、わたくしがあんまり元気すぎるために、お腹立ちはなさりませんか、どうか?」と不意に、肘椅子の手すりを両手につかんで、返答次第では、その中から飛び出しかねないような身構えをしながら、フョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。
「どうかお願いですじゃ、あなたもけっして、御心配や御遠慮をなさらぬようにな」と長老は諭すように言った。「どうか遠慮をなさらぬようにな、自分の家にいるのと同じつもりでいてくだされ。何はともあれ第一に自分で自分を恥じぬことが肝心ですぞ、これがそもそも、いっさいのもとですからな」
「自分の家と同じように? つまりあけっぱなしでございますな? ああそれはもったいなさすぎます、もったいなさすぎます、がしかし――喜んでお受けいたしましょう! ところで、長老様、あけっぱなしでなどと、わたくしを煽てないでください、剣呑でございますよ……あけっぱなしというところまでは、ちょっと当人のわたくしも、行き着きかねますて。これは、つまりあなたを守るために、前もって御注意するのでございます。まあ、その他のことは、まだ未知の闇に包まれております。もっとも、なかには、わたくしという人間を誇張したがっておる御仁もありますがな。これはミウーソフさん、あんたに当てて言ってることですよ。ところで、猊下、あなた様に向かっては満腔の歓喜を披瀝いたしまする!」彼は立ち上って両手を差し上げると、言いだした。「『なんじを宿せし母胎と、なんじを養いし乳頭は幸いなり』、別して乳頭でございますて! あなた様はただ今『自分を恥じてはならぬ、これはいっさいのもとだ』と御注意くださりましたが、あの御注意でわたくしを腹の底まで見通しなさいましたよ。実際、わたくしはいつも人の中へはいって行くと、自分は誰よりもいちばん卑劣な人間で、人がみんな寄ってたかってわたくしを道化あつかいにするような気がするのでございます。そこで、『よし、そんなら本当に道化の役をやってみせてやろう。人の思わくなどかまうものか。どいつもこいつもみんな、わしより卑劣なやつらばかりだ!』ってんで、わたくしは道化になったのでございます。恥ずかしいが因の道化でございますよ、お偉い長老様、恥ずかしいが因なのでございます。小心翼々たればこそ、やんちゃもするのでございます。もし、わたくしが人前へ出るときに、みんながわたくしをおもしろい利口な人間だと思ってくれるという、確信があったならば、そのときのわたくしは、どんないい人間になったことでございましょうなあ! 師の御坊!」と、いきなり彼はひざまずいて、「永久の生命を受け継ぐために、わたくしはいったいどうすればよろしいのでございましょう?」
はたして彼はふざけているのか、それとも実際に感動しているのか、今はどちらとも決定することがむずかしかった。
長老は眼をあげて彼を眺めながら、微笑を含んで、こう言った。
「どうすればよいかは、自身で疾うから御存じじゃ。あなたには分別は十分にありますでな。飲酒にふけらず、ことばを慎み、女色、別して拝金に溺れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにいかぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなされ。が、大事なことは、いちばん大事なことは――嘘をつかぬということですじゃ」
「と申しますと、ディデロートの一件なんでございますか?」
「いや、ディデロートのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱行を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな? そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、――誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ、――それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持になって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵のような心持になってしまうのじゃ……。さあ、立ってお掛けくだされ、どうかお願いですじゃ、それもやはり偽りの所作ではありませぬかな」
「お聖人様! どうぞお手を接吻させてくださいませ」フョードル・パーヴロヴィッチはぴょんぴょんと飛び上がると、長老の痩せこけた手をすばやくちゅっと接吻した。「全く、全くそのとおり、腹を立てるのがいい気持なんでございますよ。ほんとによくおっしゃりなされました、これまで、わたくしはそういうお話は聞いたことがございません。全くそのとおりで、わたくしは生涯のあいだいい気持になるまで腹を立ててまいりました。つまりその、美的に腹を立てたのでございますよ。なぜといって、侮辱されるというやつは、気持がいいばかりでなく、どうかすると美しいことがございますからな。この美しいっていうことを一つお忘れなされましたよ、長老様! これは手帳へ書きつけておきましょうわい! ところで、わたくしは徹頭徹尾、嘘をつきました。それこそ一生のあいだ毎日毎時間、嘘をつきました。まことに偽りは偽りの父なり!――でございますよ。もっとも、偽りの父ではないようでございますな。いつもわたくしは聖書の文句にはまごつきますので。まあ、偽りの子にしたところで結構なんですよ。ただしかし……長老様……ディデロートの話も、ときにはよろしゅうございますよ? ディデロートは害になりません、害になるのは別の話でございます。ときに、お偉い長老様、ついでにちょっと伺いますが、あ、うっかり忘れるところでした、これはもう三年も前から調べてみるつもりで、こちらへ伺ってぜひともお尋ねしようと存じておったのでございます。しかし、ミウーソフさんに口出しをさせないようにお願いいたします。ほかでもありませんが、『殉教者伝』のどこかにこんな話があるっていうのは、全くでございましょうか――それはなんでも、ある神聖な奇跡の行者が、信仰のために迫害をこうむっておりましたが、とどのつまり首をちょん切られてしまいましたんで。ところが、その行者はひょいと起き上がるなり、自分の首を拾って『いとおしげに接吻しぬ』とあるんです。しかも長いあいだそれを手に持って歩きながら、『いとおしげに接吻しぬ』なんだそうです。全体これは本当のことでしょうか、どうでしょう神父さんがた?」
「いいや、それは嘘ですじゃ」と長老が答えた。
「どの『殉教者伝』にもそんなようなことは載っておりません。いったい何聖人のことがそんな風に書いてあるとおっしゃるのですか?」と司書の僧が尋ねた。
「それはわたくしもよく存じませんので。いや、いっこうに知りませんよ。なんでもぺてんにかけられたとかいう話ですがな。わたくしも人からのまた聞きでして。ところで、いったい誰から聞いたとおぼしめしますか。このミウーソフさんですよ。たった今ディデロートのことで、あんなに腹を立てたミウーソフさんですよ。この人がわたくしに話して聞かせたのです」
「僕はけっして、そんな話をあなたにしたことはありませんよ。それに全体、僕はあなたとなんか、てんで話をしやしませんよ」
「なるほど、わしにお話しなされたことはありませんが、あんたが人中で話しておられた席に、わしも居合わせたというわけですよ。なんでも四年ばかり前のことでしたなあ。わしがこんなことをもちだしたのも、このおかしな話でもって、あんたがわしの信仰をぐらつかせなされたからですぜ、ミウーソフさん。あんたは何も御存じなしだが、わしはぐらついた信仰をいだいて帰りましたのじゃ。それ以来いよいよますます、ぐらついてきておるんですぜ。ほんとにミウーソフさん、あんたは大きな堕落の原因なんですぜ。これはもうディデロートどころの騒ぎじゃないて!」
フョードル・パーヴロヴィッチは悲痛な声でまくしたてた。しかし一同は、またしても彼が芝居をしているということを、もうはっきりと見抜いていた。それでもミウーソフはひどく気を悪くした。
「なんてくだらないことだ、何もかもがくだらないことだ」と彼はつぶやいた。「実際、僕はいつか話したことがあるかもしれん……しかしあなたに話したのではない。僕自身も人から聞いたんですからね。なんでもパリにいた時分に、あるフランス人が、ロシアでは『殉教者伝』の中で、こんな話を、弥撒に朗読するといって、話して聞かせたんです……その人は非常な学者で、ロシアに関する統計を専門的に研究していたんです……ロシアにも長らく住んでいたことがあります……僕自身は『殉教者伝』など読んだことはありません……この先も読もうとは思っていません……いや、全く食事のときなどには、どんなことをしゃべるかしれたもんじゃない……そのときも、ちょうど食事をしていたんですからね……」
「さようさ、あんたはそこで食事をしておられたのでしょうが、わしはこのとおり、信仰をなくしてしまったんですよ!」とフョードル・パーヴロヴィッチがまぜっかえした。
「あなたの信仰なんか、僕に何の用があるんです!」とミウーソフはわめきかけたが、急におのれを制して、さげすむように言った。「あなたは全く文字どおりに、自分のさわったものには泥を塗らずにおかぬ人ですよ」
長老は不意に席を立った。
「御免くだされよ、皆さん、わしはちょっと、ほんの数分間、中座させていただかねばなりませんのじゃ」彼は客に向かってこう言った。「実は、あなたがたより先に見えた御仁が待っておられるのでな。したが、あなたはなんにしても、嘘をつかぬがようござりますぞ」彼はフョードル・パーヴロヴィッチに向かって、にこやかな顔でこう言い足した。
彼は僧房を出て行こうとした。アリョーシャと道心とは階段を助けおろすために、その後から駆け出した。アリョーシャは息をはずませていた。彼はこの席をはずせるのが嬉しかったのだが、長老が少しも腹を立てないで、機嫌のいい顔をしているのも嬉しかったのだ。長老は自分を待ち構えている人たちを祝福するために、廊下をさして歩を運んだ。けれども、フョードル・パーヴロヴィッチは僧房の戸口で彼を引き止めた。
「あらたかな長老様!」と彼は思い入れたっぷりで叫んだ。「どうかもう一度お手を接吻させてくださりませ! 実際あなたはなかなか話せますよ、いっしょに暮らせますよ! あなたはわたくしがいつもこのように嘘をついて、道化たまねばかりしておるとお思いなされますか? ところが、わたくしはあなたを試してみるために、わざとあんなまねをしたのでございますよ。あれは、あなたといっしょに暮らすことができるかどうか、脈を取ってみたわけですよ。つまり、わたくしのような謙遜な者に高慢ちきなあなたと折り合いがつくかどうかと思いましてな。ところが、あなたには褒状を差し上げてもよろしいよ――いっしょに暮らすことができますわい。さあ、これでもう口はききません。ずっとしまいまで黙っております。ちゃんと椅子に腰かけて、黙っておりますよ。さあミウーソフさん、今度はあなたが話をする番ですぜ。いよいよあなたが一番役者です……もっとも、ほんの十分間だけじゃが」
外囲いの塀に建て増しをした木造の回廊の下には、今日は、女ばかりが二十人ばかりも押しかけていた。彼女らはいよいよ長老様のお出ましと聞いて、こうして集まって待ち構えているのであった。同様に長老を待ちながら、上流の婦人訪問者のために設けられた別室に控えていた、地主のホフラーコワ夫人も回廊へ出た。それは母と娘の二人連れだった。母なるホフラーコワ夫人は富裕な貴婦人で、いつも垢抜けのした服装をしているうえに、年もまだかなり若いほうで、少し顔色は青いけれど、非常に愛嬌のある女で、ほとんどまっ黒な眼がひどく生き生きしている。年はまだせいぜい三十三、四だが、もう五年ばかりも前から寡婦になっている。十四になる娘は足痛風を患っていた。この不仕合わせな娘はもうこの半年ばかり歩くことができないため、車のついた長い安楽椅子に乗せて、あちこち引き回されていた。その美しい顔は病気のために少し痩せてはいるけれど、にこにこしていた。睫の長い暗色の大きな目には、なんとなく悪戯らしい光りがあった。母は春ごろからこの娘を外国へ連れて行く気でいたが、夏の領地整理のため時期を遅らしてしまったのだ。母娘はもう二週間ばかりもこの町に滞在しているが、それは神信心のためというよりは、むしろ所用のためであった。しかし三日前にも一度、長老を訪れたのに、今日また突然二人は、もう長老がほとんど誰にも会えなくなったことを承知しながら、再びここへ出向いて、もう一度『偉大な治療主を拝む幸福』の恵まれんことを嘆願したのである。長老が出て来るのを待つあいだ、母夫人は娘の安楽椅子のそばの椅子に腰かけていたが、彼女から二歩ばかり離れたところに一人の老僧が立っていた。これはこの修道院の人ではなく、あまり有名でない北国の寺から来た僧である。彼も同じように長老の祝福を受けようとしているのだ。しかし回廊に姿を現わした長老は、そこを通り過ぎてまっすぐにまず群集の方へ進み寄った。群集は低い回廊と庭をつないでいる、三段の階段を目ざして詰め寄せた。長老はいちばん上の段に立って、袈裟を着けると、自分の方へ押し寄せる女たちを祝福し始めた。と、一人の『憑かれた女』が両手を取って前へ引き出された。その女は長老の姿を一目見ると、何やら愚かしい叫び声を立てて、しゃっくりをしながら、まるで驚風患者のように全身をがたがた震わせ始めた。長老がその頭の上へ袈裟を載せて、短い祈祷を唱えると、病人はたちまち静かになって落ち着いてしまった。今はどうか知らないが、自分の子供時代には、村や修道院で、よくこんな『憑かれた女』を見たり、噂に聞いたりしたものである。こういう病人を教会へつれて来ると、堂内に響き渡るようなけたたましい叫び声をあげたり、犬の吠えるような声を立てたりするが、聖餐が出て、そのそばへ連れて行かれると、『憑きものの業』はすぐやんで、いつでも病人はしばらくのあいだ落ち着くものだった。こうした事実は子供の自分をひどく驚かせた。しかしそのころ、地主の誰彼や、ことに町の学校の先生などに根掘り葉掘り聞いてみたら、あれは仕事をするのがいやであんなまねをするだけで、適当な非常手段を用いさえすれば、いつでも根絶することのできるものだと説明して、それを裏書きするようないろいろの珍談を持ちだして聞かせてくれた。ところが後日、専門の医者から、それはけっしてお芝居ではなくて、わがロシアに特有のものらしい恐ろしい婦人病だと聞いて、二度びっくりした次第である。これはわが国農村婦人の惨澹たる運命を説明する病気で、なんら医薬の助けを借りないむちゃな難産をした後、あまりに早く過激な労働につくことから生ずるものであるが、その他、か弱い女性の常として、とても耐えられるものでない、絶体絶命の悲しみとか、折檻とかいうようなものも、その原因になるとのことである。病人を聖餐のそばへ連れて行くやいなや、今まで荒れ狂ったり、じたばたもがいていたものが、不意にけろりとなおる不思議な事実も、それはただのお芝居で、ことによったら『売僧ども』の手品かもしれぬ、とのことだったけれど、これもたぶんきわめて自然に生じたことであろうと思う。おそらく病人を聖餐のそばへ連れて行く女たちと、ことに病人自身が聖餐のそばへ寄って頭をかがめさえすれば、病人に取り憑いている悪霊が、どうしても踏みこたえることができないものと、一定の真理かなんぞのように、信じきっているのであろう。それゆえ必然的な治癒の奇跡を期待する心と、その奇跡の出現を信じきっている心とが、聖餐の前にかがんだ瞬間、神経的な精神病患者の肉体組織に、非常な激動を引き起こすのであろう(否、引き起こすべきである)。かようにして奇跡は、わずかのあいだながら、出現するのであろう。長老が病人を袈裟でおおうやいなや、ちょうどそれと同じ奇跡が起こったのである。
長老のそば近くひしめいていた多くの女たちは、その瞬間の印象によびさまされた感動に随喜の涙を流した。なかにはその法衣の端でも接吻しようとして押し寄せる者もあれば、何やら経文を唱える者もあった。長老は一同を祝福して、二、三の者とことばをかわした。『憑かれた女』は彼もよく知っていた。これはあまり遠くない、修道院から六露里ほど離れた村から連れられて来たので、以前もちょいちょい来たことがあった。
「ああ、あれは遠方の人じゃ」と、けっして年を取ってるわけではないが、恐ろしく痩せほうけて、日に焼けたというではなくて、まっ黒な顔をした、一人の女を指さして、彼は言った。その女はひざまずいて、じっと目をすえたまま見つめていた。その目の中にはなんとなく法悦の色があった。
「遠方でござりますよ、神父様、遠方でござりますよ、ここから二、三百露里もござります。遠方でござりますよ、神父様、遠方でござりますよ」と、首をふらふらと左右に振るようなあんばいに掌へ片頬を載せたまま、歌でもうたうように女は言った。その口調がまるで愚痴をこぼしているようであった。民衆のあいだには無言の、どこまでもしんぼう強い悲しみがある。それは自己の内部に潜んで、じっと黙っている悲しみである。しかし、また張ち切れてしまった悲しみがある。それはいったん涙と共に流れ出すと、その瞬間から愚痴っぽくなるものである。それはことに女に多い。しかし、これとてもけっして無言の悲しみより忍びやすいわけではない。愚痴というものは、ひときわ心を刺激し、掻きむしることによって、ようやく悲しみを紛らすばかりである。こうした悲しみは慰謝を望まないで、あきらめきれぬ苦悩を餌食にするものである。愚痴とは、ひたぶるに傷口を食い裂いていたいという要求にほかならない。
「町家の御仁じゃろうな?」と、好奇の目で女を見つめながら、長老は語をついだ。
「町の者でございます、神父様、町の者でございます。農家の生まれではございますが、今は町方の者でございます。町に住まっておりますんで。おまえ様に一目お目にかかりに参じました。お噂を聞きましたのでなあ。小さい男の子の葬いをしておいて巡礼に出たのでございます。三ところのお寺へお参りしましたところ、わたくしに、『ナスターチャ、こちらへ――つまりおまえ様のことでございますよ、――こちらへ行ってみろ』って教えてくれましたので。こちらへやって参じまして、昨日は宿屋に泊まりましたが、今日はこうしておまえ様のところへ参じましたんで」
「何を泣いておいでじゃな?」
「倅が可哀そうなのでございます、神父様、三つになる子供でございました、まる三つにたった三月足りないだけでございました。倅のことを思って苦しんでおるのでございます。それも、たった一人あとに残った子でございました。ニキートカとのあいだに四人の子供をもうけましたが、どうもわたくしどもでは子供が育ちません。どうも、神父様、育たないのでございます。上を三人亡くしたときには、それほど可哀そうにも思いませなんだが、こんどの末子だけは、どうにも忘れることができません。まるでこう目の前に立っておるようで、どかないのでございます。まるで胸の中も涸あがってしまいました、あれの小さい着物を見ては泣き、シャツや靴を見ては泣くのでございます。あの子が後に残していったものを、一つ一つ広げて見ては、おいおい泣くのでございます。そこで配偶のニキートカに、どうか巡礼に出しておくれと申しましたのでございます。配偶は馬車屋でございますが、さほど暮らしに困りませぬので、神父様、さほど暮らしには困りませぬので。ひとり立ちで馬車屋もいたしておりまして、馬も車もみんな自分のものでございます。けれど今となって、こんな身上がなんの役に立ちましょう? わたくしがおりませんでは、きっとうちのニキートカはむちゃなことをしているに違いありません。それはもう確かな話でござりますよ。以前もそうでございました。わたくしがちょっと眼を放すと、すぐもうぐらつくのでございますよ、でも今ではあの人のことなど考えはいたしません。もう家を出てから三月になります。わたくしはすっかり忘れてしまいました、何もかも忘れてしまって、思い出すのもいやでございます。それにいまさらあの人といっしょになったところで、なんといたしましょう。わたくしはもうあの人とは縁を切ってしまいました。誰とも縁を切ってしまいました。自分の家や持ち物なんぞ見たいとも思いませぬ。なんにも見たいとは思いませぬ!」
「のう、おっかさん」と長老が口をきった。「昔の偉い聖人様が、おまえと同じように寺へ来て泣いておる母親を御覧になられてな、それはやっぱり、神様に召された一人子を思って泣いている母親じゃったのじゃが、聖人様の言われるには、『いったいおまえは小さい子供が神様の前では、わがままいっぱいにしておるということを知らぬのか? 幼い子供ほど神の国でわがままいっぱいなものはないのじゃ。子供らは神様に向かって、あなたはわたしたちに生命を恵んでくださったけれど、ちらと世の中をのぞいただけで、もう取り上げておしまいになった、などとだだをこねて、今すぐ天使の位を授けてくだされとせがむのじゃ。じゃによっておまえも喜ぶがよい、泣くことはないのじゃ、おまえの子供はいま神様のおそばで、天使たちといっしょに暮らしているのじゃから』こうその昔、聖人が泣いておる母親を諭された。それは偉い聖人のことじゃから、間違ったことを言われるはずがない。そなたの子供も今はきっと、神様の御座所の前で遊び戯れながら、そなたのことを神様に祈っておることじゃろう。それじゃによって、そなたも泣かれずに、喜ばねばならんのじゃ」
女は片手で頬杖をつきながら、伏し目になって聞いていた。彼女はほうっとため息をついた。
「それと同じことを言って、ニキートカもわたくしを慰めてくれました。おまえ様のおことばとそっくりそのままでございました。『わけのわからんやつじゃよ、何を泣くことがあるんだ、うちの坊やも今ごろはきっと神様のそばで、天使たちといっしょに歌でもうたっておるにきまっておるよ』配偶はこう言いながら、そのくせ、自分でも泣いておるのでございます。見ると、やっぱりわたくしと同じように、泣いておるのでございますよ。で、わたくしはそう言ってやりました。『おまえさん、それはわしも知っているよ、あの子は神様のそばでなくては、ほかにいるところはありませんさ。けれど、今ここに、わしらのそばにはいっしょにおらん、前のようにここに坐ってはおらんだもの!』とね。ほんとに、わたくしはほんの一ぺんきりでも、あれが見とうございます。ほんのちょっとでよいから、あれが見たいのでございますよ。そばへ寄ったり声を掛けたりできなくてもかまいませぬ。あれが以前のように、戸外で遊んでいるところや、こちらへやって来て、あの可愛らしい声で、『母ちゃん、どこにいるの?』って呼ぶのを、どこかの隅に隠れておって、ほんのちらりとでも、見たり聞いたりしとうございます。あの小さい足で部屋の中を歩くのが聞きとうございます。あの小さい足でことことと歩くのを、たった一度でも聞きたい。以前よくわたくしのところへ走って来て、叫んだり笑ったりしましたが、わたくしはたった一度あれの足音が聞きたい、どうしても聞きたいのでございます。けれども神父様、もうあれはおりません、あれの声を聞くときはもうございません! これここにあれの帯がござりますが、あれはもうおりません。もうあれを見ることはできません。あれの声を聞くことはできません……」
彼女はふところから小さな組紐の、わが子の帯を取り出したが、それを一目見ると、両手で顔をおおって、身を震わせながら泣きくずれた。そして不意にほとばしり出た涙は指のあいだを伝って流れるのであった。
「ああそれは」と長老が言った、「それは昔の『ラケルわが子らを思い嘆きて慰むことを得ず。なんとなれば子らは有らざればなり』とあるのと同じじゃ。それがそなたたち母親のために置かれた地上の隔てなのじゃ。ああ慰められぬがよい、慰められることはいらぬ。慰められずに泣くがよい。ただ、泣くたびごとにたゆまず、そなたの息子は神様の御使いの一人となって、天国からそなたを見おろし、そなたの涙を見て喜んで、それを神様に指さしておるということを、忘れぬように思い出すがよい。そなたの母としての大きな嘆きはまだ長く続くけれど、やがてはそれが静かな喜びとなり、その苦い涙も静かな感動の涙と変わって、罪障を払い心を清めるよすがとなるだろう。そなたの子供に回向をして進ぜようが、名まえはなんといったのじゃな?」
「アレクセイでございます。神父様」
「よい名まえじゃ。アレクセイ尊者にあやかったのじゃな?」
「尊者でございます、神父様、アレクセイ尊者でございます!」
「それはなんという聖い子じゃ! 回向をして進ぜよう、回向をして進ぜるよ! それからそなたの悲しみも祈祷の中で告げてあげようし、配偶の息災も祈ってあげよう。ただ、配偶を捨てておくのはそなたの罪になるのじゃ。帰ってめんどうを見てやりなされ。そなたが父親を見すてたのを天国から見たら、その子はそなたたちのことを思って泣くじゃろう。どうしてそなたは子供の冥福に傷をつけるのじゃ? その子供は生きておるのじゃよ。おお生きておるとも、魂は永久に生きるものじゃもの。家にこそおらねど、見え隠れにおまえがたのそばについておるのじゃ。それなのにそなたが、自分の家を憎むなぞといったら、どうして子供が家へはいって来られよう! おまえがた二人が、父親と母親がいっしょにおらぬとしたら、子供はいったいどっちへ行ったらよいのじゃ? 今そなたは子供の夢に苦しんでおるが、配偶のところへ帰ったなら、子供が穏かな夢を送ってくれるじゃろう。さあ、おっかさん、帰りなされ、今日すぐ帰りなされ」
「帰ります、神父様、おまえ様のおことばに従って帰ります。おまえ様はわたくしの心を見抜いてくだされました。あの愛しいニキートカ、おまえさんはこのわたしを、待ちかねていさっしゃろうなあ、ニキートカ、さぞ待ちかねていさっしゃろうなあ!」とまたもや女は、愁嘆をくり返しそうになったが、長老はもう別の老婆の方へ向いていた。それは巡礼風ではなく、町の者らしい服装をしていた。その眼つきから、何か用事があって相談に来たものらしいことが、それとうかがわれた。彼女は遠方から来たのではなく、この町に住んでいる下士の寡婦だと名乗った。息子のワーシェンカというのが、どこか被服廠あたりに勤務していたが、シベリアのイルクーツクへ出向いて、そこから二度手紙をよこしたきり、もうまる一年も便りがない。老婆は問い合わせもしてみたが、正直なところ、どこへ問い合わせたらいいかもわからないのであった。
「ところがつい先ごろ、ステパニーダ・イリイニシナ・ペドリャーギナという、金持ちの商家のお内儀さんが、『プローホロヴナ、いっそ息子さんの名まえを過去帳へ書きこんで、お寺様へ持って行ってお経をあげておもらいよ。そうすれば息子さんの魂が悩みだして、きっと手紙をよこすようになるよ。それは現金なもので、これまでもたびたび験されたことなんだから』って、そうステパニーダさんが言うんですけど、わたしはどうかと存じますんで!……。神父様、いったい本当でございましょうか、そんなことをしてよろしいものでございましょうか?」
「そのようなことは考えることもなりませぬぞ。尋ねるのも恥ずかしいことじゃ。第一、生きておる魂を、それも現在生みの母が供養するなどということが、どうしてできるのじゃ? それは大きな罪で、妖術にも等しいことじゃ。ただ、そなたは何も知らなんだのじゃからぜひもないが。それよりも、すぐに、たれにでも味方をして助けてくださる聖母様にお祈りをして、息子の息災でおりますように、また間違った考えを起こした罪をお許しくださりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それからプローホロヴナ、わしはそなたにこれだけのことを言っておこう。――その息子さんは近いうちに自分で帰って来るか、それとも手紙をよこすに決まっておる。そなたもそのつもりでおるがよい。さあもう安心して帰りなされ、そなたの息子は息災でおるのじゃよ」
「おありがたい長老様、どうかあなた様に神様のお恵みのありますように! ほんにあなた様はわたくしどもの恩人でございます。わたくしども一同のために、またわたくしどもの罪障のために、代わって祈ってくださるおかた様でいらっしゃいます!」
が、長老はもう、自分の方へじっと注がれた、痩せ衰えた肺病やみらしい、まだ若い百姓女の、熱した二つの瞳を群集の中にみとめていた。彼女が無言のまま、見はっている両眼は、何か願うもののようであったが、彼女はそばへ近づくのを怖じ恐れているような様子だった。
「そなたは何の用で来たのじゃな?」
「わたくしの魂を許してくださいませ」低い声でおもむろにこう言いながら、彼女は膝をついて長老の足もとにひれ伏した。
「神父様、わたくしは罪を犯しました、自分の罪が恐ろしゅうございます」
長老はいちばん下の段に腰をおろした。女は膝を突いたまま、そのかたわらへにじり寄った。
「わたくしは寡婦になって三年になります」女はぶるぶると身を震わすようにしながら、ささやき声でこう言った。「わたくしは嫁にいってつらいつらい思いをいたしました。配偶が年寄りで、ひどくわたくしをぶち打擲いたしましたのでございます。それが病気で寝つきましたとき、わたくしはその顔をつくづくと見ながら思いました、もしこの人が快くなって起きるようになったらどうしようか? と、そのとき、あの恐ろしい考えが、ふとわたくしの心に浮かんだのでございます!」
「お待ち!」そう言って長老は、耳を女の口の間近へ持って行った。女は低いささやき声で先を続けたので、ほとんど何一つ聞き取ることができなかった。間もなく女は話し終わった。
「三年になるのじゃな?」
「三年目でございます。初めのうちはなんとも思いませなんだが、このごろは、ぶらぶら病にかかるほど、気がふさいでまいりました」
「遠方かな?」
「ここから五百露里でございます」
「懺悔のとき、話したのじゃな?」
「話しましてございます。二度も懺悔をいたしました」
「聖餐はいただいたかな?」
「いただきました。恐ろしゅうございます。死ぬのが恐ろしゅうございます」
「何も恐れることはない、けっして恐れることはない、くよくよすることもいらぬ。ただそなたが懺悔の心を衰えぬようにしさえすれば、神様は何もかも許してくださるのじゃ。それに、真実心に後悔しておる者を神様が許してくださらぬような、そんな罪業は、けっしてこの世にあるものではない、またあるべきはずもないのじゃ。それにまた、限りない神様の愛をさえ失ってしまうような、そんな大きな罪が犯せるものではない。それとも神様の愛でさえ追っつかぬような罪でもあるというのか? ひたすら怠りなく、懺悔精進して、恐ろしいという心を追いのけるがよい。神様はそなたのとうてい考え及ばぬような愛を持っていらっしゃるぞ、たとえそなたに罪があろうとも、そなたの罪のままに、そなたを愛していらっしゃるということを信じなされ。一人の悔い改むるもののためには、十人の正しきものによってよりも、天国に喜びは増すべけれと、昔から言ってある。さあ帰りなされ、恐れることはない。人の言うことを気にしたり、侮蔑に腹を立てたりしてはならぬ。死んだ配偶がそなたをはずかしめたことはいっさい許して、真底から仲なおりをするのじゃ。もし後悔しておるとすれば、つまり愛しておるのじゃ、もし愛しているならば、そなたはもはや神の子じゃ……愛はすべてのものを贖い、すべてのものを救う。現にわしのようにそなたと同じく罪深い人間が、そなたの身の上に心を動かして、そなたをあわれんでおるくらいじゃもの、神様はなおのことではないか。愛はまことにこのうえもない宝で、これがあれば世界じゅうを買うこともできる。自分の罪はいうまでもなく、人の罪でさえ贖うことができるのじゃ、さあ帰りなされ、恐れることはない」
彼は女に三度まで十字を切ってやり、自分の首から聖像をはずして、それを女にかけてやった。女は無言のまま地にぬかずいて伏し拝んだ。長老は立ち上がると、乳飲み子を抱いた丈夫そうな一人の女を、機嫌よく眺めるのだった。
「ウィシェゴーリエから参じましたよ」
「それは六露里からあるところを、子供を抱いて、さぞくたびれたじゃろう。何の用じゃな?」
「おまえ様を一目拝みに参じましただ。わしはようおまえ様のところへ参じますだに、お忘れなされましただかね? わしを忘れなされたとすりゃ、あんまり物覚えのええおかたではないとみえるだ。村ではおまえ様がわずらっていなさるちゅうこんだで、ちょっとお見舞いにと思って参じましただ。ところがお目にかかってみれば、なんの御病気どころか、まだこのさき二十年でも生きなされますよ、本当に。どうか息災でいておくんなさりまし! それにおまえ様のことを祈っておる者は大ぜいありますだで、おまえ様がわずらいなどなされるはずがござりましねえだよ」
「いや、いろいろとありがとう」
「ついでに一つ、ちょっくらお願いがござりますだよ。そうら、ここに六十カペイカござりますだで、これを、わしより貧乏な女子衆にくれてやってくださりまし。ここへ来てから考えましただ、長老様に頼んで、渡しておもらい申したほうがええ、あの方は誰にやったらええか、よう御存じじゃから、となあ」
「ありがとうよ、かみさん、ありがとう。わしはそなたの美しい心がけが気に入った。必ずそのとおりにして進ぜよう。抱いておるのは娘かな?」
「娘でござります、長老様、リザヴェータと申しますだ」
「神様がそなたたちふたりに、そなたと稚ないリザヴェータとに祝福をたれたまわんことを。ああ、おっかさん、そなたのおかげで心が晴れ晴れしてきましたわい。ではさようなら、皆の衆、さようなら、大事な愛しい皆の衆!」
彼は皆の者を祝福して、一同に丁寧に会釈した。
旅の地主の婦人は下層民との会釈や、その祝福のありさまを残らず打ち見やりながら、静かに流れる涙をハンカチで拭いていた。それは多くの点でまことに善良な性格をもった、濃やかな感じの上流婦人であった。やがて長老が彼女のほうへ近づいたとき、彼女は歓喜に溢れてそれを迎えた。
「わたくしはただいまの美しい光景を残らず拝見しました、ほんとにどんな切ない思いをいたしましたでしょう……」彼女は感動のために、最後まで言いきることができなかった。「ああ、わたくしにはよくわかります、人民はあなたを愛しています。わたくしは自分でも人民を愛します、いえ、愛そうと思っております。あの偉大な中にも美しい単純なところのあるロシアの人民を、どうして愛さないでいられましょう!」
「お嬢さんの御健康はいかがですな? あなたはまた、わしと話がしたいと言われるのかな?」
「ええ、わたくしはむりやりにたってお願いいたしたのでございます。わたくしはあなたのお許しが出るまでは、お窓の外にこの膝を地べたについたまま、三日でもじっとして待っている覚悟でございました。わたくしどもはこの歓びに溢れた感謝の心を、腹蔵なくお目にかけるためにまいったのでございます。あなたは宅のリーザをなおしてくださいました、すっかりなおしてくださいました。それもあなたは、ただ木曜日にこの子のお祈りをしてくださいまして、お手を頭へ載せてくだすっただけではございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、わたくしどもの心持を、敬慕の念を汲みとっていただくために、急いでまいった次第でございます!」
「どうしてなおしたとおっしゃられるのかな? お嬢さんはやはり椅子に寝ておられるではござりませぬか?」
「ですけれど、夜ごと夜ごとの発熱は、ちょうどあの木曜日からすっかりなくなりまして、これでもう二昼夜少しも起こらないのでございます」と夫人は神経的にせきこみながら言った。「そればかりか、足までしっかりいたしました。昨晩はぐっすりとよく休みましたので、けさ起きましたときなどぴんぴんいたしておりました。この血色を見てくださいまし、この生き生きした眼を御覧くださいまし。いつも泣いてばかりおりましたものが、今ではにこにこと、いかにも上機嫌で、嬉しそうにしております。今日はどうしても立たせてくれと申して聞かないのでございます。そしてまる一分間、自分一人で、何にもつかまらないで立っていたのでございますよ。この子はもう二週間もしたら四班舞踏を踊ると申しまして、わたくしと賭をしたのでございます、わたくしがこの町のお医者のヘルツェンシェトウベさんを呼びましたところ、肩をすくめながら、驚いた、どうもいぶかしい、とばかり申しているのでございますよ。それですのにあなた様は、わたくしどもがお邪魔をしなければいい、こちらへ飛んで来て礼など言わなければいいが、とお思いになっていらっしたのでございますか? リーズや、お礼を申し上げないかえ、お礼を!」
それまで笑っていたリーズの愛くるしい顔は、急にまじめになった。彼女はできるだけ肘椅子の上にからだを浮かせて、長老の顔を見つめながら、彼の前に手を合わせた。が、こらえきれなくなって、突然笑いだした。
「あたしあの人のことを笑ったのよ、そらあの人よ!」我慢がならなくなって笑いだしてしまった自分に対して、子供らしいいまいましさを浮かべながら、彼女はこう言って、アリョーシャを指さした。誰にもせよ、このとき、長老の一歩後ろに立っているアリョーシャを眺めたものは、一瞬にして彼の両頬を染めた紅潮に気がついたことであろう。彼の眼はぱっと輝いて伏せられた。
「アレクセイ・フョードロヴィッチ、この子はあなたにことずかりものをしていますのよ……御機嫌はいかが?」突然、母夫人はアリョーシャのほうを向いて、美しく手袋をはめた手を差し出しながら、語をついだ。長老はつとふり返ると、急にアリョーシャをじっと見つめた。アリョーシャはリーザに近寄ると、なんとなく妙な、間の悪そうな薄笑いを浮かべながら、彼女の方へ手を差し出した。リーズはもったいらしい顔つきをした。
「カテリーナ・イワーノヴナが、あたしの手からこの手紙をあなたに渡してくれって」と彼女は小さな手紙を差し出した。「そしてね、ぜひ、至急に寄っていただきたいっておっしゃったわ。どうぞ瞞さないでぜひいらっしてくださいって」
「あの人が僕に来てくれって? あの人のところへ僕が……どうしてだろう?」アリョーシャは深い驚きの色を浮かべながら、こうつぶやいた。彼の顔は急にひどく心配そうになった。
「それは、ドミトリイ・フョードロヴィッチのことや……それから近ごろ起こったいろんなことで御相談があるのでしょうよ」と母夫人はかいつまんで説明した。「カテリーナ・イワーノヴナは今ある決心をしていらっしゃいますの……けれど、そのためにぜひあなたにお目にかからなければならないんですって……どうしてですか? それはむろん、存じませんが、なんでも至急にってお頼みでしたよ。あなたもそうしておあげになるでしょう、きっと、そうしておあげになりますわね。だって、それはキリスト教的感情の命令ですもの」
「僕はあの人にはたった一度会ったきりですよ」と、アリョーシャは依然として合点のいかぬ様子でことばを続けた。
「ほんとにあのかたは高尚な、とてもまねもできないようなかたですわ!……あのかたの苦しみだけからいってもねえ……まあ、考えても御覧なさいな、あのかたがどんなに苦労をしていらっしたか、またどんなに苦労をしていらっしゃるか、そしてこの先どんなことがあのかたを待ち受けているか……ほんとに何もかも恐ろしいことですわ、恐ろしいことですわ!」
「よろしい、では僕まいりましょう」とアリョーシャはきっぱり言って、短い謎のような手紙にざっと眼を通して見たが、ぜひとも来てくれという依頼のほかには、何の説明もしていなかった。
「ああ、それはあなたとして本当に美しい、立派なことなのよ」不意にリーズは活気づいてこう叫んだ。「だって、あたしお母さんにそう言ってたのよ――あの人はどんなことがあっても行きゃしない、あの人はお寺で行をしてるんですものって。まあ本当に、あなたはなんという立派なかたなんでしょう! あたしね、いつもあなたを立派なかただと思っていたの。だから今そのことを言うのが、とてもいい気持なのよ!」
「リーズや!」と母夫人はたしなめるように言ったが、すぐににっこり笑った。
「あなたはすっかりわたしたちを忘れておしまいになったのね、アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたはちっとも宅へいらしてくださらないじゃありませんの。ところが、リーズはもう二度もわたしに向かって、あなたと御いっしょにいるときだけ気分がいいって申しましたのよ」アリョーシャは伏せていた眼をちょっと上げたが、また急にまっかになって、それからまた突然、自分でもなぜだかわからない微笑を浮かべた。けれども長老はもう彼を見守ってはいなかった。彼は、前に述べたとおり、リーズの椅子のかたわらで自分を待っていた、旅の僧と問答を始めたのである。それは見たところ、きわめて質朴な僧らしかった。つまり身分も低くて、単純で危なげのない世界観をいだいてはいるが、それだけに頑固な信仰を持った僧の一人である。そのことばによれば、彼はずっと北の果てのオブドルスクにあって、わずか十人しか僧侶のいないという、貧しい聖シルヴェストル寺院からやって来たとのことであった。長老はこの僧を祝福して、いつでも都合のいいときに庵室をたずねてくれと言った。
「あなたはどうしてあんなことを思いきってなされるのでございますか?」と僧はだしぬけに、非難するようにものものしい態度で、リーズを指しながら尋ねた。それは彼女の『治療』のことをほのめかしたのである。
「これについてはもちろん、まだ語るべき時ではありませんじゃ。少し軽くなったからとて、すっかりなおりきったわけではないし、それにまた、何か他に原因があるのかもしれませぬでな。しかし、たとえ何かききめがあったとしても、それは誰の力でもなく、ひとえに神様のおぼしめしじゃ。何もかも神意から出ているのじゃ。ときにぜひおたずねくだされ」と彼はつけたして僧に言った。「でないと、いつでもというわけにはまいりませぬでな。病身のことで、もうわしの命数も数え尽くされておるのじゃから」
「いいえ、いいえ、神様はけっしてわたくしどもからあなたを奪い取りはなさいませぬ。あなたはまだ長く御存命になりますとも」と母夫人が叫んだ。「それにどこがお悪いのでございましょう? お見受けしたところ、たいそうお丈夫そうで、楽しそうなお仕合わせらしいお顔つきをしておいでになるではございませんか」
「今日わしは珍しく気分がよいが、しかしそれはほんのつかの間のことじゃ、それはわしにもようわかっておりますじゃ。わしはもう今では自分の病気を間違いなしに見抜いておりますのじゃ。あなたはわしがたいへん楽しそうな顔をしておると言われたが、そう言っていただくほど、わしにとって嬉しいことはありませんわい。人の幸福のために創られた者ですからな。それで、本当に仕合わせな人間は、自分はこの世で神の遺訓を果たしたという資格があるのじゃ。すべての公明な人、すべての聖徒、すべての殉教者は、みなことごとく幸福であったのじゃ」
「ああなんというおことばでございましょう、なんという勇ましい高遠なおことばでございましょう!」と母夫人は叫んだ。「あなたのおっしゃることは、いちいちわたくしの心を突き通すようでございます。ですけれど、幸福……幸福……それはいったいどこにあるのでございましょう? ああ、あなたがもしわたくしどもに今日、二度目の対面をお許しくださるほど、御親切でいらせられますのなら、この前申し上げなかったことを――思いきってよう申し上げなかった、長い長いあいだのわたくしの悩みの種をお聞きくださいまし! わたくしが悩んでおりますのは、お許しくださいまし、わたしが悩んでおりますのは……」こう言いながら熱烈な感情の発作にかられて、夫人は長老の前に両手を組み合わせた。
「とりわけ何ですかな」
「わたくしの悩んでおりますのは……不信でございます……」
「神を信じなさらぬのかな?」
「いいえ、違います、違います、そんな大それたことは考えもいたしません。けれど来世――それが大きな謎でございます! これに対しては誰ひとり、誰ひとりとして答えてくれる者がございません! どうぞお聞きくださいまし。あなたはお医者でいらっしゃいます、あなたは人の心をお見抜きになるかたでいらっしゃいます。わたくしは、もちろん自分の申し上げることを残らず信じていただこうなどという、大それた望みは持っておりませんけれど、けっして軽はずみな考えで、ただいまこんなことを申し上げるのではないことは、どこまでも立派に断言いたします。ほんとにこの来世という謎のような考えが、苦しいほど、恐ろしいほど、わたくしの心をかき乱すのでございます……それだのに誰にこの苦しみを訴えたらよいか、生涯わたくしは存じ及びませんでした……けれども今、わたくしは思いきってあなたにこれをお訴えいたします……。まあ、ほんとにあなたは、このわたくしをどんな女だとお思いあそばすでございましょう!」夫人は思わず手を打った。
「わしの思わくなぞ懸念することはありませんぞ」と長老が答えた。「わしはあなたの悩みの真実なことを、どこまでも信じきっておりますじゃ」
「まあ、ほんとにありがとうございます! それで、わたくしはよく目をつぶって、こんなことを考えるのでございます――もしすべての人が信仰を持っているのだったら、どこからそれを得たのでしょう? ある人たちの説くところでは、すべてそれは、初め自然界の恐ろしい現象に対する恐怖の念から起こったもので、本来は何もあるものではないというのだそうでございます。ところで、わたくしそう思いますの――こうして一生、信じ通しても、死んでしまえば急に何もかもなくなってしまって、ある小説家の書いたもので見ましたように、『ただ墓の上に山牛蒡が生えるばかり』であったら、まあどうでございましょう。それは恐ろしいことでございます! 本当にどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうかしら? もっとも、わたくしが信じておりましたのは、ほんの小さい子供のころだけで、それもなんの考えもなく機械的に信じていたのにすぎませんけれど……どうしたら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、今日わたくしはあなたのお前にひれ伏して、このことをお尋ねしようと存じて、お邪魔にあがったのでございます。だって、もしこの機をのがしましたなら、生涯わたくしの問いに答えてくれる人はございませんもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか? ほんとにわたくしは薄倖でございます。じっと立ってぐるりを眺めましても、みんな、たいていの人が平気な顔をしています、今ごろ誰ひとりそんなことに心を煩わしている人はありません。ただひとりわたくしだけ、それが耐えられないのでございます。本当にそれは死ぬほどつろうございます、死ぬほど!」
「それは疑いもなく死ぬほどつらいことですじゃ! しかし、それについては証明するということはとうていできぬが、信念を得ることならばできますぞ」
「どうしたら? どういう風にいたしたらよろしゅうございましょうか?」
「それは実行の愛じゃ。あなたの隣人を実際に、根気よく愛するようにつとめて御覧なされ。その愛の努力がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も確信されるようになりますのじゃ。もし隣人に対する愛において、完全な自我の否定に到達したならば、その時こそ、もはや疑いもなく信仰が得られたので、いかなる疑惑もあなたの心に忍びこむことはできませんのじゃ。これはもう実験ずみの、確かな方法なのじゃから」
「実行の愛? それがまた問題でございます。しかもたいへんな問題でございます! 長老様、わたくしはときどき、自分が持っているいっさいのものを投げすて、リーザも見すてて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、人類を愛しているのでございます。じっとこう眼をつぶって空想しておりますと、わたくしは自分の中に押えることのできない力を感じるのでございます。どんな傷口も、どんな膿だらけの腫瘍も、わたくしを脅かすことはできないでしょう。わたくしは自分の手で傷所を包帯したり洗ったりして、苦しめる人々の看護婦になるでしょう。膿だらけの傷口を接吻することもできるくらいです……」
「ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたいへん結構なことじゃ。いや、いや、そのうちひょっくりと、何か本当によいことをなされるときもありましょうわい」
「けれど、わたくし、そういう生活に長くしんぼうできるでございましょうか?」と、夫人はほとんど無我夢中の熱烈な調子でことばを続けた。「これがいちばん大切な問題でございます! これがわたくしにとっていちばん苦しい問題なのでございます。わたくしは目をつぶって、本当にそういう道を長く歩み続けられるかしら、と自分で自分に尋ねてみます。もしわたくしが傷口を洗ってやっている病人が、即刻に感謝をもって報いないばかりか、かえってわたくしの博愛的な行ないを認めも尊重もしないで、いろんなわがままを言って困らせたり、どなりつけたり、無理な要求をしたり、誰か上役の人に告げ口をしたりなど(それはひどく苦しんでいる人に、よくありがちのことでございます)したら――そのときはまあどうでしょう? わたくしの愛は続くでしょうか、続かないでしょうか? ところで、どうでしょう――わたくしは胸をわななかせながらも、この疑問を解決したのでございます――もしわたくしの人類に対する『実行的』な愛を、その場限り冷ましてしまうものがあるとすれば、それはつまり忘恩そのものでございます。ひとくちに申しますれば、わたくしは賃金目当の労働者でございます。わたくしは即時払いの報酬を――つまり自分への賞賛と、愛に対する愛の報酬を要求いたしておるのでございます。これでなくては、わたくしは誰をも愛することができません!」
「それはある医者がわたしに話したのとそっくりそのままの話じゃ、もっともだいぶ以前のことですがな」と長老が言った。「それはもういいかげんの年配の、紛れもなく賢い人であったが、その人があなたと同じようなことを、あけすけに打ち明けたことがありますのじゃ。もっとも冗談にではあったが、痛ましい冗談でしたわい。その人が言うには『わたしは人類を愛しているけれど、自分でもあさましいとは思いながら、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を愛することが少なくなる。空想の中では人類への奉仕ということについて、むしろ奇怪なほどの想念に達して、もしどうかして急に必要になったら、人類のためにほんとに十字架を背負いかねないほどの意気ごみなのだが、そのくせ、誰かと一つ部屋に二日といっしょに暮らすことができない。それは経験でわかっておる。相手がちょっとでも自分のそばへ近寄って来ると、すぐにその個性がこちらの自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、わたしはわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者をすら憎みだしてしまうことができる。ある者は食事が長いからとて、またある者は鼻風邪を引いていて、ひっきりなしに鼻汁をかむからといって憎らしがる。つまりわたしは、他人がちょっとでも自分に触れると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり、個々の人間に対する憎悪が深くなるに従って、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる』と、こういう話なのじゃ」
「ですけれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合にはどうしたらよろしいのでございましょうか? それでは絶望するほかないではございませんか?」
「いや、そうではないのじゃ。あなたがこのことについて、そのように苦しみなされる……ただそれだけでたくさんなのじゃから。できるだけのことをなされば、そのうちに、うまく帳尻が合ってきますのじゃ。あなたがそれほど深く、真剣に自分というものを知ることができたからには、もはやあなたは多くのことを行なったわけになりますのじゃ! がもし、今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒めてもらいたいがためだとすれば、もちろんあなたは実行的な愛の道で、何物にも到達されることはありませんぞ。すべてが空想にとどまって、一生は幻のごとくにひらめき過ぎるばかりなのじゃ。やがては来世のことも忘れ果てて、ついには勝手なあきらめに安んじてしまわれることはわかりきっておりますわい」
「あなたはわたくしをおしつぶしておしまいなされました! たった今あなたにそうおっしゃられて、わたくしははじめて気がつきました。ほんとにわたくしは、恩知らずな仕打ちを我慢することができないと白状いたしました時、自分の誠実さを褒めていただくことばかり当てにしておりました。あなたはわたくしに自分というものを知らせてくださいました。あなたはわたくしの正体を取り押えて、わたくしに見せてくださいました!」
「あなたはしんから、そう言われるのかな? そういう告白をなされたからには、今こそわしは、あなたが誠実なかたで、善良な心を持っておいでだと信じますじゃ。よしや幸福にまでは至らぬにしても、いつも自分はよき道に立っておるということを覚えておって、その道を踏みはずさぬように心がけられたがよい。何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けなければなりませぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを吟味なさるのじゃ。それから、他人に対しても、自分に対しても、あまり潔癖すぎるのもよくありませんぞ。あなたの心の中にあってきたなく思われるものも、あなたがそれに気づいたという一事で、すでに清められておりますのじゃ。恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ――もっとも、恐怖はすべて偽りの結果にほかならぬのじゃが。また愛の到達についても、けっして自分の狭量を恐れなさるな。そればかりか、その際に犯した自分の良からぬ行ないも、あまり恐れなさることはありませんじゃ。どうもこれ以上に愉快なお話しをすることができないのは残念じゃが、なにしろ実行的な愛は空想的な愛に比べると、なかなか困難な、そして恐ろしいものじゃからな。空想的な愛は急速な功績を渇望し、人に見られることを望むものじゃ。実際、極端なのは、まるで舞台の上かなんぞのように、一刻も早くそれが成就して、人に見て感心してもらいたいが山々で、それがためには命を棒に振っても惜しくない、というほどになるのじゃ。ところが、実行の愛となると、これはとりもなおさず労働と忍耐じゃ。またある人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。しかし前もって言っておきますがの、どのように努力しても目的に達することができぬばかりか、かえってそれから遠のいて行くような気がして、慄然とする時、そういう時、あなたは忽然として目的に到達せられるのじゃ。そして絶えずあなたを愛し、ひそかにあなたを導かれた神の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認められるのじゃ。御免なされ、もうこれ以上あなたとお話しをしておるわけにまいりませぬのじゃ、待っておる人がありますでな。さようなら」
夫人は泣いていた。
「リーズを、リーズを、どうぞあれを祝福してくださいまし、祝福して!」不意に彼女は飛び上がった。
「お嬢さんは愛を受ける値打ちがありませんじゃ。お嬢さんが初めからしまいまでふざけておられたのを、わしはちゃんと知っておりますぞ」と長老は冗談まじりに言った。「あんたはどういうわけで、しじゅうアレクセイをからかいなさったのじゃ!」
事実リーズは初めからしまいまでその悪戯に心を奪われていたのである。彼女はもうとうから――この前のときから、アリョーシャが彼女に羞かんで、なるべく彼女のほうを見まいとしているのに気がついた。それが彼女にはひどくおもしろかったのだ。彼女は根気よく待ち構えて、相手の視線を捕えようとした。アリョーシャはしつこく自分に注がれた視線に耐えきれないで、打ち勝ちがたい力に引きずられて、不覚にも自分から娘のほうを見やる。とたちまち彼女はまともに相手の顔を見つめながら、勝ち誇ったような微笑をにっと浮かべる。アリョーシャはいっそう羞かんで焦れるのであった。とうとうしまいには、彼はすっかり顔をそむけて、長老の後ろへ隠れてしまった。数分の後、彼はまた同じ打ち勝ちがたい力に引き寄せられて、自分を見ているかどうかと、娘のほうへふり返って見た。するとリーズはほとんど安楽椅子から身を乗り出すようにして、横手からじっと彼を見つめながら、彼が自分のほうへふり向くのを一心に待ち構えていたのだ。そこでまんまと彼の視線を捕えると、長老ですら我慢がならないような笑い声をあげてしまったのである。
「どうしてあんたはこの人にそう恥ずかしい思いをさせなさるのじゃな、悪戯っ児さん?」
リーズは突然、全く思いがけなくまっかになって、目を輝かした。彼女の顔は恐ろしくきまじめになった。彼女はいきり立った不平満々たる調子で、早口に神経的にしゃべりだした。
「じゃあ、どうしてこの人は何もかも忘れてしまったの? だって、この人はあたしが小さいころ、よくあたしを抱いて歩いたり、いっしょに遊んだりしたのよ。それから家へ来てあたしに読み方を教えてくれたのよ、あなたはそれを御存じ? 二年前に別れるときも、あたしのことはけっして忘れない、二人は永久に、永久に、永久に親友だって言ったわ! それだのに、今になって急にあたしをこわがりだしたんですもの。あたしがこの人を取って食べるとでもいうのでしょうか? どうしてあたしのそばへ寄って、お話をしようとしないんでしょう? なぜこの人は家へ来てくれないんでしょう? あなたがお出しなさらないの? だって、この人がどこへでも出て歩くことは、あたしたちようく知っててよ。あたしのほうからこの人を呼ぶのはぶしつけだから、この人から先に思い出してくれるのが本当だわ、もし忘れないでいてくれるのなら……いいえ、だめだわ、あの人は今、行をしているんですもの! だけど、なんだってあの人にあんな裾の長い法衣を着せたの……駆け出したら転ぶじゃないの……」
そして彼女は不意にこらえきれなくなって、片手で顔を隠すと、持ち前の神経的な、からだじゅうをゆすぶるような、声を立てぬ長い笑い方で、激しく、とめどなく笑い続けるのであった。長老は微笑を含みながら彼女のことばを聞き終わると、優しく祝福してやるのだった。リーズは長老の手に接吻しようとした時、突然その手を自分の眼に押し当てて泣きだした。
「ね、あたしを怒らないでちょうだい、あたしはばかだから、なんの値打ちもないのよ……アリョーシャがこんなおかしな女のところへ来たがらないのも、もっともかもしれないわ、いいえ本当にもっともだわ」
「いや、わしがぜひとも行かせますじゃ」と長老がきっぱりと言いきった。
長老が庵室を出ていたのはおよそ二十五分くらいだった。もう十二時半を回っているのに、この集まりの主要人物たるドミトリイ・フョードロヴィッチはいまだに姿を見せなかった。しかし一同はほとんど彼のことなど忘れてしまった形で、長老が再び庵室へはいって来たときには、恐ろしく活気のある談話が客のあいだに取りかわされていた。その話の牛耳をとっていたのはイワン・フョードロヴィッチと二人の僧であった。見受けるところ、ミウーソフも熱心にその話に容喙しようとしていたのだが、この時もまた彼は運が悪かった。どうやら彼は二流どころの役割しか当てがわれていないらしく、彼のことばには答えるものもあまりなかった。この新しい情勢が、しだいに鬱積した彼の癇癪を、ますます募らせるばかりであった。彼はもう以前からイワン・フョードロヴィッチと学識のせり合いをしていたのだが、相手の示す粗略な態度を、冷静に我慢することができなかったのだ。『少なくとも、今日までわれわれはヨーロッパにおける、いっさいの進歩の頂上に立っていたのに、この青二才が思いきりわれわれを軽蔑してやがる』と彼は肚の中で考えた。さっき、椅子にじっと腰をおろして、口をつぐんでいることを誓ったフョードル・パーヴロヴィッチは、本当にしばらくのあいだは口を開かなかったが、人を小ばかにしたような薄笑いを浮かべて、隣りに坐っているミウーソフをじろじろ眺めながら、そのいらいらした様子にすっかり喜んでしまっている様子であった。彼はずっと前から何か敵を討ってやろうと待ち構えているのだから、この好機会を見のがすことはできなかった。とうとうしんぼうがしきれなくなって、ミウーソフの肩へかがみこみながら、小声でもう一度彼をからかった。
「あんたがさっき『いとしげに接吻しぬ』の後ですぐ帰らないで、こうした無作法な仲間といっしょに踏みとどまるようになられたのはどういうわけでしょうな? それはほかでもない、あんたは自分が卑しめられ、侮辱されたような気がするものだから、その意趣返しに、一つ利口なところを見せつけてやろうと思って踏みとどまったのでがしょう。もうこうなっては、利口なところを見せないことには、お帰りになるわけにはいきませんからなあ」
「またですか? なんの、今すぐにも帰りますよ」
「どうして、どうして、いちばん後からお帰りでしょうて!」フョードル・パーヴロヴィッチはもう一度ちくりと刺した。ちょうどその時、長老が戻って来たのである。
論争は一瞬間はたとやんだが、長老は以前の席に着くと、さあお続けなさいと愛想よく勧めるように、一同をひとわたり見回した。長老の顔の、ほとんどすべての表情を研究し尽くしたアリョーシャは、このとき彼が恐ろしく疲れ果てて、やっと我慢していることを明らかに見てとった。近ごろ彼は体力の衰弱から、ときどき卒倒することがあった。その卒倒の前と同じような青白い色が、今その顔に広がって、唇も白けていた。しかし、明らかに彼はこの集まりを解散させたくなさそうであった。そのうえ、何かまだ目的があるらしい、――さて、どんな目的だろうか? アリョーシャはじっと彼に目を注いだ。
「このかたの至極珍しい論文の話をしておるところでございます」司書の僧ヨシフがイワン・フョードロヴィッチを指しながら、長老を顧みてこういった。「いろいろ新しい説が述べてありますが、根本の思想は曖昧なものでございます。このかたは教会的社会裁判とその権利範囲の問題について、一冊の書物を著わしたある桑門の人に答えて、雑誌に論文を発表されましたので……」
「残念ながら、わしはその論文を読んでおりませんじゃ。しかしその話はかねがね聞いておりましたわい」長老はじっと鋭い目つきでイワン・フョードロヴィッチを見つめながら、こう答えた。
「このかたの立脚されている点はなかなかおもしろうございます」と司書の僧は語をついだ。「つまり、教会的社会裁判の問題について、教会と国家の区別を全然否定しておられるらしいのでございます」
「それは珍しいが、ところでどのような意味あいですかな?」と長老はイワン・フョードロヴィッチに尋ねた。
イワンはやがてそれに返事をしたが、その調子は前夜アリョーシャが心配したように、上から見下したような悪丁寧さではなく、つつましく、控え目で、著しく用心深いところがあり、底意らしいものは少しもなかった。
「僕はこの二つの要素、すなわち教会と国家という別個な二者の本質の混淆は、むろん、永久に続くだろうという仮定から出発しているのです。もっともそれは全然不可能なことで、正常な状態に導くどころか、幾分でも我慢のできる状態に導くことすらできないのであります。と言いますのは、そもそもその根本に虚偽が横たわっているからであります。たとえば裁判というような問題において国家と教会とが妥協することは、純粋な本質から言って不可能であります。僕が弁駁を試みた僧侶のかたは、教会が国家の中に確然たる一定の地歩を占めていると断定しておられますが、僕は反対に、教会こそそれ自身の中に国家全体を包含すべきであって、国家の中に確かな一隅を占めるべきものではない、たとえ今は、何かの理由でそれが不可能であっても、その根本においては、キリスト教社会の今後の発展に対する直接かつ重要な目的とならねばならぬ、とこう論駁したのであります」
「全然公正なる御意見です」と、無口で博学な僧パイーシイ神父が、強い神経質な声で口をはさんだ。
「純然たる法王集権論ですよ!」と、じれったそうにかわるがわる両方の足を置き換えながら、ミウーソフが叫んだ。
「なんですと! それに第一、ロシアには山などありませんよ!」と司書の僧ヨシフ師が叫んだ。そしてさらに長老のほうを向きながら語をついだ。「なかんずくこのかた、論敵たる僧侶の、次のような根本的かつ本質的なる命題を弁駁しておられる点に御注意なされませ。第一の命題は、『いかなる社会的団体といえども、自己の団体員の民法的、並びに政治的権利を支配する権力を所有するあたわず、かつまた所有すべからず』第二は……『刑事および民事裁判権は教会に属すべからず。かつ、教会は神の制度にかかるものとして、その性質上、かかる権利と両立することを得ず』最後に第三は――『教会は現世の王国にあらず』というのでございます!」
「桑門の人にあるまじき言語の遊戯でございます!」とパイーシイ神父は我慢がしきれないで、また口を出した。「わたくしはあなたの論駁されたあの本を読んで」と彼はイワン・フョードロヴィッチのほうを向いて、「あの僧侶の『教会は現世の王国にあらず』ということばには一驚を喫しました。もし現世のものでないとすれば、この地上に教会は全然存在するはずがないではありませんか。聖書の中にある『この世のものならず』ということばは、そのような意味で用いられているのではありません。このようなことばをもてあそぶとはあるまじきことです。主イエス・キリストは正しく、この地上に教会を建てるためにおいでなされたのです。天国は言うまでもなく、この世のものでなく、天上にあるに違いありませんが、そこへはいって行くには、地上に立てられた教会を通るよりほかには道がありません。それゆえこの意味における俗世間的地口は不可能で、かつあるまじきことです。教会は真に王国であり、王国たるべき使命を持っているのであります。そして、究極においては疑いもなく全世界に君臨する天国とならなければなりません――それは、われわれが神より誓約されていることであります!……」
彼は急に自制するもののように口をつぐんだ。イワン・フョードロヴィッチは敬意と関心をもって、そのことばを聞き終わると、落ち着き払って、しかし依然としてはしはしした率直な調子で言った。
「つまり僕の論文の要旨はこうなのです。古代、すなわちキリスト教発生以来二、三世紀のあいだ、キリスト教は単に教会として地上に出現して、単に教会であるにすぎなかったのです。ところが、ローマという異教国がキリスト教国になる望みを起こしたとき、必然の結果として次のような事実が生じました。ローマ帝国はキリスト教国にはなったけれど、それは単に国家の中へ教会を包含したのみで、多くの施政に顕われたその本質は、依然たる異教国として存在を続けたのです。本質上、ぜひこうなるべきだったのです。しかし、国家としてのローマには異教的な文明や知識の遺物がたくさんに残っていました。たとえば、国家の方針とか基礎とかいうものがそれです。しかるに、キリスト教会は国家の組織にはいったとしても、自己の立っている土台石、すなわち根本の基礎のうち一物をも譲歩することを得ずして、上帝自身によっていったん固く定められかつ示された究極の目的に向かって進むよりほかなかったことは疑いもない事実であります。つまり全世界を、したがって、あらゆる古い異教国を打って一丸として教会に化してしまうのであります。かくのごとくにして(つまり未来の目的において)教会は『社会的団体』または、『宗教目的を有する人間の団体』(僕の論敵は教会のことをこう言い表わしている)としても、国家の中に一定の地歩を求むべきではなくして、かえってあらゆる地上の国家こそ、結局教会に全然同化し、単なる教会そのものになりきって、教会の目的と両立しないような、あらゆる目的を排除すべきであります。しかも、それはけっしてその国家の大帝国たる名誉をはずかしめもしなければ、その君主の栄光を奪いもしないばかりか、かえって誤れる異教的な虚偽の道から、永遠の目的に達する唯一の正しき道へ導くことになるのです。こういうわけで、もし『教会的社会裁判の基礎』の著者が、これらの根拠を発見し提唱するに当たって、それを、まだ現今のような罪障多き未完成な時代においては避けることのできない、一時的の妥協にすぎないと見たならば、彼の判断も正しいものになったでしょう。ところが、もし著者が現に提唱しており、かつただいまヨシフ神父によってその一部を数えあげられた論拠を目して、永久不変の本質的原理であるなどと、仮りにも口幅ったいことを広言する限りは、すでに教会そのものに反抗し、その永久不変の使命に背馳することになるのであります。これが僕の論文です、その概要の全部です」
「つまり簡単に申しますと」パイーシイ神父は、一語一語に力を入れながら、再び口をはさんだ。「わが十九世紀においてあまりにも喧伝されてきたある種の理論に従えば、教会は、下級のものが上級のものに形を変えるように、国家の中へ同化されて、結局、科学だの、時代精神だの、文明だのというものにけおされて、滅びてしまわなければならないのです。もし、それをいとって、反抗すれば、教会のために国家のほんのわずかな一隅が当てがわれて、それも一定の監視のもとに置かれるでありましょう。これは現今のヨーロッパの各地いたるところに行なわれておる事実であります。しかし、ロシア人の考えなり、希望なりによりますと、教会が下級から上級への形をとって国家へ同化するのではなくして、反対に国家が究極において単に教会そのものとなるべきであります。神よ、まことにかくあらしめたまえ、アーメン、アーメン!」
「いや、実のところ、そのお話を伺って僕も少々元気が出てきましたよ」とミウーソフはまた足をかわるがわる置きかえながら、にやりと笑った。「僕の考えるところでは、どうやらそれはキリスト再生のときにでも実現せられる、やたらに先のほうにある理想のようですね。それはまあ御意のままに。戦争や外交官や銀行などといったものの根絶を予想する美しい理想郷的な空想ですね。どこやら、むしろ社会主義に似ていますね。僕はまた、それをまじめなことだと思って、教会はこれから刑事事件を裁判して、笞刑や流刑や、悪くすると死刑の宣告さえするようになるのじゃないかと考えたんですよ」
「もし今でも教会的社会裁判だけしかなかったなら、今でも教会は流刑や死刑を宣告するようなことはしないでしょう。また犯罪も、それに対する見解も、疑いもなく一変すべきはずです。もちろんそれは、今すぐさっそくにというわけではありません、しだいしだいにそうなるのですが、しかしその時期はかなり早くやってくるでしょう……」イワン・フョードロヴィッチは落ち着き払って、まばたき一つしないで、こう言った。
「君はまじめなんですか?」と、ミウーソフはじっと彼を見すえながら言った。
「もし国家全体が教会になってしまった暁には、教会は犯罪者や抵抗者を破門するだけにとどめて、けっして首なんか切らないでしょう」とイワン・フョードロヴィッチは語り続けた。「じゃあ、一つあなたに伺いますが、破門された人間はいったいどこへ行ったらいいのでしょう? そのとき破門された人間は、今日の受刑者のように、単に人間社会から離れるばかりではなく、主キリストからも去ってしまわなければならないでしょう。つまり彼は自分の犯罪によって、単に人間に対してのみならず、キリストの教会に対しても反旗を翻すことになるじゃありませんか。これはもちろん、今日でも厳格な意味においては同じことですが、それでもやはり、そう明白に告示されているわけではありません。だから今の犯罪者の良心はきわめて容易に、自分と自分で妥協することができます、『おれはなるほど盗みをした。けれど教会に背くわけではない、キリストの敵になったわけではない』今の犯罪者は絶えずこんな気休めを言っているのです。ところが、教会が国家にとって代わった場合には、地上における教会の全部を否定してしまわない限り、こんなことを言うわけにはいきません。『誰も彼もみんな間違っている、みんな岐路にそれている。すべてのものが偽りの教会だ。ただ人殺しで泥棒の自分一人だけが公正なキリストの教会だ』これはちょっと言いにくいことです。こんなことを言うためには、よほど偉い条件と、めったにないような情勢が必要ですからね。ひるがえって犯罪に対する教会そのものの見解を考えてみますに、はたして教会は目下行なわれているようなほとんど異教的方法を廃して、社会保全のために行なわれている、感染せる肢体を切除するような、機械的な方法をば、真に、人間の更生と復活と救済の理想に向かって、徹底的に変改してしまう必要はないでしょうか……」
「と言うと、つまりどういうことになるのですか? 僕はまたわからなくなってしまいました」とミウーソフがさえぎった。「また何かの空想ですね。なんだか形がないようで、まるでわけがわかりませんよ。破門とはいったい何ですか、どういう破門なんです? 僕にはなんだか、おもしろ半分に言っていられるような気がしてなりませんよ、イワン・フョードロヴィッチ」
「ところが実は今でもそれは同じことですじゃ」と、突然長老が口をきったので、一同は一斉に彼のほうへふり向いた。「実際、今でもキリストの教えというものがなかったら、犯罪者の悪行にはなんらの抑制がなくなり、ひいてはそれに対する刑罰すらもなくなってしまったに違いないのじゃ。しかし刑罰といっても、ただいまあの人の言われたような、多くの場合、単に人の心をいらだたせるにすぎぬ機械的なものではなしに、本当の刑罰なのじゃ。つまり真に人を恐れおののかせると同時になだめ和らげるような、自分自身の良心の認識中に納められている本当の罰なのじゃ」
「それはどういうわけでしょうか? ひとつ伺いたいものでございます」とミウーソフは激しい好奇心にかられながら、こう尋ねた。
「それはこういうわけですじゃ」と長老は説き始めた。「すべてこの笞刑の後で流刑に処するというやり方は、けっして人を匡正することはできませんじゃ。何より困ったことには、ほとんどいかなる罪人にも恐怖の念を起こさせず、けっして犯罪の数を減少させることがないどころか、それは年を追うてますます増加する一方なのじゃ。これはあなたも御同意のはずですじゃ。で、つまり、このような方法では社会は少しも保護せられぬということになる。すなわち有害な人間が機械的に切り放されて、目も届かぬ遠方へ追放されるとしても、すぐそれにとって代わって別の犯罪者が一人、ないしは二人現われるからじゃ。もし現代において社会を保護するばかりか、罪人を匡正して別人に更生させるものが何かあるとすれば、それはやはり、自己の良心に含まれているキリストの掟にほかならぬ。ただキリストの社会、すなわち教会の子として自己の罪を自覚した時、はじめて犯人は社会、すなわち教会に対して、自己の罪を悟ることができるのじゃ。かようなわけで、ただ教会に対してのみ、現代の犯罪者は自己の罪を自覚するのであって、けっして国家に対して自覚するのではないのじゃ。そこで、もし裁判権が教会としての社会に属していたならば、どんな人間を追放から呼び戻して、再び社会へ入れたらよいかということは、ちゃんとわかっているはずじゃ。今では教会は単に精神的譴責のほか、なんら実際的な裁判権を持っておらぬから、犯人の実際的な処罰からはこちらで遠ざかっておるのじゃ。つまり犯人を破門するようなことはせずに、ただ父としての監視の目を放さぬまでじゃ。そのうえ、犯人に対してもつとめてキリスト教的な交わりを絶やさぬようにして、教会の勤行にも聖餐にも参列させるし、施物も分けてやる。そして罪人というよりはむしろ悪魔に魅入られた者として遇するのじゃ。もしキリスト教の社会、すなわち教会が、法律と同じように、罪人を排斥し放逐したならば、その罪人はそもそもどうなるであろう? おお神よ! もし教会がそのつど、国法による刑罰に次いですぐさま破門の罰を下したらどうであろう! 少なくともロシアの罪人にとって、これ以上の絶望はあるまい。なぜといって、ロシアの犯罪者はまだ信仰をもっているからじゃ。実際そのときにはどんな恐ろしいことがもちあがるかもしれぬ――犯罪者の絶望的な心に信仰が失われたら、そのときはどうなるのじゃ? しかし教会は優しいいつくしみ深い母親のように、実行的な処罰は差し控えておるのじゃ。さなきだに罪人は、国法によって恐ろしい刑罰を受けておるのじゃから、せめて誰か一人でもそれをあわれむ者がなくてはならぬ。しかし教会が処罰を差し控えるおもなる原因は、教会の裁判は真理を包蔵する唯一無二のものであって、したがって、たとえ一時的な妥協にもせよ、他のいかなる裁判とも本質的、精神的に結合することが不可能であるからじゃ。この場合いいかげんなごまかしはとうてい許されませぬ。なんでも、外国の犯人はあまり改悛するものがないとのことじゃ。つまり、それは現代の教育が、犯罪はその実犯罪ではなくて、ただ不正な圧制力に対する反抗である、という思想を鼓吹しておるからじゃ、社会は絶対の力をもって、全然機械的に犯罪者を自分から切り離してしまう。そしてこの追放には憎悪が伴う(少なくともヨーロッパでは、彼ら自身が言っておる)、憎悪ばかりでなくおのが同胞たる犯人の将来の運命に関する極度の無関心と忘却が伴うのじゃ。こういうありさまで、一事が万事教会側のいささかの憐愍もなしに取り行なわれる。それというのも多くの場合、外国には教会というものが全然なくなって、職業的な牧師と、壮麗な会堂の建物が残っておるにすぎぬからじゃ。教会そのものはとうの昔に、教会という下級の形から、国家という上級の形へ移るのにきゅうきゅうたるありさまで、やがては国家というものの中へ、すっかり姿を没してしまおうとしておるのじゃ。少なくともルーテル派の国々では、そのように思われる。ローマに至っては、もう千年このかた、教会に代わって国家が高唱されておる。それゆえ、犯人自身も教会の一員という自覚がないので、追放に処せられると絶望のどん底に投げこまれてしまうのじゃ。たとえ社会へ復帰することがあっても、しばしば非常な憎悪をいだいて帰るため、社会そのものが自分で自分を追放するようなことになってしまうのじゃ。これがどういう結果に終わるかは、御自身で御判断がつきましょう。わが国においても、だいたいこれと同じありさまのように思われなくもないのじゃが、ここに異なるところは、わが国には国法で定められた裁判の他に教会というものがあって、なんといってもやはり可愛い大切な息子じゃ、という風に犯罪者を眺めて、いついかなる場合にも交渉を断たぬことにしておる。なおそのうえに、思想的なもので、今は実際的なものでないにしても、未来のためにたとえ空想の中にでも生きている教会裁判なるものが保存されておって、これが疑いなく犯人によって本能的に認められておるのじゃ。ただいまのお話もまことにもっともなことですじゃ。つまり、もし教会裁判が実現されて、完全な力を行使する時が来たなら、すなわち全社会が教会そのものになってしまったならば、単に社会が罪人の匡正に、かつてそのためしのなかった影響を及ぼすばかりでなく、事実、犯罪そのものの数も異常なる割合をもって減少するじゃろう。疑いもなく教会は未来の犯罪者ならびに未来の犯罪をば、多くの場合、今とはまるで別な目をもって見るに至るじゃろう。そして追放された者を呼び戻し、悪だくみをいだく者を未然にいましめ、堕落した者を更生させることができるに違いない。実のところ、」とここで長老は微笑を浮かべた。「いまキリスト教の社会はまだ準備がすっかり整っておらぬので、ただ七人の義人を基礎として立っておるにすぎないのじゃが、しかしその義人の力はまだ衰えておらぬから、いまだほとんど異教的な団体から、全世界に君臨する唯一無二の教会に姿を変えようという期待は今はなおしっかりとつかんでおるのじゃ。これは必ず実現せられるべき約束のものなれば、よしや八千代の後なりとも、この願いのかないますように、アーメン、アーメン! ところで時節のために心を惑わすことはありませんのじゃ。時節や期限の秘密は、神の叡智と、神の先見と、神の愛の中に納められておるからじゃ。それに人間の考えではまだ遠いように思われることも、神の定めによれば、もう実現の間ぎわにあって、つい戸口へ来ておるのかもしれませんじゃ。おお、これこそ真にしかあらしめたまえ、アーメン、アーメン!」
「アーメン、アーメン!」とパイーシイ神父はうやうやしくおごそかに調子を合わせた。
「奇妙だ、実に奇妙だ!」とミウーソフは口走ったが、その声は熱しているというよりも、むしろ肚の底に何か憤懣を隠しているという風であった。
「何がそのように奇妙に思われますか?」と用心深くヨシフ神父が尋ねた。
「本当に、これはいったい何事です!」ミウーソフは突然、堰でも切れたように叫んだ。「地上の国家を排斥して、教会が国家の段階に登るなんて! それは法王集権論どころじゃなくなって、最上法王集権論だ! こんなことは法王グリゴリイ七世だって夢にも見なかったでしょうよ!」
「あなたはまるで正反対に解釈しておいでです!」とパイーシイ神父がいかつい声で言った。「教会が国家になるのではありません、このことを御了解ください。それはローマとその空想です。それは悪魔の第三の誘惑です! それとは正反対に、国家のほうが、教会に同化するのです、国家が教会の高さまで登って全世界にまたがる教会となってしまうのです。これは法王集権論とも、ローマとも、あなたの御解釈とも全然正反対で、これこそ地上におけるロシア正教の偉大なる使命なのです。やがて東のかなたよりこの明星が輝き始めるのであります」
ミウーソフはしかつめらしく押し黙っていた。その姿にはなみなみならぬもったいらしさが現われていた。高い所から見おろしたような、大様な微笑がその口辺に漂っていた。アリョーシャは激しく胸をおどらせながら始終の様子に注意していた。この会話のすべてが極度に彼を興奮させたのである。彼がふとラキーチンのほうを見やると、この男は依然として戸のそばにじっとたたずんだまま、眼こそ伏せてはいるが、注意深く耳を澄ましながらすべてを観察していた。しかしその頬に映えている紅潮によって、彼もアリョーシャに劣らず興奮していることが察せられた。彼が興奮している理由をアリョーシャはよく知っていた。
「失礼ですが、皆さん、ひとつちょっとした逸話をお話しいたしましょう」突然ミウーソフが格別もったいぶった様子で、意味深長に語りだした。「あれは十二月革命のすぐ後のことですから、もう幾年か前の話ですが、ある時、僕はパリである一人の非常に権勢のある政治家のところへ、私交上の訪問をしましたところ、そこできわめて興味ある人物に出会いました。この人物は普通の探偵というより、大ぜいの政治探偵の部隊を指揮している人で、ですから、やはり一種の権勢家なんですね。この人物と、ふとしたきっかけから、僕は好奇心にかられて、話を始めたのです。ところで、この人は別に知己として面会に来ていたわけではなく、ある種の報告を持って来た属官という資格でしたから、彼の長官の僕に対する応対ぶりを見て、幾分打ち解けた態度を示してくれました。しかしそれもむろんある程度までで、打ち解けたというより、むしろ慇懃な態度だったのです。実際、フランス人は慇懃な態度をとるすべを知っていますからね。それに僕を外国人と見てよけいそういう態度に出たのでしょうね。僕にはその人のいうことがよくわかりました。話題にのぼっていたのは、当時官憲から追跡されていた、社会主義の革命家たちのことでした。その話の本題は抜きにして、ただこの人がなんの気なしに口をすべらした、たいへんおもしろい解釈を御紹介いたしましょう。この人が言うことに、『われわれには無政府主義者だの、無神論者だの、革命家だのといった連中は、あまりたいして恐ろしくはありません。われわれはこの連中を絶えずつけ狙っていますから、彼らのやり口もわかりきっています。ところが、彼らの中に、ごく少数ではありますが、若干毛色の変わったやつがあります。それは神を信仰している立派なキリスト教徒で、しかもそれと同時に社会主義者なのです。こういう手合いこそわれわれが何より危険に思う、最も恐ろしい連中なのです! 社会主義のキリスト教徒は、社会主義の無神論者よりさらに恐ろしいものです』このことばはすでに、当時の僕を驚かしたものですが、今ここでお話を伺っているうちに、なぜか不意にそれを思い出しましたんで……」
「つまりあなたは、それはわたくしたちに当てはめて、われわれを社会主義者だとおっしゃるのですな?」とパイーシイ師は単刀直入に、いきなり聞きとがめた。しかし、ミウーソフが返事をしてやろうと思うより先に突然、戸があいて、ひどく遅刻したドミトリイ・フョードロヴィッチがはいって来た。実のところ、一同はいつとはなしに彼を待つことを忘れていたので、この不意の出現は最初の瞬間、驚愕の念を引き起こしたほどであった。
ドミトリイ・フョードロヴィッチは二十八歳で、気持のいい顔だちをした、中背の青年だったが、年よりはずっと老けて見えた。筋骨がたくましくて、すばらしい腕力を持っていることが察せられたが、それにもかかわらず、彼の顔にはなんとなく病的なところがうかがわれた。痩せた頬がこけて、何かしら不健康らしい黄色っぽい色つやをしている。少し飛び出した大きな暗色の眼は、見たところ、どこか執拗そうなまなざしであるが、その実何やらそわそわしている。興奮していらいらしながら話しているときでさえ、その眼の内部の気持に従わないで、何か別な、時とすると、その場の状況に全然そぐわない表情をあらわすことがあった。『あの男の肚の中はちょっとわからない』というのが、彼と話しをした人の批評である。またある人は、彼が物思わしげな、気むずかしそうな眼つきをしているなと思っていると、突然思いもかけず笑いだされて、めんくらうことがあった。つまり、そんな気むずかしそうな眼つきをしていると同時に、陽気なふざけた考えが彼の心中に潜んでいることの証拠である。もっとも、現に彼の顔つきが幾分病的に見えるのは、無理もない話である。彼がこのごろ恐ろしく不安な『遊蕩』生活に耽溺していることも、また曖昧な金のことで父親と喧嘩をして、非常にいらいらした気持になっていることも、等しく一同の者によくわかっていたからである。それについて町じゅうにいろいろな噂がもちあがっていた。もっとも、彼は生まれつき癇癪持ちで、『常軌を逸した突発的な性情』を持っていた。これは当市の判事セミヨン・イワーノヴィッチ・カチャリニコフが、ある集会の席で彼を批評したことばである、彼はフロックコートのボタンをきちんとかけて、黒の手袋をはめ、絹帽子を手に持って、申し分のない瀟洒な服装ではいって来た。つい最近退職したばかりの軍人のよくするように、口髭だけをたくわえて、頤鬚は今のところきれいに剃り落としている。暗色の髪は短く刈りこんで、顳のところだけちょっと前へ梳き出してあった。彼は軍隊式に活発な大またで歩いて来た。一瞬間、閾の上に立ち止まって、ひとわたり一同を見回すと、彼はそれがこの席の主人だと見てとって、いきなり長老のほうへつかつかと歩み寄った。彼は長老に向かって深く腰をかがめて祝福を乞うた。長老は立ち上がって彼に祝福を与えた。ドミトリイ・フョードロヴィッチはうやうやしくその手を接吻すると、恐ろしく興奮した、ほとんどいらいらしたような調子で口をきった。
「どうも、長らくお待たせいたしまして申しわけございません。実は父が使いによこしました下男のスメルジャコフに時間のことをくれぐれも念を押して尋ねましたところ、一時だと、はっきり二度まで答えましたので。ところが今不意に……」
「御心配には及びませんじゃ」と長老がさえぎった。「なあに、ちょっと遅刻されただけで、たいしたことはありませんじゃ……」
「まことに恐縮でございます。お優しいあなたのお心として、そうあろうとは存じておりましたが」そう言ってぶっきらぼうにことばを切ると、ドミトリイ・フョードロヴィッチはもう一度頭を下げた。それから急に父のほうを向いて、同じようなうやうやしい丁重な会釈をした。明らかに、彼は前からこの会釈のことをいろいろと考えたあげく、これによって自分の敬意と善良な意図を示すことを、自分の義務だと思いついたのである。不意を打たれてフョードル・パーヴロヴィッチはちょっとまごついたが、すぐに彼一流の活路を見いだした。ドミトリイ・フョードロヴィッチの会釈に対して、彼は椅子から立ち上がりざま、同じような丁寧な会釈をもって息子に報いた。その顔は急にものものしくしかつめらしくなったが、それがまたかえって非常に陰険な影を添えるのであった。それからドミトリイ・フョードロヴィッチは無言のまま、部屋の中にいる一同に会釈を一つして、例の活発な大またで窓のほうへ近寄ると、パイーシイ神父のそばにたった一つ残っていた椅子に腰をおろして、からだをすっかり乗り出すようにして、自分がさえぎった会話の続きを聞く身構えをした。
ドミトリイ・フョードロヴィッチの出席には、ほんの二分かそこいらしか暇どらなかったので、会話はすぐに続けられなければならぬはずであった。ところが今度は、パイーシイ神父の執拗な、ほとんどいらいらした質問に対して、ミウーソフはもう返事をする必要を認めなかった。
「どうか、この話はやめさせていただきたいもんですね」と彼は世間慣れたむとんじゃくな調子で言った。「それになかなかむずかしい問題ですからね。御覧なさい、イワン・フョードロヴィッチがこちらを見てにやにやしていますよ。きっとこの問題についても何かおもしろい説があるんでしょう。この人にひとつ聞いて御覧なさい」
「いや、ほんのちょっとした感想のほか、別に説というほどのことはないんですよ」とイワン・フョードロヴィッチはすぐに答えた。「一般にヨーロッパの自由主義ばかりでなく、ロシアの自由主義的素人道楽までが、久しい以前から、社会主義の結末とキリスト教の結末とをしばしば混同しています。こうした奇怪千万な推断は、もちろん、彼らの特性を暴露するものであります。しかし、つまるところ、社会主義とキリスト教とを混同するのは、単に自由主義者とディレッタントばかりではなく、多くの場合、憲兵もその仲間にはいるようですね。もっとも、これはもちろん外国の憲兵のことですが。ミウーソフさん、あなたのパリのお話にはなかなか妙味がありますよ」
「全体として、やはりこの問題はやめていただきたいですね」とミウーソフはくり返した。「その代わりに僕は、当のイワン・フョードロヴィッチに関する、非常に興味に富んだ、最も特性的な逸話を、もう一つ皆さんにお話しいたしましょう。つい五日ばかり前のことですが、当地の、おもに婦人ばかりの会話の席で、イワン・フョードロヴィッチは堂々と、こんな議論をはかれたのです。すなわち、地球上には人間同士の愛を強制するようなものはけっして存在しない。人類を愛すべしというような法則はけっしてない。もしこの地上に愛があるとすれば、またこれまであったとすれば、それは自然の法則によってではなく、人が自分の不死を信じていたからである――というのであります。そのうえ、イワン・フョードロヴィッチはちょっと括弧の中へはさんだような形で、こういうことを付け加えられました。つまり、この中にこそ自然の法則が全部含まれているので、人類から不死の信仰を滅ぼしてしまったならば、人類の愛がたちどころに枯死してしまうのみならず、この世の生活を続けていくために必要な、あらゆる生命力を失ってしまう。のみならず、その場合に不道徳というものは全然なくなって、どんなことをしても許される、人肉嗜食さえ許されるようになるというのです。まだ、そればかりではなく、現在のわれわれのように、神もおのれの不死をも信じない各個人にとって、自然の道徳律がこれまでの宗教的なものは全然正反対になって、悪行と言い得るほどの利己主義が人間に許されるのみならず、かえってそういう状態においては避けることのできない、最も合理的なしかも高尚な行為としてすら認められるだろう、という断定をもって結論とされたのであります。皆さん、このような逆説から推して、わが愛すべき奇人にして逆説家たるイワン・フョードロヴィッチの唱道され、かつ唱道せんとしておられる自余のすべての議論は、想像するにかたくないではありませんか」
「ちょっと」と突然ドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ、「聞き違えのないように伺っておきますが、『無神論者の立場から見ると、悪行は単に許されるばかりでなく、かえって最も必要な、最も賢い行為と認められる!』と、そういうのですか?」
「そのとおりです」とパイーシイ神父が言った。
「覚えておきましょう」
こう言うとすぐ、ドミトリイは黙りこんでしまった。それはやぶから棒のように話へ口を入れたと同じく、唐突だった。一座の者は好奇の眼眸を彼に注いだ。
「本当にあなたは人間が霊魂不滅の信仰を失ったら、そのような結果が生じるものと確信しておいでなのかな?」と、不意に長老がイワン・フョードロヴィッチに問いかけた。
「ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善行もありません」
「もしそう信じておられるのなら、あなたは幸福な人か、それともまた、恐ろしく薄倖な人かじゃ!」
「なぜ薄倖なのです?」イワン・フョードロヴィッチは薄笑いをした。
「なぜかといえば、あなたはどうやら自分の霊魂の不滅も、そればかりか自分で教会や教会問題について書かれたことも、信じておられぬらしいからじゃ」
「あるいは仰せのとおりかもしれません!……しかしそれでも、僕はまるきりふざけたわけではないのです……」と、イワン・フョードロヴィッチは不意に奇妙な調子で白状したが、その顔はさっと赤くなった。
「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心の内で決しられていないで、あなたの心を悩ましておるのじゃ。しかし、悩める者は、時には絶望のあまり、おのれの絶望を慰みとすることがある。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかも自分で自分の議論が信ぜられず、胸の痛みを感じながら、心の中でその議論を冷笑しておられるのじゃ……。実際あなたの心の中でこの問題は決しておらぬ。ここにあなたの大きな悲しみがある。なぜといえば、それが執拗に解決を強要するからじゃ……」
「これが僕の心中で解決されることがありましょうか? 肯定的に解決されることが?」依然としてえたいの知れぬ薄笑いを浮かべたまま、長老の顔を見つめながら、イワン・フョードロヴィッチは奇妙な質問を続けるのであった。
「もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定のほうへもけっして解決せられる時はない――こういうあなたの心の特性は、御自身でも承知しておられるじゃろう。これが、あなたの心の苦しみなのじゃ。しかしこういう苦しみを苦しむことのできる、高遠なる心をお授けくだされた創世主に感謝せられるがよい。『高きものに思いをめぐらし高きものを求めよ、なんとなればわれらのすみかは天国にあればなり』願わくば神の御恵みをもって、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そしてあなたの歩まれる道が神によって祝福せられますように!」
長老は手を上げて、その場からイワン・フョードロヴィッチに向かって十字を切ってやろうとした。しかしこちらは突然、椅子を立って長老に近寄り、その祝福を受けて、手を接吻すると、無言のまま自分の席へ戻った。彼の顔つきはしっかりしていてきまじめだった。このふるまいと、それに前述のイワン・フョードロヴィッチとしては思いもかけない長老との会話は、その謎のような点と、それにまた厳粛な点において一同を驚かした。人々は一瞬、声をひそめた。アリョーシャの顔にはほとんどおびえたような表情が浮かんだほどである。しかし、突然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それと同時にフョードル・パーヴロヴィッチは椅子から飛び上がった。
「神のごとく神聖な長老様!」こう彼はイワン・フョードロヴィッチを指しながら叫んだ。「これはわたくしの息子で、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛なる肉でございます! これはわたくしの、いわば最も尊敬すべきカルル・モールでございまして、こちらの――たった今はいってまいりました息子のドミトリイ・フョードロヴィッチ、つまり、こうしておさばきをお願いすることになりました当の相手でございますが――これは最も尊敬すべからざるフランツ・モールでございます――どちらもシルレルの『群盗』の中の人物でございますが――ところで、わたくしはさしずめ Regierender Graf von Moor の役回りでございます! どうか御判断のうえ、お助けを願います! あなた様のお祈りばかりでなく、御予言までお聞かせ願いたいのでございます」
「そのような気ちがいじみた物の言い方をなされぬがよい。また自分の家族をはずかしめるようなことばで、口をきるものではありませんじゃ」と長老は弱々しい疲れきった声で答えた。明らかに彼は、疲労が加わるにつれて、だんだん目に見えて気力を失っていった。
「愚にもつかない茶番です。それは僕がこちらへまいる道すがら、もう感づいていたことです!」と、ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤懣のあまり、そう叫ぶと、同じく席を飛び上がった。「お許しください、長老様!」と、彼はゾシマのほうへふり向いて「僕は無教育な男ですから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいかさえ知らないくらいですが、あなたはだまされていらっしゃるのです。わたくしどもにここへ集まることをお許しくだすったのは、あんまりお心が優しすぎたのです。親爺に必要なのは不体裁なばか騒ぎだけなんです。何のためか――それは親爺の方寸にあることです。親爺にはいつも自己流の打算があるのですから。しかし今になって、どうやらその目的が僕にわかってきたようです……」
「みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申します!」と今度はフョードル・パーヴロヴィッチのほうがわめき立てた。「現にミウーソフさんもわたくしを責めます。いやミウーソフさん、責めましたよ、責めましたよ!」と、不意に彼はミウーソフのほうをふり向いた。だがミウーソフは別に口出しをしたわけではないのである。「つまりわたくしが子供の金を靴の中へ隠してちょろまかしてしまったといって責めるのです。が、しかし裁判所というものがありますからね。ドミトリイ・フョードロヴィッチ、あすこへ出たら、おまえさんの書いた受け取りや手紙や契約書をもとにして、おまえさんのところに幾ら幾らあったか、おまえさんがいくらいくら使ったか、そして今、いくらいくら残っているかを、すっかり勘定してくれまさあね! ミウーソフさんが裁判にかけるのを嫌うわけは、ドミトリイ・フョードロヴィッチがこの人にとってもまんざらの他人ではないからですよ。それでみんながわたしに食ってかかるんですけれど、ドミトリイ・フョードロヴィッチは差し引きわたしに借りがあるのですぜ。それも少々のはした金じゃなくって、何千という額ですからな。それにはちゃんと証文があります! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうがひっくり返るほどの騒ぎですからなあ! それに、以前勤めておった町でも、良家の娘を誘惑するために、千の二千のという金を使ったもんでさあ。それはもう、ドミトリイ・フョードロヴィッチ、よっく承知しとりますよ、ごく内密な詳しいことまで知っとりますよ、わしが立派に証明してみせますよ……神聖な長老様。あなたは本当になさるまいけれど、この男は高潔無比な良家の娘を迷わしたのでございます。父御というのは自分の以前の長官で、聖アンナ利剣章を首にかけた、勲功の誉れ高い勇敢な大佐なのです。そのお嬢さんに結婚を申しこんでひどい目にあわせたために、当の令嬢は今孤児としてこの町に暮らしております。もう許婚のあいだがらであるくせに、あれはその女を目の前に置いて、この町の淫売女のところへ通っておるのでございます。もっともこの淫売女はさる立派な男といわば内縁関係を結んでいて、それになかなか気性のしっかりした女ですから、誰にかけても難攻不落の要塞で、まあ正妻も同じこってさあ。なにしろ貞淑な女ですからなあ、全く! ねえ、神父さんがた、実に貞淑な女でございますよ! ところがドミトリイ・フョードロヴィッチはこの要塞を黄金の鍵でもってあけようとしておるのですよ、そのために今わたくしを相手に力み返っておりますので。つまり、わたくしから金をもぎ取ろうとたくらんでおるのでございます。もうこれまでにも、この淫売のために何千という金を湯水のようにつぎこんでおるのですからなあ。だから、のべつ借金ばかりしているんです。しかも誰から借りているんだとお思いになります! なあミーチャ、言おうか言うまいか?」
「お黙りなさい!」とドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ。「僕の出て行くまで待ってください。僕のいる前で純潔な処女をけがすようなことは言わせません……。あなたがあの女のことをおくびに出したという一事だけでも、あの女の身のけがれです……僕は断じて許しません!」
彼は息をはずませていた。
「ミーチャ! ミーチャ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチは弱々しい神経的な声で、涙を無理に絞り出しながら叫んだ。「いったい生みの親の祝福は何のためなんだ? もしわしがおまえをのろったら、そのときはどうなるのだ?」
「恥知らずな偽善者!」と、ドミトリイ・フョードロヴィッチは狂暴にどなりつけた。
「これが父親に、現在の父親に向かって言う言いぐさですもの、他の人にどんなことをするかわかったもんじゃありません! 皆さん、ここに一人の退職大尉があります。貧乏だが尊敬すべき人物です。思いがけない災難のため退職を命ぜられましたが、公けに軍法会議に付せられたわけではなく、名誉は立派に保持されていたのです。いま大ぜいの家族をかかえて難渋しております。ちょうど三週間前ドミトリイ・フョードロヴィッチがある酒屋で、この人の髯をつかんで往来へ引っ張り出して、人前でさんざん打擲したのでございます。それというのも、その人がちょっとした用件で、内密にわたくしの代理人を勤めたからのことで」
「それはみんな嘘です! 外見は事実だが、内面から見ると嘘の皮です!」ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤怒に全身をわなわなと震わせた。「お父さん、僕は自分のふるまいを弁解するわけではありません。いや、皆さんの前でまっすぐに白状します。僕はその大尉に対して獣のようなふるまいをしました。今でもあの獣のような憤りを悔やんで、自分に愛想をつかしているくらいです。しかしあなたの代理人とかいうあの大尉は、今お父さんが淫売だといわれた当の婦人のもとへ行って、もし僕があまりうるさく財産の清算を迫るような場合には、あなたのところにある僕の手形をその婦人が引き受けて、訴訟を起こして、僕を監獄へぶちこんでくれるようにと、あなたの名前をもって申し入れたのです。お父さんは僕がこの婦人に対して弱みを持っていると非難されましたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑させたのじゃありませんか! ええ、あの女は僕に面と向かって話しましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕を嫉妬んでいるからです。それは、あなた自身があの婦人に変な気持を起こして付きまとい始めたからです。そのこともやはり、あの女が笑いながら話して聞かせたから、僕は百も承知しているのです――いいですか、あなたのことを笑いながら、話して聞かせたんですよ。神父さんがた、このとおりです。放蕩息子をとがめ立てる父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の癇癪を許してください。しかし僕は初めからこの狸爺が、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さん御一同をここへ呼んだのだってことは、ちゃんと感づいていたのです。僕はもし親爺が折れて出てくれたら、こちらから許しもし、また許しを乞おうとも思ってやって来たのです。ところが今、親爺は僕一人ならともかく、僕が尊敬のあまりゆえなくしてその名前を口にすることさえはばかっている、純潔無比な処女まではずかしめましたから、こちらもこの男のからくりを皆さんの前へすっかり暴露してやる気になったのです。僕にとっては肉身の父なんですけれど……」
彼はそれ以上続けることができなかった。眼はぎらぎらと光り、息使いも苦しそうだった。しかし僧房の中にいた一座の人々も動乱していた。長老以外の一同の者は不安にかられて席を立った。二人の僧はいかつい眼を瞠っていたが、それでもなお長老の意見を待っていた。当の長老はまっさおな顔をして坐っていたが、それは興奮のためではなく、病躯の衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇に漂っていた。彼は猛り狂う人々を押しとどめようとするもののように、ときどき手を振りかざすのであった。もちろんその身ぶり一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよくのみこんでおこうとするかのように、じっと視線を凝らしながら、何事かを待っていた。とうとうミウーソフは、決定的に自分がはずかしめられ、けがれたような心持を覚えた。
「この醜態の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した口調で語りだした。「しかし僕はここへ来る道すがらも、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたけれど……これは即刻けりをつけなくちゃなりません! 猊下、どうぞ信じてください。僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです……全く今が初耳なのです……現在の父親が卑しい稼業の女のことで息子を嫉妬して、当の売女とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて……。僕はこんな連中と共にこちらへまいるように仕向けられたのです……だまされたのです、皆さんの前で言明します、僕は誰にも劣らずだまされたのです……」
「ドミトリイ・フョードロヴィッチ」突然、フョードル・パーヴロヴィッチが、何かまるで借物のような声を振り絞った。「もし、おまえさんがわたしの息子でなかったら、わたしは即刻、おまえさんに決闘を申しこむところなんだ……武器は拳銃、距離は三歩……ハンカチを上からかぶせてな……ハンカチを!」彼はじだんだを踏みながら、ことばを結んだ。
こうした、生涯を茶番狂言に終始した嘘つき親爺でも、興奮のあまり実際に身震いをして泣きだすほどの、真に迫った心持になる瞬間があるものである。もっともその瞬間(もしくはほんの一秒もしてから)に、『えい、恥知らずの老いぼれめ、貴様がどんなに『神聖な』怒りだの『神聖な』怒りの瞬間を感じたって、やっぱり貴様は嘘をついているのだ、今でも茶番をやっているのだ』と肚の中でつぶやくのではあるが。
ドミトリイ・フョードロヴィッチは恐ろしく顔をしかめて、なんとも言いようのない侮蔑の色を浮かべながら、父をちらっと眺めた。
「僕は……僕は」と彼は妙に静かな、押えつけるような声で言った。「僕は故郷へ帰ったら、自分の心の天使ともいうべき未来の妻といっしょに、父の老後を慰めようと思っていたのです。ところが来てみると、父は放埒きわまる色情狂で、しかも卑劣この上もない茶番師なんです!」
「決闘だ!」と老爺は息を切らしながら、一語一語に唾をはね飛ばしながら、わめき声をあげた。「ところで、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフさん、今あなたが大胆にも『売女』呼ばわりをなされた、あの女ほど、高尚で潔白な――いいですか、潔白なと言っているんですよ――婦人は、あなたの御一門にはおそらく一人もございますまいて! それから、ドミトリイ・フョードロヴィッチ、おまえさんが自分の許婚をあの『売女』に見かえたところをみると、つまりおまえさんの許婚でさえ、あの『売女』の靴の裏ほどの値打ちもないと、自分で考えたわけだね。あの『売女』はこういうえらい女だて!」
「恥ずかしいことです!」と、突然ヨシフ神父が口走った。
「恥ずかしい、そしてけがらわしいことです!」終始、無言でいたカルガーノフが突然、まっかになって、子供っぽい声を震わせながら、大きく興奮のあまりこう叫んだ。
「どうしてこんな男が生きているんだ!」ほとんど猫になるくらい、むしょうに肩をそびやかしながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤怒のために前後を忘れて、うつろなほえるような声で言った。「もうだめだ、なおこのうえ大地を汚させておいてよいとおっしゃるんですか」片手で長老を指しながら、彼は一同を見回した。彼のことばはおだやかで整然としていた。
「聞きましたか、お坊さんがた、父殺しの言うことを聞きましたか!」と、フョードルはだしぬけに今度はヨシフ神父に食ってかかった。「これがあなたの『恥ずかしいこと』に対する返答ですよ! 何がいったい恥ずかしいことです? あの『売女』は、あの『卑しい稼業の女』は、こうしてここで行ない澄ましてござるあなたがたより、ずっと神聖かもしれませんよ! 若い時分には周囲の感化で堕落したかもしれないが、その代わりあの女は『多くのものを愛し』ましたよ。多く愛したるものは、キリストもお許しになりましたからな……」
「キリストがお許しになったのは、そのような愛のためではありません……」温順なヨシフ神父もこらえきれないで、思わずこう言った。
「いいや、お坊さんがた、そういう愛のためです。てっきりそういう愛ですとも! あなたがたはここでキャベツの行をして、それでもう上人だと思っていなさる! ※[#「魚+夫」、U+29D69、139-2]を食べてからに、一日に一尾ずつ※[#「魚+夫」、U+29D69、139-3]を食べてからに、※[#「魚+夫」、U+29D69、139-3]で神様が買えると思っていなさるのだ!」
「もう我慢がならん、もう我慢がならん!」そういう声が僧房の四方からわきあがった。
しかし、醜態の極にまで達したこの場面は、全く思いもかけぬ出来事によって中断された。突然、長老が席を立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほとんど度を失ってしまっていたアリョーシャは、それでもかろうじて、その手をささえることができた。長老はドミトリイ・フョードロヴィッチのほうへと歩き出した。そしてぴったりそばまで近寄ったとき、彼はその前にひざまずいたのである。アリョーシャは長老が力萎えて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつくと、そのままドミトリイ・フョードロヴィッチの足もとへぬかずいて、額が地につくほど丁寧な、きっぱりした、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっかりめんくらってしまって、長老が立ち上がろうとしたときも、助け起こすことを忘れていたほどである。かすかな微笑がその口辺にわずかに漂っていた。
「御免くだされ! 皆さん、御免くだされ!」と彼は四方に向かって、来客一同に会釈をしながら言った。ドミトリイ・フョードロヴィッチはしばらくのあいだ、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。おれの足もとに礼拝するなんて、いったいどうしたことだろう? が、とうとう不意に『ああ神様!』と叫びざま、両手で顔をおおって、部屋の外へ駆け出してしまった。それに続いて来客一同も、あわててうっかり主人に挨拶も会釈もしないで、どやどやと外へ出てしまったのである。ただ二人の僧だけは、再び祝福を受けるために長老のそばへ近寄った。
「あの、長老が足にお辞儀をしたのはいったい何事でしょう、何かの象徴でしょうかなあ?」なぜか急におとなしくなったフョードル・パーヴロヴィッチが、まだ会話のいとぐちを見つけようとした。しかし特別、誰に向かって話しかけようという勇気もなかった。ちょうど一行はこのとき庵室の囲いの外へ出ようとするところであった。
「僕は瘋癲病院や狂人どもに対しては責任を持ちませんよ」と、ミウーソフがいきなりむかっ腹を立てて答えた。「しかしその代わり、あなたと同席はまっぴら御免こうむりますよ、フョードル・パーヴロヴィッチ。それも、いいですか、永久にですよ。それはそうと、さっきのあの坊主はどこへ行ったんだろう?」
しかし、先刻、修道院長からの食事の招待を伝えた『あの坊主』はあまり長く待たせはしなかった。一行が長老の庵室の階段をおりると、すぐに彼は、まるでずっとそこに待ち受けていたように、さっそく出迎えたのである。
「神父さん、まことに恐縮ですが、わたくしの深い尊敬を修道院長にお伝えくだすったうえで、急に思いがけない事情が起こりましたため、まことに残念ですけれど、どうしても、お食事をいただくわけにまいりませんからと、このミウーソフになり代わって、あなたからよろしくおわびをしてくださいませんか」と、いらいらした調子のミウーソフは僧に向かって言った。
「その思いがけない事情というのは、わしのことでがしょう!」とすぐにフョードル・パーヴロヴィッチがあげ足を取った。「もし神父さん、このミウーソフさんはね、わしといっしょに残りたくないから、ああ言われるんですよ。さもなければ、すぐに出かけられるはずなんで。ね、だからおいでなさいよ、ミウーソフさん、修道院長のとこへ顔をお出しなさい、そして――よろしく召しあがれ! ようがすかね、あんたよりわしのほうが御免をこうむりますわい。帰ります、帰ります、帰って家で食べましょうわい。ここではとてもそんな勇気がありませんからなあ、うちの大切な親類のミウーソフさん」
「僕はあなたと親類でもないし、これまで親類だったこともありませんよ、本当にあなたはげすな人だ!」
「わしはあんたを怒らせようと思って、わざと言ったんですよ。だって、あんたは親類だと言われるのが、ばかにお嫌いですからな。しかし、あんたがなんとごまかしなさっても、やっぱり親類にはちがいありませんよ。それは寺暦を繰ってみれば証明できまさあね。ところがイワン・フョードロヴィッチ、おまえもなんなら残るがいいよ、わしが時刻を見はからって馬車をよこしてやるからな。ミウーソフさん、あなたは礼儀からいっても、修道院長のとこへ顔を出さなくちゃなりませんて、そしてわしたちがあんたと長老のところで騒いだことを、おわびしなくちゃなりませんて……」
「あなたは本当に帰るんですか? 嘘をおっしゃるんじゃありませんね?」
「ミウーソフさん、あんなことのあった後で、どうしてそんな元気があるものですか。つい夢中になったのです、ほんとに御免なさい、皆さん、夢中になってしまったのです、おまけに打ちのめされたのですからな! ほんとに恥ずかしいことです。ねえ、皆さん、人によっては、マケドニア王アレクサンドルのような心を持っておるかと思えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな根性を持ったのもあります。わしの心はフィデルコの犬のほうでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ! あんなろうぜきを演じた後で、どの面さげてお食事に出たり、お寺のソースをたいらげたりできますかい? とても恥ずかしくって、そんなことはできませんよ、失礼します!」
「とんとわけのわからない男だ、あるいはいっぱいくわすのかもしれないぞ!」だんだん遠ざかって行く道化者をけげんな眼つきで見送りながら、ミウーソフは思案にくれた。フョードル・パーヴロヴィッチはふり返って相手が自分を見送っているのに気がつくと、投げ接吻を送るのであった。
「いったい君は修道院長のところへ行くのですか?」と、ミウーソフはぶっきらぼうにイワン・フョードロヴィッチに尋ねた。
「どうして行かないわけがありましょう? それに、僕は昨日から修道院長に特別な招待を受けているのですからね」
「不幸にして、僕も同様、あのいまいましいお食事に、いやでも出席しなければならないように思うのですよ」とミウーソフは、僧が聞いているのもおかまいなく、例のにがにがしそうないらだたしい調子で語をついだ。「それにわれわれがしでかしたことをあやまったうえで、あれは僕たちのせいでないことを、説明するためにもねえ……君はどう思いますか?」
「そう、あれが僕たちのせいでないことを、明らかにする必要がありますね。それに親父も出ないことですから」とイワン・フョードロヴィッチが答えた。
「そうさ、君の親父さんがいっしょでたまるもんか! 本当にいまいましい食事だよ!」
だがしかし、一同は先へ進んで行った。僧は押し黙って、耳をすましていた。たった一度だけ、森を通って行く道すがら、修道院長がずっと前から一行を待っていることと、もう半時間以上も遅くなっていることを注意しただけであった。誰ひとりそれに答えるものはなかった。ミウーソフは憎々しげにイワン・フョードロヴィッチを見やりながら、
『まるで何事もなかったように、しゃあしゃあとしてお食事へ出ようとしていやがる!』こう肚の中で考えた。『鉄面皮即カラマゾフ的良心だ!』
アリョーシャは長老を寝室へ助け導いて寝台の上へ坐らせた。それは、ほんのなくてはならぬ家具を並べただけの、ささやかな部屋であった。寝台は幅の狭い、鉄製のもので、その上には蒲団の代わりに毛氈が一枚だけ敷いてあった。片隅には、聖像の前に経机がすわっていて、十字架と福音書とが載せてある。長老は力なく寝台の上に腰をおろしたが、その眼はぎらぎらと光って、息づかいも苦しそうであった。坐ると、彼は何か思いめぐらすように、じっとアリョーシャを見つめるのであった。
「行っておいで、な、行っておいで。わしのそばにはポルフィーリイが一人おればたくさんじゃ、おまえは急いで行くがよい。おまえはあちらで入用な人じゃ、修道院長のお食事へ行って給仕するがよい」
「お願いですから、ここにおれとおっしゃってくださいまし」と、アリョーシャは嘆願するような声で言った。
「おまえはあちらでよけい入用なのじゃ。あちらには人の和がない。お給仕をしておったら、何かの役に立とうもしれぬ。騒擾がもちあがったら、お祈りをするがよい。それにな、倅(長老は好んで彼をこう呼んだ)このさきここは、おまえのいるべき場所ではないぞ。よいか、それをよく覚えておるがよい。神様がわしをお召しになったら、すぐさまこの修道院を去るのじゃぞ。すっかり去ってしまうのじゃぞ」
アリョーシャはぎくりとした。
「どうしたのじゃ? 当分ここはおまえのおるべき場所ではないのじゃ。おまえが娑婆で大きな難業に耐えるように、今わしが祝福してやる。おまえはまだまだ長い修行をすべき運命なのじゃ。妻も娶らねばならぬはずじゃ、どうしても。そして再びここへ来るまでには、まだいろいろ多くのことを耐え忍ばねばならぬのじゃぞ。それに、なすべき仕事もたくさんあるじゃろう。しかし、わしはおまえという者を信じて疑わぬから、それでおまえを娑婆へ送るのじゃ。おまえにはキリストがついておられる。心してキリストをお守り申すがよい、さすればキリストもおまえを守りたまうじゃろう! 大いなる悲しみに出会うでもあろうが、その悲しみの中にこそ幸福を見いだすじゃろう。これがわしの遺言じゃ、――悲しみの中に幸福を求めるがよい。働け、たゆみなく働け。よいか、今からこのことばを覚えておくのじゃぞ、まだおまえとは話をすることもあろうけれど、わしの命数はもはや日限でなく、時刻で数えあげられておるのじゃから」
アリョーシャの顔には再び激しい動乱の色が現われた。唇の両隅がぴくぴくと震えた。
「またおまえはどうしたのじゃ?」と長老は静かにほほえんだ。「俗世の人が涙で亡き人を送ろうとも、われわれ沙門は神に召された法師を喜んでやればよいのじゃ。喜んでその冥福を祈ればよいのじゃ。さ、わしを一人にしておいてくれ、お祈りをせねばならぬからな。急いで行くがよい。兄のそばについておるのじゃぞ、それも片方だけでなく、両方の兄のそばにおるのじゃぞ」
長老は祝福のために手を上げた。アリョーシャはむしょうにそこに居残りたかったけれど、ことばを返すわけにはいかなかった。そのうえ、長老が兄ドミトリイに向かって、地にぬかずいて礼拝したのはどういう意味か、それが聞いてみたくて、危うく口をすべらせるところであったが、しかし思いきって問いかけることができなかった。もしそれがかなうことなら、尋ねるまでもなく長老のほうから説明してくれるはずであった。つまり、長老にはそうする意志がなかったのである。しかし、あの礼拝は恐ろしくアリョーシャの心を打った。彼はその中に神秘的な意味の伏在することを、盲目的に信じていた。神秘的な、そしてまた恐ろしい意味かもしれない。修道院長の昼餐の始まるまでにと思って(もちろん、ただ食卓に侍するために)修道院をさして庵室の囲いの外へ出た時、急に心臓を激しく締めつけられるように覚えて、彼はその場に立ちすくんでしまった。間近に迫った自分の死を予言した長老のことばが、再び彼の耳もとで響くような気がしたのだ。長老の予言、しかもあれほどきっぱりした予言は、必ずや実現するに違いない。それはあくまでアリョーシャの信じて疑わぬところであった。しかし、この人なき後の彼はどうなるだろう? その姿を見、その声に接することなく、どうして生きられよう? それにどこへ行ったらいいのだろう? 泣かずに修道院を出て行けと長老は命じているのだ! アリョーシャはもう長いあいだこんな悩みを経験したことがなかった。彼は修道院と庵室を隔てている木立ちのあいだを急ぎ足に進みながらも、おのれの想念を持ちこたえることができなかった。それほど彼は、その思いに心を挫がれていたのである。彼は道の両側に連なる、幾百年を経た松の並木をじっと眺めた。その道程はたいして遠くはなく、わずか五百歩ばかりにすぎなかったが、こんな時刻に誰ひとり出会わす者はあるまいと思っていたのに、突然、最初の曲がり角でラキーチンの姿を認めた。彼は誰かを待ち受けていたのである。
「僕を待ってるんじゃないかい?」アリョーシャはラキーチンと並び立つとこう尋ねた。
「まさしくそのとおり、君をさ」ラキーチンはにやりと笑った。「修道院長のところへ急いでるんだろう、知ってるよ。供応があるんだからね。大主教がパハートフ将軍といっしょに来られたとき以来、あれほどの御馳走は今までなかったくらいだ。僕はあんなところへ行くのは御免だが、君はひとつ出かけて、ソースでも配りたまえ。ただ、一つ聞きたいことがあるんだ。いったいあの寝言はなんのことだい? 僕はそれが聞きたかったのさ」
「寝言って何?」
「あの、君の兄さんの、ドミトリイ・フョードロヴィッチに向かって、地にぬかずいてお辞儀をしたやつさ。おまけに額がこつんといったじゃないか!」
「それは君、ゾシマ長老のことなの?」
「ああ、ゾシマ長老のことだよ」
「額がこつんだって?」
「ははあ、言い方がぞんざいだというのかい! まあ、ぞんざいだっていいやね。で、いったいあの寝言は何を意味するんだ?」
「知らないよ、ミーシャ、何のことだかさっぱり!」
「そうだろう、長老が君に話して聞かせるはずはないと思ったよ。もちろん、何もむずかしい問題ではないのさ。いつもお決まりのありがたいたわごとにすぎないらしい。しかし、あの手品はわざとこしらえたものなんだぜ。今にみたまえ、町じゅうのありがたや連が騒ぎだして、県下一帯にもち回るから。『いったいあの寝言はなんの意味だろう?』ってんでね。ところが、あのお爺さんなかなか観察眼が鋭いよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。全く君の家は少々臭いぜ」
「犯罪ってどんな?」
ラキーチンには何やら話したいことがあるらしかった。
「君の家で起こるのさ、その犯罪めいたものが。それは君の二人の兄さんと、裕福な君の親爺さんのあいだに起こるんだよ。それでゾシマ長老も万一の場合を慮って、額でこつんをやったのさ。後で何か起こったときに、『ああ、なるほど、あの上人が予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あの爺さんが額でこつんとやったのは、予言でもなんでもありゃしないよ。ところが、世間では、いやあれは象徴だの諷刺だのと、くだらないことをいうのさ! そして犯罪を未然に察したとか、犯人の目星をつけたとか言いふらすのだ。宗教的奇人なんてものはみんなそうなんだよ。居酒屋に向かって十字を切って、お寺へ石を投げつけるってやつさ、君の長老もそのたぐいで、正直なものは棒で追っぱらいながら、人殺しの足もとにはいつくばるってね」
「どんな犯罪なの? 人殺しって誰のことだい?」アリョーシャは釘づけにされたように棒立ちになった。ラキーチンも立ち止まった。
「どんなって? いやに白ばくれるね? 君がもうこのことを考えてるってこたあ、賭をしてもいいよ。しかし、こいつぁあちょっとおもしろい問題だ。ねえアリョーシャ、君はいつも二股膏薬だけれど、とにかく本当のことを言うから、聞いてみるんだが、いったい君はこのことを考えてたのか、それとも考えていなかったのかい?」
「考えてたよ」とアリョーシャは低い声で答えた。で、ラキーチンのほうがいささかめんくらった形だ。
「なんだって? 君は本当にもう考えてたのかい?」と彼は叫んだ。
「僕は……僕は別に考えていたっていうわけじゃないけれど」と、アリョーシャはつぶやくように答えた。「いま君があんな変なことを言いだしたので、なんだか僕自身もそんなことを考えていたような気がしたのさ」
「ほうら(君ははっきり言い表わしたんだよ)ほうらね? 今日お父さんとミーチェンカ兄さんを見ているうちに、犯罪のことを考えたんだろ? してみると、僕の推察に誤りはないだろう?」
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ」とアリョーシャは気づかわしげにさえぎった。「君はどういうところからそんな風に考えるの?……なんだって君はそんなことばかり気にするのだ。これがまず第一の問題だよ」
「その二つの質問はまるで別々の問題だが、しかしもっともなことなんだよ。おのおの別々に答えよう。まずどういうところから感づいたかといえば、今日君の兄さんドミトリイ・フョードロヴィッチの赤裸々の正体を、突然、一瞬のあいだにすっかり見抜いてしまったからだ。さもなければ、こんなことを感づくはずはなかったのさ。つまり、何かしらちょっとしたきっかけから、すっかりあの人の全貌をつかんでしまったのさ。ああいう正直いちずで、しかも情欲の盛んな人には、けっして踏み越えてならない一線があるのだ。全くあの人は、いつどんなことで親爺さんを刀でぐさりとやらないとも限らないよ。ところが、親爺さんは酔っ払いの放埒な道楽者で、何事につけてもけっして度というものがわからない――そこでお互いにおのれを制するということがないから、あっという間に溝の中へまっさかさまに……」
「違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら。僕も安心したよ。そこまではいきゃしないから」
「なんだって君は、そんなにぶるぶる震えてるんだい? いったい君にこういうことがわかるかい? よしやあの人が、ミーチェンカが正直な人だとしても(あの人はばかだけれど正直だよ)、しかし、あの人は好色だからね。これがあの人に対する完全な定義だ、あの人の内面的本質だ。これは、親爺さんからあの人が下劣な肉欲を受け継いだからだよ。僕はただ君にだけに驚いてるよ、アリョーシャ。君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって君もやっぱりカラマゾフ一族じゃないか! 君の家では肉欲が炎症ともいうべき程度に達してるんだものね。ところが、今三人の好色漢がどうどうめぐりをやっている……短刀を長靴の中に隠してね。こうして三人が鉢合わせをしたんだが、君はあるいは第四の好色漢かもしれないぜ」
「君はあの女のことを思い違いしているよ。ミーチャはあの女を……軽蔑しているんだ」妙に身震いをしながらアリョーシャがこう言った。
「グルーシェンカをかい? ううん、君、軽蔑しちゃいないよ。現在自分の花嫁を公然とあの女に見変えた以上、けっして軽蔑しているとはいえないよ。ここには……ここには……今のところ君に理解のできないあるものが存するのさ。もしここである男が一種の美、つまり女の肉体、もしくは肉体のある一部分に迷いこんだとしたら(これは好色家でなくてはわからないことだが)、そのためには自分の子供でも渡してしまう、父母も祖国ロシアも売ってしまうのだ。正直でありながら盗みをやる、温良でありながら人殺しをする、誠実でありながら裏切りを犯す。女の足の詩人プウシキンは、自分の詩の中で女の足を歌っている。ほかの連中は歌いこそしないが、女の足を見ては戦慄を禁ずることができないのだ。しかし、足だけには限らないがね……だから、あの人がグルーシェンカを軽蔑してるに決まっていても、この際、軽蔑なぞ何の役にも立ちはしないさ。軽蔑しているくせに、離れることができないんだ」
「それは僕にもわかる」と、アリョーシャがだしぬけに口をすべらせた。
「へえ? 君がそんなにいきなり、わかるって言ってのけたところをみると、君はこのことが本当にわかってるんだね」と、ラキーチンは意地悪くほくそえみながら言った。「君は今、何の気なしに、ふいと口をすべらせたんだが、それだけ君の告白はよけいに尊いんだよ。つまりこの問題はもう君にはお馴染なんだね。この肉欲ということを、もう考えてたんだね! おやおや、たいへんな童貞だよ! と言いたくなるね。ねえ、アリョーシュカ、君がおとなしい聖かい人間だってことには、僕も異存はないが、おとなしいくせに君はたいへんなことを考えてるんだね、本当にたいへんなことを君は知ってるんだね! 童貞でありながら、もうそんな深刻なところへ進んでいるんだ。それは僕も前から気づいていたよ。君自体やはりカラマゾフだ、完全無欠なカラマゾフだ――つまり何か血統とでもいうのかなあ。親父のほうからは好色の、母親のほうからは宗教的奇人の性質を受け継いだんだ。何を震えるんだ? それとも図星をさされたのかい。ときにね君、グルーシェンカが僕に頼んだんだぜ、『あの人を(つまり君のことさ)連れて来てちょうだい、あたしあの人の法衣を脱がしちゃうから』ってさ。そりゃあ、全く熱心に頼むんだ、連れて来い連れて来いって! 僕あ考えちまったよ、なんだってこの女は、こうまで君に興味を持つのかと思ってさ。ねえ君、あれであの女も、なかなか非凡な女だよ!」
「よろしく言って、僕は行かないと伝えてくれたまえ」ここでアリョーシャは苦笑いをした。「それよりかミーシャ、言いさしたことを話してしまいたまえ。後で僕の考えを話すから」
「話してしまうもしまわないもありゃしない、何もかも明白だあね。こんなこたあ古臭い話だよ。もし君の中に好色漢が隠れているとすれば、同腹の兄さんのイワンはどうだろう? あの人もやはりカラマゾフだからね。ここに君たちカラマゾフ一族の問題が潜んでいるのさ。――好色漢と、守銭奴と、宗教的奇人か! 今イワン君は無神論者のくせに、何か恐ろしくばかげた、わけのわからない目算のために、神学的な論文を冗談半分に雑誌に載せている。そしてその陋劣さを、自分でちゃんと承知しているのだ。それにまだ、兄のミーチャから花嫁を横取りしようとしているが、たぶんこの目的は成功するだろう。しかもそのやり口はといえば、当のミーチェンカから承諾を得たうえなんだからなあ。それというのも、ミーチェンカはただいちずに許嫁のきずなを逃がれて、グルーシェンカのもとへ走りたいばっかりに、自分から進んで未来の妻を譲ろうとしているからだ。しかもそれを清廉潔白な気持でやっているのだから、注目に値するよ。いや、全くそろいもそろって因果な連中だ! こうなっては、何が何やらとんとわからなくなるよ。自分の陋劣を自覚しながら、その陋劣の中へもぐりこんでいくのだからな! まあ、その先を聞きたまえ。今ミーチャの行く手をふさいでいるのは、老いぼれの親父だ。あの親父さん、このごろ急にグルーシェンカに血道をあげて、あの女の顔を見ただけで、涎をだらだら流してるじゃないか。親父さんがいま庵室で大乱痴気を演じたのも、ただミウーソフが、無遠慮にあの女のことを淫売だなんて言ったからさ。まるでさかりのついた猫より下劣だ。以前あの女は何か後ろ暗い、酒場に関係したことで、親父さんに雇われていただけなんだが、いまごろ急にその容色に気がついて、狂気のようにのぼせあがって口説きおとしにかかったんだ、もちろん、その口説も真正直なものではないさ。だから、この二人は、――親父さんと兄さんとは、どの道、衝突せずにいられないよ。ところがグルーシェンカのほうは、どっちつかずの曖昧なことで二人をごまかして、両方をからかってるんだ。そして、どっちが得だか日和見をしているのさ。なぜって、親父さんのほうからは金が引き出せるけれど、その代わり結婚はしてくれず、とどのつまりは、ユダヤ人式のやり口で、財布の口を締めてしまうかもしれない。こうなるとミーチャにも独自の価値が生じてくる。金はないが、その代わり結婚することができる。そうだ、結婚することができるのだ! 自分の許嫁の、比類まれな美人で、金持ちで、貴族で、大佐令嬢たるカテリーナ・イワーノヴナをすてて、町長のサムソノフという[#「サムソノフという」は底本では「サムリノフという」]狒々爺の小商人に囲われていた、グルーシェンカと結婚するんだ。こうしたすべての事情から、本当に何か犯罪めいた衝突が起こるかもしれないよ。ところが、君の兄さんのイワンはそれを待ち構えているんだ。そうなれば思うつぼにはまるんだからな。痩せるほど思っているカテリーナ・イワーノヴナも手にはいれば、六万ルーブルというあの女の持参金もたぐり寄せられようという肚だ。イワン君のようなすかんぴんにとって、これだけの金高は手始めとしてなかなか悪くないよ。おまけに、それがミーチャを侮辱しないばかりか、かえって一生恩に着られるというものだ。僕はよく知っている。つい先週ミーチェンカがある料理屋で、ジプシイの女たちといっしょに酔いつぶれたあげく、自分はカーチャを妻にする値打ちがないけれど、弟のイワンなら立派にその資格があると自分で大きな声でどなったんだもの、当のカテリーナ・イワーノヴナにしても、イワン・フョードロヴィッチのような誘惑者にかかっては、もちろん、しまいには兜を脱ぐに違いない。現に今でも、彼女は二人のあいだに立って迷っているんだからね。それはともかく、いったいイワンはどうして君らをそんなにうまく丸めこんでしまったのかしら、君らはみんなあの人を三拝九拝してるじゃないか? ところが、あの人は君らをせせら笑ってるんだぜ。願ったりかなったりだ。おれはおまえたちの勘定で御馳走になりますってね」
「だが、どうして君はそんなことを知ってるの? どうしてそうきっぱりと言いきるの?」アリョーシャはこう鋭く、眉をひそめながら、不意に尋ねた。
「じゃあ、なぜ君は今そう言って尋ねながら、僕の返事を恐れてるんだい? つまり僕の言ったことが本当だってことを承認してるんじゃないか?」
「君はイワンが好きじゃないんだね。イワンは金なんかに迷ってやしないよ」
「そうかしら? しかしカテリーナ・イワーノヴナの美貌はどうだね? 金だけが問題じゃないんだよ。もっとも、六万ルーブルといえば、まんざら憎くもなかろうがね」
「イワンはもっと高いところに目をつけてるよ。イワンは何万あろうとも、金なんかに迷わされはしない。イワンは金や平安を求めてはいない。たぶん苦痛を求めてるんだろう」
「それはまたなんという夢だろう? ほんとに君たちは……お殿様だよ!」
「ううん、ミーシャ、兄の心は荒れてるんだよ。兄の頭は囚われているんだ。イワンの考えている考えは偉大だが、まだ解決がついてないのだ。イワンは幾百万の金よりも、思想の解決を望むような人物の一人だよ」
「アリョーシャ、それは文学的な剽竊だよ。君は長老のことばを焼きなおしたまでだ。ほんとにイワンは君たちにたいへんな謎を投げかけたもんだよ!」とラキーチンは露骨に敵意をあらわしてこう叫んだ。彼は顔色まで変えて、唇は変にひん曲がっていた。「ところが、その謎はばかげたもので、解くほどのものはなんにもありゃしない。ちょっと頭をひねったらすぐわからあな。あの人の論文は滑稽な、愚にもつかぬものさ。さっきあのばかばかしい理論を聞いたが『霊魂の不滅がなければ、善行というものもない。したがって何をしてもかまわないことになる』っていうんだったね(ところで、兄さんのミーチェンカが、ほら君も聞いただろう、『覚えておこう』って叫んだじゃないか)。この理論はやくざ者にとって……僕の言い方は少し悪口じみてきたね。こりゃいかん……やくざ者じゃない、「解決できないほど深い思想』をいだいた小学生式の威張り屋さんにとって、すこぶる魅力があるからね。大法螺吹きだよ。ところで、その内容にいたっては『一方からいえば承認しないわけにいかず、また一方からいっても、やはり承認しないわけにはいかぬ!』で尽きている。あの人の理論は陋劣の魂だよ! 人類は、たとえ霊魂の不滅を信じなくても、善行のために生きるだけの力を、自分自身の中に発見するに違いない! 自由と、平等と、友誼に対する愛の中に発見するに違いない……」
ラキーチンは熱狂してしまって、ほとんどおのれを制することができなかった。が、不意に何を思い出したのか、口をつぐんだ。
「まあ、いいさ」前よりも一倍口をひん曲げて彼は苦笑した。「君は何を笑ってるんだい? 僕をげすだとでも思ってるのかい?」
「ううん、僕は、君がげすだなんて、考えてみようとしたこともないよ。君は賢い人間だよ、だが……許してくれ、僕はただぼんやり何の気なしに笑っただけだから。僕は、君がそう熱するのも無理はないと思うよ、ミーシャ。君があんまり夢中になるので、僕にも見当がついたんだが、君自身カテリーナ・イワーノヴナに気があるんだろう。僕は前からそうじゃないかと思っていたんだよ。それだから、君はイワン兄さんを好かないんだ。君は兄に嫉妬してるんだろう?」
「そして、あの女の金にもやはり嫉妬してるだろう? とでも言うつもりなのかい?」
「ううん、僕は金のことなんか、なんにも言ってやしないよ。君を侮辱するつもりじゃないんだもの」
「君の言うことだから信じるさ。しかしなんと言ったって、君たちや兄貴のイワンなんかどうなろうとかまやしないよ! 君たちにゃわかるまいけれど、あんな男は、カテリーナ・イワーノヴナのことは別としても、虫が好かないんだよ。何のために僕があの男を好きになるんだ、くそおもしろくもない! 向こうだってわざわざ僕の悪口を言ってくれるんだもの。僕にだってあの男の悪口を言う権利がなくってさ!」
「兄が君のことを、いいことにしろ悪いことにしろ、何か言っていたって話は聞かないよ。兄は君のことなんか、てんで話しゃしないよ」
「ところが、あの男は一昨日カテリーナ・イワーノヴナの家で、僕のことをさんざんに、こきおろしたって話を聞いたよ――それくらいあの男はこの忠実なる下僕に興味を持ってるんだよ。こうなると、いったい誰が誰に嫉妬してるんだか、さっぱりわかりゃしないさ! なんでもこんな説を、お吐きあそばしたそうだよ。もし僕がきわめて近き将来に管長になる野心をすて、剃髪を肯んじないとすれば、必ずペテルブルグへ行ってどこかの大雑誌に関係して、必ず批評欄にこびりついて、十年ばかりはせっせと書き続けるが、結局その雑誌を乗り取ってしまう。それから再び発行を続けるが、必ず自由主義的かつ無神論的方向をとって、社会主義的な陰影、というよりは、ちょっぴり社会主義の光沢をつけるのだ。がしかし、耳だけは一心にひっ立てる、というのも実際は敵にも味方にも用心して、衆愚には目をそむけるってわけだ。僕の社会遊泳の終わりは、君の兄貴の解釈によるとこうなんだ……社会主義の色調などにはお構いなく、予約金を流動資本に回して、誰かユダヤ人を顧問に、どしどし回転させて、しまいにはペテルブルグにすばらしい家を建てて、そこへ編集局を移し、残りを貸家に当てるっていうんだ。しかもその家の敷地まで、ちゃんと指定するじゃないか。いまペテルブルグで計画中だとかいう、リテイナヤ街からウイボルグスカヤ街へかけて、ネヴァ川に掛かる新しい石橋のそばなんだそうだよ……」
「いや、ミーシャ、それはすっかりそのとおり寸分たがわず的中するかもしれないよ!」我慢しきれないで、おもしろそうに笑いながら、不意にアリョーシャがこう叫んだ。
「君まで皮肉を言うんだね、アレクセイ・フョードロヴィッチ」
「ううん、そうじゃない、僕冗談に言っただけなんだ、勘忍してくれたまえ。僕はまるで別なこと考えてたもんだから。ところで、ねえ君、誰がいったいそんな詳しいことを知らせたの、いったい誰からそんなことを聞いたの? 兄がそんな話をしたときに、君自身カテリーナ・イワーノヴナのところにいるはずもないからねえ」
「僕はいなかったが、その代わりドミトリイ・フョードロヴィッチがいたのさ。僕はドミトリイ・フョードロヴィッチから自分のこの耳で聞いたんだ。が、しかし実は、あの人が僕に向かって話したわけじゃない、僕が立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろん、心ならずも耳にはいったんだ。そのわけは、僕がグルーシェンカの家へ行ってたとき、ドミトリイ・フョードロヴィッチが来たもんだから、先生が帰るまで寝室を出ることができなかったのさ」
「ああ、そうそう、僕忘れていたが、あの女は君の親類だってねえ……」
「親類だって? あのグルーシェンカが僕の親類だって?」急にラキーチンはまっかになってこう叫んだ。「いったい君は気でも違ったのじゃないか? 頭がどうかしてるぜ」
「どうしてさ? じゃ親類ではないの? 僕はそんな風に聞いたんだけれど……」
「いったい君はどこでそんなことを聞いたんだい? よしてくれ、君たちカラマゾフ一統は、しきりに何か偉い古い家柄の貴族を気どっているけれど、君の親父は道化役者のまねをしながら、他人の家の居候をして歩いて、お情けで台所の隅に置いてもらってたんじゃないか。よしんば僕が坊主の息子で、君たちのような貴族から見ればあぶらむし同然かもしれないとしても、そんな風なおもしろ半分な侮辱はよしてもらいたいね。僕にだって名誉心があるからね、アレクセイ・フョードロヴィッチ。僕がグルーシェンカの親類なんかでたまるものか、あんな淫売のさ! どうか御承知おき願いますよ!」
ラキーチンはおそろしく癇癪を起こしていた。
「後生だから勘弁してくれたまえ。僕はそんなこととは思いもよらなかったもの。それにしても、どうしてあの女が淫売なの? いったいあの女が……そんなことをしてるの?」とアリョーシャは不意に赤くなった。「もう一度言うけど、僕は親類だって話を聞いたんだよ。君はよくあの女のとこへ行くけれど、恋愛関係はないって自分で言ったじゃないか……僕は君までがあの人をそんなに軽蔑していようとは思わなかったよ? ほんとにあの女はそうされてもしかたのないような人かねえ?」
「僕があの女のとこへ行くのにも、ちゃんと原因があるかもしれないさ。もうこんなこと君にはたくさんだ。ところが、親類のことだが、それは君の兄貴か、それとも親父さんが、むしろ君をあの女と親類にしてくれるだろうさ。僕の知ったこっちゃないよ。さあ、とうとう来たぜ。君は台所のほうからはいったほうがいいだろう。おや……あれは何だろう、どうしたんだろう? 僕たちが遅刻したのかしら? しかし、こんなに早く済むわけがないて。それとも、カラマゾフ一統がここでもまた、何か騒ぎをやったのかな? てっきりそうだよ。ほら、君の親父さんだ、そしてイワン・フョードロヴィッチもあとから出て来たぜ。あれは修道院長のところから無理無体に飛び出したんだよ。そら、イシール神父が上り段の上から何か二人に声をかけてるぜ。それに君の親父さんもわめきながら手を振っている、確かに悪態をついてるんだよ。おやおや、ミウーソフ氏まで馬車で出かけて行くところだ、ね、見えるだろう。そら、地主のマクシーモフまで駆けて行かあ、――きっと醜態を演じたんだよ。してみると食事はなかったわけだな! ひょっとすると修道院長をひっぱたいたんじゃないかしら? それとも、あの連中がひっぱたかれたのかな? それならいい気味だが!……」
ラキーチンが騒ぎ立てるのも無理ではなかった。事実、古今未曾有の意想外な醜事件がもちあがったのである。いっさいは『霊感』から起こったのである。
ミウーソフはイワン・フョードロヴィッチといっしょに修道院長のところへはいって行ったとき、真実申し分のない、デリケートな紳士らしく、急速に一種微妙な心的過程を経て、腹を立てているのが恥ずかしくなってきた。彼は肚の中で、フョードル・パーヴロヴィッチはどこまでも軽蔑せずにはおれぬげすな人間だから、先刻、長老の庵室でしたように、彼といっしょに冷静を失って、自分まで夢中になることはないのだと思った。『少なくとも、これについて坊さんたちには何の罪もないのだ』と、彼は修道院長のところの上がり口で、急にそう考えた。『もしここの坊さんたちが物のわかった連中でさえあれば、(あのニコライ院長はやはり、貴族出の人だとのことだ)、どうしてその人たちに優しく、愛想よく、丁寧に応対して悪いはずがあろう?……』……『議論なんかしないで、かえっていちいち相づちを打って、愛嬌で引きつけてやろう、そして………そして……結局おれがあのイソップの、あの道化の、あのピエローの仲間ではなく、かえってみんなと同じように、あいつのためにひどい目に合ったんだということを証明してやろう……』
係争中の森林の伐採権も漁業権も(そんなものがどこにあるのか、彼は自分でも知らなかった)、今日すぐにも、きっぱり譲歩してしまおう、それにあんなものは値段にしてからが、ごくわずかなことなんだから。そして修道院相手の訴訟はいっさいとりやめてしまおう、と決心したのである。
こうした殊勝な心がけは、修道院長の食堂へはいったとき、さらに強固になった。しかし、修道院長のところには正式には間数が二つしかなかったので、食堂というものはなかったわけだ。もっとも、長老の庵室よりはずっと手広く、便利にできていたが、部屋の飾りは長老のところ同様、格別ぜいたくらしいところがなかった。家具類は二十年代の流行おくれな、マホガニイの革張りだった。そればかりか、床にペンキさえ塗ってないほどであった。その代わり、全体が光るほど清楚に磨きあげられて、上には高価な草花もたくさんおいてある。しかし、今この部屋でいちばんみごとなのは、立派な器を並べた食卓だけである。が、それも比較的の話である。とにかく卓布はきれいだし、食器はぴかぴか光っている。じょうずに焼かれたパンが三いろに、葡萄酒が二本、修道院でできるすばらしい蜂蜜が二壜、それに近在でも有名な、修道院製のクワスを入れた大きなガラスの壺などが出ていた。ウオッカは全部出ていなかった。後でラキーチンの話したところによると、このときの食事は五皿調理されていた。蝶鮫の魚汁に魚肉饅頭、何か巧みな特別の料理法によった煮魚、それから魚のかつれつにアイスクリームと果物の甘煮を取り合わせたもの、最後がブラマンジェに似たジェリイであった。ラキーチンは我慢しきれないで、かねて近づきになっている修道院長の勝手口をわざわざのぞきに行って、こういうことをみんなかぎ出したのである。彼はいたるところに近づきをこしらえて、いろんなことを聞きかじっていた。彼はきわめて落ち着きのないうらやましがりやだった。人並すぐれた才能を自覚していたが、それを神経的に誇張してうぬぼれていたのだ。彼は自分が一種の敏腕家になることを確信していた。もっとも、ラキーチンは破廉恥な男のくせに、自分ではそれを自覚しないばかりか、かえってテーブルの上に置いてある金を盗まないという理由から、自分はこのうえもない正直な人間だと固く信じているのだ。これが彼に友情を寄せているアリョーシャを悩ませたものである。だが、これはアリョーシャばかりでなく、誰にもどうもしかたのないことであった。
ラキーチンは身分が低くて、食事に招待されるわけにいかなかったが、その代わりヨシフとパイーシイの両神父に、もう一人の僧が招かれていた。ミウーソフとカルガーノフとイワンがはいって来たとき、これらの人々はもう修道院長の食堂で待ち受けていた。地主のマクシーモフも脇のほうに控えていた。修道院長は来客を迎えるために、部屋のまん中へ進み出た。それは痩せて背の高い、しかしまだ壮健らしい老人で、黒い髪にはひどく胡麻塩が交じって、おも長な禁欲者らしいものものしい顔をしていた。彼は無言のまま客に会釈をしたが、一行も今度こそは祝福を受けるためにそのそばへ近寄った。ミウーソフはまさに手を接吻しようとさえしかかったが、どうしたのか修道院長のほうで急にその手を引っこめてしまったため、結局その接吻は成り立たなかった。それに引きかえイワン・フョードロヴィッチとカルガーノフは完全に祝福を受けた。つまり淳樸な、平民らしい、ちゅっという音を立てて、修道院長の手に接吻したのである。
「尊師様、わたくしどもは、深くおわびを申し上げなければなりません」とミウーソフは愛想よく作り笑いをしながら、口をきった。しかしやはりもったいぶったうやうやしい調子で、「ほかでもありませんが、わたくしどもはあなたからお招きにあずかっておりました伴の一人、フョードル・パーヴロヴィッチを同道しないで参上いたしました。同氏はあなたの御供応を御辞退いたすのやむなきに立ち至りました。それも理由あってのことでございます。実はさきほどゾシマ長老様の庵室で、あの人は息子さんとの不幸な親子喧嘩に夢中になって、つい二言三言場所柄をわきまえぬ……ひと口に言えば、たいへん失礼なことばを漏らしたのでございます……そのことはたぶん(と彼は二人の僧をちらと眺めて)、もう尊師様のお耳にはいっていることと存じます。それゆえ、当人も自分の非をさとって、心から後悔いたしまして、恥じ入った次第でございます。それで面目なさに、わたくしと子息のイワン・フョードロヴィッチに[#「フョードロヴィッチに」は底本では「フョードロヴッチに」]ことづけまして、心からの遺憾と悔恨と懺悔を尊師様のお前に披露して欲しいと申しました……。要するに、あの人は万事あとで償いをするつもりでおりますけれど、とりあえずあなた様の祝福をお願いすると同時に、あの出来事を忘れていただきたいと申しておるのでございます……」
ミウーソフは口をつぐんだ。この長台詞の最後のことばを結ぶと、彼はすっかり自分で自分に満足してしまって、さきほどまでの癇癪は跡形もなく消え失せたのである。彼は再び真底から人間に対する愛を感じていた。修道院長はものものしい様子でこのことばを聞き終わると、軽く首を傾けて、こう答えた。
「ひとり立ち帰られたかたのことは衷心残念に存じます。この食事のあいだにあの人はわたくしどもを、またわたくしどもはあの人を愛するようになったかもしれません。さあ皆さん、どうぞ召し上がってくださいますよう」
彼は聖像の前に立ち、声に出して祈祷を始めた。一同はうやうやしく首をたれた。地主のマクシーモフは格別ありがたそうに合掌しながら、ひときわ前へ乗り出した。
ちょうどこの時フョードル・パーヴロヴィッチが最後の悪戯を演じたのである。ちょっと注意しておくが、彼は本当に帰って行くつもりなのであった。長老の庵室であんな不体裁なことをしたあげく、そしらぬ顔で修道院長の食事へのこのこ出かけて行くようなことは、とうていできない相談だと感じたのは事実である。がみずから慚愧して、自責の念にかられていたというわけではない。あるいは、かえって正反対であったかもしれない。しかし、何にしても、食事に連なるのは無作法だと感じたのである。ところが、例のがた馬車が、宿屋の玄関先へ回されて、まさにその中へ乗りこもうとした時、不意に彼は足を止めた。さきほど長老のところで言った自分のことばが、ふと胸に浮かんだのである。『わたくしはどこか人中へはいって行く時いつも、自分が誰よりも下劣な人間で、人から道化もの扱いにされるような気がします。そこでわたくしは、それじゃひとつほんとに道化を演じてやろう。なあに、あいつらのほうがみんなそろいもそろっておれよりばかで下劣なんだ、という気になるのでございます』彼は自分自身の卑劣さに対して、人に仇を打とうという気になったのである。ふと今、彼はいつかだいぶ前に、『あなたはどうしたわけで誰それをそんなに憎むのです?』と聞かれたことを思い出した。そのとき彼は道化た破廉恥のこみあげるままに、こう答えた。『それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね』今それを思い出すと、彼はちょっとのあいだ考えこみながら、静かな毒々しい薄笑いを浮かべた。その眼はきらりと光った、唇まで震えだした。『どうせいったんやりかけたものなら、ついでにしまいまでやっちまえ』彼は急にこう決心した。この瞬間、彼の心の底に潜んでいた感じは、このようなことばで現わすことができたであろう。『もう今となっては名誉回復もおぼつかない、ええ、かまうもんか、もう一度あいつらの顔に思いきり唾をひっかけてやれ。なんの、あいつらに斟酌することがあるもんか、それっきりのことさ!』彼は御者に待っておるように言いつけておいて、急ぎ足に修道院へとって返し、まっすぐに院長のところへおもむいた。彼はまだ、何をするつもりなのか自分でもよくわかっていなかったが、もうこうなっては自分を押えることができない、何かちょっとした衝動があったら、それこそたちまち、極端な陋劣な行動に出るだろう、ということはよく承知していた。しかし、それは単に陋劣な行為にとどまって、犯罪だの、裁判ざたになるような悪ふざけというようなものではけっしてない。この点では、彼はいつもおのれを抑制するすべを心得ていて、ときには自分でも感心するほどうまくゆくことがあった。彼が修道院長の食堂へ姿を現わしたのは、いま祈祷が済んで、一同が食堂に近づいた瞬間であった。彼は閾の上に立ち止まって、一同をひとまわり見回すと、みんなの顔をじろじろと眺めながら、引き伸ばしたような、臆面もなく意地の悪い声を立てて笑いだした。
「みんなわしが帰ってしまったと思っていたのに、わしはほうら、このとおりさ!」と彼は広間じゅうに響きわたるような声でわめいた。
一瞬間、人々はじっと彼の顔を見つめながら、押し黙った。今にも何か忌まわしいばかげた事件がもちあがって、きっと醜態をさらけ出すに違いないと、一同は直覚したのである。ことにミウーソフはこのうえなく優しい気分から、たちまちにしてこのうえなく獰猛な気分に変わってしまった。彼の心の中で消滅し鎮静したすべてのものが、一どきによみがえって頭をもたげたのである。
「だめだ、もうこれは我慢ができない!」と彼は叫んだ。「断然、できない……絶対にできない!」
かっと血が頭に突き上がった。彼は言句につまったが、もはやことばどころではなかった。彼は自分の帽子を引っつかんだ。
「いったいあの人は何ができないというんだろう?」とフョードル・パーヴロヴィッチがわめき立てた。「何が『絶対にできない、どうしてもできない』んだろう? 方丈様、はいってもよろしゅうございますかね? 御招待にあずかった一人でございますが?」
「それはようこそ、さあおはいりくだされ」院長は答えた。「皆様、まことに失礼ながら」と彼はつけ加えた、「心の底からのお願いでござります。一時のいさかいを捨てて、この平和な食事のあいだに、神に祈りを捧げながら、血縁の和楽と愛の中に一致和合してくださりませ……」
「いや、いや、だめなことです!」とミウーソフはわれを忘れて叫んだ。
「ミウーソフさんがだめなら、わしもやっぱりだめですわい。わしも帰ります。わしはそのつもりで来たんですよ。もうこうなればミウーソフさんといっしょにどこへでも行きます。ミウーソフさんがお帰りなら、わしも帰るし、お残りなら、わしも残ります。あなたが血縁の和楽とおっしゃったのが、格別ミウーソフさんの胸にこたえたのですよ、院長様。あの人は自分を、わしの親類だと認めておらんのですからな。そうだろう、フォン・ゾン? そら、そこに立っておるのがフォン・ゾンでさあ。御機嫌さん、フォン・ゾン!」
「あなたは……わたくしにおっしゃるので?」地主のマクシーモフは唖然たるかたちで口ごもった。
「むろんおまえにだよ」とフョードル・パーヴロヴィッチはどなった。「でなかったら誰に言うんだい? まさか僧院長様がフォン・ゾンであらっしゃるはずもなかろうぜ」
「でも、わたくしもフォン・ゾンではございません、わたくしはマクシーモフです……」
「いんにゃ、おまえはフォン・ゾンだよ。方丈様、フォン・ゾンというのは、何者か御存じでございますか? これはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この男は悪所で殺されたんです――お寺様のほうではああいう場所をこう申すそうですな――殺されたうえに、裸に剥がれて、おまけにいい年をしておりながら、箱の中へたたきこまれて、貨物列車でペテルブルグからモスクワへ発送されたんですよ、しかも番号を付けられましてね。ところで箱の中へたたきこまれるとき、売女どもが歌をうたったり、手琴つまりピアノですな、あれを弾いたりしたそうですよ。これが今申した当のフォン・ゾンなのでございます。それが墓場から生き返って来たのですよ。そうだろう、おいフォン・ゾン?」
「いったいこれはなんたることだ? どうしたというのだろう?」そういう声が僧たちのあいだから聞こえた。
「行こう!」と、ミウーソフはカルガーノフに向かって叫んだ。
「いんや、失礼じゃがな!」と、また一度部屋の中へ踏んごみながら、フョードル・パーヴロヴィッチがかん高い声でさえぎった。「まあ、わしにも言うだけのことを言わしてください。あちら※[#「魚+夫」、U+29D69、166-2]庵室でわしはぶしつけ者という汚名を着せられましたが、それというのも、わしが※[#「魚+夫」、U+29D69、166-2]のことをほざいたからなんですよ。わしの親類すじのミウーソフさんのお好みでは、ことばの中に plus de noblesse que de sincrit(真摯さよりは気高さがいい)んだそうですがな、わしの好みはその反対で plus de sincrit que de noblesse(気高さよりは真摯さがいい)んですよ。noblesse(気高さ)なんかくそくらえだ! なあそうじゃないか、フォン・ゾン? 院長様へ申し上げます、わたくしは道化者で、道化じみたまねばかりいたしますが、それでも名誉を重んずる騎士でございますから、忌憚なく所信を申し上げたいと存じます。さよう、わたくしは名誉を重んずる騎士でございます。ところが、ミウーソフさんの肚の中には、傷つけられた自尊心のほか、なんにもありゃしません。わたくしがここへまいりましたのも、あるいは自分で親しく一見して、忌憚のないところを申し上げるためであったかもしれません。わたくしの倅のアレクセイがここにお籠りしておりますでな、父親としてあれの身の上が気がかりでございます。また心配するのがあたりまえでございますよ。わたくしは始終耳をそばだてて、お芝居をしながら、そっと様子を見ておりましたが、今こそあなたがたの前で最後の一幕をお目にかけるつもりでございます。いったい今わが国はどんなありさまでしょうか? 倒れかかったものは倒れてしまいます。また一度倒れたものは、もう永久に起き上がれっこありません。それじゃあたまりませんや! わたくしは起き上がりたいのでございます。有徳の神父様がた、わたくしにはあなたがたが、憤慨に耐えんのでございます。いったい懺悔というものは偉大なる聖秘礼でございます。これはわたくしもありがたいものと思って、その前にひれ伏してもよいくらいの覚悟でおります。ところが、あの庵室ではみんな膝を突いたまま、大きな声で懺悔をしておるじゃありませんか。全体、声を出して懺悔することが許されておるのでございますか? 昔の上人様たちが、懺悔は口から耳へ伝えよと、ちゃんと掟を定められました。それであってこそ人間の懺悔が神秘となるのであります。しかも、それが昔からのお定まりですよ。それでなくて、どうしてわたくしがみんなの前で、しかじかこういうことをいたしましたと、つまりそのしかじかこういうことを話すことができますかというんですよ! 時にはとても口に出しては言えないことだってありますからなあ。そんなのは全く不体裁ですよ! いや、神父様がた、あなたがたといっしょにおったら鞭打教のお仲間へ引きずりこまれてしまいますて、……わしはよいおりがあり次第、宗教会議へ上申書を送りますよ、そして倅のアレクセイは家につれて帰ります……」
ここでちょっと断わっておくが、フョードル・パーヴロヴィッチは世間の取りざたには耳の早いほうであった。いつか、意地の悪い讒誣が広まって、大主教の耳にさえはいったことがある(この修道院だけでなく、長老制度の採用されている他の修道院に関してであった)。それは長老があまり尊敬されすぎて、修道院長の威厳さえそこなうほどに至った、とりわけ長老は懺悔の神秘を濫用するなどということであった。この非難はばかばかしいものであったから、この町ばかりでなく全体にわたって、自然といつの間にか消滅してしまった。ところがフョードル・パーヴロヴィッチをつかまえて、本人の神経をかりたてて、いずことも知らぬ汚れの深みへ、しだいに遠く連れて行く愚かな悪魔が、この古い非難を彼の耳に吹きこんだのであるが、しかも当のフョードル・パーヴロヴィッチにはこの非難の意味が初手からわからなかったのである。で、それを正確に言い現わすこともできなかったし、おまけに長老の庵室では誰ひとり膝をつくものもなければ、大きな声で懺悔するものもなかった。したがって、フョードル・パーヴロヴィッチはそんなことを目撃するはずは全然なく、ただうろ覚えの古い風説や讒誣を種にしゃべりだしただけの話である。しかしこの愚劣な話をもちだすと同時に、うっかりばかなことを口外したなと気がついたので、自分の言ったのはけっしてばかげたことでないということを聞き手に、というよりはむしろ自分自身にさっそく、証拠だてようと思ったのである。彼は自分でもこのさき一語を加えるごとに、すでに、口をすべらせてしまった愚かなことばに、なおいっそう愚かしさが加わっていくばかりだ、ということをよく承知していたけれど、もう自分で自分を制することができず、まるで急坂をくだるように突進してしまったのである。
「なんというけがらわしいことだ!」とミウーソフが叫んだ。
「お許しください」と突然、院長が言った。「古からのことばに『人々われにさまざまなることばを浴びせて、ついには聞くに耐えざるけがらわしきことすらも口にす。われかかることばをも忍びて聞く、これキリストの医術にして、わがおごれる魂を矯めんがために、おくられたるものなればなり』とあります。それゆえわたくしどもも、このうえなく貴いお客人たるあなたにつつしんでお礼を申し上げます」そして彼は腰を深くかがめてフョードル・パーヴロヴィッチに会釈した。
「ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ! 偽善と紋切り型だ! 紋切り型の文句と所作だ! 古臭い嘘っぱちと頭を地べたにくっつけるお辞儀の繁文褥礼だ! そんなお辞儀は先刻承知の助だよ! 『唇に接吻、胸に匕首』とシルレルの『群盗』の中にもありまさあね。なあ神父さんたち、わしはごまかしが嫌いで、真実が欲しいんでさ! だが、真実は※[#「魚+夫」、U+29D69、168-17]の中にはありませんぜ、それはもうわしが言明したとおりですよ! 坊さまがた、なんだってあんたがたは精進をしておいでなさる? どうしてそんなことの褒美に天国へ行けると思っておいでなさる? ほんとにそんな褒美がもらえるのなら、わしだって精進をしますぜ! ねえ、お偉いお坊さん、お寺に閉じこもって人の焼いたパンを食べながら、天上の報いを待っているより、世の中へ乗り出して徳を行なって、社会に貢献されたらどうですな――しかし、こいつは少々骨ですよ。院長様、わしでもなかなかうまいことを言いましょうがな。いったいここにはどんな御馳走があるんだろう?」と彼は食卓へ近寄った。「ファクトリヤの古いポートワインに、エリセーフ兄弟商会の蜂蜜か……これはどうもお坊さんがたとしたことが! こいつは※[#「魚+夫」、U+29D69、169-6]どころの騒ぎじゃない。酒のびんをしこたま並べましたな、へ、へ、へ! いったいこういうものは誰がここへ持って来たのだね? これは勤勉なロシアの百姓が胼胝だらけの手で稼いだ一カペイカ、二カペイカの金を、家族や国家の入用を後回しにして、ここへ持って来たんでさ! ほんとにお偉い方丈様、あなたたちは人民の生き血をすすっておいでなさるのだ!」
「それはあまりといえば乱暴な言いぐさです」とヨシフ神父が言った。パイーシイ神父は強情に押し黙っていた。ミウーソフはぱっと部屋を駆け出した。それについで、カルガーノフも飛び出した。
「じゃあ、お坊様がた、わしもミウーソフさんの後を追って行きますよ! もう二度とここへは来ませんぜ、膝をついて頼まれたって来るこっちゃありません。わしが千ルーブル寄進したもんだから、それであなたがたはまた目を皿にして待ってなすったのでがしょう、へ、へ、へ! なんの、もうけっしてあげやしませんよ。わしは自分の過去の青年時代や、自分の受けたすべての侮辱に対して仇き討ちをするんです!」と彼は憤怒の発作をよそおって、拳でテーブルをどんとたたいた。「このちっぽけなお寺もわしの生涯にとっては意味深長な所だった。この寺のためにわしはいろいろと苦しい涙を流した! 女房の『憑かれた女』をわしにたてつかせたのもあんたがたじゃ。七つの会議でわしをのろって、近在を触れまわしたのもあんたがたですぞ! もうたくさんだ、今は自由主義の時代だ、汽車と汽船の世の中だ。千ルーブルはおろか、百ルーブルも、百カペイカも、なんの、一カペイカだってあんたがたにあげるものか!」
またここで断わっておくが、けっしてこの修道院が彼の生涯に特別な意味を持ったこともなければ、彼がそのために苦い涙を流したこともありはしないのである。しかし彼は自分で自分の作り涙にすっかり感動してしまって、一瞬のあいだ自分でもそれを信じないばかりの気持になったのである。そればかりか感激のあまり泣きだしそうにさえなったくらいだが、それと同時に、もうそろそろお神輿をあげるころあいだと感じた。修道院長はその意地の悪いでたらめに頭を下げて、再び威圧するように言った。
「また、こうも言ってあります。『なんじの上に襲いかかる凌辱をばつとめて耐え忍び、かつなんじを汚す者を憎むことなく、みずからの心を迷わしむるなかれ』われわれもこの教えのとおりにいたしております」
「ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんな寝言とくだらん弁説だよ! お坊さんがたはお好きなことを言っていなされ、わしは御免をこうむりますぜ。ところで、倅のアレクセイは父親の権利で、永久に引き取ってしまいますよ。さあイワン・フョードロヴィッチ、いやさ、わしの尊敬すべき倅や、わしの跡からついて来なよ! フォン・ゾン、なにもおまえだってこんなとこに居残ることはなかろう! さあ、今すぐ町のおれんとこへ来なよ。おれんちはおもしろいぞ! ほんの一露里そこそこだよ。精進油の代わりに、粥を添えた子豚を出すぜ。いっしょに飯を食おうよ。コニャクも出すし、後からリキュールも出る。苺酒もあるぜ……。おいフォン・ゾン、せっかくの幸運を取り逃がさんようにしろよ!」
彼はわめきたてながら、手ぶり身ぶりをしながら駆け出した。ちょうどこの刹那、彼の出て来た姿を認めて、ラキーチンがアリョーシャに指さしたのである。
「アレクセイ!」と、彼はわが子の姿を見つけると、遠くから声をかけた。「今日すぐにうちへ帰っちまうんだぞ、枕も蒲団も引っかついで来るんだ。ここにおまえの匂いがしても承知せんぞ」
アリョーシャは黙ってまじまじとこの光景を眺めながら、釘づけにされたように突っ立っていた。フョードル・パーヴロヴィッチはそのあいだに馬車へ乗りこんでいた。それに続いて、別れのためにアリョーシャのほうをふり向きもしないで、イワン・フョードロヴィッチが無言のまま、むっつりして馬車へ乗ろうとしていた。しかしここで、あたかもこの插話の不足を補うかのように、滑稽なほとんどあり得べからざる一幕が演じられた。ほかでもない、不意に馬車の踏み段のそばへ地主のマクシーモフが現われたのである。彼は遅れまいとして、息を切らせながら駆けつけたのだ。ラキーチンとアリョーシャは彼が走って来る様子を目撃した。彼は恐ろしく取り急いで、まだイワン・フョードロヴィッチの左足が載っかっていた踏み台へ、もう我慢しきれないで片足かけると、車台につかまりながら馬車の中へ飛びこもうとした。
「わたくしも、わたくしもごいっしよに!」と、小刻みな嬉しそうな笑い声をたてて、恐悦らしい色を顔に浮かべながら、どんなことでもやってのけそうな意気ごみで、潜りこもうとしながら彼は叫んだ。
「わたくしも、お連れになって!」
「そうら、わしの言わんこっちゃないて」とフョードル・パーヴロヴィッチは有頂天になって叫んだ。
「こいつはフォン・ゾンだ! こいつこそ墓場から生き返って来た正真正銘のフォン・ゾンだ! だが、おまえどうしてあすこを脱け出て来たい? どんなフォン・ゾン式を発揮して、うまうまお食事をすっぽかして来たんだい? ずいぶん鉄面皮でなくちゃできない芸当だぜ! わしの面も千枚張りだが、お主の面の皮にも驚くぜ! 飛び上がれ、飛び上がれ、早くさ! ワーニャ、この男を乗せてやれよ、賑かでいいぞ。どこか足もとへでも坐らせてやろう。いいだろう、フォン・ゾン? それとも御者といっしょに御者台へ乗っけるかな?……フォン・ゾン、御者台へ飛び上がれよ!」
しかし、もう座席に坐っていたイワン・フョードロヴィッチが突然、黙ったまま、力任せに、どんとマクシーモフの胸を突きのけた。で、こちらは一間あまりも後ろへはね飛ばされた。彼が倒れなかったのは、ほんの偶然である。
「やれ!」と、イワン・フョードロヴィッチは御者に向かって腹立たしげに叫んだ。
「これ、おまえどうしたんだ? どうしたんだよ? なんだってあいつをあんな目に合わせるんだ?」そう言って、フョードル・パーヴロヴィッチは体を起こしたが、馬車はもう動き出していた。イワンは何の答えもしなかった。
「そうれ、見ろやい!」と、二分ばかり黙っていてから、息子に流し目をくれながら、フョードル・パーヴロヴィッチがまた言った。「おまえは自分でこの修道院の会合をもくろんで、自分で煽り立てて賛成しておきながら、いまさら何をそんなにぷりぷりしているんだい?」
「もうばかなことをしゃべるのはたくさんです、せめて今のうちでも休んだらどうです」とイワン・フョードロヴィッチは容赦なくきめつけた。
フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分間ばかり黙りこんでいた。
「今コニャクを飲んだらいいんだがなあ」と彼はしかつめらしく言った。が、イワン・フョードロヴィッチは返事をしなかった。
「帰ったらおまえも一杯やるさ」
イワン・フョードロヴィッチはやはり黙っていた。
フョードル・パーヴロヴィッチはまた二分ばかり待ってから、
「だがアリョーシカはなんと言っても寺から引き戻すよ、おまえさんにはさぞおもしろくないことだろうがね、最も尊敬すべきカルル・フォン・モールさん」
イワン・フョードロヴィッチは小ばかにしたようにひょいと肩をすくめると、外方を向いて、街道を眺めにかかった。それからずっと、家へ帰るまでことばをかわさなかった。
[#改ページ]
フョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの家は町の中心からかなり隔たってはいたが、そうかといって、まるっきり町はずれというわけでもなかった。それはきわめて古い家ではあったが、外観はなかなか気持がよかった。鼠色に塗りあげた、中二階つきの平家建てで、赤い鉄板の屋根がついていた。まだかなり長く保ちそうで、手広く居心地よくできていた。いろんな物置きだの納戸だの、思いもかけない階段だのがたくさんあった。鼠もかなりいたが、フョードル・パーヴロヴィッチはたいしてそれには腹を立てなかった。『まあ何にしても、夜分ひとりのときさびしくなくっていいわい』実際、彼は夜分は召し使いを傍屋へ下げて、一晩じゅう母屋にただひとり閉じこもるのが習慣であった。その傍屋は邸内に立っていて、広々とした頑丈な造りであったから、母屋のほうにも台所はあったのだけれど、フョードル・パーヴロヴィッチはここで煮たきをさせることに決めていた。彼は台所の臭いが嫌いなので、夏も冬も食べ物は中庭を通って運ばせていた。だいたいこの家は大家族むきに建てられていたから、奥の者も召し使いも、今の五倍は優に容れることができた。しかしこの物語の当時、この家にはフョードル・パーヴロヴィッチとイワン・フョードロヴィッチ、それに傍屋の従僕部屋にわずか三人の召し使いが住んでいるにすぎなかった。その三人というのは、老僕グリゴリイ、その妻の老婆マルファ、それにスメルジャコフというまだ若い下男であった。さて、この三人の召し使いについては、も少し詳しく説明しなければならぬ。しかし、老僕グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ・クツーゾフのことは、もうかなりに話してある。これは、もし何かの原因で(ときどきそれは恐ろしく非理論的なものであったが)、いったんそれを間違いのない真理だと思いこんだ暁には、しつこくその一点に向かって一直線に驀進するといった頑固一点張りの人間であった。概して正直で清廉潔白な人物であった。妻のマルファ・イグナーチエヴナは生涯、良人の意志の前には絶対的に服従してきたけれど、よくいろんなことを言ってうるさく良人につきまとうことがあった。たとえば農奴解放のすぐあとなどには、フョードル・パーヴロヴィッチのもとを去ってモスクワへでもおもむき、そこで何か小商売を始めたらと、しきりに口説いたものである(二人のふところにはいくらか小金がたまっていたので)。しかしグリゴリイはいきなり断固として、女はばかばかりぬかす、『女ちゅうものは、どいつもこいつも不正直なもんだでな。けんど以前の御主人の家を出るちゅう法はないぞ、それがたとえどんな人であったにしても、それが今日日こちとらの義務というもんだ』と言い渡した。
「義務ちゅうのはどんなことだか知っとるか?」と、彼はマルファに向かって言った。
「義務ちゅうことは知っとるだよ、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ。だけんど、どういうわけでわしらがここに残っておるちゅうことが義務なもんか、それがいっこうわかりましねえだよ」とマルファが強情に答えた。[#「答えた。」は底本では「答えた」]
「わからにゃわからんでええだが、それはそうなくちゃかなわねえだ。もうこのさき口はきくまいぞ」
そして結局、二人はこの家を去らなかった。そこでフョードル・パーヴロヴィッチは夫婦に対してわずかな給金を定めて、それをきちんきちんと支払っていた。それにグリゴリイは、自分が主人に対して、異論のないある勢力をもっていることを知っていた。そして彼がこう思ったのは、けっして思い違いではなかった。狡獪で片意地な道化者のフョードル・パーヴロヴィッチは、彼自身の言いぐさのように『世の中のある種の事柄に対しては』なかなかずぶとい気性を持っていたけれど、ある『別種な世の中の事柄』に対しては自分でも驚くほど、から意気地がなかった。それがどんな事柄であるかは、自身でも知っていて、いろいろなことに恐れをいだいていたのである。世の中には、ある種の事柄に対して、十分警戒しなければならない場合がある。そんなとき身辺に誰か忠実な人間がいなくては心細かったが、グリゴリイは忠実という点では無類な人間であった。フョードル・パーヴロヴィッチはこれまで世の中を渡る間にも、幾度となくなぐられそうな、しかもこっぴどくなぐられそうな場合にぶつかったこともよくあったが、そういうときには、いつもグリゴリイが彼を救い出した。もっともそのあとで毎回お説教を聞かせるのが常であったが。しかしフョードル・パーヴロヴィッチも、打ったりなぐったりされるだけなら、さして恐ろしくもなかったはずだが往々、極端な、ときにはむしろ複雑微妙な場合さえよくあったので、フョードル・パーヴロヴィッチは誰か忠実な人間を自分の身辺に置きたいというただならぬ要求を、突然不思議にも瞬間的に心に感じるのであった。しかも彼自身でさえ、その理由を明らかにすることはできなかった。それはほとんど病的といってもいい状態であった。放埒きわまりなく、しかもその淫欲のためにはしばしば、害悪な虫けらのように残忍非道なことをしてのけるフョードル・パーヴロヴィッチが、ときどき、酔っ払ったおりなどに、不意と心の中に精神的の恐怖と、非道徳的な震駭を感じるのであったが、それはほとんど生理的に彼の魂に反応した。『そんなときわしは、魂が咽喉の辺で震えておるような気持だ』彼はときにこんなことを言い言いした。こういう瞬間に彼は、自分に信服した、しっかりした男が自分の身近に、同じ部屋の中ではなくても、せめて傍屋のほうにでもいて欲しかった。その男は、けっして自分のような道楽者ではないが、目のあたりに行なわれるすべての不行跡を見、かつその裏の裏まで知り尽くしていながら、忠順の心からいっさいを見のがして反抗しない、しかし何よりも大切な点は、けっして非難をしないことで、現世のことにしろ来世のことにしろ、なんら脅かすようなことを言わないが、すわという場合には、自分を守ってくれる――誰から? 誰からかはわからないけれど、しかし、危険な恐ろしい人間からである。つまり、昔なじみの親しい『自分以外の』人間が、ぜひいなくてはならない、心の疼むようなときにその男を呼び寄せる、それもただじっとその顔を見つめて、気が向いたら何か一つ二つ、それも全く縁のないむだ口をたたき合うくらいが関の山で、もし相手が平気な顔をして別に腹も立てないようなら、それでなんとなく心が休まるし、もし腹を立てれば、よけい心がめいろうというものである。こんなこともあった(もっともそれはごくたまさかのことだが)、フョードル・パーヴロヴィッチがそれも夜中に傍屋へ行って、グリゴリイをたたき起こすと、ちょっとでいいから来てくれという。こちらが起きて行ってみると、フョードル・パーヴロヴィッチは思いきりくだらない話をちょっとして、すぐにさがらしてしまう。どうかすると別れぎわに、ひやかしたり冗談口をたたいたりすることもある。そして御当人はぺっと唾を吐いて横になる。と、もう聖人のような眠りに落ちてしまうのである。アリョーシャが帰って来たときも、ちょっとこれに似寄ったことがフョードル・パーヴロヴィッチの心に起こった。アリョーシャは『いっしょに住んで、何もかも見ておりながら、ちっともとがめ立てをしない』という点で、彼の『心を突き刺した』のである。あまつさえ、アリョーシャは、父にとってついぞこれまで覚えのないものをもたらした。それは、この老父に対して少しも軽蔑の念をいだかないばかりか、反対に、それほどの価値もない父にいつも優しく、しかも全く自然ですなおな愛慕の情を寄せるのであった。これまで家庭というものを持たず、ただ『邪淫』のみを愛してきた、老放蕩児にとって、こういうことはすべて思いもかけぬ賜物であった。アリョーシャが去って行ったのち、彼は今まで理解しようとも思わなかったあるものを理解した、と肚の中で告白した。
グリゴリイがフョードルの先妻、つまり長男ドミトリイ・フョードロヴィッチの母アデライーダ・イワーノヴナを憎み、その反対に後妻のソフィヤ・イワーノヴナ、すなわち『憑かれた女』を、自分の当の主人にたてついてまでかばいだてして、断じて彼女のことを悪く言ったり軽はずみな陰口をきく者を、容赦しなかったということは、すでにこの物語の初めに述べておいた。この薄倖な女に対する彼の同情は、一種神聖なもののようになって、二十年も後の今でも、誰の口から出たにせよ、ちょっとでも彼女のことを悪く言うような当てこすりは我慢がならず、すぐさまその無礼者をとっちめるのであった。外貌からいうと、グリゴリイは冷酷厳粛な人物で、口数も少なく、物を言ってもしかつめらしく軽はずみなところの少しもない男であった。彼がすなおで温順な自分の妻を愛しているかどうかはちょっと見ただけでは、はっきりしたこともいえなかったが、しかし実際彼は愛していたし、いうまでもなく妻もそれを承知していた。このマルファ・イグナーチエヴナはけっしてばかな女ではなかったばかりか、どうかするとかえって亭主より利口なくらいであった。少なくとも、実生活の事柄にかけては良人よりはるかに分別があった。が、それでいて彼女は夫婦になったそもそもの初めから、なんの不平も言わず黙々としてグリゴリイに心服し、その精神的に卓越した点で彼を絶対に尊敬していた。変わっていたのは、この夫婦が生涯、きわめて必要な当面の事柄以外には、ごくごくまれにしか口をきかなかったことである。ものものしくどっしり構えたグリゴリイはいっさい自分の仕事や気配りをいつも一人で考えていたので、マルファ・イグナーチエヴナも、良人が自分の助言など少しも必要としていないことをとうの昔から知っていた。彼女は良人が自分の無口の価値を認めて、そのため自分を賢いものとみてくれるのだと悟っていた。グリゴリイはけっして妻を折檻したことがなかった。もっともたった一度、それもほんのちょっと打ったことはある。フョードル・パーヴロヴィッチがアデライーダ・イワーノヴナと結婚したその年のこと、あるとき、当時まだ農奴であった村の娘や女房どもが、田舎の地主邸へ呼び集められて歌ったり踊ったりしたことがある。『草原で』の踊りが始まったとき、当時まだ若かったマルファ・イグナーチエヴナが突然、合唱隊の前へ飛び出して、特別な身ぶりで『ロシア踊り』を踊った。それは女房どものような田舎臭いものと違って、彼女が富裕なミウーソフ家で女中をしていたころ、モスクワから招聘された舞踊の師匠が踊りの振り付けをした同家の家庭劇場で、彼女もいっしょに踊ったその踊り方であった。グリゴリイは妻の踊りを黙って見ていたが、一時間の後、自分の小屋へ戻ると、彼女の髪をつかんで少し引き回して彼女をこらしめた。しかし折檻はその時限りで、生涯二度とくり返さなかった。それに、マルファ・イグナーチエヴナも、それきりふっつりと踊りを絶ってしまった。
二人のあいだには子供が授からなかった。もっとも赤ん坊が一人生まれたが、それもすぐ死んでしまった。グリゴリイは明らかに子供好きで、またそれを隠そうともしなかった。つまりそれを口に出すのを恥ずかしがらなかったのである。アデライーダ・イワーノヴナが出奔したとき、彼は三つになったばかりのドミトリイ・フョードロヴィッチを自分の手もとへ引き取って、ほとんど一年のあいだその世話を焼き、自分で髪を梳かしてやったり、たらいで行水を使ってやったりした。ついでイワン・フョードロヴィッチとアリョーシャのめんどうを見た、そのおかげで頬桁を一つ見舞われたような始末だが、しかしこんなことは皆、もう前に話しておいた。自分の子供が彼に喜ばしい希望をいだかせたのは、ただマルファ・イグナーチエヴナの懐妊のあいだだけであった。生まれてみると、その子は悲しみと恐れとをもって彼の心を突き刺した。ほかでもない、その男の子は生まれつき指が六本あったのである。これを見たグリゴリイは、すっかり落胆してしまって、洗礼の日までむっつり黙りこんでいたばかりでなく、口をきかないためにわざと庭へ出た。ちょうど春のことで、彼は三日の間じゅう菜園畝をおこしていた。三日目に幼児に洗礼を受けさせることになったが、それまでにグリゴリイはもう何か心に思案を決めていた。僧たちもしたくを整え、客も集まり、フョードル・パーヴロヴィッチまでが教父の資格でわざわざ顔を出していた家の中へはいるなり、彼は、子供には『てんで洗礼などしなくてもよい』と言いだした。――それも大きな声で口数をきいたわけではなく、一語一語を用心しいしい押し出したような言い方で、ただそれと同時に、鈍い眼つきでじいっと僧のほうを見つめただけであった。
「それはまた、どうしたわけかな?」と僧は剽軽な驚き方をして問い返した。
「どうしてちゅうて……あれは龍でござりますだ……」とグリゴリイはつぶやいた。
「どうして龍なんで……どんな龍かな?」
グリゴリイはしばらく押し黙っていた。
「天道様のお手違いができたのでござりますよ……」彼は不明瞭ではあったが、しっかりした声でこうつぶやいた。明らかにそれ以上、口数をききたくない様子であった。
人々は一笑に付してしまった。そして哀れな赤ん坊の洗礼はいうまでもなくそのままとり行なわれた。グリゴリイは洗礼盤のそばで一心に祈りを捧げたけれど、嬰児に対する自分の意見は変えなかった。それかといって、別段邪魔をするでもなかったが、その病弱な子供の生きていた二週間というもの、ほとんどそれを見向こうともしなかったばかりか、目につくのさえいとって、たいがいは家を明けていたほどである。しかし二週たって、子供が鵞口瘡のために死んだときには、自分でその子を小さい棺に納めて、深い憂愁の面もちでじっとそれを眺めていた。そして浅いささやかな墓穴に土をかぶせた時、彼はひざまずいて、土饅頭に額のつくほど礼拝するのであった。そのとき以来長年のあいだ、彼は一度も自分の赤ん坊のことを口にしなかった。マルファ・イグナーチエヴナも、彼の前では子供のことを思い出さないようにした。そして誰かと自分の『赤ちゃん』の話をするようなことがあると、その場にグリゴリイ・ワシーリエヴィッチが居合わさなくても、ささやき声で話したものである。マルファの気づいたところでは、その墓場の一件以来、彼はもっぱら『神信心』に凝りだし、たいがいひとり黙々として、『殉教者伝』に読みふけったが、そのつど、大きな丸い銀縁の眼鏡をかけるのであった。声をあげて読むのはごくまれで、大斎期の際くらいのものであった、約百記を好んで読んだが、またどこからか『聖き父イサーク・シーリン』の箴言や教訓の写しを手に入れて、しんぼうづよく長年のあいだ読み続けたが、それはほとんどまるっきりわからなかった。しかし、わからないがために、こよなくその書物を尊び、かつ愛着したのかもしれない。最近になって彼は、近所に信者があったため、鞭打教の宗旨に傾倒し始めてかなり心を動かされたらしいが、その新しい信仰に改宗するほどの気持にはなれなかった。『神信心』の書物を耽読したことから、彼の人相にはなおさらに大きなもったいらしさが加わった。
おそらく、彼は神秘的な傾向を持っていたのかもしれぬ。ところで、六本指の嬰児の出生とその死亡に引き続いてまるでわざとのように、もう一つ奇怪な、思いもよらぬ、突飛な事件が重なって、彼自身が後日言ったように、彼の魂に『烙印』を捺したのである。それはこうである、ちょうど六本指の赤ん坊を葬ったその日のこと、マルファ・イグナーチエヴナがふと夜半に眼をさますと、生まれ落ちたばかりの嬰児の泣き声らしいものを耳に留めたのだ。彼女は愕然とし良人を呼び起こした。こちらは耳を澄ましていたが、どうもこれは誰かうなっているようだ、しかも、『女らしいぞ』と言った。彼は起き上がって着物を着た。それはかなり暖かい五月の夜であった。上がり段へ出てみると、うめき声は明らかに庭の方から聞こえてくる。しかし庭は夜になると屋敷のほうから錠をおろしてしまううえに、ぐるりを高い堅固な塀で取り囲んであるから、中へはいる口はないはずであった。グリゴリイは家へとって返すと、提燈を点して庭口の鍵を持った。そして妻が、自分にはどうしても子供の泣き声らしく聞こえる、きっと死んだ赤ん坊が自分を呼んで泣いているのだと思いこんで、ヒステリイのようにおびえているのには眼もくれず、黙ったまま庭へ出て行った。ここで彼は明らかに、その声は耳門からほど近く、庭の中に立っている湯殿の中から漏れてくるのであって、疑いもなく女のうめき声だということを確かめた。湯殿の戸をあけて中をのぞいた時、彼はその光景の前に立ちすくんだ。いつも街をうろつき回って、リザヴェータ・スメルジャシチャヤというあだ名で町じゅう誰知らぬ者もない宗教狂女が、邸内の湯殿へはいりこんで、たった今赤ん坊を生み落としたばかりのところであった。赤ん坊は女のそばにころがっており、産婦は気息奄々たるありさまであった。彼女は何ひとこと物を言わなかったが、それは言いたくても、もう口がきけないからであった。しかしこの事件については特別に説明しなければならない……
ここに、グリゴリイが以前からいだいていたある不愉快なけがらわしい疑惑を、徹底的に裏書きして、彼の心を震憾させた特別の事情があったのである。このリザヴェータ・スメルジャシチャヤは恐ろしく背の低い娘で、死んだ後まで多くの信心深い町の老婆たちに、『二アルシンと少しっきゃなかった』などと感慨深そうに述懐されたほどである。二十歳になる彼女の健康そうに赤味を帯びただだっ広い顔は、全く白痴の相をしていた。その目つきは柔和ではあったが、じっとすわって気味が悪かった。彼女は生涯、夏冬ともはだしに麻の襦袢一枚で歩き回っていた。非常に濃い髪の毛はほとんど漆黒で、緬羊の毛のように縮れて、大きな帽子かなんぞのように彼女の頭に載っていた。そのうえ、いつも地面やごみの中に寝るものだから土や泥によごれて、木の葉や木っぱや、鉋屑などがくっついていた。零落した宿なしで病身の父親イリヤはひどい飲んだくれで、もう長年のあいだ、やはりこの町の町人で物持ちの家に雇人のようにして住みこんでいる。リザヴェータの母親はもうとうに亡くなっていた。いつも病気がちでじりじりしていたイリヤは、リザヴェータが帰って来るたんびに、むごたらしく責め折檻した。しかし彼女は神聖な白痴、宗教狂[#ルビの「コロージワイ」は底本では「コロジーワイ」]として町じゅうの世話を受けて暮らしていたので、あまり家へは寄りつかなかった。イリヤの主人夫妻や、イリヤ自身や、その他、おもに商人や商家の内儀などといった、あわれみ深い多くの町の人たちが、リザヴェータに襦袢ひとつきりというような見苦しい服装をさせておくまいと何度骨折ってみたかしれず、冬になればきまって外套をはおらせたり、長靴をはかせたりしたものだ。しかし彼女は、たいていおとなしく着せられるがままになっているが、いざその場を立ち去ると、きっとどこか、おもに寺院の入口などで、せっかく自分に恵まれた物を何から何まで、――頭巾であれ、腰巻きであれ、外套であれ、長靴であれ、一つ残らずその場に脱ぎすてて、また以前の襦袢ひとつになって、はだしのまま立ち去るのであった。一度こんなことがあった。当県の新任の知事が何かのついでにこの町を視察したおり、リザヴェータの姿を認めて、その美しい感情をひどく傷つけられた。なるほどそれは、報告のとおり宗教狂女だと納得はしたけれど、それにしても若い娘を襦袢一枚でうろうろさせておくのは、風儀をみだすことであるから、以後さようなことのないようにと注意した。しかし知事が立ち去ってしまうと、リザヴェータはまたもや以前のまますておかれた。そのうちに、とうとう父親も死んでしまった。そうすると彼女は孤児になったからというので、かえって町の信心深い人たちにとっていっそういじらしいものになった。実際、彼女はみんなから可愛がられているようであった。子供ですら彼女をからかったり、はずかしめたりはしなかった。とかく子供、ことに小学生というものは腕白がちなものであるのに。彼女が見知らぬ家へつかつかはいって行っても、誰も彼女を追い出そうとはしないばかりか、かえっていろいろいたわって、小銭をやったりする。人が金をやると彼女はそれを受け取るが、すぐお寺か監獄の慈善箱へ持って行って、投げこんでしまう。市場で輪パンや巻きパンをもらっても、きっとそれを出会いがしらの子供にやってしまう。でなければ、町でも指折りの金持ちの奥さんを引き止めて、それをやるのだが、そういう奥さんも、むしろ喜んでそれを受け取るのであった。そして自分は黒パンと水とよりほかはけっして食べようとしなかった。彼女はよく、大きな店へはいりこんで坐りこむことがある、そこには高価な品物や金などが出してあっても、店の主人はけっして彼女を警戒するようなことがなかった。たとえ彼女の前へ何千ルーブル放り出したまま忘れていても、その金を一カペイカだって取られる心配のないことをよく知っているからであった。寺へはめったに立ち寄らなかった。夜は寺院の入口か、さもなければよその家の籬を越して(この町には塀がわりの籬が、今日でも随所にあるから)菜園の中で寝るのであった。自宅へは、つまり亡父が雇われていた主人の家へは、およそ一週一度ぐらい姿を見せたが、冬分は毎日やって来た。しかし、それもほんの夜だけで、入口なり牛部屋なりで泊ってゆくのであった。人々は彼女がこんな生活によく耐えてゆくと思って不思議がったが、彼女にはそれがもう慣れっこになっていたのである。彼女は背丈こそ短かったが、体格は人並はずれてがんじょうにできていた。町の紳士連の中には、彼女がこんなことをするのはただ見得にすぎないと断定する人もあったけれど、どうもそれではつじつまが合わない。彼女はひと言も口をきくことができないで、ただときどき妙に舌をもつらせて、ムムとうなるだけであった――こんな風では、見得も外聞もあったものではない。さてある時こんなことがあった。(だいぶん以前の話だが)明るくて暖かい九月のある満月の夜、この町でいえばだいぶん遅い刻限に、遊び疲れてしたたか酔っ払ったこの町の五、六人の紳士の群れがクラブから『裏町』づたいに家路をたどっていた。路地の両側には籬が連なって、その後ろに隣接した家々の菜園が続いていた。その路地は、この町で時によっては川と呼んでいる、臭い細長い水たまりに掛け渡した板橋のほうへ抜けていた。さてこの一行が、籬の蕁麻や山牛蒡の[#「山牛蒡の」は底本では「山午蒡の」]中に眠っているリザヴェータの姿を見つけたというわけである。酩酊した連中はげらげら笑いながら、そのそばに立ち止まると、口から出まかせに猥褻な冗談を言い始めた。と、突然一人の若い紳士が、まるでお話にもならぬ奇矯な問題を考えついた。『誰かこの獣を女として遇することができるだろうか。さあ、今すぐにでもできる者があるかしら』云々、というのであった。人々はさもけがらわしいというような傲然たる態度で、そんなことはとうてい不可能だと答えた。しかしこの一行の中に偶然居合わせたフョードル・パーヴロヴィッチがすぐ前へ飛び出して、女として遇することができる、大いにできる、しかも独特なある妙味さえある云々、と断言した。実際そのころの彼は、わざと道化の役を引き受けて、どこへでも出しゃばって、みんなをおもしろがらすのが楽しみであった。で、見かけは対等のつきあいでも、その実一同にとっては全然下種下郎にすぎなかった。それはちょうど、彼が先妻のアデライーダ・イワーノヴナの訃報を、ペテルブルグから受け取ったばかりのころであったが、しかも彼は帽子に喪章をつけたまま、飲み歩いたり、醜態の限りを尽くしていたので、この町で最もひどい放蕩者でさえ、彼を見ると、眉をひそめるくらいであった。一行はむろんこの突飛な意見を聞くと、げらげら笑った。そしてその中の一人などは、フョードル・パーヴロヴィッチの尻押しをしにかかったほどであったが、他の連中は、やはりなお、並はずれの陽気さは失わなかったけれど、いっそう頻繁にぺっぺっと唾を吐いた。そしてやがて一同はその場を離れて先へ歩を進めた。その後フョードル・パーヴロヴィッチは、自分もそのときみんなといっしょに立ち去ったことを断固として強調したが、はたしてその通りであったか否か、現に誰ひとり確かなことを知っている者もなければ、かつて知っていた者もないのである。しかしそれから五、六か月もすると、リザヴェータが大腹をかかえて歩いているということを、町じゅうの者がひどく憤慨して取りざたし始めた。そしていったい誰が犯した罪なのか、はずかしめを加えたのは何者かと、さまざまに問いただしたり、穿鑿したりした。ところがちょうどそのとき、その凌辱者はほかならぬフョードル・パーヴロヴィッチだという奇怪なうわさが、ぱっと町じゅうに広がった。このうわさはいったいどこから出たものであろう? 例の酔っぱらいの一行のうち、ちょうどその時この町に残っていたのは、たった一人の仲間で、それも家庭を営み、年ごろの娘を幾人も持っているような、相当の年配で分別ざかりの五等官であるから、たとえ何かそこに根拠があったとしても、けっしてそんなことを言い触らすはずがなかった。自余の五人ばかりの仲間は当時それぞれ町を引きあげてしまっていた。しかしその風説はまがうかたなくフョードル・パーヴロヴィッチを目当てに流布されたもので、いまだにそう信じられているのである。むろん、当人はそのことをたいして弁解もしなかった。彼はそんじょそこらの商人や町人どもを相手に取ることを潔しとしなかった。当時の彼は鼻息が荒くて、自分が一生懸命お太鼓を持っている官吏や貴族の仲間とでなければ、口もきかないありさまであったからである。グリゴリイが全力をあげて主人のために敢然として立ったのは、このときである。彼はそうした誹謗に対して主人を弁護したばかりか、主人のために喧嘩口論までして、多くの人の意見をくつがえした。『あの下種女の自業自得だ』と、彼は断固として言った。そして当の相手は『あのねじ釘のカルプ』(それは当時、町じゅう誰知らぬ者もない恐ろしいお尋ね者で、県の監獄を脱走して、この町に身を潜めていた男である)以外の誰でもないと突張ったものである。この推測はいかにもまことしやかに思われた。人々はこのカルプのことを覚えていた。ちょうどその秋の初めごろまさしくあの夜の前後に、彼が町を徘徊して三人ばかり追いはぎを働いた事実はまだ人の記憶に新しかったからである。しかしこうした事件や風説は、哀れな信心気ちがいに対する町の人たち一般の同情を殺がなかったばかりか、人々はますます彼女を大事にかけて保護するようになった。ある裕福な商家の孀でコンドラーチエワという女は、まだ四月の末ごろからリザヴェータを自分の家へ引き取って、お産の済むまでは外へ出さないように取り計らったほどである。家人は夜の目も寝ずに彼女を見張っていたが、結局その苦心のかいもなく、リザヴェータは最後の日の夕方、突然、コンドラーチエワの家をこっそり抜け出して、フョードル・パーヴロヴィッチの家の庭に姿を現わしたのである。ただならぬ体の彼女がどうして高い堅固な庭の塀を乗り越えたかということは、一つの謎として残っている。ある者は誰か人に助けられたのだとも言うし、またある者は何か精霊が運び入れたのだと言った。が、何より確からしいのは、それがきわめてむずかしいことではあるけれど、自然な方法で行なわれたという説である。つまりリザヴェータはよその菜園へはいって寝るために、籬を越すことがじょうずであったから、フョードル・パーヴロヴィッチの家の塀へもどうにかしてはいあがって、身体に障るとは知りながら、妊娠の身をも顧みず、そこから飛びおりたものであろう。グリゴリイはマルファ・イグナーチエヴナのもとへ駆けつけると、彼女をリザヴェータの介抱にやり、自分はちょうどおりよく近所に住んでいる、年寄りの産婆を迎えに飛び出して行った。赤ん坊は助かったが、リザヴェータは夜の引き明けに死んでしまった。グリゴリイは赤ん坊を抱き上げて家へ連れ戻ると、妻を坐らせて、その乳房へ押しつけるようにして、赤ん坊を彼女の膝へ載せた。『神様の子だよ――孤児ちゅうもんは、みんなの親類だが、おいらにとっちゃあ、ましてのことじゃ。こりゃあ家の赤ん坊がおいらに授けてくれたのに違えねえだが、それにしてもこの子は、悪魔の息子と天使のあいだにできたもんだぞ。育ててやるがええだ、もうこれからさきゃ泣くでねえだぞ』そこでマルファ・イグナーチエヴナはその子供を育てることになった。洗礼を授けてパーヴェルと命名されたが、父称は誰いうとなく、フョードロヴィッチと呼ばれるようになった。フョードル・パーヴロヴィッチはなんら抗議を唱えるでもなく、むしろそれをおもしろがっていたが、それでも一生懸命にすべての事実を否定し続けた。彼がこの捨て子を引き取ったということは、町の人の気に入った。後になって、フョードル・パーヴロヴィッチはこの孤児のために、苗字まで作ってやった。それは母親のあだ名の『悪臭ある女』から取って、スメルジャコフとしたのである。このスメルジャコフが成人して、フョードル・パーヴロヴィッチの第二の下男として、この物語の初めのころ、老僕グリゴリイ夫婦と共に、傍屋に住んでいたのである。彼は料理番として使われていた。この男についても、何かといろいろ述べておく必要が大いにあるのだが、こんなありふれた下男どものことに、あまり長く読者の注意を引き止めるのもいかがと思われるから、スメルジャコフに関しては、このさき物語の進展につれて、おのずから明瞭になることを期待して、ひとまず前の続きに移ることにしよう。
アリョーシャは、父が修道院からの帰りぎわに馬車の中から大声をあげて命令したことばを聞いて、しばらくのあいだひどく当惑して、その場に立ちつくした。しかし別段、棒立ちに立ちすくんだわけではない。そんなことは彼にはありえなかった。それどころか、恐ろしく心配はしながらも、彼はさっそく修道院長の勝手口へ行って、父が上でしでかした一部始終を聞き取ったのであった。それから彼は、今自分を悩ましている問題も道々なんとか解決がつくだろうという望みをいだきながら、ともかく、町をさして急いだのであった。前もって断わっておくが、『枕も蒲団も引っかついで』家へ帰って来いとの父の命令もわめき声も、彼にはいっこう恐ろしくはなかった。ああしてぎょうさんに聞こえよがしにわめき立てて帰宅せよとの命令は、ただ単にいわば『羽目をはずした』出まかせの、むしろその場の潤色に用いられたものにすぎないことを彼は百も承知していたのである。たとえばつい最近、この町のさる商人が、自分の命名日にあまり飲み過ぎたため、もうウォトカはよしなさいと言われたのに腹を立てたあげく、客の前をもはばからず、突然、自分自身の食器を打ち砕いたり、自分や妻君の着物を引き裂いたり、家具や、果ては屋内のガラスまでたたきこわしたものだが、これも同じく潤色のためで、今日父が演じたのも、これと同巧異曲の一幕であった。もちろんその食らい酔った商人もあくる日はすっかり酔いがさめて、自分のこわした茶碗や皿を惜しがったものだ。だからアリョーシャは、老父も明日になったら自分を修道院へ返してくれる、いや今日にも返してくれるかもしれぬことを見抜いていた。それに彼は父が、他の者ならともかく、自分を侮辱しようなどと考えるはずがないと、固く信じていた。彼は世の中に誰ひとり、自分を侮辱しようとするものはない、否、侮辱しようとする者がないばかりか、侮辱しうる者がないと信じていた。これは理屈なしに断然、彼の心に決定している公理であった。この意味で彼は、なんらの動揺もなしに前進することができたのである。
しかしこの時、彼の心中には、全く種類を異にしたある別の疑懼の念が蠢動していた。しかも自分ではっきりとそれを把握することができないために、それはいっそう悩ましく感ぜられるのであった。それはまさしく女性に対する恐怖であった。つまりさきほどホフラーコワ夫人から渡された手紙で、何か用事があるからぜひ来てもらいたいと、しつこく頼んでよこした、かのカテリーナ・イワーノヴナに対する恐怖であった。この要求と、そこにぜひ行かねばならぬことが、たちまち彼の胸に何か妙に悩ましい感じを起こさせたのである。そして修道院内で相次いで起こったいろいろの事件や、今また院長のもとで演ぜられた醜態などにもかかわらず、この感じは午前中を通して、しだいしだいに悩ましさを増して彼の心を疼かせていったのである。
彼が恐れたのは、カテリーナ・イワーノヴナが何を言いだすか、またそれに対してこっちからなんと答えたものか、そんなことがわからないためではなかった。また一般的に女としての彼女を恐れたわけでもなかった。いうまでもなく、彼は女というものをあまり知らなかったが、しかしそうは言っても、ほんの幼少のころから、修道院へはいるすぐ前まで、ずっと女のあいだばかりで暮らしているのだ。彼が恐れていたのはまさしくこの、カテリーナ・イワーノヴナという女なのである。そもそもはじめて会ったその時からして、彼にはこの女が恐ろしかったのである。もっとも、この女に会ったのはほんの一度か二度、あるいは三度くらいなものである。しかしいつか何かの拍子で、二言、三言ことばをかわしたことがあった。彼女の姿は、美しく誇らかで威厳の備わった娘として彼の記憶に残っていた。しかし彼の心を悩ましたものはその美貌ではなく、何か他のことであった。そもそもこの恐怖の本体をつかむことができないために、いっそう彼の心中に恐怖が募ってゆくのであった。この娘の目的が高潔なものに違いないことは、彼もよく知っていた。彼女は自分に対してすでに罪を犯した兄ドミトリイを救おうと、一心になっている、しかもそれはひたすら寛大な心からそうしているのである。ところが、今それをのみこんでいるうえに、そうした美しい寛大な気持に対して敬意をいだきながらも、彼はその女の家に近づくにつれて、背筋をぞっと寒けが走るように感じた。
彼の想像では、その女と非常に親密なあいだがらの兄イワン・フョードロヴィッチも、今は彼女の家へ来ていなさそうであった。兄イワン・フョードロヴィッチは今ごろは父といっしょにいるに違いなかった。ドミトリイが来ていないことはいっそう確実であった。なぜか彼にはそういう予感がしたのである。してみると、二人の談合は差し向かいで行なわれることになる。で、彼はこの宿命的な会見をする前に、ドミトリイのところへ駆けつけて、ひとめ会って来たいような気がしてならなかった。そうすれば、この手紙は見せないで、何かちょっと打ち合わせておくこともできる。しかし、兄ドミトリイは、かなり遠方に住んでいるし、やはり今はおそらく留守らしい気がした。一分間ばかりその場にたたずんでいたが、ついに彼はきっぱりと心を決めた。あわただしく習慣的な十字を切ると、すぐに何かにっこり一つほほえんでから、彼は自分にとって恐ろしいその婦人のもとへ敢然として歩き出した。
彼は女の家をよく知っていた。しかし、大通りへ出て広場を通ったりなどしていたら、かなり道程が遠くなるのであった。小さい町のくせに、家がまばらに建っているので町内の距離はいいかげん大きいのである。それに父親も彼を待っていて、ことによると、まだ例の言いつけを忘れないで、またしても気まぐれなことを言いださぬとも限らないから、彼方へも此方へも間に合うようにするにはずいぶん急がなくてはならない。かれこれ思い巡らしたあげく、彼は裏道を通って道程を短縮しようと心に決めた。彼は町内のそうした抜け道を五本の指のようによく知っていた。裏道といえば荒れ果てた垣根に沿って、ほとんど道でない所へ通じているので、どうかすると、よその籬を踏み越えたり、よその庭を突き抜けたりしなければならない。もっとも、よそといったところで、みんな彼を知っているので、誰でも彼に向かって挨拶をした。こういう道を通って行きさえすれば大通りへ出るのに道程が半分くらい近くなる。一か所、父の家のすぐそばを通り過ぎなければならなかった。それは父の家の庭と境を接している隣家の庭の脇であった。その庭は、窓が四つあるゆがんで古ぼけた小家に付属していた。その小家の持ち主というのは、娘と二人暮らしの足の萎えた老婆で、この町の町人だということは、アリョーシャもよく知っていた。その娘はかつて都で小間使いをしていて、ついこのあいだまで将軍の邸などで暮らしていたのが、一年ばかり前から老母の病気のために家へ帰って派手な着物を見せびらかしていた。しかし、この老婆と娘は貧窮の極に達して、隣同士のよしみによって毎日のようにカラマゾフ家の台所へ、スープやパンをもらいに来るほどになった。マルファ・イグナーチエヴナも、二人に気前よく分けてやっていた。ところが、この娘はスープの無心にまで来るくせに、自分の着物は一枚も売ろうとしなかった。そればかりか、その中の一枚などは、やたらに長い裳裾のついたものであった。アリョーシャはもとより、この最後の事実については、ゆくりなくも、町のことならば何から何まで知っている例のラキーチンから聞かされたのであったが、いうまでもなく、聞くと同時に、すぐにまた忘れてしまった。けれど今、隣家の庭の前まで来たとき、ふっとこの裳裾のことを思い出すと、それまで物思いに沈んで、うなだれていた頭をひょいと振り上げた……と、実に思いもかけぬ人に出くわした。
隣家の庭の籬の向こうから、兄のドミトリイ・フョードロヴィッチが何か踏み台に乗って胸から上を現わしていた。そして、しきりに合図をしながら彼を手招きしているが、明らかに彼は、大声に呼ぶどころか、人に聞かれはしないかとの心配から、口に出してはひと言も物を言わなかった。アリョーシャはすぐに籬のそばへ駆け寄った。
「ああ、おまえのほうからこちらをふり向いてくれてよかった。でなかったら、もう少しでおまえを大声で呼ぶところだったよ」と、さも嬉しそうに、ドミトリイ・フョードロヴィッチはあわただしくささやいた、「さあ、ここへ上がって来いよ! 早く! ああ、ほんとにおまえが来てくれてよかった。おれは今もおまえのことを考えていたところだ……」
アリョーシャのほうでも嬉しかったが、ただどうして籬を越えたものかと途方に暮れた。しかし、『ミーチャ』がたくましい手で弟の肘をつかんで、飛び越えられるように助けてくれた。アリョーシャは法衣の裾をからげると、町のはだし小僧のような身軽さで、ひょいと籬を飛び越した。
「さあ行こう!」有頂天なささやきがミーチャの咽喉を漏れた。
「どこへよ!」とアリョーシャも、ぐるりを見回して自分の立っているところがまるっきりがらんとした庭で、二人のほかには誰もいないのを見て、ささやいた。それは小さな庭であったが、それでも、持ち主の家の建っているところまでは、そこから五十歩以上もあった、「ここには誰もいやしないのに、なんだってそんな小さな声をするの?」
「なんで小さな声をするって? えい、くそ!」と、ドミトリイ・フョードロヴィッチは不意に思いきり声を張りあげて叫んだ、「なるほど、なんだって小さな声なんか出したのだろう。なあ、人間の本性なんて、こういうつじつまの合わんことをしでかすものだよ。おれは内緒でここへ忍びこんで、ある秘密を見張っているんだ。わけはあとで話すが、それを秘密だと思いこんでいるものだから、急に口をきくことまで秘密にして、なんの必要もないのに、ばかみたいに小さな声を出したのさ。さあ行こう! そら、あすこだよ! それまで黙っててくれ。おれはおまえを接吻してやりたいんだ!
この世の福に御栄光あれ
わが身の神に御栄光あれ……
わが身の神に御栄光あれ……
こいつをおれは、たった今おまえが来るまで、ここに坐ってくり返してたのさ……」
庭は一町歩か、それとも、もう少し多いくらいの広さであったが、樹木はぐるりにだけ四方の垣根沿いに、幾本かの林檎の樹と、楓に菩提樹、白樺が各一本ずつ植えてあるだけであった。庭の中央はがら空きで、ささやかな草地になっていて、夏になると十四、五貫の乾草が刈り取れるのであった。持ち主は春からさきを幾ルーブルかでこの庭を賃貸ししていた。まだほかに蝦夷苺やすぐりやグースベリの畑があったが、これらもやはり垣根の近くであった。野菜畑も家のすぐ近くにあったが、これは最近作られたばかりである。ドミトリイ・フョードロヴィッチは母屋から最も離れた庭の隅へ客をつれて行った。すると、こんもり繁った菩提樹の木のあいだの、すぐりや接骨木や莢叢やライラックの叢みの中から、忽然として、古ぼけて、まるで残骸のようになった緑色の四阿が現われた。黒ずんでいて、今にも倒れそうになっており、壁は格子になってはいたが、屋根が葺いてあって、まだ雨露をしのぐことができそうである。この四阿がいつ建ったかは知るよしもないが、言い伝えによると、なんでも今から五十年ほど前に、当時この家の持ち主であったアレクサンドル・カルロヴィッチ・フォン・シュミットという退職中佐によって建てられたものらしい。しかし、すっかりもう朽ち果てて、床は腐り、床板はぐらついて、用材からは湿っぽい臭いがしていた。四阿のまん中には木製の緑色のテーブルが地面へ掘っ立てになっていて、そのぐるりを、同じく緑色の床几が取り囲んでいたが、それにはまだ腰かけることができた。アリョーシャは最初から兄の浮き立った様子に気づいていたが、四阿へはいると、テーブルの上にコニャクの小びんと、杯が置いてあるのを見て取った。
「こりゃあ、コニャクだよ!」とミーチャは笑いだした、「もうおまえは『また酔っ払ってる』とでもいうような眼つきをしてるな。幻影を信じちゃいかんよ。
偽り多く空ろなる人を信ぜず、
おのが疑惑を忘じたまえ……
おのが疑惑を忘じたまえ……
おれは酔っ払っちゃいないんだ、ただ『玩味してる』だけだ。これはおまえのラキーチンの豚野郎の言いぐさだよ。あいつはそのうちに五等官ぐらいにはなるだろうが、やっぱり『玩味する』式の言い方はやめないだろうよ。まあ坐れ。おれはね、アリョーシカ、おまえを抱いてつぶれるほどこの胸へ締めつけてやりたいんだよ。だって、世界じゅうに……本当に……(いいかい! いいかい!)ほ・ん・とうにだよ……おれが愛している人間といえば、おまえ一人っきりなんだものなあ!」
この最後の一句を発言する時、彼はほとんど前後を忘却するほど興奮していた。
「おまえ一人っきりなんだよ、いや、もう一人おれはある『卑しい女』に惚れこんでいる。そのためにおれは破滅してしまったんだ。しかし、惚れこむっていうのは愛することじゃない。惚れるのは憎みながらでもできる。よく覚えとけよ! 今のところおれは話すのが愉快だ! まあ坐れよ、このテーブルの前にさ、おれはこうそばに坐って、横からおまえの顔を見ながら、何もかも話してしまうからさ、おまえは黙ってるんだぜ、おれが何もかも話しちゃうからな。だって、もういよいよ日限が来てしまったんだからなあ。だが、いいかい、おれは実際そうっと話さなきゃならん、と考えたんだよ。だってここには……ここには……どんな意外な聞き耳が立てられないとも限らないからなあ。さあ、すっかりわけを話すよ。以下次号ってやつをさ。いったいおれはどうして、こうおまえのことばかり考えて、この四、五日、いや現に今だって、おまえを待ち焦がれていたんだろう?(おれがここへ神輿をすえてからもう五日目だよ)。この四、五日というもの! それはこうだ、おまえ一人っきりに何もかも話したかったんだ。なぜって、そうしなくっちゃならないからだよ。ぜひおまえが必要だからさ。なぜって、おれは明日にも雲の上から飛びおりるからさ、明日はいよいよおれの生涯がおしまいになって、そしてまた始まるのだからさ。おまえは山のてっぺんから穴の底へ落っこちるような気持を経験したことがあるかい、夢にでも見たことがあるかい? ところが、おれは今、夢ではなく、実際に落っこちてるんだよ。それでいてこわくもないのさ、だからおまえもこわがることはないよ。いや、こわいにはこわいけど、いい気持なんだ。いや、いい気持というより、有頂天なんだ……ええ畜生っ、どっちにしたって同じこった。強い心、弱い心、めめしい心――ええなんだってかまうもんか! ああ自然は賛美すべきかなだ。御覧よ。太陽の光りはどうだ、空は晴れわたり、木の葉はどれも青々として、すっかりまだ夏景色だ、いま午後の四時まえ、なんて静かだろう! おまえどこへ行くとこだい?」
「お父さんのとこへ。しかしその前にカテリーナ・イワーノヴナのとこへ行こうと思って」
「なに、あの女のとこと親父のとこへだって! うふ! なんという符合だろう! 第一おれがおまえを呼んだのはなんのためだろう、おまえを待ち焦がれていたのはなんのためだろう、おれが心の襞の一つ一つ、いや、肋骨の一枚一枚で、おまえの来るのを待ちあぐねていたのはなんのためだろう? それはほかでもない、おれの代わりにおまえをその親爺のところへやって、それからあの女の、つまりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行ってもらって、それでもって親爺のほうも、あの女のほうもすっかりけりをつけようと思ってだよ、天使を使いにやろうってわけさ。おれは誰だって使いにやれたのだけれど、どうしても天使に行ってもらわなきゃならなかったんだ。だのに、おまえは自分からあの女と親爺のとこへ行くところだなんて」
「兄さんはほんとに僕を使いにやりたかったの?」こう痛ましげな表情を面に浮かべながら、アリョーシャが口走った。
「待て待て、おまえはそれを知ってたんだな。それに、おまえがすぐに何もかものみこんでしまったことは、ちゃんとわかるよ。しかし、黙っててくれ、しばらく黙っててくれ、悲しんでくれるな。泣くんじゃない!」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、考えこみながら指を額にあてがった。
「あの女のほうからおまえを呼んだんだろ、あの女がおまえに手紙をよこすか、どうかしたんで、それで出かけるところだったんだろ? でなきゃおまえが出かけるわけがないからなあ」
「これが手紙ですよ」アリョーシャはポケットから手紙を取り出した。ミーチャは手早くそれに目を通した。
「それにおまえが裏道を通って行こうなんて! おお神々様! 弟に裏道を通らせてくださって、まるでお伽噺にあるばかな漁師に黄金の魚が手にはいったように、わたくしと出会わしてくだすったことをほんとに感謝いたします。さあ、聞いてくれ、アリョーシャ、聞いてくれ、弟。今こそおれは何もかも言ってしまうつもりなんだよ。どうせ誰かには話さなきゃならないんだからなあ。天上界の天使にはもう話したが、地上の天使にも話さなきゃならない。おまえは地上の天使なんだよ。よく聞いて、判断して、そして許してくれ……。おれは誰か一段上の人に許してもらわなきゃならないんだ。いいかい、もしある二人の人間があらゆる地上のきずなを断ち切って、どこかまるで稀有な世界へ飛んで行くとする、否少なくともその中の一人が、飛んで行って滅びてしまうに先だって、もう一人のところへやって来て、これこれのことをしてくれと、臨終の床の中ででもない限り、他人に持ちかけることのできないようなことを頼んだとしたら、その男はそれを諾いてやるだろうかどうだろう?……もしそれが親友か兄弟であったとしたら?」
「僕は諾いてやります。けれどそれが何か話してください、一刻も早く話してください」とアリョーシャが言った。
「一刻も早く……ふむ。まあせくなよ、アリョーシャ。おまえはいやにせいて気をもんでるんだよ。今は何も急ぐことなんかありゃしない。いま世界は新しい道へ出たんだものなあ。ほんに、アリョーシャ、おまえが有頂天になれるほど考え抜かなかったのは残念だよ! それにしても、おれはいったい何を言ってるんだ? おまえが考え抜かなかったなんて! この文盲のおれがこんなことを言ったらどうだい?
『人よ、気高き者となれ!』
これは誰の詩だったっけなあ?」
アリョーシャはしばらく待っていようと心を決めた。彼は自分の仕事が何もかも、今はここにあるのかもしれないと考えたのである。ミーチャは一瞬のあいだテーブルに肘をついて、掌へ頭をもたせながら物思いに沈んだ。二人ともちょっと沈黙に落ちた。
「アリョーシャ」とミーチャが言った、「おまえだけは笑ったりなんかしないね! おれは……自分の懺悔を……シルレルの喜びの頒歌でもって切り出したいのだ。An die Freude でもって! だが、おれはドイツ語は知らないんだ。ただこの An die Freude だけ知ってるのさ。しかし、おれが酔っ払ってこんなことを言うと思わないでくれ。おれはちっとも酔っ払ってなんかいないんだよ。コニャクはあるにはあるけれど、酔うには二本なくちゃなあ。
サイリーナスは紅ら顔して
つまずきやすき驢馬に乗り……
つまずきやすき驢馬に乗り……
だが、おれはこのびんの四半分も飲んじゃあいないのだからサイリーナスじゃない。サイリーナスじゃないが強者だよ。だって、もう永久に覚悟の臍が決まってるんだからなあ。いや、こんな地口は許してくんなよ。今日は地口どころじゃない、まだいろんなことを許してくれなくちゃならないんだよ。だが心配することはないよ、おれはへたに潤色を施してるんじゃない。まじめなことを話しているのだ。さっそく問題に移るよ。おれは自分の魂をユダヤ人みたいなものにしやしない。が、待てよ、あれはどうだったけな……」
彼は頭を擡げて考えこんでいたが、不意に熱狂した調子でうたい始めた。
「まとうものなく、人慣れず、
心ちいさき野の人は
岩屋の奥に身をひそめ、遠近の野をさすらいて
遊牧の民は野を荒らし……
猟人は槍と矢をもちて
森より森といかめしく走りゆきしか……
悲しさよ、波のまにまによるべなき
岸にすてられ、果つる人!
オリンピア 山を下りて、母のセレース、
さらわれし愛し娘のプロセルピンの
あとを追いしが、
心なき世はさみしくて。
身を寄するところもあらず、
よろこびて、むかうる人の一人とてなく、
このあたり、いずくの寺も
神を崇むるけしきとてなく。
野の実り、甘き葡萄の房さえも
うたげの席を賑わさず
血に染みし祭りの壇に
いけにえの残りのけぶり くゆるのみ
悲しき瞳もてセレースが
ふりさけ見れば、かなたには
汚れの底になずみたる
人の姿の見ゆるのみ」
心ちいさき野の人は
岩屋の奥に身をひそめ、遠近の野をさすらいて
遊牧の民は野を荒らし……
猟人は槍と矢をもちて
森より森といかめしく走りゆきしか……
悲しさよ、波のまにまによるべなき
岸にすてられ、果つる人!
オリンピア 山を下りて、母のセレース、
さらわれし愛し娘のプロセルピンの
あとを追いしが、
心なき世はさみしくて。
身を寄するところもあらず、
よろこびて、むかうる人の一人とてなく、
このあたり、いずくの寺も
神を崇むるけしきとてなく。
野の実り、甘き葡萄の房さえも
うたげの席を賑わさず
血に染みし祭りの壇に
いけにえの残りのけぶり くゆるのみ
悲しき瞳もてセレースが
ふりさけ見れば、かなたには
汚れの底になずみたる
人の姿の見ゆるのみ」
すすりなきの声が突然ミーチャの胸からほとばしり出た。彼はアリョーシャの手を取った。
「なあ、きょうだい、汚れの底なんだ。現におれは汚れの底に沈んでいるんだ。人間というものはこの地上で、恐ろしくいろんな目にあうものだよ。恐ろしくいろんな不幸な目にさ! どうか、このおれを、コニャクを飲んだり放蕩なまねをするだけの、将校の肩書きを持ったげすだとは思わないでくれ。おれはまるで、このことばかり考えているんだよ。この深い汚れに沈んだ人のことをさ。嘘を言っているのでさえなければなあ。いや、おれは今どうか嘘をついたり、空威張りをしたりはしたくないものだ。おれがこの人のことを考えるというのも、つまりは自分が同じような人間だからさ。
汚れのうちよりわが魂
救いいだして立たんとし、
昔ながら、母なる土と
とこしえに結び合いにき
救いいだして立たんとし、
昔ながら、母なる土と
とこしえに結び合いにき
しかし、ただどうしておれが大地と結び合ったものか、それが問題なんだ。おれは大地に接吻もしなければ、大地の胸を切り裂こうともしない。おれに百姓か牛飼いにでもなれっていうのかい? こうしておれは進んで行きながら、自分が悪臭と汚辱に足を突っこんだのか、それとも光明と歓喜の中へ踏み入ったのか、とんと見当がつかないのだ。こいつがどうもやっかいなんだよ、この世の中のことといえばいっさいがっさいが謎なんだ! おれが深い深い放蕩三昧の底へはまりこんで行くようなときには(おれにはそんなことよりほかに何もできやしないのだ)、いつもおれは、このセレースの歌と『人』の詩を読んだものだ。しかし、それがおれを矯正しただろうか? けっしてけっして! だって、おれはカラマゾフなんだもの。どうせ無限の底へ飛びこむのなら、いっそ思いきりまっさかさまに落ちるがいいんだ、しかも、そんな恥ずかしい状態に落ちるのを喜んで、それを自分にとって美的だと考えているのだからなあ。そして、こうした屈辱のまっただ中で、おれは不意に、讃美歌をうたいだすのだよ。たとえおれはのろわれたきたない下劣な人間にもせよ、神様の着てござる衣の端に接吻したっていいはずだ。それと同時に、たとえ悪魔の後ろについて行っても、おお神様、わたしはあなたの子供です。わたしはあなたを愛します、そして喜びを感じます。この喜びなくしては世界も存立することができません。
とこしえのよろこび、
ありとある人のこころをうるおす、
奇しくもわきたつ力、
いのちの杯をもやす。
ひとすじの草をも光りに向かわせ、
混沌の闇に明るき時をつくり、
占星師にもえ知られぬ
あまたの星を空にみたす
うるわしき自然の胸に
生きとし生けるものは喜びに酔いしれ、
あらゆるもの、ありとある民草を
その後につき従えぬ。
不幸なる人には友と
葡萄のつゆと、美の神の花の冠を
虫には――情欲を与え、……
天使は――神に向かう
ありとある人のこころをうるおす、
奇しくもわきたつ力、
いのちの杯をもやす。
ひとすじの草をも光りに向かわせ、
混沌の闇に明るき時をつくり、
占星師にもえ知られぬ
あまたの星を空にみたす
うるわしき自然の胸に
生きとし生けるものは喜びに酔いしれ、
あらゆるもの、ありとある民草を
その後につき従えぬ。
不幸なる人には友と
葡萄のつゆと、美の神の花の冠を
虫には――情欲を与え、……
天使は――神に向かう
しかし、もう詩はたくさんだ! ついおれは涙をこぼしたよ、まあ存分に泣かせてくれ。こんなことはばかげていて、みんなは笑うだろうけれど、おまえだけは笑わないね。そうら、おまえの目も光ってるじゃないか。もう詩はたくさんだ。おれは今おまえに『虫けら』の話をしてやるよ、あの、神様から情欲というものを授かった虫けらの話をさ。
『虫には――情欲を!』
おれはつまりその虫けらなのさ。これは特別におれのことを言ったものなんだよ。われわれカラマゾフの一族はみんなそういう人間なんだ。おまえのような天使の中にもその虫けらが巣くっていて、おまえの血の中に嵐を巻き起こすんだ。うん、それは嵐だ。だって、情欲は嵐なんだから、いや、嵐以上だよ! 美――こいつは恐ろしい、おっかないものだぞ! はっきりと決まっていないから恐ろしいんだ、しかもはっきり決めることができないのだ。だって、神様は謎より他に見せてくれないんだからなあ。美の中では両方の岸が一つに出会って、すべての矛盾がいっしょに住んでいるのだ。おれはね、ひどい無教育者だけれど、このことはずいぶんと考えたものだよ。なんて神秘なことだらけだろう! この地上では人間を苦しめる謎が多すぎるよ。この謎が解けたら、それこそ、濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ美が! それに、おれの我慢できないことは、心の気高い、しかもすぐれた知能を持った人間が、ともすれば、聖母の理想をいだいて踏み出しながら、結局ソドムの理想に終わることなんだ。もっと恐ろしいのは、すでに姦淫者ソドムの理想を心にいだける者が、しかも聖母の理想をも否定し得ないで、さながら純情無垢な青春時代のように、本当に、心から、その理想に胸を燃え立たせることだ。いや、人間の心は広大だ、あまり広大すぎる。おれはそいつを縮めてみたいくらいだ。ええ畜生、何が何だかさっぱりわかりゃしない、ほんとに! 理性では汚辱としか見えないものが、感情ではしばしば美に見えるんだ。ソドムの中に美があるのかしら? ところが、おまえ、本当のところ、大多数の人間にとっては、このソドムの中に美があるんだよ、――おまえはこの秘密を知ってるかい? 美は恐ろしいばかりじゃない、神秘なんだ――それがこわいのだ。つまり悪魔と神が戦っていて、そしてその戦場が人間の心なんだよ。ところが人間というものは自分の痛みより他には話したがらないものさ。さあ、これからが、本当の用談だよ」
「あっちでおれはずいぶん放蕩をしたものだ。さっき親爺は、おれが若い娘を誘惑するために、そのつど何千という金を使ったなどと言ったっけな。あれは豚の空想で、けっしてそんなことはありゃしないのさ。もしあったとしても、『あの事』のために金がいったのじゃないよ。金はおれにとってはただ付属物だ、魂の熱源だ、道具だ。今日れっきとした女がおれの恋人であっても、あすは淫売がそれに代わっているのだ。おれはどちらも楽しませてやるのだ。金は両手ですくって投げてやる、音楽だ、騒ぎだ、ジプシイだ。必要があればそんな連中にも金をやる。すると取るわ、取るわ、気ちがいのようになって取る、これはおれも認めなくちゃならない。しかもみな満足してお礼を言うよ。奥さん連もおれを可愛がってくれたよ。皆が皆というわけではないが、そんなこともあったっけ、よくあったっけ。だが、おれはいつも路地が好きだった。広場の裏の、暗い寂しい、曲がりくねった小路が好きだったよ、――そこには冒険がある、思いもかけぬことがある、泥の中に隠れた鉱石がある。いや、おれが言っているのは譬喩なんだよ。あの町には、実際に形をそなえた、そんな路地なんかありゃしなかったが、精神的な路地があったのさ。だが、おまえがおれのような人間だったらこの路地の意味がわかるんだけど。おれは放蕩を愛した、放蕩の恥辱をも愛した。そして残忍を愛したのだ。これでもおれは南京虫じゃなかろうか、あの有害な虫けらでは? なにしろ、カラマゾフだからなあ! ある時、町じゅう総出でピクニックをやったことがあるよ。七台の三頭立橇で出かけたんだ。冬のことだったがな、橇の中の暗闇にまぎれて、おれは隣りに坐っていた娘の手を握りしめにかかったんだ、その娘にひとつ接吻を許させようと思ったのさ。それは官吏の娘で、可哀そうな、優しい、しおらしいすなおなやつだったがね。とうとうおれに許したのだ。闇の中で、何もかも許してしまったんだ。可哀そうに、その娘は、すぐあくる日にもおれが行って、結婚の申しこみをするものと思っていたのさ、なにしろ、おれは花婿としての値打ちを認められていたんだからなあ。ところが、その後おれは、その娘にひと言も物を言わなかったんだ。五か月というもの、ただの半口も口をきかなかったんだ。舞踏会などのおりに(あの町では、やたらに舞踏会をやったものさ)、よくその娘の眼が広間の隅からじっとおれのあとを追っているのに気がついたよ、温順な憤りの火に燃え立っているのをよく見受けたものだよ。こんな遊戯は、おれが内心に養っている虫けらの欲情を慰めたにすぎないのだ。五か月たって、その娘はある官吏に嫁いで町を去ってしまった……腹を立てながらも、それでもたぶんこのおれを愛したままで……。今その夫婦は仕合わせに暮らしているよ。ところでおれは、そんなことは誰にも話したり、笑いぐさにしたりなんぞしなかったのだぜ、おれは卑しい欲望をいだいて、卑劣なことを愛するけれども、不名誉なことは嫌いだ。おまえは顔を赤くしたね。眼がきらっと光ったぜ。おまえには、もうこんなきたない話はたくさんだ。でも、これはそれだけの話さ、ポール・ド・コック式のお愛嬌だよ。もっとも、この時分から、残忍な虫けらはもう頭をもたげて、魂の中へのさばり始めてはいたけれど、いや、あのころの思い出で、一冊のアルバムができるくらいだよ。おお神様、あの可愛い娘たちに健康を授けてやってください。おれは別れに際して喧嘩するのは嫌いだったよ。そして一度だって裏切ったり、相手の顔に泥を塗ったりはしなかったよ。だが、もうたくさんだ、おまえはよもやおれが、こんなくだらぬ話をするために、わざわざおまえをここへ呼びこんだとは思うまいね? どうしてどうして、もっとおもしろい話を聞かせてやるよ。しかしおれが、おまえに対して恥ずかしげもなく、かえって得意になっているなどと、あきれないでおくれよ」
「兄さんは僕が赤い顔をしたので、そんなことを言うんでしょう」と、急にアリョーシャが聞きとがめた。
「僕が顔を赤らめたのは、兄さんの話のためでもなければ、兄さんのしたことのためでもありません。僕も兄さんと同じような人間だからです」
「おまえが? そいつは少しおおげさだよ」
「いいえ、おおげさじゃありません」とアリョーシャはやっきになって言った。(明らかに、この考えはだいぶ前から、彼の心の中にきざしていたらしい)――「誰だって皆同じ階段に立っているのです。ただ僕がいちばん下の段にいるとすれば、兄さんはどこか上のほうの、十三段目あたりに立ってるのです。これは僕の見方です。しかし結局は五十歩百歩で、つまるところ同じことなんです。いちばん下の段へ足を掛けた限り、いずれは必ずいちばん上まで登ってゆきます」
「じゃあ、全然足を掛けないことだね?」
「できるものなら、――全然足を掛けないことです」
「おまえにはできるかい?」
「だめなようです」
「もう言うな、アリョーシャ、もう言うな。おれはおまえの手が接吻したくなった、そう、感激のあまりにさ。あのグルーシェンカのあばずれは人間学の大家だよ。この女は、いつかはきっとおまえを取って食ってみせると、おれに言ったっけ……いやもう言うまい、言うまい! さあ、この忌まわしい、蠅のたかった原っぱから、いよいよおれの悲劇へ移ることにしよう。とはいっても、これもやっぱり蠅のたかった、つまり卑劣なことだらけの原っぱだよ。それは、親爺がさっき、無垢の少女を誘惑したとか、なんとか、でたらめを言いおった、あのことなんだが、事実、おれの悲劇の中にはそいつがあったんだ。もっともたった一度っきりで、それも成立はしなかったんだけど。さっきでたらめを言っておれを決めつけた老いぼれは、その実この話は知ってやしないんだよ。今までおれは誰にも話したことはないんだから。今おまえに明かすのがそもそもの初めだよ、もっともイワンは別だよ、イワンは何もかも知っている。おまえよりずっと前から知っているのだ。しかしイワンは――墓場だよ」
「イワンが墓場ですって?」
「うん」
アリョーシャは異常な注意をもって聞き耳を立てた。
「おれはその戦列大隊で見習士官として勤務していたのだけれど、まるで流刑囚かなんぞのように、監視を受けたといってもいいありさまだった。しかし、町では恐ろしく優遇されたよ。おれが湯水のように金を使ったものだから、財産家だと思いこまれてしまったのだ。そして自身でもそんな気になっていたわけだ。しかしほかにも何か町の人の気に入るようなところがあったに違いない。妙に首を傾けたりしていたけれど、可愛がってくれたのも事実だ。ところが、大隊長の老中佐が急におれを毛嫌いし始めたんだ。そして何かと突っかかりそうにしたけれど、おれにも取るべき手段があったし、それに町の人がみんなおれの味方だったので、あんまり強く突っかかって来るわけにはいかなかったのさ。もっとも、おれのほうにも良くないところはあったさ、上官に対する尊敬をわざと払わなかったんだからなあ。鼻っ柱が強かったわけさ。だが、この頑固親爺はなかなか悪くない人間だったばかりか、このうえもなく親切な、愛想のいい爺さんだったよ。いつか二度も妻帯して、二度とも死別してしまったのだ。先妻のほうはなんでも平民出の女だったそうだが、その忘れがたみも、やはり飾りけのない娘だった。おれがその町にいたころは、もう二十四、五にもなっていて、父親や、母方の伯母といっしょに暮らしていた。この伯母さんは無口な素朴さをそなえていたが、姪、つまり中佐の姉娘のほうは、はきはきした素朴さだった。だいたいおれは思い出を語るとき、人のことを悪く言わないほうだが、この娘くらい美しい性質の女性はついぞ他に見たことがないよ。アガーフィヤっていうんだがね、アガーフィヤ・イワーノヴナと。それに器量もロシア趣味でなかなか悪くなかった――背が高く、まるまるふとって、顔は少々粗野だったかもしれんが、眼の美しい女だったよ。二度ほど縁談があったけど、断わってしまって嫁入りはしなかったが、それでいて、いつも朗らかさを失わなかった。おれはこの娘と仲よしになったんだよ――といっても、別にわけがあったのじゃない。いや、潔白なもので、いわば友だちとしてだよ。実際、おれはよくいろんな女と全く純潔な友だちづきあいをしていたものさ。で、その娘にもずいぶん露骨な、はっとするようなことまでしゃべり散らしたものだが、娘はただ笑っているばかりなんだ。たいがいの女は露骨なことを好くものなんだぜ、ね。それにこの女は処女だったから、それがひどくおれを浮き立たせたんだよ。まだそのうえ、この娘はどうしたってお嬢さんと呼ぶわけには行かなかった。というのは、彼女は父のもとにあって伯母さんといっしょに常に自分から自分を殺すようにして暮らしていて、一般社交界へ肩を並べようなどとはしなかった。彼女は人から可愛がられ、重宝がられていた。なにしろ仕立物にかけては立派な腕を持っていたからな。ほんとに器用だったよ、それでいて賃金を請求したりはしなかったよ、ただ親切ごころからしてやることなんで、しかし、くれるときには遠慮せずにもらっていたがね。だが中佐のほうは、どうして、なかなかそんなどころじゃない! 中佐はその町で第一流の名士の一人だったからなあ。豪勢な暮らしをしていて、よく町じゅうの人を招待して、晩餐会や舞踏会をやったものだ。ちょうどおれがその町へ着いて大隊へはいった時には、ちかぢかに中佐の二番娘がやって来るというので、町じゅうその噂でもちきりだった。なんでも、美人の中でもずばぬけた美人で、こんど首都のさる貴族的な女学院を卒業したばかりだということだった。この二番娘というのが、あのカテリーナ・イワーノヴナなんで、つまり中佐の後妻にできた娘なのさ。もう亡くなっていたが、その後妻は、名門の出で、なんでも将軍の家に生まれた人だったけれど、確かな筋から聞いたところによると、少しも持参金を持って来なかったそうだ。とにかく親類があったというだけで、先にどんな希望があるにしても、現金としては少しもなかったのだ。だが、その女学院出の令嬢が帰って来た(ほんのしばらく滞在するだけで、ずっとというわけではなかったが)時には町じゅうがまるで面目を一新した観があったよ。一流の貴婦人たち――将官夫人が二人と大佐夫人が一人、それに婦人という婦人が、猫も杓子も加勢して、四方から令嬢を引っ張り凧にして御機嫌を取りにかかった。令嬢はたちまち舞踏会やピクニックの女王になってしまい、どうかした保母たちの救済だと言って、活人画の催しまであった。おれは黙って飲み回っていたが、ちょうどその時分おれは町じゅうが騒ぎ立てるようなひどいことをやっつけたんだ。一度その令嬢がおれをじっと眺めたことがあるんだ。それはある砲兵隊長のところでの話だ。だがその時おれはそばへも寄らなかったよ。お近づきになるなんてまっぴらだといった態でさ。おれがこの令嬢のそばへ近寄ったのは、それからかなり後のある夜会の席だったが、話しかけてみたんだけれど、ろくにこちらを見向きもしないで、軽蔑したように口をきっと結んでいるじゃないか。ようし、と、おれは肚の中で思ったんだ、今に仇を討ってやるから! おれはそのころ、たいていの場合、おそろしく無作法者だった。それは自分でも気がついていた。だがそれより、もっと感じたことは、この『カーチェンカ』が無邪気な女学生というよりは、気性のしっかりした、自尊心の強い、真から徳の高い、それに第一、知恵と教育のある淑女だのに、おれにはそいつが両方ともないってことなんだ。おまえはおれが結婚の申しこみでもしようとしたと思うかい? どうしてどうして、ただ仇が討ちたかったばかりだ、おれはこんな好漢なのに、あの女はそれに気づきおらん、といった肚なのさ。が、当分は遊興と乱暴で日を送った。とうとうしまいに中佐はおれを三日間の拘禁に処したくらいだ。ちょうどその時分、親爺がおれに六千ルーブル送ってよこした。それはおれが正式の絶縁状をたたきつけて、この後二度と再び無心をしない、『総勘定』を済ましたことにするからと言ってやった結果なんだ。当時おれにはなんにもわからなかったんだ。こちらへ来るまで、いや、つい、この四五日前まで、というより恐らく今日まで、親爺との金銭関係がどうなっているか、さっぱりわからなかったんだ。だがそんなことはどうだってかまやしない、あとまわしだ。ところがその六千ルーブルを受け取ったころ、おれは突然、ある友だちがよこした手紙から、自分にとってとても興味のある事実を知ったのだ。それはほかでもない、おれたちの中佐が秩序紊乱の嫌疑で当局の不興を買っているということなんだ。つまり、反対派の陥穽にひっかかったんだよ。で、直接師団長がやって来て、小っぴどく油を絞ったのだ。それからしばらくして、退職願いを出せという命令があったのだ。まあ、その詳しいいきさつをおまえに話すのはやめにするが、実際この人には敵があったのだ。そして急にこの中佐とその家族に対する町の人の態度が、手の裏を返したように冷たくなってしまったのだよ。このとき、おれの最初の悪戯が始まったってわけだ。おれはアガーフィヤ・イワノーヴナとはいつも親しくしていたので、会うとこういってやったのさ。『あなたのお父さんはお上の金を四千五百ルーブルなくなされたんですよ』『なんですって? どうしてそんなことをおっしゃるの? 先だって将軍がお見えになったときにはちゃんとそっくりありましたわ』『そのときにあっても今はないんですよ』すると、ひどくびっくりして、『どうか脅かさないでください。誰からいったいお聞きになって?』『心配することはありませんよ、僕は誰にも話しやしませんからね。御存じのように、僕はこんなことにかけたら、墓石同然ですよ。しかしそれについて、いわば「万一の場合に」といった形で、つけ足しておきたいことがあるんです。それは、もし当局がお父さんに四千五百ルーブルの金を請求した場合、その金がお父さんになければさっそく軍法会議にかけられて、それからあのお年で一兵卒の勤めをなさらなければならんのです。そんなだったら、いっそお宅の女学生さんを内緒で僕んところへおよこしなさい。ちょうど僕に金を送ってきましたから、あの人に四千ルーブルあげますよ。そして金輪際その秘密を守りますよ』『まあ、なんて卑劣なかたでしょう!(ほんとにそう言ったんだよ)――まあ、ひどい、なんて卑劣なかたなんでしょう! よくもそんなことをおっしゃいますわね!』そして恐ろしくぷりぷりして出て行ったが、おれはその後ろからもう一度、どこまでも秘密は神かけて守り通すからと、叫んだものだ。この二人の女、つまりアガーフィヤとその伯母とは、これは後の話だが、この事件に関してまるで潔白な天使のようにふるまったとのことだ。高慢な妹カーチャを真から崇め、鞠躬如として小間使いのように仕えてたんだ……。それでもアガーフィヤはこの一件を、つまりおれとの話をそのおり当人に話したのだ。おれはあとでそれを、一から十まで聞いてしまったが、この娘は隠しだてをしなかったよ。そこがまた、おれの思うつぼなのさ。
突然、新任の少佐が大隊を受け取りにやって来たんだ。事務の引き継ぎが始まった。と、老中佐が急に病気で、動くことができないといって、二昼夜というもの家の中に閉じこもったきりで、官金の引き渡しをしないのだ。医者のクラフチェンコも、全く病気に違いないと断言した。おれが秘密にとうからかぎ出していた確かなところでは、この金はもう四年も前から、長官の検閲が終わり次第、暫時のあいだその姿を消すことになっていたのだ。中佐はその金を、最も手堅い男に貸しつけていたのだ。それはトリーフォノフという町の商人で、金縁眼鏡をかけた、[#「かけた、」は底本では「かけた。」]髭むじゃの、年をとった鰥なのだ。この男は定期市へ出かけて行って、何か必要な取り引きを済ますとすぐに帰って来てその金を耳をそろえて中佐に返したうえ、定期市の土産物まで持って来るのだ。土産に利子が添えてあるのはいうまでもない。それが今度に限って(おれはそれを全く偶然にトリーフォノフのあと取り息子のよだれ小僧から聞いたのだ。こいつは世界じゅうにも類のない放埒息子なんだ)、今度に限って、トリーフォノフは定期市から帰っても、なんにも返さないどころか、中佐が飛んで行くと『わたしは、ついぞあなたから一文だってお借りした覚えはありません、それにお借りできるはずがありませんよ』という挨拶だ。そんな次第で中佐は家に閉じこもってしまったわけだ。タオルで頭にはち巻きをさせて、三人の女が総がかりで脳天を氷で冷やすという騒ぎだ。そこへ突然、伝令が帳簿と『即刻、二時間以内に官金を提出すべし』という命令を持って来たのだ。で、中佐は署名をしたが、――後でおれはその帳簿の中の署名を見たよ――それから起き上がると、軍服に着換えに行くのだと言って、自分の寝室へ駆けこみ、二連発の猟銃を取って火薬を装填して兵隊用の弾丸をこめると右足の長靴を脱いで、銃口を胸へ当て足で引金を探りにかかったのだ。ところが、アガーフィヤはおれのあの時のことばを覚えていて、もしやと思って忍び足について来たので、やっと危いところでそれを見つけたのだ。転げるように駆けこみざま、父に飛びかかって、後ろから抱きとめたため、銃は天井へ向けて発砲されて、幸い誰も怪我をしなかった。他の連中も駆けつけると、中佐をとらえて銃を取り上げて、両手を捕まえていた……これはあとですっかり寸分たがえずに聞いたことだ。おれはそのとき家にいたのだ。ちょうどたそがれどきで出かけるつもりで着換えもし、髪もなでつけ、ハンカチには香水までつけて、帽子を手にしたところへ、不意に扉があいて――おれの眼の前へ、しかも、おれの部屋へ、カテリーナ・イワーノヴナが姿を現わしたのだ。
妙なことがあるもので、その時あの女がおれのとこへはいったのを、往来から見ていた者が一人もなかったのだ。それで町では、これはなんの噂にものぼらなかった。それにおれは、ある二人の官吏の後家さんの部屋を借りていたが、もうだいぶの年の婆さんで、よくおれの世話をしてくれたし、なかなか丁寧な老婆で、何事によらずおれの言いなりになっていたから、おれの言いつけで、その後もまるで鉄の棒かなんぞのように黙っていてくれた。もちろん、おれはすぐすべてのことを了解した。令嬢は、はいってくるなり、まともにおれの顔を見つめるのだ。暗色の眼はきっとして、むしろ大胆不遜に光っていたが、しかし唇とそのまわりには、何かためらうような色がみえた。
『姉から聞いたのですが、もしわたくしが……こちらへ自分でいただきにまいりますれば、四千五百ルーブルのお金をくださいますそうですね、……わたくしまいりました……さあ、どうぞお金をくださいまし!……』それだけ言ったが、あとが続かず、息をつまらせて、びっくりしたように、声をとぎらせてしまった。口尻とそのまわりの筋肉がぴくぴく震えだした。おいアリョーシカ、聞いてるのか、それとも眠っているのかい?」
「ミーチャ、僕は兄さんが本当のことを残らずお話しなさることを知っています。」アリョーシャは心を波立たせながら答えた。
「その本当のことを話すよ、すっかり本当にありのまま話すとすれば、自分のことを棚へ上げたりはしないよ。まず初手に浮かんだ考えはカラマゾフ式なものだったよ。おれはある時、百足にかまれて二週間ほど熱を出して寝こんだことがあった。ところが、その百足が、意地の悪い毒虫め、ちくりとおれの心臓を刺したんだよ。わかるかい? おれはじろりと相手を一瞥した。おまえはあの女を見たかい? 美人だろう。だがあの時の美しさはそんな風の美しさではなかったのだ。あの女が美しかったのは、あの女がこのうえもなく高潔であるに引き替え、おれは一個の卑劣漢にすぎなかったからだ。あの女が父の犠牲として、寛容の絶頂にあるに引き替え、おれは一匹の南京虫に等しいからなんだ。ところが、その卑劣漢で南京虫にすぎないおれのために、あの女は身も心もいっさいをあげて、生殺与奪の権を握られているのだ。追いつめられてしまっているのだ。おれはあからさまに言うが、この考えは――この毒虫の考えは、おれの心臓をしっかりとつかんでしまって悩ましさのために心臓が溶けて流れ出さないばかりだった。もはやなんの争いもなさそうだった。南京虫か毒蜘蛛のように、情け容赦もなく行動に移るばかりだ……。おれは息が止まる思いだった。ところがまた、これをどこまでも高潔な方法でかたづけて、誰にもそれを知らさない、いや誰も知ることができないように、すぐあくる日にでも結婚の申しこみに乗りこんでもよかったわけだ。なぜって、おれは卑しい欲望を持った人間ではあるけれど、心は潔白なんだからさ。ところが突然その瞬間に、誰やらおれの耳元でささやくやつがあったんだよ。『だが、あす結婚の申しこみに行ったとしても、あの女はおまえの前へ顔出しもしないで、御者に言いつけておまえを邸から突き出してしまうだろうぜ、町じゅうに触れ回すがいい、おまえさんなぞちっともこわくないから、と言ったらどうだろう!』おれはちらと令嬢を眺めた。おれの心の声は嘘をつかなかった。たしかにそうだきっとそうするに決まっている。おれの襟髪をつかんで放り出すということは、もう今からその顔色でちゃんと読めるのだ。そこで、おれの心の中にはまたもや毒念が湧き返って、卑劣きわまる、豚か商人のような一幕が演じてみたくなったのだ。つまり、あざけるような眼つきでその女を見やりながら、相手が自分の前に突っ立っているあいだに、商人でもなければ使わないような口上で、いきなり女をののしってやりたくなったんだ。
『あの四千ルーブルですって! ありゃあ冗談に言ったのですよ、いったいどうなすったんです! そりゃお嬢さん、あんまり虫がよすぎますぜ。百や二百の金なら、こちらから喜んで差し上げもしましょうが、四千ルーブルといえば、そう楽々おいそれと投げ出せる金じゃありませんからね。ほんとにむだな御足労でしたよ』とさ、しかし、こんなことを言ったら、もちろん、おれは何もかもなくしてしまっただろうし、令嬢は逃げ出してしまったに違いない。が、その代わり、思いきり悪がきいて腹いせにもなって、いっさいを償って余りがあるだろう。一生涯後悔の念に苦しむかもしれないが、とにかく、今はこの手品がやってみたくてたまらないのだ! おまえは本当にしないだろうが、こんな瞬間におれが相手の女を憎悪の念をもって眺めるなんてことは、どんな女に対してもけっしてありはしなかった。ところが誓って言うが、その時ばかりは、三秒か五秒のあいだ、恐ろしい憎悪をもってあの女を見つめたのだよ。しかしその憎悪が恋、気ちがいじみた恋と、間一髪をいれないものだった! おれは窓に近寄って、凍てたガラスに額を押し当てた。氷がまるで火かなんぞのように額を焼いたのを覚えている。心配するなよ、長く待たせはしなかったよ。おれはくるりと向きを変えるとテーブルに近寄って、引き出しをあけて、五千ルーブルの五分利つき無記名手形を取り出した(それはフランス語の辞書にはさんであった)。それから黙ったまま女に見せたうえ、たたんで渡した。そして自分で玄関へ出る扉をあけると、一足さがってうやうやしく腰をかがめて、相手の胸にしみとおるような会釈をしたものだ。本当のことだよ! あの女は全身でぎくりとおののいて、一秒間おれをじっと見つめながら、ひどく青ざめて、ほんとに卓布のような顔をしていたが、いきなり、何も言わずに、突発的ではあったが、ほんとに物柔らかに、静かに深くおれの足もとへ身をかがめて、額が地につくほどの、女学生式ではなく純ロシア式のお辞儀をしたんだ! そして急に飛び上がると、駆け出してしまったんだ。あの女が飛び出した時、おれはちょうど軍刀を吊っていたので、それを引き抜いてその場で自殺をしようと思ったんだよ。何のためか自分でもとんとわからない、いうまでもなくばかげきったことではあったが、おそらく嬉しさのあまりに違いない。おまえにはわかるかどうか知らんが、ある種の歓喜のためには、自殺もしかねないものだよ。だが、おれは自殺しなかったのだ。ただ軍刀に接吻しただけで、また元の鞘に納めた。が、こんなことはおまえに話す必要はなかったんだ。それに今ああいう争闘の話をしながら、自分をいい子に見せようと思って、少しはごまかしもあるようだ。しかしそれはどうだってかまわない。ほんとに人間の心の間諜なんてものが、みんなどこかへ消えてなくなりゃあいいんだ! さあ、これがおれとカテリーナ・イワーノヴナとのあいだにあった『事件』の全部なんだよ。今ではこれを知っているのはイワンと、それにおまえだけなんだ」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは立ち上がると、興奮しながら一、二歩足を踏み出した。そして、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。それから再び腰をおろしたが、それは前に坐っていたところでなく、反対側の壁ぎわの床几であった。だからアリョーシャは、すっかり坐りなおして兄のほうを向かなければならなかった。
「ではこれで」とアリョーシャが言った。「僕もこの話の前半を知ったわけなんです」
「ね、前半だけはおまえにもわかったわけだ。それはただの戯曲で、あちらで上演ずみだ。後半は悲劇で、これから当地で演じられようとしているのさ」
「その後半については、これまで少しも僕にわかっていないんです」とアリョーシャが言った。
「じゃあ、おれはどうだい? おれにはわかってるとでも言うのかい?」
「ちょっと待って、兄さん、ここに一つ大切なことばがあるんです。聞かせてください、いったい兄さんは許婚なんですか、今でも許婚なんですか?」
「おれが許婚になったのはすぐじゃない、あの事件の後、三月たってからだ。あのことがあったすぐあくる日おれは自分で自分に言って聞かせた――この事件はすっかりこれでおしまいだ、けっして続きなんかないとね、結婚の申しこみに出かけるなんて、卑劣だとおれは思ったのだ。あの女はまたあの女で、その後六週間もその町に滞在していたのに、一言半句の便りもよこさなかったのだ。もっともあとにもさきにもただ一度きり、あの女がおれを訪問した、そのあくる日のことだが、あの家の女中が、こっそりおれのところへ来て、何も言わずに紙包みを一つ置いて行ったのだ。その包みには何々様と当て名が書いてある。あけて見ると、五千ルーブルの手形のつり銭なんだ。入用だったのはみんなで四千五百ルーブルだけれど、五千ルーブルの手形を売るのには二百ルーブルあまり損をしなければならなかったのだ。よくは覚えていないが、おれの手もとへ返してよこしたのは、みんなで二百六十ルーブルくらいのものだった。しかも金だけで一片の手紙もなければ一言の説明もしてないのだ。おれは包みの中に、何かちょっと鉛筆で印しでもつけてないかと思って、捜してみたが――なんにもない! そこでしようことなしに、おれはその残金でまた遊蕩を始めたものだからとうとう新任の少佐も余儀なくおれに譴責を食わしたほどだ。とにかく、中佐は無事に官金を引き渡したので、みんなはびっくりしてしまったのさ。だって、そんな金がそっくり中佐の手もとにあろうとは、誰ひとり予想もしなかったからなあ。引き渡しはしたが、どっと病みついて、三週間ばかり床についていたが、突然、脳の軟化症を起こして、五日目に亡くなってしまった。まだ退役の辞令を受けていなかったため、軍葬の礼をもって葬られた。カテリーナ・イワーノヴナは姉や伯母といっしょに、父の葬いが済み次第、十日ばかりして、モスクワへ立ってしまった。ところが、その出発の前、と言っても、その当日なんだが(おれは会いもしなければ、見送りにも行かなかった)、おれはささやかな封書を受け取ったんだ。青い透し入りの紙に鉛筆でたった一行『いずれお便りをします、お待ちくださいませ。K』とそれだけ書いてあったよ。
これからはもっと簡単に説明しよう。モスクワへ行くと、あの人たちの事情は電光のような速度と、アラビヤンナイトのような思いがけなさでもって、がらりと一変してしまったのだ。あの女のおもな近親だった将軍夫人が不意に、最も近しい相続者に当たる二人の姪を、両方とも一時に亡くしてしまったのだ。――どちらも天然痘で同じ週に死んだのだ。すっかり取り乱してしまった夫人は、親身の娘のように、カーチャを喜び迎え、まるで救いの星でも見つけたように彼女に取りすがって、さっそくあの女の名義に遺言状を書き換えてしまったのだ。けれどそれはさきのためで、当座の手当てとしてじかに八万ルーブルわたして、さあこれはおまえの持参金だから、どうなりとも好きなようにお使いと言ったとさ。実際ヒステリイ性の婦人だったよ、おれはその後モスクワへ行って自分の眼で観察したがね。ところでおれはだしぬけに四千五百ルーブルの金を郵便で受け取ったんだが、もちろんどうしたことかと思って、唖のようにびっくり仰天したものだよ。三月するとかねて約束の手紙も届いた。それは今でもここに持っている。おれはいつもこれを肌身につけていて死んでも離さないよ、――なんなら見せてやろうか? いや、ぜひ読んでくれ。結婚の申しこみなんだ。自分から申しこんで来たんだよ。
『わたしは気ちがいのように恋しております。あなたがわたしを愛してくださらなくてもかまいません。どちらにしても、どうぞわたしの良人になってください。でも、お恐れになることはいりません。どんなことをなさいましてもわたしはあなたの邪魔だてをするようなことはいたしません。わたしはあなたの道具になります、あなたの足に踏まれる毛氈になります……。わたしは永久にあなたを愛しとうございます、あなたをあなた御自身からお救いしとうございます……』アリョーシャ、おれはこの数行の文句を、自分の陋劣なことばと陋劣な調子で語り伝える資格がないよ、おれのいつもの陋劣な調子は自分でどうしてもなおすことができないのだ! この手紙は今日になってもなおおれの胸を突き刺すのだ! おまえは今おれが気楽だとでも思うかい。今日おれが気楽にしているとでも思うのかい? その時おれはすぐに返事を書いた(おれはどうしても自分でモスクワへ出かけるわけにはいかなかったのだ)。おれは涙を流しながらそれを書いたよ。ただ一つ永久に恥ずかしいと思うのは、その手紙に、今のあなたは金持ちで持参金まであるのに、僕は兵隊あがりの貧乏士官だ、と書いたことだ――金のことなどを言ったのだ! そんなことはじっと耐えていなければならなかったのに、つい、筆がすべってしまったのだ。これといっしょに、モスクワにいたイワンへ手紙でできるだけ詳しく、書簡箋を六枚も使ってすべての事情を説明してやって、イワンをあの女のところへやったのだ。おまえ、なんだってそんな目をして僕を眺めるんだい? そりゃあ、イワンはあの女に惚れこんでしまったのさ、そして今でも惚れているよ。おれは、なるほど世間の眼から見て、ばかなことをしたものだと、自分でも思ってるのさ。しかし、今となってはそのばかなこと一つだけが、われわれ一同を救うことになるのかもしれないんだ! あああ! おまえはあの女がどんなにイワンを崇拝し、尊敬しているか知らないのかい? それにあの女がおれたちふたりを見比べて、こんな、おれのような人間を愛することがどうしてできるものか、おまけに、こちらであんなことをしでかした後でさ?」
「でも僕は、あの女の愛してるのは兄さんのような人で、けっしてイワンのような人じゃないと思います」
「あの女の愛してるのは自分の善行で、けっしておれじゃない」突然ドミトリイ・フョードロヴィッチはわれにもなく、ほとんど毒々しい調子で口走った。彼は笑いだしたが、一瞬の後、その眼がきらりと光った。彼はまっかになって力いっぱい拳でテーブルをたたきつけた。
「おれは誓って言うが、アリョーシャ」と、彼は自分自身に対する激しい真剣な憤りを現わしながらわめいた。「おまえが信じるか、信じないかどちらだってかまわん。おれは神聖なる神にかけて、主キリストにかけて誓うが、今おれはあの女の高潔な感情をあざけったけれど、このおれの魂なんか、あの女の魂に比べたら、百万倍も下劣だってことも、あの女のそうしたすぐれた感情が天使の心のように真実なことも、自分でちゃんと知りきっている! おれがそれをちゃんと知り抜いているということに悲劇が含まれているのだ。だが、人間がちょっぴり朗読めいた口をきいたからって、どうしたというのだ? おれは朗読をしていないだろうか? だが、おれは真剣なんだ、ほんとに真剣なんだよ。しかし、イワンのこととなると、あれが自然に対して、今ああいうのろいをいだいているのももっともなことだと思う。それにあれだけの頭脳があるんだもの、なおさらだよ! だが、選ばれたのは誰なんだ? 何者なんだ? 選ばれたのはこの人非人だ、もう許婚の身でありながら、この町で、みんなに見られている中で、生来の放蕩を押えることのできないろくでなしだ――しかもそれを許嫁のいるところでやるんだ、許嫁のいるところで! こういうやくざなおれが選ばれて、イワンがしりぞけられたんだ。ところで、これはいったいなんのためなんだ? それは一人の処女が感謝のあまりに、自分で自分の運命と生涯とを手ごめにしようとしているからだ! 不合理な話だ! おれはこんな意味のことは一度だってイワンに話したことがないし、イワンのほうからももちろん、そんなことは一言半句だって、おれに匂わしたことはないのさ。しかし、そのうちには運命の計らいで、価値ある者が相当の席について、価値のない者は永久に路地の奥へ隠れてしまうのだ――自分の気に入った、自分に相当したきたない路地の奥へ――そして汚物と悪臭の中に、満足と喜びを覚えながら滅びていくのだ。おれはなんだかやたらにしゃべったが、おれのことばはどれもこれも使い古されたもので、それを出ほうだいに吐き散らしたようだけれど、しかし、おれが今言ったとおりになるよ。おれは路地の中へうずもれてしまって、あの女はイワンと結婚するのだ」
「兄さん、ちょっと待ってください」とアリョーシャは非常な不安をもってさえぎった。「でも、これまで兄さんがはっきり説明してくれないことが一つありますよ。それはね、つまり兄さんは婚約者なんでしょう、とにかく、婚約者に違いないでしょう? それだったら相手の婦人が望んでもいないのに、縁を切るわけにはゆかないじゃありませんか?」
「うん、おれは立派に祝福を受けた正式の許婚だ。それがおれがモスクワへ行ったとき、聖像の前で盛大な儀式によって堂々と行なわれたのだ。将軍夫人が祝福してくれてさ。いいかい、カーチャにお祝いまで言ったのだよ。おまえはいい花婿を選んだ、わたしにはこのかたの肚の底まで見通せるってね。そして変な話だが、イワンは夫人のお気に召さないでさ、お祝いひとつ言ってもらえなかったのだよ。おれはモスクワでいろいろカーチャと話し合って自分のことを潔く、精確に誠意をこめて打ち明けたのだ。あの女はじっと聞いていたが、
顔には愛しき惑い
口には優しきことば……
口には優しきことば……
いや、尊大なことばもあったよ。あの女はおれにそのおり、身持ちを改めるようにというおごそかな約束をさせたものだ。おれは約束をした。ところがだ……」
「どうしたのです?」
「ところが、おれは、今日おまえを呼んで、ここへ引っぱりこんだのだ、今日という日にな、――それを覚えておいてくれ――そして、やはり同じ今日、おまえをカーチャのところへやって、それから……」
「どうするんです?」
「あの女にそう言ってくれるんだよ――もうけっしておれは行かないから、どうぞよろしくって」
「だって、そんなことがあっていいものでしょうか?」
「よくないからこそ、おまえを代わりにやろうっていうのだ。でなくって、おれ自身どうしてあの女にそんなことが言えるもんか?」
「それで、兄さんはどこへ行くんです?」
「路地へさ」
「じゃあグルーシェンカのところへですね!」アリョーシャは手を打って、悲しそうに叫んだ。
「では、ラキーチンの言ったのは本当だったのかしら? 僕はまた、兄さんはちょっと行ってみただけのことで、もう済んでしまってるのだとばかり思っていたのに」
「許婚の男が、あんなところへ行くんだって? そんなことができるもんかい? しかも許嫁がいて、みんな見てるところでさ? おれにだって少しは廉恥心があるはずだよ。ところが、グルーシェンカのところへ行き始めると同時に、おれはもう許婚でもなければ、誠実な人間でもなくなってしまったんだよ。それはおれにもわかってるのさ。どうしてそんな眼でおれを見るんだい? おれは最初、ただあの女をひっぱたきに行ってやったのだよ。それは、親爺の代理人をしてやがるあの二等大尉のやつが、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれって頼んだということを、聞きこんだからだ。それが確かなことは、今でもわかってるよ。おれを脅かそうとしやがったのさ。だから、おれはグルーシェンカをぶんなぐりに出かけたのだ。前にもおれはあの女をちらっと見たことがある。だが別に気にも留めなかったのさ。今病気でひどく弱りこんで寝ているが、とにかくだいぶんの金をあの女に残すらしい例の老いぼれ商人のことも知っていた。それからあの女は金もうけが好きで、ひどい高利で貸しつけてはどしどし殖やしていることも、情け容赦もない悪党の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶんなぐりに出かけたのだが、そのまま女の家に神輿をすえてしまったのさ。つまり、雷に撃たれたんだ。黒死者にかかったんだ、いったん感染したっきり、今だに落ちないんだ。もうこれでおしまいなんだ、どうにも変わりようがないってことは、おれにもわかっている。時の循環が完了したのだ。まあ、こんな事情さ。ところが、ちょうどその時、おれみたいな乞食のポケットに故意とのように三千ルーブルという金があったのだ。で、おれは女を連れてここから二十五露里あるモークロエ村へ出かけて、ジプシイの男女を集めるやら、シャンパンを取り寄せるやらして、村の百姓や、女房や娘っ子たちにシャンパンをふるまって、何千という金をまき散らしたものだ。三日たつと丸裸だったが、しかし鷹のような気分だったよ。ところで、その鷹がなんぞ思いを遂げたとでも思うかい? なんの、遠くの方から拝ませもしおらんのだ。曲線美、とでもいうのかなあ。グルーシェンカの悪党には、一つ得も言えない肉体の曲線美があるんだ。そいつが足にも、左足の小指の先にまで現われているのだ。それを見つけて接吻したっきりだ――全く本当のことだよ! あいつは、こう言やがるんだ、『あんたは乞食同様だけど、お望みならお嫁に行ってあげるわ。もしあんたが、けっしてあたしを打ったりなんかしないで、あたしのしたいことをなんでもさせてくれるって言うのなら、お嫁に行ってあげてもいいわ』そういって笑ってやがるのさ。そして今でもやっぱり笑ってやがるんだ!」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは、まるで激昂したように座を立ったが、不意に彼は酔っ払ったようになった。彼の両眼は急に血走ってきた。
「で、本当に兄さんはその女と結婚しようというんですか?」
「向こうがその気なら、すぐにもするし、いやだと言えば、このままでいてやる。あいつの家の門番にだってなるさ。ね、おまえ……アリョーシャ……」と彼は不意に弟の前へ立ちはだかって、その肩に両手をかけると、力いっぱいゆすぶった。「おまえのような無邪気な少年にはわからないだろうけれど、これはたわごとだよ、無意味なたわごとなんだよ。しかもそのなかに悲劇があるのだ、いいかい、アレクセイ、おれは卑しい堕落した煩悩をいだいた卑劣な人間かもしれないが、しかしドミトリイ・カラマゾフは泥棒や、掏摸や、掻っ払いには、断じてなり下がるはずがないだろう。ところが、今こそ聞いてくれ、おれは泥棒なんだ、掏摸なんだ、掻っ払いなんだ! ちょうどおれがグルーシェンカをひっぱたきに出かけるすぐ前、その同じ日の朝、カテリーナ・イワーノヴナがおれを呼んで、さしあたり誰にも知らさないように、秘密にして(何のためだかおれにはわからないが、そうする必要があったものとみえる)、これから県庁所在地の市へ出かけて、モスクワにいるアガーフィヤ・イワーノヴナ当てに、郵便為替で三千ルーブル送って来て欲しいと頼んだのだ。わざわざ県庁所在地からというのは、この町の人に知られたくないためだったのだ。この三千ルーブルをポケットへ入れたまま、おれはその時グルーシェンカのところへ出かけたのだ。そしてその金でモークロエ村へ出かけたわけだ。あとで、おれは、さも市へ飛んで行ったようなふりをして、為替の受け取りも出さないで、金は送ったから受け取りもすぐ持って来るとは言いながら、いまだに持ってなぞ行かないでいるのさ。忘れましたってわけでね。そこでどうだろう、これからおまえが行ってあの女に、『兄がよろしく申しました』と言ったら、あの女は『で、お金は?』って聞くだろう。そうしたら、おまえはこんな風に言ったってかまわないよ、『兄は卑劣な好色漢です、欲情を押えることのできない下等動物です。兄はあの時あなたの金を送らないで、下等動物の常として衝動に打ち勝つことができないで、すっかり使ってしまったのです』が、しかし、こう言い足したっていいわけだよ。『それでも兄は泥棒ではありません、そら、ここにあなたの三千ルーブルがあります。どうぞ御自身でアガーフィヤ・イワーノヴナへお送りください。で、当の兄は、よろしくと申しました』するとあの女は『どこにお金がありますの』って聞くだろうな」
「ミーチャ、あなたは不仕合わせな人ですね、ほんとに! でも、まだ兄さんが自分で考えているほどでありませんよ――あまり絶望して、自分を苦しめないほうがよろしいよ!」
「おまえはその三千ルーブルが手に入らなかったら、おれが拳銃自殺でもすると思うのかい? そこなんだよ、おれは自殺なんかしやしない。今はそんな元気がないんだ。そのうちにあるいはやるかもしれないが、今はグルーシェンカのところへ行くんだ……おれの一生なんかどうなったってかまうものか!」
「あの女のとこへ行ってどうするんです?」
「あの女の亭主になるんだよ、配偶にしていただくのさ。もし情夫がやって来たら次の間へはずしてやるよ。そして彼女の友だちの上靴も磨いてやろうし、湯沸の火もおこそう、使い走りだっていとやしないよ……」
「カテリーナ・イワーノヴナは何もかもわかってくれますよ」と、不意にアリョーシャは真顔になって、口を入れた。「この悲しい出来事の深い点をすっかり了解して、許してくれますよ。あの人には立派な理性がありますから、兄さん以上に不幸な人のあり得ないことは、あの女にだってわかりますもの」
「あの女はけっして許してなんかくれないよ」と、ミーチャは苦笑いをした。「この中には、どんな女だって許してくれることのできないようなものがあるのだ。おまえは、どうするのがいちばんいいか知ってるかい?」
「どうするのです?」
「あの女に三千ルーブル返してやるのだ。」
「でも、どこでその金を手に入れるんです? ああそうだ、僕の金が二千ルーブルあるでしょう、それにイワン兄さんだってやはり千ルーブルくらい出してくれましょう、それでつごう三千ルーブルになりますよ。それを持って行ってお返しなさい」
「しかし、それがいつ手にはいるんだい、おまえのいうその三千ルーブルがさ。それに第一、おまえはまだ丁年に達していないんだからなあ。いや、どうあってもぜひ今日、あの女のところへ出かけて、よろしくを言ってくれなくちゃならんよ。金を持ってか、それとも持たずにか、とにかく、もうこれ以上のばすわけにはいかぬ。そういうぎりぎりまで差し迫ってしまったのだ。明日ではもう遅いんだ。おれはおまえに親爺のところへ行って来てもらいたいんだ」
「お父さんのところへ?」
「うん、あの女のとこより先に親爺のとこへ。そして三千ルーブルもらって来てくれるんだ」
「だって、ミーチャ、お父さんは出してくれやしませんよ」
「出してくれるはずはない、くれないことは承知のうえだよ。なあ、アリョーシャ、絶望ってどんなものか知ってるかい?」
「知っています」
「まあ聞けよ、親爺は法律的にはおれに一文だって負い目はないさ。おれがありったけ引き出しちまったんだから、それはおれも承知だよ。しかし精神的には、親爺はおれに義務があるよ、なあ、そうじゃなかろうか? 親爺は母の二万八千ルーブルを元手にして、十万からの財産をもうけ出したんだからなあ。親爺がもしその二万八千ルーブルのうち、たった三千ルーブルだけおれにくれさえすれば、おれの魂を地獄から救い出して、親爺にしてもたくさんな罪障の償いになるというものだ。おれはその三千ルーブル――おまえに誓っておくが――きれいさっぱりかたをつけて、この後おれの噂ひとつ親爺の耳へ入れるこっちゃないんだ。つまり、これを最後に、もう一度だけ父となる機会を親爺に提供してやるんだ。親爺にそう言ってやってくれ、この機会こそ神様がお授けになるのだって」
「ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出してくれやしませんよ」
「知ってるよ、出さないってことは百も承知さ。まして、今はなおさらなんだよ。さっきの話のほかに、おれはまだこんなことを知ってるんだ。ついこのごろ、ほんの二、三日前、いや、ひょっとしたらまだ昨日あたりかもしれんが、親爺は、グルーシェンカがほんとに冗談でなしにおれと不意に結婚するかもしれないってことをはじめてまじめに(このまじめにという点に気をつけてくれ)かぎだしおったのだ。親爺もあいつの気性を知ってるんだよ。あの牝猫のさ。だから、あの女にうつつを抜かしている当の親爺が、この危険を助長するために、わざわざおれにお金を出してくるはずはないさ。しかしまだ、それだけじゃない、もっと重大なことを聞かしてやるよ、それはこうだ、もう五日ほど前に、親爺は三千ルーブルの金を抜き出して百ルーブルの札にくずし、大きな封筒に入れて封印をべたべた五つも押した上に、赤い紐を十文字にかけたものだ。どうだい、実に詳しく知ってるだろう! 封筒にはこういう上書きがしてあるのさ、『わが天使なるグルーシェンカへ――もしわがもとに来たりなば』これはしんと寝静まった時こっそり自分で書きつけたのだ。こんな金が寝かしてあることは下男のスメルジャコフの他には誰ひとり知る者はない。この男の正直なことを、親爺はまるで自分と同じくらいに信じきっているんだからな。ところで、親爺はもう今日で三日か四日、グルーシェンカがその金包みを取りに来るのを当てにして、待ちあぐねているんだよ。親爺のほうから知らせてやったので、あの女からも『行くかもしれない』という返事があったそうだ。だからもしあの女が親爺のところへやって来るようなら、おれはあの女といっしょになんかなれやしないだろう? なんでおれはこんな所に内緒で坐っているのか、何を見張っているのか、これでおまえにも合点がいったはずだな」
「あの女を見張ってるんでしょう?」
「そうだよ。ところで、ここのお引摺りの家の小部屋をフォマという男が借りてるんだよ。このフォマは土地の者で兵隊あがりの男なのさ。夜だけ、ここで夜番に使われていて、昼間は松鶏を撃ちに出かけたりしているのだ。おれはまんまとこの男のところへはいり込んでいるんだが、この男も、ここの家の母娘もおれの秘密は知らないのだ。つまり、おれがここで何を見はってるかってことを知らないんだよ」
「スメルジャコフだけが知ってるんですね!」
「あいつだけだよ。もし女が老いぼれのところへ来たら、あいつが知らせる手はずなんだ」
「金包みのことを兄さんに話したのもあの男ですね?」
「あいつさ。だがこれは絶対の秘密なんだよ。イワンにさえ、金のことはおろか、なんにも知らしてないんだから。ところで、親爺は二、三日のあいだ、イワンをチェルマーシニャへやろうとしているんだよ。森の買い手がついて。なんでも八千ルーブルとかで木を切り出させるんだとさ。それで親爺は、『手助けをするつもりで、行って来てくれ』と、イワンを口説いているところだが、二、三日はかかる用事なんだ。これはつまり、イワンの留守にグルーシェンカを引き入れようという肚だよ」
「それじゃ、お父さんは今日にも、グルーシェンカが来るかと待ってるわけですね」
「いや、あの女は今日は来ない。ちゃんと徴候があるんだ。きっと来やしないよ!」と、突然、ミーチャは叫んだ。「スメルジャコフもそう考えてるのさ。親爺は今イワンと差し向かいで酒を飲んでいるんだよ。ひとつ出かけて三千ルーブルもらって来てくれないか……」
「ミーチャ、兄さん、どうなすったの!」と、アリョーシャは床几から飛び上って、逆上したようなドミトリイ・フョードロヴィッチの顔を見つめながら叫んだ。一瞬間、彼は兄が気ちがいになったのではないのかと思った。
「おまえこそどうしたんだい? おれは気は確かなんだよ」こう、じっと、妙にきまじめな色さえ浮かべて、弟の顔を見つめながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチが言った。「なるほど、おれはおまえに親爺のところへ使いに行ってもらおうとしているが、自分のしゃべってることはちゃんとわかっているよ。おれは奇跡を信じてるから」
「奇跡を?」
「うん、神慮の奇跡をさ。神様にはおれの胸の中がよくおわかりだ。神様はおれの絶望を見ぬいていてくださる。この画面を残らず見通しておいでになるのだ。神様が、何か恐ろしいことのもちあがるのをみすみす見のがしておおきになるだろうか? アリョーシャ、おれは奇跡を信じるよ。さあ行って来てくれ!」
「じゃ行って来ます。で、兄さんはここに待っててくれますね?」
「待ってるとも、多少時間のかかることはわかってるし、そういきなり切り出すわけにもいくまいからさ! それに今ごろは酔っぱらっているだろうし。待ってるよ、三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも、しかし、いいかい、今日じゅうに、たとえ夜中になっても、金を持ってなり、持たないでなり、カテリーナ・イワーノヴナのところへ行って、兄がよろしく申しましたと言ってくれるんだよ。おれはおまえにぜひこの『よろしく申しました』っていう句を言ってもらいたいんだよ」
「ミーチャ! でも、不意に今日グルーシェンカがやって来たら……今日でなくても、明日なり、明後日なり?」
「グルーシェンカが? 狙っていて見つけ次第踏んごんで邪魔をしてやる……」
「でももしか……」
「もしかなんてことがあったら、打ち殺しちまうさ。指をくわえて見ちゃいないよ」
「誰を殺すんです?」
「爺いをさ。女は殺さないよ」
「兄さん、なんてことを言うのです!」
「いや、おれにはわからない、わからない……もしかしたら殺さないかもしれないし、また場合によっては殺すかもしれん。ただ、いよいよの瞬間に親爺の顔を見て急に憎悪を感じやしないかと、ただそれだけが気になるんだ。おれにはあの喉団子や、あの鼻や、あのふてぶてしい嘲弄が憎らしくてたまらないのだ。全体に虫が好かないのだ。それが心配なんだよ。こればかりは我慢がならないから」
「ミーチャ、僕行って来ます。僕は神様が、そんなに恐ろしいことの起こらないように、じょうずに取りさばいてくださることを信じます」
「じゃ、おれはここに坐って、奇跡を待つことにしよう。もし奇跡が起こらなかったら、その時は……」アリョーシャは思いに沈みながら、父のもとをさして出かけた。
彼ははたしてまだ父が食卓に向かっているところへ行った。この家には別に本式の食堂があるのに、いつもの習慣で食卓は広間に用意されてあった。それは家じゅうでいちばん大きい部屋で、なんだか昔くさい造りの室内装飾が施してあった。家具類は思いきり古風なもので、白い骨に古ぼけた赤い絹まじりの布が張ってある。窓と窓とのあいだの壁には鏡がはめこんであるが、その縁はやはり白地に金をちりばめて、古くさい彫刻をごてごてと施したものである。もうあちらこちら裂けた白い紙張りの壁には、二つの大きな肖像画がもったいらしく掛かっている――一つのほうは、三十年ばかりも前にこの地方の総督をしていた、さる公爵で、もう一つのほうはやはりよほど以前に世を去ったある僧正であった。部屋の正面の隅には幾つもの聖像が安置されて、夜になるとその前に燈明があげられたが、それは信心のためというよりは、夜分部屋の中を明るくするためであった。フョードル・パーヴロヴィッチは毎晩たいへん遅く、夜明けの三時か四時に寝につくので、それまでは部屋の中を歩き回ったり、肘椅子に腰かけて考えごとをするのであった。それが癖になってしまったのである。彼はよく召し使いを傍室へさげてしまって、まるきり一人で母家に寝ることがあったけれど、たいていは下男のスメルジャコフが毎晩、彼の身辺に居残って、控え室の腰かけの上で寝ていた。アリョーシャがはいって行ったときには、もう食事が済んでジャムとコーヒーが出ていた。フョードル・パーヴロヴィッチは食後に甘いものを食べてコニャクをやるのが好きであった。イワン・フョードロヴィッチもやはり食卓に向かってコーヒーを飲んでいた。従僕のグリゴリイとスメルジャコフが食卓のそばに立っていた。どうやら主人側も召し使いのほうも、目にみえてひどく愉快にはしゃいでいるらしかった。フョードル・パーヴロヴィッチは大きな声で笑ったり、にこにこしていた。アリョーシャは玄関へはいったばかりで、もうあの父の、前からよく聞き慣れているかん高い笑い声を耳にしたのである。彼はその笑い声から、父がまだ酔っ払うというところまでにはだいぶ間のある、ほんの一杯機嫌になっているにすぎないことを、たちどころに推察した。
「ほら、来たぞ、来たぞ!」と、フョードル・パーヴロヴィッチはアリョーシャのやって来たのをむしょうに喜んでわめきだした。「さあ相伴をしろ、ここへ来てコーヒーを一杯やんな――なあに、精進のコーヒーだよ、精進の。熱くて、うまいぞ! コニャクはすすめないよ、おまえは精進を守ってるのだからな、しかしどうだ、少しやらんか? いや、それよりおまえにはリキュールをやろう、すばらしいやつだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行って取って来い、二番目の棚の右側にある。そら鍵だ、早く持って来い!」
アリョーシャはリキュールを断わろうとした。
「なあに、どうせ出すんだ。おまえがいらなきゃ、わしらがやるよ」と、フョードル・パーヴロヴィッチはほくほくしながら、「それはそうと、おまえ、食事は済んだのか、どうだ?」
「もう済みましたよ」とアリョーシャは答えたものの、その実、修道院長の台所で、パンを一切れにクワスを一杯飲んだだけであった。「僕はこの熱いコーヒーをいただきましょう」
「可愛いやつ! 感心感心! こいつはコーヒーを飲むっていうぜ。温めなくていいかな? いや、まだ煮え立っておるわい。すばらしいコーヒーだて、スメルジャコフのお手ぎわだよ。この男はコーヒーと魚饅頭にかけては名人だ。あ、それからまだ魚汁にかけてもな。ほんとにいつか、魚汁を食いに来んか。そのときは前もって知らせるんだぞ……いや待て待て、さっき、わしは今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いとおまえに言いつけたが、ほんとに蒲団をかついで来たかよ? へ、へ、へ!」
「いいえ、持って来ませんよ」アリョーシャも薄笑いをした。
「な、びっくりしたろ、さっきはほんとにびっくりしたろ? なあこれ、坊主、わしがおまえを侮辱するなんてことはとてもできるこっちゃないわい。でな、イワン、わしはこれがこんな風にわしの顔を見て笑うと、どうも平気で見ちゃいられないわい、いや、こたえられないて。つい誘われてにっこりしてしまうのだよ、可愛くてな! アリョーシカ、さあひとつわしが父としての祝福を授けてやろう」
アリョーシャは立ち上がった。しかしフョードル・パーヴロヴィッチはもうそのあいだにも気持を変えていた。
「いや、いや、今はただ十字を切ってやるだけにしとこう、さあこれでよしと。掛けな。ところで、おまえの喜びそうな話があるのだよ。しかもおまえの畑なんだぜ。腹の皮をよるこったろうて。うちのヴァラームの驢馬がしゃべりだしたのさ。そのまた話のうまいことといったら!」
ヴァラームの驢馬とは、下男のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四、五歳の若者であった。が恐ろしく人づきの悪い黙り者であった。それも内気な、はにかみやというわけではなくて、反対に彼は傲慢な性質で、人をすべて軽蔑しているようなところがあった。それはさて、ここで、この男のことをたとえひと言でも述べておかなければならない。しかもちょうど今でなくてはならないのである。彼はマルファ・イグナーチエヴナとグリゴリイ・ワシーリエヴィッチの手で育てられたが、グリゴリイの言いぐさではないが、『まるで恩知らず』に成長して、野育ちの子供らしく隅っこから世間をうかがうようにしていた。小さいころに彼は、猫を絞め殺して、あとで葬式のまねをするのが大好きであった。そのために敷布をひっかけて法衣の代わりにして、何か香炉の代わりになるものを猫の死骸の上で振り回しながら、讃美歌をうたったものである。これは厳重な秘密裡にこっそりと取り行なわれた。ある時、そういうお勤めをしているところを、グリゴリイに見つけられて、鞭でこっぴどく折檻されたことがある。するとこの子供は片隅へ引っこんでしまって、一週間ばかりというもの、そこから白い眼を光らせていた。『このできそこないはわしやおまえを好いていねだよ』とグリゴリイは妻のマルファ・イグナーチエヴナに言い言いした。『いや、誰ひとり好いていねんだよ。それでも手前は人間なのかい?』と、彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向かって、こんな風に言うことがあった。『うんにゃ、手前は人間じゃねえ。湯殿の湿気からわいて出たやつだ、それが手前なんだぞ……』それはあとでわかった話だが、スメルジャコフはいつまでもこのことばを恨みに思っていた。グリゴリイは彼に読み書きを教えた。そして子供が十二歳になったとき聖書の講釈をしにかかった。が、それはすぐ失敗に終わった。まだほんの二度目か三度目の稽古のおり、子供は不意ににやりと笑った。
「どうしたんだ?」と、眼鏡ごしにいかつく子供をにらみながら、グリゴリイが問いただした。
「なんでもありません。神様が世界をお創りになったのは初めの日でしょう。それだのにお日様やお月様やお星様ができたのは四日目じゃありませんか。はじめての日にはどこから明りが映したのです?」グリゴリイは立ちすくんでしまった。少年はあざけるように教師を見やった。その眼眸にはどこか高慢ちきなところさえうかがわれた。グリゴリイはとてもこらえきれなかった。『そうら、ここからだ!』とどなりざま、猛烈に教え子の頬桁をなぐりつけた。子供は黙ってその折檻をこらえていたが、またもや幾日かのあいだ隅っこへ引っこんでしまった。ところが、ちょうどそれから一週間たって、彼の一生の持病となった癲癇の兆候がはじめて現われた。このことを聞くと、フョードル・パーヴロヴィッチは突然この子供に対する態度を一変したようである。それまで彼は、一度も叱りつけるようなこともなく、出会うごとに一カペイカずつくれてやったり、機嫌のいいおりには食卓へ出た甘いものを届けてやったりしたこともあったが、なんだか無関心な眼で子供を眺めていた。ところが病気の話を聞くと共に、急にこの子供のことを心配しだして、医者を迎えて治療にかかったけれど、治療の見込みはないということがわかった。発作は一月に平均一度ぐらい襲ってきたが、その期間はさまざまであった。また発作の程度もまちまちで、ときには軽く、ときには非常に激烈であった。フョードル・パーヴロヴィッチはグリゴリイに向かって、子供に体刑を加えることを厳しく禁じた。そして子供に上の自分の部屋へ出入りすることを許した。また、どんなことにもせよ、物を教えることも当分のあいだ差し留めた。ところが、ある時、子供はもう十五になっていたが、フョードル・パーヴロヴィッチは彼が書棚の辺をうろつき回って、ガラス戸ごしに本の標題を読んでいる姿を見た。フョードル・パーヴロヴィッチのところにはかなりたくさん、百冊あまりも書物があったけれど、彼が書物を読んでいるのを見た者は一人もなかった。彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡した。「さあ、読め、読め、庭をうろつき回っているより、図書係りにでもなったほうがましだろう。坐って読むがいい。まあ、こんなものでも読んでみろ」そう言ってフョードル・パーヴロヴィッチは『ディカンカ近郷夜話』を抜き出して与えた。
子供は読みにかかったが、ひどく不満らしい様子で、にこりともしないばかりか、読み終わった時には、かえって顔をしかめていたくらいである。
「どうだい? おかしくないかい?」と、フョードル・パーヴロヴィッチが聞いた。
スメルジャコフは黙りこんでいた。
「返事をしろ、ばかめ」
「嘘ぱちばかり書いてありますね」とスメルジャコフはにやにやしながら曖昧な返事をした。
「ふん、勝手にしろ、この下郎根性め。まあ待て、これを貸してやろう、スマラグドフの万国史だ。これならば本当のことばかり書いてあるぞ、読んでみろ」
けれどスメルジャコフはそのスマラグドフも十ページとは読まなかった。まるっきり退屈なものに思われたのである。こんな風で書棚はまたもとのように閉じられてしまった。間もなくマルファとグリゴリイは、スメルジャコフが妙にだんだん気むずかしくなったことを、フョードル・パーヴロヴィッチに報告した。というのは、スープをすすりにかかっても、匙を握ったまましきりとスープの中を吟味したり、かがみこんでのぞいたり、一匙すくって明りに透かして見たりするというのであった。
「油虫でもおるのか?」とグリゴリイが聞く。
「きっと蠅でしょうよ」とマルファが口をいれる。
潔癖な少年は一度も返事をしなかったが、パンであれ、肉であれ、すべての食物について同じようなことをするのであった。何でも食物の切れをフォークにさして、明かりの方へ持っていくと、まるで顕微鏡でものぞくように子細に検査をして、長いあいだ躊躇していてから、やっと思いきって口の中へ入れるという風であった。それを見るとグリゴリイは『へん、まるで御大身のお坊ちゃまだよ』とつぶやいたものだ。フョードル・パーヴロヴィッチはスメルジャコフのこうした新しい性分を聞き知ると、さっそく料理人に仕立てようと思い立って、モスクワへ修業にやった。彼は数年のあいだ修業をして、帰って来た時にはすっかり面変わりがしていた。急にまるで年に似合わずひどく老けこんで、皺が寄り、黄色くなったところは、まるで去勢者のようであった。性質のほうはモスクワへ行く前とほとんど変わりがなかった。相変わらず人づきが悪く、誰とも、交際するなどということは、てんでその必要を認めなかったのである。あとで人から聞いたところによると、彼はモスクワでも始終しんねりむっつりで押し通したとのことである。モスクワそのものもきわめてわずかしか彼の興味を引かなかったので、市中のこともほんの二、三しか知らず、その余のことはてんで見向こうともしなかったのである。一度、芝居へ行ったことがあるけれど、黙りこくって、不満らしい様子で帰って来た。その代わりモスクワから帰って来たときは、なかなか凝った服装をしていた。きれいなフロックコートにワイシャツを着こんで、日に二度は必ず自分で念入りに服にブラシをかけ、気取った犢皮の靴を特製の英国靴墨で鏡のように磨きあげるのが好きであった。料理人としての彼は実に立派なものであった。フョードル・パーヴロヴィッチは彼に一定の給料を与えていたが、スメルジャコフはその給料のほとんど全部を着物やポマードや、香水などに使ってしまうのであった。しかし女性を軽蔑する点では、男性に対すると変わりなさそうで、女に面と向かうといかにも四角ばって、ほとんど近寄ることができないくらいにふるまった。フョードル・パーヴロヴィッチはまた少し別な見地から彼を眺めるようになった。スメルジャコフの癲癇の発作がますます烈しくなってきて、そういう日には食事の調理をマルファ・イグナーチエヴナが代わってしたが、それがフョードル・パーヴロヴィッチにはどうにも我慢がならなかったのである。
「どうしておまえの発作はこうだんだん度重なってきたのだろうな?」彼は新しい料理人の顔を流し目に見やりながら、こう言った。「おまえ、嫁をもらったらどうだな。なんなら世話してやるが」
しかし、スメルジャコフはこのことばを聞くと、ただ腹が立ってまっさおな顔をしただけで、返事ひとつしなかった。でフョードル・パーヴロヴィッチも手を一つ振っておいて、その場をはずしてしまった。しかし何よりも重大な点は、彼がこの青年の正直さを絶対に信用して、相手がけっして物を取ったり盗んだりしないと信じきっていることであった。ある時、フョードル・パーヴロヴィッチは酔っ払っていたために受け取ったばかりの虹幣を三枚自宅の庭のぬかるみへ落としたことがある。あくる日になってはじめて気がついて、あわててポケットの中を捜しにかかったが、ふと見れば、虹幣は三枚ともちゃんとテーブルの上に載っている。いったいどこから出て来たんだ? スメルジャコフが拾って、もう前の日からそこへ持って来てあったのである。「いやどうも、おまえみたいな男は見たことがないぞ」フョードル・パーヴロヴィッチはそう言ってそのとき、彼に十ルーブルくれてやった。ここでつけ加えておかねばならぬのは、フョードル・パーヴロヴィッチは単に彼の正直さを信じていたばかりでなく、なんとはなしにこの青年が好もしかったのである。そのくせこの若者のほうは彼に対しても、赤の他人に対すると同様、白眼を向けて、いつもむっつりとしていた。口をきくこともまれであった。こんな場合、誰かが彼の顔を眺めながら、いったいこの若者は何に興味をいだいているのか、また心の中で何を一番に考えているのか、そんなことを知りたいと思っても、相手の様子を見ただけでは、とてもそれを判断することができなかった。ところでまた、彼はどうかすると、家の中でも、庭でも、また往来のまん中でも、ふと立ち止まって、何か考えこみながら、ものの十分間もたたずんでいることがよくあった。骨相学者がもしこのときの彼の顔をよく観察したならば、そこには思考もなければ想念もなく、ただ何か瞑想とでもいうものがあるばかりだ、と言うに違いない。画家クラムスキイの作品のなかに『瞑想する人』と題する傑作がある。それは冬の森の景色で、その森の中の道には、踏み迷った一人の百姓が、ぼろぼろの上衣に木の皮の靴をはいてただひとり深い静寂の中に立っている。いかにも彼は、何か物思いにふけっているようではあるが、それもけっして考えこんでいるのではなく、ただ何か『瞑想』しているのである。もしこの男をとんと突いたなら、彼はきっとぎくりとして、まるで夢からさめたように、相手の顔を見守るだろうが、その実、何がなんだか少しもわからないのである。実際すぐわれに返るに違いないけれど、何をぼんやり立って考えてたのかと聞かれても、おそらく何の記憶もないに違いない。しかし、その代わり、彼が瞑想中に受けた印象は、深くその心の底に秘められているのである。こうした印象は本人にとってなかなか大切なもので、おそらく彼はみずからそれと意識しないで、いつとはなしに、それを蓄積してゆくのである――何のために、どうしてということも自分ではむろんわかっていないのである。だが、長年のあいだこうした印象を蓄積したあげく、突然すべての物を放って、遍歴と修行のためにエルサレムをさして旅立つかもしれないが、あるいはまた、不意に自分の生まれ故郷の村を焦土と化してしまうかもしれぬ。もしかしたら、その両方が一時に起こらないとも限らぬのである。瞑想家は民間にかなり多い。スメルジャコフもおそらくそうした瞑想家の一人であって、やはり同じように自分では何のためとも知らずして、独自の印象をむさぼるように蓄積しているのに違いない。
ところが、このヴァラームの驢馬が突然口をきき始めたのである。その話題は奇態なものであった。グリゴリイが、今朝早くルキヤーノフの店へ買い物に行って、この商人からある一人のロシア兵の話を聞いて来たのである。なんでもその兵士は、どこか遠いアジアの国境で敵の捕虜になったが、即刻、残酷な死刑に処するという威嚇のもとに、キリスト教を捨てて回々教に改宗するように強制されたにもかかわらず、彼は自分の信仰を裏切ることを肯んじないで受難を選び、生皮を剥がれながら、キリストをたたえて、従容として死んでいったというのである。この美談は、ちょうどその日届いた新聞にも掲載されていた。この話をグリゴリイが食事のあいだにもちだしたのである。フョードル・パーヴロヴィッチは昔から食後のデザートに、たとえグリゴリイを相手にしてでも、何かおもしろい話をして、わっとひと笑いするのが好きであった。このときも気軽で、愉快な、のんびりした気分になっていた。で、コニャクを傾けながらその一部始終を聞き終わると、そういう兵士はすぐにも聖徒の中へ祭りこまねばならぬ、そして剥がれた皮はどこかのお寺へ納めたがよい、『それこそたいへんな参詣人で、さぞお賽銭もあがることだろうぜ』と言った。グリゴリイはフョードル・パーヴロヴィッチが少しも身にしみて感じないばかりか、いつもの癖で、罰当たりなことを言いだしたのを見て顔をしかめた。ちょうどその時、扉のきわに立っていたスメルジャコフが、不意ににやりと笑った。スメルジャコフはこれまでもよく食事のしまいごろに食卓のそばへ出ることを許されていたが、イワン・フョードロヴィッチがこの町へやって来てからというものは、ほとんど食事のたんびに顔を出すようになった。
「どうしたんだ、これ?」と、その薄笑いを目ざとく見つけると同時に、それがグリゴリイに向けられたものだと悟りながら、フョードル・パーヴロヴィッチが聞いてみた。
「今の話でございますが」と、スメルジャコフは、突然大きな声で思いがけないことを言いだした。
「その感心な兵士のしたことはなるほど偉いには違いありませんが、そんな危急な場合にはその兵士がキリストの御名と自分の洗礼を否定したからといって、いっこう罪にはならないだろうと思います。そうしますれば、このさきいろいろ良い仕事をするために、自分の命を全うすることができますし、またその良い仕事で長の年月のあいだには、自分の無分別な行為も償うことができるではありませんか」
「どうしてそれが罪にならないのか? ばかなことを言え、そんな口をきくとまっすぐに地獄へ突き落とされて、羊肉のように焙られるぞ」フョードル・パーヴロヴィッチが口を入れた。ちょうどこの時、そこへアリョーシャがはいって来たのである。フョードル・パーヴロヴィッチは、前にも述べたように、アリョーシャを見てむしょうに喜んだのである。
「おまえの畑だ!」と彼はアリョーシャを席につかせながら、忍び笑いをしたものである。
「羊肉のことですが、そんなことはけっしてあるはずがありません。それにあんなことを言ったくらいでそんなことになるはずがありません。またあるべきものでもございません――公平に申しまして」と、スメルジャコフはいこじになって答えた。
「公平に申しましてというのは何のことだい?」膝でアリョーシャを小突きながら、フョードル・パーヴロヴィッチはなおいっそうおもしろそうに叫んだ。
「畜生です。それだけのやつです!」とグリゴリイが、突然、口走った。彼は憎々しげに、ひたとスメルジャコフの顔を見すえた。
「畜生だなどとおっしゃることは少々お待ちください、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ」とスメルジャコフは落ち着いた控え目な調子で口答えをした。「それより、自分でもよく考えて御覧なさい。もしわたしがキリスト教徒の敵の手に捕えられて、神の御名をのろい自分の洗礼を否定せよと強いられたとしましたら、わたしはこの、自分の考えどおり行動する権利を持っているのです。そうしたからとて罪などになるはずがないからです」
「そのことならもうさっき言ったじゃないか、駄法螺ばかり吹いていないで、証拠を言ってみろ!」とフョードル・パーヴロヴィッチがどなった。
「この煮出汁とり野郎め!」とグリゴリイが吐き出すようにぼやいた。
「煮出汁とり野郎だなんて、それもやはり少々お待ちください、そんなきたない口をきかないで、よく考えて御覧なさいグリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、だってわたしが敵のやつらに向かって『そうです、もうわたしはキリスト教徒じゃありません、わたしは自分の神様をのろいます』と言うが早いか、すぐさまわたしは、最高の神の裁きによって特別にのろわれたる破門者となって、異教徒と全然同じように、神聖な教会から追放されるに違いありません、ですからわたしが口をきる一瞬間というよりも、むしろ口をきろうと思った刹那に――このあいだは四分の一秒もかかりません――わたしはもう破門されておるんです――そうじゃありませんか、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ[#「グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ」は底本では「グリゴリイ・ワシリーエヴィッチ」]?」
彼はいかにも満足そうにグリゴリイに向かってこう言った。しかしその実、ただフョードル・パーヴロヴィッチの質問に対して答えているだけだということは、自分でもよく知っているくせに、わざとその質問をグリゴリイが発しているようなそぶりを見せるのであった。
「イワン」と、突然フョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。「ちょっと耳を貸してくれ。あれはみんなおまえを目当てにやっておるんだよ、おまえに褒めてもらいたいが、山々なのだ、褒めてやれよ」
イワン・フョードロヴィッチは父の有頂天なことばをまじめくさった様子で聞いていた。
「待った、スメルジャコフ、ちょっとのあいだ、黙っておれ」と、またしてもフョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。「イワン、もう一ぺん耳を貸してくれ」
イワン・フョードロヴィッチはまた思いきりまじめくさった様子をして身をかがめた。
「わしはおまえも、アリョーシャと同じように好きなんだぞ、わしがおまえを嫌っとるなどと思わんでくれ、コニャクをやろうか?」
「ください」『しかし、自分でいいかげん酔っぱらっているくせに』と思って、イワン・フョードロヴィッチはじっと父の顔を見つめた。が、それと同時に異常な好奇心をもってスメルジャコフを観察していたのである。
「貴様は今でも『のろわれたる破門者』だぞ」とだしぬけにグリゴリイが爆発したようにどなった。
「だのに、なんだって貴様はそんな屁理屈がこねられるのだ、もし……」
「これ悪態をつくな、グリゴリイ、悪態を!」とフョードル・パーヴロヴィッチがさえぎった。
「グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、まあほんのちょっとのあいだでよろしいから待ってください、まだすっかりお話をしてしまったわけではありませんから、も少し先を聞いてください。ところで、わたしがすぐ神様からのろわれた瞬間――そのぎりぎりの一瞬間に、わたしはもう異教徒と同じ者になって、洗礼もわたしから取り去られてしまうのです。そしてわたしには何の責任もなくなるわけです――それに違いありませんね?」
「けりをつけんか、これ、早くけりを」と、好い機嫌で杯をぐいとあおりながら、フョードル・パーヴロヴィッチがせき立てた。
「そこで、もはやわたしがキリスト教徒でないとすれば、敵のやつらから『おまえはキリスト教徒か、キリスト教徒でないか?』と聞かれたとき、嘘をついたことにはなりません。なぜといって、まだわたしが敵に向かってひとことも口をきかない先に、ただ言おうと心に思っただけで、すでにわたしは神様からキリスト教徒としての資格を奪われてしまっているからです。もし資格を奪われてしまっているとすれば、あの世へ行った際、キリストを否定したという理由で、わたしをキリスト教徒なみに、とやかくと詮議立てするどんな正義があるのです? だって、わたしは、ただ否定しようと心に思っただけで否定するより前にもうちゃんと洗礼を剥ぎ取られているんですからね、で、もしわたしがキリスト教徒でないとすれば、わたしはキリストを否定することもできません、なぜと言って、否定しようにも否定すべきものがないではありませんか、けがらわしいダッタン人が天国へ行ったからとて、なぜおまえはキリスト教徒に生まれなかったと言って、とがめ立てするものはありませんからね、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、一匹の牛から二枚の革の取れないことを知っているぐらいの人だったら、こんな人間に罰を当てたりはしませんよ、万能の神様だって、そのダッタン人が死んだときには、汚れた両親から汚れたダッタン人としてこの世へ生まれて来たからとて、当人に何の責任もないということを斟酌して、ほんのちょっぴり、申しわけだけの罰をお当てになるだけだと思いますよ、(全然、罰しないというわけにもいきますまいからね)また神様にしても無理にダッタン人をつかまえて、おまえはキリスト教徒であったろう、などとおっしゃるわけにはいかないじゃありませんか? そんなことをおっしゃったら、神様がまっかな嘘をおつきになったことになりますからね、いったい天地の支配者たる神様が、たとえひと言でも嘘をおつきになるようなことがあるでしょうかねえ?」
グリゴリイは立ちすくんだまま、眼をむいて弁舌者を見つめていた。彼には今語られたことがよくはのみこめなかったけれど、それでもこのたわごとのようなことばの中から、何かしらあるものをつかむことができたので、まるで、だしぬけに額を壁にぶっつけた人のような顔をして、じっとその場に突っ立っていた。フョードル・パーヴロヴィッチは杯をぐいと飲みほすと、かん高い声を立てて笑いだした。
「アリョーシャ、アリョーシャ、どんなもんだい? おい驢馬、おぬしゃなかなか理屈こきだな! イワン、こいつはおおかたどこかのエズイタ派のところにいたんだぜ、おい、悪臭い異教徒、いったいおまえはどこでそんなことを教わって来たんだ? だが、ごまかし屋、おまえの言ってることは嘘だよ、まっかな嘘だよ、これグリゴリイ、泣くな、今すぐにわしらがこいつの屁理屈をたたきつぶしてくれるからな、この驢馬先生、さあ返答をしろ、たとえおまえが敵の前で公明正大だとしても、おまえ自身は肚の中で、自分の信仰を否定するのじゃろう、そしてそれと同時に破門者になってしまうのだと、おまえは自分でも言っておるのじゃろう、ところでいったん、破門者になったとすれば、地獄へ行った時に、よくまあ破門者になったと、おまえの頭をなでてくれはせんぞ、そこのところをおまえはなんと思う、立派なエズイタ先生?」
「わたしが肚の中で信仰を否定したということは疑いございませんが、それだからとて別に罪にもなりゃしませんよ、罪になるにしてもごくあたり前な罪ですよ」
「なんでごくあたりまえな罪です、じゃ?」
「ばかこけ、この罰当たりめが!」とグリゴリイがうなるようにわめいた。
「まあ、よく御自分で考えて御覧なさいグリゴリイ・ワシーリエヴィッチ」と、くそ落ち着きに落ち着いてしかつめらしくスメルジャコフがことばを続けた、それは自分の勝利を自覚していながら、敗れた敵をあわれむといった調子であった。「まあ、考えて御覧なさい、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、聖書にもこう言ってあるじゃありませんか、人がもしほんの小さな、芥子粒の信仰でも持っておれば、山に向かって海へはいれと言えば、山はその最初の命令とともに、猶予なく海へはいって行くってね、どうですかねグリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、わたしが不信心者で、あなたがひっきりなしにがみがみわたしをどなりつけなさるほど、立派な信仰を持っていらっしゃるとしたら、ためしに一つ、あの山に向かって、命令して御覧なさいよ、海へとまで言わなくても(なにしろここからじゃ海まではだいぶ道のりがありますからね、)せめて、つい庭の外に流れている、あの臭い溝でもよござんすよ、そうすればすぐに、あなたがどれほどどなってみなすったところで、何一つびくともしないで、そっくり元のままでいることは御自分でおわかりになりますよ、これはつまり、あなたが本当の意味の信仰を持ってもいないくせになんぞといえば、他人を悪口していなさるだけだってことになりますよ、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、しかし考えてみれば、これはあなただけじゃありません、今の時世で身分の上下を問わず、山を海の中へ押しこかすことのできるような人は一人だってありませんよ、例外があったところで、広い世界じゅうに一人か、多くて二人くらいなもんでしょうて。それもどこかエジプトあたりの砂漠の中で、こっそり隠遁しているでしょうから、とてもそんな人は見つかりっこありませんよ、もしそうだとして、それ以外の人がみんな不信心者だとしたら、あれほど万人に知れ渡ったお慈悲深い御心の神様が、その砂漠にいる二人の隠者を除けた他の、全世界の人間を、ことごとくおのろいになって、一人もお許しにはならないでしょうか? こんなわけですから、いったん神様を疑ったとしたところで、悔恨の涙さえ流したら許していただけるだろうと、わたしは信じているのですよ」
「おっと待った!」と、フョードル・パーヴロヴィッチはすっかり有頂天になって、金切り声で叫んだ。
「じゃあ、その、山を動かすことのできる人間が、とにかく二人だけはあるとおまえは考えるんだな? イワン、そこんとこをよく覚えて書き留めといてくれ、実にロシア人の面目躍如たりだ!」
「ええ、お父さんのおっしゃるとおりです、これは宗教上の国民的な特質ですよ」と、わが意を得たりというような微笑を浮かべて、イワン・フョードロヴィッチは同意した。
「賛成だな? おまえが賛成する以上、それに違いなしだ! アリョーシカ、ほんとだろう? 全くロシア的な信仰だろう?」
「いいえ、スメルジャコフは少しもロシア的な信仰を持っていません」と、まじめな確固たる調子でアリョーシャが言った。
「わしが言うのはこいつの信仰のことじゃない、あの二人の隠者についての点だよ、あの一点だけの話だよ、あれこそロシア式だろう、全くロシア式だろう?」
「ええ、その点は全然ロシア式です」とアリョーシャはほほえんだ。
「驢馬先生、おまえのこのひと言は金貨一枚だけの値打ちがあるぞ、ほんとに今日おまえにくれてやるわい、だが、そのほかのことは嘘だぞ、まっかな嘘だぞ、なあこら、おばかさん、われわれ一同がこの世で信仰を持たないのは心があさはかなからだ、なにしろ、暇がないからなあ、第一、いろんな用事にかまけてしまう、第二に神様が時間をろくろく授けてくださらないで、せいぜい一日が二十四時間やそこいらでは、悔い改めるはさておき、十分に眠る暇もないからなあ、ところが、おまえが敵の前で神様を否定したのは、信仰のことよりほかには考えられないような場合で、しかも是が非でも自分の信仰心を示さなくっちゃならないような土壇場じゃないかい! おいどうだ、きょうだい、一理あるだろうじゃないか?」
「一理あるにはありますがね、まあ、よく考えて御覧なさい、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、一理あればこそ、なおのこと、わたしにとって罪が軽くなるというものです、もしわたしが間違いのない正当な信仰を持っていたとしたら、その信仰のための受難に甘んじないで、けがらわしい回々教へ転んだのは、全く罪深いことに違いありませんよ、しかし、それにしても、責め苦を受けるというところまではいかないで済んだはずですよ、だって、その時、眼の前の山に向かって、さあ動いて来て敵をつぶしてしまえと言いさえすれば、山は即刻動きだして、敵のやつらを油虫かなんぞのように押しつぶしてしまったはずです、そうすれば、わたしは何ごともなかったように、鼻うたでもうたいながら、神の栄光をたたえながら引き上げて行きますよ、ところが、もしその土壇場になって、そのとおりにやってみて、わたしがその山に向かって敵を押しつぶしてくれと、わざと大きな声でどなったところで、山がいっこう敵を押しつぶしてくれそうにないとしたら、わたしだってそんな恐ろしい命がけの場合に、どうして疑いを起こさずにいられるものですか? それでなくても、とても天国へなどまともに行きつけるものでないことを承知していますのに(だって、わたしの声で山が動かなかったところをみると、天国でもわたしの信仰をあまり信用してくれなさそうですから、たいした御褒美があの世でわたしを待っているようにも思われませんからね)、何をすき好んで、そのうえ、役にも立たないのに自分の生皮を剥がせる必要がありましょう? たとえ、もう半分背中の皮を剥がれながらわたしがどなったりわめいたりしてみたところで、山はびくともしやしませんからね、こんな瞬間には疑いが起こるくらいは愚かなこと、恐ろしさのあまりに、思慮分別もなくなるかもしれません、いや、分別を巡らすなんてことは全然不可能です、してみれば、この世でもあの世でも、自分に何の得になることでもなく、たいして御褒美にもあずかれないとわかったら、せめて自分の皮だけでも大事にしようと思ったからとて、それがいったいどれだけ悪いことでしょう? ですから、わたしは神様のお慈悲を当てにして、何事もきれいに許していただけるものと、どこまでもそう思っているのです」
討論はこれで終わったが、奇態なことに、あれほど上々の御機嫌であったフョードル・パーヴロヴィッチが、終わりごろから急に苦い顔をしだした。顔をしかめて、ぐいとコニャクをあおったが、それはもうまるでよけいな一杯であった。
「さあいいかげんに出て行かんか、エズイタどもめ」と彼は下男にどなりつけた。「もう出て行け[#「出て行け」は底本では「出け行け」]、スメルジャコフ、約束の金貨は今日じゅうに届けてやるから、おまえはもうさがっていいぞ、泣くな、グリゴリイ、マルファのところへ行きな、あれが慰めて、寝かしてくれらあな」「横着者めらが、食事のあとでゆっくりくつろがせもしおらん」命令によって下男たちが出て行くと、彼はいきなり腹立たしそうに言いきった。「このごろスメルジャコフは、食事のたんびに出しゃばりおるが、よっぽどおまえが珍しいのだとみえる、いったいおまえはどうしてあいつを籠絡したんだい?」と、彼はイワン・フョードロヴィッチに向かって、こう言い足した。
「どうもしやしませんよ」とこちらは答えた。「勝手に僕を尊敬する気になったんでしょうよ、なあに、あれはただの下種下郎ですよ、しかし時期が到来したら、前衛に立つべき人間でしょうね」
「前衛に?」
「他にも、もっと立派な人間が出てくるでしょうが、あんなものも出てきますね、初めにあんなのが出て、それからもっといいのが現われるのです」
「で、その『時期』はいつ来るんだね?」
「狼火があがったら、しかし、ことによると、燃えきらないかもしれませんね、今のところ民衆は、あんな煮出汁とりふぜいの言うことには、あまり耳を貸しませんからね」
「なるほどな、ところでおまえ、あのヴァラームの驢馬めはいつもなんだか考えてばかりいるが、いったい、どんなとこまで考え抜くか、知れたもんじゃないぜ」
「思想をためこんでいるのですよ」とイワンは薄笑いを漏らした。
「だがな、わしはちゃんと知っとる、あいつは他の者にもそうだが、わしという人間に我慢できないのだよ、おまえにだって同じことだぞ、おまえは『勝手に僕を尊敬する気になった』などと言っておるけれどさ、アリョーシカはなおのことだ、あいつはアリョーシカを小ばかにしておるよ、だが、あいつは盗みをしおらん、そこが取柄さ、それにいつも黙りこくって告げ口をせんし、内輪のあらを外へ持ち出すようなこともない、魚饅頭も手ぎわよく焼きおる、しかし、あんなやつなんぞ、ほんとにどうだってかまやせんわい、あんなやつのことをかれこれ言うがものはないよ」
「むろん、言うがものはありませんよ」
「ところで、あいつが一人腹の中で何か考えこんでおるというと……つまり、ロシアの百姓は一般にいうて、うんとぶんなぐってやらにゃならんのだ、わしはいつもそう言っておるんだよ、百姓なんてものは騙児だから、同情してなんかやるには当たらん、今でもたまにぶんなぐる者がおるから、もったものだ、ロシアの土地は、白樺があればこそ、しっかりしてるんだ。森を切り払ってしまったら、ロシアの国もくずれてしまうのだ、わしは賢い人の味方をするなあ、われわれはひとかど利口ぶって百姓をぶつことをやめたけれど、百姓らは相変わらず自分で自分をぶっておる、それでいいのさ、人をのろわば穴二つ……いや、どう言ったらいいのかなあ……つまり、その、穴二つなんだ、全くロシアは豚小屋だよ、ほんとに、わしがどんなにロシアを憎んでおることだか……いや、ロシアをじゃない、このいろんな悪をだ……、しかし、それはロシアということになるかもしれない、Tout cela c'est de la cochonnerie(それはみんな腐敗から出るの意)いったいわしの好きなものがなんだか知っとるか? わしはその、とんちが好きなのさ」
「また一杯あけましたね、もうたくさんでしょう」
「まあ待ってくれ、わしはもう一杯やるよ、それからもう一杯やったら、それでおつもりにするよ、どうもいかんよ、おまえが途中で水をさすもんだから。わしはな、通りがかりにモークロエ村で、一人の老爺に尋ねてみたことがある、するとその老爺の言うには『わしらあ罰をくわえるとて娘っ子をひっぱたくが、何よりもいちばんにおもしれえだ、ひっぱたく役目は、いつでも若えもんにやらせますだ、ところが、今日ひっぱたいた娘っ子を、明けの日には、若えもんが嫁にするってわけさ、だもんだで、あまっ子らもそれをあたりめえのように思っとりますだよ』と、こうだ、なんというサード侯爵たちだろう? 全くうめえことを言いおったて、ひとつわしらも見物に出かけるかな、うん? アリョーシャ、おまえ顔を赤くするのかい、何も恥ずかしがることはないよ、坊主、さっき修道院長の食事に招ばれて、坊さんたちにモークロエ村の娘っ子のことを話して聞かせなかったのは残念だったよ、アリョーシカ、わしはさっきおまえんとこの修道院長に、うんと悪態をついたけれど、腹を立てないでくれよ、わしはついむらむらっとなってなあ、もし神様があるものなら、ござらっしゃるものなら、そのときはもちろんわしが悪いのだからどんなとがめも受けようさ、しかし、もう神様がまるっきりないとしたら、あんな御連中にはもう用なしじゃないか? おまえんとこの坊さんたちのことだよ、そうなった暁には、あいつらの首を刎ねるくらいじゃ足りないぞ、なぜといって、あいつらは進歩を妨げたんだからなあ、イワン、おまえは信じてくれるかい? この考えがわしの心を悩ましとるんだよ。だめだ、おまえは信じてくれんな、その眼つきでちゃんとわかるよ、おまえは世間のやつらのいうことを本当にして、わしをただの道化者だと思っとるのだ、アリョーシカ、おまえもわしをただの道化だと思うかい?」
「いいえ、ただの道化だなんて思いませんよ」
「それは本当らしいな、おまえが心からそう思っとるということは、わしも信じるぞ、正直な眼つきで、正直な口をききおるからな、ところが、イワンはそうじゃない、イワンは高慢だ……しかし、とにかく、おまえのお寺とはすっかり縁を切ってしまいたいもんだなあ。ほんとにロシアじゅうの神秘主義を残らず引っつかんで、世間のばか者どもの眼をさますために、影も形もないように吹き飛ばしてしまうといいのだ。そうしたら、金や銀がどれだけ造幣局へ流れこむことだろうな!」
「なんのために吹き飛ばすんです?」とイワンが言った。
「ちっとでも早く、真理が光りだすようにだ、そのためなんだよ」
「もしもその真理が光りだすとしたら、第一にお父さんをまる裸に剥ぎ取ったうえで……それから吹き飛ばすでしょうよ」
「おやおや! こいつはおまえの言うとおりかもしれんて。いや、わしも驢馬だわい」とフョードル・パーヴロヴィッチはちょっと額をたたいて、急に体を反らした、「そういうことなら、アリョーシャ、おまえの寺もあのままにしておこう、まあ、わしらのような利口な人間は暖かい部屋に陣どって、コニャクでもきこしめすとするさ、なあ、イワン、ひょっとすると神様が、ぜひそうするようにお決めなされたのかもしれんて、ところでな、イワン、神はあるものか、ないものか、言ってみい。待て待て、たしかなことを言うんだぞ、まじめに答えるんだぞ! 何をまた笑っておるのだい?」
「僕が笑っているのは、さっきお父さんが、スメルジャコフの信仰、――例の山を動かすことのできる二人の隠者が、どこかにいるっていう、あれについて、なかなかうまい批評をなすったからですよ」
「じゃ、今の話がそれに似とるというのかい?」
「大いに」
「ふん、してみれば、わしもロシア人で、どこかロシア的な特性があるというわけかな、だが、おまえのような哲学者にだって、同じような一面のあることを、とっつかまえて見せてやれそうだぞ、ひとつ押えてみせようか、わしは請け合って、明日にでも取っちめてやるぞ、とにかく、神様があるかないか言ってみい、ただ、まじめにだぞ! わしは今、まじめにならなくてはいけないのだ!」
「そう、神はありません」
「アリョーシカ、神様はあるのか?」
「神はあります」
「イワン、それでは、不死はあるのか、まあ、どんなのでもよいわ、ほんの少しばかりでも、これっばかしでもいい」
「不死もありません」
「どんな風のも?」
「そう、どんなのも」
「つまり全くの零か、それとも何かあるのか? ひょっとしたら、何かありそうなものじゃないか? 何にしても、まるっきり何もないというはずはないぞ!」
「絶対の無です」
「アリョーシカ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか?」
「神も不死もあります」
「ふむ! どうやらイワンのほうが本当らしいぞ、やれやれ、考えるだけでも恐ろしいわい、人間というものはどれだけ信仰を捧げたことか、どれだけいろいろの精力を、こんな空想のために浪費したことか、しかもそれが何千年という長いあいだなのだ! 誰がいったい、人間をこんなに愚弄しているのだ? イワン! もう一ぺん、最後にきっぱり言ってくれ、神は有るものか無いものか? これが最後だ!」
「最後でもなんでも、無いものは無いのです」
「それじゃ、誰が人間を愚弄しおるのだ、イワン?」
「きっと悪魔でしょうよ」と言って、イワン・フョードロヴィッチはにやりとした。
「じゃ、悪魔はあるのか?」
「いや、悪魔もありませんよ」
「そいつは残念だ、ちぇっくそ、じゃあ神なんてものを初めに考え出したやつを、どうしてくれよう? 白楊の木へぶら下げて、絞り首にしてやっても、あきたりないぞ」
「神が考え出されなかったら、文明というものも、てんでなかったでしょう」
「なかったかもしれんというのか? 神がなかったら?」
「そうです、それにコニャクも無かったでしょうよ、が、それはとにかく、そろそろコニャクを取り上げなくてはなりませんね」
「待て、待て、待ってくれ、な、もう一杯だけだ、わしはアリョーシャを侮辱したて、おまえは怒りゃせんだろうな、アレクセイ? わしの可愛い可愛いアレクセイチックや!」
「いいえ、怒ってなんかいませんよ、僕はお父さんのお肚の中を知っています、お父さんは頭より心のほうがよっぽどいいのです」
「わしの頭よりも心のほうがいいだって? ああ、しかもそう言ってくれるのが誰だろう? イワン、おまえもアリョーシカが好きかい?」
「好きです」
「好いてやってくれよ、(フョードル・パーヴロヴィッチはもう、ひどく酔いが回ってきたのである)なあ、アリョーシャ、わしは今日おまえの長老に無礼なことをしたよ、だが、わしは気が立っていたのだよ、しかし、あの長老には、なかなかとんちがあるなあ、おまえはどう思う、イワン?」
「あるかもしれませんね」
「あるとも、あるとも、Il y a du Piron l dedans(あいつの中にはピロンの面影がある)あれはエズイタだよ、ただしロシア式のさ、高尚な人間ってものはみんなそうだが、あの人も聖人様のまねなんかして……心にもない芝居を打たにゃならんので、肚の中ではじりじりしているのだよ」
「でも、あの人は神を信じていられますよ」
「なんの、これっぽっちも信じてるものか、おまえは知らずにいたのかい? あの人は自分の口からみんなにそう言っとるじゃないか、いやみんなといっても、あの人のとこへたずねて来るお利口な連中にだけだけれど、県知事のシュルツには明からさまに、『Credo(信じてはいる)といっても、何を信じておるのか、わかりません』と言ったものだよ」
「まさか?」
「いや、全くだよ、しかし、わしはあの人を尊敬はしている、あの人にはどこかメフィストフェレス式なところ、というより、むしろ『現代の英雄』に出て来る……アルベニンだったかな、……そんな風なところがあるよ、つまりなんだよ、あれは助平爺なのさ、あの人の助平なことといったら、ひょっとわしの娘か女房が、あの人のところへ懺悔にでも行こうものなら、とても心配でたまるまいと思うくらいなんだよ、第一あの人がどんな話を始めると思うかい……一昨年あの人がわしらを茶の会へ呼んだことがある、リキュールつきのさ、リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだよ、そのときにだよ、ひょんな昔話をやりだしたので、わしらはすっかり腹の皮を縒ってしまったわい……別しておもしろかったのは、あの人が一人の衰弱した女をなおした話だ、『足さえ痛くなかったら、わしがひとつ踊りを見せて進ぜるのだが』と言うのさ、それがまたなんの踊りだと思うね? 『わしも若盛りにはずいぶんいろんなまねをしてきましたわい』だとよ、それに、あの人はジェミードフという商人から、六万ルーブルも巻きあげたことがあるんだよ」
「何、盗ったのですか?」
「その商人があの人を善人だと思って、『どうぞ、これを預かってください、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あの人が預かったんだよ、ところが後になって『あれはおまえさんがお寺へ寄進なさったのじゃ』と、こうだ、わしがあの人に、おまえさんは悪党だと言ってやったら、わしは悪党じゃない、心が広いのじゃとおいでなすった……、いや、待てよ、これはあの人の話じゃないて……ああ、別の男のことだったよ、わしは、つい他の男の話と混同してしまってな……気がつかなかったのだよ。さあ、もう一杯だけでたくさんだ、イワン、びんをかたづけてくれ、それはそうと、わしがあんな無茶なことを言っていたのに、なんでおまえは止めてくれなかったのだ……それは嘘だとなぜ言ってくれんのじゃ、イワン?」
「自分でおやめになると思ったものですからね」
「嘘をつけ、おまえはわしが憎くて止めてくれなんだのだ、ただ憎いからなんだ、おまえはわしをばかにしておるのだ、のこのこわしのところへやって来て、わしの家でわしをばかにしておるのだ」
「だから僕はもう行きますよ、お父さんはコニャクに飲まれてしまったのですね」
「わしはおまえに、どうか後生だから、チェルマーシニャへ……一日か二日でよいから、行って来てくれと、あれほど頼んでいるのに、おまえは出かけてくれんじゃないか」
「そんなにおっしゃるなら、明日にでも出かけますよ」
「なんの行くものか、おまえはここにおって、わしの見張りがしていたいのだ、そうだとも、それだから行こうとしないのだろ、この意地悪めが!」
老人は容易に静まらなかった。彼はもう、すっかり酔いが回って、それまでどんなにおとなしかった酒飲みでも、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくなるといった、そんな程度にまで達していたのである。
「何をおまえはそう、わしのほうばかりにらむのだ? それはなんという眼つきだ? おまえの眼はわしをにらみながら、『だらしのない酔っ払いの面だ』と言っておる、その眼つきはうさん臭いぞ、どうも、人を小ばかにした眼つきだ……おまえは何か胸に一物あってやって来たんだな、ほら、アリョーシャの眼つきを見い、晴れ晴れしとるじゃないか、アリョーシカはわしをばかにしちゃおらんぞ、な、アリョーシカ、イワンを好くことはないぞ」
「兄さんをそんなに怒らないでください! 兄さんを侮辱するのをやめてください」とアリョーシャは語気を強めて言った。
「うん、なあに、わしもな、よしよし、ああ、頭が痛いわい、イワン、びんをかたづけてくれんか、もう三度も同じことを言うぞ」彼はすこし考えこんだが、不意に長く引っぱったようなずるそうな笑い声を立てながら、「なあ、イワン、こんな老いぼれの死にぞこないに腹を立てんでくれよ、わしはおまえに好かれんのはよう知っておる、だがまあ、怒らないでくれ、わしはとても人に好かれるという柄じゃないわい、ところで、どうかチェルマーシニャへ出かけてくれ、わしも行くからな、土産を持って行くぞ、そしてあっちで一人いい娘っ子を見せてやろう、もうずっと前から見つけてあるんだよ、今でもはだしで跳ね回っとるだろうて、はだしの娘だからとて驚くことはない、いや、ばかにしたものではないぞ――なかなかの上玉だ!……」
彼はそう言って、自分の手をちゅっと吸った。
「わしにとってはな」と、彼は自分の好きな話題に移ると同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、ひどく元気づいてきた、「わしはな……こんなことを言っても、おまえらのような子豚同然なねんねにはわかるまいが、わしにはな……これまでの一生を通じて、女に会って見苦しいと思うことはなかったよ、これがわしの原則でなあ! 全体、おまえらにこれがわかるかしらん? どうして、どうして、おまえらにこれがわかってなるものか! おまえらの体内には血の代わりに、まだ乳が流れておるのだ、まだ殻が脱けきらんのだ! わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ! 何よりも手腕だよ! わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 老嬢などという手合いの中からでも世間のばか者どもはどうしてこれに気がつかずに、むざむざ年を食わしてしまったのかと、驚くようなところを捜し出すことがときどきあるのだよ、はだし女やすべたには、初手にまずびっくりさせてやるのだ――これがこういう手合いに取りかかる秘訣なのさ、おまえは知らないかい? こういう手合いには、まあ、わたしのような卑しい女を、こんな立派な旦那様が、と思って、はっとして嬉しいやらはずかしいやらで、ぼうとした気持にしてしまわにゃいかんて、いつも召し使いに主人があるように、いつもこんなげす女にれっきとした旦那がついてるなんて、うまくできておるじゃないか、人生の幸福に必要なのは全くこれなんだよ! ああそうだ!……なあアリョーシャ、わしは亡くなったおまえのおふくろをいつもびっくりさせてやったものだよ、もっとも、別なやり方ではあったがね、ふだんは、どうして、甘いことばひとつかけることじゃなかったが、ちょうどころあいを見はからってはだしぬけに精一杯ちやほやして、あれの前で膝を突いてはいずり回ったり、あれの足を接吻したりして、あげくの果てには、いつでも、いつでも――ああ、わしはまるでつい今しがたのことのように覚えておるが、きっとあれを笑い転げさしてしまったものだよ、その小さい笑い方が一種特別で、こぼれるような、透き通った、高くないが、神経的なやつさ、あれはそんな笑い方しかしなかったんだよ、そんな時は決まって病気の起こる前で、あくる日はいつも、憑かれた女になってわめきだす始末だ、だから今の細い笑い声もけっして嬉しさの現われではなく、こちらは一杯食わされたことになるのだけれど、それでもまあ嬉しいには違いないさ、どんなものの中からでも特別な興味を捜し出すっていうのは、つまりこれなんだよ! あるときベリャーフスキイのやつが――そのころそういう金持ちの好男子がこの町に住んでいて、あれをつけ回して、家へもよくやって来おったので――そいつが不意に、何かのはずみで、わしの頬桁を、それもあれの面前で、なぐりつけやがったのだ、すると、あの牝羊みたいな女が、この頬桁一件のために、このわしをひっぱたきかねないばかりのけんまくで食ってかかったのさ、『あなたは今ぶたれましたね、[#「ぶたれましたね、」は底本では「ぶたれましたね 」]ぶたれましたね、あんな男に頬ぺたをぶたれるなんて! あなたはわたしをあの男に売り渡そうとしてらっしゃるのでしょう……ほんとに、よくもわたしの眼の前であなたをぶったものだ! もうもうけっして、二度とわたしのそばへ寄せつけやしない! さあすぐに追っ駆けて行って、あの男に決闘を申しこんでください』……そこでわしは、あれの心を静めるために、お寺へ連れて行って、坊さんがたに御祈祷をしてもらったよ、しかし、アリョーシャ、神かけてわしはあの『憑かれた女』を侮辱したためしはないよ! いや、一度、たった一度きりある。それはまだ結婚したての、はじめての年だったが、そのころあれは、ひどく祈祷に凝っていて、聖母のお祭などにはことにやかましくて、その日にはわしまで自分の部屋から書斎へ追っぱらう始末なんだよ、そこでわしはあれの迷信をたたきこわしてやろうと思ったのさ『そら、見ておれよ、これがおまえの聖像だ、そら、こうしてわしがはずすよ、おまえはこれを霊験いやちこなものだなどともったいながってるが、わしがそうら、こうして、おまえの眼の前で唾をひっかけてやるけれど、なんの罰なんか当たるもんか!』ところが、あれがこちらを見た時の形相といったら、どうも、今にもわしは取り殺されるのじゃないかと思ったよ、しかし、あれは飛び上がって手を打っただけで、急に両手で顔をおおったと思うと、ぶるぶる震えだして、床の上へぶっ倒れると、……そのまま、ぐったりくずおれてしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! おまえどうしたんだ!」
老人はびっくりして飛び上がった、アリョーシャは父が母親のことを話しだしたときから、だんだん顔色を変え始めたのである。顔は赤くなり、眼は輝き、唇はぴくぴく震えだした……酔っ払った老人はそれまでなんの気もつかずに、しきりに口角から泡を飛ばしていたが、この時、急にアリョーシャの身にはなはだ奇怪な事態が生じたのである。というのは、たった今父が話した『憑かれた女』の状態と全く同じものが、思いがけなく彼に現われたのである。アリョーシャはテーブルから不意に飛び上がるなり、今の話の母親そのままに手を打つと同時に両手で顔をおおって、まるで足を払われたように、椅子の上へ倒れかかると、ヒステリカルに痙攣させながら、声は立てないが思いがけなくせき上げる涙に泣きくずれてしまったのである。この恐ろしい、母親そっくりの類似が、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イワン! イワン! 早く水を持って来てやれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれにそっくりだ、あの時のこれの母親とおんなじだ! おまえの口から水を吹きかけてやれ、わしも彼女にそうしてやったんだよ、これは自分の母親のことで、母親のことで……」と彼はイワンに向かって、しどろもどろにつぶやいた。
「けど、僕のお母さんが、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、どうお考えです?」突然、イワンは憤ろしい侮辱の念を制しきれないで、思わずこう口走った。老人はぎらぎら光る彼の眼眸にぎっくりした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったが、実に奇態なことが起こったのである。というのは老人の頭から、アリョーシャの母がとりもなおさずイワンの母であるという考えが、すっかりぬけ去っていたのである。
「なんでおまえの母親がそうなんだ?」彼は、何がなんだか腑に落ちないでつぶやいた、「なんでおまえはそんなことを言うのだ? いったいどの母親のことを言うのだい……あれはなんだよ……やっ、こん畜生! そうだ、あれはおまえの母親だとも! ちえっ、畜生! いや、こいつはついぞない、頭がぼうっとしていたんだよ、勘弁してくれ、わしはまた、なんだよ、その、イワン……へ、へ、へ!」そこで彼はふいと口をつぐんだ。酔余の、引きのばしたような、半ば意味のない、薄笑いがにやりとその顔にひろがった。が、突然この瞬間に玄関で激しい喧嘩の音が起こって、狂暴なわめき声がしたと思うと、ぱっと扉があいて、広間へドミトリイ・フョードロヴィッチが躍りこんで来たのである。老人はおびえあがって、イワンのほうへ駆け寄った。
「人殺しだ、人殺しだ! 助けてくれ、た、助けて!」とイワン・フョードロヴィッチのフロックコートの裾にしがみつきながら、彼はこう叫び続けた。
ドミトリイ・フョードロヴィッチのすぐ後ろから、グリゴリイとスメルジャコフとが続いて広間へ駆けこんだ。その前に二人は、彼を通すまいとして玄関でも争ったのである(それは、もう二、三日も前から授けられている、フョードル・パーヴロヴィッチのさしずによってである)。ドミトリイ・フョードロヴィッチが部屋の中へ飛びこむなり、一瞬間立ち止まってあたりを見回している暇に、グリゴリイはいちはやく食卓を一回りして、奥へ通じている、正面の観音開きの扉を閉めきった。そして閉めた扉の前に立ちふさがると、大手を広げて、最後の血の一滴まで、この入り口を防いで見せるぞといった身構えをした。これを見ると、ドミトリイは、叫ぶというより、妙にかん走ったわめき声を立てるなり、グリゴリイに飛びかかって行った。
「じゃあ、あいつはそこにいるんだな! そこへ隠しおったな! どけ、畜生!」と、彼はグリゴリイを押しのけようとしたが、相手は彼を突き戻した。憤激のあまりかっと取りのぼせた彼は拳を振りかぶりざま、力まかせにグリゴリイをなぐりつけた。と、老僕は足をすくわれたように、ずでんと倒れた。彼はそれをはね越えて扉の中へ突入した。スメルジャコフは広間の反対側の端に突っ立っていたが、まっさおになって、ぶるぶる震えながら、ぴったりとフョードル・パーヴロヴィッチの方へすり寄って来た。
「あいつはここにいるぞ!」とドミトリイ・フョードロヴィッチが叫んだ。「おれは今、あいつがこの家の方へ曲がったのを、ちゃんと見とどけたんだ、だが追いつくことができなかっただけなんだ、さあ、どこにいる? どこにいる?」
この『あいつはここにいる!』という叫び声が、フョードル・パーヴロヴィッチに異常な感銘を与えた。そして彼のすべての驚愕はどこかへ飛んでしまった。
「そいつを取り押えろ、取り押えろ!」とわめきながら、彼はドミトリイ・フョードロヴィッチのあとから転げるように駆け出した。グリゴリイはそのあいだに床から立ち上がったが、まだ人心地がつかない様子であった。イワン・フョードロヴィッチとアリョーシャとは父の跡を追って駆け出した。三つ目の部屋で何かが床へ落ちて、がらがらと砕ける音がした。それは、大理石の台に載せてあったガラスの大花びん(あまり高価なものではない)で、ドミトリイがそばを駆け抜ける拍子に、ひっかけて倒したのである。
「おおい!」と老人はわめき声を立てた。「誰か来てくれい!」
イワン・フョードロヴィッチとアリョーシャがようやく老人に追いついて、むりやり広間へ連れ戻った。
「なんだってあとを追っかけたりするんです! 本当に殺されてしまうじゃありませんか!」と、イワン・フョードロヴィッチは腹立たしげに父をどなりつけた。
「ワーネチカにリョーシェチカ、それじゃあ、グルーシェンカは、ここにおるんじゃぞ、あいつが自分で見たと言いおった、あれが駆けこんだのを見たと……」
彼は息切れがしてことばをとぎらした。まさかこんなところへグルーシェンカが来ようなどとは思いもかけなかったので、ここへ来ていると意外な知らせを耳にした彼は一時にわれを忘れてしまったのである。彼は心も顛倒したようにぶるぶる震えていた。
「だって、あの女の来なかったことは、御自分でもちゃんと知ってらっしゃるじゃありませんか!」とイワンが叫んだ。
「しかし、あちらの戸口からはいったのかもしれん」
「あちらの戸口には錠がおりていますよ、それに自分で鍵を持っていらっしゃるくせに……」
ドミトリイが突然、またもや広間へ現われた。もちろん、彼は裏口に錠のおりているのを見て取ったのだ。はたしてその鍵はフョードル・パーヴロヴィッチのポケットにはいっていた。どの部屋もやはり窓はすっかり閉めきってあった。つまるところ、どこにもグルーシェンカのはいって来た口も、飛び出して行った穴もなかったのである。
「あいつを取り押えろ!」と、ドミトリイの姿を再び見つけると同時に、フョードル・パーヴロヴィッチが金切り声で叫び出した。「あいつはわしの寝室で金を盗みおったのだ!」そういうなり、彼はイワンの手をもぎ放して、またもやドミトリイに飛びかかって行った。しかしドミトリイは、両手を振りかざすと共に、いきなり老人の両の鬢に残っているまばらな髪をひっつかんで、ぐいと引き寄せざま、激しい地響きを立てて床に投げとばした。そして打ち倒れた父の顔を、いきなり二つ三つ靴の踵で蹴とばしたのである。老人は鋭い声で悲鳴をあげた。イワン・フョードロヴィッチは、兄ドミトリイほどの腕力はなかったけれど、両手で兄を抱き止めて、やっとのことで父親からもぎ放した。アリョーシャも頼りない力を振り絞って、前から兄に抱きつきながら、それに加勢した。
「気でもちがったのじゃないのか、ほんとに殺してしまうところだったぜ!」とイワンが叫んだ。
「それが当然なんだ!」と、ぜいぜい息を切らしながらドミトリイがわめき立てた。「これで死ななかったら、また殺しに来てやる、手前たちにかばえるもんか!」
「ドミトリイ! すぐここから出て行ってください!」とアリョーシャが厳然たる声で叫んだ。
「アレクセイ! おまえだけは教えてくれ、おれに信用のできるのはおまえきりだから、今しがたあの女はここへ来なかったかい? おれはあの女が横町から籬のそばをこっちへとすべりこむのを、ちゃんと見届けたんだ、おれが声をかけたら、逃げ出してしまったんだ……」
「誓って、あの女はここへなぞ来ませんでしたよ、第一あの女がここへ来ようなどとは誰も思ってもいなかったのです!」
「でも、おれはちゃんと見届けたんだがなあ……してみると、あいつは……よし、すぐあいつの在所を突きとめてやる……さよなら、アレクセイ! もうけっして、イソップ爺に金のことはひとことも言うな、それよりカテリーナ・イワーノヴナのところへ、これからすぐに行って、間違いなく、『よろしく申しました』と言ってくれ! いいか、よろしく申しましたと言うんだぞ、よろしく、よろしくってな! そしてこの騒ぎのことも詳しく話してくれ!」
そのあいだにイワンとグリゴリイとで老人を抱き起こして、肘椅子へ坐らせた。顔は血みどろになっていたけれど気は確かで、むさぼるようにドミトリイのわめき声に耳をそばだてていた。彼にはまだ、グルーシェンカがほんとにどこか、家の中にいるような気がしてならなかったのである。ドミトリイ・フョードロヴィッチは、ふと出がけに、憎々しげにじろりと父をにらんだ。
「おれはおまえさんの血を流したからって、後悔なんぞしないぜ!」と彼はわめき立てた。「気をつけろよ、爺め、空想に気をつけることだぜ、おれにだってやっぱり空想があるんだからな! おまえさんなんざ、おれのほうからのろってやら、もうとんと縁切りだ……」
そして彼は部屋を駆け出して行った。
「あれはここにおるぞ、確かにここにおる! スメルジャコフ、スメルジャコフ」と老人は、指でスメルジャコフを招きながら、やっと聞きとれるだけのしわがれ声で言った。
「あの女なんか来ているもんですか、ほんとにわけのわからない爺さんだなあ」とイワンは、がみがみ父をどなりつけた。「おや、気絶した! 早く水とタオルだ! 早くしろ、スメルジャコフ!」
スメルジャコフが水を取りに駆け出した。やがて老人は着物を脱がされ、寝室へ運ばれて、寝台に寝かされた。濡れ手ぬぐいが頭に巻かれた。コニャクの酔いと、激情と、身に受けた打撲のために衰弱しきった彼は、頭を枕につけるが早いか、すぐに眼をつむって前後不覚になってしまった。イワン・フョードロヴィッチとアリョーシャは広間へ戻った。スメルジャコフはこわれた花びんの破片を取りかたづけていたが、グリゴリイは陰気に眼を伏せて、じっとテーブルのそばにたたずんでいた。
「おまえも頭を冷やしたらどうだい、そして寝床へはいって寝たほうがいいよ」と、アリョーシャはグリゴリイに向かって言った。「僕たちがここにいて、お父さんは看ているからさ、兄さんがずいぶんひどくおまえを打ったからなあ……それも頭を」
「あの人はわしに、道にはずれた仕打ちをなさっただよ!」と、グリゴリイは一言一言を区切るように、ふさいだ調子で言った。
「兄貴はおまえどころじゃない、親爺にさえ『道にはずれた仕打ち』をしたよ!」と、イワン・フョードロヴィッチは口をゆがめながら言った。
「わしはあの人に行水まで使わしてあげただに……わしに道ならぬ仕打ちをしただよ!」とグリゴリイはくり返した。
「勝手なことを言ってろ、おれがもし兄貴を引き放さなかったものなら、ほんとに殺してしまったかもしれないぜ、あんなイソップ爺に手間暇がかかるもんか!」とイワン・フョードロヴィッチがアリョーシャにささやいた。
「えい、とんでもないことを!」とアリョーシャが叫んだ。
「何がとんでもないんだ?」と、やはり小声で、イワンはいまいましそうに顔をゆがめながらささやいた。
「毒蛇が毒蛇を呑むまでのことさ、結局、両方ともそこへ落ちて行くんだよ!」
アリョーシャはぎくりとした。
「だが、もちろんおれは人殺しなんかさせやしないよ。今だってさせなかったようにさ。アリョーシャ、おまえここにおってくれ、おれは庭を少し散歩して来るからな、なんだか頭が痛くなってきたんだ」
アリョーシャは父の寝室へはいって、枕もとの衝立の陰に一時間ばかり坐っていた。と、不意に老人が眼を見開いて、長いこと無言のまま、じっとアリョーシャを見つめていた。それは何か思い出そうとしているらしかったが、突然、その顔に激しい興奮の色が浮かんだ。
「アリョーシャ」と、彼は不安そうにささやいた。「イワンはどこにおる?」
「庭ですよ、頭が痛むんだそうです、あの人が僕らの見張りをしていてくれるんです」
「鏡を取ってくれ、そら、そこに立ててある」
アリョーシャは、箪笥の上に立ててある、小さな丸い組み合わせ鏡を父に渡した。老人はしきりにそれをのぞきこんだ。鼻がだいぶひどく腫れあがり、額には、左の眉の辺にかなり目立って紫色の皮下出血ができていた。
「イワンはなんと言っとる? アリョーシャ、わしのたった一人の息子や、わしはイワンが恐ろしい、わしはあいつより、イワンのほうが恐ろしいのだ、わしにこわくないのは、ただおまえだけだよ」
「イワン兄さんだってこわがることはありませんよ、イワン兄さんは腹を立てているけれど、お父さんを守ってくれますよ」
「アリョーシャ、それで、あいつはどうしたんだ? グルーシェンカのとこへ飛んで行ったのか! なあ、可愛い天使、ほんとのことを言ってくれ、さっきグルーシェンカはここへ来なかったのかい?」
「誰も見かけた者がないのです、あれは嘘ですよ、来やしませんとも!」
「でも、ミーチカはあれと結婚するつもりなんだよ、結婚する!」
「あの女は兄さんといっしょになどなりませんよ」
「ならんとも、ならんとも、ならんとも、けっしてなりはせん!……」この際、これ以上嬉しいことばを聞くことはできないもののように、老人は雀躍りせんばかりに喜んだ。彼は歓喜のあまりアリョーシャの手をつかんで、自分の胸へしっかり押しつけるのであった。そのうえ涙さえ眼に輝きだしたほどである。「さっきわしが話した聖母マリヤの御像も、おまえにやるから持って行くがいい、お寺へも帰るがいいぞ……今日言ったことは冗談だから怒るなよ。頭が痛い、アリョーシャ……アリョーシャ、どうかわしの得心がゆくように、ほんとのことを聞かしてくれ!」
「まだ同じことを聞くんですか、あの女が来たんじゃないかって?」とアリョーシャは痛ましそうに言った。
「いいや、いいや、いいや、わしはおまえの言ったことを信じているよ、今度はこうじゃ、おまえが自分でグルーシャのとこへ行くか、それともほかでなんとかして、あれに会ってな、あれがどっちにする気でおるか――わしか、それともあいつか、どっちにする気でおるか、聞いてみてほしいんだよ、早く、少しも早くな、そしておまえの眼で見て、ひとつ判じてくれるのだ、うん? どうじゃ? できるか、できんか?」
「もし、あの女に会ったら、聞いてみましょう」と、アリョーシャは当惑したようにつぶやくのであった。
「いんにゃ、あれはおまえに話しはせんぞ」と老人がさえぎった。「あいつはつむじ曲がりだからな、いきなりおまえを接吻して、あんたのお嫁になりたいわ、って言うだろうよ、あれは嘘つきの恥知らずだよ、いや、おまえはあいつのとこなんぞへ行っちゃならん、断じてならんぞ!」
「それはまたよくないことです、お父さん、[#「お父さん、」は底本では「お父さん 」]全くよくないことですよ」
「あいつはさっき、どこへおまえをお使いにやろうとしていたのだ、さっき逃げて行く時、『行って来い』ってどなったじゃないか?」
「カテリーナ・イワーノヴナのところへです」
「金の用だろう! 無心をしにだろう?」
「いいえ、金の用事じゃありませんよ」
「あいつには金がないのだよ、鐚一文ないのだよ、さあアリョーシャ、わしは一晩ゆっくり寝て考えるから、おまえはもう行ってもいいぞ、ことによると、おまえ、あれに会うかもしれんな……しかし、あすの朝、間違いなくわしのところへ来てくれよ、きっとだぞ、わしはそのとき、おまえに一つ話したいことがあるのだよ、来てくれるか?」
「まいります」
「来てくれるのなら、勝手に見舞いに寄ったような顔をしていてくれ、わしが呼んだということは誰にも言うんじゃないぞ、イワンにはなんにも言っちゃならんぞ」
「承知しました」
「さようなら、わしの天使、さっきおまえはわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れんぞ、あすはぜひ、おまえに言わにゃならんことがあるけど……まだもう少し考えてみなければならんから……」
「いま気分はいかがです?」
「あすはもう起きるよ、あすは、すっかりもうなおるわい、すっかり!」
庭を横切ろうとして、アリョーシャは、門ぎわのベンチに腰掛けているイワンに出会った。イワンは鉛筆で何か手帳に書きつけていた。アリョーシャはイワンに、父が眼をさまして正気に返ったことと、自分に修道院へ寝に帰ってもいい、と言ったことなどを話した。
「アリョーシャ、あすの朝、僕はおまえに会えたらたいへん都合がいいんだがな」とイワンは立ち上がって、愛想よく言いだした。こうした愛想のいい口調はアリョーシャには、全く思いがけなかった。
「僕はあすホフラーコワ夫人のところへ出かけますし」とアリョーシャは答えた、「それにカテリーナ・イワーノヴナのところへも、今晩もし留守だと、あすまた行くかもしれません……」
「じゃ、これから、やっぱりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かい!」突然イワンは、にやりと笑った。アリョーシャは妙にどぎまぎした。
「おれはどうやら、さっき兄貴のどなったこともすっかり読めたし、以前からのことも幾分わかってきたような気がするよ。ドミトリイがおまえを使いにやるわけは、きっとあの女に……その……なんだよ……いや、つまりひとくちに言えば、『よろしく言って』ほしいからなのさ」
「兄さん! いったい、お父さんとミーチャとの、あの恐ろしい事件は、どんな風に結末がつくんでしょうね?」とアリョーシャが叫んだ。
「はっきりしたことを言い当てるわけにはいかんよ、だが、たいしたこともなしに、立ち消えになるかもしれんよ、あの女は、獣だぜ、いずれにしても、親爺は家の中に引き止めておいて、ドミトリイを家へ入れないことだ」
「兄さん、じゃもう一つ聞きたいんですがね、人間は誰でも、他人を見て、誰は生きる資格があって、誰は資格がない、などとそれを決める権利を持ってるものでしょうか?」
「なんだってここへ資格の決定なんかもちこむんだい! この問題は資格などを基礎に置くべきでなく、もっと自然な、他の理由のもとに、人間の心で決定されるのが最も普通だよ、だが、権利という点では、誰がいったい希望する権利を持っていないだろう?」
「しかし他人の死ぬのを希望するってわけじゃないでしょう?」
「他人の死ぬことだってしかたがないさ、それにすべての人がそんな風な生き方をしている、というよりは、それ以外の生き方がないんだからね、なにも、自分で自分に嘘をつく必要はないじゃないか、おまえがそんなことを持ちだしたのは、『毒蛇が二匹で呑み合ってる』と言った、おれのさっきのことばから思いついたのかい? そういうことなら、おれのほうからも一つ聞きたいね、おまえはこのおれも、ミーチャと同じようにあのイソップ爺の血を流しかねない――つまり殺しかねない人間だと思ってるかい?」
「何を言うのです、イワン! そんなことは僕は、夢にも考えたことがありません! それにドミトリイだってまさかそんな……」
「いや、それだけでもありがたいぞ!」とイワンはにやりとして、「おれはいつでも親爺を守ってやるよ、しかし、希望の中にはこの際、十二分の余裕を残しておくぞ。じゃ、明日までさようなら、おれを責めないでくれ、そして悪者あつかいにしないでなあ」と彼は微笑を浮かべながら、つけ足した。
二人はついぞこれまでにないような、強い握手をかわした。アリョーシャは、兄が自分から進んで、こっちへ一歩接近して来たのは、きっと、何か魂胆があるのだと感づいた。
アリョーシャは、先刻ここへはいったときより、さらに激しく打ち砕かれ、押しひしがれたような気持になって父の家を出た。彼の理性もやはりみじんに砕けて、ちぢに乱れているようであったが、同時に彼は、そのばらばらになったものをつなぎ合わせて、今日一日に経験したあらゆる悩ましい矛盾の中から、一つのだいたいの観念を組み立てるのが空恐ろしいように思われた。何かほとんど絶望そのものと境を接しているような、あるものが感じられた。こんなことは、ついぞこれまでアリョーシャの心には覚えのないことであった。そうしたいっさいのもののうえに山のようにそびえ立っているのは、あの恐ろしい女を巡って、父と兄とのあいだにもちあがっている事件が、どういう結末に終わるだろうか? という宿命的な、解決しがたい疑問であった。今や、彼は自分自身がその目撃者であった。みずからその場に居合わして、彼は相対峙せる二人を見たのである。だが、不幸な人、本当に恐ろしく不幸な人と感じられるのは、ひとり兄ドミトリイだけであった。彼はもはや疑いもない、恐ろしい災厄に待ち伏せられているのである。そのうえに、アリョーシャがこれまで考えていたよりは、はるかにこの事件に関係の深い人がまだほかにもあるらしい。そればかりか、何か謎のようなものが現われたのである。兄のイワンは、アリョーシャが久しく望んでいたように、自分のほうへ一歩接近して来たけれど、彼にはなぜか、その接近の第一歩が、妙に薄気味悪く感じられるのであった。ところが、あの二人の女のことはどうであろう? 奇態なことであるが、さきほどカテリーナ・イワーノヴナのところを指して出かけたとき、ひどく当惑を覚えたにもかかわらず、今は少しもそんな気配がなかった。それどころか、まるでこの婦人の助言でも当てにしているように、自分から進んで、彼女のもとをさして急ぐのであった。だが、彼女に伝言を伝えることが、明らかに先刻よりいっそう、心苦しいように思われた。三千ルーブルの問題がきっぱりと決定してしまったから、兄ドミトリイはもはや自分を不正直者と決めてしまって、絶望のあまり、どんな堕落の淵へも躊躇なく飛びこむに違いない。それに、兄は、たったいま突発した事件を、カテリーナ・イワーノヴナに伝えてくれと言いつけている……。
アリョーシャがカテリーナ・イワーノヴナの住まいへはいって行ったのはもう七時ごろで、薄暮の色がかなり濃くなっていた。彼女は大通りに面した非常に手広で、便利な家を一軒借りていた。彼女が二人の伯母と同棲していることはアリョーシャも知っていた。その一方の伯母というのは、姉のアガーフィヤだけの伯母に当たっていた。これは彼女が女学院から父の家へ戻って来たとき、姉とともにいろいろ世話をしてくれた、例の無口な女であった。もう一人の伯母は、貧しい生まれでありながらおつにすましてもったいぶった、モスクワの貴婦人である。人の噂では、この伯母たちは二人とも万事につけて、カテリーナ・イワーノヴナの言うがままになって、ただ世間体のためにのみ姪に付き添っているだけであった。カテリーナ・イワーノヴナが信服していたのは、今、病気のためにモスクワに残っている恩人の将軍夫人だけであった。彼女はこの人に毎週二通ずつ手紙を書いて、自分のことを詳しく知らせてやらなければならなかった。
アリョーシャが玄関へはいって、扉をあけてくれた小間使いに、自分の来訪を取り次いでくれるように頼んだとき、広間のほうでは確かに彼の来たことをもう知っているらしかった(ことによったら、窓からでも彼の姿を見つけたのだろう)。と、急に、何かどやどやと騒々しい物音がして、誰か女の駆け出す足音や、さらさらいう衣ずれの音などが聞こえてきた。どうやら二、三人の女が駆け出したらしい気配である。アリョーシャは自分の来訪がどうしてこんなに騒ぎを引き起こしたものだろうと、奇異に感じた。しかし、彼はすぐ広間へ通された。それは少しも田舎臭くない、優雅な家具調度で豊かに飾りつけられた、大きな部屋であった。長椅子や大小のテーブルがたくさんに配置され、壁には絵が掛けてあり、テーブルの上には花びんやランプが置かれて、花卉の類もたくさんあった。そればかりか、窓ぎわには魚を放ったガラス箱さえすえてあった。たそがれどきのことで部屋の中は幾らか薄暗かった。つい今しがたまで人の坐っていたらしい長椅子の上には、絹の婦人外套が投げ出してあり、長椅子の前のテーブルの上には、チョコレートを飲み余した茶碗が二つと、ビスケットや、青い干葡萄のはいったガラス皿、それから菓子を盛ったもう一つの皿が、そのままになっている、どうも誰かを供応していたらしい。アリョーシャは来客の中へ飛びこんで来たなと、気がついて思わず眉をしかめた。しかしその瞬間に帷りが上がって、カテリーナ・イワーノヴナが喜ばしそうに微笑を浮かべて、両手をアリョーシャのほうへ差し出しながら、せかせかした急ぎ足ではいって来た。それと同時に、女中が火をともした蝋燭を二本持って来て、テーブルの上に置いた。
「まあ、よかったこと。とうとうあなたもいらしてくださいましたわね! わたし今日一日じゅう、あなたのことばかり神様にお祈りしていましたの! さ、お掛けになってくださいまし」
カテリーナ・イワーノヴナの美貌には、この前に会ったときも、アリョーシャは激しく心を打たれたのであった。それは三週間ばかり前のことで、兄のドミトリイが、彼女の切なる望みによって、はじめて弟を連れて行って紹介したときのことである。しかしそのときの会見では、二人のあいだに、どうもうまく話が続かなかった。カテリーナ・イワーノヴナは、彼がひどく狼狽している様子を察して、彼に不便をかける気持から、そのときは始めからしまいまでドミトリイ・フョードロヴィッチにばかり話しかけたのであった。アリョーシャはじっと黙りこんでいたが、いろいろのことをはっきりと、よく見分けることができた。彼はそのとき、思い上がった娘の気位の高さと、遠慮のない打ち解けた態度と、自信の強さに驚嘆したのであった。それは少しも疑いのないことで、アリョーシャはけっして自分がおおげさな見方をしているのでないと思った。彼は、その大きな黒い熱情的な眼の美しいこと、ことにそれが彼女の青白い、というよりはむしろ薄黄色い面長な顔によく似合っていることを発見した。しかし、その眼の中と、美しい唇の輪郭とには、いかにも自分の兄が夢中になって打ちこみそうな、それでいて、長くは愛し続けられなさそうな、あるものが感じられた。この訪問のあとで、ドミトリイが自分の許嫁を見てどんな印象を受けたか、腹蔵なく言ってくれと、しつこく彼に尋ねたとき、アリョーシャはこの感想をほとんどむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあの女と結婚すれば、幸福になるでしょうけれど……しかし、平和な幸福ではないかもしれませんよ」
「そのとおりなんだよ、弟、ああいう女はいつまでたってもあのとおりなんだよ、ああいう風な女は、けして運を天にまかせるということがないのさ、じゃあ、おまえは、おれがとても永久にあの女を愛しきれまいと思うんだな?」
「そうじゃありません、たぶん、兄さんは永久に愛するでしょう、けれど、あの人といっしょになっても、始終は幸福でいられないかもしれませんよ……」
アリョーシャはそのときこんな意見を述べながら、まっかになった。そしてつい兄の頼みにつりこまれて、こんな『ばかげた』意見を述べたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜならば、それを口外すると同時に、自分の意見がわれながら恐ろしくばかげたものに思われたからである。それに自分などが偉そうに、婦人についての意見を述べ立てたことを恥ずかしくも思った。そういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカテリーナ・イワーノヴナを一目見た時には、もしかしたら、あのときの考えはまるで間違っていたかもしれないと思ったほど、彼の驚きはなおさら大きかったのである。今の彼女の顔には、偽りならぬ率直な善良さと、一本気な熱しやすい真心とが輝いていた。前にあれほどアリョーシャを驚かした『誇りと驕慢』が、今はただ勇敢で高潔な精力と、何か明朗な力強い自信となって現われているのであった。アリョーシャは彼女を一目見るなり、ひと言その声を聞くなり、彼女の愛する男とのあいだの悲劇的関係が、彼女にとって少しも秘密でないばかりか、彼女はもういっさいのことを、何から何まで知り抜いているのだろうと直感した。とはいえ、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明が満ち溢れていた。アリョーシャは急に、自分が彼女に対して重大な故意の罪を犯しているような気がし始めた。彼はたちまちにして征服せられ、引きつけられてしまったのである。それはともかく、最初のことばを聞いただけで、彼女が何かしら激しい興奮、おそらく彼女としては非常に法外な、ほとんど有頂天に近い興奮状態にあることを見てとったのである。
「わたしがこんなにあなたをお待ちしていましたのは、今本当のことが伺えるのは、ただあなたお一人きりだからですの、ほかには誰もそんなかたはありませんもの!」
「僕がまいりましたのは……」と、アリョーシャは狼狽しながら、口ごもった。「僕は……兄の使いでまいったのです……」
「兄さんがおよこしなすったんですって、まあ、わたしもそうだろうと思いましたわ、今はわたし、もうなんでも知ってますのよ、何もかも!」と、カテリーナ・イワーノヴナは急に眼を輝かしながら叫んだ。「ちょっとお待ちになってね、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたし、どういうわけで、そんなにあなたをお待ちしていたかってことを、あらかじめお話ししておきますわ、もしかすると、わたしのほうがあなたなどよりずっとずっとたくさん、いろんなことを知っているかもしれませんわ。わたしがあなたからお伺いしたいのは事実の報告ではございませんの、わたしの知りたいと思いますのは、あなた御自身が最近あの人からお受けになった印象なんですの。どうか、それをありのままに、飾りっ気なしに、話してお聞かせくださいませんか。ぶしつけなお話だってかまいません。(ええ、ええ、どんなにぶしつけなことだって結構でごさいますとも!)いったいあなたは、今のあの人をどんな風に御覧になっていますの? そして、今日あなたがお会いになってから後の、あの人の様子はどんな風でございまして? これはきっと、わたしが自分であの人と話し合うよりか、いいに違いないと思いますわ。だってあの人はもう、わたしのところへは来ないつもりでいるんですもの、ね、わたしがあなたにどんなことを望んでいるか、これでおわかりになったでしょう? さあ今度は、あの人が何の用であなたをお使いによこしなすったのか(わたしきっとあなたをお使いによこしなさるだろうと思ってましたわ!)――どうぞ、ありのままに、いちばん肝心なところを聞かせてくださいませ!……」
「兄はあなたに……よろしく申し上げてくれ、そしてもう二度とこちらへ足踏みをしませんって……で、あなたによろしく申し上げてくれって言いました」
「よろしくって! あの人がそう言ったんですのね、そのとおりの言い回しで?」
「そうですよ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしにそんなことを言ったのかもしれませんわね、間違って、言わなければならぬことばでなしに、ひょんなことが口から出たのかもしれませんのね?」
「いいえ、兄はこの『よろしく』ということばを、ぜひお伝えしてくれって言いつけたのです、忘れないようにお伝えしてくれって、三度も念を押したのです」
カテリーナ・イワーノヴナはかっと赤くなった。
「アレクセイ・フョードロヴィッチ、どうぞわたしを助けてください。今こそ、ほんとにあなたのお力添えが必要なのです。わたし、自分の思っていることを申してみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、それだけをおっしゃってくださいませんか、ね。ようござんすか。もしあの人が何気なしに、よろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり特別このことばに力を入れて、このことばをぜひ伝えるように念を押さなかったとしますと、もうそれでおしまいなんです……何もかもがおしまいなのです!……けれど、あの人が特別このことばに力を入れて、ことさらその『よろしく』を忘れないで、わたしに伝えるように念を押したのでしたら、きっとあの人は興奮していらしたということになりますわ、もしかしたら、前後を忘却していらしたのかもしれませんわね。きっと、決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れていらっしゃるのです! しっかりした確かな足どりでわたしから離れて行ったのではなくって、急な坂を駆け下りたのです。そのことばに力を入れたのは、ただの空威張りだったということにはならないでしょうか……」
「そうですよ、そうですよ!」とアリョーシャは熱心に相づちを打った。「僕自身にも今はそう思われるのです」
「で、もしそうなのでしたら、あの人はまだ滅びてはいません! ただ絶望しているだけですから、わたしはあの人を救うことができます。ね、それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブルのお金のことをあなたにお話ししませんでして?」
「話したどころじゃありませんよ、きっとそのことをいちばんひどく兄は苦に病んでいるのです。兄はもうこうなっては、名誉も何も失ってしまったのだから、どちらにしたって同じことだと言っていました」とアリョーシャは躍起になって叫んだ。そして彼は、自分の心に一縷の望みがわきあがってくるのを覚えて、ほんとに兄のために救いの道が開けたのかもしれないというような気がした。「だって、あなたはいったい……あの金のことを御存じなんですか?」と言い足したが、急にことばを打ち切った。
「ずっと前から知ってますわ、はっきり知ってますわ。モスクワへ電報で問い合わせて、あのお金の届いていないってことは、とうの昔に知っていますわ。あの人はお金なんか送らなかったのです、けれどわたしは黙っていましたの。あの人に、お金の要ったこと、そして今でも要るってことは、先週わたし聞きましたの……それについて、わたし、たった一つ目当てにしていることがあります、それは、あの人が、結局自分は誰の手へ帰ったらいいか、また誰が自分にいちばん忠実な親友かっていうことを、悟ってくれるようにしむけることでございます。ところがあの人は、わたしがそのいちばんに忠実な友だちだってことを、信じてくれないのです。わたしというものを見抜こうとはしないで、ただ女としてわたしを眺めているのです。わたしは、あの三千ルーブルの使いこみを、あの人に恥だなどと思わせないようにするには、どうしたらいいだろうか? と、そのことばかり思って、この一週間のあいだ、ほんとに心配で心配でたまりませんでしたわ。そりゃあね、他人に対してや、自分自身に対して恥じるのはしかたがありませんけれど、わたしに対して恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様にはちっとも恥じないで、何もかも打ち明けているじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためになら、どんなしんぼうだってするってことを、どうして今まで知ってくれないのでしょう? どうして、どうして、あの人にはわたしの本心がわからないのでしょう? あんなことまであったあとだのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるんでしょうね? わたしはどこまでもあの人を助けたいと思います、わたしがあの人の許嫁だってことを忘れてしまったってかまいません! それだのに、あの人は、わたしに対する身の潔白なんかを心配してるんですもの! だって、あの人は、ねえ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたには何も恐れないで打ち明けたのじゃありませんか、どうして、わたしには、今になってもそれだけのことがしてもらえないんでしょうねえ?」
彼女は涙ながらこの終わりのことばを言った。涙は止めどなくその眼からほうり落ちるのであった。
「僕はあなたに、たった今、兄と父とのあいだに起こった出来事を、お話ししなければなりません」とアリョーシャのほうも、やはり声を震わせながら言った。そして彼は先刻の騒動を残らず物語った。金の無心にやられたこと、そこへ兄が飛びこんで来て父をなぐったこと、そのあとで兄が特別にもう一度『よろしく』ということづてに念を押したことなどを物語ったのである……「兄さんはそれからあの女のところへ行きました……」と彼は低い声でつけ足した。
「まあ、あなたはわたしがあの女を大目に見てゆけないとでも思ってらっしゃるの? あの人もやはり、そう思ってるのでしょうか? けれど、兄さんはあの女と結婚なんかしませんよ。」不意に彼女は神経的に笑いだした。「だって、カラマゾフが、いつまでもあんな情欲に燃えることができるものですか! ええ、あれは情欲というもので、けっして愛じゃありません、兄さんはけっして結婚なんかしませんよ、だってあの女がお嫁になりませんもの……」と、突然またカテリーナ・イワーノヴナは奇妙な薄笑いを漏らした。
「でも、兄は結婚するかもしれませんよ」アリョーシャは眼を伏せたまま、悲しげな調子で言った。
「いいえ結婚なんかしませんったら! あの娘さんはほんとに天使のような女ですよ、あなたはそれを御存じですの? あなたそれを御存じですの?」と、不意にカテリーナ・イワーノヴナは異常に熱くなって叫んだ。「あの娘さんは、ほんとに気まぐれな中にも、とりわけ気まぐれな女ですよ、わたしあの女がずいぶん誘惑的な人だってことも知っていますが、またあの人がほんとに親切で、しっかりしていて、しかも高尚な娘さんだということも知っていますわ。どうしてあなたそんな眼をして、わたしを御覧になるの? たぶんわたしの申しあげることにびっくりなすったのでしょう、たぶんこのわたしのことばを本当になさらないのでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!」と、突然、彼女は次の部屋の方を向いて、誰かに呼びかけた。「こちらへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのは、お友だちのアリョーシャなのよ、もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、さあこちらへ出て来て、御挨拶をなさいな!」
「あたしカーテンの陰で、あなたが呼んでくださるのを、今か今かと待ってましたのよ」と言う、すこし甘ったるいくらい優しい女の声が聞こえた。
と、帷りが上がって……ほかならぬ当のグルーシェンカが嫣然と笑いこぼれながら、テーブルへ近づいて来た。アリョーシャは身内がぎくんと震えたように覚えた。彼の視線は女のほうにぴったり吸いつけられたまま、引き離すことができなかった。これがあの恐ろしい女なのだ、兄イワンが半時間前に『獣』だと口をすべらせた、あの女なのだ。しかも、今、彼の面前に立っているのは、一見、至極ありふれた、単純な一人の女――善良そうな愛くるしい女で、たとえ美人であるにしても、世間一般の美しい女に似たり寄ったりの『ありふれた』美人なのだ! 確かにこの女は美しいには違いない、非常にと言ってもいいほどの美人である――つまり、夢中になって男から愛されるようなロシア的な美貌の持ち主なのである。彼女は相当、背が高いほうであったが、カテリーナ・イワーノヴナよりは少し低かった(カテリーナ・イワーノヴナはずぬけて背の高いほうであった)、肉づきはよくて、動作がしなやかで静かで、その声のように甘ったるすぎるほどなよなよしていた。彼女はカテリーナ・イワーノヴナのような、力強い、大胆な足どりとは反対に、しずしずと近づいて来た。その足が床に触れてもまるで音を立てなかった。彼女は見事な黒絹の衣裳をさらさらと鳴らしながら、そっと肘椅子へ腰をおろすと、高価な黒い毛織のショールで、乳のように白いむっちりした首と幅の広い肩をあでやかにくるんだ。彼女は二十二であったが、その顔はまさしくその年ごろに相応していた。色が抜けるほど白く、頬には上品な薄ばら色の紅潮がほんのりとさしていた。顔の輪郭は、どちらかといえば広いほうで、下頤はこころもちそりかげんなほどである。上唇は薄かったが、少し前へ突き出た下唇は二倍も厚くて、はれっぽかった。しかし、実にすばらしい、房々した暗色の髪と、黒貂のように黒い眉と、睫の長い灰色がかった空色の美しい眼とは、どんなに雑踏した人なかを散歩している気のないぼんやりした男でも、その顔を見ては、思わず立ち止まって、長くその印象を心にたたみこまずにはいられないであろう。この顔の中でいちばん強くアリョーシャの心を打ったのは、その子供らしく天真爛漫な表情であった。彼女は子供のような眼つきをして、何かしら子供のように喜んでいる様子であった。実際、彼女はさも嬉しそうにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今にも何か嬉しいことがあるだろうと信じきって、子供のような好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けるというような風であった。彼女の眼眸には人の心を浮き立たせるようなところがあった――アリョーシャはそれを感得した。なおそのうえ、彼にはとても理解することができなかったけれど、おそらく無意識のうちにはそれとなく感じていたに違いない、あるものがあった。それは女の肉体の動作が柔らかくしなやかで、猫のように静かなことであった。そのくせ、彼女は力に満ち溢れた体躯を持っていた。ショールのかげには幅の広いむっちりした肩や、はちきれそうに盛り上がった、処女のそれのような乳房が感じられた。ことによったら、この体は後日ミロのヴィーナスの形を思わせるかもしれない。もっとも、それはその誇張された釣り合いの中にも感ぜられる。ロシア女性美の鑑識家はグルーシェンカを見て、かような的確な予想を発表することができるであろう。つまり、この溌剌たる青春の美も、三十という年配になれば、その調和は失われ、そろそろ下り坂になって、顔の皮膚はたるみ、眼のまわりや額にはいちはやく小皺が寄って、みずみずしさのない赤ら顔になってしまうであろう、――結局、それは、ロシア人に特有な稲妻のようにはかないつかの間のものだというのである。もとより、アリョーシャはそんなことを考えていたわけではなかった。彼はほとんど、うっとりさせられていたくらいであるが、しかも心のなかでは、この女はどうしてあんなにことばを引き伸ばしたりして、自然な物の言い方ができないのだろうと、妙に不愉快な感じを覚えながら、なんとはなしに、残念なような気持で、自分で自分に問いかけてみるのであった。彼女がそんなことをするのは、明らかに、そういうぐあいに、ことばや音声を引き伸ばして、いやに甘ったるい調子をつけるのを、美しい話術だと心得てのしぐさであった。もちろん、それは、ただ悪い習慣であって、彼女の育ちの卑しいことと、幼いころからしみこんでいる礼儀作法に対する俗悪な観念を立証するだけのことであった。それにしても、アリョーシャにはその俗な発声と語調の抑揚とは、子供らしく天真爛漫な嬉しそうな顔の表情や、おだやかな、まるで嬰児に見られるような幸福そうな眼の輝きに対称して、ほとんどあり得べからざる不合理なもののように感ぜられた。カテリーナ・イワーノヴナはすぐさま彼女をアリョーシャと向き合っている安楽椅子にかけさせて、そのえみを含んだ唇を、幾たびも、夢中になって接吻するのであった。
「アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしたちははじめて会ったんですのよ」と彼女は有頂天になって言った、「わたし、このかたに会って、このかたのことが知りたかったものですから、こちらから出向こうと思ったんですけれど、ちょっとお頼みしてみたら、このかたのほうから、こちらへ来てくだすったんですのよ。わたし、このかたと御いっしょだったら、どんなことでも、すっかり、何もかもすっかり解決がつくだろうと思いましたの。そんな風に虫が知らせたんですの……。わたしがこのことを決心しましたとき、家の者はそんなことをしないようにって、懇々と止めましたの、ですけれど、わたしは、ちゃんと結果を予想していたのです。そして、やっぱり間違いではございませんでしたわ。グルーシェンカはわたしに何もかも打ち明けて、御自分の考えも残らず聞かせてくだすったんですのよ、このかたは、まるで天使のように、ここへ飛んで来て、平和と喜びを持って来てくだすったんですのよ……」
「あたしのような者でも、あなたはおさげすみになりませんでした。ほんとにお優しい、立派なお嬢様でいらっしゃいますわ」グルーシェンカは、やはり例の愛嬌のある、嬉しそうなえみをたたえながら、歌でもうたうようにことばを引っぱった。
「まあとんでもない、そんなことをおっしゃるなんて、魅力のある、魔法使いのようなかたのくせに! あなたのようなかたをさげすむなんて! さあ、もう一度わたし、あなたの下唇を接吻しますわ、あなたの下唇ははれたようになってますけど、もっともっとはれあがるほど接吻してあげてよ。そうら、もう一度……もう一度……ほらね、アレクセイ・フョードロヴィッチさん、この笑い顔を御覧なさいな、ほんとにこんな天使のような顔を見ていると、心が晴れ晴れして来ますわね……」アリョーシャは顔を赤らめて、眼に見えぬくらいかすかに身震いをしていた。
「まあ、あなたはこんなに可愛がってくださいますけど、ひょっとしたら、あたし、まるっきりこんなにしていただく値打ちなんかない女かもしれませんわ」
「値打ちがないですって? このかたにそれだけの値打ちがないですってさ!」とカテリーナ・イワーノヴナはまたしても、同じように熱した声で叫んだ、「ねえ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、このかたはずいぶん気まぐれで、わがままですけれど、その代わり、とてもプライドの高い御気性よ! この人は高尚で、寛大なかたですのよ、アレクセイ・フョードロヴィッチさん。ただね、不仕合わせだっただけなの、このかたはつまらない、ほんとに軽薄な男のために、何もかも犠牲にしてしまおうってつもりに、あんまり早くなりすぎたのです。一人の男のかたがありましたの、やっぱり士官でしたけど、このかたはその人を愛して、いっさいのものをそれはもう、ずっと前、五年ばかりも前のことですのよ、ところが、その男はすっかりこのかたのことを忘れて、結婚してしまいましたの、今では鰥になって、今度、こちらへ来るという手紙をよこしたのですって、――ところがね、どうでしょう、このかたは今でもその男を、ただその男ひとりを愛しているのです。これまで、ずっと愛し通して来たんですのよ、そして永久に! それで、その男がこちらへ来れば、グルーシェンカはまた幸福になれるんですの。でも、この五年間というもの、この方はずいぶん惨めだったんですものね。だけど、誰がこのかたをとがめられましょう? 誰がこのかたの愛情を鼻にかけられましょう? あの足腰の立たないお爺さんの商人ひとりきりじゃありませんか。それもどちらかといえば、このかたのお父さんとか、お友だちとか、いっそ保護者といったほうが穏当なんですわ。このお爺さんは、ちょうどこのかたが、可愛い男にすてられて、身も世もあらず嘆き悲しんでいるところへめぐりあわしたんですの……全く、この人はそのとき、身投げしようとまで思いつめていたんですもの、だから、あの爺さんはこの人の命を救ったんですわ、命を!」
「お嬢様、あなたはずいぶんあたしをかばってくださいますわね、でも、何かにつけて、あんまり気がお早すぎますわ」とまた、グルーシェンカはことばを引っぱるように言った。
「かばうですって? まあ、あなたをかばうなんてことができるものでしょうか、そんなだいそれたことが? グルーシェンカ、天使さん、あなたのお手を貸してくださいな、ねえ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、まあその、ふっくらした小さな美しい手を御覧なさいよ、これはわたしに幸福を持って来て、わたしをよみがえらせてくれた手なんですよ。さあ、わたし今、この手を接吻しますわよ。外側も内側もね、ほうらね、もう一度! もう一度!」そして彼女は有頂天になったようにグルーシェンカの、まことに美しい、少しふっくらしすぎるくらいな手を、三度までも接吻した。相手はその手を差し出したまま、神経的で、ひびきの高い、美しい笑い声を立てながら、この『お嬢様』のすることをじっと見守っていたが、どうやら、彼女はそんな風に自分の手を接吻されるのが気持よさそうであった。『すこし有頂天が過ぎるようだ』という考えが、ちらりとアリョーシャの頭をかすめた。彼は急に顔を赤くした。その間じゅう彼の心は妙に落ち着かなかった。
「お嬢様、アレクセイ・フョードロヴィッチさんのいらっしゃる前で、そんな風に接吻なんかして、あたしを恥ずかしがらせないでくださいな」
「まあ、わたしがこんなことをしたからって、あなたに恥をかかせるつもりだとお思いになって?」カテリーナ・イワーノヴナは少し驚いたようにこう言った、「あなたはちっとも、わたしの気持をおわかりになってくださらないんですもの!」
「でも、あなただって、やっぱりあたしの気持が、本当にはおわかりになっていないらしゅうございますわ、お嬢様、あたしは、あなたの眸に映ってるよりか、ずっと悪い女かもしれませんものね、あたしは肚の悪いわがままな女ですからね、あの可哀そうなドミトリイ・フョードロヴィッチだって、ただからかい半分にちょっとあの時、迷わしてみただけなのよ」
「でも、そのあなたが今では、あの人を救おうとしてらっしゃるんじゃありませんか、あなたはそうお約束なすったでしょう――あなたがもうずっと前から、他の人を愛していらして、その人が現にあなたと結婚することになってるってことを、あの人に打ち明けて、眼をさましておあげになるって……」
「まあ、違いますってば。あたし、そんなお約束なんかした覚えはありませんわ、それはあなたが御自分で勝手にお話しになっただけなんで、あたしお約束なんかしませんでしたわ」
「それじゃ、わたし、勘違いをしていたんですわね」と、カテリーナ・イワーノヴナはちょっと顔色を変えて、声低くこう言った、「でも、あなたはお約束なすったのに……」
「違いますのよ、お嬢様、あたし、なんにもお約束なんかしませんわ」と、やはり嬉しそうな無邪気な表情をしたまま、静かにすらすらとグルーシェンカがさえぎった、「そうらね、これでおわかりになったでしょう、お嬢様。あたし、あなたに比べたら、こんなに恥知らずな、気ままな女なんですからね、あたし、こうしようと思うとすぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきはほんとに何かお約束をしたかもしれませんけど、今また、ようく考えてみますと、急にまた、あの人が好きになるかもしれませんわ、あのミーチャが、――前にだって、あの人が好きになったことがありますのよ、まる一時間ぐらい気に入ってたことがありますわ。だから、これから帰って行って、今日から家に落ち着いてしまいなさいって、あの人に言わないとも限りませんわ……ね、あたしこんなに気の変わりやすい女ですの……」
「さっきおっしゃったことは……なんだかまるきり違っていましたわ……」カテリーナ・イワーノヴナはやっとこれだけのことをつぶやいた。
「ええ、さっきはね! あたし気の弱いばかな女ですから、あの人がこのあたしのために、どんな苦労をしたかと考えてみただけでもね! ほんとに家へ帰ってから、急にあの人が気の毒にでもなったら――その時どうしようかしら?」
「わたし、ほんとに思いもかけませんでしたわ……」
「まあ、ほんとにお嬢様は、あたしなんかと比べると、なんてお優しくて、気高いおかたでしょうね! たぶんもう、こういう気性がおわかりになっては、あたしのようなばか女には愛想をおつかしになったでしょうね。お嬢様、どうぞその可愛らしいお手をお貸しくださいまし」彼女はしとやかにこう言って、うやうやしげにカテリーナ・イワーノヴナの手を取った、「ねえ、お嬢様、あたしこうしてあなたのお手を取って、先刻あたしにしてくだすったとおんなじように接吻しますわ、あなたはあたしに三度接吻してくださいましたけれど、あたしなら三百ぺんも接吻しなければ勘定が済みませんわ。さあ、それだけはしなくちゃなりませんわ、それ以上は神様のおぼしめしにもあることで、事と次第によっては、あたし、すっかりあなたの奴隷になって、なんでもお気に召すとおりにするかもしれませんわ、相談や約束なんかしないで、神様がお決めになったとおりにいたしましょうね。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう! ほんとにお可愛い、おきれいな、とてもたまらないようなお嬢様!」
彼女は接吻の『勘定を済ます』という変な目的で、その手をそっと自分の唇へ持って行った。カテリーナ・イワーノヴナはけっしてその手を引っこめはしなかった。彼女はおずおずした希望をいだきながら、あの奇妙な言い回しではあるが、『奴隷のように』望みのままになるという、グルーシェンカの、最後の約束に耳を傾けたのであった。彼女は一心に相手の眼を見つめていた。その眼の中には相も変わらず、信じやすそうな、単純な表情と、朗らかな喜びの色がうかがわれた……。『この女はあまりに無邪気すぎるのかもしれない』という希望がカテリーナ・イワーノヴナの心をかすめた。そのあいだにグルーシェンカは『可愛いお手』に恍惚となっているような様子で、そろそろとそれを唇のほうへ持って行った。しかも、唇のすぐそばまで持って行くと、不意に何か思案でもするように、二、三秒のあいだ、その手をそのままささえていた。
「ねえ、お嬢様」と不意に彼女は、恐ろしく物柔らかな甘ったるい声をひっぱるように言った、「ねえ、あたし、せっかくあなたのお手をいただきましたけれど、接吻はやめにしようと思いますわ」こう言って、彼女は、さもおかしそうに笑いだした。
「御随意に……いったいあなた、どうなすって?」とカテリーナ・イワーノヴナは不意にぶるっと身震いをした。
「じゃね、よく覚えておいてくださいな、あなたはあたしの手に接吻なさいましたけれど、あたしはしなかったってことをね」ふっと、彼女の眼の中で何やらきらりと光ったものがあった。彼女は恐ろしく執拗にカテリーナ・イワーノヴナの顔を見つめた。
「失礼な!」と不意に何か合点がいったらしく、カテリーナ・イワーノヴナはこう口走ると、かっとなって席を飛び上がった。グルーシェンカもゆっくりと立ち上がった。
「それでは、あたしミーチャにもさっそく電話してやりますわ、――あなたはあたしの手を接吻なさいましたけど、あたしのほうはまねもしなかったって、さぞあの人が大笑いすることでしょうよ!」
「けがらわしい、出ておいで!」
「まあ、恥ずかしげもなく、お嬢様、なんて恥ずかしいことでしょう、あなたのお身分でそんなはしたない口をおききになるなんて」
「出てお行き、売女!」とカテリーナ・イワーノヴナはわめき立てた。すっかりゆがんでしまった彼女の顔の筋という筋が震えていた。
「売女なら売女でもいいわよ、あなただって生娘のくせに、お金欲しさに夕方になると色男のところへいらっしゃったじゃありませんか、その器量を売りにいらっしゃったじゃありませんか、ちゃんと知ってますよ」
カテリーナ・イワーノヴナは一声高く叫ぶと、相手に飛びかかって行こうとしたが、アリョーシャが一生懸命にそれを抱き止めた。
「一歩も出ちゃいけません! ひと言もおっしゃってはいけません! 何も相手になさいますな、この人はすぐに帰りますよ、今すぐ帰って行きますよ!」
この瞬間、カテリーナ・イワノーヴナの二人の伯母と、それに続いて小間使いが、叫び声を聞きつけて、部屋へ駆けこんで来た。皆は彼女のほうへ駆け寄った。
「じゃ、帰りますわ」グルーシェンカは長椅子から外套を取りながらこう言った、「アリョーシャ、あたしを宅まで送ってちょうだいな!」
「帰ってください、すぐに帰ってください、お願いです!」アリョーシャは哀願するように両手を合わせた。
「可愛いいアリョーシェンカ、送ってってちょうだいよ! あたし、道々あんたにとてもいいお話を一つ聞かしてあげるわ! 今のはね、あたし、あんたのために、わざと一芝居うって見せたのよ、送ってってちょうだいな、あとで、ああよかったと思うに決まってるのだから」
アリョーシャは両の手をもみ合わせながら、くるりと横を向いた。グルーシェンカは声を立てて笑いながら、その家を飛び出してしまった。
カテリーナ・イワーノヴナはヒステリイの発作に襲われた。彼女はしゃくりあげて泣きながら、時おり、痙攣のために息をつまらせた。一同は彼女を取りまいて、さわぎ立てた。
「だから、わたしが言わないことじゃないのよ」と年上のほうの伯母が言った、「そんなむやみなことはしないようにと、あれほど止めたんだのに、……あんたがあまり向こう見ずなものだから!……ほんとになんということをするんでしょうね! あんたは、ああいう女たちのことをなんにも知らないけれど、世間ではあれは人間のくずだって言ってますよ、あんまりあんたはわがままが過ぎるんですよ!」
「あれは虎だわ!」とカテリーナ・イワーノヴナが声を振り絞って叫んだ、「なぜあなたはわたしを引き止めたんです? アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしあの女を思うさまひっぱたいてやったのに、ひっぱたいて!」
彼女はアリョーシャの前で、自分を押えつけることができなかった。あるいは抑制しようとしなかったのかもしれない。
「あんなやつは笞でひっぱたいてやってもあきたりないわ、処刑台へのせて、首切り役を使って、大ぜいの前で……!」
アリョーシャは扉のほうへ後ずさりした。
「だけど、まあ!」と突然、彼女は手を打って叫んだ、「あの人が! ほんとにあの人がそれほど恥知らずな、不人情な人間になりさがったものだろうか? だって、あの人は、あの恐ろしい、永久にのろってものろい足りない、あの日の出来事を話して聞かせたんだもの! 『お嬢様、あなただってその器量を売りにいらしたじゃあありませんか』だって! あの女は知ってるんだわ! アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたの兄さんは悪党ですよ」
アリョーシャは何か言いたかったが、言うべきことばが見いだせなかった。彼の胸は痛いほど締めつけられた。
「帰ってください、アレクセイ・フョードロヴィッチ! わたしは恥ずかしい、わたしは恐ろしい! あす……後生ですから、いらしてちょうだいね、どうぞわたしを悪く思わないでね、許してちょうだい、わたしはまだ、自分で自分をどうしていいのかわからないのですから!」
アリョーシャはよろめくようにしながら往来へ出た。彼女と同じように彼も泣きだしたくなった。と、不意に後ろから女中が追いかけて来た。
「お嬢様がこれをお渡しするのをお忘れになりましたの、ホフラーコワさまからおことづけの手紙でございますの、もうお昼御飯の時からおあずかりしてありましたので」
アリョーシャはばら色の小さい封筒を機械的に受け取ると、ほとんど無意識にポケットへ押しこんだ。
町から修道院までは一露里とほんの少ししかなかった。この時刻では人通りも途絶えた道を、アリョーシャは急ぎ足に歩いて行った。もうほとんど夜になって、三十歩前方の物のあや目もわからなかった。ちょうど道の中ほどに四つ辻があって、その四つ辻のひともと柳の下に何か人影らしいものがちらついた。アリョーシャが四つ辻へかかると同時に、その人影がふっとその場を離れて、彼の方へ飛びかかって来た。そしてたけだけしい声でわめいた、「財布か、命か!」
「あ、あなたはミーチャ兄さんですね!」ひどく震え上がったアリョーシャは驚いてこう言った。
「は、は、は! 思いがけなかったかい? おれはどこでおまえを待っていようかと考えてみたんだよ、あの女の家のそばにしようかな? いや、あすこからは、道が三つにわかれているから、もしかするとおまえを見のがすかもしれない、そこで、結局、ここで待ち受けることに決めたんだよ。だって、どうせ修道院へ行くのにはもう他に道はないから、おまえはきっとここを通るだろうと思ってさ。さあ、ほんとのことをぶちまけてくれ、おれを油虫みたいにたたきつぶしてくれ……それはそうと、おまえはどうかしたのかい?」「なんでもありませんよ、兄さん……僕ちょっとびっくりしただけです、ああ、だけどドミトリイ兄さん! さっきお父さんの血を流したばかりなのに(そう言って、アリョーシャは泣きだした。もうずっと前から泣きだしそうになっていたのであるが、今急に心の中で何かぷつりとちぎれたような気がしたのである)。兄さんは危うくお父さんを殺すような目に会わして……のろいのことばまで吐いて来たくせに……もう今は……こんなとこで冗談なんか言うんですか……『財布か命か』なんて!」
「それがどうしたというんだい? いけないっていうのかい? おれの分際に不釣り合いだというのかい?」
「いいえ、そうじゃないけど……僕はその……」
「まあ、よせ、この夜の景色を見ろよ、なんという暗い晩だろう! 雲はどうだい、それになんという風だ! おれはこの柳の下に隠れて、おまえを待っているうちに、ふいと考えたんだよ(正真正銘の話だよ!)、この期におよんで、おれは何をくよくよして、何をいったい待っているんだ? ここに柳の木はあるし、ハンカチもあれば襯衣もあるから、おれは繩をすぐになうことができる、おまけにズボン吊りがあるぞ――何もこのうえ、世の中の荷やっかいになって、この卑劣な体で大地の神聖をけがしていることはない! ってな、すると、そこへおまえの足音が聞こえて来たのさ、――ありがたいことに! 何かが急に、おれの上へ飛んで来たような気がしたのだ。そうだ、まだおれの愛している人間があるじゃないか、そら、あれがそうなんだ、あの人間だ、あれこそ世界じゅうでおれのいちばん好きな、たった一人の可愛い弟じゃないか! そう思うと、おれはその瞬間に、おまえが可愛くて可愛くてたまらなくなったのだ。ええっ、あれの首っ玉へかじりついてやれ、と考えたんだよ。ところが、またひょいとばかな考えが浮かんで、『ひとつ、おれの心の浮き立つように、おどかしてやろう』と思ったのさ。それで、『財布か命か!』なんて、気ちがいみたいにどなったんだよ、ばかなまねをして済まなかったよ、――あれはほんの冗談で、胸の中は……やはり正気なんだよ……ええ、そんなことは、まあどうだっていいや、だが、あすこでどんなことが起こったのか聞かしてくれ、あの女は何と言った? さあ、おれを押しつぶしてくれ、ぶんなぐってくれ、情け容赦はいらんぞ! あれは躍起になって怒ったろうな?」
「いいえ、そんなことはありません……まるで違いますよ、ミーチャ、あすこで……僕たった今、二人に会いましたよ」
「二人にって、そりゃ誰と誰だ?」
「グルーシェンカがカテリーナ・イワーノヴナのとこへ行っていたのですよ」
ドミトリイ・フョードロヴィッチは愕然とした。
「そんなはずがあるもんか!」と彼は叫んだ、「おまえはたわごとを言ってるんだよ! グルーシェンカがあの女のとこへ行くなんかって?」
アリョーシャは自分がカテリーナ・イワーノヴナの家へはいって行ったそもそもから、親しく目撃した出来事を残らず話した。彼は十分間ばかり話し続けた。むろん、彼はそれをよどみなく流暢に話したわけでもなかったが、肝心なことばや肝要なしぐさをかいつまむようにして、ただのひとことで自分自身の感情をまざまざと伝えるようにしながら、すべてを手に取るように説明した。兄ドミトリイは不気味なほど身じろぎだもせず、じっと眼をすえて、無言のまま弟を見つめていたが、彼がすべてを了解して、いっさいの事実の要点をつかんだことは、アリョーシャにもよくわかっていた。しかし話の進むにつれて、さすがにその顔はしだいに沈んできた、というよりはむしろものすごくなってきた。彼は渋面をつくって、歯を食いしばっていたが、一つところを見すえていた眸はさらにひどく凝結して、ひとしおけわしくなったように見えた……が、今まで憤りに燃えてものすごかった顔が、異常な急速度をもって、さっと一変したと見る間に、いっそう思いがけなく、それまできっと結ばれていた唇が一度に開いて、不意にドミトリイ・フョードロヴィッチは矢も楯もたまらないという風に、いかにも自然な笑い声をあげて、腹をかかえて笑いだした。事実、彼は文字どおりに腹をかかえて笑いくずれながら、長いあいだ、こみあげる笑いにさえぎられて物を言うこともできなかった。
「では、その手を接吻しなかったんだな! じゃ、接吻せずに、それなり駆け出したんだな!」彼は妙に病的な喜びをもってこうわめいた。その喜び方は、もしその天真爛漫さがなかったら、あるいは無礼な喜び方と言われてもしかたがないかもしれない、「それじゃ、あれはあの女を『虎』だとどなったのかい? いや全く虎だよ! そしてあいつを処刑台へのせろって? そうだとも、そんなめにあわしてやればいいんだ、おれも同意見だよ、もうずっと前からその必要があったんだ! だがなあ、おい、処刑台はいいとしても、まず初めにすっかり快くなっておかねばならないよ、しかし、おれにはあの傲慢の女王の心理がわかるよ、あの女の面目がその『お手』の中に躍如たりだ、毒婦めが! あいつはこの世で想像することのできる、あらゆる毒婦の女王なのさ! その中に独特の喜びがあるんだよ! で、あいつは家へ帰ってしまったのだな! おれは、どれすぐに……ようし……あいつのところへ一走り行って来るぜ! アリョーシカ、おれを責めないでくれ、あの女はほんとに絞め殺してもあきたりないやつだよ……」
「じゃ、カテリーナ・イワーノヴナは!」とアリョーシャは悲しそうに叫んだ。
「あの女のこともわかったよ、すっかり肚の中までわかったよ、今までにこんなによくわかったことは一度もなかった! これは世界の四大州を発見したようなものだ、いや、四大州じゃない、五大州だよ! ほんとになんという思いきったやり方だろう! それはちょうど、あの時の女学生のカーチェンカそっくりだよ、父を救おうという高潔な動機から、恐ろしい侮辱を受ける危険をも物ともせず、卑しい乱暴な士官のところへ平気で出かけて行った、あの時のカーチェンカそのままだ! いや、自尊心だ、向こう見ずだ! 運命に対する挑戦だ、無際限な挑戦だ! こういうような心持ちなんだ! ところで、あの伯母さんがあの女を止めたんだってね? あの伯母さんというのは、これもどうして、なかなかのわがままな女で、例のモスクワにいる将軍夫人の実の妹なんだが、姉より一倍の天狗だったんだよ。それがさ、御亭主の官金費消という罪で、領地から何からいっさいがっさいすってしまうと、今まで大威張りでいた夫人が急に調子を低くして、それ以来、とんと頭もようあげなくなったのさ、じゃ、その人がカーチャを止めようとしても、耳をかそうともしなかったわけだね、あの女の肚では、『何だってわたしに征服できる、何もかもわたしの勢力範囲にあるのだから、もしその気にさえなれば、グルーシェンカだって丸めこんで見せる』ってわけさ、だから自分でうぬぼれて、空威張りをやってのけたまでだもの、誰を恨むこともできないじゃないか? で、あの女がわざと、進んでグルーシェンカの手を接吻したのは、何かずるい目算があってだと思うかい? それは違うよ、あの女は全くグルーシェンカに惚れこんだのだよ、いや、グルーシェンカにではない、自分の空想に惚れこんだのだ、自分の夢に惚れこんだのだ、なぜって、それはあの女の空想であり、あの女の夢であったのだもの、惚れこまずにはいられないさ! だが、おいアリョーシャ、いったいおまえどうしてあの連中のところから逃げ出して来たんだい? 法衣の裾をからげて駆け出して来たのかい? わ、は、は!」
「兄さん、あなたは、あの日のことをグルーシェンカに話したために、どんなにカテリーナ・イワーノヴナを侮辱したことになるか、そのことに少しも注意を払わなかったようですね。たった今グルーシェンカは、あの人に面と向かって、『あなただって、立派な器量を売りに、こっそりと色男のところへ忍んでいらしたでしょう?』って言ったんですよ、ねえ、兄さん、これよりひどい侮辱がまたとあるものですか!」アリョーシャが何より心を痛めたのは、兄がまるでカテリーナ・イワーノヴナの屈辱を、喜んでいるように思われることであった。もちろんそんなことのあろうはずはなかったけれど。
「そうか!」と、ドミトリイ・パーヴロヴィッチは急におそろしく顔をしかめて、手の平で額をぴしゃりとたたいた。彼は先刻アリョーシャから、この侮辱のことも、『あなたの兄さんは悪党です!』とカテリーナ・イワーノヴナがわめいた話も、いっしょにすっかり聞いたくせに、やっと今それに気がついたのである。
「そうだ、実際、おれはカーチャの言う『あの恐ろしい日』の出来事をグルーシェンカに話したかもしれないよ、ああ、そうだ、話した話した、やっと思い出したよ! そうそう、モークロエ村で話したんだっけ、なんでもあのとき、おれはぐでんぐでんに酔っ払っていて、ジプシイの女たちは歌をうたっていたっけ……だが、おれはさめざめと泣いていたんだ、あのとき泣きながら、おれはひざまずいてカーチャの面影に祈りを捧げていたのだ、そしてグルーシェンカだって、おれの気持をわかってくれたよ、あのときあれは何もかもわかってくれて、そういえばたしか自分でも泣いていたようだよ……しかし、畜生! 今から思えばこうなっていくのが当然だったんだよ! あのときは泣いたくせに、今は……今は『胸に剣を!』ってわけか、みんな女はそんなものさ!」
彼は伏し目になって物思いに沈んだ。
「そうだよ、おれは悪党だ! 紛れもない悪党だ!」と、不意に彼は陰気な声でこう言った。「泣いても泣かなくても、どちらにしても、やはり悪党に違いないんだ! どうか、あの女にそう言ってくれ、それで腹が癒えるものなら、おれは喜んで悪党よばわりに甘んじますってな、しかし、もうたくさんだ、むだ口をきくことなんかありゃしない! おもしろくもなんともないよ、おまえはおまえ、おれはおれの道を行くことにしよう、おれはもう、いよいよこれが大詰めという瞬間までは、二度と会いたかないんだよ、さようなら、アレクセイ!」こう言って彼は固くアリョーシャの手を握りしめると、やはり伏し目になって頭をたれたまま、まるで振り切るようにして、足早に町の方角へ歩き出した。アリョーシャはその後ろ姿を見送っていたが、兄がこうだしぬけに行ってしまおうとは、どうしても信ぜられないという風であった。
「待ってくれ、アレクセイ、もう一つ白状したいことがあるんだ、おまえにだけ!」と、不意に引っ返して来たドミトリイ・フョードロヴィッチが言った。「おれを見ろ、じっとおれを見るんだ、いいか、そらここだよ、ここで今、恐ろしい破廉恥なことが覚悟されていたのだ、(『そらここだよ』と言いながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチは変な顔つきで、自分の胸をとんと拳でたたいた。それはまるで、破廉恥というものが正しくそこにあって、胸の上のポケットの中へでも蔵っておくか、ないしは何かに縫いこんで首にぶら下げているとでもいうような風であった)おまえも知っているように、おれは悪党だ、折り紙つきの悪党だよ! だが、覚えておいてくれ、現在この瞬間、そらここに、このおれの胸の中におれが持っている破廉恥に比べれば、以前に犯したどんなことだって、今、または今後しでかすかもしれんどんな陋劣なことだって、物の数ではないんだよ、その破廉恥が現に遂行せられようとしているが、それを中止しようと、決行しようと、今のところ、まだおれの自由なんだ、そこを覚えといてくれよ! いや、結局おれは中止しないで、決行するに違いないと思ってくれ、さっきおれは、何もかもおまえにぶちまけたけれど、このことだけは話せなかった。おれだって、別にそれほど面の皮が厚くはないからなあ! ところで、おれはまだ思いとどまることができるんだ。思いとどまりさえすれば、あすにでも、失墜した名誉の半分だけは確かに取戻すことができるのだ。しかし、思いとまるまい、おれは筋書を完全にやりとおすよ。さあおまえ、証人に立ってくれ、おれは前もって、ちゃんと意識してこう言っておくからな! 暗黒と滅亡だ! 何も説明など必要がない、時節が来れば自然にわかるよ、けがらわしい路地と極道女か! じゃ、あばよ! おれのことなんぞ神様に祈らないでくれよ、おれはそんな値打ちがないのだ。それに必要もないよ、いや、全然必要がないのだ! おれはちっともそんなことをして欲しいと思わんよ! さあ行け!……」
こう言って不意に歩き出すと、今度は本当に行ってしまった。アリョーシャは修道院をさして歩を進めた。『なんだって、なんだって、おれはさっぱりわからないんだ、兄さんはいったい何を言ってるんだろうな?』それが彼には奇態に感ぜられた。『そうだ、明日はぜひ兄さんに会って、問いただしてやろう、無理にでも問いただしてやるんだ、いったいあれは何を言ってるんだか?』
彼は修道院を迂回すると松林を抜けて、まっすぐに庵室へたどりついた。庵室へはこの刻限になると誰も入れないことになっていたが、彼にはすぐに扉をあけてくれた。長老の部屋へはいった時、彼の胸は打ち震えた。『何のために、何のために自分はここを出て行ったのだろう! また何のために長老は自分を「娑婆」へ送り出したのだろう? ここには静寂と霊気が溢れているのに、かしこは擾乱と暗黒の巷で、一歩そこへ足を踏み入れたが最後、混迷の中に行き暮れてしまわなければならぬ……』
庵室には新発意のポルフィーリイとパイーシイ神父が居合わせたが、この神父は今日は終日、ほとんど一時間おきに、ゾシマ長老の容態を見にやって来たのである。アリョーシャは、長老の病気がだんだん険悪になる一方だと聞いて、はっと驚いた。今日は、弟子たちを相手に行なう常例の晩の法談さえできなかったとのことである。いつもは晩の勤行の後、安らかな眠りにはいる前に、院内の衆僧が長老の庵室へ参集して、各自今日一日のうちに犯した罪や、罪深い妄想や思考や誘惑、さてはめいめいのあいだに起こった争いなどを、声高らかに懺悔するのであった。なかにはひざまずいて懺悔告白する者すらあった……長老はそれをおのおの解決したり、和解させたり、訓戒を与えたり、改悛をすすめたりして、最後に一同を祝福して、退出させるのであった。この衆僧の『懺悔』を楯に、長老制度の反対者が攻撃の気勢をあげて、それこそ聖秘礼としての懺悔の神聖をけがすもので、ほとんど涜神罪と言って過言でないなどと、全く見当はずれなことを言いだしたのである。あまつさえ彼らは、こうした懺悔は、なんら良き結果をもたらさないばかりか、かえって人々を罪悪と誘惑に導くのみであると言って、僧正管区長にまで問題をもちだしたほどであった。実際、衆僧の多くは長老のもとへ集まるのを苦痛に思って、不承不承やって来るのであった。それというのもたいていの者が、おれはむほんをくわだてているとか、高慢な人間だなどと思われたくないために出席するだけだからである。また人の噂では、寺僧のなかには、懺悔の集まりへ出る前に、『おれは今朝おまえに腹を立てたというから、おまえもうまくばつを合わせてくれ』などと話題をこしらえるために、仲間同士であらかじめ打ち合わせをしたりさえした。実際、こんなことがたびたびあったということは、アリョーシャも知っていた。その他にも彼の知っていることで、修行僧が肉親から受け取った手紙まで第一に長老の手へ渡されて、受信人よりも先に長老が開封して目を通すという習慣に、非常な不満をいだいている向きもあるということである。むろん、これはすべて任意の服従から有益な指導を仰ぐ目的で、自由に誠実に行なわれるべきことであったが、実際はほとんど誠実を欠いているばかりか、むしろわざとらしい技巧をもって行なわれることがあった。けれど、寺僧の中でも年長の経験深い人々は『修行のために誠心をもって、この壁の中へはいって来たほどの人には、疑いもなくこうした服従や難行が有益なもので、自分たちに偉大な利益をもたらすものであることがわかるはずである。ところが、それをわずらわしく思って不平を鳴らすような者は、修道士でないも同然で、そもそも修道院などへはいって来る必要はなかったのである。こういう人の安住すべき場所は俗世間の中にある。罪悪や悪魔は俗世間ばかりでなく、修道院の中でも、やはり防ぎきれるものではない。だから、いささかの罪悪も黙許することはできないわけである』とこんな風に考えて、自説を主張するのであった。
「衰弱が加わって、嗜眠状態に陥っておいでなさる」とパイーシイ神父はアリョーシャを祝福した後、小声で彼に伝えた。「もう、眼をおさましするのもむずかしいくらいだ、もっとも、そんな必要もないけれど、さきほど五分間ばかり眼をさまされて、自分の祝福を皆に伝えてくれと頼まれ、また皆には、夜の祈祷の際、自分のために祈ってもらって欲しいとの御伝言であった。明日はも一度、ぜひ聖餐を受けたいと申しておられる。それから、アレクセイ、おまえのことを思い出されて、もう出て行ったかと尋ねられたから、今、町へ行っておりますと申し上げたところ、『わしもそうさせるために祝福してやったのだ、あれのいるべき場所はあすこだ、当分はここにおらんほうがよい』と、こんな風におまえのことを言われたぞ。それがいかにも愛情に溢れた、心配らしい言い方であった。おまえは自分がどんなに心にかけられているかわかっているかな? けれど、長老がおまえの一身上について、当分のあいだ浮き世へ出ておれと言われたのは、どういうわけであろうな? おおかたおまえの運命について、何か見抜いておられることがあってのことだろう? しかし、アレクセイ、たとえおまえが俗世間へ帰るとしても、それは長老がおまえに授けられた一つの修行と見るべきで、けっして軽薄な無分別や浮き世の歓楽のためではないぞ、このことをよく胸に刻んでおくがよい……」
パイーシイ神父は出て行った、長老は、たとえ一日二日は生き延びるとしても、所詮瀕死の状態にあるのだということはアリョーシャにとって、もはや疑いもない事実である。アリョーシャは父をはじめとしてホフラーコワ母娘や、兄や、カテリーナ・イワーノヴナなどと面会の約束はしてあるけれど、明日はけっして修道院の外へ一歩も出ないで、長老の臨終までそのかたわらに付き添っていようと心に固く決心した。彼の胸は愛情に燃え立って来た。そして、彼は、世界じゅうの誰にもまして愛している人が死の床に打ち臥しているのを修道院に残して町へ出て、たとえしばらくでもその人を忘れることのできた自分を深く責めないではいられなかった。彼は長老の寝室へはいって行くと、そのままひざまずいて、眠れる人に向かって額が地につくほどのお辞儀をした。長老はほとんど聞き取れぬくらい穏かに呼吸しながら、静かに、身動きもせず眠っていた。その顔はあくまで平穏であった。
長老が今朝ほど客を迎えた次の間へ引っ返すと、アリョーシャはただ長靴を脱いだだけで、ほとんど着換えもしないで、固い革張りの幅の狭い長椅子の上へ横になった。彼はもう久しいあいだ毎晩枕だけ持って来て、この椅子の上で寝ることに決めていた。今朝、父が大きな声でどなった例の蒲団は、もう長らく敷くのを忘れてしまっていた。彼はただ自分の法衣を脱いで、それを上掛けの代わりに体に掛けただけであった。しかし寝につく前に、彼はひざまずいて長いあいだ祈祷をした。その熱心な祈祷の中で彼が神に願ったのは、自分の惑いを解いてもらうことではなく、いつも神に対する賛美嘆称の後で、自分の魂を訪れた喜ばしい歓喜の情を渇仰したばかりである。彼の就寝の前の祈祷は、たいてい神に対する賛美のみで満たされていた。そうした歓喜の情はいつも軽い安らかな眠りを彼にもたらすのであった。今もこうして祈祷をしているうちに、ふと、さきほどカテリーナ・イワーノヴナのところの女中が追っかけて来て彼に渡したばら色の小さな封筒がポケットにあるのに気がついた。彼はちょっと当惑したけれど、とにかく祈祷をすました。それから少し躊躇したのち封を開いた。その中にはリーズと署した自分あての手紙がはいっていた――それは、今朝、長老の前で彼をからかった、あのホフラーコワ夫人の若い娘からよこしたものであった。
『アレクセイ・フョードロヴィッチ』と彼女は書いていた。『わたしはこの手紙を誰にも内緒で、お母様にさえ秘密にして書いています、そして、それがどんなに悪いことかってこともわかっています。けれど、わたしは自分の心の中に生まれ出たことをあなたに申し上げないでは、もう生きていられません、このことはわたしたち二人よりほかには、(当分のあいだ)、誰にも知らしてはならないのです、けれど、わたしの申し上げたいと思うことを、どんな風にあなたにお話ししたらいいのでしょうね、紙は顔を赤らめないと申しますが、それは嘘ですわ、本当のことを申しますが紙まで今のわたしと同じように、まっかな顔をしているのですもの、おなつかしいアリョーシャ、わたしはあなたを愛しています、まだ子供の時分から――あなたが今とはまるで別人のようでいらして、モスクワ時代から愛していましたの、そして一生涯あなたを愛し続けていきますわ、わたしはあなたと一つになって、年とったら御いっしよにこの世を終わりたいと、自分の心の中であなたを選んだのでございます、けれど、必ずお寺を出てくださるという条件つきなのですよ、わたしたちの年のことでしたら、それは法律に定められた年になるまで待ちましょう、そのころまでには、わたしもきっと丈夫になって、一人で歩いたり、ダンスをしたりできるようになりますわ、そんなことは言うまでもないことでございます』
『わたしがどんなに考えたかおわかりになってくださるでしょう、けれど、ただ一つ、どうしても考えつかないことがございますの、それは、この手紙をお読みになる時、わたしのことをどんな風にお思いになるだろうかということです、わたしはいつも笑ったり、ふざけたりばかりしてるんですもの、今朝だってあなたをすっかり怒らしてしまいましたでしょう……けれど誓って申し上げますわ、わたし今ペンを取る前に聖母様の御像にお祈りをしましたのよ、そして今でもやっぱりお祈りをしていますの、ほんとにもう泣きださないばかりでございますわ』
『わたしの秘密はもうあなたのお手に握られてしまいましたわね、明日あなたがいらしてくださるとき、わたしどんな顔をしてお目にかかったらいいのかわかりませんわ、ああ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしがあなたのお顔を眺めているあいだに、また我慢ができなくなって、今朝とおんなじに、ばかみたいに笑いだしたりしたら、どういたしましょうね? きっと、あなたはわたしをいやなひやかしやだとお思いになって、この手紙だって本当にしてはくださらないかもしれませんわね、ですから、もしわたしを可哀そうだとお思いになったら、明日わたしのところへはいってらっしゃるとき、お願いですからあまりまっすぐにわたしの顔を御覧にならないようにしてください、わたしの眼があなたのお眼に出会ったら、きっと笑いだすに違いないんですから、だって、あなたは、あんな長い着物を着てらっしゃるんですもの……わたし今でも、それを思うと体じゅうがぞっとしますわ、ですから、はいっていらしても、しばらくはわたしの顔をちっとも御覧にならないで、お母様の方か、窓の方を御覧になってくださいましな……』
『とうとう、わたしあなたに恋ぶみを書いてしまいましたわ、まあ、ほんとになんということをしてしまったのでしょう! アリョーシャ、わたしを軽蔑しないでちょうだい、もしあたしたいへん悪いことをして、あなたを苦しめているようでしたら、どうぞお許しくださいまし、わたしのたぶん永久に滅びてしまった名誉の秘密は、今あなたの手の中にあるのです』
『わたし今日はきっと泣きますわ、さよなら、恐ろしい再会の時まで、リーズ』
『二伸、アリョーシャ、ただね、きっと、きっと、きっといらしてちょうだいね! リーズ』
アリョーシャは驚愕をもって読み終わった。そしてもう一度読み返してしばらく考えていたが、不意に静かな楽しそうなほほえみを漏らした。彼はぎくりと身震いをした。そのほほえみが彼には罪悪のように思われたのである。しかし一瞬の後またもや同じように静かな、幸福そうなほほえみを浮かべるのであった。彼はゆるゆる手紙を封筒へ納めてから、十字を切って、横になった。すると胸さわぎは急にぱったりとやんでしまった。『主よ、さきほどの人たちすべてをあわれみたまえ、あの不幸な、荒れ狂う人たちを救いたまえ、あの人たちを正しい道に導きたまえ、すべての道はあなたの御手のうちにあります、あなたの道をもってあの人たちを救いたまえ、主よ、あなたは愛でいらせられます、あの人たちすべてに喜びを授けたまわらんことを!』アリョーシャはこうつぶやきながら十字を切ると、おだやかな眠りにおちていくのであった。
[#改ページ]
朝まだき、まだ夜のあけないうちにアリョーシャは起こされた。長老は眼をさますと、床を離れて安楽椅子にかけたいと言いだしたが、しかも非常な衰えを感じていた。意識は全く確かで、顔にはかなり疲労の色が浮かんでいたが、晴れ晴れして、ほとんど喜ばしそうにさえもうかがわれた。眼つきは楽しげに愛想よく人をさし招くかのようであった。
「ひょっとしたら、今日一日の寿命がないのかもしれん」と彼はアリョーシャに言った。
それからすぐに懺悔をすることと聖餐を受けることを所望した。彼の懺悔を聞く相手はいつもパイーシイ主教であった。この二つの聖秘礼ののち、聖油塗布の式が行なわれた。司祭たちが集まって来て、庵室の中はようやく苦行者たちでいっぱいになった。そのうちに夜が明け離れた。多くの人々が修道院の方からもやって来るようになった。勤行が終わったとき、長老は誰も彼もに別れを告げたいと言って、一人一人に接吻した。庵室が狭いので、先に来た人は、あとから来た人に席をゆずった。アリョーシャはまたもや安楽椅子にすわりなおした長老のわきに立っていた。長老は根気の続く限り説教を続けた。その声は弱々しかったが、まだかなりにしっかりしていた。「わしはな、皆さんもう長年のあいだ、皆さんに説教をしてきました。つまり、長年のあいだ、大きい声で物を言い通したわけです。それで、もうすっかり物を言う癖がついてしまって、今のように弱っているときでも、物を言うよりは黙っているほうがかえってむずかしいくらいになりましたよ」彼は身の回りに寄り集まっている人々を、なつかしげに見回しながら冗談を言うのであった。
アリョーシャは長老がそのときに言ったことを、多少は覚えていた。長老の話ははっきりとして、その声も、きわめてしっかりしていたが、話そのものはかなりに、とりとめのないものであった。彼はいろんなことを話したが、どうやら、自分の生前に話しきれなかったことを、臨終に際して、もう一度、すっかり言ってしまいたいらしかった。しかも、それはただ単に教訓をするためばかりではなく、自分の喜びや法悦をあらゆる人たちに分かち、さらにまた、生きているうちに自分の真情を吐露したかったのであろう。
「皆さんどうかお互いに愛し合うてください」と長老は説いた(このことはアリョーシャの記憶による)、「また神の子たちを愛してください。われわれがここへまいって、この部屋の中に閉じこもったからといって、俗世間の人たちより清いというわけはありませんのでの、それどころか、ここへまいった者は誰しも、自分が俗世間の誰よりも、またこの世の中の誰よりも劣るのだと認めているはずで……。したがって僧侶たる者が部屋の中にこれからさき、暮らせば暮らすほど、いっそう痛切にこのことを自覚しなければなりませんのじゃ。なぜと申すに、もしもそうでなかったならば、ここへ来るいわれはないわけですからの。自分は俗世間の誰よりも劣るということばかりではなく、自分はあらゆる人々の前に、万事につけて、いっさいの罪、あらゆる人類の罪、世界の罪、個人の罪に対して義務を負うていると自覚した暁には、われわれの隠棲の目的が達せられるというものです。つまり、なんです、われわれは一人一人、疑いもなく、この世のあらゆる人々に対して、罪があるからです。しかも、一般に世界的罪悪というものによってではなく、この世のあらゆる人間、すべての個人に対して、一人一人が個人的に罪があるからです。この自覚は何も僧侶ばかりではなく、地上のすべての人のふむべき最高の道なのです。すなわち、僧侶は何も特殊な人ではなく、ただ単に、この世の誰しもが当然かくあるべきはずの道をゆくだけのものですからの。かくてこそ、われわれの心は、はじめて限りなく、宇宙的な、飽くことを知らぬ愛に感激するものです。そのときこそ、あなたがたはめいめいに愛によって全世界を征服し、涙をもって世界の罪を洗い去ることができるでしょう……。誰もが自分の心をいましめて、絶えずおのれに懺悔をなさるがよい。おのれの罪を恐れずに、罪を感じたときにも、ただ悔い改めて、けっして神に誓いをかけてはなりませぬ。くり返して言うようですが――けっして高ぶってはなりません。小さな者に対してばかりでなく、大きな者に対しても高ぶるものではありません。またこちらを排斥するもの、侮辱するもの、誹謗するもの、中傷するものをも憎んではなりません。無神論者、悪の伝道者、物質論者をも、その中の善良な者のみではなく、邪悪な者をすらも憎んではなりません。なんとなれば、そういう人たちの中にも、善良な人はたくさんいるのじゃから、ことに今のような時世にはな。だからこういう人たちのために祈っておやりなされ、『主よ、誰にも祈ってもらえぬあらゆる人たちを救いたまえ。御身に祈ることを欲せざる者をも救いたまえ』と。それからそこで付け加えてください、『主よ、わがかかることを祈るは高慢のためではござりませぬ。わが身みずからも、誰にもまして忌まわしい者でござりますから……』と、どうか神の子を愛してください。羊の群れを外来の者に奪わせるようなことがあってはなりませんぞ。もしもなまけていたり、思いあがっていたり、なおはなはだしきは貪欲の果てに居眠りでもしていたら、四方八方から、あさましいやつどもがやって来て、羊の群れを奪って行くのですからの。どうか人民どもに、たゆむことなく福音を説いてやってください……。彼らから高利をむさぼるようなことがあってはなりません……。金銀を愛して、これをたくわえたりしてはなりません……。神を信じて、信仰の旗をしっかと握っていてください。高くこれを振りかざすように……」
それにしても、長老のことばは、ここに記したよりも、すなわち、アリョーシャが後に書きとどめたよりも、ずっと切れ切れなものであった。どうかすると、彼は力を集中するかのように、すっかりことばをとぎらせて、喘いだりしていたが、しかもなお、法悦に浸っているかのようであった。人々は感激しながら耳を傾けていた。もっとも、多くの者は、彼のことばに驚いて、そこに暗澹たるものを認めていた……。アリョーシャはたまたま、庵室をほんのちょっとのあいだ離れたとき、庵室の中と、庵室のあたりに集まっていた僧侶たちが一様に興奮して、近づきつつあるものを待ち受けている様にいまさらながら驚いた。この期待は、ある人たちのあいだではほとんど不安に近く、またある人たちにとっては厳粛なものであった。誰も彼も、長老が瞑目するとただちに何かしら大きなことが起こるだろうと期待していたのである。この期待は一方からみるとほとんど軽はずみなものとも考えられたが、いとも厳格な主教たちさえも、この考えにおそわれていた。中で最もいかめしい顔をしているのはパイーシイ主教であった。アリョーシャが庵室を出たのは、町から帰って来たラキーチンが、一人の僧を通じて、こっそり呼び出したからであった。ラキーチンはアリョーシャに当てたホフラーコワ夫人の奇怪な手紙を携えていたのである。夫人はアリョーシャに一つの興味のある、いかにもこの場合にふさわしい消息を伝えていた。事件というのは、昨日、長老に謁見して、祝福するためにやって来た平民の女の信者の中に、町の者でプローホロヴナという下士官の妻がいたことであった。彼女は長老に向かって、ワーセンカという息子が、遠くシベリヤのイルクーツクへ勤めに行ったが、もう一年ほども、何一つ便りがないから、死んだ者として、教会でそのあとを弔ってもよいだろうかと尋ねた。この質問に対して、長老は厳粛な面持ちで、はっきりわかりもしないのに供養をするなどとは、もってのほかのことだととどめて、かようなしわざは魔術にもひとしいものだと言った。が、そのあとで、長老はお婆さんの無知からきたことだと許してやって、『まるで未来記でも見ているかのように』(ホフラーコワ夫人の手紙のことばによる)、慰めて、『おまえの息子のワーシャは間違いなく生きている。だから近々のうちに母親のところへ帰って来るか、手紙をよこすに相違ない。まず、おまえも自宅へ帰って、それを待っていたらよい』と付け足した。『ところが、どうでしょう?』とホフラーコワ夫人は感激して付け加えている、『予言は文字どおりに、それどころか、それ以上に的中したのです』お婆さんがわが家へ帰ったかと思うと、もうシベリアから待ちに待っていた便りを渡された。しかも、そればかりではなく、ワーシャは途中、エカテリンブルグからよこしたこの手紙の中で、自分がいま、ある役人といっしょに、ロシア内地へ帰国の途上にあること、この手紙をお母さんが受け取ってから三週間すると、『お母さんを抱きしめることができるでしょう』などと書いてよこしていた。
ホフラーコワ夫人はここに新しく実現された『予言の奇跡』をすぐに修道院長やその他一同の者に伝えてくれとアリョーシャに熱心に頼んで、『このことは誰も彼も、みんなに知っていてもらわなければなりません!』と、手紙の終わりで、詠嘆していた。手紙は走り書きで、一行一行に筆者の興奮が感ぜられた。しかし、アリョーシャは仲間の人たちに話すことは少しもしなかった。というのは、みんながこのことを知っていたからである。ラキーチンは彼を呼び出すようにと僧侶に頼んだとき、『ラキーチンがぜひともお話いたしたいことがあり、しかも非常に大事なことで、一刻も報告を猶予することができないものだと、パイーシイ主教様に申し上げて、かようなぶしつけなことを幾重にもお詫び申し上げる』との言づてを頼んだ。ところが、この坊さんはラキーチンの頼みをアリョーシャに伝える前にパイーシイ主教に伝えたので、アリョーシャは元の席に帰ったとき、ただパイーシイ主教に手紙を読んで聞かせ、ほんの記録として報告するほかに、なすことがなかった、ところが、この峻厳にして、容易に人を信用しない僧侶でさえもが、『奇跡』の消息を読むと、苦い顔をして、心の中のある種の感情を全く押えることができなかったのである。彼の眼は輝き、唇はもったいぶって、熱中しているように、急にほほえみを浮かべた。
「われわれもそんなことを見るだろうか?」と彼はうっかりしていたらしく、不意に口をすべらした。
「われわれもこれからそんなことを見るのだろうか、そんなことを!」と周囲にいた僧侶たちもくり返したが、パイーシイ主教はまたもや苦い顔をして、一同の者に、――もうしばらくこのことは誰にも言わないでもらいたい、『もっと、はっきり事実がわかるまでは、なにしろ、世間の軽はずみなために起こる話はずいぶん多いのだし、それにまた、今度の事件でも、自然こんなことになったかもしれんのだから』と頼んだ。彼はまるで良心に申しわけをするかのように、用心深く付け足したが、自分でもほとんど自分の釈明を信じていなかったのである。このことは、話を聞いていた人々も実によく見抜いていた。もちろん、この『奇跡』は一時間をいでずして、修道院じゅうにも、また、弥撒のために修道院へやって来た世間の人たちの多くにも、知れ渡ってしまった。誰にもまして、この実現された奇跡に心をうたれたのは、極北のオブドルスクの、小さな修道院から、『聖シリヴェストル』の使いで、つい昨日ここの修道院へやって来た僧侶である。
彼は昨日、ホフラーコワ夫人のわきに立って、長老にお辞儀をすると、『病気のなおった』令嬢を指しながら、長老に向かって、熱心に、『どうしてあなたがたはそんな大胆なことをなさるのです?』と尋ねたものである。
問題は彼が今、ある種の疑惑に包まれて、何を信じていいのかほとんどわからないというところにあった。昨日、彼はこの修道院のフェラポント長老を、蜜蜂小屋の向こうにある離れの庵室に訪れたが、この会見は彼になみなみならぬ、すさまじい印象を引き起こした。このフェラポント長老はここでの最年長者で、精進と沈黙を守る偉大な苦行者であった(この人のことはすでに長老ゾシマ、ことに長老制度に対する反対者として少しく述べておいたが、彼はこの制度をもって、有害にして軽率な改革だと見なしていた)。彼は沈黙を守って、誰ともほとんどひとことも物を言わなかったが、きわめて危険な反対者であった。彼が危険であったというのは、主として、この寺の多くの僧侶が衷心から彼に同情を寄せ、この寺に来る世間の人たちにも、彼を正真正銘のキ印だと思いながらも、偉大なる義人とし、苦行者として、崇めている者が非常に多かったからである。
しかし、このキ印だということが多くの人々を魅了したのであった。フェラポント長老は一度としてゾシマ長老のところへは行かなかった。彼は庵室に暮らしていたが、庵室の規則によって、それほど煩わされはしなかった。つまり、彼がまぎれもないキ印のようにふるまっていたからである。彼は七十五歳くらい、あるいはそれより多いくらいであったが、いつも蜜蜂小屋の向こうの真垣のすみの、ほとんどくずれかかった古い木造の庵室に暮らしていた。この庵室は遠い昔(前世紀ではあったが)に、百五歳までも生き延びたヨナという偉大なる精進と沈黙の苦行者のために建てられたもので、この人の事跡については、ここの修道院はもとより近在にまでも、多くのきわめて興味のある物語が今に至るまで伝わっている。フェラポントはついに長いあいだの願いがかなって、七年ほど前にこの百姓小屋にも等しいような、寂しい庵室に住まわしてもらうようになった。もっとも、この庵室は祈祷堂にかなりに似かよっていた。つまり、そこには人々の寄進にかかるたくさんの聖像があって、その前にはやはり寄進にかかる燈明が、永劫に消ゆることなく点されていたからであった。そこでフェラポントはこの燈明の番人としてここへ置かれたかのような格好であった。
世間の人の噂では(この噂は事実であった)、彼の食物は三日にパン二斤だけで、そのほかには何もないのであった。パンはすぐ近くの蜂小屋に住んでいる蜂飼いが、三日に一度ずつ運ぶのであったが、自分のためにこんな労をとってくれる蜂飼いとも、彼はやはりめったにことばをかわさなかった。この四斤のパンと、それに、日曜日ごとに規則正しく、夜の祈祷式のあとで院長から送られる聖餅と、――この二つが一週間の彼の食物の全部であった。コップの水は日に一度とりかえられた。
彼は祈祷式にはまれにしか出なかった。ときおり、膝をついたまま、脇目もふらずに、一日じゅう祈祷をしながら起きようともせぬ彼の姿を、参詣の人々は見受けることがあった。何かの拍子で参詣の人々とことばを交えることがあっても、その話しぶりは簡単で、ぶっきらぼうで、奇妙で、いつも粗暴なくらいであった。もっとも、外から来た人と長いこと話しこむこともきわめて珍しいことであった。そんな場合には、たいてい、相手の者に大きな謎でもかけるようなことばを、何か一つ必ず話のあいだにはさむのであった。そのあとでは、なんと言って頼んでも、けっして説明をしてくれなかった。彼は僧位というものを何も持っていなかった。単に一介の僧侶たるにすぎなかった。これはきわめて無知な人たちのあいだに限っていたが、かなり、奇怪なある噂が伝わっていた、――というのは、フェラポントが天の精霊と交わりを結んで、この精霊だけを話し相手にしているので、そのために、人間に対しては、いつも沈黙を守っているというのであった。
オブドルスクの坊さんは蜜蜂小屋へたどりつくと、蜂飼いに教えられて(これもやはり非常に気むずかしい僧であった)、フェラポントの庵室の立っている一隅をさして進んで行った。『ひょっとしたら、よそから来た人だというので、話をなさるかもしれませんが、またことによったら、何一つ聞き出せないかもしれませんよ』蜂飼いの僧はあらかじめ注意を促した。後になって当人が話したところによると、坊さんは激しい恐れをいだきながら庵室へ近づいたとのことであった。すでに、時刻はかなりに遅くなっていた。フェラポントはこのとき庵室の戸口にある低い小さなベンチに腰をかけていた。その上には、大きな楡の老樹が、かすかにそよいでいた。夕暮れの冷気が通り過ぎた。オブドルスクの僧は苦行者の前に身を投げ出して、祝福を乞うた。
「おまえさんはわたしを自分の前へ、同じようにうつぶせにさせようというのかな?」とフェラポントは言った、「起きなよ!」
坊さんは立ち上がった。
「わたしにも祝福を授け、自分でも祝福を受けてから、そばへ来てすわるがよろしい。いずれからまいったのかな?」
何にもまして、この哀れな僧を驚かせたのは、フェラポントが疑いもなく極度の精進をして、しかもかなり年が寄っていたのにもかかわらず、見かけたところでは、力強い背の高い老人で、腰も曲がらずにしゃんとして、顔も痩せてはいるが、元気らしく、生き生きしていることであった。その体の中に、まだなみなみならぬ力が保たれていることは確かであった。体格などは、まるで力士のようであった。これほどの年になっていながら、彼はまだすっかり胡麻塩にはなりきっていなかった。もとはまっ黒であった髪の毛は、頭にもあごにも房々としていて、大きな眼は灰色に輝いているが、目立って飛び出していた。彼はOの母音に強い力点をおいて物を言っていた。その昔、囚人ラシャといっていた粗末な地の、長い赤茶けた百姓外套を着け、太い繩を帯にしている。首と胸とは、すっかりむき出しになっていたが、幾月も脱いだことがなく、まっ黒になっている厚地の麻で作ったシャツが、外套のかげからのぞいていた。人の話によると、彼は外套の下に、三十斤の錘をつけているとのことであった。形のほとんどくずれかかった古い沓を素足にはいていた。
「オブドルスクの小さな修道院から、聖シリヴェストルのお使いでまいりましたので」そわそわして、好奇の色に満ち、しかも、幾分おびえたような眼つきで、遠来の客は隠者を観察しながら、つつましく答えた。
「ああ、おまえさんのシリヴェストルのところへ行ったことがある。しばらく滞在していたものじゃ。シリヴェストルは丈夫かえの?」
僧は口ごもった。
「おまえさんはわけのわからん人だでのう! ときに、精進はどんな風に守っているかの?」
「わたくしのほうの食事は昔の行者のしきたりで、このようになっております。四旬節について申しますると、月曜、水曜、金曜には、全く食事をとりません。火曜と木曜には、同宿のもの一同に白パンに蜜入りの汁、それに苺か塩漬けの玉菜、それから碾割の燕麦がつくことになっております。土曜日には、白スープと豌豆の素麺、それにどろどろのお粥が出ます。これにはみんなバタがつくのでございます。日曜には、乾魚とお粥がスープにつくことになっております。神聖週間には、月曜から土曜の晩まで、六日間というものはパンと水ばかりで、ただ生の野菜を食べるくらいのものでござりますが、それさえも、制限がありまして、毎日食べるわけにはまいりません。これは第一週について申したとおりでございます。神聖金曜には何一つ食べることができません。それと同じで神聖土曜にも二時過ぎまで断食をいたしまして、二時過ぎにはじめてパンを少々と水を飲み、葡萄酒を一杯だけいただきまする。神聖木曜にはバタのつかない食物とお酒を飲んで、ときによっては、干ものを食べることもござります。と申しますのは、神聖木曜についてのラオジキアの会議集にも、『四旬節の最終の木曜を慎しまざるは、四旬節のすべてをけがすに同じ』と申してあるからでござります。わたくしどものほうでは、こんな風にいたしております。しかし、あなた様と比べましたら、これくらいのことがなんでございましょうの!」と坊さんは急に元気づいて言うのであった、「なぜかと申しますると、あなた様は年じゅう――復活祭にさえもパンと水ばかり召し上がっていらっしゃるからです。なにしろ、わたくしどもの二日分のパンは、あなた様の一週間分にも当たるくらいでございますよ。実に驚き入ったる偉大なご精進でございますよ」
「では、蕈は?」Гの音を喉から押し出すように、ほとんどХのように発音しながら、だしぬけにフェラポントは尋ねた。
「蕈?」と坊さんはびっくりして問い返した。
「さよう、さよう、わしはあいつらのパンなど少しもいりませんから、そんな物から顔をそむけて、森の中へでもはいって、そこで蕈か苺で命をつなぐわ。ところが、ここのやつらは自分のパンを見すてようとはせんのじゃ。つまり、悪魔に結びつけられておるのでな。このごろ、けがらわしいやつらは、そんなに精進することはいらんなどと言いおるが、そういうやつらの考えは、まことに高ぶってけがらわしいものじゃ」
「おお、さようでございますよ」と坊さんは嘆息した。
「あいつらのところで悪魔を見たかの?」とフェラポントが尋ねた。
「あいつらとは誰のことでございます?」坊さんは恐る恐る問い返した。
「わしは去年の神聖金曜に修道院長のところへまいったが、それ以来少しも出かけんのじゃ。そのときに悪魔を見たのじゃ。ある者は胸の所に抱いて衣のかげに隠し、ただちょっと顔だけのぞかしておる。またある者はかくしの中からのぞかせていたが、悪魔め、眼ざといもので、わしをこわがっている。ある者はよごれきった腹の中に巣をくわせており、またある者は首にかじりつかせて、ぶら下げておるが、当人はいっこうそれに気がつかずに連れて歩いておるのじゃ」
「あなた様……お見えになりますかな?」と坊さんは尋ねた。
「見えると言うたでないか。ちゃんと見え透いておるわ。わしが院長のところから出て来ると、一匹の悪魔がわしをよけて、戸のかげへ隠れるのが見えたのじゃ。そいつがなかなか大きなやつで、背の高さ三尺もある。太くて長い茶色の尻尾をしておったが、その先がちょうど、戸のすき間へはいったのじゃ。わしもまんざらばかではないから、いきなり戸をばたんと閉めて、そいつの尻尾をはさんでやった。すると、吠え立てて、もがきだしたから、わしは十字架で三たびも十字を切ってやった。見ると、踏みつぶされた蜘蛛のように息絶えてしもうた。今はきっと隅のほうで腐れかかって、臭いにおいを放っておるはずじゃが、それが皆の眼にはいらんのじゃて。鼻がきかんのじゃ。わしは、もう一年も行かん。おまえさんはよそから来た者じゃによって、打ち明ける次第じゃ」
「なんという恐ろしいことばでございましょう! ところで方丈様」と坊さんはしだいしだいに大胆になってきた。
「あなた様のことがかなりの遠方まで、たいへんな噂が立っておりますのは、本当のことでございましょうか? なんでも、あなた様が、精霊と絶えず交わりをつづけていらっしゃるとか……」
「飛んで来るのじゃ。よく」
「どんなにして飛んでまいるのでございましょう? どんな形をしておりますやら?」
「鳥のようにな」
「鳩の形をした精霊でございますか?」
「精霊が来ることもあるし、神霊が来ることもある。神霊はまた別な鳥の形をして降りて来るのじゃ。ときには燕、ときには金翅雀、ときには山雀の形をして」
「山雀を御覧になって、どうして精霊だということがおわかりになります?」
「物を言うので」
「どんなことを言うのでございましょう。どんなことばで?」
「人間のことばじゃ」
「どのようなことをあなた様に申しますので?」
「今日はこんな知らせがあった、今にばか者がやって来て、つまらんことを聞くじゃろうと。おまえさんはいろんなことを聞きたがるのう」
「まあ、恐ろしいことを、方丈様」と坊さんは首を振った。その小心な眸の中には、疑わしげな色がうかがわれた。
「さて、おまえさんはこの木が見えるかの?」しばらく黙っていたフェラポントはこう聞いた。
「はい、方丈様」
「おまえさんの眼には楡じゃろうが、わしの眼から見ると別の光景じゃ」
「いったいどのような絵で?」坊さんはむなしい期待をいだきながら黙っていた。
「夜はよくあることじゃ。あの二本の枝が見えるかの? あれが夜になると、ちょうどキリスト様が、わしの方へお手を差しのばされて、その手でわしを捜しておいでになるように、まざまざと見えるのじゃ、それでわしは震えるのだ。恐ろしい、おお、恐ろしい!」
「キリスト様であったなら、なにも恐ろしいことはありますまいに?」
「だって、つかんで連れて行かれるので」
「生きたままでございますか?」
「霊魂とイリヤの光栄の中じゃ! 聞いたことがないのか? かかえて連れて行かれるのじゃ」
オブドルスクの僧は、この会話ののち、同宿の者の一人いる指定された庵室へ帰って来た。彼はひどく懐疑の念をさえ寄せていたが、それでもゾシマよりはもちろん、フェラポントのほうに、より多く彼の心は親しみを感じていた。オブドルスクの僧は何にもまして、精進に重きをおく人であったから、フェラポントのような偉大なる苦行者が、『奇跡を見る』のもけっして怪しむに足りないと考えていた。もとより、彼のことばはばかげたもののように見られぬでもなかったが、その中にいかなる意味が含まれているかは知るよしもなかった。それにまた信心気ちがいというものは、まだまだこれどころではない妙なことを言ったり、変なことをしたりするものである。戸のすき間に尻尾をしめつけられた悪魔のことは、ただ単に譬喩としてばかりでなく、直接の意味においても、心から喜んで信じたいような気持がした。おまけに、彼はこの修道院へ来る前から、噂に聞いていただけの長老制度なるものに対して、非常な先入観をいだいていたので、他の多くの者の尻馬に乗って、有害な改革だと決めてしまったのである。この修道院に一日、滞在するうちに、彼は早くも、長老制度にあきたらない軽率な同宿の二、三の人の、不平がましい内緒話を嗅ぎつけた。そのうえ、彼は生まれつきが、何ごとにつけても非常な好奇心をいだいて、すぐにどこへでも首を突っこむ人間なのであった。だからこそ、ゾシマ長老によって実現された新しい『奇跡』についての消息は、彼の心のうちに極度の疑惑を呼び起こしたのであった。
アリョーシャはあとになって、好奇心に燃えるオブドルスクの客僧が、長老のぐるりや、その庵室のほとりにおしよせる僧侶の中にはいって、あちこちにかたまっている群集の中へいちいち首を突きいれ、話という話に耳を傾け、誰にでも何か聞いていたのを思い出した。しかし、彼は今、そんな人にはさほどの注意を払わずに、後になって、いっさいのことを思い起こしたのであった……。また、今はそれほどの騒ぎではなかったのである。ゾシマ長老はまたしても疲れを感じ、再び床に横たわったが、もう目をつむろうとして、急にアリョーシャのことを思い起こしたので、そばへ呼んでくれるように言った。アリョーシャはすぐに駆けつけた。長老のわきにはパイーシイとヨシフ、それに新発意のポルフィーリイがいるばかりであった。長老は疲れ果てた眼を見開いて、じっとアリョーシャを見つめていたが、いきなり問いかけた。
「家の人たちがおまえを待っておるじゃろうな、おまえ?」
アリョーシャはどぎまぎしていた。
「おまえに用のある人がありはせんか? 昨日、誰かに今日行くと約束はしなかったか?」
「いたしました……お父さんと……兄さん二人と……それからほかの人にも……」
「それ。ぜひとも行きなさい。心配しないがよい。わしはな、おまえのそばで、この世における最後のことばを言わずに死ぬようなことはないんじゃから。この最後のことばはおまえに言うのじゃ、ね、アリョーシャ、おまえに言いのこすのじゃ。なぜというて、おまえはわしを愛してくれるで。しかし、今は約束した人たちのところへ行くがいい」
アリョーシャはこの場を離れるのがつらかったが、すぐに、このことばに従った。しかし、師のこの世における最後のことば、しかも自分に対する遺言と思われるものを聞かしてやろうという約束は、アリョーシャの心を動かして、歓喜の情をよびおこした。彼は町の用事を早くかたづけて帰って来ようと、急いでしたくをした。ちょうどそのとき、パイーシイ主教が彼に門出のことばを与えたが、そのことばはきわめて強い、思いもよらない感銘を与えるのであった。それは二人が長老の庵室を出たときのことであった。
「おまえはな、たゆまず思い起こさねばならぬことがある(とパイーシイは何一つ前置きなしに、いきなり言いだした)。つまり、世界の科学は、一つの大きな力に結合して、ことに現代に至って、聖書に約束されておるいっさいの尊いことを解剖したのだ。世間の学者のなした容赦のない解剖分析の結果、むかし神聖なものとされていたものは、影も形も残らんことになってるのだ。しかも、彼らは部分部分のみを解剖して、全体というものをすっかり見落としておる。その盲目さかげんは驚異に価するくらいだ。ところが、その全体は、昔と同じように、しっかりと彼らの眼の前に立っていて、地獄の門もそれを征服することができないのだ。はたしてこれは十九世紀に及ぶ長いあいだ、生きておらなかったものか、また現に今でも個々の心の動きのうちに――民衆の動きの中に生きておらんものだろうか? それどころか、あらゆるものを破壊する無神論者の心の動きの中にさえ、以前と同じように厳然と生きておるのじゃ。つまり、キリスト教を否定して、反旗をひるがえす人でさえもが、その本質においては、キリストの面影を宿しておるによってじゃ、しかも今もなお、そのとおりの人として生活をつづけておるからだ。その証拠には、彼らの知恵も、彼らの情熱も、かつてキリストによって示されしもの以外に、人間とその品位に相当するすぐれたお姿を、創り出すことができなかったのではないか。種々の試みもあったが、それはいずれもかたわのような醜いものばかりだ。アリョーシャ、このことは特によう覚えておくがよろしい。なぜというて、おまえは、臨終の長老のお指図で、世間へ乗り出して行かねばならんからだ。この偉大なる日を思い出すときに、おまえの門出のために衷心から与えたわしのことばも、やはり忘れずにおってくれるじゃろうな。なにせ、おまえは若いから、世の中の誘惑が激しゅうて、耐えてゆくのは力に及ばぬかもしれぬでな。いや、もうよい、行きなさい」
こう言ってパイーシイ主教は彼を祝福した。修道院を出て行くとき、この思いもかけないことばを思いめぐらしているうち、アリョーシャは、急に今まで自分に対して厳重冷酷であったこの主教が、今にしてみれば思いもよらない親友で、また、暖かい気持で自分を愛してくれる新しい指導者だ、ということがやっとわかってきた、――まるでゾシマ長老が死に面して、この人に遺言でもしたかのようであった。
『たぶん、お二人のあいだに、それくらいのことがあったのかもしれない』アリョーシャはふと考えた。たった今、彼の聞かされた思いがけない学者らしい議論は、ほかならぬこの議論は、パイーシイ主教の情熱に富んだ心を証明している。彼はできるだけ急いでアリョーシャの若い知性に、世の誘惑と闘うべき武器を与え、遺言によって自分に託された若い魂に、われながらこれ以上堅固なものを想像しえないくらいに、堅固な牆をめぐらそうとしたのである。
アリョーシャはまず最初に父のところへおもむいた。そばまで来たとき、彼は昨日、父親が、なるべくイワンに見つからないようにそっとはいって来いと、強く言い含めたことを思い出した。
『いったいどういうわけなんだろう?』と今になってアリョーシャは不意に気がついた、『お父さんが僕ひとりに何かこっそり話したいことがあるにしても、なにも僕がこっそりはいる必要はないんじゃないかな? きっと、昨日は興奮して何か別のことを言うつもりだったのに、よう言えなかったんだろう』と彼はひとり決めをした。それにしても、マルファが彼のためにくぐりをあけながら(グリゴリイは病気をして離れに寝ていた)、彼の質問に対して、イワンはもう二時間も前に外出したと答えたとき、彼はひどく喜んだ。
「お父さんは?」
「もうお起きなすって、コーヒーを召し上がっていらっしゃいますよ」とマルファはなんだかそっけない調子でこう答えた。
アリョーシャは中へはいった。老人はスリッパをはき、古ぼけた上着をひっかけ、たったひとりで、食卓に向かい、別にそれほどの注意も払わずに、ただ気をまぎらわすために、何かの勘定書きに眼を通していた。この家の中に、彼はたった一人きりであった(スメルジャコフは昼の物を買いに出かけて行ったのである)。しかし、彼の心にかかっているのは勘定書きではなかった。彼は早起きをして、元気を出してはいたが、それでも疲れた弱々しい様子をしていた。額は昨夜のうちに、打ちみが大きく紫色に腫れあがったので、赤い布を巻きつけてあった。鼻もまた、一晩のうちにひどく腫れあがって、打ちみが斑点のように幾つもできていた。別に眼に立つほどではなかったが、なにかしら特に意地悪そうないらいらした表情を、顔全体に付け加えていた。老人は自分でもそれをよく承知していたので、はいって来るアリョーシャを無愛想に見やるのであった。
「冷やしコーヒーだ」と彼はするどい調子で叫んだ、「別にすすめはすまい。わしはな、アリョーシャ、今日は自分からお精進をして、スープも肉もとらないんだ。だから、誰も呼ばずにおいたのだよ。いったい、何か用でもあって来たのか?」
「お気分はいかがかと思いまして」
「いいよ。それに昨日、わしが自分のほうから、おまえに来いとは言ったけれど、あんなことはみんなでたらめだぞ。そんな心配をしてもらわなくてもよかったのにな。だが、わしもおまえがのこのこやって来るだろうとは思っていたんだ」
彼は意地悪そうな気持を見せながら言いだした。そのあいだに彼は立ち上がって、いかにも気にかかるような風で、鏡をのぞいて自分の鼻を心配そうに眺めるのであった。(おそらく、これでもう今朝から四十ぺんくらいになるかもしれぬ)。それから、また額の赤い布もちょっと体裁よくなおした。
「赤いほうがよろしい。白いのをしていると、病院くさいのでな」と彼は子細ありげに言った、「ところで、おまえのほうはどうだえ? おまえの長老はどんなだ?」
「たいへんお悪いんです、ことによったら、今日は、おかくれになるかもしれません」とアリョーシャは答えた。しかし、父はそれをろくろく聞こうともしなかった。そればかりではなく、自分の発した質問すらもすぐに忘れてしまっていた。
「イワンは出て行ったよ」彼はいきなり言いだした、「あいつは、一生懸命にミーチカの嫁さんを横取りしようとしている。そのためにここに暮らしているんだよ」と彼は恨めしそうに言って、口をゆがめながら、アリョーシャを見つめた。
「いったい、兄さんが自分でそう言ったんですか?」とアリョーシャは聞いた。
「もう、かなり前に言ったことだ。おまえはなんだと思ってたんだ? 三週間も前にそう言ったんだよ。あれはまさか、こっそり、わしを殺そうと思って、ここへ来たんじゃあるまいな? いったいなんのためにやって来たんだろう?」
「お父さん、なんですか! なんだってそんなことをおっしゃるんです?」とアリョーシャはひどく口ごもった。
「あいつは金をくれとは言わん、それは本当だ。しかし、それにしても、わしからは鐚一文取れるわけじゃないんだから。わしはな、アレクセイさん、この世にできるだけ長く暮らすつもりですよ。このことは、おまえたちに心得ておいてもらいたい。だからさ、一カペイカの金でもわしには大切なんだ。わしが長生きをすればするほど、なおさら大切になっていくんでの。」黄色い夏の麻布で作った大きな脂じみた外套のポケットに両手をつき入れて、隅から隅へと部屋を歩き回りながら、彼はことばを続けた、「今のところ、わしもまだようやく五十五だから男の仲間だが、まだこれからさき二十年くらいは男の仲間でいたいものだ。しかし、そうなると年をとって――きたならしくなるから、女子どもが好きこのんでわしのそばへ寄りついてはくれなくなる。さあ、ここで必要になってくるのは金じゃがな。だから、今こうやって、上へ上へと蓄めこんでおるのじゃ、それも自分一人のためなんだぞ、アレクセイさん、このことを心得ておいてもらいましょう。なぜというに、わしは最後まできたない世界に生きておりたいからだ。このことを心得ておいてもらいましょう。きたない世界のほうがいい気持だ。きたない世界のことを誰も悪く言うけれど、誰だって、その中に生きているんだ。ただ、みんなが内緒でこそこそとするのに、わしは公然とするだけの違いなんだ。しかも、この正直ということのために、世間の汚れたやつらが、わしを攻撃するのだ。ところでな、アレクセイさん、おまえの天国へなんか行くのはわしの性に合わんがな。このことは心得ておいてもらいましょう。それに身分のある人間が、よし天国というやつが本当にあるとしても、そんなところへ行くのは身分にかかわることだよ。わしの考えでは、ひとたび寝入ったら、もう眼をさましっこはないと思うんだ。それだけのことなんだ。もしおまえに気があるなら供養してもらおうが、気が向かなんだら、それでいい、これがわしの哲学なんだよ。昨日イワンがここでうまいことを言ったよ。むろん、みんな酔っ払ってはおったがな。イワンは法螺ふきだよ、なにもそんなにたいした学者じゃないがな、……それどころか、特別な教育というほどのものさえないくせに。ただ、黙って人の顔を見ながら、にこにこしているんだ――それがあいつの奥の手なんだ」
アリョーシャは黙って聞いていた。
「なんだって、あいつはわしと話をせんのだろう? なにかの拍子で物を言うことがあると、なんだか妙にひねくれたことばかり言いおる。本当にイワンは悪党だ! なあに、グルーシェンカとは気さえ向いたら、すぐにでも結婚してみせる。金を持った人間は、ただ気さえ向いたら、なんでもできるからな、アレクセイさん。イワンはこれがこわいもんだから、わしが結婚せんように見張りして、ミーチカをつついて、グルーシェンカと結婚させようとしておるのだ。こうして、グルーシェンカがわしのところへ来る邪魔をしようと思っとるんだ。(へん、もしもわしがグルーシェンカと結婚せなんだら、あいつに金でも残すと思っとるのかい!)また一面から見ると、ミーチカがグルーシェンカと結婚したら、イワンは兄貴の裕福な花嫁を自分のものにしようという肚なんだ。これがあいつの胸算用なんだ! 本当にイワンは悪党だ!」
「お父さんはほんとにいらいらしていらっしゃいますねえ。それは昨日のことのためですよ、行って横におなりになるほうがいいでしょう」とアリョーシャが言った。
「それ見ろ、おまえがそう言っても」はじめて頭に浮かんだことか何かのように、老人はいきなり言いだした、「わしはもしもイワンがそれと同じことを言ったら、わしはきっと腹を立てたに相違ない。おまえと話しているときだけ、わしもいい気持になるのじゃが、そのほかのときは、わしは全く意地の悪い人間だからな」
「意地の悪い人間じゃなくて、ひねくれてしまった人なんですよ」とアリョーシャはほほえみを浮かべた。
「ときにな、わしは今日、あのミーチカの強盗を牢の中へ打ちこんでやろうかと思ったが、今またどうしたものかと迷っておるのだ。もちろん、流行を追う今の時世では、親父やおふくろを旧式な人間に見られるのがあたりまえのようになっているが、しかし、いくら今の時世だといったところで、年寄りの親父の髪をつかんで、おまけに靴の踵で顔を蹴飛ばすなんかということは、法律上ゆるされておらん。しかも場所は当の親の家じゃないか、それに、もう一度やって来て、今度こそ本当に殺してやると、証人のおる前で広言するとは何事だ。わしの了簡ひとつで、さっそくあいつを取っちめて、昨日のことを理由にして、今すぐにでも牢に打ちこんでやれるんだが」
「では、告訴する気はないんでしょう、ね?」
「イワンがわしをとめたのでな。なに、イワンなど問題にはしておらんのだが、わしも自分で一つおもしろいことを考えたもんだからな……」
彼はアリョーシャのほうへかがみこんでいかにも信用しきったような調子でささやいた。
「もし、わしがあの悪党を牢の中へ入れたことを聞いたら、あの女はさっそくあいつのほうへ走って行くに相違ない。ところで、もしも、あいつがこの弱い老人を半殺しの目に合わせたということを、今日にもあの女が聞きつけたら、きっとあいつを捨てて、わしのところへ見舞いに来るだろう、……人間というやつはこんな性質を授かっておるのだよ、――なんでも反対反対と出かけたいんだな。わしはあの女の性質をすっかり見通してしまったんだ! ところで、コニャクでも飲まんか? 冷やしコーヒーに杯の四つ一くらい落としたら、なかなか味のいいもんだで」
「いいえ、結構です、ありがとう。それよりこのパンをもらって行きましょう、くださるでしょう」と言って、アリョーシャは、三カペイカほどのフランスパンを取って、法衣のポケットに入れた、「それにお父さんもコニャクはあがらないほうがいいでしょう」と彼は父の顔をのぞきこみながら、おずおずと言った。
「おまえの言うとおりだ。気をいらいらさせるばかりで、静かな気持にしてくれない。しかし、ほんの一杯きりだからな、……わしはちょっと戸棚から出してくる……」
彼は鍵を取り出して、戸棚をあけ、杯へ一つついで飲み干すと、また戸棚に鍵をかけて、それを元のポケットへしまいこんだ。
「もうたくさんだ、一杯ぐらいでは、くたばりはせん」
「そら、お父さんはずっと人が好くなりましたよ」とアリョーシャはほほえんだ。
「ふむ! わしはコニャクを飲まんでもおまえが好きだよ。しかし、相手が悪党だったら、わしも悪党になるんだ。イワンはチェルマーシニャへ行かんが、――いったい、どういうわけだろう? もしグルーシェンカが来たとき、わしがあれに大金をやりゃせんかと、探ろうとしているんだ。どいつもこいつも悪党だ! それにわしはイワンというやつがさっぱりわからん。まるでわからん。どうしてあんなやつが生まれたのかしら? あいつは、まるで精神の違うやつだ。まるでわしがあいつに遺産でもやるかなんぞのように思っていやがる。だが、わしはなにも遺言なんか残して死にはせん。このことはおまえたちもよくわかっているだろう。ところで、ミーチカのやつなんぞは、油虫のように踏みつぶしてくれるわ。わしはゆうべ、スリッパで油虫を何匹も踏みつぶしてやった。足を載せたらぐしゃりといったが、おまえのミーチャも、やはりぐしゃりというんだ。おまえのミーチャといったのは、おまえがあいつを愛しているからだ。もっとも、おまえがあれを愛しておるからって、びくびくするわしじゃないんだ。もしもイワンがあいつを愛しているとなると、わしはわが身のために心配したかもしれん。しかし、イワンは誰も愛しはせん。あいつは人間の仲間じゃないんだ。イワンのようなやつは、人間じゃない、風に舞い上がった埃だ。風が吹き過ぎると、埃も飛んで行ってしまう、……昨日、おまえに今日やって来いと言いつけたとき、ひょいとばかな考えが浮かんできたよ。実は、おまえの手を通して、ミーチカの考えを探ろうと思ったのさ。もしも今わしが千か二千かの金をあいつに分けてやったら、あの恥知らずの乞食みたいなやつだから、すっかりここから姿を隠してしまうだろうよ、五年くらいのあいだ……いや、あわよくば三十五年だ。そして、グルーシェンカは連れて行かないのだよ。いや、いっそあれのことはきれいにあきらめてもらいたいのだ、承知するだろうか、え?」
「僕……僕、兄さんに聞いてみましょう……」とアリョーシャはつぶやいた、「もし三千ルーブルすっかり耳をそろえておやりになったら、あるいは兄さんも……」
「ばかを言え! 今となっては聞くに及ばん。なにも聞く必要はない! わしはもう考えなおしたんだ。ちょっと昨日そんなばかな考えが頭に浮かんだまでのことだ。何一つくれてやるものか、鐚一文だってやりはせん。わしは自分でも金がいるんだから」と老人は手を振った、「それよりも、あんなやつは油虫のように踏みつぶしてやる。あいつに何も言っちゃならんぞ、でないと、また当てにするだろうから。それにおまえもわしのところにおったって、なにもすることはないんだから、もう帰るがいい。ところで、あの許嫁のカテリーナさん、あの女をミーチャはいつも一生懸命に、わしからかくすようにしているが、いったい、あの子はミーチャと結婚するだろうか? おまえ昨日あの女のところへ行ったろう……」
「あの人はどんなことがあっても兄さんを見すてないでしょうよ」
「そのとおりだ、ああいう優しいお嬢さんがたは、あいつのような極道者や悪党を好くもんだ! わしに言わせれば、あんな顔色の悪いお嬢さんというものは、やくざな代物だ、普通じゃないんだからな……ああ! もしも、わしにあいつの若さと、あの年ごろのわしの顔があったら(なぜといって、二十八時代のわしは、あいつより男ぶりがよかったからな)、それこそ、わしもあいつと同じくらいには、女を泣かせてみせるんだが、畜生め! とにかく、グルーシェンカは手に入れさせはせんぞ、手に入れさせるものか……あんなやつ、へしつぶしてくれるわだ!」
最後のことばとともに、彼はまたすさまじいけんまくになってきた。
「おまえももう帰れよ、ここにおったところで、今はなんの用事もありはせん」と彼は鋭い調子で言いきった。
アリョーシャは暇を告げるために彼に近づいて、父の肩に接吻した。
「なんだってそんなことをするんだ?」と老人はいささか驚いた様子で、「また会えるじゃないか、それとももう会えないとでも思うのかえ?」
「けっしてそんなことはありません。僕はなんの気なしに……」
「うん、わしもやはりなんの気なしに……わしもただその……」と老人はわが子を見つめた、「おい、ちょっと」と、彼は後ろから声をかけた、「いつかまた近いうちに来るといい、魚のスープを食べにな。魚汁をこさえるから。今日のようなやつじゃなくって、特別のをな。きっと来るんだぞ! 明日は、きっと来い、よいか、来るんだぞ、明日は!」
アリョーシャが戸の向こうへ出て行くが早いか、彼はまた戸棚に近づいて、さらに杯に半分ほどつぐのであった。
「もうこれでおしまいだ!」とつぶやいて、喉をくっと鳴らしながら、またもや戸棚に鍵をおろすと、またその鍵をポケットにしまいこんで、それから寝室へおもむいて、ぐったりと床の上に横になると、そのまますぐに眠りに落ちてしまった。
『やれやれ、お父さんがグルーシェンカのことを聞かなくてよかったわい』アリョーシャはまたアリョーシャで、父のところを出て、ホフラーコワ夫人の家に向かいながら、心の中で考えるのであった、『そうでなかったら、おそらく昨日グルーシャと会ったことを、話さなければならなかったろう』アリョーシャは二人の敵同士が昨晩のうちに元気を回復して、夜が明けるとともに再び石のようにいこじになったということを痛感するのであった、『お父さんはいらいらして、意地が悪くなっている。きっと何か考えついて、そのことを思いつめているのに相違ない。ところが、兄さんのほうはどうだろう? 兄さんもやはり、昨夜のうちに気分を持ちなおして、同じようにいらいらした意地の悪い気持になっているに相違ない。それに、もちろん、何かたくらんでるに相違ない。……ああ、どうしても今日の間に合うように、兄さんを捜し出す必要がある……』
しかし、アリョーシャは長くこんなことを考えているわけに行かなかった。途中で思いもよらない出来事が、彼の身の上に起こったのである。それは見たところはたいしたことではなかったが、彼に強烈な印象を与えた。小さな溝を隔てて(この町は至るところ溝川が縦横に貫通しているので)、大通りと並行しているミハイロフ通りへ出ようと思って、広場を通り抜けて横町へ曲がったとき、小さな橋の手前で一固まりになっている、小学生が眼にはいったのである。みんな年のいかない子供ばかりで、九つから十二くらいまで、それより上の者はなかった。みんな学校の帰りで、背に小さな背嚢を負った者や、革の鞄を肩にかけている者、短い上着を着、小さい外套を着ている者などがおり、またなかには、よく親に甘やかされた金持の子供がことに好んで誇りとする、胴に襞のはいった長靴をはいている者までが交っていた。この一群は元気のいい調子でがやがや話し合っていた。何かの相談らしい。アリョーシャはモスクワ時代このかた、いかなるときでも、子供のそばを平気で通り過ぎることができなかった。もっとも、彼は三つくらいの子供が何よりも好きであったが、十か十一くらいの小学生も好きであった。
そこで、今もいろいろと心配ごとがあったが、急に子供たちの方へ曲がって行って、話の仲間にはいりたくなった。そばへ寄って、彼らのばら色をした元気のいい顔を眺めているうちに、ふと気がついてみると、一同の子供はてんでに石を一つずつ持っているのである。なかには二つ持っているものもあった。溝川の向こうには、こっちの群れからおよそ三十歩ばかり隔てた垣根のわきに、もう一人の子供が立っていた。やはり、鞄を肩にかけた小学生で、背の格好から見ると、まだ十になるかならずであった。青白い弱々しげな顔をして、黒い眼を光らせている。彼は注意深く試験でもするように、六人の子供の群れを眺めていた。彼らは明らかに友だち同士で、今しがた、いっしょに学校から出て来たばかりであるが、平生からあまり仲がよくないのだということは、ちょっと見ただけでも察しがついた。アリョーシャは白っぽい髪の渦を巻いた血色のいい一人の子供に近づいて、黒の短い上着を着た姿を見回しながら話しかけた。
「僕が君たちと同じような鞄をかけてた時分、みんな左の肩にかけて歩いたものだよ。それは右の手ですぐに本が出せるからさ。ところが君は右の肩にかけてるが、それでは出すのにめんどうじゃないの?」
アリョーシャは別に前々から用意した技巧を弄するまでもなく、いきなりこうした実際的な注意をもって会話を始めた。全く大人がいきなり子供の――特に大ぜいの子供の信用を得るためには――これよりほかに話の始めようがないのである。まじめで実際的な話を始めること、そしてまるっきり対等の態度をとること、これが何より肝心なのである。アリョーシャにはこれが本能的にわかっていた。
「だって、こいつは左ききなんだよ」活発で丈夫らしい十一ばかりの別な男の子が、すぐにこう答えた。そのほかの五人の子供は、しげしげとアリョーシャを見つめた。
「こいつは石を投げるんでも左なんだよ」ともう一人の子が口を入れた。
ちょうどこのとき、一つの石が大ぜいのまん中へ飛んで来て、ちょっと左ききの子供にさわったが、そのまま飛び過ぎてしまった。しかし、その投げ方はなかなかじょうずで力がはいっていた。それは溝の向こうの子が投げたのである。
「スムーロフ、やっつけろ、くらわしてやれ!」と一同が叫んだ。
しかし、左ききのスムーロフは言われるまでもなく、すぐにまた復讐をした。彼は溝の向こうにいる子供を目がけて石を放ったが、うまく当たらずに、石は地面を打っただけであった。溝の向こうの子供はすぐにまた一つ、こっちの群れを目がけて投げつけたが、今度はうまくアリョーシャに当たって、かなり強く彼の肩を打った。溝の向こうにいる子供のかくしは、用意の石ころでいっぱいであった。それは、三十歩あいだを隔てていても、外套のかくしがふくらんでいるので察しられた。
「あれは君を、君をわざと狙ったんだよ。だって君はカラマゾフじゃないの、カラマゾフじゃないの?」と子供らは笑いながら叫んだ、「さあみんな一時にやるんだぞ、やれ!」すると、六つの石が同時に群れの中から飛んで出た。そのなかの一つが向こうの子供の頭に当った。彼はばったり倒れたが、すぐにまた跳ね起きて、死にものぐるいに応戦を始めた。両方から絶え間のない戦いが続けられた。見ると、こっちの子供らのかくしにも、用意の石がいっぱいにつめてあった。
「みんな何をするんだ! 恥ずかしくないのかえ! 六人で一人の者にかかっていったら、あの子を殺してしまうじゃないの!」アリョーシャは叫んだ。
彼はおどり出て、身をもって溝川の向こうの少年をかばおうとして、飛んで来る石に向かって突っ立った。三人の子供はちょっとのあいだ、投げるのを控えた。
「だって、あいつから先に始めたんだもの!」赤いシャツを着た少年が、腹を立てて、子供らしい声でどなった、「あいつは卑怯なやつだ。さっきクラソトキンをナイフで切りつけて、血を出したんですよ。クラソトキンはいやだと言って、先生に言いつけなかったけれど、あんなやつ、ひどい目に合わしてやればいいんです……」
「でも、どういうわけなの? どうせ君たちのほうから先にからかったんだろう?」
「ああ、また君の背中へ当てやがった。あいつは君を知ってるんだよ」と、子供は叫んだ、「今あいつは僕たちでなくって、君を狙って投げてるんだよ。さあ、またみんなでやっつけろ、スムーロフ、やりそこなったらだめだぞ!」
こうしてまた石合戦が始まったが、今度は前よりいっそう猛悪になってきた。やがて一つの石が溝の向こうにいる子供の胸に当たった。彼はきゃっと悲鳴をあげると、泣きながら坂をのぼって、ミハイロフ通りをさして行った。すると、大ぜいの者は「やあい、こわくなって逃げ出しやがった。やあい、ばか野郎!」と喊声をあげた。
「あいつがどんなに卑怯なやつか、あんたはまだ知らないんですね、あいつは殺したって足りないやつです」と短い上着を着た少年が眼を光らせながら言った。仲間でいちばん年上の者らしかった。
「あれがいったいどんな子だって?」とアリョーシャは聞いた、「告げ口やだとでもいうの?」
子供たちはばかにしたように、互いに顔を見合わせていた。
「あなたもやっぱりあちらへ行くんでしょう、ミハイロフ通りへ?」と前の少年がことばをついだ、「そしたら、すぐあいつを追いかけて聞いて御覧なさい、……ほら、ちょっと、あいつまたじっと立って待ってますよ。あんたの方をじろじろ見てる」
「あんたの方を見てる、あんたの方を見てる!」と子供たちはすぐに引き取った。
「あのね、ひとつあいつにこう聞いて御覧、おまえはぼろぼろになった風呂場の糸瓜が好きかって、ね、そう言って聞くんですよ」
すると一時にどっと笑った。アリョーシャは子供たちを、子供たちはアリョーシャをじっと見つめるのであった。
「いやだって言ったら、君はぶんなぐられるよ」とスムーロフが大きな声で警戒した。
「いや、僕はそんな糸瓜のことなんぞ聞きゃしないよ、だって、君たちはこの糸瓜でもって、あの子をからかってるのに相違ないんだもの。それよりは、どうして君たちがあの子をそんなに憎むのか、あの子に直接聞いてみるよ……」
「聞いて御覧、開いて御覧よ!」と子供たちはまた笑いだした。
アリョーシャは橋を渡って、垣根に沿うた坂道をのぼって、のけ者にされている子供の方へまっすぐに進んで行った。
「気をつけなよ」と子供たちは後ろから注意した。「あいつは君だって恐れやしないから、いきなりナイフを出して、不意打ちに君を切るかもしれんよ、あのクラソトキンのように……」
少年はじっとその場を動かないで、彼を待ち受けていた。ぴったりとそばへ寄ったとき、アリョーシャは自分の前に立っている少年が、まだ九つを越さない、背の低い弱々しい、痩せて青白い、細長い顔をした子供だということを見てとった。大きな黒い眼は恨めしそうに彼を見すえていた。子供は体に合わない無格好な、ひどく時代のついた外套を着ていた。あらわな手を両袖から突き出して、ズボンの左の膝には大きなつぎが当たっていた。右のほうの靴は、親指にあたる爪先に大きな穴があいて、その上からインキを塗ったあとが見える。ふくれあがった両方のかくしには石ころがいっぱいにつまっていた。アリョーシャは彼から二歩ばかり前に立って、いぶかしげにその顔を見守った。少年はアリョーシャの眼つきから推して、彼に自分をなぐる気がないことを知ったので、自分のほうでも力を抜いて先に口をきった。
「僕は一人きりだけど、相手は六人もいるんだ……僕は一人であいつらをみんな負かしてやる」
彼はいきなり眼を光らせながら言いだした。
「だけど、石が一つひどく君に当たったじゃない?」とアリョーシャが言った。
「僕だってスムーロフの頭へ当ててやったんだ!」と少年は叫んだ。
「僕、あっちで聞いて来たんだが、君は僕を知ってて、わざと僕を狙って投げたんだってね?」アリョーシャはこう聞いた。
子供は沈んだ眼つきをして彼をながめた。
「僕、君を知らないけれど、君は本当に僕を知ってるの?」とアリョーシャは質問をすすめた。
「うるさいよ!」だしぬけに子供は癇癪声を張り上げて叫んだ。しかも、今もなおなにかしら待ち受けているかのように、その場を動こうともせずに、またもや恨めしげに眼を光らせた。
「じゃ、僕行こう」とアリョーシャは言った、「ただ、僕は君を知らないんだから、君をからかいもしないよ。あっちにいる子供たちは、しきりに君をからかってるって言ってたけれど、僕は君をからかう気なんか少しもないんだからね。じゃ、さよなら!」
「やあい、坊主のくせに絹の股引をはいてる!」少年は相も変わらず憎々しげな、いどむような眼つきで、アリョーシャを見送りながら叫んだが、今度こそ必ずアリョーシャが飛びかかってくるに相違ないと思ったらしく、ついでにちょっと応戦の身構えをした。しかし、アリョーシャはふり返って彼の方を見ただけで、そのまま向こうへ行きかかった。が、三歩とも踏み出さないうちに、少年の役げた石が彼の背中を強く打った。しかも、それは少年のポケットにある石の中で、最も大きなものであった。
「君はうしろからそんなことをするの? あっちにいた子供たちが、君はいつも不意打ちばかりすると言ったのは本当なんだね」とアリョーシャはふり返って、言った。が、少年は死にものぐるいになって、またしても石を投げつけた。しかも、今度は顔のまん中を狙ったのである。ところが、アリョーシャがうまく身をかわしたので、石は彼の肘に当たった。
「よく君は恥ずかしくないねえ! 君に僕が何をしたというんだろう?」と彼は叫んだ。
少年は今度こそもうアリョーシャが、きっと自分に飛びかかってくるに相違ないと思って、黙々と、いどむような風で、そればかりを待ち構えていた。が、彼が今度もかかってこないのを見ると、まるで小さな野獣のように、すっかり夢中になってしまって、いきなりおどり上がって、自分のほうからアリョーシャに飛びかかった。こちらが身をかわす暇もないうちに、両手で彼の左手を握りしめて、首をかがめたと思うと、いきなりぎゅっと中指にかみついて、しっかり食いついたまま、十秒間ほど放そうともしなかった。アリョーシャは精いっぱい自分の指をもぎとろうとしながら、痛みに耐えかねて叫び声をあげた。少年はついに、指を放して後ろへ飛びのくと、以前と同じ隔たりをおいて突っ立った。指は爪のすぐそばを深さ骨に達するほど歯を立てられて、血がたらたらと流れてきた。アリョーシャはハンカチを取り出して、傷のところをしっかりと巻きつけた。そのあいだ、ほとんどまる一分間ほどかかったが、少年はじっと立ったまま待ち受けていた。ついにアリョーシャはその方へおだやかな視線を向けた。
「さあ、これでいい」と彼は言った、「ね、御覧、ずいぶんひどくかんだじゃないか。でも、これで気がすんだろう、ね? さあ、今度こそ教えてもらおう、僕がいったい、何をしたというの?」
少年はきっとして彼の顔を見つめた。
「僕はまるで君を知らないし、会ったのも今がはじめてなのに」アリョーシャはやはり落ちついた調子でこう言った、「しかし、僕が来もしないってはずはないだろう。君がなんのわけもなしにあんなに僕をいじめるって法はないだろう。僕がいったい、何をしたというの、君に対して、どんな悪いことをしたというの?」
返事の代わりに、少年は不意に大きな声で泣きだして、いきなりアリョーシャのそばを駆け出した。アリョーシャはそのあとを追って、静かにミハイロフ通りの方へ歩いて行った。そしてやはり歩調をゆるめずに、後ろをふり向きもしないで、遠く走って行く少年を、長いあいだ見送っていた。少年はやはり声をあげて、泣き泣き走っているらしかった。彼はおりを見てこの少年を捜し出し、不思議な謎を解かなければならないという気になった。それにしても、今はそんな暇はないのである。
ほどなく彼はホフラーコワ夫人の家に近づいた。それは夫人の持ち家で、この町でも最も美しい立派な石造の二階建てであった。ホフラーコワ夫人はたいていは、自分の領地のある他の県と、自宅のあるモスクワに暮らしていたが、この町にも先祖から伝わった家を持っており、それにこの郡にある領地が、夫人の三つの領地の中では大きかった。しかもなお夫人がこの郡へ来ることは、今もかなりにまれであった。彼女はアリョーシャを出迎えて控え室まで駆け出した。
「あなた、あなた、あなたは新しい奇跡のことを書いたわたしの手紙を御覧になりまして?」
と夫人は早口に、いらいらしているように言いだした。
「ええ拝見しました」
「みんなにひろめてくださいましたか、みんなに見せてくださいましたか、あのおかたは母親に息子を取り戻しておやりなすったのです!」
「あのおかたは今日お亡くなりなさいます」
「そうですってね、聞きましたわ、知ってますわ。ああ、わたしはあなたと話したくてたまりません! あなたでなければ誰かほかの人と、このことを話したくてたまりません! いいえ、やはりあなたと、あなたに限りますわ。ですけれど、わたし、長老様にどうしてもお眼にかかれないのが、残念でたまりません! 町じゅうのものが大さわぎをして、誰も彼も待ち受けているのです。けれど、今……あなた、カテリーナさんが今、ここへ来ていらっしゃるのを御存じ?」
「えっ、それは好都合でした!」とアリョーシャは叫んだ、「じゃ、僕はお宅であの人に会わしていただきましょう。あの人が今日ぜひたずねてくれるようにと、昨日、僕にくれぐれもおっしゃったのです」
「わたし、すっかり存じてますわ、すっかり知ってますの。わたしは昨日あの人のところであったことを詳しく聞きました、……そして、あの……売女の恐ろしい仕打ちもすっかり…… C'est tragique(ほんとに悲慘ですね)わたしがあの人の立場にいたら、――わたしがあの人の立場だったら何をしでかしたかわかりませんよ! それに、あなたの御兄弟のドミトリイさんはなんというおかたでしょう、――まあ! アレクセイさん、わたしすっかりまごついてしまいましたわ。どうしたのでしょう! 今あちらへあなたの兄さんが、といっても、あの昨日の恐ろしい兄さんじゃありませんよ、も一人のほうのイワンさんが、あの人といっしょにあちらにいらっしゃるんですよ。そのお二人の話が実にたいへんなんですよ。あなた、本気になさらないでしょうけれど、今お二人のあいだにどんなことが始まってるでしょう、まあ、どんなに恐ろしいことでしょう。あれはあなた破裂ですよ。まさかと思うような、恐ろしいおとぎばなしですよ。お二人ともなんのためだかわからないことで、命まですてようとしてらっしゃるのです。しかも自分でそれを承知しながら、かえってそれを楽しんでいらっしゃるじゃありませんか。わたし、あなたを待ちかねていましたの! 待ちかねていましたの! 第一わたし、あんなことを見ているわけに行きません。まあ、このことはあとですぐに詳しく、お話ししますが、今はちょっと別なことを申し上げなければなりません。しかも、いちばん肝心なことですの。まあ、わたしともあろう者が、これがいちばん肝心だということさえ忘れてるじゃありませんか。ねえ、いったいどういうわけで、リーズはヒステリイばかり起こすんでしょう! あなたがおいでになったことを聞くが早いか、もうさっそくヒステリイを始めるんですからね」
「母さん、今ヒステリイを起こしてるのはお母さんで、あたしじゃなくってよ」不意に戸のすき間から、次の部屋にいるリーズのかん高い声が聞こえてきた。そのすき間はかなり小さかったが、まるで罅のはいったかのようであった。アリョーシャはすぐにこのすき間に気がついた。おそらくリーズは例の肘椅子から身を乗り出しながら、このすき間から自分をのぞいているのに違いないとは思ったものの、そこまでは見分けがつかなかった。
「ちっとも不思議はないよ、リーズ、おまえの気まぐれのために、わたしまでヒステリイを起こしたからといって、ちっとも不思議はありませんよ。もっとも、あの子はたいへんに体が悪いんですよ、アレクセイさん、昨晩など、夜通し体が悪くって、熱に浮かされながらうなっていましたの! 早く夜が明けて、ヘルツェンシュトゥベが来てくれればいいがと、どんなに待ち遠しかったかしれませんわ。ところがあのお医者様は、どうも手当てがしにくい少し経過を見なくちゃならんとおっしゃるんですの。いつ来てみても、なにもわかりませんの一点張りなんですからね。あなたが家のそばまでいらっしゃると、アレクセイさん、この子はすぐに大きな声を立てて、そのまま発作を起こしましたの。そしてこの部屋へ椅子を引っぱって来てくれと申しましてね……」
「母さん、あたし、アレクセイさんのいらしったことを、ちっとも知らなかったのよ。あたしがこの部屋へ来たいって言ったのは、そんなことのためじゃないわよ」
「嘘を言ってますね、リーズ、ユーリヤ(下女)がはいって来て、このかたのいらっしゃったことを知らせたじゃないの。あれは、おまえに番兵を言いつかってるんだからね」
「まあ、母さんてば、なんてそんな間の抜けたことをおっしゃるんでしょう。もし名誉回復のために、さっそく何かたいへん気のきいたことが言いたかったらね、母さん、今はいってらしたアレクセイ・カラマゾフさんにそう言っておあげなさいな――『昨日のことがあったあとで、あんなにさんざんひやかされたのもおかまいなしに、今日ずうずうしく家へ来る気におなんなすったということ一つで、あなたは自分の間抜けを証明していらっしゃいますね』って……」
「リーズ、あんまり言いすぎますよ。本当に、前から言っておきますが、しまいには容赦してはおきませんよ。いったい、誰がこのかたをひやかしてます? それどころか、わたしはこのかたの来てくだすったのが、たいへん嬉しいんですよ。このかたはね、わたしにはなくてはならないかたなんですよ、ああ、アレクセイさん、わたしは本当に不仕合わせですわ!」
「いったい、母さん、どうなすったの?」
「まあ、リーズ、おまえの気まぐれと、うわついた気持と、おまえの病気と、あの恐ろしい、夜通しの熱と、あの恐ろしいいつまでたっても際限のないヘルツェンシュトゥベと……まあ、何よりもいやなのは、いつまでも、いつまでも果てしのないことです! そのうえに、まだいろんなことがあるじゃないの?……それからまた、あの奇跡までがね! アレクセイさん。わたしはあの奇跡のためにどんなに驚かされ、どんなショックを受けたかわかりません! おまけに、あそこの客間では、とても見ていられないような悲劇が起こってるでしょう。いえ、たまりませんわ、わたし、前からあなたに言っておきます、とても見ていられないんですよ。でも、もしかしたら、悲劇でなくって喜劇かもしれませんわ。ところで、あのゾシマ長老は明日まで大丈夫でしょうか、え、生き延びられるでしょうか? ああ、本当にわたしはどうしたんでしょう! しょっちゅう、こうして眼をふさぐたびに、何もかもみんなつまらない気がするじゃありませんか」
「僕、折り入ってお願いがあるんですが」といきなりアリョーシャが話をさえぎった、「何か指を巻くような、きれいな小ぎれをくださいませんか。ひどく怪我をしまして、それがしくしく痛んでたまらないものですから」
アリョーシャは子供にかまれた指を解いて見せた。ハンカチは血に染まっていた。ホフラーコワ夫人は悲鳴をあげて、眼を細めた。
「あらまあ、なんという傷でしょう、本当に恐ろしい!」
しかし、リーズは戸のすき間からアリョーシャの指を見るやいなや、いきなり力いっぱい戸をあけ放してしまった。
「はいってらっしゃい、あたしの方へはいってらっしゃい」と彼女は命令するような力のこもった声で叫んだ、「もう冗談どころじゃないんだよ! まあ、なんだってこんな時に、黙ってぽかんと立ってらっしゃるの? 血が出てだめになってしまうじゃないの! あなた、どこでこんな怪我をなすったの! まあ、何より先に傷を洗うのに水がいるわ! 水がいるわ! だけど、それよりは、冷たい水の中に浸して、そのままじっとしてるほうがいいわ、じっとそのまま、……そうすると、痛みが止まってよ。早く、早く水を、母さん、うがい茶碗へ……ねえ、早くさ」と彼女は神経質に叫んだ。彼女はすっかりびっくりしてしまった。アリョーシャの傷が恐ろしい印象を与えたのである。
「ヘルツェンシュトゥベを呼んで来ましょうか?」と夫人は叫んだ。
「お母さんは、あたしを殺してしまうつもりなの。あなたのヘルツェンシュトゥベなんか来たって、『どうしてもわかりません』と言うに決まってるわ。水を、水を! 母さん、後生だから、御自分で行って、ユーリヤをせき立ててちょうだい。あの女は鈍くて、用を言いつけても間に合ったことなんかないんですもの? ねえ早くってばさ、母さん、でなければ、あたし死んじまってよ!……」
「こんなことなんでもありませんよ!」アリョーシャは母と子の驚き方にびっくりしてこう叫んだ。ユーリヤは水を持って駆けこんで来た。アリョーシャはその中へ指を浸した。
「お母さん、後生だからガーゼを持って来てくださいな、ガーゼを! それからあの切り傷につける、気持の悪い濁った薬があったでしょう。なんといいましたっけ! 家にあるわ、あるわよ、あるの、あるのよ……母さん、御存じでしょう、あの薬のびんがどこにあるか。ほら、お母さんの寝間の右側にある戸棚よ、あそこにびんとガーゼがあるのよ……」
「すぐ持って来るから、そんなに騒がないでおくれ、そんなに心配することはありませんよ。御覧なさい、アレクセイさんは御自分の不幸を、立派にこらえてらっしゃるじゃありませんか。ですけれど、どこであなたはそんな恐ろしい怪我をなすったんですの?」
ホフラーコワ夫人は出て行った。リーズはただ、そればかりを待ちかまえていた。
「まず第一に」とリーズは早口に言いだした、「どこであなた、そんなお怪我をなすったのか、それをまっ先に教えてちょうだい。そのあとでわたしまるで違ったことをお話ししますから。さあ!」
母夫人の帰って来るまでの時間が、彼女にとってどんなに貴いかをアリョーシャは本能的に悟ったので、例の小学生との謎のような遭遇を大急ぎで、簡単に、しかも、正確に、はっきり物語った。聞き終わったとき、リーズは両手を打った。
「まあ、そんな着物を着たままで、ちっぽけな子供たちに掛かり合うなんて!」と彼女はまるで自分がアリョーシャに対して、何かの権利でもあるかのように、腹立たしげに叫んだ、「そんなことをなさるところを見ると、あなたもやはり坊やなのねえ、すっかり坊やなんだわ! だけど、その生意気な小僧のことはぜひとも探り出して、わたしにすっかり話して聞かしてちょうだい、だって、それにはきっと何かいわくがあるに相違ないんですもの。さあ、今度は第二の話ですが、その前に聞いておかなくてはならないことがありますわ。アレクセイさん、あなたはその傷が痛んでも、思いきってつまらないお話しをすることができますか? つまらないことといっても、まじめに話さなくちゃだめなの」
「できますとも、今はそうたいして痛くありませんから」
「それはあなたが指を水の中へつけてるからよ。もう水を入れ替えなくちゃなりませんわ。でないと、すぐに暖かくなってしまいますものね。ユーリヤ、大急ぎで氷のかけらを穴蔵から出して、別のうがい茶碗に水を入れておいで、さあ、あれも行ってしまったから、わたし用事にとりかかってよ。アレクセイさん、今すぐあの手紙を、あたしが昨日あなたに上げた手紙を返してちょうだい。今すぐよ、だってお母さんが今にも帰って来るかもしれませんから。あたしはもう……」
「僕は今あの手紙を持っていないんです」
「嘘おっしゃいよ、持ってるくせに。あたし、そうおっしゃるだろうとは思ってたの。あの手紙はこのポケットにあるわよ。あたし、どうしてあんなばかなことをしたろうと思って、ゆうべ夜っぴて後悔したのよ。さ、すぐに返してちょうだい、返してちょうだい!」
「僕あっちへ置いて来たんです」
「でも、あなたはあんなばかなことを書いた手紙を読んで、あたしをほんの小娘……ちっぽけな、ちっぽけな小娘と思わないではいられないでしょう! あたし、あんなばかなことをしたのは、あなたに済まないと思いますけれど、手紙だけはぜひ持って来てちょうだい。もし本当に今持ってらっしゃらないとすれば、今日にでも来てちょうだい、きっとよ、きっとよ!」
「今日というわけにはどうしてもいきません。なにしろ、寺へ帰りますと、もう二日三日、ことによったら四日ばかり、こちらへはまいりませんからね、だって、ゾシマ長老が……」
「四日ですって、そんなばかげたことを! ねえ、あなたは思う存分、あたしのことを笑ったでしょう?」
「僕は少しも笑いやしません」
「どうしてですの?」
「それはあなたをすっかり信用したからです」
「あなたはわたしを侮辱なさるのね?」
「どういたしまして、僕はあの手紙を読んだとき、すぐにそう思いました――これは本当にこのとおりになるに相違ないって。なぜって、僕はゾシマ長老がおかくれになったら、すぐに寺を出なければならないんです。それから僕はまた学校へはいって試験を受けるつもりです。そして法律で決められた時が来たら結婚しましょう。僕はいつまでもあなたを愛します。これまでに僕は落ち着いて考えてる暇がなかったんですけれど、それでもあなた以上の妻を見いだすことはできないと思いました。それに長老も僕に結婚せよとおっしゃいましたし」
「だって、わたしかたわよ。肘椅子に乗せて引っ張ってもらってるのよ」とリーズは頬をかすかに赤らめながら笑いだした。
「僕は自分であなたを引っぱって歩きます。しかし、それまでにはよくなると思いますよ」
「あなたは気が違ったんじゃなくって?」とリーズは神経質らしく、言いだした、「あんな冗談をまじめにとって、そんなばかなことを言いだすんですもの!……あら、お母さんだわ、かえって好都合だわ。母さん、どうしてあなたはそんなにいつもいつも、のろいんでしょうね。どうしてそんなに手間がとれるんでしょうね! ほら、もうユーリヤが氷を持って来たわ!」
「まあ、リーズ、そんな声を立てないでおくれ――お願いだから、そんな声を。わたしはそのわめき声を聞くと、……だってしかたがないじゃないの、おまえがまるで別なところへガーゼをしまいこんでるんだもの、……わたしさんざん捜したんじゃないの、……ことによったら、おまえわざとあんなことをしたんじゃないの」
「だって、この人が指をかまれて来ようなんて、まるで知るわけがないじゃありませんか。もしそれが前からわかってたら、本当にわざとそうしたかもしれないわ。母さん、あなたはたいへん気のきいたことを言うようにおなんなすったのね」
「気のきいたことでもどうでもいいけれど、まあ、リーズ、アレクセイさんの指といい、そのほかのことといい、どんな気持がするとお思いだえ! ああアレクセイさん、わたしを困らすのは一つ一つの事柄じゃありません、ヘルツェンシュトゥベなんかのことじゃありません。みんな全体ひっくるめてです。みんないっしょにです。だから、わたしとしてしんぼうがしきれないんですよ」
「たくさんだわ、母さん、ヘルツェンシュトゥベのことなんかたくさんだわ」とリーズはおもしろそうに叫んだ。
「さあ、はやくガーゼをちょうだい。これはただのグーラード液だわ。アレクセイさん、今やっと名前を思い出したわ、だけどこれはいい薬よ。ところで、お母さん、どうでしょう、この人は途中で餓鬼どもと喧嘩をしたんですってさ。そして、これはね、その中の一人にかまれた傷なんですとさ。ねえ、この人やはり赤ん坊だわ、そうじゃなくって? ねえ、そんなことをする子供に結婚なんかできやしないわね。だって、この人は結婚したいって言うんですもの、おかしいわね、母さん。ほんとにこの人がお嫁さんをもつなんて、考えてもおかしいじゃないの。おそろしいじゃないの?」
リーズはずるい眼つきをしてアリョーシャを眺めながら、絶えず小気味悪く、かすかに笑うのであった。
「え、どうして結婚なんてことを、リーズ、なんだっておまえはそんなことをだしぬけに言いだすの? そんなことを言う場合じゃありませんよ……それに、その子供はひょっとしたら、恐水病にかかってるかもしれないじゃないの」
「あら、お母さん! 恐水病の子供なんているものなの?」
「いないって、なぜ? まるでわたしがばかなことでも言ったみたいだわね。もしその子供に狂犬がかみついたとしたなら、今度はその子供が、手近の人をかむようになるんですよ。まあ、リーズは、じょうずに包帯をしましたねえ、アレクセイさん。わたしには、とてもうまくできませんわ。今でも痛みますの?」
「もうたいしたことはありません」
「ときにあなたは水がこわくありませんの?」リーズは尋ねた
「さあ、もうたくさんよ、リーズ。全くわたしもあんまりあわてて、恐水病の子供なんて言いだしたけれど、すぐおまえはそんなばかなことをもちだすんだもの。ときに、カテリーナさんはあなたのいらっしたことを聞くと、さっそくわたしのところへかけつけてらしったんですよ。あなたを待ちこがれていらっしゃるのよ、たまらないほど……」
「まあ、母さん! あなた一人であっちへいらっしゃいな、この人は今すぐいらっしゃるわけにいきませんわ。だって、あんなに痛がってらっしゃるんですもの」
「けっして痛がってはいません、平気で行けますよ……」とアリョーシャは言った。
「なんですって、あなたいらっしゃるの? じゃあなたは? じゃあなたは?」
「なんですか? なあに、僕はあっちの用をすましたら、またここへ帰って来ますよ。そしたらあなたのお気に入るだけお話ししましょうよ。だって、僕は今、とてもカテリーナさんに会いたいわけがあるんですよ。なにしろ、僕はどっちにしろ今日は、できるだけ早く寺へ帰ろうと思ってますからね」
「母さん、早くこの人を連れて行ってちょうだいな。アレクセイさん、カテリーナさんのあとでここへ寄ろうなんて、そんな御心配には及びませんよ。あなたはまっすぐにお寺へいらっしゃい。そのほうが本当ですよ。わたし眠たくなっちゃったわ。ゆうべちょっとも寝なかったもんですから」
「まあ、リーズ、そんな冗談を言うもんじゃなくってよ。でも、本当に寝んだらどう!」とホフラーコワ夫人は叫んだ。
「僕にはわかりません、どうしてこう……僕はもう三分ほどここにいます。もしなんなら、五分でも」とアリョーシャはつぶやいた。
「五分でもって! ねえ、お母さん、早くこの人を連れてってちょうだいよ、この人はお化けだわ!」
「リーズ、おまえは気でも違ったのかい。さあ、まいりましょう、アレクセイさん。この子は今日あんまり気まぐれがひどすぎますよ、わたし、この子の気をいらいらさせるのがこわくてなりません。ああ、神経質の女を相手にするのはつらいですね。アレクセイさん! でも、本当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったのかもしれませんよ。まあ、よくそんなに早く、この子に眠気をつけてくださいましたわね、本当にいいあんばいでしたわ!」
「あら、まあ、お母さんはたいへん愛想のいいことが言えるようになりましたわね。御褒美にあたし接吻してあげるわ」
「じゃ、わたしもおまえを。ところで、アレクセイさん」アリョーシャといっしょに部屋を出ながら、夫人は秘密めかしいものものしい調子で早口にささやいた、「今わたしは、あなたに何もほのめかす気もありませんし、この幕を上げるつもりもありませんよ。けれど、はいって御覧なすったら、御自分であすこの様子がおわかりになりましょう、本当に恐ろしいことです。ひどく突拍子もない狂言ですよ! あの人はイワンさんを愛してらっしゃるのに、御自分では一生懸命にドミトリイさんを愛していると、強情を張りなさるって。恐ろしいわねえ! わたしはあなたといっしょにはいって行って、もしも追い出されなかったら、しまいまでじっとすわっていましょうよ」
しかし、客間ではもう話が済んでいた。カテリーナは[#「カテリーナは」は底本では「カテーリナは」]思いきったような風をしていたが、ひどく興奮していた。ちょうど、そのときアリョーシャとホフラーコワ夫人がはいって来たのであるが、イワンは席を立って帰ろうとしていた。彼の顔はいささか青ざめていたので、アリョーシャは心もとなくのぞきこんだ。というのは、今アリョーシャにとって一つの疑惑が、いつのころからか彼を悩ましていた一つの不安な謎が、解決されようとしているからであった。一月ほど前から彼はいろんな方面から、兄のイワンがカテリーナに思いを寄せて、実際にミーチャの手から『横取り』するつもりでいるという噂を、ほのめかされていたのであった。ついこのあいだまで、このことはアリョーシャには、ひどく心配ではあったが、しかも実に不思議なことに思えてならなかった。彼は二人とも愛していたので、二人のあいだのこうした競争が恐ろしくてたまらなかった。そうこうしているうちに、昨日ドミトリイが不意に彼に面と向かって、自分はかえってイワンの競争を喜んでいる、そのほうがいろいろな点において自分のために都合がよいと言ったのである。どうして都合がよいと言うのか? グルーシェンカと結婚するためなのか? しかしアリョーシャには、こんなことは自暴自棄な最後の手段としか思えなかった。のみならず、彼はつい昨日の晩まで、てっきりカテリーナ自身も熱情的に、執拗に兄ドミトリイを愛しているものとばかり思いこんでいた(しかし、この信念もただ昨日の夕方までであった)。おまけに、――彼女はドミトリイを愛している、いかにこのような愛が奇怪に見えるとしても、現在のままの兄を愛しているに相違ないという考えが、どういうわけか、絶えず彼の心に浮かんでくるのであった。ところが、昨日グルーシェンカの騒ぎに出会って、いきなり別な考えが彼の心を打った。たった今、ホフラーコワ夫人の言った『破裂』ということばは、あやうく彼を震えあがらせるところであった。つまり、今朝の夜明けごろ、うつらうつらしているうちに、おそらく自分で自分の夢に答えるつもりであったろう、だしぬけに『破裂、破裂』と叫んだからである。彼は夜通し例のカテリーナのところでの恐ろしい場面を夢みていた。カテリーナはイワンを愛しているのに、何かの戯れのために、何かの『破裂』のために、いたずらに自分を欺いて、何やら感謝の念でも現わしたさに、兄ドミトリイを愛しているように見せかけて、わが身を苦しめているのだと、今ホフラーコワ夫人があけすけに、しつこく言ったのを聞いて、アリョーシャは心をうたれたのであった。『そうだ、ことによると、実際にあのことばには、十分の真実が含まれているのかもしれん!』と考えたのである。
しかし、もしもそうだとしたら、イワンの立場はどうであろう? アリョーシャは一種の本能によって、カテリーナのような性格は、何かを支配せずにはいられない、ところが、彼女に支配できるのは、ドミトリイのような男であって、けっしてイワンではないのだと直感した。たしかにドミトリイは、たとい長い月日を要するとしても、いつかは彼女に屈服して、しかも幸福を感じ得るに相違ない(それはアリョーシャのむしろ望むところであった)。しかし、イワンはそうではない。イワンは彼女に屈服することもできないし、また屈服しても幸福になろうはずがないのである。アリョーシャはどういうわけか、心の中で、イワンに関してこういう風な考えを形づくっていたのである。彼が客間にはいったとき、こうした動揺と想像が彼の頭をかすめていった。するとまた別な考えが、またもや不意に、おさえることのできない力をもって、彼の心に忍びこんできた。『もしも、この人が誰も愛していなかったらどうだろう、二人とも愛していなかったらどうだろう?』と。
ついでにいっておくが、アリョーシャはこういう風に自分の考えを恥ずかしがるような気味で、この一か月のあいだ、どうかして、こういう考えが浮かんでくるたびに、自分で自分を責めるのであった。『いったい、自分なんかに愛だの女性だのということが少しでもわかるかしら? いったい、どうしてこんな結論ができるのか?』こういったような考えや臆測をした後で、必ず彼は、心の中でこういって自分を責め立てるのであった。といって、考えずにいるわけにもいかなかったのである。今、二人の兄の運命から見ると、この争いは実に重大な問題であり、その解決のいかんによっては、非常な結果を生ずるということは、彼にも本能的にわかっていた。
『一匹の蛇が他の一匹を咬み殺すのだ』とは、昨日イワン兄が父とドミトリイのことで、憤慨しながら言ったことばであった。してみると、イワンの眼から見て、ドミトリイは蛇なのである。おそらく、ずっと前からそうなのかもしれない。ことによると、イワンがカテリーナを見たときからではなかろうか? もとより、このことばはなんの気なしに、イワンがうっかり口をすべらせてのことに相違はないが、何心なく出ただけに、いっそう重大な意味があるのだ。もしそうだとすれば、この場合、平和が訪れるわけはないではないか? それどころか、かえって、一家のうちに、憎しみと、恨みとの、新しい根拠が現われるだけではないか? それにしても、アリョーシャにとっては、二人のうち誰に同情したらいいのか? 一人一人の者に何を期待してやったらいいのか? ということが大きな問題であった。彼は二人の兄を両方とも愛してはいるが、この恐ろしい矛盾の中にあって、一人一人に何を望んでやったらいいのであろう? この迷宮にはいったら、誰しも途方に暮れてしまうであろう。ところが、アリョーシャの心は暗々裡に葬られることをいさぎよしとしない。なぜといって、彼の愛というものが実行的な性質のものだからである。消極的な愛は、彼には不可能なことであった。ひとたび愛したとなると、すぐに救済に取りかかるのである。このためには確固たる目的を立てて、それぞれの人にどんなことが望ましく、また必要であるかということを、正確に知らなければならぬ。こうして目的の正確なことを確かめてこそ、はじめて自然なやり方で、おのおのに助力を与えることができる。ところが、今は何事も正確な目的の代わりに、曖昧さと混乱とに満たされているのである。たった今、『破裂』ということばが出たが、しかしこの『破裂』ということばをなんと解釈したらいいのか? このあらゆるものが混沌としている中では、最初の一句からして、もう彼にはのみこめないのである。
カテリーナはアリョーシャの姿を見るやいなや、席を立ってもう帰りじたくをしているイワンに向かって、早口に嬉しそうに話しかけた。
「ちょっと! ちょっと待ってください? わたしは自分が心から信用しているこのおかたの御意見が聞きたいのです。奥さん、あなたも行かないでいてください」と彼女はホフラーコワ夫人に向かって、言うのであった。彼女はアリョーシャを自分のそばへ坐らせた。夫人はその向かい側のイワンと並んで腰をおろした。
「ここにいらっしゃる皆さんは、世界じゅうにまたとないわたしの親しいお友だちばかりですわ、わたしの大切なお友だちばかりです」彼女は熱しながら、こう言った。が、その声はいいしれぬ苦しみの涙に震えていた。アリョーシャの心は、またもや彼女のほうへ引き寄せられた。「アレクセイさん、あなたは昨日のあの……恐ろしい出来事を御自分で御覧になりましたわね。わたしがどんな様子であったかということも、よく御存じでいらっしゃいますわね。イワンさん、あなたは御覧になりませんでしたけれど、あのかたは御覧になったのですよ。昨日このおかたがわたしのことを、なんとお思いになったか存じませんけれど、たった一つよくわかっていることがございますの、それはね、もしも今日、いますぐあれと同じことがもう一度くり返されたら、わたしはあれと同じ気持を現わし、あれと同じことばを吐き、あれと同じ動作をしたに相違ありません、……アレクセイさん、あなたはわたしの動作を覚えていらっしゃるでしょう。あなた御自身わたしのある一つの動作を止めてくだすったんですものね……(こう言いながら、彼女は顔を赤くした。その眼は急に輝きだした)。アレクセイさん、はっきり申しますけれど、わたしはいかなるものとも妥協することはできません。それにわたし、今となっては、本当にあの人を愛してるかどうか、自分でもよくわかりませんの。わたし、あの人が可哀そうになりました。これは愛のしるしとしては、あんまりたいしたものじゃありませんね。もしも、わたしがあの人を愛しているのでしたら、やはりずっと愛しているのでしたら、可哀そうになんかならないで、かえって、憎んだでしょうよ、……」
彼女の声は震え、睫には涙が光っていた。アリョーシャは心の中では、震えていた。『この娘は、正直で、真心がある』と彼は考えた、『それに……それに、この人はもうドミトリイを愛してはいないのだ!』
「そのとおりですわ! そのとおり!」とホフラーコワ夫人は叫んだ。
「ちょっと待ってくださいまし、奥さん、わたしはまだ肝心なことを申しておりませんの。昨夜考えたことを、まだすっかり言ってしまわないんですの。わたしの考えは恐ろしいこと――わたしにとって、恐ろしいことかもしれません、それはわたしにも感じられますけれど、わたしはもうどんなことがあっても、この決心を変えません、どんなことがあっても、一生涯この決心を押し通します。イワンさんは優しい、親切な、鷹揚な心を持った、永久に変わることのないわたしの相談相手で、人の気持のよくわかるかたで、世界じゅうにまたとない、わたしのたった一人のお友だちですけれど、このかたもすべての点においてわたしに賛成して、わたしの決心を褒めてくださいましたの、……このかたはよく御存じですのよ」
「そう、僕は賛成しています」静かではあったが、しっかりした声で、イワンはこう言った。
「でも、あたし、アリョーシャにも(あら、御免なさい、アレクセイさん、わたし、ついうっかりして、アリョーシャなどと呼び捨てにしました)――わたしはアレクセイさんにも、今わたしの二人の親友の眼の前で、この決心が間違ってるかどうか、遠慮なく言っていただきたいんです。わたし、虫が知らせたんでしょうか、あなたが、わたしの可愛い弟のアリョーシャが(だって、あなたは本当にわたしの可愛い弟なんですものね)」と彼女は自分の熱した手でアリョーシャの冷たい手をとりながら、感きわまったかのように言うのであった、「わたし、こんなに苦しんでいますけれど、あなたの決心と、あなたの賛成さえあれば、わたしは気が安まるに相違ないと、前から感じていましたの。あなたのおっしゃることを聞いていると、わたしも落ち着いて、あきらめられるんですものね、わたし前からそう思っていましたわ!」
「あなたは僕にどうしろっておっしゃるかわかりませんよ」とアリョーシャは顔を赤らめながら言った、「僕はあなたを愛しています、僕は今自分自身に対するよりも、むしろよけいあなたに幸福を望んでいます! それは自分でもわかってますけれど、しかし、僕はこの事件のことは何も知らないんです……」彼はなぜかしら、口早に言い足した。
「この事件ですって、アレクセイさん、今、この事件で何より大事なことは名誉と義務です。それから、もう一つ、なんと言っていいか、わかりませんけど、義務よりも、もっと高いものがあるんです。心の中に、こういったような押えることのできない感情があることは、わかってます。そしてこの感情がわたしをぐんぐん引っぱって行くのです。でも、何もかも一言で言い尽くすことができます。わたしはもう決心しました。たとい、あのかたが、あの……わたしにはどうしても、どうしても許すことのできない売女と結婚なすっても、(と彼女は重々しげに言いだした)わたしはやはりあの人を見すてませんわ! 今からけっして、けっして、見すてないつもりですの!」と彼女はやるせなげな、いたいたしい感激が、急にほとばしったような調子で言うのであった、「でも、なにもあの人の後を追っかけ回して、あの人の眼の前へうるさく顔を出して、あの人を苦しめようというのじゃありませんの。いいえ、どういたしまして。わたしはどこへでも、お望みの町へ越して行きます。けれど、わたしは死ぬまで、たゆむことなく、あの人を見張るつもりです。もしあの人があの女といっしょになって、不幸にでもなんなすったら、それは今にも必ず起こることですけれど、そうしたら、わたしのところへいらっしってもかまいませんわ、わたしお友だちとして、妹としてあの人を迎えます。……もちろん、ほんの妹というだけのことですわ、それはもういつまでも、そのとおりですの。わたしが本当の妹だということを、――一生涯を犠牲にしてまでもあの人を愛していることを、最後にはあの人にもわかっていただきたいんです。わたしは、この目的をどうしてもやり遂げます。あの人が、しまいにはわたしの本心をわかってくだすって、なんの遠慮もなしに、何もかも、わたしに打ち明けるように、是が非でもしてみせるつもりです!」彼女はのぼせているかのように叫んだ、「わたしはあの人の神になって、あの人にお祈りをさせます、――それは少なくとも、あの人の義務です。だって、あの人がわたしにそむいたおかげで、昨日あんなひどい目にあったんですもの。わたしはあの人に、わたしが一度約束したことばを守って、一生涯あの人に忠実にしているのに、あの人が間違った考えをもって、わたしにそむいてしまったことを、一生のあいだに、よくよくわからせてあげたいのです。わたしは、……わたしは、ただもうあの人の幸福の手段になるばかりです(どう言ったらいいでしょうね)、あの人の幸福の道具になります、器械になります。これは一生涯、本当に一生涯、死ぬまで同じことです。そしてあの人にこのさき一生涯のあいだ、それを見ててもらいます! これがわたしの決心なのでございます! イワンさんはこの決心に賛成をしてくださいました」
彼女は息を切らしていた。おそらく、彼女はもっともっと品位を保って、もっと巧妙に、もっと自然に、自分の考えを話しするつもりであったろう。しかるに、結局、あまりにも性急に、あまりにも露骨なものとなってしまったのである。おとなげなく感情に走りすぎたような点も多かったし、ただ昨日の癇癪のなごりにすぎないような点も、ただの空威張りにすぎないような点も多かった。彼女自身も、それに気がついたので、なんとなくその顔は、急に暗くなり、眼つきも悪くなってきた。アリョーシャはすぐに、それに気がついて、同情の念が心の中でかすかに動くのを感じた。ちょうどそのとき、兄のイワンもそばから口を出した。
「僕はただ自分の考えを述べただけです」と彼は言った、「これがもし、ほかの女であったら、ごつごつして、きれぎれなものになったでしょうが、あなただったから違うのです。ほかの女だったら、嘘になったでしょうが、あなただったから正しいのです。僕はなんと理由をつけたらよいかわかりませんが、あなたがこのうえもなく真心があり、それゆえにまた正しいということは、ようくわかってます」
「でも、それはただこの一瞬間だけじゃありませんか……しかも、ほんのこの一瞬間というのは、どんなときでしょう? 何もかも昨日の侮辱、――それがこの一瞬間というものの意味なんです!」見受けたところ、さし出がましいことを言うまいと決心していたらしいホフラーコワ夫人も、こらえきれなくなって、不意にかなりに正当な意見を述べた。
「そうです、そのとおりです」話の途中に口を出されたのが不服だったらしく、イワンは急に一種の熱をもって、さえぎった、「全くそうです、しかし、ほかの人であったら、この一瞬間も、要するに昨日の印象にすぎないかもしれません、ほんの一瞬間にすぎないかもしれません。しかし、カテリーナさんのような性格のおかたは、この一瞬間は、ついに一生涯に及ぶはずです。ほかの人には、ただの約束にすぎないようなことが、このかたには永久に変わることのない、つらい、苦しい、おそらく、たゆむことのない義務になるのです。カテリーナさん、あなたの生活は、今のうちこそ、自分の感情や、自分自身の手柄や、悲しみに包まれて、つらいでしょうけれど、そのうち、この苦しみはだんだんに柔らいでいって、ついには、きっぱりした、誇るべき企てを永久に果たしたという楽しい思いに満たされるようになりますよ。たしかに、この企ては、あの意味では、誇らかなものです。とにもかくにも、自暴自棄的なものですが、あなたはそれを征服してしまったのですから、この気持は最後に至って、十分な満足をあなたに与えて、そのほかいっさいの苦痛をあきらめさせてくれるでしょうよ……」
彼は一種の悪意を示して、きっぱりと言い放った。明らかに、わざとらしかったが、わざと冷笑的な調子で言ってやろうという気持を、隠すつもりさえもなかったのであろう。
「まあ、とんでもない、それはみんなたいへんな勘違いですよ!」とホフラーコワ夫人は叫んだ。
「アレクセイさん、あなたもなんとかおっしゃってください! わたしはあなたがなんとおっしゃるか、それが伺いたくてたまらないんですの!」とカテリーナは叫ぶなり、さめざめと泣きくずれた。アリョーシャは長椅子から立ち上がった。
「いいえ、なんでもありません、なんでもありません!」と、彼女は泣きながら続けた、「これは昨夜いろんなことを考えたので、頭が変になってるからですの。わたしはね、あなたやお兄さんのようなお友だちのそばにいますから、いっそう気丈夫ですの、……だって、あなたがたお二人がけっしてわたしを……お見すてなさらないことは、わたしもよく承知してますからね」
「あいにく、僕はひょっとすると、明日あたりモスクワへ向けて出立して、永久にあなたを見すてなければならないかもしれません、……これは残念ながら、考えなおすわけにはゆきません……」イワンはだしぬけに、こう言った。
「明日、モスクワへ!」不意にカテリーナの顔が曲がってしまった、「でも……、でもなんて運がいいんでしょうね!」と彼女は叫んだが、その声は一瞬のあいだにすっかり変わってしまった。もう泣いたあとも残らないまでに、きれいに涙を拭き取っていた。つまり、一瞬のあいだに、彼女は恐ろしい変調をきたして、アリョーシャを呆然たらしめたのであった。今しがた、心をひきむしられたように泣いていた、はずかしめられた哀れな少女が、急にすっかり落ち着き払って、何か急に嬉しいことでも起こったかのように、ひどく満足そうな様子までしている女に変わったのである。
「おお、けっしてあなたを失うのが仕合わせなのではありません。むろんそんなことはありませんわ」急に愛想のいい世慣れたほほえみを浮かべながら、彼女は言いなおした、「あなたのような親しいお友だちが、そんなことをお考えになるわけはありませんわ。それどころか、わたしには、あなたを失うのは、何よりの不幸なのですの(彼女はいきなりイワンに飛びかかって、両手を取るやいなや、熱情をこめて握りしめた)。わたしが仕合わせだと申しましたのはね、こういうわけなんですの。あなたがモスクワへいらっしゃいましたら、今のわたしの境遇を、今の恐ろしい身の上を、あなたの口から伯母さんやアガーシャ(メガフィヤ)に、すっかり伝えていただけるからですの。どうか、アガーシャにはすっかり打ち明けてありのままを話してくださいまし。伯母のほうはほどよくして。もっとも、こんなことはあなたのお胸にあることでございますわね。昨日も今朝も、この恐ろしい手紙をどんな風に書いたらいいかわからないで、どれほどつらい思いをしたか、とてもお察しはつきますまい、……だって、こんなことはどんなにしたって、手紙で言い尽くせるものじゃありませんものねえ、……でも、今になれば、楽に書けますわ。あなたが向こうへいらっしゃれば、すっかり説明してくださいますものね。ほんとに、こんな嬉しいことはありません! ですけれど、嬉しいのはただこれだけです、しつこいようですが、どうぞ信じてくださいまし。あなたというおかたはわたしにとって、かけがえのないおかたなんです、……さあ、今すぐにも、ちょっと家に帰って、手紙を書きましょう」と彼女はだしぬけにことばを結んだかと思うと、今にも部屋を出て行くかのように、一足ふみ出した。
「でも、アリョーシャさんは? あなたがぜひとも聞きたいと言ってらしたアレクセイさんの御意見は?」とホフラーコワ夫人は叫んだ。なんとなく皮肉な、腹立たしげな調子がその声の中に感ぜられた。
「わたし、それを忘れていませんわ」と急にカテリーナは立ち止まって、「あなたはなんだって、今の場合に、わたしをそう邪慳になさいますの?」熱した、つらそうな調子で、彼女はとがめるように言いだした、「わたし、自分で言ったことは間違いなくいたしますわ! このかたの御意見はどうしても必要なんですの。それどころか、わたしこのかたの断定が必要なんですの! このかたのおっしゃることは、そのとおりに実行いたします、――ね、アレクセイさん、これほどまでにわたしは、あなたのおことばを聞きたくてたまらないのです、……でも、あなたはどうかなすって?」
「僕は今まで、こんなことを考えたこともありませんでした。こんなことは想像もできません!」不意に悲しそうにアリョーシャは叫んだ。
「え、なんですって?」
「兄さんがモスクワへ行くと言うと、あなたはそれを嬉しいとおっしゃるじゃありませんか、――あなたはわざとあんなことをおっしゃったのです! それからまたすぐに、いま嬉しいと言ったのは、まるきり別なことで、反対に、友だちを失うのが残念だなどと弁解し始めるじゃありませんか、――あれはわざと芝居をなすったのですね、……まるで舞台に立って、喜劇をなすったも同然です!」
「舞台ですって? なぜですの? いったい、それはどういうことですの?」カテリーナは顔をまっかにして、苦い顔をしながら、心の底から驚いて叫んだ。
「あなたがどんなに、兄さんというお友だちを失うのが残念だとおっしゃっても、やはり兄さんの出立が嬉しいと、当人に面と向かって言ってらっしゃるようなものですよ……」もう全く息を切らしながら、アリョーシャが言った。彼はテーブルのそばに突っ立ったまま、腰をかけようともしなかった。
「いったいあなたは何を言ってらっしゃるんですの。わたし、わかりませんわ……」
「そう、僕自身でもよくわからないんです……僕はふっと、そんな気がしたんです、もちろん、こんなことを言うのは、よくないってことは僕も知っていますが、やはり、それでも、すっかり言ってしまいましょう」アリョーシャは相変わらず、とぎれがちな震え声でことばを続けた。
「ふっと、そんな気がしたというのは、あなたはドミトリイ兄さんを……最初から、……ちょっとも愛していらっしゃらなかったのかもしれないし、……兄さんだって、やはり、あなたを、少しも愛していなかったのではないかしら……そもそもの初めから、……ただ尊敬しているだけだと、そう思ったんですよ。全く僕はどうして今こんな大胆なことが言えるのか、われながら不思議なくらいですが、しかし、誰か一人くらい本当のことを言う人がいなくちゃなりませんね、……だって、ここでは誰ひとり本当のことを言う人がいないんですからね」
「本当のことって何ですの?」カテリーナは叫んだが、なんとなくヒステリックなものが、その声にひびいていた。
「じゃ申し上げましょう」思いきって屋根の上からでも飛び下りるかのように、あわただしくアリョーシャはつぶやいた、「今すぐドミトリイをお呼びなさい――僕が捜してあげましょう、――そして、兄さんがここへ来たら、まず、あなたの手を取ろうとして、そのあとでまた、イワン兄さんの手を取らせ、そうして二人の手を結びつけてもらうのです。なにしろ、あなたはイワン兄さんを愛していらっしゃるために、かえって愛する兄さんを苦しめてらっしゃるからです、……ところが、なぜ苦しめなさるのかと申しますと、それはドミトリイに対するあなたの愛が、発作的なものだからです……偽りの愛だからです、……なぜそうなったかと言いますと、あなたが御自分で御自分を説き伏せていらして……」
アリョーシャは急にことばを切って、黙りこんでしまった。
「あなたは……あなたは……あなたは、ちっぽけな信心きちがいです、それきりの人です!」カテリーナは、すっかり顔の色をなくして、憤りのために唇をゆがめながら、いきなり、かみつくように言った。イワンはだしぬけに、声を立てて笑いだしたかと思うと、席を立った。彼は帽子を手にしていた。
「おまえは勘違いしてるよ、アリョーシャ」と言って、彼はいまだかつてアリョーシャの見たことのないような妙な表情を浮かべた。それは若々しいまじめさと、押さえることのできないほど力強い、露骨な感情の表われであった。「カテリーナさんはけっして僕を愛したことなんかありゃしないよ。一度も、口に出して言ったことはないけれど、僕がカテリーナさんを愛してるってことは、御自分でちゃんと承知していたんだ。ところが、僕を愛してはいなかったんだよ。また僕は一日だって、この人の友だちだったこともないんだ。気位の高い婦人は、僕なんかの友情を必要としないからね。この人が僕をそばへ引き寄せたのは、ひっきりなしに復讐をしたいためだったのさ。はじめて会ったとき以来ずっと、ドミトリイから絶えず受けていた侮辱の恨みを、僕に向けてもたらしていたんだ。実際、ドミトリイと最初に会ったことさえ、この人の心には侮辱として刻みつけられているんだ。この人はこういう心を持った人なんだよ! 僕はいつもいつも、この兄貴にたいするおのろけばかり聞かされたわけなんだ。もう僕はここを去ってしまいます。しかしね、カテリーナさん、あなたは本当に、兄貴ひとりを愛しておいでになったんですから、そのことは御承知を願いますよ。兄貴の侮辱が激しくなるにつれて、あなたの愛もしだいに募っていくというものです。これがあなたの気ちがいじみた要求なんです。あなたは今のままの兄貴を愛しておいでになりますね、あなたを侮辱する兄貴を愛しておいでになります。もしも、兄貴の身持ちが改まったら、あなたはすぐに愛想をつかして、すててしまうに相違ありません。兄貴があなたにとって必要なのは、いつも御自分の御立派な貞操を頭において、兄貴の不実を責めたいからにすぎません。これというのも、皆あなたのうぬぼれから起こるのです。ええ、むろん、その中にはずいぶん屈従しなければならないところもあり、自分を卑下しなければならない場合もあります。しかし、とにかく、いっさいのことはプライドから来ているのです、……僕はあまり若すぎたので、あまりひどく、あなたを愛しすぎたのです。こんなことはまるっきり言う必要がないうえに、黙ってあなたのそばを離れてしまったほうが、僕としてもより多く威厳が備わるわけだし、あなたにもいやな思いをさせないで済むということは、自分がよく承知しています。しかし、僕は遠いところへ行ってしまって、またと再び帰って来ないんですからね、……これが永久のお別れなんです、……僕は破裂をそばで見ているのがいやなんです。しかし、もうこれ以上言うことができません、何もかも言ってしまいました、……さようなら、カテリーナさん、あなたが僕に腹を立てるわけにはいきませんよ。なぜって、僕はあなたより百倍以上も、ひどい罰を受けてるんですからね。もう永久にあなたに会えないという、この一つだけでもずいぶんひどい罰ですからね。さようなら、僕はあなたの握手を必要としません。あなたはあまり意識的に僕をお苦しめなすったから、今あなたを許すことができないのです。あとでまた許しましょうけれど、今は握手には及びません。
Den Dank, Dame, begehr ich nicht.(御身の感謝を余は求めず、夫人よ!)」
彼は無理に作り笑いを浮かべながら言い足した。これによって自分もシルレルを暗記するほど読んでいるという意外な事実を証明したのであった。以前ならば、アリョーシャも、けっしてそんなことを信じ得なかったに違いない。イワンは女主人にさえ挨拶をせずに、そのまま部屋を出て行った。アリョーシャは手を打った。
「イワン」と彼は度を失ったように後ろから叫んだ、「帰ってらっしゃいよ、イワン! だめだ、だめだ、もうとても帰って来ない!」再び心の中に悲しい思いを浮かべて、叫ぶのであった、「けれど、これは僕の間違いです、僕が悪いんです、僕が始めたのです。イワンは意地の悪い、とんでもない言い方をしました。あんな間違った、意地の悪い物の言い方をするなんて……兄さんはどうしても、もう一度ここへ来なくちゃならない、帰って来なくちゃならない……」アリョーシャは半ば気が違ったもののように叫び続けた。
カテリーナは不意に次の部屋へ出て行ってしまった。
「あなたは何も悪いことはないんですよ。あなたは天使のように、見事な振舞いをなすっただけです」ホフラーコワ夫人は悲しそうな顔色をしているアリョーシャに向かって、さも嬉しそうに早口にささやいた、「わたし、イワンさんを行かせないように、できるだけの方法を講じますからね……」
夫人の顔に喜びの色が輝いているのを見て、アリョーシャはいっそう悲しくなってきた。ところへ、カテリーナがいきなり引き返して来た。その手には虹色をした、百ルーブル札が二枚あった。
「アレクセイさん、わたしあなたに一つたいへんなお願いがあるんですけど」と彼女はいきなりアリョーシャに向かって話しかけた。その声は静かに落ち着いていて、まぎわに何事もなかったかのような風であった。「一週間――ええ、一週間前のことでしたの、――ドミトリイさんがあの熱しやすい性質にまかせて、非常に間違った、しかも不体裁きわまることをしでかしなすったんですの。それはあまりよくないところ、つまり、居酒屋であったことなんですが、いつかお父さんが何かの事件で、代理人にお頼みなすった例の予備二等大尉に、ドミトリイさんが出会いなすったのです。ところが、あの人はどういうわけか、この二等大尉に腹を立てて、大ぜいのいる前で相手の髯を引っつかんだのだそうです。そして、この見苦しい姿で、二等大尉を往来へ引きずり出して、長いこと往来を引き回したんですって。すると、この二等大尉には小さな男の子がありましてね、ここの小学校へ通っているのだそうですが、この子はその様子を見ると、うろうろ父親のそばを駆け回りながら、大きな声で泣いたんだそうですの。そしてお父さんの代わりに謝ってみたり、あたりの人に加勢を頼んだりしても、みんな笑って見ていて取り合わないんですって。失礼ですけれど、アレクセイさん、わたしはあの人のこのけがらわしい行ないを思い出すたびに、義憤を感じないではいられません、……こんなことはほんの腹立ちまぎれの……夢中になったときのドミトリイさんでなければ、とても思いきってできないような仕打ちです! わたし、もうこの話をすることができません。気力がないんですの、……どう言っていいかわからないんですの。で、わたしはこの相手のことを調べてみましたところ、非常に貧しい人だということがわかりました。名字はスネギーレフというのだそうです。何かで勤めのほうで失敗があって、免職になったのですが、どんなことがあったのか確かなことはお話しできませんわ。この人はいま病身な子供たちと気ちがいのお内儀さんという(たしかそんな話でした)不仕合わせな家族をかかえて、なんでも恐ろしい貧乏に陥っているらしいんですって、もうずっと前から、この町で何かしていて、どこかの書記を勤めていたこともありますけれど、どうしたわけか、このごろちっとも収入の道がないんですって! わたしはちらとあなたを見て……考えたんですけれど、……わたし、なんと言ったらいいかわかりません、わたしなんだか頭がごたごたしてしまって、――ねえ、アレクセイさん、あなたは類のない親切なかたですから、わたし一つお願いしたいことがありますの。どうかあの人のところへ行って、なんとか口実を見つけて中へはいりこんでくださいな。つまり、その、二等大尉の家へはいるんですの――まあ、わたしどうしてこんなにまごついてばかりいるんでしょう。そうして気をつけながらうまく――ええ、これはあなたでなければできないことでございます――(アリョーシャは急に顔を赤くした)――うまくこの扶助金を渡してくださいませんか、ここに二百ルーブルありますから、その人はたしかに納めてくれると思います、……納めてくれるように説きつけていただきたいんですの、……もしだめでしたら、どんな風にしたものでしょうね? ね、よござんすか、それは告訴してくれないようにと、示談のための賠償金ではありません(だって、その人は本当に告訴するつもりだった風ですもの)。ほんの同情のしるしなんですの、補助のつもりにすぎないんですもの。そして名義はわたしですよ、わたしですよ、ドミトリイの許嫁の妻ですよ、けっしてあの人自身じゃありません。とにかく、あなたのお腕前におまかせしますから……わたしが自分で行ったらいいんですけれど、あなたのほうがずっとじょうずにまとめてくださるに違いないんですもの。あの人はね、湖水通りの、カルムィコワという町人の持ち家に住んでらっしゃるのです、……後生ですから、アレクセイさん、どうかわたしのためにこの役目を果たしてくださいまし。ところで、今、……今わたしは少々疲れましたわ。じゃ、これでおいとまいたします……」
彼女は不意に身をかわして、またもや帳のかげに隠れてしまったので、アリョーシャは、口がききたくてたまらなかったが、一言も口をきく余裕がなかった。彼は自分で自分の罪を責めて謝罪をするか、……まあ、何にもせよ、一口でも物を言わずにはいられなかった。彼は胸がいっぱいになっていたので、このまま部屋を出る気にはどうしてもなれなかったのである。しかし、ホフラーコワ夫人はその手を押えて、自分で部屋の外へ連れ出した。玄関へ来たとき、夫人はまたもやさっきと同じように立ち止まらせた。
「ずいぶん高慢な人ですわね、自分で自分と闘ってるんです。でも、ほれぼれするような、親切な、肚の大きいかたですわ」夫人は半ばささやくような声で、感きわまったかのように言った、「おおわたしはあの人が大好きです、ときには、たまらないくらいに、……わたしはいま、何から何まで嬉しいんですの! アレクセイさん、あなたは御存じないでしょうが、実はわたしたちはみんなで、――わたしと、あの人の伯母さん二人と、――それに、リーズまでが仲間にはいって、この一月のあいだある一つのことばかり、願ったり祈ったりしてるんですの。というのは、あの人が、あなたの大好きなドミトリイさんを思いきって、あの教育のある、立派な青年のイワンさんと結婚しますようにってね、……だって、ドミトリイ兄さんのほうは、あの人なんか見るのもいやだといわないばかりだのに、イワンさんは世界じゅうの何よりも、あの人を愛してらっしゃるんですものね、わたしたちはこれについていろいろ段取りを決めていましたの。わたしがここを立たないのも、たぶん、これがためかもしれませんよ……」
「でも、あの人はまた侮辱を受けて、泣いていたじゃありませんか!」とアリョーシャが叫んだ。
「女の涙なんか当てになるもんじゃありませんよ。こういう場合には、わたし女に反対します、わたしは男の味方ですわ」
「母さん、母さんはそのおかたを悪くして、堕落さしてしまってよ」戸のかげからリーズの細い声が聞こえた。
「いいえ、これというのもみんな僕がもとなんです、僕は実に悪いことをしました!」自分の行為に対する激しい羞恥の念がこみあげてきて、アリョーシャは両手で顔まで隠しながら、なんと言われても気が安まらないで、くり返すのであった。
「それどころじゃありません、あなたはまるで天使のような振舞いをなすったのです、全く天使ですよ。なんならわたし十万べんでもこのことばをくり返してあげますわ」
「母さん、どうして天使のような振舞いなの?」リーズの声がまた聞こえた。
「僕はあのときの様子を見ているうちに、どうしたわけか」まるでリーズの声など耳にはいらないように、アリョーシャはことばを続けた、「あの人はイワンを愛しているというような気がしたんです、それであんなばかなことを言っちまったんです、……いったい、これからどうなるでしょう!」
「誰のこと、それは誰のことなの?」とリーズが叫んだ、「母さんはきっとあたしを死なす気なんだわ。あたしがいくら尋ねたって、返事一つしてくださらないんですもの」
ちょうどこのとき、小間使いが駆けこんで来た。
「カテリーナ様が御気分が悪いそうで……泣いていらっしゃいます。ヒステリイでございましょう、しきりに身をもがいて……」
「まあ、どうしたんでしょう?」とリーズは心配そうな声で叫んだ、「お母さん、ヒステリイが起こったのはわたしなのよ、あの人じゃなくって!」
「リーズ、後生だから、そんな大きな声をしてわたしの寿命を縮めないでおくれ。おまえはまだ年が若いんだから、大人のことをすっかり知るわけに行かないんですよ。今すぐ帰って来て、おまえに話していいことだけは聞かしてあげるから、ああ。本当にたいへんだ! いま行きます……いま行きます……ところでね、アレクセイさん、ヒステリイというのは、おめでたいことなんですよ。あの人がヒステリイを起こしたのは本当に好都合なんですよ。これはぜひそうなければならないんですよ。わたしはこういう場合、いつも女に反対します。あんなヒステリイや女の涙なんかには反対します。ユーリヤ、駆け出してそう言っておいで。ただ今すぐ飛んでまいりますって。だけど、イワンさんがあんな風にして出て行ったのは、あの人の罪なんですよ。でも、イワンさんは出て行きはしませんよ。リーズ、後生だから大きな声を立てないでちょうだい! おやまあ、大きな声をしてるのはおまえじゃなくてわたしだったのね、まあ、お母さんのことだから堪忍しておくれ。だけど、わたしは嬉しくって、嬉しくって、嬉しくってしようがないわ! ときに、アレクセイさん、あなた気がおつきになって? さっきイワンさんが出ていらっしたときの、男らしい様子ったらどうでしょう! あのおっしゃったことといい、態度といい! わたし、あの人はとても物知りの学者だとばかり思ってたのに、だしぬけにそれはそれは、熱烈な若々しい露骨な調子で、あんなことをおっしゃるじゃありませんか。全く世慣れない、ういういしい調子でした、まるであなたそっくりの立派な態度でした! それにあのドイツ語の詩をおっしゃったところなんか、まるで、まるであなたそっくりでしたわ。だけど、もう行きましょう、行きましょう。アレクセイさん、あなた大急ぎであの頼まれたところへいらっしゃい、そしてすぐ帰ってらっしゃい。リーズ、何か用はなくって? 後生だから、一分間でもアレクセイさんを引き留めないでおくれ、すぐにおまえのところへ帰っていらっしゃるんだから」
ホフラーコワ夫人はやっとのことで、駆け出した。アリョーシャは出て行く前に、リーズの部屋の戸をあけようとした。
「どんなことがあってもだめよ!」とリーズは叫んだ、「今はもう、どんなことがあってもだめよ! そのまま、戸の向こうからお話しなさい。あなたはどうして天使のお仲間入りをしたの! わたしそれ一つだけは、聞かしていただきたいの」
「ひどくばかげたことをしでかしたからですよ! リーズさん、さようなら!」
「あなたはよくまあ、そんな帰り方ができますわね」とリーズは叫んだ。
「リーズさん、僕にはほんとに悲しいことがあるんです! すぐ帰って来ますが、僕には、とても悲しい悲しいことがあるんです!」と言って、彼は部屋を駆け出して行った。
事実、彼にはいまだかつて、めったに経験したこともないような、なみなみならぬ悲しみがあった。彼は出しゃばって、『愚かなことをしでかした』のだ、――しかも、どんな世話を焼いたのか? 愛に関したことではないのか? 『いったいあんなことについて、自分に何かわかるのか、この事件について、何が僕に解釈がつくのか?』彼は顔を赤らめながら、心の中で百度もくり返すのであった、『ああ、恥ずかしいくらいはなんでもないんだ、それは僕にとって当然の罰だ。――やっかいなのは、僕が必ず新しい不幸を生む元になるということだ、――長老様が僕をお寄こしなすったのは、みんなを仲なおりさせていっしょにするためだった。ところで、ところで、こんな一致のしかたでいいものか?』ここで、彼は急にまた『二人の手を結び合わす』と言ったことを思い出して、またもや恥ずかしくなってきた。『僕は全く誠意をもってしたんだけれど、これから先はもっと利口になることだ』と彼は不意に決心したが、その決心に対しては微笑だもしなかった。
カテリーナの頼みは湖水通りとのことであったが、ちょうど兄のドミトリイはその道筋の、湖水通りから遠くない横町に暮らしていた。アリョーシャはとにもかくにも、二等大尉のところへ行く前に必ず兄の家へ寄ってみようと決心したが、しかも、きっと兄は留守だろうという予感もしていたのだ。兄は今、ことさらに自分を避けて、身を隠すかもしれないという懸念さえも起こったが、どんなことがあろうとも、是が非でも、捜し出さなければならなくなったのである。時は過ぎて行った。それに修道院を出たときから、瀕死の長老を思うの念は一分間も、一秒間も、彼の念頭を去らなかったのである。
カテリーナの頼みについて、ただ一つかなりに彼の興味をそそることがあった。二等大尉の息子の小さな小学生が、声をあげて泣きながら、父のそばを駆け回ったという話をカテリーナから聞かされたとき、ふっと、アリョーシャの胸に、ある考えがちらついたのだ、それは、さっき、『いったい、僕がどんな悪いことをしたっていうの?』と問い詰めたとき、自分の指へかみついた小学生が、その二等大尉の子供ではあるまいか? という疑いであった。ところが、今アリョーシャは、なぜということもなしに、ほとんどそれに違いないと思いこんでいた。かくのごとくして、本筋に関係のない想像をしているうちに、気が晴れてきたので、彼はたった今自分のしでかした『不始末』ばかり気にして、後悔の念に自分で自分を苦しめるようなことはよして、ただなすべきことだけをすればよいのだ、どんなにしても、どうせ成るようにしかならないのだ、と肚を決めた。覚悟が決まると、彼はすっかり元気づいた。さて、兄ドミトリイの家をさして、横町へ曲がったとき、彼は空腹を感じたので、さきほど、父の所からとって来たフランスパンを、かくしから取り出して歩きながら食べた。これでやっと元気が出てきた。
ドミトリイは留守であった。家の人たち――指物師の老夫婦とその息子は、いぶかしげにじろじろとアリョーシャを見まわした。『もう今日で三日も家へはお帰りになりません。ひょっとしたら、どこかへ行っておしまいになったのかもしれませんよ』老人はアリョーシャの根強い質問に対して答えるのであった。アリョーシャは老人が前から言い含められて、こんな返事をするのだと見てとった。『じゃ、グルーシェンカのところにいるんじゃないでしょうか、またフォーマのところにかくれてるんじゃありませんか?』と聞かれたとき(アリョーシャはわざと、ざっくばらんな風を見せた)、家の人たちは心配そうな様子をして、彼の顔を見つめた。『してみると、兄さんを好いて、味方になっているんだ』とアリョーシャは考えた、『それはまあ、結構なことだ』
ついに彼は湖水通りにあるカルムィコワの家を見つけた。一方に傾いた古い小さな家で、窓は往来へ向いてたった三つしかなかった。泥だらけの中庭があって、そのまん中に、牝牛が一匹、ぽっつり寂しそうに立っていた。中庭からの入り口は玄関に通じていた。玄関の左側には女主人と娘が暮らしていたが、娘といっても、もうお婆さんで、しかも二人とも聾らしかった。彼が二等大尉のことを幾度も幾度もくり返して尋ねたとき、一人のほうがやっと下宿人のことを尋ねているのだなと悟って、まるで物置小屋のようなものの戸口を、玄関ごしに指さして見せた。全く二等大尉の住まいはなんのことはない、純然たる物置小屋であった。アリョーシャは鉄のハンドルに手をかけて、戸をあけようとしたが、ふっと、戸の向こうが妙にひっそりしているのに気がついた。彼はカテリーナのことばによって、二等大尉に家族があるということを知ってたので、『みんなそろって寝ているのかしら、それとも僕の来たことを聞きつけて、戸のあくのを待っているのかしら。しかし、まあ、ドアをたたいてみたほうがいいだろう』と考えて、彼は戸をたたいた。すると、返事の声が聞こえたが、それもすぐではなしに、十秒くらいたったろうかと思われるころであった。
「いったい、誰?」と腹立たしそうな大声で誰かがどなった。
で、アリョーシャはドアをあけて閾をまたいだ。彼のはいった小屋はかなりに広かったが、ごたごたした道具や家族の人たちで、足の踏み場もないくらいであった。左手には大きなロシア風の暖炉があった。暖炉から左側の窓にかけて、部屋いっぱいに繩が渡されて、色とりどりなぼろが下がっていた。両側の壁のそばには、右にも左にも、寝台が、一つずつ据えてあって、編み物の夜着がかかっていた。左側の寝台には、大きいのから順々に更紗の枕が四つ並べられて、小山のように積み重なっている。右側のもう一つの寝台には非常に小さな枕が、たった一つ見えるだけであった。それから手前のほうの片隅には、はすかいに繩を引いた上にカーテンとも敷布ともつかないものをつるして、少しばかり仕切りをしたところがあった。この仕切りの向こうにもベッドがあったが、これはベンチと椅子をつなぎ合わして仕立てたものであった。まん中の窓のそばにある、飾り気のない、不細工な、木造りの四角のテーブルは、その片隅から移されたものらしかった。かびの生えたような青い小さなガラスを四枚張った小さな窓は、三つとも、いずれもどんよりと曇ったうえにぴったり閉めきってあるので、部屋の中はかなり息苦しく、それほど明るくはなかった。テーブルの上には食べ残された卵子の目玉焼きのはいっている焼き鍋や、食いさしのパンや、底のほうにほんのちょっぴり残っている地上の幸福(ウオトカ)の小びんなどが載っていた。
左側の寝台に近い椅子には、更紗の着物を着た品のいい女が坐っていた。顔はひどく痩せていて黄色く、いちじるしく落ちこんだ頬は、一目見ただけでもその女が病気だということを表わしていた。しかし、何よりもアリョーシャの心を打ったのは、このあわれな婦人のまなざしであった。ひどく物問いたげな、しかも、それと同時に、おそろしく高慢なまなざしであった。婦人はまだ口を出さずに、主人公がアリョーシャと話し合っている間じゅう、大きな鳶色の眼を高慢らしく、物問いたげに動かしながら、話し合っている二人を見比べるのであった。左の窓側の婦人のわきには赤い巻き毛の、かなりに器量の悪い、若い娘が立っていた。身なりは粗末ながら、小ざっぱりしていた。彼女はアリョーシャのはいって来るのを、気むずかしげに眺めた。右側には同じく寝台のそばに、もう一人の女性が腰をかけていた。やはり二十歳ばかりの若い娘ではあったが、見るもあわれな佝僂で、あとでアリョーシャの聞いたところによると、両足が萎えてしまった躄だとのことであった。この娘の松葉杖は一方の隅の寝台と壁のあいだに立てかけてあった。ひときわ美しく、気立てのよさそうな眼はなんとなく落ち着いた、つつましい表情を浮かべながら、じっとアリョーシャを見つめていた。テーブルの向こうには四十五ばかりの男が坐っていて、玉子焼きをたいらげているところであった。あまり背が高くなく、痩せこけて、弱々しげな体格をして、髪の毛も赤く、まばらな顎鬚も赤みがかかっていたが、この鬚はささくれ立った垢すりの糸瓜にそっくりであった。(この比喩――ことに『糸瓜』ということばが、なんということもなしに、一目見るなり、アリョーシャの心にちらついて、彼はこれを後になって思い出した)部屋の中に誰もほかに男のいないところから察するに、この男が戸の中から『いったい、誰?』と叫んだものらしかった。しかし、アリョーシャがはいったとき、彼は今まで腰かけていたベンチから、いきなり飛びあがって、穴だらけのナプキンであわてて口のあたりを拭きながら、アリョーシャのほうへ飛んで来た。
「お坊さんがお寺からお布施をもらいに来たんだわ、選りに選ってこんなところへ!」左の隅に立っていた娘が、大きな声で言った。すると、アリョーシャのそばへ飛んで来た男は、いきなり、ぐるりと踵で、娘のほうへ身をかわして、興奮して、妙にちぎれちぎれな調子で答えた。
「そうじゃないよ、ワルワーラさん、それはあなたの勘違いですよ! ところで、私のほうからも、お伺いしますが」彼は再びアリョーシャのほうをひょいと振り向いた、「どういうわけであなたはお越しなすったんでございますか、……この内まで?」
アリョーシャはしげしげと相手を眺めた。はじめて彼はこの男を見たのであった。この男は、なんとなく角ばっていて、せかせかして、いらだたしそうであった。たった今、飲んだということははっきりしているが、けっして酔っ払ってはいなかった。その顔は何かしら、非常に高慢な様子と、それと同時に、――奇妙なことであるが、――いかにも臆病らしい色を浮かべていた。長いこと忍んで仕えていた人が、急に奮然と立って気骨を示そうとしている人のようなところがあった。もっと適切にいうと、相手をなぐりつけたくてたまらないのに、相手の者からなぐりつけられはしまいかと、極度に恐れている人のようであった。彼のことばにも、かなり鋭い声の調子にも、何かしらキ印らしいユーモアがあって、意地悪そうになったり、ときには待ちきれないで、びくびくしているように、しどろもどろになったりした。『この内』のことで質問を放ったとき、彼は全身を震わせながら、眼を回してアリョーシャのほうへぴったり食いつくように飛びついたので、こちらは思わず機械的に、一歩あとへ引きさがったくらいであった。
彼は非常に粗末な、南京木綿か何かの地味な服を着ていたが、それはつぎはぎだらけで、しみがいっぱいついていた。ズボンはすっかり流行おくれの、思いきり明るい色をした格子縞で、きわめて薄っぺらな地であった。下の方がすっかり皺くちゃになっているので、裾がつり上がって、まるで子供のように足がつき出ていた。
「僕は……アレクセイ・カラマゾフです……」とアリョーシャは答えた。
「それはよく承知しておりまする」そんなことを聞かなくとも、客の何ものかはよく知っていたと悟らせるかのように、男はすぐにさえぎった、「ところで、私はスネギーレフ二等大尉でございますが、それにしても、どういう子細があってお越しになったかお伺いいたしたいものです……」
「なあに、僕はちょっとお寄りしてみただけなんです、実のところ、たったひとことあなたに申し上げたいことがあるんですが……。おさしつかえございませんでしたら……」
「そういうわけなら、ここに椅子がございますから、さあ、どうぞ、その場に。これは昔の喜劇の中でよくいうやつでございますよ、『どうぞその場に』なんかと……」言いながら、二等大尉はすばやく空の椅子をつかんで(それは全く木ばかりで造った、よくよく不細工な椅子で、何も張ってなかった)、それをほとんど部屋のまん中の辺に据えて、やがて、自分がかけるために、もう一つ同じような椅子をとって、アリョーシャの真向かいに坐ったが、前と同じように膝と膝とがすれ合うほど接近していた。
「ニコライ・スネギーレフと申し、昔は露国歩兵二等大尉でござりましたが、身持ちのよくないために、恥をかきましてね、それでもやはり二等大尉なんでして。しかし、スネギーレフというより、むしろ二等大尉スロヴォエルソフといったほうがわかるくらいでございますよ。なぜと申すに、わたくしは後半生に至ってスロヴォエルスばかりで話をするようになったもんですからね。このスロヴォエルスはたいてい落ちぶれてから口癖になるものでして……」
「いかにも御もっともです」とアリョーシャはほほえみを浮かべた、「しかし、何気なくお使いになるおことばですか、それとも、ことさらに?……」
「誓って申しますが、何気なくなんですよ。いつも言ったことなんかなかったのでして、長いことスロヴォエルスで話したことなんかなかったのですが、急に落ちぶれて、いつの間にかスロヴォエルスを言い始めていたのです。これは神様のお力でなることでございますよ。お見受けしたところ、あなたは現在の問題に興味を持っていらっしゃるようでございますね。それはそうと、どうしてわたしなんぞに好奇心をお起こしなすったのでしょうね? 御覧のとおり、お客様をおもてなしすることもできないような境遇におりますので」
「僕は……あの例の事件のことでまいったのです……」
「あの例の事件?」と二等大尉はじれったそうにさえぎった。
「僕の兄貴のドミトリイとあなたがお会いなすった件についてです」とアリョーシャは不細工に口を出した。
「会ったとはなんでございますか? あの例の一件じゃございませんか? つまりなんですか、糸瓜の一件、垢すり糸瓜の一件じゃございませんかね?」彼は急に乗り出して来たので、今度は本当にアリョーシャと膝を突き合わせてしまった。彼の唇は何か妙にひき締まって、糸のように細くなった。
「いったい、糸瓜とは何のことですか?」アリョーシャはつぶやいた。
「それはね、父ちゃん、僕のことを父ちゃんに言いつけに来たんだよ!」片隅のカーテンのかげから、聞き覚えのあるさきほどの子供の声が叫んだ、「僕さっき、その人の指をかんでやったんだ!」
カーテンがさっと引かれたかと思うと、聖像の飾ってある片隅に、床几と椅子とをつないでこしらえた寝台があって、その上に横たわっているさきほどの敵の姿が、アリョーシャの眼にはいった。子供は、さっきと同じ古外套に、もっと古ぼけた綿入れの蒲団をかけて横になっていた。体のぐあいがよくないらしく、燃えるような眸から判断すると、熱が高いらしかった。今はさっきとは違って、恐れるさまもなく、『もう家にいるんだからだめだぞ』とでも言いたそうに、アリョーシャを見つめていた。
「え、なんだ、指をかんだと?」二等大尉は椅子から飛び上がらんばかりにして、「それはあなたの指をかんだのでございますか?」
「ええ、そうです。さっきあなたの坊ちゃんが往来で、大ぜいの子供を相手に石の投げっこをしてたんですが、なにしろ向こうは六人、こっちは一人ですから、僕が見かねて、そばへ寄って行きますとね、坊ちゃんが僕にまで石を放るじゃありませんか。二度目のが僕の頭に当たりました。で、僕が何の恨みがあるのかと聞きましたら、いきなり飛びかかって来て、ひどく僕の指をかんだんですけれど、僕にはさっぱりわけがわかりません」
「今すぐ、ぶんなぐってやります! 今すぐ、ぶんなぐってやりますよ!」二等大尉はもうすっかり椅子から飛び上がった。
「僕はけっして言いつけに来たのじゃありません。ただありのままを話しただけです、……坊ちゃんをなぐっていただきたくはありません! それに今かげんが悪いようですし……」
「じゃあなたは本当に、わたしがあれをなぐるとでもお思いでしたか? いったい、わたくしがイリューシャをとっつかまえて、今すぐあなたの前で、御満足のゆくほど、なぐりつけると思ってらしったんでございますか? すぐそうして欲しいとおっしゃるんですか?」二等大尉は、まるで今にも飛びかかりそうな様子をして、急にアリョーシャの方へ振り向きながら、言うのであった、「いや、あなた様の指のことは全くお気の毒です。はい。しかし、イリューシャをなぐる代わりに、今すぐお眼の前で、そこにあるナイフでもって、十分あなたの気の済みますように、わたくしの指を四本、ずばりと切り落としてはいかがでございましょうね。指を四本なら、あなたの復讐の御希望が十分に達せられるだろうと存じますが、よもや五本の指までは要求なさらんでしょうね?……」
彼は急にことばを切って、苦しそうな息づかいをしていた。その顔の線はことごとく、引っつりながら躍って、眼には恐ろしい、挑戦的な色が浮かんでいた。彼は夢中にでもなっているらしかった。
「僕はやっと何もかもわかったような気がします」アリョーシャはずっと坐ったまま、声低く、悲しそうに答えた、「つまり、坊ちゃんは――気だてのいいおかたで、お父さん思いなんですね、だから、父親を侮辱した者の兄弟として、僕に飛びかかったわけなんですね……僕はやっと、何もかもわかりました」と彼は考えこみながらくり返した、「しかし、僕の兄のドミトリイは自分のしたことを後悔しています。それは僕がよく承知しています。だから、兄がお宅へ来ることが、いや、それよりも、あの時と同じところであなたにまた、お目にかかることができたら、みんなの眼の前で兄はおわびするはずです……もしお望みとあらば」
「すると、なんですか、人の鬚を引っこ抜いたあげく、おわびをして、それでもう何もかもおしまいにして、罪滅ぼしをした……とでもいうんでございますね、ね、そうでしょう?」
「いいえ、どういたしまして、兄はなんでもお気に入るようにしましょうし、お望みどおりのことをいたします!」
「そんなら、もし、わたくしがあのかたに、前と同じ居酒屋――屋号は『都』と申しますが、そこでか、または町の広小路で、わたしの前へ膝をついてくださいとお願いしたら、そのとおりにしてくださるでしょうかね?」
「しますとも、むろん、兄は膝をつきますとも」
「ああ、胸にしみました! あなたはわたくしの涙をお絞りになりました、ああ、胸にしみるです! すっかりもう、お兄さんの寛大な心をお察しする気になりました。どうぞ十分に紹介の労をとらしてくださいまし、あれにおりますのが、わたしの家族で、娘が二人に息子が一人――みんな一つ腹のなんでございますよ。もしわたくしが死んだ日には、誰があれらを可愛がってくれましょう? また、わたくしの生きているあいだ、あれらを除けて、誰が、こんないやらしい親爺に目をかけてくれましょう! これこそ、わたくしのような人間に、神様が定めてくだすった大きな事業でございますよ。実際、わたくしのような人間は、誰かに愛してもらわなくちゃなりませんからね……」
「ええ、それはおっしゃるとおりです!」アリョーシャは叫んだ。
「まあ、たくさんだわ、ばかなまねはいいかげんにしなさいよ。どこかのばか者がやって来れば、すぐもう、あんたは恥っさらしなことばかりなさるんですもの!」不意に、窓のそばに立っていた娘が父に向かって、気むずかしそうな人をばかにしたような顔をして、思いがけなくこう叫んだ。
「まあ、ちょっとお待ち、ワルワーラさん、言いかけたことをついでにしまいまで言わしておくれ」と父親は叫んだ。号令でもかけるような口ぶりであったが、しかもその眼つきは、大いにわが意を得たりというような風であって、「この子はどうもああいう性分でございましてね」と彼はまたアリョーシャのほうを向いた、
「ありとある自然のうちに
何ものをも頌うるを欲せざりき。
何ものをも頌うるを欲せざりき。
いや、これは女性にして、彼女にしなくちゃなりませんね。ところで、今度は失礼ですが、家内を紹介いたしましょう。これがアリーナ・ペトローヴナと申し、年は四十で、足のない婦人でございます。いやなに、歩くことは歩きますが、ほんの少しばかりなんでして。素姓の賤しい者でございますよ。おい、アリーナさん、そんなにへんな顔をするのはよせよ。このおかたはアレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフさんだよ。お立ちなさい。カラマゾフさんだよ」と彼は客の手を取って、この男には思いがけないくらいの力で、いきなりアリョーシャを引き起こした、「あなたは婦人に引き合わされていらっしゃるのですから、お立ちにならなければなりません。この人はね、母ちゃんや、あのカラマゾフとは違うんだよ。わしをその……ふむ! その弟さんで、品行の正しい、おとなしい立派なおかたなんだ。失礼でございますが、アリーナさん、失礼でございますが、ねえ、母ちゃんや、まずもって、あなたの御手を接吻させてくださいましな」
と言って、彼は妻の手に、うやうやしく、優しく接吻までするのであった。窓ぎわの娘はこの光景を見ると癪にさわって、背を向けた。高慢らしく、物問いたげにしていた妻の顔は、急になみなみならぬ愛想のよさを示した。
「よくいらっしゃいました、チェルノマゾフ(黒んぼ)さん、さあおかけなさいまし」と彼女は言った。
「カラマゾフさんだよ、お母ちゃん。カラマゾフさんだよ……なにしろ、わたくしたちは素姓の卑しい者でございますからね」と彼は再びささやいた。
「まあカラマゾフでも何でもいいけれど、わたしはいつでもチェルノマゾフです……さあ、おかけなさいな。いったい、家の人はどうしてあなたを立たしたのでしょうね? 家の人は足のない婦人だなんて言いますけれど、足はちゃんとありますよ。ただまるで桶のように脹れあがって、体が痩せてしまったのですよ。以前はどうしてどうして、とても太ってましたけど、今はもうまるで針でも飲んだように痩せてしまいましてね」
「わたくしどもは何分にも素姓の卑しいものでして、素姓の卑しい……」二等大尉はまたもやそばから口を出した。
「父さんてば、よう、父さん!」今まで椅子に坐って黙りこんでいた佝僂の娘が、いきなり言ったかと思うと、ハンカチで顔を隠した。
「道化者!」窓のそばの娘はだしぬけに言う。
「まあ、あなた、家は今どんなことになっているか御覧なさいまし」と母親は両手を広げて、二人の娘を指さした、「まるで雲が湧き上がってるようなものですよ。雲が通り過ぎてしまうと また、がやがや始まるんですからね。まだ、わたしたちが軍人のお仲間にいました時分は、いろんな立派なお客様がたくさんお見えになったものです。なにも、あなた、何と比べるわけじゃありませんけど、愛してくれる人があったら、こちらもその人を愛してやらなけりゃなりませんよ。そのころ、補祭の家内がまいりましてね。『アレクサンドルさんは気性の立派なおかたですのに、ナスターシャさんといえば、地獄の申し子だ』なんて言うじゃありませんか。だから、わたしはね、こう言ってやりましたの、『ひとは、誰でも崇拝してくれる相手があるのに、おまえなんか一人ぼっちで、鼻もちならないわ』すると、向こうの言うには、『おまえなんぞは牢へ放りこんでやらなくちゃならない』――そこでわたしは、『ええ、この意地悪め、誰を教えに来たんだ?』するとまた、向こうでこう言うんですよ、『わたしはきれいな空気を吸ってるけれど、おまえはきたない空気を吸ってるじゃないか』『じゃ、将校さんがたみんなに聞いてみろ、わたしの体の中にきたない空気があるかないか!』と言ってやりました。それからというもの、このことばかり気になってたまらなかったんですよ。すると、つい先だって、今のようにここに坐っていますとね、本当の将官様がこちらへ復活祭をかけていらっしったんですよ、そこでわたしは、『閣下、いったい、高尚な婦人が外の空気を吸っても、よろしいものでございましょうか?』と聞きましたの。と、『うむ、こちらでは通風口でもつけるか、さもなければ戸をあけるかしなければいけません。なにしろ、お宅の空気は新鮮でないのですからね』とおっしゃるんですよ。しかも誰にきいても、皆そう言うじゃありませんか! いったい、あの人たちに、私の空気が、どうだったんでしょう? 死人の臭いよりはましじゃありませんか! だから、わたし言ってやりますの、『わたしはあなたがたの空気を濁したりなんかしませんよ。わたしは靴を注文して、よそへ行ってしまいます』って。まあ、ね、自分の母親をそうとがめないでおくれ! ニコライさん、いったい、わたしがお気に入らなかったんですの? わたしのせめての楽しみは、イリューシカが学校から帰って、わたしを可愛がってくれることですの。昨日も林檎を持って帰ってくれましたよ。どうか許しておくれ、母さんを許しておくれ、わたしは一人ぼっちの寂しい身の上です。いったい、なんだって、みんなわたしの空気がそんなにいやになったのでしょう?」
と言って、哀れな狂女は、いきなり声をあげてすすり泣きをし始めた。涙はとめどなく流れるのであった。二等大尉はまっしぐらに妻の方へ駆け寄った。
「母ちゃんよ、母ちゃん、およしよ、およしったら! おまえはけっして一人ぼっちじゃないよ。みんなおまえを好いているんだよ、みんなおまえを尊敬しているよ」と彼はまた妻の両手に接吻しながら、両の掌でその顔を優しくなで始めた。それから、ナプキンを取るなり、顔の涙を拭いてやった。アリョーシャには彼自身の眼にも涙がひらめいたように感ぜられた。
「さあ、あなた、御覧になったでしょう? お聞きになったでしょう?」彼はだしぬけに哀れな低能を指さしながら、いたけだかになって、アリョーシャのほうを振り向いた。
「ええ、よくわかりました」こちらはへどもどしながらこうつぶやいた。
「父ちゃん、父ちゃん! いったい、父ちゃんはその人と……そんなやつうっちゃっておおきよ、ねえ、父ちゃん!」不意に床の上に起きなおって、燃えるような眼で父親を見つめながら、少年は叫んだ。
「もう、たくさんだわ、そんな道化たまねをして、ばかげた芸をしてみせるのは、もういいかげんにしたらいいじゃありませんか。そんなことはなんの役にも立つじゃあるまいしよ……」
ワルワーラは、もうすっかり癇癪を起こしてしまって、やはり同じ片隅から、どなりつけた。彼女は床まで鳴らすのであった。
「全くもっともな話だ、なあワルワーラさん、今度こそはおまえさんが憤慨なさるのも無理のない話だ。だから、わたくしもおまえさんの言うことを聞きましょう。さあ、お帽子をかぶりなさい、わたくしも、このシャッポをかぶりますから、いっしょに出かけましょう。あなたにひとことまじめに申し上げたいことがございますが、まあ、この部屋を出てからにいたしましょう。その、そこに坐っている娘は、わたくしの娘で、ニイナ・ニコライヴナと申しますんでございますよ。紹介するのを忘れておりましたが。――これは生き身の天使でございますよ……人間の世界へ天降りましたんで、……でも、おわかりになりますかしら……」
「ほら、あんなに体じゅう震わせて、まるで痙攣でも起こしているようだわ」とワルワーラは腹立たしげにことばを続けた。
「ところで、いまじたんだを踏みながら、わたくしのことを道化と言った娘も、やはり生き身の天使なんでございまして、わたくしのことを道化呼ばわりしたのも、もっとも至極なんでございますよ。さあ、カラマゾフさん、おともいたしましょうかな、切りをつけなければなりませんので……」
こういって、アリョーシャの手を取って、部屋からいきなり、通りへ引っ張り出した。
「空気が澄んでおりますな。わたしのお屋敷の中は、実際、いろんな意味で申しましても、あんまりせいせいしておりませんで。まあ、ゆっくり、まいりましょう。わたくしはおもしろいことをお聞かせしたいと思いましてな」
「実は僕も、たいへんな問題があるんですけれど……」とアリョーシャが言った、「さて、どういう風に切り出していいか迷っているんです」
「あなたがわたくしに用件のあることを、知らずにいるはずはございません。用がなかったら、けっして、わたくしのところなぞ、のぞいて御覧になることもなかったはずですからね。それとも実際に、子供のことを言いつけにいらっしただけなんでございましょうか? それはどうも受けとれませんでしてね。それはそうと、ついでに子供のことをちょっとお話しいたしましょう。さきほどあの席では、すっかりお話ができなかったものですから、今ここであのときの様子を詳しく申し上げることにしましょう。御覧なさいまし、この糸瓜もつい一週間前までは、もう少し厚かったのでございますよ、――自分の鬚のことを申していますので。わたくしの鬚は糸瓜というあだ名を取っているんでございますが、これは主として、小学校の生徒の言うことなんでございますよ。ところで、その、あなたのお兄さんのドミトリイさんが、あのとき、わたくしの鬚を引っぱったんでございますよ。何というわけもなしに、ただお兄さんが暴れだしたところへ、おり悪しくわたくしが行き合わせたものですから。居酒屋から広場へ引きずり出されたときに、ちょうどそこへ生徒たちが学校から出て来ましてね。その中にイリューシャも混っていたわけなんです。わたくしがそんな目にあってるのを見ると、倅はいきなり飛びかかって来て、『父ちゃん! 父ちゃん!』とわめくんでしてね! そしてわたくしをつかまえて、抱きしめながら、一生懸命に引き放そうとして、敵に向かって、『放してください、放してよ、これは僕の父ちゃんなんだから、ねえ、僕の父ちゃんなんだから、堪忍してやってちょうだいよ!』全くそう言ってどなるじゃありませんか、『堪忍してやってちょうだい』とわめいたのです。それから、小さな手でお兄さんにとびついて、その手に、え、その手に接吻するじゃございませんか、……わたくしは、その時のあれの顔が、今でもありありと見えるようでございますよ。忘れられないんでございますよ、けっして、これから先も忘れはいたしません……」
「僕誓ってもいいです、」とアリョーシャは叫んだ、「兄は十分にこのうえもない誠意をもって、あなたに悔悟の念を表わすはずです。あの広場で膝をついてまでも……無理にそうさせます。でなかったら、もう僕の兄じゃありません!」
「ははあ、ではまだ御計画中なんですね。あの人から直接に出たことでなくって、あなたの立派な情愛から出たことなんですね。そんならそうとおっしゃればよろしいのに。いや、そういうわけなら、わたくしにもお兄さんのこのうえもなく義侠的な、いかにも軍人らしい高潔なお心を証明させていただきましょう。お兄さんはあのとき、その高潔なお心を、立派にお示しになったのでございますからね。この鬚を引っぱり回していた手を放しなさると、『君も将校なら、おれも将校だ、もし相当の介添人が見つかったら、決闘を申しこめ。そしたら君のようなやくざ者でも、得心のいくように相手になってやる!』と、こう申されたんでございますよ。いや、全く義侠的精神じゃございませんか! わたくしは、そのとき、イリューシャを連れてすごすごと帰りましたが、家の系図にまで残るほどのそのときの光景は、永久にあの子の心に刻みつけられたのでございますよ。いいえ、どういたしまして、わたくしたちは貴族のまねをするわけじゃございません。御自分でも考えてみてくださいまし。あなたは今わたしのお屋敷で、何を御覧になりました? 三人の貴婦人が坐っておりますが、一人は足痿えの阿呆、もう一人は足痿えの佝僂、もう一人は足も達者で、利口すぎるくらいでございますが、女学生でして、もう一度ペテルブルグへ行くと申して、何でもネヴァ川の岸で、ロシア婦人の権利を求めるとか申して承知しません。イリューシャのことは何も申しません。なんといってもやっと九つで、指一本にも当たらないような子供でしてね。もしわたくしが死にましたら、こういう子供はどうなるのやらわかりませんのでね。わたくしはこのこと一つだけあなたにお尋ねしたいんですけれど? もし、わたしがお兄さんに決闘を申しこんで、さっそく殺されでもしたら、そのときはどうなるでしょう? 家内の者はどうなるでしょうか? おまけに、なお始末が悪いのは、お兄さんがわたしを殺してしまわないで、かたわ者にするくらいで許してくださったときでございます。働くわけにはまいりませんが、それでも口だけはやはり残っています。いったい、そのときに、誰がこの口を養ってくれるでしょう? それとも、イリューシャを学校から下げて、毎日乞食しに歩かそうとおっしゃるんでございましょうか? お兄さんに決闘を申しこむということは、わたくしにとって、これだけの意味があるのです。こんなばかばかしいことを言っても、もうしかたはございませんがね」
「兄さんはあなたにおわびしますよ。広場のまん中であなたの足もとにひざまずくでしょう」アリョーシャは眼を輝かせながら、またもや叫んだ。
「またあの人を裁判所へ訴えようかとも思いました」と二等大尉は続けた、「ところが、わが国の法典をひろげて御覧なさいまし、わたくし個人の受けた侮辱に対して、相手の者からたいした賠償もとれないんじゃございませんか? それに、そこへもってきて、アグラフェーナ(グルーシェンカ)様が、わたしを呼びつけて、いきなりどなり散らすじゃありませんか、『大それたことを考えるもんじゃないよ! もしもあの人を訴えでもしたら、わたしがわきから手をまわして、あの人がおまえをなぐったのは、おまえのいんちきのせいだと、みんなに吹聴してやる。そしたら、おまえがあべこべに、裁判所へ引っぱられるんだよ』って。しかし、このいんちきがたれの手から出たことか、そしてたれのいいつけでわたくしが卑怯なまねをしたのか、神様ばかりはようく御承知でございますよ。つまり、あのかた御自身と、フョードル様のさし金じゃございませんか? それから付けたりにおっしゃるには、『おまけに、わたしが一生おまえを追っ払ったら、わたしのところでは鐚一文だってとれないんだよ、うちの商人にもそういっておいたから(あのかたはサムソノフ老人のことを『うちの商人』と申されますので)、あれもおまえを寄せつけないはずだ』。そこで、わたしも考えました。もしも、あの老人がわたくしを寄せつけなかったら、たれからもらえるのか? と。なにせ、わたくしにもうけさしてくれるのは、あのお二人きりでございますからね。あなたのお父さんはある別な事情のために、わたくしを信用してくださらないようになったばかりでなく、わたくしの証文を楯にとって、裁判ざたにしようとしてらっしゃるんでございますよ。こんなことのために、わたくしも、黙ってしまったわけでして。また、あなたも、わたくしの内を御覧になったわけなんです。ところで、ちょっと、お伺いいたしますが、あの子はさきほどひどくあなたのお指をかんだんでございますか? お屋敷の中で、あの子のいる前では、どうにも詳しいことにわたるのが気がひけたものですから」
「ええ、ずいぶんひどいんです。それに、坊ちゃんもたいへん気が立っていたようですから。あの坊ちゃんは、僕をカラマゾフの一族として、お父さんのあだ討ちをしたのです、それが今になってよくわかってきました。でも学校の友だちと石の役げっこをしてるところを、あなたが御覧になったら、どうでしたろう? それこそ危なかったですよ。なにしろ子供で、分別もありませんから、皆で坊ちゃんを殺してしまうかもしれませんよ。石が飛んで来たら、頭なんか割れるかもしれません」
「いや、もう当たりましたんでございますよ、頭でなくて、胸をやられたんですが、心臓のちょっと上の辺に石が当たったとかで、あざができて、今日は泣いたり、うなったりして、帰って来るなり、あのとおり病みついたんでございますよ」
「ときに、御承知でしょうが、坊ちゃんは御自分から先にみんなに食ってかかるんですよ。あなたのために憤慨したんでしょう。子供らの話によると、さっきクラソトキンとかいう子供の横腹を、ナイフで突いたそうですよ……」
「そのことも聞きましたが、どうも危ないことでございます。そのクラソトキンというのは、ここの役人ですから、またやっかいなことが起こるかもしれません……」
「僕はあなたに御忠告しますが」とアリョーシャは熱心に続けた、「当分のあいだ、気が静まるまで、全然、学校へやらないほうがいいですよ、……そのうちに、怒りも納まるでしょうからね……」
「怒り!」と二等大尉は引き取った、「全く怒りでございますね! ちっぽけな子供ですが、大きな怒りをもっていますよ。あなたはこのことを全部御存じないんですね。じゃ特にこの話をはっきり説明させていただきましょう。といいますのは、あの出来事のあとで、学校の子供らが、あれを糸瓜と言ってからかいだしたことです。学校の子供らは、なかなか残酷なものでしてね、一人一人のときは天使のようでも、いっしょになると、わけても学校でみんないっしょになると、よく残酷になるものでしてね。皆がからかいだすと、イリューシャの心の中にけなげな精神が、むらむらと湧き起こってきたのです。普通の弱い子供なら、いいかげんに降参して、自分の父親を恥ずかしく思うところでしょうが、あれは一人で父親のために皆を向こうにまわしました。父親のために、真理のために、真実のために奮い立ったのです。あのとき、お兄さんの手に接吻しながら、『父ちゃんを堪忍してやってちょうだい。父ちゃんを堪忍してやってちょうだい』とわめいたとき、あの子がどんなつらい思いをしましたか、まあ神様お一人と、それからわたくしのほか、知る者はございませんですよ。全く、手前どもの子供は――つまり、あなたがたのじゃなくて、手前どもの子供で、――人からさげすまれていても、気高い貧乏人の子供というものは、もう九つくらいの年から浮き世の真理をわきまえますからね。金持ちなんかには、どうしてどうして一生涯かかっても、そんな深いところまでわかるもんじゃありません。ところが、うちのイリューシャときたら、例の広場で、お兄さんの手を接吻したとき、その瞬間に真理という真理を一時に試したんでございますよ。この真理があれの頭にしみこんで、永久にあれを打ち砕いたんでございますよ」
二等大尉はまたしても興奮のために、前後を忘れたかのように、熱心に述べるのであった。述べながら、『真理』がイリューシャの心を打ち砕いたありさまを、まざまざと現わそうとでも思ったかのように、彼は右手を固めて自分の左の掌を打っていた。
「その日、あれは熱を出しましてね、一晩じゅう、うわごとばかり言い通したのです。その日一日というもの、あの子はあまりわたくしに口をききませんでした。黙っていたといってもいいくらいでした。ただ、隅っこの方から、一生懸命にわたくしを見つめていましたが、だんだんと窓の方にもたれかかって、学校のおさらえでもしているように見せかけていましたが、おさらえなんぞに気をとられていないことは、わたくしによくわかりました。次の日は少々飲みましたので、たいていのことは忘れてしまいました。罪の深い男で、ただ憂さ晴らしのために飲んだんでございますよ。母ちゃんもやっぱり泣きだしましてね、――わたくしは母ちゃんをもかなり愛しております、――まあ、悲しさをまぎらわすために、なけなしの金をはたいて飲んだのでございますよ。あなた、どうかわたくしをばかにしないでくださいまし、ロシアで、われわれ仲間では酒飲みがいちばん善人ということになっていましてね、またいちばん人のいい連中がまたいちばんの酒飲みなんでございますよ。それで、横になっていましたんで、イリューシャのことはその日はそんなによく覚えていませんでした。ところが、ちょうどその日は朝っぱらから子供たちが学校で、あれをからかっていたんでございますよ。『やい、糸瓜野郎、おまえの親父は糸瓜をつかまれて居酒屋から引っぱり出されたんだ。やあい、それで、おまえはそのそばをかけずり回って、あやまったじゃないか』とはやし立てましてね。三日目の日にあれが学校から帰って来たのを見ますと、まっさおになってしまって、その顔色ったらございません。『いったい、どうしたんだ』と聞いても黙ってるんです。それにわたくしのお屋敷では何一つ話ができんのです。すぐに母ちゃんやお嬢さんたちが口を出しますので。そのうえお嬢さんたちはもう事件のあった当時に、すっかり聞きつけてしまったのでございますよ。ワルワーラなんぞはもう、『この道化者、一度だってお父さんのすることに、理屈のかなったためしはないじゃありませんか?』なんかと、まぜ返し始めたんですよ。『全く、そのとおりだ、ワルワーラさん、わしのすることが理屈にかなうはずはないよ』と言って、その場を濁しときましたよ。その日の暮れがたに、わたくしは野郎を連れて散歩に出かけました。ちょっとお断わりしておきますが、わたしはそれまで毎晩あの子をつれて、今あなたとこうして歩いていると同じ道を、散歩に連れ出していたんですよ。家の木戸から、あの道の籬のそばに、たった一つ淋しそうにころがっているあの、すてきに大きな石のところまで行くんです。あの石のところから牧場が始まるんでございますが、閑静な見晴らしのいいところでございますよ。いつものとおり、わたくしは、イリューシャの手を取って歩いておりました。あれの手はまことに小さな手で、指なぞ細くって、冷とうございますんで、なにしろ、あれは胸の病気があるもんでございますから。ところが、不意に、あの子が、『父ちゃん、父ちゃん――』と言いだします。わたくしが、『なんだい?』と言いながらよく見ると、あれの眼が光ってるじゃありませんか。『父ちゃん、あのときね、父ちゃん、ひどい目にあいましたね!』『しかたがないよ、イリューシャ』とわたしは言いました。『あいつと仲なおりしちゃいけないよ、父ちゃん。だって学校で皆が言うんだもの、父ちゃんが仲なおりのために、あいつから十ルーブルもらったなんて』『そんなことがあるもんか、イリューシャ、もうこうなったら、どんなことがあっても、あいつから金なんぞもらいやしないよ』すると、あれはぶるぶる身震いして、いきなり両手でわたくしの手を取って接吻しながら、『父ちゃん、あいつに決闘を申しこんでください。だって、学校でみんなが言うんだもの、父ちゃんは臆病だから決闘を申しこめないんだ、それで、あいつから十ルーブルもらったんだなんてばかにするんだもの』『イリューシャ、あいつに決闘を申しこむわけにはいかないんだよ』と答えて、わたくしは、たった今あなたにお話ししたことを、あっさりと聞かしてやったんです。あれはじっと聞いておりましたが、『父ちゃん、それでもやっぱり、仲なおりをしないでちょうだい。僕は大人になったら、決闘を申しこんで、あいつを殺してやるんだ!』と言うんです。眼を光らせましてね。まあ、それでも、やはり、わたしは父親でございますから、ひとこと本当のことを教えてやらなければなりません。で、『たとい、決闘になっても、人を殺すのはいけないことだ』とこう言い聞かせますと、『父ちゃん、僕、大人になったら、あいつを打ち据えてやるんだ。僕、自分のサーベルであいつのサーベルをたたき落として、あいつに飛びかかって、倒してやるんだ。そしてね、あいつの頭の上にサーベルを振り上げて、「いますぐにでも殺せるんだけれど、勘弁してやる、ありがたく思え!」って言ってやるんだ……』って。どうでしょう、あなた、どうでしょう、この二日のあいだに、こんな段取りが、あの小さな頭にちゃんとできてるじゃございませんか。あれは、昼も夜もこのことばかり考え通して、きっと、うわごとにまで言ったんでしょうよ。ところで、学校から、ひどい目にあって帰って来るってことは、やっと一昨日、わかったばかりなんでございますよ。あなたのおっしゃるとおり、もう、あの子を学校へはけっしてやりますまい。あれが組じゅうの者を向こうへまわして、自分から腹を立てて、胸がいっぱいになってみんなに喧嘩を売るということを聞いたとき、わたしはあれのことが気になって、たまらなかったんでございますよ。それからまた、二人で散歩に出たときのことですが、イリューシャがこんなことを聞くじゃありませんか。『父ちゃん、金持ちが世界じゅうで誰よりも強い?』って。『そうだよ、イリューシャ、金持ちより強いものは世界じゅうにないんだ』と、わたしが言いますと、『父ちゃん、僕うんと金持ちになるよ。僕は軍人になって、みんな負かしてやるんだ。そうすると、皇帝陛下が僕に御褒美をくださるから、そうしたらここへ帰って来るんだ。そしたら、誰だって僕に手出しなんかできるものか……』それからしばらく黙っていましたが、『父ちゃん』とまた言いだしました。――唇はやはり前のように震えてるじゃありませんか、『ここの町は本当にいやな所だねえ、父ちゃん!』『そうだ、イリューシャ、この町はどうもあまり感心しないよ』『父ちゃん、ほかの町へ、ほかの、いい町へ引っ越しましょうよ。僕らのことを誰も知らない町へ引っ越しましょう』『うん、越そう! そうしよう。イリューシャ、ただお金を少しためりゃいいんだから』と言って、わたくしは、あの子の悲しい思いをまぎらすおりがきたのを喜んで、どんな風にして他の町へ行こうかだの、馬と馬車をどうして買おうかだの、いろんな空想を始めました。『母ちゃんと姉ちゃんは馬車へ乗せて、上からおおいをしてやろう。そしておまえとお父さんはそのそばを歩いて行こうよ。ときどき、おまえだけは乗せてやるが、父ちゃんはやはりそばについて歩いて行こう。だって、うちの馬だから世話をしてやらにゃならんから、みんなで乗るわけにはいかないんだよ。そんな風にして行くことにしようね』こう言いますと、あの子は夢中になって喜びました。何よりも自分の家に馬があって、自分がそれに乗って行くというのが嬉しいんですね。御承知のとおり、ロシアの子供というものは馬といっしょに生まれるようなものでございますからね。まあ、こんなことを、長いこと、おしゃべりしました。いいあんばいに、あれの気をまぎらわして、慰めてやったと思って安心しました。これは一昨日の夕方のことでしたが、昨日の晩になると、様子ががらりと変わってしまいました。朝、あれはまた例の学校へ出かけましたが、帰って来た時には沈んだ顔つきをしておりました。ひどく沈みこんでおりましたので、夕方、わたしはあの子の手を取って、散歩に出かけましたが、黙りこんでいて、口をきかんのです。風がそよそよと吹いて来て、夕日はかげり、いかにも秋らしい感じがしました。あたりはだんだん薄暗くなって、ぶらぶらしておりましても、なんだか二人とも気が滅入ってくるようでございました。『なあ、イリューシャ、どんな風にして旅立ちの用意をしたものかな』とわたくしが申しました。やはり昨日の一件に話をもっていこうと思いましたので。ところが、やはり黙っているじゃありませんか。気がついてみると、あれの指が私の掌の中で震えているのです。ああ、これはいかん、何か新しいことがあるんだな、と、わたしは思いました。そのうちに、ちょうど今と同じようにこの石の所までやって来て、わたしはその上に腰をかけました。すると、空には紙鳶がどっさり上がっていて、ぶんぶんうなったり、ぱたぱた音を立てたりしていました。ちょうど紙鳶の時節なものですから。『おい、イリューシャ、おれたちもひとつ去年の紙鳶を上げようじゃないか。お父さんが繕ってやるよ。いったい、おまえ、どこにしまったんだえ?』と聞きましたが、あれはやはり黙って、そっぽを向きながら、わたしに横顔を見せて立っているんでございますよ。そのとき、疾風が吹いて来まして、砂を吹き上げました。……それで、あの子はいきなりわたしに飛びかかって、小さな両手でわたくしの首筋に抱きついて、じっとしめつけるのでした。御承知でしょうが、無口でいても、気位の高い子供は、いつまでも肚の中で涙を押えているものですが、非常な悲しみに襲われてやりきれなくなると、もうそのときは涙が流れるのでなくって、まるで小川がほとばしるようでございますよ。その暖かい涙がほとばしって、わたしの顔は、たちまちずぶぬれになってしまいました。あの子はまるで引きつけたように、しゃくりあげて泣きながら、身震いをして、一生懸命にわたくしを抱きしめるじゃありませんか。わたくしはじっと石の上に坐っておりました。『父ちゃん』とあの子がわめくのでございます。『父ちゃん、あいつは父ちゃんになんて恥をかかしたんだろうね!』そこでわたくしももらい泣きをしましたんですよ。二人は石の上に坐って、抱き合ったまま震えておりました。『父ちゃん、父ちゃん!』とあれが言えば、わたしも、『イリューシャ、イリューシャ』と申します。そのとき誰も二人を見た者はございません。ただ神様だけは御覧くだすって、出勤簿につけてくだすったろうと存じます。どうか、アレクセイ様、お兄様にようくお礼を申してくださいまし。とんでもありません。あなたの御得心のいくように、あの子をなぐるわけにはとてもいきませんでございますよ!」
彼は長談義を、元のような恨めしげな、キ印らしい語調で結んだのであった。しかし、アリョーシャは、彼が自分を信用していると感じた。誰か他の人が自分の立場にあったとしたら、けっしてこの男は自分にこんなことを『語り』もすまいし、今、自分に話したようなことを報告もしないだろうと思った。それがアリョーシャを元気づけたが、胸は涙に震えるばかりであった。
「ああ、どうかしてあのお子さんと仲なおりがしたいもんです!」と彼は叫んだ、「もし、あなたがうまく取り計らってくだされば……」
「いや、全くでございますよ」と二等大尉はつぶやいた。
「しかも、今申し上げようと思うのは別のことです。まるで別のことです。ようござんすか」アリョーシャは叫び続けた、「ようござんすか! 僕はあなたにことづてを頼まれているんです。あの僕の兄のドミトリイは許嫁の妻をもはずかしめたのです。それは実に気高い令嬢なんですが、あなたもきっとお話をお聞きになったでしょう。僕はあの人の受けた侮辱を、あなたに打ち明ける権利を持っています。いや、打ち明ける義務があると言ってもいいくらいです。なぜと申しますと、あの人はあなたがお受けになった侮辱を聞き、あなたの不仕合わせな境遇も何もかも聞いたので、たった今、……ほんの今さっき……この扶助金をあの人の名であなたにお届けするようにと、僕にお頼みなすったからです、……もっとも全くあの人ひとりの名で、あの人を捨てたドミトリイの名ではありません。けっしてそんなことはありません。また弟たる僕の名でもありません。ほかの誰の名でもありません、全くあの人ひとりの名なんです! あの人はぜひとも納めていただくようにと、拝まぬばかりに頼みました、……だって、あなたがたお二人は、同じ人間から侮辱を受けたんじゃありませんか、……ですから、あの人があなたのことを思い出したのも、自分であなたと同じような侮辱を受けた時でした(つまり侮辱の程度が同じわけです)。それですから、まあ、妹が兄を助けるというようなものです、……あの人はあなたがお困りになっているのを承知していますから、自分を妹だと思って、この二百ルーブルという金を納めていただくように、ぜひあなたを説きつけてくれと僕に頼んだんです。このことは誰ひとり知る者がありませんから、とんでもない噂が立つ気づかいは全然ありません。で、これがその二百ルーブルです。僕、誓って申しますが、ぜひともあなたはこれをお納めにならんといけませんよ。……でないと、……でないと、世界じゅうの人はみんなかたき同士にならなくちゃならんという理屈になってきますからね! しかし、世の中には兄弟というものもあるわけじゃありませんか、……あなたは気高い心をもったおかたですから、……ぜひともお納めにならなければなりませんよ、ぜひとも!」
と言って、アリョーシャは新しい二枚の虹色の札を差し出した。二人はそのとき、ちょうど籬のほとりの、大きな石のところに立っていたが、あたりには誰もいなかった。二枚の紙幣は二等大尉に恐ろしい印象を与えたらしかった。彼は身を震わせたが、今のところは、ただ驚愕のためばかりらしかった。彼は、こんな風なことは夢にも思わなかったし、こんな成り行きを予想だにしなかったからである。誰からにもせよ扶助金を、しかも、こんなにたいへんな金をもらおうなどとは、想像さえしたことがなかったのである。彼は紙幣を手にしながら、しばらくは、返事もできなかった。何かしら、まるで違った表情が彼の顔にちらついた。
「これをわたくしに、わたくしに、わたくしに! こんなたくさんなお金を、二百ルーブルという大金を! まあ! わたくしは、もう四年ばかりも、こんな大金を見たことがございませんよ、――まあ、これはこれは! それに、『妹から』とおっしゃるんでございますね、……それはいったい本当に、本当にでしょうか?」
「誓って申します、僕が今言ったことはみんな本当です!」とアリョーシャは叫んだ。二等大尉はちょっと顔が赤くなった。
「ところでね、あなた、お伺いしますけれど、もし、わたくしがこの金を受け取りましたら、卑屈な人間にならないでございましょうか? つまり、あなたの眼から御覧になって、わたくしが卑屈な人間にならないでございましょうか?」彼は両手を伸ばしてアリョーシャの体にさわりながら、ひとことひとこと急きこむのであった、「あなたは『妹の贈り物』だからと申して、わたしを説きつけなさいますけれど、心の中ではですね、肚の底では、わたくしを見下げた男だとお思いになるんじゃございませんか、もしわたくしがこれを受け取りましたら、え!」
「いや、いや、なあに、そんなことはありませんよ! 僕は命にかけても誓いますが、そんなことはありませんとも! それに、けっして誰も知る者はいないんですもの。知ってるのは、僕たちばかりですよ。僕とあなたとあの人と、それにあの人がかなりに親しくしている奥様がもう一人……」
「奥様なんかどうでもいいです! ねえ、アレクセイ様、どうぞ聞いてくださいまし。全くもう何もかも聞いていただかなくてはならない時が来たんでございますよ。なぜといって、今この二百ルーブルというお金がわたくしにとって、どんな意味を持っているか、あなたは御存じないからなので」二等大尉はしだいしだいに取り乱しながら、ほとんど野性的なくらいに有頂天になって、ことばを続けた。彼は前後をも忘れたかのように、まるで自分の言いたいことを、すっかり言わしてもらえなかったからと、そればかりを心配しているように、思いきり早口に言うのであった。「この金が非常に尊敬すべき神聖な『妹』から、真心こめて、贈られたということは別として、現在、わたくしはこの金でもって、『母ちゃん』とニイノチカ――あの佝僂の天使、つまり、わたくしの娘を療治してやることができるんでございます。いつかお医者のヘルツェンシュトゥベ様が、御親切なおぼしめしから、わたくしどもへおいでくださいまして、まる一時間ばかりも可哀そうな親子の者を診てくださいましたが、『どうにもわからん』とおっしゃるんでございますよ。しかし、それでも、こちらの薬種屋で売っている鉱泉を、母ちゃんの処方に書いてくださいましてね、これはたしかにききめがあるとのことでした。それらの薬湯の素もやはり処方してくださいました。鉱泉は三十カペイカいたしますが、どうしても四びんくらいは飲まなければなりません。わたくしはその処方を聖像の下の棚へ載せて、今もって、そのままにしておくような始末です。ところで、ニイノチカのほうは何かの薬を熱く沸かして、お湯を使わせるようにとのことでした。しかも毎日朝晩二度ずつなのでございますよ。あなた、どうしてまあ、手前どもで、そんな療治ができるものでしょう? あの小屋で、女中もなく、手伝いもなく、道具も水もなしに何ができましょう? ところが、ニイノチカはひどいレウマチなんでございますよ。わたくしはこのことをお話しするのを忘れていましたが、毎晩毎晩、右半身が全体にずきずき痛んで、それはそれは苦しむんでございますよ、まるで嘘のような話ですけれど、あの神様のお使いはわたくしどもに心配をかけまいと、一生懸命に我慢をして、他の者が眼をさまさないようにと、うめき声さえ立てないんでございますよ。わたくしどもは食べ物も手当たり次第に、なんでもかまわず口に入れるんでございますが、その中でも、あれはいちばん悪い、犬にしかやれないようなところを取るじゃありませんか。『こんなよいところをいただくと罰があたります、それではみんなの物を取りあげることになります。わたくしはやっかい者なんですから』と、まあ、こんなようなことを、あれの天使のような眼つきが、言いたそうにしているんですよ。わたくしどもが、あれの世話をしてやるのが、あれにはつらいらしいんでございますよ。
『わたくしはそんなことをしていただく値打ちはありません、わたくしは何の役にも立たない、つまらないかたわじゃありませんか』――ところが、どうしてどうして、役に立たないどころじゃございません。あれは天使のような優しい心で、わたくしどものことを神様に祈ってくれるのでございますから。あれがいなかったら、あれの優しいことばがなかったら、それこそ、わたくしどもの家は地獄も同然なのでございますよ。あれはワルワーラの心までも、慰めてくれました。しかし、ワルワーラのことも、やはり悪く思わないでくださいまし。あれもやはり天使ですけれど、ただはずかしめられたる天使なんでございますからね。あれがここへまいりましたのは夏のことでしたが、そのころは十六ルーブルの金を持っておりました。それは子供に稽古などしてやって、もうけた金なので、九月――といって、つまり今ごろはペテルブルグへ帰るつもりで、それを旅費に取っておいたんでございます。ところが、わたくしどもがその金を取って使ってしまいましたので、あれはもう帰ろうにも金がない、というような始末なのでございます。それにまだ帰れもしないと申すわけは、わたくしどものために懲役人のような働きをしているからでございます。なにしろ、やくざ馬に馬具や鞍をつけて、こき使うようなありさまなんでございますからね。皆の者の世話をする、洗濯をする、雑巾がけをする、床を掃く、母ちゃんを床の上に寝かしてやる――ところが、そのお母さんは気ちがいときて、涙っぽい女で気ちがいなんでございますよ! こういうわけでございますから、この二百ルーブルがあれば、女中も雇えますし、ねえ、アレクセイさま、可愛い者どもの療治にかかることもできるし、女学生をペテルブルグへやることもできるんでございますよ。牛肉も買えるし、みんなに食べ物のぐあいもよくすることができますので。ああ、しかし、これも、空想です!」
アリョーシャは彼にこうした幸福を与えることができて、また彼がこの幸福を受けることを承諾したので、喜ばずにはおられなかった。
「待ってください、アレクセイさん、待ってください」二等大尉はまたもや、ふっと脳裡に浮かんできた空想に駆られて、われを忘れたように早口にしゃべりだした、「ねえ、あなた、わたくしとイリューシャの空想は、今すぐ実現できるかもしれませんよ。小さな馬と幌馬車を買って、あの子がぜひとも黒駒にしてくれと申しますから、黒駒を買うことにして、一昨日、計画したように、ここを立つんでございます。K県にはわたくしの知り合いの弁護士、幼な友だちがいますが、ある確かな人を通して聞いたのでは、もしわたくしがそちらへ行ったら、その事務所で書記に使ってくれるとか言っているそうです。全くあの人のことだから、使ってくれないとも限りません。ですから、わたくしは母ちゃんと、ニイノチカを載せて、……イリューシャを御者台に坐らせて、自分は歩きながら、みんなを引っぱってまいります、……ああ、もしここで倒された貸金を手に入れることができたら、これだけの間に合うんだがなあ!」
「間に合いますとも、間に合いますよ!」とアリョーシャは叫んだ、「それにカテリーナさんはまだ幾らでも、お入り用なだけ送ってくださいます。それに、あなた、僕も自分の金を持っていますから、兄弟だと思って、親友だと思って、お入り用なだけ取ってください。それは後で返してくださればいいのですから……(あなたは金持ちになりますよ、金持ちに!)そのうえ、あなたがほかの県へ行こうと考えつかれたのは、実にこのうえもないよい御了見でした! そうしたら、あなたがたはきっと救われますよ、しかも、誰よりもいちばんあのお子さんのためになることです、――では、なるべく早く、冬になって、寒くならないうちにいらっしゃい。そしてあちらへいらしっても、僕たちに手紙をくださいよ。僕たちはいつまでも親友でいようじゃありませんか、……いいえ、これはけっして空想じゃありません!」
アリョーシャは相手を抱きしめようとしていた。それほどに彼は喜んでいたのである。しかし、相手の様子を一目見るなり、急に彼はそのまま立ちすくんだ。二等大尉は首をのばして唇を突き出しながら、興奮した青い顔をして立っていたのである。そして、何やら言いだしそうに、唇をもぐもぐさせるのであった。声は少しも出なかったが、絶えず唇を動かしている様は、なんとなく不思議であった。
「あなた、どうなすったんです!」アリョーシャはなぜかしら、不意にぎくりとした。
「アレクセイ様、……わたくしは……あなた」二等大尉は、山から身投げしようと決心した人のような風をして、じっと、穴の明くほど、狂気じみた眼で相手を見つめながら、それと同時に、唇にはほほえみを浮かべているらしく、切れ切れに、つぶやいた。「わたくしは……あなた……ねえ、いかがでございましょう、今すぐちょっと、わたくしは手品をお目にかけようと思いますが!」いきなり早口に、しっかりした声でささやいた。話はもう、少しも途切れなかった。
「どんな手品です?」
「ええ、手品です、ちょっとした手品です」二等大尉は相変わらずささやくのであった。彼は口を左のほうへゆがめて、左の眼を細くして、まるで吸い付くかのようにアリョーシャを見つめていた。
「いったい、どうしたのです、どんな手品なんです?」と相手はすっかり恐れをなして、叫んだ。
「ほら、御覧ください、これです!」不意に、二等大尉は金切り声を立てた。
彼は今まで話をしている間じゅう、右手の拇指と人さし指で、角のところをつまんでいた二枚の紙幣を、相手のほうへ差し出して見せたかと思うと、いきなり荒々しく引っつかんで、皺くちゃにしながら、右手でしっかりと握りつぶしてしまった。
「わかりましたか、わかりましたか?」まっさおな顔をして、夢中になりながら、彼はアリョーシャに向かって叫んだ。やがて、いきなり拳を振り上げると、皺くちゃになった紙幣を力いっぱい砂の上にたたきつけた。「わかりましたか!」紙幣を指さして見せながら、彼は再び金切り声で叫んだ、「まあ、このとおりでござい!」
と言って、急に彼は右の足を上げて、荒々しい憤怒の色を浮かべながら、靴の踵で紙幣を踏みつけ始めた。そうして、息を切らしながら、踏みつけるたびにわめき立てた。
「これがあなたの金ですよ! これがあなたの金です! これがあなたの金なんです! これはあなたの金なんだ!」
不意に、ひょいと、彼は後ずさりして、アリョーシャの前に仁王立ちになった。その全体の様子は名状すべからざるプライドを示していた。
「あなたを使いによこした人に言ってやってください、糸瓜は自分の名誉を売り物にしないって!」
彼は両手を宙へさし上げながら、叫ぶのであった。それから急に身をかわしたかと思うとまっしぐらに駆け出した。が、まだ五足と行かないうちに、不意に彼はまたふり返って、アリョーシャに手を振って見せた。またもや五足と走らないうちに、もう一度ふり返ったが、これが最後であった。この時はゆがんだような笑いのかげもなく、顔は涙にぬれて震えていた。涙ぐんで、とぎれがちなむせび泣くような声で、彼は早口に叫んだ。
「あんな恥ずかしい思いをして、その報いに金なんかをもらったら、うちの子になんと言いわけができるのか!」こう言うなり、彼はまっしぐらに駆け出して、今度はもうふり返ろうともしなかった。アリョーシャは言い知れぬ悲しさを覚えながら、後姿を見送っていた。ああ、あの人も最後の瞬間まで、自分が紙幣をもみくちゃにして地べたへ放り投げようとは、夢にも考えなかったろう。アリョーシャにはそれがよくわかっていた。彼は走りながら、一度も後をふり返らなかった。けっしてふり返らないだろうということは、アリョーシャもよく承知していた。彼は二等大尉の後をつけて、声をかけようという気にはならなかった。その理由も彼にはよくわかっていた。相手の姿が見えなくなったとき、アリョーシャは二枚の紙幣を拾い上げた。紙幣はただ、皺くちゃになって、砂の中にめりこんでいるばかりで、アリョーシャが広げて皺を伸ばしてみると、破れたところもなく、まるで新しい物のように、ぱりぱりしていたほどであった。彼は皺を伸ばして、それをたたむと、ポケットに入れて、頼まれたことの結果を報告するために、カテリーナのもとをさして歩き出した。
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アリョーシャをまず最初に出迎えたのは、やはりホフラーコワ夫人であった。夫人はあわてていた。かなりたいへんな騒ぎが起こったのであった。カテリーナ・イワーノヴナのヒステリイは、あげくのはてには卒倒するに至って、やがて、『恐ろしいほど、ひどい衰弱に襲われましてね、あの人は床について眼をつりあげて、うわごとを始めなさいましてね。いま熱が出ましてね、ヘルツェンシュトゥベも迎えにやりましたし、二人の伯母さんも迎えにやりましたの。伯母さんたちはもういらっしってますけれど、ヘルツェンシュトゥベのほうはまだお見えになりません。みんなあの人の部屋に控えて、お待ちしていますの。何か起こるでしょうよ、なにしろ、あの人はもうまるで覚えがないんですからね。まあひどい熱病にでもなったら!』
こういううちにも、夫人はひどく驚いたような風をしていた。そして、『これはもうたいへんなことです、たいへんなことです!』と一言一句につけ加えていたが、まるで今までにあったことは何もかもたいへんなことなんかでなかったかのようであった。アリョーシャは心苦しそうに、夫人のことばを聞き終わった。今度は彼が自分のほうに起こった出来事を話しかかったが、夫人は暇がないからと言って、口を切りだしたかと思うとたちまちそれをさえぎってしまった。どうかリーズのところへ行って、そのそばで自分が来るのを待っていてくれと頼むのであった。
「アレクセイさん、リーズはね」と、夫人はほとんど耳もとに口をあてんばかりにしてささやいた、「リーズは今わたしを妙にびっくりさせましたの、ですけれど、喜ばしてもくれました。ですから、わたしはあれのことならなんでも許してやりますわ。まあ、どうでございましょう、あなたが出ていらっしゃるとすぐに、あの子は昨日も今日も、あなたをからかったとか言って、ひどく後悔しだしましてね。でもあの子は、からかったんじゃありませんわ、ただちょっと、ふざけただけですの。けれど、涙を流さんばかりに心から後悔するものですから、わたしびっくりしてしまいましたの。今までにあの子がわたしをからかったからって、一度もまじめに後悔したことなんかありません。いつも冗談なんでございます。あなたも知っていられるように、あの子ったらもう、しょっちゅうわたしをからかってばかりいるんですよ。ところが、今日はどうしたことかまじめなんですの。それこそ大まじめなんです。あの子はね、アレクセイさん、たいそうあなたの御意見を尊重しております。ですから、もしできることなら、あの子のことを腹を立てないでいただきたいの、悪く思わないでいただきたいの。わたしはいつもあの子を大目に見ていますの、だってそりゃ本当に利口な子なんですものね――そうお思いになりません? 今もこんなことを申しますの――『あの人はわたしの幼馴染よ――おまけにいちばんまじめなお友だちなのよ。それなのにわたしは? ……』あの子はこういうことにかけては、たいへんにまじめで、記憶も確かなのです。けれども、何よりも感心なのは、あのことばなんですの。本当に思いがけないことを、ひょいひょいと言いだすんですからね。たとえば、ついこのあいだも梅の木のことでおもしろい話がございますわ。あの子のごく小さい時分のこと、家の庭に一本の梅の木がありましたの。今でもやはりあるんですから、別に、何も過去のことにしてお話しすることなんかありませんわね。アレクセイさん、梅の木は人間と違って、長いあいだ変わらないものですわねえ、あの子は言いますの、『お母さん、わたしあの梅を夢のように覚えてるわ』って。――つまり『うめをゆめのように』と言うのですけれど、言い方はもう少し違っていました。だって、なんだかごちゃごちゃしていましたから。むろん、梅なんてばかばかしいことばですけれど、あの子はこのことで何かたいへん奇抜なことを言って聞かせましたので、わたしはどうしてもうまくお話しができませんの。それにもう忘れてしまいましたわ。ではもう失礼しますわ、わたしびっくりしてしまって、なんだか気が変になりそうですの。ねえ、アレクセイさん、わたしはね、もう今まで二度、気が変になって、療治してもらったことがありますのよ。それでは、リーズのところへいらっして、いつもなさるようにしてあの子を喜ばしてやってくださいましな。リーズや」と夫人は戸口のほうへ寄って行きながらこう叫んだ。「さあおまえがあんな失礼なことを申し上げたあのおかたをね、アレクセイさんを、お連れ申して来ましたよ。だけどちっとも怒ってはいらっしゃらないんだから安心しておいでな。いいえ、かえっておまえがそんなことを気にしているのを、不思議に思っていらっしゃるくらいよ」
「Merci, maman(ありがとう、お母さん)おはいりくださいな、アレクセイさん」
アリョーシャははいって行った。リーズはなんだかきまり悪そうに見ていたが、不意にぱっと顔を赤くした。彼女は何かを恥じているようであった、いつもそういうときの癖として彼女は、ひどく早口に、それとは関係のない他のことを話し始めた。まるで、今のところでは話しているそのことよりほかには、興味を持っていないかのようであった。
「アレクセイ・フョードロヴィッチさん、お母さんったらねえ、何を思い出したのか、二百ルーブルのことをすっかりわたしに聞かしてくれましたの。それからあなたがあの貧乏な士官さんのところへお使いにいらっしたことや、その将校が侮辱を受けたという恐ろしい話も、わたし残らず聞きましたわ。お母さんの話はひどくごたごたしてましたけれど、……だって、お母さんは先ばかり急ぐんですもの……でもわたし聞いているうちにすっかり泣いちゃったわ。どうだったの、あなたそのお金をそのかたへお渡しなすって、そしてその気の毒な士官さんてかた、いまどんな風にしてて?」
「実はね、金は渡さなかったのです。話すと長くなりますがね」とアリョーシャは答えたものの、彼もまた金を渡さなかったのがやはり何よりも気にかかっているらしかった。またリーズのほうでも、彼があらぬかたばかりを見ながら、直接には興味のない世間話をしようとつとめている様子が、はっきりわかった。
アリョーシャはテーブルについて、話しを始めた。しかし、話し始めるやいなや、全くどぎまぎするのをやめてしまって、今度はリーズに心をひかれた。彼はまださっきの激しい、なみなみならぬ印象と、強い感情に支配されていたので、うまく詳しく物語ることができた。
彼は昔も、モスクワで、リーズが子供のころ、リーズのところへ行くのが大好きで、どんなことが起こったとか、何を読んだとか、子供の時分の思い出などを話すのを好んだ。どうかすると、いっしょに空想して、まとまった小説を二人で作ったりしたものであるが、それはたいてい、愉快な、おかしな話であった。いま二人は、二年以前のモスクワ時代へ急に帰ったかのような感じがした。リーズは彼の話を聞いて、かなりに感激させられた。アリョーシャは暖かい気持で、イリューシャの風貌を物語ることができた。彼が、あの不幸な人がお金を踏みつけたときの場面を、あますところなく話し終わったとき、リーズは手を打って、やむにやまれぬ心のままにこう叫んだ。
「してみると、あなたはお金をやらなかったのね、そうして、その人をそのまま逃がしてしまったのね! まあ、あなたはその人の後を追っかけてつかまえるのが本当だったわ」
「いいえリーズさん、僕が追っかけなかったほうがよかったんですよ」と言って、アリョーシャは椅子から立ち上がり、心配そうに部屋の中を行き来した。
「どうしてですの、なぜそのほうがいいんですの? 今その人たちは食べるものもなくって、死にかけているじゃないの?」
「そんなことはありませんよ。だって、その二百ルーブルは、やはりあの人たちの手にはいるんですからね。あの人は明日になれば全部受け取ってくれますよ。きっと明日は受け取ってくれますよ」物思いにふけって歩きながらアリョーシャは言いだした。「ねえ、リーズさん」ふと、彼は彼女の前に立ち止まって続けた。「僕はあのとき失敗をやったのです。でも、失敗したのが、かえって好都合になりましたよ」
「どんな失敗ですの? どうして好都合でしたの?」
「それはねえ、あの人は臆病な、気の弱い人なんですからね。あの人は苦労もして、たいへん気だてのいい人なんです。僕は今どういうわけで急にあの人が憤慨して、金を踏みにじったのかしらんと、いろいろ考えてみましたけれど、それはつまり最後の一瞬まで、金を踏みにじったりしようとは、思っていなかったからです。それで今になってみると、あの人はそのときいろんなことに腹を立てていたんじゃないかと思います。……しかし……あの人の立場になってみたら、そうするよりほかにしかたがなかったのかもしれませんね……第一に、あの人はわたしの眼の前で、あまり金のことを喜んで見せたうえに、それを隠そうともしなかったので、腹を立てたのです。たとい、喜んだとしても、それほどじゃなく、そんな素振りを見せず、ほかの者と同じように気どったまねをして、顔をしかめながら受け取ったとすれば、そのときはしんぼうして受け取ったでしょう。ところが、実際はあんまり正直すぎるほど喜んだものですから、それがいまいましくもあったのです。ああ、リーズさん、あの人は正直ないいかたですよ。こんな場合、やっかいなのは実にこのことなんですよ! あの人は話してる間じゅう、弱々しい力のない声をして、おまけに恐ろしい早口なんです。そして始終妙にひひと笑ったり、泣いたりしてたんですよ……本当にあの人は泣いてたんです、それほど嬉しがっていたのです。……娘たちのことも話しました……ほかの町で周旋してもらえるとかいう勤め口のことも話しました……そうしてほとんどすっかり胸のなかを僕にさらけ出して見せると、今度は、その胸の中をひろげて見せたことが、急にきまり悪くなってきたのです。それで、すぐに僕が憎らしくてたまらなくなったのです。つまり、あの人はひどく恥ずかしがりやの貧乏人の仲間なんです。ところで腹を立てたおもな理由は、あの人があまり早くから僕を友だちあつかいにして、あまり早くから僕に気をゆるしたからです。初め、さかんに僕に食ってかかって、脅していたと思ったら、金を見るやいなや、僕を抱きしめようとするじゃありませんか。なぜって、あの人は僕を抱きしめて両手でさわったりしてたんですからね。そんなぐあいだったものですから、きっと自分の屈辱を感じたに違いありません。ところへ、ちょうどそのとき、僕が失敗をやったのです。それもとてもたいへんなのをね。僕はいきなりこう言ってやりましたよ。もしもほかの町へ行く費用が足りなかったら、まだそのうえにもらえるし、僕だって自分の金の中からお好きなだけ差し上げますからね……すると、これが急にあの人の胸にこたえたのです。なぜおまえまでがおれを助けに飛び出すのかというわけですね。ねえ、リーズさん、見下げられている人間には、みんなに恩人のような顔をされるのを見るのがとてもつらいことなんですよ……僕はこんな話を聞きましたよ。長老が僕に聞かしてくれたのです。どう言っていいかわからないけど、僕は自分でよく見受けました。それに自分でもよくその気持がわかりますよ。ところで、何よりもいけないのは最後の瞬間まで、紙幣を踏みにじろうなどとは、夢にも思ってなかったにしても、やはり予感していたらしいことです。これはもう間違いありません。なぜって、あの人の喜び方があまり激しかったので、あの人はそんなことを予感したのです。……それはたとい、みんないやらしいことであったにしろ、やはり好都合にいったのです。僕のつもりではこのうえもなく都合よくいったとさえ思っていますよ……」
「どうしてですの、どうしてこのうえないほど都合よくいったんですの?」リーズは非常に驚いたような眼つきでアリョーシャを見つめながら、叫んだ。
「そのわけはね、リーズさん、あの人がたとい金を踏みにじらないで持って帰ったとしても、家へ帰って一時間もしたらきっと自分がはずかしめを受けたと思って泣くでしょう、必ずそうなるに違いない。そうして泣いたあげくのはて、あくる日の明けがたごろには、さっそく僕のところへやって来て、――さっきと同じようにあの紙幣を投げつけて、踏みにじったかもしれません。でもあの人は今、『自分を殺した』という気持でいながら、とにかく非常に勝ち誇った気持で、意気揚々と引き上げて行ったのです。ですから明日、この二百ルーブルを持って行って、無理に受け取らせることくらい楽なことはありませんよ。だって、もうあの人は金を投げつけて、踏みにじって、立派に自分の潔白を証明したんですし、……それに金を踏みにじるとき、まさか僕が明日もう一度持って行くなどとは、夢にも考えなかったことでしょうからね。ところが、あの人にしてみればこの金はたいへん必要な金なんです。よしまた、今非常な誇りを感じているとしても、一面自分がどれだけの助力を失ったかということもまた、今考えずにはおられますまい。夜などはますます強くそのことを考えて、夢にまで見るに相違ありません。そして明日の朝になったら、さっそく僕のところへやって来て、わび言でもしたい気持になるでしょう。ちょうどそこへ僕がはいって行くのです。そして『あなたは誇りの高い人です、もうあなたは御自分の潔白なことを証明なさいました。さあ、もう取っていただけましょう。わたしたちの悪かったことはお許しください』と言ってもちかけたら、必ず受け取るに違いありません!」
アリョーシャは『必ず受け取るに違いありません!』と言うとき、もうまるで夢中になっていた。リーズは思わず手をたたいた。
「ええ、全くだわ、わたし今急にすっかりわかってきてよ! アリョーシャ、どうしてあなたはそんなになんでも知ってらっしゃるんでしょうねえ? お若いのに、よく、人の心の中がなんでもおわかりになるのねえ……わたしにはとてもそんなことを考えつけませんわ……」
「ところで今、何より大事なことは、たとい僕たちから金を受け取っても僕たちと対等の位置に立っているという自信を、あの人に吹きこむことなんです」相も変わらず夢中になって、アリョーシャはことばを続けた。「いや、対等ではない。むしろ、より高い地位にいると思わせるのです……」
「『より高い地位』ですって、うまいわねえ、アレクセイさん、でも、それからどうなんですの、話してちょうだい!」
「いや、より高い地位……というのは少し僕の言い方がまずかった……しかし、そんなことはなんでもありません、なぜって……」
「ええ、そんなことむろん、なんでもありませんわ、なんでもありませんわ! 御免なさい、アリョーシャ、後生だから……あのね、わたし今まであなたを尊敬していなかったわよ……いいえ、してはいたんだけれど、それほどでもなかったの、だけど、だけど今は一だん高く尊敬しますわ……あら、怒らないでね、わたしちょっと冗談を言っただけよ」と彼女は激しく情をこめて、すぐ自分で自分のことばを押えた。「わたし、こんなおかしい小娘なの。だけどあなたは、本当にあなたは! ねえ、アレクセイさん、わたしたちの考えには、いえ、つまり、あなたの考えには……いいわ、いっそわたしたちのということにしますわ、……あの不仕合わせな人を卑しめたようなところはないかしら……だって、あの人の心を高いところからでも見下ろすようにして、いろいろ解剖したんじゃなくて? え? 今あの人がきっとお金を受け取るに違いないと、決めてしまったじゃないの、え?」
「いいえ、リーズさん、少しも見下げてなんかいませんよ」すでにこの質問あるを予期していたもののごとく、きっぱりした調子で、アリョーシャは答えた。「僕はここへ来る途中、そのことについてはもう考えておきました。まあ、考えて御覧なさい。この場合、どうして見下げたところなんかあり得るでしょう。僕らだって、あの人と同じ人間じゃありませんか。世間の人はみんな、あの人と同じ人間じゃありませんか。ええ、僕たちだってあの人と同じことです。けっしてすぐれてはいません。たとい仮りにすぐれていても、あの人の境遇に立ったら、あの人と同じようになってしまいます。ところがあの人の心はけっしてあさはかではない、かえって非常に優しいところがあります……いいえ、リーズさん、あの人を見下げるなんてことはちっともありません! 実はね、リーズさん、長老が一度おっしゃったことがあります――人間てものは子供のように、しじゅう気をつけて世話をしてやる必要がある。またある者は、病院に寝ている患者のように看護してやる必要さえあるって……」
「まあ、アレクセイさん、偉いわね、病人にしてやるようにして、わたしたちは人を見てあげましょうね!」
「そうです、見てあげましょう、リーズさん、僕はいつでも喜んで見てあげますよ。しかし、僕はまだ本当に準備ができてない気がしています。時とすると、ひどく気が短いし、時とすると物を見る眼がないんですからね、だが、あなたは別です」
「あら、そんなこと本当にしなくってよ! アレクセイさん、わたしなんて幸福なんでしょう!」
「そう言ってくださるので、僕もたいへん嬉しく思いますよ、リーズさん」
「アレクセイさん、あなたはなんという立派なかたでしょうね、だけど、どうかするとまるで衒学者のようだわ……でもよく見てると、けっして衒学者じゃないのね。戸口を見て来てくださらないこと、……そっとあけて見てちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」神経的なあわてた調子で、だしぬけにリーズはささやいた。
アリョーシャは立って戸をあけて見た。そして誰も立ち聞きしてはいないと報告した。
「いらっしゃいな、アレクセイさん」しだいに顔を赤らめながらリーズはことばを続けた。「お手を貸してちょうだい、ありがとう。あのね、わたしあなたにたいへんなことを白状しなければならないのよ。昨日の手紙は冗談じゃなくって、わたしまじめに書いたのよ……」
と、彼女は片手で眼を隠した。白状するのが恥ずかしかったのであろう。不意に彼女はアリョーシャの手を取って、あわてて、三たび接吻した。
「ああ、リーズさん、よくしてくれましたね」と彼は嬉しそうに叫んだ、「僕だってあの御手紙がまじめだってことはよく知っていたのですよ」
「御承知だったのですって、まあ本当に!」と彼女は自分の口から男の手を離しはしたが、やっぱり放してしまおうとはしないで、ひどく赤い顔をしながら、楽しげなかすかな笑い声を立てるのであった。「わたしが手を接吻してあげれば、『よくした』なんて」
けれど、彼女のとがめだては不公平であった。なぜといって、アリョーシャもやはり、非常に心を取り乱していたからである。
「僕はいつだって、あなたのお気に入りたいと思ってるんですよ、だが、どんなにしていいかわからないもんだから」彼もまた顔を赤らめながら、あわててつぶやいた。
「アリョーシャ、あなたみたいな冷淡な、ひどいかたはありませんわ。そうじゃなくって! 勝手にわたしを自分のお嫁さんに決めて、安心してるんですもの! あなたは、わたしがあの手紙をまじめに書いたものと、信じきってらっしゃるんでしょう。どうしたということでしょうね! だってあんまり勝手じゃなくて、――ええ、そうよ!」
「いったい僕が信じてたのは悪いことなんでしょうか?」と不意にアリョーシャは笑いだした。
「嘘よ、アリョーシャ、かえっていいことだわ」とリーズは仕合わせらしい眼つきで優しく相手を眺めた。
アリョーシャはやはり自分の手のなかに、彼女の手を取ったまま、じっと立っていたが、いきなりかがみかかってその唇のまん中へ接吻した。
「どうなさったというの? いったい、あなたどうなすったの?」とリーズは叫んだ。
アリョーシャはすっかりまごついてしまった。
「もし間違っていたら御免なさい……ひょっとしたら、僕のしたこと、ひどくばかげたことだったかもしれませんね……あなたが僕を冷たいなどとおっしゃるもんだから、僕思わず接吻してしまったんです……しかし実際、妙なぐあいになってしまいましたね……」
リーズはいきなり吹き出して、両手で顔を隠してしまった。
「おまけにそんな着物で!……」と言う声が笑いのあいだから漏れて聞こえた。
が、急に彼女は笑うのをやめて、すっかりまじめな、というよりはむしろいかつい顔つきになって、
「ねえ、アリョーシャ、わたしたちは接吻はまだまだ控えなくちゃならないわ。だって、まだそんなことしてはいけないんですもの。わたしたちはまだまだ長いこと待たなくちゃなりませんわ」と彼女は不意にこう言ってくくりをつけた。「それよりわたしの聞きたかったのはね、どういうわけであんたはこんなばかを――病身なばか娘をお選みなすったの? あなたみたいな賢い、考え深い、よく気のつくかたが、どうしてわたしなんかを……ああ、アリョーシャ、わたしも本当に嬉しいわ。だって、あたしあなたに愛していただくだけの値打ち一つもないんですもの!」
「お待ちなさい、リーズさん、僕は二、三日のうちに断然お寺を出ます。いったん世間へ出た以上、結婚しなくちゃなりません、それは自分でよくわかっています。それに長老もそうしろとおっしゃるのです。ところで僕は、あなた以上の妻を娶ることもできなければ、またあなたよりほかには僕を選んでくれる人もありません。僕はこのことをもうよく考えてみました。まず、あなたは僕を小さい時分から知っている。次には、あなたは僕の持っていない多くの能力を持っている。あなたの心は僕の心より快活です。第一、あなたは僕よりはるかに無垢ですからね。僕はもういろんなものに触れました。いろんなものに……だって、僕だってやはりカラマゾフなんだから、あなたにはそれがわかりませんか! あなたが笑ったり、ふざけたりするのが何でしょう……僕のことにしてもね……いや、かえって笑ってください、ふざけてください、僕はそのほうが嬉しいくらいですよ……あなたは表面こそ小さな女の子のように笑っていられるが、心のなかには殉教者の考えをもっていられるのだからね……」
「殉教者のようですって? それはどういうわけ?」
「それはね、リーズさん、さっきあなたはこんなことを聞きましたね――僕たちがあの不仕合わせな人の心をあんな風に解剖するのは、つまりあの人を卑しめることになりはしないかってね――この質問が殉教者的なのです……僕にはどうもうまく言い現わせませんが、こんな質問の浮かんでくる人は、自分で苦しむことのできる人です。あなたは安楽椅子に坐っているうちに、いろんなことを考え抜いたんですね……」
「アリョーシャ、手を貸してちょうだい、どうしてそんなに引っこめるの?」嬉しさのあまり、力が抜けてしまったかのような弱々しい声で、リーズは言った。「でも、アリョーシャ、あなたはお寺を出たら、どんなものを着るおつもり、どんな着物を? 笑っちゃいや、怒らないでね、わたしにとっては、このこと、それはそれは大事なことなんですもの」
「僕着物のことまで考えなかったが、あなたの好きなのを着ますよ」
「わたしはね、鼠がかった青いビロードの背広に、白い綿入れのチョッキを着て、鼠色をした柔らかい毛の帽子をかぶって欲しいのよ……ところで、さっきわたしがあなたは嫌いだ、昨日の手紙は嘘だと言ったでしょう、あのことあなたは本当にしたの?」
「いいえ、本当にはしませんでした」
「ああ、なんていやな人だろう、どうしてもそのくせがなおらないのねえ!」
「ねえ、僕は知っていたんですよ……あなたが僕を……愛してらっしゃるらしいことを、……だが……あなたが嫌いだとおっしゃるのを、わざと本当にしたような振りをしたんです。だって、そのほうがあなたには、都合がいいんでしょうからね……」
「あら、そんなこと悪いことだわ! 悪くもあるし、またいちばんいいことでもあるのよ、アリョーシャ。わたしあなたが好きでならないの。さっきあなたがここへいらっしゃったとき、実は、判じ物をしてたのよ。わたしが昨日の手紙を返してくださいと言って、もしあなたが平気でそれを出してお渡しになったら(あなたとしてはそれは全くありそうなことなんですもの)、つまり、あなたはわたしを愛してもいなければ、なんとも思っていないことになる。つまり、あなたはばかなつまらない小僧っ子で……そしてわたしの一生は滅びてしまうと思ったの――ところが、あなたは手紙を庵室へ置いてらしったので、わたしすっかりせいせいしたのよ、だって、あなたは返してくれと言われるのを感づいて、わたしに渡さないように庵室へ置いてらしったんでしょう? ねえ、そうじゃない?」
「おお、ところがそうでないんです、リーズさん。だって、手紙は今ちゃんと持ってるんです、さっきだってやはり持ってたんです。ほら、このかくしに、ね」
アリョーシャは笑いながら手紙を取り出して、遠くの方から彼女に見せた。
「ただしあなたには渡しゃしないから、そこから御覧」
「え? じゃ、あなたはさっき嘘をついたのね。坊さんのくせに嘘をついたのね、あなたは!」
「あるいはそうかもしれません」とアリョーシャは笑って、「あなたに手紙を渡すまいと思って嘘をついたんです。僕にとって、これは非常に大切なものなんですからね」不意に強い情をこめてこう言い足すと、彼はまた顔を赤くした。「これは一生涯誰にも渡しゃしませんよ!」
リーズはうっとりとして、彼を見つめているのであった。
「アリョーシャ」と彼女はふたたびささやいた。「ちょっと戸口をのぞいて見てちょうだい、お母さんが立ち聞きしてやしなくって?」
「よろしい、僕見てあげましょう。しかし、見たりしないほうがよくはないのじゃないかしら、なぜそんな卑しいことでお母さんを疑うのです!」
「なぜ卑しいことなの? どんな卑しいこと? 娘のことを心配して立ち聞きするのはお母さんの権利だわ、ちっとも卑しいことじゃなくってよ」とリーズはまっかになった。「前もってお断わりしておきますわ、アレクセイさん、わたしが自分でお母さんになって、わたしのような娘を持ったとしたら、わたしはきっと娘の話を立ち聞きしてやるわ」
「まさかねえ、リーズさん? でも、それは間違っていますよ」
「まあ、どうしましょう! なにも卑しいことなんかありゃしないわ! これが世間なみのお話しを立ち聞きするんだったら、そりゃ卑しいことに相違ないでしょうが、現在生みの娘が若い男と一間にとじこもるなんて……ねえ、アリョーシャ、よござんすか、わたしは結婚したらさっそく、あなただって、こっそり監督してあげることよ。そればかりか、あなたの手紙をみんな開封して、すっかり読んでしまうわよ……前もって御承知を願っておくわね……」
「もちろん、そうしたいのならしても結構……」とアリョーシャはつぶやくように言った。「だが、いいことじゃありませんね……」
「まあ、なんという見下げようでしょう! アリョーシャ、後生だから、のっけから喧嘩なんかするのよしましょう、――わたしいっそ本当のことを言っちまうわ、もちろん、立ち聞きするなんてよくないことだわ、もちろん、わたしのが間違っていて、あなたのおっしゃることが本当よ。だけど、わたしやっぱり立ち聞きしますわ」
「じゃあ、なさいとも。だが、僕には何もそんな後ろ暗いことがありませんからね」とアリョーシャは笑いだした。
「アリョーシャ、あなたはわたしに従うつもりなの? そんなことも前にちゃんと決めておかなくちゃならないわ」
「僕は、喜んでそうしますよ。だけど、根本の問題は別ですよ。根本の問題については、もしあなたが僕に一致しなくっても、僕は義務の命ずるとおりに行なうから」
「それはそうなくちゃならないわ。ところでね、わたしはその反対の根本の問題についても、あなたに服従するのはもちろんだし、万事につけてあなたに譲歩するつもりでいますわ。このことは、今あなたに誓ってもいいわ――ええ、万事につけて、一生涯」とリーズは熱情をこめて叫んだ。「わたしそれを幸福に思うわ、幸福に思うわ! そればかりでなく、わたし誓って言うわ、けっしてあなたの話を立ち聞きなんかしません、一度だってそんなことをしませんわ。あなたの手紙も一通だって読みゃしません。だって、あなたがどこまでも正しくていらっしゃるのに、わたしはそうでないんですもの。もっとも、わたしはひどく立ち聞きしたくてたまらないんですが(それはわたしにもわかっています)、でもやはりしませんわ。だって、それが卑しいことだってあなたはおっしゃるんでしょう。今、あなたはいわばわたしの神様みたいな人よ。……ところで、アレクセイさん、いったい、あなたはどうしてこの二、三日――昨日も今日も浮かない顔をしてらっしゃるの。いろんな心配があなたにおありになることは知ってますけれど、そのほかに何か特別な悲しみがあるようにも見えてよ――ことによったら、秘密な悲しみかもしれないわ、ね?」
「そうです、リーズさん、秘密な悲しみです」アリョーシャは沈んだ調子で言った。「それに気がつかれたところを見ると、あなたはやはり僕を愛していてくださるんですね」
「いったいどんな悲しみなの? 何か心配してるの? 話してもよくって?」とリーズは物おじるような哀願の調子でこう言った。
「それはあとで言います、リーズさん、――あとで、……」とアリョーシャは困った。「それはまだ今は、はっきりしてないんです。僕自身もうまく話せないような気がするのです」
「わたしわかったわ、きっと、まだそのほかに、兄さんや、お父さんがあなたを苦しめなさるんでしょう?」
「ええ、兄さんたちもね」とアリョーシャは憂わしそうにこう言った。
「わたしあなたの兄さんのイワン・フョードロヴィッチが嫌いなの」と不意にリーズは言った。
アリョーシャは少し驚いた様子でこのことばに注意した。けれど、なんの意味だかはわからなかったのである。
「兄さんたちは自分で自分を滅ぼしてるんですよ」彼はことばをついだ。「お父さんだってそうなのさ。そうしてほかの人までも、自分といっしょに巻き添えにしてるんです。先だってパイーシイ主教も言われたことなのだが、その中には大地のようなカラマゾフ的な力が動いているのです――それは大地のように凶暴な、生地のままの力なんです……この力の上に神の精霊が働いてるかどうか、それさえわからないくらいです。ただ僕もカラマゾフだ、ということだけが、わかっているんです、……僕は坊さんなのかしら、はたして坊さんだろうか? リーズさん、僕は坊さんでしょうかね! あなたは今さき、そう言ったでしょう、僕が坊さんだって?」
「ええ、言ったわ」
「ところがね、僕は神を信じてないかもしれないんですよ」
「信じてないんですって、あなたが? まあ、あなた何をおっしゃるのよ?」リーズは低い声で用心深そうにこう言った。だが、アリョーシャはそれに答えなかった。あまりに思いがけない彼のこのことばには、一種神秘的な、あまりにも主観的なあるものが感じられたのである。これは彼自身にさえはっきりとはわからないけれども、もう前から彼を苦しめているものだということはなんら疑う余地もなかった。
「ところがね、今そのうえに、僕の大切な友だちが行ってしまおうとしているのです。世界の第一人者がこの土を見すてようとしているのです。僕がどんなにこの人と精神的に結びついているか、それがあなたにわかってくださったらなあ! あなたにわかってくださったらなあ! しかも、僕は今、たった一人でとり残されようとしているのです……僕はあなたのところへ来ますとも、リーズさん。これからさきいっしょにいることにしようね……」
「ええ、いっしょにね、いっしょにね! これから一生涯いつもいっしょにいましょうね。ちょっと、わたしを接吻してくださらない、わたし許すわ」
アリョーシャは彼女を接吻した。
「さあ、もういらっしゃい、では、御機嫌よう!(と彼女は十字を切った)。早く生きていられるうちにあのかたのところに行っておあげなさい。わたしすっかりあなたを引き止めてしまったわね。今わたし、あの人とあなたのためにお祈りすることにするわ。アリョーシャ、わたしたちは幸福でいましょうね? ね、幸福になれますわね?」
「なれますとも、リーズさん」
リーズの部屋を出たアリョーシャは、母夫人のところへ寄らないほうがよいと思ったので、夫人には別れの挨拶をしないで家を出ようとした。だが、戸をあけて階段の口へ出るやいなや、どこから来たのか、当のホフラーコワ夫人が眼の前に控えていた。最初のひとことを聞くと同時に、アリョーシャは、彼女がわざとここで待ち受けていたのであることを悟った。
「アレクセイさん、なんて恐ろしいことでしょうね。あれは子供らしいばかげたことですわ、無意味なことですわ、あなたはつまらないことを空想なさらないだろうと思って、わたしそれを当てにしていますのよ……ばかげたことですわ、ばかげたことですわ、全くばかげたことですわ!」と夫人は彼に食ってかかった。
「ただね、お願いしておきます、あの人にはそんなこと言わないようにしてくださいよ」とアリョーシャは言った。「でないと、あの人はまた興奮しますよ、今もあの人の体にとって、それがいちばんいけないことなのですからね」
「分別のある若いおかたの、分別のある御意見、確かに承知しましたわ。あなたが今あの子のことばに同意なすったのも、たぶんあの子の病的な体のぐあいに同情してくだすって、逆らいだてしてあの子をいらいらさせまいとのお心づかいからだったのですか、そう解釈してよろしゅうございますね?」
「いいえ、それは違います、まるで違います。僕は、まじめにあの人と話したのですよ」とアリョーシャはきっぱり言った。
「こんな場合、まじめな話なんてあり得ないことですわ、考えることもできないことですわ。何よりまず、わたしこれからはもうけっしてあなたに家へ来ていただきたくないの。第二に、わたしはあの子を連れてこの町を立ってしまいますから、そのおつもりで」
「どうしてまた」とアリョーシャは言った。「だってあの話はまだずっと先のことでしょう、まだ一年半から待たなくちゃならないんですからね」
「そりゃあね、アレクセイさん、それに違いありませんけどね、その一年半のあいだに、あなたとリーズは幾千度となく、喧嘩したり別れたりなさるわ。けれど、わたしは言いようのないほど不仕合わせな女なのですからね。みんなばかばかしいことには相違ありませんが、それにしても、びっくりしてしまいました。今わたしはちょうど大詰めの幕のファームソフ(「知恵の悲しみ」の人形)のようでございます。そしてあなたがチャーツキイ、あの子がソフィヤの役割でございます。おまけにまあどうしたというのでしょうね、わたしがあなたをお待ち受けしようと思って、わざわざこの階段のとこへ来てみると、ちょうどそこへあの芝居の大切な場面が何から