あらすじ
逗子の美しい風景を背景に、夏の気配が漂う物語です。松の緑が深く、波が蒼く輝き、静かな海辺には夏の音色が響き渡ります。風はそよそよと吹き、蛙の鳴き声は日中も聞こえるほどです。夕暮れ時には、赤いカニや光るイカの姿も現れ、夏の夜を彩ります。野の花は少ないものの、蘆垣越しに見える景色は美しく、訪れる人を和ませます。逗子ならではの風情と、夏の静寂が織りなす、心に残る物語です。
 櫻山(さくらやま)に夏鶯(なつうぐひす)音(ね)を入(い)れつゝ、岩殿寺(いはとのでら)の青葉(あをば)に目白(めじろ)鳴(な)く。なつかしや御堂(みだう)の松翠(しようすゐ)愈々(いよ/\)深(ふか)く、鳴鶴(なきつる)ヶ崎(さき)の浪(なみ)蒼(あを)くして、新宿(しんじゆく)の濱(はま)、羅(うすもの)の雪(ゆき)を敷(し)く。そよ/\と風(かぜ)の渡(わた)る處(ところ)、日盛(ひざか)りも蛙(かはづ)の聲(こゑ)高(たか)らかなり。夕涼(ゆふすゞ)みには脚(あし)の赤(あか)き蟹(かに)も出(い)で、目(め)の光(ひか)る鮹(たこ)も顯(あらは)る。撫子(なでしこ)はまだ早(はや)し。山百合(やまゆり)は香(か)を留(と)めつ。月見草(つきみさう)は露(つゆ)ながら多(おほ)くは別莊(べつさう)に圍(かこ)はれたり。野(の)の花(はな)は少(すくな)けれど、よし蘆垣(あしがき)の垣間見(かいまみ)を咎(とが)むるもののなきが嬉(うれ)し。
 田越(たごえ)の蘆間(あしま)の星(ほし)の空(そら)、池田(いけだ)の里(さと)の小雨(こさめ)の螢(ほたる)、いづれも名所(めいしよ)に數(かぞ)へなん。魚(さかな)は小鰺(こあぢ)最(もつと)も佳(よ)し、野郎(やらう)の口(くち)よりをかしいが、南瓜(かぼちや)の味(あぢ)拔群(ばつぐん)也(なり)。近頃(ちかごろ)土地(とち)の名物(めいぶつ)に浪子饅頭(なみこまんぢう)と云(い)ふものあり。此處(こゝ)の中學(ちうがく)あたりの若殿輩(わかとのばら)に、をかしき其(その)わけ知(し)らせぬが可(よ)かるべし、と思(おも)ふこそ尚(なほ)をかしけれ。
大正四年七月
了

底本:「鏡花全集 巻二十八」岩波書店
   1942(昭和17)11月30日第1刷発行
   1988(昭和63)12月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:米田進
2002年4月24日作成
2003年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。