あらすじ
「蒐書」は、物事に執着しない主人公が、自身の蔵書について語る物語です。彼は、本を「集めた」のではなく、「集まった」と表現し、その蔵書に特別な意味を見出していません。しかし、本の所有を通して、自身の好みや人生の変遷を映し出すことに気づき、不思議な気持ちを抱くのです。
 元来僕は何ごとにも執着しふぢやくの乏しい性質である。就中なかんづく蒐集しうしふと云ふことには小学校にかよつてゐた頃、昆虫の標本へうほんを集めた以外に未嘗いまだかつて熱中したことはない。従つてマツチの商標は勿論もちろん、油壺でも、看板でも、乃至ないし古今ここんの名家の書画でも必死に集めてゐる諸君子くんしには敬意に近いものを感じてゐる。時には多少の嫌悪けんをまじへた驚嘆きやうたんに近いものを感じてゐる。
 書籍もまた例外ではない。僕も亦商売がら多少の書籍をも蔵してゐる。が、それも集めたのではない。むしろおのづから集まつたのである。もし集めた書籍であるとすれば、其処そこに何か全体に通ずる脈絡みやくらくそなへてゐなければならぬ。しかし僕の架上かじやうの書籍は集まつた書籍である証拠しやうこに、すこぶ糅然じうぜん紛然ふんぜんとしてゐる。脈絡みやくらくなどと云ふものは薬にしたくもない。
 では全然無茶苦茶むちやくちやかと云ふと、かならずしもまたさうではない。少くとも僕の架上かじやうの書籍は僕の好みを示してゐる。或はいろいろの時期にける好みの変遷を示してゐる。その点では――僕と云ふものを示してゐる点では僕の作品と選ぶ所はない。僕は以前架上の書籍を買ひ入れた年月ねんげつの順にしるし、その書籍の持ち主の一生の変化を暗示あんじする小品を書いて見ようかと思つた。が、西洋人の書いたものに余り似寄によりの話を見た為、とうとうそれなりになつてしまつた。それなりになつてしまつたのは勿論天下の為に幸福である。しかし架上の書籍なるものの鏡のやうに持ち主をうつすことはかく何か懐しい、さもなければ何か気味の悪い事実であると云はなければならぬ。(この故に売り立てに「さしもの」をするのは他人の作品に筆を入れるのと同じ位道徳的に不都合ふつがふである。)
 蒐集家しうしふかのみの知る喜びや悲しみはかう云ふ僕には恵まれてゐない。何しろ本屋をひやかしてゐたり、或はカタロオグを読んでゐたりする内に目にとまつたものを買ふのであるから、感激もすこぶうすわけである。大金たいきんは勿論出したことはない。
 これでも本道楽だうらくの話になるかどうか、其辺そのへんは僕にも疑問である。
(大正十三年七月)

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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