種類の上の話はこの位にするが、一般に近頃の小説では、幽霊――或は妖怪の書き方が、余程科学的になつてゐる。決してゴシツク式の怪談のやうに、無暗に血だらけな幽霊が出たり骸骨が踊りを踊つたりしない。殊に輓近の心霊学の進歩は、小説の中の幽霊に驚くべき変化を与へたやうです。キツプリング、ブラツクウツド、ビイアスと数へて来ると、どうも皆其机の抽斗には心霊学会の研究報告がはひつてゐさうな心持がする。殊にブラツクウツドなどは(Algernon Blackwood)御当人が既にセオソフイストだから、どの小説も悉く心霊学的に出来上つてゐる。この人の小説に「ジヨン・サイレンス」と云ふのがあるが、そのサイレンス先生なるものは、云はば心霊学のシヤアロツク・ホオムス氏で、化物屋敷へ探険に行つたり悪霊に憑かれたのを癒してやつたりする、それを一々書き並べたのが一篇の結構になつてゐる訣です。それから又「双子」と云ふ小説がある。これは極短い物ですが、双子が一人になつてしまふ。――と云つたのでは通じないでせう、双子が体は二つあつても、魂は一つになつてしまふ。――一人に二人分の性格が出来ると同時に、他の一人は白痴になつてしまふ。その径路を書いたものですが、外界には何も起らずに、内界に不思議な変化の起る所が、頗る巧妙に書いてある。これなどはルイズやマテユリンには、到底見られない離れ業です。序にもう一つ例を挙げると、ウエルスが始めて書いたとか云ふ第四の空間があつて、何かの拍子に其処へはひると、当人はちやんと生きてゐても、この世界の人間には姿が見えない。云はば日本の神隠しに、新解釈を加へたやうなものです。これはその後ビイアスが、第四の空間へはひる刹那までも、簡勁に二三書いてゐる。殊に或少年が行方知れずになる。尤も或る所までは雪の中に、はつきり足跡が残つてゐる。が、それぎりどうしたか、後にも先にも行つた容子がない。唯、母親が其処へ行くと、声だけ聞えたと云ふなどは、一二枚の小品だがあはれな気がする。ビイアスは無気味な物を書くと、少くとも英米の文壇では、ポオ以後第一人の観のある男ですが、(Amborose Bierce)御当人も第四の空間へでも飛びこんだのか、メキシコか何処かへ行く途中、杳として行方を失つた儘、わからずしまひになつてゐるさうです。
幽霊――或は妖怪の書き方が変つて来ると同時に、その幽霊――或は妖怪にも、いろいろ変り種が殖えて来る。一例を挙げるとブラツクウツドなどには、エレメンタルスと云ふやつが、時々小説の中へ飛び出して来る。これは火とか水とか土とか云ふ、古い意味の元素の霊です。エレメンタルスの名は元よりあつたでせうが、その活動が小説に現れ出したのは、近頃の事に違ひありますまい。ブラツクウツドの「柳」と云ふ小説を読むと、ダニウブ河へボオト旅行に出かけた二人の青年が、河の中の洲に茂つてゐる柳のエレメンタルスに悩まされる。――エレメンタルスの描写は兎も角も、夜営の所は器用に書いてあります。この柳の霊なるものは、かすかな銅鑼のやうな声を立てる所までは好いが、三十三間堂のお柳などとは違つて、人間を殺しに来るのださうだから、中々油断はなりません。その外にまだ何とも得体の知れない妙な物の出て来る小説がある。妙な物と云ふのは、声も姿もない、その癖触覚には触れると云ふ、要するにまあ妙な物です。これはド・モウパツサンのオオラあたりが粉本かも知れないが、私の思ひ出す限りでは、英米の小説中、この種の怪物の出て来るのが、まづ二つばかりある。一つはビイアスの小説だが、この怪物が通ることは、唯草が動くので知れる。尤も動物には見えると見えて、犬が吠えたり、鳥が逃げたりする、しまひに人間が絞め殺される。その時居合せた男が見ると、その怪物と組み合つた人間は、怪物の体に隠れた所だけ、全然形が消えたやうに見えた、――と云つたやうな工合です。(The Damned Thing)もう一つはこれも月の光に見ると、顔は皺くちやの敷布か何かだつたと云ふのだから、新工夫には違ひありません。
この位で御免蒙りますが、西洋の幽霊は一体に、骸骨でなければ着物を着てゐる。裸の幽霊と云ふのは、近頃になつても一つも類がないやうです。尤も怪物には裸も少くない。今のオオブリエンの怪物も、確毛むくぢやらな裸でした。その点では幽霊は、人間より余程行儀が好い。だから誰か今の内に裸の幽霊の小説を書いたら、少くともこの意味では前人未発の新天地を打開した事になる筈です。
(大正十一年一月)
〔談話〕