あらすじ
芥川竜之介の「骨董羹」は、様々な話題を、ユーモラスで辛辣な筆致で綴ったエッセイ集です。西洋文学や芸術、歴史、文化、さらには当時の日本の風俗や世相まで、幅広いテーマが独特の視点で語られています。時には皮肉を交え、時にはユーモアを駆使しながら、芥川竜之介ならではの世界観が展開され、読者を魅了します。
     別乾坤

 Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北斎(かつしかほくさい)が水滸画伝(すゐこぐわでん)の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画(さしゑ)も、誰か又是を以て如実(によじつ)に支那を写したりと云はん。さればかの明眸(めいぼう)の女詩人(ぢよしじん)も、この短髪の老画伯も、その無声の詩と有声の画(ぐわ)とに彷弗(はうふつ)たらしめし所謂(いはゆる)支那は、寧(むし)ろ[#「寧(むし)ろ」は底本では「寧(むら)ろ」]彼等が白日夢裡(はくじつむり)に逍遙遊(せうえうゆう)を恣(ほしいまま)にしたる別乾坤(べつけんこん)なりと称すべきか。人生幸(さいはひ)にこの別乾坤あり。誰か又小泉八雲(こいづみやくも)と共に、天風海濤(てんぷうかいたう)の蒼々浪々たるの処、去つて還らざる蓬莱(ほうらい)の蜃中楼(しんちうろう)を歎く事をなさん。(一月二十二日)

     軽薄

 元(げん)の李※(りかん)[#「行がまえ<干」、69-上-16]、文湖州(ぶんこしう)の竹を見る数十幅(ふく)、悉(ことごとく)意に満たず。東坡(とうば)山谷等(さんこくら)の評を読むも亦(また)思ふらく、その交親に私(わたくし)するならんと。偶(たまたま)友人王子慶(わうしけい)と遇ひ、話次(わじ)文湖州の竹に及ぶ。子慶曰(いはく)、君未(いまだ)真蹟を見ざるのみ。府史の蔵本甚(はなはだ)真(しん)、明日(みやうにち)借り来つて示すべしと。翌日即(すなはち)之を見れば、風枝抹疎(ふうしまつそ)として塞煙(さいえん)を払ひ、露葉蕭索(ろえふせうさく)として清霜を帯ぶ、恰(あたか)も渭川(ゐせん)淇水(きすゐ)の間(かん)に坐するが如し。※(かん)[#「行がまえ<干」、69-下-4]感歎措(お)く能(あた)はず。大いに聞見の寡陋(くわろう)を恥ぢたりと云ふ。※[#「行がまえ<干」、69-下-5]の如きは未(いまだ)恕(じよ)すべし。かの写真版のセザンヌを見て色彩のヴアリユルを喋々(てふてふ)するが如き、論者の軽薄唾棄するに堪へたりと云ふべし。戒めずんばあるべからず。(一月二十三日)

     俗漢

 バルザツクのペエル・ラシエエズの墓地に葬らるるや、棺側に侍するものに内相バロツシユあり。送葬の途上同じく棺側にありしユウゴオを顧みて尋ぬるやう、「バルザツク氏は材能の士なりしにや」と。ユウゴオ※(「口+弗」、第3水準1-14-92)吁(ふつく)として答ふらく「天才なり」と。バロツシユその答にや憤(いきどほ)りけん傍人(ばうじん)に囁(ささや)いて云ひけるは、「このユウゴオ氏も聞きしに勝(まさ)る狂人なり」と。仏蘭西(フランス)の台閣(だいかく)亦(また)這般(しやはん)の俗漢なきにあらず。日東帝国の大臣諸公、意を安んじて可なりと云ふべし。(一月二十四日)

     同性恋愛

 ドオリアン・グレエを愛する人は Escal Vigor を読まざる可(べ)からず。男子の男子を愛するの情、この書の如く遺憾なく描写せられしはあらざる可し。書中若しこれを翻訳せんか。我当局の忌違(きゐ)に触れん事疑なきの文字少からず。出版当時有名なる訴訟(そしよう)事件を惹起(じやくき)したるも、亦(また)是等艶冶(えんや)の筆(ひつ)の累(るゐ)する所多かりし由。著者 George Eekhoud は白耳義(ベルギイ)近代の大手筆(だいしゆひつ)なり。声名必(かならず)しもカミユ・ルモニエエの下にあらず。されど多士済々(せいせい)たる日本文壇、未(いまだ)この人が等身の著述に一言(いちげん)の紹介すら加へたるもの無し。文芸豈(あに)独り北欧の天地にのみ、オウロラ・ボレアリスの盛観をなすものならんや。(一月二十五日)

     同人雑誌

 年少の子弟醵金(きよきん)して、同人雑誌(どうじんざつし)を出版する事、当世の流行の一つなるべし。されど紙代印刷費用共に甚(はなはだ)廉(れん)ならざる今日(こんにち)、経営に苦しむもの亦(また)少からず。伝へ聞く、ル・メルキウル・ド・フランスが初号を市(いち)に出(いだ)せし時も、元(もと)より文壇不遇の士の黄白(くわうはく)に裕(ゆたか)なる筈なければ、やむ無く一株(ひとかぶ)六十法(フラン)の債券を同人に募りしかど、その唯一(ゆゐいち)の大(おほ)株主たるジユウル・ルナアルが持株すら僅々(きんきん)四株に過ぎざりしとぞ。しかもその同人の中には、アルベエル・サマンの如き、レミ・ド・グルモンの如き、一代の才人多かりしを思へば、当世流行の同人雑誌と雖(いへど)も、資金の甚(はなはだ)潤沢(じゆんたく)ならざるを憾(うら)むべき理由なきに似たり。唯、得難きは当年のル・メルキウルに、象徴主義の大旆(たいはい)を樹(た)てしが如き英霊底(えいれいてい)の漢(かん)一ダアスのみ。(一月二十六日)

     雅号

 日本の作家今は多く雅号(ががう)を用ひず。文壇の新人旧人を分つ、殆(ほとんど)雅号の有無を以てすれば足るが如し。されば前(さき)に雅号ありしも捨てて用ひざるさへ少からず。雅号の薄命なるも亦(また)甚しいかな。露西亜(ロシア)の作家にオシツプ・デイモフと云ふものあり。チエホフが短篇「蝗(いなご)」の主人公と同名なりしと覚ゆ。デイモフはその名を借りて雅号となせるにや。博覧の士の示教(しけう)を得れば幸甚(かうじん)なり。(一月二十八日)

     青楼

 仏蘭西(フランス)語に妓楼(ぎろう)を la maison verte と云ふは、ゴンクウルが造語なりとぞ。蓋(けだ)し青楼美人合せの名を翻訳せしに出づるなるべし。ゴンクウルが日記に云ふ。「この年(千八百八十二年)わが病的なる日本美術品蒐集(しうしふ)の為に費(つひや)せし金額、実に三千法(フラン)に達したり。これわが収入の全部にして、懐中時計を購(あがな)ふべき四十法(フラン)の残余さへ止(とど)めず」と。又云ふ。「数日以来(千八百七十六年)日本に赴(おもむ)かばやと思ふ心止(とど)め難し。されどこの旅行はわが日頃の蒐集(しうしふ)癖を充(みた)さんが為のみにはあらず。われは夢む、一巻の著述を成さん事を。題は『日本の一年』。日記の如き体裁。叙述よりも情調。かくせば比類なき好文字(かうもんじ)を得べし。唯、わがこの老(らう)を如何(いかん)」と。日本の版画を愛し、日本の古玩(こぐわん)を愛し、更に又日本の菊花を愛せる伶※(れいへい)[#「にんべん+娉のつくり」、71-上-5]孤寂(こじやく)のゴンクウルを想(おも)へば、青楼の一語短なりと雖(いへど)も、無限の情味なき能(あた)はざるべし。(一月二十九日)

     言語

 言語は元(もと)より多端なり。山(さん)と云ひ、嶽(がく)と云ひ、峯(ほう)と云ひ、巒(らん)と云ふ。義の同うして字の異なるを用ふれば、即ち意を隠微の間(かん)に偶(ぐう)するを得べし。大食(おほぐら)ひを大松(だいまつ)と云ひ差出者(さしでもの)を左兵衛次(さへゑじ)と云ふ。聞くものにして江戸つこならざらんか、面罵せらるるも猶(なほ)恬然(てんぜん)たらん。試(こころみ)に思へ、品蕭(ひんせう)の如き、後庭花(こうていくわ)の如き、倒澆燭(たうげうしよく)の如き、金瓶梅(きんぺいばい)肉蒲団(にくぶとん)中の語彙(ごゐ)を借りて一篇の小説を作らん時、善くその淫褻(いんせつ)俗を壊(やぶ)るを看破すべき検閲官の数(すう)何人なるかを。(一月三十一日)

     誤訳

 カアライルが独逸(ドイツ)文の翻訳に誤訳指摘を試みしはデ・クインシイがさかしらなり。されどチエルシイの哲人はこの後進の鬼才を遇する事|
反(かへ)つて甚(はなはだ)篤(あつ)かりしかば、デ・クインシイも亦(また)その襟懐に服して百年の心交を結びたりと云ふ。カアライルが誤訳の如何(いか)なりしかは知らず。予が知れる誤訳の最も滑稽なるはマドンナを奥さんと訳せるものなり。訳者は楽園の門を守る下僕天使にもあらざるものを。(二月一日)

     戯訓

 往年久米正雄(くめまさを)氏シヨウを訓して笑迂(せうう)と云ひ、イブセンを訓して燻仙(いぶせん)と云ひ、メエテルリンクを訓して瞑照燐火(めいてるりんくわ)と云ひ、チエホフを訓して知慧豊富(ちゑほうふ)と云ふ。戯訓(ぎくん)と称して可ならん乎(か)。二人比丘尼(ににんびくに)の作者鈴木正三(すずきしやうざう)、その耶蘇教(やそけう)弁斥(べんせき)の書に題して破鬼理死端(はきりしたん)と云ふ。亦(また)悪意ある戯訓の一例たるべし。(二月二日)

     俳句

 紅葉(こうえふ)の句未(いまだ)古人霊妙の機を会せざるは、独りその談林調(だんりんてう)たるが故のみにもあらざるべし。この人の文を見るも楚々(そそ)たる落墨直(ただち)に松を成すの妙はあらず。長ずる所は精整緻密(せいせいちみつ)、石を描(ゑが)いて一細草(いちさいさう)の点綴(てんてい)を忘れざる功(かう)にあり。句に短なりしは当然ならずや。牛門(ぎうもん)の秀才鏡花(きやうくわ)氏の句品(くひん)遙に師翁(しをう)の上に出づるも、亦(また)この理に外ならざるのみ。遮莫(さもあらばあれ)斎藤緑雨(さいとうりよくう)が彼(かの)縦横の才を蔵しながら、句は遂に沿門※黒(えんもんさくこく)[#「てへん+蜀」、71-下-22]の輩(はい)と軒輊(けんち)なかりしこそ不思議なれ。(二月四日)

     松並木

 東海道(とうかいだう)の松並木(まつなみき)伐(き)らるべき由、何時(いつ)やらの新聞紙にて読みたる事あり。元(もと)より道路改修の為とあれば止むを得ざるには似たれども、これが為に百尺(ひやくせき)の枯龍(こりゆう)斧鉞(ふゑつ)の災(さい)を蒙(かうむ)るもの百千なるべきに想到すれば、惜みても猶(なほ)惜むべき限りならずや。ポオル・クロオデル日本に来りし時、この東海道の松並木を見て作る所の文一篇あり。痩蓋(そうがい)煙を含み危根(きこん)石を倒すの状、描(ゑが)き得て霊彩(れいさい)奕々(えきえき)たりと云ふべし。今やこの松並木亡びんとす。クロオデルもしこれを聞かば、或は恐る、黄面(くわうめん)の豎子(じゆし)未(いまだ)王化に浴せずと長太息(ちやうたいそく)に堪へざらん事を。(二月五日)

     日本

 ゴオテイエが娘の支那(シナ)は既に云ひぬ。Jos※(アキュートアクセント付きE小文字) Maria de Heredia が日本も亦(また)別乾坤(べつけんこん)なり。簾裡(れんり)の美人琵琶(びは)を弾(たん)じて鉄衣の勇士の来(きた)るを待つ。景情元(もと)より日本ならざるに非ず。(le samourai)されどその絹の白と漆と金(きん)とに彩(いろど)られたる世界は、却(かへ)つて是縹渺(へうべう)たるパルナシアンの夢幻境のみ。しかもエレデイアの夢幻境たる、もしその所在を地図の上に按じ得べきものとせんか、恐らく仏蘭西(フランス)には近けれども、日本には遙(はるか)に隔(へだた)りたるべし。彼(かの)ゲエテの希臘(ギリシヤ)と雖も、トロイの戦(たたかひ)の勇士の口には一抹(いつまつ)ミユンヘンの麦酒(ビイル)の泡の未(いまだ)消えざるを如何(いか)にすべき。歎ずらくは想像にも亦(また)国籍の存する事を。(二月六日)

     大雅

 東海の画人多しとは云へ、九霞山樵(きうかさんせう)の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅(たいが)すら、年三十に及びし時、意の如く技(ぎ)の進まざるを憂ひて、教を祇南海(ぎなんかい)に請ひし事あり。血性(けつせい)大雅に過ぐるもの、何ぞ進歩の遅々たるに焦燥(せうそう)の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも学ぶべきは、聖胎長養(せいたいちやうやう)の機を誤らざりし九霞山樵の工夫(くふう)なるべし。(二月七日)

     妖婆

 英語に witch と唱ふるもの、大むねは妖婆(えうば)と翻訳すれど、年少美貌のウイツチ亦(また)決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覚者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品(しな)下(さが)れどクロオフオオドが Witch of Prague など、顔玉(たま)の如きウイツチを描(ゑが)きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髪蒼顔のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否(いな)み難き事実ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文学中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングが The Courting of Dinah Shadd の如き、或は随一とも称すべき乎(か)。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高き Under the Greenwood の中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥(やまうば)鬼婆(おにばば)共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚随録(やたんずゐろく)載する所の夜星子(やせいし)なるもの、略(ほぼ)妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

     柔術

 西人(せいじん)は日本と云ふ毎(ごと)に、必(かならず)柔術を想起すと聞けり。さればにやアナトオル・フランスが「天使の反逆」の一章にも、日本より巴里(パリ)に[#「巴里(パリ)に」は底本では「里巴(パリ)に」]来れる天使仏蘭西(フランス)の巡査を掻(か)い掴(つか)んで物も見事に投げ捨つるくだりあり。モオリス・ルブランが探偵小説の主人公侠賊(けふぞく)リユパンが柔術に通じたるも、日本人より学びし所なりとぞ。されど日本現代の小説中、柔術の妙を極めし主人公は僅に泉鏡花(いづみきやうくわ)氏が「芍薬(しやくやく)の歌」の桐太郎(きりたらう)のみ。柔術も亦(また)予言者は故郷に容(い)れられざるの歎無きを得んや。好笑(かうせう)好笑。(二月十日)

     昨日の風流

 趙甌北(てうおうぼく)が呉門雑詩(ごもんざっし)に云ふ。看尽煙花細品評(えんくわをみつくしてこまかにひんぴやうす)、始知佳麗也虚名(はじめてしるかれいのまたきよめいなるを)、従今不作繁華夢(いまよりおこさずはんくわのゆめ)、消領茶煙一縷清(せうりやうすさえんいちるのせい)。又その山塘(さんたう)の詩に云ふ。老入歓場感易増(おいてくわんじやうにいればかんましやすし)、煙花猶記昔遊曾(えんくわなほしるすせきいうのそう)、酒楼旧日紅粧女(しゆろうきうじつこうしやうのぢよ)、已似禅家退院僧(すでににたりぜんかたいゐんのそう)。一腔(いつかう)の詩情殆(ほとんど)永井荷風(ながゐかふう)氏を想はしむるものありと云ふべし。(二月十一日)

     発音

 ポオの名 Quantin 版に Po※(ダイエレシス付きE小文字) と印刷せられてより、仏蘭西(フランス)を始め諸方にポオエの発音行はれし由。予等が英文学の師なりし故ロオレンス先生も、時にポオエと発音せられしを聞きし事あり。西人(せいじん)の名の発音の誤り易きはさる事ながら、ホイツトマン、エマスンなどを崇(あが)め尊ぶ人のわが仏(ほとけ)の名さへアクセントを誤りたるは、無下(むげ)にいやしき心地せらる。慎(つつし)まざる可らざるなり。(二月十三日)

     傲岸不遜

 一青年作家或会合の席上にて、われら文芸の士はと云ひさせしに、傍(かたはら)なるバルザツク忽ちその語を遮(さへぎ)つて云ひけるは、「君の我等に伍せんとするこそ烏滸(をこ)がましけれ。我等は近代文芸の将帥(しやうすゐ)なるを」と。文壇の二三子夙(つと)に傲岸不遜(がうがんふそん)の譏(そしり)ありと聞く。されど予は未(いまだ)一人(いちにん)のバルザツクに似たるものを見ず。元(もと)より人間喜劇の著述二三子の手に成るを聞かざれども。(二月十五日)

     煙草

 煙草(たばこ)の世に行はれしは、亜米利加(アメリカ)発見以後の事なり。埃及(エジプト)、亜剌比亜(アラビア)[#「亜剌比亜」は底本では「亜刺比亜」]、羅馬(ロオマ)などにも、喫煙の俗ありしと云ふは、青盲者流(せいまうしやりう)のひが言(ごと)のみ。亜米利加土人の煙を嗜(たしな)みしは、コロムブスが新世界に至りし時、既に葉巻あり、刻(きざ)みあり、嗅(かぎ)煙草ありしを見て知るべし。タバコの名も実は植物の名称ならで、刻みの煙を味ふべきパイプの意なりしぞ滑稽なる。されば欧洲の白色人種が喫煙に新機軸を出(いだ)したるは、僅に一事軽便なるシガレツトの案出ありしのみ。和漢三才図会(わかんさんさいづゑ)によれば、南蛮紅毛(こうもう)の甲比丹(かびたん)がまづ日本に舶載(はくさい)したるも、このシガレツトなりしものの如し。村田(むらた)の煙管(きせる)未(いまだ)世に出でざりし時、われらが祖先は既にシガレツトを口にしつつ、春日(しゆんじつ)煦々(くく)たる山口の街頭、天主会堂の十字架を仰いで、西洋機巧の文明に賛嘆の声を惜まざりしならん。(二月二十四日)

     ニコチン夫人

 ボオドレエルがパイプの詩は元(もと)より、Lyra Nicotiana を翻(ひるがへ)すも、西洋詩人の喫煙を愛(め)づるは、東洋詩人の点茶(てんちや)を悦ぶと好一対(かういつつゐ)なりと云ふを得べし。小説にてはバリイが「ニコチン夫人」最も人口に※(「口+會」、第3水準1-15-25)炙(くわいしや)したり。されど唯軽妙の筆(ひつ)、容易に読者を微笑せしむるのみ。ニコチンの名、もと仏蘭西(フランス)人ジアン・ニコツトより出づ。十六世紀の中葉、ニコツト大使の職を帯びて西班牙(スペイン)に派遣せらるるや、フロリダ渡来の葉煙草を得て、その医療に効あるを知り、栽培(さいばい)大いに努めしかば、一時は仏人煙草を呼んでニコチアナと云ふに至りしとぞ。デ・クインシイが「阿片(アヘン)喫煙者の懺悔(ざんげ)」は、さきに佐藤春夫(さとうはるを)氏をして「指紋(しもん)」の奇文を成さしめたり。誰か又バリイの後(のち)に出でて、バリイを抜く事数等なる、恰(あたか)もハヴアナのマニラに於ける如き煙草小説を書かんものぞ。(二月二十五日)

     一字の師

 唐(たう)の任翻(じんはん)天台巾子峯(てんだいきんしほう)に遊び、詩を寺壁に題して云ふ。「絶頂新秋生夜涼(ぜつちやうのしんしうやりやうをしやうず)。鶴翻松露滴衣裳(つるはひるがへつてしようろいしやうにしたたる)。前峯月照一江水(ぜんぽうつきはてるいつかうのみづ)。僧在翠微開竹房(そうはすゐびにあつてちくばうをひらく)。」題し畢(をは)つて後(のち)行く事数十里、途上一江水(いつかうすゐ)は半江水(はんかうすゐ)に若(し)かざるを覚り、直(ただち)に題詩の処に回(かへ)れば、何人(なんびと)か既(すで)に「一」字を削(けづ)つて「半」字に改めし後(のち)なりき。翻長太息(はんちやうたいそく)に堪へずして曰(いはく)、台州(たいしう)有人(ひとあり)と。古人が詩に心を用ふる、惨憺経営の跡想ふべし。青々(せいせい)が句集妻木(つまぎ)の中に、「初夢や赤(あけ)なる紐(ひも)の結ぼほる」の句あり。予思ふらく、一字不可、「る」字に易(か)ふに「れ」字を以てすれば可ならんと。知らず、青々予を拝して能く一字の師と做(な)すや否や。一笑。(二月二十六日)

     応酬

 ユウゴオ一夕宴をアヴニウ・デイロオの自邸に張る。偶(たまたま)衆客(しゆうかく)皆(みな)杯(さかづき)を挙げて主人の健康を祝するや、ユウゴオ傍(かたはら)なるフランソア・コツペエを顧みて云ふやう、「今この席上なる二詩人迭(たがひ)に健康を祝さんとす。亦(また)善からずや」と。意コツペエが為に乾杯せんとするにあり。コツペエ辞して云ふ、「否、否、座間(ざかん)詩人は唯一人(いちにん)あるのみ」と。意詩人の名に背(そむ)かざるものは唯ユウゴオ一人(いちにん)のみなるを云ふなり。時に「オリアンタアル」の作者、忽ち破顔して答ふるやう、「詩人は唯一人(いちにん)あるのみとや。善し、さらば我は如何(いかに)」と。意コツペエが言を翻(ひるがへ)しておのが仰損を示せるなり。曰く「僧院の秋」の会、曰く「三浦(みうら)製糸場主」の会、曰く猫の会、曰く杓子(しやくし)の会、方今(はうこん)の文壇会甚(はなはだ)多しと雖(いへど)も、未(いまだ)滑脱(くわつだつ)の妙を極めたる、斯(か)くの如き応酬ありしを聞かず。傍(かたはら)に人あり。嗤(わら)つて云ふ、「請ふ、隗(くわい)より始めよ」と。(二月二十七日)

     白雨禅

 狩野芳涯(かのうはうがい)常に諸弟子(しよていし)に教へて曰(いはく)、「画(ぐわ)の神理、唯当(まさ)に悟得(ごとく)すべきのみ。師授によるべからず」と。一日芳涯病んで臥(ふ)す。偶(たまたま)白雨天を傾けて来り、深巷(しんかう)寂(せき)として行人(かうじん)を絶つ。師弟共に黙して雨声(うせい)を聴(き)くもの多時、忽ち一人(いちにん)あり。高歌して門外を過ぐ。芳涯莞爾(くわんじ)として、諸弟子を顧みて曰、「会(ゑ)せりや」と。句下殺人の意あり。吾家(ごか)の吹毛剣(すゐまうけん)、単于(ぜんう)千金に購(あがな)ひ、妖精太陰(たいいん)に泣く。一道の寒光、君看取せよ。(三月三日)

     批評

 ピロンが、皮肉は世に聞えたり。一文人彼に語るに前人未発の業を成さん事を以てす。ピロン冷然として答ふらく、「易々(いい)たるのみ。君自身の讃辞(さんじ)を作らば可」と。当代の文壇、聞くが如くんば、党派批評あり。売笑批評あり。挨拶(あいさつ)批評あり。雷同批評あり。紛々(ふんぷん)たる毀誉褒貶(きよはうへん)、庸愚(ようぐ)の才が自讃の如きも、一犬の虚に吠ゆる処、万犬亦(また)実を伝へて、必(かならず)しもピロンが所謂(いはゆる)、前人未発の業と做(な)す可(べか)らず。寿陵余子(じゆりようよし)生れてこの季世にあり。ピロンたるも亦(また)難いかな。(三月四日)

     誤謬

 門前の雀羅(じやくら)蒙求(もうぎう)を囀(さへづ)ると説く先生あれば、燎原(れうげん)を焼く火の如しと辯ずる夫子(ふうし)あり。明治神宮の用材を賛(さん)して、彬々(ひんひん)たるかな文質と云ふ農学博士あれば、海陸軍の拡張を議して、艨艟罷休(もうどうひきう)あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度(きやうと)の子(こ)を誕(たん)するや、李林甫(りりんぼ)手(しゆ)書を作つて曰(いはく)、聞く、弄※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)(ろうしやう)の喜(よろこび)ありと。客之を視て口を掩(おほ)ふ。蓋し林甫(りんぽ)の璋字(しやうじ)を誤つて、※(「鹿/章」、第3水準1-94-75)字(しやうじ)を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危険思想の瀰漫(びまん)を論じて曰、病既に膏盲(かうまう)[#「膏盲(かうまう)」はママ]に入る、国家の興廃旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢学の素養の顧られざる、亦(また)甚しと云はざる可らず。況(いはん)や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素読(そどく)は覚束(おぼつか)なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮(りせいれん)の号は眼に疎(うと)きもの、紛々(ふんぷん)として数へ難し。頃日(けいじつ)偶(たまたま)書林の店頭に、数冊の古(ふる)雑誌を見る。題して紅潮社(こうていしや)発兌(はつだ)紅潮第何号と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月経に外(ほか)ならざるを。(四月十六日)

     入月

 西洋に女子の紅潮(こうてう)を歌へる詩ありや否や、寡聞(くわぶん)にして未(いまだ)之を知らず。支那には宮掖閨閤(きゆうえきけいかふ)の詩中、稀(まれ)に月経を歌へるものあり。王建(わうけん)が宮詞(きゆうし)に曰(いはく)、「密奏君王知入月(くんわうにみつそうしつきにいるをしる)、喚人相伴洗裙裾(ひとをよんであひともなつてくんきよをあらふ)」と。春風(しゆんぷう)珠簾(しゆれん)を吹いて、銀鉤(ぎんこう)を蕩(たう)するの処、蛾眉(がび)の宮人の衣裙(いくん)を洗ふを見る、月事(げつじ)も亦(また)風流ならずや。(四月十六日)

     遺精

 西洋に男子の遺精(ゐせい)を歌へる詩ありや否や、寡聞にして未(いまだ)之を知らず。日本には俳諧錦繍段(きんしうだん)に、「遺精驚く暁のゆめ、神叔(しんしゆく)」とあり。但(ただし)この遺精の語義、果して当代に用ふる所のものと同じきや否やを詳(つまびらか)にせず。識者の示教(しけう)を得ば幸甚(かうじん)なり。(四月十六日)

     後世

 君見ずや。本阿弥(ほんあみ)の折紙(をりかみ)古今(ここん)に変ず。羅曼(ロマン)派起つてシエクスピイアの名、四海に轟く事迅雷(じんらい)の如く、羅曼派亡んでユウゴオの作、八方に廃(すた)るる事霜葉(さうえふ)に似たり。茫々たる流転(るてん)の相(さう)。目前は泡沫、身後(しんご)は夢幻。智音(ちいん)得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの技(ぎ)を以太利(イタリイ)に修めんとするや、ブウシエその行(かう)を送つて曰(いはく)、「ミシエル・アンジユが作を見ること勿(なか)れ。彼が如きは狂人のみ」と。ブウシエを哂(わら)つて俗漢と做(な)す。豈(あに)敢(あへ)て難しとせんや。遮莫(さもあらばあれ)千年の後(のち)、天下靡然(びぜん)としてブウシエの見(けん)に赴(おもむ)く事無しと云ふ可らず。白眼(はくがん)当世に傲(おご)り、長嘯(ちやうせう)後代を待つ、亦(また)是(これ)鬼窟裡(きくつり)の生計のみ。何ぞ若(し)かん、俗に混じて、しかも自(みづか)ら俗ならざるには。籬(まがき)に菊有り。琴(こと)に絃(げん)無し。南山(なんざん)見来(きた)れば常に悠々。寿陵余子(じゆりようよし)文を陋屋(ろうをく)に売る。願くば一生後生(こうせい)を云はず、紛々(ふんぷん)たる文壇の張三李四(ちやうさんりし)と、トルストイを談じ、西鶴(さいかく)を論じ、或は又甲主義乙傾向の是非曲直を喋々(てふてふ)して、遊戯三昧(ざんまい)の境(きやう)に安んぜんかな。(五月二十六日)

     罪と罰

 鴎外(おうぐわい)先生を主筆とせる「しがらみ草紙(さうし)」第四十七号に、謫天情僊(たくてんじやうせん)の七言絶句(しちごんぜつく)、「読罪与罰上篇(つみとばつじやうへんをよむ)」数首あり。泰西(たいせい)の小説に題するの詩、嚆矢(かうし)恐らくはこの数首にあらんか。左にその二三を抄出すれば、「考慮閃来如電光(かうりよひらめききたつてでんくわうのごとし)、茫然飛入老婆房(ばうぜんとんでいるらうばのばう)、自談罪跡真耶仮(みづからだんずざいせきしんかかか)、警吏暗殺狂不狂(けいりあんさつすきやうかふきやうか)」(第十三回)「窮女病妻哀涙紅(きゆうぢよびやうさいあいるゐくれなゐに)、車声轣轆仆家翁(しやせいれきろくとしてかをうたふる)、傾嚢相救客何侠(なうをかたむけてあひすくうふかくなんぞけふなる)、一度相逢酒肆中(いちどあひあふしゆしのうち)」(第十四回)「可憐小女去邀賓(かれんのせうぢよさつてひんをむかへ)、慈善書生半死身(じぜんのしよせいはんしのみ)、見到室中無一物(みいたるしつちういちぶつなし)、感恩人是動情人(かんおんのひとはこれどうじやうのひと)」(第十八回)の如し。詩の佳否(かひ)は暫く云はず、明治二十六年の昔、既に文壇ドストエフスキイを云々するものありしを思へば、この数首の詩に対して破顔一番するを禁じ難きもの、何ぞ独り寿陵余子(じゆりようよし)のみならん。(五月二十七日)

     悪魔

 悪魔の数甚(はなはだ)多し。総数百七十四万五千九百二十六匹あり。分つて七十二隊を為(な)し、一隊毎に隊長一匹を置くとぞ。是れ十六世紀の末葉、独人 Wierus が悪魔学に載する所、古今(ここん)を問はず、東西を論ぜず、魔界の消息を伝へて詳密なる、斯(か)くの如きものはあらざるべし。(十六世紀の欧羅巴(ヨオロツパ)には、悪魔学の先達(せんだつ)尠(すくな)からず。ウイルスが外にも、以太利(イタリイ)の Pietro d'Apone の如き、英克蘭(イングランド)の Reginald Soct の如き、皆天下に雷名あり。)又曰(いはく)、「悪魔の変化(へんげ)自在(じざい)なる、法律家となり、昆侖奴(こんろんぬ)となり、黒驪(こくり)となり、僧人となり、驢(ろ)となり、猫となり、兎となり、或は馬車の車輪となる」と。既に馬車の車輪となる。豈(あに)半夜人を誘(いざな)つて、煙火城中に去らんとする自動車の車輪とならざらんや。畏(おそ)る可く、戒む可し。(五月二十八日)

     聊斎志異

 聊斎志異(れうさいしい)が剪燈新話(せんとうしんわ)と共に、支那小説中、鬼狐(きこ)を説いて、寒燈為に青からんとする妙を極めたるは、洽(あまね)く人の知る所なるべし。されど作者蒲松齢(ほしようれい)が、満洲朝廷に潔(いさぎよ)からざるの余り、牛鬼蛇神(ぎうきだしん)の譚(ものがたり)に託して、宮掖(きゆうえき)の隠微を諷したるは、往々本邦の読者の為に、看過(かんくわ)せらるるの憾(うら)みなきに非ず。例へば第二巻所載侠女(けふじよ)の如きも、実は宦人(くわんじん)年羹堯(ねんかうげう)の女(ぢよ)が、雍正帝(ようせいてい)を暗殺したる秘史の翻案に外ならずと云ふ。崑崙外史(こんろんぐわいし)の題詞に、「董狐豈独人倫鑒(とうこあにひとりじんりんのかんならんや)」と云へる、亦(また)這般(しやはん)の消息を洩らせるものに非ずして何ぞや。西班牙(スペイン)にゴヤの Los Caprichos あり。支那に留仙(りうせん)の聊斎志異(れうさいしい)あり。共に山精野鬼(さんせいやき)を借りて、乱臣賊子を罵殺せんとす。東西一双の白玉瓊(はくぎよくけい)、金匱(きんき)の蔵(ざう)に堪へたりと云ふべし。(五月二十八日)

     麗人図

 西班牙(スペイン)に麗人あり。Dona Maria Theresa と云ふ。若くしてヴイラフランカ十一代の侯 Don Jos※(アキュートアクセント付きE小文字) Alvalez de Toledo に嫁す。明眸絳脣(めいぼうかうしん)、香肌(かうき)白き事脂(し)の如し。女王マリア・ルイザ、その美を妬(ねた)み、遂に之を鴆殺(ちんさつ)せしむ。人間(じんかん)止(とど)め得たり一香嚢の長恨ある、かの楊太真(やうたいしん)と何(いづ)れぞや。侯爵夫人に情郎(じやうらう)あり。Francesco de Goya と云ふ。ゴヤは画名を西班牙に馳(は)するもの、生前屡(しばしば)ドンナ・マリア・テレサの像を描(ゑが)く。俗伝にして信ずべくんば、Maja vestida と Maja desnuda との両画幀(りやうぐわたう)、亦(また)実に侯爵夫人が一代の国色を伝ふるが如し。後年仏蘭西(フランス)に一画家あり。Edouard Manet と云ふ。ゴヤが侯爵夫人の画像を得て、狂喜自(みづか)ら禁ずる能(あた)はず。直(ただち)にその画像を模して、一幀(いつたう)春の如き麗人図を作る。マネ時に印象派の先達(せんだつ)たり。交(かう)を彼と結ぶもの、当世の才人尠(すくな)からず。その中に一詩人あり。Charles Baudelaire と云ふ。マネが侯爵夫人の画像を得て、愛翫(あいがん)する事洪璧(こうへき)の如し。千八百六十六年、ボオドレエルの狂疾を発して、巴里(パリ)の寓居に絶命するや、壁間亦(また)この檀口雪肌(だんこうせつき)、天仙の如き麗人図あり。星眼長(とこし)へに秋波を浮べて、「悪の華(はな)」の詩人が臨終を見る、猶(なほ)往年マドリツドの宮廷に、黄面の侏儒(しゆじゆ)が筋斗(きんと)の戯(ぎ)を傍観するが如くなりしと云ふ。(五月二十九日)

     売色鳳香餅

 支那に龍陽(りやうやう)の色(しよく)を売る少年を相公(しやうこう)と云ふ。相公の語、もと像姑(しやうこ)より出づ。妖※(「女+堯」、第4水準2-5-82)(えいぜう)恰(あたか)も姑娘(こぢやう)の如くなるを云ふなり。像姑相公同音相通ず。即(すなはち)用ひて陰馬(いんば)の名に換へたるのみ。支那に路上春を鬻(ひさ)ぐの女(ぢよ)を野雉(やち)と云ふ。蓋(けだ)し徘徊行人(かうじん)を誘(いざな)ふ、恰(あたか)も野雉の如くなるを云ふなり。邦語にこの輩を夜鷹(よたか)と云ふ。殆(ほとんど)同一轍(てつ)に出づと云ふべし。野雉の語行はれて、野雉車(やちしや)の語出づるに至る。野雉車とは仰(そも)何ぞ。北京(ペキン)上海(シヤンハイ)に出没する、無鑑札の朦朧車夫(もうろうしやふ)なり。(五月三十日)

     泥黎口業

 寿陵余子(じゆりようよし)雑誌「人間(にんげん)」の為に、骨董羹(こつとうかん)を書く事既に三回。東西古今(ここん)の雑書を引いて、衒学(げんがく)の気焔を挙ぐる事、恰(あたか)もマクベス曲中の妖婆(えうば)の鍋(なべ)に類せんとす。知者は三千里外にその臭を避け、昧者(まいしや)は一弾指間(しかん)にその毒に中(あた)る。思ふに是泥黎(でいり)の口業(こうげふ)。羅貫中(らくわんちう)水滸伝(すゐこでん)を作つて、三生唖子(さんせいあし)を生むとせば、寿陵余子亦(また)骨董羹を書いて、仰(そも)如何(いかん)の冥罰(みやうばつ)をか受けん。黙殺か。撲滅か。或は余子の小説集、一冊も市(いち)に売れざるか。若(し)かず、速(すみやか)に筆を投じて、酔中独り繍仏(しうぶつ)の前に逃禅(たうぜん)の閑を愛せんには。昨の非を悔い今(こん)の是(ぜ)を知る。何(なん)ぞ須臾(しゆゆ)も踟※(ちちう)[#「足へん+廚」、79-上-3]せん。抛下(はうか)す、吾家(ごか)の骨董羹。今日(こんにち)喫(きつ)し得て珍重(ちんちよう)ならば、明日(みやうにち)厠上(しじやう)に瑞光あらん。糞中の舎利(しやり)、大家(たいか)看(み)よ。(五月三十日)

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     天路歴程

 Pilgrim's Progress を天路歴程(てんろれきてい)と翻訳するのは清の同治八年(西暦千八百六十九年)上海華草書館にて出版せる漢訳の名を踏襲(たうしふ)せるにや。この書、篇中の人物風景を悉(ことごとく)支那風に描きたる銅版画の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画数葉あり。その入窄門図(にふさくもんづ)の如き、或は入美宮図の如き、長崎絵の紅毛人に及ばざれど、亦一種の風韻(ふうゐん)無きに非らず。文章も漢を以て洋を叙(じよ)するの所、読み来り読み去つて感興反つて尠(すくな)からざるを覚ゆ。殊にその英詩を翻訳したる、詩としては見るに堪へざらんも、別様の趣致あるは※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画と一なり。譬(たと)へば生命水の河の詩に「路旁生命水清流(ろばうのせいめいみづきよくながる)、天路行人喜暫留(てんろのかうじんよろこびしばらくとどまる)、百菓奇花供悦楽(ひやつくわきくわえつらくにきようす)、吾儕幸得此埔遊(わがさいさいはひにえたりこのほのいう)」と云ふが如し。この種の興味を云々するは恐らく傍人の嗤笑を買ふ所にならん。然れども思へ、獄中のオスカア・ワイルドが行往坐臥に侶としたるも、こちたき希臘語(ギリシヤご)の聖書なりしを。(一月二十一日)

     三馬

 二三子集り議して曰、今人の眼を以て古人の心を描く事、自然主義以後の文壇に最も目ざましき傾向なるべしと。一老人あり。傍より言を挾(はさ)みて曰、式亭三馬(しきていさんば)が大千世界楽屋探しは如何(いかん)と。二三子の言の出づる所を知らず、相顧みて唖然(あぜん)たるのみ。(一月二十七日)

     尾崎紅葉

 紅葉の歿後殆二十年。その「多情多恨」の如き、「伽羅枕(からまくら)」の如き、「二人女房」の如き、今日猶(なほ)之を翻読するも宛然(えんぜん)たる一朶(いちだ)の鼈甲牡丹(べつかうぼたん)、光彩更に磨滅すべからざるが如し。人亡んで業顕(あらは)るとは誠にこの人の謂(いひ)なるかな。思ふに前記の諸篇の如き、布局法あり、行筆本あり、変化至つて規矩(きく)を離れざる、能く久遠に垂(た)るべき所以(ゆゑん)ならん。予常に思ふ、芸術の境に未成品ある莫(な)しと。紅葉亦然らざらんや。(二月三日)

     誨淫の書

 金瓶梅(きんぺいばい)、肉蒲団(にくぶとん)は問はず、予が知れる支那小説中、誨淫の譏(そしり)あるものを列挙すれば、杏花天(きやうくわてん)、燈芯奇僧伝(たうしんきそうでん)、痴婆子伝(ちばしでん)、牡丹奇縁、如意君伝(によいくんでん)、桃花庵、品花宝鑑(ひんくわはうかん)、意外縁、殺子報、花影奇情伝、醒世第一奇書(せいせいだいいちきしよ)、歓喜奇観、春風得意奇縁、鴛鴦夢(えんあうむ)、野臾曝言(やゆばうげん)、淌牌黒幕(せうはいこくばく)等なるべし。聞く、夙(つと)に舶載せられしものは、既に日本語の翻案ありと。又聞く、近年この種の翻案を密に剞※(「厥+りっとう」、第4水準2-3-30)(きけつ)に附せしものありと。若し這般(しやはん)の和訳艶情小説を一読過せんと欲するものは、請(こ)ふ、当代の照魔鏡(せうまきやう)たる検閲官諸氏の門を叩いて恭(うやうや)しくその蔵する所の発売禁止本を借用せよ。(二月十二日)

     演劇史

 西洋演劇研究の書今は多く出でたれど、その濫觴(らんしやう)をなせしものは永井徹が著したる各国演劇史の一巻ならん。この書、太鼓(たいこ)喇叭(らつぱ)竪琴(たてこと)などを描きたる銅版画の表紙の上に、Kakkoku Engekishi なる羅馬字(ロオマじ)を題す。内容は劇場及機関道具等の変遷、男女俳優古今の景状、各国戯曲の由来等なれど、英吉利(イギリス)の演劇を論ずること最も詳しきものの如し。その一斑を紹介すれば、「然るに千五百七十六年女王エリサベスの時代に至り、始めて特別演劇興行の為め、ブラツク・フラヤス寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英国正統なる劇場の始祖とす。(中略)俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり。当時は十二歳の児童なりしが、ストラタフオルドの学校にて、羅甸(ラテン)並に希臘(ギリシヤ)の初学を卒業せしものなり。」の如き、破顔微笑せらるる記事少からず。明治十七年一月出版、著者永井徹の警視庁警視属なるも一興なり。(二月十四日)
寿陵余子
(大正九年)
了

底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
※「膏盲(かうまう)」に対し、底本は「「膏肓」が正しい。」と注記しています。
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
2007年12月20日修正
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