あらすじ
ある日、長野へ向かう汽車の中で、神経衰弱気味な男が持っていた革鞄から奇妙な音が聞こえ始めます。男は周囲にそのことを明かし、さらに不思議な行動を繰り返します。やがて、その革鞄と、隣席に座る美しくも慎ましい娘との間に、予期せぬ出来事が起こります。男の行動に、周囲の人々は困惑し、戸惑いを隠せません。一体、男の革鞄には何が隠されているのでしょうか。そして、その革鞄は、男と娘の運命をどのように変えていくのでしょうか。
       一

「そんな事があるものですか。」
「いや、まったくだから変なんです。馬鹿々々しい、何、詰(つま)らないと思う後(あと)から声がします。」
「声がします。」
「確かに聞えるんです。」
 と云った。私たち二人は、その晩、長野の町の一大構(あるおおがまえ)の旅館の奥の、母屋(おもや)から板廊下を遠く隔てた離座敷(はなれざしき)らしい十畳の広間に泊った。
 はじめ、停車場(ステイション)から俥(くるま)を二台で乗着けた時、帳場の若いものが、
「いらっしゃい、どうぞこちらへ。」
 で、上靴を穿(は)かせて、つるつるする広い取着(とッつき)の二階へ導いたのであるが、そこから、も一ツつかつかと階子段(はしごだん)を上(あが)って行(ゆ)くので、連(つれ)の男は一段踏掛けながら慌(あわただ)しく云った。
「三階か。」
「へい、四階(しかい)でございます。」と横に開いて揉手(もみで)をする。
「そいつは堪(たま)らんな、下座敷は無いか。――貴方(あなた)はいかがです。」
 途中で見た上阪(のぼりざか)の中途に、ばりばりと月に凍(い)てた廻縁(まわりえん)の総硝子(そうがらす)。紅色(べにいろ)の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透(みとお)しに高い四階は落着かない。
「私も下が可(い)い。」
「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他(ほか)には唯今(ただいま)どうも、へい、へい。」
「古くっても構わん。」
 とにかく、座敷はあるので、やっと安心したように言った。
 人の事は云われないが、連(つれ)の男も、身体(からだ)つきから様子、言語(ものいい)、肩の瘠(や)せた処、色沢(いろつや)の悪いのなど、第一、屋財、家財、身上(しんしょう)ありたけを詰込(つめこ)んだ、と自ら称(とな)える古革鞄(ふるかばん)の、象を胴切りにしたような格外の大(おおき)さで、しかもぼやけた工合(ぐあい)が、どう見ても神経衰弱というのに違いない。
 何と……そして、この革鞄の中で声がする、と夜中に騒ぎ出したろうではないか。
 私は枕を擡(もた)げずにはいられなかった。
 時に、当人は、もう蒲団(ふとん)から摺出(ずりだ)して、茶縞(ちゃじま)に浴衣を襲(かさ)ねた寝着(ねまき)の扮装(なり)で、ごつごつして、寒さは寒し、もも尻になって、肩を怒らし、腕組をして、真四角(まっしかく)。
 で、二間(けん)の――これには掛(かけ)ものが掛けてなかった――床の間を見詰めている。そこに件(くだん)の大革鞄があるのである。
 白ぼけた上へ、ドス黒くて、その身上ありたけだという、だふりと膨(ふく)だみを揺(ゆす)った形が、元来、仔細(しさい)の無い事はなかった。
 今朝、上野を出て、田端、赤羽――蕨(わらび)を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になりはじめた。
 私は妙な事を思出したのである。
 やがて、十八九年も経(た)ったろう。小児(こども)がちと毛を伸ばした中僧の頃である。……秋の招魂祭の、それも真昼間(まっぴるま)。両側に小屋を並べた見世(みせ)ものの中に、一ヶ所目覚しい看板を見た。
 血だらけ、白粉(おしろい)だらけ、手足、顔だらけ。刺戟の強い色を競った、夥多(あまた)の看板の中にも、そのくらい目を引いたのは無かったと思う。
 続き、上下(うえした)におよそ三四十枚、極彩色の絵看板、雲には銀砂子、襖(ふすま)に黄金箔(きんぱく)、引手に朱の総(ふさ)を提げるまで手を籠(こ)めた……芝居がかりの五十三次。
 岡崎の化猫が、白髪(しらが)の牙(きば)に血を滴らして、破簾(やれみす)よりも顔の青い、女を宙に啣(くわ)えた絵の、無慙(むざん)さが眼(まなこ)を射る。

       二

「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 と嗾(そそ)る。……
 が、その外には何も言わぬ。並んだ小屋は軒別に、声を振立て、手足を揉上(もみあ)げ、躍りかかって、大砲の音で色花火を撒散(まきち)らすがごとき鳴物まじりに人を呼ぶのに。
 この看板の前にのみ、洋服が一人、羽織袴(はおりはかま)が一人、真中(まんなか)に、白襟、空色紋着(もんつき)の、廂髪(ひさしがみ)で痩(や)せこけた女が一人交(まじ)って、都合三人の木戸番が、自若として控えて、一言も言(ものい)わず。
 ただ、時々……
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」
 とばかりで、上目でじろりとお立合を見て、黙然(もくねん)として澄まし返る。
 容体がさも、ものありげで、鶴の一声という趣(おもむき)。※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)(もが)き騒いで呼立てない、非凡の見識おのずから顕(あらわ)れて、裡(うち)の面白さが思遣(おもいや)られる。
 うかうかと入って見ると、こはいかに、と驚くにさえ張合も何にもない。表飾りの景気から推(お)せば、場内の広さも、一軒隣のアラビヤ式と銘打った競馬ぐらいはあろうと思うのに、筵囲(むしろがこ)いの廂合(ひあわい)の路地へ入ったように狭くるしく薄暗い。
 正面を逆に、背後(うしろ)向きに見物を立たせる寸法、舞台、というのが、新筵(あらむしろ)二三枚。
 前に青竹の埒(らち)を結廻(ゆいまわ)して、その筵の上に、大形の古革鞄ただ一個(ひとつ)……※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)しても視(なが)めても、雨上(あまあが)りの湿気(しけ)た地(つち)へ、藁(わら)の散(ちら)ばった他(ほか)に何にも無い。
 中へ何を入れたか、だふりとして、ずしりと重量(おもみ)を溢(あぶ)まして、筵の上に仇光(あだびか)りの陰気な光沢(つや)を持った鼠色のその革鞄には、以来、大海鼠(おおなまこ)に手が生えて胸へ乗(のっ)かかる夢を見て魘(うな)された。
 梅雨期(つゆどき)のせいか、その時はしとしとと皮に潤湿(しめりけ)を帯びていたのに、年数も経(た)ったり、今は皺目(しわめ)がえみ割れて乾燥(はしゃ)いで、さながら乾物(ひもの)にして保存されたと思うまで、色合、恰好(かっこう)、そのままの大革鞄を、下にも置かず、やっぱり色の褪(あ)せた鼠の半外套(はんがいとう)の袖(そで)に引着けた、その一人の旅客を認めたのである。
 私は熟(じっ)と視(み)て、――長野泊りで、明日(あす)は木曾へ廻ろうと思う、たまさかのこの旅行に、不思議な暗示を与えられたような気がして、なぜか、変な、擽(くすぐ)ったい心地がした。
 しかも、その中から、怪しげな、不気味な、凄(すご)いような、恥かしいような、また謎のようなものを取出して見せられそうな気がしてならぬ。
 少くとも、あの、絵看板を畳込(たたみこ)んで持っていて、汽車が隧道(トンネル)へ入った、真暗(まっくら)な煙の裡(うち)で、颯(さっ)と化猫が女を噛(か)む血だらけな緋(ひ)の袴(はかま)の、真赤(まっか)な色を投出(ほうりだ)しそうに考えられた。
 で、どこまで一所になるか、……稀有(けう)な、妙な事がはじまりそうで、危(あぶな)っかしい中(うち)にも、内々少からぬ期待を持たせられたのである。
 けれども、その男を、年配、風采(ふうさい)、あの三人の中の木戸番の一人だの、興行ぬしだの、手品師だの、祈祷者(きとうじゃ)、山伏だの、……何を間違えた処で、慌てて魔法つかいだの、占術家(うらないや)だの、また強盗、あるいは殺人犯で、革鞄の中へ輪切(わぎり)にした女を油紙に包んで詰込んでいようの、従って、探偵などと思ったのでは決してない。
 一目見ても知れる、その何省かの官吏である事は。――やがて、知己(ちかづき)になって知れたが、都合あって、飛騨(ひだ)の山の中の郵便局へ転任となって、その任に趣(おもむ)く途中だと云う。――それにいささか疑(うたがい)はない。
 が、持主でない。その革鞄である。

       三

 這奴(しゃつ)、窓硝子(まどがらす)の小春日(こはるび)の日向(ひなた)にしろじろと、光沢(つや)を漾(ただよ)わして、怪しく光って、ト構えた体(てい)が、何事をか企謀(たくら)んでいそうで、その企謀(たくらみ)の整うと同時に、驚破(すわ)事を、仕出来(しでか)しそうでならなかったのである。
 持主の旅客は、ただ黙々として、俯向(うつむ)いて、街樹(なみき)に染めた錦葉(もみじ)も見ず、時々、額を敲(たた)くかと思うと、両手で熟(じっ)と頸窪(ぼんのくぼ)を圧(おさ)える。やがて、中折帽(なかおれぼう)を取って、ごしゃごしゃと、やや伸びた頭髪(かみのけ)を引掻(ひっか)く。巻莨(まきたばこ)に点じて三分の一を吸うと、半(なかば)三分の一を瞑目(めいもく)して黙想して過して、はっと心着いたように、火先を斜(ななめ)に目の前へ、ト翳(かざ)しながら、熟(じっ)と灰になるまで凝視(みつ)めて、慌てて、ふッふッと吹落して、後(あと)を詰らなそうにポタリと棄(す)てる……すぐその額を敲く。続いて頸窪を両手で圧える。それを繰返すばかりであるから、これが企謀(たくら)んだ処で、自分の身の上の事に過ぎぬ。あえて世間をどうしようなぞという野心は無さそうに見えたのに――
 お供の、奴(やっこ)の腰巾着(こしぎんちゃく)然とした件(くだん)の革鞄の方が、物騒でならないのであった。
 果せるかな。
 小春凪(なぎ)のほかほかとした可(い)い日和(ひより)の、午前十一時半頃、汽車が高崎に着いた時、彼は向側(むこうがわ)を立って来て、弁当を買った。そして折を片手に、しばらく硝子窓に頬杖(ほおづえ)をついていたが、
「酒、酒。」
 と威勢よく呼んだ、その時は先生奮然たる態度で、のぼせるほどな日に、蒼白(あおじろ)い顔も、もう酔ったように※(「火+赫」、第3水準1-87-66)(かッ)と勢(いきおい)づいて、この日向で、かれこれ燗(かん)の出来ているらしい、ペイパの乾いた壜(びん)、膚触(はだざわ)りも暖(あたたか)そうな二合詰を買って、これを背広の腋(わき)へ抱えるがごとくにして席へ戻る、と忙(いそが)わしく革鞄の口に手を掛けた。
 私はドキリとして、おかしく時めくように胸が躍った。九段第一、否、皇国一の見世物小屋へ入った、その過般(いつか)の時のように。
 しかし、細目に開けた、大革鞄の、それも、わずかに口許(くちもと)ばかりで、彼が取出したのは一冊赤表紙の旅行案内。五十三次、木曾街道に縁のない事はないが。
 それを熟(じっ)と、酒も飲まずに凝視(みつ)めている。
 私も弁当と酒を買った。
 大(おおき)な蝦蟆(がま)とでもあろう事か、革鞄の吐出した第一幕が、旅行案内ばかりでは桟敷(さじき)で飲むような気はしない、が蓋(けだ)しそれは僭上(せんじょう)の沙汰で。
「まず、飲もう。」
 その気で、席へ腰を掛直すと、口を抜こうとした酒の香より、はッと面(おもて)を打った、懐しく床しい、留南奇(とめき)がある。
 この高崎では、大分旅客の出入りがあった。
 そこここ、疎(まばら)に透いていた席が、ぎっしりになって――二等室の事で、云うまでもなく荷物が小児(こども)よりは厄介に、中には大人ほど幅をしてあちこちに挟(はさま)って。勿論、知合になったあとでは失礼ながら、件(くだん)の大革鞄もその中(うち)の数の一つではあるが――一人、袴羽織で、山高を被(かぶ)ったのが仕切の板戸に突立(つッた)っているのさえ出来ていた。
 私とは、ちょうど正面、かの男と隣合った、そこへ、艶麗(あでやか)な女が一人腰を掛けたのである。
 待て、ただ艶麗な、と云うとどこか世話でいて、やや婀娜(あだ)めく。
 内端(うちわ)に、品よく、高尚と云おう。
 前挿(まえざし)、中挿(なかざし)、鼈甲(べっこう)の照りの美しい、華奢(きゃしゃ)な姿に重そうなその櫛笄(くしこうがい)に対しても、のん気に婀娜だなどと云ってはなるまい。

       四

 一目見ても知れる、濃い紫の紋着(もんつき)で、白襟、緋(ひ)の長襦袢(ながじゅばん)。水の垂りそうな、しかしその貞淑を思わせる初々しい、高等な高島田に、鼈甲を端正(きちん)と堅く挿した風采(とりなり)は、桃の小道を駕籠(かご)で遣(や)りたい。嫁に行(ゆ)こうとする女であった。……
 指の細く白いのに、紅(あか)いと、緑なのと、指環(ゆびわ)二つ嵌(は)めた手を下に、三指ついた状(さま)に、裾模様(すそもよう)の松の葉に、玉の折鶴のように組合せて、褄(つま)を深く正しく居ても、溢(こぼ)るる裳(もすそ)の紅(くれない)を、しめて、踏みくぐみの雪の羽二重(はぶたえ)足袋。幽(かすか)に震えるような身を緊(し)めた爪先(つまさき)の塗駒下駄(ぬりこまげた)。
 まさに嫁がんとする娘の、嬉しさと、恥らいと、心遣いと、恐怖(おそれ)と、涙(なんだ)と、笑(えみ)とは、ただその深く差俯向(さしうつむ)いて、眉も目も、房々した前髪に隠れながら、ほとんど、顔のように見えた真向いの島田の鬢(びん)に包まれて、簪(かんざし)の穂に顕(あらわ)るる。……窈窕(ようちょう)たるかな風采、花嫁を祝するにはこの言(ことば)が可(い)い。
 しかり、窈窕たるものであった。
 中にも慎ましげに、可憐に、床しく、最惜(いとし)らしく見えたのは、汽車の動くままに、玉の緒の揺るるよ、と思う、微(かすか)な元結(もとゆい)のゆらめきである。
 耳許(みみもと)も清らかに、玉を伸べた頸許(えりもと)の綺麗さ。うらすく紅(くれない)の且つ媚(なまめ)かしさ。
 袖の香も目前(めさき)に漾(ただよ)う、さしむかいに、余り間近なので、その裏恥かしげに、手も足も緊(し)め悩まされたような風情が、さながら、我がためにのみ、そうするのであるように見て取られて、私はしばらく、壜(びん)の口を抜くのを差控えたほどであった。
 汽車に連るる、野も、畑も、畑(はた)の薄(すすき)も、薄に交(まじわ)る紅(くれない)の木の葉も、紫籠(こ)めた野末の霧も、霧を刷(は)いた山々も、皆嫁(ゆ)く人の背景であった。迎うるごとく、送るがごとく、窓に燃(もゆ)るがごとく見え初(そ)めた妙義の錦葉(もみじ)と、蒼空(あおぞら)の雲のちらちらと白いのも、ために、紅(べに)、白粉(おしろい)の粧(よそおい)を助けるがごとくであった。
 一つ、次の最初の停車場(ステイション)へ着いた時、――下りるものはなかった――私の居た側の、出入り口の窓へ、五ツ六ツ、土地のものらしい鄙(ひな)めいた男女(なんにょ)の顔が押累(おしかさな)って室を覗(のぞ)いた。
 累(かさな)りあふれて、ひょこひょこと瓜(うり)の転がる体(てい)に、次から次へ、また二ツ三ツ頭が来て、額で覗込(のぞきこ)む。
 私の窓にも一つ来た。
 と見ると、板戸に凭(もた)れていた羽織袴が、
「やあ!」
 と耳の許(とこ)へ、山高帽を仰向(あおむ)けに脱いで、礼をしたのに続いて、四五人一斉に立った。中には、袴らしい風呂敷包(ふろしきづつみ)を大(おおき)な懐中に入れて、茶紬(ちゃつむぎ)を着た親仁(おやじ)も居たが――揃って車外の立合に会釈した、いずれも縁女を送って来た連中らしい。
「あのや、あ、ちょっと御挨拶を。」
 とその時まで、肩が痛みはしないかと、見る目も気の毒らしいまで身を緊めた裾模様の紫紺(しこん)――この方が適当であった。前には濃い紫と云ったけれども――肩に手を掛けたのは、近頃流行(はや)る半コオトを幅広に着た、横肥(よこぶと)りのした五十恰好(かっこう)。骨組の逞(たく)ましい、この女の足袋は、だふついて汚れていた……赤ら顔の片目眇(めっかち)で、その眇の方をト上へ向けて渋(しぶ)のついた薄毛の円髷(まるまげ)を斜向(はすっかい)に、頤(あご)を引曲(ひんま)げるようにして、嫁御が俯向(うつむ)けの島田からはじめて、室内を白目沢山で、虻(あぶ)の飛ぶように、じろじろと飛廻しに※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)していたのが、肥った膝で立ちざまにそうして声を掛けた。

       五

 少し揺(ゆす)るようにした。
 指に平打(ひらうち)の黄金(きん)の太く逞(たく)ましいのを嵌(は)めていた。
 肖(に)も着かぬが、乳母ではない、継(まま)しいなかと見たが、どうも母親に相違あるまい。
 白襟に消えもしそうに、深くさし入れた頤(おとがい)で幽(かすか)に頷(うなず)いたのが見えて、手を膝にしたまま、肩が撓(しな)って、緞子(どんす)の帯を胸高にすらりと立ったが、思うに違(たが)わず、品の可(い)い、ちと寂しいが美しい、瞼(まぶた)に颯(さっ)と色を染めた、薄(すすき)の綿に撫子(なでしこ)が咲く。
 ト挨拶をしそうにして、赤ら顔に引添って、前へ出ると、ぐい、と袖を取って引戻されて、ハッと胸で気を揉(も)んだ褄(つま)の崩れに、捌(さば)いた紅(くれない)。紅糸(べにいと)で白い爪先(つまさき)を、きしと劃(しき)ったように、そこに駒下駄が留まったのである。
 南無三宝(なむさんぽう)! 私は恥を言おう。露に濡羽(ぬれば)の烏が、月の桂(かつら)を啣(くわ)えたような、鼈甲(べっこう)の照栄(てりは)える、目前(めのさき)の島田の黒髪に、魂を奪われて、あの、その、旅客を忘れた。旅行案内を忘れた。いや、大切な件(くだん)の大革鞄を忘れていた。
 何と、その革鞄の口に、紋着(もんつき)の女の袖が挟(はさま)っていたではないか。
 仕出来(しでか)した、さればこそはじめた。
 私はあえて、この老怪の歯が引啣(ひきくわ)えていたと言おう。……
 いま立ちしなの身じろぎに、少し引かれて、ずるずると出たが、女が留まるとともに、床へは落ちもせず、がしゃりと据った。
 重量(おもみ)が、自然と伝(つたわ)ったろう、靡(なび)いた袖を、振返って、横顔で見ながら、女は力なげに、すっともとの座に返って、
「御免なさいまし。」
 と呼吸(いき)の下で云うと、襟の白さが、颯(さっ)と紫を蔽(おお)うように、はなじろんで顔をうつむけた。
 赤ら顔は見免(みのが)さない。
「お前、どうしたのかねえ。」
 かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪(かみ)を掻(かき)しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(ひんむし)る。
「革鞄に挟った。」
「どうしてな。」
 と二三人立掛ける。
 窓へ、や、えんこらさ、と攀上(よじのぼ)った若いものがある。
 駅夫の長い腕が引払(ひッぱら)った。
 笛は、胡桃(くるみ)を割る駒鳥の声のごとく、山野に響く。
 汽車は猶予(ためら)わず出た。
 一人発奮(はずみ)をくって、のめりかかったので、雪頽(なだれ)を打ったが、それも、赤ら顔の手も交(まじ)って、三四人大革鞄に取(とり)かかった。
「これは貴方のですか。」
 で、その答も待たずに、口を開けようとするのである。
 なかなかもって、どうして古狸の老武者が、そんな事で行(ゆ)くものか。
「これは堅い、堅い。」
「巌丈な金具じゃええ。」
 それ言わぬ事ではない。
「こりゃ開かぬ、鍵(かぎ)が締まってるんじゃい。」
 と一まず手を引いたのは、茶紬(ちゃつむぎ)の親仁(おやじ)で。
 成程、と解(よ)めた風で、皆白けて控えた。更(あらた)めて、新しく立ちかかったものもあった。
 室内は動揺(どよ)む。嬰児(こども)は泣く。汽車は轟(とどろ)く。街樹(なみき)は流るる。
「誰の麁※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)(そそう)じゃい。」
 と赤ら顔はいよいよ赤くなって、例の白目で、じろり、と一ツずつ、女と、男とを見た。
 彼は仰向(あおむ)けに目を瞑(つぶ)った。瞼(まぶた)を掛けて、朱を灌(そそ)ぐ、――二合壜(びん)は、帽子とともに倒れていた――そして、しかと腕を拱(こまぬ)く。
 女は頤(おとがい)深く、優しらしい眉が前髪に透いて、ただ差俯向(さしうつむ)く。

       六

「この次で下車(おり)るのじゃに。」
 となぜか、わけも知らない娘を躾(たしな)めるように云って、片目を男にじろりと向け直して、
「何てまあ、馬鹿々々しい。」
 と当着(あてつ)けるように言った。
 が、まだ二人ともなにも言わなかった時、連(つれ)と目配せをしながら、赤ら顔の継母(ままおや)は更(あらた)めて、男の前にわざとらしく小腰、――と云っても大きい――を屈(かが)めた。
 突如(いきなり)噛着(かみつ)き兼ねない剣幕だったのが、飜(ひるがえ)ってこの慇懃(いんぎん)な態度に出たのは、人は須(すべか)らく渠等(かれら)に対して洋服を着るべきである。
 赤ら顔は悪く切口上で、
「旦那、どちらの麁※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)(そそう)か存じましないけれども、で、ございますね。飛んだことでございます。この娘は嫁にやります大切な身体(からだ)でございます。はい、鍵をお出し下さいまし、鍵をでございますな、旦那。」
 声が眉間(みけん)を射たように、旅客は苦しげに眉を顰(ひそ)めながら、
「鍵はありません。」
「ございませんと?……」
「鍵は棄てました。」
 とぶるぶると胴震いをすると、翼を開いたように肩で掻縮(かいちぢ)めた腕組を衝(つ)と解いて、一度投出(ほうりだ)すごとくばたりと落した。その手で、挫(ひし)ぐばかり確(しか)と膝頭(ひざがしら)を掴(つか)んで、呼吸(いき)が切れそうな咳(せき)を続けざまにしたが、決然としてすっくと立った。
「ちょっと御挨拶を申上げます、……同室の御婦人、紳士の方々も、失礼ながらお聞取(ききとり)を願いとうございます。私(わたくし)は、ここに隣席においでになる、窈窕(ようちょう)たる淑女。」
 彼は窈窕たる淑女と云った。
「この令嬢の袖を、袂(たもと)をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」
 と※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)す目が空ざまに天井に上ずって、
「……申兼ねましたが私(わたくし)です。もっともはじめから、もくろんで致したのではありません。袂が革鞄の中に入っていたのは偶然であったのです。
 退屈まぎれに見ておりました旅行案内を、もとへ突込(つっこ)んで、革鞄の口をかしりと啣(くわ)えさせました時、フト柔かな、滑かな、ふっくりと美しいものを、きしりと縊(くび)って、引緊(ひきし)めたと思う手応(てごたえ)がありました。
 真白(まっしろ)な薄(すすき)の穂か、窓へ散込んだ錦葉(もみじ)の一葉(ひとは)、散際(ちりぎわ)のまだ血も呼吸(いき)も通うのを、引挟(ひっぱさ)んだのかと思ったのは事実であります。
 それが紫に緋(ひ)を襲(かさ)ねた、かくのごとく盛粧(せいしょう)された片袖の端、……すなわち人間界における天人の羽衣の羽の一枚であったのです。
 諸君、私(わたくし)は謹んで、これなる令嬢の淑徳と貞操を保証いたします。……令嬢は未(いま)だかつて一度も私(わたくし)ごときものに、ただ姿さへ御見せなすった、いや、むしろ見られた事さえお有んなさらない。
 東京でも、上野でも、途中でも、日本国において、私(わたくし)がこの令嬢を見ましたのは、今しがた革鞄の口に袖の挟まったのをはじめて心着きましたその瞬間におけるのみなのです。
 お見受け申すと、これから結婚の式にお臨みになるようなんです。
 いや、ようなんですぐらいだったら、私(わたくし)もかような不埒(ふらち)、不心得、失礼なことはいたさなかったろうと思います。
 確(たしか)に御縁着きになる。……双方の御親属に向って、御縁女の純潔を更(あらた)めて確証いたします。室内の方々も、願わくはこの令嬢のために保証にお立ちを願いたいのです。
 余り唐突な狼藉(ろうぜき)ですから、何かその縁組について、私(わたくし)のために、意趣遺恨でもお受けになるような前事が有るかとお思われになっては、なおこの上にも身の置き処がありませんから――」

       七

「実に、寸毫(すんごう)[#ルビの「すんごう」は底本では「すんがう」]といえども意趣遺恨はありません。けれども、未練と、執着(しゅうぢゃく)と、愚癡(ぐち)と、卑劣と、悪趣と、怨念(おんねん)と、もっと直截(ちょくせつ)に申せば、狂乱があったのです。
 狂気(きちがい)が。」
 と吻(ほっ)と息して、……
「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなりになる。プラットフォームも婚礼に出迎(でむかい)の人橋で、直ちに婿君の家の廊下をお渡りなさるんだと思うと、つい知らず我を忘れて、カチリと錠(じょう)を下(おろ)しました。乳房に五寸釘を打たれるように、この御縁女はお驚きになったろうと存じます。優雅、温柔(おんじゅう)でおいでなさる、心弱い女性(にょしょう)は、さような狼藉にも、人中の身を恥じて、端(はした)なく声をお立てにならないのだと存じました。
 しかし、ただいま、席をお立ちになった御容子(ごようす)を見れば、その時まで何事も御存じではなかったのが分って、お心遣いの時間が五分たりとも少なかった、のみならず、お身体(からだ)の一箇処にも紅(あか)い点も着かなかった事を、――実際、錠をおろした途端には、髪一条(ひとすじ)の根にも血をお出しなすったろうと思いました――この祝言を守護する、黄道吉日の手に感謝します。
 けれども、それもただわずかの間で、今の思(おもい)はどうおいでなさるだろうと御推察申上げるばかりなのです。
 自白した罪人はここに居(お)ります。遁(にげ)も隠れもしませんから、憚(はばか)りながら、御萱堂(ごけんどう)とお見受け申します年配の御婦人は、私(わたくし)の前をお離れになって、お引添いの上。傷心した、かよわい令嬢の、背(せな)を抱く御介抱が願いたい。」
 一室は悉(ことごと)く目を注いだ、が、淑女は崩折(くずお)れもせず、柔(やわらか)な褄(つま)はずれの、彩(いろ)ある横縦の微線さえ、ただ美しく玉に刻まれたもののようである。
 ひとりかの男のみ、堅く突立(つった)って、頬を傾(かし)げて、女を見返ることさえ得(え)しない。
 赤ら顔も足も動かさなかった。
「あまつさえ、乱暴とも狼藉とも申しようのない、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、なおその上にほとんど狂乱だと申しました。
 外ではありません。それの革鞄の鍵(かぎ)を棄てた事です。私(わたくし)は、この、この窓から遥(はるか)に巽(たつみ)の天(そら)に雪を銀線のごとく刺繍(ぬいとり)した、あの、遠山の頂を望んで投げたのです。……私(わたくし)は目を瞑(つぶ)った、ほとんだ気が狂(ちが)ったのだとお察しを願いたい。
 為業(しわざ)は狂人(きちがい)です、狂人は御覧のごとく、浅間しい人間の区々たる一個の私(わたくし)です。
 が、鍵は宇宙が奪いました、これは永遠に捜せますまい。発見(みいだ)せますまい、決して帰らない、戻りますまい。
 小刀(こがたな)をお持ちの方は革鞄をお破り下さい。力ある方は口を取ってお裂き下さい。それはいかようとも御随意です。
 鍵は投棄てました、決心をしたのです。私(わたくし)は皆さんが、たといいかなる手段をもってお迫りになろうとも、自分でこの革鞄は開けないのです。令嬢の袖は放さないのです。
 ただし、この革鞄の中には、私(わたくし)一身に取って、大切な書類、器具、物品、軽少にもしろ、あらゆる財産、一切の身代、祖先、父母の位牌(いはい)。実際、生命と斉(ひと)しいものを残らず納(い)れてあるのです。
 が、開けない以上は、誓って、一冊の旅行案内といえども取出さない事を盟約する。
 小出しの外、旅費もこの中にある、……野宿する覚悟です。
 私(わたくし)は――」
 とここで名告(なの)った。

       八

「年は三十七です。私(わたくし)は逓信(ていしん)省に勤めた小官吏です。この度飛騨の国の山中、一小寒村の郵便局に電信の技手となって赴任する第一の午前。」
 と俯向(うつむ)いて探って、鉄縁の時計を見た。
「零時四十三分です。この汽車は八分に着く。……
 令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。
 駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。
 また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加えを願う。それは甘んじて受けます。
 いずれも命を致さねばなりますまい。
 それは、しかし厭(いと)いません。
 が、ただここに、あらゆる罪科、一切の制裁の中(うち)に、私(わたくし)が最も苦痛を感ずるのは、この革鞄と、袖と、令嬢とともに、私(わたくし)が連れられて、膝行(しっこう)して当日の婿君の前に参る事です。
 絞罪(こうざい)より、斬首(ざんしゅ)より、その極刑をお撰びなさるが宜(よろ)しい。
 途中、田畝(たんぼ)道で自殺をしますまでも、私(わたくし)は、しかしながらお従い申さねばなりますまい。
 あるいは、革鞄をお切りなさるか、お裂きになるか。……
 すべて、いささかも御斟酌(ごしんしゃく)に及びません。
 諸君が姑息(こそく)の慈善心をもって、些少(さしょう)なりとも、ために御斟酌下さろうかと思う、父母も親類も何にもない。
 妻女(かない)は亡くなりました、それは一昨年です。最愛の妻でした。」
 彼は口吃(きっ)しつつ目瞬(またたき)した。
「一人の小児(こども)も亡くなりました、それはこの夏です。可愛い児(こ)でした。」
 と云う時、せぐりくる胸や支え兼ねけん、睫(まつげ)を濡らした。
「妻(かない)の記念(かたみ)だったのです。二人の白骨もともに、革鞄の中にあります。墓も一まとめに持って行くのです。
 感ずる仔細(しさい)がありまして、私(わたくし)は望んで僻境(へききょう)孤立の、奥山家(やまが)の電信技手に転任されたのです。この職務は、人間の生活に暗号を与えるのです。一種絶島の燈台守です。
 そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端(いろりばた)の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。
 が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵(かぎ)がなければなりません。
 鍵は棄てたんです。
 令嬢の袖の奥へ魂は納めました。
 誓って私(わたくし)は革鞄を開けない。
 御親類の方々、他に御婦人、紳士諸君、御随意に適当の御制裁、御手段が願いたい。
 お聴(きき)を煩らわしました。――別に申す事はありません。」
 彼は、従容(しょうよう)として席に復した。が、あまたたび額の汗を拭(ぬぐ)った。汗は氷のごとく冷たかろう、と私は思わず慄然(りつぜん)とした。
 室内は寂然(ひっそり)した。彼の言は、明晰(めいせき)に、口吃(きっ)しつつも流暢(りゅうちょう)沈着であった。この独白に対して、汽車の轟(とどろき)は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。
 停車場(ステイション)に着くと、湧返(わきかえ)ったその混雑さ。
 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆(いっき)を思え。
 時に、継母(ままおや)の取った手段は、極めて平凡な、しかも最上(もっとも)常識的なものであった。
「旦那、この革鞄だけ持って出ますでな。」
「いいえ、貴方。」
 判然(はっきり)した優しい含声(ふくみごえ)で、屹(きっ)と留(とど)めた女が、八ツ口に手を掛ける、と口を添えて、袖着(そでつけ)の糸をきりきりと裂いた、籠めたる心に揺(ゆら)めく黒髪、島田は、黄金の高彫(たかぼり)した、輝く斧(おの)のごとくに見えた。
 紫の襲(かさね)の片袖、紋清らかに革鞄に落ちて、膚(はだ)を裂いたか、女の片身に、颯(さっ)と流るる襦袢(じゅばん)の緋鹿子(ひがのこ)。
 プラットフォームで、真黒(まっくろ)に、うようよと多人数に取巻かれた中に、すっくと立って、山が彩る、目瞼(まぶた)の紅梅。黄金(きん)を溶(とか)す炎のごとき妙義山の錦葉(もみじ)に対して、ハッと燃え立つ緋の片袖。二の腕に颯(さっ)と飜(ひるが)えって、雪なす小手を翳(かざ)しながら、黒煙(くろけむり)の下になり行く汽車を遥(はるか)に見送った。
 百合若(ゆりわか)の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。
 つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。
 そこで知己(ちかづき)になった。
大正三(一九一四)年二月
了

底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十五卷」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日発行
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年2月11日作成
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