あらすじ
信州松本に赴任したばかりの新任検事、村越欣弥は、旧藩士の高原七左衛門を自宅に招きます。七左衛門は、村越の父と懇意にしていたため、村越にとっては伯父同然の存在です。七左衛門は村越の妻について、様々な意見を述べ、村越の妻は、村越の家の召使いであると捉えている様子です。しかし、その場にいた村越の妻は、七左衛門の言葉に傷つき、悲しみに暮れます。その様子を見て、村越は七左衛門を別の部屋に案内しますが、七左衛門はそこで村越の妻の美しさを褒めそやし、村越を困らせます。
場所。
  信州松本、村越の家
人物。
  村越欣弥(新任検事)
  滝の白糸(水芸の太夫)
  撫子(南京出刃打の娘)
  高原七左衛門(旧藩士)
  おその、おりく(ともに近所の娘)


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撫子(なでしこ)。円髷(まるまげ)、前垂(まえだれ)がけ、床の間の花籠(はなかご)に、黄の小菊と白菊の大輪なるを莟(つぼみ)まじり投入れにしたるを視(なが)め、手に三本(みもと)ばかり常夏(とこなつ)の花を持つ。
傍(かたわら)におりく。車屋の娘。
撫子 今日は――お客様がいらっしゃるッて事だから、籠も貸して頂けば、お庭の花まで御無心して、ほんとうに済みませんのね。
りく 内の背戸にありますと、ただの草ッ葉なんですけれど、奥さんがそうしてお活(い)けなさいますと、お祭礼(まつり)の時の余所行(よそゆき)のお曠衣(はれ)のように綺麗(きれい)ですわ。
撫子 この細(ほっそ)りした、(一輪を指(ゆびさ)す)絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。
りく 何ですか、あの……糸咲(いとざき)々々ってお父(とっ)さんがそう云いますよ。
撫子 ああ、糸咲……の白菊……そうですか。
りく そして、あのその撫子はお活けなさいませんの。
撫子 おお、この花は撫子ですか。(手なる常夏を見る。)
りく ええ、返り咲の花なんですよ。枯れた薄(すすき)の根に咲いて、珍しいから、と内でそう申しましてね。
撫子 その返り咲が嬉(うれし)いから、どうせお流儀があるんじゃなし、綺麗でさえあれば可(い)い、去嫌(さりぎら)い構わずに、根〆《ねじめ》にしましょうと思ったけれど、白菊が糸咲で、私、常夏と覚えた花が、撫子と云うのでしたら、あの……ちょっと、台所の隅へでも、瓶に挿しましょう。
りく そう、見つけて来ましょう。(起(た)つ。)
撫子 (熟(じっ)と籠なると手の撫子とを見較(みくら)ぶ。)
りく これじゃいかが。
撫子 ああ結構よ。(瓶にさす時水なし)あら水がない。
りく 汲(く)んで来ましょう。
撫子 いいえ、撫子なんか、水がなくって沢山なの。
りく まあ、どうして?
撫子 それはね、南京流(なんきんりゅう)の秘伝なの。ほほほ。(寂しく笑う。)
おその、蓮葉(はすは)に裏口より入る。駄菓子屋の娘。
その 奥様。
撫子 おや、おそのさん。
その あの、奥様。お客様の御馳走(ごちそう)だって、先刻(さっき)、お台所(だいどこ)で、魚のお料理をなさるのに、小刀(ナイフ)でこしらえていらしった事を、私、帰ってお饒舌(しゃべり)をしましたら、お母(っか)さんが、まあ、何というお嬢様なんだろう。どんな御身分の方が、お慰みに、お飯事(ままごと)をなさるんでも、それでは御不自由、これを持って行って差上げな、とそう言いましてね。(言いつつ、古手拭(ふるてぬぐい)を解(ほど)く)いま研いだのを持って来ました。よく切れます……お使いなさいまし、お間に合せに。……(無遠慮に庖丁を目前(めのさき)に突出す。)
撫子 (ゾッと肩をすくめ、瞳(ひとみ)を見据え、顔色かわる)おそのさん、その庖丁は借(かり)ません。
その ええ。
撫子 出刃は私に祟(たた)るんです。早く、しまって下さいな。
その 何でございますか、田舎もので、飛んだことをしましたわ。御免なさい、おりくさん、お詫(わび)をして頂戴な。
りく お気に障りましたら、御勘弁下さいまし。
撫子 飛んでもない。お辞儀なんかしちゃあ不可(いけ)ません。おそのさん、おりくさん。
りく いいえ、奥様、私たちを、そんな、様づけになんかなさらないで、奉公人同様に、りくや。
その その、と呼棄てに、お目を掛けて下さいまし。
撫子 勿体(もったい)ないわね、あなたがたはれっきとした町内の娘さんじゃありませんか。
りく いいえ、私は車屋ですもの。
その 親仁(おやじ)は日傭取(ひようとり)の、駄菓子屋ですもの。
撫子 駄菓子屋さん立派、車屋さん結構よ。何の卑下する処があります。私はそれが可羨(うらやま)しい。狗(いぬ)の子だか、猫の子だか、掃溜(はきだめ)ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお邸(やしき)へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ憚(はばか)って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。
りく あら、あんな事を。
その まあ……奥様。
撫子 その奥様と言われるのを、済まない済まない、勿体ない、と知っていながら、つい、浅はかに、一度が二度、三度めには幽(かすか)に返事をしていました。その罰が当ったんです。いまの庖丁が可恐(おそろし)い。私はね、南京出刃打(なんきんでばうち)の小屋者なんです。
娘二人顔を見合わす。
 俎(まないた)の上で切刻(きりきざ)まれ、磔(はりつけ)にもかかる処を、神様のような旦那様に救われました。その神様を、雪が積って、あの駒(こま)ヶ岳へあらわれる、清い気高い、白い駒、空におがんでいなければならないんだのに。女にうまれた一生の思出に、空耳でも、僻耳(ひがみみ)でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、確(たしか)に罰が当ったんです……ですが、この円髷(まるまげ)は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯他(ほか)へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼になった気です。……(涙ぐみつつ)もう、今からは怪我(けが)にだって、奥さんなんぞとおっしゃるなよ。おりくさん、おそのさん、更(あらた)めてお詫をします。
りく それでも、やっぱり奥さんですわ。ねえ、おそのさん。
その ええ、そうよ。
撫子 いいえ、いま思知ったんです、まったく罰が当りますから、私を可哀想(かわいそう)だとお思いなすったら、このお邸のおさんどん、いくや、いくや、とおっしゃってね、豆腐屋、薪屋(まきや)の方角をお教えなすって下さいまし。何にも知らない不束(ふつつか)なものですから、余所(よそ)の女中に虐(いじ)められたり、毛色の変った見世物(みせもの)だと、邸町(やしきまち)の犬に吠(ほ)えられましたら、せめて、貴女方(あなたがた)が御贔屓(ごひいき)に、私を庇(かば)って下さいな、後生ですわ、ええ。
その 私どうしたら可(い)いでしょう――こんなもの、掃溜へ打棄(うっちゃ)って来るわ。(立つ。)
撫子 ああ、靴の音が。
りく 旦那様のお帰りですね。
村越欣弥(むらこしきんや)。高原七左衛門(たかはらしちざえもん)。登場。道を譲る。
村越 ま、まあ、御老人。
七左 いや、まず……先生。
村越 先生は弱りました。(忸怩(じくじ)たり)では書生流です、御案内。
七左 その気象! その気象!
撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を遣(や)り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。
撫子 お帰り遊ばせ。
村越 お客様に途中で逢(あ)ったよ。
撫子 (一度あげたる顔を、黙ってまた俯向(うつむ)き、手をつく。)
七左。よう、という顔色(かおつき)にて、兀頭(はげあたま)の古帽を取って高く挙げ、皺(しわ)だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の紐(ひも)がだらりとあり。
村越 さあ、どうぞ。
七左 御免、真平(まっぴら)御免。
腰を屈(かが)め、摺足(すりあし)にて、撫子の前を通り、すすむる蒲団(ふとん)の座に、がっきと着く。
撫子 ようおいで遊ばしました。
七左 ははっ、奥さん。(と倒(さかさ)になる。)
撫子 (手を支(つか)えたるまま、つつと退(すさ)る。)
村越 父、母の御懇意。伯父さん同然な方だ。――高原さん……それは余所(よそ)の娘です。
七左 (高らかに笑う)はッはッはッ、いずれ、そりゃ、そりゃ、いずれ、はッはッはッはッ。一度は余所の娘御には相違ないてな。いや、婆(ばばあ)どのも、かげながら伝え聞いて申しておる。村越の御子息が、目(ま)のあたり立身出世は格別じゃ、が、就中(なかんずく)、豪(えら)いのはこの働きじゃ。万一この手廻しがのうてみさっしゃい、団子噛(かじ)るにも、蕎麦(そば)を食うにも、以来、欣弥さんの嫁御の事で胸が詰(つま)る。しかる処へ、奥方連(おくがたづれ)のお乗込みは、これは学問修業より、槍先(やりさき)の功名、と称(とな)えて可(よ)い、とこう云うてな。
この間に、おりく茶を運ぶ、がぶりとのむ。
 はッはッはッはッ。
撫子弱っている。
村越 (額に手を当て)いや、召使い……なんですよ。
七左 いずれそりゃ、そりゃいずれ、はッはッはッ、若いものの言う事は極(きま)っておる。――奥方、気にせまい。いずれそりゃ、田鼠化為鶉(でんそかしてうずらとなる)、雀入海中為蛤(すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる)、とあってな、召つかいから奥方になる。――老人田舎もののしょうがには、山の芋を穿(ほ)って鰻(うなぎ)とする法を飲込んでいるて。拙者(せっしゃ)、足軽ではござれども、(真面目(まじめ)に)松本の藩士、士族でえす。刀に掛けても、追(おっ)つけ表向(おもてむき)の奥方にいたす、はッはッはッ、――これ遁(に)げまい。
撫子、欣弥の目くばせに、一室(ひとま)にかくる。
 欣弥さんはお奉行様じゃ、むむ、奥方にあらず、御台所(みだいどころ)と申そうかな。
撫子 お支度が。(――いい由(よし)知らせる。)
村越 さあ、小父(おじ)さん、とにかくあちらで。何からお話を申して可(よ)いか……なにしろまあ、那室(あちら)へ。
七左 いずれ、そりゃ、はッはッはッ、御馳走には預るのじゃ、はッはッはッ。遠慮は不沙汰(ぶさた)、いや、しからば、よいとまかせのやっとこな。(と云って立つ。村越に続いて一室(ひとま)に入(い)らんとして、床の間の菊を見る)や、や、これは潔く爽(さわやか)じゃ。御主人の気象によく似ておる。
欣弥、莞爾(にっこり)して撫子の顔を見て、その心づかいを喜び謝す。撫子嬉しそうに胸を抱く。
二人続いて入る、この一室襖(ふすま)、障子にて見物の席より見えず。
七左 (襖の中(うち)にて)ここはまた掛花活(かけばないけ)に山茶花(さざんか)とある……紅(あか)いが特に奥方じゃな、はッはッはッ。
撫子、勝手に立つ。入(いれ)かわりて、膳部(ぜんぶ)二調、おりく、おその二人にて運び、やがて引返す。
撫子、銚子(ちょうし)、杯洗(はいせん)を盆にして出で、床なる白菊を偶(ふ)と見て、空瓶(あきびん)の常夏に、膝をつき、ときの間にしぼみしを悲(かなし)む状(さま)にて、ソと息を掛く。また杯洗を見て、花を挿直し、猪口(ちょく)にて水を注(つ)ぎ入れつつ、ほろりとする。
村越 (手を拍(たた)く。)
撫子 はい、はい。(と軽く立ち、襖に入る。)
七左、程もあらせず、銚子を引攫(ひッつか)んで載せたるままに、一人前(ひとりまえ)の膳を両手に捧げて、ぬい、と出づ。
村越 (呆(あき)れたる状(さま)して続く)小父さん、小父さん、どうなすった……どうなさるんです。おいくさん、お前粗相(そそう)をしやしないかい。
七左 (呵々(からから)と笑う)はッはッはッ。慌てまい。うろたえまい。騒ぐまい。信濃国東筑摩郡(しなののくにひがしちくまこおり)松本中が粗相をしても、腹を立てる私(わし)ではない。証拠を見せよう。それこれじゃ、(萌黄(もえぎ)古びて茶となりたるに大紋の着いたる大風呂敷を拡げて、膳を包む)――お銚子は提げて持って行(ゆ)くわさ。
村越 小父さん!
七左 慌てまい、はッはッはッ。奥方もさて狼狽(うろた)えまい。騒ぐまい。膳は追(おっ)て返す。狂人(きちがい)じみたと思わりょうが、決してそうでない。実は、婆々(ばば)どのの言うことに――やや親仁(おやじ)どのや、ぬしは信濃国東筑摩郡松本中での長尻(ながちり)ぞい……というて奥方、農産会に出た糸瓜(へちま)ではござらぬぞ。三杯飲めば一時(いっとき)じゃ。今の時間(とき)で二時間かかる。少(わか)い人たち二人の処、向後はともあれ、今日ばかりは一杯でなしに、一口呑(の)んだら直ぐに帰って、意気な親仁になれと云う。の、婆々どののたっての頼みじゃ。田鼠化為鶉、親仁、すなわち意気となる。はッはッはッ。いや。当家(こちら)のお母堂様(ふくろさま)も御存じじゃった、親仁こういう事が大好きじゃ、平(ひら)に一番(ひとつ)遣(や)らせてくれ。
村越 (ともに笑う)かえってお心任せが可いでしょう。しかし、ちょうど使(つかい)のものもあります、お恥かしい御膳ですが、あとから持たせて差上げます。
撫子 あの、赤の御飯を添えまして。
七左 過分でござる。お言葉に従いますわ。時に久しぶりで、ちょっと、おふくろ様に御挨拶(ごあいさつ)を申したい。
村越 仏壇がまだ調いません、位牌(いはい)だけを。
七左 はあ、香花(こうげ)、お茶湯(ちゃとう)、御殊勝でえす。達者でござったらばなあ。
村越 (涙ぐむ。)
七左 おふくろどの、主(ぬし)がような後生の好人(いいひと)は、可厭(いや)でも極楽。……百味の飲食(おんじき)。蓮(はす)の台(うてな)に居すくまっては、ここに(胃をたたく)もたれて可(よ)うない。ちと、腹ごなしに娑婆(しゃば)へ出て来て、嫁御にかき餅でも焼いてやらしゃれ。(目をこすりつつ撫子を見る)さて、ついでに私(わし)の意気になった処を見され、御同行(ごどうぎょう)の婆々どのの丹精じゃ。その婆々どのから、くれぐれも、よろしゅうとな。いやしからば。
村越 (送り出す)是非近々(ちかぢか)に。
七左 おんでもない。晩にも出直す。や、今度は長尻(ながちり)長左衛門じゃぞ。奥方、農産会に出た、大糸瓜の事ではない、はッはッはッ。(出て行(ゆ)く。)
村越座に帰る。
撫子 (鬢(びん)に手をあて、悄(しお)れて伏す)旦那様、済みません。
村越 お互の中にさえ何事もなければ、円髷(まげ)も島田も構うものか。
この間に七左衛門花道の半ばへ行(ゆ)く、白糸出づ。
白糸 (行違い、ちょっと小腰)あ、もし、旦那。
七左 ほう、私(わし)かの。
白糸 少々伺いとう存じます。
七左 はいはい。ああ何なりとも聞くが可(よ)い。信濃国東筑摩郡松本中は鵜(う)でござる。
白糸 あの、新聞で、お名前を見て参ったのでございますが、この御近処に、村越さんとおっしゃる方のお住居(すまい)を、貴方、御存じではございませんか。
七左 おお、弥兵衛(やへえ)どの御子息欣弥どの。はあ、新聞に出ておりますか。田鼠化為鶉、馬丁(べっとう)すなわち奉行となる。信濃国東筑摩郡松本中の評判じゃ。唯今(ただいま)、その邸から出て来た処よの。それ、そこに見えるわ、あ、あれじゃ。
白糸 ああ、嬉しい、あの、そして、欣弥さんは御機嫌でございますか。
七左 壮健(たっしゃ)とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。
白糸 難有(ありがと)う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。
七左 はいはい。
白糸 それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお幾人(いくたり)。
七左 二人じゃが、の。
白糸 お二人……お女中と……
七左 はッはッはッ、いずれそのお女中には違いない。はッはッはッ。
白糸 (ふと気にして)どんなお方。
七左 どんなにも、こんなにも、松本中での、あでやかな奥方じゃ。
白糸 お家(うち)が違やしませんか。
七左 村越弥兵衛どの御子息欣弥殿。何が違う。
白糸 おや、それじゃ私の生霊(いきりょう)が行ってるのかしら。
七左 ええ……変なことを言う。
白糸 見て下さい、私とは――違いますか。
七左 いや、この方が、床の間に活(い)けた白菊かな。
白糸 え。
七左 まずおいで。(別れつつ)はあてな、別嬪(べっぴん)二人二千石、功名々々。(繻子(しゅす)の洋傘(こうもり)を立てて入る。)
白糸 (二三度※(「低」の「にんべん」に代えて「彳」、第3水準1-84-31)徊(ていかい)して、格子にかかる)御免なさい。
これよりさき、撫子、膳、風呂敷など台所へ。欣弥は一室に入(い)り、撫子、通盆(かよいぼん)を持って斉(ひと)しく入る。
その (取次ぐ)はい。
白糸 (じろりと、その髪容(かみかたち)を視(なが)む)村越さんのお住居(すまい)はこちらで?
その はい、どちらから。
白糸 不案内のものですから、お邸が間違いますと失礼です。この村越様は、旦那様のお名は何とおっしゃいますえ。
その はい、お名……
云いかけて引込(ひっこ)むと、窺(うかが)いいたる、おりくに顔を合せる。
りく 私、知っててよ。(かわって出づ)いらっしゃいまし。
白糸 おや。(と軽く)
りく あの、お訊(たず)ねになりました、旦那様のお名は、欣弥様でございますの。
白糸 はあ、そしてお年紀(とし)は……お幾つ。
りく あのう、二十八九くらい。
白糸 くらいでは不可(いけ)ませんよ。おんなじお名でおんなじ年くらいでも……の、あの、あるの、とないの、とは大変、大変な違いなんですから。
りく あの、何の、あるのと、ないのと、なんです。
白糸 え
りく 何の、あるのと、ないの、とですの?
白糸 お髯(ひげ)。
りく ほほほ、生やしていらっしゃるわ。
白糸 また、それでも、違うと不可(いけな)い。くらいでなし、ちゃんと、お年紀を伺いとうござんすね。
りく へい。
けげんな顔して引込むと、また窺いいたる、おその、と一所に笑い出して、二人ばたばたと行って襖際へ……声をきき知る表情にて、衝(つ)と出づる欣弥を見るや、どぎまぎして勝手へ引込む。
村越。つつと出で、そこに、横を向いて立ったる白糸を一目見て、思わず手を取る。不意にハッと驚くを、そのまま引立(ひった)つるがごとくにして座敷に来り、手を離し、※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)(どう)とすわり、一あしよろめいて柱に凭(よ)る白糸と顔を見合せ、思わずともに、はらはらと泣く。撫子、襖際に出で、ばったり通盆を落し、はっと座ると一所に、白糸もトンと座につき、三人ひとしく会釈す。
欣弥、不器用に慌(あわただ)しく座蒲団(ざぶとん)を直して、下座(しもざ)に来り、無理に白糸を上座(じょうざ)に直し、膝を正し、きちんと手をつく。
欣弥 一別以来、三年、一千有余日、欣弥、身体、髪膚(はっぷ)、食あり生命あるも、一(いつ)にもって、貴女の御恩……
白糸 (耳にも入(い)らず、撫子を見詰む。)
撫子 (身を辷(すべ)らして、欣弥のうしろにちぢみ、斉(ひと)しく手を支(つ)く。)
白糸 (横を向く。)
欣弥 暑いにつけ、寒いにつけ、雨にも、風にも、一刻もお忘れ申した事はない。しかし何より、お健(すこやか)で……
白糸、横を向きつつ、一室の膳に目をつける。気をかえ煙草(たばこ)を飲まんとす。火鉢に火なし。
白糸 火ぐらいおこしておきなさいなね、芝居をしていないでさ。
欣弥 (顔を上げながら、万感胸に交々(こもごも)、口吃(きっ)し、もの云うあたわず。)
撫子 (慌(あわただ)しく立ち、一室なる火鉢を取って出づ。さしよりて)太夫さん。
白糸 私は……今日は見物さ。
欣弥 おい、お茶を上げないかい。何は、何は、何か、菓子は。
撫子 (立つ。)
白糸 そんなに、何も、お客あつかい。敬して何とかってしなくっても可(よ)うござんす。お茶のお給仕なら私がするわ。
勝手に行(ゆ)くふり、颯(さっ)と羽織を脱ぎかく。
欣弥 飛んでもない、まあ、どうか、どうか、それに。
白糸 ああ、女中のお目見得(めみえ)がいけないそうだ。それじゃ、私帰ります。失礼。
欣弥 (笑う)何を云うのだ、帰ると云ってどこへ帰る。あの時、長野の月の橋で、――一生、もう、決して他人ではないと誓ったじゃないか。――此家(ここ)へ来てくれた以上は、門も、屋根も、押入も、畳も、その火鉢も、皆(みんな)、姉(ねえ)さんのものじゃないか。
白糸 おや、姉さんとなりましたよ。誰かに教(おそわ)ったね。だあれかも、またいまのようなうまい口に――欣さん、門も、屋根も押入も……そして、貴女(あなた)は、誰のもの?
欣弥 (無言。)
白糸 失礼!(立つ。)
欣弥 大恩人じゃないか、どうすれば可(い)い。お友さん。
白糸 恩人なんか、真ッ平です。私は女中になりたいの。
欣弥 そんな、そんな無理なことを。
撫子 太夫さん。(間)姉さん、貴女は何か思違いをなすってね。
白糸 ええ、お勝手を働こうと思違いをして来ました。(投げたように)お目見得に、落第か、失礼。
欣弥 ええ、とにかく、まあ、母に逢って下さい、お位牌(いはい)に逢っておくれ。撮写(うつす)のは嫌だ、と云って写真はくれず、母はね、いまわの際まで、お友さん、姉さま、と云ってお前に逢いたがった。(声くもる)そして、現(うつつ)に、夢心(ゆめごこち)に、言いあてたお前の顔が、色艶(いろつや)から、目鼻立まで、そっくりじゃないか。さあ。(位牌を捧げ、台に据う。)
白糸 (衣紋(えもん)を直し、しめやかに手を支(つか)う)お初に……(おなじく声を曇らしながら、また、同じように涙ぐみて、うしろについ居る撫子を見て、ツツと位牌を取り、胸にしかと抱いて、居直って)お姑様(しゅうとさん)、おっかさん、たとい欣さんには見棄てられても、貴女にばかりは抱(だき)ついて甘えてみとうござんした。おっかさん、私ゃ苦労をしましたよ。……御修業中の欣さんに心配を掛けてはならないと何にも言わずにいたんです。窶(やつ)れた顔を見て下さい。お友、可哀想に、ふびんな、とたった一言(ひとこと)。貴女がおっしゃって下さいまし。お位牌を抱けば本望です。(もとへ直す)手も清めないで、失礼な、堪忍して下さいまし。心が乱れて不可(いけ)ません。またお目にかかります。いいえ、留めないで。いいえ、差当った用がござんす。
思切りよくフイと行(ゆ)くを、撫子慌(あわただ)しく縋(すが)って留(とど)む。白糸、美しき風のごとく格子を出でてハタと鎖(とざ)す。撫子指を打って悩む。
欣弥 (続いて)私は、俺(おれ)は、婦(おんな)の後へは駈出(かけだ)せない、早く。
撫子 (ややひぞる。)
欣弥 早く、さあ早く。
撫子 (門(かど)を出で、花道にて袖を取る)太夫さん……姉さん。
白糸 お放し!
撫子 いいえ。
大正五(一九一六)年二月
了

底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店
   1942(昭和17)年10月15日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:忠夫今井
2003年8月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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