しかし直接に文通したのは、少しく金の入用があったので、白峰の紀行文を、花袋を通じて『太陽』に寄せたときが初めてであった。おかげで明治三十七年二月の『太陽』に掲載せられたのはいいが、どうしたものか、博文館から原稿料を送ってよこさない。「武士は食わねど高楊子」主義で突っぱった当時の青年文士は、いいかげんシビレを切らしても、原稿料の催促はしたくなかった。しかるにその年の秋も過ぎて、いよいよ手元切迫に及んだので、からめ手から催促するような手紙をやった。すると花袋からすぐ返事が来た。
拝啓 最早とうに稿料差上候事と存居候ひしに御手紙にて始めて知り、大に驚き申候、二三日の中に博文館の方にまゐるべく候間其節編輯記者に相話し早速御送金いたすやう取計らひ申すべく、不知とは申しながら怠慢の罪免るべからざることと存候、何卒不悪御思召被下度候、追々年もさし迫りさぞ御忙しきことと存候、大日本地誌は先日も紫紅兄の横浜通なる眼光を以て批評せられ大にヘコミ居申候ことに御座候、先づは御返事まで
々不一
烏水大兄 九日
々不一烏水大兄 九日
花袋
梁先生が記した多摩川の上流に遊びたくなり、財布の軽いのをがまんして、二人で青梅街道へと出た。当時は青梅鉄道もなく、全くの徒歩、しかも名ばかりの街道で、寂寞無人、道跡は泥と小石で、折からの大雨に、ビショ濡れ、行っても、行っても、武蔵野か、小松原ばかりで、二人抱き合って、不遇の文人が、不遇の山水のために、数奇な運命を嘆き合った。困憊と疲労の極、こんなにしてまで旅行して、ほんとうに、美しい山水があるのだろうかと、受け身の玉茗が花袋に念を押した。青梅の町ではどこの宿屋でも、風体のわるいために拒まれ、最下等の木賃宿に、辛くも一夜を明かして翌朝、日向和田からまもなく多摩川の岸に出で、それから村舎離落の間に桃の花、それから多摩の奇景が開け、小丹波、白丸、数馬の切通しとへて「山中の荒駅なる小河内村」へと着いた。そしてまた、不遇の人にして不遇の山水を見る、あに悲しからずやと、慨然としている。実にその頃は、奥多摩の風景を知る者なく、説く者なく、東都を隔てること二十里にすぎないほどの近隣でありながら、多摩川上流、あるいは奥多摩は、全く閑却されていたのであった。それを見つけ出して世間の注意をひいたのは林